郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。フランス、イギリスを主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには映画、読書、旅行の感想も。

大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」後編

2018年03月24日 | NHK大河「西郷どん」


 大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」前編の続きです。

島津斉彬 (シリーズ・実像に迫る11)
松尾千歳
戎光祥出版


 上の「島津斉彬」は、尚古集成館館長 ・松尾千歳氏の著作です。
 こちらも、とてもわかりやすくまとめられていますので、前回ご紹介いたしました芳即正氏の「島津斉彬」とともに、参考にさせていただきながら、話を進めたいと思います。


島津斉彬 (人物叢書)
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吉川弘文館


 まず、なぜ、斉興はなかなか隠居しなかったのか?です。
 答えは簡単です。
 従三位になりたかったから!!!なんです。

 前回、斉興には叔母にあたる茂姫が従一位で、夫の将軍と同じ高位だった、と書きました。臣下として、従一位は最高位です。
 従三位にになれる大名は、清水徳川家(御三卿の一つ)くらい、でして、島津家は通常、従四位下まで、です。
 ただし、例外として、江戸時代初期、藩主としては初代となります家久と、将軍御台所の父親でした重豪だけは、従三位にまで昇進していました。
 昇進条件として、長年藩主の座にいたことがあげられることもあり、斉興としましては、できるだけ長く、藩主でいたかったわけなんです。

 斉興は伯母が将軍御台所でしたし、祖父の重豪は将軍家に金をばらまいていましたし、おそらくはずいぶんと、将軍家から丁寧に扱われていたことと思われます。
 そのせいなのか、なんなのか、「自分は高貴である」という思い込みが、激しかったんですね。

近世日本の歴史叙述と対外意識
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勉誠出版


 上の「近世日本の歴史叙述と対外意識」に「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興」という論文があります。
 これによりますと、なんと! 斉興は祈る藩主だったんだそうです。
 
 えーと、ですね。島津氏は、もともと鎌倉幕府の御家人であると同時に、京の近衛家(五摂家の一つ)にゆかりのある、惟宗氏であったといわれます。
 ところが、いつしか島津家には、「実のところ島津の祖は源頼朝の落とし胤であった」、という伝説ができあがるんですね。
 これはおそらく、徳川家が、源義重の子孫だと称し、清和源氏新田流を名乗ったことに、対抗したのではないかと推察されます。
 
 清和源氏といいますのは、平安時代前期の清和天皇の子や孫たちのうち、臣籍降下して「源」(みなもと)を名乗った人々の子孫です。
 その中から、武士団を率いる家が生まれ、平安時代後期の源義家(八幡太郎)は、武勇をうたわれ、新興武士勢力を形成しました。鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の足利尊氏と、武家政権を樹立した将軍は、二人とも義家の子孫です。そして、徳川家が名乗った新田氏は、足利氏と祖先を同じくしていまして、徳川家も結局、八幡太郎の子孫だと自称したわけです。

 で、ですね。源頼朝は八幡太郎の直系、嫡流の子孫でして、史実として頼朝以降、直系は絶えましたが、もしも落とし胤の子孫がいたとすれば、足利や新田よりも、武家の棟梁を名乗るにふさわしい、という物語が成立するんですね。
 それどころか!!! 島津家に極秘に伝わったとされる話では、です。なんと!!! 「皇祖ニニギノミコトは、三種の神器とともに祈祷の秘法を授かって、天孫降臨し、歴代天皇は代々、皇位継承のたびにそれを伝えていたが、清和天皇は、生後3ヶ月で即位した陽成天皇が粗暴であることを憂えて、清和源氏の祖である皇子に秘法を伝え、秘法は天皇家を離れ、源家の正統が伝えるものとなった。島津家は源家の正統であるがゆえに、代々当主が秘法を伝え、修業してきたのであり、わたし(斉興)もそうしているのである」ということでして、これでは、「島津家は徳川家より上」どころか、「現在の天皇よりも、島津家こそが正統に皇位を継承する資格がある!」と、言っているに等しくないですか?

 こういったことが実は、斉興が書いた文書にあるのだそうでして、もうもう、お口あんぐり、です。
 まあ、ですね。天孫降臨から神武東征までの日本神話は、島津家の勢力圏である南九州が舞台ですけどねえ。それにいたしましても。
 天皇のお役目は、かなり昔から、国家安泰のために祈ることだと認識されていまして、斉興の認識では、薩摩藩主こそがその祈りの主体であるべき、ということに、必然的になるわけです。

 ところがこの斉興の自己評価と、せいぜいが従四位下という実際の朝廷での地位には、大きな乖離があります。
 「だからせめて従三位に!!!」って、ことだったらしいのですが。
 もうね、なんといいますか。

 うーん。いや、こうなってきますと、ドラマの島津斉興は、かなりイメージがちがいます。
 鹿賀丈史よりも、いまは亡き平幹二朗が似合ってた感じですねえ。
 平幹二朗が斉興で、斉彬が息子の平岳大だと、イメージぴったり、だったんですけどねえ。
 どうも私、渡辺謙の斉彬というのも、ピンときません。野性的すぎて、品がないんですよねえ。
 せめて、平岳大の斉彬だけでも見たかったなあ、と。

 さて。では、お由羅騒動とは、いったいなんだったのか?です。
 一言でいえば、琉球開国問題をきっかけとした、斉興、斉彬の親子喧嘩です。
 そして、琉球開国問題がなぜ起きたか、といえば、アヘン戦争の結果、西欧諸国が清国に拠点を得たからです。

 アヘン戦争が起こる3年前、イギリスでは、若きヴィクトリア女王が即位しました。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol8 赤毛のいとこに書いた時期でして、幕末、日本で活躍するイギリス外交官・アルジャーノン・バートラム・ミットフォードをはじめ、土方歳三、五代友厚、井上馨、徳川慶喜、桐野利秋、後藤象次郎たちが、産声をあげたころ、です。
 フランス革命からナポレオン戦争にいたる動乱、そして産業革命を経て、イギリスは圧倒的な経済、軍事、政治力で、世界システムのヘゲモニーを握ろうとしていました。
 
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争5には、以下のように書きました。
 
 第2次百年戦争と呼ばれる18世紀の百年間、イギリスはフランスとシーソーゲームをなしつつ、世界帝国を築き上げていきました。前回にも書きましたように、それは、主には海軍力によるものでして、植民地における英仏対戦にまで言及していく必要があるのですが、それは置いておきます。

 この「植民地における英仏対戦」は、アメリカ大陸における戦いについて書いたのですが、同時にインドでも、英仏は対立していました。
 7年戦争に連動して、イギリス東インド会社が、フランス東インド会社のインドにおける覇権を打ち破り、インド植民地化への道を開きます。

興亡の世界史 東インド会社とアジアの海 (講談社学術文庫)
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講談社


