郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

『八重の桜』第19回と王政復古 後編

2013年05月16日 | 幕末大河ドラマ
 『八重の桜』第19回と王政復古 前編の続きです。

 前回、そこまで行きそこねまして、今度こそ、8年前のこの記事、モンブラン伯王政復古黒幕説、そしてモンブラン伯の長崎憲法講義の続きになってくれるかと(笑)

八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
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NHK出版


 しかし先にちょっと、秋月悌次郎の蝦夷左遷について、補足しておきたいと思います。
 BS歴史館「幻の東北列藩・プロイセン連合」と史料にも、関係してくる話かと。

会津藩儒将 秋月韋軒伝
徳田武
勉誠出版


 徳田武氏の『会津藩儒将 秋月韋軒伝』より、以下、秋月が蝦夷(北海道)の斜里で、病に伏せっていたときの漢詩を引用します。
 読み下しは徳田氏ですが、私が勝手に漢字をひらきました。

 京洛この時 まさに謀を献ずべし
 謫居病に臥す 北蝦夷州
 死して枯骨を埋むるも また悪きにあらず
 唐太以南はみな帝州

 幕末から明治初年の樺太問題につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編と、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編を見ていただきたいのですが、秋月は、慶応2年(1866年)の12月、至急京都へ赴任するようにと言います異例の命令を受け……、異例といいますのは、当時、冬季に蝦夷地を移動するのは大変なことだったからですが、ともかく秋月は、一刻を惜しんで蝦夷を去りますので、このとき、最後の箱館奉行・杉浦梅潭に別れを告げるひまはなかったようですが、京都にいた時期も重なっていますし、杉浦は京で後の新撰組中核メンバーがいました将軍護衛浪士を担当したりもしていますから、知り合いだったはずです。
 今度、杉浦さんの日記を、じっくり読んでみるつもりです。

 ともかく。
 ロシアは樺太を得ようと続々と囚人を送り込んでいる最中ですし、秋月さんには、北方の守りが大切なものだとわかっていたようなのですが、蝦夷の預かり地を放棄しながら、プロイセンに売ろうとしたのは、いったいだれ、なんですかね。

 さて、話をもとにもどしまして、まずは討幕の密勅です。
 NHK大河ドラマ『八重の桜』 第19回「慶喜の誤算」あらすじ動画を、ご覧ください。
 西郷と大久保が、岩倉具視と、討幕の密勅について語っている場面が出てまいります。
 討幕の密勅は、正親町三条実愛から、薩摩の大久保利通と長州の広沢真臣が受け取りました

 正親町三条実愛は、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に書いておりますが、中御門経之とともに大久保利通から、さんざんっぱら幕府の陰謀を吹き込まれました倒幕派の公家です。
 討幕の密勅に関係しましたのは、正親町三条実愛と中御門経之、そして、明治大帝の母方の祖父・中山忠能(倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)です。

 岩倉具視はいまだ蟄居中の身ですが、中山忠能を仲間に引きずり込むなど、間接的にかかわっております。
 ドラマでは、その岩倉が、「偽勅や」と、言っているのですが。

 偽勅かどうかといいますと……、限りなく偽勅に近いのですが、そう言い切ってしまうことも、できないようです。
 正式の勅は紹書であるべきなのですが、紹書は摂政関白が開く朝議を経て、帝直筆の裁可の文字が必要です。
 しかし討幕の密勅は、直接的には上記の三人のみしかかかわっていませんから、筆をとりました正親町三条は、綸旨だったと言っているんだそうです。
 綸旨は朝議を経なくてもいいのですが、帝の了解は必要です。
 帝の了解を得たという体裁を整えるために、帝の祖父・中山忠能が一枚噛んだわけでして、しかし実際に帝のお耳に入れたのかどうか、疑わしいんです。

 私は、ですね。少年帝は、子供のころに遊んでくれた叔父の中山忠光卿(続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)を慕ってらして、攘夷討幕の旗頭でした忠光卿は長州にいると思われていたわけですし、叔父さんを助けなければ!と、密勅に積極的でおられたかもしれず、だとすれば偽勅ともいえないのではないのかな、説です(笑)

 それはともかく。
 吉川西郷さんが、言っていますよね。
 「偽勅でんかまいもはん。これで薩摩は挙兵討幕に一丸となりもっそ」 

 偽勅であるにせよ、ないにせよ、です。
 佐幕派の二条摂政に知らせもせず……、といいますか、知られてはならず、朝議を経てもいない密勅を、公にするわけにはいかないわけでして、では、なんのための密勅だったのか、と言いますと、井上勲氏の『王政復古』では、後に正親町三条が「密勅によって薩長二藩の武力討幕の方向が決した」と語っておりますことから、薩摩にとっては藩主父子を説得し、藩内の反対論を押さえるためで、長州には、薩摩と対等の出兵であると保証するためとされております。 

王政復古―慶応3年12月9日の政変 (中公新書)
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 つまり、ドラマは、この名著を下敷きにしてくれているわけでして、さらに、岩倉具視に「王政復古や。日本を神武創業のはじめに戻す。2500年さかのぼれば、たかが300年の徳川など、一息に吹き飛ぶわ皇国をいったん更地にして一から作り直すのや」といわせていますが、これがまた、井上勲氏が述べておられることなんです。

 モンブラン伯王政復古黒幕説で、私、以下のように要約いたしました。

 幕末の政治劇については、井上勲著『王政復古』という、鋭くかつよくまとまった解説書があります。ここで最後に問題にされていますのは、「神武創業の始に原づき」という王政復古の宣言、なのですが、なぜ問題とするかについて、井上氏は「今を改革し将来を望もうとする場合、過去がその作業に構想力を与えることがある。くわえて、正当性の根拠を提供することがある」と書いておられます。
 で、復古というならば、どこまで過去を遡った復古か、古ければ古いほど、なにものにも縛られず、新しい政体を創設することができる、というわけです。
 尊皇攘夷派の志士の唱える復古は、もともとは建武の中興、つまり、武家から政権を取り返そうとした後醍醐天皇のころ、でした。とりあえず、「今の幕府ではだめだ」というだけで、「新しい政体」はまだ、夢でしかなかったわけです。
 次いで文久二年、長州の久坂玄瑞が「延久への復古」を唱えます。延久とは、平安後期、武家政権誕生前のこと。後三条天皇のときなんですが、このお方は母親が皇女で、摂関政治を否定し親政を志した、とされていました。
 で、慶応三年の夏ですから、王政復古の「神武回帰」宣言からわずか数ヶ月前。山県有朋は、大化改新への復古を、長州藩主に建白します。中大兄皇子、天智天皇の時代への回帰ですから、ここで、摂関政治の枠もさっぱりと否定されたわけです。
それが、「神武回帰」となれば、古代律令制も否定することになります。
 

 ただ、せっかく、ですね。
 ドラマでは、井上勲氏の著述に基づきまして、「密勅は薩摩藩内の団結のために必要だったのであり、大政奉還が行われていても関係がなかった」としておりますのに、ドラマの後の八重の桜紀行「二条城」で、「慶喜が二条城で大政奉還を表明したため、密勅は意味を失い、薩長の思惑は覆されました」なんぞと言っておりますのは、ドラマが台無しで、がっかりなんですが、通ですよねえ、このドラマの政治劇部分

 えーと、ただ、クーデター現場には、です。まるでイメージちがいの反町大山巌がのさばってまして、パリ万博帰りの岩下方平は、さっぱり登場しません。
 以下、モンブラン伯の長崎憲法講義から。

 モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
 ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
 ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
 岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
 

 次いで、大政奉還 薩摩歌合戦から。

 小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
 こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。
 

