郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

グラバーは坂本龍馬の黒幕か?

2007年02月27日 | 幕末土佐
おそらく少々、昨日の白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい の続きです。

最近、ほとんどテレビを見ません。だから知らなかったのですが、TBS 歴史ミステリー「龍馬の黒幕」 という番組が、去年、放送されたようですね。
で、その元になったのは、この本。

石の扉―フリーメーソンで読み解く世界

新潮社

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えーと、実はこの本、読んでいません。テレビも見ないで、本も読まないで、批判するのもいかがなものかと、われながら思うのですが、とりあえず、粗筋を読んでの感想です。

なんでこうも見事に、薩摩藩の存在を、消してしまえるのでしょう。
TBSの見所によれば、です。
「しかし、龍馬の年譜を追ってみると、謎めいた空白の半年に行き当たる。1864年10月~1865年4月」
と、あるのですが、その直前の1864年(元治元年)8月には、龍馬は勝海舟の使者として西郷隆盛に会っていますし、10月21日には、勝海舟が薩摩藩に龍馬たちの身柄保護を依頼しています。
薩摩の家老・小松帯刀から大久保利通宛の書簡に、「浪人体の者を以て航海の手先に使い候えば宜しかるべくと西郷など在京中相談も致し置き候間、大阪屋敷へ内々相潜め置き候」ともあります。
薩摩藩が土佐勤王党をかくまったのは、なにも、これが初めてではありません。英国へ渡った土佐郷士の流離英国へ渡った土佐郷士の流離 2 にありますように、その2年前から吉田東洋を暗殺した高見弥一を薩摩藩はかくまい、1865年(慶応元年)3月には、グラバーの世話で、イギリスへ旅立たせています。
で、そのひと月前の2月12日には、中岡慎太郎が大阪で「海軍生のことを聞」と日記に記していまして、前後の記述から、これは一応、薩摩藩の保護下に入った坂本龍馬を中心としてのことであろう、というのが定説です。

このときの中岡の旅は、同じ土佐脱藩郷士の土方久元といっしょのものでして、土方も日記を残していますが、2月8日には、下関の白石正一郎宅で、井上少輔(長府藩)、原田順次(長州報国隊長)、赤根武人(長州奇兵隊長)、三好内蔵助、吉井幸輔(薩摩藩)、大山彦太郎(薩摩藩)、大庭伝七(白石正一郎の弟)らと、「薩長和解を謀り懇談」しているんです。
中岡慎太郎は、この前年、禁門の変が起こる以前の春から、薩長の連携を模索して、薩摩藩士の中でも長州よりの考え方を持っていた肝付十郎や中村半次郎(桐野利秋)に、会ったりしています。
また、あまり知られていないことですが、長州奇兵隊のスポンサーだった下関の白石正一郎は、薩長の仲が険悪になる以前は、薩摩藩の御用商人でした。数多くの薩摩藩士と、古くから懇意ですし、薩長手切れの後の商売上の損失は、莫大だったはずです。
つまり、薩長連合は別に、グラバーが考え出したものでも、坂本龍馬が思いついたものでも、ないのです。

それで、番組がいうところの1864年(元治元年)10月~1865年(慶応元年)4月までの坂本龍馬消息不明の後、最初に龍馬が文字記録に見えるのは、慶応元年4月5日、京都にいた土方久元の日記です。
土方は、2月8日の白石正一郎宅での会合の後、中岡慎太郎とともに京都に上り、2月12には中岡とともに「海軍生」のことを聞いたわけです。二人は、小松帯刀や西郷吉之助(隆盛)をはじめとした薩摩藩士と、ひんぱんに交流し、そして4月5日、土方は薩摩の吉井幸輔宅で、西郷吉之助、村田新八に会っていて、そこへ、大阪から坂本龍馬がやってくるんです。

この前年からの動きを見ていますと、薩摩にも長州にも、和解連携の必要性を痛感している人々がいて、中岡をはじめ長州に身をよせていた土佐を中心とする脱藩士、筑前や対馬の志士たちも、それを熱望して動いています。
しかし、薩長双方にわだかまりがありますし、わけても薩摩藩にとっては、孝明天皇が長州を嫌われ、長州が朝敵になってしまった以上、島津久光に和解を認めさせることは、なかなか難しいことだったわけです。薩摩藩士が表立て長州よりの動きをするわけにもいかず、そこで、坂本龍馬の登場となったと見て、まちがいはない状況でしょう。
つまり、長州藩の蒸気船および武器調達に、薩摩藩が力を貸すことによって和解連携に至る、という道筋は、4月5日の龍馬登場以前に、出来上がっていたのではないか、ということです。

2月12日には中岡が「海軍生のことを聞く」のみで、龍馬に会ったという記録がないのは、あるいはそのころ龍馬は、長崎にいたのではないか、という推理は、ありえることですし、龍馬が「海軍生」の生かしどころを模索し、薩摩のはからいで、グラバーに弟子入りしていたとも、考えられなくはないのですけれども。

薩摩藩とグラバーの関係については、昨日もご紹介しました杉山 伸也著『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』に詳しいのですが、すでに文久2年(1862)、薩摩藩が蒸気船ランスフィールド号をグラバーから購入しようとしたことに、はじまっています。
しかし本格的な両者の接近は、その翌年、薩英戦争の後のことです。元治元年(1864)のはじめころには、南北戦争の影響で綿花の値段が高騰し、グラバーは薩摩藩から、綿花を買い付けることにしています。薩摩藩は、御用商人の浜崎太平次に、大阪で綿花を買い集めさせ、長崎に送ろうとしたのですが、長州の上関で、この薩摩商船加徳丸を長州義勇隊員が襲撃し、薩摩商人を殺害した上で、積み荷も船も焼き捨てた、という事件があったりもしました。
こういう事件も、薩長のこじれを大きくしていたのですが、長州は、下関、上関という瀬戸内海航路の要所を握っていますし、薩摩は、交易の上からも、和親の必要を感じていました。

それはともかく、ちょうどその加徳丸事件のころ、長崎でオランダの海軍伝習を受けたことがあり、上海へ行ったこともある薩摩の五代友厚は、長崎のグラバー邸に滞在していました。
可能性を言うならば、このころ龍馬は、勝海舟の供で長崎を訪れていますから、勝の紹介で、五代に会い、グラバーにも会っている可能性は、高いのです。勝と五代は、オランダの海軍伝習でいっしょだったのですから。ここで、五代がグラバーと提携して手がけようとしていた貿易事業に、龍馬が関心をよせただろうという想像も、十分に成り立ちます。
五代はその後、藩貿易の促進とイギリスへの留学生派遣を藩庁に上申し、翌年の留学生派遣が実現しますし、海外交易についても、グラバーとの提携で、さまざまな試みが実現しています。
しかし、これが、グラバーの策謀であるかといえば、どうなんでしょうか。五代は、イギリス留学生とともに渡欧して、モンブラン伯爵とも商社設立を契約し、いわば、グラバーとモンブランを天秤にかけていますし、どちらがどちらをあやつった、という話ではないように思います。

ともかく、それだけ深くグラバーにかかわっていた薩摩が、です。龍馬が立ち上げた亀山社中に援助金を出しているのですから、龍馬の背後にいたのは、グラバーとともに薩摩藩なのです。薩摩藩が龍馬の後ろ盾にならなければ、グラバーが龍馬個人と取引することは、ありえません。
長州の意向を受けた中岡と土方は、薩摩の小松帯刀や西郷に、おそらくは長州の武器調達の不如意を訴え、小松と西郷は、長州への便宜をはかるため、龍馬の起用を決意し、亀山社中結成を援助した、と見る方が妥当ではないでしょうか。
もちろん、3月12日に、幕府の神戸海軍操練所が廃止され、「海軍生」の行方がせっぱつまった問題となりましたし、それ以前に、長崎で小曾根英四郎の援助をえる目途を得た龍馬と、長州に武器を売ることを望んだグラバーとの連携があって、交易の後ろ楯になってくれないかと、薩摩藩へ提案していたとも考えられなくはありません。
すべて、推測の域になるのですが、どちらにせよ、薩摩藩を中心に事態は動いているのです。

4月26日、坂本龍馬と「海軍生」たちは、薩摩藩の胡蝶丸で長崎へ向かい、さらに龍馬は、胡蝶丸で鹿児島入りしました。
この時点で龍馬は、薩摩藩の後ろ楯を確実なものにすると同時に、小松や西郷の意向を受けて、薩長和解に向け、動き出すこととなったのです。


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白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい

