おそらく少々、昨日の白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい の続きです。
最近、ほとんどテレビを見ません。だから知らなかったのですが、TBS 歴史ミステリー「龍馬の黒幕」 という番組が、去年、放送されたようですね。
で、その元になったのは、この本。
えーと、実はこの本、読んでいません。テレビも見ないで、本も読まないで、批判するのもいかがなものかと、われながら思うのですが、とりあえず、粗筋を読んでの感想です。
なんでこうも見事に、薩摩藩の存在を、消してしまえるのでしょう。
TBSの見所によれば、です。
「しかし、龍馬の年譜を追ってみると、謎めいた空白の半年に行き当たる。1864年10月~1865年4月」
と、あるのですが、その直前の1864年(元治元年)8月には、龍馬は勝海舟の使者として西郷隆盛に会っていますし、10月21日には、勝海舟が薩摩藩に龍馬たちの身柄保護を依頼しています。
薩摩の家老・小松帯刀から大久保利通宛の書簡に、「浪人体の者を以て航海の手先に使い候えば宜しかるべくと西郷など在京中相談も致し置き候間、大阪屋敷へ内々相潜め置き候」ともあります。
薩摩藩が土佐勤王党をかくまったのは、なにも、これが初めてではありません。英国へ渡った土佐郷士の流離、 英国へ渡った土佐郷士の流離 2 にありますように、その2年前から吉田東洋を暗殺した高見弥一を薩摩藩はかくまい、1865年(慶応元年)3月には、グラバーの世話で、イギリスへ旅立たせています。
で、そのひと月前の2月12日には、中岡慎太郎が大阪で「海軍生のことを聞」と日記に記していまして、前後の記述から、これは一応、薩摩藩の保護下に入った坂本龍馬を中心としてのことであろう、というのが定説です。
このときの中岡の旅は、同じ土佐脱藩郷士の土方久元といっしょのものでして、土方も日記を残していますが、2月8日には、下関の白石正一郎宅で、井上少輔(長府藩)、原田順次(長州報国隊長)、赤根武人(長州奇兵隊長)、三好内蔵助、吉井幸輔(薩摩藩)、大山彦太郎(薩摩藩)、大庭伝七(白石正一郎の弟)らと、「薩長和解を謀り懇談」しているんです。
中岡慎太郎は、この前年、禁門の変が起こる以前の春から、薩長の連携を模索して、薩摩藩士の中でも長州よりの考え方を持っていた肝付十郎や中村半次郎(桐野利秋)に、会ったりしています。
また、あまり知られていないことですが、長州奇兵隊のスポンサーだった下関の白石正一郎は、薩長の仲が険悪になる以前は、薩摩藩の御用商人でした。数多くの薩摩藩士と、古くから懇意ですし、薩長手切れの後の商売上の損失は、莫大だったはずです。
つまり、薩長連合は別に、グラバーが考え出したものでも、坂本龍馬が思いついたものでも、ないのです。
それで、番組がいうところの1864年(元治元年)10月~1865年(慶応元年)4月までの坂本龍馬消息不明の後、最初に龍馬が文字記録に見えるのは、慶応元年4月5日、京都にいた土方久元の日記です。
土方は、2月8日の白石正一郎宅での会合の後、中岡慎太郎とともに京都に上り、2月12には中岡とともに「海軍生」のことを聞いたわけです。二人は、小松帯刀や西郷吉之助(隆盛)をはじめとした薩摩藩士と、ひんぱんに交流し、そして4月5日、土方は薩摩の吉井幸輔宅で、西郷吉之助、村田新八に会っていて、そこへ、大阪から坂本龍馬がやってくるんです。
この前年からの動きを見ていますと、薩摩にも長州にも、和解連携の必要性を痛感している人々がいて、中岡をはじめ長州に身をよせていた土佐を中心とする脱藩士、筑前や対馬の志士たちも、それを熱望して動いています。
しかし、薩長双方にわだかまりがありますし、わけても薩摩藩にとっては、孝明天皇が長州を嫌われ、長州が朝敵になってしまった以上、島津久光に和解を認めさせることは、なかなか難しいことだったわけです。薩摩藩士が表立て長州よりの動きをするわけにもいかず、そこで、坂本龍馬の登場となったと見て、まちがいはない状況でしょう。
