郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

びっくり! 西南戦争とボクサーパトロン

2014年12月14日 | 幕末薩摩

 そのー、私が幕末にのめり込みましたきっかけは、桐野利秋(中村半次郎)です。

翔ぶが如く〈7〉 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋



 司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」の桐野像に疑問を感じまして、史料を読むようになったわけですから、幕末からの陸海軍史、徴兵制度、銃器につきましては、そこそこ、調べております。
 それで、続 主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』あたりに書いておりますが、私が来年の大河「花燃ゆ」に関心を持ちましたのは、萩の乱におきます玉木家、乃木家への思いが、けっこう大きく影響しています。
 ともに維新の大きな主体となりました長州と薩摩。その地元で起こりました、萩の乱と西南戦争が、どうしてあれほどに規模がちがうのか、ということを説明しますのに、私は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に書いておりますように、「長州の士族はわずか3000戸で、薩摩の43119戸にくらべたら十分の一にも足りない人数」であることと、そしてなにより、「消された歴史」薩摩藩の幕末維新に書いておりますように、「薩摩では藩政時代から、基本的に銃は、藩がまとめて買ったものを個人に買わせるので、私物」ということを、持ち出します。

 士族反乱、といいますか、士族が少なかった地方では庄屋層を多く含んでいますので、知識階級、といった方が近いと思うのですが、その知識階級が明治新政府に反対する反乱は、実のところ、全国各地で起ころうとしておりました。
 半神ではない、人としての天皇をに書いております東北地方の真田太古事件、民富まずんば仁愛また何くにありやに出てまいります越後の大橋一蔵の企て、など、東日本にも火種はありました。
 しかし、やはり主には西日本、それも九州を中心として、多くの事件があったのですが、西南戦争を除きますすべての蜂起が、簡単に潰えてしまいましたのは、銃と銃弾を奪うことに失敗したり、奪えても少量で、全員にいきわたらなかったり、ということも大きかったんです。

 ところが鹿児島では、士族、郷士はみな銃を私有し、銃弾も蓄えていました。
 これは藩政時代からのことでして、「忠義公史料」などを読んでいますと「貧乏な者には藩の仕事を与えて、今回藩が買った新式銃を買えるようにしてやれ」とか、いくつも命令書を見つけることができます。
 なぜかと言いますと、城下士も含めました大多数の薩摩藩士が、開拓農業にはげんでいたからです。
 イノシシや熊、オオカミなど、昔から、農作物や家畜を害する獣は多くいまして、いまでも山地の農家は、普通に猟銃を備えて、猟銃会に入っています。銃と火薬は、農業用品だったんです。

 検索をかけましたら、「日米銃砲規制の歴史的・社会的背景」という論文が出て参りまして、江戸時代、大方の藩では、農民の鉄砲は許可制でした。
 その延長線で、といえると思うのですが、農業にいそしみます薩摩藩士は、士族ですから、いざとなれば武器になりますし、藩が私有を奨励し、購入を手助けしていたような次第でした。
 もちろん、銃には火薬と弾丸が必要でして、火薬なぞは個々の士族が家に備えていたらしいんですね。桐野利秋の伝記に、子供の頃、火薬箱で遊んで爆発させてしまって、外祖父に叱られた、みたいなことが、出てきたりします。

 このように、薩摩における火薬や銃弾は、農業用品の側面を持つわけですから、「薩南血涙史 」に「火薬庫はもともと藩のものではなく、藩士が金を出し合って火薬弾丸を蓄積しておいたものだった」というようなことが出てきますのも、もっともなんです。弾薬も藩の管理下にはなく、下級藩士の共同管理だった、というわけです。

