郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

近藤長次郎とライアンの娘 vol2

2012年11月30日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol1の続きです。

 「ライアンの娘」はなぜ、興行的に成功しなかった(デビット・リーンの大作映画にしては、ですが)のでしょうか。
 私、それはおそらく、アイルランド独立運動の光と闇の、その闇の犠牲者として、ヒロインを描いたためではないのか、と思うんですね。
 ヒロインは夢を見すぎで、地に足の着かない感じがあり、一方、独立運動に献身します村の人々は、排他的で粗野にすぎます。どちらかに一方的に、感情移入して映画を見ることは、むつかしいんです。
 普通に一般受けする物語、と言いますのは、主人公に感情移入して見ることができるもの、なのではないんでしょうか。
 
 まだ、わからないことが多いのですけれども、私、「近藤長次郎使い込み伝説」も、「中村半次郎(桐野利秋)龍馬暗殺伝説」と同じく、戦後もごく最近になって、作られていったものではないのか、と思います。
 そしてこれらの馬鹿げた伝説は、どうも、龍馬に実像が霞むほどの強烈な光をあてて巨大化させました結果、その龍馬を引き立るための脇役を、事実をまげて作り上げ、闇に引きずり落とす必要があった結果、生まれてきたものと言えそうです。
 千頭さまの奥様も、「龍馬に光があてられる反面で、長次郎は石をくくりつけられて沈められている気がする」とおっしゃっておられまして、この奥様の感慨は、150年の時を超えて届いた、過去からの声そのもののように聞こえます。

 実は私、近デジに『維新土佐勤王史』があることをつい先日まで知らずにいまして、ようやくいま、読んだのですけれども、これには決して、龍馬がユニオン号事件を解決したなどとは書いていない!んです。かなり正確に、以下のようにあります。
 「桜島丸(ユニオン号)問題の葛藤は、土佐同志と長藩海軍局員との衝突となり、延きて薩長両藩直接の交渉談判となり、その間に幾多の波乱曲折あり、遂に翌年丙寅六月に至りて、始てその局を結ぶを得たるが、彼の上杉は土佐同志の攻撃を受け、まさに海外渡航の素志を達せんとして、空しく長崎に自尽するに至る」

 うへー、どびっくりです。
 「ユニオン号事件は龍馬が解決した!」といいますのは、司馬さんが「竜馬がゆく」で創作した伝説、だったんでしょうか。

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司馬 遼太郎
文藝春秋


 さて、その『維新土佐勤王史』に行きつきますまでの「長次郎の死の原因」記述の歴史です。
 まずリアルタイムでは、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次諸 vol5」で書きました、薩摩藩士・野村宗七(盛秀)の日記(東大史料編纂所所蔵)です。皆川真理子氏の論文からの孫引きになりますが、再録します。慶応2年(1866年)1月23日、長崎における話です。

 野村のもとへ沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助が現れ、長次郎が「同盟中不承知之儀有之」自刃したと告げます。
 ちょうど、木戸が薩長同盟の条文をつづり、ユニオン号のこともどうぞよろしく頼むと、書いたその日です。


 つまり、近藤長次郎の死を見届けました沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助、社中の仲間にして土佐勤王党士の3人は、その日のうちに、長崎の薩摩藩士に、「同盟中不承知之儀有之」、つまり「薩長が同盟しようとしている中で、承知できないことがあったので」長次郎は自決したのだと、言っているわけですね。

 これが本当だったにしろ、嘘だったにしろ、です。
 薩摩藩士がそれを聞き、納得できる理由ではあったわけです。
 この知らせを、陸奥宗光が京都の小松帯刀に知らせ、西郷隆盛が桂久武に伝え、久武は「誠に遺憾の次第なり」と日記に書いております。

 長次郎が承知できませんでしたのはもちろん、長州が、長次郎と井上薫(聞多)がかわしました最初の約束を覆し、ユニオン号の乗組員をすべて長州人とし、長州が金を出すのだから長州海軍局で運用する、と言い出したことです。
 長州名義で船は買えませんから、名義は薩摩です。

 長崎県文化振興課のサイト「旅する長崎学」歴史探検コラム に、【長崎と坂本龍馬と船】その1 ワイルウェフ号の購入記録 というコーナーがありまして、以下のように書いております。

 安政の開港により、安政6年(1859)長崎・横浜・函館で貿易がはじまりました。輸出入品の取引は基本的には自由貿易でしたが、武器・艦船などの軍用品については例外規定がありました。日米修好通商条約の第3条には「軍用の諸物は日本政府の外へ売るへからす」とあり、日本政府(ここでは江戸幕府ということになります)を通してしか輸入できないきまりでした。この規定はアメリカ以外の諸国との条約にも盛り込まれています。そのため、長崎において各藩が外国商人から軍用品を購入しようとするときは、江戸幕府の出先機関である長崎奉行所を通してしか購入できませんでした。長崎での軍用品の取引については、安政6年以降、各藩が長崎奉行所に提出した購入願の綴りが残されています。

 つまり、朝敵となり、これから幕府が攻め寄せてくる、といいます窮地にいました長州は、他藩の名義を借りなければ、武器は購入できないわけです。
 それを見越しました坂本竜馬や中岡慎太郎たちが、薩摩が長州に名義貸しをし、両藩の協力関係が築かれますことで、こじれにこじれておりました両藩が手を携え、幕府に対抗する以外に、日本を生まれ変わらせる道はなく、自分たち(佐幕派の自藩で弾圧されていました土佐勤王党)にも立つ瀬はないと、両藩の間を取り持ち始めていたところでした。
 長次郎もその一環の流れの中で行動していたのですが、長州が軍艦を買うのに薩摩が名義を貸し、そのかわりに、その船には長次郎たち、薩摩の客分であります社中が乗り込み、戦がないときには薩摩の交易に従事する、ということで、長次郎が最初に約束をかわしました井上聞多は、承知しておりました。

 承知しなかったのは長州海軍局ですが、しかし軍艦は、薩摩藩が長崎奉行所に願い出て購入し、薩摩藩籍で動かすわけですから、武器とちがいまして、名義貸しの証拠が残ります。
 つまり、薩摩藩にも、明確に幕府と敵対する覚悟がいるわけでして、なんのためにそんな危ない橋を渡らなければならないのか、藩内に反対する勢力は大きく、これは私の憶測にすぎませんが、久光公を納得させますのは、至難の業だったと思います。

 このユニオン号事件に置きます龍馬の行動には、私、「事情がわかってないんじゃないの?」と、釈然としないものがあるのですが、それは、「井上伯伝」が返ってきましてから、もう一度、分析してみます。
 しかし、ただ言えますことは、長崎では幕府が見張っているわけですし、久光公や長崎の薩摩藩通商部現場だけではなく、売り主のグラバーも、龍馬のやり方で納得したはずがない、ということです。

 実は、ですね。
 このときの幕府とグラバーの言動を浮かび上がらせますと同時に、戦後、それもごく最近になりまして、「近藤長次郎使い込み伝説」を生んだ元凶になったかも、と思えます風説書があります。
 「近世庶民生活史料 藤岡屋日記14」です。

 これ、幕末に、神田の書店・藤岡屋の店主がつけていました風聞スクラップ集でして、この慶応2年10月、ですから、6月に始まりました幕長戦争(第二次征長)が長州の勝利の内に終わり、9月に停戦したところです。7月には、将軍家茂(和宮の夫)が大阪城で若くして逝去しています。
 ともかく、その慶応2年10月付けの、「長州形勢探索書」が載っているのだそうなのです。

 「藤岡屋日記」、近くの図書館にありません。本当は、必要部分のコピーでもを取り寄せるべきなのですが、ちょっと今すぐのことにはなりませんので、山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」から、孫引きさせていただきます。
 この方、山口県の幕末維新研究家でおられるそうで、文芸社の自費出版らしき本なのですが、ユニオン号事件の文献に詳しく、とても参考になります。
 ネットで、「藤岡屋日記」のこの記事をあつかっているサイトさんもあるのですが、解釈が当時の実情からあまりにもかけ離れ、奇妙ですので、避けました。

 (追記) うへーっ! 藤岡屋日記の14巻、県立図書館に入ってました。コピーしてきます。結果、まちがいがあれば訂正します。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
山本 栄一郎
文芸社


 当正月、桜島丸(ユニオン号)、長州下関へ相越候節、同所より乗組参り候上杉庄次郎(上杉宗次郎は近藤長次郎の変名)、元勝麟太郎門人にして、当時長州騎兵隊頭ニ相成候者に侯ところ、英商ガラハより承り候には、先達って受取候船代之内、二千両、船中用意致し欠け、貸(借)くれ候様申し候に付、貸渡し置候ところ、いまだ返却これ無き由にて、右は庄次郎(宗次郎)より疾く返却致候儀と、船中一同承知居り候ところ、いまだに返却いたさず、右は同人取込みおり候儀共、乗組一同より糺問致し候ところ、右二千両押貸(借)の企てはもちろん、それ以前桜島丸を下関江へ差置き、米積入れ、長州人を右船ニ乗せ、薩方より乗組おり候者は残らず上陸いたさせ、右船にて英国へ罷り越すべく、庄次郎一己の巧の由、相顕れ候に付、罪状詰問、切腹致させ候事。

 以下の現代語訳といいますか、解釈は、私のものです。かなりいいかげんですことを、ご承知おきください。

今年の正月、薩摩の桜島丸(ユニオン号)が長州の下関へ行きましたとき、上杉庄次郎という名で、元は勝海舟の門人であり、そのときには長州奇兵隊の隊長になっていた者が、乗り込んできたのだそうです。イギリス商人グラバーのところへうかがったのですが、彼は、次のようなことを話してくれました。「上杉庄次郎、ですね。彼は、先に私が受け取った船代金のうちから、船を動かす経費として2千両が足らないので貸してくれというので、貸しましたところ、まだ返してくれてないんですよ。船の乗組員一同(薩摩方の人々)は、上杉さんが返すものと思っていましたのに、返しませんので、糾問しましたところ、実は上杉さんはその2千両を着服したばかりじゃありませんで、その前に桜島丸が下関へ寄りましたとき、米を積み入れて、長州人ばかりを船に乗せ、薩摩方から乗り組んだ者は全員おろして乗っ取り、桜島丸で長州人とイギリスへ行くつもりだったんですよ。これ、上杉さん一人のたくらみだったんだから、怖ろしいねえ。それが、薩摩方の人々にばれてしまいましてね、罪を問うて、切腹させたということですよ」

 藤岡屋が、この探索書をスクラップしましたのが10月で、実際のグラバーへの聞き込みは、いつ行われたのでしょうか。
 この慶応2年、4月には海外渡航が解禁されているんですよね。
 それ以降では、これ、いくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎる話になるんじゃないでしょうか。
 「船をうばってイギリスへ~♪ Go West ~♪」

Go West - Pet Shop Boys - World´s Armys


 すみません。ガラバさんのあんまりな口からでまかせに、つい。
 聞き込みに行ったのは、長崎奉行所の下っ端役人でしょうか? 通訳つき?
 ガラバさんのこんなホラ話を聞いていて、吹き出してしまわなかったんでしょうか。

 近藤長次郎の死は、薩摩藩士の死として、長崎奉行所に届けられたものと思われます。
 しかし、ユニオン号にまつわる動きは派手でして、奉行所は目をつけていたんでしょうね。
 長次郎は薩摩藩士ではないと、奉行所にはわかっていたでしょう。
 奉行所の疑いはもちろん、長次郎の仲介で、グラバーが実は、ユニオン号を長州に売り渡そうとしているのではないか、ということです。

 えー、船の運用費用千両を、長次郎がグラバーから借りていましたことは、長次郎の聞多宛の手紙に書いております。
 幕府の役人の聞き込みに、グラバーがわざわざ倍額にして話すのもおかしな気がするのですが、なにしろ、伝聞の伝聞くらいの話になりますので、聞き間違いもあるでしょうし、これはあまり気にする必要がないと、私は思います。
 ともかくこのお金、グラバーとしましては、長次郎の後ろには薩摩藩がいると、わかっていますから貸したわけなのですが、実際に金を払うのは長州でして、船のあつかいが宙に浮き、長州が金を払おうとしませんことから、すべてを死んだ長次郎のせいにして、語っちゃったわけなんでしょう。
 に、しましても、おちょくってますよねえ、幕府を。

 つまり、ただただガラバさんが言いたいことは、「私は~♪、薩摩と取り引きしているだけ~♪ 死んだ上杉さんが長州方についた悪い人で、船を薩摩から奪って、長州のものにしようとしたの~♪」ということにつきると思います。

 神戸海軍操練所の土佐人には、長州よりの過激派が多く、その一人の望月亀弥太は、池田屋事件で死んでいますし、だいたい神戸海軍操練所が閉鎖に追い込まれましたのは、勝海舟が過激浪人を集めているという評判が立ったからでして、勝海舟の弟子の土佐人というだけで、幕府にとりましては怪しいんです。
 禁門の変におきましては、他藩人を集めました長州の忠勇隊は、中岡慎太郎が指揮しておりますし、長州の諸隊は、幕府にとりましてはみんな奇兵隊かもしれず、まあ、勝の弟子の過激土佐人が長州諸隊の隊長になっている、といいますのは、当時、十分にありえる話だったわけです。
 そして実際、結局のところ、ユニオン号には一部、社中の人間も乗り込みまして、なんとか間に合って、幕長戦争に参加したわけですし。
 
 さてしかし。
 なにしろこの話、「長州形勢探索書」でして、ガラバさんが語った相手は幕府の小役人なわけですから、当時、それほど世間にひろまっていたとは思えないのですが、どうなのでしょうか。
 藤岡屋日記が刊行されました現代になって、例えば龍馬が商社の元を作ったとか、わけのわからない説を唱えます、ろくに史料も読まず、まったく幕末を知らない人々が、この記事を曲解し、近藤長次郎使い込み伝説をこしらえあげたわけではないんでしょうか。

 次いで、山口県立文書館所蔵の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」です。
 龍馬全集に収録されていまして、その解説には「旧公爵毛利家文庫所蔵のもの」とあります。そして解説では、著者不明となっていますが、山本栄一郎氏が「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」におきまして、明快に著者を解明されています。
 
 その論考の詳細ははぶきますが、著者は、在野の史家で、「七卿西竄始末」(近デジにあります)で知られます馬場文英です。私、知らなかったのですが、この「土藩坂本龍馬伝」、中原邦平が「井上伯伝」の主要参考文献として、使っているのだそうです。

 ところで馬場文英は、「土藩坂本龍馬伝」の元になりました史料を、文中で明らかにしてくれています。
 「この原書は、直柔(龍馬)が籍嗣小野淳輔(高松太郎、坂本直)が維新の際、官に上する所の直柔が履歴書」とあるんです。

 一方、霊山歴史館の木村幸比古氏は、「龍馬暗殺の真犯人は誰か」(p111)で、この毛利家文庫の「土藩坂本龍馬伝」には、「欄外に朱書したるは島津編輯員市来四郎氏の筆に係る、録して参照とす」(明治24年7月11日写本)とある、と書かれておりまして、ちょっと私、わけがわからなくなっております。

 馬場文英の書いたものを、市来四郎が写したってことなんでしょうか。
 それとも、「高松太郎が官に上する所の直柔が履歴書」を市来四郎が写し、それを馬場文英が下敷きに使った、ということなのでしょうか。
 どうも私、内容からいきまして、薩摩藩士だった市来四郎の筆が入っているように思いまして、龍馬の甥の高松太郎が、明治4年、朝命により龍馬の後を嗣ぎまして家を建てることとなった際、龍馬の履歴を書いて、明治新政府に提出しましたものに市来四郎が手を加え、さらにそれに馬場文英が手を加えたものが、毛利家文庫に残されているのではないか、と思います。

 えーと、まあ、ともかくです。
 馬場文英がこの伝記を書きましたのは、明治24年前後のことなのか、という感じですが、高松太郎が原書を書きましたのは、かなり早い時期、おそらくは明治4年前後、と思われるんですね。
 そして、そのころだったとしますと、政権中枢には、かなりの数、事件を知ります薩摩人がおります。
 高松太郎が新政府に提出しました原書が、近藤長次郎の死の原因に触れていたとしましたら、書いたものは、当然のことなのですが、自ら当日、薩摩藩長崎屋敷に届け出た「同盟中不承知之儀有之」を、大きくはずれるものでは、ありえないんですね。

 実際、次のような記述なのですが、文中に野村の名前まで出てきますことから、私は、市来四郎が調べられることは調べて、加筆したものではないのかと思うのです。
 あと、自刃の場面などの劇画のような描写は、馬場文英によるもののようでして、ちょっとありえないことも書いていますし、相当な脚色が見られます。

