郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。フランス、イギリスを主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには映画、読書、旅行の感想も。

「桐野利秋とは何者か!?」vol5

2020年05月11日 | 桐野利秋
 「桐野利秋とは何者か!?」vol4の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 前回の投稿から、一年以上の月日が流れました。
 母が骨折、施設に入所、自分の腕の再手術といろいろありまして、ようやくなんとか落ち着いたかと思いましたら、コロナ騒動です。
 久しぶりに東京へ行って、中村様にお会いして、いろいろ資料を調べたり、宝塚関係のコンサートへ行ったりの計画がすべてダメになりまして、やっとブログを書く気になりました。
 更新しない間にも、読んでくださる方があり、コメントを残してくださる方がおられるのは、ほんとうにありがたいことです。

 さて、本題ですが、桐野氏の著作となっております、薩摩の密偵です。
 氏は「はじめに」において、以下のように述べておられます。

 文久から慶応期(1861〜67)までの幕末の激動のさなか、桐野はひそかに「密偵」として活躍するとともに、逆に藩内に潜入する「密偵」を察知、排除する防諜活動を行う監察(目付)でもあった。

 「密偵としての桐野」はこの本の眼目でして、氏の設定では、桐野が密偵となりましたのは「文久3年(1863年)からではないかと思われる」ということなんです。
 しかしこれには、史料の裏付けがありません。 

 そもそも、藩士にして密偵とはなになのか、という問題があります。目付が密偵を兼ねていた、という例はありますから、目付であったというならば、密偵であったかもしれないと思うのですが、桐野が目付であったという史料は、ありません。
 例えば、です。
 幕末京都を吹き荒れました天誅の嵐。その先駆けとなりました島田左近暗殺は、薩摩藩の手になるものです。
 田中新兵衛が有名ですが、一緒に行動しました志々目献吉は横目付で、あきらかに藩組織の一員として暗殺に加わっています。
 この文久2年、志々目はまた、久光の命を受けて、西郷隆盛捕縛に向かってもいるんですね。
 そして何年だったか、うろ覚えで申し訳ないのですが、忠義公史料に、彼が、在京長州の重要人物・久坂玄瑞を見張って、報告を上げていた文書も残っています。

 しかし普通、史料が残る薩摩の密偵といえば……、いえ、密偵と言うよりは諜報員といった方がぴったりきそうですが、富山の薬売(大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」前編参照)とか、高杉晋作と奇兵隊の後援者として知られます下関の白石正一郎とか、薩摩藩から利益を受けていた商人が主です。ああ、白石正一郎の報告書は、忠義公史料に残っているのですが、政変で薩長手切れとなって後は、諜報の役目は返上したようです。
 これ、別に薩摩に限ったことではありませんで、長州は京阪の出入り商人の多くから情報を仕入れていましたし、浄土真宗の僧侶も、役目を果たしたんじゃないんでしょうか。

 ともかく桐野氏は、史料がないままに「桐野は密偵」と決めておいでですから、以下のような文章になるみたいなんですね。
 第3章「神出鬼没の諜報家として」P49から引用です。

 桐野は友人の肝付十郎とともに同藩邸(長州藩邸)に潜入している。むろん、長州や土佐の攘夷派に親近感を示しながら近づいたのである。そのためか、同藩邸に出入りしていた土佐脱藩浪士の大物である中岡慎太郎もコロリとだまされている。

 桐野が中岡慎太郎を騙したという根拠は、なにもありません。
 といいますか、仮に例え桐野が薩摩藩の諜報員だったにしても、です。なぜ、中岡慎太郎を騙す必要があるのでしょうか。
 はっきり横目だと記録があります志々目献吉にしましたところで、久坂玄瑞を見張っていただけで、騙してはいません。
 といいますか、志々目が薩摩藩の横目であることを、久坂は知っていた可能性が高いですし。
 富山の薬売も白石正一郎も、情報を薩摩藩庁に入れただけで、だれも騙してはいません。
「コロリと騙されている」は、桐野と中岡、双方に悪意を持っていなければ書けないことだと、私は思うんです。
桐野にしろ中岡にしろ、自分の意志や志はなく、それぞれが属した組織にしばられた操り人形だった、とでもいうのでしょうか。

 私、過去記事を見返してみたのですが、桐野利秋の生い立ちについては、まとまって述べたものがなく、簡単にですが、ここで触れます。

 桐野利秋は、天保9年(1838年)生まれ。西暦で言えば、中岡慎太郎とは、ほぼ同い年です。

イギリスVSフランス 薩長兵制論争に引用しておりますが、後年、中岡慎太郎は国元へ送りました書翰に、「薩摩の歩兵はみんな士分で、足軽は兵士じゃないんだよ。身分は士族でも、とても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になるんだよ。これは、他藩にない薩摩の特長だね」と記しています。
 桐野の家も、れっきとした士分でしたけれども、わずか5石と貧しく、そこへもってきまして、父親が流罪となり、そのわずかな家禄も召し上げられました。
 18歳の年に兄が病没。以降、一家をささえて、近所の農民に土地を借り、小作をしたり、開墾したりで、なんとか食べていました。
 土佐の庄屋だった中岡慎太郎より、あきらかに貧しいですし、学問も剣術も、ちゃんと師匠について学ぶ余裕はありませんでした。

 しかし、だから視野が狭かったかと言えば、そうではなかったのではないかと、私は思います。
 桐野の父親は、島流しになるまでは江戸詰です。父親が江戸で働いていたとなれば、それなりに、薩摩の外の情報も入ってきたのではないでしょうか。
 また、桐野が学問、武芸を教わったのは、主に母方の祖父・別府四郎兵衛なのですが、彼は、「兵道家」だった、というんですね。
 「兵道家」とは、薩摩における修験者、山伏のことです。
 
 話がそれますが、最近、20代の女の子と話していて、びっくりしました。
 「私が子供のころは、そこの御幸寺山にも山伏(ヤマブシ)が来てたのよ」という私に、
 「ヤマブシ? なんですか、それ???」と、彼女は聞いたんです。
 御幸寺山というのは、松山市内、それも中心街近くにある小さな山です。
 人里離れた山奥で修行するイメージの強い山伏が、昔は街中の山にもいた、ということを私は語りたかったのですが、彼女は、まったく山伏を知りませんでした。
 「えーと。石鎚山のお山開きのニュースで、白い装束を着て、ホラ貝吹いている人がいるでしょ? あんな人たちのこと」と、とっさに説明しつつ、実のところ私自身が、簡単に説明できるほどに「山伏」について知らないことに、気づかされました。

