郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想

2015年09月30日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ37』と史実◆高杉晋作と海国長州の続きです。

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 えー、今回は諸隊の脱退騒動です。
 それで一回まるまる使うとは、正直思いませんでしたわ。
 理由は、おそらく、なんですが、史実として、藩政府側、諸隊側の間に入って、楫取素彦が奔走し、双方から信頼できる人物とされていた証拠があるから、なんじゃないんでしょうか。

松下村塾の明治維新―近代日本を支えた人びと
海原 徹
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海原徹氏の「松下村塾の明治維新」によりますと、楫取は鳥羽伏見の戦いにおいて、遊撃隊副総督となって上洛参戦していまして、実は、諸隊の脱退騒動のきっかけをつくりましたのは、遊撃隊士の上層部批判の上書なんですね。楫取はこのときもうとっくに遊撃隊からは離れていて、利害関係はありませんで、藩政府の中枢にいました。しかも、脱退兵側の嘆願や上書の多くは富永有隣の手になると言われているんですね。

 いうまでもなく富永は、松陰が野山獄で知り合いました書の達人にして偏屈、容貌魁偉な囚人でして、松陰の運動で釈放され、松下村塾の教師を務めましたが、松陰の再度の入獄で、村塾を離れます。その後、私塾を開いたり、諸隊に属したりしていましたが、相当に年齢がいっていましたので、戦いに参加することはなかったようです。
 この人の運命は数奇で、脱退騒動の主導者とされてしまい、一度は藩政府に捕まるのですが、脱走します。まあ、だれか村塾関係者が逃がしたんでしょうね。あるいは、楫取かもしれません(笑)

 富永じいさん、四国へ逃げ、土佐でかくまわれて8年間をすごし、ついに捕まって終身刑になりますが、5年後に特赦で出獄。えー、これもだれか、村塾関係者がはかったことのようです。
 国木田独歩の富岡先生(青空文庫)は、晩年の富永有隣がモデルといわれ、いい作品ですので、ぜひ、ご覧になってみてください。

 このドラマ、前半で富永を出しながら、なんでここで出さないのでしょうか?
 代わりに出してきたものが、椿やら水仙やらの意味不明などアップです。血糊のついた水仙の花のどアップなんぞ、出来の悪い怪奇ものかという気持ち悪さで、やめていただきたいところでした。

 もう一つ、美和さまの弟の敏三郎くんは、このドラマでは奇兵隊に入っていたのではなかったですか? 確か。けっこう大事件みたいに、史実にはない奇兵隊入隊を見せておいて、今回まったく出てこないって、なんなんでしょうか???
 代わりに出てきますのが、なぜか御殿の菜園で食べ物をあさる、お腹を空かせた脱退反乱側の若者兵士です。
 脱退兵が御殿の奥、興丸さまの寝所のそばまで入り込むとは、警備はどーなっているのだろうか、とか、当然な疑問をはさむまもなく、美和さまは兵士に、得意のおにぎりをふるまい、話を聞いてやります。
 だ・か・ら、それより実弟の心配をしてやれよ!とつっこむのもむなしく、おにぎりにかぶりつきます若者の言葉に、呆然となります。
 若者は、兄と共に奇兵隊に入った農民で、兄は侍になりたかったんだそーなのですが、なる暇もなく、戦死しちゃったんだそーなのです。で、若者は。

 「おれは異国にいってみたいんじゃ。アメリカちゅう国じゃ。そこは家柄や身分で一生が決まらんと仲間から聞いた。夢のような国じゃ」 
 あきれてものが言えません。これがウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの今に至る成果じゃなくて、なんだというのでしょうか!
 唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書いておりますが、このドラマに最初に龍馬が登場しましたときと同じで、龍馬よりはだいぶん若いですが平和ボケ勘違い平成ニートそのもので、髪を金髪に染めて、民青か革マルか中核派にでも入って、国会議事堂の前で太鼓叩いて、「九条を守らなければあ、戦争になるう~♪」とか叫んでいる人たちに、妄想しか語れないところがそっくりです。

 だいたい、奇兵隊は、攘夷のために生まれた有志隊です。
 で、当時、メリケン(アメリカ)が、リアルでどういう国だと見られていたのか。
 寺田屋事件と桐野利秋 前編で引いていますが、もう一度、中岡慎太郎の言葉を引用します。

 「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケン(アメリカ)はかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケンここにおいて英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」


 要するに、です。攘夷とは、確固たる独立国として、欧米列強と対峙するための戦いであり、アメリカは、イギリスと戦って独立を勝ち取った攘夷のお手本国なんです。
 当時のアメリカは、南北戦争によってようやく奴隷制度を廃止したばかりでしたが、黒人差別がなくなったわけでは、まったくもってありませんし、西部開拓にともなって、インディアンの虐殺が頻発していました時期です。
 黒人であったり、ネイティブであったりした場合、それによってほぼ、一生が決まってしまっていました。
 攘夷のためにできました奇兵隊の一員が、「アメリカは家柄や身分で一生が決まらん夢のような国」なんぞといいますありえへん馬鹿みたいな妄想を抱くはずがないですし、実際にアメリカがどういう国と伝え聞いていたかと言えば、「国民が命をかけて攘夷戦を戦い、イギリスから独立をもぎとった国」です。

 で、中岡慎太郎は、こうも述べています。
 第一その卓識なる者を久坂玄瑞という。この人、吉田寅二郎の門弟にして英学も少々仕り、事情も大いに知れり。この人常に論じていわく、西洋諸国といえども魯(ロシア)王のペートル、メリケンのワシントン師のごとき、国を興す者の事業を見るに、ぜひとも百戦中より英傑起り、議論に定りたるものに非ざれば役に立たざるもの也。ぜひとも早くいったん戦争を始めざれば、議論ばかりになりて事業はいつまでも運び申さずという。実に名論とあい考え申し候。 

 要するに、ですね。
「久坂玄瑞は、吉田松陰の門弟で、英学も学び、外国事情もよく知っているすぐれた識者だ。西洋諸国はどこも、例えばロシアのピョートル大帝、アメリカのワシントンなど、戦を重ねる中から英雄が立ち上がって、国家を成り立たせたのだから、まずは戦わなくては何事もはじまらないと、常々久坂は言っていて、実に名論だ」と中岡は言い、「戦わずして富国強兵はできない」と結論づけているんですね。

 中岡慎太郎の攘夷論は非常にわかりやすく、かつ、普遍性をもったものでして、手に入れやすいところで、平尾道雄氏の「陸援隊始末記―中岡慎太郎」に主なものは原文を載せてくれておりますので、ぜひ、ご一読ください。

陸援隊始末記―中岡慎太郎 (中公文庫)
平尾 道雄
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 それにしても、ですね。
 諸隊の反乱の中心には、遊撃隊がいました。
 だのになぜ、これまで、奇兵隊ばかりが取り上げられてきたのでしょうか。

