郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

普仏戦争と前田正名 Vol5

2012年01月13日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol4の続きです。

 大佛次郎氏の「パリ燃ゆ I」をじっくり読んでみまして、「巴里の侍」 (ダ・ヴィンチブックス)の月島総記氏がどのように誤読なさったかは、なんとなくわからないでもないのかな、と思いもしたのですが、それにいたしましてもすさまじい誤読です。
 ぱらぱらっとめくって目についたところだけでも、まだまだ多数あります。

 ウィサンブールは原野の丘じゃなく、鉄道が停車する街だから!!!というあたりはまだしもこう、誤読の経緯の見当がつかなくもないのですが、ウィサンブールの戦いの折りの「大本営」とやらは、セダン(スダン)ではなくメスでして、ウィサンブールの戦いの敗残兵が翌日にセダンに逃げこむって、ありえんでしょ!!!と、このあたりはどうなんでしょうか。
 「パリ燃ゆ」にはちゃんと「メェッスに置かれた大本営では」とあって、こうなってまいりますと、「あーた、ほんとに読んだの???」と聞きたくなります。
 とりあえず、地図で地名をひろってみましたので、ご参照のほどを。

 Googleマップ 普仏戦争
 
 要約が下手というより、読解力がなさすぎなのかどーなのか、大佛次郎氏に失礼です。
 普仏戦争について、日本語で書かれた本は少ないのですけれども、うまい要約でしたら、鹿島茂氏がしてくださっています。

 
怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史 (講談社学術文庫)
鹿島 茂
講談社


 上の本から引用です。

 八月二日、両軍はザーレブリュック(ザールブリュッケン)で最初の衝突をした。敵軍の機先を制するつもりでナポレオン三世がプロシャ領内のザーレブリュックの攻撃を命じ、プロシャ軍を町から撤退させたのである。この「勝利」の知らせはパリで大きく報じられた。
 八月四日にはまずプロシャ領内のヴィセンブルク(ウィサンブール)でアベル・ドエー将軍率いるフランス軍部隊が皇太子カイザー・ヴィルヘルム二世の率いるプロシャ軍に蹴散らされ、六日には、ロレーヌのフォルバックでフロサール軍がフリードリッヒ・カルル王子麾下のプロシャ第一軍に、またアルザスのレショーファン(ライヒショーフェン)ではマクマオン軍がフリードリッヒ・ヴィルヘルム王子率いるプロシャ第三軍に、それぞれ急襲されて大敗北を喫し、退却を余儀なくされたのである。こうして、アルザスとロレーヌはプロシャ軍に占領され、第一次世界大戦までドイツ領となるのである。
 この大敗北をメッスの総司令部で知ったナポレオン三世は、絶望のどん底に突き落とされた。総司令部の将軍たちは、辛うじて退却に成功したフロサール軍とマクマオン軍を一カ所に集め、反撃を用意すべきだとしたが、ナポレオン三世は遠方のシャロンまで思い切って後退し、その地で予備役軍と合流し、パリ防衛のための強固な軍を再組織すべきだと考えた。


 文中、ヴィセンブルク(ウィサンブール)をプロシャ領となさっている点は、私が見ました普仏戦争の地図では、フランス領アルザスになっていまして、ちょっと疑問符をつけておきます。1801年、ナポレオン一世とローマ教皇の間で結ばれましたコンコルダート(政教条約)以前は、ドイツ諸国側のシュバイエル司教区管轄だったそうですが、第二帝政期にはどうだったのでしょうか。

