郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

薩摩ボタンはだれが考えたのか???

2008年11月14日 | モンブラン伯爵
 またまたまたまた、脱線します。
 実は、近々、大先輩のお誘いで、鹿児島へ、桐野利秋のお墓参りに出かけます。
 で、指宿にも行きますので、モンブラン伯爵が作った薩摩琉球国勲章を所蔵する薩摩伝承館を訪れようと、サイトを見ておりました。
 ここのミュージアムショップに、「薩摩ボタン」というグッズがありまして、薩摩焼なのは一目でわかりますが、うかつにもなににつかうものか知らずに???となって、検索をかけてみました。

薩摩ボタン オフィシャルウェッブサイト

 なんと、洋服につける、あのボタンだったんですね。薩摩伝承館のショップに置いているのは、下の方の作品のようですが。

薩摩志史-薩摩ボタンからSATUMAまで

 で、その起源については、大方、「薩摩藩が討幕の軍資金を作り出すために」、つまるところ、「幕末から御用窯で」ボタンを作って海外に輸出した、とされています。
 うー、一個一個の手作りボタンで軍資金がかせげるほど、海外交易も甘いものではなかったろうに、という気がしまして、伝説の域を出ない話のようにも思います。
 実際、ウェッブで輸入アンティーク雑貨ショップや海外のオークションサイトを見る限りにおいては、現在手に入るアンティーク薩摩ボタンは、ほとんどが20世紀に入ってのもののようなんです。とはいえ、これも当然、時代がさかのぼればさかのぼるほど貴重なのでしょうし、幕末のものは、あってもなかなか出てこない、とは考えられますし、幕末から作られていた可能性も、もちろん、ないわけではないでしょう。
 

アンティークボタンの世界
萩塚 治子(エテルニテアンティーク主宰)署
柏書店松原

このアイテムの詳細を見る


 上の本には、6ページにわたって薩摩ボタンが紹介されていますが、確かに「19世紀後半」といわれるものは、絵付けが非常に丁寧で、黒と金のふちどりなど、薩摩で焼かれた初期SATUMAっぽい雰囲気がうかがえます。とはいえ、なにしろボタンですから、銘が入れてあるわけでもなく、幕末から作られていた確証はなさそうなのです。
 どうもこれは、薩摩焼全体について調べてみる必要がありそうだと、下の本を読んでみました。


世界に翔けた幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼―薩摩焼発祥400年記念出版

 なんとも無知な話なのですが、私、本来の薩摩焼と、海外輸出されたSATUMAについては、わけて考える必要があることを、よくは存じませんでした。
 京薩摩、などといった言葉は、聞いたことがあり、明治になって、海外輸出用に京都でも、薩摩焼の意匠をまねたものが作られた、というような話は、ぼんやりと知ってはいたのですが、京都SATUMAだけではなく、大阪SATUMA、神戸SATUMA、名古屋SATUMA、金沢SATUMA、東京SATUMA、横浜SATUMAなどなど、薩摩焼の意匠をとり入れてSATUMAの名で海外輸出した窯が、明治以降、全国各地にあったとは、ちょっとびっくりしました。
 こうなってきますと、明治以降の薩摩ボタンなぞ、あるいは横浜や神戸で作られていた可能性の方が高いのではないか、という気がしたりするのですが、どこかに、薩摩ボタンの歴史を詳しく調べた方は、おられないものなのでしょうか。

 なにはともあれ、上記の本から、SATUMAの起源、つまり薩摩焼が海外輸出されるようになった状況について、簡単にまとめてみます。
 私が漠然と、以前にどこかで読んだ話では、です。薩摩焼の海外輸出を考えたのは、島津斉彬で、安政2年(1855年)、磯窯(御庭焼といわれる御用窯)に、苗代川(朝鮮陶工たちの郷士村)から朴正官を招いて指導させ、西洋顔料も導入された、という話だったんですが、この窯は、文久3年(1863年)の薩英戦争で破壊されてしまいますし、なにしろ御庭焼で、いわば超高級品ですから、果たして実際に輸出されていたのかどうか、疑問のようです。といいますか、もし輸出されていたにしても、ごくわずか、見本品程度だったんじゃないんでしょうか。