つまり、長州藩の蒸気船および武器調達に、薩摩藩が力を貸すことによって和解連携に至る、という道筋は、4月5日の龍馬登場以前に、出来上がっていたのではないか、ということです。
2月12日には中岡が「海軍生のことを聞く」のみで、龍馬に会ったという記録がないのは、あるいはそのころ龍馬は、長崎にいたのではないか、という推理は、ありえることですし、龍馬が「海軍生」の生かしどころを模索し、薩摩のはからいで、グラバーに弟子入りしていたとも、考えられなくはないのですけれども。
薩摩藩とグラバーの関係については、昨日もご紹介しました杉山 伸也著『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』に詳しいのですが、すでに文久2年(1862)、薩摩藩が蒸気船ランスフィールド号をグラバーから購入しようとしたことに、はじまっています。
しかし本格的な両者の接近は、その翌年、薩英戦争の後のことです。元治元年(1864)のはじめころには、南北戦争の影響で綿花の値段が高騰し、グラバーは薩摩藩から、綿花を買い付けることにしています。薩摩藩は、御用商人の浜崎太平次に、大阪で綿花を買い集めさせ、長崎に送ろうとしたのですが、長州の上関で、この薩摩商船加徳丸を長州義勇隊員が襲撃し、薩摩商人を殺害した上で、積み荷も船も焼き捨てた、という事件があったりもしました。
こういう事件も、薩長のこじれを大きくしていたのですが、長州は、下関、上関という瀬戸内海航路の要所を握っていますし、薩摩は、交易の上からも、和親の必要を感じていました。
それはともかく、ちょうどその加徳丸事件のころ、長崎でオランダの海軍伝習を受けたことがあり、上海へ行ったこともある薩摩の五代友厚は、長崎のグラバー邸に滞在していました。
可能性を言うならば、このころ龍馬は、勝海舟の供で長崎を訪れていますから、勝の紹介で、五代に会い、グラバーにも会っている可能性は、高いのです。勝と五代は、オランダの海軍伝習でいっしょだったのですから。ここで、五代がグラバーと提携して手がけようとしていた貿易事業に、龍馬が関心をよせただろうという想像も、十分に成り立ちます。
五代はその後、藩貿易の促進とイギリスへの留学生派遣を藩庁に上申し、翌年の留学生派遣が実現しますし、海外交易についても、グラバーとの提携で、さまざまな試みが実現しています。
しかし、これが、グラバーの策謀であるかといえば、どうなんでしょうか。五代は、イギリス留学生とともに渡欧して、モンブラン伯爵とも商社設立を契約し、いわば、グラバーとモンブランを天秤にかけていますし、どちらがどちらをあやつった、という話ではないように思います。
ともかく、それだけ深くグラバーにかかわっていた薩摩が、です。龍馬が立ち上げた亀山社中に援助金を出しているのですから、龍馬の背後にいたのは、グラバーとともに薩摩藩なのです。薩摩藩が龍馬の後ろ盾にならなければ、グラバーが龍馬個人と取引することは、ありえません。
長州の意向を受けた中岡と土方は、薩摩の小松帯刀や西郷に、おそらくは長州の武器調達の不如意を訴え、小松と西郷は、長州への便宜をはかるため、龍馬の起用を決意し、亀山社中結成を援助した、と見る方が妥当ではないでしょうか。
もちろん、3月12日に、幕府の神戸海軍操練所が廃止され、「海軍生」の行方がせっぱつまった問題となりましたし、それ以前に、長崎で小曾根英四郎の援助をえる目途を得た龍馬と、長州に武器を売ることを望んだグラバーとの連携があって、交易の後ろ楯になってくれないかと、薩摩藩へ提案していたとも考えられなくはありません。
すべて、推測の域になるのですが、どちらにせよ、薩摩藩を中心に事態は動いているのです。
4月26日、坂本龍馬と「海軍生」たちは、薩摩藩の胡蝶丸で長崎へ向かい、さらに龍馬は、胡蝶丸で鹿児島入りしました。