 原文は高松太郎によります龍馬の顕彰文なのですから、長次郎が「龍馬から、薩長連合のため、薩摩名義で長州の汽船を購入してはどうだろうか、と聞かされていて、自分にできるかぎりのことをした」と言った、としているのは、原文に忠実なのでしょう。
 しかし、長州海軍局の中島四郎が長次郎とともにユニオン号に乗って長崎に来て上陸し、「自分、中島四郎がユニオン号の船長である」旨の名刺を薩摩藩邸に届けた、というのは、やはり、馬場文英の脚色でしょう。
 薩摩藩邸では、当然、「金は長州が出しても、薩摩船籍の船だし、乗り組みは(薩摩に雇われた)社中でなければおかしい。長州の中島四郎が船長だなどと、最初の約束とちがうではないか!」と怒りの声がわきます。
 説明を求められた長次郎は、板挟みになって困り、「自分なりに、薩長連合の一助になればとしたことですが、このたびは長州の方でもいろいろ議論が起こりまして、中島四郎が乗船して来ることになり、いまだなんの説明もしないうちに、お屋敷に名刺を届けることになったのは私の不始末です」と言い、以下の引用のような事態になります。

「然りしかすれば一には定約状に違ひ、二には直柔(龍馬)よりかくの如き大事を委任せらるるを過ち、これよりしてまた両国の和約破談に至らば、いかにしてこれを謝せんや、これを謝するに道なし、身をもってその罪をあがなはんと。短刀を抜くより早く左の腹に立てる。薩吏これを見るやかつ驚きかつあわてて急に止めんとするに、はや重傷に弱りいわく、我不省といえども両国(薩長)和解の緒をひらきたるも、今不幸にしてその志を遂げず。衆庶ともになお尽力ありたくねがはんと。言果てずして右腹を切り回し斃れたり。このおりがら桜島丸(ユニオン号)帰り合せたるによって乗組の衆士等周旋し、薩邸の吏野村宗七へあい謀る。同氏も近藤が志を深く賞し、死体を懇に埋葬す。各野村が指図により、葬事まったく終われり。ああ惜しむべき壮士にこそ」

 基本的に「同盟中不承知之儀有之」からはずれてはいないのですが、具体的な状況は、野村の日記の記述とだいぶんちがってきます。
 市来四郎の加筆だけでしたらこうはならなかったと、私、思うのですね。
 馬場文英は、京都の農家の子に生まれ、筑前福岡藩御用達の商家の養子となり、長州よりの心情を持っていたようでして、慶応元年には、著作が幕府の禁に触れ、入獄しているのだそうです。
 まあ、ですね、この後に続けまして馬場文英は次のように注記していまして、原本を読みましても、事情がよく呑み込めなかったんでしょうね。

 総てこの原書は直柔(龍馬)が籍嗣小野淳輔(高松太郎)が維新の際、官に上する所の直柔が履歴書なれば、その実事確書なるは論をまつべきにあらずといえども、時事の年月日においてはその時々に日記したるものにあらざれば、事の前後あり、かつは年月日のちがひままあり。よって錯雑のところ多し。

 次回はいよいよ、明治16年に出版されました坂崎紫瀾の「汗血千里駒 」です。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol1

2012年11月28日 | 近藤長次郎

 どこからお話すべきでしょうか。
 実は、音楽家の肝付兼美さまが、私のブログを読んでくださっておられるんです。
 Wikiに掲載されておりますが、肝付兼美氏は、小松帯刀のはとこのご子孫です。ちゃんと喜入肝付家の系図にご先祖のお名前がありまして、名門でおられます。行進曲「小栗公、メリケンを行く」を作曲しておられ、小栗上野介の菩提寺・東善寺さんのご住職とも、懇意にしておられるそうです。

 青葉マンドリン教室事業部のコンサート情報に、12月23日群馬マンドリン楽団の東京公演の案内がありまして、こちらで「小栗公、メリケンを行く」が演奏されるそうですので、お近くの方は、ぜひ。

 私、 Twitterのアカウントを持っていながら、ろくに使っていませんで、知らなかったのですが、ダイレクトメッセージという機能があるんですね。
 で、肝付兼美さまからそのダイレクトメッセージをいただき、近藤長次郎の妹さんのご子孫の方が、連絡したいと言っておられるとのことだったんです。

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書いておりますが、両親が亡くなりましたときに、長次郎は、家業の饅頭屋は妹が養子をとって継ぐこととして、土佐を出ました。
 長次郎は神戸で結婚しておりまして、百太郎という息子を一人残して世を去ったのですが、こちらにつながります直系のご子孫は、九州の方におられます。

 長次郎の妹・亀さんが養子を迎え、その曾孫にあたられます千頭さまと奥様が、肝付兼美さまと知り合われて、私のブログを読んでくださったとのこと。こちらから連絡させていただきました結果、千頭さまご夫妻は高知にお住まいで、ご夫婦で松山まで会いに来てくださいました。

 いや、ですね。
 ブログに書いた以上のことを、私が知るはずもありませんし、お話できることは限られておりますから、とりあえず『井上伯伝』をお貸ししまして、いま、手元にありません。
 電話やメールでも、幾度かやりとりをさせていただき、どうにもお話がすれちがう部分がありますのを感じまして、はたと気づきましたことは、いまさらなんですけれども、「私ってオタクなんだ!」ということです。

 千頭さまは、直系のご子孫が高知市民図書館に寄託なさった長次郎の遺品の管理を、任されていたりもなさるそうです。
 しかし、「龍馬伝」の放送まで、幕末そのものにはほとんど関心を持ってこられなかったそうなのですが、なにしろ、住んでおられるのが高知です。「龍馬伝」にまつわりまして、近藤長次郎は幾度か新聞などの記事になり、それが決して、好意的なものではなかったそうなのですね。
 
 なにより、ご夫妻が納得がいかれませんのは、「長次郎が自刃した原因は使い込み」といわれることだそうなのですが、「??? そんなことを書いている資料はないはず」です。
 ところが、ぐぐってみましたら、けっこうあるんですよねえ。そういうことを書いていますブログとかが。
 個人の方だけかと思いましたら、新聞でも書いていたりするみたいです。

 「涼やかな龍の眼差しを」というサイトさんの 坂本龍馬関連ニュース記事 「近藤長次郎碑建立を ひ孫ら寄付金募る 亀山社中の中心(読売新聞/2010年9月16日)ほか」に毎日新聞の記事が載せられていますが、次のような文章があります。

 長次郎は土佐藩(高知県)の饅頭(まんじゅう)商人の家に生まれたが、勝海舟に弟子入りして武士となり、龍馬とともに長崎に渡った。薩長同盟で主導的な役割を果たしたとされるが、英国渡航の直前に切腹。その死は謎が多い。亀山社中の公金を横領したともいわれるが、長崎史談会相談役の宮川雅一さん(76)は「そういう文献はない。薩摩も長州も長次郎のことを認めており『龍馬伝』ブームの今、正当に評価されるよう顕彰したい」。

 これはもう、長崎史談会相談役の宮川雅一さまという方がおっしゃる通りでして、「公金横領って、いったいどこから出た話なの???」と、不思議です。
 そこがオタクなのですが、私にとりましては、「史料にはまったく出てこない、いいかげんな回顧談や伝聞や伝説を、本当のことみたいに言い立てる方が馬鹿」なんです。
 とは言いますものの、わけもなくご先祖が「公金横領」だなどと言い立てられるのは、いやですよねえ。そのお気持ちはわかりますし、関係のない私でさえも、気分が悪くなります。

 私、つい最近、「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」(Wikisource)を見まして、河田小龍が中村半次郎(桐野利秋)に長次郎の最後を聞いたのだと知りますまで、近藤長次郎に、それほど関心を持っていたわけではありません。
 ちゃんと調べるまで、私が長次郎さんに対して抱いていましたぼんやりとしたイメージといいますのは、「留学を志して夢がかないかけたのに、社中の仲間からねたまれて、切腹に追い込まれた不運な人」というようなものでして、横領などとは無縁です。

 なんでこんなイメージを抱いていたのだろう? と、つらつら考えてみましたところ、やはりこれは、乙女のころに読みました司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』の印象が鮮烈に残ったのではなかろうか、と思い当たりました。
 
竜馬がゆく〈6〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 久しぶりにとばし読みしまして。
 中村半次郎が出てきておりましたのにびっくり。
 あんまり感じ悪く描かれてはいないのですが、もちろん嘘ばかり、です。
 小松帯刀が出てきましたのにも、ちょっとびっくり、です。
 小松に関しましては、嘘と言えるほどの嘘は、書かれておりません。

 近藤長次郎につきましては、六巻に突然出てきまして、それまで、まったく出てこないんですよねえ。
 いや、『竜馬がゆく』の「竜馬」につきましては私、いろは丸と大洲と龍馬 上「龍馬史」が描く坂本龍馬続・いろは丸と大洲と龍馬などで、「司馬さんの『竜馬がゆく』は嘘ばかりだけれど、娯楽に徹したフィクション、小説だから仕方がない」とこれまでにも、さんざん言ってまいりました。

 で、そのフィクションの中に、長次郎さんもはめこまれているわけですから、当然、嘘ばかり、ではあるんですけれども、司馬さんの場合、やっかいですのは、かなりちゃんと調べられたことが巧みにちりばめられておりまして、文章の非常な上手さも手伝い、登場人物が、驚くほどのリアリティを持ち、生き生きと動いているものですから、その印象が強烈に脳裏に焼きついてしまうことです。

 私の「留学を志して夢がかないかけたのに、土佐勤王党の仲間からねたまれて、切腹に追い込まれた不運な人」という長次郎さんのイメージも、やはり、『竜馬がゆく』によって形作られたものだったようです。
 最初にこの本を読みました当時、私は、幕末史をろくに知らず、そこそこは主人公の「竜馬」に感情移入して読んだのですが、私の性格が司馬さんが造形なさいました明るい「竜馬」とは、あまりにちがいすぎまして、「協調性がない」「仲間とともには仕事が出来ない」といいますような、司馬さんが「饅頭屋長次郎」を造形する上でついたマイナス方向への嘘に、私むしろ好感を抱きまして、長次郎の方に感情移入しちゃったようなんですね。
 「こんなことでねたまれるなんて、気の毒に。だから田舎者の集団はいやなのよ。長次郎さん、竜馬のもとになんかいないで、もっと早くから一人で留学する道をさがしてみればよかったのに」と感じ、その印象が長く尾を引いて残ったもののようです。

 それにいたしましても。
 司馬さんは、基本的に『維新土佐勤王史』(近デジにあります)を下敷きにされています。
 ユニオン号事件は龍馬が解決したことになっていまして「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次諸 vol5」「高杉晋作とモンブラン伯爵」に書いておりますが、ユニオン号事件は長幕戦争の開幕直前まで解決しておりませんし、龍馬が解決したわけではありません)、長次郎は社中の隊規を破って、一人イギリスへ留学しようとしたことから、社中の仲間に迫られて自刃、ということになっております。

 しかし、「使い込んだ」とか、「社中の金を横領した」とかとは、まったく書かれておりませんで、いったい、どこから出た話なのでしょうか。
 もう一度叫びますが、そんなことを書いている文献は、どこにもありません!!!

 しかし、考えてみますと私、昔、『竜馬がゆく』で培いました長次郎のイメージ、「土着の強固な絆から浮き上がってしまった者の悲哀」は、一応、ちゃんと資料を読んでみました今も、ぬぐえないでいるみたいです。

 今回、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次諸 vol5」で書いておりますように、皆川真理子氏の論文により、薩摩藩士・野村宗七(盛秀)の日記が、リアルタイムで長次郎の死を記しておりますことを知りました。これによりますと、長次郎の死に直接かかわりましたのは、社中の中でも、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の三人です。

 長次郎の死の最大の要因は、やはり、薩長同盟におきまして、藩主父子から藩主父子への橋渡しという要に立ちながら、役目を果たせなかった、という自責なのでしょう。
 しかし、その死を野村に告げにきました三人は、亀山社中でも、土佐勤王党に属したメンバーで、長次郎とは肌合いがちがった、と思うんですね。
 自分たちの蒸気船乗り組みは保証されず、同じように活動しながら、長次郎のみがイギリスに遊学するとは許されない、という思いも、あるいはあったのではないんでしょうか。


 と、結論に書いたような次第でして、この「肌合いのちがい」が、お題につながるわけです。

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Ryan's Daughter (1970) Trailer


 「ライアンの娘」は、「ドクトル・ジバゴ」と同じく、デビット・リーン監督の映画です。
 私、実は昔は大作映画嫌いでして、乙女のころに見ましたデビット・リーンの映画って、興行的には大失敗だったこの「ライアンの娘」のみでした。ヒットした映画ではありませんでしたから、リバイバル上映もなく、テレビ放映もなく、苦労して、どこかの小さな上映会で見たのだったと思います。
 
 この映画、「ドクトル・ジバゴ」と時代が重なっておりまして、第一次世界大戦の最中、アイルランドの話です。
 若く、美しいヒロインのロージーは、アイルランドの寒村で居酒屋を経営しますライアンの一人娘で、母親は早くに亡くなっていて、いません。
 村は全体に貧しく、村人の多くは教養とも洗練とも無縁でして、ロージーは、村の中では金持ちともいえますライアンの愛情を一心に浴びて育ち、服装も都会風で、浮き上がった存在です。
 確か冒頭、ロージーの白いレースの日傘が断崖に舞うんですが、ベルエポックの華やかな文化とは無縁のひなびた村で、ベルエポックを象徴しますような日傘が空に踊る光景は、印象的です。

 乙女のころの私は、自分で自分のことを、「協調性が無く、まわりに溶け込めない浮いた性格」と思い込んでいたところがありました。
 そんなわけでして、最初はロージーに感情移入して見ておりましたが、共感できたかと言いますと……、えー、私、昔から、うじうじごたごたしているのは大嫌いな性格でもありまして、途中から「あんた、なにしてるの! さっさと駆け落ちして、こんな村出て行きなさいよっ!」と怒鳴りたくなり、不倫の恋の行方よりも、ですね。アイルランド独立闘争の生の現実が、画面の中から飛び出して迫ってくるようでして、「ああ、人が生きていくって、こういうことなのよねえ」という感慨の方に、声を無くしました。

 ロージーは、一回りも年がちがいます村のやもめ教師に憧れ、結婚するんですけれども、すぐに失望し、満たされないものを抱えています。そこへ現れましたイギリス人将校ランドルフは、第一次世界大戦の戦場で、負傷し、神経を患い、アイルランドにまわされて来たんですね。リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の最後に書いておりますが、第一次世界大戦は、イギリスにとりましても、本当に悲惨な戦いだったんです。
 ロージーとランドルフは惹かれあい、密かに逢瀬を重ねます。
 しかし、密会はいつしか知れ渡り、相手がイギリス人将校だったことも手伝って、ロージーは村中から白眼視されるようになります。

 そのとき、アイルランド独立闘争のため、ドイツからの援助(敵の敵は味方です。ドイツはロシアの反政府運動とともに、アイルランドの独立闘争も援助していました)の武器を積んだ船が、村の沖合に来るのですが、猛烈な嵐に見舞われ、村人は総出で、武器の荷揚げを手伝います。
 嵐の中、女子供も含めました村人たちが心を一つにして、独立闘争に燃えますこの場面が、なんとも感動的なのです。
 それだけに、密告によってランドルフが指揮するイギリス軍が出動し、独立運動の闘士が捕らえられましたとき、村人の密告者への怒りが爆発しますのは、当然のことと思える描き方ではあるのですけれども、しかしまたそれだけに、衝撃に呆然とする結末でもあります。

 密告者はライアンだったのです。
 しかし村人たちは、ランドルフと関係を持った娘のロージーの方が密告者だと決めつけ、リンチを……。
 
 なんといえばいいのでしょうか。
 独立闘争をささえます村人たちの紐帯は、非常に強固なものでして、それがあればこそ、危険も顧みず、嵐の中で無償の戦いに励むことができます。
 しかし、その紐帯の反面には、粗野な土着の排他性があり、異分子に容赦がないんです。
 そこに、自由はありません。

 幕末、土佐勤王党の戦いも、このアイルランドの村人たちの、独立闘争のようなものでは、なかったでしょうか。
 しかも、武市瑞山が死に、多くの犠牲を払い、坂本龍馬と中岡慎太郎も維新直前に逝き、生き延びた多くの郷士たちも、それほどに報われたわけではありません。
 司馬さんが書いていたのだと思うのですが、例えば田中光顕(青山伯)や土方久元のように、岩倉や三条など、公家出身の元勲に引き立ててもらい、宮内省を中心に集まった者たちが、わずかに生身で栄誉を得ただけです。

 長次郎は、この土佐勤王党の紐帯の外にいまして、あるいはそのことが、その死に関係したのではないだろうかと、そういう思いは、私の中でずっと続いています。

 今回、もう一度、近藤長次諸のことをこのお題で書いてみよう、と思いましたのは、千頭さまご夫妻だけではありませんで、幕末オタクではありません友人が、私が近藤長次諸のことを書いていると知ってブログを見てくれたのですが、「むつかしい!」という感想だったんです。
 い、い、い、いや……、むつかしいことを書いているつもりはないんですけれども、説明不足なんでしょうか、うーん。
 
 ともかく、まずは近藤長次郎の死の原因にお話をしぼりまして、大正元年に出版されました『維新土佐勤王史』に至るまで、どのように描かれてきたのか、変遷を追ってみたいと思います。
 お楽しみに(い、い、い、いや……、楽しいんでしょうか。また、むつかしいと言われたりしまして)。