 創始者が高杉晋作で、明治陸軍におきまして位人臣を極めた山縣有朋の出世のステップボードとなったからじゃないんでしょうか。
 これも、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書いたんですが、奇兵隊はなにも、高杉晋作一人の力でできたものではありませんで、久坂玄瑞が中山忠光卿を頂き、率いていました光明寺党が奇兵隊の核となりましたことは、長州幕末史の基本的文献「防長回天史」に、ちゃんと書いてあるんです。

 で、遊撃隊なのですが、奇兵隊結成に遅れること一年あまり。
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」でも書いたのですが、8.18政変で落ちてきました七卿周辺の御親兵や、天誅組の残党など、土佐や久留米、水戸などの他藩人が多く参加し、来島又兵衛が中心となってまとまりました有志隊です。禁門の変では、長州軍の主力となって孤軍奮闘し、高杉の挙兵にも最初から参加し、幕長戦争では芸州口の激戦で主力となり、鳥羽伏見でも奮闘。その活躍は、奇兵隊を上回ったにもかかわらず、奇兵隊ほど名が知られませんでしたのは、やはり、他藩人が多かったためなのでしょうか。
 しかし、長州の軍ではなく、日本の国民軍、ということを考えれば、奇兵隊よりは、出身藩をといませんでした遊撃隊の方が、その原型だったというにふさわしいでしょう。

高杉晋作と奇兵隊 (岩波新書)
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 青山忠正氏の「高杉晋作と奇兵隊」は、高杉晋作の伝記でして、奇兵隊につきましては、ほとんどなにも書かれていないのですが、田中彰氏の「高杉晋作と奇兵隊」は、逆に高杉に関します伝記的記述はほとんどなく、奇兵隊についての考察書です。田中彰氏は、巻末に、奇兵隊に関します文献を解説つきで挙げてくださっていまして、非常に助かります。
 私、若かりしころからなんとなく、「長州奇兵隊は、近代日本の徴兵制度の先駆であり、国民皆兵の原型となった」というような言説を聞かされ続け、疑問符でいっぱいになっておりました。
 奇兵隊は有志隊で、どうみましても、イギリスVSフランス 薩長兵制論争3に書いておりますイギリスの義勇軍(ミリシア)に近く、一方、明治陸軍の徴兵制は、フランスの大陸陸軍にならったもので、似てもにつきません。

 いったい、だれがこんなでたらめな話を広めたのだろうか、おそらくきっと、奇兵隊を踏み台に日本陸軍の妖怪に成り上がりました山縣有朋にちがいない、なんぞと憶測していたのですが、それが、どうもちがうようなのです。
 なんともはや、どびっくり、です。どうも、ハーバート・ノーマンが戦前に著した「旧時代の日本における兵士と農民」、のようなんですね。
 ハーバート・ノーマンは、カナダ人宣教師の息子で、軽井沢生まれ。長じて社会主義に共鳴し、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学んだことで、共産主義者となります。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol2 イートン校に出てまいりますが、「アナザ・カントリー」の主人公のモデルでソ連のスパイだった、ガイ・バージェスと同世代で、どうも集団でソ連にリクルートされたケンブリッジの外交官の卵集団の一人、だったようなんですね。
 近年、イギリスの機密文書が公開され、戦前からすでに、イギリスの情報局保安部は、ノーマンが共産主義者であると認定していたことがわかりました。
 ケンブリッジのスパイグループ事件につきましては、下のBBCのドキュメンタリーがわかりやすくまとめてくれています。

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 ノーマンは、ケンブリッジ在学中に共産主義者となりました後、ハーバード大学で日本史を研究し、カナダ外務省に勤務し、東京へ赴任。都留重人と親しく、マルクス主義歴史学の羽仁五郎に師事した、といいますから、相当に偏った歴史観を身につけたようです。
 それにいたしましても、ノーマンの「旧時代の日本における兵士と農民」は、私が長年、ありえない!と感じ続けてきました、日本の戦後の長州偏重農民革命史観そのものでして、ほんとうにびっくり、です。
 そしてなんと、第二次大戦後、ノーマンはGHQに出向しまして、日本の占領政策にかかわり、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの一翼を担っていました。

 あきれましたことに、ノーマンは「旧時代の日本における兵士と農民」におきまして、日本陸軍の妖怪、軍国主義の親玉・山縣有朋を絶賛する気にはどうしてもなれなかったようでして、高杉晋作を褒めちぎり、次いで、山縣の代わりに大村益次郎を絶賛し、奇兵隊が攘夷のための軍隊であったことには、まったく触れていないんです。
 いや、以前から思っていたのですが、確かに大村益次郎は有能な人でしたけれども、長州軍の洋式化は、なにもかも大村一人でやったわけではないですし、攘夷感情を抜きにしまして、有志隊結成はありえなかったでしょう。
 
 スイーツ大河『花燃ゆ』と西本願寺に書いたのですが、薩摩を除きます大方の藩で、幕末当時、武士は地方公務員でしかなく、まともな軍隊は成り立ちようもなかったんです。長州におきましては、村田清風が浄土真宗のネットワークを、国防意識を庶民にまで持たせることに活用しようと思いつき、それに成功しましたことなども、奇兵隊成立の素地としてあるわけでして、いま現在、ノーマンの書は、マルクス主義者の妄想としか、私には受け取れません。

 しかし、考えてみましたら、日本共産党の大物リーダーでした、宮本顕治も野坂参三も山口県の生まれですし、功山寺の高杉晋作の騎馬像には、岸信介の賛辞が添えられていますが、同時に、左巻き傾向の菅直人がこれまたやたらに、高杉晋作と奇兵隊を賛美していましたねえ。
 
 現在、学術書レベルで言いますならば、もちろんハーバート・ノーマンは問題になりませんけれども、俗書で言いますならばなお、幕末維新史の概略が、ノーマンのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの呪いを脱しているとは、言いがたいのではないでしょうか。

 私、こんな占領政策時のマルクスの亡霊に今までさんざん悩まされていたのかと、今回初めて知りました衝撃で、もう少し、攘夷とウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの話を続けます。
 なお、ハーバート・ノーマンは、ソ連のスパイ容疑をかけられ、1957年(昭和32年)に自殺しました。

 関係ないですが、新しく始まりました朝ドラ、けっこうおもしろく、先々五代友厚が出てくるそうですから、楽しみにしているところです。
 珍大河とは、えらいちがいですねえ。

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珍大河『花燃ゆ37』と史実◆高杉晋作と海国長州

2015年09月22日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ36』と史実◆高杉晋作と幕長戦争の続きです。

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 なんとも、ふざけたお話です。
 世子の持病のお薬が京にはないから、美和さまがお届けがてら、久坂の落とし子探しをさせてもらう!って、馬鹿も休み休み言えっ!!!ですわ。薬を欠かせないような持病があるなら、普通、侍医が従軍しますし、どーしても薬を届けなければならないなら、小姓が行きます。
 なんでもこうも、常識の無い方がシナリオ書くんでしょ!