 ともかく開戦当初、フランス軍とプロシャ軍は、アルザスとロレーヌの二カ所でぶつかります。
 フランス軍もドイツに侵攻する気がなかったわけではないのですが、不手際が重なり、結局、防御陣をしいてドイツ軍を待ち受ける形になるのですが、それが、ロレーヌのティオンヴィル(メス北方で国境を越えればルクセンブルク)を中心とした地域から、アルザスのベルフォール(ストラスブールの南で国境の向こうはスイスのバーゼル)まで、二百キロを超えるドイツ圏国境線に、20万人をばらまいたんですね。
 このことは、「パリ燃ゆ」にも「(フランス軍)敗北の主たる原因は二百六十キロに渡る国境線に軍を散開させたに依るものとされた」と、ちゃんと書いてあります。

 アルザス、ロレーヌは、もともとはドイツ語圏でして、アルザスは17世紀半ば、ロレーヌは18世紀半ばにフランス領となりました。しだいにフランス文化が浸透し、同化してはいたのですけれども、隣接しますドイツ語圏との関係も濃く、ドイツ人が親戚を訪ねたり、あるいは出稼ぎや取り引きに出向くことも多々ありましたので、いても目立ちませんし、プロシャは早くから多数のスパイを放っていたんですね。
 一方のフランスは、挑発されて、国民が熱狂してしまい、政府が戦争をするしかない状態に追い込まれての開戦。なんの準備もなく、士官、将官さえ、ろくに戦場の地図ももっていない状態だったと言います。

独仏対立の歴史的起源―スダンへの道 (Seagull Books―横浜市立大学叢書)
松井 道昭
東信堂


 松井道昭氏は、近代フランス社会経済史がご専門の先生で、大佛次郎記念館の嘱託研究員もなさっておられた方だそうです。この本は、ヨーロッパ史の中における普仏戦争開戦までのドイツ・フランス関係史を、わかりやすくまとめてくださっていますが、普仏戦争開戦時の状況について、以下のように述べておられます。

 準備万端整った国と不用意に挑発に乗ってしまった国との勝負では、実力以上の差が出てしまうであろう。しかも、戦争の大義はドイツ側にあった。ドイツは国家統一の達成という目的を掲げていた。対するフランスはそれを妨害することによって、綻びの目立つ帝政を繕うという目的を持っていた。だれの眼にも、燦然と輝く大義と、手前勝手で見栄えのしない大義とのコントラストと映った。

 兵力に歴然たる差があった。動員・装備・訓練・指揮のいずれをとってもドイツ側に一日の長がある。動員令が発令されると、ドイツ軍の総数五〇万人は四軍体制でもって記録的なスピードで所定の配置につく。鉄道が彼らの迅速な行動を保証した。全軍は、国境突破せよという命令を今や遅しと待つ。
 対するフランス軍は最初から混乱状態に陥る。正規軍は部隊編制不十分なまま闇雲に国境をめざすが、鉄道ダイヤはないも同然で時間を空費する。いざ部隊が目的地に着いてみると、兵器も弾薬も糧食も届かず、おまけに指揮官さえ到着していないという有様であった。予備役軍にいたってはめいめいが装備を整えたうえで市町村役場に出頭し、ここで命令書を受け取って目的地に向かう。鉄道便のあるところは、それを利用するが、それがないところでは歩いて行かざるをえない。ともかく七月中に動員された兵力は二五万人にしかならなかった。作戦計画はないも同然だったから、スイス国境に近いバールからルクセンブルクまで兵士を漫然と薄く並べたにすぎない。


 松井道昭氏は、普仏戦争について、詳しくブログに書いてくださっています。近々、本にされるそうで楽しみに待ちたいと思いますが、こんなに詳しいものをiPadで読ませていただけるとは、これだけでも幸せです!