 知らないのも道理では、あるんです。
 山伏とは、古来の山岳信仰に、渡来の仏教が重なった、神仏混淆の修験道の行者でした。
 しかし明治5年、新政府は神仏分離令を発し、山伏は、僧侶になるか神官になるか、あるいは農民や商人など、一般人になるしかなくなり、公には存在しなくなりました。

 
 
 和歌森太郎氏の「山伏」によれば、加持祈祷によって、雨乞いや庶民の病気治療にかかわってきた山伏のあり方は、「明治新政府なりの合理主義によって否定された」ということでして、要するに、西洋的近代には、そぐわない存在とされたわけです。そして現在、私たちが見ることができる山伏とは、「民衆の峰入り修業の指導者」であり、その日常においては、一般人であることが多いんです。

 わが愛媛県にあります石鎚山は、西日本一の高峰で、古代から霊峰として崇められた伝統を持ち、山伏の修業の場であったのですが、明治の神仏分離令で、山岳修業の中心でした前神寺は廃寺とされ、石鎚神社が創設されました。しかし、だからといってけっして、神仏混淆の信仰が、消えてなくなったわけではないんです。

 石鎚山は長く、山岳修業の聖地であり、庶民の信仰を集めていたのですが、江戸時代も半ばを過ぎ、18世紀の後半のことです。近在、といっても瀬戸内海を隔てた尾道や広島も含まれていたそうなのですが、村々の真言系寺院を中心に、年に一度のお山開きに参加する村民の信仰集団・石鎚講が生まれ、活動していました。
 石鎚講には月々の集まりもありましたが、なんといいましてもハイライトは、年に一度のお山開きに、山伏の先導で登拝することでした。15歳になった男児の初登拝は通過儀礼のようなもので、これを済ませれば一人前の男と認められたといいます。
 つまり、石鎚の山岳宗教は、講の存在によって、地域の庶民の日常にしっかりと根付いていたわけなんです。

 江戸時代後半、全国的にいえば、伊勢神宮へ参る伊勢講が有名ですが、富士講や出羽三山講などの山岳信仰も盛んで、宗教的な祭礼への参加は、庶民にとって、日常を離れた楽しみであり、修学旅行のような側面もありました。
 私が住む松山市は、石鎚信仰が及んでいた地域なのですが、私が通った中学校では、かつての男児の初登拝を引き継ぐように、三年生の夏には石鎚登山を体験する慣例でした。体力が許すかぎり、ですが。
 雲の上の頂上を極める達成感、澄んだ空気と絶景。今風にいえば、パワースポットに身を浸す高揚感があり、思春期にこれを体験することは、忘れがたい思い出となります。

 石鎚講は結局、神仏分離を越えて生き残り、前神寺も復興を遂げ、お山開きの伝統は、形を変えつつ、現在へと引き継がれた次第です。

 しかし、日本人にとっての山伏という存在の原像は、なんといっても、中世の軍記物なんじゃないでしょうか。
 最近、NHKの大河で、源平合戦が取り上げられることは少ないのですが、私が山伏のイメージを育んだのは、源義経を描いた大河ドラマです。
 能の「愛宕」、歌舞伎の「勧進帳」と、義経と弁慶が、兄頼朝の追っ手を逃れ、山伏一行に扮して奥州へ落ちるドラマは、時を超えて長く、日本人に親しまれてきました。
 義経一行は、消失した東大寺再建ための勧進をしている(寄付をつのっている)山伏、ということで、関を越えようとしたのですが、現在でも出羽三山の山伏は、勧進の伝統を伝え、国の重要無形民俗文化財に指定されているようです。(松例祭保存会参照)

 つまり山伏は、日本国中の山々で修業しますし、勧進も全国規模で、平泉の山伏が霊場白山の護符、丸薬を京都まで運んでいたり、あるいは霊場立山の「立山夢想妙薬」(漢方薬を調合したもの)は山伏の手で全国に運ばれ、これこそが富山の薬売のもとであったといわれます。(中世の聖と医療参照)

 このように、山伏の姿であれば、怪しまれることなく遠くへ旅ができましたので、軍記物でもっとも印象的な山伏の役割は、時の政権に反する勢力を結集するための連絡、じゃないでしょうか。
 「平家物語」では、全盛期の平家に対し、全国の源氏を結集しようと、不遇の皇子・以仁王が、令旨を発したことになっていまして、源行家が山伏姿で諸国の源氏に伝え、伊豆にいた源頼朝の手にも渡ったといわれます。
 以仁王の挙兵は失敗しますが、やがて反平家の機運は盛り上がって行き、源頼朝の鎌倉幕府樹立にまで、話は伝わっていくわけです。
 「太平記」では、後醍醐天皇の側近だった日野俊基(NHK大河「太平記」では榎木孝明が演じていました)が山伏姿で諸国をめぐり、打倒鎌倉幕府の機運を掴もうとしていた、ということになっています。

 ところで、山伏国広は、国の重要文化財に指定された日本刀です。
 作者は堀川国広。日向(現宮崎)の戦国大名・伊東氏に仕えた武士でした。
 彼は、伊東氏が島津氏との長年の戦いに敗れ、領国を追われたときに供をし、九州一の霊場・英彦山で、山伏となりました。修行しつつ、伊東氏の再興を願って作った刀が、山伏国広だったといわれます。
 紆余曲折の末、伊東氏は小大名として日向に返り咲き、幕末明治まで続きました。一族の中には、島津の家臣となった者もあり、初代連合艦隊司令長官・伊東祐亨は、その子孫です。

 伊東氏との戦いにおいて、島津側では、霊場・霧島山で修行した山伏・相模坊光久が、大活躍しました。
 相模坊を祖とする愛甲氏は、独自の兵法書を今に残していて、調伏だけではなく、どうやら、山伏の山岳ネットワークを使って、島津氏に寄与したようなのですね。
 鹿児島が特殊なのは、江戸時代に入り、「兵頭家」と呼ばれた山伏が、そのまま藩士になったことなのですが、それは結局、戦国時代の島津氏が土着の勢力をうまく取り込み、そのまま藩主となったことに関係しているのかもしれません。
 第16代当主・島津義久は、修験道の位階を持っていたといいますし、2代藩主光久は、修験道の祈祷書類編纂に熱心でした。(「中世島津氏研究の最前線」収録 栗林文夫著「中世以来、修験道・真言密教に慣れ親しんできた島津氏」)