 このとき、西郷、大久保、小松を迎えました薩摩国元では、密勅のおかげで挙藩一致が実現しまして、すでに、新政権の樹立をにらみ、モンブラン伯爵の手で新政権から諸外国への通達詔書が起草され、それに寺島宗則が手を入れます。
 寺島は外交ブレーンとして大久保とともに上京し、モンブラン伯爵も五代友厚、通訳の朝倉省吾とともに上方へのぼり、大阪の薩摩藩邸にひそみます。

 で、これは私の持論なんですが、アーネスト・サトウと龍馬暗殺から。

 私は、おそらく薩摩藩は、大阪・兵庫開港をにらんで、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを、起こしたのだと思っています。開港時には各国公使が京都の近くに集まりますから、新政府への承認をとりつけることが容易、だからです。
 つまり薩摩が、慶喜公に、執拗に納地を迫ったのは、慶喜が納地に応じないままでは、幕府から外交権が奪えないから、なのです。長崎も横浜も函館も、そして大阪も兵庫も、開港地はすべて幕府の領地であり、それをかかえたまま、幕府に独立されてしまったのでは、諸外国に新政府を承認させることは、不可能でした。
 そして実際に慶喜公は、鳥羽伏見の開戦まで、開港地と外交権を握って離さなかったのです。


 そして、モンブラン伯王政復古黒幕説へ帰りますが。

 (王政復古の)「神武回帰」は、国学者・玉松操のアイデアだったというのが通説ですが、実際、神話の時代への回帰を唱えることで、まったく新しい絵が描けるわけですから、これが果たして玉松操のアイデアだったのかどうか、憶測するしかないのですが、大久保利通が一枚噛んでいたんじゃないか、と思いたくなるわけです。
 それでまあ、ここからはもう妄想に近いのですが、ナポレオン帝政が古代ローマへの回帰を唱えた新秩序であったことを、モンブラン伯が五代友厚、あるいは岩下方平あたりに語り、大久保利通にまで伝わった、ということは、考えられなくもないのです。
 

 えー、いま考えれば、寺島宗則が考えた可能性も高そうなのですけれども。
 まあ、ともかく。
 ドラマは、山国で、超外交にうとかった会津中心ですから、仕方がないといえば仕方がないのですが、けっこうまともに政治劇を描いていますだけに、慶喜公と薩摩の、丁々発止の対外宣伝のぶつかりあいが見られなかったのは、実に残念です。

 なにしろ幕末の動乱は対外関係に端を発しているわけですから、幕末史の著述にも、もっと世界の中の日本という視点が必要だと、私は思うんですね。

 大山巌が、幕末からドラマに登場しますのは、会津の山川捨松と結婚するから、なんでしょうけれども、私は、どーしても会津の女を大河の主人公にすえたいなら、捨松さんがよかったのではないか、と思います。
 幕末はばっさり切り捨てて、戊辰戦争は子供の視線で見るわけです。
 少女のころにアメリカに渡り、帰国しては逆カルチャーショックを受け、しかし自分の能力を新生日本のために生かしたいと、会津籠城戦で敵側にいた大山巌の後妻になります。
 鹿鳴館の時代には、根も葉もないスキャンダルを新聞に書き立てられ、日清戦争後には徳富蘆花のベストセラー小説『不如帰(ほととぎす)』で意地の悪い継母に仕立て上げられ、メディアの中傷に苦悩しながらも、日露戦争におきましては、アメリカの世論を日本の味方につけるべく筆をとり、留学時の人脈を生かして、懸命の民間外交をくりひろげるのです。

 まあ、ちょっといまのところ、八重さんの生涯が捨松さんより興味深いとは、思えないでいます。
 だから、戊辰戦争が終わったら見なくなるかも、な可能性は、けっこうあります(笑)

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『八重の桜』第19回と王政復古 前編

2013年05月14日 | 幕末大河ドラマ

 えーと。
 今回、おそらくは最初で最後になるだろう、NHK大河ドラマ『八重の桜』の感想です。
 あるいは、歴史秘話ヒストリア 「坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る」の続きで……、いえ、それよりも8年前のこの記事、モンブラン伯王政復古黒幕説、そしてモンブラン伯の長崎憲法講義の続きでしょうか。

八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
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NHK出版


 最初に書いてしまいますが、今回の大河『八重の桜』、いままでのところ、京都におきます政治劇だけは、ストレスを感じず、けっこう楽しんで見ています。つっこみどころがないわけじゃあないのですが、どこの国のいつの時代のつもりなの??? ただのコスプレが見たいならコミケに行くわよっ!!!と、うんざりしますような大きな勘違いはなく、安心して見ることができます。

 ただね、視聴率が低い理由も、わかるような気がします。
 私が楽しんでおりますのは、主人公の八重には関係ない部分でして、八重の身辺の話になりますと、どーでもいい感じよねえ、と本を読んだりしはじめるから、です。

 どうしても『Jin- 仁』の咲さんとくらべてしまいます。

Jin- 仁 OST 最終回 咲さんからの手紙 MISIA ver.


 咲さんの場合、恋だけではなく、医者になりたいというその思いにも切実さを感じますし、婚約を破棄し、母親に勘当され、葛藤をかかえつつ、ひたむきに志を貫こうとします姿が、まっとうな意味で、時代に関係のない普遍的な感興をそそるのだと思うんですね。
 簡単に言ってしまいますと、感情移入しやすい、ってことでしょう。

 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上において、私、森有礼夫人の常がグラスゴー大学医学部に留学したかもしれない可能性にからんで、以下のようにシーボルトの娘イネのことを書いております。

 とりあえず、常が離婚後にグラスゴウ大学医学部で学んだ可能性です。
 その一つのきっかけになったかもしれない出会いが、明治8年2月に森有礼と結婚し、12月30日、長男の清を生んだときに、あったかもしれないのです。
 清をとりあげたのは、もしかすると、日本で初めての女医といわれるシーボルトの娘・楠本イネではなかったか、というのは、それほど突飛な推測ではないはずです。
 イネは文政10年(1827)の生まれですから、この年、48歳。4年ほど前から東京へ出てきて、異母弟アレキサンダー・シーボルトの援助もあり、産科医院を開業していたんです。評判が高く、宮内省の御用掛にもなって、明治天皇の第一皇子を取りあげたほどでした。
 森有礼の明六社仲間で、常との婚姻契約書の証人でもあった福沢諭吉は、西洋医学を学んだ女医であるイネに心をよせ、妻の姉で未亡人になっていた今泉とうをイネに紹介し、弟子入りさせて、産科医として身を立てる道を歩ませてもいました。
 イネのもとに、福沢諭吉の義姉がいたんです。
 もともと産婆さんは女性ですが、産科医の多くは男性でした。ただ、そのほとんどが医者の娘や妻にかぎられていましたが、女性が産科医になって父や夫を手伝う、というのは、江戸時代かあったことなのだそうです。
 しかしそれは、いってみれば家業の受け継ぎですし、一般の女性に開かれた職業とはいいがたかったわけですが、そういった背景があればこそ、当時、女性が身を立てる高級技術職として、西洋式産科医は有望な職業だったのではないでしょうか。
 

 常の最初の子をとりあげたのはイネではなかったか、という話は、広瀬常と森有礼 美女ありき15に書きましたように、常が父親とともに元大洲藩上屋敷の門長屋に住んでいたことは確かで、どうやら常の父親は、武田斐三郎の紹介で、元大洲藩主・加藤家の財産管理の手伝いをしていたわけですから、可能性が大きくなります。
 なぜならば、イネの娘・タダの夫だった三瀬周三は、大洲藩領の出身で、武田斐三郎と三瀬周三は、大洲の国学者・常磐井厳戈の同門だったりするからです。

