郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。フランス、イギリスを主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには映画、読書、旅行の感想も。

「桐野利秋とは何者か!?」vol4

2019年02月14日 | 桐野利秋

 「桐野利秋とは何者か!?」vol3の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 桐野作人氏著「薩摩の密偵 桐野利秋」の「はじめに」より、以下引用です。

 薩摩藩は島津斉彬が国政関与に乗り出して以来、王政復古政変から戊辰戦争に至るまで、幾多の危機がありながらも、それを巧みに乗り越えて、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力である。並び称されている長州藩の浮沈の激しさとは対照的だといえよう。
 そうした薩摩藩の卓抜な政治力の源泉のひとつが広範かつ正確な情報活動だった。その有力な成員として活躍したのが、本書の主役である中村半次郎、のちの桐野利秋(一八三八〜七七)である。
 

  まず、「薩摩藩は、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力」という前提について、です。
 薩英戦争は薩摩の勝ち戦だったんでしょうか???

 薩摩側が賠償金を支払っています以上、勝ちではないですよねえ。薩摩は、確かに賠償金を幕府から借りて踏み倒していますが、それをいえば、長州も下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)の賠償金は、幕府に払わせています。条約を結んだ主体が幕府である以上、藩が勝手にはじめた戦争であっても、対外責任は、最終的に幕府にあったというだけのことなんですけれども。
 戦死者の数でいいましても、四国艦隊迎撃戦に限れば長州側18人ですし、それ以前の攘夷戦を含めましても30人ほど。
 薩英戦争の薩摩側戦死者24名で、長州とさほどかわりはないんですね。
 明治4年(1871)の辛未洋擾、アメリカ艦隊が江華島を攻撃しましたとき、李氏朝鮮側が二百数十名の戦死者を出しましたのにくらべ、格段の少なさです。
 城下を焼き払われましただけ、長州の被害よりも薩摩の被害の方が大きかったともいえそうですよねえ。

 「政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない」といえば、 「戊辰戦争の勝者で対外戦をやっていない佐賀藩こそ!」、そうじゃないんでしょうか。
 私、決して佐賀藩を褒めているわけじゃありません。対外戦をやって、負けていればこそ、薩長は自藩の改革に成功し、維新の主導者となり得た、と思っています。

 桐野作人氏は、(薩摩藩は)長州藩の浮沈の激しさとは対照的とも言っておられまして、おそらくはこちらが主眼なんでしょう。
 とすれば、薩摩と長州のちがいは、8月18日の政変と禁門の変、ということになります。
 しかしこれ、それほど単純に「長州は敗北したが薩摩は敗北しなかった」と言ってしまっていいことなのでしょうか。
 といいますか、なにをもって敗北、勝利というのか、という問題があります。
 8月18日の直前の状況、禁門の変の後の京都政局など、政治的に薩摩にとって、勝利とはとてもいえない状況でした。「その危機を乗り越えて勝者となった」というなら、長州もまた、大きな危機を乗り越え最終的に勝者となった、ということが可能でしょう。

 ここらあたりは、作人氏の「桐野利秋は密偵説」にも深くかかわってくる問題でして、以下、再び「はじめに」より引用です。

 桐野の諜報活動のなかで、もっとも異彩を放ち、成果をあげたのは一時期激しく敵対した長州藩に対してのものだった。
 桐野の「密偵」としての有能さは西郷が太鼓判を押しているから間違いない。では、なぜそのように有能だったのか。逆説的にいえば、桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたからだといえる。
 桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった。
 

 まず、前提条件に間違いがあります。
 桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたという点ですが、薩摩藩の指導者の方針は常に一枚岩だったんですか?と疑問を呈したいと思います。
 次いで、桐野はずっと薩摩藩の方針と対立し、距離を置いていたんですか?という疑問もわきます。

 最初に、慶応三年、幕末も押し詰まった最後の年の、勝海舟の見解を見てみましょう。

 
勝海舟全集〈1〉幕末日記 (1976年)
クリエーター情報なし
講談社


 全集1収録の「解難録」探訪密告慶応三年丁卯より、以下引用です(p.295~6)。「解難録」は海舟が幕末維新期に書いたものを、明治17年の夏、自ら整理したものです。

 慶応三年、上国に在て事を執る者、探索者の密告せし処有といへども、皆、皮相の見にて、多くは門閥家を以て是が最とす。予が考ゆる処、是と異なり、
 薩藩  西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造
 萩藩  桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原
 高知藩 後藤象二郎 板垣退助
 佐賀藩 副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎
 此輩数人に過ぎざるべし。大事を決するに到ては、西郷、大久保、桂の手に出て、其他は是を賛し是を助くるに過ぎざるべし。〜以下略
 

 慶応三年、西日本の有力諸藩で政治を動かしている人物について、幕府の探索者は藩主やその門閥のお偉方が主導していると報告を上げてきているが、それはうわべしか見ていない者の言うことであって、私の考えは異なっている。
 薩摩藩は西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造。長州藩は、桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原。土佐藩は、後藤象二郎 板垣退助。佐賀藩は、副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎。
 お偉方ではなく、これら各藩数名が主導している。とはいうものの、大事を決しているのは、薩摩の西郷・大久保、長州の桂小五郎で、その他の人々は、彼らに賛同し、彼らを助けているだけだ。


 少なくとも慶応三年において、勝海舟の見ていたところでは、国父島津久光は、薩摩藩首脳部の意志決定集団からはずれていましたし、西郷・大久保が牛耳っていて、小松帯刀はその下で、中村半次郎(桐野利秋)と並び、西郷・大久保に賛同して、手助けしていただけだ、というんですね。

 もちろん、こうなるまでには経緯というものがあります。
 桐野が、生まれ育った鹿児島から京都へ出ましたのは、文久2年(1862年)春のことです。
 島津久光の率兵上洛に従ってのことでして、このときから桐野は、たまに短期間帰郷することはありましたが、ほぼ京都にいました。