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中西輝政と半藤一利の幕末史観

2012年11月25日 | 幕末雑話

 えーと、ですね。
 ユニオン号に帰るはずだったのですが、その前に、ちょっと書いておきたいことがありまして。

 最初のきっかけは、張作霖爆殺事件でした。
 夏ころ、だったでしょうか。 勝之丞さまと電話でお話をしていて、「中西輝政氏が張作霖爆殺事件コミンテルン陰謀説を唱え、それに秦郁彦が反論している」というようなことをうかがいました。「中西氏のコミンテルン陰謀説ってどんなものなんだろう?」と、これに載っているかな? とめぼしをつけて、秦郁彦氏の「陰謀史観」を読んでみました。

陰謀史観 (新潮新書)
秦 郁彦
新潮社


 これで見ます限りにおいて、なのですけれども、中西氏が直接、張作霖爆殺事件コミンテルン陰謀説を唱えているわけではなく、秦郁彦氏は、田母神史観批判のついでに、対談などで中西氏がコミンテルン陰謀説に共感をよせておられるのを、批判しているだけのようなのです。
 しかし、その秦郁彦氏の批判に、私がさっぱり説得力を感じませんでしたのは、先に「謎解き 張作霖爆殺事件」を読んでいたからでしょう。

謎解き「張作霖爆殺事件」 (PHP新書)
加藤 康男
PHP研究所


 私、この件の資料につきましては、まったく読んでおりませんので、単なる気分の話にすぎませんが、けっこうこの本に説得力を感じておりまして、「まあ、謎は残るんじゃないの」、程度のことですが、秦郁彦氏のおっしゃる「通説」を、鵜呑みにできてはおりません。

 それで、秦氏です。
 私、ふと、「そういえば秦郁彦氏って、尼港事件をどう書いているのだろう?」と思い、検索をかけたんですね。で、出てまいりましたのが、「法華狼の日記 2012-09-28 尼港事件についての秦郁彦見解」です。
 「2000年に出版された文春新書『昭和史を点検する』に秦郁彦の見解が載っている」と、法華狼氏は書いておられるのですが、捜しても文春新書にそんな題名の本はなく、「座談会形式で、坂本多加雄が参加」と注釈にありますことから、「昭和史の論点」だろう、と見当をつけました。

昭和史の論点 (文春新書)
坂本 多加雄,半藤 一利,秦 郁彦,保阪 正康
文藝春秋


 どうやら、この本でよかったらしいのですが、ここでまた、法華狼氏がまちがえておられます。
 狼氏がおっしゃるところの「休戦していたパルチザンを日本軍部隊が勝手に攻撃して敗北し、その際に日本人が虐殺された無意味な戦闘という見解。加えて、そのような経緯を無視してソ連への憎悪を煽る世論形成に利用されたと指摘していた」人物とは、秦郁彦氏ではなく半藤一利氏だったんです。

 「ああ、あの半藤一利ねえ」 と、私が思わず鼻で笑ってしまいました理由は、後述します。
 この場合、文脈としては、ですね。
 まず坂本多加雄氏が「シベリア出兵の大失敗が陸軍の威信を貶め、国内政局での発言力の低下を招いたこともありませんか」と、しごくまっとうなことを述べておられるのに反論して、半藤一利氏が次のように言っているんです。

「政府内部ではかなり影響力が低下したと思いますが、それが国民意識にまで広がっていたかどうかは疑問です。というのも、1920(大正9年)にニコライエフスクつまり尼港事件が起きますが、陸軍はこれをソ連の残虐行為として大々的に宣伝するんです。当時の新聞を読むと、ソ連に対する国民の憎悪がものすごい。実は尼港事件は、本来やらなくていい攻撃を陸軍がしかけ、結局、大失敗したものなんですが、その汚点を巧みにごまかし、残虐なるソ連というイメージづくりに成功した。それでシベリア出兵の失敗もうやむやになったところがあります」

 私、思わず「頭大丈夫???」と失笑してしまいました。
 詳しくはwiki-尼港事件を見ていただきたいのですが、逮捕・拷問しまくり、掠奪やり放題の赤軍の暴政が、治安維持にあたっていました日本軍にとって、見逃せるものだったとでも、半藤氏はおっしゃるのでしょうか?
 相手は、チェコ軍団に対してもそうでしたように、てのひら返しの嘘はあたりまえ。「武装解除だ! 従わなければ銃殺」なんぞと平気で叫ぶボルシェビキなんです(チェコ軍団に関しましてはトロツキーの命令書が残っております)。

 wikiにも書きましたが、井竿富雄氏の『尼港事件と日本社会、一九二〇年』をご覧下さい。尼港事件に対します国民感情を言いますならば、「政治の場で出てきた不可抗力論は、社会的には見殺しとして受けとめられた」わけでして、新聞はけっして、軍の命令で事件の残虐性を書き立てたわけではありません。

 軍の方は、なんとか勇ましい戦いに話をもっていきたいと談話を発表するのですが、報道されましたのは凄惨ななぶり殺しが中心でして、しかもそういう事態になったにつきましては、ろくに現地事情がわかっておりませんでした陸軍上層部の、二度に渡ります停戦命令があったのだと、明白に伝えられているんです。

 強姦、拷問の凄惨な様子がセンセーショナルに書き立てられますほど、国民は「なんで徴兵された国民軍兵士と在留邦人を、そんなキチガイ狼の前に、無防備で差し出したんだ? なんのための陸軍なんだ? なんのためのシベリア出兵なんだ?」と、陸軍上層部と政府への不信を強め、シベリア出兵の失敗を痛感することとなったんです。

 半藤一利氏の馬鹿げた発言に続きまして、秦郁彦氏が、次のようにシベリア出兵に言及しておられます。
 「シベリア出兵では、何ら利権に類するものは手に入らず、赤色政権樹立を妨害するという目的も達成できなかった」

「なにをおっしゃいますやら。尼港事件の賠償問題を棚上げにしたあげくに、北樺太の石油利権を得てるでしょうがっ!!!」です。
 井竿富雄氏の『尼港事件・オホーツク事件損害に対する再救恤、一九二六年』に、その経緯は出てまいります。
 海軍も尼港事件で多くの犠牲を払っておりますが、北樺太の石油利権を欲しがっていた中心は海軍でして、半藤一利氏のおっしゃっておられますこととは逆に、ソ連憎しといいます国民感情は、軍にとりましてはやっかいなものだったんです。
 秦郁彦氏にしましても半藤一利氏にしましても、「ろくに史料を読んでないんじゃないの?」という私の疑いを、濃くした発言でした。

 半藤一利氏といえば、これです。

 
幕末史 (新潮文庫)
半藤 一利
新潮社


 この「幕末史」、実は私、読んでいません。
 なぜ読んでいないかといえば、以前にも確か、ご紹介したことがあると思うのですが、東善寺さんの小栗上野介随想「咸臨丸病の日本人」におきまして、次のように批判されておりました。

「ブルック大尉の『咸臨丸日記』が『遣米使節史料集成第5巻』(1961昭和36年)として公刊されて半世紀経過し、ほとんどの学者・作家が周知の史実を、こうして根拠もなく否定して語る作家(半藤一利氏)がいることに驚く。この本巻末の参考文献に『遣米使節史料集成』が見当たらないから、基本資料を見ないまま幕末史を語っているのだろうか。ふつうの読者は『幕末史』を読んで『福沢諭吉は厭味な男』と解釈することだろう。歴史は『(勝海舟が)船酔いして使いものにならないなんてことはない筈』『船酔いする海軍の父(勝海舟)なんておかしい』などと感情で語ってはいけないと、つくづく思う」

「うへーっ!!! 基本資料にあたらないで書いたような本、絶対に読みたくない」と、買わなかったんです。

 したがいまして、勝海舟と咸臨丸に関します以外で、半藤 一利氏がどういうでたらめを並べ立てておられるのか、私は存じません。しかし、アマゾンのレビューを読みましても、「勝手な想像ばかりを並べたものが幕末史??? というレベルの本みたい」としか、思えません。
 今にはじまったことではありませんけれども、こういうとんでも本に近そうな類の幕末史がベストセラーになるって、幕末ファンとしましては、実に悲しいことです。

 そして今回、こうして、一応「保守派」と呼ばれます方々の近代史に関します発言をとばし読みしました結果、なんですが、張作霖爆殺事件ではないのですが、幕末史に関して、ついに「中西輝政氏よ、あんたもかいっ!!!」とあきれるしかない著作に、つきあたりました。
 中西輝政氏と言えば、以前に『大英帝国衰亡史』 を読みまして、これ一冊しか読んでだことはなかったのですが、参考になります記述が多く、けっこう尊敬申し上げていたんですけれども。

大英帝国衰亡史
中西 輝政
PHP研究所


 うろ覚えで書いてしまいますが、「クリミア戦争時、イギリスと敵対するロシアの戦費がロンドンの金融市場で調達されていた。イギリスの自由貿易とは、それほどに徹底したものだった」というようなことを書かれていまして、なるほどねえ、と感心した覚えがあります。
 といいますのも、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3に書いておりますが、薩摩は薩英戦争のためにアームストロング砲をイギリスから購入しようとし、さすがにこれは、直前にイギリスで輸出手続きが差し止められますが、このとき在日イギリス商人は、薩摩に大量の武器を売り、気前よく薩摩が買ってくれますので、藩主に金時計をプレゼントしたりしているんですね。
 
 また、リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の、これはコメントの方で触れているのですが、第一次世界大戦とイギリスにつきましては、ほんとうに勉強させていただきました。
 ところが。

日本人が知らない世界と日本の見方
中西 輝政
PHP研究所


 この「日本人が知らない世界と日本の見方」、まえがきによりますと、「私が京都大学で2008年の前期に『現代国際政治』という名称で行った講義をまとめたもの」だそうでして、「この年くらいから『ゆとり世代』の学生が多くなり、大切な歴史を学んでこなかった若者を強く意識し、『現代』国際政治と銘打っているのに歴史の話題をとりわけ多く盛り込んで話すことにしました」ということなんです。

 結果、「これが京大の講義なの??? 勘弁してっ!!!」と、嘆息、です。来年、甥が京大受けるらしいんですけど……、中西教授!!!
 いや、「お願いですから、史料を読みもしないで、いいかげんなことをおっしゃらないでくださいっ!!!」と、声をふりしぼって叫びたくなってしまいました。
 幕末、イギリスの対日外交なんですけれども。

 「西郷隆盛や坂本龍馬に賄賂を渡し、『鉄砲を渡すから、これで幕府を倒せ。開国して自由貿易のマーケットをつくれ』と指示した。その指示に従い、イギリスの飼い犬のように動いたのが坂本龍馬だったというのは、よくいわれることです」

 「はあああああっ??? だれがそんなこと言っているんですか、教授???」
 賄賂って、なあ。馬鹿馬鹿しいにもほどというものがあります。
 幕末イギリスの対日外交につきましては、私、いろいろと書き散らしているのですが、一番まとまっておりますのが、アーネスト・サトウ  vol1でしょうか。

 あげくに、中西教授がおっしゃられることには。

「薩摩藩あるいは長州藩にとって邪魔だったのは龍馬で、もしかしたら西郷や大久保が命令を下していたかもしれません。蓋然性、利害関係だけでいえば『薩摩説』というのは合理的です」

 誰の俗説を読まれて、こういうことを信じ込んでおられるのでしょう。
 「教授、お願いですから幕末でたらめ史の講義はおやめになってくださいっ!!!」

 こんな幕末史を読んでしまいますと、教授が語られるイギリス近代史まで、信じられなくなってしまうんですよねえ。
 私、甥の受験を、とめるべきでしょうかしらん(笑)

 次回こそは、近藤長次郎とユニオン号事件です。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.8

2012年11月23日 | 尼港事件とロシア革命
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.7の続きです。

 私、最初に尼港事件の賠償問題を知りましたとき、「これって、拉致事件と似てない?」と思ってしまいました。
 1925年(大正14年)1月、日本はソビエト社会主義共和国と日ソ基本条約を結び、国交正常化をするに至ったのですが、このとき、北樺太の石油利権と引き替えに、尼港事件の賠償問題を、事実上、棚上げにしたんですね。

 当時、軍艦の動力が石炭から石油へ転換していまして、イギリス、フランスは中東の産油地帯を押さえておりましたし、第一次世界大戦開戦前、ロシアと良好な関係を築いておりました日本が、共同開発を計画しておりました北樺太の石油を、あきらめきれなかった事情はわからないでもないのですけれども、しかし。
 尼港事件を人権問題、ソビエト・ロシアの国家犯罪として、きちんと世界に訴えきれていなかったのではないか、という思いは残ります。

 拉致事件は、起こりましてから長らく、北朝鮮の策動でなかったことにされ、国交正常化交渉において、ようやく北朝鮮が事実関係のみはを認めた、というちがいはあるのですが、しかし、尼港事件におきますソビエト・ロシアの犯罪性もずっとソ連は認めてこなかったわけですし、拉致事件もまた経済的な利権と引き替えに、棚上げにされかねない可能性は、今なお消えていないわけです。

 しかも、ですね。
 双方、日本国内の左翼インテリ層によりまして、「悪いのは日本政府の方!」といわんばかりの叫びがあがり、「共産主義体制が生み出したテロル」である、という認識が、日本においてさえ、希薄なんです。結果導かれますのが、「国交正常化のために棚上げを!」という、いわゆる識者(!)の論調です。

 1920年(大正9年)、尼港事件直後に発行されました中央公論7月号に、吉野作造の論評が掲載されているのですが、吉野はまず、「日本は対ロシア関係において、シベリアでさらなる困難を背負い込むことになってしまった」とし、その原因を以下のように記しています。

 第一西伯利(シベリア)に出兵した事、第二セミヨノフとかコルチャックとかいふ民間に人望の無い反動的保守階級を対手としたことが原因である。

 そして、尼港事件。

我々は、一部為めにする所あるものの罠にかかって不当に興奮するの極、本件に関する本当の責任者を見損なってはならない。しかしてそのいわゆる真の責任者は明白に(日本)政府、ことに軍事当局者にあるのであるが、ここにまた在野政客の一部の間には、得たり賢しと之を政争に利用せんとするものがある。
 
 い、いや……、言っていることが嘘だと言うわけではないのですけれども、ソビエト・ロシア、ボルシェビキ政権の責任は、どうなっているのでしょうか。
 いわゆるインテリ評論家って、大正の昔からこうだったんですね。
 百年の後のロシアで、レーニンの像が倒され、コルチャークの像が建ったことを、教えてあげたい気がします。

 
世界をゆるがした十日間〈上〉 (岩波文庫)
ジョン リード
岩波書店


 アメリカの左翼ジャーナリスト、ジョン・リードが、ボルシェビキ革命の始まりと同時にロシア入りし、まったくロシア語を知りませんでしたにもかかわらず革命を取材し、アメリカで出版しました「世界をゆるがした十日間」は、今なお名著とされておりますが、現在読みますと、「人間はここまで、自分の見たいものしか見ないでいられるんだ!」と不思議ですし、北朝鮮を地上の楽園と報じたかつての日本のマスメディアと知識人を思い出します。

ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム
セルゲイ・ペトローヴィッチ メリグーノフ
社会評論社


 「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」は、アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマンの「ニコラエフスクの破壊」(ロシア語)が出版されましたと同じ1924年、場所も同じベルリンで出版されました。
 著者のセルゲイ・ペトローヴィッチ・メリグーノフは、旧貴族出身のインテリで、人民社会主義党(エヌエス)の活動家であり、社会民主主義者だったため、10月革命以降、ボルシェビキ政権からたび重なる弾圧を被りました。一度は死刑判決を受けもしましたが、クロポトキンなど、古参活動家のおかげで、減刑、釈放され、1922年に国外へ亡命します。

 社会主義政党連合の熱烈な支持者でしたメリグーノフは、エヌエス国外委員会を立ち上げ、ボルシェビキ独裁政権批判の言論活動をはじめます。その中で出版されました代表作が、この「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」です。
 おそらく、なんですが、グートマンとも知り合いで、「ニコラエフスクの破壊」も読んでいたのではないでしょうか。

 メリグーノフは、「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」の前書きで、次のように言っています。

 ボリシェヴィキがなした以上に人間の血を流してはならない。ボリシェヴィキのテロルで具体化された以上に破廉恥な形を想像することはできない。これは自分のイデオローグを見つけ出すシステムである。これは暴力を計画的に実施するシステムであり、これは世界中のいかなる権力もまだ到達したことがないような、権力が持つ武器として殺人を公然と礼賛することである。これは内戦の心理状態にあれこれ説明を求めることができるような過剰行為ではない。
 「白色テロル」は別の秩序の現象であり、まずは放埒な支配と復讐に基づく過剰行為である。いつ、どこで、政府政策の条文やこの陣営の政治評論に、諸氏は権力のシステムとしてのテロルの論理的根拠を見いだすであろうか。いつどこで組織的で公的な殺人を呼びかける声を聴いただろうか。いつどこでデニーキン将軍やコルチャーク提督やヴラーンゲリ男爵の政府にこれが見られたか。