 上の「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」、著者の羽田正氏は近世イスラーム史がご専攻だそうですが、19世紀初頭、アヘン戦争までのアジア交易の状況を、わかりやすくまとめてくれています。

 16世紀、スペイン人はアメリカ大陸から太平洋を越えてフィリピンに到着し、ポルトガル人はアフリカ南端の喜望峰を経てインド、そしてアジア各地に到達し、やがて、「人とモノによる地球の一体化を実現」しました。
 いわば、地球を一周、あるいは半周して、大陸から大陸へ、人とモノの長距離移動を常態化したわけです。
 とはいえ、ポルトガル人の海の覇権は、それほど長く続いたわけではありません。
 当時の船旅は、相当な危険を伴いました。王室が投資し、一攫千金を狙う命知らずの商人が船を動かし、ならず者や罪人たちが兵士となって、アジアへ来たわけなのですが、女性が伴われることはまれでしたし、彼らの多くは現地女性と結ばれて土着化し、貿易も私貿易となって、本国との関係は薄れていったのです。

 そして17世紀、新興商業国家、オランダとイギリスの商船が、アジアの海に乗り出してきます。
 この2国で、アジア交易のために誕生しましたのが、東インド会社です。
 後を追って、フランス東インド会社が生まれ、さらには、短期間ながら、スウェーデン東インド会社、デンマーク東インド会社も活動しました。

 この場合の「東インド」とは、アラビア半島、東アフリカ、インド、そして東南アジア、中国、日本も含まれる広範な地域です。
 つまり、東インド会社とは、「東洋との交易で収益をあげることを目的にした株式会社」でした。
 莫大な利益を生み出す東洋交易は、さまざまな危険ととなりあわせで、多大な資本金を必要としていました。そのために、株式を発行し、安定した資本を得る方式が採用されたわけです。

 しかし、またこの株式会社は、王室と政府により、東洋貿易の独占権を与えられていまして、本国政府とは別に、出先の交渉相手の政府と交渉する外交権のようなものも、認められていました。
 つまりオランダ東インド会社は、独自の判断で、江戸幕府と交渉することができた、というわけです。で、そのオランダ東インド会社の本拠は、バタヴィア(現インドネシアのジャカルタ)でしたが、独自に軍隊を持っていて、場合に応じて、軍事力行使も辞さない、戦う株式会社でもありました。
 
 長崎は、そもそもポルトガル交易のために開かれた港町でしたが、江戸時代、幕府は、西欧諸国の中では、宗教を持ち込まないオランダの東インド会社にかぎって、長崎での交易を許可します。
 長崎は天領となり、それまで交易に携わっていた日本人たちは、通訳をも含めて、幕府の下級役人となり、幕府は効率的な管理貿易を行いました。
 長崎・出島のオランダ商館長は、毎年、江戸の将軍に挨拶に出向くことが求められ、もちろん、兵士の駐留は認められません。それどころか、長崎へ入港するオランダ船は、大砲を外してはじめて、陸揚げが許されました。
 18世紀に入り、幕府の統制はさらに徹底し、羽田正氏によれば、「それは、現地政権がその国の海外貿易全般と人の出入りを完全に掌握し、管理するという当時の世界で唯一の体制」となりました。

 一方、ですね。明から清へと王朝が変わった中華帝国ですが、これも、管理交易をめざしていました。
 しかし、清朝の支配者は、内陸から勃興した女真族。海外交易をしていたのは、沿岸部に住む商人、漁民たちです。
 したがいまして、清朝の管理は間接的で、江蘇・浙江・福建・広東に、海関を設け、特定の仲介商人(牙行)に取り引きと課税を請け負わせることで、行われていました。(村上衛著「海の近代中国」P.29
 しかし、西洋の商人たち、つまりは東インド会社に対する管理は強く、貿易港は広州一港で、滞在は貿易期間(9月から翌年3月)のみ。軍船の入港は禁じられ、行動も大きく制限されていて、その点では、日本の長崎におけるオランダ交易管理に似ていました。
 そうした理由も、基本的には、キリスト教の伝搬とその影響を危惧して、ということでして、これも日本との共通項です。

 1776年、イギリスのアダム・スミスは、「国富論」において、以下のように、東インド会社を強く批判します。
 「東インド会社のような独占企業はあらゆる面で有害であり、それが設立された国に多かれ少なかれ不利益をもたらし、その支配を受けるようになった国の住民には、破壊的な打撃を与えるのである」(山岡洋一訳) 

 実際に、ですね。国富論が出版されました前年に、アメリカ独立戦争は勃発していますが、その前哨戦とも言えるボストン茶会事件(1773年)は、イギリス東インド会社がらみで起こりました。
 イギリス東インド会社は、清朝中国から仕入れたお茶をアメリカで販売していましたが、高価すぎまして、アメリカの商人たちは、自然とオランダ・フランスの東インド会社から仕入れるようになっていたんですね。
 で、在庫をかかえ、経営不振に陥っていましたイギリス東インド会社のために、イギリス政府は、アメリカほか植民地での茶の独占販売権をイギリス東インド会社に与え、その代わりに、相場よりも安く売らせることとしました。
 イギリス政府は、確実に植民地での物品税を得るためにそうしたわけですが、それが多大な反発を招きます。
 そもそも、イギリス東インド会社の販売価格が高価に過ぎたからこそ、アメリカ商人たちは、ひそかに他から茶を仕入れ、販売して儲けていたわけですし、本国と植民地の貿易と課税のあり方が、大きな問題となったわけです。

 アメリカの独立、続くフランス革命によって、実際、特権商人の独占交易は、ヨーロッパ諸国のありようとはそぐわないものとなり、革命の最中にフランス東インド会社が消滅し、ついでオランダ東インド会社も形をかえます。
 そして、産業革命が起こったイギリスでは、資本家の数が増加し、また船旅の安全性も向上して、東洋交易に資本を投じる人々の数が劇的に増えます。ここで、「自由貿易こそが国を富ませる」といいます、アダム・スミスの国富論が出てくるわけです。
 国家の利益と東インド会社の利益が一致しなくなりました結果、イギリス東インド会社のインド、清国との独占交易は廃止されることとなりました。

 しかし、ですね。新興の貿易商人たちにとって、清国の貿易制限、欧米人に加えられました規制は、おおよそ馬鹿馬鹿しいものでした。その後ろ盾となって、自由貿易を推進していましたイギリス政府は、インドでは強大な支配権を握るようになっていましたし、清朝のやり口を、時代錯誤で、尊大にすぎるものと受け取るようにもなっていました。
 一方、清朝の方も、沿岸民の交易の取り締まりは、すこぶる困難になっていました。
 アヘンの密売が増加したのは、もちろん、イギリス東インド会社が持ち込み量を増やしたから、でしたけれども、需要があったから増やしたわけでして、清がアヘンの取り締まりを強化した1838年以前、すでに東インド会社は清との独占取り引きの中止を余儀なくされていました。
 結局、清朝のアヘン取り締まりは、少々乱暴な欧米商人の取り締まり強化におよび、イギリスはまたそれを口実に、清国におきます商業活動の自由(イギリスにとっての)を得ようと、艦隊を派遣し、対立は深まって、開戦におよびました。アヘン戦争です。