2007年02月26日 | フリーメーソン・理神論と幕末
えーと、またまたフリーメーソンです。昨日のモンブラン伯爵はフリーメーソンか?に続きます。
ネットの情報のみしか知りませんで、しかもそのネット情報でも、現実に確証はないそうなんですが、トーマス・ブレーク・グラバーがフリーメーソンだったのではないか、と言われますと、そうだったかもしれないな、と思います。長崎のグラバー邸には、フリーメイソンのシンボルの入った門があるそうですし。
どうも龍馬との関係で、グラバーのフリーメーソン説は話題にのぼっているようなんですが、薩摩密航留学生をイギリスに送り出した貿易商、グラバーです。ちなみに、長州ファイブは、グラバーの世話ではなく、横浜のジャーデン・マセソン商会の世話だそうです。
このグラバー、モンブラン伯とは犬猿の仲でした。去年、モンブラン伯とグラバーに書いたのですが、グラバーはモンブラン伯について、「非常に嫌な奴でありました。自分は大分彼の邪魔をしてやりました。西洋の言葉で申すと棺に釘を打ってやったのです」とまで言っています。

しかし、ネット上に氾濫するグラバーの陰謀説も、いかがなものか、と思います。維新がなって、グラバーは破産してますし。詳しくは、杉山 伸也著『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』がお勧めです。
グラバーといい、グラバーやジャーデン・マセソン商会から引き継いで、イギリスで長州や薩摩の留学生の面倒をみたローレンス・オリファント(江戸は極楽である参照)といい、「日本人を文明に導く手伝いをしたい」といった親切を感じますし、そういった親切といいますか、彼らなりの善意は、フリーメーソンの理神論と博愛の精神、あるいはそれに類似した思想、に導かれたものでしょう。

ところで、そのオリファントの影響を強く受けた森有礼が、です。モンブラン伯を、非常に悪く言っているのですね。これは、そういう書簡が残っております。
薩摩をめぐって、モンブランとグラバーが商売の綱引きをしているような関係もありますし、利害は当然ありえると思うのですけれども、例え同じフリーメーソンでも、イギリスとフランスのちがいがかなりあるのではないか、という気もします。
昨日の『宗教VS.国家』でも、そのちがいはある程度わかったのですが、もう少し系統だててフリーメーソンの英仏のちがいを知りたい、ということで、これです。

フリーメーソン

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かなりうまく、フリーメーソンの歴史がまとめられた本だと思います。
そもそも近代フリーメーソンは、モンテスキューなどの啓蒙思想に誘発され、イギリスで生まれた、上流知識人のサロン的結社でした。
会員の絆は、理神論………、えーと、つまり『すべての人間が同意できる宗教』なんだそうで、当時の実態としては、キリスト教の宗派に関係のない、普遍的な神、ですね。「神は天地を創造したが、その後は人間世界に恣意的に介入することなく、自然に内在する合理的な法に基づいてのみ宇宙を統治する」というのですから、一神教的的ではありますが、寛容で、理知的な信仰と、友愛精神です。
アメリカに伝わったのは、このイギリスのフリーメーソンで、昨日書きましたように、今なお、なんらかの信仰(仏教でもイスラム教でもいいそうですが、神道でもいいんですかね? おそらく、普遍的な宗教じゃなければだめなんじゃないでしょうか)が、入会の条件です。

ところが、これがフランスに入ると、少々、様相がちがってきます。
イギリスはイギリス国教会が大多数ですし、これは、国家が管理する宗教です。その次に多いのがプロテスタントで、プロテスタントは、そもそも理神論的な要素を持って生まれ、近代国家と衝突するものでは、なかったんです。
一方フランスは、圧倒的にカトリック教徒が多い国です。カトリックにはローマ教皇の存在がありますし、教会も修道院も、国家に管理されることなく、存在してきたものです。
またカトリックは、古い宗教であるだけに、ですね、土俗的な(普遍的ではない、ローカルな)宗教の要素を取り込んでいて、聖人遺物崇拝だとか、迷信じみた、言い方をかえるならば神秘的な要素を持っていて、理神論とは、折り合わない部分もありました。
それが、18世紀にフランスに入った当初は、神秘主義的な傾向となって現れるのですが、やがて、反カトリック、といいますか、反教皇権的傾向をおび、無神論をまで、許容するに至ることになります。
ここらへんの事情は、以下の別冊宝島233の記事にも、詳しく出てきます。


日本ロッジ元グランド・マスター・ロングインタビュー ベールを脱いだ日本のフリーメーソンたち
今日においてなお歴史的評価が難しいのは、イギリスの次にグランド・ロッジが成立したフランスのメーソンリーであろう。世界史の展開に深く、しかも劇的に関わったという点では、フランスのメーソンたちは、本家イギリスのメーソンをしのぐ。オルレアン公フィリップ、ヴォルテール、ミラボー、ロベスピエール、ラファイエット、モンテスキュー、ディドロ等々、フランス革命の名だたる立役者がフリーメーソンであったことはまぎれもない史実である。
ここで注意を要するのは、1771年(73年という説もある)にフランス・グランド・ロッジから独立する形で創設されたグラントリアン(大東社)である。日本において公刊されているフリーメーソンリーの研究書は、ほとんどがこのグラントリアンと、イギリスに誕生した「正統」フリーメーソンリーとを並列するか、あるいは曖昧に混同して記述している。しかし、イギリス系はすでに述べてきたように、教会と王権の支配を相対化したものの、「至高存在」と王政を否定しはしなかった。それに対し、グラントリアンは実際、急進的な啓蒙主義の影響を受けて、「至高存在」に対する尊崇を排し、無神論的な政治結社になっていく。明らかに両者は、ある時期から別種の思想を報じる別種の団体となっていったのである。もっとも、英米系と大陸系メーソンリーが混同されがちなのは、仕方がないところもある。本家のイギリス系メーソンリーが、グラントリアンに対する承認を取り消し、絶縁を宣告したのは、フランス革命勃発から約80年後の1868年のことである。


イギリスとフランスのフリーメーソンが断絶した1868年というのは、明治元年のことです。
ちなみに、この3年後のパリ・コミューンでは、コミューン側に多数のフリーメーソンが、個人的に参加していたりもしていまして、無神論もごく普通であったわけです。
モンブラン伯爵が、はたして無神論者であったかどうかはわかりませんが、そうであった可能性が、高そうに思えます。昨日見ましたように、当時のフランスの上流、中流家庭では、男は無神論者で、女は熱心なカトリック信者、というのも、けっこうあったりしたようなのですから。
あるいは、無神論者、とはっきりしてはいなくても、日本の葬式仏教的な、冠婚葬祭のみカトリック、という形式的な信仰が、はびこってもいたようなのです。
宗教に対する態度が、イギリス人とはちがったわけなのですね。
とすれば、たとえオリファントとモンブラン伯がともにフリーメーソンであったにしましても(あるいはなかったにしましても、ですが)、理神論に忠実な、といいますか、むしろ熱心な理神論的キリスト教信者であるオリファントから見て、モンブラン伯爵が信用のおける人間に見えるはずもないでしょう。

ところで、このイギリスとフランスの宗教観をくらべてみましたとき、どちらの宗教観が日本に近いか、といえば、フランスです。
モンブラン伯の日本観にしろ、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に出てきますM・ド・モージュ侯爵の来日観察にしろ、フランスの知識人がかなり正確な日本への認識を持ち得たのは、そういう宗教観もあったのではないか、と思うのです。
下の、近代古典学の成立、2.近代古典学の草創 をご覧になってみてください。


新しい価値観の確立と古典学研究所の設置について
産業革命を経、フランス革命をなし遂げた18世紀末の西洋が開始した古典研究は、科学と合理主義を旗印とし、堅固な文献学的手法に拠る点において、縦前のものと質的に異なったものとなった。
 先ずこのような近代古典学の中心となったのは、パリである。コレージュ・ド・フランスには、中国学(1814年、初代教授レミュザ)、インド学(1814年、初代教授シェジ)、エジプト学(1831年、初代教授シャンポリオン)の講座が次々に創設され、アジア学会(パリ・1822年)も設立された。
 これに刺激を受け、ヨーロッパ各国に古典学の講座が設けられ、また王立アジア学会(ロンドン・1823年)、アメリカ東洋学会(1842年)、ドイツ東洋学会(1847年)等の学会が創立された。
 王立アジア学会は1857年にアッシリア学を認定した。
 日本学は、関係の深かったオランダにおいてはJ.J.ホフマンが1835年にライデン大学教授となり、パリ東洋語学校ではレオン・ド・ロニーが1863年以来講じ始めた。
 後者は第1回国際東洋学者会議(1873年・パリ)では会長となって会議を差配し、議事録の3分の1を日本学関係の論文が占めた。


パリで花開いたアジア学を、オリエンタリズムの産物である、と決めつけることはできないでしょう。
普遍性の根底に宗教を置かない、ということは、他の文明を文明として認める、第一歩であるからです。
パリ東洋語学校の学者であるレオン・ド・ロニーは、モンブラン伯爵と行動をともにしていることが多く、パリの日本学は、おそらく、フリーメーソンのつながりで、オランダのライデン大学から情報を得ることも多かったと思われます。

そういえば私、大昔に澁澤龍彦氏の『秘密結社の手帖』で、フリーメーソンのことを一応読んでおりましたのに、ころりと忘れておりました。
いえ、当時の私は、とても神秘的な、怪しい団体であることを期待しまして、わくわくしながら本を開いたのですが、あまりに神秘と遠い、普通のおじさんばかりがいそうな団体でしたので、がっかりして、忘れてしまったものでした………。


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モンブラン伯爵はフリーメーソンか?