 で、西南戦争の導火線になりました事件が、赤龍丸の火薬弾丸移送事件です。
 定説では、藩が消滅しました後、薩摩藩の火薬や銃弾の集積所は、一応、陸海軍の管轄になったというんですね。
 旧薩摩藩士たちにしましたら、「もともと藩のものではなく、俺たちが金を出し合って集積しているんだから」ということです。
 一般的には、「明治新政府(大久保利通が中心になった施策と推論することが一般的です)は、薩摩の力をそぐために、事前の届け出も無く(中央の陸軍や海軍が鹿児島に集積しました弾薬を必要とする場合は、事前に運搬する旨、鹿児島県庁に届け出ることが義務づけられていました)、夜中にこっそりと、弾薬を赤龍丸で運び出したことに激高した薩摩士族が、各地の火薬庫から弾薬を運び出した」と言われていまして、「弾薬の運び出しは大久保利通の挑発であり(薩摩出身、西郷隆盛の親戚で、海軍の川村純義は挑発になるから反対した、ともいわれます)、火薬庫を襲った元藩士たちを罪人にすることは人情として忍びないので、西郷隆盛は立ったのではないか」というような、推測もなされていました。

 私にしましても、あんまりこの定説を疑っていたわけではなかったんです。
 「薩摩藩士にとっては、農具の一種でもある火薬と弾丸を、こっそり盗み出していくなんてものすごい挑発だわ。開戦のきっかけを、政府側から作ったわけよねえ」と、理解していたわけです。
 
 で、だいぶん以前ですが、偶然、NHKのBSプレミアム英雄たちの選択「西郷隆盛の苦悩 なぜ西南戦争は勃発したのか」 の再放送に出くわしました。
 私は大方、明治6年政変や西南戦争をあつかった歴史バラエティは、ばかばかしくなってきますので、見ません。しかし、「ちとはNHKもまともになっていたりするかしら」と、検証のため録画しました。
 で、つい先日、他のことをしながら見流しておりますと、「武士の誇りを守るために士族反乱は起こった」とか、鼻で笑いたくなります話が連続していたのですが、そういう俗説は世間に蔓延していますし、まあ取り立てていうほどのことではありませんでした。
 しかし、私にとりましてはちょっと、見過ごすことのできないことを言っていたんですね。

 銃も火薬も弾丸も、薩摩士族にとっては農具の一種、ということは、あまり知られていませんから、まあいいのですが、「薩摩藩士たちは各地の弾薬庫を襲って武器を奪い取った」と言い、動画の方も、なにやら銃でも入っていそうな箱を運び出していて、私は思わず反射的に、「銃は私物だから、家にあるの。そんなとこに置いてないわ。運び出したのは弾薬だけでしょうに!」と叫んでしまったんです。
 しかし、ちゃんと確かめなければと、もう一度見返してみますと、政府側が赤龍丸で奪ったものについても、これまで漠然と「火薬と弾丸」と言われていたこととはちがって、「薩摩は集成館で最新式のスナイドル銃の弾など、日本海軍の弾薬の多くを製造していて、明治10年1月29日、政府は夜間密かに、鹿児島に蓄えられていた弾薬を運び出した」と、驚愕の話でした。

 「えっ!!! スナイドル(後装銃)のボクサーパトロン(金属薬莢)を集成館で作っていたの??? 国産できていたって???」
 と驚きますと同時に、しかし、「集成館で作っていたんだったら、いくら造りためたものを政府に盗まれたからって、また造ればいい、ってことにならないの???」と、疑問でした。
 私がこれまで知っていました俗説では、「ボクサーパトロンは輸入に頼っていたので、旧薩摩士族たちは後装銃を持っていたにもかかわらず、すぐに弾丸切れとなり、前装銃しか使えなかった」ということでして、すっかり信じこんでいました。




 ずいぶん前に撮ったものですが、上が鹿児島の尚古集成館で、下はそのそばにあり、イギリス人技師などが住んでいた異人館です。

 尚古集成館

 幕末、薩摩の集成館事業は、佐賀藩と並ぶ近代化事業でして、考えてみれば、ボクサーパトロン製造もありえないことではなかったでしょう。
 西南戦争が始まりますまでの鹿児島は、紡績工場のイギリス人技師や医師(ウィリアム・ウィリス)が住み、薩摩焼き輸出ブームに沸き、市来四郎は会社を設立して薩摩切子を作り、と、ずいぶんとハイカラな土地でした。
 