 ここで、明確になりましたのは、産業革命と戦乱を経て、世界の海を席巻するようになりましたイギリス海軍と、防衛する清国の、目のくらむような軍事力の格差です。
 主にイギリス東インド会社が派遣しました蒸気船は、まだ初期のもので、喫水の浅い小型の外輪船でしたけれども、大砲を50門以上積んだ大型帆船を、曳航して河川を上り、内陸部を攻撃することが可能でした。イギリス艦隊は、長江の河口から250キロ上流の鎮江を陥落させ、南京にまで到達して、勝利を決定的なものにしました。(「日蘭関係史をよみとく 下巻 運ばれる情報と物」西澤美穂子著「第3章 蒸気船の発達と日蘭関係」p92
 イギリス軍の目標となりました清朝側の防御拠点、砲台などは、イギリス軍が行動開始したその日のうちに、ほとんどすべてが陥落し、イギリス側の損害はごく軽いもので、しかも陸戦においても、イギリス軍(主にインド兵です)の圧勝でした。(村上衛著「海の近代中国」P.106

 結果、1842年に締結された南京条約により、イギリスは賠償金、香港の割譲、広州、福州、厦門、寧波、上海の開港、自由貿易、治外法権を得て、清は関税自主権を失います。
 そして2年後、アメリカ、フランスは、続いて、ほぼイギリスと同じ条件で、清国と通商条約を結びます。

 地図をご覧になってみてください。
 それまで開港していた広州は、台湾よりも南ですが、福州、厦門、寧波と北に連なり、上海にいたっては、日本の長崎まで、ごく簡単に来れてしまいます。
 開港地では、水、食料、石炭などの補給もできますし、早急に、艦船を修理するためのドックも造られたはずです。
 といいますのも、開港により、小さな港の漁民たちは密貿易にかかわり辛くなり、清国沿岸に跋扈する海賊が急増しまして、イギリスはやがて、開港地に海軍を常駐させることともなったわけです。

 そして、弘化元年(1844年)、清国に開港場を得たフランスは、直後に琉球に軍艦を派遣し、開国を迫りました。
 アヘン戦争の噂は、オランダおよび清国の商人たちから、逐一、日本に伝えられていて、直後に、識者による「鴉片始末」というアヘン戦争の論評も書かれました。つい目と鼻の先の上海に補給基地を得た欧米の艦船が、清国を打ちのめした圧倒的な軍事力で迫ってくることに、多くの日本人が危機感を抱いた矢先です。
 フランス船は、いったんは引きましたが、カトリック神父と通訳を那覇に残していきましたし、翌年には再び3隻の艦隊が那覇に現れ、通商を要求します。

 弘化3年(1846年)、斉彬は、世子の身分で薩摩へお国入りをしますが、これは、琉球開国問題を処理するため、でした。
 この年、調所広郷は、フランス艦隊の来航を幕府に届け、「千数百人派兵して防備は固めますが、最悪の場合、通商だけは認めてください」と申し出て、老中阿部正弘の許可を得ますが、阿部はすでに世子斉彬と懇談していて、事情は呑み込んでいました。
 斉彬の見解は、「琉球は建前上日清両属の地で、武備もなく、通商でも許さなければ滅びる。できれば、清国の福建か小島で通商を許す、ということで収めたい」ということでして、琉球本土への欧米人の滞留は避け、なんとか植民地化を防ごうとしていました。
 しかし、調所が幕府に派兵を約束したのは虚言でして、幕府隠密の手前、山川港まで人数を出し、派兵のふりをして、引き上げさせました。

 斉興は、ちょうど従三位昇進を願い出ていまして、近々それが叶うと勝手に思い込んでいましたので、自分は江戸にいたいし、琉球問題などは斉彬に任せようと、異例の世子の藩地入りを幕府に願い出ました。
 斉彬はもちろん、老中の阿部とも相談していて、自分が問題処置の指揮をとるべく藩地入りしたわけですが、これが、思うようにはできなかったんです。
 世子・斉彬は、生まれてからずっと江戸にいて、藩地にはそれまで、一度しか足を踏み入れたことがありません。
 帰ってみれば、調所の威光はすみずみまで行き渡っていまして、斉興家臣団はその意のままに動き、斉彬はまったく手の出しようもありませんでした。
 この当時の幕府の隠密はものすごいものでして、調所の派兵が見せかけでしかないことなど、薩摩藩の弱みを幕府はしっかりとつかみました。

 調所はじめ斉興家臣団にしましても、アヘン戦争の衝撃を、まったく感じていなかったわけではありません。
 洋式砲術を採用し、沿岸要所に台場を設け、火薬を洋式で製造するなど、他藩とくらべれば、かなり早い取り組みでした。
 
 しかし、芳即正氏によれば、斉彬は帰藩の翌年、調所が行った給地高改正と軍制改革について、強く非難しているといいます。
 薩摩藩では、家禄の売買を許していて、その結果、軍役動員を命じれば、応じきれない者がでるおそれが強かったんですね。
 といいますか、応じきれない現実があり、だからこそ薩摩は、派兵したくても派兵できなかったわけでして、給地高改正を行い、軍務に応じきれない困窮者を無くそうと、一応は努力します。
 調所にしましても、藩兵全員に鉄砲を持たせて西洋式の歩兵とする軍制改革を、考えていなかったわけではなかったのですが、ただ、そのやり方が、斉彬の目から見れば、成果の上がらないものと見えたのでしょう。

 すぐに動員可能なまとまった軍勢、それも鉄砲を持った西洋式の歩兵軍団をつくろうと思えば、これは徹底した藩政改革が必要となってきますし、藩士への手当など、莫大な資金も必要となってきます。
 つまり従来の調所の節約路線でできることではなく、斉彬は、自らが藩主の座に着かない限り、日本が迎えようとしています未曾有の危機に、適切に対処することはできない、と思ったわけです。
 そして、動員される側の藩士が、海から日本に迫りつつある危機を知らないはずもなく、斉彬の路線を支持する一般の藩士が、多数出て来ました。
 一方、調所を筆頭とします斉興家臣団にとりましては、斉彬も、それを熱烈に支持する藩士たちも、とても危ういものと思えてきたわけです。

 斉興はもちろん、調所と自らの家臣団を信頼していたわけなのですが、自身が精を出したのは祈祷です。
 なにしろ、「島津家の方が正統な皇統!」くらいなことを思っていますし、帝のもっとも大切なお役目は国家の安寧を祈願することですから、琉球に来た西洋人を呪詛したわけです。
 ところがそのことから、斉彬支持派の藩士たちは、斉彬とその子供たちへの呪いの祈祷が行われている、と誤解します。斉彬その人も一時、そう信じたりもしまして、親子の関係はこじれにこじれました。
 
