郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明

2014年11月03日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETALの続き、ということになるでしょう。といいますか、コメント欄でAgnesさまにお答えしましたことを、もう少し詳しく、メモしておきます。

 冒頭の写真なのですが、向かって右が楫取美和子、つまりは「花燃ゆ」の主人公・文さんで、明治32年、満56歳のころです。
 左側の女性は楫取美寿子、およそ満37歳なんですが、華やかで、現代的な顔立ちの女性ですね。
 美寿子の実家は公家の千種家。七歳年上の姉・千種任子(ちくさことこ)は、宮中の女官となって、明治天皇の寵愛を受け、明治14年に第三皇女・韶子内親王、明治16年に第四皇女・章子内親王の母になりました。二皇女とも夭折しておりますが。
 下が、その千種任子の写真です。



 韶子内親王誕生の2年前、明治12年に、同じく官女の柳原愛子(柳原白蓮の叔母です)が、第三皇子の嘉仁親王を産んでいまして、このお方は、他の皇子が夭折する中、ただ一人成人して、大正天皇となります。
 そんなわけですから、千種任子と柳原愛子は、寵愛を受けた期間が重なっていたのではないか、という推測も成り立ち、検索をかけてみますと中丸薫氏という少々怪しげなお方が「大正天皇生誕の直前に、千種任子が産んだ皇子が民間に養子に出され、堀川辰吉郎と名乗ったが、私はその落とし子」と自称 なさっているらしいですね。長男が死産、次男が一歳に満たずして夭折しました直後、せっかく生まれた第三皇子を民間に出すとか、絶対ありえない話ですけどねえ。

 ともかく。
 その千種典侍の妹、千種美寿子とお文さんがどう関係するかと言いますと。
 お文さんの養子になっていました甥の、楫取道明の妻が美寿子なんです。

 お文さんと結婚しました久坂玄瑞は、兄が早世し、実家の家業である藩医を継いでいたのですが、文久3年(1863年)、士分に取り立てられます。
 その直後、文久3年8月29日付け、京都に潜伏中の久坂から、萩のお文さん宛て書簡に、以下のようにあります。

 「さてはこのうち、小田村兄さま(楫取素彦)お発ちのおりしも、かの二男の方を養子にもらひ候まま、みなさまへ御図りなされておもらいなさるべく頼み入りまいらせ候」 

 この時点で、久坂は23歳、文さん20歳。
 結婚して5年ですが、久坂は江戸へ京都へとかけずりまわっておりまして、同居期間はごく短く、子供がありません。
 一方、楫取素彦(小田村伊之助)34歳、妻の久(寿)さん25歳。
 こちらは結婚10年。二人の男の子に恵まれ、次男の道明は5歳になっています。

 23歳と20歳の夫婦が、養子を迎えるのは、現代から見れば早すぎるように思えるのですが、久坂家は、父母、兄とみな亡くなっていて、もしも玄瑞が死んでしまえば、士分となった久坂家の家督を継ぎ、祖先の菩提を弔う者がいなくなってしまいます。8.18クーデターで、長州藩が御所追放となりました直後のこと、京の都は殺伐としていました。死を覚悟した上での志士活動であってみれば、久坂が「姉さん(久)の息子を養子にすることにしたので、僕にもしものことがあっても、後はどうかよろしく頼む」と文さんに願ったのは、自然なことだったでしょう。

 松陰が妹の婿に久坂玄瑞を、と考えましたのは、高杉晋作と並ぶ一番弟子の久坂が、母方の親戚(士分ではありませんでした)をのぞき、天涯孤独の身となっていたので、家族の一員に迎えてあげたかったからです。
 これには前例がありまして、文さんの姉の久さんが結婚しました楫取は、結婚した時点で、実家の父母、養家の父母を亡くし、久坂と違って実の兄弟はいましたが、しかし姓がちがいましたし、孤独でした。
 しかも、当時の楫取の家は、杉家の長女(文さん、久さんの姉)千代さんが嫁入りました弘法谷の児玉家のすぐそばにあって、杉家のごく近所でもあったんです。