 「集成館でボクサーパトロンを造っていたって、NHKはいったいどこから話をひっぱってきたの???」と検索をかけてみました。

 出てきました! なんと!!! Wikiだったんです。

 wiki-西南戦争 wiki-スナイドル銃

 しかも。NHK、Wikiの部分拝借して嘘を放送するなよ!!! アジ歴の陸軍省大日記によれば、「赤龍丸が薩摩からこそこそと盗み出したのはスナイドルの弾薬製造器械で、命令したのは山県有朋」だったことが明白じゃないのっ!!!

 ひいっ!!! 陸軍省大日記に、ちゃんと史料があったんですね。
 改めて、基本資料とされる西南記伝を見てみました(中巻1です。近代デジタルライブラリーにあります)

西南記伝 (〈中〉1) (明治百年史叢書 (83巻))
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原書房


 うかつでした!!! 引用された市来四郎の日記に、ちゃんと書いてましたわ。

 「当初磯(いそ)造船所、ならびに火薬所へ、製造仕りし大砲、ならびに諸要具類、弾薬などいっさいすべて、東京または大阪城へ積みまわしあいなりたりと」 

 この「諸要具類」というのが、ボクサーパトロン製造機械だったんですねっ!!! しかもこの市来四郎の書き方では、鹿児島県が製造して、海軍、陸軍へ納めていた、ともとれますし、製造機械を寄付なんかしてないでしょう。夜中にこそこそ、陸軍省は泥棒もいいとこじゃないですか。山県有朋って、本当に松陰の弟子なんでしょうかしらん。私には、信じられません。

 私、どうも、もう一度ちゃんと、西南戦争を勉強し直さなければならないようです。

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)
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講談社


  丁丑公論も、ちゃんと読み直さなければと。

 追記 福太郎さまのお教え通りに、松尾千歳氏の「西郷隆盛と薩摩」に、集成館でボクサー・パトロン製造の件が載っていました! これも、うかつでした! 「忠義公史料」明治2年5月13日条、村田新八らがオランダ商社に、イギリス製のボクサーパトロン製造機械を注文しているそうなんです。忠義公史料のこのあたりは、とばし読んではいたはずなんですが、完璧、見逃していました。

 
西郷隆盛と薩摩 (人をあるく)
松尾 千歳
吉川弘文館



 最後に、愛媛が誇ります紅マドンナを、お歳暮がわりに、せめて写真でご紹介します(笑)
 みずみずしいゼリーのようで、ほんとうに、おいしいんです。



 
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スイーツ大河『花燃ゆ』と西本願寺

2014年12月03日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明の続きです。

 前々回の『花燃ゆ』とNHKを考えるで、大河ドラマ全体の凋落に触れたのですが、最近読みました春日太一氏の「なぜ時代劇は滅びるのか」が、最終章「大河ドラマよ、お前もか!」で、衰退の様相を述べられていましたので、ちょっと。

なぜ時代劇は滅びるのか (新潮新書)
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新潮社



 大筋で、春日太一氏のおっしゃることに異論はないのですが、大きく違っていますのが、私にとりましての大河ドラマの原点が、祖母といっしょに幼かりし頃に見ました1回~6回、わけても「赤穂浪士」「太閤記」「源義経」の三本だったことからきているでしょう。「赤穂浪士」の長谷川一夫を、祖母がうっとりと見つめていたのは今でも覚えていますし、討ち入りの日の場面で、吉良上野介の滝沢修を、祖父、祖母がいっしょになって「うまい!」と褒めていた記憶もあります。「太閤記」の高橋孝治は品と魅力がありながら、冷酷な面も十分に表現できていて、佐藤慶の明智光秀、そしてもちろん豊臣秀吉の緒形拳、女性陣もねねの藤村志保、お市の方の岸惠子と、いまもって、それしか目に浮かんでこないはまり役でした。