 で、実のところ、お由羅は、少々神がかりな藩主・斉興の気に入りの側室だっただけではないのでしょうか。

 えーと、ですね。だから、琉球を薩摩が支配し、幕府の勢力下にあることは日本中に知れた話でして(琉球の朝貢使節が、琉球国王即位と幕府将軍襲職の際、ほぼ一年がかりで江戸へ出向いていました)、しかも、フランスの軍艦もイギリスの軍艦も、無事那覇に入港し、なんの攻撃も受けていないんです。
 だからこそ、ジョン万は、無事故郷に帰るために、狙って、琉球に上陸したわけですし、斉彬が藩主となった薩摩は、詳しい海外情勢を聞くために、賓客待遇でもてなしました。牢屋なんて、ありえんですわ。

 そして、次回よーやく、西郷隆盛に話を進めたいと思います。
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大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」前編

2018年02月24日 | NHK大河「西郷どん」

 大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場の続きです。
 まず、第6話「謎の漂流者」の感想なんですが、なに、このジョン万の描き方!!!と、少々うんざりしてます。
「ラブぜよ」はいいんですが、「アメリカではラブがなければ結婚しない」みたいなことを、言ってなかったですか?
 これが、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の成果でなくて、なんだというのでしょう!!!
 「海の向こうの民主的なアメリカでは愛がすべてだが、遅れた君主制の日本では愛のない結婚に耐えなければならない」みたいな印象操作をしてませんか?

 だ・か・ら、幕末当時、アメリカ南部には奴隷制があったんですよ?
 愛しても身分違いで結ばれないことは普通にありましたし、金のために結婚することだって多数。
 だいたい、当時のアメリカは清教徒中心の文化が根底にありましたから、建前だけは相当に禁欲的でして、「恋こそすべて!」なんてことは、絶対にありません。
 当時のアメリカ人、ナサニエル・ホーソーンの「緋文字」、少女のころに読みましたが、あまりに理不尽な世界で、とてもじゃないですが、「アメリカでは愛がすべて」なんぞと気軽に思えませんでした。
 清教徒の文化は苛烈です。少なくとも私には、源氏物語の方がなじみやすいんです。
 ちなみに、ジョン万がアメリカを出て、琉球に上陸したのは1851年(嘉永3年)ですが、前年の1850年に、ナサニエル・ホーソーンの「緋文字」は出版されています。
 
 まあ、家族愛も恋心もいっしょくたに「LOVE」にして、つっつかれないよーに、「アメリカすごーい」気分をもりこんだところが、ずるくて、気持ち悪かった、だけの話なんですが。

 まあ、それは置いておくとしまして。
 なんでジョン万が薩摩にいたのか、あの描き方では、まったく、さっぱり、わからなくないですか?
 琉球へ上陸したジョン万が、薩摩にとって「謎の漂流者」のわけはないんですね。
 また、大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場のコメント欄で、サトウアイノスケさまがご提起くださったことですが、斉彬が唐突に「琉球出兵の命に従わず」と言い出したことといい、要するに、琉球と薩摩の問題を真正面から説明せず、突然、ぽっと、ホームドラマの中に、なにの断片やらわからないままに歴史の断片がまぜこまれていまして、なんとも落ち着きが悪いことになっているわけなんです。
 
 私、島津斉彬のことは、ほとんど調べたことがないのですが、池田俊彦氏の「島津斉彬公伝」だけは、かなり昔に買って読んでいます。
 
島津斉彬公伝 (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論社


 池田俊彦氏は、西南戦争直後の明治13年に鹿児島で生まれ、東大の西洋史学科で学んだ研究者です。
 麻布中学、学習院で教えながら、島津家の史料編纂に携わり、晩年は、鹿児島の中学校の校長に招かれました。
 なにしろ島津家の史料にタッチしていた方ですから、事実関係は確かそうなのですが、なにやら、とても筋道がわかりづらい本でした。
 しかし、この本ですでに、「琉球出兵の命に従わず」は、出てくるんです。それも、唐突に。

 まず、調所広郷の死については、「密貿易をしたと幕府から疑われて、江戸において服毒自殺」とあり、「世子斉彬を浪費家として嫌っていた」というような説明はあるんですが、直接、斉興、斉彬の親子げんかに関係するようには書いてないんですね。
 そして、その2年後、斉興が隠居しなければならなくなった理由として、「斉興の琉球における処置に不都合があった。幕府には七,八百派兵すると答えたのに、実質はわずか百五十名派兵しただけだった」 ということが、出てくるんです。
 つまり、斉興隠居のとき幕府に握られていた弱みとは、実は密貿易ではなく、「琉球に、幕府に請け負っただけの派兵をしていなかった」ことなんですね。

 えーと、私、前後の筋道がとてもわかり辛く、もう1冊、新たに島津斉彬の伝記を買って読んでみました。

島津斉彬 (人物叢書)
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吉川弘文館


 芳即正氏の著作です。
 やはり、格段にわかりやすく書かれていました。
 そして私、自分がこれまで、お由羅騒動前後の薩摩藩について、まったくなにもわかっていなかった!ことを知ったんです。

 なにしろ、お由羅騒動です。
 島津斉興、斉彬父子の親子喧嘩に、斉興の側室・お由羅と重臣・調所広郷がからんだ島津家のお家騒動、というような、歌舞伎の題材みたいなおどろおどろしい物語にばかり、目がいってしまっていたんですね。
 
 まずは、お由羅騒動にいたるまでの薩摩藩、です。
 薩摩藩第10代藩主・島津斉興は、正室との間に数人の子女を設けていて、長男の斉彬は聡明。島津家の世継ぎとして申し分がなく、曾祖父で先々代藩主、蘭学好きの重豪にもことのほか可愛がられていました。
 
 この重豪、娘の茂姫を一橋家(徳川御三卿の一つ)の息子と婚約させておりましたところが、その息子が将軍・徳川家斉となり、茂姫はなんと、御台所となりました。将軍の正室・御台所になれるのは、京都の五摂家か宮家の娘と決まっていまして、茂姫は島津家と縁の深い近衛家(五摂家の一つ)の養女になって嫁ぐのですが、それにいたしましても、外様大名の娘とは異例中の異例でした。
 徳川家斉というお方は、後宮の華やかさで有名でして、数十人の側妻を持ち、50人を超える子女を設けました。