 松井道昭氏のブログー普仏戦争

 松井氏のブログも参考にさせていただいて、アルザス、ロレーヌの大敗北以降を簡単にまとめますと、絶望したナポレオン三世は、バゼーヌ元帥に総司令官の地位をゆずり、軍を二つにわけます。アルザスにいた軍を中心とするマクマオン軍と、直接バゼーヌが率いる18万もの精鋭軍と、です。
 ナポレオン三世の当初のつもりでは、バゼーヌ軍もシャロンへ、ということだったのですが、結果的にバゼーヌ軍はメスに釘付けにされてしまいます。

 一方、ナポレオン三世とマクマオン軍はシャロンで、パリからの援軍と落ち合います。
 アルザス、ロレーヌ敗戦の報が届いたとき、開戦内閣は総辞職となり、太平天国の乱で活躍したパリカオ(八里橋)伯爵ことモントーパン将軍が、戦時内閣の首班となっていたのですが、なまじ軍人であったばっかりに、この人が摂政ウジェニー皇后といっしょになって、パリからマクマオン軍を指揮しようとするのですね。
 シャロンは守りに向いた地ではなく、皇帝はマクマオン軍とともにパリへ帰って防衛するつもりでした。しかし、パリカオはそれを拒み、メスへ帰ってバゼーヌ軍と合流するように要請します。
 結局、2万の軍だけをパリへ帰し、残り13万のマクマオン軍と皇帝は、メスへ向かうこととなりました。
 あげくの果てに、プロシャ軍にはばまれてメス方面には行けず、セダンに追い込まれ、袋の鼠になったというわけです。

 前回、エミール・ゾラの「ナナ」 (新潮文庫)のラストに、普仏戦争開戦の日のパリが描かれている、とお話しましたが、ルーゴン=マッカール叢書の最後を飾る19巻「壊滅」は、時期的にはこの直後、アルザス防衛の最前線から話がはじまります。当時を生きたジャーナリストのゾラが、綿密な取材を重ねて普仏戦争とパリ・コミューンを描いていますから、非常なリアリティがあり、大佛次郎氏も、資料として「パリ燃ゆ」で使っておられます。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 主人公は、開戦直後、アルザス南端、ベルフォールにいましたフェリックス・ドゥエ将軍率いる第七軍団第二師団に属する、二人の兵士です。
 ジャン・マッカールはナナの叔父にあたり、実直な農民です。
 1859年、イタリア統一戦争に際して、フランスが統一を志すサルデーニャ王国に味方してオーストリアと戦ったソルフェリーノの戦いに、一兵卒として従軍していました。妻を亡くし、土地を失ったちょうどそのときに、戦争が始まるという噂を聞き、39歳にして志願しました。10年前の従軍経歴により、伍長になっています。

 モーリス・ルヴァスールは、セダンに近いシェーヌ・ポピュール(ル・シェーヌ)の出身で、祖父はナポレオン一世軍の英雄でした。
 父親は収税役人でしかありませんでしたが、モーリスを法律の勉強のためパリに遊学させます。
 しかし、若いモーリスは、帝政バブルのパリで放蕩の限りをつくし、父親は全財産を亡くして死にます。
 モーリスには、アンリエットという双子の姉がおり、弟を案じておりましたが、一文無しになりながら、スダンの織物工場の監督になっているヴァイスという好青年と、恋愛結婚をしていました。
 二十歳にして、実家を破産させるという不名誉を背負ったモーリスは、熱狂しやすく、そして感じやすいインテリです。
 当時の進歩的な思想でありました進化論にのめりこみ、戦争は国家の存亡のためにやむをえない必然的なことだと、信じていました。
 以下、引用です。

 大きな戦慄がパリを震撼させ、狂乱の夜が再び出現し、通りは群衆や松明を振りかざした団体群であふれ、「ベルリンへ! ベルリンへ!」と叫び立てていた。市役所の前で、女王のような顔をした大柄な美人が御者台に立って旗を振りながら、「ラ・マルセイエーズ」を歌っているのがずっと聞こえてきた。だからパリ自体が熱狂の中にあった。