2007年02月25日 | フリーメーソン・理神論と幕末
という疑いを抱いたのは、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理 で書きました、『社会志林』の中の宮永孝氏の論文「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」のある記事によるところが、大きいんです。
ある記事とは、慶応元年(1865)12月(旧暦10月)、幕府のオランダ留学生だった津田真道と西周が、帰国の途中でパリへより、当時パリにいた幕府の使節団(柴田日向守一行)には会えず、モンブラン伯とひんぱんに会っていた、というのですね。薩摩の五代友厚が、やはりパリにいて、モンブラン伯と会っている時期ですし、当然、五代とも会っています。

なんで、突然、津田と西が現れるのか、ということなんですけど、吉村 正和著『フリーメイソン 西欧神秘主義の変容』によれば、津田と西が学んでいたライデン大学のフィッセリング教授はフリーメーソンで、津田と西は教授の紹介で、日本人として初のフリーメーソン会員となったことが、記録に残っているんだそうなんです。
フリーメーソンというのは、なにやら怪しげな陰謀団体のように、日本ではイメージされることが多いのですが、おそらくこれには、カトリック教団から敵視されて以来の歴史がありまして、当時のヨーロッパでは、国境と宗教を越えた知識人の親睦サークル、みたいなものなのですね。
メンバーの紹介がなければ入れませんから、津田と西は、フィッセリング教授によほど気に入られたのでしょうし、メンバーとなれば、他国のフリーメーソン会員にも受け入れられ、旅先で知己を得ることが簡単にできるのです。

だとすれば、モンブラン伯はフリーメーソンだったのか?
そう考えれば、頷けることも多いのです。モンブラン伯の日本観幕末版『明日は舞踏会』 にも書きましたように、モンブラン伯の日本観は、当時の欧米人としては、特殊な感じを受けるのです。
啓蒙主義的な思想でも、「文明の根底には、キリスト教徒が理解しているような意味での宗教がある」というのが、当時のごく一般的な欧米の文明観ですから、日本文化に興味は抱いても、それを西洋文明と同じ次元で見たりはしないものなのです。

さらには、田辺太一の回想だったと思うのですが、「フランスの上流社会では評判が悪い人物」みたいなことも出てきます。
ただこれは、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理で書きましたように、グロ男爵の使節団のメンバーにはなっていたりしますので、フランスでの人脈の問題もあるのかな、と思ったりもしたのですが、やはり、当時のフランス上流社会のごく一般的な思想からは、少しはずれているのではないか、という気もしたりしていました。
ただ、フリーメーソンにしましても、吉村正和氏の解説では、「文明の根底には、キリスト教徒が理解しているような意味での宗教がある」ということですし、現在でもフリーメーソン入団は、なにかの宗教(キリスト教である必要はないんですが)を信じていることが、入団の条件みたいです。
おそらく、その「宗教」の意味するところが、問題なのではないか、と思うのです。一神教的な宗教しか認めないのかどうか、ということなんですけれども。

えーと、まあ、あれこれ、第二帝政期のフランスの思想書の翻訳などを読んでみたんですけれども、私にとっては、抽象的にすぎまして、どうにも、モンブラン伯の宗教観や思想がどんなものであったのか、イメージがわきません。
よくよく考えてみましたら、私、フローベルやモーパッサン、ゾラの小説や、読み飛ばしたエッセイ類などで、漠然とした当時のフランスのイメージはあるのですが、具体的にどう、フランスの宗教観が変遷していったのか、その流れを知っているわけでもないのです。
さて………、と思っていたところで、この本にめぐりあいました。

『宗教VS.国家』

講談社

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著者は工藤康子氏。フランス文学専攻の東大名誉教授ですが、文学者だけに、実にイメージ豊かに、しかし整然と、わかりやすく、近代フランスの宗教と国家の関係を、述べてくださっています。
最初に登場しますのが、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』。ここでまず、フランスにおいて、革命で生まれた市民意識と、カトリック信仰がどう対立し、どう融合しようとしていたかを、具体的に描き込まれた場面で示し、さらにそれ以降も、よく知られた文学作品を例にあげ、詳しく解説を加えていく形です。

昔から、不思議に思っていたことがありました。
ルルドの奇跡をご存じでしょうか? フランスのピレネー山脈に近い田舎ルルドで、ベルナデッタという農家の少女が聖母の出現を見て、その聖母が現れた洞窟の泉の水を飲めば難病も治る、というので、その少女は聖人となり、ルルドは聖地となって、現代でも巡礼の人が絶えない、というのですが。
今は知りませんが、私が子供の頃には、近所のカトリック教会に、ルルドの岩窟を模して、聖母と聖ベルナデッタの像が飾ってあったりしたものです。私は、その教会のシスターから、ルルドの奇跡の話を、お聞きしました。

いえ、これが昔のことなら不思議ではないのですが、ベルナデッタが聖母を見たのは第二帝政期、モンブラン伯が最初に来日した2年後のことです。さらに、ベルナデッタが聖人に列せられたのは20世紀になってからのこと、だったりしまして、いや、そりゃあ日本でも、「ここのお寺の湧き水は万病にきく」とかいう話は、幕末にもあったでしょうし、現在もあるでしょうけれど、「それって世界中に宣伝する事なの?」みたいな、驚きがありまして。

実は、ゾラが、ルルドを題材に小説を書いているんだそうなんです。フランスでは、『ナナ』や『居酒屋』並のベストセラーなのですが、日本では訳出されてないんだとか。
この本のしめくくりは、それが題材になっていまして、カトリックの側にも、国家の側にも偏らない、客観的な著述ではないか、とも思えます。

で、モンブラン伯の宗教観に関して、この本で参考になったことをあげますならば、米国とフランスの宗教観のちがい、でしょうか。
吉村氏のフリーメーソンの著述は、米国が中心になっていますけれども、米国はフランスのように、国家と宗教の激しい葛藤を経た国ではありません。一言で信仰の自由と言いますが、その内実に、大きなちがいがあるようなのです。
フランスで、本格的に、政教分離、公教育からの宗教(結局はカトリック)排除に取り組んだのは、第三共和制のジュール・フェリーなんだそうですが、この人がフリーメーソンなんです。モンブラン伯と同世代です。
穏健なブルジョワの共和主義者で、伯父など、親族の男はフリーメーソン。父親は無神論者でしたが、母や姉は熱心なカトリック信者だったんだそうです。

ともかく、複雑なフランスの宗教事情を、とてもわかりやすく、楽しく解説してくれている好著でした。


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土方歳三はアラビア馬に乗ったか?vol2

2007年02月23日 | 日仏関係
昨日の土方歳三はアラビア馬に乗ったか? 、の続きです。
昂奮のあまり、肝心の部分がけっこうぬけたか、と思いまして。

昨日は筆がすべってしまいまして、4月13日の時点で、「小金牧に一度は全頭収容」と書いてしまったのですが、2頭、足りないようです。
細かなまちがいは他にもあるんですが(えーと、略奪の日にちも12日としておりましたですね)、4月13日略奪の確かな証拠はあるのか、といえば、書簡などで、確かにアラビア馬が捕られた、と書いたものがあるかどうかは、はっきりしないようなんです。ただ、この日、小金牧の役場や詰め所で、大規模な略奪があったことは確かで、取られたものの目録には、洋式馬具も含まれているそうです。
岡先生は、記録に残らない小金牧被害の可能性として、4月13日以前の流山もあげておられます。小金牧には、三カ所の牧があって、そのうちの上野牧は、流山にごく近いんだそうです。