 話がそれましたが、当時、女性が医者になることは難しいことでしたが、不可能なことではなく、ちょうど幕末ころから、欧米でも女性に大学医学部への狭き門が、ひらかれようとしていたんです。
 実際、『Jin- 仁』の原作漫画では、咲さんとイネとの出会いが描かれていまして、幕末におきまして、女が医者になることは、現実にがんばれば望みはかなう!ことでした。

 一方、ですね。
 女が鉄砲を持ったからって、なにになるんですかね?
 当時の西洋近代軍隊は、女性に開かれておりませんでした。
 まあ、南北戦争に男装して従軍した女性がいたり、というような話はありますが、郷土が戦場になるような場合のイレギュラーな例でしかありませんし、職業軍人になる道は、閉ざされておりました。

 結果的に、八重が戊辰戦争の会津籠城戦で戦いましたことは、あきらかにイレギュラーな例で、それ以前に八重が鉄砲を手にしていましたのは、趣味でしかないんですね。
 年頃の武士の娘が趣味にのみ没頭し、そのわりには周囲との葛藤がほとんどなく、暖かく趣味を許容してくれる夫にも恵まれ、気楽に暮らしているだけですから、ああ、そうですか。と、見ている方は、ドキドキ感がまるでなく、どうでもよくなってしまうんです。

 おそらく、戊辰戦争までは見ると思いますが、京都時代は、どうですかね。
 桐野の愛人で、新島襄のもとで洗礼を受けていたといわれます村田サトさんが出てきたら、見ます! 会津開城式の官軍代表・薩摩の桐野の愛人だった、ということで、八重さんにいじめられたりしなかったんでしょうか(笑)

 ともかく。
 あと、ストレスなく楽しめます京都の政治劇で、これはちょっと……とつっこみたくなりましたのは、NHK大河ではいつものことなんですが、勝海舟が後年の大ボラ回顧談そのままに大活躍しすぎ、なのと、秋月悌次郎にからみまして、失脚の理由が池田屋事件って、悌次郎が「貶められて」蝦夷(北海道)の斜里に左遷されましたのは慶応元年9月のことでして、池田屋事件はそれより一年以上も前のことですから、あんまりにもばかばかしく、そのことにも関係しますが、最大の欠陥は、新撰組を馬鹿にしすぎ!な点、ではないでしょうか。

 秋月悌次郎に関しましては、一夕夢迷、東海の雲でご紹介しております、松本健一氏の『秋月悌次郎 決定版 - 老日本の面影』
がよかったのですが、最近出ました徳田武氏の『会津藩儒将 秋月韋軒伝』も、あまり憶測をまじえることなく、淡々と書かれました労作です。

会津藩儒将 秋月韋軒伝
徳田武
勉誠出版


 現在まだ、飛ばし読んだだけなのですが、ただ、一つ、時期の特定を間違えておられるかな、と思えます部分があります。
 後年の秋月の語り残し(牧野謙次郎『維新伝疑史話』)に、「薩長の密約が成ったという説が盛んになっていたので、昔から知っていた小松帯刀を、京都の薩摩藩邸に訪ねたが、他に用件があって会えないといわれた。一日待っていたが会えず、実は、薩長の密約はこの日をもって京都においてなった」 というような話があるのだそうですが、これを徳田氏は、「密約とは、慶応元年6月24日、京都で西郷と龍馬、慎太郎が会談して、薩摩が長州の武器購入に名義貸しを約束したことを言うのだろう」と、推定しておられます。
 先に書きましたように、秋月は慶応元年の9月には蝦夷にとばされ、一般に薩長同盟が結ばれたとされます慶応2年の正月には、京都にいないからです。

 しかし、慶応元年6月には、小松帯刀が京都にいません。

 
小松帯刀 (人物叢書)
高村 直助
吉川弘文館


 上の本によりますと、この6月、小松帯刀は薩摩にいて、6月23日に薩摩を出立、26日に長崎に到着しているんだそうです。
 松浦玲氏は『坂本龍馬 』(岩波新書)で、近藤長次郎たちは、あるいはこのとき、小松に伴われて長崎に出たのではないか、と推測されています。

 結局、語り残しですから、おおざっぱな話でしょうし、秋月が再び京都へ呼び戻されました慶応3年、「討幕の密勅が出た日」のこと、と考えれば、ぴったりするのではないでしょうか。

 私、大政奉還と桐野利秋の暗殺に次のように書いております。


 この3日後の朝彦親王日記に、赤松暗殺のことが見えます。
 朝彦親王とは、青蓮院宮。8.18クーデターの中心人物で、佐幕派です。
 もともとは、薩摩藩と良好な関係だったのですが、薩摩が長州よりに大きく舵をきって以降、一会桑政権との連携を深めてきたお方です。

 慶応3年9月6日
 深井半右衛門参る。過日東洞院通五条付近にて薩人キリ死これあり候風聞のところ、右人体は信州上田藩洋学者赤松小三郎と申す者のよし、右人体天誅をくわえ候よし書きつけこれあり候。
 もっとも○十印、よほどこのころなにか計これあるべくか内情難斗よし、よほど苦心の次第仍摂公へもって封中申入る。もっとも秋月悌次郎へ申し入る。

 やはり、どうも、秋月悌次郎がかかわっていた可能性が高まります。
 そして、高崎正風の日記。(fhさまのご厚意です)

9月29日条。
朝、小松を叩、秋月(会)堀(柳河)を訪、後、大野と村山に行。

 やはり、秋月悌次郎に会っています。
 ふう、びっくりしたー白虎隊でも書きましたが、後年、秋月が熊本の第五高等中学校で漢文を教えていたところへ、高崎正風がたずねて来ます。8.18クーデターから30年数年の後、二人は終夜酒を酌み交わし、秋月は翌日の授業の準備も忘れるのです。
 私、なにかこう、ですね、中村彰彦氏の小説に出てくるように、慶応三年の高崎が、秋月に冷たくて、居留守を使うような状態であれば、このときの会合が、それほど秋月にとって、心に響くものとはならなかったと思うのです。
 クーデターを成功させた二人が、時勢の変化をかみしめ、それでもなんとかならないものかとあがいてみた、そんな共通の体験があったのではないでしょうか。
 

 大政奉還 薩摩歌合戦もあわせてごらんいただきたいのですが、大政奉還の時期、薩摩も一枚岩ではなく、秋月は高崎正風に会っています。
 そして、徳田氏によりますと、秋月はこのころ、ひじょうに朝彦親王の信頼を得ていて、しかも、幕府の大小目付で、9月11日に暗殺されました原市之進の代わりとして、朝彦親王が新撰組の近藤勇を推薦しようとしたことに、大いに賛成しているのだそうです。

 池田屋事件のとき、会津藩の意向を無視しまして、新撰組がつっぱしった、という『八重の桜』の設定からしておかしなものだったのですが、ドラマのように、秋月が新撰組を迷惑視したかのような描き方は、妙なものだった、といわざるをえません。

 えーと。
 『八重の桜』が描きます王政復興にまで話が進む前に、話が長くなりすぎましたので、後編に続きます。
 今回はけなしてばかりでしたが、後編では褒めます(笑)。

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歴史秘話ヒストリア 「坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る」

2013年05月12日 | 幕末土佐
  桐野利秋と龍馬暗殺 後編と、続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?の続きで、もしかしまして、近藤長次郎とライアンの娘 vol9の続きでもあるでしょうか。

 NHK歴史秘話ヒストリア 「坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る~最新研究から描く幕末ミステリー~」、直前まで、見るつもりはなかったのですが、なんとなく見てしまいましたら、これがけっこう面白かったものですから、書きます。
 いや、なにしろNHKのやること!ですし、文句がまるでない、というわけではないのですけれども、今回、珍しくこういう歴史バラエテイを見て、これは……!と、せつない気分になりましたのは、実際に龍馬を斬った京都見廻組の桂早之助に焦点をあて、代々二条城の門番を務めた同心、という下級幕臣の家に生まれた男の哀感によりそって作られていたからでしょう。