 海音寺潮五郎の「二本の銀杏」は、西郷、大久保が少年だったころの薩摩を舞台にした小説ですが、主人公の源昌房は、郷士にして代々の兵頭家です。
 江戸時代の山伏は、その多くが京都の聖護院か醍醐寺三宝院を本山と仰いでいて、源昌房も例外ではなく、京で一年間の修行を積みます。
 現在で言えば、家を継ぐ前に、東京の大学へ行くようなものではないでしょうか。
 また、兵頭家は祈祷で農民の家にも呼ばれますし、他郷では庶民の間へ入って勧進もします。
 源昌房は情熱的な人物として描かれていて、この小説の一つのテーマは不倫の恋なのですが、一方、視野が広く、農民の窮状によりそって事業を興す実行力は、山伏としての修行で養われたものと推察できます。

 実は、源昌房には、堀之内良眼房というモデルがあります。
 良眼房は、西原八幡宮の第13代宮司であり、真言山伏の修行をおさめ、川内川を輸送路として使うための工事や、藩金の借用によって、農民の窮状を救ったのだそうです。(鹿児島県ー堀之内良眼房の事績(川内川の川浚え)

 川内川の工事のころ、桐野は6、7才でしたが、同じ頃にアヘン戦争が起こり、列強の東アジア進出が本格化しました。

大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」後編

 上にまとめてありますが、以降は怒濤の如く、フランスが琉球に開国を迫り、島津斉彬のお国入りがあって、嘉永2年(1849年)、お由羅騒動が起こります。
 桐野が満11才の頃のことです。

 上に、「島津斉興は祈る藩主だった」と書きましたが、斉興は密教の僧位僧官を得て、自ら修法を家臣に伝授していた、といいます。
 琉球に来た西洋人への調伏に、斉興は、兵頭家を使っていまして、その中心が牧仲太郎でした。
 斉彬支持派の藩士たちは、それを、斉彬とその子供たちへの呪いの祈祷が行われていると誤解したらしいのですが、調伏を防ぐには調伏しかないそうです。結局、斉彬支持派も兵頭家を使い、さながら調伏合戦となって、斉興は激怒しました。斉彬支持派は、切腹・蟄居・遠島など、かなりの数が厳しい処分を受けます。

 それで、桐野の外祖父・別府四郎兵衛ですが、春山育次郎の「少年読本 桐野利秋」には、友人藺牟田なにがしと共に、市中にいでて、兵頭の法を修し、天狗を嘯集したりとか云へる奇異のきわみなる罪名によりて藩庁のとがめを受け、南洋の徳之島に流るること十余年の久しきに及びぬ」とありまして、お由羅騒動では、ちょっと次期があわない感じなのですが、調伏合戦とか普通にあった土地柄ですので、誰を調伏した嫌疑だったのか、島流しにあっていたみたいです。

 別府四郎兵衛が京で修行をしたかどうか、それはわかりません。
 しかし、兵頭家のネットワークにつながっていた、ということはあると思いますし、複眼的に、物事を見ることができたのではないでしょうか。

 山伏で脱線し、すこぶる長くなりましたので、続きます。
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「桐野利秋とは何者か!?」vol4

2019年02月14日 | 桐野利秋

 「桐野利秋とは何者か!?」vol3の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 桐野作人氏著「薩摩の密偵 桐野利秋」の「はじめに」より、以下引用です。

 薩摩藩は島津斉彬が国政関与に乗り出して以来、王政復古政変から戊辰戦争に至るまで、幾多の危機がありながらも、それを巧みに乗り越えて、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力である。並び称されている長州藩の浮沈の激しさとは対照的だといえよう。
 そうした薩摩藩の卓抜な政治力の源泉のひとつが広範かつ正確な情報活動だった。その有力な成員として活躍したのが、本書の主役である中村半次郎、のちの桐野利秋(一八三八〜七七)である。
 

  まず、「薩摩藩は、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力」という前提について、です。
 薩英戦争は薩摩の勝ち戦だったんでしょうか???

 薩摩側が賠償金を支払っています以上、勝ちではないですよねえ。薩摩は、確かに賠償金を幕府から借りて踏み倒していますが、それをいえば、長州も下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)の賠償金は、幕府に払わせています。条約を結んだ主体が幕府である以上、藩が勝手にはじめた戦争であっても、対外責任は、最終的に幕府にあったというだけのことなんですけれども。
 戦死者の数でいいましても、四国艦隊迎撃戦に限れば長州側18人ですし、それ以前の攘夷戦を含めましても30人ほど。
 薩英戦争の薩摩側戦死者24名で、長州とさほどかわりはないんですね。
 明治4年(1871)の辛未洋擾、アメリカ艦隊が江華島を攻撃しましたとき、李氏朝鮮側が二百数十名の戦死者を出しましたのにくらべ、格段の少なさです。
 城下を焼き払われましただけ、長州の被害よりも薩摩の被害の方が大きかったともいえそうですよねえ。

 「政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない」といえば、 「戊辰戦争の勝者で対外戦をやっていない佐賀藩こそ!」、そうじゃないんでしょうか。
 私、決して佐賀藩を褒めているわけじゃありません。対外戦をやって、負けていればこそ、薩長は自藩の改革に成功し、維新の主導者となり得た、と思っています。

 桐野作人氏は、(薩摩藩は)長州藩の浮沈の激しさとは対照的とも言っておられまして、おそらくはこちらが主眼なんでしょう。
 とすれば、薩摩と長州のちがいは、8月18日の政変と禁門の変、ということになります。
 しかしこれ、それほど単純に「長州は敗北したが薩摩は敗北しなかった」と言ってしまっていいことなのでしょうか。
 といいますか、なにをもって敗北、勝利というのか、という問題があります。
 8月18日の直前の状況、禁門の変の後の京都政局など、政治的に薩摩にとって、勝利とはとてもいえない状況でした。「その危機を乗り越えて勝者となった」というなら、長州もまた、大きな危機を乗り越え最終的に勝者となった、ということが可能でしょう。