 で、スーパー・ナニー美和さまは、どういう突風に乗って、いつの時代の京へ行ったというのでしょうか。
 えー、前回、奥女中の鞠さんが「美和さま、今知らせが入りました。京で戦がはじまるようです」と告げ、京へ向かった世子にお薬を届けがてら、久坂の落とし子をさがしに、美和さまは京へ向かったわけなのですが、まず、京で戦がはじまる、というのですから、その戦とは鳥羽伏見の戦いのことではないか、と思うのですが、史実では、世子が京へ向かって山口を出発しましたのは、鳥羽伏見が薩長の勝利に終わり、徳川慶喜が会津桑名の藩主を連れて江戸へ逃げ、大阪城が落城して後の慶応4年(明治元年1868)1月22日のことでして、もう、なにがなんだか、です。

 えー、いったいいつ、どこのことなのやら、わけもわからず、旅姿の美和さまは男たちにからまれまして、逃げ込んだ路地で、偶然、辰次さんとその子に出会う、といいます、馬鹿馬鹿しいにもほどがある設定で、辰次さんいわく「今の京にはあんた、脱藩浪士がうようよいてるんやから」って、あーた、文久年間、京にうようよいました脱藩浪士は、死ぬか投獄されるか長州にいるかですわよ。だいたい史実では、坂本龍馬も後にそうなりますが、長州まで久坂を慕ってきた脱藩浪士やその卵を、文さんは手厚く持てなしたはずですし、辰次さんもずいぶん、お座敷で脱藩浪士の相手をしたはずですのに、なんでここまで脱藩浪士を馬鹿にするでしょうか。大阪城が落ちて、略奪をしましたのはごく普通の地元の住民たちで、脱藩浪士じゃありませんから。 

 そして、禁門の変とちがいまして、鳥羽伏見の戦いは、京洛中の花街はまったく戦火とかかわりはありませんでしたから、薩長兵歓迎で相当に忙しかったはずでして、戦争の時こそ芸者さんの稼ぎ時ですし、長期の近代戦じゃないんですから、食べ物がないなんて、ありえません。
 さらに文句をいえば、品川弥二郎は、絶対にありえへん高杉を狙う刺客、なんぞといいます妙ちきりんな役を割り振られましたあげくに、薩摩との連絡役として、薩長同盟に大きな役割を果たした史実はすっぽりとぬかされ、錦の御旗を作ったことまで無視されてしまいましたわね。一方、野村靖は、この時期京にはいませんでしたのに。

 で、NHK独自創作のラブストーリーが、またまた気持ち悪いかぎり。
 「日本のナニーになる!」と決心しましたスーパー・ナニー美和さまに、初恋の楫取さまが「わしがそばにいてお前をささえてやる」と、堂々の不倫宣言!です。
 いや、だから、妻をほっぱりだして、義妹とたわむれるな! 馬鹿め。という、とんでもない結びでございました。

 さて、本題です。

幕長戦争 (日本歴史叢書)
三宅 紹宣
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 三宅紹宣氏の「幕長戦争 」には、「幕長戦争をめぐる国際問題」という章があります。
 ちょうど、ですね。この時期、フランスはロッシュ公使が日本へ赴任していまして、前回述べました、フランス海軍によります富士山丸の取り扱い伝習から発展し、横須賀製鉄所(製鉄所という名前ですが、要するに本格的なドックです)の建造をフランス人に任せ、同時に三井を介しましてフランスに生糸独占取り引きをさせようと、幕府が着手しておりました時期です。

 これって、私がこのブログを書き続ける動機になりました事件でして、関心がおありの方は、最初の経緯はモンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1あたりを、幕長戦争とのからみは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3あたりを、ご覧になってください。

 三宅紹宣氏は、イギリスのパークス公使が、幕府が戦場となることを想定して下関の外国船通過を禁止しようとしたことに抗議し、幕府の下関攻撃にも懸念を示し、幕府に雇われて兵士・武器弾薬を運んでいたイギリス商船に対します長州の砲撃(空砲)を黙認し、イギリス商船が幕府に協力することを禁止するなど、暗黙のうちに、長州政府が幕府と対等の立場で交戦権を持っていると認めていたことを、指摘されています。
 一方、フランスのロッシュ公使が幕府の支配を認める立場だったことが述べられ、しかし長州は盟約関係にあった薩摩から、「ロッシュとフランス本国の意志は乖離している」と知らされたことが、「吉川経幹周旋記5」に見える(西郷従道が岩国藩に伝えた)のだそうです。

 薩英戦争と下関の長州攘夷戦争によりまして、日本と条約を結びました欧米諸国は、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない」という認識を、噛みしめるようになったといえるでしょう。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2あたりに書いておりますが、それは薩摩藩が、欧州にまで出かけていって、そういった認識をひろめたからでもあるのですが、一方、ドイツが統一戦争の最中、イタリアのリソルジメントが現在進行形でした当時の欧州におきまして、簡単に理解できることでもありました。

 幕長戦争は、いわば、「日本は統一国家であって将軍がその実質的支配者だ」 と主張します幕府と、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は、実質長州藩主と同等の存在でしかない」と主張しています長州の戦いであった、と言い換えることも可能でしょう。
 そうであったときに、です。関門海峡の制海権をどちらが握るかは、最大の争点であった、といえます。

海国兵談
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 林子平は、寛政の三奇人の一人で、 寛政5年(1793年)に55歳で没していますので、幕末というには少し早い時期の人物でした。
 マリー・アントワネットより十数歳年上で、死んだ年は同じです。つまり、フランス革命の最中に世を去りました。
 彼の著作「海国兵談」は、先見の明をもって、海防の必要性を訴えたものだったのですが、幕府の政策の不備を批判していましたため、発禁とされました。

 海国は、外寇の来たりやすきわけあり。また来たり難きいわれもあり。その来たりやすしというは、軍艦に乗じて順風を得れば、日本道二、三百里の遠海も一、二日に走り来るなり。このごとく来たりやすきわけあるゆへ、この備えを設けざれば、かなはざることなり。また来難しといういわれは、四方みな大海の険ある故、みだりに来たり得ざるなり。しかれども、その険をたのみて備えに怠ることなかれ 

 江戸の日本橋より唐、阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路なり

 要するに、以下のようなことを、林小平は、ペリー来航のおよそ70年も前に、警告していたわけです。
 日本は四方を海に囲まれて、外国が攻めて来づらい国である。しかし一方、軍艦に乗って順風を得たら、二、三百里の遠くからも一、二日で来られるわけで、陸路よりも攻めやすい、ともいえる。したがって、現在のようにまったく海防を考えない日本は危うい。

 江戸の日本橋から、清国やオランダまで、海は境のない水路である。

  遠い昔から、瀬戸内海航路は、西日本の交通の大動脈でした。
 そして、蒸気船の発達により、林子平の預言は現実となったのです。
 アメリカの砲艦外交による開国で、横浜が開港し、瀬戸内海は、横浜と長崎を行き来する武装外国船の通路ともなり、瀬戸内海沿岸の住民たちは、否応も無く自分たちが無防備であることを、思い知らされました。