 しかしこの話、もしかしたら以前になにかで読んだかも……、と首をかしげ、木村幸比古氏が出演しておられましたので、ご著書なんだろうとさがしてみました結果、 PHP新書の『龍馬暗殺の謎』だったとわかりました。

龍馬暗殺の謎 (PHP新書)
木村 幸比古
PHP研究所


 って、これ、読んでいたはずでしたのに、さっぱり内容を覚えていませんでしたっ!!!
 理由はおそらく……、不愉快だったので、途中で読むのをやめた!!!から、です。
 なにが不愉快って、龍馬暗殺薩摩藩黒幕説を否定するに際しまして、根拠のない桐野利秋(中村半次郎)への中傷を、以下のように書きなぐっておられるんですっ!!!(笑)
 「半次郎は、本来文字が書けず、研究者の中でもこの日記の存在自体を疑問視する声もある。半次郎には、よく宴席で他人に金を支払い詩文を作ってもらったという話もある」 

 どこのなんという研究者が、半次郎は文字が書けないので日記の存在自体が疑問だと言っているんですの???
 そして、どこのだれが、半次郎は宴席で他人に金を支払い詩文を作ってもらったという話をしているんでしょうか???
 私、桐野については相当に調べたつもりですが、木村先生が書いておられるような話を、寡聞にしてまったく存じません。
 いいかげんなことを書きちらして、信用できない御仁だわ、と思いまして、続きを読みませんでした。

 注記 誤解のないように申し上げておきますが、明治になりまして桐野が揮毫したとされます漢詩軸などは、どうも本人が書いたのではないのではないか、と思われるものが多数あります。
 そして、ちょっと本が出てきませんで、うろ覚えで書いてしまいますが、後年の聞き書き本『維新史の片鱗』で、有馬藤太は「桐野が揮毫を頼まれて面倒がっているとき代筆したのは自分」というようなことを言っておりますが、友人ですし、有馬は文官(司法省勤務)で、「自分は給料がよかった」とも言っていますので、金をもらって書いたとは、とても思えません。
 有馬藤太もそうですが、中井弘にしましても、漢詩作が得意ですし、桐野には複数、そういう友人がおりました。桐野が西南戦争で戦死してから、あるいは有馬藤太や中井弘が、「桐野の書だということにすれば高く売れるぞっ!」と、偽造して売っていたりした……、かもしれません(笑)


 さらに今回、この本の「はじめに」を読んでいて、思い出しました!
 私、中西輝政と半藤一利の幕末史観で、中西輝正氏が「薩摩藩あるいは長州藩にとって邪魔だったのは龍馬で、もしかしたら西郷や大久保が命令を下していたかもしれません。蓋然性、利害関係だけでいえば『薩摩説』というのは合理的です」などとと、とんでも俗説講義をなさっている旨を書いたのですが、どなただったかが電話で「中西氏、それ、同じ京都の霊山の木村幸比古氏に聞いて、信じ込んだんじゃないかな」とおっしゃっていたのですが、その可能性は高そうです。以下のようなことを、書いておられましたわ。

 「(黒幕)薩摩説は、薩長同盟を遵守し武力討幕にこだわる薩摩が、龍馬の無血による大政奉還を目障りとしていたことによっている」
 たしかに、西郷と親密な関係にあった龍馬のほうも、「西郷は理解に苦しむところがある」と周囲にもらしていたという。

 だ・か・ら・あっ!!! なんだかもう、言葉を無くしてしまいます。
 桐野利秋と龍馬暗殺 前編に書いておりますが、欧州帰りで、討幕派の桐野(中村半次郎)と親しい薩摩脱藩の中井弘(桜洲)は、大政奉還の建白書に手を入れてまして(佐々木高行の日記・慶応3年6月24日「薩の脱生田中幸助来会、建白書を修正す」)、薩摩も大政奉還の建白に賛成したわけですし、そもそも、大政奉還と武力討幕は、対立するものではないんですね。

 そこらへんのことにつきましては、もうずいぶん以前に、井上勲氏が『王政復古』という名著を書かれておりますし、先日ご紹介しました知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生』でも、龍馬の立ち位置を詳細に追っていますが、龍馬は薩摩の目障りになりますようなことは、まったくもって、なにもしてはおりません。
 知野氏がおっしゃっていますが、西郷の方が龍馬より早く、大政奉還について述べていたりもします。

 龍馬がどういう場面で、誰に、「西郷は理解に苦しむところがある」ともらしていたのか、寡聞にしてまったく存じませんが、お願いですから、とんでも電波を放射なさらないでください、木村先生っ!!!

王政復古―慶応3年12月9日の政変 (中公新書)
井上 勲
中央公論社


「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院


 で、怒りのあまり私、木村先生が『龍馬暗殺の謎』におきまして、桂早之助に関してはよく調べられ、よいお仕事をなさっている!!!ということに、いまのいままで気づきませんでしたわ。

 広瀬常と森有礼 美女ありき11を見ていただければわかるのですが、私、森有礼夫人・広瀬常の実家を掘り起こすにあたって、幕末の同心についてけっこう調べたんです。
 同心って、現代でいえば、平の警察官、でしょうか。
 才覚があれば、樋口一葉の両親のように、農民が駆け落ちしてお江戸で同心株を買う、なんてこともあったんですし、決して給料がよさそうではなく、その生活は庶民的、ですよね。

 私、続・いろは丸と大洲と龍馬にも書いておりますが、昔から、なんで龍馬暗殺についてはうんざりするほど、本や雑誌、テレビ番組で取り上げられるのに、龍馬が寺田屋で同心二人を射殺していることには触れないんだろう、と思ってきました。
 同心は、命令に従ってお仕事で出向いて、殺されたんです!!! 親は泣いたでしょうし、妻子もいたかもしれません。
 かわいそうじゃありませんか。

 今回のヒストリア、珍しく龍馬が同心を射殺したことに触れていまして、見廻組・今井信郎の口供書をもとに、かつて寺田屋で逃げられたがため、捕縛に向かったのであり、手に負えなければ斬る、という治安維持活動だった、としています。
 だとすれば、そうとはっきり言っていたわけではないのですが、剣にすぐれて、見廻組に取り立てられました桂早之助は、同心仲間の無念の死を胸に抱いていたのではないのかと、思えるような描き方、でした。
 そして、その早之助自身も、28才の若さで、鳥羽伏見に戦死します。
 私、自分の祖先が佐幕藩だということもあるのかもしれませんが、なんかもう……、見ていて、せつなくなりました。

 私が気に入らなかったのは、中岡慎太郎の描き方、です。
 確かに谷干城は、「中岡は新撰組だろうと言っていた」というようなことを、後年語っているのですが、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に出てまいります高松太郎のリアルタイムの書簡では、「知らない奴らだった」と言っているだけなんです。
 まきぞえで殺されたのは事実なのでしょうけれども、あまりにも軽く描きすぎで、こちらもなんともせつないことのはずなのですが、先に逝った数多の同志たちへの思いを含め、慎太郎が抱いた無念を、ちゃんと伝えてくれては、いなかったんです。

 で、龍馬です。
 しめくくりに、『龍馬史』
「龍馬史」が描く坂本龍馬参照)の磯田道史氏が出て参りまして、もしかして、NHKが無理矢理しゃべらせたのかなあ、という感じはあるんですが、「龍馬は新政権における徳川家の位置づけも考えていたので、皮肉にも龍馬暗殺で徳川は不利になったといえるかもしれない」というようなことを、しゃべっておられたのですが。