 つまりメリグーノフは、例えばコサックのアタマンに見られたような白色テロルは、むしろ政治権力の弱さ、内戦の混乱が生み出した過剰行為だったけれども、赤色テロルは、権力が武器として意図的に殺人を礼賛するシステムである、と言っているんです。そして、こうつけ加えています。

 わが民主的ジャーナリズムがシベリアの反動の責任をコルチャーク提督に負わせるなら、ロシアで過去にも現在にも起こっていること(赤色テロル)の責任は誰が取るのか。

 吉野作造はもちろん、メリグーノフの著作は、読まなかったものと思われます。
 いえ、吉野作造など、日本の知識人だけではありませんで、欧米の知識人にも、基本的に「世界をゆるがした十日間」のロマンを信じる者は多かったのです。

 メリグーノフは、国際連盟の難民高等弁務官としてロシアの大飢餓救済に活躍したフリチョフ・ナンセンにも、抗議の声を上げています。ナンセンは、「ロシアの政治的抑圧は専制政治であった旧体制下でも同様に存在した」とし、どうも「革命という非常時であることを理解して許そう」というような論文を書いたらしいのですね。

 そもそもロシアの大飢餓が、ボルシェビキ政権の人為的災害であったことが、ナンセンにはわからなかったのでしょうか。
 いえ……、わかったからといって、どうしようもないことだったから非難しなかっただけなのでしょうか。
 メリグーノフは訴えます。

 「黙っていられない」というトルストイの言葉を、なぜ、われわれはヨーロッパで聴かれないのか。ごく最近、革命時には平時以上に倫理的価値を守ることが必要であると見たロマン・ロラン(フランスの作家)は、レフ・トルストイに近いと思われるのに、なぜ、「人間的良心の神聖な要求」の名の下に声を挙げないのか。なぜ、国際連盟は人間と市民の権利に沈黙しているのか。

 メリグーノフは、ドイツの社会民主主義者で、ソビエト・ロシアのボルシェビキ独裁を痛烈に批判しておりましたカール・カウツキーに心酔していたようでして、けっして白色テロルに同調する立場にいたわけではありません。
 グートマンもまた、反共と言いましても、反ボルシェビキ独裁であったと、理解するべきでしょう。
 グートマンの「ニコラエフスクの破壊」を英訳しましたエラ・リューリは、1993年に至ってなお、こう述べています。

 読者の中には、著者のグートマンが、自らの強烈な反共精神に基づいて、パルチザンが犯した残虐行為を、大幅に誇張して記述している、と感じる人もいるだろう。また、当然のことながら、ソビエトの文筆家達は、グートマンが、パルチザンを血に飢えた犯罪者達と位置付けていることに対して、強い抗議の声を上げている。ブージン・ビッチ、アウッセムは、それぞれの回顧録の中で、行き過ぎた行為があったことは認めているが、トリャピーツィンと数人の腹心達、特にラプタがやったことだ、と非難している。その一方で、個々の出来事に関する彼らの記述を見ると、本書の付録に収録しているものも含めて、他の目撃者の証言と一致しない。指揮した者達を許そうが許すまいが、このニコラエフスクの話は、スターリンがソビエト政権下では日常茶飯事と化すずっと以前に、ボルシェビキが無差別テロを実行した事実の、明白な証拠である。




 中央の白衣の人物が、ニコラエフスクを襲いました赤色パルチザンの中心人物、赤軍司令官ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンです。
 この写真は、1920年3月の日本軍決起以降、4月ころのものと推測されています。
 といいますのも、参謀長だった隻腕(片腕)のナウモフ(日本軍の襲撃で死亡)の姿がなく、背後には、日本居留民から掠奪した屏風が見えるからです。
 トリャピーツィンの左の女性が、ニーナ・レペデワ・キャシコ。ナウモフの後を継いで、参謀長になりました。
 ニーナの左隣、椅子にすわって足を組んでいます人物が、副司令のラプタ。

 ニコラエフスクの日本人居留民皆殺しの情報は、すでに3月、それを指令しましたトリャピーツィンの宣伝電文によって、日本軍もあらましをつかんではいたのですけれども、港が氷で閉ざされ、アムール川の氷が不安定な間、救援隊を出すことができませんで、ようやく5月、日本軍救援部隊がニコラエフスクに迫りました。
 ここへ来てトリャピーツィンたちは、「日本軍の保護の下で政権ができることを妨げるために」町を徹底的に破壊し、数千人を虐殺し、残った住民を強制的に引き連れて逃げたのですが、ただ一人ラプタのみが、救援日本軍を待ち伏せて戦いを挑み、戦死しました。

 追い詰められました赤軍パルチザン部隊は仲間割れを起こし、トリャピーツィンとニーナは処刑されますが、残った赤軍パルチザンは、町の破壊にも虐殺にも掠奪にも、異議をはさむことなく実行に参加していたくせに、です。トリャピーツィンとニーナ、そしてラプタにのみ、罪をかぶせて残りの人生を生きた、というわけです。

 
 
 ハバロフスク上空ですけれども、シベリアに飛ぶ日本軍の飛行機です。
 
 救援に向かいました日本軍は、「戦闘を前提にそちらへ向かっているわけではない。捕らえられた日本人(100人あまりです。事情がわかっていなかったハバロフスクの山田旅団長の停戦命令に従い、武装解除の上、投獄された軍人がほとんどで、一般居留民は、虐殺を逃れて日本軍兵営に逃げ込むことができた十数名のみ)の解放交渉に応じる用意がある」と、飛行機でビラを蒔くなどして呼びかけていましたにもかかわらず、全員が惨殺され、そればかりか町は破壊するは、住民を殺しまくるはのあげくに、犯人たちは逃げ去ったのです。

 日本の救援隊指揮官の談話などは、むしろ、真っ正面から戦いを挑んできて戦死しましたラプタにのみは、好意的です。写真で見る通りのいい男ですし、スタイリッシュでもあったそうです。
 また、このラプタが率いていました部隊の装備が、ですね。外套や毛布、缶詰などの食料に至るまで、すべて日本軍から掠奪したもので、最初、救援部隊は「日本のものをなぜ?」と首をかしげたそうなのですが、すぐに事情を察し、無念の思いに歯ぎしりをすることとなりました。

 私、この事件について、もう一度詳しく書く気にはとてもなりませんで、ぜひwiki-尼港事件をご覧になってみてください。
 ただ、つけ加えますならば、ハイパーインフレが起こり、ルーブルが紙くずになりまして、日本人の島田元太郎が発行しました紙幣の方が、信用を得ていました内戦期のシベリアです。
 指導層のロシア人にはユダヤ系が多く、日本人やイギリス人、アメリカ人が経済をささえていましたニコラエフスクには、金鉱もありまして、掠奪するにはおいしい都市だったでしょうし、そのわりには駐留日本軍の数が少なく、交通が途絶されて救援部隊が容易には派遣できません冬期を狙えば、赤軍支配が簡単に実現できる、と見られていたのでしょう。
 また、これは私の憶測でしかないのですが、パルチザン部隊は中国砲艦に事前にアプローチして、味方についてもらえる約束ができていた可能性が高いのではないでしょうか。

 ニコラエフスクの白軍守備隊の数は、多いときでも500人くらいだったそうでして、それくらいの数ならば、給料を払いえた、ということなんですが、それが、10倍近い4000人もの赤軍パルチザン部隊と入れ替わったわけです。掠奪をしなければ、とうてい、食べさせていける数ではありません。
 また、どうしてそれだけの人数を集めることができたか、ですが、勢力を得てからは強制動員をかけたにしましても、当初、ほとんど経済的基盤のありませんでしたパルチザン部隊が、雪だるま式に増えたにつきましては、ニコラエフスクへ至るまでにそうとうな掠奪を行い、またニコラエフスクでのおいしい掠奪がえさにされていたらしい、と、推測できる証言も多々あります。

 結果、ニコラエフスクでなにが起こったのか、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5でご紹介しました、エラ・リューリと同じ年の女の子、石田虎松副領事の遺児、石田芳子が記しました「敵を討って下さい」の続きを、溝口白羊の「国辱記」から引用します。

 三月の末でしたお家の新聞に
 ニコラエフスクの日本人が、
 一人残らずパルチザンに殺されたと書いてあったので
 あたしビックリして泣き出しました
 おばあ様もおどろいて、これはうそだ
 何かのまちがひだと云ひました
 さうよ、きっと何かのまちがひよ
 けれども何やら心配で、その晩
 こわいこわい夢を見ました。
 これが嘘であればいい、まちがひであればいい
 お父様やお母様はご無事でせうかしら
 今頃綾ちゃんや赤ちゃんはどうしてるかしら

 うそだと思っていたことが、ほんとうでした
 大変大変まあ、どうしたらいいでせう
 お父様もお母様も、
 綾ちゃんも赤ちゃんもみんな殺されてしまいました。
 仲のよかったお友達も
 近所に住んでいたおばさんも小父さん達も彼も
 みんな殺されてしまひました
 槍でつかれたり、鉄砲でうたれたり
 サーベルで目の玉をえぐられたり
 八つ裂きにされたりして殺されたのです
 まあ何と云ふむごいことをするのでせう
 にくらしい狼の様なパルチザン

 お家は焼かれるし、お金はとられるし
 はだかにされて、なぶり殺しにされる時
 まあどんなにかうらめしかったでせうね
 死ぬる時には、日本の方を伏し拝んで
 どうかお国の人達よ、この敵を討って下さいと
 きっと涙をこぼして願ったでしょう
 敵を討ってくれる人は
 お国の人よりほかに無いのですもの
 敵を討って下さい、どうか敵を討って下さい
 そしてうらみを晴らしてやって下さい
 もしもこのうらみが晴れなかったなら
 殺された人たちは、死んでも死ねないでせう

 
 女子供も容赦なくなぶり殺された中で、わずかに命が助かった子供の話を、したいと思います。

 中華民国の砲艦は、白軍に攻撃され、日本軍の関与も疑っていましたので、赤軍に共感を抱いていたのですが、基本的に中華民国は、日本と同じく連合国側なのです。公然と日本軍や日本人攻撃に加わりますことは、外交上、非常な問題をかかえた行為だったのですが、パルチザン部隊に300人の中国人が加わっていたことも手伝い、やってしまいます。

 そのため、ニコラエフスクの2000人の華僑の安全は守られたともいえ、そして華僑たちの多くは、決してニコラエフスクの知識人や指導者、富裕層、そして日本軍と日本人に反感を持っていたわけではありませんで、個人的なつながりのある人々を、なんとか助けようとしました。
 日本人で、中国人にかくまわれて助かりましたのは、主に、中国人や中国人と親しいロシア人の内縁の妻になっておりました十数名の女性にすぎないのですが、その中に、三人の親子が、まじっていました。
 佐藤さきとその幼い二人の子供、ツユと杢之助です。

 さきの夫・佐藤林吉は、長崎出身の仕立て職人で、1914年、第一次世界大戦開戦の年に、ニコラエフスクへ渡ってきました。
 林吉は、義勇兵として日本軍に加わって早くに戦死してしまい、日本人虐殺がはじまって、さきは二人の子供をかかえてふるえているしかなかったのですが、知り合いの日本人女性の夫が中国人で、中国人たちにかくまわれ、一度は捕まったのですが、中国領事の尽力で釈放され、最後は中国砲艦に乗せてもらって、逃げることができたのだそうなのです。
 日本人の子供で、生き延びることができたのは、この二人だけでした。

 次に、子供ではありませんが、生き延びました不思議な日本人夫婦のお話を。

 ニコラエフスクを破壊し、アムグン川上流のケルビ村に逃れてなお、トリャピーツィンたちは虐殺を続けていました。
 日本の救援軍がニコラエフスクに入って20日、6月23日になって、ロシア人二人が日本海軍の部隊に「日本人の夫婦がトリャピーツィンたちの迫害を受けそうだ」と言ってきました。さっそく救出に向かいましたところ、親日家のギリヤーク人に助けられた二人に行き会い、無事保護することができました。

 この二人、埼玉出身の山本粂太郎と島根県出身の日高たつのは、内縁関係だったらしいのですが、ニコラエフスクの西方200キロの山の中に住んでいたんだそうなんです。粂太郎が30、たつのが40くらいの年齢だった、というような記事もありまして、そうだったとすれば、妻の方が十歳年上、ということですよねえ。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3で書きましたが、ニコラエフスクには、出稼ぎをしている水商売の女性が、100名近くいました。想像のしすぎかもしれませんが、たつのさんは水商売の女性で、粂太郎はたつのさんに惚れて、年季が明けるのを待っていっしょになった、とか。
 しかし、それにいたしましても、シベリアの山の中で二人っきりで暮らしていた、というのが、なんだかすごいですよねえ。

 エラ・リューリのいとこたち、7歳の男の子と5歳の女の子ソフィヤも、ともにアブラハム・リューリ(エラの父メイエルの弟)の子供なんですが、両親と日本人の乳母を失いながらも、祖母に守られて生きのびることができました。

 ニコラエフスクにパルチザンが押しよせましたとき、アブラハムは兵役で白軍に加わっていて、近郊のマリンスコエ村に出かけていて留守でした。
 アブラハムの母アンナと妻エステル、そして二人の子供達だけの家にパルチザンは上がり込み、ついには接収して、一家は裏庭の小屋へ追い出されます。
 金目のものはすべて掠奪され、エステルは身につけていた指輪とブローチまで、その場で奪われました。
 3月9日、ですから日本軍決起より前の話なのですが、エステルは理由もなく逮捕され、監獄で殺されてしまいます。

 ニーナ・レベデワは、殺したエステル・リューリの毛皮のコートを奪い、堂々と公衆の面前に着て出ていたそうでして、私、臆面もないのはニーナの個人的資質なのだとばかり思っておりましたら、何で読んだのだったか、そもそもソヴィエト・ロシアのボルシェビキ政権が、毛皮のコート没収令を出していたんだそうです。毛皮は労働者にこそ必要なものだ、といいますので、片っ端から毛皮のコートを没収し、しかし結局は、役得、というんでしょうか、政権の中枢にいる者が恣意的に自分のものにしたり、気に入った人物に与えたりしていたそうでして、ニーナが特別恥知らずなわけではなく、ボルシェビキ独裁政権下では、あたりまえのことだったんです。

 アブラハムがいつ捕まったのかはわからないのですが、妻のエステルと同じく処刑されます。
 日本軍が決起したときには、二人の子供の日本人の乳母が殺されました。
 アンナ・イリニシュナ・リューリの証言です。

 「うちの御者がやって来ました。その男は、孫達の乳母が日本人で、私たちと一緒にいることを知っていました。彼は、私に言いました。『ばば様、お前さまもつらいだろうが、日本人のうばさんに今すぐ出てってもらった方がいい』 そして、彼女の方を向くと、言いました。『さあ、出て行きな』 すがり付くすべもなく、彼女は外に出ました。そして、裏庭から通りへ、突き出されました。彼女はそこで殺されました」

 アンナは、知り合いの中国人や朝鮮人などに助けられ、なんとか孫を守って生き延びました。
 6月、日本の救援部隊がニコラエフスクに入った後、エラの父メイエルは、船をチャーターし、日本海軍の許可を得てニコラエフスクに向かい、他の人々とともに、母のアンナと幼い甥、姪を救出しました。
 救出された人々が、日本へ着いたときのことを、エラは70年の後にも鮮明に覚えていて、次のように記しています。
 「人々は、まるでボロきれのようで、皮膚病に苦しんでおり、見ていて悲惨だった」

白系ロシア人と日本文化
沢田 和彦
成文社


 アンナ・リューリとエラの両親の墓は、横浜の外人墓地にあるのだそうです。
 わずか5つで、尼港事件に遭遇し、両親を亡くしましたソフィヤは、メイエル・リューリに引き取られてエラと姉妹のように育ち、沢田和彦氏によりますと、「白系ロシア人と日本文化」の「漁業家リューリ一族」が書かれました時点(2007年ころ)では、東京に健在でおられたとのことです。

 エラは、ソ連崩壊後の1993年、80を超えて、故郷の惨劇の記録であります「ニコラエフスクの破壊」を英訳出版し、2005年、96歳にして、その生涯を閉じました。遺灰はハワイから日本に運ばれ、横浜外人墓地の両親や最初の夫、娘の墓の傍らにまかれました。

 貨幣研究者の齊籐学氏が、生前のエラから許可を得られ、2001年、「ニコラエフスクの破壊」を和訳出版されましたことは、日本におきます尼港事件の研究に、大きな光をもたらしたのではないでしょうか。
 
 このシリーズ、一応、これで終わりたいと思います。
 実は、最近、近藤長次郎の妹さんのご子孫の方にお会いしまして、ちょっとユニオン号事件に帰るつもりでおります。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.7

2012年11月20日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.6の続きです。

 お話を、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4で書きましたドクトル・ジバゴにもどします。

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ドクトル・ジバゴ (新潮文庫)
江川 卓,ボリス・パステルナーク,Boris Leonidovich Pasternak
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 パルチザン部隊から脱走しましたユーリ・ジバゴと、夫パーシャ(ストレルニコフ)が失脚しましたラーラと、ボルシェビキ政権から要注意人物視され、逮捕の危険にさらされました二人を、ラーラの昔の愛人コマロフスキーが、極東に誘います。
 そのときのコマロフスキーの台詞が、原作小説では、以下のようなのです。