 SATUMAの名がヨーロッパに知れわたったのは、どうも、慶応3年(1867年)のパリ万博において、つまりモンブラン伯爵がプロデュースして、薩摩琉球国名義で幕府に喧嘩を売ったパリ万博、ですが、朴正官作の白薩摩錦手花瓶を出品して、好評を博してからのようです。
 明治6年(1873年)のウィーン万博は、すでに廃藩置県の後で、薩摩にも民営窯ができていました。苗代川、沈壽官の玉光山窯です。ここからウィーンに出品された白薩摩錦手花瓶が、またも大好評で、SATUMAの名は決定的になり、各地で、白薩摩錦手の趣向が大々的に取り入れられるようになったのは、このころからのようです。

 で、慶応年間から明治4、5年ころまでの初期のSATUMA、もしも「討幕の軍資金作りに薩摩ボタンを輸出」という伝説に可能性を見るなら、この時期のはずなのですが、どうも、この時期に輸出品を作った可能性の高い薩摩焼の窯は、磯でも苗代川でもなく、主に川内の平佐城主・北郷久信が力を入れた平佐窯、であるようなのです。
 なんと、町田清蔵くんの養子先!!!じゃないですか。
 しかも、その平佐窯に、「慶応2年(1866年)、フランスの貿易商コント・デ・モンブランが来航した」という語り伝えがあるそうなのです。慶応2年はちょっとありえないのですが、翌慶応3年、あるいは翌々明治元年から2年にかけてならば、あっておかしくない話です。

 川内港は、東シナ海に面した薩摩北部にあり、その港からおよそ14キロ上流の平佐窯が、長崎からの輸出を意識して、大きくてこ入れされたのは、慶応元年(1865年)のことです。伝統ある長崎(大村藩)長与窯から陶工を招き、特殊な顔料を使って、三彩なども焼くようになったようです。窯の跡は残っているのですが、薩摩藩の改革、廃藩置県と続いた維新後の激動で、早くに廃止され、しかも北郷家の資料は、大正8年の火災ですべて焼け失せたそうでして、どんな陶器を輸出したのか、詳しくはわかっていないのです。

 しかし、慶応元年に輸出を志した薩摩の窯が、パリ万博に関係していないはずは、ないはずです。
 町田兄弟の末弟、町田清蔵くんについては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1vol2で、後年の回顧談を詳しく紹介しております。
 ただ、この回顧談、はるか後年のものの上に、町田清蔵くんとパリス中尉でも書きましたが、帰国後のことはつけ足しであったらしく、年月日をそのまま受け取りますと、慶応2年に帰国して、戊辰戦争がはじまるまで、一回も薩摩に帰らないで長崎で過ごした、という、なんとなく変なことになってくるのです。
 で、私、先に書きました巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2の最後では、勘違いしてしまい、維新前に薩摩に帰ったことにしてしまっております。

 清蔵くんは、渡欧以前から、北郷家に養子に入ることが決まっていたようでして、慶応2年の秋には、パリから長崎へ帰っていたことは、確かなことです。
 だとすれば、翌年のパリ万博をめざして、どういうものがヨーロッパで売れそうなのか、北郷久信が、養子になる約束の清蔵くんを平佐窯に招いて、聞いたりすることは、十分にあるんじゃないでしょうか。あるいは、陶工を長崎にやって、清蔵くんの話を聞かせる、ということも、ありえるでしょう。
 薩摩ボタンを思いついたのは、町田清蔵くんではないだろうかと、ふと、思ったりするのです。もちろん、パリ万博がすんで後に、清蔵くんが、モンブラン伯爵を平佐窯に案内したということは、かなりの確立でありそうなことですし、モンブラン伯爵が薩摩ボタンを思いついたという線もありかなあ、とも想像します。
 いずれにせよ、平佐窯が得意とした三彩は、フランスの植民地だったベトナムの港が中継貿易港で、つまりフランス人は、三彩を好んだらしいのです。モンブランが清蔵くんに連れられて、平佐窯を訪れ、輸出に手を貸したことは、かなり可能性の高いことのようです。

 薩摩ボタンの歴史について、詳しくご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。

 続きモンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???


