郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3

2012年10月28日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2の続きです。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1で書きましたが、エラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)の父、メイエル・リューリが、ニコラエフスクにおきましてリューリ兄弟商会を設立しましたのは、1901年(明治34年)、日露開戦の3年ほど前のことでした。
 
 メイエルは、やはりニコラエフスクの事業家(製材、毛皮、漁業)、ユダ・ルビンシュテインの妹、ライーサと結婚していまして、日露戦争開戦前年、1903年(明治36年)に長男アレクサンドル、日露戦争後の1906年(明治39年)に次男ロベルト、そして1909年(明治42年)に初めての女の子、エラが生まれました。

 ここまでは、主に「白系ロシア人と日本文化」の「漁業家リューリ一族」を参考にしています。

白系ロシア人と日本文化
沢田 和彦
成文社


 ここからは主に「ニコラエフスクの破壊」、米訳者(エラ)前文から。

 1914年(大正3年)、エラが5歳になった年、第一次世界大戦が始まりますが、この年、アムール河の下流域は、ウラジオストクを中心とする沿海州から分離され、サハリン州となり、ニコラエフスクはその州都になります。
 永住人口(夏期だけではなく冬もニコラエフスクで過ごす人口)は12000人。
 主な産業は、郊外の金鉱山、鮭鱒を中心とする漁業、林業、毛皮取り引きなどで、夏の出稼ぎ期には、人口は倍以上にふくれあがりました。百年後の現在、ニコラエフスク・ナ・アムーレの人口は3万人をきるそうですから、夏に限ればほとんど変わっていませんで、当時のシベリアにおきましては、かなりの都市でした。

 尼港事件の理解を助ける地図

 上の地図で、赤い炎の印がニコラエフスクです。
 間宮海峡を隔てて北樺太と向かい合っていますから、11月から5月までの半年以上、港が氷に閉ざされるほどに気候は寒冷です。とはいうものの、緯度をいうならば、アイルランドのダブリンやドイツのベルリンとあまりかわりませんで、ペテルブルクはもちろん、モスクワよりも南になります。

 幕末の樺太問題につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編中編後編上後編下と書きましたが、結局、黒田清隆がイニシャティブをとりましたことから、日本は、明治8年(1875年)、ロシアと千島・樺太交換条約を結び、南樺太を放棄します。
 幕末には、ずっと幕府が、南樺太の保持に腐心してきていましたから、これは、明治新政府の敗北といってもいい条約だったのですが、日露戦争の勝利により、ようやく日本は、南樺太を取り返します。
 つまり、ですね。この当時、南樺太は日本領でしたから、ニコラエフスクは、日本にとりまして、近隣といっていいロシアの都市でした。

 ニコラエフスクの学校は、無料の市立学校が2校と工業学校。そして高等教育を望むコースとしまして、女子には7年制のギムナジウム(古典科目中心)、男子にはやはり7年制の実業学校(科学や現代語中心)があり、この2校に入るには、8、9歳で入学試験を受けなければなりませんでしたので、子供たちは、家庭教師についたり、幼稚園に通ったりして、受験に備えました。

 新聞は2紙。映画館が2軒。一軒には、ステージもあって、劇場公演が行われていました。
 アムール河を見渡せる美しい公園があり、上手く運営されている公民館、図書館もありました。
 当時、ロシアの遠隔地にはほとんどなかった電灯や電話もありましたが、上下水道はなく、一部の富裕層のみが、自家用水道と屋内水洗トイレを持っていました。

 公共交通機関はありませんでしたが、辻馬車があり、大多数の人は馬を持っていました。1919年(大正8年)には、自家用車を持つ家も、何軒かはあったようです。

 チューリン商会、クンスト・アーリベルト商会、ノーベリ商会という3軒の大きな百貨店があり、ロシア正教の洗礼を受けました日本人、ピョートル・ニコラエビッチ・シマダ(島田元太郎のことです。エラは、島田はロシアに帰化していたといっているのですが、ちょっとその点は確認できていません)が経営する日本商店もありました。他は小さな商店で、そのほとんどは中国人が経営していましたが、グルジア人の店も、2、3軒あったといいます。

  6年後の1920年(大正9年)といいますから、尼港事件の起こった年ですが、ニコラエフスクの人口は16000人に増えていました。町で一番大きな企業は、イギリス人経営のオルスク・ゴールドフィールズ有限会社です。

  ちょうど、事件前年の1919年10月、人類学者の鳥居龍蔵が、日本軍が駐留しているニコラエフスクを訪れ、滞在しました。
 近デジで、鳥居龍蔵著「人類学及人種学上より見たる北東亜細亜. 西伯利,北満,樺太」が公開されていまして、見ることができるのですが、アルベルト商館(クンスト・アーリベルト商会)などの百貨店は、大戦開戦以来、欧州からの輸出入がほとんど止まった影響を受けて商品が入荷せず、島田商会の方が日本からの輸入が順調で、繁盛していた、と言います。

 鳥居龍蔵は、日本軍守備隊長の紹介で島田元太郎の家に泊まり、半年後には尼港事件で殉難することになります石田虎松副領事にすきやきをごちそうになっています。鳥居氏いわく、「副領事は芸術趣味の極く深い人であって、寧ろ外交官といふよりも文学者ともいふべき面影があった」そうです。副領事は絵を描き、写真が上手く、ロシア文学に造詣が深く、鳥居にモスクワ芸術座の話を語って聞かせました。

 日本人では、島田元太郎は別格として、他に米、木材、雑貨、菓子パン製造など、かなり大きな商店経営者が数人いました他、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職など、個人経営の職人が多く、また医師と歯科医もおりました。
 1918年(大正7年)1月の調査で、日本人は500人ほどで、そのうちのほぼ半数が女性。多数をしめます既婚女性の他に、娼妓など水商売の女性が90人、家事労働者(乳母、家政婦、女中など)が60人ほどいます。

 女性の水商売は、1895年(明治28年)、日本人の漁業関係者が多く進出していました時代に、天草の二組の夫婦が、近在の若い女性を連れて行ってはじめたもののようです。
 なお、この当時の沿海州には朝鮮人が多く暮らしておりましたが、ロシア正教に入信し帰化してロシア国籍になっていません場合は、すべて日本国籍です。そうした朝鮮人は、およそ1000人前後いたようですが、郊外で農業を営むか、あるいは中国人や日本人の商店などに雇われて働いていました。