 江戸が海に面した都市であったために、アメリカの砲艦外交は非常な力を発揮したわけなのですが、内陸の京都といえども、瀬戸内海通路の拠点、大阪、兵庫から、それほどの距離があるわけではありませんし、幕末、まさに海は、無防備な日本を、その中枢まで、侵略の脅威にさらすこととなったわけなのです。

 関門海峡は、上方に直結します瀬戸内海の入り口であり、交通の大動脈の要です。
 海峡の制海権を得ることで、長州は対外的に、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍と長州藩主は対等である」ことを、証明できるのです。そして、制海権を得るためには、対岸の小倉藩領(小笠原家)を占領する必要があります。
 つまり、短距離とはいえ、軍団の渡海の必要があり、そのためにはやはり、どうしても蒸気船が欲しいところ、でした。

 高杉晋作とモンブラン伯爵

 上の「高杉晋作とモンブラン伯爵」に、その経緯を逐一述べておりますが、木戸(桂小五郎)が京都へ行き、一応、薩長盟約が成立し、近藤長次郎が自刃し、それでも解決しませんでしたユニオン号問題。
 幕長戦争を目前にして、高杉はその解決をはかることを一つの目的とし、薩摩へ入国しようとしますが、それは果たせず、グラバーから独断でオテントサマ丸(丙寅丸)を購入します。
 この時点で、ユニオン号問題の行方は不透明で、長州海軍には、丙辰丸、庚申丸、癸亥丸の木造帆船しかありません。
 機動力を考えれば、たとえボート程度の小艦でも、蒸気船が必要だ、と購入にいたりました高杉の独断は、的確なものだったでしょう。
 無事、長州海軍局の運用となりましたユニオン号、あらため乙丑丸とともに、丙寅丸は獅子奮迅の働きを見せます。

長州戦争―幕府瓦解への岐路 (中公新書)
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中央公論新社


 幕長戦争は、幕府海軍によります大島口の砲撃、兵の上陸で幕を開けます。
 幕府海軍の優勢から、周防大島近海の制海権はをあきらめていました長州ですが、あるいは薩摩からの情報でもがあったのでしょうか、高杉は藩庁の許可のもと、丙寅丸で奇襲をかけます。未明のことで、たった一隻の小さな蒸気船の攻撃だとはわからず、実質的被害はなかったのですが、幕府海軍はあわてふためきます。結果、小舟によります長州軍の上陸奇襲を許し、周防大島を占領していました松山藩と幕府歩兵隊は、総崩れになって撤去に追い込まれ、幕府側は制海権を失うんですね。
 大島近辺の制海権喪失は、そのまま芸州口の補給にひびいてくるようになるわけです。

 なお、野口武彦氏の「長州戦争」で、松山藩兵はくそみそにけなされているのですが、三宅紹宣氏の「幕長戦争」は、かなり公平に描いてくれています。
 前回もご紹介しました内藤鳴雪の自叙伝(青空文庫「鳴雪自叙伝」)では、幕府歩兵隊がやった乱行が全部、松山藩のせいにされてしまったのだそうでして、後に長州に謝罪の使者を出しましたのは、幕府がまったく頼りにならないし、長州に攻められては弱兵の松山藩はどうにもならないので、単独講和の必要があったからだそうです。
 野口武彦氏は、非常に興味深い考察をなさるので、昔から尊敬申し上げていたのですけれども、けっこういろいろと、偏見をお持ちでおられ方だ、とも思ってしまいます。

 その野口氏ですが、小倉口の幕府海軍につきましては、鋭く、つぎのような引用をなさっておられます。

 小倉藩の史料「豊倉記事4」より
 今日、戦地に彼(長州兵)が戦争中、当方(小倉藩)蒸気艦肥料丸を乗り出し、しきりに運動し大砲を打ち立て、しばしば彼が横撃をなし、彼これがために大いに苦しみたり。公船(幕府の)富士(山)丸・回天丸も時々、彼(長州)が地方(陸地)および海上彼が船に向かい発砲せしも、彼地台場(長州の陸の砲台)また船をば砲撃せず、彼地にも近づかず、独り飛竜丸のみ乗り廻り発砲するをもって、これを防がんとして彼が蒸気艦を乗り出すも、富士丸などの軍艦海上に備え向はん事を怖れて退く。 

 長州側の「防長回天史」にも、次のように記録されています。
 「敵艦三艘新町沖に来たり、大里・赤坂の間を砲撃し、その往来を中断す。我が軍(長州)の死傷これがために多し(小倉藩記録によるに、この三艦は幕艦富士・回天と小倉艦飛竜丸なり。しかして前二艦は発砲したるに相違なきも、真に敵(長州)の台場あるいは敵船を攻撃するの活動をなさず、ひとり飛竜丸のみ真面目に活動して戦いたり)」 

 要するに陸戦にあわせて幕府側海軍、富士山丸、回天丸、飛竜丸も砲撃をしたが、長州側の台場、艦船をまじめに攻撃したのは、小倉藩の小型蒸気船・飛竜丸のみで、本格的な幕府軍艦、富士山丸、回天丸は、相手の砲弾が届かない距離に居て、ただ発砲しているだけだった、というんですね。
 幕府海軍は、当時の日本では一番の強力な軍艦を持ちながら、脅しをかけるだけで、戦闘は避けていたわけです。
 乗組員が、幕府官僚化して、サラリーマン気質になっちまっていたんでしょうね。
 幕府海軍に戦闘魂が宿りますのは、江戸開城の後、脱走海軍となった後のことなんです。

 海軍総督として小倉口の戦いに望みました高杉晋作は、主に長州藩奇兵隊と長府藩報国隊(支藩の有志隊で、乃木希典も所属していました)から成り立ちます陸軍と、小型蒸気船2隻、木造帆船3隻の長州海軍を率いて、海陸共同作戦の総指揮をとります。
 奇兵隊と報国隊の関係は、かならずしもよくはなく、この二軍に海軍をあわせた作戦を実行できる人物は、高杉晋作しかいなかったでしょう。
 幕府海軍とちがいまして、捨て身の長州海軍は、結果的に関門海峡の制海権を握りました。
 陸上の占領は、制海権の確保に付随する問題でしかなく、高杉は、その機微を十分に心得、勝負勘を発揮して、長州を勝利に導いたんです。

 航法計算がどれほど苦手でも、高杉晋作は、すばらしい戦闘能力を持った海軍総督となって、その短い生涯を終えました。

 松山藩は、惨敗を喫しました幕長戦争で、「幕府は当てにならない」「蒸気船がどうしても必要だ」という、二つの大きな教訓を得ました。
 実は、親戚筋の土佐藩で蒸気船を借りていたのですが、到着が開戦に間に合わず、幕府海軍は頼りになりませんでしたし、思いきって7万ドルの蒸気船を購入します。
 鳥羽伏見でも、松山藩は、後方で少数ながら幕府方で参戦していたのですが、援軍を積んで大阪に来ました自藩蒸気船に、そのまま世子と敗走の藩兵を積んで帰って、謹慎し、かろうじて最悪の事態とはならずにすんだような次第です。

 ようやく、高杉晋作と海軍について書き終えまして、次回は再び、久坂の子孫について、になりそうな感じです。まだ、ドラマを見てないんですけど(笑)

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珍大河『花燃ゆ36』と史実◆高杉晋作と幕長戦争

2015年09月14日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ35』と史実◆高杉晋作と長州海軍の続きです。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」オリジナル・サウンドトラック Vol.2
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 今回から、シナリオが「天地人」の小松江里子氏です。
 「天地人」は、子役の子が実に上手くって、最初は見ていたのですが、大人になったとたん、つまらなくなったので見ませんでした。
 まあ、あれですね。シナリオライターがかわったからって、いまさらどうにもならなさげな気はしていました。
 ありえへん急成長を遂げました興丸ちゃんに、いかに野菜を食べさすか? そうだっ! 家庭菜園だっ!
 って、あーた、野菜食べなくてもあっという間に大きくなってるし、平成の成金社長宅のスーパー子守じゃないんだからっ!