 まあ、現代的な感覚で見ますと、茂姫は不幸な女性のような気がするのですが、当時の正室は、相当な力を持ってきていまして、側室から生まれた子も、嫡出子にするためには正室の養子とする必要があり、側室はあくまでも使用人であって、身分が隔絶しているんですね。江戸時代前半期でしたら、男子を儲けた側室は、御殿をもらったりする場合もあるのですが、この時代、奥女中筆頭の御年寄よりも、側室の待遇は劣るほどでして、大奥ドラマに見るように、たとえ正室に子がなくとも、男子を産んだ側室を妬んだりする必要は、実のところまったくないんです。正室はあくまでも、大奥の頂点に君臨する女主人でした。
 しかも茂姫は後年、京都の朝廷から従一位に叙せられていまして、これは夫・家斉と並ぶ高位です。
 いや、だから茂姫が幸福だった、ということはないのかもしれないのですが、高位の身分には、それなりの責任が伴ってきまして、養子にした側室の子女の嫁ぎ先にも気を配り、庇護し、各大名家と交際し、華麗な大奥行事を主催し、と、するべきことは山のようにありましたので、使用人に嫉妬している暇があったのか、という話になります。

 で、高貴な将軍家御台所の父親、島津重豪は、娘のために将軍家に大金をばらまき、大奥には薩摩特産の貴重な砂糖を大量にプレゼントしまして、外様大名には考えられなかった特権を、さまざまに手に入れます。
 重豪は、次男の奥平昌高(養子に出ていました)と曾孫の島津斉彬をつれて、オランダ商館長の江戸参府に随行していましたシーボルトに会いに行っています。重豪82歳、斉彬18歳の時のことですが、シーボルトは「島津のご隠居(重豪)は60代にしか見えないほど若々しく、オランダ語をまじえて質問してきた」と書き残しています。シーボルトはですね、このとき、江戸城幕府天文方・高橋景保の手引きで、江戸城内紅葉山文庫(将軍のための貴重書図書館)の禁断の地図類を見て、写しを手に入れるのですが、秦新二氏は、著書「文政十一年のスパイ合戦―検証・謎のシーボルト事件」 において、重豪から茂姫に要請があり、シーボルトは大奥を通り抜けることが可能だったのではないか、とまで憶測しておいでです。

 重豪は42歳で、長男の斉宣・13歳に家督を譲りますが、実権は握っていました。
 しかし、やがて若い藩主のまわりには改革派の重臣が集まり、重豪の派手な交際でつのった藩財政の赤字をなんとか解消しようと、緊縮財政に走ります。
 江戸における節約を実行しようとした政策が、重豪の気に入らなかったのではないか、といわれているのですが、改革派の家臣たちは切腹、遠島多数で、政権から遠ざけられ(近思想崩れ)、斉宣は35歳で隠居。斉宣の長男・斉興が、18歳の若さで藩主となります。
 結局、重豪は実権を握り続けますが、藩財政の赤字は気にかけていて、晩年になり、下級藩士だった調所広郷を抜擢し、財政改革を任せます。
 調所広郷は、辣腕をふるい、わけても、調所の取り組みにより、薩摩藩の重要な財源となりましたのが、琉球を通じての清国との密貿易、でした。

 
薩摩藩対外交渉史の研究
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九州大学出版会


 私、びっくりいたしました!
 徳永和喜氏の「薩摩藩対外交渉史の研究」によれば、です。調所広郷が切り開いた密貿易の要にいたのは、越中富山の薬売!だったんです。
 ドラマの中では、「薬売の越中さんが噂をしちょいもした」と、縁談に関する噂話を藩内にひろげてまわる行商さん、みたいな感じで、会話の中にちょろりと出てくるんですが、なんで、こんなわけのわからない、もったいない使い方をするんでしょうか?
 この当時、清国と日本との交易は、長崎を中心に行われていました。日本は、昆布、俵物(いりナマコ、干しアワビ、フカヒレの高級中華料理材料)といった海産物を輸出し、漢方の薬剤を輸入していました。もちろん、双方に、幕府の統制がかかっていました。
 富山の薬売は、海運業者でもあり、蝦夷や北陸の海産物を取り扱っていましたので、調所は、藩内での薬の行商を認める見返りに、良質の昆布と俵物を、ひそかに薩摩まで運ばせ、琉球交易に利用したわけです。
 薩摩藩内の関係書類はほとんど残されていませんで、徳永和喜氏は薬売側の史料に丹念にあたって、密貿易を裏付けておいでなのですが、現在、徳永氏は、西郷南州顕彰館の館長さんをしておいでだそうなんですね。ライターさんが、シナリオを書くための取材で館長さんに話を聞く、という展開は十分にありそうでして、「薬売の越中さん」だけが頭に残って、せっかくの調所の密貿易の秘密を素通り、という、なんとも残念な断片になっちゃったんでしょうか。

 で、実際の所、調所が隠居の重豪に取り立てられ、財政改革に取り組んだことは、芳即正氏の「調所広郷」に、明確に述べられています。

調所広郷(ずしょひろさと) (人物叢書)
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吉川弘文館


 重豪が89歳で大往生を遂た後、藩主・斉興が引き続き調所を重用し、改革を続けさせたことは確かですが、それは、あくまでも重豪が引いた路線の延長、だったんです。

 ところが往々にして通説、………そうですね、例えばウィキペディアなどでは、の話ですが、「調所に改革を任せたのは斉興で、重豪によく似た浪費家の斉彬が藩主になれば、またも財政が傾く、と憂慮した斉興は、40になろうとしていた斉彬に家督を譲らず、側室・お由羅が産んだ久光を跡継ぎにしたいと望み、調所もそれに同調していた」と、されているんですね。
 しかし、ですね。これには大きな疑問があります。

 まず、重豪と曾孫の斉彬は、ともにオランダかぶれで浪費家だったとされますが、オランダかぶれ=浪費家とはいえません。
 重豪の次男・昌高は、養子として豊前中津藩主となり、シーボルトに会っていたことは前述しましたが、オランダ名を持ち、江戸の屋敷にガラス張りのオランダ部屋を造って、西洋の輸入品を展示していました。だからといって、中津藩の財政が傾いた、わけではないんですね。
 昌高が、どこからその費用をひねり出したか、なんですが、おそらく、かなりの部分、実家の薩摩藩から出ていたのではないか、と推測されます。
 つまり重豪の浪費とは、将軍家御台所となりました娘をはじめ、諸大名家に嫁いだり、養子となりました数多い子、孫へのお手当、親戚づきあいなどの経費が、莫大にふくれあがっていたことなんです。
 斉彬は子女を次々と亡くしていましたし、第一、藩主になってもいないわけですから、重豪の浪費をまねようにも、まねようがありません。

 次に、斉彬は正室が産んだ長子で、とっくの昔に世継ぎとして幕府に届け出て、お披露目されているわけですから、薩摩藩が勝手に廃嫡することは許されません。 
 先に書いたように、正室と側室の立場は隔絶していまして、斉興は、早くに正室(斉彬の母)を亡くした後、後妻を迎えていませんでしたから、久光は正室の養子にもなれていなかったんです。

 じゃあ、なぜ斉興は、藩主の座をあけわたそうとしなかったのか、そして「お由羅騒動」とは、実のところいったいなにだったのか、ですが、長くなりましたので、次回に続きます。