外様藩の藩主の父親が、1000名の藩兵を率いて京都へ出た、といいますことは、江戸時代のそれまでの常識からしますと、破天荒なことです。
これにより、日本の政局の中心は京都となり、一気に流動化して、二十代半ばの桐野は、まずは藩命で青蓮院宮付き守衛兵となって、渦中に身を置きます。

原口清著作集 1 幕末中央政局の動向
クリエーター情報なし
岩田書院


 「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」といいます作人氏の見解にそって、原口清著『幕末中央政局の動向』収録の「幕末長州藩政治史研究に関する若干の感想」より、以下の引用部分を見ていただけたらと思います。

 藩士身分の尊攘派志士が、なによりも自藩を尊攘の方針に転換さすために努力したことは当然であり、長州藩や土佐藩では、成功の度合いはちがうが、一藩挙げての尊攘運動を行った。因幡・備前藩などは、藩主自身が熱心な尊攘主義者であり、ここでは急進・漸進の差異はあっても、一藩の多数が尊攘主義者となっていたものと思われる。尊攘主義藩士の脱藩浮浪化は、多くの場合藩論を尊攘主義に転換できず、藩内抗争などがあって脱藩したものでああって、脱藩それ自体が本来の目的であったわけではない。尊攘派は、藩力を利用し、朝廷・幕府に働きかけている。つまり、彼らは既存の国家組織を挙げて尊攘主義に転換させることを主要な運動・組織形態としているのである。 

 つまり、尊攘主義といいますのは、日本に押し寄せてきました外国を意識してのものですから、当然のことながら、藩士身分のものは、日本全体の国家組織を外国と戦いうるものに転換、変革しようと意図して動き、自藩の力をそれに利用して、朝廷幕府に働きかけようとしていた、というんですね。
 としますならば、一薩摩藩士にすぎませんでした中村半次郎(桐野利秋)も、「日本全体が対外戦のできる国となることを願って、自藩に働きかけ、動かすことに成功して、慶応三年には、勝海舟の見るところ、西郷・大久保に賛同して手助けし、重臣・小松帯刀と並ぶほどの実力者になっていた」、ということが可能でしょう。

 以上、勝海舟と原口清氏の著作をあわせみまして、作人氏がおっしゃるところの「桐野利秋は密偵だった」説のなにが胡乱かということは、浮き彫りになったかと存じます。
 薩摩藩首脳部のあり方は、徐々に変化していたのですし、桐野利秋は決して、薩摩一藩のために行動していたのではなく、日本全体のことを考え、長州と手を結ぶ方向へ藩を動かそうと、西郷・大久保・小松に協力し、それを実現したわけです。
 「薩摩の密偵」だったということにしてしまいますと、西郷・大久保・小松に真摯な志を利用され、薩摩一藩のためにしか働けなかったことになってしまいます。
 作人氏自身がおっしゃっているように、「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」わけでして、としますならば、当然、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』に書きました久坂の書翰、坂本龍馬に託して武市半平太に届けた書翰の以下の部分に、強く賛同していたと考えられるわけです。

「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐)も弊藩(長州)も滅亡しても大義なれば苦しからず」
「諸候も公卿もあてにはならない。われわれ、無名の志士たちが集まって幕府を糾弾し、天皇のご意志を貫かなければならない。そのためには、長州も土佐も、滅びていいんだよ」

 幕末の動乱は、これほどの覚悟のもとにありましたのに、桐野利秋が薩摩の密偵であった、といいます作人氏の説は、桐野を貶めるだけではなく、桐野を利用したとされる西郷・大久保・小松をも、貶めることにならないでしょうか。この三人が、たかだか薩摩一藩の利益のみを考え行動していた、ということになってしまうわけですから。

 長くなりましたので、作人氏が「桐野利秋密偵説」におきまして、参考に挙げておられます史料の細かな見当は、次回にまわします。またまた、ありえない読み違いをなさっておられたり、します。
コメント (17)

「桐野利秋とは何者か!?」vol3

2019年01月27日 | 桐野利秋

 「桐野利秋とは何者か!?」vol2の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版

 
 桐野作人氏は、著作の「はじめに」で、以下のように述べておられます。

 本書では「密偵」としての桐野のほか、「剣客」「軍人」「政論家」(必ずしも政治家ではない)、そして西南戦争の「軍事指導者」としての側面に光を当てている。そのなかには、当然向き不向きがあった。そのことが桐野個人の評価にとどまらず、幕末維新から西南戦争までの激動期を思う存分攪拌し、流動化させたことも事実である。桐野のもつ功罪が入り混じった存在意義もそこにあるといえるのではないか。

 まず、これを読んだ時点で、大きな違和感がありました。
 「当然向き不向きがあった」「功罪が入り混じった存在意義」なんて、そもそも、だれについても言えることですよねえ。

 例えば、ですね。
 薩摩藩家老として、幕末のパリ万博で活躍しました岩下方平が、明治22年ころに書いた随筆には、以下のようにあります。
 
 大久保は非常の人なりし故、みつから任すること厚く、我か意にまかせ行ひし事多きか如し。 
 
 肥前佐賀の江藤新平、嶋団右衛門暴動せしは私の為にあらす、天下の為と思ひてなせし事なるへし。是皆御一新の功臣なりしなり。論旨の相合はさる所より斯に至りし物にもせよ、大久保政権を掌握せし程の事なれは、少し思慮を加へは非命の死には至らさりしなるへし。長州の前原にしても其他皆一個の人材なりしを死に至らししめしは日本の為め可惜事なりし。故に自らも刃の下に死せしは源本故ある事なりし。 