 それはまあ、いいとしまして。
 いくら架空のお中臈美和さまが、モンスターに進化しているからって、高杉を看取ってこれからの日本の子供たちの教育を託されるっ!!!って、あーた、どういう誇大妄想!なんでしょう。

 で、もちろん、どや顔のでしゃばりは、セットです。小田村改め楫取素彦さまも。
 まず、順番がちがうんですね。たび重なる時系列無視!です。
 史実としましては、高杉の死去は、慶応3年(1867年)4月13日深夜で、小田村が楫取になったのは、同年9月25日なんです。
 したがいまして、すべてはこれも架空のこととなるのですが、よりにもよって高杉の死を、ですね。
 まだ小田村のはずの楫取が、「高杉晋作、療養の甲斐もなく、下関で死去いたしました」とか、そうせい侯と世子に報告し、それまでなにも知らなかったかのように二人が驚く!って、いくらなんでもひどすぎる!でしょ。
 だいたい、そもそも、殿様と世子は通常御殿が別ですし、山口でももちろんそうです。
 このドラマでは、いつも殿様と世子が横並びで家臣に接しているのが、まず異様なんですが。 

 これはドラマの中でも言っていたと思うのですが、高杉は世子の小姓でしたし、文久3年には父親の高杉とは別に百六十石で召し出され、奥番頭格・若殿様御内用を命じられています。
 青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)」におきまして、「定広(世子)と晋作は、これも深い信頼関係で結ばれるようになる。主従というより、同志というほうがふさわしいのではないか、と思いたくなるくらいで、晋作の行動の背景には、つねに定広の存在があったと言っても過言ではない」とまで、言っておられます。

 晋作さんは、慶応2年、幕長戦争の最中から体調不良を覚えるようになり、8月半ばには、馬関口海陸軍参謀の指揮権を前原一誠に譲り、戦線離脱します。
 以降、下関で療養し、症状がしだいに悪化していくのですが、翌慶応3年の正月そうそう、長州政府は、晋作さんに新たに5人扶持と見舞い一時金20両を給し、同年2月15日には、世子から、「長州藩のこれからを、おまえにこそ頼みたいのだから、養生してどうか元気になってくれ」と異例の見舞い状を受け取っているんですね。
 余命いくばくもないとわかった3月29日には、藩主そうせい侯が、高杉家の跡取りではなくなっていました晋作に、百石・大組で新たに谷家創立の栄誉を与えもしています。
 
 そして、話は少しさかのぼります。桐野利秋と伊集院金次郎に書いておりますが、3月21日、高杉晋作の病状が悪化した、との知らせが大宰府に届き、木戸孝允とともに大宰府の五卿の元を訪れていました藩医・竹田祐伯が、呼び返されます。
 大宰府から上京しようとしていました中岡慎太郎は、20日に下関で坂本龍馬に逢って、高杉の症状が悪化していると聞き、翌21日に見舞うのですが、悪化しすぎていて、会えませんでした。
 つまり、三条侯の侍医を務めていた長州の名医が晋作の元に遣わされ、坂本・中岡の土佐勤王党員にも憂慮されていました幕長戦争の英雄の最後が、なんであんなさびしい様子に描かれなければならないんでしょうか。唖然呆然の果てに悪寒です。

 さらにいえば、ですね。
 慶応三年、大政奉還、討幕の密勅、王政復古のクーデターにいたる緊張感が、いまだ公式には朝敵の藩主・世子の奥御殿にさっぱりなく、野菜菜園騒動で終わって、奥女中の鞠さんが「美和さま、今知らせが入りました。京で戦がはじまるようです」と暢気にぬかすっていくらなんでも間抜けすぎ!でしょう。密勅によって、ようやく、密かに、ではありますが朝敵ではなくなったわけでして、それもさっぱりわかっていない奥って、平成の成金一家がコスプレしているだけ!としか、思えません。

 さて、本題です。

幕末の蒸気船物語
クリエーター情報なし
成山堂書店


 「幕末の蒸気船物語」に、元綱数道氏は、幕府海軍の整備に関して、以下のように書いておられます。
 「慶応年間には長州征伐の戦訓により再び運送船の拡充が計られ、次の蒸気船が購入された」 
 つまり、幕府海軍にとりまして、幕長戦争における最大の戦訓は、海上輸送力の不足だったようなんですね。

幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書)
野口 武彦
中央公論新社


 野口武彦氏の「幕府歩兵隊」にも、以下のようにあります。
 (幕府)歩兵隊は、ひっぱり凧状態であった。一つの持ち場に貼り付けず、戦線の弱い箇所を手当するために次々と転戦を要求されたのである。その足になったのは、幕府海軍の蒸気艦であり、輸送船になったり、援護射撃をしたり、撤退する歩兵を収容したり、軍艦同士で砲撃戦をしたりとこれも大忙しであった。長州側の観察では、幕府軍艦は海戦を嫌って歩兵輸送に専念しているといっている。

 幕府歩兵隊とは、ミニエー銃(主に1861年式オランダ製ミニエー銃)を装備した洋式軍でして、野口武彦氏によれば、その最初の出動は、水戸天狗党の乱なのだそうです。
 私は、「忠義公史料」で、禁門の変で一橋慶喜が率いていました兵隊の服装が歩兵隊のものだった、という記事を読んだ記憶があるんですが、手元にありません。記憶が正しければ、薩摩藩の誰かからは「見かけ倒しで役に立たない」と酷評されておりました。

 とはいいますものの、幕府の呼びかけにしたがって参戦しました諸藩の大多数は、黒船来航以来、軍制改革に取り組んでいなかったわけではないのですが、既得権益を持つ者の抵抗が強く、たいしたことはできていませんでした。
 芸州口の越後高田藩(榊原)と彦根藩(井伊)、そして大島口のわが松山藩などがその代表ですが、平和呆けの儀仗団体に毛が生えただけの旧式軍でしかなく、それが、既得権益のない有志隊を核に成り立ち、ミニエー銃を持って洋式化されました長州諸隊に、かなうわけがありません。