この時点で龍馬は、薩摩藩の後ろ楯を確実なものにすると同時に、小松や西郷の意向を受けて、薩長和解に向け、動き出すこととなったのです。
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なんでこうも見事に、薩摩藩の存在を、消してしまえるのでしょう。
TBSの見所によれば、です。
「しかし、龍馬の年譜を追ってみると、謎めいた空白の半年に行き当たる。1864年10月~1865年4月」
と、あるのですが、その直前の1864年(元治元年)8月には、龍馬は勝海舟の使者として西郷隆盛に会っていますし、10月21日には、勝海舟が薩摩藩に龍馬たちの身柄保護を依頼しています。
薩摩の家老・小松帯刀から大久保利通宛の書簡に、「浪人体の者を以て航海の手先に使い候えば宜しかるべくと西郷など在京中相談も致し置き候間、大阪屋敷へ内々相潜め置き候」ともあります。
薩摩藩が土佐勤王党をかくまったのは、なにも、これが初めてではありません。英国へ渡った土佐郷士の流離、 英国へ渡った土佐郷士の流離 2 にありますように、その2年前から吉田東洋を暗殺した高見弥一を薩摩藩はかくまい、1865年(慶応元年)3月には、グラバーの世話で、イギリスへ旅立たせています。
で、そのひと月前の2月12日には、中岡慎太郎が大阪で「海軍生のことを聞」と日記に記していまして、前後の記述から、これは一応、薩摩藩の保護下に入った坂本龍馬を中心としてのことであろう、というのが定説です。
このときの中岡の旅は、同じ土佐脱藩郷士の土方久元といっしょのものでして、土方も日記を残していますが、2月8日には、下関の白石正一郎宅で、井上少輔(長府藩)、原田順次(長州報国隊長)、赤根武人(長州奇兵隊長)、三好内蔵助、吉井幸輔(薩摩藩)、大山彦太郎(薩摩藩)、大庭伝七(白石正一郎の弟)らと、「薩長和解を謀り懇談」しているんです。
中岡慎太郎は、この前年、禁門の変が起こる以前の春から、薩長の連携を模索して、薩摩藩士の中でも長州よりの考え方を持っていた肝付十郎や中村半次郎(桐野利秋)に、会ったりしています。
また、あまり知られていないことですが、長州奇兵隊のスポンサーだった下関の白石正一郎は、薩長の仲が険悪になる以前は、薩摩藩の御用商人でした。数多くの薩摩藩士と、古くから懇意ですし、薩長手切れの後の商売上の損失は、莫大だったはずです。
つまり、薩長連合は別に、グラバーが考え出したものでも、坂本龍馬が思いついたものでも、ないのです。
それで、番組がいうところの1864年(元治元年)10月~1865年(慶応元年)4月までの坂本龍馬消息不明の後、最初に龍馬が文字記録に見えるのは、慶応元年4月5日、京都にいた土方久元の日記です。
土方は、2月8日の白石正一郎宅での会合の後、中岡慎太郎とともに京都に上り、2月12には中岡とともに「海軍生」のことを聞いたわけです。二人は、小松帯刀や西郷吉之助(隆盛)をはじめとした薩摩藩士と、ひんぱんに交流し、そして4月5日、土方は薩摩の吉井幸輔宅で、西郷吉之助、村田新八に会っていて、そこへ、大阪から坂本龍馬がやってくるんです。
この前年からの動きを見ていますと、薩摩にも長州にも、和解連携の必要性を痛感している人々がいて、中岡をはじめ長州に身をよせていた土佐を中心とする脱藩士、筑前や対馬の志士たちも、それを熱望して動いています。
しかし、薩長双方にわだかまりがありますし、わけても薩摩藩にとっては、孝明天皇が長州を嫌われ、長州が朝敵になってしまった以上、島津久光に和解を認めさせることは、なかなか難しいことだったわけです。薩摩藩士が表立て長州よりの動きをするわけにもいかず、そこで、坂本龍馬の登場となったと見て、まちがいはない状況でしょう。
つまり、長州藩の蒸気船および武器調達に、薩摩藩が力を貸すことによって和解連携に至る、という道筋は、4月5日の龍馬登場以前に、出来上がっていたのではないか、ということです。