 上州の松園七助云、西郷・大久保等は創業の人なり。天下を破るに心を尽くせし人々なり。是よりは守成の人を撰ひ任用すへし、然らされは終に創業の人を疵つくる事あらん、功臣として政事に関わらしめす尊ひ置へしと。実に其事の如くなりし。

 上は、佐々木隆氏読み下しによります「岩下方平随想録」から引用です。

これを作人氏の桐野評の言葉を使って言い換えますと。
 人には向き不向きがあって、大久保利通は天下を破ることには向いていたけれども、維新が成った後の政治には向いていなかった。そのことが大久保個人の評価にとどまらず、幕末維新から西南戦争までの激動期を思う存分攪拌し、流動化させたことも事実である。功罪が入り混じった存在意義のある人物だったが、罪を言えば、自分の思うままに独裁を貫き、自分と意見があわないというだけで、殺さなくてもいい人材を非業の死に至らしめたことである。自らも斬られて死んだのは、理由のあることだ。

 作人氏流に言いますと、大久保利通は、同時代人で、一緒に活躍しました岩下方平によって、上のように評価されているわけです。

 で、ふりかえって作人氏が桐野利秋について述べておられることを見てみますと、いったいだれが、桐野利秋の向き不向き、功罪を評価しているんですか?と聞きたくなるんですね。

 「おわりにー桐野利秋の人気と功罪」を読みますかぎり、作人氏の桐野評は、結局、以下に尽きると思うんですね。

 〜前略〜また私学校のあり方には批判的であり、それゆえ、西南戦争では必ずしも主戦派ではなかったことも明らかにしたつもりである。
 とはいえ、南九州一円で半年間にわたって戦われた西南戦争を早期に収拾することによって、みずからの責任を問うべきだったのではないかという気がする。しかし桐野はそれよりも、薩摩兵児(へこ)の意地を貫きとおし、城山で最後の一兵になるまで戦い抜くことを選択した。それは「ラストサムライ」の華々しくも哀しい最期にはふさわしいかもしれない。だからこそ人気や同情、共感を集めるのだろう。
 だが、両軍合わせて一万人を超える戦死者、それに倍するであろう戦傷・戦病者の存在とともに、熊本県や宮崎県に多大な人的、物的な被害をもたらし、鹿児島城下をほとんど灰燼に帰した責任も振り返らずにはいられない。その責の多くは西郷とともに桐野も負うべきではないかとも思える。
 

 「みずからの責任を問うべきだったのではないかという気がする」とか、「その責の多くは西郷とともに桐野も負うべきではないかとも思える」とか、これはあきらかに、作人氏の個人的感想、ですよねえ。
 少なくとも私は桐野の最期を、「ラストサムライ」の華々しくも哀しい最期なんぞとは思っていませんし、まったくもって同情はしておりません。
 といいますか、西南戦争を収拾することが、西郷と桐野の責任だったなんぞという見解を聞くのは初めてです。通常、反乱の収拾責任は、反乱の指導者ではなく、反乱を起こされてしまいました時の政府にあります。西郷も桐野も、大将・少将の身分を剥奪されてしまいましたし、なんで責任が、為政者ではなく彼らにあると思えてしまうのでしょうか。

 そして、いったい作人氏は、西郷や桐野と同時代の識者の見解を、どう考えておられるのでしょうか。

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)
クリエーター情報なし
講談社


 福沢諭吉著「 丁丑公論」より引用です。

 およそ人として我が思うところを施行せんと欲せざる者なし。すなわち専制の精神なり。故に専制は今の人類の性と云う可なり。人にして然り。政府にして然らざるを得ず。政府の専制は咎むべからざるなり。
 政府の専制咎むべからずといえども、これを放頓すれば際限あることなし。またこれを防がざるべからず。今これを防ぐの術は、ただこれに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行わるる間は、これに対するに抵抗の精神を要す。
 〜中略〜余は西郷氏に一面識の交もなく、またその人を庇護せんと欲するにも非ずといえども、とくに数日の労を費して一冊子を記しこれを公論と名けたるは、人のために私するに非ず、一国の公平を保護せんがためなり。方今出版の条例ありて少しく人の妨をなず。故に深くこれを家に蔵めて時節を待ち、後世子孫をして今日の実況を知らしめ、以て日本国民抵抗の精神を保存して、その気脈を絶つことなからしめんと欲するの微意のみ。
 

  要約すれば、「人はだれしも専制の精神をもちあわせているもので、専制政治そのものをとがめるわけにはいかない。しかし、これを放っておくと行き過ぎるので、弊害を防ぐためには抵抗が必要だ。現在、政府の専制に言論人がおもねり、正確なことが世に伝わっていない。私は西郷をかばうつもりはないが、一国の公平を守るため、後世に西南戦争の抵抗の精神を伝えようと筆をとった。昨今、出版条例があって、下手なことを書けば牢屋行きであるので、公表はせず、百年後の人々に見てもらいたい」ということでしてして、福沢は文中、専制政治に抵抗するには「文」「武」「金」をもってする方法があり、西郷は武力をもっての抵抗を選んだので、自分とは考え方がちがう、と断っています。
 しかし以下本文に入って、「政府が言論の道を閉ざしたのだから、「武」に頼らざるをえなかったのも仕方がない」というようなことも言っているんです。