Two soul -06



 「源義経」は、主役の尾上菊五郎、静御前の藤純子が、それほどしっくりきたというわけでもなかったのですが、なにしろまだ子供でしたし、平家物語も義経記も読んでいませんから、繰り広げられます歴史スペクタクルにハラハラドキドキ、夢中になって見入りました。

 春日太一氏の大河ドラマ観にも頷けるところは、けっこうありまして、戦国武将の奥方に「戦争はいやでございます。なによりも平和のために」なんぞとのたまわれますと、あまりのリアリティのなさにしらけきってしまうのですが、春日氏はこれが「利家とまつ」(2002)からはじまったことだとしておられるんですね。しかし私には、「おんな太閤記」(1981)の佐久間良子ねねが、いやにねちねちと、そんなことばかり言っていたような記憶がありまして、なにしろ佐久間良子ですから、所作は時代物にふさわしく、きれいだったんですが、「橋田壽賀子のホームドラマじゃあ、大河もおしまいよ」と、途中で見るのをやめたように覚えています。
 そして春日氏とちがいまして私は、別に、女が強いのが悪いわけではないと、思うんですね。ぐじぐじホームドラマをやられるよりは、「裏切り者の島津を討て!」と実家に対して言い放てる史実の篤姫のような、武士の娘としての誇りを描いてくれた方が、すっきりします。なにしろ女も家を背負い、誇りを背負っていたんですから、それなりに強いのは当然でして、何度も言いますが、史料から見た実際の篤姫は、大河ドラマ「篤姫」の主人公よりも、強いんです。
 福沢諭吉の「瘠我慢の説」を私はもっともと思っていますし、幕府は滅び方を誤り、その幕府の責任者の中ではただ一人、篤姫が誇りを守ったからこそ、江戸っ子に愛され続けたのではなかったでしょうか。

 大河のような歴史劇と時代劇はちがいます。
 春日氏がおっしゃいますように、時代劇には絶対的な悪人が必要なのでしょうけれども、大河ドラマには、必要ないのではないかと、私は思います。といいますのも、私にとっての大河の原点であります作品群に、絶対的な善人も悪人も、見た覚えがないんです。戦後の日本のマルクス史観のように、善悪で語られる歴史では、だめなんです。この前の「平清盛」なんぞ、自分自身が受領階級、つまりは中級貴族ですのに、「王家」なんぞと皇室を罵るだけの平清盛って、頭空っぽな上の能なしにしか見えませんし、皇室、貴族制度は基本的に悪、というような、日本式マルクス史観の反映があまりに露骨で、気色悪かった、としか、言いようがありませんでした。

 では、なにが歴史ドラマの基本であるべきかと申しますと、頼山陽言いますところの「勢極まれば即ち変ず。変ずれば即ち成る」、人間模様でしょう。源氏と平家のどちらが悪でどちらが善ということはありませんし、川中島も関ヶ原も、基本、善悪には色分けできないスペクタクルなんです。

 善悪を描き分けます時代劇、といいますならば、衰退した後に、わずかながらもNHKは、「蝉しぐれ」のような、普遍性を持った名作を作りましたし、ごく最近では、「吉原裏同心」は、けっこうおもしろかったと思います。
 しかしさて、大河ドラマはいったいこれから、どうなっていくのでしょうか。
 イギリスのBBCが、シェイクスピアやジェーン・オースティン、ディケンズ、その他、自国文学に強い誇りを持っている点こそを、見習うべきでしょう。
 視聴率は低くてもいいんです。自国の古典文学を尊重できない人々が作る大河ドラマなんぞ、NHKで製作する意味がありません。
 原点回帰ができないのならば、終止符をうってもいいのではないかとさえ、思うこのころです。

