郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

楠本イネinミステリアス宇和島

2016年05月18日 | シーボルトの娘

 楠本イネとイギリス医学の続きです。

 この5月、宇和島へ泊まりがけで史料撮影に行くことは、早くから計画していました。
 イネさんの宇和島での活躍について、財団法人・伊達文化保存会さんに史料があり、事前に許可願いを出し、出向いていって写真撮影するしかない、とわかったものですから、ついでに、評判の木屋旅館に泊まれたらなあ、と思ったんですね。



 ちょうど、山本栄一郎氏も、大村益次郎の宇和島時代の史料を撮影なさりたい、と言っておられましたので、お誘いし、いつものように中村さまもお誘いしました。なにしろ木屋旅館さんは、一棟貸し切りで、最高10人泊まれる広さです。人数は多い方がいいと、妹も誘いました。
 なんとか2泊、木屋旅館を押さえることができまして、となれば、ついでにイネさんが住んでいた場所がわかればなあ、と、なにげに検索をかけたんです。

 

 その結果、宇和島に「オランダおイネの三角屋敷跡」という看板があるということを知ったことが、すべての始まりでした。
 立てられたのは平成24年。4年前ですから比較的新しく、宇和島市観光協会が立てたもののようでした。
 おイネさんが「三角屋敷」に住んでいた、なんて、聞いたことがなく、私、まずは宇和島市観光協会に電話して、「看板の典拠はなんなんでしょうか?」と聞いてみました。
 最初、電話に出られた女性は、「テンキョ? なんのことですか?」と、なにを問われているのかわからない様子だったのですが、押し問答の結果、「南予文化会館の館長にお聞きになってください」との返答が得られました。

 さっそく、電話をかけましたところが、「呉秀三の『シーボルト先生 其生涯及功業』に出てきます」とのお答え。
 「えっ?」驚きでした。
 呉秀三は、母親が箕作阮甫の娘、父が広島藩支藩新田藩の御殿医で、明治、東京大学で医学を学び、ドイツ留学を果たして、東京大学医学部精神科の教授だった人です。シーボルトの息子たち、アレクサンダー、ハインリッヒと親交があり、明治29年、シーボルトの生誕百周年に、『シーボルト先生 其生涯及功業』という小冊子を出版しました。大正になってその改訂版の発行が、渡来百周年記念ということで企画されたのですが、関東大震災で遅れ、大正15年に発行されました。
 そして、その大正版そのままの体裁で(だと思います)、昭和54年に復刊されたのですが、このときはなんの記念だったのか、私は存じません。

 
シーボルト先生 其生涯及功業
呉 秀三
柳原書店


 ともかく、この大層な装丁の本は、シーボルトに関します基本文献でして、現在、内容の誤りもちらほら、発見されてきてはいるのですけれども、イネさんの伝記を書こうと思えば、絶対、目を通しておくべき本なんですね。
 よっこらしょと、重たい本を取り上げ、見返してみましたところが、館長さんのおっしゃる通りに、ありましたっ!(P540)

 (イネは)毎年宇和島に赴きて侯夫人の湯薬に侍したりといふ。この時富澤町の三角屋敷に住まひたり。 

 
 「この館長さん、ただ者じゃない!」と、私、いろいろと質問をさせていただきまして、新資料で変わる楠本イネ像で書きました新資料、「卯之町に約7カ月間滞在していたことを示す書翰」の件を教わりました。
 こちらにつきましては、西予市卯之町の講演で発表された資料ですので、卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 前編の最後に出てまいります先哲記念館で詳しいことを聞かせてもらえるとのこと。電話しましたところ、「来ていただければ資料を差し上げます」と いう話でした。
 結局、宇和島へ行く初日、西予市に寄りまして、中村さまを案内しがてら、先哲記念館で資料をいただき、お話もうかがったような次第です。

 で、南予文化会館の館長さんには、いろいろと情報をいただきましたし、宇和島で合流しました山本氏も誘い、中村さまもご一緒に、伊達文化保存会での資料撮影をすませた後に、御礼に出かけました。
 そのとき、名刺をいただいたのは、私一人です。
 で、私、名刺の裏を返してみることをしませんで、すっとしまいこみました。

