郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 下

2012年04月04日 | 幕末留学

 春の嵐が過ぎ去りまして、桜と菜の花が、美しく輝く今日このごろ。
 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 中の続きです。

 明治維新のとき貞ちゃんは二十歳。
 まだまだ若いですし、再びイギリスへ!という夢を抱いていたらしいのですが、明治4年(1871年)、東伏見宮(小松宮)の英国留学に随従する、という機会がめぐってきます。
 今回もまた、主な参考書は小山騰氏の下の著作です。

国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始 (講談社選書メチエ)
小山 騰
講談社


 貞ちゃんの今回の目標は、法学修行です。
 あのオリファントと、そして今度はハリー・パークスの尽力もあり、ロンドンの法律学校リンカーンズ・インに入学がかないました。

 ところが、ですね。
 このとき貞ちゃんは、アメリカまわりでイギリスへ行っているのですが、小山氏は、すでにイギリスに着きます前に貞ちゃんは、チャールズ・ボウルズなる詐欺師まがいのアメリカの金融業者と、船中ででも知り合っていたのではないか、と推測なさっています。

 ともかく、貞ちゃんの自叙伝によりますと、リンカーンズ・インで法律を学ぶうち、「イギリスの法律は、商習慣に関係するものが多いので、実地見習いが必要だと教師にいわれ、チャールズ・ボウルズに相談したところ、最近設立したうちの子会社ナショナル・エージェンシーはさまざまな商業に関係しているから株主になって勉強すればいい、といわれた」ということでして、ナショナル・エージェンシーなる子会社は、岩倉使節団がヨーロッパに渡るのにあわせるかのように設立されていまして、勘ぐりますと、最初から日本人詐欺をもくろみまして、貞ちゃんを株主に誘ったのではないか、という疑いももたれるんです。

 チャールズ・ボウルズは、兄弟たちとともに、ニューヨーク、ボストン、ロンドン、パリ、ニースなど、各地に店を持つボウルズ兄弟社銀行を運営する、金融業者でした。
 当時としましては、非常に新しい形の総合経営をしていまして、アメリカ人旅行者に、物品の購入や送付などを代行したり、旅行代理店のようなサービスを行い、それに金融をからめていましたから、けっこう繁盛してはいたらしいんですね。
 ただ、経営がずさんでして、資金繰りは苦しく、顧客からの預かりものを勝手に抵当に入れ、他の銀行から金を借りるなどの不法行為を行ったりもしていました。

 明治5年(1872年)、貞ちゃんはチャールズ・ボウルズに誘われまして、ナショナル・エージェンシーの株主になり、同時に取締役になります。当時、やはりロンドンに留学していました尾崎三良の自叙略伝には、次のようにあるそうです。

 南は取締役として月給二百ポンド、すなわち我今の二千円を受け、倫敦(ロンドン)に宏壮なる家屋を借り、英人を妻となし随分贅沢の活計を為し、たまたま日本の書生などが訪問すると客室へ招じ葡萄酒などを饗し、妻諸共出で来り挨拶を為し(後略)

 貞ちゃんの英人の妻とは、ロンドン近郊の庭師の娘、ライザ・ピットマンでした。
 明治6年、貞ちゃんがライザを連れて帰国しましたとき、「まいにちひらがなしんんぶんし」の記事は、「我国始つてよりこのかた、珍しき縁組なり」と述べ、ライザが貞ちゃんと結婚した理由について、「ライザが南を大金持ちと誤解したから」という噂を伝えているのだとか。

 まあ、ライザは、初等科の教師が務まる程度の教育は受けていたようなのですが、ロンドン近郊の庶民の娘さんが、極東の小さな島国がどんな国やら知るわけないですし、東洋の大金持ちの御曹司だと誤解したといいますのは、ありえる話ではないんでしょうか。
 後年の自叙伝によれば、なんですが、貞ちゃんの方も「自分は人種改良論者だったので、日英の混血の子供が欲しかったのだ」なんぞとのたまっていまして、一応、日本人の国際結婚第一号とされるのですが、まったくもって、ロマンティックではありません。

 ナショナル・エージェンシーは貞ちゃんに、豪邸で大金持ちのように暮らせるほどの給料をなぜ払っていたのか、あっという間に種は明かされます。

 先にも書きましたが、ナショナル・エージェンシーは、岩倉使節団の便宜をはかり、一行の日本人から金をまきあげるために、設立されたような会社です。実際に貞ちゃんは、岩倉使節団がイギリスの造船所や兵器工場を訪問する手続きに奔走しておりまして、同時に、ナショナル・エージェンシーへ預金するよう、日本人を勧誘してまわっているのです。
 ナショナル・エージェンシーは、親会社ボウルズ兄弟社のロンドン支店に同居していまして、その支店がまた、トラファルガー広場のすぐそば、チャーリング・クロス駅の真ん前の角地に、堂々と建っていたのだそうです。

 現在も、Google地図チャーリング・クロス駅前でストリートビューをしますと、真正面に丸っこい建物があるんですが、これ、もしかして、当時のままなんでしょうか。ちがっていたにしましても、当時もロンドンの一等地ですし、りっぱな建物だったんでしょうし、騙されてしまいますよねえ。

 なにしろ、岩倉使節団は動く日本政府のようなものでしたから、多額の公金をうずんでいましたし、随行員の手当の額も破格で、それを私金として溜め込んでいる人間も多数いました。
 貞ちゃんはまず、私金を預けるように誘い、ついで公金にも勧誘の手をのばしていました。
 英語がぺらぺらで、今をときめく長州閥の御曹司が取締役を務める銀行が、いろいろと便宜もはかってくれるわけですし、安全な上に利子がつくという話なのですから、預かってもらった者は多く、金額も膨らみました。

 ところが、まだ使節団がイギリス滞在中の明治5年11月、突然、ロンドンのボウルズ兄弟社とその子会社のナショナル・エージェンシーはともに閉鎖され、預けたお金が引き出せなくなってしまうんです。
 ナショナル・エージェンシーは、日本人から集めた金をすべて親会社ボウルズ兄弟社に貸していまして、ボウルズ兄弟社の資金繰りが悪化しましたために、ほとんどの幹部がアメリカに引き揚げてしまい、貞ちゃんの知らないところで、閉鎖、倒産という事態になってしまったんです。

 なにしろ岩倉本人からして、1127ポンドという多額の金を預けていましたし、副使の大久保利通、木戸孝允、山口尚芳、みんな私費を預けていたらしく、パニックです。
 しかし、使節団の公金は、会計主務の青山伯(田中光顕)が、文久遣欧使節団参加経験者の福地源一郎の忠告を入れ、貞ちゃんの勧誘を拒絶しましたことが、林董の回顧録「後は昔の記」(近デジにあります)に見えます。

後は昔の記 他―林董回顧録 (東洋文庫 (173))
林 董,由井 正臣
平凡社

 
 公金を預けることを拒んだといいますと、もう一人、やはり文久遣欧使節団に参加していました人で、寺島宗則がいます。
 寺島は薩摩藩の密航使節&留学生の一員でもありましたが、慶応2年3月28日(1866年5月12日)に帰国しておりますので、貞ちゃんが幕末に一千両使ってイギリスにたどり着きましたときには、もういませんでした。
 そして寺島は、先に述べましたように、外務大輔としてガルトネル開墾条約事件の後始末にかかわっているわけでして、私、思いますにこのとき、「相当なうっかり屋だな、こいつ。信用ならん」と、鋭くにらんでいたにちがいありません。

 しかし、その寺島の外務省薩摩閥の後輩に、公金をもっていかれてしまいました超うっかり屋が、いました。
 2677ポンドを失った鮫ちゃん、鮫島尚信です。この事件の最大の日本人被害者でした。

 寺島も鮫ちゃんも、岩倉使節団のメンバー、というわけでは、ありませんで、広瀬常と森有礼 美女ありき5で、以下のように書いた通りです。

 鮫ちゃんと有礼は、日本が海外へ送り出す最初の日本人駐在外交官となりました。鮫ちゃんは普仏戦争最中の欧州へ、有礼はアメリカへ、20代半ばという若さで、日本を代表する少弁務使(代理公使)としての赴任です。鮫ちゃんは、イギリスでは拒否され、フランスに落ち着きます。何度か書きましたが、イギリスの外交官は官僚ではなく、貴族かジェントリーの子弟が自腹をきって奉仕するものでして、まあ世界の一等国イギリスとしましては、公使をよこすなら、せめて大名の一門とか、名門で、なおかつ経験豊かな年輩の者をよこせ、ということなんですね。
 しかし、手探りで外交デビューする日本側にしてみましたら、条約改正問題もありますし、日本のお殿様は通常、「よきにはからえ」で大人しく祭られていることをよしとしていて、イギリスの貴族のように英才教育を受けてリーダーシップがとれるようには育てられていませんし、海外事情もなにもさっぱりわからないでは、手探りのしようさえないわけなのです。それでイギリスには結局、名門の条件は満たしていませんが、幕末からの外交経験を買われて、寺島宗則が赴任することになります。


 鮫ちゃんのフランス赴任につきましては、普仏戦争と前田正名シリーズで、もう一度ちゃんと書くつもりでおりますが、ともかく、鮫ちゃんは駐仏公使館を開設する費用など、公金を貞ちゃんの会社に預けていたんです。
 これってやっぱり、ハリスつながりの濃い絆なんじゃなかったんでしょうか。

 明治元年の京都で、貞ちゃんはフェアリーのようにやさしく、ハリスの祝福を受けて帰国しました鮫ちゃんと有礼を迎えてくれたのでしょう。
 薩摩と欧米しか知りませんで、突然、様変わりの京都へ迷いこみました鮫ちゃんにとりまして、魂の伴侶であります有礼をのぞけば、まわりにいる人間、みんなが宇宙人のようだった中、ただ一人貞ちゃんは、心を許せる友だったりしたかもしれません。いや、客観的に見ますならば、鮫ちゃん、貞ちゃん、有礼のハリス教団三人組の方が、宇宙人だったんですけれども。
 そして鮫ちゃんは、気が大きくて素っ頓狂な貞ちゃんの人柄をこよなく愛し、信頼していたにちがいないのです。

 公金としましては他に、尾崎三良が預かっていましたイギリス公費留学生たちの費用、2198ポンドも消えてなくなりました。この尾崎三良というお方も、イギリス人女性と結婚しておりますが、これがまたいいかげんなものでして、私、まだろくに調べてはいないのですけれども、相当な素っ頓狂仲間のようではあります。あんまりかわいげがなさげで、調べる気にならないのですけれども。

 結局のところ、このボウルズ銀行倒産騒ぎの解決には22年という長い時間がかかりまして、被害額の四分の一を返してもらえることになりましたが、そのときには、日本人被害者にも、死んでしまった者があり、鮫ちゃんもその一人でした。
 まあ、あれです。
 貞ちゃんも、被害者ではあったわけですけれども、こう、ですね。突然株主にしてやるだとか、富豪のような多額の給料をくれるだとか、なんかおかしいなと立ち止まるような性格では……、なかったんですね。

 しかし、まあ、これも当然のことなのですが、貞ちゃんをかばいましたのは、長州閥の頭領・木戸孝允のみでして、明治6年(1873年)春、貞ちゃんは、妻のライザとともに、ひっそりと帰国します。
 えー、いくら貞ちゃんが、まったくもって悪気があったわけではなかったといいましても、欧州日本人使節団が被りました巨額金銭詐欺被害は、貞ちゃんのせいであるにはちがいないのですが、帰国後の活動を見ますかぎり、高杉晋作の従弟にして義弟、といいます、今をときめく長州閥の御曹司ブランドは強かった、と思わざるをえません。

 帰国して間もなく、貞ちゃんは、内外用達会社を立ち上げ、やがてこの会社を、一応ちゃんとした形式の株式会社にします。
 業務内容は、日本と海外との仲介で、書簡や電信の翻訳、訴訟や商売のための通訳、海外への荷物の送付・受け取り、外国為替の取り扱い、海外取り引きの代理、などなどでした。
 株主には、渋沢栄一もいたようですし、民間の海外取り引きが少なかった当時、官の引き立てなくして、この事業はできなかったでしょう。

 しかし、それでも事業は失敗し、貞ちゃんは、明治14年には会社を投げ出し、官界に復帰します。
 木戸はすでに世を去っていましたが、伊藤もいれば、井上もいましたし、なにしろ、高杉晋作の従弟にして義弟ですし、素っ頓狂ではありましたけれども、語学力はたいしたものですし、社交的で、物怖じしない人柄です。物怖じしなさすぎで、困ったものなんですけれども。

 どうも、ですね。
 官界に帰りました翌年、明治15年あたりから、貞ちゃんとイギリス人妻ライザとの仲は、極端に悪化したようです。
 貞ちゃんは、ライザをイギリスに放っておいたりはしませんで、ちゃんと日本に連れ帰りました。
 行き当たりばったりの貞ちゃんだったからこそ、ともいえますが、見方をかえますと、実のところは、とても愛していたのかもしれませんし、そして、内外用達会社の設立は、なんとかイギリスにいたときと同じように、不自由のない生活をライザにさせてやりたかったがゆえの貞ちゃんの奮闘であった、と見ることも可能でしょう。

 しかし、おそらく、貞ちゃんにとっての最大の不満は、子供が生まれなかったことだったでしょう。
 そこへもってきまして、貞ちゃんが官界に復帰しまして最初の仕事は、明治9年に日本領となりました小笠原諸島に出向き、欧米系島民を帰化させること、でした。
 あるいは、貞ちゃんは事業の失敗で多額の負債をかかえ、離島、小笠原への赴任を引き受けたのかもしれませんし、ライザが小笠原諸島へ行ったとは思えません。貞ちゃんの実家・南家や、あるいは高杉家の人々といっしょに暮らすことになったりしたのではなかったでしょうか。

 明治16年、二人は離婚し、ライザはイギリスへ帰りますが、その離婚理由といいますのがなんと!、妻ライザの暴力です。
 貞ちゃんは、井上聞多宛の書簡で、妻の暴力について、以下のように述べているそうです。

 「その残酷なるは、拙官の愛する実父および実伯父母兄弟などに対し、残酷無礼を行い、ともにその残酷を受けること数度なり。よって実父は同居を去り、他家において死し、その他拙官の面部および手足を負傷せしめたること数度なり。明治15年2月に至りては、日本刀をもって切りかかり、酷してこれを脱し、実伯父の家にいたり、衣類などの扶助を乞ひ、あるいは官吏の家に潜伏すること数日、すでに告発し法律に訴えんとせしも、英国人親友の仲裁によって、別紙乙号約定書をもって誓いをなすにつき、こんどかぎり勘弁を加え候ところ、その後一月も過ぎず三月中、重ねてほとんど同様の挙動これあり候。故離縁の義申渡し候ところ、英国へ送り帰しくれ候様申出候故、同年四月上旬横浜出帆為致候」

 「ライザは、ぼくの愛する父や伯父(晋作さんの父親です。おそらく)、母や兄弟などに対して、残虐無礼で、家族といっしょにぼくも暴力を受けたことが数回あって、父は家を出て、よその家で死んでしまったんだよ。ぼくの顔や手足に傷を負わせることもたび重なり、ついに明治15年2月、日本刀で斬りかかってきたので、必死になって逃げて、伯父さんの家に駆け込み、衣類なども都合してもらって、部下の家に隠れて数日、法に訴えようとしたのだけれど、イギリス人の親友が仲裁に入ってくれて、二度と暴力はふるいませんというライザの誓約書をとったところが、一ヵ月もたたないうちに、ほとんど同じようなことをやらかしたので、離縁すると宣言したら、ライザはイギリスへ帰してくれ、と言うので、四月上旬に横浜から出航させたんだよ」

 えー、小山騰氏がおっしゃることには、この手紙を書きましたとき、貞ちゃんは一年勘違いしていまして、明治15年ではなく、これは翌16年のことなんだそうです。
 それにいたしましても………。
 異国で、おそらくは貞ちゃんの会社がつぶれまして以来、生活が激変し、ライザの鬱屈は募ったのでしょうけれども、晋作さんの従弟が妻に虐待されて離婚って、なんだか呆然としますよね。