 松山藩の中の上の士族の家に生まれ、後に俳人になりました内藤鳴雪が、大正になってから自叙伝(青空文庫「鳴雪自叙伝」)を書いています。弘化4年(1847年)生まれですから、高杉晋作の従弟にして義弟、南貞助と同じ年で、第二次征長の年には19歳で、松山藩世子の小姓を勤め、後詰めとして、大島口対岸の三津浜におりました。
 大島へ向かいました松山藩の軍勢は、大方が旧式で、一軍だけは新選隊という洋式銃隊がいたそうなんですが、結局、負けて帰ってきまして、鳴雪は、逆に長州兵が攻めてくるのではないか、「彼(長州)は熟練した多数兵、我(松山)は熟練せぬ少数兵であるから、とても防御は仕終おせない」、したがってそうなれば、世子と共に松山城の天守閣に籠もって自刃するしかない、と覚悟を決めたんだそうなのです。

 まあ、そんなわけで、幕府歩兵隊はひっぱりだこだったんですが、野口武彦氏が「蒸気船を足に転戦」としておられますのは、大島口から備前口へ転戦しただけでして、小倉口、石州口でも、幕府歩兵隊の応援は望まれていましたのに、転戦、増援はできていませんでした。

幕長戦争 (日本歴史叢書)
クリエーター情報なし
吉川弘文館


 三宅紹宣氏の「幕長戦争」には、以下のようにあります。
 (盟約を守って)薩摩の大軍が京都に駐屯したことは、幕府軍へ威圧を与え、幕府軍は芸州口戦争で敗北を続けているにもかかわらず、幕府軍本体が駐屯している大阪から援軍を出すことを困難にさせた。 

 しかし、京に駐屯していた薩摩軍は、たかだか七,八百でして、朝廷対策の牽制でしたら会津、桑名がいたのですし、幕府がそれほど多数の軍を大阪に残す必要はありませんでした。
 要するに、幕府には、兵や物資を運ぶ汽船が足らなかったのではないでしょうか。

 とりあえず、今回、石州口は置いておきます。
 陸路から萩をつかれるルート、ということで、石州口の防備も重視した、ということなんでしょうけれども、隣藩・津和野が中立姿勢をとり、長州軍の通過を認めていたくらいですから、あるいはここは、攻め出していくほどのことは、なかったかもしれません。

 大島口は放っておかれたと、「防長回天史」にも書かれているのですが、これは、周防大島周辺の制海権を幕府に握られるだろうとは、予想できましたので、放っておかざるをえなかった、ということです。今でこそ、周防大島は、柳井市との間に橋がかかっているのですが、当時は、船に乗らなければいけませんでした。
 
 当初、大島口に配備されました幕府海軍の船は、富士山丸、翔鶴丸、大江丸、旭日丸、八雲丸です。
 小倉口で使われましたのは、富士山丸、翔鶴丸、順動丸、後に回天丸、飛竜丸です。

 このうち、大島口の八雲丸は、出雲松江藩の鉄製スクリュー式蒸気船を、幕府が乗員ごと借り上げた形でした。329トンと小型ながら、1862年(文久2年)イギリス製造、砲6門の新鋭軍艦です。
 旭日丸は、1856年(安政3年)水戸藩が製造しました洋式帆船で、推定750トン。砲を積んでいましたが、主には運搬船として活用されていました。
 翔鶴丸(原名ヤンツェー、350トン、外輪)、大江丸(原名ターキャン、609トン、スクリュー式)、順動丸(原名ジンキー、405トン、外輪)は、どれも英米が中国航路で使用していました武装商船で、鉄製蒸気船です。
 小倉口の飛竜丸は、参戦していた小倉藩の船です。アメリカ製、木造スクリュー式蒸気船、トン数、砲数は不明ですが、小型の新造艦のようです。

 同じく小倉口の回天丸は、木造外輪式蒸気コルベット、710トン。プロイセン製で、1855年(安政2年)進水と古かったのですが、イギリスで修理改装され、左右に40斤ライフル砲を5門ずつ、銅製のホイッスル砲を1門ずつ、前面に50斤ライフルカノン砲1門を備えていました。長崎奉行支配下の船で、乗り組みもほとんど長崎の地役人です。詳しくはwiki-回天丸をごらんください。ほとんど、私が書きました。

 そして、富士山丸です。
 これは、幕府がアメリカに発注していて、1864年(元治元年)に完成し、慶応2年(1866年)2月20日、つまりは、大島口開戦のほんの3ヶ月あまり前に、日本に届いたばかりでした。排水量1000トンの木造スクリュー式蒸気スループで、砲は12門。これまで、幕府が所有したことがない大きさの三本マストの最新鋭艦です。

 対する長州の軍艦は、前回と重複するものもありますが、長州藩で建造しました洋式帆船、丙辰丸、庚申丸と、イギリスから購入しました小型帆船・癸亥丸(原名ランリック)ですが、庚申丸、癸亥丸は、アメリカの軍艦ワイオミングに撃沈・大破されたものを、引き上げ、修理したもののようです。

 そして、蒸気船が2隻。乙丑丸と丙寅丸ですが、乙丑丸はユニオン号。海援隊と近藤長次郎がかかわり、薩長盟約のはざまでもめにもめました木造スクリュー式蒸気船で、300トンほど。もめごとの経緯は、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5あたりから、近藤長次郎シリーズで延々と追求しておりますが、私は、これを書いたころから、海援隊よりも、松島剛蔵に率いられていました長州海軍の方が、技量ははるかに上、と思っておりました。
 どころか、前回検討しましたが、攘夷戦の経験を経まして、長州海軍の戦闘力は、この時点では日本一です。
 
 丙寅丸は、鉄製スクリュー式蒸気船ですが、わずか80トン。高杉晋作が、幕府との開戦をひかえて、独断でグラバーから購入しました、ボート程度の砲艦です。

 一見、幕府海軍と長州海軍の間には、大きな格差があるように見えるのですが、子細に検討してみれば、それほどでも、ないんですね。
 まず、幕府は兵も荷物も長距離を海上輸送する必要がありますが、長州は地元で迎え撃つわけですから、それほどの運搬船は必要ありません。
 艦船同士の戦いでしたら、知り尽くした長州近海、という条件のもと、相手が大きな蒸気船でも帆船で戦いうることは、オランダのメデューサ号との戦いで証明されています。

 また、幕府の富士山丸がいかに最新艦であろうと、です。メデューサ号やワイオミング号よりは小さいわけですし、しかも、幕府海軍にとりましては初めての型の船でして、マストの扱いが、非常に難しかったんだそうなんですね。また製造元のアメリカ人が操作を伝授してくれたわけではなく、困惑しました幕府海軍は、どうやら、横浜にいましたフランスの軍艦、ラ・ゲリエールの士官に伝習を受けたそうなのですが、それもわずかな期間です。

 つまるところ、いくら最新鋭の軍艦を持っていましても、的確な運用ができなければ宝の持ち腐れですし、実際、幕長戦争における富士山丸はそうなってしまった、ということができるでしょう。