 この弘法谷なんですが、文久3年3月、高杉晋作が東行と名乗って、妻のまさとともに隠棲しました草庵のあった場所でして、杉民治がたずねていますのは、ご近所だったからです。



 この顕彰碑は、団子岩の杉家の山屋敷、つまりは松陰をはじめ、兄の民治、弟の敏三郎、千代、久、文の三姉妹と、杉家の子供たちがすべて生まれた家のそばに建てられているんですが、実際の弘法谷の場所は、この碑の向こう、崖の下あたり一帯のどこか、らしいんですね。



 高杉が草庵をかまえたときには、清流が水しぶきをあげ、ナマズやウナギが捕れたそうなんですが、明治以降、開発が進んでまったくの様変わりでして、場所を特定することはできないようです。

 ともかく。
 その草庵のそばには、千代さんが嫁入った児玉家があり、児玉家のすぐ向かい側に、久さんが嫁入った楫取家(義父母は亡くなり素彦一人)があったんです。
 久坂の場合、杉家に同居した様子なんですが、私は、あるいは文さんとの新婚時代は山屋敷で過ごしたのでは、と想像しています。

 そんなわけで、杉家の三人の娘たちは、嫁入ったといいましても、みなごく近所に住んで行き来していたわけでして、楫取も久坂も、実体は杉家に婿入りしたようなものでした。
 そこへもってきまして、楫取素彦は若い頃から、長州きっての国学者、近藤芳樹に、国学と和歌を習っていまして、やはり和歌をよくしました久坂を、相当に気に入っていた節があるんですね。
 久坂もまた楫取を、実の兄同然に感じていたわけなのでしょう。
 
 
御歌所と国学者 (久伊豆神社小教院叢書)
宮本 誉士
弘文堂


 近藤芳樹につきましては、上の「御歌所と国学者」が詳しいのですが、生まれは周防、現在の防府市で、上方で学んで国学者としての名声を高め、村田清風の推挙で萩本藩、近藤家の養子に入り、明倫館助教、国学講師を務めた人です。
 この方にご登場いただく前に、まず。

 久坂玄瑞は、養子云々の手紙以来、文さんへ手紙を書くたびに、養子となった道明(粂二郎)のことに触れています。
 
 元治元年正月、伏見からの手紙には、「子供用の胴服(羽織)と小袴二組、一組は粂二郎(道明)へ、もう一組は吉田小太郎どのへ。紅の帯は杉お豊どのへ。お年玉として送ります。粂次郎が早く大きくなってくれるよう祈っています」 とあり、この吉田小太郎は杉民治の息子で、従兄弟の道明と同じ年なんですが、前年(文久3年)4月に、叔父吉田松陰の跡目を継いでいます。お豊は民治の娘で、小太郎の姉です。

 同年3月25日付けの手紙では、19日に山口へ帰って来たが、多忙で萩へまで帰る暇がなかった旨を述べた後、「今回は粂二郎になんの土産もなく、申し訳ないが、また上方に上るつもりなので、大小の刀を求めて送りますので、杉家のみなさまにもよろしく」とあり、追伸で、小太郎、お豊への土産がなかったこともわびています。

 継いで6月6日付けの手紙には、再び山口に滞在していた久坂が、萩から道明(粂二郎)を呼び寄せて「粂二郎昨日参り、久しぶりに相対、大いに喜び、昨夜もいっしょに寝候。粂二郎(の)大小(の刀)も大阪に誂いおきそうらえども、このたびは間に合い申さず候」 とあり、この手紙から一月あまり、禁門の変で久坂は自刃します。