 東北芸術工科大学東北文化研究センターのアーカイブスに、仙台の写真館が作ったらしい「尼港在住朝鮮ノ芸妓」という絵葉書が所蔵されていますが、娼妓には、朝鮮人もかなりいたものと思われます。

 尼港事件におきまして、虐殺を行いました赤軍パルチザンは総数4000名ほど。そのうちの1000名、ですから、およそ4人に1人が朝鮮人だったわけですけれども、原暉之氏によれば、ニコラエフスク市内で編成されました部隊は、ワシリー朴率います100名ほど。残り900名は外部から来たもので、朴イリアが率いていました。
 ワシリー朴にしろ朴イリアにしろ、ロシア正教の洗礼名を持っているわけですから、帰化してロシア国籍を得ていました。ワシリー朴は士官学校を出ていて、大戦に従軍していた、というような話も伝わっておりますし。

 パルチザンに加わったサハリン州の朝鮮人は、原暉之氏の言うように、大方、鉱山労働者ではなかったかと思われ、おそらく、家族がいない単身者だったのでしょう。
 ニコラエフスク近郊の農家の朝鮮人がどうだったかと言いますと、どうやら、村によって対応が別れたようなのですね。赤軍パルチザンは強制動員をかけていましたので、帰化していた場合などは、動員に応じなければ命が危ない、などということもあったかと思われます。

 尼港事件の後に、廃墟となりましたニコラエフスクに入った日本軍が、逃げたパルチザンの行方を追い、捜査をしております最中、近在の朝鮮人の家の女の子が「生活に困っているので雇ってください」と言ってきたので、その子の家を訪れたところ、なんと事件で戦死した石川少佐の遺体から盗んだ金時計だかが見つかった、などという話もあります。
 
 井竿富雄氏の『尼港事件・オホーツク事件損害に対する再救恤、一九二六年』によりますと、尼港事件でパルチザンの被害にあった、と訴える日本国籍の朝鮮人も多数いたそうですし、実際、虐殺されるところだったロシア人一家が、近郊の朝鮮人の農家にかくまわれて助かったりもしています。

 日本女性の家事労働者につきましては、沿海州のロシア人(とはいうものの、ユダヤ系だったりポーランド系だったりしますが)富裕層において、几帳面で温厚だと評判でした。
 日本の開国以来、極東ロシアには、単身の男性が圧倒的に多く、娼妓とともに家事労働に従う女性も必要とされたわけでして、ロシア正教に改宗して帰化しないかぎり、正式な結婚はできませんから、いわゆる内縁の妻状態の日本女性も多かったようです。家政婦、女中につきましては、もと娼妓であったという場合も、けっこうあったかもしれません。

 しかし、乳母となるとちょっと話がちがってきます。結婚して極東ロシアに渡り、未亡人になった女性などが多かったようです。
 エラのいとこたち(メイエルの弟アブラハムの子供たち)の乳母は日本人でして、あるいは、エラにも日本人の乳母がいたかもしれません。
 リューリ家と似ているのですが、政治犯としてシベリア徒刑となり、ウラジオストク近郊で鹿牧場を経営して富豪になりましたポーランド貴族のヤンコフスキー家でも、日本人の乳母を雇っていました。
 
 当時のニコラエフスクは、おそらく現在のニコラエフスクよりも、はるかに国際的です。
 ロシア正教の教会が二つ、ユダヤ教会が一つ、回教寺院が一つあったと言いますから、ロシア文化が基調ではありましても、様々な文化が共存していたわけです。

 ニコラエフスクにおいて、「子供にとっては、長い冬は楽しみな季節で、私の記憶も冬のものが多い」とエラは回想します。
 夏の楽しみは、ピクニックや定期的にやってくる移動サーカスや、たまに来る劇団でしたが、冬はアイススケートや板橇、犬橇でした。スケート場や橇のすべり台が、即席で作られました。公園には、公共のすべり台が設営され、それはアムール河の岸まで続いていて、最後は氷結した河面に出られたそうです。

 冬は、ロシア正教会の行事が続く季節でした。
 クリスマスには、巨大なクリスマスツリーが飾りつけられ、仮装パーティーが開かれました。
 年が明けて2月には、謝肉祭(マースレニツァ)。ロシアでは、仮装や橇遊びを楽しむ習慣で、ごちそうは、キャビアをのせたソバ粉のパンケーキでした。



 上は、謝肉祭に橇遊びをするロシアの子供たちです。場所はまったくちがいますが、1910年の絵ですので、参考にはなります。

 冬の終わりを告げます最後の祝祭日が、イースター(ロシアではパスハ)、復活祭です。イースターエッグを贈ることが知られていますが、ロシアでは、パスハと呼ばれるお菓子や、クリーチというパン菓子を作って祝います。




 上がパスハ、下がクリーチとイースターエッグです。

 エラの家はユダヤ教でしたので、聖書の出エジプト記にちなんだ過ぎ超しの祭を、3月から4月にかけて祝います。この期間はイースト入りのパンは食べない、など、いろいろと食べ物に制限があるのですが、エラは、過ぎ超しの祭がイースターの前に終わって、ロシアの伝統料理パスハやクリーチが食べられることが嬉しかった、と言っています。
 ユダヤ教徒ではありましても、あまり教条的ではなく、ロシア正教の祝日も祝っていたのかもしれません。

 1993年(平成5年)、80を超えて、エラはこの「ニコラエフスクの破壊」米訳者前文を書いています。
 「白系ロシア人と日本文化」によりますと、 「エラはソ連を3度訪れたが、ニコラエフスクに行けないことを残念がっていた」ということなのですが、米訳者前文を見ますと、おそらくはソ連崩壊の後、つまり80歳を超えてからだと思うのですが、生まれ故郷の土を踏むことができたようです。

 冒頭に書きましたように、1914年、エラ5歳の年に、第一次世界大戦が始まります。
 第一次革命といわれます血の日曜日事件の年の騒乱から、9年の年月が流れていました。
 