 ここらあたりは、作人氏の「桐野利秋は密偵説」にも深くかかわってくる問題でして、以下、再び「はじめに」より引用です。

 桐野の諜報活動のなかで、もっとも異彩を放ち、成果をあげたのは一時期激しく敵対した長州藩に対してのものだった。
 桐野の「密偵」としての有能さは西郷が太鼓判を押しているから間違いない。では、なぜそのように有能だったのか。逆説的にいえば、桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたからだといえる。
 桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった。
 

 まず、前提条件に間違いがあります。
 桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたという点ですが、薩摩藩の指導者の方針は常に一枚岩だったんですか?と疑問を呈したいと思います。
 次いで、桐野はずっと薩摩藩の方針と対立し、距離を置いていたんですか?という疑問もわきます。

 最初に、慶応三年、幕末も押し詰まった最後の年の、勝海舟の見解を見てみましょう。

 
勝海舟全集〈1〉幕末日記 (1976年)
クリエーター情報なし
講談社


 全集1収録の「解難録」探訪密告慶応三年丁卯より、以下引用です(p.295~6)。「解難録」は海舟が幕末維新期に書いたものを、明治17年の夏、自ら整理したものです。

 慶応三年、上国に在て事を執る者、探索者の密告せし処有といへども、皆、皮相の見にて、多くは門閥家を以て是が最とす。予が考ゆる処、是と異なり、
 薩藩  西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造
 萩藩  桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原
 高知藩 後藤象二郎 板垣退助
 佐賀藩 副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎
 此輩数人に過ぎざるべし。大事を決するに到ては、西郷、大久保、桂の手に出て、其他は是を賛し是を助くるに過ぎざるべし。〜以下略
 

 慶応三年、西日本の有力諸藩で政治を動かしている人物について、幕府の探索者は藩主やその門閥のお偉方が主導していると報告を上げてきているが、それはうわべしか見ていない者の言うことであって、私の考えは異なっている。
 薩摩藩は西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造。長州藩は、桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原。土佐藩は、後藤象二郎 板垣退助。佐賀藩は、副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎。
 お偉方ではなく、これら各藩数名が主導している。とはいうものの、大事を決しているのは、薩摩の西郷・大久保、長州の桂小五郎で、その他の人々は、彼らに賛同し、彼らを助けているだけだ。


 少なくとも慶応三年において、勝海舟の見ていたところでは、国父島津久光は、薩摩藩首脳部の意志決定集団からはずれていましたし、西郷・大久保が牛耳っていて、小松帯刀はその下で、中村半次郎(桐野利秋)と並び、西郷・大久保に賛同して、手助けしていただけだ、というんですね。

 もちろん、こうなるまでには経緯というものがあります。
 桐野が、生まれ育った鹿児島から京都へ出ましたのは、文久2年(1862年)春のことです。
 島津久光の率兵上洛に従ってのことでして、このときから桐野は、たまに短期間帰郷することはありましたが、ほぼ京都にいました。

外様藩の藩主の父親が、1000名の藩兵を率いて京都へ出た、といいますことは、江戸時代のそれまでの常識からしますと、破天荒なことです。
これにより、日本の政局の中心は京都となり、一気に流動化して、二十代半ばの桐野は、まずは藩命で青蓮院宮付き守衛兵となって、渦中に身を置きます。

原口清著作集 1 幕末中央政局の動向
クリエーター情報なし
岩田書院


 「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」といいます作人氏の見解にそって、原口清著『幕末中央政局の動向』収録の「幕末長州藩政治史研究に関する若干の感想」より、以下の引用部分を見ていただけたらと思います。

 藩士身分の尊攘派志士が、なによりも自藩を尊攘の方針に転換さすために努力したことは当然であり、長州藩や土佐藩では、成功の度合いはちがうが、一藩挙げての尊攘運動を行った。因幡・備前藩などは、藩主自身が熱心な尊攘主義者であり、ここでは急進・漸進の差異はあっても、一藩の多数が尊攘主義者となっていたものと思われる。尊攘主義藩士の脱藩浮浪化は、多くの場合藩論を尊攘主義に転換できず、藩内抗争などがあって脱藩したものでああって、脱藩それ自体が本来の目的であったわけではない。尊攘派は、藩力を利用し、朝廷・幕府に働きかけている。つまり、彼らは既存の国家組織を挙げて尊攘主義に転換させることを主要な運動・組織形態としているのである。 

 つまり、尊攘主義といいますのは、日本に押し寄せてきました外国を意識してのものですから、当然のことながら、藩士身分のものは、日本全体の国家組織を外国と戦いうるものに転換、変革しようと意図して動き、自藩の力をそれに利用して、朝廷幕府に働きかけようとしていた、というんですね。
 としますならば、一薩摩藩士にすぎませんでした中村半次郎(桐野利秋)も、「日本全体が対外戦のできる国となることを願って、自藩に働きかけ、動かすことに成功して、慶応三年には、勝海舟の見るところ、西郷・大久保に賛同して手助けし、重臣・小松帯刀と並ぶほどの実力者になっていた」、ということが可能でしょう。

 以上、勝海舟と原口清氏の著作をあわせみまして、作人氏がおっしゃるところの「桐野利秋は密偵だった」説のなにが胡乱かということは、浮き彫りになったかと存じます。
 薩摩藩首脳部のあり方は、徐々に変化していたのですし、桐野利秋は決して、薩摩一藩のために行動していたのではなく、日本全体のことを考え、長州と手を結ぶ方向へ藩を動かそうと、西郷・大久保・小松に協力し、それを実現したわけです。
 「薩摩の密偵」だったということにしてしまいますと、西郷・大久保・小松に真摯な志を利用され、薩摩一藩のためにしか働けなかったことになってしまいます。
 作人氏自身がおっしゃっているように、「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」わけでして、としますならば、当然、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』に書きました久坂の書翰、坂本龍馬に託して武市半平太に届けた書翰の以下の部分に、強く賛同していたと考えられるわけです。

「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐)も弊藩(長州)も滅亡しても大義なれば苦しからず」
「諸候も公卿もあてにはならない。われわれ、無名の志士たちが集まって幕府を糾弾し、天皇のご意志を貫かなければならない。そのためには、長州も土佐も、滅びていいんだよ」

 幕末の動乱は、これほどの覚悟のもとにありましたのに、桐野利秋が薩摩の密偵であった、といいます作人氏の説は、桐野を貶めるだけではなく、桐野を利用したとされる西郷・大久保・小松をも、貶めることにならないでしょうか。この三人が、たかだか薩摩一藩の利益のみを考え行動していた、ということになってしまうわけですから。