 第7話はなんとも地味なホームドラマでしたが、続く第8話は、ペリー来航となるようです。今度の日曜までにぜひ、続きをあげたいな、と思っています。
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大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場

2018年01月30日 | NHK大河「西郷どん」

 「天皇のダイニングホール」☆皇室の西洋近代で予告しましたように、NHK大河『西郷どん』について、定期的に感想を書いていくことにいたしました。
 いまのところ、 大河「花燃ゆ」と史実シリーズほど、克明に史実を追うつもりはないのですが、そこは私のことですから、どうなるかわかりません。

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)
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NHK出版


 ともかく、第3話にして、中村半次郎(桐野利秋)登場!です。

5分で分かる「西郷どん」第3回『子どもは国の宝』


 まだごらんになっていない方は、上の5分で分かる「西郷どん」を、どうぞ。
 けっこうたっぷり出てくるんですが、子役の中村瑠輝人くん!!! かわいい上に芸達者!!!
 えー、太刀さばきに見惚れてしまって、文句を言う舌が鈍ります。

 彼に文句はないんです。先を見る気にさせてくれました。
 しかし。
 NHKは貧しい=汚いだと、勘違いしてやしませんか?
 いくら流罪人の子で貧しいとはいえ、あそこまで泥だらけで髪ぼうぼうのこ汚さは、ないと思うんですのよ。

 そういえば、一話目をいっしょに見ていました妹が、「西郷家が貧しい貧しいって、土佐の岩崎弥太郎の家より貧しいことはないでしょう?」と聞くんですね。
 「いや、西郷家の方が貧しいと思うよ」と私は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に載せました中岡慎太郎の手紙の話をしました。
 つまり「薩摩のれっきとした士族は土佐の足軽より貧しい者が多く、ほんの少しの給料で歩兵になる」と中岡は故郷への手紙に書いています。
 実際、薩摩士族の数は異常に多かったわけですし、いくら岩崎家が郷士株を売った地下浪人だとはいえ、岩崎弥太郎には、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書きましたように、江戸の超一流漢学塾に遊学するだけの経済的余裕がありました。

 ところが、です。妹がNHK大河「龍馬伝」で見ました岩崎弥太郎の生家は、超ボロボロでこ汚かったそうでして、その汚さにおいて「西郷どん」の西郷家を上回っていたんだそうなんですのよ。
 視覚に訴える印象は強烈ですからねえ。花のお江戸の安積艮斎塾で学んだ俊才が、泥まみれの貧民だったと、一般には印象づけられてしまったようなんですね。
 私、あの「龍馬伝」は、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編スーパーミックス超人「龍馬伝」に書きましたように、あまりにばかばかしくて、ほとんど見てません。

 成長期の半次郎のエピソードにつきましては、あまり資料がなく、明治32年出版の春山育次郎著『少年読本第十一編 桐野利秋』くらいではないかと思うんですね。
 春山育次郎は薩摩出身で、子供の頃、桐野に頭を撫でてもらった思い出があったそうですし、桐野の甥(妹の子)と親しく、身内にいろいろ話を聞かせてもらったと同時に、幕末からの桐野の友人・中井桜洲(中井桜洲と桐野利秋)にも話を聞いて書いておりますので、かなり信憑性があろうかと思います。

 で、『少年読本第十一編 桐野利秋』によりますと、半次郎(桐野)の父は単身赴任の江戸詰であったため、最初の手習いは実兄に、次いで近所に住む外祖父(母の父)の別府四郎兵衛に、学問を教わった、というんですね。
 別府家には、半次郎の従兄弟になる別府晋介がおりまして、幼なじみのはずですが、晋介は後年、城山で西郷隆盛の介錯をしたと伝わります。
 普通に考えて、晋介は出してしかるべきではないか、と思ったのですが、話がややっこしくなりますし、もしかしてこのドラマは晋介の存在を消して、半次郎が介錯をしたことにするのかもね、と思い、林真理子の原作の最後の部分だけ、本屋で立ち読みいたしました。
 原作では一応、通説通り、晋介が介錯しておりました。
 しかしこのドラマ、かなり原作離れしているらしく、そもそも、子供の半次郎は登場しないらしいんですね。
 まあ、いいんですけどね。おかげで、かわいい半次郎を見ることができまして。

 半次郎の父親が流罪になった年は、はっきりしないのですが、およそ、彼が10歳の頃であったようです。
 私、これは、確証があることではないのですが、中井桜洲と桐野利秋に、以下のように書きました。

 えーと、ですね。海老原穆という薩摩人がいます。
 明治6年政変の後、東京で評論新聞という政府批判紙を立ち上げるんですが、「西南記伝」によれば、非常に桐野を信奉していた人だ、というんですね。
 司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」においては、なにをもとに書かれたのか、調所笑左衛門の親族であるような書き方をされているのですが、私は、証拠はつかんでないのですが、海老原清熙の親族だったのではないか、と思っています。
 海老原清熙は、調所笑左衛門の優秀なブレーンだった人です。

 で、この海老原清熙、「中村太兵衛兼高の二男で、文化5(1808)年、海老原盛之丞清胤の養子となった」ということを知りまして、もしかして、桐野の親族では? と調べてみたのですが、これもわかりませんでした。
 しかし、ふと、思ったんです。
 桐野の父親の遠島は、海老原清熙がらみだったのではないかと。


 海老原穆が海老原清熙の親族であったことは、確かなことだとわかりました。
 しかし、それ以外はいまだに雲をつかむような話なのですが、私は、島津斉彬が藩主になってのちに、父親は流罪になったのではないか、と思っております。

 それと、ですね。薩摩では士族の流罪はよくあったことでして、少なくとも桐野家の場合、自家で開墾した土地まで取り上げられたりはしておりません。
 もともとの石高はわずか五石でして、これとともに、父親が役職についてもらっていたお手当が、なくなったわけです。
 しかし開墾地では狭すぎまして、新たに開墾すると同時に、近隣の農民から土地を借りて耕していた、と伝わります。

 まあ、そんなこんななんですが、第4話にも、かわいい半次郎が登場しましたねえ。
 見ていると、批判する気も失せるのですが、次回、西郷とか大久保とか、もっと全般的なことについて、遠慮なく感想を書くつもりでおります。
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「天皇のダイニングホール」☆皇室の西洋近代

2018年01月22日 | 幕末東西

 去年は災難続きでした。ほとんどなにも書けないままに年は去り、新年。
 本日は、本の紹介です。
 なんの続きと言うことはないのですが、関係が深い記事を上げるならば、宮廷料理と装飾菓子『春の雪』の歴史意識あたりでしょうか。
 シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」へ出かけましたら、会場ロビーで思文閣出版さんが本の紹介をしていて、この本のパンフレットが目を引きました。