ロシア革命1900-1927 (ヨーロッパ史入門)
ロバート・サーヴィス
岩波書店

 
 読みやすいロシア革命の概説書をさがしていたのですが、オックスフォード大学教授ロバート・サーヴィス著の「ロシア革命1900-1927 (ヨーロッパ史入門)」は、当時のロシアが置かれました状況も的確に解説されていて、かなり満足のいくものです。

 第一次革命の後、1906年にロシア首相となりましたピョートル・ストルイピンは、過激な革命派を弾圧する一方で、言論、出版、結社などの自由を拡大し、ゼムストヴォと呼ばれます地方議会を強化し、農村改革、労働者の生活改善、ユダヤ人の権利拡大など、自由主義的な改革を行いました。ソ連崩壊後のロシアにおきまして、彼の改革は評価されるようになってまいりましたが、彼は1911年に暗殺され、改革は頓挫します。

 とはいいますものの、1905年以降、あきらかにロシアは変わってきておりましたし、第一次世界大戦にロシアが参戦し、敗退することがなければ、果たして史上初の共産主義革命は、成り立ったのでしょうか。
 参戦にいたる事情やその結果、開戦当初のロシア国内の空気につきましては、ロバート・K. マッシー著「ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇」が、上手く描いてくれています。

ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇
ロバート・K. マッシー
時事通信社

 
 社会革命党(エスエル)員で、2月革命後のロシア臨時政府指導者となったケレンスキーは、「対日戦争は王朝間の戦争でありまた植民地戦争であったが、1914年の対独戦争では、国民はこれが自分自身の戦争、ロシアの命運を左右すると直ぐに悟ったのである」と記し、さらに「宣戦の布告と同時に、革命運動は跡形もなくなくなった。国会のボルシェヴィキ議員ですら、祖国防衛に協力するのはプロレタリアートの義務であると、しぶしぶながらではあったが、承認したのである」と続けています。国会は、政府の軍事予算を、一票の反対もなく通過させました。

 第1次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルグ家)の世継ぎフェルディナント大公がセルビア人に暗殺され、オーストリアがセルビアに宣戦布告したことに端を発します。その5年前、ちょうどニコラエフスクでエラが生まれた年なんですけれども、1909年、ロシアはオーストリアのボスニア併合を認めるかわりに、セルビアの後ろ楯になることを誓約していまして、セルビアを見捨てることは、ロシアにとって、大国としての面子を捨てることでした。

 オーストリアと同盟関係にありましたドイツは、ロシアとオーストリアが開戦すれば、これもまた面子にかけてオーストリアの味方をすることになりますが、ロシアはフランスと同盟していましたので、西のフランス、東のロシアと同時に戦うことになります。1894年に露仏同盟が結ばれたときから、ドイツはそういう事態を予想し、対処プランを立てていました。鉄道網の発達が遅れたロシアは総動員に時間がかかるとみられることから、中立国ベルギーを通過して背後から迅速にフランスを叩き、反転してロシアを討とうというのです。
 しかしベルギーを踏みにじるというこの案は、確実にイギリスの反発を買い、参戦を招く可能性が高いものでした。

 実際、オーストリアの対セルビア宣戦布告に対してロシアが総動員令を発し、ドイツがロシアに宣戦布告して開戦となりますが、ロシアの動員には多大な時間がかかり、それを見たドイツはベルギー侵犯を決断して、イギリスが参戦します。
 緒戦から危機に陥ったフランスは、ロシアの攻撃を急かしに急かし、ロシアは兵力がそろわず、兵站も追いつかないままに攻撃をしかけました。
 結果、ロシアはタンネンベルクの戦いで、9万人が捕虜となり、死傷者数万人にのぼるという大敗北を喫し、以降、3年間で1550万人というものすごい数の兵員をつぎこみ、膨大な死傷者を出して奮闘しながら、劣勢に終始します。
 しかしドイツは、東でロシアの相手をするために西のフランス戦線から兵力をまわさざるをえず、それがためにフランスは、マルヌ会戦でドイツをくいとめ、長期戦に持ち込むことができたわけでもあります。

 いずれにせよ、第1次世界大戦は、未曾有の総力戦となり、交通網も工業力も、すべてにおいて、ドイツ・フランス・イギリスからは格段に劣りましたロシアは、武器弾薬が極度に不足し、鉄道網は麻痺し、大量動員で農村の生産力も落ちて、食料がなくなります。
 ドイツによってバルチック海が、トルコによってダーダネルス海峡と黒海が封鎖され、海上交通も、凍結期間の長い北のアルハンゲリスクと極東のウラジオストク以外は不可能となり、ロシアの輸入は95パーセント、輸出は98パーセントが止まりました。

 しかし開戦当初、ほとんどのロシア人は、戦争は半年で勝って終わる、と思っていましたし、だからこそ、ケレンスキーも記していますように、大方の国民が愛国心に燃えて開戦を歓迎し、ツァーリ(皇帝)を支持していたのです。

 ニコラエフスクは、といえば、もちろん兵員の動員はありましたが、戦場ははるか彼方のヨーロッパでしたし、ごく近くに、連合国側で参戦していて、このときのロシアにとりましては心強い味方の日本があり、太平洋の彼方にはアメリカもひかえていましたから、物資の不足を心配することはなかったでしょう。
 革命に至るまで、エラの子供時代は平和でした。

 続きます。
 

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2

2012年10月20日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1の続きです。

 メイエルの娘、エラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)は、1909年(明治42年)、日露戦争の5年後にニコラエフスクで生まれました。うちの祖父母と同じくらいの世代です。

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 ロシア革命から内戦の時代を描いた映画で、日本で公開されているものは、あまりないような気がするのですけれども。
 このデイヴィッド・リーン監督の「ドクトル・ジバコ」は、1965年、冷戦の時代に西側で撮られた映画です。従いまして、撮影はスペインやフィンランド、カナダなどで行われました。
 私、数年前にケーブルテレビで見まして、DVDを買ったのですが、ラブストーリーが中心にすえられ、ロシア革命の過程は非常に短縮して描かれている、とは思うのですが、名作といわれるだけのことはあるのではないでしょうか。
 最近、キーラ・ナイトレイ出演リメイク版テレビドラマのDVDが発売されているようでして、内容は置いておいても、撮影はロシアでしょうから、買ってみるつもりでおります。ロシア版テレビドラマもあって、これこそロシア国内ロケまちがいなしでしょう。見たいのですけれども、お値段がちょっと。