 その後貞ちゃんは、日本女性と再婚して子供も生まれ、明治24年には、官界での自分の処遇が不満で受け入れなかったものですから、首になりました。
 その年に、貞ちゃんのアイデアで、渋沢栄一などが資金を出し、蜂須賀茂韶を会長に担いで、「外国から日本へ観光客を呼ぼう!」ということを目的にしました「貴賓会」が立ち上がります。
 蜂須賀茂韶は元阿波藩主ですが、戊辰戦争の最中に先代が急死して藩主となり、明治5年にイギリス留学しまして、貞ちゃんとライザの結婚の立会人を務めた人です。
 貞ちゃんが名誉書記になりましたのは、三年後のことだそうですが、実務は最初から貞ちゃんが担当していたようです。

 数年後、明治35年、貞ちゃんは55歳にして名誉書記を辞しまして、翌年、海外から日本へ来た旅行者、日本から海外へ行く旅行者にサービスを提供する旅行代理会社を立ち上げます。
 なんと、ですね。その資金作りには、15歳の自分の娘を尾崎三良のもとへ頼みに行かせるなど、家族ぐるみ作戦を展開し、ついにこの生涯最後の事業に、貞ちゃんは成功したようです。
 大正元年、貞ちゃんは長男に事業をゆずって引退し、書道と和歌をたしなんで、大正4年、68歳で世を去りました。

 なんといえば、いいのでしょうか。
 長州高杉晋作ブランドで若くして密航留学し、語学もできて、数学もできて、それなりの才はあったはずですのに、素っ頓狂で、失敗続きの人生でしたけれども、いつもまわりに助けられまして、結局はやりたいことをやり、最後にはそれなりに成功して、子孫に後を託し、畳の上で往生。
 とても幸せな人生だったんじゃないんでしょうか。
 
 しかし、ね。西からの光はやはり、美しくも身を焼く業火であったのだと思います。
 要は使い方で、見方によれば貞ちゃんは、しゃにむにがんばって命を縮めたりもしませんで、うまく綱渡りのバランスをとって、渡りきったのだとも、いえると思うのですけれども。

 自分の身代わりに貞ちゃんを西洋へ送り出し、西洋近代文明と激突した日本の変革のために、炎のように燃えつきました晋作さんの人生。
 貞ちゃんとともに密航して間もなく、おそらくは貞ちゃんに自分のぶんまでの望みもたくし、はかなく異国の土となりました山崎小三郎。
 貞ちゃんを愛し、ともに騙され、最初の日本人海外駐在外交官としましての奮闘のあげくに、体を壊してパリに客死しました鮫ちゃん。
 
 最後はやはり、これでしめたいと思います。

ザ・バンド with ボブ・ディラン アイ・シャル・ビー・リリースト


 They say ev'rything can be replaced
 Yet ev'ry distance is not near
 So I remember ev'ry face
 Of ev'ry man who put me here
 I see my light come shining from the west unto the east.
 Any day now, any day now, I shall be released.

 すべての物事は、やがて変わっていくだろう。
 しかしそれは、容易なことじゃないんだ。
 そしておれは、去っていったみんなの顔を思い出す。
 おれがいまここにいるのは、先に逝ったみんなのおかげなのだから。
 西から東へ、届く光がきらきらとおれを照らす。
 いつの日か、いや今すぐにでも、おれは自由になれるだろう。

 舞い散る桜の花びらを見つめていますと、先に逝った人々も、そして後に残った貞ちゃんも、みんなみんな、その営みが、とても愛おしく脳裏によみがえってまいります。

 私、次は……、次こそは、普仏戦争と前田正名に立ち返ります。

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高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 中

2012年04月02日 | 幕末留学

 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 上の続きです。
 前回に引き続きまして、主な参考書は下の「国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始」です。


国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始 (講談社選書メチエ)
小山 騰
講談社


 密航留学しました貞ちゃんは、さっそくロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ(UCL)に籍を置きます。
 アーネスト・サトウ  vol1に書いておりますが、アーネスト・サトウの出身校でありますUCLは、「非国教徒の優秀な子弟を積極的に受け入れていた自由主義的な大学」で、当時、極東からの異教徒の留学生がイングランドで学ぶ大学としましては、ここしかありませんでした。
 最初に密航留学を企てました長州ファイブのうち、井上、伊藤が帰国しまして、残された野村(井上勝)、遠藤、山尾は、やはりUCLにいたのですが、薩摩からの14名の留学生が入ってくるのと入れ替わりますように、山尾はスコットランドのグラスゴーへ造船を学びに行き、遠藤は病気になったこともあり、慶応2年のはじめには帰国を決めます。

 なお、団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航に出てまいりますが、単身、後からイギリスへたどりつきました竹田傭次郎は、スコットランドのアバディーンで、グラバーの実家にめんどうをみてもらうことになったようです。
 長州の遠藤が帰国するころには、山崎は世を去り、薩摩藩留学生も長沢鼎は早くからアバディーンへ行っていましたし、フランスへ行く者あり、帰国するものも多数ありで、UCLに残ったのは、森有礼、鮫島尚信、吉田清成、松村淳蔵、畠山義成の5人です。
 
 つまり、ですね。
 貞ちゃんはロンドンで、実に個性的な、薩摩英国ファイブとでも呼びたくなります5人と、濃くつきあっていた、ということになります。
 5人の中では、有礼が最年少なんですが、貞ちゃんはその有礼と同い年です。
 どのようにつきあっていたのか、その一端は、中井弘(中井桜洲)が書き留めてくれています。

 イギリスVSフランス 薩長兵制論争3の冒頭に、中井の「西洋紀行航海新説 下」から、ドーバーで行われた英国海軍と陸上兵力との共同調練の様子を引用しましたが、鮫ちゃん、ライオン清成、畠山ギムリ、松村校長が参加しましたこの演習で、中井さんは貞ちゃんに出会っているんです。

 「ローバカノハ一帯の高丘に在って海に臨み砲台あり。四方数十里の広原銃隊を以て寸地を見ざるにいたる。たがいに陣列を敷き縦横に隊伍をわかち発砲す。ほとんど実地の戦争を見るが如し。城より発する大砲は、海上の軍隊と対応し、その響き天地を動かせり。余(中井)、マーチンを失い、大いに困迫奔走す。偶然に長人南貞助に原野の間に逢う。あい共に調練の精しきを賞賛し、終に旅宿に投じ一杯を酌し、南に分れ火輪車に乗り、一睡夢覚めれば火輪車は龍動(ロンドン)に達す」

 上の引用、適当にカタカナをひらがなにしたり、漢字を開いたりしていますので、まちがいもあろうかと思います。「西洋紀行航海新説」は近デジにありますから、正確なところは、直接ご覧になってみてください。
 それにいたしましても。
 やっぱり、中井さんは文章がうまいですね。

 海に面したドーバーの野を、歩兵隊が埋めつくしています。
 城壁から大砲が撃たれ、海を埋める戦艦がそれに呼応します。
 中井は、案内してくれていたイギリス人のマーチンとはぐれてしまい、困り果てて右往左往しますが、そこで偶然、若き長州人の南貞助に出会い、大喜びです。
 演習のすばらしさを賞賛しあい、いっしょにパブに入って乾杯し、「南に別れて汽車に乗り、一眠り夢のまにまにロンドンに着いていた」というんです。

 大砲の轟きも白煙も、そんな中での貞ちゃんとの偶然の出会いも、ひとときの夢だったような、そんな不思議な臨場感をかもしだしてくれています。

 貞ちゃんがなんで広野にいたか、なんですけれども、貞ちゃんは別に、中井さんのフェアリーになるために広野にいたわけではなく、貞ちゃんはもともと、イギリスで陸軍の勉強をするつもりで、密航留学したわけだったんです。
 UCLに籍を置きます一方で、貞ちゃんは学費を借金しまして、ウーリッジで退職したイギリス陸軍大尉の家に下宿し、軍関係の私塾に通い、慶応2年の間に、ローレンス・オリファント(広瀬常と森有礼 美女ありき3参照)の尽力により、ウーリッジの王立陸軍士官学校に入学していました。

 ウーリッジの陸軍士官学校は、士官学校といいましても、砲兵及び工兵士官の養成をしていまして、貴族やジェントリーの子弟の希望が多い騎兵や歩兵の士官学校は、サンドハーストにありました。
 砲兵・工兵は、技術職ですから、もともと中産階級の子弟が学校で学ぶものでして、貴族やジェントリーの子弟が望む華やかさには欠けていたんですが、それよりなにより、数学、科学が重要視されていまして、入学試験のハードルがけっこう高かったわけです。

 晋作さんは、ですね。
 高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますように、おそらくは船酔いと、そしてまたおそらくは数学に嫌気がさしまして、海軍に挫折しました後、文久2年(1862年)に上海に行きました折り、「数学啓蒙」など、洋数の漢訳書を買い込んで帰りました。
 きっと、ですね。自分のことは棚の上にあげまして、貞ちゃんに「数学の勉強だけはちゃんとしとけよ。砲術も航海術も、数学が基本だぜい!」と日々、言い聞かせていたにちがいありません。
 貞ちゃん、数学はかなりいけたようです。
 
 中井の「西洋紀行航海新説」には、当然のことながら、カルト教祖さまトーマス・レイク・ハリスも登場いたします。
 薩摩英国ファイブとハリス教団につきましては、薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上広瀬常と森有礼 美女ありき3をごらんください。後者の方に、貞ちゃんがはまりかかったことも、書いております。

 小山騰氏の「国際結婚第一号」によりますと、アメリカのコロンビア大学に「ハリス・オリファント・ペーパーズ」という、ハリスとローレンス・オリファントの書簡などを集めました文書コレクションがあるのだそうです。
 その中の1867年(慶応3年)11月26日付、在アメリカのオリファントから在イギリスの親友宛書簡に、「南貞助は、アバディーンでグラバーの実家の世話になっている長州人二人が、渡米してハリス教団に入る許可を得るために、帰国した。青年の一人は、長州世子(Prince of Chosin)の甥である。南は、長州世子本人も説得し、渡米させる予定でいる」というようなことが、書かれているようです。
 小山氏によりますと、アバディーンの青年二人とは、たぶん毛利親直(変名は土肥又一)と服部潜蔵であろうとのことでして、毛利親直は阿川毛利家の出で、若干15歳。前年の長幕戦争(第二次征長)で、芸州方面の諸軍を統帥しているんだそうです。

 このオリファントの手紙につきましては、広瀬常と森有礼 美女ありき3でご紹介しております林竹二氏の論文、森有礼研究第二 森有礼とキリスト教にも出てまいりまして、林氏は、以下のように書いておられます。

 オリファントが上記書簡の中で記すところによると、薩摩の留学生と同じ年にロンドン大学に入った長州の南貞助は、当時帰国中であった。帰国の目的は、長州の藩主を説いて藩主自身の渡米を実現させるにあった。ハリスの許で彼に新生の真理を学ばせたいという大望を南は抱いていたのである。明らかに新生を受け容れる一人の藩主を見出す努力とみてよい。オリファントはまた、グラバーにこの計画実現に一役買わせるため、クーパーの影響力の行使を望んだ。さらに南は、当時スコットランドのアバディーンに留学中の長州のDokieとHatoriの渡米を実現するため藩主の許可(命令という言葉をオリファントは使っている)を得ることをも期待していた。この二人は、ハリスの許に来て新生の真理と清浄の生を生きる道を学ぶことを切望して、手紙を新生社によせたのである。オリファントによれば、Dokieは長州藩主の甥であり、Hatoriは「下関のプリンス」の家老の息子であった。

 貞ちゃんの自叙伝によりますと、慶応三年の突然の帰国は、借金がかさんで学費が続かなくなったためということでして、ハリスのハの字も出てこない、ということなのですけれども。
 しかし貞ちゃんの言うことをそのまま信じますと、一千両を、ですね。上海からイギリスへの旅費として使い切ってしまい、借金ばかりで少なくとも一年半はイギリスに滞在し、帰りの旅費はどうしたのか、とにもかくにも日本へ帰り着いた、というわけのわからないことになりまして、とてもじゃないですけれども、私には信じられません。

 とにもかくにも、帰国の途につきました貞ちゃんは、香港で晋作さんの訃報に接しました。
 小山氏の推測では、維新直前に長州へ帰りつきました貞ちゃんは、ハリス教団の影響からすぐに覚めて、世子の渡米はもちろん、二人の長州人の渡米許可を求めることもしなかったのではないか、ということです。
 確かに、学費がない、ということなんでしたら、薩摩英国ファイブ+長沢とともに渡米してハリス教団に入ってしまえばよかったわけでして、洗脳の程度が浅かったのかなあ、という気がしないでもないのですけれども、貞ちゃん本人はぜひそうしたいと思っていましたところが、オリファントとハリスが、貞ちゃん一人ではなく、もっと大きな魚を狙いまして、貞ちゃんを長州に帰したのではないか、と私は思います。

 あー、で、とにもかくにも貞ちゃんは帰国しまして、世子だけではなく、伊藤や木戸などもつかまえて、えー、ぜひ新生のために世子さまの渡米をーだとかなんとか言ってみたんだと思うのですが、いったい貞ちゃんがなにを言っているのか、世子にもだれにもさっぱりわからず、まったく相手にされなかっただけの話ではないんでしょうか。

 貞ちゃんは、鳥羽伏見の戦いがはじまるまで、長州諸隊から選ばれましたエリート軍団に、英国式調練をほどこしたりしていましたが、どうも鳥羽伏見の直後から上方へ行き、外国官権判事になりました。
 えーと。一方、渡米して洗脳覚めやらぬ鮫ちゃんと有礼は、しかし憂慮しました薩摩藩政庁が、ハリスに二人の帰国旅費を送りましたことで、教祖様の祝福を受けて帰国。明治元年6月、大久保か小松かに呼び寄せられたのでしょう。京都に姿を見せます。
 貞ちゃんによりますと、「先に帰国していた自分が、鮫ちゃんと有礼くんを、三条実美、岩倉具視に紹介して、自分と同じ外国官権判事にしてもらった」ということなんですけれども。

 なんか……、私、二十歳そこそこの有礼と貞ちゃんと、それより二つ上なだけの鮫ちゃんと、それぞれにけっこうな美形の三人のこのときの会話を想像しますと、エキセントリックで濃すぎまして、そのまわりから浮きました三人だけの世界が……、怖いっ!です。

 前年(慶応3年)のパリで、おそらく貞ちゃんも含めまして、面識がありましたはずのモンブラン伯爵がこのとき上方にいまして、少なくとも貞ちゃんは会ったはずです。
 しかし、このときのモンブラン伯爵につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上に書いておりますが、私は、以下のようなことを推測しております。

 鳥羽伏見直後の京都におけるモンブランの活動には、すでにイギリス公使館からクレームがついていたのではないか、と、私は推測をしているのですが、これについては、確証がえられません。長州がフランス兵制を採用したについて、伊達宗城と大村益次郎の関係、五代友厚とモンブランの関係、宗城と五代の関係、を考えますと、モンブランが介在した可能性があると思うのです。
 
 モンブランのせいだったかどうかは置いておきまして、長州陸軍はフランス兵制を採用しましたから、ここで貞ちゃんは、陸軍とは縁切りです。
 それはまあ、悪いことではなかったかもしれないのですが、その後、明治3年、箱館府判事に任官しまして、思わぬところで貞ちゃんの名前が見受けられます。
 ガルトネル開墾条約事件の後始末です。

 えーと。この事件もちょこっと明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編に出てくるんですけれども、幕府から蝦夷地を引き継ぎました薩摩の井上石見が、幕府のころからのつながりで、リヒャルト・ガトネルを雇い入れ、七飯を開墾して模範農場を作ろう、というようなことを計画していたのですが、志半ばに船舶事故で行方不明となり、そうこうしますうちに、榎本武揚を中心とします旧幕府軍が上陸してきまして蝦夷地を占領し、300万坪という広大な土地を99年間リヒャルト・ガルトネルに貸すという、とんでもない契約を結んでしまいます。
 北方資料データベースで、蝦夷地七重村開墾條約書が公開されておりまして、19ページには永井玄番と中島三郎助、20ページには榎本武揚の署名があります。