天皇のダイニングホール―知られざる明治天皇の宮廷外交―
山﨑鯛介,メアリー・レッドファーン,今泉宜子
思文閣出版


 「天皇のダイニング」という題名そのままに、明治宮廷の晩餐会について、舞台となった建築、使われた食器、饗された料理、出席した人々の服装について、詳細に描かれた本です。
 欲をいえば、もっとカラー写真を多用したムック版で見たかったかなあ、という気がします。
 とはいえ、この手頃なお値段からしますと、巻頭グラビアに掲載されました16ページのカラー図版は、嬉しい限りです。

  なによりもまず、びっくりしましたのは、明治、外交の舞台ともなりました赤坂仮皇居御会食所の建物が、「明治記念館」となって神宮外苑に残り、披露宴やパーティだけでなく、普段の食事でも、一般人が使える、という事実です。今度東京へ行ったときは、ぜひ、たずねてみたいなあ、と。
  本館ラウンジ、上部の壁の模様は、京都御所紫宸殿・北庇の間に使われていた花鳥模様をそのまま使ったそうで、とても魅力的な和洋折衷の装飾です。現在は、その模様にちなんでラウンジ「kinkei(金鶏)」と名づけられ、貸し切りの時以外は、個人でランチやディナー、ティータイムに利用できるみたいなんです。

 明治天皇は、明治元年に京都から東京へ御幸されましたが、最初に住まわれたのは、江戸城の西の丸御殿です。しかし明治6年、御殿は失火により焼失し、紀州徳川家の江戸屋敷があった赤坂に、仮御所が造られます。このときから明治22年までのおよそ16年間、天皇は仮御所に住まわれたわけなのですが、後半は、ぴったりと鹿鳴館外交の時期と重なりまして、宮中儀礼におきましても、洋式化が行き着くとこまでいきまして、少々滑稽なまでになっていた時期なんですね。


 

 上の錦絵は、明治初期の伝統的な女官の服装なんですが、皇后を筆頭に、これが洋装に変わります。
 明治時代、前半期は、写真よりもむしろ錦絵で、天皇、皇后両陛下の姿が世間にひろまり、したがいまして、下のような洋装の皇室錦絵が数多く残っております。
 揚州周延と桐野利秋でご紹介しました周延のものです。
 


 この当時の女性の洋装は、バッスルスタイルでして、スカートの後ろにコブのようなバッスル(腰当て)を入れています。幕末当時のクリノリン(二人の皇后とクリノリン参照)のような、ゴージャスな復古調お姫様スタイルとはちがい、なんとなく貧乏くさい感じがするのですが、それなりにびらびらひらひらですから、乙女心がときめかないわけでもありません。
 普仏戦争を経て、ヨーロッパ文化はしだいに、殺風景な近代に近づいていたわけでして、しかし、第1次世界大戦後のように、さっぱり、すっきりしたわけではなく、要するに中途半端なスタイルです。
 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol1で、私は、以下のように書きました。

 明治、上流婦人が洋装を取り入れました鹿鳴館時代もコルセットが必需品でして、来日していましたドイツ人医師・ベルツ博士などは、「コルセットは女性の健康に害を与える。ばかげた洋装を日本女性が取り入れる必要はない」と、言っていたほどです。また西太后は、西洋帰りの外交官の娘がコルセットをしているのを見て、「それは、漢族の纏足に匹敵する拷問ですね」と言ったそうです。
 つまるところ、当時の女性の洋装は活動的なものではなく、上流婦人のドレスなどは、他人の手を借りなければ着付けも難しく、鹿鳴館が一時のあだ花で終わりましたのは、あまりにも当然の結果でした。


 あだ花といえばあだ花だったのですが、しかし、少なくとも宮中の礼服は、『春の雪』の歴史意識で書きましたように、洋装が定着します。

皇族女性の礼服が、お雛様のような袿袴姿から洋装に変わったのは、明治19年、鹿鳴館の舞踏会が華やかなりしころです。これを推進したのは、長州の志士だった伊藤博文と井上聞多の元勲コンビ。二人とも、幕末には火付け暗殺にかかわり、聞多などは刺客に襲われて一命をとりとめ、全身に刀傷が残っていました。
明治の時代に、「宮廷と新華族とのまったき親交のかたち」として、「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」として、伝統の宮廷衣装は、マント・ド・クール、ロープ・デコルテ、ロープ・モンタントといった洋装に、とってかわられたのです。
つまり、下級武士に担がれた天皇家は、公卿の長であった伝統を捨てて、近代日本にふさわしく、西洋的な皇室となったのであり、三代目の清顕にとっては、それはもう、自明の現実なのです。


 しかし、これを言い換えますと、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編に書いた、以下のような状況でもあったわけです。

 たしかに、不平等条約を解消するにあたって、近代的な法整備は必要なことでしたし、軍の近代化なくして西洋列強に対抗することはできず、また産業育成も必要なことではあったでしょう。
 しかし、似合わない洋服やら鹿鳴館のダンスパーティやらが、なんで必要だったのかは、ちょっと理解に苦しみます。
 いえ……、私はけっこう、このなんとも珍妙な鹿鳴館風俗が、好きではあるんですけれども。………けれども、です。いとも簡単に伝統文化を投げ捨て、うわべをなぞっただけの洋服着用やら建築やらダンスやらは、「日本人にはオリジナリティがない」という西洋での評価を、決定的なものにしたのではなかったでしょうか。

 明治維新は革命でした。
 明治の指導者は、大多数が元は貧しい下級士族でしたし、洋化官僚もそうでした。
 服装ひとつをとっても、伝統文化の中にあるかぎり、成り上がり者の彼らには、威厳をもって着こなす自信がなく、西洋文化を模倣して新しい権威体系を作りあげなくては、国の指導者としての尊厳に欠ける、ということだったのでしょう。
 

 事態を一変させたのは、第1次世界大戦です。
 大戦後、西洋近代の女性の洋装が、簡便で、活動に適したものとなり、西洋近代の仲間入りをしようとする他文化圏でも、受け入れやすいものとなり、日本においても、庶民の間で洋装が広まっていったのです。
 こうなってきますと、頂点の皇室が洋装であることも、安定感をもって受け入れられます。

 「天皇のダイニングホール」では、外交儀礼の必要上からの女性の洋装を描いてくれていますが、ただ、この点については、どうなのかな、と思います。
 明治13年、イタリア公使となって赴任しました鍋島直大夫人・栄子は、イタリアでの外交儀礼に和装で臨んだ、というような話があったと思います。民族衣装は、現在でも普通に、外交儀礼で認められているわけですし。
 とはいえ、栄子夫人はとても美しい洋装の写真も残しておりまして、鹿鳴館の華でもありました。

 この本で、なによりも楽しかったのは、西洋料理導入のお話しです。
 使われた洋食器にも詳しく、ミントンやセーブルなど海外に特注されたもの、有田など、国内で製作されたものなど、カラー写真が載っているのが嬉しい限りです。