 もう、まったく、「花燃ゆ」とはちがった方向の話で、またまた長くなってしまったのですが、海軍から見た幕長戦争につきましてまとめて書かれた本がなく、考え考え、書いておりまして、またしても、続きます。
 
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珍大河『花燃ゆ35』と史実◆高杉晋作と長州海軍

2015年09月06日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ34』と史実◆久坂玄瑞と高杉晋作の続きです。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」オリジナル・サウンドトラック Vol.2
クリエーター情報なし
バップ


 まあ、いまさら、どや顔美和さんの奥パートはどーでもいいのですが。
 まず。
 だいたいそもそも、なんども言ってきましたように、山口城に奥なんかないからっ!!!
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆29回「女たちの園」珍大河『花燃ゆ』と史実◆30回「お世継ぎ騒動!」で、書いておりますが、都美姫さまは宮野御殿ですし、銀姫さまは五十鈴御殿ですし、どこぞの成金中小企業の社長宅じゃないんだから、嫁と姑が同居なんかしません!
 最初から、もうありえへん妄想世界なんですけれども、いやはや、軍師美和殿が、社長宅の非常時通路を考えたから、お中臈に出世して、久坂家再興!って、もう、いくらなんでもくだらなすぎ!、でしょう。
もう何度も書いてまいりましたが、久坂家再興の後に、文さんは奥勤めして美和となったんですし、珍大河『花燃ゆ33』と史実◆高杉晋作挙兵と明暗で書きましたように、明治3年にいたって、美和さんはようやくお側女中なんです。史料が全部、残っています。

 あと、高杉の愛人のおうのさんね、ちらっとしか映りませんが、かいがいしい世話女房みたいで、おっとりのおの字もなく、かわいくなさすぎ!です。あんた、伊藤博文の女房・梅さんじゃないんだから。

 で、さっそく本題に入りましょう。
 幕長戦争です。

高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏は「高杉晋作と奇兵隊」、エピローグにおいて、次のように述べておられます。

 晋作の死去直後、地元での評価はどのようであったのだろう。萩護国山にある「東行暢夫之墓」は胎髪臍帯を収めたものだが、その裏面に杉修道(梅太郎)撰に成る、慶応三年丁卯十月十五日付の碑銘が刻まれている。そこには、「君、つとに尊攘の大義をあきらかにし、長ずるにおよんで果断勇決、用兵神の如し、去歳小倉の役、諸軍を監し、海戦功を奏し、城ついに陥つ」とある。同時代の人々にとって晋作は、四境戦争でも一番の激戦となった小倉口の戦いを勝利に導いた立役者と見なされていたようだ。

 

 団子岩の杉家と松陰、久坂ほかの墓地に、並んである晋作さんのお墓です。
 私、去年お参りしながら、民治さんが書いたそんな墓碑銘があるとは、さっぱりと気づきませんでしたわ。
 すごいですね。「用兵神の如し」ですよ。そして、「諸軍を監し、海戦功を奏し」ですから、亡き松島剛蔵に代わって長州海軍を掌握し、海陸共同作戦の指揮を執って、見事に成功させたんですわね。

 つくづく、民治さんの墓碑銘を見つめるうち、私は、ふと、あることに気づきました。
 この時点の長州海軍が、乗組員の質において、相当に優秀であっっただろうことに、です。

幕末期長州藩洋学史の研究
小川 亜弥子
思文閣出版


 私、小川亜弥子氏の「幕末期長州藩洋学史の研究」を読みますまで、オランダの長崎海軍伝習を受け、長州海軍の洋式化に取り組みました松島剛蔵が、どれほど長州三田尻のお船手組「村上両組」に悩まされていたか、まったくもって存じませんでした。
 それもそのはずで、史料が山口県文書館に眠りましたまま、ほとんど活字化されてないようなんです。

 ちなみに、村上両組といいますのは、能島村上、因島村上の両元水軍です。
 戦国時代に活躍しました村上水軍三家は、来島村上氏が九州の山の中の小藩として残りましたが、能島、因島の二家は、長州お船手組となって周防大島に移住し、三田尻を根拠地として幕末を迎えました。
 戦国時代には、厳島合戦やら石山合戦やらで大活躍しました村上水軍ですが、江戸三百年で、すっかり平和ボケ状態。主な仕事は、参勤交代の御座船運行、合戦など思いもよらない、儀仗団体となっていました。
 まあ、いわば、です。先祖代々のやり方で、たまにしか使わない殿様専用クルーズ船を手入れして、運行していれば、それで十分に名誉と収入があったわけでして、あえて苦労して、洋夷のまねをし、危険に身をさらしたいとは思いませんわね、普通。
 
 そんなわけで、松島剛蔵は、洋式海軍教育にあたり、お船手組からはやる気のあるものしかとらず、藩の大組士や中下層の諸氏から、希望者を募って、別組織を作ろうとしました。
 松島は、実地訓練を重んじる方針でして、まあ、あたりまえの話なのですが、洋式船の操船と戦闘を学ぶのに、座学だけでは、どうにもなりませんわね。
 高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で書きました高杉晋作の海軍修業も、その一環で行われたものなのですが、結局、高杉が海軍の勉強をやめてしまったにつきましては、青山忠正氏いわく、「上海に行ったときは船酔いしていないので、やはり、数学が苦手で航法計算ができなかったせいだろう」ということですが、私もそう思います。

 で、長州藩の最初の攘夷戦が、砲台を使っての陸からの攻撃ではなく、海戦であったことは、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書きました。
 要するに、攘夷戦開始時、中山忠光卿を頂き、久坂が率いていました光明寺党は、正式な長州の軍ではなく、しかし一応、正規軍の配下ではあったものですから、指揮官の決断がなければ砲撃はできず、そして指揮官には、やる気がありませんでした。
 しかし、このとき、松島剛蔵率いる長州洋式海軍は、通常の家臣団とは切り離された別組織でしたから、陸の指揮官の命令に従う必要は無く、光明寺党は軍艦に乗り込んで、松島剛蔵の決断で、軍艦が攘夷戦の口火を切ったわけです。

幕末の蒸気船物語
クリエーター情報なし
成山堂書店


 元綱数道氏著「幕末の蒸気船物語」によりますと、最初に攻撃を受けましたアメリカ商船ベムグローブ号は、241トンのスクリュー式蒸気船です。
 対しました長州軍艦は、庚申丸(木造帆装艦、トン数不明、30ポンド砲6門、製造は長州)、癸亥丸(木造帆装艦、283トン、18ポンド砲2門、9ポンド砲8門、原名ランリック、イギリスから購入)です。

 
幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲 (中公新書)
古川 薫
中央公論社


 古川薫氏の「幕末長州藩の攘夷戦争」も参考にさせていただきながら、書きます。

 文久3年5月11日午前2時、出港準備をしていて、煙突から火花を出していましたベングローブ号を、庚申丸と癸亥丸が砲撃し、三発は命中したのですが、損傷はわずかなものでした。
 当時の商船の常で、ベムグローブ号も武装はしていたのですが、それほどたいした砲を積んでいたわけでもありませんし、ちょうど出港準備をしていたところでしたので、応戦しながら港外へ出て、そのまま長崎へと走り去りました。