 これも、ですね。知野氏の『「坂本龍馬」の誕生』で、懇切丁寧に解説してくださっています。
 要するに、「龍馬が慶喜を内大臣に押していた」という話ではないのかと思うのですが、知野氏によれば、これ、龍馬がなにか書き残しているわけじゃありませんで、尾崎三良の回顧録を坂崎紫瀾が脚色した、だけのようなんですね。いろいろ人選も考えてみましたよ、という以上のことではなく、当時の龍馬の真意は、続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?で、私、「男爵安保清康自叙伝」の記述から推測しておりますが、これで見るかぎり龍馬は、薩長と土佐藩の間に立って困惑し、当然のことながら、徳川のことなんぞ他人事のようなんですけれど、ねえ。

 で、最後にヒストリアは、日本を今一度せんたくいたし申候事 という龍馬の手紙の有名な言葉を持ち出しまして、その後に続く言葉から、龍馬は常に死を覚悟していた!と、中岡慎太郎は放っておきまして、龍馬だけ、感動を誘うような描き方をするんですね。
 するんですけれども、しかし。

 実は私、近藤長次郎とライアンの娘 vol9を書くまで、日本を今一度せんたくいたし申候事という言葉が出てきます龍馬の手紙を、ちゃんと読んだことがなかったんですけれども、これって、外国に日本を売った(と龍馬が思い込んだ)幕府の役人を殺して、幕府のそうじをし、狂犬攘夷に励んでいる長州を助けるんだっ!!!って、話なんですよねえ。
 越前藩邸であきれられるような無茶苦茶過激なクーデターをやらなければっ!!! というのですから、そりゃあ、いくら命があっても足らないでしょう。

 いや、しかし、龍馬はほんとうに愛嬌のある、いい手紙を書きますし、私、その無茶苦茶さかげんを、とってもかわいい!と、思います。彼の人柄が愛されたのは、ほんとうによくわかるのですが、やはり、ちょっと美化のしすぎじゃないんでしょうか。
 まあ、坂崎紫瀾の龍馬像は強し、というだけのことなのかもしれないのですが、NHKのシナリオを書いている方は、実際の書簡を読んで、つい、ほほえましく笑ってしまったりは、しないんでしょうかしら、ねえ。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol10

2013年05月08日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol9の続きです。

 えーと、実は、ですね。
 ずいぶん以前、これの前半を書きましたところで、突然で失礼だろうか、と思わないではなかったのですが、町田明広氏にツイッターで質問させていただきました。
 ご著書『攘夷の幕末史』で、近藤長次郎の薩摩藩への上書(建白書)について書いておられることに、納得がいきませんで、一応、ご本人に疑問をぶつけてみよう、ということでした。

攘夷の幕末史 (講談社現代新書)
町田 明広
講談社


 突然のあつかましい質問に、お答えをいただき、私の言い分を認めていただいたような感触もありましたため、この書きかけの文章をどうしようかと迷っておりました。

 ただ、ですね。近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol2でご紹介いたしました知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』でも、『攘夷の幕末史』で町田氏が近藤長次郎上書について書かれておりますことを高く評価されていて、私の『攘夷の幕末史』の近藤長次郎上書の扱いに関します批判は、かならずしも質問させていただいたことだけではなかったものですから、ちょっと私の頭の中を整理したいと思い、書かせていただくことにしました。

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院


 千頭さまご夫妻は、私にご連絡をくださる以前に、町田明広氏の「攘夷の幕末史」を読まれ、初めて上杉宗次郎(近藤長次郎)上書の存在を知られ、感激しておられました。
 ただ、上書を収録しております玉里島津家史料が刊行物になっていることをご存知なく、「高知の県立図書館にもあるはずです。鹿児島県が全県の中央図書館に寄付してくれているみたいですから」と私が申し上げましたら、さっそくコピーをとりに行かれたんだそうです。
 それはともかく、最初に読まれた町田明広氏の著作において、上書(建白書)が慶応元年12月23日のもの、とされていましたことから、そう信じておられました。

 私は去年の2月、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4におきまして、長次郎のこの上書を絶賛しております。

 実はこの上書には、年号がありません。12月23日の日にちのみです。
 上書の内容から判断して、玉里島津家史料の編者が、元治元年のものとし、しかし一応、疑問符をつけております。
 定本坂本龍馬伝―青い航跡で、松岡司氏は、そのまま元治元年のものとして扱っておられますし、一読しまして私も、それでまちがいないと思ってまいりました。
 これが慶応元年のものだとしますと、留学に関します長次郎の提言が、情勢に会わない、的外れで、おかしなことを言っていることになってしまうんですね。

 それで、この本『攘夷の幕末史』を買って読んでみたのですが、町田明広氏は、元治元年のものとして収録されている上書を、慶応元年のものと断じられましたについて、はっきりとした根拠を示しておられません。
 ただ町田氏は、長次郎がユニオン号の件で長州藩主父子の信頼を得たので久光の信頼も得て上書を書いた、というように推測なさっていますので、あるいはそれが根拠なのかなあ、と憶測しておりましたところ、ツイッターでお答えいただいたところでは、やはりそうでした。

 しかし長次郎は、元治元年までに、私が知りますだけで確実に2回、越前の松平春嶽公に目通りしていまして、前藩主でさえない久光公にくらべましたら、あきらかに春嶽公の方が格上ですし、しかも上書(建白書)を出すだけのことなのですから、理由になりえないと私は思います。

 この『攘夷の幕末史』、一般読者向けの新書ですから、説明不足は仕方がない、といえばそうなのかもしれませんが、駆け足は駆け足なりに、もう少し全体に、納得のいく筋道がたてられなかったものなのでしょうか。攘夷という言葉の定義がはっきりしませんで、腑に落ちない記述が多くなってしまっているように思うんです。

 例えば、なんのまえぶれもなく、突然、竹島は朝鮮領!!!と叫ばれますのも、ちょっと異様な感じを受けまして、町田氏が問題になさっておられます竹島とは鬱陵島のことのようですので、当時、日朝両国がはっきり国境線を定めていたわけではないことを横へ置いてしまいますと、そう言う言い方もできなくはないのでしょうけれども、きっちり説明していただきませんと、馬鹿な私なぞは一瞬お口ポカーン、いったい、なにが侵略なの???と、首をかしげるばかりです。

 幕末維新当時の極東情勢につきましては、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1あたりに書いておりますが、西洋ルールの押しつけが侵略なのなら、結果的に西洋ルールを丸呑みしました日本は侵略者の側に立った、といえなくもないのでしょうけれども、侵略、侵略と叫ぶことにいったいどういう意味がこめられているのか、理解できません。なにが侵略なのか、その定義もはっきりしませんし。

 「海援隊の目的は世界征服」 という小見出しにいたりましては、龍馬はフリーメーソンの手先だった!!!という陰謀論を楽しむと同じくらいのセンス、と感じます。
 町田氏がおっしゃいますように、確かに海援隊は、貿易商社ではなく、政治結社です。
 しかし、ごく普通に考えまして、西洋近代が生みました遠洋海軍は、貿易と一体でして、文化露寇は毛皮交易の販路開拓を任務としていましたロシア海軍が起こしたものですし、西洋列強が極東に武装艦隊を派遣しておりましたのも、自国の交易の利益を守るためです。
 そして、そのためにはまず、石炭補給基地、食糧補給基地が必要でして、植民地を求めることにもなります。

 つまり、ですね。海外交易を盛んにするためには、日本人の手による海運事業が必要ですし、それを実現するためにも、中央集権国家の海軍が必要で、その海軍を打ち立てるため、幕末日本は政治変革を必要としていたんです。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に、私は、以下のように書いております。