 「いま沿海州、太平洋沿岸地域ではですね、顛覆された臨時政府や解散させられた制憲会議に依然として忠誠を誓う政治勢力の結集が進行しているんです。旧国会(ドゥーマ)議員、社会活動家、元地方自治機関(ゼムストヴォ)の有力者、実業家、工場主といった人たちが同地に集まってきています。白系の義勇軍部隊の将軍たちも、あそこに残存兵力を集結させています。
 ソヴィエト政権はですね、この極東共和国の成立を見て見ないふりをしているのです。辺境地帯にこういうものができるのは、赤色シベリアと外の世界との間の緩衝地帯になるわけです。ソヴィエト政権にとっても好都合なんですな。この共和国の政府は連立政権ということになるはずです。閣僚の椅子の過半数は、モスクワの要求で共産党員に留保されることになりましたがね、モスクワは、その過半数にものを言わせて、その機が熟したら、クーデターを起して、共和国を手中におさめようと狙っているわけです。この狙いは見えすいたことでしてね、ですから、問題はただ一つ、残された時間をいかに有効に活用するかなんです」


 極東共和国樹立宣言が1920年4月6日、つまり尼港事件の最中のことでして、としますと、ドクトル・ジバゴの映画におきまして、ユーリとラーラがベリキノの氷の宮殿で最後の時を過ごしましたのは、ちょうど尼港事件のころであり、コルチャーク政権の時代、ユーリはほとんど、パルチザン部隊に連れ回されていた、ということになるのでしょうか。
 ちなみに、ユーリはラーラ一人をコマロフスキーとともに極東へ逃がし、自分はモスクワへ帰ることになります。ラーラは極東でユーリの子を産むのですが……。

 激動のロシア。
 コルチャーク政権の崩壊は、すさまじい悲劇を引き起こしました。
 なんで読んだのか忘れてしまいまして、個人の方のサイトに「バイカル湖の悲劇」と題して載っているのですが、典拠がわかりません。
 ともかく、赤軍に追われました125万人の白軍関係者が東をめざしたのですが、そのほとんどが途中で凍死してしまい、やっとのことでイルクーツクまでたどり着きました人々の前に、ひろがっておりましたのが凍りついたバイカル湖です。
 25万の人々が氷上を進むうち、吹雪におそわれて全員が凍死し、遺体はそのまま凍りついて湖上の彫像となってしまったのだそうなんです。

 この人々の中には、女、子供がたくさんいたわけなのですが、これは、赤軍が人質制度(!)をとり、政敵の妻子、親族、友人を連座させたからです。
 コルチャークの愛人だったアンナ・ヴァシリエヴナ・チミリョーヴァが長年ラーゲリーに放り込まれたのも、夫が失脚してラーラが逃げなくてはならなくなったのも、そのためです。

 
ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム
セルゲイ・ペトローヴィッチ メリグーノフ
社会評論社


 この「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」に、イギリス領事ロッカートが1918年11月10日に記した文章が引用されています。
 「ボルシェビキは人質を取るという忌まわしい慣例を復活させた。さらにひどいことに、彼らは政敵を撃ち殺し、彼らの妻に復讐した。最近ペトログラードで多数の人質名簿が公表されたとき、ボルシェビキはまだ逮捕されていない者の妻を捕らえ、夫が出頭するまで彼女らを監獄に抑留した」

 抑留されるだけでしたらまだしも、なのですが、チェーカー(ボルシェビキの秘密警察)は拷問を許容していましたし、惨殺にいたることもしばしば、でした。
 この連座制は「復活させた」といいますより、ソビエト・ロシア共産党独裁政権の発明ともいえるものでして、以降、各国に伝搬しまして、現在でも北朝鮮で行われていることですし、中国でもまだ、廃止されたとは言えない状態です。

 ロシア革命の亡命者は、全部あわせますと百万をはるかに超えます。
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5で書きました皇太后マリア・フョードロヴナのように黒海経由、ペテルスブルグ生まれの日本学者セルゲイ・エリセーエフがたどったフィンランド経由が、主なヨーロッパ・ルートでして、この場合は、大方、最終目的地がフランスです。
 なにしろ、貴族やインテリ層のロシア人は、フランス語が自国語のように話せました。

 とはいいますものの、子供のころ、一家で黒海経由、パリに亡命し、フランスの小説家となりましたアンリ・トロワイヤの祖母はコーカサス生まれで、チェルケス語を母語とし、フランス語どころかロシア語もろくに話さなかったのだそうです。

 ドクトル・ジバゴのラーラは、コマロフスキーと極東へ行き、極東共和国の終焉とともにコマロフスキーはモンゴルへ逃れ、映画では、ラーラは幼い娘(ユーリの子)とモンゴルではぐれたことになっています。
 モンゴルというのは、現在の内モンゴル、中東鉄路(東清鉄道)が通っています満州里なども含みますし、シベリアの農民やコサック、ブリヤートなどが、村ごと集団で亡命したケースが多かったでしょう。ボルシェビキはあらゆる宗教を弾圧しましたから、信仰のためにそうしたケースもけっこうあります。

 個人ルートとしましては、コルチャーク政権の崩壊前後、そして、日本軍がシベリアから撤退し、極東共和国が崩壊しました1922年を中心としまして、主には、シベリア鉄道から中東鉄路を乗り継ぎ、鉄道付属地で、ロシア人の自治が行われていましたハルビンへ行くか、そこからさらに、天津や上海など中華民国の租界へ行くケースと、ウラジオストク経由船便、あるいは鉄道で朝鮮や日本の港に渡り、さらに上海やアメリカに渡るケースが多かったのではないでしょうか。

 1919年10月、ニコラエフスクは平和で、政変の予兆などまったくありませんでしたことは、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3でご紹介しました、人類学者・鳥居龍蔵の「人類学及人種学上より見たる北東亜細亜. 西伯利,北満,樺太」で、うかがい知ることができます。

 オムスクはシベリアの西の端で、極東のニコラエフスクからは遠いですし、その遠いオムスクで、チェコ軍団の引き上げが決まり、コルチャーク政権が崩壊し、それによってニコラエフスクまでが赤軍パルチザンに襲われようとは、予想もできなかったことだったのでしょう。

 ただ、鳥居龍蔵は、「中国の砲艦が自国民保護のためにニコラエフスクで越冬するというのに日本の軍艦は引き上げてしまったと、在留邦人は残念がっている」というようなことを、述べています。
 ニコラエフスクには、2000人あまりの華僑がいたのですけれども、中国の砲艦は別に、華僑保護のために越冬しようとしていたわけではありません。
 CiNiiに有料でありますが、伊藤秀一氏の『ニコラエフスク事件と中国砲艦』(ロシア史研究23 収録)に詳しく、概略はwiki-尼港事件にまとめてありますので、ご参照ください。
 要するに、中華民国の北京政府(北洋軍閥政府)は、ロシア革命の混乱に乗じ、アムール川の通行権を拡張しようと砲艦4隻を送り込んだのですが、白軍のアタマン・カルムイコフ軍の砲撃を受け、やむなく引き返して、ニコラエフスクで越冬することとなりました。

 しかし結局、この砲艦が赤軍パルチザンの味方になりましたことから、ニコラエフスクの日本軍は敗北を喫し、在留邦人は皆殺しになったとも言えるわけでして、在留邦人たちが中国砲艦の船影に不吉なものを感じていたのだとしましたら、その予感は、まさにあたっていました。
 事後の「たら」話は意味がないものではあるのですが、もしかしてこうしていたら尼港の惨劇はふせげたのではないか、ということの一つが、日本海軍も砲艦数隻をニコラエフスクで越冬させていれば、ということです。
 日本軍が中国艦隊を上回る砲艦を持っている、といいますそれだけのことで、赤軍パルチザンの暴虐は、押さえることができた可能性があります。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3で書きましたが、冬のニコラエフスクの人口は12000人。
 その半分以上、6000人を超える住民が惨殺され、日本軍守備隊と在留邦人、あわせて731名も、老若男女の別なく皆殺しとなりました尼港事件について、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1ですでに引用いたしましたが、井竿富雄氏は、『尼港事件と日本社会、一九二〇年』において次のように書いておられます。

 軍人が武装解除されて殺害、民間人のみならず国際法上保護されているはずの外交官まで殺害されるという、これまでに日本が経験したことのない大惨事であった。この事件で邦人殺害を指揮したパルチザン部隊のリーダーたちはのちにボリシェヴィキ政権によって処刑された。機密文書である参謀本部の『西白利出兵史』ですら「千秋ノ一大痛恨事録シテ此ニ至リ悲憤ノ涙睫ニ交リ覚エス筆ヲ擲ツ」と感情的な一節を書き記している。

 エラ・リューリも、80を超えて「ニコラエフスクの破壊(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR)」を英訳し、その書の前文に、次のように書いています。

 本書の翻訳は、私にとって、大変心の痛む作業であった。この惨劇に、私の家族が巻き込まれていたから、というだけでなく、テロ行為を行った人間のおぞましさが、事細かに記述されているからである。

 事件からすでに100年の歳月が流れているのですが、生々しい当時の証言を読みますと、「ふせぐことができていたならば!」と、痛切に思わずにはいられません。

 ロシア内戦では、バイカル湖の悲劇のような大規模な惨劇があたりまえのように生じ、数の上から言いますならば、6000人の惨殺も、たいしたものとは言えないのかもしれません。
 人道の港 敦賀ムゼウムにポーランド孤児の話が載っておりますし、外務省の「外交史料 Q&A 大正期」にも概略が載っておりますが、多くのポーランド人が内戦にまきこまれ、あるいは祖国独立のために白軍に参加し、ボルシェビキによる迫害を受け、シベリアでは孤児がさ迷っておりました。
 もちろんそれは、ポーランド人だけではなく、ドクトル・ジバゴのラーラとユーリの子供が孤児になりましたように、多くのロシア人孤児たちもいたわけです。

 あるいは、尼港事件の翌年、1921年から1922にかけましてのロシアの大飢餓は、梶川伸一氏の「幻想の革命―十月革命からネップへ」に詳細が載っておりますが、人肉食があたりまえになったほどにすさまじいもので、伝染病も手伝い、死者は500万人とも3000万人とも言われております。

幻想の革命―十月革命からネップへ
梶川 伸一
京都大学学術出版会


 もっとも飢餓が深刻でしたヴォルガ地方のサマラ県(現在のサマラ州)において、1921年12月16日のソビエト大会で述べられました報告の最後は、次の言葉で結ばれていたのだそうです。

 「状況は非常に苦しい。このことについて、われわれは全ロシアと外国に語らなければならないし、援助は十分ではないとの農民の声に耳を傾けて欲しい。もしこの援助が近い将来に増えないなら、何万もの農民は死滅し始めるであろう。今や彼らは何千となって死滅しつつある。人間の死体が掘り起こされて食べられ、飢餓で正気を失って、肉を食べるために自分の血を分けたわが子に襲いかかるとの情報を、われわれは持っている」

 「ポヴォーロジエ(Povolzhye)飢饉」で検索してみてください。おぞましい写真がいくつも出てくるのですけれども、これは決して、捏造ではないんです。

 この飢餓は、天災も手伝ってはいるのですけれども、人為的、構造的なものでもありまして、人類史上初のロシア共産主義革命は、目のくらみますような大量虐殺を巻き起こしながら、壮大な実験を続けていきます。やがてこれは中国に受け継がれ、北朝鮮に、ベトナムに、カンボジアに、世界中に飢餓と虐殺の赤い嵐が巻き起こることになっていくわけでして、尼港事件は、規模としましてはささやかなんですけれども、おぞましい、典型的な赤色テロルであったことに、まちがいはありません。

 長くなりましたので、続きます。次回で終われるのではないかと、思っています。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.6

2012年11月18日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5の続きです。

 日本におきまして、ロシア革命の本はけっこう多いのですけれども、ロシア内戦の本は、あまり出されていないように思います。
 「ロシア革命の本」といいますのは、基本的には、1919年10月のボルシェヴィキ革命を肯定している場合が多く、自然の流れとしまして、それに抵抗しました勢力の大方を反革命勢力と規定し、多大な死者と亡命者を出しました内戦の実体を、きっちり描いてくれてはいないように思うんですね。
 それでまあ、冒頭から映画の紹介になりますが。

提督の戦艦 [DVD]
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"Адмиралъ" (The Admiral) - Trailer B (English subtitles)


 いや、映画として、決しておもしろいわけではないんですけれども……、なにしろコルチャーク提督の伝記の和訳がありませんで。
 なにがおもしろくないって、映画の制作者もどう描けばいいかとまどっていたのでしょうか。コルチャークがなにをめざして行動していたのかがよくわからない描き方ですし、かといいまして、話の中心になっています不倫の愛に感情移入できるかといいますと……、これがまたさっぱりでして。

 しかし、それにしても、ですね。
 コルチャークの愛人だった、といいますのは、日本でいいますならば、桐野利秋の愛人だった、といいますのとあまり変わらないと思うのですが、アンナ・ヴァシリエヴナ・チミリョーヴァは、それが理由で長期間ラーゲリー入りしたそうでして、ほんと、共産主義って怖いですねえ。

 アレクサンドル・コルチャークは、日露戦争にも参加経験がありますロシア海軍の提督でして、第一次世界大戦では、バルト海最奥のフィンランド湾で、対独戦に活躍しておりました。
 映画がどこまで事実を描いているのかさっぱりわからないのですが、ケレンスキーとの関係は悪くなかったようでして、1917年2月革命の後、臨時政府によりましてアメリカに派遣され、映画では出てきませんけれども、その後、日本にも来ていたんだそうなんです。

 ロシア内戦期、連合国の支持のもと、白軍を指揮しまして、オムスクを中心とし、ウラル以東、シベリアに政権を樹立していましたが、赤軍に敗れ、銃殺されました。
 したがいまして、ソ連におきましては長らく、反動的な帝国主義の反逆者でしかなかったわけなのですけれども、ソ連が崩壊し、ロシアの時代になりまして、映画の主人公となって肯定的に描かれ、2003年、イルクーツクに銅像が建てられているそうです。



 一橋大学機関リポジトリで、細谷千博氏の「シベリア出兵の序曲」が公開されております。その二章「ボルシェビキ革命と日本の最初の反応」に出てまいりますが、10月革命直後の1917年11月21日、ボルシェヴィキ政権の外務人民委員トロツキーは、ペトログラード駐在の連合国外交代表に、新政権の成立を通告し、同時に、「ドイツなどの同盟国側と即刻に停戦し、単独講和協議をはじめるので了承してくれ」と要望しました。

 えーと。西部戦線で、イギリス、フランスは国家の総力を傾けて苦戦中です。
 アメリカは参戦を表明しましたが、まだ、フランスの戦線には加わっていません。
 ロシアが、「一ぬけたっと!!!」と叫ぶのを、黙って見ているはずがないんです。
 しかし、ボルシェビキ政権が国民多数の支持を得るには、停戦を実現させるしか、道はありませんでした。

 ボルシェビキ政権の中心にいますのは、ドイツが送り込み、莫大な資金を提供されたとまで噂されましたレーニンです。
 正真正銘、10月革命以降のロシアには戦う気がないとわかっていましたドイツは、休戦が終わりました1918年2月、大きく攻勢に出て、ペトログラードまで攻めよせてきそうな勢いでした。
 そのため、ボルシェビキ政権は、講和交渉で譲歩の上にも譲歩を重ねまして、現在のバルト三国、ベラルーシ、ウクライナにまたがります広大な領土をドイツに割譲することで、1918年3月3日、ようやく、ブレスト=リトフスク条約を結び、単独講和にこぎつけました。

 しかし、ですね。
 ベラルーシ、ウクライナの穀倉地帯、バルト三国の資源、工業地帯を失い、ロシアの飢餓はますますひどいものとなります。当然のことですが、連合国からは敵視はされますし、ボルシェビキ政権は求心力を無くして、ロシアは内戦に突入します。
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4に追記しておりますが、1918年、ブレスト=リトフスク条約の後にこそ、飢餓も鉄道輸送の麻痺も、より深刻なものとなり、人々は食料を求めて地方への移住を開始しします。

飢餓の革命―ロシア10月革命と農民
梶川 伸一
名古屋大学出版会


 梶川伸一氏の「飢餓の革命―ロシア10月革命と農民」によりますと、10月革命以降の飢餓は穀倉地帯を失ったためとよくいわれますが、かならずしも、それだけが原因では、なかったみたいなんですね。
 戦争が終結しましたことによって、復員がはじまります。
 都市の戦時労働者も、多くは職を無くして、農村に帰る者も続出します。

 ボルシェビキ政権は、臨時政府のときからの穀物買い取り価格を、そのまま固定したのですが、これが異常なまでに安いものになっていまして、例えば衣料など、他の生活必需品の値段は高騰していますから、そんな価格で穀物を売り渡したのでは、農民は生活できません。
 そんなわけでして、農民自身や、復員兵や戦時労働者だった貧民などが、いわゆる担ぎ屋になりまして、闇で売買することになったんですね。
 そうできなかった穀物は、多く、サモゴンカ(密造発酵酒)に化けてしまったのだそうです。