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続編 モンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???
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寺田屋事件と桐野利秋 前編

2008年11月09日 | 桐野利秋
 実はここのところ、じわじわと腰痛が激しくなってゆきまして、ついに日常動作に支障をきたすようになり、病院にまいりましたところが、「りっぱな腰骨です! なんの異常もありません」と医者。「でも痛いんですけど……」と、力無く訴える私に、医者の宣告は「ぎっくり腰です。痛み止めとしっぷで様子を見てください」
 ああ、そうですか。これがぎっくり腰というものですか。
 というわけで、パソコンの前に座るのも少々苦痛だったりしたのですが、痛み止めとしっぷのおかげで、ましにはなりまして、かといって活発に動きまわりはできないわけですので、この際、たまっているブログ記事でも書こうではないか、と。

 忘れないうちに、アーネスト・サトウと龍馬暗殺で書きました、fhさまが松方日記から発見してくださいました桐野の動静、について、書きたいと思っていたのですが、これが、寺田屋事件に関係あり、でして、かなり面倒な記事になりそうなんです。で、まあ、勢いづけにまたまたなんですが、大河の「篤姫」への苦情を。

 まず一言。なんで、あそこまで似合わない小松帯刀の総髪にこだわるのか、ドラマの意図するところが、さっぱりわかりません。
 で、なんなんでしょうか、龍馬と帯刀だと自称する総髪コンビのあの気持ちの悪いかけあいは!!! 千秋くんと峰くんの下手くそな学芸会にしか見えません。
 だいたい坂本龍馬が、あんなアホなドリーマーなわけないでしょうがっ!!! 「海のかなたに行きたい!」って、あんたは「朝びらき丸東の海へ 」ナルニア国ものがたり (3)リーピチープかよっ!!! そういや、ネズミみたいな顔ではありますが。
 いや、東へ行きたいのか西へ行きたいのか知りませんが、あーた、ファンタジーじゃないんだから!!!
 
 すでに万延元年(1860年)には、小栗上野介が加わった遣米使節団の一行が、世界一周して日本へ帰ってきてますし(ちなみに咸臨丸はアメリカ西海岸までで引き返していますので、勝海舟は一周してません)、密航留学生も多いですが、慶応2年(1866年)には渡航が解禁され、続々と留学生やら芸人やらが海を渡り、薩摩藩はフランスを舞台に交易のあり方をめぐって、幕府と大喧嘩しているその時期に、つーか、そもそも当時の幕府の海外交易のあり方は、討幕の大きな要因ですのに、ただただ漠然と、「世界の海援隊ぜよ。海のかなたに行きたい!」って、あーた。
 「ねえ、ねえ、そこのポエマーなぼく。世界ってどこ? 海のかなたってどこ? 地球は丸いのよ。幸せは海のかなたの空遠く、じゃなくって、足下にあるかもっ! お船に乗って海のかなたをめざしたら、日本に帰ってきちゃうからね」と、頭なでなで、正気かどうか確かめたくなってしまうぼうやちゃんが、龍馬とは!!! 
 で、なんなんでしょうか。あの徹底した中岡慎太郎無視!!!は。
 もう、前言撤回、あんな気色の悪い、地に足の着かないふわふわドリーマーが小松帯刀だというのなら、小松帯刀の名が世に知れないままの方がましですっ!!! 

 と、ほとんど腰痛ストレス発散の罵倒大会になっておりますが、えー、実は今回苦情を言いたかったのは、もっとずっと以前の話でして、寺田屋事件の描き方です。つーか、「篤姫」にうんざりしはじめたのは、あのころから、でした。
 
 「篤姫」の寺田屋事件の描き方が、どう馬鹿馬鹿しかったのか、ですが、まずはこの事件について、わかりやすい解説書のご紹介から。

寺田屋騒動 新装版 (文春文庫 か 2-52)
海音寺 潮五郎
文藝春秋

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 なにしろ海音寺潮五郎氏の著作ですから、心情西郷隆盛より、とでもいうんでしょうか、西郷びいき気味な書き方ではあるのですが、事実関係はほぼ正確で、なおかつ、書簡文などは、すべて口語訳されていますので、非常に読みやすい文章です。