 ブラウンはスコットランド系のイギリス人で、商船の船長として明治2年に来日し、前回書きました灯台局のお傭い外国人となり、7年間、灯台船舶長を務めました。その間の明治7年、征台において、輸送を約束していました英米船舶が参加を禁じられ、大久保利通と大隈重信は、急遽、グラバーの協力を求めて蒸気船を三隻買い求め、それを三菱商会に託して、指揮はブラウンに任せ、兵員と物資の輸送をやりおおせました。これが、先に述べました、三菱商会が海軍業で大きくなる最初のきっかけだったのです。

 この後三菱商会は、西南戦争の軍事輸送を任せられ、大きく飛躍し、海軍との強い協力関係のもと、日本の海運と造船、そして貿易を担う商社へと発展していきます。

 私は、大久保利通は大っ嫌い!ですが、旧友が賊として死のうが生まれ故郷がむちゃくちゃに荒れようが、なにもかもを、日本が西欧列強と肩を並べて戦争ができる国にするためにこそ役立てた、その私心のない冷徹さには、感服せずにはおれません。
 ともかく。
 征台と西南戦争がなければ、日本海軍も海運も、日本が主体になっての海外貿易も、育ちようがなかったでしょう。

 つまり、西洋近代の海軍を日本に作ろうとすれば、必然的に、町田氏がおっしゃいますところの侵略!になるわけでして、これは近代西洋ルールの受け入れなんですね。それを東アジア的華夷思想!とかおっしゃるんですが、要するに昔、左巻き学者さんが侵略的小中華帝国思想!とかおっしゃっていたのを、あまり古くささがただよわないよう、言いかえただけじゃないんでしょうか、ふう。

 こういう文脈から、町田氏は、長次郎の上書も侵略的小中華帝国思想!の現れで、しかもこれを龍馬の思想を語るものとされていまして、これでは長次郎がまるで龍馬の影です。
 私は「長次郎は別に思想を述べたわけではなく、幕府海軍の最新の情報を薩摩に伝え、海軍振興のための現実的な方策を述べた上書」だと見ていまして、町田市の見解はとうてい納得がいきません。
 
 それはともかく町田氏は、長州の狂犬攘夷の経緯は、それなりにわかりやすくまとめておられますし、あまり話題にのぼることがありません朝陽丸事件について、詳しく書いておられるのは、おもしろく読ませていただきました。
 しかしなんで、朝陽丸事件に石川小五郎が出てこないんですかね。幕府使節団暗殺の主犯は、れっきとした長州藩士の石川小五郎だったといわれていますよね。
 証拠がないから、なんでしょうか。ないにしましても、これまでの通説には触れてくれた方が親切ですし、事件の経緯が、非常にわかり辛い記述になってしまっていて、せっかくよく調べられておりますのに、もったいないと思います。

 えーと。町田先生。
 ご親切にツイッターでお答えいただいたにもかかわらず、書きたいことを書いてしまいましたが、幕末ファンのただの素人の放言ですので、どうぞお許しください。この批判を見て、これはぜひ読んで見よう!と思われる方も、きっといらっしゃいますし(笑)

 wiki朝陽丸wiki甲賀源吾の大部分は、私が書きました。朝陽丸事件の時の艦長は、宮古湾海戦で回天丸艦長として戦死した甲賀源吾なんです。
 で、「甲賀源吾伝」に収録されました家族宛の書簡に、事件のことが書かれていたのですが、他にあまり参考資料が無く、著述に苦しんだ覚えがあります。防長回天史でも見てみれば、よかったんですかしらん。
 
 で、長州の狂犬攘夷です。
 いくら攘夷令が出されたからといいましても、外国船(清国船はのぞく)が通りかかったら全部砲撃っ!!!って、ただのキチガイです。
 なんでそんなことになったのでしょうか。

 勅許(朝廷からの許し)がないから通商条約破棄、というのはわかるのですが、和親条約は孝明天皇も許容なさったのですし、ともかくなにがなんでも外国船は襲うんだっ!!!なんて、テロリストとしか言いようがないおかしな事態になぜなったのか、町田氏が分析してくださってないのが残念ですけれども、結局、いくら三条実美を中心とします過激派公卿が攘夷の勅令を発しましても、実行しましたのはほぼ長州だけ、でして、例えば木戸や高杉や久坂などが、なにを考えていたのかといいますと、やはりよく言われますように、幕府を追い詰める方策がエスカレートし、松蔭流に「体制をひっくり返すんだっ! 狂わずにやれるかっ!」と突っ走った、ということではないんでしょうか。

横井小楠と松平春嶽 (幕末維新の個性)
高木 不二
吉川弘文館


 こちらは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵でご紹介しました「日本近世社会と明治維新」の著者、高木不二氏が書かれたものです。
 高木氏は幕末越前がご専門のようでして、前回(近藤長次郎とライアンの娘 vol9)書きました文久3年の越前の動きを、非常にわかりやすくまとめてくださっています。

 で、越前藩と長次郎の関係を追おうとしていたのですが、長く放りすぎまして、なにを書こうとしていたのか、忘れてしまいまして。

 出版計画が、まあ、少しばかり具体化してきたこともありまして、とりあえず、このシリーズは終わりにしまして、近藤長次郎本出版計画と龍馬 シリーズを、書き継いでいこうかと思っております。

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幕末残照・長州紀行

2013年05月06日 | 幕末長州
 幕末残照・周防紀行の続きです。
 古い記事ですが、高杉晋作 長府紀行の続きでもあります。

 前回にひき続き、MAP防長紀行をご参照ください。

 

 上の写真は、防府天満宮の石段ですが、「幸せます」と花文字で書かれています。
 「幸せます」は、山口県の方言で、「幸いだ、ありがたい」といった意味で、防府市ではこの言葉が町起こしのキーワードに使われています。

 で、防府日報×FMわっしょい×防府盛り上げ隊がいっしょになりまして、毎週火曜日、FM防府×ユーストリームで、HOFU747STYLEという情報番組の生放送をしております。4月13日に放送されました17回に、山本栄一郎氏が出演し、幕末維新と防府について、語られました。
 YouTubeに録画が上がっていて、長いのですが、概要にタイムスケジュールが載っておりますので、ご参照のほどを。

【HOFU747STYLE 17】山本栄一郎(山口歴史研究会 会長) さん 2013/04/30.mpg


 この日の長州紀行に関係します、山本栄一郎氏の大発見の話は、最後の方に出てまいります。

 山本氏のご専門は、大村益次郎。
 大村益次郎は、適塾で福沢諭吉と肩を並べて学びました蘭学者で、長州を勝利に導いた陸軍の改革者、日本陸軍の創始者的存在です。靖国神社に巨大な像があります。
 最初は生まれ育った鋳銭司の村医者だったんですが、伊予宇和島藩の蘭癖大名・伊達宗城に取り立てられましたことが出世のとっかかりでしたし、宇和島ではシーボルトの娘・イネに蘭学を教え、縁あって、その最後を看取ったのは、イネとその娘婿で伊予大洲藩出身の三瀬周三でしたから、愛媛県にゆかりの人物です。

 益次郎はが明治2年11月に暗殺され、残されました妻は、益次郎のもとに来ていました大量の手紙が、それほど重要なものとは思わなかったようなのですね。一部を残しまして、大方、ふすまの下貼りに使ってしまいます。
 この旧宅が、やがて地元鋳銭司の潮満寺に移築され、昭和10年ころ、ふすまの下貼りに書簡が使われていることが発見されます。
 しかし、調査されないままに時が過ぎ、昭和29年になって、地元の内田伸氏が整理保存、解読にとりかかられます。内田氏は数冊の研究書を残され、現在90を過ぎてご健在だそうですが、この方が、山本氏のお師匠さまなのです。