 〜前略〜政府の人は眼を爰(地方民会を認め、地方自治を進めること)に着せず、民会の説を嫌てこれを防ぐのみならず、わずかに二、三の雑誌新聞紙に無味淡泊の激論あるを見てこれに驚き、これを讒謗としこれを誹議とし、はなはだしきはこれに附するに国家を顛覆するの大命以てして、その貴社を捕えてこれを見ればただこれ少年の貧書生のみ。書生の一言豈よく国家を顛覆するに足らんや。政府の狼狽もまたはなはだしきものというべし。
 これらの事情に由て考れば、政府は直接に士族の暴発を防がんとしてこれを未発に止まること能わず、間接にこれを誘導するの術を用いずして却って間接にその暴発を促したるものというべし。故にいわく、西郷の死は憐むべし、これを死地に陥れたるものは政府なりと。
 〜中略〜維新後、佐賀の乱の時には断じて江藤を殺してこれを疑わず、しかのみならずこの犯罪の巨魁を捕えて更に公然たる裁判もなくその場所において刑に処したるはこれを刑というべからず、その実は戦場に討取りたるもののごとし。鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典というべし。一度び過て改ればなお可なり。然るを政府は三年を経て前原の処刑においてもその非を遂げて過を二にせり。
 故に今回城山に籠たる西郷も、乱丸の下に死して快とせざるは固より論を俟たず、たとい生を得ざるはその覚悟にても、生前にその平日の素志を述ぶべきの路あれば、必ずこの路を求めて尋常に縛に就くこともあるべきはずなれども、江藤、前原の前轍を見て死を決したるや必せり。然らば則ち政府はただに彼れを死地に落とし入れたるのみに非ず、また従ってこれを殺したる者というべし。
 

要約します。
政府は地方民会を盛んにすることを嫌い、地方自治を認めようとはせず、それどころか、わずか二、三紙の新聞雑誌が激論を載せたことに驚き、国家を顛覆する企てだとして記者を投獄するという、めちゃくちゃな対応をして、言論を封じた。政府は、それによって士族の暴発を防ぐどころか、間接的に暴発を誘ったわけで、結局、西郷を死地に陥れたのは政府の方だ。佐賀の乱のときは、江藤新平を裁判もなく処刑し、政府が政府として成り立っていないことを露呈した。一度の過ちならまだしも、3年後の萩の乱で、またも前原をろくな裁判もなく処刑した。したがって、今回城山に籠もった西郷も、江藤、前原を見れば、自分の志を述べる場がないことが明白であり、死を決するしかなかったのである。したがって、西郷を殺したのは政府だと、いうことができる。

 つまり、福沢の見るところでは、西南戦争を起こした責任は政府にあり、もちろん、西南戦争を収拾する責任もまた政府にある、ということです。
 また福沢は、「西郷が志を得れば政府の貴顕に地位を失うものあるは必然の勢なれども、その貴顕なる者は数名に過ぎず、それに付会する群小吏のごときは数思いの外に少なかるべし」とも言っていまして、つまるところ、「西郷には政府を転覆するつまりはなく、中枢にいる数名の権力者を退けたいだけで、維新の時ほどの大変革をめざしているわけではない」ということです。
 つまり、はっきり言いまして、福沢の見るところでは、「大久保利通はじめ数名が退けば、西郷の志は成る」ということですから、戦乱になった責任をとって大久保が引けば収拾は簡単だった、ということでもあります。

 栗原智久氏は「史伝 桐野利秋」の「はじめに」において、以下のように述べておられます。

 果して、歴史の流れが人物を生むのか、人が歴史を動かすのか、これは史観としての議論にも関るところであるが、しばらく措いて、本書はこうした桐野が幕末維新史の中でどのような位置にあり、どのような言動をみせたのか、その真実を、その軌跡を、史料に基づいてできるかぎりあらわそうとするものである。 

 これに比べまして、作人氏がおっしゃるところの「功罪が入り混じった存在意義」とやらは、相当に胡乱なものとしか、私には受け取れません。

 次回、これも相当に胡乱な「桐野利秋密偵説」に踏み込みたいと思います。
コメント (4)

「桐野利秋とは何者か!?」vol2

2019年01月19日 | 桐野利秋

「桐野利秋とは何者か!?」vol1の続きです。


薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 伝記を書きますのに、本人の日記があれば、それは、とても重要な史料ですよね。丁寧に解読するべきものだと、私は思います。
 もちろん、日記は本人の主観で書くものですし、また当時の日記は秘密に書くものではなく、後世に見られることがほぼ前提です。したがいまして、日々の出来事を、それなりに取捨選択して書いていたりもするわけです。
 しかし、そういうことも含めて、丹念に読んでこそ、それを書いた本人と、真摯に向き合えるのではないでしょうか。

 桐野の「京在日記」は、幕末も押しつまった慶応3年9月1日から12月10日までの3ヶ月あまりのものしか、現存していません。
 しかしこの時期、倒幕の勅命、大政奉還、龍馬暗殺、王政復古と、まさに激動の渦の中に桐野はいます。
 この日記は、昭和45年(1970年)、田嶋秀隆氏の手により、読み下して活字化されているのですが、少部数発行の非売品。長らく、手に入れることが困難でした。
 ところが2004年、栗原智久氏が、現代語訳され、解説付きで出版されましたおかげで、手軽に手にできるようになりました。

桐野利秋日記
栗原 智久
PHP研究所


 いや、しかし。
 どびっくりの高値ですねえ。
 これって、大河ドラマ効果でしょうか。がっくり。
 私は、中村さまのご厚意で非売品のコピーも持っていますし、もちろん、栗原氏の現代語訳も持っているのですが、コピーは見づらいですし、通常、このブログを書くときなど、きっちり製本されました現代語訳を手にすることが多い次第です。

 まあ、ともかく。
 例えば人物の特定など、解読の難しい部分もあるのですが、栗原氏の解説もありますし、文章自体は、それほど難しい日記ではありません。
 それが、ですね。
 桐野作人氏は、いったいなんでこんな!!!、というような、ちょっとびっくりするような読み方をされていたりするんですね。

 例えば、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました、以下。

 10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
 桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
 大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
 一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。