 で、「篤姫」での描き方のなにが私にとって不満だったか、といいますと、有馬新七など、寺田屋で上意討ちにあった突出組の存在を、薩摩藩のみの突出であったかのように描き、結果、西郷隆盛が島流しになったについては、久光との個人的軋轢のみをクローズアップし、あげく、ここがもっともうんざりしたところ、ですが、こともあろうに、有馬新七たちは久光に浪士取り締まりの手柄を立てさせるため、あえて逆らって討たれた!!!と、お口ボカーン、ギャグ漫画みたいな歴史改変をやらかしてくれたことです。なんとも………、笑うに笑えないおやじギャグを聞いた気分でした。
 
 なんでこんな珍妙な解釈をやらかしてくれるのか、つらつら考えてみますに、近年、ですね、戦前の「勤王史観」とでもいったものが否定されるあまりに、禁門の変で長州が敗退するまでの各藩の志士たちを「古いタイプ」として、彼らの尊王討幕論を「観念的なもので、現実性のない行き止まり論」であると、軽視といいますか………、軽視ならばいいのですが、無視してしまう傾向が強すぎるから、なんじゃないんでしょうか。

 確かに、実際の討幕は、薩長の下級武士、それも政治的には、薩摩の西郷、大久保、小松帯刀を中心とした討幕派の、きっちり外交を意識したプラグマティックな舵取りで実現しますけれども、です。薩長土肥の討幕派下級士族たちが、帝を君主とする新政府成立と同時に、自藩の藩主やら家老やらを脇に置いて、日本全体の舵取りの中枢におどり出たについては、それまでに積み重ねられてきた、身分を超え、藩を超えた志士活動による規制秩序のつきくずしがあったから、可能だったことなわけです。
 つまり、土佐の天保庄屋同盟が典型的な事象ですが、尊王思想によって、自らを天皇の直臣と位置づけたとき、下級士族も庄屋も農民も商人も、ひととびに藩の枠を超えて、藩主と対等な立場を得るわけでして、その帝を西洋近代的な君主に位置づけますと、帝の直臣はそのまま、すんなりと近代国民国家の一員に移行しうる可能性をもっていました。
 だからこそ、これまでにもたびたび紹介しましたが、土佐の庄屋だった中岡慎太郎の、以下の大攘夷討幕宣言が、生まれえたのです。

「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」


 とりあえず、寺田屋の惨劇が起こるまでにいたった当時の状況を、大まかにでも理解するために、薩摩突出組の中心になっていた有馬新七を追ってみましょう。

 新七は、西郷より三つ、大久保よりも五つ年長です。伊集院の郷士の家に生まれましたが、三歳の時、父が城下士の籍を買って有馬氏を継ぎ、加治屋町に移り住みましたので、西郷、大久保のご近所まわりとなりました。
 城下士の籍を買ったくらいですから、新七の家は、薩摩の下級城下士にしては裕福な方です。父親は、新七が7歳のときから、近衛家に嫁入った島津郁姫の付き人となって、ずっと京詰めでした。
 幼少期から学問熱心で、長じて崎門学派(江戸時代の体制維持思想であった朱子学に国学、神道的な要素を取り入れられ、反体制的な尊王思想となった儒学)に傾倒し、剣は薩摩固有の示現流ではなく、直心影流を学びました。
 19歳にして江戸に私費遊学。崎門学派の私塾に学び、その後、京都の父のもとに滞在して、近衛家に出入りするとともに、同じ崎門学派の梅田雲浜や、梁川星巌など、いわば京都のインテリ名士たちと交遊を深めます。

 こうして経歴を見てみますと、新七は、西郷、大久保にくらべれば、都会的で、洗練された素養を身につけていたようですね。反体制的な要素を持った学問の私塾に遊学、ということは、藩官僚としての立身出世は眼中になかった、ということで、最初から、藩の枠をはみだす可能性を身につけていた、ということでしょう。
 後に安政の大獄で獄死することになる梅田雲浜は、元は小浜藩士でしたが、度重なる藩政批判によって版籍を削られ、浪人の身で、諸国を遊説してまわった人です。
 新七もまた、「藩全体が勤王に邁進できない場合には、藩を離れて個人で勤王に励むべき」というようなことを、述べています。