 で、山本氏の大発見なのですが、すでに内田氏が解読されている書簡で、署名部分がなく、だれからのものかわかっていないものの一つが、「もしかして、高杉晋作のものではないか?」という話です。
 これまで、高杉が大村益次郎に書いた手紙は一通しか知られていませんで、功山寺挙兵の後、慶応元年になって、「桂 (木戸孝允)がどこにいるか知らないか?」と、問い合わせたものです。これ、実は追伸部分でして、内容からいきまして、この手紙の本文部分ではないのか、と考えられるんだそうなんです。

 そんなお話をうかがいつつ、まずは、大村益次郎を祀っています大村神社と、隣接する山口市歴史民俗資料館別館 鋳銭司郷土館です。




 ふすまの下貼りでした手紙は、ここ鋳銭司にはありませんで、本館の山口市歴史民俗資料館別館鋳銭司郷土館所蔵です。もちろん、高杉晋作が書いた、かもしれない‥‥手紙も、です。
 ここで、昔、内村氏が編集されました小冊子「大村益次郎 写真集」を買い求めましたところが、桂の居場所をたずねた高杉の手紙の写真が載っていまして、山本氏に見せていただいた「かもしれない‥‥手紙」の写真とくらべましたところ、私には、筆跡は似ているのではないだろうか、と思えました。




 吉田の東行庵です。
 こちらは再訪でしたが、前回とは様変わりです。私が幕末から離れていた間に、一坂太郎氏がいなくなり、記念館の展示物のうち重要なものは、一坂氏とともに萩へお引っ越ししたみたいなんですね。

 上左の高杉のお墓の灯籠は、木戸孝允、井上馨、伊藤博文が寄進したものでして、上右の写真がその名前のアップです。大江孝允、源馨、越智博文と正式の名乗りで、伊藤が越智を名乗っていたのは知っていましたが、木戸が大江で、聞多が源だって、初めて知りましたわ。高杉は、源春風でしたよね。
 下は、有名な辞世の歌の碑です。

 高杉晋作  「面白きこともなき世に面白く」
 野村望東尼 「住みなすものはこころなりけり」

 あら、「なき世を」じゃなくって、「なき世に」と読んでいるんですね。
 これ、前回来たときにはなかったような気がするのですが。

野村望東尼―ひとすじの道をまもらば
谷川 佳枝子
花乱社


 野村望東尼につきましては、上の谷川佳枝子氏の伝記が、非常に綿密かつ読みやすく、お勧めです。山本氏のご推薦で、読んでみた本なのですが。




 続きましては、高杉が挙兵しました功山寺です。上右の銅像なんですが、安倍首相の母方の祖父、岸信介の献辞が刻まれておりました。伊藤公記念館には、安倍首相の献辞がありましたし、さすが山口県ですね。わが愛媛県は、明治以来、ただの一人も首相を出しておりません。
 下の写真は、七卿がいたといわれます部屋の窓から庭を眺めてみました。
 
 功山寺に隣接して、下関市立長府博物館があります。図録や史料など、独自の出版物が多く、たっぷりと買い込みました。



 長府毛利邸です。
 広瀬常と森有礼 美女ありき10いろは丸と大洲と龍馬 上などに書いておりますが、幕末、長府毛利氏には、伊予大洲藩から藩主の姉が嫁いでいまして、大洲藩がいろは丸を買いましたのもその縁といえなくもありません。

 

 長府の武家屋敷。
 以前に来たときには見る暇がなかったのですが、今回はゆっくりと散策。
 美しい街です。
 次いでまた、山本氏にお願いしまして、前回行けなかった赤間神宮へ、連れて行っていただきました。

 


 高杉晋作と奇兵隊のスポンサーでした白石正一郎は、その晩年、赤間神宮の宮司となりました。
 上左、灯籠の写真に名前があります。
 行きましたのが4月28日で、5月2日から3日間、壇ノ浦に沈みました安徳天皇と平家一門をしのびます先帝祭が行われますため、緋毛氈の通路ができておりました。
 下は、平家一門の墓です。

 えーと、ですね。
 安徳天皇とともに、三種の神器は壇ノ浦に沈みました。
 平安時代、帝のそばにはかならず三種の神器があるべきものでして、平家一門にとりましては、正統の天子であります安徳天皇は、海の底の竜宮城にまで三種の神器を持っていくべき、だったんですね。
 源氏の必死の探索で、八咫鏡(やたのかがみ)の形代(本体は伊勢神宮)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収することができましたが、武力を象徴します天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(本体は熱田神宮)は海底に沈んで回収されませんでした。

 源頼朝の母親が、神剣を司ります熱田神宮宮司の娘であったこともありまして、日本の歴史の中でこの宝剣の喪失は、朝廷から武家に国の武力の統率権が移り、政権が移ったことを象徴するとも、受け取られてきました。
 明治、天子さまが国の武力の統率権を取り返し、源氏を名乗ります徳川家の武家政権が倒れたわけなんですけれども、長州にとりましてのその維新回天は、下関におきます攘夷戦によってこそ、本格的に始まったわけなのです。

 海防僧・月性が予見しましたように、幕府を滅ぼし、天子の元に中央集権化し、身分にかかわらず国防にたずさわるようにならなければ(幕末の武士は役人でしかありませんし、薩摩を除けば日本全国どの藩でも、兵卒の数が少なすぎてお話になりませんでした)、日本は西洋列強の武力には対抗できない!ということが、ここで身にしみたんですね。

 一応、ですが、身分にかかわらない国防軍、奇兵隊のスポンサーでした白石正一郎が、その晩年、赤間神宮の宮司をつとめた、といいますことは、私にとりまして、非常に感慨深いことなんです。

 今回、またしても山口と萩に行けなかったのですが、山本氏のおかげで、楽しく、有意義な旅となりました。
 それで最後に、山本氏の大発見!高杉晋作が書いた、かもしれない‥‥手紙なのですが、内容はともかく、筆跡がどうも高杉のものではないのではないか、という話が、出ているようです。
 では誰の手紙か、といいますと、伊藤博文ではなかろうか、ということらしいんです。

 そういえば伊藤の筆跡にも似ているような気がしまして……、私にはさっぱりわかりませんが、高杉の可能性がゼロになったわけでもなさそうでして、続報を待ちたいと思います。

 次回はまた、近藤長次郎に帰ります。

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幕末残照・周防紀行

2013年05月04日 | 幕末長州

 謎の招賢閣 防府(三田尻)再訪の続きです。

 そのー、ですね。
 今回の最大の目的は、防府天満宮でしか売っていない幕末維新本!のご披露なのですが、防府天満宮へ行き着きますまでの周防の旅をついでに。かならずしも、順番通りに行ったわけではないのですけれども。
  4月27日(土曜日)から4月29日(月曜日)まで、山本栄一郎氏にご案内いただいた防長の旅は、MAP防長紀行 にマークしておりまして、そのうちの周防のご紹介です。

 

 松山から柳井港へ行きます防予フェリーは、この閑散とした三津港から出ています。
 広島行きなど、主な旅客船は、もう少し北の高浜港から出ていまして、三津港は、防予フェリーのほかは、平成の大合併で松山市に編入されました中島行きの船しか出ていません。
 防予フェリーの船内では、現在、食べ物は売っていないということをネットで見ていまして、しかし、売店に弁当くらいあるだろうと思っていましたら、パンと梅のおにぎりしか、ないんですね。

 

 結果、近くのスーパーにタクシーを乗りつけて買いましたのが、上のノリ弁です。
 デフレを象徴しますような、ものすごい安売りスーパーでして、198円の弁当!でしたから、最低料金とはいえ、タクシー代の方が高くつきました。
 いや、しかし……、このお値段にもかかわらず、おいしい弁当でしたわ。

 