 この5日前、慶応3年10月23日の日記に、桐野は「10月の初めころから病気だったが、症状が重くなってどうしようもなくなった」というようなことを書いていまして、26日には藩医・石神良策に往診してもらっています。
 石神良策につきましては、楠本イネとイギリス医学に詳しく書いていますので、ご覧になってみてください。

 で、桐野は石神に、10月26、27、28、11月1日と続けて診てもらってまして、最後の11月1日にやっと「病が快方へ向かう」と記してあります。11月4日には近所を散策するまでに回復しましたが、しかし、28日から石神が同行しましたもう一人の医師・山下公平は、この11月4日にも見舞いにきています。

 つまり、桐野の従兄弟の別府晋介と弟の山之内半左衛門が、路上で斬り合いになった、という10月28日の時点で、桐野はまだ病が篤く、伏せっていたらしいんですね。
 で、どこからどう読んでも、この斬り合いは、従兄弟と弟が当事者です。もっとも、別府がさしていた刀は、桐野の刀であったそうなのですが。

 それが、ですね。
 桐野作人氏は、第2章で「剣客としての桐野」を描くにあたりまして、「桐野が弟、従兄弟と歩いていると斬りかかられた」という話に仕立ててしまっているんです。日記の原文では、前日に見舞いに来てくれた藤屋権兵衛のもとへ「従兄弟と弟を御礼に遣わした」と書いていますのに、どこをどうひねったら、「桐野は一間ほど後ろに飛び退いて、刀を半分ほど抜きかけたところ、別府が先に刺客を斬ってしまった」なんぞという光景が出現するのでしょうか。

 もう一つ、日記からです。
 桐野作人氏の著作、p.233「桐野の和歌」より、以下引用です。

 桐野の日記でもっとも意外なのは、和歌や漢詩を少なからず詠んでいることである。和歌は十五首、漢詩は二編載っている。 

 和歌が意外ですかね? 土方歳三も俳句を作っていますし、ねえ。どっちもド下手くそですが、土方の俳句の方が少しだけましかなあ、という気がします。
 桐野の和歌につきましては、昔、書きました。

 大政奉還 薩摩歌合戦

 ここのコメント欄で、私、書いております。

 11月3日条を最初見たとき、「あれ、これなかなかうまい!」と思いましたら、「長府の奥善一、京都に於ける作」とあって、がっかりしましたです(笑)

 私、まちがえて「奥善一」としか書いていませんが、11月3日条には、漢詩が二つと和歌が一つありまして、「長府の奥膳五郎、六郎、善一、京都における作」となっています。
 つまり、どこからどう見ましても、この漢詩二編、和歌一首は、長府の奥氏たちの作品なんですね。
 この日以外、桐野は漢詩は日記に書いておりません。

 和歌につきましては、確か「鹿児島県史料 西南戦争」に市来四郎が桐野について書いた文章がありまして、そこにもいくつか載っていますし、一応、師匠について勉強していたようなことも書かれていました。(すみません。コピーが出てこなくて、不確かです)

 桐野が漢詩を作ったかどうかは、ちょっとわかりません。
 いくつか、桐野のものと称されます漢詩の軸物は残っているようなのですが、それらが本当に桐野の筆であるかどうかは確かではないですし、例え桐野の真筆であったとしましても、その漢詩にいたりましては、あるいは友人の有馬藤太や中井桜洲が作ったかもしれません。

 で、日記から離れまして、先に出てまいりました従兄弟の別府晋介、です。
 wikiー別府晋介は、ほぼ「西南記伝」をもとに書いているのではないかと思うのですが(私は手を入れていません)、「鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第2子として生まれる」とあります。桐野の母・スガの実家は別府家ですので、通常、スガと別府十郎は兄妹、あるいは姉弟だったと理解されます。

 ところがですね。
 桐野氏著作p.78「桐野利秋とは何者か」より、引用です。
 
 父十郎が利秋の母スガの妹と婚姻し、その二男として晋介が生まれた。兄は九郎という(塩満郁夫「別府晋介と西南戦争」)

 私、塩満氏の論文を持っていませんので、中村さまに見ていただきました。
  「桐野利秋とは何者か!?」vol1のコメント欄に中村さまご本人が書き込んでくださっていますが、塩満氏の「別府九郎と西南戦争」では、九郎の父十郎の姉スガ、となっています、ということなんです。もっとも、年を計算すれば、十郎の妹スガ、かもしれないようですけれども。

 もう一つ、p.29、別府晋介の項目より。

 同5年に征韓論が起こるや、八月、外務大丞の花房義質が朝鮮国に派遣されることになり、晋介はその同行を命じられている

 いや、明治5年に征韓論は起こっていません!!!


アジア歴史資料センター

 上のリンクで、レファレンスコードB03030134500、「対韓政策関係雑纂/明治五年日韓尋交ノ為花房大丞、森山茂一行渡韓一件 第一巻」の明治5年8月10日、朝鮮尋交手続並目的をご覧ください。外務卿・副島種臣が正院に提出したものです。
 国交交渉が上手くいっていない現状を延べた後、次のように言っています。

 和館(草梁倭館)は、嘉吉以来、わが人民が行き来して住み、我が国の国権が行われて来た場所なので、捨てるわけにはいかない。いずれ使節を立てて談判するまで、便宜的な取り計らいをする 

 ということでして、要するに、外務省が釜山の草梁倭館を確保するための諸策を実行しようと、花房は渡韓したわけです。
 別府たちを派遣しましたのは、対馬(草梁倭館も含まれます)を所轄する鎮西鎮台(熊本鎮台)司令長官の桐野ですが、どこからどう見ましても、目的はいずれ正式に使節を立てるときのための草梁倭館偵察のためでしょう。