 ともかく。
 1965年版の「ドクトル・ジバコ」なのですが、1905年1月9日の血の日曜日事件から1917年の2月革命まで、12年の歳月が流れているとは、ちょっとわかり辛いストーリー展開になっています。

 ロシア革命の幕開け、とも位置づけられる血の日曜日事件は、ロシア帝国の首都ペテルブルクにおきまして、日露戦争の最中に起こっております。
 簡単に言ってしまえば、天安門事件のようなもの、でしょうか。
 血の日曜日事件は、体制をゆるがして12年後の革命につながりますが、天安門事件は体制側がひきしめに成功して、20年を超えた今も強権独裁政権が続いている、という点で、ちがいはするのですけれども

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 ひえーっ! YouTubeで、血の日曜日事件に関する動画をさがしていますうちに、1971年のアメリカ映画「ニコライとアレクサンドラ」に、かなり史実に近い感じで描かれていたのを思い出しました。これ、映画としてはおもしろくなくって、内容を忘れこけていたのですが、史劇ですし、そこそこ当時を思い描ける映像ではあるんですよね。
 えーと、消されなければいいのですが、下の動画が「ニコライとアレクサンドラ」の血の日曜日事件の部分です。曲は映画のものではなく、エヴァネッセンス(Evanescence)の「 All That I'm Living For」。

Bloody Sunday (1905) - Кровавое Воскресенье



 この映画で描かれていますように、軍が労働者のデモ隊に発砲し、大虐殺が起こりました主な舞台は、ペテルブルクの冬宮、現在のエルミタージュ美術館前広場です。
 ロシア帝国政府の公式発表で、死者130人、負傷者299人。誇張された報道に基づき、レーニンが想定した死傷者は4600人。歴史家が述べる妥当な線で、死傷者800人から1000人の間、だそうです。(「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」p150)
 動画の字幕は死者4000人ですから、誇張された数の方をとっておりますね。
 デモ隊の真ん中にいます僧侶は、ガポン神父。デモ隊を組織し、請願行進を主導した人物です。

 以下、主に西島有厚著「ロシア革命前史の研究―血の日曜日事件とガポン組合 (1977年)」を参考にしまして。

 このガポン神父、一応、ロシア正教会の聖職者なのですけれども、通常の僧侶の歩むコースからは大きくはずれた人でした。
 レーニンと同じ年に、ウクライナの豊かな農民の子として生まれ、ロシア正教会の神学校へ進みますが、トルストイ主義(作家トルストイは独自のキリスト教信仰を公言していまして、正教会から破門されました)の影響を受け、社会的で行動的なキリスト教を求めて、既成のロシア正教会には批判的になっていきます。

 ガポンはいったんは正教会の聖職についたものの、結婚問題もあり、挫折して、ペテルブルクで、労働組合といいますか、労働者互助会といいますか、を組織し、労働運動を主導します。
 ガポンの労働者組織の基盤には、警察が治安対策としまして、労働者を体制側に囲い込むために組織していました御用組合があり、保安警察(オフラーナ)からの資金援助を受けていました。しかし、やがて組織の幹部に社会主義者が入りこみ、かならずしも体制よりとばかりもいえないものとなってゆきます。

 とはいいますものの、ガポン神父が企てましたのは、「労働者の保護政策、日露戦争の中止、憲法の制定」などを、皇帝へ請願するために冬宮へ向けて行進しようということでして、しかも体制側は事前に、大規模請願デモになることを知っていました。
 知っていましたから、軍隊を動員し、周辺から行進してくるデモ隊を市の中心部に入れないために、各所に配しておりました。ところが、取り締まる軍と警察の間に連携はなかったようでして、労働者が多数住む地区の警察官は、なにしろ御用組合のデモですから、先頭に立って行進し、軍の銃弾をあびて死んだりもしているんですね。

 結局、数万人を集めたデモ隊が、体制側の予想を大きく超えたということなのでしょうか。
 非暴力のデモでしたけれども、万一の事態のために、ということで、武器の携帯は許可され、銃を携帯する者もあり、一部応戦したりすることもあっったのかもしれません。
 軍は、各所で流血沙汰を起こしながら、結局、冬宮へ向かう群衆を止めることができず、映画「ニコライとアレクサンドラ」で描かれました冬宮前広場の惨劇、となります。

 「ニコライとアレクサンドラ」では、この事件の裏に日露戦争があったことをも的確に描いています。
 実はガボンは、旅順陥落にあわせてこの請願デモを行った、という話もあります(「ロシア革命前史の研究―血の日曜日事件とガポン組合 」p291)。
 事件後、国外へ出たガボンには、ロシアの反政府運動を支援していました明石元次郎との接触があった形跡があり、社会革命党(エスエル)とともに、明石が工作資金を流した事件に関係します。イギリスの貨物船ジョン・グラフトン号で、ロシアの反政府勢力のために武器を密輸しようとしたのです。失敗に終わりはしたのですけれども。(「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」p174)
 ガボンが、事件前から明石工作に関係していた、という証拠はないのですが、いずれにせよ請願には、はっきりと「日露戦争の中止」と謳われていますし、事件が日露戦争と密接な関係をもって起こったことは確かです。

 日露開戦当初、大多数のロシア国民はかつてないまでに愛国心に満ちて、ツァーリ(皇帝)と戦争を支持していました(「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」p103-105)。ロシア国内が戦場になる心配はないと確信されておりましたし、戦争の相手は、大方のロシア国民には縁のない極東の異人種で、簡単に勝利が得られるはずでした。