 その後始末を、最初に担当しましたのが、箱館府判事の貞ちゃんでして、これはfhさまから教えていただいたのですが、国立公文書館のデジタルアーカイブで、孛国商人カルトネルヘ貸与セシ箱館七重村地所取戻始末(太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五十九巻・外国交際・開港市二)を見ることができまして、このときの貞ちゃんがまた、え、え、えええええっ???という感じだったことがわかります。

 要するに外務省は、えー、外務省って、おそらくは外務大輔になっていました寺島宗則が、だと思うのですが、箱館府が勝手に新しくガルトネルと条約を結んでしまいましたことに疑問を持ち、問いただすんですね。
 箱館府知事・清水谷公考は、「南に丸投げしましたよって、知りませんのや」といい、当時はまだ藩が存在しまして、貞ちゃんへの問い合わせの答えは、山口県公用人の手を経て出されています。

 まあ、結論からいいまして、300万坪という広大な土地ではなくなっていますが、7万坪なのか10町四方なのか、ともかく、ガルトネルを雇う話ではなく、土地を貸し出す話になってしまっているんですね。
 結局、この事件は外務省が引き取って決着をつけますが、貞ちゃん、けっこうなうかつさ、です。

 というところで、破天荒な貞ちゃんの物語は、次回に続きます。
 次回で終わります。

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高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 上

2012年04月01日 | 幕末留学

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 下・後編高杉晋作とモンブラン伯爵の続編、ということになるでしょうか。

 実は仕事が入りまして、おもしろい仕事というわけではないのですが、貧乏性な私は、入ってきました仕事を断ることができません。
 まあ、少しでも原稿収入がありますと、参考書籍費などはかなりな額にのぼりますから、私の青色申告にはかえって好都合だったりするかも、な実利もあったりします。

 えーと、しかし。仕事はおもしろくないですから、引き受けておいて逃避に走るわけです。
 とはいいますものの、仕事があるということがひっかかりまして、ブログ書きに集中することも難しくなっているわけなのですけれども。
 高杉晋作の従弟にして義弟、南貞助のことを書きたくなってから、二度横道にそれました。
 これを書かなくては、気分が落ち着きませんで、書くことにしました。

 最近、私、死ぬまでに、ちゃんとした桐野利秋の伝記を書き残したいなあ、と思うようになりまして、仕事からの逃避も手伝いまして、頭の中であれこれ、中村半次郎の幼少期を思い描いております。
 私が初めて鹿児島を訪れましたのは、いまの姪と同じくらいの乙女のころでして、考えてみましたら、あのころは半次郎の存在さえも知らず、西郷、大久保の名前くらいは知っておりましたが、「昔、暑苦しいおっさんたちがいたのよねえ」くらいの感慨しかありませんでした。
 
 じゃあ、なにしに鹿児島に行ったかって、種子島でロックコンサートがあったんです。
 ああ、映画「半次郎」でお母さん役だったりりィが、出演していました。
 といいますか、「半次郎」にりりィが出ていたことにびっくりです。
 福岡でミキサーをやっていました友達一行と一緒でして、コンサート機材満載の四トントラックとともに福岡から鹿児島まで夜中に走ったのですが、ちょうどその夜中、福岡エリアではザ・バンドの解散コンサートがテレビ放映されるという話で、なんとしてでも見ようと、さびれたドライブインなんかに入ってみたんですが、福岡県でも山の中では放送が入らず、一同がっかり。

 道中、私はよくは眠れないままに、うつらうつらしていたのですが、「着いたよ」と言われ、車から出て仰いだ目の前の桜島の姿。いまも、忘れることができません。
 ここで、この景色を見ながら子供のころから育った人って、どんな思いを抱くのだろう?
 そのとき、私の頭の中に鳴り響きましたのが、I Shall Be Releasedだったのは、一晩、ザ・バンドの解散コンサートが見たいっ!と思いつめたあげくだったから、かもしれません。

ザ・バンド with ボブ・ディラン アイ・シャル・ビー・リリースト


 
 I see my light come shining from the west unto the east.
 Any day now, any day now, I shall be released.

 西から東へ、届く光がきらきらとおれを照らす。
 いつの日か、いや今すぐにでも、おれは自由になれるだろう。

 太陽も月も、東から出て西へ動きます。
 だのになぜ、光が西から東へなのかと言いますと、時事にからめてさまざまに解釈されてきました歌です。
 ボブ・ディラン作詞作曲のこの歌が、最初に世に出ましたのは1967年でしたから、「西からの光とは、アメリカ西海岸を中心に起こったカウンターカルチャーのこと」といわれ、1990年代にリバイバルしましたときには、「東側共産圏を照らす西側自由世界の光のこと」なんぞともいわれたようです。

 幕末日本にこの歌をもってきますと、当然、西からの光とは、西洋近代文明なのですが、それはきらきら輝くだけではなく、極東の人間にとりましては、植民地化の危機をともなった身を焼く業火でもあったわけでして、自由になったのか不自由にならざるをえなかったのか、結局のところ、解放の光だったと言ってしまうことはできません。
 できませんけれども、しかし。
 きらきらとした異世界の輝きは、わくわくドキドキ、危険をともないつつも、好奇心をかきたててくれます。

 今気づいたんですけれど、ザ・バンドのロビー・ロバートソンは、大河の「翔ぶが如く」で大久保をやりました鹿賀丈史と顔が似てますね。
 考えてみますと、なんといいますか実に、幕末日本にふさわしい歌だと思います。

 幕末、貞ちゃんもまた、西からの光を受けて、勢いのおもむくままに密航した一人です。
 貞ちゃんには、「宏徳院御略歴」といいます自叙略伝が残っていまして、東大史料にこれがあることは確かなんですが、ほかにないものなのかどうか、ともかく、読みますのがけっこう面倒そうでして、実はまだ読んでおりません。
 しかし、下記、小山騰氏の「国際結婚第一号」には、けっこう詳しく伝記が載っておりまして、参考にさせていただいて、述べて参ります。

国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始 (講談社選書メチエ)
小山 騰
講談社


 南貞助の母親は、高杉晋作の父親の妹でした。
 貞ちゃんは南家の三男で、高杉家の一人息子でした従兄の晋作より、八つ年下。
 文久元年(1861年)、14歳の時に高杉家の養子になります。
 晋作さん、妹は三人いましたが、男の兄弟はおらず、従弟にして義弟になりました貞ちゃんをとてもかわいがり、また貞ちゃんはどうも、実の兄よりも晋作さんの方を慕っていたようです。まあ、素っ頓狂なところはよく似てましたし。

 元治元年(1864年)は長州にとって、大変な年でした。
 前年に、長州は下関で外国船を一方的に攻撃するという攘夷戦をやらかし、八・一八政変で京都を追われ、そのつけがすべてこの年にやってきまして、晋作さんは、京都進発に燃える来島又兵衛に世子の親書を届けてとめるも、元気きわまった来島のじいさんを説得することができませず、わけがわかりませんことに、これでは役目が果たせないからと、単身上方へ出奔。
 京都では、中岡慎太郎とともに島津久光暗殺を計画しますが、果たさず、高杉晋作 長府紀行に書いておりますように、妻にいろは文庫を贈って帰藩し、脱藩の罪で士籍を削られ、投獄。

 父親の懸命の尽力で、親戚預け、謹慎になったところで、禁門の変が起こり、英仏蘭米の四国連合艦隊が下関に攻めよせます。
 しかし、なにしろ晋作さんは謹慎の身ですから、かかわりたくともかかわれない状態。
 ここらあたり、晋作さんの素っ頓狂は身を助けている、ともいえます。
 禁門の変で木戸は行方不明。他に人材がなく、晋作さんは英仏蘭米との講和にかつぎだされ、役目を果たすんですが、その後の長州はガタガタです。
 
 講和して攘夷の旗を降ろした、といいますことは、それまで藩内をリードしてきました反幕派(松蔭門下生中心)の権威が失われることでした。それをなしとげたのが、反幕派の高杉たちだったにしても、です。
 と、同時に、禁門の変で御所に発砲しましたことから、長州征討の勅命が下り、第一次長州征討がはじまります。
 勅命ですから、長州は朝敵になったわけでして、反幕派の尊皇の看板もおかしなものになるんですね。
 藩論は急速に保守化しまして、いわゆる俗論派が政権を握り、松島剛蔵などは投獄されますし、晋作さんも身が危うくなり、脱藩して筑前に逃れます。
 この間、貞ちゃんがなにをしていたかはさっぱりわからないのですが、17歳と若いですし、まあ、勉学に励んでいたのでしょうか。

 
クロニクル高杉晋作の29年 (クロニクルシリーズ)
一坂 太郎
新人物往来社


 上の本の「高杉家と谷家の謎」におきまして、一坂太郎氏は次のように述べておられます。
 元治元年12月、晋作さんが筑前から藩地へ帰り、功山寺挙兵に踏み切りましたとき、晋作さんの父親は、家を守るために晋作さんを廃嫡し、すでに嫁いでいました晋作さんの末の妹ミツを呼び返して、婿養子を迎えます。
 晋作さんは、筑前へ亡命するときに、谷梅之助と変名していたのですが、この実家との離縁で変名の方が重要なものとなり、さらに翌慶応元年9月、幕府の追究をかわすために高杉晋作という名前は抹消されまして、谷潜蔵という変名が、晋作さんの正式な名前となったような次第なんだそうです。

 貞ちゃんは、元治元年に晋作さんとともに高杉家と縁をきり、谷松助と名乗った、といいますから、筑前への亡命はともかく、功山寺挙兵のときは、晋作さんによりそっていたのではないか、と思われます。
 挙兵は成功し、長州は再び反幕姿勢を固めますが、その原動力となりましたのは奇兵隊を中心とします諸隊であり、一坂太郎氏の春風文庫・研究室 ~ 長州奇兵隊は理想の近代的組織だったのか(中央公論」平成22年10月号掲載)によりますと、晋作さんは「人は艱難を共にすべきも、安楽は共にすべからず」と述べて藩政府の一翼を担おうとはせず、しかしある種の敗北感を抱きつつ、慶応元年3月、海外渡航を志します。

 しかし、同じく春風文庫の研究室 ~ 晋作と『英国志』(晋作ノート20号・平成22年11月)によりますと、晋作さんの渡洋希望はずっと以前からのものですし、そこらへんが晋作さんの勘の良さなのですが、とりあえず藩内で自分にできることはなく、将来を見すえて、一度西洋を視察しておきたい、ということだったのでしょう。

 晋作さんは藩の許可を得て、長崎まで行き、グラバーに相談するのですが、「井上伯伝」によりますと、イギリス領事ラウダから「いま長州の外交の中心にいるあなたがたが渡航すべきときではない。新任の公使ハリー・パークスが赴任してくるところなので、新たな外交がはじまる。下関を開港するのはどうだろうか? 長州に多大な利益となるはずだ」というような話を聞き、あきらめます。
 そして、いわば自分の身代わりに、貞ちゃんをイギリスへ留学させるんです。

 長州藩は、18歳の貞ちゃんとともに、藩海軍の俊才で21歳の山崎小三郎、そして竹田傭次郎を留学させることに決定します。
 慶応元年春、貞ちゃんと山崎、竹田は、とりあえず上海に渡りまして便を待つのですが、竹田はどうしても帰国しなければならなくなり、遅れて、単身渡英することになりました。
 したがいまして、上海から英国まで、貞ちゃんは三つ年上の山崎と二人で、旅をしました。

 先の長州ファイブのときもそうだったんですが、長州の密航留学といいますのは、どうも思いつきじみていまして、あんまり計画性がないように感じます。といいますか、あるいは薩摩とくらべて、金のかけかたが少なすぎ、なんでしょうか。
 それでも一人頭一千両は用意していた、というのですけれども。
 また、金がないならないで、団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航の三人のように、グラバーに貨物船を世話してもらうとか、ですね、なんとかする工夫が必要だったはずなんです。

 まあ、あるいは若すぎた、というのもあるかもしれません。
 安芸の野村と肥前の二人はみな30歳前後、当時としましてはいい年のおっさんですし、世間知に長けていたのでしょうけれども、貞ちゃんは素っ頓狂なおぼっちゃんですし、山崎はエリートすぎまして、どーしたらいいのか、状態であったのかもしれません。
 ちょっといま、竹田傭次郎の年がわからないのですけれども、あるいは竹田が二人の世話係の予定だったりしたんじゃないのかと、思ってみたりもするんですけれども。

 ともかく、です。
 貞ちゃんと山崎は上海から130日、つまりは四ヶ月と10日かかって、ようやくイギリスへたどりつきましたときには、一千両をほとんど全部使い果たしていた!!!といいます。
 なんなんでしょうか、いったい。
 同じグラバーの世話で、野村たち三人が片道一千両も使ったとは、私にはとても思えません。
 なんでも、上海からの船の船長に一人頭一千両渡してそれで全部なくなったというんですけど、馬鹿馬鹿しいにもほどというものがあります。

 翌年の春、晋作さんは、長崎のグラバーに届いた知らせで、イギリスへたどり着きました貞ちゃんと山崎が一文無しとなり、あまりの貧窮生活に、山崎は冬の寒さで肺をやられ、栄養失調も手伝いまして、逝去したことを知ります。

高杉晋作の手紙 (日本手紙叢書)
一坂 太郎
新人物往来社


 上の本より、慶応2年(1866年)3月26日、長崎にいた晋作さんから、木戸、井上に宛てた書簡の一節の引用です。

 「ここに驚くべき一事あり。義弟同行の山崎生、倫頓(ロンドン)にて病死す。これまた金なども少く、寒貧よりして病を起し候様子なり。この事などを君上へ御聞せ致せなば、さぞさぞ御嘆息と察し奉り候。実にこの両人難儀を見候様子にござ候。(中略)山崎も残念は残念にござ候えども、日本人にて西洋に埋骨せし候者未だこれあらず。長門人の先鋒、これまた他邦に勝れるところ、同人の薄命は悲しむべきなれども、かくの如き名臣あるは国家の盛んなるならずや。少々の遊学料を惜しむ位にては困り入り候。政府へさよう御伝声頼み奉り候」
 
 だから、ねえ。
 なんでもっとちゃんと計画して留学費を使わなかったのよっ!!!
 「日本人で西洋に骨を埋めるのは山崎が初めてで、長州人が先鋒となったのは他の藩に勝っているんだっ!!!」なんてねえ、果たして初めてだったかどうかはちょっと置いておきましても(私が知る限りで、アメリカの話なんですが、咸臨丸の水夫が、航海途中から病んで、アメリカへ着く前に一人、着いてから二人死に、サンフランシスコに葬られました。熱病だとかいわれたようですが、脚気だったのではないでしょうか)、誇るべきことなんでしょうか、これ。

 貞ちゃんたちがロンドンに着きましたのは、慶応元年の秋ころでしょうか。
 薩摩藩の密航使節と留学生が、羽島から出航しましたのが元治2年(慶応元年)4月17日で、貞ちゃんたちの離日とほとんど変わらない時期なんですが、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1に書いておりますように、香港までグラバーの船で行き、そこからは豪華客船でしたので、5月28日にはサザンプトンに着いております。
 豪華客船一等客室の船賃が100ポンド。100ポンドって、いくらなんでも一千両にまではならないと思うんですけど。

 長くなりすぎましたので、半分に分けることにしまして、次回に続きます。

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薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 下

2009年12月14日 | 幕末留学
薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上の続きです。

 私の畠山義成に対する関心は、当初、モンブランから入りましたがゆえに、渡米の後についてはとぎれておりました。
 幕末も押し詰まった時点において、イギリスのオリファントとフランスのモンブランが綱引き状態。オリファントの背後からトーマス・レイク・ハリスが現れ、フランスにまで乗り込んだとなりますと、留学生たちのハリス教団とのかかわりまでは視野に入れざるをえず、畠山が吉田清成、松村淳蔵とともにハリス教団を離れました経緯は、前回ご紹介しました林竹二氏の論文など、ある程度は調べておりました。