私、土方歳三については、土方歳三と伝習隊などで書きましたけれども、今なお、4月12日以前の土方と伝習隊との関係に、あまり言及されることがないのを、不思議に思っているんです。
たしかに、資料がないといえば、それまでなんですけれども、脱走幕府陸軍で、土方が参謀だった伝習第一大隊の隊長って、会津の秋月登之助(江上太郎)ですよね。この人って何もの??? と、以前から思っていたのですが、なにか詳しい本とか、ご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。
つまり、江戸で幕府のフランス伝習を受けていたりしたのかな、ということなんですが。

ふう、びっくりしたー白虎隊 で、パリへ行っていた横山常守と海老名季昌のことを書きましたが、この二人についても、あんまり資料がないんですよねえ。で、検索をかけてみましたら、海老名の方は日記があるみたいで、近年出版されていて、古書店で見つけたんですが、横山常守は戦死していますしねえ。
しかし、この二人、まったくフランス語を習わないでパリへ行ったのだろうか、と、それも不思議で、幕府のフランス陸軍伝習と会津藩の関係を、ご存じの方、これもぜひご教授を。
昨日書きました小栗上野介の家族がですね、会津へ逃れて訪ねたのが、横山常守の家だそうなんです。小栗は幕府の親フランス 政策の中心でしたし、もともと横山家は、小栗と親しかったのかな、と。

って、なんだかお話がアラビア馬と離れてしまいましたね。
小金牧の牧士とアラビア馬についてきたフランス人たちとの交流なども、書きたかったのですが、なんだかまた、まちがいばかり書いてしまいそうでして、もっとちゃんと読んでからにします。

なお、今回の土方の写真も含め、ですね、最近使っておりますモノクロの肖像写真は、昭和初期に出版されました本からのスキャンでして、著作権にはまったく触れないものと、考えております。


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土方歳三はアラビア馬に乗ったか?

2007年02月22日 | 日仏関係
本日は、アラビア馬です!
ちなみに、使いました写真は、馬上の徳川慶喜公ですが、アラビア馬ではありません。
ナポレオン三世から贈られたアラビア馬、と紹介されていたりもしたと思うのですが、どうも私、これはアラブにしては馬体が小さすぎないか、と常々思っていたのですが、やはりこれは日本の在来馬だと、本日わかりました。
なぜわかったか………は、後でお話しします。

桐野利秋とアラビア馬 について、わかったわけではないのですけど、といいますか、謎はよけい深まったのですが、桐野のことは別にしましても、私、慶応3年にナポレオン三世が日本に贈ったアラビア馬については、昔から、関心を持っていました。
乙女の頃に、一時競馬にはまりまして、しかし私、はまったといっても妙な方向へ関心が向くのが常で、サラブレッドの歴史とか、に興味を持ちました。
えーと、サラブレッドの元になったのは、アラブです。
で、すっごく短絡な話をしますと、漢の武帝がシルクロードの大宛(フェルガナ)で手に入れたという汗血馬は、おそらく、アラブの祖先の親戚、くらいではあるでしょう。歴史のロマンです。
まあ、ともかく、です。アラブというのは、足が速くて、とてもきれいな馬なのです。
男が容姿なら、馬も容姿です。
で、ですね、慶応三年のアラビア馬が、日本に最初に入って来たアラビア馬ではないんですけど、なにしろフランス皇室の種馬ですし、その中でもえり抜きの26頭が、江戸幕府最後の年に入ってきて、維新のどさくさでその大方が行方不明になったって、劇的じゃないですか。もう、それだけでロマンです。

さらに、です。鈴木明氏の『追跡 一枚の幕末写真』を読みまして、函館戦争のフランス人vol2で書きました、カズヌーブ伍長の存在を知ったわけなんですね。
もっと詳しく知りたい! と思って、根岸の馬と競馬の博物館 まで行ったこともあるのですが、あまり時間がなくて調べ物もできず、収穫なく引き上げました。

なにもわからないままに時は流れて、インターネットの時代です。
個人掲示板で、なにかの拍子にアラビア馬の話題が出ましたところが、さっぱりお話しがかみ合わないのですね。
それで、私はその方に『追跡』を紹介し、その方からは『富国強馬 ウマからみた近代日本』という本が出ていることを、お教えいただきました。
とはいえ、この本も明治以降ずっとの日本の馬の歴史ですから、慶応3年のアラビア馬については、2、3ページがさかれているだけなのです。

が、その方は、すごい方です。岡宏三氏という方が、「慶応三年アラビア馬の受領と小金牧牧士の飼育伝習御用」という本を出されていることを発見され、教えてくださったのです。ただ、その本はごく少部数出された非売品で、古書もなく、国会図書館にはあったのですが、著作権がありますから、全部のコピーは無理です。
調べてみましたところ、岡宏三氏はさる歴史博物館の方でして、私、ずうずうしくも、「お手持ちによぶんがございましたら、なんとかお譲りいただけないものでしょうか」と、連絡を差し上げてみたのです。
そういたしましたら、岡先生、ご親切にもコピーして送ってくださったのです。
それが今日届きまして、慶喜公の写真の馬が、在来種である可能性が高いこともわかったのですが。
いや、岡先生、すごいです! もう、びっくりしました。

あー、まず第一、「アラブは格好がいいので、幕臣が乗馬用に使ったりした」と思いこんでいたのは、まちがいでした!!! 
えー、でも、いろんなところに、そんなことが書いてありましたし。『富国強馬』にも。
ごめんなさい!!! 小栗上野介さま!!! 
あなたが乗っていらしたのは、ナポレオン三世の種馬ではなく、米国から持って帰った乗馬だったなんて、知りませんでした。
種馬を贈られた幕府側では、ちゃんとその重要性を認識していて、乗馬にしたりなぞせず、育成の伝習まで始めていたのです。
小栗上野介さま、あなたはえらい!!!

土方久元の回想によれば、小栗上野介の乗馬は、官軍の豊永貫一郎が奪い取って乗っていたそうなんです。
小栗は、自分が米国から連れて帰った乗馬を、知行地の上州へ連れていったようですし、そこで首を斬られたときに奪われたのでしょう。
といいますのも、検索をかけてみましたら、豊永貫一郎は土佐出身の陸援隊士。坂本龍馬と中岡慎太郎の仇討ちだった天満屋事件に参加しているそうです。
で、東山道官軍の先鋒。首切りの責任者です。

ぎゃー、さらに検索をかけてみましたら、小栗が戦争の準備をしていると総督府にちくったのは、猫絵と江戸の勤王気分 に出てまいりました、猫絵の殿様、バロン・キャットだとか。
『街道の日本史 中山道 武州・西上州・東信州』に、「新田満次郎は小栗が砦を作り大砲や鉄砲等を用意し浪人を雇って戦争準備をしていると、総督府に報告した」とあるんだそうで、しかしそれは、高崎藩などが調べたところでは、戦争準備などではなかったとか。
つまり、小栗上野介の斬首命令は、江戸の総督府から出ていて、東山道官軍の独断では、なかったようなのですね。
そういえば、官軍がくる前に、小栗が地元上州の博徒や農民たちの暴動を鎮圧した、という話もあったりするんですが、それって、新田官軍と関係あり、なんでしょうか???