 長くなりましたので、作人氏が「桐野利秋密偵説」におきまして、参考に挙げておられます史料の細かな見当は、次回にまわします。またまた、ありえない読み違いをなさっておられたり、します。
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「桐野利秋とは何者か!?」vol3

2019年01月27日 | 桐野利秋

 「桐野利秋とは何者か!?」vol2の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版

 
 桐野作人氏は、著作の「はじめに」で、以下のように述べておられます。

 本書では「密偵」としての桐野のほか、「剣客」「軍人」「政論家」(必ずしも政治家ではない)、そして西南戦争の「軍事指導者」としての側面に光を当てている。そのなかには、当然向き不向きがあった。そのことが桐野個人の評価にとどまらず、幕末維新から西南戦争までの激動期を思う存分攪拌し、流動化させたことも事実である。桐野のもつ功罪が入り混じった存在意義もそこにあるといえるのではないか。

 まず、これを読んだ時点で、大きな違和感がありました。
 「当然向き不向きがあった」「功罪が入り混じった存在意義」なんて、そもそも、だれについても言えることですよねえ。

 例えば、ですね。
 薩摩藩家老として、幕末のパリ万博で活躍しました岩下方平が、明治22年ころに書いた随筆には、以下のようにあります。
 
 大久保は非常の人なりし故、みつから任すること厚く、我か意にまかせ行ひし事多きか如し。 
 
 肥前佐賀の江藤新平、嶋団右衛門暴動せしは私の為にあらす、天下の為と思ひてなせし事なるへし。是皆御一新の功臣なりしなり。論旨の相合はさる所より斯に至りし物にもせよ、大久保政権を掌握せし程の事なれは、少し思慮を加へは非命の死には至らさりしなるへし。長州の前原にしても其他皆一個の人材なりしを死に至らししめしは日本の為め可惜事なりし。故に自らも刃の下に死せしは源本故ある事なりし。 

 上州の松園七助云、西郷・大久保等は創業の人なり。天下を破るに心を尽くせし人々なり。是よりは守成の人を撰ひ任用すへし、然らされは終に創業の人を疵つくる事あらん、功臣として政事に関わらしめす尊ひ置へしと。実に其事の如くなりし。

 上は、佐々木隆氏読み下しによります「岩下方平随想録」から引用です。

これを作人氏の桐野評の言葉を使って言い換えますと。
 人には向き不向きがあって、大久保利通は天下を破ることには向いていたけれども、維新が成った後の政治には向いていなかった。そのことが大久保個人の評価にとどまらず、幕末維新から西南戦争までの激動期を思う存分攪拌し、流動化させたことも事実である。功罪が入り混じった存在意義のある人物だったが、罪を言えば、自分の思うままに独裁を貫き、自分と意見があわないというだけで、殺さなくてもいい人材を非業の死に至らしめたことである。自らも斬られて死んだのは、理由のあることだ。

 作人氏流に言いますと、大久保利通は、同時代人で、一緒に活躍しました岩下方平によって、上のように評価されているわけです。

 で、ふりかえって作人氏が桐野利秋について述べておられることを見てみますと、いったいだれが、桐野利秋の向き不向き、功罪を評価しているんですか?と聞きたくなるんですね。

 「おわりにー桐野利秋の人気と功罪」を読みますかぎり、作人氏の桐野評は、結局、以下に尽きると思うんですね。

 〜前略〜また私学校のあり方には批判的であり、それゆえ、西南戦争では必ずしも主戦派ではなかったことも明らかにしたつもりである。
 とはいえ、南九州一円で半年間にわたって戦われた西南戦争を早期に収拾することによって、みずからの責任を問うべきだったのではないかという気がする。しかし桐野はそれよりも、薩摩兵児(へこ)の意地を貫きとおし、城山で最後の一兵になるまで戦い抜くことを選択した。それは「ラストサムライ」の華々しくも哀しい最期にはふさわしいかもしれない。だからこそ人気や同情、共感を集めるのだろう。
 だが、両軍合わせて一万人を超える戦死者、それに倍するであろう戦傷・戦病者の存在とともに、熊本県や宮崎県に多大な人的、物的な被害をもたらし、鹿児島城下をほとんど灰燼に帰した責任も振り返らずにはいられない。その責の多くは西郷とともに桐野も負うべきではないかとも思える。
 

 「みずからの責任を問うべきだったのではないかという気がする」とか、「その責の多くは西郷とともに桐野も負うべきではないかとも思える」とか、これはあきらかに、作人氏の個人的感想、ですよねえ。
 少なくとも私は桐野の最期を、「ラストサムライ」の華々しくも哀しい最期なんぞとは思っていませんし、まったくもって同情はしておりません。
 といいますか、西南戦争を収拾することが、西郷と桐野の責任だったなんぞという見解を聞くのは初めてです。通常、反乱の収拾責任は、反乱の指導者ではなく、反乱を起こされてしまいました時の政府にあります。西郷も桐野も、大将・少将の身分を剥奪されてしまいましたし、なんで責任が、為政者ではなく彼らにあると思えてしまうのでしょうか。

 そして、いったい作人氏は、西郷や桐野と同時代の識者の見解を、どう考えておられるのでしょうか。

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)
クリエーター情報なし
講談社


 福沢諭吉著「 丁丑公論」より引用です。

 およそ人として我が思うところを施行せんと欲せざる者なし。すなわち専制の精神なり。故に専制は今の人類の性と云う可なり。人にして然り。政府にして然らざるを得ず。政府の専制は咎むべからざるなり。
 政府の専制咎むべからずといえども、これを放頓すれば際限あることなし。またこれを防がざるべからず。今これを防ぐの術は、ただこれに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行わるる間は、これに対するに抵抗の精神を要す。
 〜中略〜余は西郷氏に一面識の交もなく、またその人を庇護せんと欲するにも非ずといえども、とくに数日の労を費して一冊子を記しこれを公論と名けたるは、人のために私するに非ず、一国の公平を保護せんがためなり。方今出版の条例ありて少しく人の妨をなず。故に深くこれを家に蔵めて時節を待ち、後世子孫をして今日の実況を知らしめ、以て日本国民抵抗の精神を保存して、その気脈を絶つことなからしめんと欲するの微意のみ。
 