 しかし、なんといっても在イギリスの間に関心は集中しまして、この間、残っております畠山の書簡がすべて新納刑部(新納とうさん)宛であったことなどから、「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」において、以下のような推測をしたようなわけです。

新納とうさんの手紙の英訳を、チャールズ・ランマンが見た経緯なんですが、畠山義成が見せたのではないか、という推測が自然ではないか、と、思われます。
武之助少年の帰国は、明治6年5月26日です。ということは、岩倉使節団に参加していて、一足先に帰国した大久保利通に、いっしょに連れて帰ってもらったことになります。パリの集合写真で、武之助が大久保のそばにいるのは、武之助少年の送別会でもあったからなんでしょう。
畠山義成については、また改めて書きたいと思いますが、1867年(慶応3年)、ロンドンからアメリカに渡って、ラトガース大学で学んでいました。1871年(明治4年)の春、新政府の帰国命令を受けたんですが、猶予をもらい、同年10月28日にアメリカを発ち、ヨーロッパまわりで帰国する予定でパリへ向かいました。あるいは、自分がロンドンにいたころ、留学して来た武之助少年のことが、気になっていたのかもしれません。
おそらくはパリで武之助に会い、とうさんの手紙を見せられて、望郷と不安を訴えられたのではないでしょうか。
これもまた、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、13歳で密航留学生となり、ハリス教団にどっぷりと身を入れてしまった長沢鼎を、畠山は見たばかりですので、これは武之助の不安ももっともだと思っていたところへ、岩倉使節団への協力要請があり、アメリカへ引き返します。
ライマンが幼い女子留学生の世話をしてくれているのを見て、「親御さんは、こんな思いでいるんだよ」と、新納とうさんの手紙を見せます。
そして、使節団随行中、新納とうさんに連絡をとり、大久保利通に武之助の帰国のことを頼んだ、と、そういう筋道ではなかたかと、私には思えてなりません。


えー、私、「あらためて書きたい」とか「別の機会に」とかいいながら、さっぱり書いてきませんでしたが、この集合写真の新納竹之助くんが、これです。



 証拠がないのですが、畠山義成がアメリカに渡ってからもずっと竹之助くんを気遣っていただろうという推測は、私の中で確信にまでなろうとしております。畠山義成とは、そういう人だったと思うのです。
 その畠山の生涯は、けっして長いものではありませんでした。詳しくはtomoeさまのサイトで見ていただきたいのですが、天保14年(1843)の生まれですから、23歳(数え)でイギリスに密航留学し、アメリカへ。ハリス教団を出てラトガース大学に学び、岩倉使節団の通訳。帰国後は文部省に奉職し、明治9年(1876)、フィラデルフィア万博に派遣され渡米。病が悪化し、帰国途上に死去。数えで34歳でした。

kozo-web 畠山義成 みじかい半生の足跡

 私、よくは知らなかったのですが、船上で畠山を看取ったのは、薩摩出身の留学生・折田彦市(wiki-折田彦一参照)でした。
 ちなみに、「岩下長十郎の死」で書きました大山巌の明治3年普仏戦争観戦日記によりますと、往路の経由地アメリカで、巌は、畠山と折田、岩倉の息子に会っています。
 tomoeさまは、折田の日記の複写を見ておられまして、よく読めない日記だそうなんですが、畠山には身内がほとんどおらず、遺品の整理をしたのは折田と二階堂という人物だったらしい、ということを気にかけておられました。

 「畠山の生まれた場所と墓さえわからない!」とtomoeさまはおっしゃられまして、お墓についていうならば、青山霊園に葬られたという話はある、ということだったんです。
 畠山の死は、青山霊園ができるかできないかの時期でして、ともかく私、青山霊園の事務所で詳細を話し、調べていただいたのですが、「必ずしも墓石が最初の位置にあるわけではなく、猶予はありますが、基本的に管理費が5年間滞りますと撤去されます」というお話しで、記録を調べても「畠山義成という墓石はない」という結論でした。後継がいなかった、ということは、長の年月、管理費がとだえた可能性は、きわめて高いでしょう。

 で、生まれた場所の方です。
 
鹿児島城下絵図散歩―新たな発見に出会う
塩満 郁夫,友野 春久
高城書房

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 上の本で見てみましたところ、畠山の名で「家老になれる身分」にふさわしいお屋敷といえば、安政6年(1859)の地図の畠山主計の屋敷(1047坪)しかなさそうでした。畠山義成、数えで17歳の年です。
 この屋敷、天保13年(1842)の地図では畠山伝十郎の屋敷になっていまして、近くに小さな畠山主計下屋敷もあるんですが、これが天保13年の持ち主は、島津伝十郎となっています。つまり、伝十郎さんは島津一門から畠山家に養子にいったのでは? と推測できたんですね。下に、地図を作っております。

鹿児島城下幕末屋敷図

 で、tomoeさまから、なんと、私がお送りしました論文の中に「畠山義成の実兄は二階堂蔀」という一節があるとのご指摘を受けまして、私、さっぱりそんなことには気づいていなかったものですから、慌てて、論文の脚註を頼りに調べましたところ、二階堂蔀という人物が畠山の遺品である洋書を図書館に寄贈しました時に、「畠山義成の実兄である」旨、明記した添え書きの引用を見つけました。

 さあ、これで、またわからなくなりました。えー、兄が二階堂氏に養子に出て弟の義成は畠山家に残ったのか、あるいは義成が二階堂家に生まれて、畠山家に養子に行ったのか。
 それが今回、tomoeさまが鹿児島県立図書館に行かれて、関係系図を見られたことで、ほぼ、解決がついたと思います。
 最終的には推測をまじえるしかないのですが、新納家、村橋家も近い関係にあるんです。





 島津伝十郎は、加治木島津家から畠山家に養子に入ったんですね。
 これは様々な材料からの推測なんですが、伝十郎さんは、畠山義成の父親であったと思われます。
 そして、伝十郎さんが嗣いだ畠山家から養子に出た新納久仰は、新納刑部の父、竹之助くんの祖父にあたります。wikiの岩下方平の項目に「新納久仰は方平の叔父にあたる」ともありまして、これはどういうことなのか、ちょっと調べてみなければ、と思っています。
 
 新納氏の系図も、近々、見てみる予定です。
 村橋家が加治木島津家の分家だというのは、これも私、読んでいたはずなのですが、忘れこけておりまして、桐野ファンの大先輩からご指摘を受けて、あらためて気づきました。

 幕末の薩摩藩門閥洋行組は、別格(格上という意味で)の町田家を除きまして、どうも加治木島津家関係者が多いようです。想像をたくましくすれば、です。密航留学に際して、島津織之助と高橋要が、どうしてもいやだと拒んだとき、村橋久成を誘ったのは、縁戚の新納刑部と畠山義成であった、かもしれません。
 将軍家の岳父となり、島津の豪奢を見せつけた蘭僻大名・島津重豪。彼にゆかりの深い加治木家、ということが、あるいは関係あるのでしょうか。

 加治木島津家は、今和泉、重富、垂水と並び、一門家と呼ばれる島津の分家で、一万石以上あり、宗家に跡継ぎがない場合には、跡継ぎを出せる格です。
 重年と重豪が宗家と重なっていますのは、一度、加治木に養子に出ていた重年が、兄の6代藩主・宗信の早世で宗家に戻り、息子の重豪に一度は加治木を嗣がせたのですが、結局正妻に男子が恵まれなかったような関係から重豪を戻した、というようなことです。


 なお、畠山義成が生まれた畠山家は、養子が入って血筋がかわってはおりますが、関ヶ原の合戦、島津の退き口で、島津義弘の身代わりとなって討ち死にした長寿院盛敦を祖としていて、幕末に生まれた義成も、それを誇りにしていたようです。

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薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上

2009年12月14日 | 幕末留学
岩下長十郎の死の続きです。

 えーと、ですね。今回、青山霊園を訪れましたのは、長十郎くんのお墓さがしもあったんですが、薩摩スチューデント路傍に死すで書きました、村橋久成のお墓にお参りする、という目的もありました。



右の方が、明治、行き倒れのニュースに衝撃を受けました開拓使人脈が募金を募り、建てられていた墓石のようです。さらに右の碑には、「残響」 (サッポロ叢書 (01))の一節が引かれています。こんなところへ、ようこそ、だったんですが、「残響」の著者でおられる田中和夫氏からコメントをいただき、もう、どびっくりだったんですが、お墓参りを、という思いは、それ以来のものです。
 いっしょにおりました、一般人(幕末オタクではない)のビール好きの友人は、この碑で初めて村橋を知り、「もっとちゃんと、サッポロビールが顕彰すべきよっ!!!」と叫んでおりました。



 で、今回、その友人だけではなく、桐野ファンの大先輩とブログに来ていただいた勝之丞さま、そして、アメリカから久しぶりに里帰りなさったtomoeさまがごいっしょで、みなさまのおかげで、無事、お参りすることができましたような次第です。なにしろ、青山霊園は迷路ですっ!!!

 ところで、tomoeさまは、留学生の一人、畠山義成の大ファンでおられ、なぜか知りませんが(あんまり書いた覚えはないのですが)、畠山義成で検索をかけると私のブログがヒットする確立が高いそうでして、gooホームの方にメールをくださっていたのです。ところが私、確かにgooホームを設定した覚えはあるのですが、ろくに見ておりませんで、長らく気付かないでいた、というボケぶり。
 まあ、ともかく、です。お知り合いになりまして、ごいっしょに、お墓さがしをすることとあいなった次第です。

 畠山義成につきましては、英仏世紀末芸術と日本人で、「(留学中)ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなんかとお茶したらしい」と書いたのが最初でしょうか。このときの私の畠山に対するイメージは、堅物一辺倒でして、「なにか、ラファエル前派のインスピレーションに、寄与するものがあったんでしょうか」と懐疑的な書き方をしていたものですから、fhさまが、下の写真と資料を送ってくださいました。えー、後期ラファエル前派にちなみ、ウィリアム・モリスの壁紙を使って加工しております。



fhさまは、「大礼服の着くずしが似合う男!」とおっしゃるのですが、私のイメージは、「ギムリ!」wiki-ギムリ)です。

ともかく、性格が高潔で、ノーブレス・オブリージュを実践していた、とでもいうんでしょうか。

私、薩摩スチューデント路傍に死すで、以下のように説明いたしました。

使節団として渡欧した、新納刑部、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之をのぞいて、留学生は当初16名。巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたように、町田四兄弟のうちの一人が、出発直前に発病し、最終的には15名になりますが、このうち、将来家老となるだろう島津一門の門閥から、町田民部(久成)、畠山義成、村橋久成、名越平馬の4人が選ばれていました。門閥出身で、もともと蘭学を学んでいて、一家中が渡欧を喜び勇んだのは、町田一家のみです。
薩摩門閥は、新納刑部や町田とうさんのような、蘭癖の開明派ばかりではありませんでした。ほんとうは最初、町田と畠山、そして島津織之助、高橋要が、門閥の跡取りで候補にあがっていたのですが、町田久成をのぞいた後の三人は、渡航を恥辱と感じて、拒んだといいます。
島津久光が、直々に説得し、ようやく畠山は承諾しましたが、あとの二人がどうしてもいやだと言い張り、代わりに急遽、門閥から選ばれたのが、村橋久成と名越平馬だったのです。
つまり、留学生メンバーの中で、畠山義成、村橋久成、名越平馬の三人のみは、渡欧するまで、蘭学とも英学とも、無縁でした。


 そうなんです。畠山は町田兄弟、村橋、名越とともに、「将来家老になりえる身分」でした。この名門の留学生たちのうち、村橋が最初に帰国。続いて、名越、長兄・久成をのぞく町田兄弟が帰国しまして(「巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2」参照)、慶応3年のパリ万博まで残っていましたのは、町田にいさん(久成)と畠山義成のみです。

 えーと、これまでに、ですね。薩摩の幕末外交に手を貸したローレンス・オリファントについては、幾度か触れたことがあるのですが、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2」で書きましたように、寺島に手を貸しましたちょうどそのころ、以前から傾倒していましたアメリカの神秘宗教家、トーマス・レイク・ハリスにはまりこむんですね。

 このハリス教団、退廃した既存の西洋近代キリスト教社会を否定し、私設修道院のような共同体で新しい自己を見出し、社会をも変えていこうというものでして、新世界アメリカ、そして東洋に人類の新しい息吹を見出す、とでもいったような理想をかかげていました。それで、オリファントとハリスは、日本人留学生に非常な期待を持ちます。

 いえ、オリファントとハリスは、留学生だけではなく、留学生の所属する藩(薩摩と長州)が新しい日本を作るものと期待し、その新しい日本が、自分たちの教団の影響のもとに成り立つものだとまで、夢想したんです。ハリスは渡欧し、パリ万博において、薩摩藩の代表である岩下方平に接触しますが、方平は相手にしませんでした。

 パリ万博まで、欧州に残っていた薩摩藩留学生は、町田久成と畠山のほか、イギリスに森有礼、鮫島尚信、長澤鼎、吉田清成、松村淳蔵、フランスに田中静洲、中村博愛なんですが、畠山を含むイギリスの全員が、ハリス教団に入るべく、渡米することになります。年長で、学頭だった町田久成が、渡米することなく帰国したところをみれば、これは推測なんですが、薩摩藩の方針としては、ハリス教団への入団は認めていなかったのではないんでしょうか。

 オリファントとハリスの誘い方は非常にうまく、ハリス教団で学校を創設するので働きながら学べる、というような約束であったらしく、渡米した6人は、かならずしも全員がハリスに傾倒していたわけではなさそうです。最初にはまった吉田清成と鮫島尚信、そして森有礼、年少の長澤鼎は、かなり深くハリスを信じていたようですが、松村淳蔵の場合はどうも、イギリスでかなわなかった海軍の勉強がアメリカならば可能なのではないか、ということがすべてだったような気がします。性格は実によさそうなんですが、おそらく非常な現実主義者で、理念よりも技術、石にかじりついても初心貫徹、といった感じを受けます。

 そして、畠山です。彼がなにを考えてハリス教団に入団したかについては、ずっと以前にfhさまからご紹介いただいた林竹二氏の論文があります。ご関心のある方は、ご覧になってみてください。

 森有礼研究 第二 森有礼とキリスト教

 畠山こそが、もっとも真摯に、西洋文明の根底に横たわるキリスト教と対峙したのだという、林氏のご見解はもっともだと思うのですが、私はもう一つ、畠山には高貴に生まれた者の責任感があったのではないだろうか、という気がします。
 町田久成が帰国した後、渡米してハリス教団に入ろうとしていたイギリス留学生の中で、畠山はもっとも藩での身分が高く、責任ある立場だったんです。それぞれにとってハリス教団がほんとうに自らを生かす道なのか、もしかして道を誤っていた場合、彼らのめんどうを自分は見なければいけない、という思いを、強く持っていたのではないでしょうか。

 アメリカに渡ってから後の畠山については、私はまったく詳しくありませんで、ぜひ、tomoeさまのサイトをご覧ください。

 kozo-web 畠山義成 みじかい半生の足跡

 で、ようやくお話が、tomoeさまとの畠山義成墓探しにもどるのですが、次回、その詳細と、tomoeさまからいただいた資料から推測されます畠山家の血脈の謎に迫ってみたいと思います。

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岩下長十郎の死

2009年11月25日 | 幕末留学
 (11月25日午前1時39分の最初の文章から、かなりの変更があります)

 突然ですが、先日の土曜日に青山霊園に出かけました。そして……、ないはずの墓石を見つけたんですっ!!!



 えー、これ、普通に見て、墓石の正面だと思いますよね? それが……、ちがうんですっ!!!