えーと、話がそれてしまいました。
維新のどさくさ時に、ナポレオン三世のアラビア馬は、現在の千葉県松戸市、小金牧に、一度は、大多数が収容されていたのだそうです。
それが………、江戸城明け渡しの翌々日、4月13日、どうも、幕府の伝習隊を筆頭とする脱走兵たちに、一部、略奪されたようなのですね。
えーと、そうです。大鳥圭介や土方歳三が率いていた、あの脱走伝習隊です。
ということは、アラビア馬の一部は、会津へ行ったんでしょうか? 
どうも、そのようです。これも、ぐぐってみました。

柴五郎の「戊辰当時の追想談」 (『會津史談会誌』第十六号 昭和12年)
そのころ、軍事教練をしている幕府の騎兵士官は、アラビア馬とかいうずいぶんと大きな馬に乗っておった。なんでも、フランスのナポレオン皇帝が公方様に贈ってきたもんじゃということじゃったが……

どびっくりです。
もっとも、これは、小金牧から略奪されたものばかり、とは、かぎらないかもしれません。
といいますのも、4月22日には、略奪されなかった残りのアラビア馬がすべて、小金牧から、江戸神田橋近くの幕府騎兵所に、ひきうつされたからです。
上野戦争の前ですし、ここからも、騎兵伝習を受けた幕府の士官が、アラビア馬を盗んで会津へ行った可能性も、ありえるんじゃないでしょうか。
後の散逸は、やはり官軍側の私用ぶんどり、なんでしょうねえ。

他にも、いろいろいっぱい、興味深い話ばかりだったんですが、またの機会に。


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新撰組と三多摩壮士とシルク

2007年02月21日 | 土方歳三
がらりと話がかわります。
中里介山の『大菩薩峠』をご存じでしょうか? 1巻は、青空文庫にも入っていまして、無料で読めます。
って、実は私、読んでいません。
えーと、幕末を舞台に、虚無的な剣士が、奇妙な因縁の世界をさまよう、と一言でいっちゃっていいんでしょうか。
いえ、最初に土方歳三を含む、初期の新撰組が登場するというので、読んでみたいな、とは、ずっと思っているのですが、戦前の小説ですし、あまり格好よくは描かれてないのだろうな、と予測して、いまひとつ手が出なかったり。
しかし、なんとなく不思議ではあったんです。
粗筋などを見てみますと、主人公をはじめ、登場人物はほとんど架空なのに、新撰組関係だけが、近藤、土方、芹沢鴨、清川八郎と、あらわれるみたいで。

『中里介山 辺境を旅するひと』

風人社

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これを読んで、謎がとけました。
中里介山って、多摩の人だったんですね。で、大菩薩峠がそもそも、多摩にあったとは。
で、明治の多摩の自由民権運動。新撰組と自由民権運動 で書きましたけれども、新撰組のスポンサーだった小島鹿之助は、明治の自由民権運動のスポンサーでもあり、土方歳三の姉の嫁ぎ先、佐藤家も運動にかかわっていたらしい、という程度は知っていたのですが、中里介山が幼い頃、つまり明治、多摩の自由民権運動家たちは、三多摩壮士と呼ばれていたんだそうなんです。

三多摩壮士って………。えーと、いまひとつ理解できていないのですが、ともかく、特殊な風土がありまして、大人しいものではなかったんですね。過激、といった方がはやいでしょうか。もちろん、演説もしましたが、資金強奪とか武器製造とか。
なんでも、明治22年、大隈重信に投げられた爆弾も、もとはといえば、大阪事件のために三多摩壮士が製造したものだったとか。いえ、投げたのは三多摩壮士じゃないんですけど。
いや、まあ、風土というものは、おもしろいものですねえ。

もっとも、私がこの本を読んだのは、なにも新撰組を育んだ風土について、知りたかったわけではなく、以前に、モンブラン伯爵は大山師か で書きました、昭和6年発行の中里機庵著「幕末開港 綿羊娘(ラシャメン)情史」、この中里機庵って、もしかして中里介山の別名ってことはないんだろうか、とか、思ってみたりしまして。
で、どうだったか、といいますと、さっぱりわかりません。ただ、介山は、幼い頃に実家がおちぶれて、横須賀で貿易商をしていた母親の実家を頼った、という話で、可能性としては、ありそうです。
えーと、母親の実家も多摩だったんですけど、多摩は生糸の産地ですから、貿易に手をそめる者も多かったんですね。
そういえば、横浜開港以前から、多摩と神奈川をつなぐ絹の密輸ルートがあったのではないか、というような話を、昔、読んだことがあります。また、その本が出てこなかったりするのですが。
ぐぐったら、出てきました。辺見じゅん著『呪われたシルク・ロード』 (1975年)です。
いえ、これ、別にホラー小説ではなく、地道に土地の言い伝えや資料をさぐったドキュメントです。
ともかく、なんだか、不思議な土地柄ではないでしょうか。


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半神ではない、人としての天皇を

2007年02月20日 | 明治六年政変
本日また、昨日の幕末維新の天皇と憲法のはざま、の続きです。
昨日、大久保利通と江藤新平の理念対立、と書きましたが、江藤新平のほかの政変で下野した参議の顔ぶれを見渡してみますと、西郷隆盛、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎。
この4人が、江藤と理念を同じくして、「国憲は右等国体論の如きものにあらず」と考えていたのか、というと、ちょっとおかしい気がしますよね。
そうなんです。必ずしも最初から、理念を同じくしていたわけではないのです。宮島誠一郎が立国憲議を建言したときには、左院の江藤とちがって、参議だった板垣退助は、大賛成をしたのだと、宮島は言っています。
ですから当初は、大蔵省で予算編成を握っていた井上馨が、非常に恣意的な予算配分をしながら、汚職にからんでいたことから、長州閥への反感をこのメンバーが共有したことが、大きかったでしょう。
しかし、明治6年政変にいたって、大久保利通を中心とした薩長のまきかえしが、「主上のご政断」を政治利用して、閣議決定を反古にするという暴挙に出たとき、あらためて、いかにそういった「有司専制」をふせぐか、ということで、民選議員の設立や、憲法による歯止めの問題が、浮上してきたのではないでしょうか。
それは必ずしも、「万世一系」の言葉を憲法に組み込むかどうかの問題ではなく、組み込むにしても、そのことで当代の天皇を祭り上げるという大久保の意見書が、その神聖な玉をおさえたものの独裁につながりかねない、という現実をふまえて、それをどう防ぐか、という方向の理念の一致だったでしょう。





だとするならば、「民選議員設立建白書」に加わらなかった西郷隆盛の理念はどうだったのか、ということになります。
桐野利秋については、自由民権を唱えたという証言もありますが、かならずしも、西郷と桐野の理念が一致していたわけでもないでしょう。
西郷が天皇制についてどう考えていたかは、傍証から想像するしかありません。
ただ、下野の理由については、桐野のようにはっきりと「公議を尽くさず、聖旨を矯むるを怒り」とまでは言っていませんが、やはり岩倉具視の「閣議結論を無視して上奏する」という暴言が原因だったと、西郷は庄内藩士に語っています。「主上のご政断」の政治利用について、あきらかに大久保への怒りを抱いた、と考えられるでしょう。大久保の手の内を誰よりも熟知しているのは、西郷だったはずです。

西郷が明治天皇によせた期待は、明治4年(1871)、西郷がもっとも信頼していたのではないか、と思える、村田新八を宮内大丞にしたことに、あらわれてはいないでしょうか。しかもその新八を、岩倉使節団とともに欧米へ送り出したということは、新八ならば、軽佻に流れることなく、守るべきものは守って欧米の文化を吸収し、新しい皇室を築くにふさわしいと、見込んだからでしょう。
西郷の思想の根底には、もちろん儒教武家道徳があるわけなのですが、それが、かならずしも君主独裁を是認するものではないとは、まず西郷の島津久光に対する評価で想像がつきます。
では、西郷が明治天皇に、半神ではなく、人間的な武家的明君像を期待していたと仮定して、それが憲法に置ける天皇の位置づけと、どう結びつきえるのか。
これは、一つの例にすぎないのですが、小西豊治氏の以下のような著作があります。

『もう一つの天皇制構想 小田為綱文書「憲法草稿評林」の世界』

御茶の水書房』

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小田為綱は、盛岡藩の藩校の教授だった人で、原敬もその教え子です。
西南戦争では、日本全国、数多い呼応者がありました。大きな動きでは、陸奥宗光が土佐立志社とともに立ち上がろうとしたり、ということもあったのですが、すべて、芽の段階でつまれてしまいました。さすがに、大久保利通ですね。周到です。
東北地方でも、真田太古を中心として、兵を挙げる動きがあったのですが、このとき檄文を書いたのが、小田為綱です。檄文の内容は、有司専制への攻撃です。為綱は禁固刑となるのですが、出所の後の明治13年から14年ころ、元老院の国憲第三次草案に、論評を加えているのですね。
検索をかけていたら、なんと憲法草稿評林が、ありました。便利な世の中になったものです。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室 招待席・主権在民史料 小田為綱 憲法草稿評林

見ていただければわかるのですが、為綱は「万世一系」を否定はしていません。といいますか、数多い自由民権派の私擬憲法でも、「万世一系」を最初に入れていないものは、まったくない、といっても過言ではないんです。
しかし、それぞれに「有司専制」に歯止めをかけ、「万世一系」が独裁の飾りとしての権威とはならないように、考えてはいるのですね。
憲法草稿評林における為綱の独自性は、最初に「万世一系」を認めておいて、第2条で「然ラバ則チ天皇陛下ト雖(いへども)、自ラ責ヲ負フノ法則ヲ立(たて)、后来(こうらい)無道ノ君ナカランコトヲ要スべシ」と、廃帝の規定を考えていることです。
これは、「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」と言明している大久保利通の意見書とは、大きくちがう考え方です。
帝もまた人であられるならば、自らのなすことに「責ヲ負フ」必要がある、というのですから。
つまり、儒教的な武家道徳と自由民権は、十分に調和しうるものなのです。