 

 伊達文化保存会は、上の伊達博物館のすぐそばにあります。パークス来航150周年の旗がひるがえっておりますが、パークス宇和島来航時には、おイネさんの娘の高子さんも宇和島にいて、伊達家の奥の夫人や姫君方とともに、一行を迎えました。
 
 

 これまたそのそばにあります伊達家の幕末の庭園、天赦園です。やはり、もう少し早く、藤の季節に来たかったなあ、と。

 翌日、私と妹と山本氏は、午前中のバスで帰途へ。
 中村さまは、お一人、「せっかくここまで来たからもう一泊して、愛南町の紫電改展示館へ行きたい」ということだったんですね。
 そしてその翌日、松山空港から夜の飛行機で東京へ帰られる中村さまが、わが家に寄ってくださいました。

 前日の夕方、もう一度、宇和島の街を見物していらした中村さまは、偶然、南予文化会館の館長さんにお会いしたんだそうです。
 「えーと、なんてお名前でしたっけ? ちょっと、あんまり聞いたことのない名字の方ですよね」とおっしゃる中村さまに、「そうです。名刺をいただきましたので、お見せします」と私。
 取り出した名刺を、中村さまはひっくり返し、「あら、作家でいらしたんですか!」
 「えっ? えええええっっっ!!!」と、仰天しましたのは、私です。

 名刺の裏には、「宇神幸男」というペンネームに、代表作まで印刷されていまして、そのときまで気づかなかった自分に呆然としながら、検索をかけました。

宇和島藩 (シリーズ藩物語)
宇神 幸男
現代書館


 もともと、「郷土史家の館長さん」と思い込んでいたほどですので、上の「宇和島藩」には驚きません。しかし。

神宿る手
宇神 幸男
講談社


 30年ほど前に出版されました処女作は音楽ミステリー。デジタル版が出ていましたので、さっそく読んで見ました。
 ミステリー、というよりも、個性的で、世に入れられないピアニストをなにより浮き彫りにしたかったのでは、と思われる作品なんですが、最近、小説嫌いになった私が、いっきに読んでしまったほど、熱意が満ちていました。
 アマゾンのレビューに書いている方がおられますが、現実に「宇神幸男」氏が、同時進行で、「幻のピアニスト」エリック・ハイドシェックを宇和島に迎え、南予文化会館でのコンサートを成功させ、ライブ録音して、名盤の誉れ高いCD発売にまで関係しておられたんです。

伝説の宇和島ライブ1 テンペスト・版画
クリエーター情報なし
キングレコード


 上の盤のテンペストは名演として有名だそうですが、下の「月光」もすばらしいです。

月光 ハイドシェック 1989年宇和島市ライブ公演


 宇和島は、四国の端の小都市で、伝説のライブが行われた当時、人口10万そこそこ。現在は、86000人ほどです。
 にもかかわらず、迎え入れる文化の輝かしさは、いったい、なんなんでしょうか。
 イギリス公使パークスが来航した150年前にも、わずか10万石ながら、奥の侍医としてイネさんを迎え入れ、奥の女性たちは自由闊達にイギリス人に話しかけ、殿様と家老がスコットランド・ダンスを踊って宴席を盛り上げたわけですが、こんな藩は他にありませんでした。

 司馬遼太郎や吉村昭も泊まったという老舗、木屋旅館は、平成24年、ハイセンスに生まれ変わりました。



 玄関です。



 一部、透明のアクリル板なのが、なんとも新鮮です。




 洗面所、お風呂などの水回りは、モダンで、使い勝手も悪くありません。



 司馬さんが好きだったという2階の部屋は、居心地のいいライブラリーに。



 朝食のパンは日替わりです。この日はサンドイッチでした。
 夕食はついていなくて、食べに出るのですが、すぐ近くの桃太郎という割烹の魚介料理が、超美味でした。

 みなさまもぜひ一度、宇和島へお越しください。

クリックのほどを! お願い申し上げます。
コメント (13)
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