 ところが、ロシア国民にとりましては、なんともすっきりしません状況のもと、初戦から敗退の報が届き、次第に、挙国一致の熱は冷めていくんですね。
 やがて戦場には、ロシア西部の正規軍から予備役までがかり出され、鉄道は軍事輸送のみに使われて、物価が急上昇し、実質賃金が目減りします。おまけに、開戦の1904年、ロシアの農作物は不作でした(「ロシアはなぜ敗れたか―日露戦争における戦略・戦術の分析」)。
 そうなってきますと、膨大な戦費を費やして、若者が戦場にひっぱられ、なんのために遠い異国の満州で戦っているのか、一般国民には意味が見いだせなくなっていき、一挙に不満が噴き出します。

 日露戦争の遠因に、1891年(明治24年)から始まりましたシベリア鉄道の建設があります。
 露清密約によりまして、満州での大きな権益を得ましたロシアは、東清鉄道を建設してシベリア鉄道ににつなぎます。主にフランスからの投資で進められましたこの事業は、ロシアのシベリア・満州開発に拍車をかけ、戦時の輸送力を飛躍させますことから、日本にとっては大きな脅威となり、またロシアでは、鉄道建設によります工業化効果で、農村人口が都市へ流れ込み、貧しい労働者がスラムを形成するようになります。(「シベリア鉄道―洋の東西を結んだ一世紀」 (ユーラシア・ブックレット)

 以下、主にハリソン・E.ソールズベリー著、後藤洋一訳「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」によりますが、一方で産業の拡大により、19世紀末のロシアには、サッバ・モロゾフ、サッバ・マンモートフ(Савва Иванович Мамонтов)などの大富豪が生まれておりましたが、ロシア帝国は彼らを、体制側に取り込むことができないでおりました。

 サッバ・モロゾフの祖父は農奴で、自分と家族の自由を買い取った上で、事業の基礎を築き、次の代で繊維、工作機械、製造業などの連合企業体経営で億万長者となり、サッバはそれを受け継ぎました。
 一方、サッバ・マンモートフは父親が徴税代理人で、鉄道事業を手がけて富を築き、息子のサッバがそれを拡張しました。
 そのモロゾフもマンモートフも、ボリシェビキやメンシェビキ、社会革命党など、反政府勢力に莫大な資金援助をして、その活動をささえていたんです。彼らはまた、多数の芸術家たちのパトロンでもあり、マンモートフはモスクワ芸術座の財政を賄ったことで有名です。
 
 新興ブルジョワジーの富は、変革への期待を育み、新しいロシアの文化を大きく花開かせたわけです。チェーホフやゴーリキーの脚本による演劇。リムスキー=コルサコフなどの音楽。ニジンスキーなどのバレエ。

 またこの当時、ベルエポックの華やかなパリとペテルブルクは、豪華寝台車で結ばれ、富裕な人々や芸術家たちは、気軽に行き来してもおりました。
 アメリカのダンサー、イサドラ・ダンカンは、ヨーロッパ公演の一環でロシアを訪れ、血の日曜日事件で虐殺された人々の葬儀を目撃しています。
 そして、血の日曜日事件のよく年からは、ディアギレフを中心として、ロシア美術や音楽、そしてバレエのパリ進出が実現し、世界的に認められることともなりました。

 しかし、文化的には独自のインパクトを持つに至ったそのロシアにおいて、日露戦争開戦時には、国会(ドゥーマ)は開設されておらず、憲法もありませんでした。
 ロシアの文化人たちの多くは、血の日曜日事件に衝撃を受け、ガボンの知り合いだった劇作家のゴーリキーは、事件の夜、「われわれは、こういった種類の体制にはもう堪えられない。すべてのロシア市民に、専制に対抗して団結し、不屈の闘争に立ち上がるようよびかける」といったアピールを執筆しました。

 ペテルブルク音楽院の院長で、政治的には、決して急進的ではなかったリムスキー=コルサコフも、政府批判を行って一時職を追われます。一幕もののオペラ「不死身のカシチェイ」は、血の日曜日事件の犠牲者にささげられ、ロシアの専制政治を風刺している、といわれます。
 事件の翌年から一年をかけて作られ、コルサコフの遺作となりましたオペラ「金鶏」にもまた、専制への抗議の思いが込められていました。

 
リムスキー=コルサコフ:歌劇《コックドール(金鶏)》全曲 パリ・シャトレ座2002年 [DVD]
クリエーター情報なし
コロムビアミュージックエンタテインメント


 このDVDは、2002年、パリ・シャトレ座で上演されました、市川猿之助演出の「金鶏」です。
 「金鶏」は、プーシキンのおとぎ話を原作としていますが、オリジナルといってもいい筋立てでして、ある王国の老いた独裁者ドドン王とその王子たちが、東方の謎の王国シェマハの女王にまどわされ、滅びていきます。女王は「軍事ではなく美の力で征服しにきた」と言いますし、東方といいましても中央アジアのようではあるのですけれども、作られた時期が時期でありますだけに、シュマハの女王は日本を象徴しているのではないか、という見方もあります。

 日露戦争の前後には、川上貞奴や花子(ロダンの彫像のモデルとして知られています)がロシアで公演し、また浮世絵などの日本美術も注目をあびまして、ロシアにもジャポニズムの波は起こっていました。「美の力で征服」も、当時の日本にふさわしかった、といえば、いえなくもありません。
 
Rimsky Korsakov - Hymn to the Sun - Le Coq d'Or



 シェマハの女王のアリア「太陽への讃歌」です。

 1905年、血の日曜日事件の後も、日露戦争におきますロシアの敗退は続き、ロシアをおおいました不穏な空気は消えません。社会革命党によるセルゲイ大公暗殺事件も起こりました。
 夏になって、ロシアにとりましては有利な条件でポーツマス条約が調印され、ようやくのことで、日露戦争は終わります。
 その直前に、ニコライ二世は、さまざまな制限つきではありますが、国会開設を認可する新法を発布しました。

 しかし、事はそれではおさまりませんでした。
 亡命していた革命家たちが帰国し、ペテルブルク、モスクワで、学生たちが大規模なデモをくりひろげ、労働者がゼネストをはじめ、それが地方都市に飛び火します。

 ニコライ二世は、「人はつねに自由を求めて刻苦する。教養ある人は、自由と法、法に規制されたる自由と、彼の権利の安泰を望む」と洞察した改革派のウィッテの献策を入れ、立憲君主制への道を開く詔書を発布します。
 しかし、体制側が示しましたこの妥協は、例えばトルストイや、立憲民主党(カデット)を創設することになるパーベル・ミリュコーフなど、穏健な人々にとりましても、漸進的にすぎまして、納得がいかないものだったのです。