 ペリー来航は、嘉永6年(1853年)、新七が28歳の時のことです。
 以降の大騒動は、それまで海に守られていた日本が、産業革命を経た欧米の蒸気船と砲の発達によって、周囲の海が攻撃の回廊と化してしまい、砲艦外交に対応する軍事力を、まったく備えていないことに気づかされたことで、巻き起こりました。
 なにしろ、です。江戸300年の太平は、幕府が諸藩の軍事力を削ぎ、押さえつけたことで保たれたのであって、幕府に卓越した軍事力があったわけでもなんでもありません。まあ、現代の世界に例えていってみれば、です。軍事力に関する限り、幕府は国連のようなもので、覇権国アメリカのようではなかったのです。しかし幕府は、国連のように強制力を持たないわけではなく、独裁機関でした。で、諸藩はさまざまな制約をかされ、軍縮をしいられていましたから、日本全体の国防力なぞ、ゼロに等しかったといえるでしょう。
 
 幕府は結局、翌、嘉永7年には、日米和親条約を結ぶことになります。
 征夷大将軍府である幕府が、夷敵(外国)の脅し(砲艦外交)になすすべもない、という状況は、それだけで幕府の権威を落としましたが、だからといって、この時点で、反幕府気運が芽生えたわけではありません。
 このときの幕府の国内的な対応は、なかなかに適切なもので、これは老中・阿部正弘の手腕だったのでしょうけれども、うるさ型といわれた水戸の徳川斉昭を筆頭に、福井の松平春嶽、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂など、親藩、外様を問わずに、見識のある大名を幕政に引き入れ、旗本から庶民にいたるまでに、外交に関する意見を求めましたので、いくら強硬な攘夷論者であっても、条約締結を認めた上で、国防を考えるしか道はないと、あきらめざるをえなかったのです。

 反幕府感情が高まったのは、阿部老中が死去し、保守派の井伊直弼が大老に就任して、斉昭ほか外様大名など、幕政改革派を遠ざけたときからです。
 それまでの幕府の独裁状態を保とうとするならば、たしかに幕政改革は、あってはならないことでした。しかし、井伊大老は大きな勘違いをしていたのです。幕府の権威が落ちたのは、幕政改革を許容しようとしたからではなく、砲艦外交になすすべがないことを、露呈したからなのです。なすすべがない状態をそのままに、改革を忌避してみても、不満が高まるだけでした。
 事は将軍後継者問題にはじまり、かならずしも単純攘夷派ではなかった改革派大名たちが、朝廷に働きかけたことで、安政5年(1858年)、アメリカに迫られて幕府が結ぼうとしていた日米修好通商条約に、孝明天皇は勅許を与えませんでした。
 勅許が降りないまま、大老は強引に条約に調印し、そして、安政の大獄を開始したのです。

 薩摩に帰り、結婚もしていた新七が、再び、京、江戸への遊学を志したのは、安政3年の暮れのことでした。ちょうど、篤姫が、将軍家定のもとへ輿入れした時期です。
 当時、西郷隆盛は、島津斉彬公の指示で、将軍後継者工作に動いていましたが、新七は藩とは関係なく、個人的に、内大臣・三条実万(実美の父)に、建白書を提出したりしています。この時点での新七は、王政復古による中央集権化を目標としながらも、将軍家が自ら朝廷の権威に服することを、思い描いていたようです。
 西郷とちがって、のんびりと物見遊山のように、諸処を旅行してまわり、富士登山にも挑戦していた新七ですが、安政の大獄がはじまり、藩主・斉彬公が国許で死去したことで、がぜん奮起しました。

 えーと、途中なのですが、長くなってしまいましたので、次回に続きます。
 
 
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ブーリン家の姉妹

2008年11月03日 | 映画感想
 書きかけの記事を多数かかえながら、またまた脱線しまして、「ブーリン家の姉妹」です。
 1日は映画が1000円で、たまたま土曜日に重なりましたので、行ってまいりました。

 ブーリン家の姉妹 公式サイト




 もともと、コスチュームプレイが好きですし、いまちょっと注目しているお話でもあったんですよね。
 えーと、この映画には原作小説「ブーリン家の姉妹 」がありまして、読んではないんですが、かならずしも史実に忠実な小説ではないようです。

 注目している、といいますのは、原作小説ではなく、ヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚の史実です。
 この結婚は、その後の大英帝国の礎となりましたイングランド国教会誕生のきっかけでしたし、二人の間に生まれたエリザベス1世は、大英帝国興隆の基盤を作った君主ですし、まあ、近代国家イギリスの源をたどればこの結婚にいきつく、という見方が、できなくもないわけでして。