明治大帝の西郷好きは、西郷の帝への期待が、生身の人間としての明君であったことを、感じられてのものだったのでは、なかったでしょうか。


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幕末維新の天皇と憲法のはざま

2007年02月19日 | 明治六年政変
えーと、昨日の革命は死に至るオプティミズムか の続きです。とはいえ、本日は松蔭を離れて、明治大帝をめぐるお話ですし、どの本を基本に語るべきか、いろいろ考えたのですが、一長一短で、とりあえず適宜ご紹介、という形で。

以前にも幾度か書きましたが、私は、孝明天皇の毒殺を、ありえたことではないか、と疑っています。
笠原秀彦氏の『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』は、コンパクトにまとめすぎたため、でしょうか、いろいろと不満もあるのですが、とりあえず、幕末から明治へかけての天皇制問題のアウトラインは、つかめるかな、という記述になっています。
で、そのコンパクトな中にも、孝明天皇毒殺の疑いは、登場します。そして、笠原氏のおっしゃるように、毒殺を証拠立てる決定的な史料がないのですから、結局、そういう噂があった、という以上のことは、言えないのです。

だから、これは私の妄想なのですが、笠原氏も書いておられるように、『朝彦親王日記』によれば、「孝明天皇の御異例にまつわり、異形物が鍾馗の形で夜ごと現れ、新帝を悩ます」とあり、新帝の祖父である中山忠能の日記や岩倉具視関係文書にも、新帝の周囲の奇怪現象の噂は、あげられているのです。
さらに、明治になってからですが、昨日書きました白峰神社の造営。孝明天皇の遺志だった、という話なのですが、なぜ、伝説によれば「革命」を志して果たせず、恨みを呑んだまま崩御された崇徳上皇の霊を、明治初年に慰める必要があったのでしょうか。これが、後鳥羽、後醍醐の両帝ならば、王政復古がなって、武家政権に戦いを挑んで果たせなかった両帝の霊を祀る、というのは自然な感じがするのですが、崇徳上皇の戦いの相手は、時の帝で、それも実の弟である白河天皇だったのです。
私にはどうにも、崇徳上皇にたくして、慰めたのは孝明天皇の霊だったのではないか、というような思いが、捨てられないのです。

それはさておき。実は、『天皇と華族』を持っているはずなのですが、出てきませんで、うろ覚えになるんですが、お許しください。
明治初年に、大久保利通が、天皇のあり方について述べた文書があります。そこで大久保が心配していることは、「これまで雲の上の人として、人前にお姿を見せなかったから崇拝されていた帝が、人前に立たれてなお、権威を保たれるにはどうすればいいか」ということなんですね。
昨日の松蔭も、「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得る」と現状を認識していたわけなのですが、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理 に出てきますフランス貴族の認識のように、「人の目には見えにくい半神」のようであればこそ、天子さまは尊かったのです。
しかし、そもそも王政復古とは、帝に政治主権と決断を仮託して成り立ったものですし、それよりなにより、緊急な外交上の必要からも、帝を「御簾の中の半神」にしておくわけには、いきません。だいたい、徳川将軍慶喜公がすでに、西洋君主並の外交を披露しているのですから、帝が主権を握っていることを諸外国に認めさせるためにも、西洋的な君主に近づける必要があったのです。
公家社会の猛烈な抵抗を押し切って、帝を京都から切り離し、大阪へ、そして東京へとお移り願うことで、それは、徐々に形になっていきました。
西洋の君主とは、今でもイギリス王室の王子たちがみな軍人となりますように、そもそも武人ですし、将軍や大名の方に近いものです。したがって、そういう意味では君主としてあるべき姿を描きやすかったことになりますが、では、政治的に天皇をどう位置づけるのか、となれば、問題は山積みでした。



私は、明治6年政変は、究極のところ、天皇制の問題であったのではないか、と思っています。
『征韓論政変 明治六年の権力闘争』という本があります。
著者は姜範錫氏。早稲田大学を出た後、韓国で政治部の新聞記者を務め、駐日韓国公使も経験した、という韓国人です。
専門の学者ではおられないため、たしかに、史料の扱いが恣意的になるような面もあるのですが、しかしそもそも政治史とは、史料の字面を一字一句額面通りに受け取って、成り立つものでもないでしょう。
少なくとも、維新後の日韓の外交交渉で、対馬藩士の存在をクローズアップされた点は大いに頷けますし、さらには、この政変の本質を権力闘争とされ、権力闘争の理念の面で、憲法をめぐる確執があったのではないか、という指摘は、もっと注目されてしかるべき、なのではないんでしょうか。
しかしまあ、この本も見事に品切れですね。

明治6年の段階で憲法? と思われるかもしれません。しかし、それを指摘する史料があるのです。
宮島誠一郎の『国憲編纂起源』です。
関心がおありの方は、国会図書館のHPのギャラリー、史料に見る日本の近代、第1章立憲国家への始動 立憲政治への試み 1-5 憲法制定の建議に、デジタルで公開されていますので、ご覧になってみてください。

時期は明治5年の4月。いわゆる岩倉使節団で、岩倉具視をはじめ、大久保利通、木戸孝允といった維新の中心人物の半数が、欧米に出かけていた留守です。宮島誠一郎が、左院(いわば、立法機関です)に、立国憲議を建言するんですね。
これがどんなものだったかというと、結論は「君主独裁に君民同治の中を参酌して至当の国憲を定むるを当然の順序とす」というもので、簡単に言ってしまえば、「我が国の歴史からいえば、古来からの君主独裁であるべきなのだが、しかしそれだけでは人民を抑圧し開化をさまたげることになりかねないので、皇国古来の君主独裁と君民同治の中間で、憲法を作ろう」というものだったんですが、大賛成をしたのが、当時左院大議官だった薩摩の伊地知正治です。
ところが、左院副議長だった江藤新平が、「国憲は右等国体論の如きものにあらず」「国憲なるはフランスの五法の如く広く人民に闊歩せしものにて、その性質帝王自家の憲法に非ず」といって、つまり国憲は国体論ではない、フランスの法のように人民の権利を重視すべきだ、と、正院への提出を拒むんです。国体論とは、「万世一系」というようなことですから、天皇については、もっと欧米の君主に近い規定にすべき、ということでしょう。

ところが、です。この時期というのは、大久保利通が米国との交渉の必要から、一時帰国しているんです。姜氏は、宮島が個人的にこういう建言をするという従来の説はおかしいのではないか、と疑問をはさみ、大久保利通の意向だったのではないか、と推測されるのです。
大久保には、明治6年、政変直後に成立したとされる「立憲政体に関する意見書」があるのですが、突然、政変があったからふってわいたわけではなく、江戸は極楽である で登場しました吉田清成をブレーンに、かねてから構想をねっていたもので、内容を見てみますと、姜氏の推測に、大きく頷けます。

その内容とは、宮島が提出した「君主独裁に君民同治の中を参酌して」に近く、さらに「みだりに欧州各国君民共治の制に擬すべからず。わが国自ら皇統一系の法典あり」と最後に念押ししてあって、江藤に答えた形でもあるのですね。
しかも、なぜ国体論が必要かと言えば、ひらたくいって、「天皇はこれまで政治にかかわらないでおられたので神と仰がれたのだけれども、天皇が政治にかかわれば、天皇もまた人であると知れて、その権威は半減する。しかし、それは必要なことであるのだから、国体論を憲法の主柱として、新たに権威を確立すべきだ」というのですね。
天皇制をめぐって、これは、相当深刻な理念対立ではないでしょうか?