 これにつきましては、次回かその次か、明治6年政変を取り上げますとき、もっと詳しく書きます。

 いずれにせよ、です。
 細かいことばかり、と思われるかもしれませんが、何事も細かいことの積み重ねです。
 不審なほどに変な間違いが多いですし、あるいは桐野作人氏は、ゴーストライターにでも書かせたのか、と勘ぐりたくなるほどです。

 日記をちゃんと読んでくれていない、というだけで、著作全体への不信感が芽ばえたのですが、次回からは、もう少し大きな問題に取り組む予定です。
コメント (3)

「桐野利秋とは何者か!?」vol1

2019年01月15日 | 桐野利秋

  一応、大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.2の続きです。

 去年の9月です。
 山本氏からお電話で、「桐野作人氏が桐野利秋の本を出されるみたいですよ。中村さんにも伝えて差し上げてください」と言われました。
 お聞きしたところでは、「密偵としての桐野」という新しい視点で書かれた、ということでして、なんとなく、嫌な予感がありました。
 といいますのも、30年ほど前、大河で「跳ぶが如く」が放映されましたとき、小説や随想など、桐野利秋に関する多くの本が出版されましたが、その中に、確か、「密偵」のように書かれたものがありまして、それは決して、私にとりまして魅力的な桐野像ではなく、納得もいかず、とばし読みして放り出した記憶があった、からです。

 しかしまあ、読んでおいた方がいいだろうとアマゾンで購入し、とばし読みましたところで、骨折、手術、入院。
 とばし読みましただけで、言いたいことが山のようにあったんですが、少し丁寧に読まねばと、病院に携えました。
 

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 私、大河ドラマにつきましては、「まあ、原作とシナリオライターがあれじゃあ、ね」と、結局のところは、あまり期待していませんでした。
 しかし、桐野作人氏の本であれば、「少なくとも史料に忠実だよね? 新しい史料紹介があるかもしれないし」と、かなりの期待はあったんです。

 
史伝 桐野利秋 (学研M文庫)
栗原 智久
学習研究社


 これもずいぶん以前の記事なんですが、史伝とWikiの桐野利秋でご紹介しました栗原智久氏の『史伝 桐野利秋』は、好著でした。
 あれから、いろいろと付け加えたいことも出てきましたけれども、基本、「桐野利秋について知りたい」という方には、まず、この本をお勧めしていました。
 主観をまじえず、史料に語らせるスタイルで、淡々と書かれているんですが、それでいて、著者の桐野利秋への愛情が感じられるんです。
 それは長らく、「感じられる」だけだったんですが、最近、先輩ファンの中村さまが、国会図書館で「歴史研究 441号」に栗原氏が寄稿された随筆を、コピーしてくださいました。

 「歴史研究」は、在野の歴史愛好家に論文発表の場が開かれた月刊誌でして、いまも続いているようです。
 月刊『歴史研究』特集一覧を見ていただければわかるのですが、平成10年発行の441号の特集は、「司馬遼太郎の世界」です。栗原氏は、司馬遼太郎氏が描いた桐野利秋について、述べられていまして、以下、引用です。

 「『翔ぶが如く』における桐野の考え・思想に対する司馬人物観は、必ずしも好意的なものばかりではない。しかし、著者が桐野に魅かれたのはこの小説のところどころにあらわされたその所作の印象によるところが大きい。〜中略〜 行動の型としては、桐野は司馬人物観にかなう、司馬さんの好きな人物のひとりであったのだろうと思う。
 著者はいま、史料をもとに桐野の思想について考えるものであるが—自らの思い込みでしかないが、許されるものなら、史料をもって桐野利秋について司馬さんと語ってみたかった。お便りしてみたかった。その司馬さんはもういない」
 

 栗原氏は、これを書かれて4年後に、『史伝 桐野利秋』を出版されたことになります。

 愛のバトン・桐野利秋-Inside my mind-を見ていただければわかっていただけるかと思うのですが、栗原氏のように理路整然と語ることはできていなくても、結局のところ、私も司馬遼太郎氏の作品で、桐野を好きになったわけだったみたいでして。

 実をいえば、ですね。栗原氏が寄稿なさった5年前、私も、「歴史研究 375号」に「桐野利秋と民権論」という論文を投稿しております。
 いま読み返しますと、勉強不足のあらが目立って、目をおおいたくなるんですけれども、大筋で、私の考え方が変わったわけではありません。
 しかし、それにしましても、いまさらこの論文が日の目を見ようとは……、絶句でした。

 桐野作人氏の著作について、ざっと読みしました感想を一言で言えば、「栗原氏みたいに、桐野への愛情があって書いたわけじゃないよね、この本」ということです。
 愛情のなさは、史料の読み方にあらわれていまして、読解がいかにも雑です。
 しかし、桐野作人氏は著名ですし、発行はNHK出版。
 この愛情のない本が、これから桐野の伝記の定番になるのかと思いますと、いったいどこへ不満をぶつければいいものやら、入院中にもかかわらず、夜、携帯で中村さまと長話をしまして、看護士さんに叱られる始末。

 しかし、この時点でまだ飛ばし読み状態の私に、中村さまいわく。
 「桐野氏は、郎女さんと私の名前を出しておいででしたが、あれは、どういうおつもりなんでしょう」 
 「えええっ!!! 私の名前???」

 中村さまは「敬天愛人」に、近年、桐野に関する論文を発表しておいでなので、引用してらしたというのもすぐに合点がいったのですが、なんで私がっ!!!と絶句しつつ、言われたページを開きましたら、これが、30年近く以前に書きました「桐野利秋と民権論」からの引用であった、というわけです。あまり納得のいく箇所の引用ではなかったですし、いまだに、どういうおつもりだったのかはわかりません。