 ところがなにしろボルシェビキ政権にとりましては、「農民が生産する穀物は国家資産であり人民資産」でして、「穀物の国家専売」が正義です。やがて、それは暴力的に実行されていき、内戦末期の1921年から1922年にかけましては、ポヴォーロジエ(Povolzhye)と呼ばれますすさまじい飢饉が起こり、人肉食もあたりまえとなって、大戦の戦死者を上回ります500万人(一説には3000万人)が餓死したといわれます。
 これにつきましては、下の「幻想の革命―十月革命からネップへ」に詳しく載っています。

幻想の革命―十月革命からネップへ
梶川 伸一
京都大学学術出版会


 復員がはじまり、また都市部の飢えで、農村回帰をする労働者が増え、一人あたりの農地面積は少なくなって、とても暮らしていけなくなりましたロシア西部、中央部から、シベリアへの移住希望者が激増します。
 戦時中のロシアでは、農民の他村への移住は禁じられていました。しかしそれが解禁され、1918年の4月からは、一月に2万人を超える移住者が、シベリアに向かったんです。農民だけではなく、ドクトル・ジバゴ一家のように、モスクワでは飢え死にするしかないと見極めて、東へ向かう人々も多かったのでしょう。

 ところがそのシベリア鉄道は、戦時中にもまして、運行が麻痺しておりました。
 とりあえず戦時輸送は終わりを告げたのですが、復員の混乱が始まり、さらにシベリアとウラルの収容所にいました100万にのぼりますドイツ・オーストリア・ハンガリーの捕虜を帰国させるため、西へ輸送しておりました。
 そこへもってきまして、ケレンスキー攻勢で大活躍をしました数万のチェコ軍団が、反対に東へ向かうこととなったのです。

 なにしろロシアは、ドイツ・オーストリア・ハンガリー・トルコなど同盟国と単独講和を結びました。
 オーストリア国民でありながら、独立を志し、敵対して戦っておりますチェコ軍団は、同盟国側に捕まりました場合、その場で銃殺されても文句は言えない立場です。
 フランスの画策もあり、結局チェコ軍団は、シベリア鉄道で極東ウラジオストクへ出まして、太平洋を渡ってアメリカを経由し、大西洋を越えフランスへ行き、西部戦線に参加する、という計画が立てられました。

 ところがこれが、スムーズに進まなかったんですね。
 シベリア鉄道では、飢えた国民が、大挙して東に向かっている最中です。
 1918年5月、チェコ軍団の一部は、すでにウラジオストクに到着していましたが、いまだ大部隊が西部ヴォルガ地方、ペンザ市、シベリア鉄道の起点チェリャビンスク(ニコライ2世一家が殺害されましたエカテリンブルクのすぐ南です)に残り、ノヴォシビルスクなど、シベリア沿線途中にいる部隊もある状態で、完全に停止してしまいました。
 
 いったいいつになればロシアを出国できるのか、チェコ軍団は苛立ちを募らせていたのですが、そこへもってきまして、各所で西へ向かっておりますオーストリア・ハンガリーの帰還捕虜たちと遭遇して小競り合いを起こし、ついにチェリャビンスク駅で殺傷事件が起こります。
 
 ボルシェビキ政権は慌てました。
 ドイツを拝み倒すようにして結びました講和条約です。なにがなんでも迅速に、捕虜を帰国させなくてはならず、その障害となりますチェコ軍団は、やっかいなだけでした。
 そこで、軍事人民委員で最高軍事会議議長のレフ・トロツキーは、チェコ軍団輸送にかかわります鉄道沿線のすべてのソビエトに、なにを血迷ったのか、「チェコ軍団を武装解除し、逆らえばその場で銃殺しろ」というとんでもない命令を発しました。

 馬鹿ではないのでしょうか。
 ロシア国内に、チェコ軍団を武装解除できるほどの健全な軍隊が残っていれば、屈辱的な譲歩を重ねてまで、ドイツと講和条約を結ぶ必要もなかったでしょう。

 命令に従い各地ソビエトはチェコ軍団を武装解除しようとし、当然のことですが、チェコ軍団は怒って反撃に出ました。
 結果、ヴォルガ地方、ウラル、シベリアの各地で、チェコ軍団はソビエトを倒し、ボルシェビキ党と軍事コミッサールの指導者の方が、銃殺されることになったんです。
 喜んだのは、ロシアの反ボルシェビキ勢力です。

 反ボルシェビキ勢力といいましても、これが多種多様でして、ケレンスキーが所属しておりました社会革命党やメンシェビキなど、社会民主主義的な勢力から帝政派(帝政派といいましてもここまできますと立憲君主主義者がほとんどなのですが)、地域分離主義(例えばシベリア独立派)などさまざまで、まとまりのつきようがなく、その点、一党独裁で強固に一本化しましたボルシェビキに負けておりました。

 ボルシェビキの軍隊が赤軍を自称しておりましたために、これら反ボルシェビキの軍事勢力を白軍と呼びますが、最近では、社会民主主義的な勢力の軍であった場合、ピンクなどと呼ぶこともあるようです。ちょっとこれは、馬鹿馬鹿しい気がしまして、反ボルシェビキであれば、すべて白軍としておきます。



 上は1914年、世界大戦開戦の年のニコライ2世一家ですが、一家が、監禁されておりましたエカテリンブルクにおいて、1918年7月17日、ボルシェビキのチェーカー(秘密警察)指揮で惨殺されましたことも、チェコ軍団の蜂起と関係がなくはありません。
 なにしろ近くのチェリャビンスクで、チェコ軍団によってソビエトが倒され、白軍が勢いを得ていましたので、元皇帝一家が白軍に奪われ、反ボルシェビキ運動にさらなる拍車がかかることを、ボルシェビキは、怖れずにいられなかったわけなのです。

 フランス・イギリスを中心とします連合国は、ボルシェビキ政権が、連合国側の秘密外交文書を暴露しましたあげくに単独講和し、帝政ロシアの多大な債務を放棄すると宣言したことで怒り心頭に発しておりまして、しかも、ロシア側の事情を考慮して、シベリア・アメリカ経由でのチェコ軍団ロシア退去となったにもかかわらず、です。「武装解除に応じなければ銃殺!!!」なんぞと、馬鹿げたことをわめくボルシェビキ政権を、なんとかできないものかと嘆息しておりました。

 とはいいますものの、国家の総力を傾けてドイツと戦っておりますフランスとイギリスに、ロシアの内政に干渉する兵力の余裕が、ありえようはずもなく、日本とアメリカを誘っていたのですが、これがなかなか、調整がつきませんでした。
 そこへ、僥倖のようなチェコ軍団の活躍です。
 フランスの西部戦線は遠いですし、これでロシアの白軍が勢いづき、ボルシェビキ政権が倒れてくれたとすれば、儲けものです。

 シベリア出兵をしぶっておりましたアメリカに、「独立を志すけなげなチェコ軍団が、シベリアでいじめられているんだぜい! あいつら(ボルシェビキ)は、ドイツを引き込んで、シベリア鉄道を支配させてしまうかもしれない。ぜひ日本といっしょに、チェコ軍団救出のために出兵してくれ」ともちかけます。

 そんなわけで、アメリカは出兵の決心をしますと同時に、日本にも共同出兵を提案し、1918年8月、チェコ軍団の蜂起からわずか3ヶ月足らずで、日本のシベリア出兵は実現したのですけれども、その経緯に関しましては、私、まだ文献をあさっている最中でして、またの機会に譲ります。

 

 上は、シベリア出兵を描きました当時の日本の画帳『救露討獨遠征軍画報』のうち、ウラジオストク上陸を描いたものです。
 ものすごくりっぱなイラスト集みたいなのですが、いったい、どのくらいの部数出版されて、どのくらい売れたのでしょうか。
 
 さて、ニコラエフスクです。
 1918年、ニコラエフスクにおきましても、エラ・リューリによりますと「住民の多数派から支持を受けたわけでもないのに」、短期間ながら、ボルシェビキのソビエトによる支配が強行されました。しかし、当時の赤軍はサハリン州(以前に書きましたが、この当時のサハリン州は北樺太+アムール川下流域です)全体でわずか300人でして、ボルシェビキは行政権は得ましたものの、経済全体を統制することはできませんで、鉱山と河川輸送を国有化しただけで、他の私企業はそのままでした。
 しかし、このおだやかな政策はボルシェビキからは非難を受け、そのことが、尼港事件直前、再来しましたときの暴政につながっていったようです。

 ただ、ですね。
 1917年(大正6年)12月9日付けですから、最初のボルシェビキ政権下の話として、大阪朝日新聞が島田元太郎の談話を、次のように伝えています。(神戸大学電子図書館 新聞記事文庫 大阪朝日新聞 1917.12.9(大正6) 在露邦商陳情

 私の店でも従来七名の露国人を使役して居ましたが例の雇人組合から増給せよとか主人の権力を認めないと云う様な通牒がありましたので出発前に全部解傭し現在では日本人許りを使用して居ます斯う云う時にそれが露西亜人であると解傭ところでは済みません反対に被傭人の方から非道い目に遇います西伯利亜随一の大商店たるチウリン等も滅茶々々になりました

  つまるところ、島田元太郎は、「ニコラエフスクの私の店でもロシア人7名を雇用しておりましたが、組合から『給料を増やせ、主人の権力は認めない』と言ってきましたので、日本へ帰る前に全部解雇して、使用人は日本人のみにしました。しかし、経営者がロシア人であれば解雇してすませるわけにもいきません。西シベリア一の大商店だったチューリン商会も、それで、めちゃくちゃになってしまいました」と言っているわけです。

 島田はまた、ウラジオストクの状況についても、以下のように述べています。

 烏港(ウラジオストク)は割合に能く治安が維持されて交通機関も平常の如く運転し小学校等も開校して居ますがそれでも過激派の勢力は此の地にも及び労働者や義勇兵等は皆其の群に投じ上長の命令等少しも行われず労働者や兵士は遊んで居ても一箇月一千留から一千五百留迄の収入があって官吏や士官は却て夫れ以下の収入に泣いて居る先月米国の軍艦が一隻入港しましたが烏港の治安は寧ろ同艦の入港によって維持される観がある夫は露国人自身が自国の混乱に困り心ある人は外国の干渉を竢って過激派を押えんと思って居る矢先きなので米艦の入港により陸戦隊が上陸するとか甚だしきは日本の軍艦が数隻港外に居ると云う様な風説を流布したので流石の連中も縮み上って居ります

 「ウラジオストクの治安は割合によく、交通機関も平常に動いていて、小学校(日本人小学校と思われます)も開校しています。しかしやはり、過激派(ボルシェビキ)の勢力はおよんでいて、労働者や義勇兵などは、命令をきかずに遊んでいても、1000ルーブルから1500ルーブルのお金をくれることになっていて、士官や役人の収入の方が少ない状態です。先月、アメリカの軍艦が一隻入ってきましたが、これによってウラジオストクの治安は維持されているとさえいえます。ロシア人自身が自国の混乱に困っていましてね、心ある人々は、外国が干渉をはじめてくれたら過激派を押さえることができるだろう、と思っている矢先のことで、陸戦隊が上陸するとか、日本の軍艦が数隻港外にいる、というような噂を流したので、さすがに過激派連中も怯えて、おとなしくなった次第です」

 実はソビエト側の資料によりますと、「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を招聘した」とあり、日本側の資料にも、尼港市民と内外居留民(イギリス人、アメリカ人などもいました)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願したとありますが、1918年には、島田元太郎を中心としまして、そういう請願が行われたとしましても、おかしくない状況だったようです。

 そして1918年9月、ニコラエフスクに日本海軍陸戦隊が上陸し、ボルシェビキのソビエト政権は追われました。
 以降、詳しくはwiki-尼港事件を見ていただきたいのですが、日本海軍陸戦隊は陸軍と交代します。
 同時に、ニコラエフスクも、ウラジオストクとともに、オムスクに成立しましたコルチャーク政権下の白軍が駐屯することとなり、治安が維持されて、にぎわいがもどってまいりました。

 しかし、ですね。
 簡単に言ってしまいますと、コルチャーク政権の樹立は、チェコ軍団の活躍にささえられたものだったんです。
 日本がシベリア出兵を実行しましたのは1918年の8月ですが、それからわずか3ヶ月後、ドイツで革命が起こり、11月11日、ドイツは連合国との休戦に応じます。
 オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊し、連合国はチェコスロバキア共和国の建国を承認していましたが、1919年9月10日、サン=ジェルマン条約によりまして、建国は正式なものとなります。

 日本のシベリア出兵によりまして、治安はかなり保たれるようになりましたし、チェコ軍団には、早期帰国を望む声が満ちておりました。しかしそれでも、フランスの策動で、シベリア鉄道沿線の治安維持にあたっていたのですが、ついに1919年の暮れには、帰国が実行されます。
 これによってコルチャーク政権は崩壊に追い込まれ、1920年1月には、コルチャークはボルシェヴィキ側に引き渡され、処刑されることとなりました。

 ニコラエフスクもパルチザンが押し寄せる事態となり、再度、ボルシェヴィキ政権に支配されるのですが、長くなりましたので、次回に続きます。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5

2012年11月10日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4の続きです。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3で書きましたけれども、第一次世界大戦が始まった後にも、ニコラエフスクではそれほど、食料不足にはならなかったのではないか、と推測されます。

 1919年(大正8年)の10月、人類学者の鳥居龍蔵が訪れた時、ロシア資本の百貨店には商品が無く、島田元太郎の店の方が品揃えがよかった、ということを書いたのですが、1914年(大正3年)の開戦以来、ヨーロッパからの商品がまったく入らなくなり、さらにはロシアの鉄道輸送が滞って、ロシア西方・中央部との商品の流通は、スムーズにいかなくなっていたんですね。
 しかし、ニコラエフスクは、船舶によって日本との通商が可能でしたし、アムールの河川交通によって、満州からの食料品輸入も、順調に行われたものと思われます。
 ただ、贅沢品はどうだったのでしょうか。

 私、エラ・リューリと同じ年、1909年(明治42年)生まれの日本人ってだれがいるのかな、と思ったのですが、有名どころでは太宰治ですね。
 女性で、幼少期のことを書き残している人は? とさがしましたところ、森鴎外の次女・小堀杏奴がそうでした。
 もっとも、小堀杏奴は父・鴎外のことは詳しく書き残していますが、自分の子供時代について、それほど詳しく時代相を描写してはいませんで、六つ年上の姉・森茉莉の方が、明治末から大正にかけましての子供時代を、生き生きと書き残してくれています。

父の帽子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
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講談社


 この「父の帽子」に、ドイツのカタログ通販で、鴎外が茉莉の洋服を取り寄せる様子が記されているんですね。

 どれも私の気に入ったが、九つ位の頃だった。夏の始めに独逸(ドイツ)から箱が届いて、中から真白な、雪のようなレエスの夏服が出て来た時の嬉しさは大変だった。細い、絡み合ったレエスで、布と布の間が縛がれている。複雑な飾りの、ひどく美しい白いレエスだった。

 茉莉さんは1903年(明治36年)生まれですから、九つの年といえば1912年(明治45年・大正元年)。
 ベルエポックのファッションでは、子供服にも白いレースが多用されています。
 しかし、なぜパリではなく、ドイツの通販だったのでしょうか。やはり、鴎外がドイツ留学していたために、なにかと勝手がわかってドイツの方が便利だったんでしょうか。

ベル・エポックの百貨店カタログ―パリ1900年の身装文化
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アートダイジェスト


 森鴎外は、陸軍軍医総監にまでなっていますから、ロシアの基準でいえば貴族ですし、華族になってはおりませんが、娘たちにも、上流に近いアッパーミドルの暮らしをさせていた、とはいえるでしょう。
 しかし、エラが生まれたころには、リューリ家はかなりの富を築いていたようですので、開戦前の幼い頃には、上のようなカタログで、パリのデパートから白いレースの子供服を取り寄せて、着せてもらっていたかもしれません。

 実は、子供のころ、ニコラエフクスにおいて、もしかしますとエラと遊んだこともあったかもしれません、同い年の日本人の女の子がおりました。
 尼港事件で殉難しました石田虎松副領事の長女、石田芳子です。

 

 事件の時、エラと同じく日本にいまして、虐殺をまぬがれました芳子は、「敵を討って下さい」という詩を作っております。以下、溝口白羊の「国辱記」から、最初の部分を引用です。

 寒い寒いシベリアの、ニコラエフスク
 三年前の今頃は、
 あたしも其所(そこ)にをりました
 お父様とお母様と、妹の綾ちゃんと
 それからなつかしい沢山の日本人と
 お国をはなれて、海超えて
 遠い外国に住んで居る日本人は
 誰でも親類の様に、又兄弟の様に
 行つたり来たりして、仲よく暮らして居ります
 日本からつれて来たのなら、
 一匹の犬でも皆でだいて可愛がります
 寒い寒いシベリアに居ても、
 日本人同志の心と心の交りは、
 いつもいつもあたたかです