 久坂が道明(粂二郎)を愛し、心から久坂家を託そうとしていたことは、これでわかります。
 「まったく自分の血が流れていないのになぜ?」と、現代の感覚でいえば不思議な気もするのですが、江戸時代の家督といいますのは、士分の名誉を継ぎ、同時に家禄(金銭収入)を確保する意味もあったわけですから、よくあった話です。
 しかしまた一方、久坂は京都で、実の息子を儲けてもおりました。
 息子の名は秀次郎、元治元年9月9日生まれと、戸籍にはあるそうです。
 その母なのですが。

 
維新侠艶録 (中公文庫 R 41)
クリエーター情報なし
中央公論新社


 上の本の種本であります小川煙村著「勤王芸者」では、井筒タツという名の島原の芸者さんだった、ということになっておりまして、ほぼ、これが定説です。
 「勤王芸者」は明治43年の出版ですので、その前年のことでしょう。煙村いわく、タツさんは67歳で京都に健在で、名望家・深見伊兵衛の妻の母である、ということなんですね。深見伊兵衛は実業家で、当時はかなり名の通った人物だったようですし、どうも、これが嘘だったとは思えません。
 で、煙村はタツさんに会って直に話を聞き、タツさんが大切に持っていた久坂からの恋文を見せてもらった、ともいうんですね。
 続 主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』で創作ではないだろうかと疑い、スイーツ大河『花燃ゆ』と妹背山婦女庭訓で「やっぱり本物かも」と思い直しました久坂の恋文です。

 異論が出ていますのは、一説に、「秀次郎の母は佐々木ヒロ」とも伝わっているからなんですが、これ、最初に久坂の実子と認めて届け出たのは、明治2年の11月17日で、まだ藩がありますし、藩庁への届け出なんですね。
 とすれば、確か、山本栄一郎氏がおっしゃっていたのですが、「実母の家柄を整え、格あわせの意味で、松陰や文の叔母の佐々木の名を借りたんじゃないかな?」というのも、ありえないことではないような気がします。
 
 で、果たして久坂は、タツさんが妊娠していたことを知っていたのかどうか、微妙なところです。
 大変な時期でしたから、久坂に心配をかけまいと、タツさんが話さなかった可能性も高そうですし。
 維新がなって、タツさんは子供の行く末を考え、松下村塾門下生の品川弥二郎に託したっぽいですね。

 文さんにとっては、青天の霹靂ですが、結局、秀次郎は久坂の実子と認められ、久坂家の戸籍に入ることになります。
 とはいいますものの、久坂の死後、一度消滅していました久坂家の家督は、慶応元年6月に復活し、すでに養子の道明が継いでいました。
 道明と秀次郎は、6つの年の差で、しばらく、道明が当主の戸籍に、母の文改め美和さん、弟の秀次郎が入った形になっていたようです。

 秀次郎は、萩に着いてしばらくの間、久坂の母方の従姉(大谷家の娘)の嫁入り先、椿家で養育されていたといいますが、やがて、杉民治とお文さんのもとに引き取られたようなのです。ただ、それがいつからのことなのか、はっきりとはわかりません。

 一方の道明です。
 道明の略伝は、篠原正巳氏の「芝山巌事件の真相」に載っているのですが、少部数の発行のようでして、手に入れますことはむつかしく、私は愛媛大学の図書館に寄贈されていたものを読みました。
 道明と小太郎は同い年の従兄弟で、ともに久坂に可愛がられた思い出を持っていましたが、維新の時にはまだ、満の9歳です。
 十分に物事がわかる年齢で、しかし従軍する年には届いていませんでした。
 世の中がひっくり返りますのを目の当たりにして、しかもその大きな原動力となりましたのは、松下村塾の人々でしたし、松陰も久坂も、いわば命をかけて先駆けとなり、世の中をひっくり返したわけです。
 久坂と松陰の跡取りでありました二人は、どちらも、養父の存在の大きさを日々に感じ、「遅れて生まれた自分たちに、なにが成せるだろうか」という焦燥を抱くことになったのではないかと、私は思うんですね。