 船内でノリ弁を食し、iPadで遊びつつ、着いた柳井港がまた、人影まばらで、さびれています。
 うーん。昔の方が、まだ人がいたように記憶しています。




 山本氏が迎えに来てくださり、私のリクエストに答えて、柳井港にほど近い月性展示館・清狂草堂へ連れていってくださいました。私にとりましては再訪ですが、山本氏は初めてでおられたそうです。
 写真上左の石碑は、月性の有名な漢詩の一節です

 男兒立志出郷關 學若無成不復還  
 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山  

 男児志を立て郷関を出ず 学若し成る無くんば復た還らず
 骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん 人間到る処青山あり

 月性は吉田松蔭より13歳年上です。
 文化14年(1817年)、山口県大畠町(平成の大合併で柳井市と合併)大字遠崎の浄土真宗本願寺派の妙円寺に生まれました。
 現在の柳井市のあたりは、大方、岩国藩領なのですが、遠崎のみは、周防大島への重要な渡航地として、長州萩本藩の飛地でした。
 周防大島は、能島・因島村上水軍を筆頭に、元伊予河野氏家臣団で、萩本藩御船手組となっていた人々が多く住み着き、その幹部の知行地が多かったですし、海運業の拠点だったのでしょう。遠崎の庄屋は、四国の瀬戸内海沿岸から俵物(清国へ輸出する海産物)を一手に集めて、長崎会所に納めていたんだそうです。

 月性は寺の跡継ぎでしたが、当時の僧侶神官は民間では最高の知識人でした。九州や京阪など各地に遊学。長崎で巨大なオランダ船を目の当たりにして、海防によせる思いを深くした、といわれます。
 ペリー来航の年には30代の半ば。知識僧として名を知られるようになっていました。
 本願寺法主に召されて京へ上り、「護法意見封事」(後に「仏法護国論」として全国の本願寺派一万寺に配布)を上程したり、また長州藩主にも「意見封事」「内海杞憂」を建白します。

 安政元年(1854年)、といいますから、ペリー再来航の年で、ロシア、イギリス、フランスの船団も修交を求めて来た年ですが、朝廷と幕府の間に大きな亀裂が走っているわけでもありませんでしたこの時期に、月性は、「討幕の詔(みことのり)をいただいて、他藩に先立って長州藩が勤皇を首唱するべき」と、藩主に向かって討幕!を上申したんです。幕府を滅ぼし、天子の元に中央集権化し、身分にかかわらず国防にたずさわるようにならなければ、西洋列強の武力には対抗できない、という論理です。

 月性は、松蔭の実兄の杉民治と親交があり、文通によって、松蔭にも多大な影響を与えます。
 革命は死に至るオプティミズムかに書きました松蔭の革命思想形成に、大きな影響を与えた人物でした。
 にもかかわらず、現代、月性の名があまり知られていないにつきましては、月性の直弟子は周防の人々が中心で、赤根武人、世良修蔵、大楽源太郎など、萩藩の中枢からは阻害され、非業の死を遂げた人物が多いことがあるでしょう。
 もう一つ、月性は安政5年(1858年)、井伊直弼が大老に就任し、安政の大獄が幕開ける直前に死去し、そののちの動乱とは関係しませんでした。



 次は柳井市の白壁の町並みです。
 実は、ここを訪れましたのは29日、帰途です。
 時間がありませんで駆け足でしたが、もう一度ゆっくりと訪れたい美しい街です。
 しかし……、祭日にもかかわらず閑散としています。かつての商都の賑わいは、遠く空の彼方に消えてしまった感じです。





 
 続きまして、柳井市の隣にあります光市の伊藤公記念公園・伊藤公資料館です。
 こちらは、山本氏のご推薦。もっとも私も、上の明治43年建築の旧伊藤博文邸が、大規模な補修の上、一般公開されたニュースをローカルテレビで見た覚えがありまして、連れて行っていただきました。
 下の写真は、伊藤博文生家の復元。

 初代内閣総理大臣・伊藤博文公爵は、周防の片田舎のこの束荷村に、農民・林十蔵の子として生まれました。
 伊藤性になったのは、父の十蔵が中間・水井武兵衛の養子となり、その水井武兵衛が足軽・伊藤弥右衛門の養子となって、最下層ながら武家身分を得たためです。
 博文は後年、うちの近所の道後公園・湯築城跡を訪れまして、「遠祖は河野通弘の裔、淡路ヶ峠(松山市東部の丘陵)城主・林淡路守通起であった」と延べています。河野氏は、中世からの伊予の豪族でしたが、豊臣秀吉の四国攻めで破れ、領地を奪われ、家臣団も離散したんです。
 束荷村の林氏60軒は、かつて林淡路守が毛利氏を頼って河野氏再興を願い、破れて、周防に住み着いたその末裔、と言い伝えられていました。

 上の洋館は、功成り名を成し遂げました博文が、その林淡路守没後300年の法要を行うために林一族を集めようと、故郷の村に建築したのですが、明治42年10月、ハルピン駅で安重根の凶弾に倒れ、完成を見ることはできませんでした。
 博文は、9歳のときに、父に呼ばれて故郷を離れ、萩に出ます。
 周防出身者の多くが不運な生涯をたどる中で、そのことが、今太閤と呼ばれた博文の幸運につながったのでしょう。
 幕末の動乱をくぐりぬけて、自らの才覚を生かし、位人臣を極めました博文の一生は、山本氏のおっしゃる通り、ロマンに満ちているのかもしれません(笑)



 ようやく、防府です。
 大正5年に完成しました毛利邸(毛利博物館)
 毛利公爵家の館は、もちろん東京(高輪)にあったのですが、かつての本国にも館が欲しいということで、資金繰りに関しましては異様な能力を誇ります井上聞多が、明治25年からこの地を選んでいた、といいます。当時の長距離交通は海路が中心でして、防府は、山口県の中ではもっとも交通の便がよく、本邸を作るのならばここ、ということでした。

 さすが公爵邸、ともかく敷地が広大で、圧倒されます。
 しかし、訪れた時間が遅すぎまして、今回、廷内の見学はできませんでした。次回、かならず!




 いよいよ、防府天満宮です。下は境内の春風楼。ここからの防府の眺めは、絶品です。
 ここの歴史館には、ここでしか買えません書籍(歴史書)が、多数ならんでします。山本栄一郎氏が著者の一人として名前を並べておられます『男爵 楫取素彦の生涯』は、その一冊です。

 楫取素彦は、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いております松島剛蔵の実弟で、吉田松陰の妹婿、つまり義弟です。
 素彦は最初、松蔭の実妹の寿(ひさ)と結婚していましたが、寿は明治14年に病で世を去ります。
 その2年後、素彦は54歳にして、前妻の妹で、久坂玄瑞の未亡人、39歳の文(ふみ)を後妻に迎えます。
 つまり、その実妹を二人まで妻にして、松陰とは濃い縁に結ばれた人でした。

 山本栄一郎氏が書いておられるのは、「書簡に見る明治後の楫取素彦」。
 萩博物館所蔵の楫取素彦書簡184通を解読された労作です。
 この184通、すべてが杉民治宛だそうでして、杉民治は、月性とも友人でした松陰の実兄です。

 民富まずんば仁愛また何くにありや一夕夢迷、東海の雲に書いております萩の乱ですが、反乱軍の側で戦死しました吉田小太郎は、杉民治の実子ですし、民治もあきらかに、反乱軍側に心をよせていた形跡があります。
 楫取素彦も微妙な立場なのですが、そのあたりの機微を、山本氏は的確に解き明かしてくださっていまして、出色のおもしろさでした。
 この本、通販しているのかどうかわからないのですが、どうしても、という方は、防府天満宮にお問い合わせください。

 次回は、冒頭で山本栄一郎氏の大発見をご紹介し、続きまして、その発見とも関係のあります幕末残照・長州紀行をお送りする予定です。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

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