 事件(1920年)の三年前、といいますから、1917年(大正6年)、ロシア革命が起こった3月には、ニコラエフスクにいた、ってことなんですね。

 すでに故人となられているようですが、石田芳子さんの娘さん、つまり石田虎松副領事のお孫さんになられます櫻井美紀さんのホームページの「桃の節句、雛の月」に、芳子さんが父から贈られましたロシアの人形の写真が載せられています。
 故人の方のHPですので、いつ消えるのかちょっと不安でして、以下、引用させていただきます。

 これは1914年にモスクワの祖父から東京の母(当時5歳)に送られたロシア人形。祖父は明治大正期の外交官でした。

 このお人形が祖父の手で日本に送られてから90年経ちました。そのあとロシア革命がおこり、その機に乗じて日本政府はシベリアに7万人もの兵を送りました。いわゆる「シベリア出兵」です。シベリア出兵のことは別のページに書きますが、1920年にニコラエフスクという小さな町でパルチザンと日本軍の衝突事件がありました。これが「尼港事件」といわれる事件です。そのときの死者はロシアの市民約4000人、日本人約600人でした。領事だった祖父は家族(当時38歳の祖母、7歳だった叔母、3歳だった叔父)とともにその地で亡くなり、東京に帰っていた母(事件当時11歳)だけが生き残りました。遺児として育った母はやがて結婚し、私たち姉妹と弟たちをもうけ、母として、妻として愛に満ちたおだやかな日々を送り、2001年に92歳で亡くなりました。
 これは母、石田芳子の愛と哀しみのこもった形見のロシア人形です。


 

  前列左の女性が、石田副領事夫人うらき。中央が芳子の四つちがいの妹・綾子。前列右が石田虎松副領事、その後ろが島田元太郎(ピョートル・ニコラエビッチ・シマダ)、後列左の男性が誰なのかは、わかりません。
 
 「国辱記」などによりますと、石田虎松副領事は、母子家庭に育って苦学をしたそうでして、東京のニコライ神学校から東洋協会露語学校に転じ、明治31年外務省留学試験に合格してウラジオストク留学、明治35年(1902年)外務書記生に任じられ、大正6年(1917年)ニコラエフスク赴任。翌年副領事に任じられた、ということです。

 しかし、鳥居龍三の本に、モスクワに留学していたことが語られていますし、お孫さんのHPにも「1914年にモスクワの祖父から」とありますから、第一次世界大戦開戦前後には、モスクワにいたようです、そしてアジ歴の書類では、大正5年(1916年)から領事館事務代理としてニコラエフスクに赴任していたようなんですね。

 なにに書いてあったのか、ちょっといまさがし出せないのですが、確か、1917年、ロシア革命の年にうらき夫人はお産のために日本へ帰り、男の子を産んで、芳子は日本の学校に通わせるために虎松副領事の母親に預け、綾子と生まれたばかりの男の子を連れて、再びニコラエフスクへ赴いた、ということだったと思います。
 しかも、事件が起こりました1920年には、また妊娠していまして、5月の初めに出産予定。その後の7月には、日本へ帰り、綾子も日本の学校へ通わせることにしていた、ということでした。
 石田虎松副領事を「文学者ともいふべき面影があった」と評しております鳥居龍三は、石田副領事との忘れがたい会話にうらき夫人も加わったことを、以下のように記しています。

 今夜の話は実に後まで長く印象さるべき話であらうと思った。余も談話中、ハバロフスクの本屋に於てモスコーの芸術座の大きな写真画帖を買ったことや、尚ほ露西亜(ロシア)の文芸に関する書物を買ったといふようなことを話して、実に愉快に過した晩であった。今夜の話は寧ろ人類学の話よりもロシアの文学芸術、あるいはロシア人の性格などに関する話であった。この話を夫人も傍らでよく聞いておられた。而して時々自分の考えなども述べて興を添へられた。夫人もよほど趣味に富んだ人で、よく夫君を助けられたことがわかる。副領事には七歳になる女の子と漸く三歳になってヨチヨチ歩けるやうな男の子があって、余の往く毎に出て来られて、傍につき切つているのが常であった。家庭が円満に共同に楽しんでおられる様子がよく分かる。

 日本と大きな取り引きをしておりますリューリ一家です。教養豊かで、社交的でした副領事一家とのつきあいは、当然、あったと思われますし、1916年から1917年の初頭にかけて、7、8歳のエラと芳子はニコラエフスクの町で、ともに遊んだことがあったのではないでしょうか。

 その1917年、ロシアは混沌としていました。
 芦田均の「革命前夜のロシア」 (1950年)によりますと、2月革命の後、一切の皇室財産は没収され、退位しましたニコライ2世一家は、ツァールスコエ・セローに監禁されます。

 アレクサンドル3世の皇后で、ニコライ2世の母親でした皇太后マリア・フョードロヴナは、ラスプーチンを遠ざける必要など、ニコライ二世と皇后アレキサンドラに常に忠告をしてきておりましたが、革命となり、すべての財産を無くして、年に1200ポンドの手当で、クリミアの小住宅に移りました。
 しかしそこで、黒海艦隊の水兵が寝室にまで乱入し、寝間着のままで連れ出されて、暴虐の限りをつくされたんだそうなんです。……って、この話は、芦田均の本でしか見たことないのですが、ほんとうなのでしょうか。



 右端がマリア・フョードロヴナ、中央が姉でイギリス王妃のアレクサンドラ・オブ・デンマーク、左端はアレクサンドラの娘でイギリス王女、ヴィクトリアです。
 マリア・フョードロヴナとアレクサンドラの姉妹は、デンマークの王女だったんですけれども、よく似てますよねえ。
 
 アレクサンドラは、リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォードに出てまいりますが、幕末日本へ来て活躍しましたイギリス外交官バーティ・ミットフォードの親友で、放蕩者ともいわれましたエドワード七世の妃となり、国王ジョージ5世の母となりました。
 したがいまして、ジョージ5世とニコライ2世は母方の従兄弟で、これまた、とてもよく似ております。

 臨時政府で、ケレンスキーが権力を握っています時期に、ニコライ2世一家のイギリス亡命話が持ち上がるのですが、大使の打診に、イギリス政府の回答は拒否でした。これは、ロイド・ジョージ首相の意向であるとも伝えられていたのですが、実は現在、そっくりの従弟ジョージ5世が拒否したのだと、はっきりわかっております。
 未曾有の総力戦で、イギリス国内にも反王室気運が強くなっていまして、専制君主として、イギリスではあまり評判の芳しくありませんでしたニコライ2世を身内として迎えますことに、ジョージ5世が多大な危惧を持った結果のようです。

 しかし、アレクサンドラ王太后は、妹の救出に必死でした。
 第一次世界大戦の終わりました1919年、ジョージ5世も母の願いを入れて軍艦を派遣し、マリア・フョードロヴナは説得されてロシアを脱出し、故国デンマークに亡命することになります。

 話が先走りましたが、芦田均によりますと、革命の功労者ケレンスキーは、皇帝一族に代わりまして宮殿に住み、帝室用の自動車を使い、宮廷の酒蔵のシャンパンを飲み、饗宴を催し、妻を捨てて有名な女優と同棲して、人目をそば立てるような生活を送っていたのだそうです。

 革命が起こりますと同時に、物価はさらに上昇し、生活費は5倍になりました。
 兵卒の給料のみは10倍になったそうですが、首都の兵舎では毎晩のように饗宴が行われ、いくらあっても足りません。そのため、無賃で鉄道を利用し、フィンランドへ行って、煙草の闇商売をはじめる者が多数。乗り物はすべて兵卒であふれ、窓かけなどの装飾品は奪われ、食堂車では無銭飲食があたりまえとなり、機関車だけではなく客車も破損し、交通機関は混乱を極めました。

 1917年の7月1日、英仏の期待に応えまして、ボルシェヴィキの反対を抑えましたケレンスキーは、対オーストリア・ドイツ戦線で、攻勢をかけます。緒戦、オーストリア相手に一時の勝ちを得るのですが、それもつかの間。ドイツ軍との本格的な交戦になりますと、たちまち総崩れとなり、大敗を喫します。

 それもそのはずです。
 革命以来「兵卒の権利宣言」なるものがありまして、上官に懲罰権はなく、軍が軍として機能しなくなっておりました。
 そのため、芦田均によりますと、ケレンスキーは政治委員に機関銃を持たせて、部隊を監視させたのだそうです。
 それでも兵卒は動かず……、といいますか、政治委員が兵卒には甘かったのでしょうか。突撃するのは将校のみで、将校のみが全員戦死した部隊もあったそうです。
 開戦以来、ロシアの戦死者は300万にのぼっていたそうですので、兵卒の厭戦気分も、もっともではあったのですけれども。

 実はこのケレンスキー攻勢で、緒戦を勝利に導きましたのは、チェコスロバキア狙撃旅団でした。
 チェコとスロバキアはオーストリア帝国の一部でして、彼らは独立を望み、オーストリア兵としてロシアと戦うことに積極的ではない者も多かったのですけれども、徴兵で戦線にかり出されます。
 捕虜になった後、まあ……、ただでさえ食料が足らなくなりましたロシアです。捕虜の待遇がよかろうはずもありませんで、飢え死にするよりは、ということもあったのかもしれませんが、祖国独立のために、多数が、オーストリアと戦うロシアの義勇軍募集に応じました。

 捕虜となった者が、敵国側に立って戦いました場合、捕まったら即銃殺です。
 したがいまして、彼らは死にものぐるいで戦い、しかも祖国独立のためという大義に、将校も兵卒も燃えて、一体となっております。ケレンスキー攻勢のしんがりを務めたのも、彼らだといわれます。
 チェコ軍団はこの後、シベリアで大活躍をするのですが、それはまた次回。

 ケレンスキー攻勢の大失敗は、ケレンスキーの権威を落としまして、コルニーロフ将軍との齟齬もあり、結局は10月革命が起こり、ボルシェヴィキが権力を握ります。

 いや、ですね。
 軍規がぐだぐだのままで、戦争を続けることは、できようはずもないですし、戦争のために飢餓が起こり、どうしようもなくなって革命が起こったのですから、まあ、「戦争をやめよう!!!」と叫ぶ方に人心がなびくのは当然のことですし、それで飢餓がなくなるわけでもなかったのですが、とりあえず「戦争をやめよう!!!」と叫んでおいて、新たに軍律厳しい赤軍を創設して政敵を倒し、ボルシェヴィキが独裁政権を確立しましたのは、仕方のないことだったのかもしれません。
 
 1917年、2月革命直後の3月、エラ・リューリは、母親と下の兄と女中とともに、アムール川の氷上を馬橇で、西へ向かっておりました。上の兄さんは、年度末まで学校に通うために、とりあえずニコラエフスクに残っていたのだそうです。
 エラは「ニコラエフスクの破壊」米訳者前文で「当時、大多数のロシア人もそうであったが、社会民主主義が、皇帝による専制政治に取って換わって当然だ、と考えていた。その後に続く恐怖のことなど、誰一人として予測していなかった」と言っています。

 ましてリューリ一族は、ユダヤ人です。
 実際、1917年4月、ケレンスキーの臨時政府は、ユダヤ人にロシア人と平等な権利を与えました。そのことを世界のユダヤ人は決して忘れず、長年にわたりましたケレンスキーの亡命生活は、ユダヤ人たちにささえられていたといいます。(「レーニンの秘密〈上〉」p226)

 エラの父親、メイエル・リューリは、仕事のために毎冬何ヶ月かをペトログラードで過ごしていまして、1917年には、一家でペトログラードに引っ越そうと計画していました。革命は、自分たちにとりいいことなのだと、最初は解釈していたわけです。

 しかし、エラたちがハバロフスクからシベリア鉄道でチタへ行き、ペトログラードからやって来ました父親と落ち合いましたところ、父親は、政治的動乱が激しいので、今のところペトログラードへの引っ越しはやめた方がいい、と判断し、チタで夏を過ごしました。その後、事務所がありましたウラジオストック行き、1919年の遅くまで暮らして、どうやら尼港事件の直前に、ボルシェビキ政権の支配が確立してしまいそうなロシアに見切りをつけ、日本へ移住することとなったようです。

 次回、いよいよ尼港事件です。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4

2012年11月06日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3の続きです。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2で書きました、キーラ・ナイトレイ主演のテレビドラマ版「ドクトル・ジバゴ」。
 見ました。

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 デイヴィッド・リーン監督の1965年版「ドクトル・ジバゴ」のリメイク、というだけに、大方の筋立ては似ています。
 その「大方の筋立て」を簡単に述べますと。

 主人公のユーリ・ジバゴは子供の頃に両親を亡くし、両親の知人だったモスクワの医学者に引き取られ、その家の一人娘のトーニャと兄妹のように育てられます。長じて、医学を学びながら詩人となり、自然な成り行きでトーニャと結婚。
 同じモスクワで、洋裁店を経営する未亡人の一人娘として育ったラーラは、母親の愛人で、腕利きの弁護士コマロフスキーに反発しながらも惹かれ、ついに誘惑に乗り、それを知った母親は自殺未遂。
 ラーラは一方で、革命家を志す貧しい学生のパーシャと愛を育んでいて、コマロフスキーへの思いを断ち切るために、パーティの席で発砲する、という事件を引き起こします。

 映画でパーシャが参加したことになっています流血の抗議行動は、原作小説でははっきり、ペテルブルグで血の日曜日事件が起こった1905年の末に、モスクワで起こったプレスニャ蜂起、と書かれています。そして、ラーラの母親の自殺未遂、発砲事件には、原作ではかなりの間がありますし、ユーリ・ジバゴはラーラを目撃して印象にとどめはしますものの、直接のかかわりは持ちません。

 しかしまあ、映像の場合、それでは緊迫感がなくなる、ということなのでしょう。
 映画とドラマでは、事件はたてつづけに起こり、ユーリ・ジバゴは、育て親の博士の供で、自殺未遂をしたラーラの母親の手当をし、ラーラおよびコマロフスキーと言葉をかわしますし、狙撃事件でも、狙ったラーラと狙われたコマロフスキーと、双方とかかわり、すでにこの時点で、お互いが相手に魅せられるものを感じます。

 ユーリ・ジバゴがトーニャと結婚して間もなく、第一次世界大戦が始まり、ユーリは軍医となって従軍します。
 ラーラはパーシャと結婚し、モスクワを出てウラルの町にいましたが、従軍して行方不明となったパーシャをさがすため、志願して看護婦となり、戦場に向かいました。
 ユーリとラーラは戦場で再会し、いっしょに働くこととなりますが、二人が戦場にいる間に革命が起こり、それでも戦争は続いていますので、そのまま二人は後方の病院で傷病者のめんどうをみて、たがいに強く惹かれ合うようになります。

 結局、戦争が終わるまで二人は病院にいたように描かれていますので、1917年の10月革命でボルシェヴィキが政権を握り、翌1918年の3月、ブレスト=リトフスク条約でドイツとの講和がなるまで、ユーリがモスクワに帰ることはなかったことになるんでしょうか。

 ボルシェヴィキが支配するモスクワは、殺伐としていました。
 妻トーニャが待っていた屋敷は、接収され、多数の赤の他人が合法的に入り込み、元家主トーニャ一家の方が、肩身の狭い間借り人状態。ユーリは新しい秩序になじめず、しかもモスクワは極度の食糧、燃料不足です。
 一家はモスクワを出て、ウラル地方ベリキノにありますトーニャの実家の別荘へ行く決心をします。

 ユーリ一家がウラル行きの列車に乗り込んだのは、どうやら、1918年の春から初夏、という設定のようです。といいますのも名作映画の方において、なのですが、ベリキノに着いてしばらくして「ニコライ2世一家が銃殺された」という記事が新聞に出ていたことになっていまして、これは1918年の7月の事件だからです。
 
 1918年は、ロシア内戦の最中ですから、まず、ウラルへ向かう列車自体が、家畜運搬車かアウシュビッツ行きの囚人列車かという感じの殺伐としたものとして描かれています。ちょっとやりすぎかなあ、という気がしないでもないのですけれども。
 鉄道沿線がこれまた、めちゃくちゃな戦乱状態。家が焼かれ、処刑されたらしい死体がぶらさがっていたりします。

 後年政治家になりました芦田均が、実はペトログラードの日本大使館に外交官補として赴任していてロシア革命を目撃し、後に「革命前夜のロシア」 (1950年)という回想録を書いています。
 この回想録の最後が、1918年(大正7年)の1月、真冬に、ペトログラードを離れて、シベリア鉄道から満州鉄道に乗り継いで帰国する話なのですが、確かに、シベリア鉄道は復員する兵士の数の多さに機関車が足らず、普通列車は何日も待たされて混雑をきたしていて、芦田均たちは外交官として特別仕立ての急行列車に乗っていましたから、恨まれて、途中で兵隊たちに力づくで機関車を奪われる、という大騒動もあったそうですし、満州へ入ったとたん、食料が豊富になり、襲撃されます不安も消え、だれよりも同乗していたロシア人たちが大喜びした、と書いてあります。
 しかしバイカル湖へ出るまで、ですから、ウラル山脈へ至るあたり、と思われるのですが、鶏肉やスープを売る駅の売店の描写もあり、3、4ヶ月後のこととはいえ、映画やドラマが描くほどひどい、家畜列車状態だったのかな、と疑問です。