 次いで5月22日、フランスの通報艦(外輪式蒸気船)キャンシャンを攻撃しますが、このとき長州の陸の総指揮官は代わっていまして、初めて、陸上砲台が火を吹きます。
 そしてこのときは、庚申丸、癸亥丸よりも砲台の方が攻撃の主になっていました。
 いっせい砲撃に、キャンシャンは軽微ながら損傷を受け、しかしなにが起こっているのかわからず、敵意がないことを説明するため、ボートに書記官を乗せて陸に近づきました。ところがこのボートが陸から狙い撃ちされ、書記官は負傷し、水兵4人が死亡します。
 キャンシャンはボートを収容し、応戦しながら、船足を速め、長崎をめざしました。

 そして、5月26日御前7時。オランダ軍艦メデューサ号が関門海峡に入ってきました。スクリュー式蒸気船で、三本マスト、1700トンの大きさです。
 この当時、日本では、幕府海軍でさえ、400トンほどの軍艦しか持っていませんで、庚申丸、癸亥丸で突っかかっていくのは、無謀といえそうなのですが、それをやってしまうんですね。
 「幕末の蒸気船物語」に、オランダ国立博物館所蔵、下関で交戦中のメデューサ号の絵が載っていますが、やはり、メデューサ号は大きいです。
 庚申丸、癸亥丸は、砲台の援護を受けながらも、健闘したといってもいいかと思うのですが、メデューサ号は結局、一時間半に渡る砲撃戦の末に、17発の命中弾を受け、死者4人、重軽傷者5人を出しました。長州側には、死傷者はいなかったもようです。

 従来、オランダ船は、古くからの親交があるのでオランダだけはまさか砲撃されないだろう、と思って海峡へ入った、といわれておりましたが、元綱数道氏は、オランダ総領事ボルスブルックの日記を引用され、そうではなさそうだとしておられます。
 要するに、長崎の晩餐会で、アメリカ商船ベムブローク号の船長が「下関で砲撃を受けた」と語り、それを聞いたメデューサ号の船長が「これから下関を通るが、もし砲撃を受けたら徹底的にこらしめてやる」と演説し、熱狂的な拍手を受けた、というんですね。メデューサ号に乗って横浜へ行く予定だったホルスブルック総領事は、当初、オランダ船が攻撃されることはない、と考えていましたが、長崎湾の出口でキャンシャン号に出会い、砲撃される可能性が高いことを知り、晩餐会で勇ましい演説をした船長が、「海峡に入らず外回りで横浜に行きたい」と言い出す始末です。しかし、ポルスブルックは、「晩餐会で演説した以上、回避して臆病者呼ばわりされるよりも沈没された方がまし」 だとして、下関を通る命令書を書いたんだそうなんです。

 そして、7月16日。アメリカの軍艦ワイオミングが、単艦、ペムブローク砲撃の復讐に乗り込んできます。
 ワイオミングは、木造スクリュー式蒸気、スループ(フリゲートとコルベットの中間の軍艦)です。1457トンで、オランダのメデューサ号より少し小さいですが、そこそこ大きく、32ポンド砲4門、予備砲2門。

 海には境がありませんし、欧州諸国は多くの植民地をかかえていましたので、交戦しますと、極端な場合、商船(武装しているのが普通です)も交えて、世界中の海で戦闘をすることになります。
 日本は島国ですから、それにまきこまれる事態も起こります。すでに19世紀初頭、ナポレオン戦争の余波で、オランダ船を拿捕しようとイギリスのフリゲート艦フェートン号が長崎に侵入してくる、という事件が起こって、日本は防ぎようもなく、自国の無防備に震え上がったわけなのですが、クリミア戦争では、極東におきましても、ロシアの軍艦が英仏の軍艦から逃げ隠れしておりました。
 
 アメリカは当時、南北戦争の最中でした。
 以前に書いたと思うのですが、欧州の陸続きの国同士の戦いでは、海上封鎖に重きが置かれず、海戦が勝敗に寄与することはあまりありませんでした。
 ところが、この南北戦争におきまして、北軍は、大々的な海上封鎖を実行するんですね。
 といいますのも、南部の経済は、綿花をイギリスに輸出することで成り立っていまして、それを止めることが、勝利への最短距離でした。
 北部は、この海上封鎖に160隻の艦船を投入した、といいますから、当時の日本の状況を考えますと、めまいがしそうな格差です。

 ともかく。
 ワイオミングは北軍の軍艦でして、極東で北部の商船を攻撃していました南軍の軍艦を攻撃しようと、香港を基地にして活動していました。
 まあ、つまり、戦いに来ていたわけですから、士気がちがいます。
 生麦事件の関係で、在日居留民の安全確保の必要から、ワイオミングは横浜へ呼ばれていたのですが、そこへ、ペムブローク号が砲撃されたとの知らせが入りました。
 そこは、血の気の多いヤンキーです。

 ワイオミング号は、下関に停泊中の庚申丸、癸亥丸、そして壬戌丸を襲います。
 壬戌丸は、原名ランスフィールド。鉄製の蒸気船でしたが、448トンほどの武装商船で、砲は2門しかありません。しかもこの日は、たまたま世子の乗船予定があり、そのせいなのかどうなのか、どうも、砲ははずしていたようなのですね。
 ともかく、ワイオミング号は、死者6名、重軽傷者4人を出しながら、庚申丸、壬戌丸を撃沈し、癸亥丸を大破。長州側の死者は8人、重軽傷7人。
 陸の砲台も火を噴く中、すごいですねえ、ヤンキーの戦闘魂。

 いや、しかし。
 長州海軍教育は、この攘夷戦と平行して、新たな取り組みを始めていました。
 従来の三田尻御船蔵を廃し、代わりに、海軍士官養成の本格的な学校を作ろうというわけです。
 


 写真は、三田尻御船蔵跡です。
 庚申丸、壬戌丸沈没、癸亥丸大破で、海軍学校設立は一時中断したそうですが、松島剛蔵を中心としまして、すぐに再開され、この年11月には、三田尻御船蔵は規模拡大の上、海軍局と改称。剛蔵は、海軍局頭取役となります。そして翌年、艦内での教授を開始。

 で、ですね。
 この文久3年の時点で、日本の中で戦闘を経験した海軍は、長州のみ!なんですね。
 幕府海軍はもちろん、一度も戦ったことがないですし、薩英戦争でも艦船は戦いませんでしたから、薩摩海軍にも実戦経験はありません。
 そういや、勝海舟が「一度はちゃんと攘夷をやるべき」と言っていたという話ですが、経験の必要を痛感したり、したんですかね。
 何事も経験がものをいうわけでして、犠牲ははらいましたが、貴重な戦闘経験を積み、長州海軍は、船は無くとも、人材は最強!となったんです。
 
 その最強の海軍人材を、幕長戦争におきまして、海軍総督となりました高杉が、見事に指揮するわけなのですが、長くなりましたので、続きます。
 すみません。今回は本題に入り損ねました。
 

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