 上の写真の左に「岩下家」とあるのが墓石の正面でして、最初の大きく「巌下長十郎」と掘られた写真は墓石裏面なんです。
 逆光で、しかも焦っていまして、うまく撮れなかったんですが、上の写真正面の右から二行目には、「岩下方平 明治三十年八月十二日」と掘ってあります。岩下方平については、いく度か名前だけは出したことがあるのですが、wiki-岩下方平をご参照ください。死亡日が墓石とちがってはいるのですが。

 裏面に大きく刻まれた「巌(岩)下長十郎」は、岩下方平子爵の一人息子なんですが、側面に小さく掘られた父より早く、明治十三年八月十日に死亡しています。長十郎の妻・類は、東郷平八郎の長兄・実猗の娘さんだそうで、ということはおそらく(お妾さんの子でなければ)、海江田信義の妹・勢似の娘でもある、ということですが、墓石によれば、昭和6年8月16日まで生きておられたようです。

 えーと、ですね。つまり、青山墓地の岩下家の墓石は、おそらく、なんですが、まずは、若くして父・方平より先に逝った岩下長十郎の個人墓として、建てられたみたいなんですね。で、愛する息子に先立たれた方平は、がっくりして、「自分は息子の付録でいい、岩下家は長十郎がすべてなんだ!」とでも思ったりしたんじゃないんでしょうか。自分を筆頭に家族の名はみんな小さく、長十郎くんの墓石に名を連ね、長十郎くんの墓石を岩下家の墓石とするように、遺言でもしたのだろうか、とでも、推測するしかありません。
 もっとも、鹿児島にも岩下家のお墓はあるそうでして、あるいはそちらの方には、岩下方平子爵個人の墓石もあるのかもしれませんが。
 ともかく、なぜ、そんなことになったのか。

 岩下長十郎については、私、これまで、ほとんどなにも書いていません。「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」で、新納武之助(竹之助)少年の渡仏を書くにあたって、次のように述べただけです。

パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。

パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。


美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。

 このころ、長十郎くんがパリでなにをしていたのかは、さっぱりわからないんですけれども、田中隆二氏の『幕末・明治期の日仏交流』に明治5年ころに製作されたパリ留学生名簿が載っているんですが、それによれば、明治4年までの長十郎くんは、フブール氏に師事し、普通学を学んでいたとのことです。
 ところで、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟にあります西郷従道の渡仏には、中村博愛も同行していまして、当然、フランスに帰って来たモンブランと合流し、武之助くんや長十郎くんとも、会っているものと思われます。ただ、さがしているんですけれども、このときの従道の渡仏の記録には、めぐりあっていません。従道は、アメリカまわりで帰国しますが、その途中で、普仏戦争が勃発します。

 で、帰国した従道と入れ違うように、今度は大山巌が普仏戦争の観戦に出発していまして、こちらは渡欧日記があります。今回、国会図書館の憲政史料室で、その渡欧日記の実物を、見ることができました。時間がありませんでして、ろくろく解読できてないのですが、冒頭に、以下のような記述がありました。えーと、私のいいかげんな読み、書き写しですので、語句のちがいもあると思われますが。

明治3年8月25日
 ………今日大迫、野津両氏横浜に来たり同宿す。また信吾(従道)、中村宗謙(博愛)子同道にて来る。万事両人の世話に預かる。殊にこの両人は近日欧州より帰りくれば……


 ともかく、です。大山巌は帰ってきたばかりの従道と博愛の世話を受けて旅の準備をし、アメリカまわりでまずはイギリスへ、さらにプロイセン、そしてフランスへ入っているんです。この日記、後になるほど殴り書きで文字がくずれ、よく読めませんで、パリ着がいつなのかはわかりませんし、どういう状況なのかもわからないのですが、大山はパリで、長十郎くんと正名くんに会っているのは、確かみたいです。名前だけは、私にでもすぐに読みとることができましたので。普通に考えれば、1871年1月28日(和暦では明治3年12月末になります)のパリ降伏以降、明治4年の初めのこと、と思われます。
 
 そして、fhさまのところの「備忘 岩下長十郎3」によれば、長十郎くん、どうも、大山巌に会ってしばらく後には、帰国したようです。もしかして、大山とともに帰国したのか? とも思われますが、ともかくパリのあたり、大山の日記がちゃんと読めておりません。複写をお願いするつもりですので、それから、ですね。
 で、長十郎くんは、大久保利通のはからいで再び留学決定。とりあえずは、岩倉使節団にいて、大久保一家の通訳のようです。

 さらに、再びfhさまの「備忘 岩下長十郎」。大久保がアメリカから一時帰国をしておりますすきに、長州の山田顕義が長十郎くんを奪います。結局、兵部省に属することになって欧州に渡ったらしく、明治5年(1872年)8月18日、パリで、山田顕義とともに仏留学してきた陸軍兵学寮生徒の夕食会に参加しているそうです。
 もちろん長十郎くんは、大久保をはじめとするパリの薩摩藩出身者一同とも会っていて、大久保を囲む集合写真に写っています。



 このとき、21歳。凛々しく、端正なお顔立ちです。
 そして翌明治6年、長十郎くんは帰国して大尉となり、司法省においてボアソナード(wiki参照)の講義の通訳をしているそうです。
 で、明治7年8月には「御用有之欧羅巴へ差遣」という辞令が出ているそうでして、またも渡欧。以降、フランス語の能力を買われて、フランス式兵制をとった陸軍で活躍していたことは確かです。この7年以降は、アジ歴にかなり辞令などがあがっています。

文明開化に馬券は舞う―日本競馬の誕生 (競馬の社会史)
立川 健治
世織書房

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 上の本は、明治、馬匹改良と直結していた日本の競馬について書かれた本なのですが、明治10年ころから、宮内省、内務省、陸軍が競って、競走馬の生産、育成に力をそそいだ、といいます。陸軍の持ち馬で活躍したのは、ボンレネーと朝顔なんですが、「お傭いフランス人馬医・アンゴ A.R.D.Angot か、砲兵大尉岩下清十郎、あるいはその共同名義で出走」していたのだそうです。この「砲兵大尉岩下清十郎」「長十郎」のまちがいであることは、アジ歴の「参謀本部大日記 明治12年自6月至12月「大日記部内申牒2参水」にある「官馬拝借の処職務に難用引替願 陸軍砲兵大尉岩下長十郎 参謀本部長山県有朋殿」などの書類で証明できます。
 つまり、どうも長十郎くんは、馬匹改良にもかかわっていたようなのです。

矩を踰えて―明治法制史断章
霞 信彦
慶應義塾大学出版会

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 上の本には、短いながら、「異色の陸軍刑法編纂官」という章があり(fhさまの「備忘 岩下長十郎」『書斎の窓』466、1997年「明治史の一隅を訪ねて 法典近代化の先駆けとして-岩下長十郎-」と同じものです)、長十郎くんを「法典近代化の一端を担った人物」と評価しています。えーとですね、明治9年、陸軍刑法を新しくするための「軍律取調」がはじまったのですが、その11名の取調メンバーの一人に、長十郎くんが任命されているんですね。もちろん、フランス語の能力を買われてのものです。ところが、明治14年末に陸軍刑法が完成したとき、長十郎くんは功労者に連なってはいませんでした。不慮の死を遂げていたからです。
 明治13年8月12日付の東京日々新聞は、次のように報道しているそうです。
 長十郎くんは横浜のスイス時計商の夜会に招かれ、その帰りに、某国人と連れだって海岸へ行き、「我らが水泳を見せ申さん」と、衣服を脱いで海に飛び込みました。ところが、いつまでたっても浮かんでこないので、巡査に知らせて篝火を焚き、懸命に探したのですが見つからず、翌朝になって、波止場のわきに遺体が浮いていたのです。

 享年、29歳。妻と幼子を残しての若すぎる死でした。
 再々度、fhさまの備忘 岩下長十郎2。10年後までも、薩摩人の間で語りぐさになっていた悲劇だったんです。
 霞信彦氏は、「『過去帳』は、岩下(長十郎)が『青山』に埋葬されたと述べていますが、それを現在の青山霊園と解するとき、岩下長十郎の奥津城をかの地に見出すことはできません」と述べておられるのですが、私、とあるサイトさんで「岩下子爵の墓は青山霊園にある」とお教えいただき、父親の墓があって、先立った愛息の墓がそばにないわけがない!!!と思い、さがしに出かけたような次第です。


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町田清蔵くんとパリス中尉

2008年02月19日 | 幕末留学
「フランス艦長の見た堺事件」
ベルガス・デュ プティ・トゥアール
新人物往来社

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 以前にも書いたと思うのですが、鳥羽・伏見の戦いは、兵庫(神戸)・大阪開港と近接してまして、各国公使団の見守る中で、行われました。
 ああ、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1ですね。
 ほんとうは、この話も、モンブランシリーズで順を追って詳しく書くはずだったんです。
 鳥羽・伏見の直後、発足したばかりの京都政権が直面した異人殺傷事件は、京都へ向かっていた備前藩の戦列が神戸で発砲した神戸事件にはじまり、それがなんとか解決しかかったかと思うまもなく、堺港攘夷事件と続きます。
 この堺港攘夷事件、堺港で測量をしていたフランス軍艦の乗組員が、外国人に遊歩許可が出ていた堺に上陸しましたところが、堺警備の土佐藩兵が発砲し、11人のフランス人を撃ち殺した、という事件でして、神戸事件には死者がなく、発砲命令責任者一人の切腹ですみましたのに、11人の死者という異例の事態に、フランスだけではなく、各国公使が態度を硬化させ、「殺害者を処分しろ」という話になりまして、結論だけ言いますと、11人の土佐藩士が切腹したんです。
 殺されたフランス人の水兵さんたちも気の毒ですが、土佐の兵隊さんも、発砲命令を出した隊長級以外は軽輩だったそうで、命令に従っただけですのに、気の毒です。
 まあ、これは改めて詳しく取り上げたいと思いまして、といいますのも、この事件の一級史料の一つである伊達宗城の「御手帳留」が刊行されていませんで、容易に読めないんです。
 いずれ、宇和島へ出かけて見てくるつもりでいます。
 ともかく、事件の後始末にはモンブラン伯爵がかかわっていますし、私、思いますに、大正のはじめ、森鴎外がこの事件を取り上げて、攘夷気分を盛り上げる小説にしまして、こう、幕末維新期のフランスが卑怯な悪鬼であるような見解がひろまり、モンブラン山師伝説にも影響したんじゃないんでしょうか。

 で、今回取り上げます「フランス艦長の見た堺事件」の著者、ベルガス・デュ プティ・トゥアール艦長は、まさに堺事件の渦中の人で、彼が艦長を務めるデュプレクス号の乗組員が殺され、彼は土佐藩士の切腹に立ち会いました。
 と、いいましても、今回はこの本に付録として載っておりますパリス中尉の手記の方の話題で、中尉こそがその測量船の指揮をとっていたのですが、手記の方は、事件の直後、明治天皇に謁見しますロッシュ公使と艦長たちのお供として、中尉が京都を訪れましたときのお話です。

 これもいずれ詳しく書くつもりですが、薩摩藩は、鳥羽伏見の戦いの前から、周到に外交準備をしていました。
 五代友厚、寺島宗則とともにモンブラン伯爵をひそませていて、ただちに各国公使に新政府を認めさせる布石を打っていたのです。
 にもかかわらず、次々と事件が起こってしまったのは、なぜなんでしょうか。
 私、外国人に対する薩摩藩内と他藩の感覚が、ちがいすぎたのではないか、と思うのですね。
 いつものfhさまのこれ。
 すみません。うちこみがめんどうなので、リンクさせていただきます。
 慶応3年の話です。いつの時点かは、ちょっとわかりません。
 忠義公史料の編者は、5月頃と思っていたようですが、モンブランが連れてきたフランス人たちが入り込んでいるとすれば、おそらく11月ころです。
 薩摩の隣国、熊本の横井小楠は、「薩摩には外人が数人入っているし、薩摩藩の若いのはたいてい洋服を着て、ざんぎり頭だよ」と言っています。
 そして、慶応3年の7月30日には、小松帯刀など家老の名前で、薩摩藩内にお触れが出ています。
 「わが藩では、西洋各国の事情がわかり、学問や技術を日々新たにしているわけだが、西洋のうわべばかりに気をとられていては、国を盛り立てる道を失ってしまう。いいところは取り入れても、わが日本の本質は見失わないように」
 
 はい、そうなんです。
 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、慶応2年(1866)の9月には、イギリス公使パークスが薩摩を訪れまして、それ以降、イギリスの軍艦が再び鹿児島湾へ入ったりしておりますし、グラバーの世話で紡績工場ができ、イギリス人が常時滞在するようにもなりました。
 で、英国留学生も、次々に帰ってきております。
 私、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2で、書きたかったんですけど、長くなりすぎたので、省いたエピソードがあります。

 私の愛する清蔵くんは、巴里のリヨン駅で、下宿のお嬢さんと涙ながらに別れ、豪華客船でオランダ海軍一家の少年と親友になり、大金を持って長崎に帰り着いて、薩摩藩長崎留学生に丸山遊郭へつれていかれて、おごらされます。
 これではいけない、というので、薩摩へ帰ることになったのですが、薩摩藩領の阿久根までは船で、そこから騎馬です。

 私は洋服で腰に六連発のピストルを帯し、馬上にて岩崎は籠にて出立しました。

 えーと、なにしろ清蔵くんは名門のおぼっちゃまですから、「岩崎」はお供なんですが、お供が籠で、清蔵くんは馬だったようです。


 しかるに途中、長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途にて、私が洋服にて無刀であり、其の時までは攘夷論者のおる時ですから、其の武士が抜刀して私を切らむ姿勢で向ひましたから、私は残念で泣きながら腰の六連発のピストルを差し向け、切らは切れわれはピストルでいると云ふかまえへにて、「自分は大守様の命により先年英国に留学し、今帰藩の途中、清水兼二郎、本名町田清次郎という、大目付町田民部(久成にいさんです)が実弟なり。何故あって我を切らんとせらるるや、御名前をうかがひ大守様へ言上する考」と言うに、向こうの勢一変し、無言にて一散に走りましたから、私は実に残念で跡を追ひましたが、追いつかず、伊集院というところにきますと、私の兄の用達を勤むる藩士で、大脇正之助という者と出会いまして、右の始末を語り「ぜひ右の武士の名前を調べてくれ」と申しますと、「それはおだやかに見のがした方がよろし」と言うて、それより跡先に大脇と岩崎との間にはさまれ鹿児島城下に着し、一家親族の見舞やら親族に呼はるやら五六日は席の暖まる間もなき事にて、それから親が志布志というところの地頭所に打ち立ちましたが、このときは慶応四年にて奥州征伐戦中にてありました。

 どうもその、清蔵くんの帰国後の話には、えらく時間の短縮があるようでして、清蔵くんが長崎へ帰りつきましたのは、慶応2年 の秋ころのはずなんですが、突然、慶応4年(明治元年)の夏に話がとびます。
 このまま年代を信じますと、清蔵くんは帰国後2年間長崎にいたことになり、当然、慶応三年の秋に来日したモンブランには長崎で会っていた、ということになります。
 そして、「長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途」というのは、戊辰戦争の出兵から帰って来た兵隊たち、ということになるんですが、九州内の薩摩の出兵は、たしか郷士隊だったはずなので、田舎の兵隊さんがよそへ行っていて帰ってきてみたら、「異国人が内陸にまで入ってきてら、許せん」とでもいうことだったんでしょうか。
 それにしても、「斬ってやれ!」と迫ってみたら、「ぼくをだれだと思っているんだあ!!!」と叫ばれて、自藩の名門のおぼっちゃまでは、やってられませんね。
 清蔵くんはともかく、他の留学生は、維新前に鹿児島城下に帰っていた者もあったはずですし、fhさまのおっしゃるように、清蔵くんみたいに洋装で帰ったものも、きっといたはずです。