  要約すれば、「人はだれしも専制の精神をもちあわせているもので、専制政治そのものをとがめるわけにはいかない。しかし、これを放っておくと行き過ぎるので、弊害を防ぐためには抵抗が必要だ。現在、政府の専制に言論人がおもねり、正確なことが世に伝わっていない。私は西郷をかばうつもりはないが、一国の公平を守るため、後世に西南戦争の抵抗の精神を伝えようと筆をとった。昨今、出版条例があって、下手なことを書けば牢屋行きであるので、公表はせず、百年後の人々に見てもらいたい」ということでしてして、福沢は文中、専制政治に抵抗するには「文」「武」「金」をもってする方法があり、西郷は武力をもっての抵抗を選んだので、自分とは考え方がちがう、と断っています。
 しかし以下本文に入って、「政府が言論の道を閉ざしたのだから、「武」に頼らざるをえなかったのも仕方がない」というようなことも言っているんです。

 〜前略〜政府の人は眼を爰(地方民会を認め、地方自治を進めること)に着せず、民会の説を嫌てこれを防ぐのみならず、わずかに二、三の雑誌新聞紙に無味淡泊の激論あるを見てこれに驚き、これを讒謗としこれを誹議とし、はなはだしきはこれに附するに国家を顛覆するの大命以てして、その貴社を捕えてこれを見ればただこれ少年の貧書生のみ。書生の一言豈よく国家を顛覆するに足らんや。政府の狼狽もまたはなはだしきものというべし。
 これらの事情に由て考れば、政府は直接に士族の暴発を防がんとしてこれを未発に止まること能わず、間接にこれを誘導するの術を用いずして却って間接にその暴発を促したるものというべし。故にいわく、西郷の死は憐むべし、これを死地に陥れたるものは政府なりと。
 〜中略〜維新後、佐賀の乱の時には断じて江藤を殺してこれを疑わず、しかのみならずこの犯罪の巨魁を捕えて更に公然たる裁判もなくその場所において刑に処したるはこれを刑というべからず、その実は戦場に討取りたるもののごとし。鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典というべし。一度び過て改ればなお可なり。然るを政府は三年を経て前原の処刑においてもその非を遂げて過を二にせり。
 故に今回城山に籠たる西郷も、乱丸の下に死して快とせざるは固より論を俟たず、たとい生を得ざるはその覚悟にても、生前にその平日の素志を述ぶべきの路あれば、必ずこの路を求めて尋常に縛に就くこともあるべきはずなれども、江藤、前原の前轍を見て死を決したるや必せり。然らば則ち政府はただに彼れを死地に落とし入れたるのみに非ず、また従ってこれを殺したる者というべし。
 

要約します。
政府は地方民会を盛んにすることを嫌い、地方自治を認めようとはせず、それどころか、わずか二、三紙の新聞雑誌が激論を載せたことに驚き、国家を顛覆する企てだとして記者を投獄するという、めちゃくちゃな対応をして、言論を封じた。政府は、それによって士族の暴発を防ぐどころか、間接的に暴発を誘ったわけで、結局、西郷を死地に陥れたのは政府の方だ。佐賀の乱のときは、江藤新平を裁判もなく処刑し、政府が政府として成り立っていないことを露呈した。一度の過ちならまだしも、3年後の萩の乱で、またも前原をろくな裁判もなく処刑した。したがって、今回城山に籠もった西郷も、江藤、前原を見れば、自分の志を述べる場がないことが明白であり、死を決するしかなかったのである。したがって、西郷を殺したのは政府だと、いうことができる。

 つまり、福沢の見るところでは、西南戦争を起こした責任は政府にあり、もちろん、西南戦争を収拾する責任もまた政府にある、ということです。
 また福沢は、「西郷が志を得れば政府の貴顕に地位を失うものあるは必然の勢なれども、その貴顕なる者は数名に過ぎず、それに付会する群小吏のごときは数思いの外に少なかるべし」とも言っていまして、つまるところ、「西郷には政府を転覆するつまりはなく、中枢にいる数名の権力者を退けたいだけで、維新の時ほどの大変革をめざしているわけではない」ということです。
 つまり、はっきり言いまして、福沢の見るところでは、「大久保利通はじめ数名が退けば、西郷の志は成る」ということですから、戦乱になった責任をとって大久保が引けば収拾は簡単だった、ということでもあります。

 栗原智久氏は「史伝 桐野利秋」の「はじめに」において、以下のように述べておられます。

 果して、歴史の流れが人物を生むのか、人が歴史を動かすのか、これは史観としての議論にも関るところであるが、しばらく措いて、本書はこうした桐野が幕末維新史の中でどのような位置にあり、どのような言動をみせたのか、その真実を、その軌跡を、史料に基づいてできるかぎりあらわそうとするものである。 

 これに比べまして、作人氏がおっしゃるところの「功罪が入り混じった存在意義」とやらは、相当に胡乱なものとしか、私には受け取れません。

 次回、これも相当に胡乱な「桐野利秋密偵説」に踏み込みたいと思います。
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「桐野利秋とは何者か!?」vol2

2019年01月19日 | 桐野利秋

「桐野利秋とは何者か!?」vol1の続きです。


薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 伝記を書きますのに、本人の日記があれば、それは、とても重要な史料ですよね。丁寧に解読するべきものだと、私は思います。
 もちろん、日記は本人の主観で書くものですし、また当時の日記は秘密に書くものではなく、後世に見られることがほぼ前提です。したがいまして、日々の出来事を、それなりに取捨選択して書いていたりもするわけです。
 しかし、そういうことも含めて、丹念に読んでこそ、それを書いた本人と、真摯に向き合えるのではないでしょうか。

 桐野の「京在日記」は、幕末も押しつまった慶応3年9月1日から12月10日までの3ヶ月あまりのものしか、現存していません。
 しかしこの時期、倒幕の勅命、大政奉還、龍馬暗殺、王政復古と、まさに激動の渦の中に桐野はいます。
 この日記は、昭和45年(1970年)、田嶋秀隆氏の手により、読み下して活字化されているのですが、少部数発行の非売品。長らく、手に入れることが困難でした。
 ところが2004年、栗原智久氏が、現代語訳され、解説付きで出版されましたおかげで、手軽に手にできるようになりました。