 で、今回のテーマです。スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETALのコメント欄で述べましたこと、長州、そしてなにより杉家と西本願寺につきまして、私には、目から鱗の発見があったものですから、メモメモと。



 大正三美人の歌人で、柳原白蓮と同門で友人の九条武子男爵夫人です。
 明治20年(1887年)生まれで、白蓮より二つ下。渡欧経験があり、洋装も板についています。



 なぜ、この美女が出てくるかと言いますと、彼女は大谷伯爵家の令嬢、つまりは西本願寺21世法主、大谷光尊(明如上人)の娘で、仏教婦人会(西本願寺信徒の婦人会)を創設して本部長となり、仏教理念に基づく女子教育を推進して、現在の京都女子大学を創設した人でして、若い頃から家族ぐるみで熱心な西本願寺信徒だった松陰の妹・杉文さん、楫取美和子男爵夫人と、年の差(44年の差です)を超えた親交があったようなのですね。



 以前にご紹介しました「男爵 楫取素彦の生涯」の中に、香川敬氏著「鞠生幼稚園と楫取素彦」という論文が収録されているのですが、これによりますと、防府にあります浄土真宗本願寺派(西本願寺系)の寺が、楫取素彦の多大な賛助を得て、明治25年に仏教系日本最古の幼稚園を創設しましした。
 そのお寺の住職の孫が楫取家に嫁ぐ、というような縁もあったそうですが、はっきり言いまして、楫取素彦と浄土真宗の縁は、そもそもは、最初の妻・久子(寿子)、後妻・美和子(文)の杉家姉妹の熱心な信仰に影響されたものです。

 そんなわけで、その幼稚園には、楫取美和子男爵夫人死去に際して、九条武子男爵夫人が書いた手紙が残されていると、山本栄一郎氏からお教えいただいたのですが、これが私、さっぱり読めません!!!!!

 それはさておき、なぜ松陰の妹たちが熱心な浄土真宗の信徒だったかということを、簡単にご説明します。
 吉田松陰が、仏教を好んでいませんでしたことは、一番上の妹、千代への手紙にはっきりと書いています。
 松陰の実父、杉百合之助がそもそも神道一筋で、仏教を好んではいませんでしたし、杉家の菩提寺は、もともとは禅宗でした。
 ところが、松陰の母親の瀧と長男の杉民治(松陰の実兄)、そして千代、久、文の三人の娘たちは、熱心な浄土真宗の信徒だったんです。
 では瀧の実家が浄土真宗だったか、というと、そんなこともないようでして、瀧の実弟(松陰の叔父)は鎌倉の禅宗の名刹、瑞泉寺の住職になった人でした。

 つまりおかしなことなのですが、幕末長州において、家庭内で夫婦、親子の信仰がちがう、ということはけっこうあり、しかもそれは、家の宗教にしばられるものでは、なかったんです。
 同時代のフランスの宗教状況を、モンブラン伯爵はフリーメーソンか?で、以下のように書きました。
 「フランスで、本格的に、政教分離、公教育からの宗教(結局はカトリック)排除に取り組んだのは、第三共和制のジュール・フェリーなんだそうですが、この人がフリーメーソンなんです。
 モンブラン伯と同世代です。穏健なブルジョワの共和主義者で、伯父など、親族の男はフリーメーソン。
 父親は無神論者でしたが、母や姉は熱心なカトリック信者だったんだそうです」
 

 1871年(明治4年)、パリコミューンの原動力の一つだったのは、反カトリックのフリーメーソンです。
 家族のうち、女性はカトリック教徒で、男性は反カトリック教徒や無神論者、といいますような状況が、幕末維新期のフランスの家庭では、普通にあったんです。
 長州の状況は、これに似ていたと言えるかもしれません。