明治六年政変の詳細は後回しにして、とりあえず、政変によって下野した参議のうち、江藤新平、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎の4人が、ただちに「民選議員設立建白書」を出し、有司専制を攻撃し、自由民権運動をはじめたことは、それ以前から理念対立があった証拠には、ならないでしょうか。
西郷隆盛はどうなのか、ということなのですが、西郷がなにも言っていない以上、実際のところはわかりません。ただ、妄想にすぎない、といわれればそうなのですが、傍証はあります。
一つは、司法省にいた有馬藤太の後年の回想で、江藤新平を司法省の長官にかつぐとき、西郷が後援してくれた、と言っていることです。なにしろ後年の回想ですので、他の事柄についても細かな思い違いはあるのですけれども、大筋でまちがいはないでしょう。有馬が同じ司法省で、江藤と同じ佐賀出身の今泉利春と仲が良く、志を同じくしていたことは、利春の妻、今泉みねの回想にもあります。

もうひとつは、『西南記伝』に収録されています『桐陰仙譚』、明治7年に、石川県士族の二人が、鹿児島で桐野利秋から聞き取ったとされる談話なのですが、この中に、なぜ西郷をはじめとする参議が下野したか、という理由が、出てくるのです。


その理由を述べる前に、政変の概略を語る必要があるでしょう。
一応、政変は、西郷の遣韓使節の可否をめぐって起こったのですが、昔からこれには、留守政府内で、井上馨、山県有朋などの汚職を材料に、江藤新平を筆頭とする肥前、土佐閥が、長州閥の追い落としをはかっていたのを、帰国した岩倉、大久保、木戸などが巻き返しをはかったのではないか、という、権力闘争が指摘されています。
私も、そう思うのです。西郷は、山県有朋はかばいましたが、井上馨については「三井の番頭さん」と呼んでいたという伝説もあり、現実に、まったくかばっていません。軍事面ではまだまだ、薩長の協力関係が重要であっても、政治面ではくずれてもかまわないと、西郷は踏んでいたのではなかったでしょうか。
しかし、大久保はそうは思わなかったでしょうし、伊地知正治、黒田清隆など、薩摩閥の中にも、それを危ぶむ思いはあったでしょう。

なにしろ、肝心な時期の大久保の日記が残っていませんで、………事件の核心時期だけですので、これは姜氏の推測されているように、破棄されたのではないか、という疑いもわいてくるのですが………、まあ、ないだけに、憶測にすぎないことも多くなってしまいますが、肥土参議の追い落としに、大久保が相当な策略を使ったことは、事実でしょう。

さて、政変大詰めの経過を述べますと、大久保をも含めた参議たちの閣議で、西郷が遣韓使節となることは決定するんです。ところが、それを天皇に上奏すべき三条太政大臣が急病で倒れ、………姜氏はこれが仮病だったのではないかと言うのですが………、ともかく、宮内省にいた薩摩の吉井の工作で、岩倉が三条の代理となります。そして岩倉は、閣議の決定を無視して、「私は西郷が遣韓使節に反対なので、その旨を申し上げ、天皇のご決断を仰ぐ」と宣言したのですね。
なにしろ、維新からこの方、まだ年若い天皇に政治的な決断を求めていたわけではないのに、突然、「天皇のご決断」が出てくるのです。
『桐陰仙譚』によれば、副島種臣は「これまで主上の独断専決におまかせしたことがないのに、突然そうするというのは、責任を主上に押しつけるということで不忠ではないのか」とつめよったと言いますが、つまるところ、参議たちの決定を無視するために、「主上のご政断」を錦の御旗にしている、つまり天皇を玉として使っていることが明白だ、と難詰しているわけですね。
それで桐野は、「公議を尽くさず、聖旨を矯むるを怒り」、西郷と自分は下野したのだと、言っているのです。
これは、薩長閥による恣意的な「天皇のご決断」利用の危険性が、露呈した事件ではなかったでしょうか。

冒頭の笠原氏の『明治天皇』にも出てくるのですが、西南戦争において、明治天皇は引きこもられ、あきらかにサボタージュをされます。西郷隆盛への親愛の情を抱いておられたことには、さまざまな傍証があり、それはもちろん大きな理由でしょうけれども、もう一つ、これもまた憶測にすぎませんが、明治6年、心ならずもご自身が政変で果たさせられた役割に、納得のいかないものを感じておられたのではないか、と思うのです。

天皇が西洋的な君主であることは、果たして、大久保が主張するほどに難しいことだったのでしょうか。当時、藩主や将軍の明君像というのは確実に存在し、実質、明治天皇もそれに近いものをめざされたのです。
だとするならば、果たして憲法に国体論が必要だったのかどうか、疑問です。


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革命は死に至るオプティミズムか

2007年02月18日 | 幕末長州
とりあえず、もしかしたら、昨日の一夕夢迷、東海の雲 の続きです。
松蔭の革命思想、と書きましたが、それを、わかりやすく、とは言いませんが、見事に解き明かしてくれている本があります。
野口武彦氏の『王道と革命の間 日本思想と孟子問題』です。
って、また品切れですね。いえ、昔、私が図書館で借りて読んだ時にも品切れで、当時は、インターネットで古書さがし、もできませんから、必要部分をコピーさせていただきました。

孟子です。孟子には、いやな思い出があります。大学の漢文が、一年間孟子の購読だったんですが、漢文嫌いの私は、さぼりまくって、たしか一度も授業に出ませんで、いざ試験。目の前の白文に、呆然としました。いえ、一応、山かけの書き下しと解釈文は暗記していたのですが、ものの見事に山がはずれまして。

しかし、です。野口武彦氏の上記の本の中の「われ聖賢におもねらず 吉田松陰の『講孟余話』」を読みまして、松蔭先生くらい興味深く孟子を解釈してくださる先生がいたら授業に出たのに、と思ったんですが、一度も授業に出なかったのですから、実は、おもしろいかどうかもわからなかったわけで、つくづく馬鹿です。

えーと、それは置いておいて、です。野口先生がおっしゃるには、松蔭の『講孟余話』は、「ひとくちにいうなら、それは幕末という江戸時代未曾有の、いや、日本の歴史上有数の危機的状況のさなかに生まれ合わせた一青年と孟子との間の、激しい思想的格闘の書」なのだそうです。
朱子の『孟子集註』をテキストにしながら、自由に読み解き、読み破り、「松蔭は孟子にわが同時代者を見出した」と、先生はおっしゃいます。

孟子は朱子学のテキストで、朱子学は江戸時代の御用学問ですから、もちろん通常は道徳書として講釈されるのですが、もともと「革命」の書である要素を、含んでいるのだそうです。
そういったイメージを、端的にあらわしているのが、江戸時代中期、上田秋成の『雨月物語』におさめられた『白峰』。平安末期の保元の乱に破れ、讃岐の松山(白峰)に流され、憤死した崇徳上皇のお話です。ちなみに、明治元年、明治天皇は、崇徳上皇の霊を慰めるため、白峰神社を造営されました。
それはともかく、です。「汝聞け。帝位は人の極なり。もし人道上より乱すときは、天の命に応じ、民の望にしたごうてこれを伐つ」と、崇徳上皇の霊は、物語の中で宣言するのですが、これこそ、孟子の革命思想、なのです。
どこが、って、えーと、下手な説明をしますと、です。
「帝の位は人間の中ではもっとも重いものであるけれども、帝もまた人間である。帝が人の道にはずれたときには、天の命令、民衆の望みに答えて、これを伐つ」というのですから、革命ですよね。
この孟子の革命思想を崇徳上皇に吹き込んだのは誰なのか。『保元物語』によれば、上皇とともに乱を起こして敗死した、左大臣・藤原頼長です。頼長は、現実に孟子を読破していたそうですが、当時の認識では、「革命」思想と思われていたわけでは、ないのだとか。ただ、江戸も中期になれば、孟子イコール不吉な革命思想、といったようなイメージがあって、上田秋成がうまく使った、と。

孟子の有名な言葉があります。
「民を貴しとなす。社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」
また下手な説明をしますと、「民がもっとも尊い。国家がその次で、君主はその後にくる」でしょうか。
これを、松蔭は、「これは、人の上に立つ者が自らをいましめる言葉だ」と受け流し、ここから、「異国のことはしばらく置く」といって、国体論を展開するんですね。
「この君民は開闢以来一日も相離れ得るものにあらず。故に、君あれば民あり、君なければ民なし。この義を弁ぜずしてこの章を読まば、毛唐人の口真似して、天下は一人の天下に非ず、天下の天下なりなどと罵り、国体を忘却するに至る」
つまり、ですね、「我が国では、国のはじまりの時から、帝と民は一心同体で、離れたことがない。それが我が国の歴史であり、根本なのだから、それを忘れて他国のまねをするべきではない」ということでしょう。

この国体論のどこが革命的かといいますと、帝と民は一心同体である、ということは、松蔭の他の著作とも照らし合わせてみますと、幕府も藩も突き抜けて、民が帝と一心同体である、となりえる論理展開だから、です。
天保12年(1841)、といいますから、松蔭が孟子に取り組んだ時期から、およそ20年近く以前の話でしょうか。土佐で、秘密裏に天保庄屋同盟が生まれています。これは、現実的には庄屋の地位向上を主張するものであったのですが、将軍も藩主も、そして庄屋も、帝の臣下であることにかわりはないと、簡単に言ってしまえば、帝の前にはみな平等だという、国学的な一君万民思想に通じる思考を内包していました。
ですから、土佐の庄屋であった中岡慎太郎は、松蔭の思想をすんなりと理解できたとも、いえると思うのです。