桐野利秋日記
栗原 智久
PHP研究所


 いや、しかし。
 どびっくりの高値ですねえ。
 これって、大河ドラマ効果でしょうか。がっくり。
 私は、中村さまのご厚意で非売品のコピーも持っていますし、もちろん、栗原氏の現代語訳も持っているのですが、コピーは見づらいですし、通常、このブログを書くときなど、きっちり製本されました現代語訳を手にすることが多い次第です。

 まあ、ともかく。
 例えば人物の特定など、解読の難しい部分もあるのですが、栗原氏の解説もありますし、文章自体は、それほど難しい日記ではありません。
 それが、ですね。
 桐野作人氏は、いったいなんでこんな!!!、というような、ちょっとびっくりするような読み方をされていたりするんですね。

 例えば、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました、以下。

 10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
 桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
 大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
 一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。


 この5日前、慶応3年10月23日の日記に、桐野は「10月の初めころから病気だったが、症状が重くなってどうしようもなくなった」というようなことを書いていまして、26日には藩医・石神良策に往診してもらっています。
 石神良策につきましては、楠本イネとイギリス医学に詳しく書いていますので、ご覧になってみてください。

 で、桐野は石神に、10月26、27、28、11月1日と続けて診てもらってまして、最後の11月1日にやっと「病が快方へ向かう」と記してあります。11月4日には近所を散策するまでに回復しましたが、しかし、28日から石神が同行しましたもう一人の医師・山下公平は、この11月4日にも見舞いにきています。

 つまり、桐野の従兄弟の別府晋介と弟の山之内半左衛門が、路上で斬り合いになった、という10月28日の時点で、桐野はまだ病が篤く、伏せっていたらしいんですね。
 で、どこからどう読んでも、この斬り合いは、従兄弟と弟が当事者です。もっとも、別府がさしていた刀は、桐野の刀であったそうなのですが。

 それが、ですね。
 桐野作人氏は、第2章で「剣客としての桐野」を描くにあたりまして、「桐野が弟、従兄弟と歩いていると斬りかかられた」という話に仕立ててしまっているんです。日記の原文では、前日に見舞いに来てくれた藤屋権兵衛のもとへ「従兄弟と弟を御礼に遣わした」と書いていますのに、どこをどうひねったら、「桐野は一間ほど後ろに飛び退いて、刀を半分ほど抜きかけたところ、別府が先に刺客を斬ってしまった」なんぞという光景が出現するのでしょうか。

 もう一つ、日記からです。
 桐野作人氏の著作、p.233「桐野の和歌」より、以下引用です。

 桐野の日記でもっとも意外なのは、和歌や漢詩を少なからず詠んでいることである。和歌は十五首、漢詩は二編載っている。 

 和歌が意外ですかね? 土方歳三も俳句を作っていますし、ねえ。どっちもド下手くそですが、土方の俳句の方が少しだけましかなあ、という気がします。
 桐野の和歌につきましては、昔、書きました。

 大政奉還 薩摩歌合戦

 ここのコメント欄で、私、書いております。

 11月3日条を最初見たとき、「あれ、これなかなかうまい!」と思いましたら、「長府の奥善一、京都に於ける作」とあって、がっかりしましたです(笑)

 私、まちがえて「奥善一」としか書いていませんが、11月3日条には、漢詩が二つと和歌が一つありまして、「長府の奥膳五郎、六郎、善一、京都における作」となっています。
 つまり、どこからどう見ましても、この漢詩二編、和歌一首は、長府の奥氏たちの作品なんですね。
 この日以外、桐野は漢詩は日記に書いておりません。

 和歌につきましては、確か「鹿児島県史料 西南戦争」に市来四郎が桐野について書いた文章がありまして、そこにもいくつか載っていますし、一応、師匠について勉強していたようなことも書かれていました。(すみません。コピーが出てこなくて、不確かです)

 桐野が漢詩を作ったかどうかは、ちょっとわかりません。
 いくつか、桐野のものと称されます漢詩の軸物は残っているようなのですが、それらが本当に桐野の筆であるかどうかは確かではないですし、例え桐野の真筆であったとしましても、その漢詩にいたりましては、あるいは友人の有馬藤太や中井桜洲が作ったかもしれません。

 で、日記から離れまして、先に出てまいりました従兄弟の別府晋介、です。
 wikiー別府晋介は、ほぼ「西南記伝」をもとに書いているのではないかと思うのですが(私は手を入れていません)、「鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第2子として生まれる」とあります。桐野の母・スガの実家は別府家ですので、通常、スガと別府十郎は兄妹、あるいは姉弟だったと理解されます。

 ところがですね。
 桐野氏著作p.78「桐野利秋とは何者か」より、引用です。
 
 父十郎が利秋の母スガの妹と婚姻し、その二男として晋介が生まれた。兄は九郎という(塩満郁夫「別府晋介と西南戦争」)

 私、塩満氏の論文を持っていませんので、中村さまに見ていただきました。
  「桐野利秋とは何者か!?」vol1のコメント欄に中村さまご本人が書き込んでくださっていますが、塩満氏の「別府九郎と西南戦争」では、九郎の父十郎の姉スガ、となっています、ということなんです。もっとも、年を計算すれば、十郎の妹スガ、かもしれないようですけれども。

 もう一つ、p.29、別府晋介の項目より。

 同5年に征韓論が起こるや、八月、外務大丞の花房義質が朝鮮国に派遣されることになり、晋介はその同行を命じられている

 いや、明治5年に征韓論は起こっていません!!!


アジア歴史資料センター

 上のリンクで、レファレンスコードB03030134500、「対韓政策関係雑纂/明治五年日韓尋交ノ為花房大丞、森山茂一行渡韓一件 第一巻」の明治5年8月10日、朝鮮尋交手続並目的をご覧ください。外務卿・副島種臣が正院に提出したものです。
 国交交渉が上手くいっていない現状を延べた後、次のように言っています。

 和館(草梁倭館)は、嘉吉以来、わが人民が行き来して住み、我が国の国権が行われて来た場所なので、捨てるわけにはいかない。いずれ使節を立てて談判するまで、便宜的な取り計らいをする 

 ということでして、要するに、外務省が釜山の草梁倭館を確保するための諸策を実行しようと、花房は渡韓したわけです。
 別府たちを派遣しましたのは、対馬(草梁倭館も含まれます)を所轄する鎮西鎮台(熊本鎮台)司令長官の桐野ですが、どこからどう見ましても、目的はいずれ正式に使節を立てるときのための草梁倭館偵察のためでしょう。