2月12日には中岡が「海軍生のことを聞く」のみで、龍馬に会ったという記録がないのは、あるいはそのころ龍馬は、長崎にいたのではないか、という推理は、ありえることですし、龍馬が「海軍生」の生かしどころを模索し、薩摩のはからいで、グラバーに弟子入りしていたとも、考えられなくはないのですけれども。
薩摩藩とグラバーの関係については、昨日もご紹介しました杉山 伸也著『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』に詳しいのですが、すでに文久2年(1862)、薩摩藩が蒸気船ランスフィールド号をグラバーから購入しようとしたことに、はじまっています。
しかし本格的な両者の接近は、その翌年、薩英戦争の後のことです。元治元年(1864)のはじめころには、南北戦争の影響で綿花の値段が高騰し、グラバーは薩摩藩から、綿花を買い付けることにしています。薩摩藩は、御用商人の浜崎太平次に、大阪で綿花を買い集めさせ、長崎に送ろうとしたのですが、長州の上関で、この薩摩商船加徳丸を長州義勇隊員が襲撃し、薩摩商人を殺害した上で、積み荷も船も焼き捨てた、という事件があったりもしました。
こういう事件も、薩長のこじれを大きくしていたのですが、長州は、下関、上関という瀬戸内海航路の要所を握っていますし、薩摩は、交易の上からも、和親の必要を感じていました。
それはともかく、ちょうどその加徳丸事件のころ、長崎でオランダの海軍伝習を受けたことがあり、上海へ行ったこともある薩摩の五代友厚は、長崎のグラバー邸に滞在していました。
可能性を言うならば、このころ龍馬は、勝海舟の供で長崎を訪れていますから、勝の紹介で、五代に会い、グラバーにも会っている可能性は、高いのです。勝と五代は、オランダの海軍伝習でいっしょだったのですから。ここで、五代がグラバーと提携して手がけようとしていた貿易事業に、龍馬が関心をよせただろうという想像も、十分に成り立ちます。
五代はその後、藩貿易の促進とイギリスへの留学生派遣を藩庁に上申し、翌年の留学生派遣が実現しますし、海外交易についても、グラバーとの提携で、さまざまな試みが実現しています。
しかし、これが、グラバーの策謀であるかといえば、どうなんでしょうか。五代は、イギリス留学生とともに渡欧して、モンブラン伯爵とも商社設立を契約し、いわば、グラバーとモンブランを天秤にかけていますし、どちらがどちらをあやつった、という話ではないように思います。
ともかく、それだけ深くグラバーにかかわっていた薩摩が、です。龍馬が立ち上げた亀山社中に援助金を出しているのですから、龍馬の背後にいたのは、グラバーとともに薩摩藩なのです。薩摩藩が龍馬の後ろ盾にならなければ、グラバーが龍馬個人と取引することは、ありえません。
長州の意向を受けた中岡と土方は、薩摩の小松帯刀や西郷に、おそらくは長州の武器調達の不如意を訴え、小松と西郷は、長州への便宜をはかるため、龍馬の起用を決意し、亀山社中結成を援助した、と見る方が妥当ではないでしょうか。
もちろん、3月12日に、幕府の神戸海軍操練所が廃止され、「海軍生」の行方がせっぱつまった問題となりましたし、それ以前に、長崎で小曾根英四郎の援助をえる目途を得た龍馬と、長州に武器を売ることを望んだグラバーとの連携があって、交易の後ろ楯になってくれないかと、薩摩藩へ提案していたとも考えられなくはありません。
すべて、推測の域になるのですが、どちらにせよ、薩摩藩を中心に事態は動いているのです。
4月26日、坂本龍馬と「海軍生」たちは、薩摩藩の胡蝶丸で長崎へ向かい、さらに龍馬は、胡蝶丸で鹿児島入りしました。
この時点で龍馬は、薩摩藩の後ろ楯を確実なものにすると同時に、小松や西郷の意向を受けて、薩長和解に向け、動き出すこととなったのです。
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