 騒動は収まらず、むしろ激しい反政府暴動となりまして、結局、体制側は、徹底した武力弾圧に転じました。
 ロシアでは、革命を扇動する革命家たちはユダヤ人だと見られ、騒動鎮圧の過程で、ポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こりもします。
 結局、ほぼ1905年いっぱいで争乱は収束し、12年間の間、一見、革命の芽は消えたかのようにも見えました。
 トロツキーは「1905年の革命は、1917年の革命の舞台げいこであった」と結論づけています。

 そしてリムスキー=コルサコフは、「金鶏」の最後をドドン王の死でしめくくり、残された王国の人々に「もう一度夜明けはくるのだろうか? 王様なくして国はどうなるのだろうか?」と嘆かせているんです。
 ロシア帝国の土台は、確実に時代の流れに削り取られていました。

 リムスキー=コルサコフが世を去りました翌年、極東のニコラエフスクに、ユダヤ人実業家の娘として生まれましたエラ・リューリ・ウイスエル。

 血の日曜日事件だけで、長くなってしまいまして、エラのお話は、次回に続きます。


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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1

2012年10月12日 | 尼港事件とロシア革命

 またまた、ご無沙汰いたしました。
 呉成崙について書いていますうちに、資料読みがハルピン学院から日露関係、極東ロシアの歴史へとひろがってしまい、そこに母の眼病の世話が重なったりなんぞしまして、またまた私、脱線してしまったんですね。

 尼港事件です。えーと。
 とりあえずwiki-尼港事件をご覧になってみてください。いえね、手伝ってくださる方々がいて、今の形になったのではあるんですけれども、この夏はこれで気力を使い果たしました。
 いちいち出典を明記した味気ない事実関係の精査を文章にしますよりは、たっぷりと推測、憶測をまじえてはじける方が好きな私。なにを好きこのんでこんな労苦に従ったかって……、怒り!!!です。

 原暉之という学者さんがいます。一応、ロシア極東史の専門家、ということになっているんですけれども。
 私、確か金光瑞のことを書き始めたころだったと思うんですけれど(あるいはもっと前だったかもしれません)、シベリア出兵についてまとまった本が読みたくて、この方の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」を古書で買って読みました。

シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922
クリエーター情報なし
筑摩書房


 現在、ものすごい値段になっておりますが、当時は3000円くらいだったように記憶しています。実はciniiで全文DLできるのですが、なにをとち狂ったのか、八千数百円という値段がついております。「今となっては内容が恥ずかしくて、あんまり読んでもらいたくないということかしら?」と勘ぐりたくなってしまうほどです。
 細谷千博氏の「シベリア出兵の序曲」と「日本とコルチャク政権承認問題 原敬内閣におけるシベリア出兵政策の再形成」は一橋大学機関リポジトリで無料で読めまして、古い論文ですが、私にはこちらの方が、はるかにまっとうに思えます。

 ともかく、です。「これって、参考になる部分があまりないよねえ」と溜息をつき、特に尼港事件の部分など、「いや私、小説が読みたいわけでなし、あなたの頭の中の物語はどうでもいいから。根拠薄弱な憶測が多すぎるよ。事実関係はどうなの???」と、あきれた気分でした。著者の思想にそいましてあらかじめストーリーができあがっている趣でして、「正義のボルシェヴィキ革命とそれを邪魔する悪者日本軍物語」とでもいうような印象を受けました。

 もうちょっとこう、バイアスのかかっていない文献はないものかと、ネットで検索をかけましたところ、事件当時に白系ロシア人ジャーナリストが確かな資料を入手し、4年後の1924年、ベルリンで出版しました「ニコラエフスクの破壊」(ロシア語)が、2001年に和訳されていることを知りました。ところがこれが、どうも少部数の自費出版のようでして、全国で、所蔵している公立図書館も少数なんですね。
 仕方なく、東京へ行きましたときに国会図書館で斜め読みし、「これは手に入れねばっ!!!」と決心したのですが、当時は古書が見つかりませんでした。中村さまのご助力もあり、半分はコピーしたのですけれども、その内容があまりに、原氏の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」とちがいすぎまして、双方を精読した上で、もっと文献を集めなければならない、と悟り、目眩がして放り出していたんです。

 ところが今回、呉成崙からまた関心がぶり返し、コピーを読み返していますうちに、古書が出ているのを見つけて買いました。
 精読しました結果が、原暉之の頭の中って、いったいどうなっているのっっっ!!!!!と、怒髪天を衝く状態、です。

 といいますのも、wikiに書いておりますが、原暉之氏は『「尼港事件」の諸問題』といいます短い論文で、ロシア語版「ニコラエフスクの破壊」を貴重な文献だと絶賛し、実際、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」でも、参考文献として使っているんです。もちろん、参考文献にしたからと言いましても、なにからなにまでその本を信用する必要はないんですけれども、「ニコラエフスクの破壊」には、事件中に組織されましたニコラエフスク市の調査委員会が、複数のパルチザンも含みます生存者から聞き取った証言集が付属しています。当然のことなのですが、ソ連時代、事件からかなりの期間が経って、ソ連政府の意向のもと、元パルチザンが残しました回想録とくらべましたら、はるかに、この証言集の方が信用できます。

 実は事件の後、ロシア・ソヴィエト政府と日本政府の間で、尼港事件の賠償問題が持ち上がっていまして、ソヴィエト政府にとりましては、当然のことながら賠償などごめんこうむりたいわけですし、非を認める気はまるでなかったんです。
 したがいまして、事件を引き起こしましたトップの赤軍司令官ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンと参謀長ニーナ・レベデワ・キャシコ他、数人は人民裁判にかけられて処刑されていますが、事件の最中にトリャピーツィンとニーナが連名で各地に打電しました「悪いのは日本軍、自分たちはこんなにも正しい!!!」というだけの長文言い訳宣伝電報の内容が、そのままソ連政府の公式見解とでもいったものになってしまっちゃったんですね。以降長らく言論統制していた国ですから、ソ連政府の見解はそのままソ連の歴史学者の見解でもあり、元パルチザンの回想録ももちろん、ソ連の公式見解に従ったものでしかありません。