 とりあえず、この件に関する私の歴史知識ですが、概略は知っております。ヘンリー8世と6人の妻、といった類の本は、複数読んだ覚えがありますし、アン・ブーリンとエリザベス1世については、他にもいろいろ読んだように思います。映画でいえば、ごく若い頃に、テレビ放映された「1000日のアン」は、見ました。しかし、忘れていることも多く、詳細には存じません。

 それにくわえて、なにしろ映画の題名が「ブーリン家の姉妹」。アン・ブーリンには、先にヘンリー8世の寵愛を受けていた妹(姉説が有力なようです)がいて、同じ男に愛された姉妹の葛藤を描く、というふれこみでしたから、さほど、歴史的な正確さを期待したわけではありません。
 
 で、結論からいいますと、ちょっと中途半端な映画になってしまっているのではないか、ということです。



 アン・ブーリンの妹、メアリーを演じるスカーレット・ヨハンセンの存在感は強烈です。
 この人の映画、「アメリカン・ラプソディ」「真珠の耳飾りの少女」を見ているだけでして、顔立ちをいうならば、くちびるが厚すぎて好みではないのですが、なんというのでしょうか、表情、目のみで語る押さえた演技をやらせると、見事な女優さんです。「真珠の耳飾りの少女」など、もう、この人なしにこの映画成り立っただろうか、と思ったほどでした。
 まあ、ですから、ひかえめでいて、実は芯が強いメアリー役はよく似合っていますし、その存在感で、ナタリー・ポートマン演じるアン・ブーリンを、食っています。
 顔立ちだけをいうならば、ナタリーの方が端正な美貌、いいかえるならば、きつい感じの美しさです。王に正式の結婚を迫って、国の宗教のあり方まで変えさせてしまい、本来、身分からいえばありえない王妃の座を勝ち取る、という、アンの気性の激しさに、ぴったりといえばぴったりで、演技が下手かといえば、そうでもないのですが、ともかく存在感が薄いんです。
 要するに、演技が単調なんでしょう。



 これは、シナリオと演出の責任だと思いますが、姉のアンは野心まんまん、はいいんですが、前代未聞の挑戦を企てたわけなのですから、この人にもこの人なりの心の揺れ、ひるみもあったはずですのに、成り上がりたい一直線、に描きすぎなのです。
 で、この人が必然的にかかわらざるをえなかった政治の部分については、実におざなりでして、ローマ教皇権の否定、というイギリス史上の大事件が、いともあっさりと片付けられています。ここらへんは、王の描き方にも、粗雑なものがあります。
 とすれば、です。いっそうのこと、はっきりとアン・ブーリンは脇役において、スカーレット・ヨハンセンのメアリーを、主人公にすればよかったのではないか、と思うのです。
 ところが、これが中途半端なところで、メアリーはアンよりも先に王に愛され、男の子を産むのですが(史実としては子はなかった説の方が有力です)、産んでから後、いったいその男の子がどうなったのかさっぱり描かれませんし(男の子が生まれて王が無関心って、ありえんですわね)、最初の夫が死んだことさえはっきり出てこないまま、最後の方で二度目の結婚をします。
 これでは、いったいメアリーがなにを考えて生きているのか、さっぱりわからないではありませんか。

 

 この映画の趣旨としては、姉妹の葛藤が描きたかった、ということで、そこはまあ、そこそこ描けている、とは思います。しかし、それを重んじるあまりに事実をまげて、かえって人間が描けていない、という感じを受けますし、その「時代」にいたっては、まったく描けていないでしょう。おかげで、妙に平板な映画になってしまっているのです。
 アン・ブーリンに関していえば、フランスにいた期間がたった2ヶ月って、あまりにありえない話ですし、処刑の理由としてあげられた姦通の相手が実の兄弟のみ、というのも、複数との姦通がでっちあげられた(あるいは全部が全部でっちあげではなかったのかもしれませんが)ことは、よく知られた事実ですので、どんなものでしょうか。
 話の簡略化は、映画化ではさけられないことではあるのですが、簡略の仕方がまずいのです。

 とはいえ、スカーレット・ヨハンセンのメアリー・ブーリンが見られただけでも、1000円の値打ちはありました。DVDを買おうとまでは思いませんが。

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