 フランス革命以降のフランスの宗教状況は、普仏戦争と前田正名 Vol8で、以下のように概説しております。

  フランス革命は、なにしろ王の首を斬り落とし、新しい秩序を打ち立てよう、というところまでいってしまいましたので、王を王たらしめていましたカトリック教会とも、当初、徹底した縁切りをするしかなかったんです。
 ジャン・ボベロ氏著、フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ)によりますと。
 アメリカは清教徒の国でしたから、その独立宣言には「創造主によって……侵すべからざる権利を与えられている」、「この宣言を支えるため、神の摂理への堅い信頼とともに、我らは相互に以下のものを約する」とありまして、人権をもたらしたのは神(God)なのです。
 一方、フランスはカトリックの国でしたから、「人権宣言の第三条は、主権(=至高性)を宗教から独立したものにしている。つまり、主権は国民から来るのであって、もはや神授権に与る国王は存在しない」ということなのです。
 カトリックは古い宗教で、司教が領主であったり、世俗の権力でもありましたから、そのカトリックを国の宗教としておりましたフランスでは、革命前から宗教の世俗化が進んでおりました。
 アーネスト・サトウ  vol1に書いておりますが、フランスにおきますカトリックは、いわば日本の葬式仏教に近いような状態で、アメリカの清教徒のようなプロテスタントの方が、はるかに信心深い場合が多かったわけです。
 とはいいますものの、それまで、それなりに社会を律していましたカトリックを、一挙に全否定してしまいますことには無理があり、ロベスピエールが権力を握りました時期には、ルソーのいわゆる至高存在を神のようなものととらえ、市民教という奇妙な宗教を作り出そうとする模索もありましたが、失敗に終わります。
 再びジャン・ボベロ氏によりますと、結局、フランス革命におきますライシテ(脱宗教性)は不完全で、矛盾をはらみ、非常に不安定な状況を生み出したのですけれども、その混沌を受け継ぎましたナポレオンは、ローマ法王とコンコルダート(政教条約)を結んでカトリック教会と和解しますが、「革命で得られたいくつかのことが安定したやり方で具体化されているし、市民と認められた人間(男性)の法の前での平等が達成されている。また、限界こそあれ、宗教と信条の自由がきちんと与えられている」というような、施策をとります。
 

 フランス革命時のカトリック教会打ち壊しは、明治維新時の廃仏毀釈を大規模にして、徹底させたようなもの、ということはできると思うのですね。
 江戸時代の仏教一般は、幕府の檀家制度によりまして、すっかり葬式仏教化し、世俗化の極地にあった、という点で、カトリックに似ています。
 広瀬常と森有礼 美女ありき3で書いておりますが、幕末、そういった仏教を非科学的だと批判し、蘭学にシンパシーを示していたのが国学です。
 吉田松陰の仏教に対します批判も、なにより「迷信で人心を惑わす」というところにあったのですが、それはなにも松陰が言い出したことではありませんで、長州では、村田清風の著作において、すでに強く唱えられていました。
 そもそも江戸時代後期におきましては、耕すことも作ることもしない非生産的な僧侶が、檀家制度に甘えて堕落しているというような仏教批判が、かなり一般的になっていまして、まあ、これは、革命前のフランスのカトリック批判と似たようなものであったわけです。

 村田清風は、もちろん「一向(浄土真宗)の僧赤き旗を立、下にをれをれと在々経まわして金銀をむさぼる事あり。油断大敵なり」と、浄土真宗をも嫌っていたのですが、しかし一方で、「浄土一向の坊主も、戒律を持ち御国恩を知る者は、雇うて五常の道(仁義礼智信)を説きさとすべし、国の故に因る一術なり」とも述べてもいます。

月性―人間到る処青山有り (ミネルヴァ日本評伝選)
海原 徹
ミネルヴァ書房


 実は、上、海原徹氏の「月性―人間到る処青山有り 」に、幕末長州における浄土真宗が、詳細に解説されているわけなのですが。

 幕末、文化露寇、フェートン号事件、アヘン戦争など、対外危機を意識せざるをえない事件が続き、近海に黒船が出没して、許可無く外国人が日本に上陸する事も増えて参ります。
 そんな中で、海岸線の長い長州の為政者は、改革派の村田清風を中心としまして、強い国防意識を持ったわけなのですが、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に書いておりますように、長州の士族はわずか3000戸で、薩摩の43119戸にくらべましたら、十分の一にも足りない人数です。しかも彼らはほとんど役人化していますし、士族が国防を担える状態では、なかったんですね。