 ところが原暉之氏は、なにをどう夢想なさったものなのか、ソ連政府の公式見解、つまりは、事件主犯の言い訳が、日本人の記録よりも白系ロシア人が命がけで残した記録よりも、尊く、輝いて見えたらしいんです。
 私、子供の頃から祖父母・両親に「共産主義を礼賛する左巻き学者は、中共、ソ連など共産圏の国には言論の自由がないという現実を見ず、ダブルスタンダードで日本政府やアメリカ政府のみを批判するので、信用がならない」と言い聞かされ、乙女の頃には祖父母両親の見解に多少の反発も感じておりましたが、今思えばつくづく、戦争を経験した世代の現実感覚は、確かでした。

 原暉之氏の見解のなにが変って、白系ロシア人の証言をすべて無視し、そりゃあものすごい拷問の果てに殺されたりするわけですから、日本の史料の中に自決した日本人もいたらしいと推測できる材料もありますのを拡大解釈し、悪いのはみんな日本軍で、一般居留民はほとんどが日本軍のまきぞえ集団自殺!!!といいますような、ものすごい憶測を、まことしやかになさっておられます。心底、あきれました。ボルシェヴィキ革命の栄光!!!のためならば、日本人の命もロシア人の命もどーでもいい、というのでしょうか。思想で事実をゆがめて見てしまう殿方って、多いですよねえ。怖い話です。

 それでも、原暉之氏は北海道大学名誉教授ですし、白系ロシア人の証言って信用できるの? という原暉之信者さんもけっこうおられるわけらしいのですが、とりあえず、現在のまっとうな日本人研究者の認識では、少なくとも集団自殺かもしれない説は、顧みられておりません。以下、井竿富雄氏の『尼港事件と日本社会、一九二〇年』より、引用です。

 ロシアの町ニコラエフスク(当時の日本人は「尼港」と言った)において、パルチザン部隊と日本軍の武力衝突が発生し、日本軍は武装解除されて殺害された。同時にこの街にいた在留邦人が捕らえられて殺害された。同地駐在の日本領事石田虎松らも死亡した。その上パルチザン部隊は町に火を放って撤退したため、すべては灰燼に帰した。生命が助かっても、財産を失った者もいたのである。同地にいた中国軍の軍艦が助けを求める在留邦人を撃つという事件も同時に発生した。軍人が武装解除されて殺害、民間人のみならず国際法上保護されているはずの外交官まで殺害されるという、これまでに日本が経験したことのない大惨事であった。この事件で邦人殺害を指揮したパルチザン部隊のリーダーたちはのちにボリシェヴィキ政権によって処刑された。機密文書である参謀本部の『西白利出兵史』ですら「千秋ノ一大痛恨事録シテ此ニ至リ悲憤ノ涙睫ニ交リ覚エス筆ヲ擲ツ」と感情的な一節を書き記している。

 えーと。事実関係の表現には、わずかながら正確さを欠く部分があると私は思いますが(例えば「パルチザン部隊のリーダーたちはのちにボリシェヴィキ政権によって処刑された」という部分、パルチザン部隊のリーダーたちはボリシェヴィキ政権そのものだったのですし、処刑した側のみがボリシェヴィキ政権と受け取れるような表現はどうなのでしょうか。ボリシェヴィキ政権の内部分裂で処刑された、という方が、より事実に近いと私は思います)、しかし、井竿富雄氏が「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」の描写します「尼港事件集団自殺かもしれない説」に関しましては、いっさい考慮されていないことはあきらかです。

 事件直後、極東共和国政権下の1920年8月16日、サハリン州議会が採択した「ボルシェヴィキに関する決議文」を以下に引用します。

サハリン州の住民71名から成るサハリン議会は、ロシア国家の全国民に対し、次の声明を発表する。
「1920年3月1日から6月2日にかけて、サハリン州は、ロシア社会主義連邦共和国の名の下に統治された。この間、ソビエト政府の代表者達は、全ての軍将校(偶然救助されたグリゴリエフ中佐を除いて)、ほとんどの知識階級、多くの労働者、そして農民、女性、子供、幼児を射殺し、刺し殺し、斬殺し、溺死させ、死ぬまで鞭打った。彼らは、日本領事や派遣軍兵士も含め、日本人居留民を抹殺し、また、日本人女性や子供たちを、野蛮人にしかできないような暴虐非道のもとにさらした。ニコラエフスクの町の全てを焼き尽くし、石造建築物を爆破した。無傷で残ったのは、町の外縁部に位置する、ごくわずかな小家屋だけであった。港の建物、埠頭、付属施設は焼き落とされた。カッター船、小型舟艇は、全て爆破され沈められた。町を覆う炎から逃げ場を求めて来た人たちで溢れかえっていた桟橋を、爆破した。彼らは、アムール河河口および河岸沿いに設けられていた、装備の充実した漁場施設の多数を、燃やして消滅させた。いくつかの農村を焼き払い、設備の整った金鉱事業所の多くを完全に破壊し尽くした。逮捕した女性や少女たちを陵辱した。宗教の如何を問わず、宗教的事物を冒涜した。
 ニコラエフスクの殺戮を生き延びたものの、タイガに逃げ込むことができなかった、女性や子供、わずかな男性を含む、5,000人近い人々が、ケルビもしくはアムグンに強制連行された。その途中、孤児院から連れてこられた子供たちは、バルジ船からアムール河に投げ込まれた。ケルビもしくはアムグンに連行された者の一部は、殺された。クラスニイ・クリチ紙に掲載された、ケルビに置かれたサハリン・ソビエト政府の公式発表によると、州の人口の半数がソビエト政府により抹殺された、という。ソビエト政府の同調者や構成員によって実行されていた、強制、殺人、陵辱などの行為は、日本軍のニコラエフスク地区到着によって終焉した。
 州は文字通り荒廃した。食料もなく、衣服もなく、靴さえもない。
 ロシア国民よ、ボルシェヴィズム思想の本性と、彼らを正気に立ち返らせる方法を明らかにすべき時、そして、ロシアという君主国の再建を始めるべき時ではないだろうか?」
 本声明は、満場一致で可決された。