 どこがどう愛情がなく、どこがどう雑なのか、具体的には、次回から順を追って書いていくといたしまして、今回は最後に大河の桐野につきまして。
 子役の子は、ほんとうによかったんですけど、大人になって、大野拓朗。
 整った顔立ちで、「花燃ゆ」では野村靖をやり、本物の野村靖の写真を知っている私からしましたら、「嘘だろ!」だったんですが、なんだかともかく、幕末劇では影の薄い人です。
 今回の桐野も、シナリオが悪いのが第一でしょうけれども、まったくもって、存在感も魅力もありませんでした。
 朝ドラ「わろてんか」のキースは、なかなかよかったんですけれど。

 『翔ぶが如く』の杉本哲太、好きでした。
コメント (6)

大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.2

2019年01月05日 | NHK大河「西郷どん」
ID:2hao61

大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.1の続きです。

岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで
丹尾 安典,河田 明久
岩波書店


 wikiの上野の西郷像の記述は、大方、上の「岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで」を参考に書かれたようです。
 この本、全体的な論調には小首をかしげるようなことが多いのですが、事実関係はよくまとめられています。以下、引用です。

  この「西鄕星」(西南戦争直後に売り出された錦絵「一枚の絵は空にかかる火星を示し、その中心に西鄕将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している……E.S.モース」)は、文字通り西鄕が一般民衆のスターであったことを裏づけている。かれを描いた錦絵が流行したのみならず、戦後舞台のうえでも、実川延若や市川団十郎が西鄕を演じて大当たりをとった。西南戦争が終わって14年を経た1891(明治24)年にいたってもなお、来日するロシア皇太子一行とともに西鄕がもどってくるという風聞さえたった。 

 で、著者は、反徒の陸軍大将に人気が集まるのは政府にとって好ましいことではなく、上野の像は大将服を脱がされ、「西鄕は武人としての牙をぬかれ、犬をつれて歩く人畜無害な人物として、以降民衆のイメージのなかに定着していった」 というのですが。

 果たして、ほんとうにそうだったのでしょうか。
 政府が否定したかったことは、西郷は陸軍大将として薩摩軍を率いたのであり、反徒ではなかったという事実、つまりは、西南戦争の正当性、です。
 例え、像が大将服を脱がされてしまいましたところで、当時の日本国民にとっての西郷隆盛は、反徒ではありませんでしたし、ある意味、大山巌が意図しましたガリバルディ像のように、普段着姿の沈黙でもって、政府に対峙していたのではないでしょうか。
 したがいまして私は、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編において述べたように、「結局、西郷隆盛は、陸軍大将の軍服によってではなく、質素な着物を愛用していたという伝説によって、十分に権威たりえた」のだと思うんですね。

 

 大将姿の西郷隆盛の錦絵を、数多く描き残しました月岡芳年は、明治21年2月付け、やまと新聞付録で、上の着物姿の西郷を描いています。
 大赦で追贈される1年前のことですから、このときまだ西鄕は朝敵です。文章を書いたのはだれだか知らないんですが、維新の元勲にして反賊の首相としながら、「陸軍大将の服を着て官兵と矛先を接ふ」と認めているんですね。
 「隆盛は猟が好きで、軍中にあっても犬を連れて山野をかけめぐった。それを絵にしたものである」 とあり、しかもこの顔、すこぶる本物の西郷隆盛に似ていたといわれます。あるいは、政府側の薩摩人、それこそ大山巌でもの意向がはたらいたのかな、と思えます。

 上野の銅像は、どうも、この芳年の絵をもとにしたか、と思えるのですが、羽織を着てませんし、お行儀の悪い感じで、糸さんが嘆いたのも無理はありません。
 
 明治、西郷の後、民衆の大人気を得た大将と言えば、それはもちろん山縣有朋ではなく、陸軍大将・乃木希典、海軍大将・東郷平八郎の二人で、日露戦争の英雄は、陸海ともに、士族反乱で肉親を失った痛みをかかえていた明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol6参照)わけなのですが、さまざまな事情で政府に留まりながら、しかし、とりわけ乃木希典は、政府への批判のまなざしを持ち続けました。

 『花燃ゆ』とNHKを考えるは、「花燃ゆ」の放送がはじまる直前に書いたものです。以下再録です。

 源平の時代が一番わかりやすいのですが、平家物語や源平盛衰記の古典物語があって、それが能になったり、浄瑠璃、歌舞伎になったり、明治以降、いえ、戦後も昭和までは、舞台になったり小説になったりしてきたわけでして、そういうものの積み重ねの上に大河ドラマはあったんだと思うんですね。戦国には太閤記がありますし、忠臣蔵には、元に歌舞伎があります。〜中略〜大河において、これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく、しかも戦前、戦後であまりにも大きく明治維新の評価が変わった、ということがあったと思います。 

 上の「これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく」という部分には、訂正の必要があると、いま思います。

 西郷隆盛と西南戦争は、多くの錦絵になり、歌舞伎にも新国劇にもなりました。日本の近代史における、最大の伝説だったんです。
 その最後をも含めて、西郷隆盛を評価したのは、決して守旧派ではありません。
 福澤諭吉であり、中江兆民であり、内村鑑三であり、西洋的近代化を受け入れながら、なお、現実の明治政府のありように批判の視線を持ち続けた人々です。
 
 ただ、戦後生まれの私が、そのことに思い至れないでいたのは、西郷と西南戦争に対する価値観が一変してしまっていたから、だと思います。

 珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想
珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道で書いたのですが、宣教師の息子として日本で育ったカナダ人、ハーバート・ノーマンが、ケンブリッジで共産主義思想にかぶれまして、戦前に書いた「日本の兵士と農民」こそが、この価値観の転変に、非常に大きな役割を果たしました。
 なにしろ、ハーバート・ノーマンは、敗戦日本に君臨しました占領軍の有力ブレーンとなり、戦後の日本の歴史教育におきましても、多大な影響力を発揮することとなりました。
 武士道を忌み嫌い、西郷を守旧派の親玉としか見ていなかったノーマンの影響力は、戦後の日本の歴史学会が、唯物史観一色に染まったことにより、いまなお、根強く残り続けています。