 このパリの熱狂にかられてモーリスは志願し、一兵卒となりますが、一兵卒として経験する軍の現実、つまり垢にまみれて悪臭がし、教養もない(読み書きができないものも多数)粗野な兵隊仲間とのつきあいや、機械的で体は疲労し、頭は鈍くなる一方の訓練が、彼をうんざりさせます。
 それでも、部隊が汽車でベルフォールへ出発するときには、勝利を確信して、再び熱狂がモーリスをつき動かしたのです。
 ところが、です。

 すべての物資をまかなうはずであったベルフォールの軍事倉庫は空になっていて、悲惨極まりない欠乏状態に追いやられてしまった。テントもなければ、鍋もない。フランネルの腹帯も、医療行李も、馬の蹄鉄も足枷もないのだ。一人の看護兵もおらず、また一人の兵站担当者もいなかった。最近になって、銃撃戦に欠くことができない小銃の予備品が三万挺も紛失しているのに気づき、そのために一人の士官がパリへ派遣され、かろうじて何とか五千挺を工面して持ち帰ったと判明したばかりだった。

 というような状態でして、しかもフェリックス・ドゥエ将軍には、味方の他の軍団がどうしているのか、敵はどこにいるのか、さっぱりもってなんの情報も、入ってはきませんでした。これはなにも、この軍団に限ったことではありませんで、二百キロを超える国境線に散在した20万人のフランス軍団の連絡は、まったくもって上手くいってはいなかったのです。
 これもまた、どこもがそうだったのですが、なにもかもが足らず、予定の人数もそろわないベルフォールで、無為に二週間の時が流れます。
 そして、8月3日に突然、前日のザールブリュッケンの勝利が熱狂的に伝えられ、二日後、ウィサンブールの部隊がプロシャ軍のふいうちをくらって全滅との知らせ。
 
 地図を見ていただければわかるのですが、ベルフォールの東方、アルザスとバーデン大公国(南ドイツ連邦国でプロシャと同盟)の国境は、ほぼライン川の流れと一致します。この国境にそって、フランス・アルザス側の大きい都市はミュルーズで、バーデン大公国側はフライブルク(関係ないですが松山の姉妹都市です)。
 郡長から急報があり、プロシャ軍がライン川を渡ってきて、マルコルスハイムに向かっている、とのこと。
 ジャンとモーリスが属するベルフォール軍は、あわててミュルーズへ張り出すことになり、ろくに食料の準備もなく強行軍です。
 ようやっとたどりつき、ミュルーズから2キロの郊外で野営し、さあ戦うぞ!と意気込んでいましたところが、今度はまた突然、来た道をベルフォールへ退却。
 フランス軍の敗報が次々に伝わってくる中、マルコルスハイムとは別のプロシャ軍の部隊が、ミュルーズの南方、フニンゲン(エフリンゲン=キルヒェン)でライン川を越えて、アルトキルシュへ向かっているとの知らせがあり、このままではベルフォールへの退路を断たれて孤立してしまう、という不安から、一発も弾を撃つことなくの退却となったわけでした。

 パニックに陥ったのは、この地方の住人です。
 自分たちを見捨てて、フランス軍が引き揚げていくのです。一発の弾も撃つことなく。
 土地に愛着を持つ農民は、逃げるわけにもいかず、踏みとどまっていました。
 虚ろな目で、退却する兵士たちを見つめる農民のそばに、まだ若いその妻がいて、その腕に一人、そのスカートにすがる一人の子供とともに、泣いていました。
 しかし、背が高くてやせたその家の祖母は、怒っていました。
「卑怯者! ライン河はそっちじゃないぞ……ライン河は向こうの方だ。卑怯者、卑怯者め!」
 老婆の罵声に、自らも農民であるジャンは、目に大粒の涙を浮かべます。
 
 一見、水と油のようなジャンとモーリスは、負け戦の中で無二の親友となって、衝撃の結末を迎えることになります。
 
 えーと、話が正名くんまで行き着きませんでしたが、正名くんもモンブラン伯爵も、ジャンとモーリスと同時代のパリで、生きていたんです。
 次回に続きます。

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