 そして、これも後年の回顧なんですが、有馬藤太の「維新史の片鱗」から。

 29歳のとき、すなはち慶応元年磯御邸紡績所開設につき、教師の英国人監督の命令を受けた。
 攘夷家をもって自任している私には、非常な苦痛であった。
 知るも知らぬも皆、「藤太どんな夷人の共をして歩く」とそしったもので、私もこれには誠にツライ思いをしたけれども、いったん拝命の上は私自身でこの英人を斬るようなことはできない。
 また一方においては、攘夷論の張本人と目さるるほどの私が、おとなしく監督してがんばってる以上、何人たりとも手出しは出来ぬ。藩ではそこを見てとって、わざと私に監督を命じたのだ。

 紡績所開設は、慶応2年か3年のはずで、ちょっと時期が早いですし、こう、話をおもしろおかしくしているようなところがあるんですが、少なくとも鹿児島城下では、「攘夷家」も慣らされていった様子は、うかがえます。
 で、慶応3年には、「あんまり西洋のまねばかりしないように」とお触れを出すような状態ですから、異人と見れば発砲をためらわない、というような他藩の状態は、五代友厚をはじめ、寺島宗則にも、小松帯刀にも大久保利通にも西郷隆盛にも、ちょっと想定できずらかったのではないか、と思ったりします。

 で、ようやく、土佐藩兵の攻撃を受けたパリス中尉です。
 パリス提督のおぼっちゃま、若きフランス海軍中尉の手記は、なかなかに詳細で、おもしろいものです。
 なにしろ、堺事件の直後です。
 もっとも襲われる危険の高いフランス公使一行を、薩摩藩が引き受けます。
 これは、一つには、薩摩藩の京都二本松藩邸(相国寺と現同志社大学構内を含む)が広大で、御所に近接していたことと、またモンブラン伯爵がロッシュ公使を説得して、帝への謁見を承知させたらしいこと、そしてもちろん、薩摩藩兵が守護している異人に手を出す命知らずも少なかろう、ということもあったでしょう。
 で、現実には土佐が引き受けていたイギリス公使が襲われてしまったわけなのですが、それはまた別の機会に。

 パリス中尉は、謁見ができるわけではありませんで、ロッシュ公使と艦長二人のお供です。
 どうも京都は、禁門の変の打撃から立ち直っていなかったようでして、大阪にくらべると、ずいぶんさびれた感じであったようです。
 二本松藩邸で一行を迎えたのは、モンブラン伯爵です。洋食も準備されていたりします。
 パリス中尉一行は、40人の水兵を連れていたのですが、午前中、水兵たちが訓練をしていましたところが、薩摩の老練な司令官(吉井友実のことじゃないか、と思われます)がそれを見ていて、薩摩侯(島津忠義)に感想を話したらしいのですね。
薩摩候は、「演習を見せてくれ」と所望。

 そこで、狙撃兵の演習が展開された。
 薩摩候は、細心の注意を払ってそれを見守っていたのであるが、このことを他の大名たちに魅力たっぷりに話して聞かせたらしく、その翌日、長門候(毛利敬親)および数人の諸侯が居並ぶ前で、同じことをくりかえさねばならなくなった。

 軍事熱心なのは諸侯だけじゃありませんで、パリス中尉によれば、二ヶ月前から「肥前候の所有する日本のコルベット艦」が、パリス中尉が乗り組んでいましたデュプレクス号の近くに投錨していまして、肥前、つまり佐賀のコルベット艦の将校たちは、毎日のようにデュプレクス号を訪れ、そこで行われることを観察しては、そっくりそれをまねして、「大砲と機動作戦の訓練」をやりこなしたんだそうです。
 私、佐賀の中牟田倉之助(この人も長崎オランダ海軍伝習を受けた人です)が、幕府海軍がすでに軍艦として使っていなかった朝暘丸を使いこなし(幕府海軍は役に立たないと思ったから官軍にひきわたしたわけでして)、函館戦争で活躍したことを不思議に思っていたのですが、まあ、そういうようなわけだったみたいです。もっとも朝暘丸は、佐賀がもっていた電流丸と同型で、勝手がわかっていたこともあったでしょうけれど。(朝陽丸wiki参照・私が書いた部分が多いのですが)
 で、パリス中尉に話をもどしますが、清蔵くん、帰国して、長崎にずっといたのでしょうか?
 モンブラン伯の長崎憲法講義で書きましたように、長崎で、清蔵くんがモンブランに会わない方がおかしいわけです。
 そして、慶応4年(明治元年)の5月ころまで、中村博愛はパリにいましたから、モンブランが、生まれたばかりの明治新政府外交顧問となっていましたこの時もやはり、日本にいた薩摩藩フランス留学経験者は、朝倉と清蔵くんのみで、朝倉省吾はこのとき、モンブランの通訳についていた証拠があります。
 清蔵くんも、京都でモンブランの手伝いをしていておかしくないかと、思ったりするんです。で、以下。

 われわれの京都での滞在の残りの二日間は、買い物や見物に充てられた。
 また、われわれを持て成してくれた人々とより広く知り合うこともできた。
 あの老練な司令官に加えて、いつもわれわれと一緒にいた若い将校がその一人であるが、私が今まで出会った日本人の中で、彼はもっともヨーロッパ化された男で、ワイシャツを着、付け外しできるカラーを付け、フロックコートを羽織っていたのである。
 下着類を使用するなどということは、彼の同郷人らには思いもつかぬことだった。金のある連中は、頻繁に衣服を取り替え、古くなったものは捨て去るが、そうでない連中は、いつまでも同じ服を着続け、自分の体を頻繁に洗うことによって、洗濯不足を補っているのである。

 この身だしなみのいい「若い将校」が、清蔵くん以外のだれだというのでしょう?(笑)

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団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航

2007年04月17日 | 幕末留学
「団団珍聞」と書いて、「まるまるちんぶん」と読みます。明治10年に創刊された、絵入り風刺週刊誌でした。
明治8年(1875)に布告された新聞紙条例と讒謗律により、政府批判は牢屋入り状態でしたので、当時の新聞は○○(まるまる)という伏せ字だらけで、それを風刺した誌名だったのでしょう。
この「団団珍聞」を発行していたのは、野村文夫。幕末において、安芸(広島)藩でただ一人、密航留学を企て、薩摩や長州、肥前の密航留学生とともに、スコットランドで学んだ人です。

「団団珍聞」(まるまるちんぶん)「驥尾団子」(きびだんご)がゆく

白水社

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今回の参考書は、木本至氏著の上の本と、アンドリュー・コビング氏著『幕末佐賀藩の対外関係の研究』(鍋島報效会発行)、犬塚孝明氏著『明治維新対外関係史研究』(吉川弘文館発行)です。

幕末、最初に密航留学を企てたのは、長州藩士です。文久3年(1863)、イギリスへ向けて、のことでした。
伊藤博文、井上馨の二人は、翌年、四国連合艦隊の長州攻撃を知り、それをとめるために帰国します。
残されたのは、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の三人でした。
これはもちろん、藩の許可を得ての藩費留学だったのですが、攘夷論が渦巻く藩内では秘密にされていましたし、なにしろ長州藩の旗印が攘夷なのですから、幕府の禁制に逆らっているから、というよりも、藩としての事情から、こっそりと行われたものです。したがって、資金も潤沢ではありませんでしたし、横浜から上海まではジャーデン・マセソン商会の貨物船で、上海から先も、小型貨物船に分乗しての渡欧でした。
しかし、この渡欧航海においては、だれも日記を残しておりませんし、伊藤や井上などの後年の回顧談から、事情が知れるのみ、であるようです。

続いた、慶応元年(1865)、薩摩藩のイギリス密航は、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、薩摩藩としては、外交使節をも兼ねた特異なものでした。
外交使節であるならば、格式が必用です。新納と五代が滞在していたパリのホテルは、幕府使節団も使っていた超一流ホテルですし、香港からの船旅も、幕府使節団がそうであったように、客船の一等船室です。
しかし、あたりまえなのですが、幕府のご禁制を破っていながら、薩摩藩のように派手に、留学生を送り出した藩は、他にはありません。
この年には、長州藩がさらに、竹田傭次郎(春風)、南貞助、山崎小三郎の三人の密航留学生を、イギリスへ送り出しています。南貞助は高杉晋作の従兄弟で、高杉が中心になって計画した留学だったのですが、ロンドンでの留学生は、学費どころか、生活費にも窮乏していた様子が伝えられていますので、これも、おそらくは貨物船だったでしょう。
慣れない環境で、食事、暖房費にも事欠くような生活がこたえたのでしょう。山崎は、ロンドン到着後、まもなく病死しています。

さて、この慶応元年、薩長のイギリス密航留学を知り、とてもうらやましく思った人物がいました。
肥前鍋島藩の石丸虎五郎です。石丸は、長崎でオランダ海軍伝習を受けた後、長崎英学伝修生となり、安政6年(1859)から英語を学んで、グラバーと親交がありました。いえ親交といいますか、グラバーと肥前藩との取り引きにも、当然、関係していました。
肥前藩は、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1で書きましたように、海軍熱心で、洋学を吸収することでは薩摩藩の上をいっていましたが、幕府に協力的でしたので、幕府の欧米使節団に藩士を随行させることもけっこうありました。
とはいえ、長期留学ではありませんし、この時期の幕府の留学は、オランダのみです。
石丸は、オランダ海軍伝習以来、五代友厚と親交がありましたので、すでに五代から直接話を聞いていた可能性もありますが、詳しくはグラバーから、五代の企てが成功したことを聞き、自分も行く! と、決心したようなのですね。
しかし、一人では心細いので、同じ肥前の長崎英学伝修生、馬渡八郎を誘います。馬渡は喜んで応じ、脱藩イギリス密航となったのです。とはいえ、後年のグラバーの回顧談では、「肥前の殿様に頼まれて」となっていて、おそらくは、幕府をはばかった肥前藩が、脱藩の形をとらせて黙認し、ひそかに支援したものでしょう。一応、費用はグラバーの援助となってはいるのですけれども。

これを聞きつけ、自分も混ぜてくれ! と申し出た安芸藩士がいました。野村文夫です。
野村は、安芸(広島)藩の藩医の家に生まれ、安政2年(1855)から、大阪にあった緒方洪庵の適塾で、蘭学を学びました。
同時期の適塾には、野村より二つ年上の福澤諭吉がいます。
福沢は、幕府の最初の遣米使節団にもぐりこみ、その後、幕府外国方に傭われて、文久2年(1862)、第一回遣欧使節団にも参加していました。薩摩の寺島宗則も随従していたものです。
福沢が、そうした経験をもとに、『西洋事情』を出版したのは慶応2年のことで、ベストセラーになるのですが、あるいは適塾のつながりから、野村はすでに、そのような話を、伝え聞いていたかもしれません。

話がとびましたが、文久2年(1862)、適塾が江戸へ移ったのをきっかけに、野村は藩へ帰り、安芸藩では数少ない洋学者として、重用されるようになりました。この年、安芸藩は、長崎で蒸気船を購入することになり、野村は、その購入を任されます。元治元年(1864)、この蒸気船修理のため、野村は再び長崎を訪れ、そのまま英学修行に励んでいて、五代友厚とも親交を持ちましたし、石丸とも知り合ったのです。

石丸虎五郎、31歳。馬渡の年齢はわかりませんが、野村は29際。数えでいうならば30です。薩摩藩留学生にくらべると、けっこう年がいったトリオです。
野村の場合も、脱藩の形をとりましたが、おそらくはこれも、藩の黙認を得ていたものなのでしょう。
ともあれ、石丸、馬渡、野村の貨物船密航航海の様子が詳細に知れるのは、野村のおかげです。筆が立った野村が、日記をつけていたのです。
そうです。この三人も当然、費用節約、グラバーの所有する貨物帆船チャンティクリーア号で、長崎からロンドン直行の船旅です。

なにしろ長崎は幕府の天領ですから、三人は日が暮れてから密かに船に乗り込み、出帆まで、船底に隠れていました。
それから後も、三人の密航の旅は苛酷です。客船とちがって、寄港地での上陸、見物はいっさいありません。途中で、食料積み込みもあるのですが、その際も短時間ですませ、下船はなし、なのです。
しかし、脱藩辞せずの覚悟で密航したこの三人、さすがに勉強熱心です。
船長室において、航海術、語学、算術の学習をはじめたのですが、算術では、水夫の中に、フレデリックという名で、非常に優れた少年がいて、毎夜のように、講義をしてもらったようです。
野村は、フレデリックの資質に驚き、船長に聞くと、船長は「ミンストル(執政職にしておよそわが幕府の大老中にあたれり)の子なり」と答えた、というのですが、ミンストルはさておき、船長をめざすような、けっこういい家の息子で、航海実習をしていたのかもしれないですね。

野村にとって、洋食は苦にならなかったようなのですが、なにしろ貨物船ですから、食べ物の種類が少なく、飽きてしまいますし、そこへ船酔いが加わり、病気になったそうです。しかし、石丸、馬渡の肥前ペアーは、食欲旺盛で、元気でした。
なによりも苦痛だったのは、入浴ができないことで、野村によれば、三人とも牢屋の囚人のような汚さで、「浴湯で結髪して更衣するのほか欲願なし」でした。

スマトラ島の近くには、危険な暗礁がありました。文久2年(1862)10月ですから、3年前、幕府オランダ留学生を乗せたオランダ船カリプソ号は、ここで座礁していました。
船長は、その危険を避けるため、遠回りしてバンカ海峡を通ることにしましたが、ここには海賊がいます。船の砲が引き出されて、火薬が用意され、現地司令官から、日本人三人にも、帯刀してくれと、要請がありました。幸いにも無事、なにごともなく通過しましたが、貨物船の旅は、スリリングです。

チャンティクリーア号は、喜望峰をまわりました。
野村は、世界地誌を熱心に読んでいたようで、喜望峰を知っていました。その風景を見ることを熱望していたようなのですが、残念ながら、沖合の航路で、まったく見えなかったようです。
ここで野村は、文久の遣欧使節団がスエズを通ったことを指摘し、………スエズといっても運河はまだ完成していませんから、一度上陸して陸行するんですが、いえねえ、使節団は豪華客船なのですからスエズ経由があたりまえで………、喜望峰を通ったのは、「一、二の脱走、あるいは漂流の輩あるのみ」と、自負を持って記しています。
「脱走」は、長州藩士の密航留学でしょう。
しかし、アンドリュー・コビング氏は、ポウハタン号でアメリカに渡った幕府遣米使節団が、アメリカからの帰路、ナイアガラ号で、大西洋から喜望峰をまわって帰国したことと、先にも述べました幕府オランダ留学生たちも、喜望峰まわりであったことを、述べられています。両方とも、いわばチャーター船でした。
ところで、福沢諭吉は遣米使節団に参加していますが、正使に随行したわけではなく、護衛船の咸臨丸乗り組みで、サンフランシスコから太平洋を引き返しましたので、喜望峰はまわっていません。
かんぐりすぎかもしれませんが、野村が、文久の遣欧使節団をわざわざあげているのは、もしかすると、福沢諭吉を意識してのことではないか、と、感じます。
ちなみに野村は、帰国後の明治2年『西洋聞耳録』を出版していて、ベストセラーとなっていますが、これも、福沢の『西洋事情』を意識したものではなかったか、と思えるのです。

百日にあまる航海の末、1866年(慶応2年)陽暦3月下旬、チャンティクリーア号はロンドンに入港しました。
三人の留学生は、スコットランド・アバディーンのグラバーの実家の世話で留学生活を送ることが決まっていましたが、船長が連絡をとりましたところ、直接来るようにとのことで、ロンドン滞在は二日間のみ、アバディーン行きの客船に乗り換えることとなりました。
三人のロンドン到着は夜でしたが、その翌日には新聞記事となり、野村たちがチャンティクリーア号の甲板に出ると、岸辺には、見物人が鈴なり、だったと言います。
その新聞記事を読んだのでしょう。当時、ロンドンにいた薩摩藩留学生たちも、野村たちのことは知っていました。
後年の回想ですが、海軍中将松村淳蔵洋行談では、「カラバの世話にて肥前人、石川虎五郎、馬渡八郎の二人来りしが、スコットランドの方へ赴きたり」となっていて、野村の名はぬけ落ちているのですが。