 それで、清風が考えましたことが、庶民の間にもっとも溶け込んでいる浄土真宗の僧侶を雇って、国防の危機を訴えてまわらせるべきだ、ということでした。
 士族だけではなく、防長の民衆のすべて、女性までもが、国を守るためならば、死を覚悟して、無断上陸してくる黒船の外国人と戦うべきで、極楽浄土を望む信徒はそうすべきなのだ、という説教を、浄土真宗の僧侶にさせようとし、そして実際、長州ではそれが現実となります。

 つまり、このような下地がありましたから、長州ではいち早く、奇兵隊のような、一応、身分を問わないことを前面に押し出した軍隊ができたのですし、案外知られていないことですが、久坂玄瑞が下関の攘夷戦で率いました光明寺党は、そもそも浄土真宗の寺・光明寺で結成され、僧侶が参加していましたし、奇兵隊にもそれは引き継がれ、名が知れているところでは、第二奇兵隊の指導者の一人でした大洲鉄然が、浄土真宗の僧侶です。
 
 そもそも、です。
 安政の大獄で刑死しました松陰が、早い時期から討幕思想を持ったにつきましては、安芸広島藩の宇都宮黙霖と、周防(現在の柳井)萩藩領の月性という、二人の浄土真宗の僧侶の影響が強かったことは、従来から、言われていたことです。
 なぜ尊皇討幕が唱えられたか、と言いますと、黒船出没の中、国防のためには、皇室を中心とする中央集権化を実現して、日本中が一丸となることが必要!!!ということなんですから、結局は藩もじゃまでして、究極、幕藩体制の否定、士族の既得権の否定というところへ行き着いてしまい、こういった発想は、幕藩体制からはみだした僧侶だからこそ、可能でした。しかし、発想は可能でも、為政者の士族が目覚めなければ実現は不可能ですし、まがりなりにも士族の一員であります松陰が、早い段階で、国防のための討幕を唱えたことこそが長州を火だるまにし、めぐりめぐって維新が実現したわけです。

 文久2年(1862年)の正月、武市瑞山の使者として萩を訪れました坂本龍馬に、久坂玄瑞が「尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」と記した書簡を渡したことは有名ですが、それは結局、浄土真宗の大きな影響の元に、松陰から久坂へと、受け継がれた信念なのです。



 松陰に月性を引き合わせましたのは、実は実兄の杉民治でして、杉民治の月性宛書簡は、幕末残照・周防紀行でご紹介しました柳井の月性展示館に収蔵されているようです。写真を撮らせてもらいに行くべきなんでしょうかしら、ふう。

詩吟「将に東遊せんとして壁に題す」釈月性


 月性の有名なこの漢詩は、松下村塾でも愛唱されましたが、月性と親しんでいたのは、仏教嫌いの松陰ではなく、実は母親の瀧と娘三人、長男の民治でした。

 なぜ長州藩に浄土真宗の信徒が多かったかにつきましては、戦国時代からの縁があります。

村上海賊の娘 上巻
和田 竜
新潮社


 上のベストセラー小説が描いておりますが、村上水軍を筆頭とします毛利配下の水軍は、こぞって、石山合戦で本願寺側について戦っております。
 で、その水軍の多くは、後に伊予の本拠地を追われ、長州藩領に住み着いて御船手組となったり、移住した者も地元に残った者も、帰農(漁)したり、あるいは水運業に携わったりもしたのですが、安芸から周防にかけての瀬戸内海の島々、海岸線には、非常に浄土真宗の信徒が多いんですね。