しかし、と野口先生は続けます。松蔭は、天皇を神格化しているのか、といえば、けっしてそうではない、と。
「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得るは、古道かつてしかるにあらず。王朝の衰えてよりここに至り、またここに至りてより王朝ますます衰ふるなり」
「天子を雲の上の神さまのように思うのは、まちがいだ。昔はそうではなかった。天子が政治の主権をなくされてから、そういうことになったのだ」というのですから、史実に即した認識ですよね。
そして、あとが続きます。「天子が政治的な意志をもたれていた昔に帰ることが望ましいのだけれども、軽率に事がおこなわれると、かならずそれを口実に悪政を行う者が出てくるだろう」と。

これだけでも鋭い分析にうならされるのですが、松蔭はこういった認識のもとに、長州藩の学者、山県太華との書簡による論争で、ついに、倒幕論に至るのです。
私もちょっぴりは経験があるのですが、他人さまとの論争というものによって、自分でも意識していなかった方向へ、論理が展開していき、あらま、私はこう考えていたんだーと、論争相手に感謝することがあります。くらべるのもおこがましい、といいますか、私程度のは単なる思いつきでしかなかったりするのですが、松蔭と太華の論争は、実にスリリングに、時代の危機を切り開く論理を構築していくのです。

結論から言えば、です。結果、「主上御決心、後鳥羽・後醍醐両天皇の覆轍だに御厭ひ遊ばされず候はば、愚策言上もっとも願ふところに御座候」とまで、松蔭は唱えるようになりました。
後鳥羽天皇は鎌倉幕府、後醍醐天皇は室町幕府と、ともに武家政権に戦いを挑み、敗れて流された天皇です。その失敗をおそれることなく、ぜひ、民に勅を下して、主権意志を示していただきたい、と。
帝と民が一体となって立ち上がる、草莽崛起論です。

しかし、では、どうやって草莽が主上を‥‥‥、天皇を動かすのか。
現実に、幕末に起こったことは、孝明天皇は決して倒幕を望まれはしなかった、という悪夢でした。
例えば、英国へ渡った土佐郷士の流離 2 で書きましたが、孝明天皇の勅命は、久光上洛にともなう西日本の志士たちの期待を、あきらかに裏切るものでした。
8.18政変も、もちろんそうだったでしょう。
そして、その悪夢の果てに、「玉(天皇)を奪われ候ては実に致し方なき事と甚だ懸念」という大久保利通の言葉にありますような、マキャヴェリズムに行き着きます。
こうなってくると、「天皇の主権」は、表象でしかありません。
それが、革命の現実というものなのでしょうけれども、では、思想家である松蔭は、天皇の意志と草莽のめざす方向の乖離を、どう考えていたのでしょうか。
「至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり」という確信を、「死に至るオプティミズムとでも呼びたくなるようなパトス」として、松蔭は所有していたのだと、野口先生はおっしゃるのです。そして、その信念に全身全霊を預けた、夾雑物のない松蔭の生涯は、美しい、と。

たしかに、大久保利通のマキャヴェリズムがなければ、維新は成立しなかったかもしれません。
しかしまた、松蔭の、常識では考えられないような熱情がなければ、そもそも倒幕の火は、ともりえなかったかもしれない、とも、いえるのではないでしょうか。


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一夕夢迷、東海の雲

2007年02月17日 | 幕末長州
『秋月悌次郎 老日本の面影』

作品社

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品切れ本のデーターを貼り付けても、という気がするのですが、古書で手に入りました。
ふう、びっくりしたー白虎隊 で書きました『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎』を読んでから、ぜひ読みたいと思っていた本です。
本論にはあまり関係ないのですが、勝海舟というお方は‥‥‥ の矢田堀鴻とも知り合いだったとは。二人とも、昌平坂学問所にいたんですから、あたりまえといえばあたりまえなんですが、長岡藩の河井継之助とともに、長崎のオランダ海軍伝習所にいた矢田堀を訪ねる一こまは、後のそれぞれの運命の転変を思えば、晩年の悌次郎がかかえた「老日本の面影」が、けっして単純な懐古ではなかったことを、うかがわせてくれるものです。

そして、さすがに、松本健一氏の描く秋月悌次郎像は、枯淡な墨絵のようでありながら、「保守」思想家であることのパトスを、強く感じさせてくれるものでした。
私、あまり漢詩には詳しくないのですが、といいますか、昔教育実習をしたときも、漢文の授業だけは逃げさせてもらったほど苦手ですが、「行くに輿無く、帰るに家無し」の悌次郎の絶唱は、さすがに知っていました。しかし、その晩年に西郷隆盛の墓に参った時の七言絶句には、松本氏のおっしゃるように、たしかにより深く、響くものがあります。

 生きて相逢わず、死して相弔す
 足音よく九泉に達するや否や
 鞭を挙げて一笑す、敗余の兵
 亦これ行軍、薩州に入る

しかし、この本で驚いたのは、『非命の詩人 奥平謙介』が同時に収められていたことです。
奥平については、民富まずんば仁愛また何くにありやで少し触れましたが、かつて一度だけ面識があった‥‥、といいますか、長州を訪れた悌次郎に、まだ若かった謙介は、詩文を見てもらったことがありました。時は流れて戊辰、北越口で長州軍の参謀をしていた謙介は、会津降伏の後、猪苗代で謹慎する悌次郎に、心のこもった書状をよせるのです。その名文は、悌次郎の心をゆすっただけではなく、永岡久茂など、後に思案橋事件で、萩の乱に呼応することになる会津藩士たちの琴線にも、強く触れたのだそうです。

松本氏は、奥平謙介を、ある意味、悌次郎の対極にある「ロマン的革命家」と位置づけています。
なるほど、言われてみれば確かに、萩の乱の中心にあったのは、前原一誠ではなく奥平謙介であったのでしょうし、その奥平と連携していた永岡久茂は、評論新聞に務めていたのです。
評論新聞には、熊本協同体を組織して西南戦争に参加した宮崎八郎もいましたし、「不平士族」と一言で片付けてしまうことのできない、反政府勢力の結集があったのです。評論新聞とつながっていた桐野利秋については、「六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」という、市来四郎の論評もあります。

佐渡の知事であった時代の謙介が、地役人の家禄を止めて、開墾に従わせ、自らもいっしょになって農作業に励んだ、というエピソードをなども、謙介が、明治維新の革命としての側面に、過酷なまでに忠実であったことを、うかがわせます。
これは、あるいは私の記憶ちがいであるかもしれないのですが、明治維新を「社会民主主義革命」と規定した若き日の北一輝は、生まれ育った佐渡に残る、奥平謙介の伝説に惹かれていた、のではなかったでしょうか。
実は、松本健一氏の北一輝伝を、読んだのかどうか、思い出せないのです。上が記憶ちがいでないとすれば、おそらく、松本氏が書かれていたものだったと思います。読んだのだとすれば、図書館で借りた本だったのでしょう。

 身を致し誓って、妖気を掃わんと欲す
 一夕夢迷、東海の雲
 今日の和親、宿志に非ず

これは、謙介が「松蔭遺稿を読みて感有り」と題した詩の最初の部分なんですが、松本氏の解説によれば、「一夕夢迷、東海の雲」とは、松蔭がアメリカに渡ろうとしたことを指していて、しかし現在の日本のありさまは、松蔭がめざした「攘夷」ではない、ということになります。続いて、「今の政治家は尊攘檄徒をなだめるために、あざとく松蔭先生を利用しているだけで、日常に愛読することを忘れ、遺稿を燃しているに等しい」とまで詩っているとなりますと、昨日の坂本龍馬と中岡慎太郎 で書きました、慎太郎の「夫れ攘夷というは皇国の私語にあらず」という言葉が、浮かんできます。
久坂玄瑞、高杉晋作亡き後、もっとも濃厚に松蔭の革命思想を、理論的に受け継いでいたのは、中岡慎太郎ではなかったでしょうか。
奥平謙介は、感性でそれを受け継いでいたのだと言われてみると、確かにその通りだったのでしょう。
そしてそれが、たしかにロマン派とでも呼ぶしかないような、不器用なものであったればこそ、秋月悌次郎が悼むにふさわしい面影となって、謙介は黄泉路に赴いたのかもしれません。


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