松下村塾の明治維新―近代日本を支えた人びと
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ミネルヴァ書房


 吉田小太郎の略伝は、海原徹氏の「松下村塾の明治維新」に載っていまして、こちらは、日本の古本屋のサイトに何冊か出ております。
 で、道明と小太郎の略伝を読みくらべてみますと、二人の受けました教育は、 少々ちがっていたようなんです。
 小太郎は終始、基本的には松下村塾で勉学を続けたもようですが、道明が村塾にかかわったという記録は、ないようなのですね。

 道明の実父、楫取素彦は、松陰の野山再獄後の安政6年、松陰に頼まれて、一時、松下村塾を引き継ぎますが、公務で忙しく、それは短期間で終わります。
 その後、久坂をはじめとします村塾生が、塾を維持していこうとしていたのですが、結局、激動の中で、塾の同志的結集は政治活動に集中し、教育機関としての村塾は休止します。
 慶応元年になりまして、村塾生のうち、奇兵隊になじめなかった馬島甫仙が萩に帰り、杉民治と相談の上、村塾を再開します。
 甫仙は非常に学識は高く、もともと松陰は、甫仙に塾を引き受けてもらいたいと望んでいたほどでしたけれども、政治的な傾向は薄く、松陰の著作にまったく触れないわけではなかったものの、結局、甫仙の村塾は、普通に漢学の手習い塾となったようです。
 この甫仙の村塾は、明治になって藩費の補助を受け、明治3年夏ころまでは続くのですが、甫仙は同じ年の村塾生で、大阪で陸軍兵学寮御用掛を務めます山田顕義に乞われて、村塾を閉め、大阪へ行き、その後も山田にしたがって上京。秘書的な役割を果たしたようなんですね。

 この甫仙の経歴からしまして、道明が甫仙時代の村塾で学んだ可能性は高いと、私は思うのですが、はっきりしません。
 小太郎の方は、もちろん甫仙の村塾で学んでいますが、一方、松陰の叔父で、その教師でもありました玉木文之進の個人塾でも学んでいます。
 山本栄一郎氏が「楫取は玉木文之進を好んでいなかったのではないか」とおっしゃっていたのですが、こう見て参りますと、それももっともでして、道明が玉木塾で学んでいた可能性は、ゼロといってよさそうなんです。

松下村塾の人びと―近世私塾の人間形成
クリエーター情報なし
ミネルヴァ書房


 上の「松下村塾の人びと」に甫仙の生い立ちがあるのですが、眼科・外科の藩医の家に生まれ、住居は松陰神社(村塾)からほど近い松本村船津で、品川弥二郎の家のすぐそばだったようです。
 ずばぬけた秀才だったそうですが、神経が繊細だったのでしょうか。明治4年12月、東京の山田邸で郷里の両親を思ってノイローゼになり、自刃したと言われます。享年28。
 いくら才能がありましても、人には向き不向きがありますから、甫仙は都会に向いていなかったんでしょう。
 しかし、松下村塾の教師を務めてくれた近所の秀才の青年が、東京になじめず自刃した、という知らせを、民治は衝撃をもって受け止めたでしょうし、そのことが、小太郎の運命を狂わせることになったのではないか、と思わずにはいられません。

 明治5年の正月、63歳になっていた玉木文之進が村塾を引き受けます。
 小太郎はもちろん、引き続き文之進の教えを受け、文之進が小太郎の東京遊学に強く反対し、実父の民治もまた、東京へ出ることに懸念を示したため、結局、小太郎は萩の乱に参加し、弱冠19歳で戦死してしまうこととなるんです。なんでも、この遊学問題で、文さんが小太郎に書いた手紙が萩博物館にあるんだそうなんですが、活字化されていませんし、これから活字化される望みも、いまのところ、とても薄くなっているらしく、とても残念です。ふう。