 浄土真宗が他の仏教とちがいますところは、江戸時代、葬式仏教になってしまっていませんで、葬儀や墓にはこだわらず、なによりも救いを求める庶民たちに答えて、ただただ阿弥陀様に祈れと、わかりやすい救いを提示することを重視し、村々に説教師を派遣していたことです。
 当時はまだ、医学も今のように発達していませんし、子供や若者の病死による死別の苦しみ、あるいは生まれながらの障害、難病でハンデを背負った苦しみなど、人間の力ではどうにもならない苦難に、押しつぶされそうになることも多かったでしょう。わけても、子供を産む女は、幼子を亡くしたり、子供の障害に思い悩んだり、ということが、ごく普通にあったわけでして、杉家の女性たちも、それに無縁ではありませんでした。
 
 さらに、近代のフランス女性たちが、男たちよりもカトリック信仰に熱心だったにつきましては、女性単身での社会活動が一般に封じられていました中で、カトリック教会の公共活動には、堂々と女性が参加できたから、ということがあった、といわれます。
 それは、幕末の長州もいっしょなのです。
 浄土真宗の説教師たちが村々をまわり、その寄り合いには、女性たちも堂々と参加できましたし、攘夷戦から幕長戦争の時期には、萩の浄土真宗の婦人たちがパトロン隊を結成してパトロン(前装銃の紙薬莢)を作り、男たちの戦闘に協力しました。もちろん、その中心には瀧、千代、久、文の杉家の女性たちがいたわけです。

 久(寿)さんは、維新後に夫の楫取素彦が買いました二条窪の荘園や、楫取素彦が赴任しました群馬県で、熱心に浄土真宗の教えを広めましたし、楫取の後妻に入って男爵夫人となりました文(美和子)さんは、その晩年、防府で幼稚園、萩で女学校と、浄土真宗の教えに基づく教育に、尽力したようです。

 文さんよりは十数歳年下なんですが、鹿鳴館のハーレークインロマンスで書きましたトネ・ミルン(堀川トネ)は、西本願寺函館別院の住職の娘で、後の森有礼夫人・広瀬常とともに、開拓使女学校で学んでいます。



 写真の左端がトネ・ミルン、中央が大谷籌子(九条家から嫁いだ大谷光瑞夫人で、九条武子の義姉)、右端が九条武子で、イギリスでの写真です。
 籌子は幼い頃から大谷家に引き取られ、武子と実の姉妹のように育てられ、武子ととともに、浄土真宗婦人会の中心となって力を尽くしました。

 数ある仏教の中で西本願寺は、長州とのつながりもありまして、もっとも維新を歓迎し、新しい仏教の形として、西洋におけるキリスト教のような存在となることを模索しました。
 それに成功したとは言いがたいのですが、進取の気性に富んでいたことは確かです。

 現在の日本史は、宗教史を無視しすぎていると、いま私は思っています。
 私自身、今年に至るまで、浄土真宗が維新に与えた影響など、ろくに考えたことがありませんでしたし、我が家は真言宗ですが、ろくに信仰心を持ったこともありません。
 しかし、世界的にはイスラム国の問題がありますし、日本でもオウム真理教をはじめ、新興宗教の問題の種はつきません。
 既成の宗教を徹底的に貶めたという点で、ソ連にはじまります共産党独裁政権の無神論も、これまた一種の新興宗教でしょう。
 結局人は、宗教無くして暮らしていけるものではなさそうでして、もうちょっとこの話を掘り下げてみたい気もしますし、九条武子さんの生涯にも、なかなかに興味深いものがあるのですが、長くなりましたので、またの機会にいたします。

 追記 鞠生幼稚園に残っています九条武子さんの手紙ですが、山本氏の解読が進んでおられるようでして、お文さん(楫取美和子)死去に際したものではなく、楫取素彦死去に際したものだったらしい、とのこと。義姉、大谷籌子の死去の衝撃も書かれているようでして、ご研究の進展を楽しみに待つこのころです。


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