 (追記) ひーっ! たったの3、4ヶ月で、状況は変わっていたみたいです。梶川伸一氏の「飢餓の革命―ロシア10月革命と農民」(P98-99)によりますと、春になるにつれ飢餓は深刻になり、ウラル地方ペルミ鉄道を経由してのシベリアへの移住民の登録者数は、芦田均が帰国しました1918年1月にはたったの2人、2月に43人、3月に4194人でしたが、4月に22687人、5月にも25696人と急激し、ペルミ鉄道からは、「鉄道での食糧不足のために14車両に閉じ込められている移住民と乗客の状態はきわめてひどい。飢えた母親は自分の子供が列車で陥っている運命を恐れて、一粒の穀物を求めて隣接の村をさまよっている」と報じられているんだそうです。い、いや、さすがデビット・リーン監督。よく調べていたんですねえ。

 ここらへんからちょっと、映画は寓話じみてまいりまして、戦場で行方不明になったラーラの夫・パーシャが実は生きていて、ストレルニコフと名乗り、赤軍の冷酷な指揮官となって、列車を根城にウラルで恐怖政治を行っています。
 ラーラは、それを知らないままベリキノの近くの町ユリアチン(架空の地名ですがペルミがモデルだといわれています。ニコライ二世一家が惨殺されたエカテリンブルクの近くで、シベリアへ向かいます入り口あたりです)に住んでいます。
 ユーリ一家はベリキノに到着しますが、母屋は封鎖されていまして、付属した門番小屋だかに落ち着きます。
 ユリアチンを訪れたユーリはラーラに再会し、ついに関係を持ってしまいます。

 内戦は続いていまして、ユーリはパルチザン部隊に捕まり、医師としての従軍を強制されます。
 ユーリが行方不明になった後のベリキノで、妻のトーニャは出産します。トーニャはユリアチンのラーラに夫への手紙を託して、父親と子供とともに、映画ではフランスへ亡命、ドラマではモスクワへ帰ることとなりました。

 ユーリはようやく脱走し、ラーラのもとへたどり着きますが、そこへ現れたのが、ラーラの昔の愛人コマロフスキー。
 ラーラの夫だったストレルニコフ(パーシャ)が失脚し、ラーラの身にも危険がおよぶと、コマロフスキーは二人に告げ、「極東のウラジオストクに地位を約束され、これから行くので、同行しないか?」と誘います。

 いったんそれを断った二人は、危険をさけるためにベリキノに向かいました。
 ここで二人は、ベリキノの母屋の方の封鎖を破って入るのですが、これが映画の方では、ロシア独特のたまねぎドームの館ですし、おとぎ話の氷の宮殿のようで、実に印象的なんです。
 テレビドラマでは、なんでもない、ごく普通の広い屋敷でしかないのですけれども。
 
 Doctor Zhivago Trailer 1965


Zhivago Trailer


 上は、1965年の映画、下が2002年のテレビドラマの予告編です。
 
 映画とテレビドラマの筋立てには、多少のちがいがあるのですが、どちらが話がわかりやすいかといいますと、テレビドラマの方です。ただ、スケールのちがいは仕方がないとしましても、2002年、ソ連崩壊後に制作されているから、なんでしょうか。テレビドラマの方では、飢餓から人肉も食べたといいますロシア内戦期の身も蓋もない現実が、むきだしに感じられる気がします。

 そうなんです。冷戦期に西側で作られた映画なんですが、デビット・リーン監督は、革命のロマンといいますか、世界中の人々がロシア革命に託しましたロマン、そしてそのロマンが裏切られたせつなさと、それでも残る希望を、描いている気がします。

「ドクトル・ジバゴ」 (新潮文庫)
江川 卓,ボリス・パステルナーク,Boris Leonidovich Pasternak
新潮社


 原作は、実はテレビドラマや映画よりも、はるかに寓話じみています。
 その原作で、人々が革命に託したロマンを具現しますのは、ユーリ・ジバゴの異母弟、エフグラフ・ジバゴです。
 エフグラフは、ユーリの父親が放浪の中、シベリア西端のオムスクで、キルギス系貴族の女性を愛人にしてつくった子供です。
 ボルシェヴィキの指揮官となり、革命によって有力者になりますが、一方で異母兄ユーリの詩をこよなく愛し、影のようにユーリの窮地に現れて、救いの手を差し伸べます。

 映画の方は、物語の要となる人物としてエフグラフ(字幕は義兄、異母兄としていますが異母弟です)を描いていますが、テレビドラマの方には、まったく出てきません。ソ連が崩壊して、革命のロマンの化身であるエフグラフ・ジバゴは、消えちゃったんでしょうね。最近ロシアで作られたテレビ・ドラマにも、エフグラフは出てこないんだそうです。

 1917年のロシア革命がなぜ起こったかといいますと、首都ペトログラード(ペテルブルグ)を中心とします都市部の極端な食料、燃料不足です。

 第一次世界大戦が始まって以来、1500万人の農民が、兵士として戦線に送られていました。
 穀物生産量は激減する一方、この膨大な数の兵士を食べさせなければなりません。
 そして戦時増産のために、ペトログラードには40万近い労働者が流れ込み、その数は270万人に膨れあがっていました。

 通常でも満足に運営されていたとはいえない鉄道が、兵員、兵站輸送で麻痺状態。
 そこへもってきまして、ペトログラードの工業地帯にバルト海から入っていました安い輸入炭が、ドイツによります封鎖で入らなくなり、ウクライナから石炭を汽車輸送しなければならなくなりました。

 鉄道酷使の結果、開戦時にロシアが有した機関車2万台あまりが、1917年の初めには、半分以下の9千台そこそこまで減りました。
 ロシア全土で工業生産が止まり、製粉工場も稼働しません。
 ペトログラードへの輸送も滞り、物価は4、5倍にまではねがります。

 とどめは、1917年2月の寒波でした。
 1200台の機関車のボイラーが氷結して爆発し、通行止めの鉄道線路が続出。5万7千台の車両が立ち往生し、ペトログラードの小麦粉、石炭、木材は、姿を消してしまったのです。

 ロシアではユリウス暦を使っていたために、通常の西暦とは13日のずれがあります。
 1917年3月8日(ロシアでは2月末)、零下39度の厳寒のペトログラードで、パンの配給を待つ長い行列の人々が、ついに爆発しました。暴徒と化した人々は、パン屋に勝手に押し入ってパンを手にしました。

 ペトログラードの労働者たちは、石炭不足で大方の工場が閉鎖され、職がない状態。
 これらの労働者と、家庭を預かる主婦たちによります、職よこせ、パンよこせデモがはじまりましたが、この日はまだ、平和的なものでした。
 翌9日、多くの人々が市内になだれこみ、食料品店の略奪がくりひろげられました。
 とりしまるはずのコサック部隊が、とりしまろうとはしませんで、これを見逃します。

 そして10日、労働者たちは大規模なストライキをくりひろげ、ペトログラードの交通機関は、すべて停止します。
 デモ行進のスローガンは、次第に政治的なものとなり、「ドイツ女を倒せ! 内閣を倒せ! 戦争をやめろ!」と、人々は叫びました。

 ドイツ女とは、アレクサンドラ皇后のことです。
 ドイツ諸国の一つヘッセン=ダルムシュタットの公女だったために、第一次世界大戦がはじまり、ドイツが敵国となりますと、皇后が怪僧ラスプーチンに傾倒していたことも手伝い、格好の憎まれ役に仕立て上げられてしまいます。
 皇后の母親はロシアと同じ連合国側のイギリスのヴィクトリア女王の娘で、この母親が早くに死んで、皇后はイギリスの祖母のもとで過ごした期間が長く、ドイツ語よりも英語の方によりなじんでいたにもかかわらず、です。

 「敵国出身の皇后を倒せ」と「戦争をやめろ」が同時に叫ばれるとは、矛盾もいいところなんですけれども、多くの人々が飢えて、凍え死にしそうになり、工業生産もとまってしまうロシアの惨状は、第一次世界大戦が原因なのですから、戦争が終わらないことには、どうにもなりようがなかったでしょう。

 結局、この2月革命が立憲君主制でとどまらず、即ニコライ二世の退位につながりました原因としましては、アレクセイ皇太子が血友病で、そのためにアレクサンドラ皇后がラスプーチンに傾倒して、皇族や貴族たちからさえ反感を持って見られていたことがあげられたりすることもありますが、どうなのでしょうか。
 人々の飢えは戦争が原因ですし、第一次世界大戦が国がつぶれるような総力戦になろうとは、結局、開戦前には、ほとんどの人々にとって想定外のことだったんです。



 1916年に、ペトログラード郊外の離宮ツァールスコエ・セローで撮られました写真です。
 右がニコライ2世、左がアレクサンドラ皇后、中央がアレクセイ皇太子です。

 首都ペトログラード市内には、常時20万近い精鋭部隊が配置されていました。平時、その精鋭部隊の指揮官は主に貴族出身の将校で、兵卒は、ロシア各地から選抜されてきていました。
 ところが開戦以来、ロシア陸軍の正規軍精鋭の大多数は、対独戦にかり出されて戦死し、生き残った人々も前線に貼りつけられています。
 ペトログラード守備隊も例外ではなく、中身は予備軍、後備軍に入れ替わっていました。

 陸軍幼年学校の貴族出身者の割合も、膨大な戦死者補充のために数が必要で、激減していました。歩兵学校では40パーセントから30パーセントに減った程度ですが、騎兵学校では95パーセントから35パーセントにまで低下していました。
 伝統的に皇帝に忠実だったコサック兵も、前線での戦死がつのり、極貧地帯のクバンやドン地方出身で、一番下積みの兵が増えていました。
 そして、ペトログラード守備軍の兵卒から、地方の農民は減っていて、もともとペトログラード在住の労働者で、それもストライキに参加した罰として強制的に入隊させられた者の数が、急増していました。

 ニコライ2世は前線にいまして、首都ペトログラード騒乱の報告を受けます。
 そして、あまりよく状況がわからないままに、気軽に鎮圧を命じるのですが、おかげで3月11日(日曜日)には、デモ隊側200人に死者が出ます。しかし、発砲を拒否した部隊もありまして、首都の行政機能は麻痺状態。

 3月12日、ペトログラードの守備隊の一部は、兵卒が帝政に忠実な士官を殺したり追放したりの反乱を起こし、しかもそういう部隊が雪だるま式に増えて、次々に革命を支持する側にまわりました。軍隊はデモ隊に協力し、兵器庫、内務省、軍司令部ビル、保安警察(オフラナー)司令部、警察署が襲われ、刑務所が開放されて、囚人が全員解放されました。
 当初、革命側にまわった兵士は2万5千でしたけれども、夕方には6万6千にふくれあがります。

 ラ・マルセイエーズを歌います労働者と兵士の大集団が国会を占拠し、内閣は倒壊します。
 この守備隊の反乱は、自然発生的に起こったことでして、全体の指導者がおらず、統制がとれていたわけではありません。そこで、社会革命党員で国会議員でしたケレンスキーが中心となり、この日のうちに、第二の国会、労働者と兵士の代表者会議でありますソビエトを成立させます。

 芦田均の「革命前夜のロシア」より、以下、3月12日の状況について、引用です。

 この朝は激しい銃声と騒擾とをもって明けた。「近衛の一部が革命軍に荷担した」と道行く人が、口から口へと伝えた。リチェネーの砲兵工廠へは、革命派の兵隊が午前十時頃から押寄せて、之を鎮圧に来たセメョーノフスキー聯隊や警察官と銃火を交へている。赤旗を立て銃を構へた兵卒を満載した自動車が縦横に飛び違ふ。かしこの町角、ここの橋で、官革両軍が火花を散らす。某将軍が死んだ、何聯隊が蜂起したという様な流言飛語が間断なく伝はる。しかし正確なことは誰一人知る者もない。電話も通じなくなつた。ただ混乱と砲火と物狂ほしい半日がくれた。午前十一時半頃日本大使館に程近いリチュネー通の砲兵工廠で高田商会の牧瀬氏が銃弾に当たって死んだ。「遺体を引き取ることもできない」と、同僚の関根君が大使館へ飛び込んで来た。軍需品の注文の件で今朝早く牧瀬、関根の両君が砲兵工廠へ行って交渉中に革命軍が乗込んで来て、小銃や弾薬を掠奪し、発砲し始めた。その時に牧瀬君がやられたのである。

 首都の騒乱は続き、3月15日には、国会の求めに応じてニコライ2世が退位し、あっけなく帝政は終わりを告げます。
 成立した臨時政府の指導者は、当初は立憲民主党(カデット)員などもいて、穏健で、自由主義的な改革で落ち着くのではないか、とも見られておりました。
 
 なにしろ、大戦の最中です。
 イギリス、フランス、イタリアの連合国にとりましては、ともかく、これまで通りロシアが東部戦線で戦ってくれることこそが、切なる望みです。
 ロシア臨時政府首脳は、帝政期の外交をそのまま引き継ぐと表明し、しかもちょうどこの1917年3月、アメリカが連合国側で参戦する見透しが強くなっていまして、一応、これまで通りに戦いを続ける方針ではいました。

 しかし、革命は軍規の崩壊によって起こりました。
 国会と二重構造になっていますソビエトを数で支配していますのは、上官を追放したり、殺したりして蜂起し、首都を制圧した兵士たちの集団であり、彼らは武装したまま、首都に居座りを決め込み、臨時政府はそれを、どうにもできないでいました。
 物資の欠乏と輸送の混乱は、革命以前にも増してひどいものとなり、現地にいた外国人たちは、果たしてロシアに戦争を続ける能力があるのかどうか、悲観的になりました。

 しかし、芦田均によれば、「ロシアの内政に通じない連合国の大衆は、革命によって親独的な単独講和派が潰え、戦争の遂行が有利になると考えた。それが連合国の新聞に現れた論調であった」ということでして、ロシア革命に対します連合国、特にアメリカの誤解は、後々までもはなはだしいものがあったように思われます。

 そういうわけでして、3月、アメリカは真っ先に、単独で臨時政府を承認し、次いで、イギリス、フランス、イタリアの三国が、共同歩調をとり、3月24日に承認しました。連合国の一員であります日本も、少し遅れましたものの、それに同調します。

 4月6日、アメリカはドイツに宣戦布告し、いよいよ参戦したのですが、その直前の4月4日ペトログラード着の列車で、ドイツはとんでもないプレゼントを、ロシアに送りつけていました。
 ウラジーミル・イリイチ・レーニンです!

 二月革命直後、ペトログラードのソビエトの中心にいましたのは、社会革命党とメンシェヴィキで、立憲民主党など、自由主義者との妥協も許容する柔軟性を持っていました。
 中立国スイスのチューリヒに亡命していましたボリシェヴィキの指導者レーニンにとりまして、これは気にくわないことでして、帰国を画策します。

 実はドイツ統帥部は、ボリシェヴィキを監視し、同時にひそかに資金援助をしていました。
 このときレーニンが、政権を握った場合の単独講和まで、はっきりドイツに約束していたのかどうかはわからないのですが、少なくともドイツ統帥部は、それによってロシアの交戦意欲は減退するだろうと踏んで、特別列車を仕立て、レーニンを帰国させました。
 そして1年足らずで、ボリシェヴィキは政権をにぎり、ドイツの思惑通り、単独講和が成立することとなります。

 レーニンの帰国で、、ボリシェヴィキはソビエトを根城に勢いを増しまして、となってきますと、国会に立脚しました臨時政府とソビエトの間で緊張が増し、臨時政府の穏健派は力を失います。
 結局、当面のところは、社会革命党の議員で、ソヴィエトの副議長ともなっていましたケレンスキーが臨時政府の中心となりました。

 ケレンスキーは、帝政は否定していましたけれども、いわば社会民主主義者でして、独裁政権の樹立をめざしましたレーニンやトロツキーのボルシェヴィキとは、一線を画していましたし、連合国との友好関係を保つためにも、外交の継続性は維持し、戦争を続けるしかない、としておりました。

 以下、再び、芦田均によります。
 ケレンスキーは前線兵卒代表会議とペトログラードのソビエトが攻勢を決議したことに力を得て、6月に入ってから攻勢作戦の準備を始めた。これに対してボリシェビキはあらゆる手段を用いて、作戦の実行を妨げた。その方法は陸海両軍へ手先を派遣して、将校への反抗、ドイツ軍との交歓、戦争反対の宣伝に務め、後方においては交通、生産の部門にサボタージュを示唆することであった。
 ボリシェビキの方針は故意か偶然かドイツの意図するところと全く符合したため、世間では、莫大な運動資金がドイツから出ていると談り伝えた。


 次回、再び、極東ニコラエフスクのエラ・リューリに話をもどします。
 第一次世界大戦の開戦時、5歳でしたエラは、革命が起こりました1917年、8歳になっていました。

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