たった一日でしたが、三人はロンドンに上陸し、見物しました。
野村は、肥前の二人と別れ、一人きりの見物です。
薩摩留学生たちのように、洋服を買う機会も、仕立てる暇もありませんでしたから、和装です。両刀をさしています。
野村は、疲れると、道端で煙草を一服したらしいのですが、そのたびに見物人にとりかこまれました。わけても腰の刀が、注目の的だったようです。
ロンドン塔を見物しようとして、門番の衛兵に追い出されましたが、野村はまだ、風呂に入っていません。どろどろの牢屋の囚人のような状態では、仕方がなかったかもしれませんね。

さて、その日の夕方、三人は、アバディーン行きの客船に乗り込みました。
まずは、客船の豪華さに驚きます。いや、まあ、なにしろずっと、貨物船でしたから。
野村は、アバディーンに住む三人の子連れのご夫人と、すっかり仲良くなり、話し込みます。
えーと、まだ風呂に入っていませんで、私としましては、それが気になるんですが。
アバディーンに到着してすぐ、グラバー(長崎のグラバーの兄)は三人に古着を買ってくれまして、着替えて洋装になるとまもなく、長州の竹田傭次郎がやって来ました。学費に困っていた竹田も、グラバーの世話になっていたのです。竹田は、勝海舟の門人で、野村と共通の知り合いがいたようです。
続いて三人は断髪し、そして、ようやく風呂に入りました。

翌日の午後には、最年少の薩摩密航留学生で、グラバーの実家の世話になっていた長沢鼎が訪ねて来ました。
野村たちは、長沢から、イギリスにいる薩摩、長州の密航留学生の話を聞きます。山崎小三郎の死と、そして、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で、清蔵少年がその経緯を語っておりますが、山尾庸三がグラスゴーにいる、という話も、です。
野村は、わずか13歳の長沢が、あまりに流暢に英語を話すことに、驚きもしました。

アバディーンにおいて、野村は一人で部屋を借りて住みますが、勉強は、石丸、馬渡の肥前ペアといっしょでした。
肥前ペアは、慶応三年、パリ万博に参加した肥前藩に手伝いを命じられ、フランスへ渡りますが、野村は、同年の9月までアバディーンに滞在し、ひと月の間に、イギリス各地を見て回ったあと、ロンドンからパリに渡りって博覧会見物。再びイギリスに帰って、10月18日、帰国の途につきました。
復路は、ゆっくりと方々を見物してまわったのでしょうか。半年にあまる旅で、長崎帰着は慶応4年(明治元年)の4月27日。すでに、幕府は倒れようとしていました。

帰国後の野村は、安芸藩でますます重用され、藩の洋学校教官も務めますが、明治3年、明治政府から出仕要請があり、東京へ出ます。当初は民部省でしたが、翌年廃止となるとともに、工部省(当初は工務省)に転じ、明治8年までいるんですが、工部省は、グラスゴーにいた長州の山尾庸三の提唱でできたわけでして、竹田傭次郎も所属しています。長州閥スコットランド仲間の引きだったんですね。
明治8年、内務省に転じた野村は、明治10年に退職し、団団社を創立します。
官吏時代の高給で、東京都内の土地を数千坪にわたって購入し、蓄財はできていました。

それで、というわけでもないのでしょうけれども、団団珍聞の風刺は、薩摩閥に向けられたものが多かったようです。
やがて長州閥への風刺へも向かうのですが、なんといっても、団団珍聞が精彩を放ったのが、薩摩スチューデント、路傍に死すで書きました、黒田清隆妻殺しの話なのです。なにしろ絵入りですから、読者への訴えも強烈です。
木本至氏は、後年の千坂高雅の証言をあげられ、「団団珍聞は相当深く真相を知っていて」、狂画を載せたのではないか、とされていますが、当時、内務省の高官だった千坂の家が、黒田の家に近く、千坂の娘が、黒田の妻の妹の親友だったと聞けば、「蹴殺した」という千坂の証言も信憑性を帯びてきます。
野村文夫は、内務省で、千坂高雅の同僚だったのです。

さらに、薩摩スチューデント、路傍に死すで出ました、「いったい、新聞「日本」に情報をよせ、村橋を悼んだのは誰なのか」という疑問なのですが、実は新聞「日本」は、野村文夫の奔走による援助で、明治22年に創刊されたものなのです。
ただ、村橋久成の追悼記事が出た明治25年10月の、ちょうど一年前、野村文夫は、すでに世を去っていました。
とはいえ、援助してもらった陸羯南が、野村文夫の人脈と、関係がなかったとは思えません。
山尾庸三ではなかったでしょうか。
山尾庸三は、あきらかに、ロンドンで村橋久成に会っています。町田清蔵少年の後年の回想がまちがっていなければ、山尾のグラスゴーまでの旅費を出した薩摩留学生の中に、村橋もいます。
青春の日の異国での出会いは、山尾にとっても忘れがたいもので、陸羯南に感慨を語り、陸羯南が記事にしたのではないかと、そんな気がしてなりません。


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薩摩スチューデント、路傍に死す

2007年04月15日 | 幕末留学
明治25年10月、神戸の地方新聞に、神戸市役所が小さな死亡広告を出しました。
半月前、神戸の場末で行き倒れた旅人の、身元がわからなかったのです。
付近を巡回していた巡査が、この男が倒れているのを見つけ、警察署へ運んで介抱し、身元を聞きます。男は最初偽名を使っていたのですが、やがて村橋久成という本名と、妻子の名、そして鹿児島の住所を告げます。
市役所に引き取られ、医者が呼ばれますが、病が重く、すでに手遅れで、発見から三日後、男は息を引き取りました。
ところが、問い合わせてみたところ、村橋久成という男が告げた鹿児島の住所に親族はおらず、身元がわからないまま、遺体は仮埋葬され、神戸市の新聞告知が出たわけです。

地方紙のこの小さな記事に、陸羯南が主催する新聞「日本」の記者が目を留め、雑報欄に「英士の末路」という記事を載せました。正岡子規が「日本」に入社する直前のことで、あるいは、陸羯南自身が書いたものかもしれません。
ともかく、新聞「日本」の周辺には、村橋久成の経歴を、かなり詳しく知る人物がいたのです。

「この行倒人、村橋久成とは、そもいかなる人の身の果てなるや。またこれ、当年英豪の士ならんとは、聞くも憐れの物語なり。また新子の語を聞けば、村橋氏は鹿児島藩の士族にして、薩摩一百二郷の内、加治木領主の分家なり。維新前、薩摩藩主が時勢のおもむくところを看破し、藩士中最も俊秀の聞こえある少年十名を選抜して、英京ロンドンに留学せしむべしとて、甲乙と詮索ありし時、村橋氏もその十指の中に数えられ、故の鮫島尚信、森有礼、吉田清成、今の松村淳蔵の諸氏と、串木野の港より船出して、八重の潮路を名誉と勇気に擁護せられ、英国に渡航し、蛍雪苦学の結果も見えて、前途きわめて多望なりしが、留まること一年ばかりにして、不幸にも他の二、三の学友と共に召還せられし」

村橋久成は、薩摩藩密航留学生の一人でした。
使節団として渡欧した、新納刑部、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之をのぞいて、留学生は当初16名。巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたように、町田四兄弟のうちの一人が、出発直前に発病し、最終的には15名になりますが、このうち、将来家老となるだろう島津一門の門閥から、町田民部(久成)、畠山義成、村橋久成、名越平馬の4人が選ばれていました。門閥出身で、もともと蘭学を学んでいて、一家中が渡欧を喜び勇んだのは、町田一家のみです。
薩摩門閥は、新納刑部や町田とうさんのような、蘭癖の開明派ばかりではありませんでした。ほんとうは最初、町田と畠山、そして島津織之助、高橋要が、門閥の跡取りで候補にあがっていたのですが、町田久成をのぞいた後の三人は、渡航を恥辱と感じて、拒んだといいます。
島津久光が、直々に説得し、ようやく畠山は承諾しましたが、あとの二人がどうしてもいやだと言い張り、代わりに急遽、門閥から選ばれたのが、村橋久成と名越平馬だったのです。
つまり、留学生メンバーの中で、畠山義成、村橋久成、名越平馬の三人のみは、渡欧するまで、蘭学とも英学とも、無縁でした。村橋久成は天保13年(1842)生まれでしたから、渡欧時、数えの24歳。
しかし、英国で写した薩摩藩留学生の集合写真の中で、村橋はきわだって洋装が似合っています。
きりりと引き締まり、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちで、姿勢がよく、ポーズのつけかたがまた粋です。

これも巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたが、留学生の中で、最初に帰国したのが村橋です。慶応2年3月28日(1866年5月12日)、寺島といっしょの帰国で、滞欧一年に満ちていませんでした。
SAPPORO FACTORY 開拓使麦酒醸造所★物語の5.幕末の英国留学生(ここに村橋の写真もあります)、によりますと、帰国の理由は、以下だそうです。

もともと感受性のするどい村橋が、激しいカルチャーショックをうけてふさぎこみ、「留学の続行が危険な状態」にまでおちいったことが、使節として同行した新納刑部の書簡などから明らかになっている。

これを読んで、手持ちの書簡集を見返してみたのですが、その部分を発見することは、できませんでした。
ただ、まったく洋学の素養を持たず、名門の御曹司として薩摩で成長し、突然、藩命で洋行したのだとすれば、たしかに、すさまじいカルチャー・ショックを受けたのでしょう。

SAPPORO FACTORYの村橋のお話は、以下の西村秀樹氏の著作から抜粋されたものです。

夢のサムライ―北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成

文化ジャーナル鹿児島社

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この本では、これまで知られていなかった村橋久成死後の逸話が、ご子孫が大切に保存されていた文書から発掘されていまして、あらためて、村橋の死によって、薩摩開拓使人脈に走った衝撃を、まざまざと甦らせてくれています。
今回は、この本を参考に、書かせてもらっています。

村橋と寺島の帰国の航海は、ロンドンから上海までが定期客船、そして上海から、おそらくはトーマス・グラバーが関係していただろう、イギリスの帆船に乗ります。この船で二人は、陸奥宗光と出会うのです。
またいつものお方が、寺島宗則自叙伝のコピーを送ってくださいまして、以下、そこからの引用です。
「該船に、陸奥宗光および薩人林多助あり。なぜ乗船す、と問えば、帆船の使用を学ばんがためなりと」
帆船の操作を学んでいたんですね。
陸奥宗光は、村橋より二歳若く、実のところは、紀州藩の重臣の息子でした。子供の頃に父親が政争に敗れ、藩を飛び出していたのです。勝海舟の神戸海軍操練所に入っていましたが、これが閉鎖となり、坂本龍馬とともに、薩摩藩の保護下、長崎にいたころのことで、薩長同盟締結の三ヶ月後です。
年が近いだけに、村橋と陸奥は、船旅の開放感も加わり、うち解けて話し合ったのではないでしょうか。
後に書きますが、陸奥にとって、この出会いは、30年近い年月を経てなお、忘れがたいものであったようです。

さて、冒頭の新聞「日本」の記事の続きです。

「(帰国後)いくばくもなく戊辰の戦争となり、村橋は当時参謀長たる黒田清隆氏の手に属し、調所廣丈、安田定則両氏らと、奥羽函館に出軍し、勇名を官賊の間にとどろかし、ことに黒田氏に厚遇せられしが、乱平いでのち、特に軍功を賞せられ、物を賜う等の事あり」

黒田清隆は、村橋より二つ年上ですが、わずか4石の下級士族でした。西郷隆盛、大久保利通と同じ郷中で、薩長同盟のころから頭角を現し、戊辰戦争の活躍で、はっきりと門閥の上に立ったのです。
門閥の御曹司だった村橋が、4石の下級武士「黒田氏に厚遇せられ」という一言は、明治維新が革命であったことを、如実に語っています。
そして、黒田のもと、軍監として、越後口から函館へ転戦した村橋は、どうやら、榎本軍へ降伏を勧めた中心人物だったようです。
幕府最後の遣欧使節団のメンバーで、軍医として榎本軍に参加していた高松凌雲は、欧州で学んだ赤十字の精神を、函館病院に反映させ、敵味方の区別なく傷病兵を見ていましたが、そこへ講和交渉を持ち込んだのは、薩摩の池田次郎兵衛です。
この池田次郎兵衛の直接の上司が、村橋久成でした。

「黒田氏の開拓使長官となるにおよんで、調所廣丈、堀基、小牧昌業諸氏と肩を並べて奏任官たりしが、氏はその後、何事に感じてや不図遁世の志を抱き、盟友親族の切に留むるをもきかで、官を捨てて飄然行脚の身となり、身のなる果てを朋友知己にも知らせたり」

村橋が開拓使に入ったのは、明治4年のことです。
開拓使については、鹿鳴館のハーレークインロマンス で、少々触れましたが、黒田を中心に、多くの薩摩人がかかわり、西部開拓に習って、北海道を開拓しようとしたものです。洋式農園を開き、農作物、果実も洋種の導入が試みられました。
開拓使において、村橋久成が、もっとも情熱を傾けたのが、札幌におけるビール醸造所建設です。
しかし、そのビール醸造所が完成し、さまざまな試行錯誤、苦心の末、りっぱなビールを出荷するまでになったころ、西南戦争が起こりました。

明治6年政変の後、黒田清隆は大久保宛書簡に、「今日に立ち至り、退いてとくと我が心事追懐つかまつり候に、大いに西郷君に恥じ入る次第」と述べていて、すでに、西郷を陥れたことへの心痛を語っていました。結果、西南戦争となり、故郷を討伐せざるをえない立場となって、西郷を殺したのです。
深酒におぼれるようになった黒田は、泥酔して、妻を斬り殺した、という噂をたてられもしました。いえ………、どうも根も葉もないことではなく、斬り殺したわけではないのですが、酔いにまかせて、蹴ったか殴ったか、殺すつもりはなく、打ち所が悪かったのでしょうけれども、ほんとうに殺したのであったようなのです。
そして、大久保利通が暗殺されます。暗殺者は、西郷軍に心をよせた他県人でした。
親戚が、いえ、兄弟親子が、敵味方にわかれて戦い、結果、西郷、大久保の両巨頭を失い、残された明治政府中枢の薩摩人たちの多くは、虚脱状態にありました。わけても黒田は………、といえるでしょう。

そして、西南戦争に莫大な戦費を使ったことで、政府の財政は極度に苦しくなり、やがて、開拓使の廃止が決定されるのです。
もともと、開拓使は10年後に見直されることになっていて、それが、明治14年だったのですが、もはや黒田に、開拓使を存続させる気概も気力も、なくなっていました。
開拓使の数多い事業は、民間に払いさげられることになり、札幌のビール醸造所も、もちろんそうでした。
その払い下げの多くを、黒田は、破格の安価で、大阪を中心にはばびろく事業を展開していた五代友厚に任せようとしたのです。
村橋久成は、どうやら、そのことに深くかかわっていたようです。
それはそうでしょう。五代は、薩摩藩英国密航留学の主導者です。
新聞が、黒田の払い下げ計画をすっぱぬき、スキャンダルが巻き起こる2ヶ月ほど前に、村橋は辞表を提出し、開拓史を辞めました。
その理由は、わかりません。スキャンダルになるとは、わかっていなかった段階での辞表です。

ただ、その後の村橋は、世間にまじわることなく、いつからのことなのか、妻子を捨てて、病の身で漂白するのです。
それを思えば、村橋が虚しさを………、これまで自分がしてきたことはいったいなにだったのかと、やるせない思いを抱いて、官職を辞したことだけは確かでしょう。

自分が心血をそそいだ事業が、放り出されることへの怒りを感じていたのだとすれば、あるいは、辞職した上で、新聞にそのことをすっぱ抜いたのは村橋だった、という想像も、成り立ちはしないでしょうか。
しかし、そのスキャンダルを、大隈重信が利用して薩摩閥を追い落とそうとし、結局はまたしても薩長が手をにぎり直して、大隈を政権から遠ざける、という明治14年政変は、けっして村橋が望んだものではなかったでしょうし、そういったすべてが、あまりにも虚しく思えたのだとすれば、どうでしょうか。
村橋が神戸で行き倒れたのは、辞職から、11年の歳月が流れた後のことでした。