 といいますか、歴史学者がなにを言ったところで、戦前を肌で知る人々が健在だったころには、錦絵や歌舞伎、新国劇、童謡で親しんだ、西郷と西南戦争へのリスペクトは、生きていたのだと思うんですね。
 むしろ問題は、戦後教育を受け、「日本の兵士と農民」というハーバート・ノーマンの奇妙なマルクス主義物語しか知らない世代が主流となりましたことで、よけいに大きくなってしまったように見受けられます。

 歴史絵を好んで題材にしました月岡芳年は、西南戦争と西郷隆盛も多く描いているわけなのですが、ひとつ、ぎょっとするような絵があります。



 明治11年7月、つまり、大久保が暗殺されて2ヶ月後の絵です。

 明治8年、政府は、讒謗律と新聞取締法によりまして、反政府記事に体罰で応じるなど、はなはだしい言論弾圧を行い、西南戦争中、戦後もずっと、それを続けました。
 もちろんこの当時、西郷軍を賞賛しただけで牢屋行き、だったんですけれども、錦絵で美しく描くぶんには、政府も取り締まりようがありません。
 そして、美しく描いた錦絵の方が、庶民の人気だったわけですから、芳年の描く西郷も、英雄らしく、美しいものでした。
 ところがこの絵は、冥界にいる、幽鬼のような西郷が、建白書を差し出しています。
 「西郷隆盛霊幽冥奉書」を囲む鎖は「甲」の字に見えまして、これは大久保甲東の甲ではないのか、ともいわれます。
 つまり、大久保により冥界に閉じ込められてしまいました西郷隆盛が、大久保に差し出した建白書こそが暗殺であった、といいます、痛烈な明治政府への批判の絵であったと見られるんです。

 

 西南戦争直後の西郷星の錦絵です。火星の大接近で、夜空に赤く耀く星を見て、当時の民衆は、星の輝きの中に「陸軍大将の正装を西郷隆盛の姿が見えた」と、大騒ぎしたんですね。もちろんここにも言論弾圧を重ねる、政府への非難のまなざしは、十二分に感じとれます。
 これはドラマでも使われたのですが、「お父さまは、こんなふうに人々にあがめられて喜ぶような人ではなかった」とかなんとか、糸夫人に語らせてなかったですか?
 ものすごい矮小化なんですよね。

 西郷その人は冥界にいるわけですから、西郷星騒動をどう見たかなぞ、だれにもわかりませんし、どうでもいいことなんです。
 人々が騒いで、明治の伝説ができあがったわけでして、それはそのまま、日本人が大切にしてきたなにものかが、西郷軍と共に消えてしまった、という人々の哀惜の念でもあったわけです。
 夫人のものとした、馬鹿馬鹿しい、ただただ個人的な感想で、伝説へのリスペクトを踏みにじった演出でした。
 そうなんです。今回のドラマには、伝説と当時の日本人全体へのリスペクトが、微塵も感じられませんでした。
 見るのもいやになりました最大の理由は、それだったと思います。
 西鄕の最期も、語り残されたことをすべて無視して、リスペクトも哀惜もゼロ、ですませていませんでしたか?


 これも古い記事なのですが、陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌をごらんになってみてください。

陸自のフランス・パリの行進に、抜刀隊 陸軍分列行進曲を入れてみました。


 上は、去年のフランス革命記念日軍事パレードに、日仏交流160周年を記念して、自衛隊が招かれたときの映像です。
 陸軍分列行進曲は、制作者がかぶせただけで、実際に演奏されたわけではないんですが、作曲者がフランス人のシャルル・ルルーですし、演奏されていれば素敵だったんですが。
 シャルル・ルルーを雇ったのは大山巌で、作詞者はもと幕臣の外山正一。
 
  我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
  敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
 これに從ふ兵(つはもの)は 共に慓悍决死の士
 

 
南洲残影 (文春文庫)
江藤 淳
文藝春秋


 江藤淳氏の「南州残影」によれば、「この改変の過程から浮かび上がって来るのは、明治の日本人にとって『抜刀隊』の歌が、いかに特別な歌だったかという動かしがたい事実である。『抜刀隊』は転調が多く、いかにも歌いにくい歌かも知れない。しかし、それはなによりもまず、『古今無双の英雄』と『これに従ふつはもの』を称える歌にほかならない」 ということでして、確かに、これほどに敵を褒め称えた軍歌は、類を見ないでしょう。

 そして、最後はまた、この手まり歌でしめさせていただきたいと思います。

 一かけ二かけて / 初音ミク


 大河「翔ぶが如く」には、当時、いろいろと言いたいこともあったのですが、今にして思えば、この歌を最後に聞かせてくれただけでも価値がありました。
 今は亡き父と、すっかり年老いてしまいました母が、テレビを見ながら声をそろえて歌ったことを、忘れることができません。
 幼い頃、祖父に買ってもらいました絵本の『孝女白菊』とともに、いかに西郷伝説が、日本人の心をゆさぶり続けてきたのか、教えてくれた瞬間でした。

一掛け二掛けで三掛けて 
四掛けて五掛けて橋を架け
橋の欄干手を腰に はるか彼方を眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香を手に持って 
もしもし姉さんどこ行くの 
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦役に 切腹なさった父上の 
お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン


はるばる北海道から、祖先だと信じて桐野利秋のお墓参りに来られた桐野利春氏のご子孫の四姉妹も、かならずや、この歌を歌っておられたのではないでしょうか。

 次回から稿を改めまして、桐野利秋について書くつもりですが、これにつきましては、もう少し詳しく、史実とのつきあわせもしてみたいと思っています。
コメント (9)