 これにつきましては、次回かその次か、明治6年政変を取り上げますとき、もっと詳しく書きます。

 いずれにせよ、です。
 細かいことばかり、と思われるかもしれませんが、何事も細かいことの積み重ねです。
 不審なほどに変な間違いが多いですし、あるいは桐野作人氏は、ゴーストライターにでも書かせたのか、と勘ぐりたくなるほどです。

 日記をちゃんと読んでくれていない、というだけで、著作全体への不信感が芽ばえたのですが、次回からは、もう少し大きな問題に取り組む予定です。
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「桐野利秋とは何者か!?」vol1

2019年01月15日 | 桐野利秋

  一応、大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.2の続きです。

 去年の9月です。
 山本氏からお電話で、「桐野作人氏が桐野利秋の本を出されるみたいですよ。中村さんにも伝えて差し上げてください」と言われました。
 お聞きしたところでは、「密偵としての桐野」という新しい視点で書かれた、ということでして、なんとなく、嫌な予感がありました。
 といいますのも、30年ほど前、大河で「跳ぶが如く」が放映されましたとき、小説や随想など、桐野利秋に関する多くの本が出版されましたが、その中に、確か、「密偵」のように書かれたものがありまして、それは決して、私にとりまして魅力的な桐野像ではなく、納得もいかず、とばし読みして放り出した記憶があった、からです。

 しかしまあ、読んでおいた方がいいだろうとアマゾンで購入し、とばし読みましたところで、骨折、手術、入院。
 とばし読みましただけで、言いたいことが山のようにあったんですが、少し丁寧に読まねばと、病院に携えました。
 

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 私、大河ドラマにつきましては、「まあ、原作とシナリオライターがあれじゃあ、ね」と、結局のところは、あまり期待していませんでした。
 しかし、桐野作人氏の本であれば、「少なくとも史料に忠実だよね? 新しい史料紹介があるかもしれないし」と、かなりの期待はあったんです。

 
史伝 桐野利秋 (学研M文庫)
栗原 智久
学習研究社


 これもずいぶん以前の記事なんですが、史伝とWikiの桐野利秋でご紹介しました栗原智久氏の『史伝 桐野利秋』は、好著でした。
 あれから、いろいろと付け加えたいことも出てきましたけれども、基本、「桐野利秋について知りたい」という方には、まず、この本をお勧めしていました。
 主観をまじえず、史料に語らせるスタイルで、淡々と書かれているんですが、それでいて、著者の桐野利秋への愛情が感じられるんです。
 それは長らく、「感じられる」だけだったんですが、最近、先輩ファンの中村さまが、国会図書館で「歴史研究 441号」に栗原氏が寄稿された随筆を、コピーしてくださいました。

 「歴史研究」は、在野の歴史愛好家に論文発表の場が開かれた月刊誌でして、いまも続いているようです。
 月刊『歴史研究』特集一覧を見ていただければわかるのですが、平成10年発行の441号の特集は、「司馬遼太郎の世界」です。栗原氏は、司馬遼太郎氏が描いた桐野利秋について、述べられていまして、以下、引用です。

 「『翔ぶが如く』における桐野の考え・思想に対する司馬人物観は、必ずしも好意的なものばかりではない。しかし、著者が桐野に魅かれたのはこの小説のところどころにあらわされたその所作の印象によるところが大きい。〜中略〜 行動の型としては、桐野は司馬人物観にかなう、司馬さんの好きな人物のひとりであったのだろうと思う。
 著者はいま、史料をもとに桐野の思想について考えるものであるが—自らの思い込みでしかないが、許されるものなら、史料をもって桐野利秋について司馬さんと語ってみたかった。お便りしてみたかった。その司馬さんはもういない」
 

 栗原氏は、これを書かれて4年後に、『史伝 桐野利秋』を出版されたことになります。

 愛のバトン・桐野利秋-Inside my mind-を見ていただければわかっていただけるかと思うのですが、栗原氏のように理路整然と語ることはできていなくても、結局のところ、私も司馬遼太郎氏の作品で、桐野を好きになったわけだったみたいでして。

 実をいえば、ですね。栗原氏が寄稿なさった5年前、私も、「歴史研究 375号」に「桐野利秋と民権論」という論文を投稿しております。
 いま読み返しますと、勉強不足のあらが目立って、目をおおいたくなるんですけれども、大筋で、私の考え方が変わったわけではありません。
 しかし、それにしましても、いまさらこの論文が日の目を見ようとは……、絶句でした。

 桐野作人氏の著作について、ざっと読みしました感想を一言で言えば、「栗原氏みたいに、桐野への愛情があって書いたわけじゃないよね、この本」ということです。
 愛情のなさは、史料の読み方にあらわれていまして、読解がいかにも雑です。
 しかし、桐野作人氏は著名ですし、発行はNHK出版。
 この愛情のない本が、これから桐野の伝記の定番になるのかと思いますと、いったいどこへ不満をぶつければいいものやら、入院中にもかかわらず、夜、携帯で中村さまと長話をしまして、看護士さんに叱られる始末。

 しかし、この時点でまだ飛ばし読み状態の私に、中村さまいわく。
 「桐野氏は、郎女さんと私の名前を出しておいででしたが、あれは、どういうおつもりなんでしょう」 
 「えええっ!!! 私の名前???」

 中村さまは「敬天愛人」に、近年、桐野に関する論文を発表しておいでなので、引用してらしたというのもすぐに合点がいったのですが、なんで私がっ!!!と絶句しつつ、言われたページを開きましたら、これが、30年近く以前に書きました「桐野利秋と民権論」からの引用であった、というわけです。あまり納得のいく箇所の引用ではなかったですし、いまだに、どういうおつもりだったのかはわかりません。

 どこがどう愛情がなく、どこがどう雑なのか、具体的には、次回から順を追って書いていくといたしまして、今回は最後に大河の桐野につきまして。
 子役の子は、ほんとうによかったんですけど、大人になって、大野拓朗。
 整った顔立ちで、「花燃ゆ」では野村靖をやり、本物の野村靖の写真を知っている私からしましたら、「嘘だろ!」だったんですが、なんだかともかく、幕末劇では影の薄い人です。
 今回の桐野も、シナリオが悪いのが第一でしょうけれども、まったくもって、存在感も魅力もありませんでした。
 朝ドラ「わろてんか」のキースは、なかなかよかったんですけれど。

 『翔ぶが如く』の杉本哲太、好きでした。
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