 なにより興味深いのは、明治期の午餐・晩餐メニューが紹介されていることです。味の素食の文化センターの所有のメニューカードを解説してくれているのですが、いまひとつイメージがひろがらず、できればこれ、再現料理をカラー写真で見たかったなと。
 私、タイタニック号レストランの料理再現本とか、大好きなんです。
 
 幕末日本のおもてなし料理につきましては、宮廷料理と装飾菓子白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に書いているんですが、それが明治になって、本格的フランス料理導入となっていった様子が、この本には克明に描かれています。
 こちらも、もちろん、西洋外交の定番だったフランス料理そのものの変遷、ということも当然ありまして、そしていまや、和食は欧米においても高級料理店が出現し、宮中晩餐会の和テイストも当然になってきましたのは、日本人として喜ばしいかぎりです。
 現代人としましては、和洋のコラボは、心地よいかぎりなんですよね。

 最後に、この本では、明治外交の裏で活躍しましたおイネさんの異母弟たち、アレクサンダー、ハインリッヒのシーボルト兄弟が大きく取り上げられています。
 それほど目新しいことは書かれていなかったのですが、あまり世間に知られていません兄弟の活躍が描かれているのは、嬉しい限りでした。

 シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」のコメント欄で書きましたが、西郷隆盛とおイネさんは半年違いで、ほぼ同世代です。
 3回目にして、超かわいらしい中村半次郎も出て来たことですし、私、次回からNHK大河「西郷どん」の感想を、定期的に書くことにいたしました。

 今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
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シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」

2017年09月12日 | 幕末薩摩

 唐突ですが、告知です。

 9月30日(土曜日)、鹿児島市民文化ホールにおきまして、「明治維新150周年記念シンポジウム パリ万博と薩摩藩」が開催されます。
 1967年のパリ万博につきましては、これまで幾度となく書いてきたような気がするのですが、実のところちゃんとは書いていないみたいです。
 プリンス昭武、動乱の京からパリへ。に、初期のころの記事はまとめてあります。
 以降となりますと、アーネスト・サトウと龍馬暗殺に、以下。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で詳しく書きましたが、薩摩藩は、モンブラン伯爵にフランスの地理学会で「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という発表をさせ、しかもちょうどこの時期にパリで開かれています万博で、琉球王を名目に、独立国然と交易の意欲を示し、おそらくはモンブランの地理学会演説をアーネスト・サトウに提示する形で「英国策」を書かせて、それをまた和訳して、「英国は天皇を頂く諸侯連合政府を認めるだろう」という感触を、ひろめていました。
 

 薩摩ボタンはだれが考えたのか???の、以下。

 SATUMAの名がヨーロッパに知れわたったのは、どうも、慶応3年(1867年)のパリ万博において、つまりモンブラン伯爵がプロデュースして、薩摩琉球国名義で幕府に喧嘩を売ったパリ万博、ですが、朴正官作の白薩摩錦手花瓶を出品して、好評を博してからのようです。 

 以上、断片的にしか触れてないのですが、私がこのブログを継続的に書き始めました最大の動機が、モンブラン伯爵ですから、1967年のパリ万博の様相は、このブログに通底していますテーマの一つです。
 下の動画で、わかりやすく、かつ、かなり正確にまとめてくれていますので、ご覧になってみてください。
 
 
 「パリ万博・鹿児島紡績所操業開始・異人館完成」解説映像


 このときの薩摩藩の外交につきましては、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編をご覧ください。
 
 
日本近世社会と明治維新
高木不二
有志舎


 高木不二氏の「日本近世社会と明治維新」は、大胆な推論をなさっていて、目から鱗、でした。名著と思います。
 簡単には、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に以下のようにまとめてあります。

 これまで幾度も述べてきましたように、この慶応3年の春、薩摩は岩下方平を「欧州使節並仏国博覧会総督」としてパリに派遣し、モンブランを外交顧問にして、幕府と派手な外交合戦をくりひろげていたんです。高木氏によれば、薩摩は、フランス、ベルギーだけではなく、イギリスとも、琉球国名義で、和親条約を結ぶつもりでいたんです。それには失敗しましたが、ともかく幕府のフランスでの借款はつぶしました。
 幕府全権公使・向山栄五郎外国奉行は、モンブランが作った薩摩琉球国の勲章がフランス要人にばらまかれていましたのを憂い、「薩摩が勝手に条約を結ぶような事態になりかねない」と上申書を日本へ送っていますし、四候会議瓦解直後の京にまで、その話は伝わっていました。慶喜の腹心だった原市之進は、訪ねてきた越前藩士に、薩摩琉球国勲章の図案を示して、「これが薩摩の討幕論の証だ。あまりに憎らしい仕業だ」と言ったというのです。
 

パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生
寺本 敬子
思文閣出版


 最近、上の寺本敬子氏の著作が出版されたようでして、さっそく注文したのですが、まだ届いてません。高価ですが、おもしろそうです。

 追記  届きました! シンポジウムで講演されます著者の寺本敬子氏は、フランス近代史、日仏交流史がご専門で、日本史の方ではないようです。それだけに、フランスの史料をしっかり読み込んでおられて、非常に興味深い著述が多く、特に、今現在の私にとりましては、徳川昭武の通訳を務めました、おイネさんの異母弟、アレクサンダー君の動静に詳しいのが、嬉しい限りです。まだ、とばし読んだだけですが、モンブラン家のことも、かなり詳しく、正しく書かれておりました。ただ、幕府とフランス(ロッシュ公使個人)の独占交易と、薩摩藩の政治的思惑につきましては、あまり踏み込んではおられませんので、そこらあたりに物足りなさはありましたが、画期的な研究書、と思います。



 

 

 幕府のパリ万博一行の写真ですが、これ、昔の大河「獅子の時代」で、印象的に再現してくれています。

獅子の時代 第01回「パリ万国博覧会」






 日本の民間業者が開いた茶屋は、大きな評判をよび、ジャポニズムの呼び水となります。
 見出しの写真はナポレオン3世妃・ウジェニー皇后で、篤姫やエリーザベト皇后より、10歳ほど年長です。パリ万博の中枢で咲き誇った、シンデレラでした。
 二人の皇后とクリノリンに書きましたが、ウジェニー皇后がひろめたともいえます巨大なクリノリンのドレスは、しかし、このパリ万博直前に、流行の最先端ではなくなります。普仏戦争前、幕末も押し詰まった日本が最初に参加した万博は、この時代のパリの最大にして最後の華やぎ、でした。

 9月30日のシンポジウムは、申し込み受付9月20日まで。
 無料ですし、まだ少しは空きがあるそうですので、ぜひ。
 同時に黎明館では、企画展・1867年パリ万博150周年記念「薩摩からパリへのおくりもの」が催されます。
 私は、なんとかかんとか都合をつけまして、参加する予定でおります。
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