「定めなきが浮き世の常とはいえ、さりとははかなき最期かなと、揚升庵いわく。青史幾行名姓、北*無数荒丘、前人田地後人収、説其龍争虎闘。観し来たれば栄枯盛衰は夢のごとく、功名富貴は幻に似たり。村橋氏の感するなにのために感せしやは知らされとも、その末路を見て、うたた凄然たるものあり」

新聞「日本」のその日の記事は、そうしめくくられているのですが、翌日、哀悼の歌が載ります。

「村橋久成氏を弔う。はかなしみ君もはかなくなりにけり はかなきものはさても浮き世か。路傍の斃死、君にありては九品の浄室に寂を遂げたりといわんか。隻岡の法師かつて歌うを聞けば、ここもまた浮世なりけり。よそながら思ひしままの山水もかなと。さては浮世ながらの浄境なきを観ぜしならん。さるとても当年十秀才の一人、英京の留学生」

いったい、新聞「日本」に情報をよせ、村橋を悼んだのは誰なのか。西村英樹氏も疑問を投げつつ、答えを出してはおられません。
ただ、この記事を目にした元開拓使の薩摩人たちに、衝撃が走ります。
最初に動いたのは、愛知県知事になっていた時任為基でした。時任は、鹿児島出身で、神戸警察署長だった野間口兼一に問い合わせます。野間口は、ずっと警察畑だったためか、村橋の経歴を知らなかったのです。
そして、このとき逓信大臣だった黒田清隆も知るところとなり、村橋の遺族をさがし、弔うために人脈が動きはじめました。香典を集め、東京で盛大に葬儀を行い、青山墓地に墓を建てようというのです。

外務大臣となっていた陸奥宗光は、自ら黒田に「外航をともにした知遇があるので、弔意を表したい」と申し出たようです。
陸奥の脳裏には、外洋を走る帆船のデッキで、ふるような星空の下、潮風に吹かれて、村橋と語り合った青春のひとときが、あざやかに甦っていたのでしょう。

香典をよせた人々の中には、維新前、新撰組、高台寺党だった加納道広(鷲雄)、阿部隆明(十郎)の二人もいました。どちらも薩摩人脈に連なり、維新後は、開拓使にいたのです。
かつて近藤勇を狙撃し、首実検をした加納は、村橋の遺児を伴い、神戸まで、村橋の遺体を引き取りに行く役を引き受けました。
あるいは加納の胸にも、動乱の中で夢中に生きた青春の日々が、よぎったでしょうか。

自分たちは、なにに命をかけたのか。維新とは、いったいなにだったのか。
幕末維新から西南戦争にかけての動乱を生き延びた誰もが、日々の営みにまぎれて、奥深く封殺していただろう自問を、村橋久成の路傍の死は、苦くも、浮かびあがらせずにはいなかったのでは、なかったでしょうか。


追記 
fhさまが調べてくださったこと。『日本建築学会論文報告集』201(1972年)、小野木論文「皇居造営機構と技術者構成」に対する質疑および回答より。質問者は遠藤明久氏(「小野木重勝氏の論文 : 「皇居造営機構と技術者構成」に対する質疑」)。
小野木氏が回答(「遠藤明久博士のご質疑に対する回答」)のなかで、村橋久成について補足説明。)

村橋久成(鹿児島県士族・天保13年10月21日生・旧名直衛)は、明治4年11月開拓使十等出仕を振出しに、九等出仕権大主典・大主典・七等出仕・権少書記官に昇進、七重村官園詰・北海道物産縦観所・物産局製練課・東京出張所勧業課長・同農業試験所長などを歴任し、明治14年5月本官を免じられ、明治16年2月皇居造営事務局准判任御用掛として建築課兼監材課勤務を命じられ、同年12月1日付で建築課専任となり、明治17年4月に御用掛を免じられております。1年2箇月の短期間の在職ですが、基準4)および5)によって監材関係技術者中に包含いたしました。「皇居御造営誌・職員進退並賞与」によりますと、監材課では准判任御用掛林糾四郎と名前を並べて記載されており、その存在を無視することもできません。開拓使時代の農業試験場長などの経験をかわれて監材関係業務に従事したと考えられます。


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巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2

2007年04月10日 | 幕末留学
巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1の続きです。

慶応2年(1866)、イギリスの東アジア貿易は金融危機に陥り、ジャーデン・マセソン商会も危なくなります。グラバーの金主はジャーデン・マセソンでしたので、そんな関係があったことと思われますが、薩摩藩庁は留学費用に困ることになっていたようです。
五代友厚は、帰国後すぐに、新たにアメリカへ留学生を送り出す計画を実行し、この年の3月28日、長崎より、仁礼平輔(景範)、江夏蘇助、湯地治右衛門、種子島啓敬輔の五人を、欧州経由で送り出します。5人は途中、上海にも滞在し、喜望峰経由でゆっくりと旅をしたようで、ロンドン到着は9月7日なのですが、後年の清蔵少年談によれば、このため、イギリス留学生の費用を減らす必用が出てきて、数人の帰国が決まった、ということなのですね。
おそらく、それは、4月か5月ころだったでしょう。三笠(名越平馬)、岩屋(東郷愛之進)、松本(高見弥一)、塩田(町田甲四郎・兄)が帰国することになります。このとき、ほんとうは、清蔵少年も帰国するはずでしたが、フランスへ行くこととなりました。

「私が仏国行ともうすのは、仏国に、薩摩に同情をよする貴族で伯爵、モンブラン家において、青少年を帰すは将来、薩摩公の御ためならずだから、この青少年は私(モンブラン)が引き取り学費も出します、とのことより参りました。仏国では、学校教師の某(名を忘れました)の宅に居りました。この家庭は、老夫婦と17、8の娘さんと、8歳ばかりの男の子と4人で、私と5人で、その老婦は英国人で、娘さんも英語が流暢でしたから、英語ばかりで話ますと、おやじさんが不機嫌で、言うに、あまり英語を使わせると仏語が覚えぬからよくない、というもかかわらず、私は老母と娘さんにかわいがられて、食事の時だけ、一家団らんに仏語を使いました」

この下宿は、先にモンブランが連れ帰っていたジェラールド・ケン(斉藤健次郎)がいたところだったそうなんですが、どうやらケンは、薩摩藩に傭われて、日本へ帰っていたようです。翌年、博覧会で再び渡仏しますから、その準備に傭われたのでしょう。
それにしても、イギリスの下宿にくらべて家庭的で、清蔵少年にとっては、とても楽しい生活だったようです。

「私が仏国留学中、モンブラン伯の御妹子が男爵家に御婚儀が調ひました時、あたかもその時はゼルマン(プロイセン)とオーストリヤとの戦争中でありましたから、男爵家の観戦御旅行に随従しましたが、私もまだ16歳の時で、かつまた戦ということは、前九年後三年の絵本で見たばかりで、実物の鉄砲戦は生まれて始めて見る事で、それはそれは恐ろしきや面白いようでした」

えーと、薩英戦争は? とつっこみたくなるんですが、あんまり「戦争」という感じがしなかったんでしょうねえ。たしかに鹿児島城下は焼けましたが、火事みたいなもので、薩摩側はだれも死んでないですし。
「モンブラン伯の御妹子」が結婚した男爵は、フランス陸軍関係者でもあったのでしょうか。もしかすると、新妻を連れての観戦、でしょうか。
普墺戦争も、けっこう、のんびりしたものであったようです。

「その後、英国の学生沢井(森有礼)、永井(吉田清成)、上野(町田久成・にいさん)、参りまして、モンブラン伯爵の了解を得て、私を帰国さする用件だったようです。私は兄がいうなりにしておりました。議論というのは、よくよく外国貴族の世話で学費までも出してもらうという事は、わが君公に対し御不名誉につき、帰藩するが得策との事にて、兄上野は、私の実兄かつ学頭の身柄なれば、ほかのものは帰して、私を置くわけにはまいりませんでしたろうと思います」

また出てきました。性格が悪い、森と吉田ペアー。これも後年の思い違い、ということは、大いにありそうなんですが、白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがいで書きましたように、おそらくモンブラン伯爵は無神論者に近かったと思われ、一方、この当時、イギリスで森や吉田に強い影響力を持っていたローレンス・オリファントは、ハリスの新興キリスト教に、狂信的といっていいほど傾倒していたんです。
そんな関係から、オリファント卿にモンブラン伯の悪口を吹き込まれた二人が、学頭だった町田にいさんに、「信用できないから、弟を預けるのはよせ」くらいは、言った可能性があります。
楽しいパリ留学生活を送っていた清蔵少年には、迷惑きわまりない話です。

「それで、ようよう伯爵の了解を得て帰国の事になりましたが、下宿屋の老夫婦、娘さんなどとは、大いにかなしみました。さて私は16歳でひとり旅であるから、伯爵家より仏国郵船会社長へ、日本薩摩少年を無事に取扱を申し入れられたるをもって、会社長は東洋出帆の郵船長に申し伝えられ、私は航海中、至極便利を得しました」

実際にはどうも、久成にいさんとともに畠山義成が、一人で帰国する清蔵少年を気遣い、モンブラン伯とも細かく連絡をとっていたことが、残された畠山の書翰からうかがえるのですが、おそらくは翌年、畠山が森や吉田などとともにモンブラン批判を建白し、藩の帰国命令にさからって、ハリス教団に入ったことから、町田にいさんをはじめ、町田家にとってはあまりいい印象が残らず、清蔵少年の記憶からも、すっぽりとぬけ落ちたのかもしれません。

「いよいよ仏国出発の前日、兄より私に船中の小遣いとして英金貨20ポンド(日貨百両)をくれました。ほかに香港にて受け取る為換英貨100ポンドの證券一枚をくれ、別れる時のかなしさ、その夜は泣いて寝ませんでした。翌日はマルセイユへ出発し、時刻を計りまして、一家族に別れる時は老夫婦はいくどか私と接吻をかわしまして、娘さんは、パリの中央停車場まで見送り、一等待合室に、一生の別れかと、将来またまた仏国へおいでなさいと、またまた接吻をかわし、発車20分前のベルが鳴り、私両人は室外に出て、娘君と幾度も接吻を続け車上の人となりました。かの接吻と申しまするものは、假令一青小の男女にても、別れる時の人情で、かつ外国の常習でありますから、ほかの多くの人たちは、さらさらかえりみません。車上では仏国を思い、英国の兄を思いまして、じつなふおさりました」

マルセイユ行列車が発着する駅ですから、バスティーユ広場に近いリヨン駅でしょうか。
停車場で、泣きながらキスをして、別れをかわす17、8のアドモアゼルと、16歳の薩摩貴公子。
楽しい留学生活でしたのにねえ。意地悪な人がいるものです。

「マルセール着しまして、一夜旅宿しまして、翌日出帆の仏国郵船に乗り組みました。マルセイユの支店長が乗り、この支店長と乗船し、船長にモンブラン伯爵の添書を渡しました。船中は私一人の日本人で、船長よりほかに知人もなく、しかし長き航海のうちにははなしみもできることと思っておりましたが、そのうち船客も乗組済、抜碇となりまして、桟橋をはなれて進行を始め約一里ばかり行った時、一等客上甲板にて、あたかも私と同年輩の少年が、私の安楽椅子により申しますに、あなたは日本人ですかシナ人ですか。私は、シナといわれ少しく腹が立ちましたが、私はこう答えました。私は日本帝国民で、長く英仏の間に留学しておりました。あなたはどちらですか」

さすがは、国学と蘭学で育った清蔵少年です。
同年配の少年は、オランダ人でした。少年の祖父が、「蘭領オースタリヤ」の海軍司令官で、父親が海軍中佐で、一家そろって赴任するところだったのです。
日本から、東南アジアまわりの幕末渡欧航海記に、このオランダ領「オーストラリヤ」というのがよく出てきて、とまどうんですけど、おそらく、いまでいう「オーストロネシア」で、インドネシアのことなんじゃないんでしょうか。

「今後はお友達になりましょうというので、これから無二の戦友となりまして、四十余日間兄弟のようにいたし、各港に着けば必ず二人で乗降しました。中将は白髪、年は72、3とか申し、中佐は50余歳で船友となりました。少年は私と同年で16歳でした。ある日、夕食後、上甲板で中将と椅子を並べて、孫さんがその次におり、孫さんと中将となにか蘭語で話しており、私はさらにわかりませんでしたが、中将はあまり達者でない英語でもって言うには、オーストラリヤへ行かんかと。私は、行きたいも私は香港為換券の百ナポレオンしか金がありませんからいかがいたしましょうか、と申しますと、中将が申しますに、お金などいらぬ、わしが小遣い金はあげるから心配はない、またオランダの海軍士官にして、オランダの国籍に入れる、と。このとき、戦友の孫さんがしきりに祖父さんにせまりましたから、ますます私にオーストラリヤ行きを勧め、私も孫さんと離別する事をかなしむところより、乗り気になりまして、承諾いたし、それからというものは、孫さんの大喜び、ますます兄弟のようになりましたから、いよいよ香港より南下脱走を決心しました」

あれあれあれあれ。数えで16歳ですから、今でいえば15歳ですが、新納少年にくらべて、町田少年、なんとも陽気です。
モンブラン伯爵に気に入られ、下宿では家族同然にかわいがられ、豪華客船一等船室では、オランダ提督のお孫さんと無二の親友になる。
育ちがよくて、素直で、人なつっこかったんでしょうね。
この部分になんとなく覚えがあって、司馬さんがなにかの随筆で紹介されていたように思います。
ともかく、当然ですが、香港では、おそらくジャーデン・マセソンの社員が連絡を受けていて、お孫さんとともに「オーストラリヤ」へ行こうとする清蔵少年を引き留めます。
大事なお得意先、薩摩藩の名門のおぼっちゃんが、オランダ人にさらわれた、では、申し訳がたちませんものね。
清蔵少年は、上海経由で長崎に帰り着きましたが、上海でも送金を受けて、三、四百両も持っていたんだそうです。
とりあえず、薩摩藩の長崎屋敷に落ち着くのですが、長崎留守居役の汾陽(かわみなみ)が、「ここの老人仲間におられてはご窮屈であるから、書生のところにおいでなさい」といって、二人の薩摩藩長崎留学生に清蔵少年を預けたのですが、この二人、とんでもない遊び人でした。

「ある日、長崎の丸山という遊郭に誘われて一泊しましたが、私は子供のことにつき、女郎と寝たばかりで、女郎の方では自分の子供を抱いたように思い大事に取扱いくれ、私は色気のいの字も知らん時ですから面白い事もなく、よく朝勘定をすまし帰りましたところ、いつしかこのことが汾陽の耳に入り」、汾陽は清蔵少年に、「二人の書生があなたを悪所に連れて、その費用をはらわせたとのことにつき、書生を呼びよせしかりおきましたが、この後、いかようのことをあなたに勧めるかもはかりがたいにつき、鹿児島にお帰りになった方がよかろうと思います」

そういうわけで、清蔵少年は、久しぶりに、故郷の土を踏みました。
「財部実行回顧談」は、昔日の洋行のことを語るのが主目的だったようでして、帰国後のことは、ごく簡単にしか述べられていません。
昔からの約束で、清蔵少年は、やはり島津一門の門閥で、平佐城主、北郷主水の養子となり、五代友厚が立ち上げた鹿児島紡績工場のイギリスたちの通訳を務め、維新を迎えたようです。
町田兄弟の間では、英文で手紙をやりとりするほどで、清蔵少年、さっぱり日本文ができません。久成にいさんの勧めで、東京へ出て、漢学を習い、その後、築地の海軍兵学寮で学んでいたのですが、「明治7年征韓論のとき退学」したそうなのです。
その後、清蔵少年がどういう人生を送ったのか、西南戦争には参加しなかったのか、知りたいのですが、かいもく、手かがりもつかめません。
なにか、ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。


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