 
 結局、この声明文は歴史の闇に埋もれ、極東はソビエト・ロシアに呑み込まれてしまいまして、虐殺の波にくり返し洗われましたソ連時代が、70年もの長い年月続きます。ソ連崩壊からしばらくして、だったと思うのですが、樺太南部を訪れた日本の取材陣が、戦前の日本の缶詰工場の設備がそのまま使われておりますことを、驚いてレポートしていました。宇宙開発や軍備に関しては、ソ連は日本を凌駕していたわけでして、戦前の日本の缶詰工場!!!は、学校教育などで、ロシア革命の栄光!!!を教え込まれておりました当時の私にとりましては、驚きのソ連の現実でした。

 声明文を収録しました「ノコラエフスクの破壊」は、1924年にベルリンで出版されて以来、尼港事件について書かれた西側世界のロシア語文献、といいます特殊な位置にありまして、例えば原暉之氏のように、ロシア語を知る西側世界のロシア近代史研究家、といった特殊な人々しか知らないものでした。
 それが、英語に訳されましたのは、ソ連崩壊の後、1993年(平成5年)のことです。
 訳したのは、ニコラエフスクを故郷としますユダヤ系のアメリカ人、エラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)。

 エラの祖父モイセイ・リューリは、リトアニア生まれのユダヤ人で、1863年のポーランド蜂起に参加し、25年間のサハリン徒刑になったと言います。
 幕末、押し詰まった時期にサハリンに流されたわけですから、明治2年、「明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上」で描いておりますころに、徒刑囚として樺太にいた可能性があるわけでして、しかもかなりなインテリのようですし、モンブラン伯爵とお話していたりすれば、おもしろいんですけどねえ。

 wiki-ニコラエフスク・ナ・アムーレの方に書きましが、このときモンブラン伯爵が、ロシアにおける樺太開発の基地がニコラエフスクであることを、明治新政府に報告しています。

 ニコラエフスクは、大河アムールの河口にあり、夏は船舶によって、冬は氷結した川面を橇によって、シベリア内陸部との交通が可能で、当初は、海軍基地として整備されたんですね。間宮海峡をはさんで、北樺太は目と鼻の先です。幕末には沿海州の州都でした。しかし明治10年ころ、ほとんど氷結することのないウラジオストクへ海軍施設が移り、 ニコラエフスクはさびれます。
 明治20年(1887年)前後には、黒田清隆、アントン・チェーホフ(劇作家)が訪れて、人口2000人足らずの荒廃したニコラエフスクの様子を書き残しています。

チェーホフ全集〈12〉シベリアの旅 サハリン島 (ちくま文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房


 エラの祖父モイセイがニコラエフスクへ移住したのは、この荒れていた時期ではないかと推測されますが、文化人類学者のブロニスワフ・ピウスツキと知り合いだったと言います。ブロニスワフの弟はポーランド共和国初代元首のユゼフ・ピウスツキでして、この兄弟、ロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺計画にかかわって、ユゼフがイルクーツク周辺へ、ブロニスワフがサハリンへ、流刑になっているんですね。
 このアレクサンドル3世暗殺未遂事件では、主犯格でレーニンの兄さんが死刑になっていて、このことが革命家レーニン誕生に大きく影響した、といわれていますが、ちょうど尼港事件が起こった1920年、ユゼフ・ピウスツキは、独立したポーランドのために、レーニンのソビエト・ロシアを相手取って、ポーランド・ソビエト戦争を戦い抜いて勝利するわけですから、めぐりあわせとは、不思議なものですね。

 なお、ユゼフは日露戦争時に来日し、ポーランド独立のための協力を求めて活動した親日家ですし、ブロニスワフは樺太アイヌの女生と結ばれて、現在子孫の方が日本にいるそうです。

 ともかく、です。モイセイは1860年生まれのアンナ・イリニシュナと結婚し、ニコラエフスクに落ち着いて、エラの父であるメイエルとその弟のアブラハムを儲けました。しかしモイセイは、ある時狩猟に出かけ、そのままいなくなったのだそうです。
 ブロニスワフ・ピウスツキがメイエルの家庭教師をしていた、とも、エラは伝え聞いているようです。

 ニコライエフスクで、漁業を事業として成り立たせましたのは、日本人です。鮭漁中心ですし、交通手段も保存方法も、現在のように発達していません。輸出先の中心は、日本でした。当初、ロシア側は日本人を歓迎し、多くの日本人漁業関係者が移り住みましたけれども、1901年(明治34年)、おそらく、日露の政情悪化を反映して、ではないかと思うのですが、日本人はしめだされ、撤退します。この翌年、メイエルとアブラハムのリューリ兄弟は、商社を設立して、漁業経営に乗り出します。
 ニコラエフスクには島田元太郎という日本人がいまして、彼はロシア正教に改宗し、ロシア人社会に溶け込んでいました。これもおそらく、なのですけれども、リューリ兄弟が漁業経営をするにあたりましては、島田元太郎との強い連携があったと推測されます。

 1904年(明治37年)の日露戦争は、一時、リューリ兄弟商会を苦境に陥らせます。しかし、それも逆手にとって、ヨーロッパ・アメリカで船と商品を仕入れ、日本海軍の封鎖突破を試み、成功して、大きな富を得ます。そして終戦後、日露関係は好転し、リューリ兄弟商会の事業も発展して、首都ペテルブルクでも事業を展開するようになりました。あるいは、ユダヤ系商人の強みといいますのは、偏見無く、世界各国の人々と商関係を築くことができたところに、あったのかもしれません。

白系ロシア人と日本文化
クリエーター情報なし
成文社


 リューリ一族の話につきましては、「ニコラエフスクの破壊」に加えまして、上の「白系ロシア人と日本文化」の中の「漁業家リューリ一族」を参照しております。
 リューリ一族は、ロシア10月革命の嵐に襲われ、尼港事件の悲劇を体験し、結局、故郷ニコラエフスクを追われることとなるのですが、長くなりましたので、次回に続きます。

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