 で、道明です。
 道明は、藩校明倫館(萩と思われます)で学び、明治5、6年、山口の明倫館で、陸軍教授クローゼからフランス語を学んだと、「芝山巌事件の真相」にはあるんですが、これはどうも、明治3、4年のことらしいんです。
といいますのも、明治5年のものとみられます楫取素彦から杉民治宛の書簡に、「大学南校(後の東大)へ入れるのが難しいので、育英義塾で学ばせている」とあり、おそらくは、なんですが、道明は、甫仙の時代の村塾で学んだ後、山口の明倫館でフランス語を学び、明治5年、実父の素彦が新政府で就職するのに伴われまして、東京へ出て、育英義塾で学んでいた、ということではないでしょうか。
 もう一つ、これもおそらくは、なんですが、道明は、実父の教師だった近藤芳樹について、国学と和歌を学んでいたのではないか、とも思われます。

 その後、明治5年の間、道明は実父の元にいたらしいのですが、どうやら明治6年には、実母の久さんとともに、萩と二条窪(長門三隅に買ってあった楫取の荘園)に一時帰郷し、しかし同年の10月には、東京で大学南校へ通っていたようです。
 ところが、明治7年5月になりまして、また久さんが二条窪と萩に帰郷。どうも、またまた道明がついて帰ったようなのですね。
そして明治8年7月3日付け、楫取の民治宛書簡に「道明も書生のまま長くいて、前途が心配なので、山田顕義に頼んで司法省に入れることにしました」とあり、この時期には、久さんともども、東京にいたらしいのですが、私、思いますに、この年の久さんと道明の上京は、あるいは、近藤芳樹といっしょではなかったでしょうか。

 といいますのも、明治8年、近藤芳樹は宮内省から、歌道御用掛に任じられます。
 4月2日に萩を出立し、7日に蒸気船に乗り、上方に寄った後、5月4日に横浜に着き、5月14日より宮内省へ出仕しているんですね。
 そして、この宮内省歌道御用掛に、千種任子、美寿子の実父、千種有任がいたんです。
 明治9年になっての話ですが、素彦が世話をやき、道明の名で「江月齊遺集」という久坂玄瑞の歌集が出版されていまして、この編纂には、当然、近藤芳樹の力も借りている、と思われます。

 ともかく。
 明治8年の秋に、道明の縁談は起こったようでして、弱冠18歳の久坂道明は、わずか満13歳ほどの千種美寿子と結婚します。
 この縁談で、「二,三百円」の臨時出費があったと、楫取は書き残しています。
 世情、騒然としていました折から、道明の身を案じて、楫取は就職、結婚を急がせたのではなかったでしょうか。
 それにいたしましても、楫取の実家の松島家は、家禄の低い藩医ですし、養家の小田村も家禄は低く、いわば下級士族です。
 その子息が、公家の娘と大金をかけて結婚するって、やはり維新は革命だったのだと、私は思います。

 道明が久坂家から籍をぬき、楫取姓になりますのは、明治13年。その翌年に、道明には義姉にあたる千種任子が、皇女の母となります。
 楫取道明はその後、官職を転々とし、すべて長続きしませんで、ついに萩に引き込んでしまうのですが、私にはどうも、久坂の養子になっていたことへの思い入れと、子供の頃、久坂にいっしょにかわいがってもらった従兄弟の小太郎が、若くして義に殉じたことが、道明にとりましては、非常な重荷になってのしかかっていたのではないか、と思えるんです。
 日清戦争の結果、日本の台湾領有が決まりました直後、道明は突然、いまだ政情不安定な台湾の地で、教育に従事することを志願し、翌明治29年の元旦、台湾の芝山巌学堂で同僚の教師たちとともに、匪賊に襲われて殺されます(芝山巌事件)。38歳でした。

芝山公園、六氏先生之墓



 お墓は萩の東光寺にあり、石灯籠は、杉民治が献じています。






 
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