郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「天皇のダイニングホール」☆皇室の西洋近代

2018年01月22日 | 幕末東西

 去年は災難続きでした。ほとんどなにも書けないままに年は去り、新年。
 本日は、本の紹介です。
 なんの続きと言うことはないのですが、関係が深い記事を上げるならば、宮廷料理と装飾菓子『春の雪』の歴史意識あたりでしょうか。
 シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」へ出かけましたら、会場ロビーで思文閣出版さんが本の紹介をしていて、この本のパンフレットが目を引きました。

天皇のダイニングホール―知られざる明治天皇の宮廷外交―
山﨑鯛介,メアリー・レッドファーン,今泉宜子
思文閣出版


 「天皇のダイニング」という題名そのままに、明治宮廷の晩餐会について、舞台となった建築、使われた食器、饗された料理、出席した人々の服装について、詳細に描かれた本です。
 欲をいえば、もっとカラー写真を多用したムック版で見たかったかなあ、という気がします。
 とはいえ、この手頃なお値段からしますと、巻頭グラビアに掲載されました16ページのカラー図版は、嬉しい限りです。

  なによりもまず、びっくりしましたのは、明治、外交の舞台ともなりました赤坂仮皇居御会食所の建物が、「明治記念館」となって神宮外苑に残り、披露宴やパーティだけでなく、普段の食事でも、一般人が使える、という事実です。今度東京へ行ったときは、ぜひ、たずねてみたいなあ、と。
  本館ラウンジ、上部の壁の模様は、京都御所紫宸殿・北庇の間に使われていた花鳥模様をそのまま使ったそうで、とても魅力的な和洋折衷の装飾です。現在は、その模様にちなんでラウンジ「kinkei(金鶏)」と名づけられ、貸し切りの時以外は、個人でランチやディナー、ティータイムに利用できるみたいなんです。

 明治天皇は、明治元年に京都から東京へ御幸されましたが、最初に住まわれたのは、江戸城の西の丸御殿です。しかし明治6年、御殿は失火により焼失し、紀州徳川家の江戸屋敷があった赤坂に、仮御所が造られます。このときから明治22年までのおよそ16年間、天皇は仮御所に住まわれたわけなのですが、後半は、ぴったりと鹿鳴館外交の時期と重なりまして、宮中儀礼におきましても、洋式化が行き着くとこまでいきまして、少々滑稽なまでになっていた時期なんですね。


 

 上の錦絵は、明治初期の伝統的な女官の服装なんですが、皇后を筆頭に、これが洋装に変わります。
 明治時代、前半期は、写真よりもむしろ錦絵で、天皇、皇后両陛下の姿が世間にひろまり、したがいまして、下のような洋装の皇室錦絵が数多く残っております。
 揚州周延と桐野利秋でご紹介しました周延のものです。
 


 この当時の女性の洋装は、バッスルスタイルでして、スカートの後ろにコブのようなバッスル(腰当て)を入れています。幕末当時のクリノリン(二人の皇后とクリノリン参照)のような、ゴージャスな復古調お姫様スタイルとはちがい、なんとなく貧乏くさい感じがするのですが、それなりにびらびらひらひらですから、乙女心がときめかないわけでもありません。
 普仏戦争を経て、ヨーロッパ文化はしだいに、殺風景な近代に近づいていたわけでして、しかし、第1次世界大戦後のように、さっぱり、すっきりしたわけではなく、要するに中途半端なスタイルです。
 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol1で、私は、以下のように書きました。

 明治、上流婦人が洋装を取り入れました鹿鳴館時代もコルセットが必需品でして、来日していましたドイツ人医師・ベルツ博士などは、「コルセットは女性の健康に害を与える。ばかげた洋装を日本女性が取り入れる必要はない」と、言っていたほどです。また西太后は、西洋帰りの外交官の娘がコルセットをしているのを見て、「それは、漢族の纏足に匹敵する拷問ですね」と言ったそうです。
 つまるところ、当時の女性の洋装は活動的なものではなく、上流婦人のドレスなどは、他人の手を借りなければ着付けも難しく、鹿鳴館が一時のあだ花で終わりましたのは、あまりにも当然の結果でした。


 あだ花といえばあだ花だったのですが、しかし、少なくとも宮中の礼服は、『春の雪』の歴史意識で書きましたように、洋装が定着します。

皇族女性の礼服が、お雛様のような袿袴姿から洋装に変わったのは、明治19年、鹿鳴館の舞踏会が華やかなりしころです。これを推進したのは、長州の志士だった伊藤博文と井上聞多の元勲コンビ。二人とも、幕末には火付け暗殺にかかわり、聞多などは刺客に襲われて一命をとりとめ、全身に刀傷が残っていました。
明治の時代に、「宮廷と新華族とのまったき親交のかたち」として、「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」として、伝統の宮廷衣装は、マント・ド・クール、ロープ・デコルテ、ロープ・モンタントといった洋装に、とってかわられたのです。
つまり、下級武士に担がれた天皇家は、公卿の長であった伝統を捨てて、近代日本にふさわしく、西洋的な皇室となったのであり、三代目の清顕にとっては、それはもう、自明の現実なのです。


 しかし、これを言い換えますと、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編に書いた、以下のような状況でもあったわけです。

 たしかに、不平等条約を解消するにあたって、近代的な法整備は必要なことでしたし、軍の近代化なくして西洋列強に対抗することはできず、また産業育成も必要なことではあったでしょう。
 しかし、似合わない洋服やら鹿鳴館のダンスパーティやらが、なんで必要だったのかは、ちょっと理解に苦しみます。
 いえ……、私はけっこう、このなんとも珍妙な鹿鳴館風俗が、好きではあるんですけれども。………けれども、です。いとも簡単に伝統文化を投げ捨て、うわべをなぞっただけの洋服着用やら建築やらダンスやらは、「日本人にはオリジナリティがない」という西洋での評価を、決定的なものにしたのではなかったでしょうか。

 明治維新は革命でした。
 明治の指導者は、大多数が元は貧しい下級士族でしたし、洋化官僚もそうでした。
 服装ひとつをとっても、伝統文化の中にあるかぎり、成り上がり者の彼らには、威厳をもって着こなす自信がなく、西洋文化を模倣して新しい権威体系を作りあげなくては、国の指導者としての尊厳に欠ける、ということだったのでしょう。
 

 事態を一変させたのは、第1次世界大戦です。
 大戦後、西洋近代の女性の洋装が、簡便で、活動に適したものとなり、西洋近代の仲間入りをしようとする他文化圏でも、受け入れやすいものとなり、日本においても、庶民の間で洋装が広まっていったのです。
 こうなってきますと、頂点の皇室が洋装であることも、安定感をもって受け入れられます。

 「天皇のダイニングホール」では、外交儀礼の必要上からの女性の洋装を描いてくれていますが、ただ、この点については、どうなのかな、と思います。
 明治13年、イタリア公使となって赴任しました鍋島直大夫人・栄子は、イタリアでの外交儀礼に和装で臨んだ、というような話があったと思います。民族衣装は、現在でも普通に、外交儀礼で認められているわけですし。
 とはいえ、栄子夫人はとても美しい洋装の写真も残しておりまして、鹿鳴館の華でもありました。

 この本で、なによりも楽しかったのは、西洋料理導入のお話しです。
 使われた洋食器にも詳しく、ミントンやセーブルなど海外に特注されたもの、有田など、国内で製作されたものなど、カラー写真が載っているのが嬉しい限りです。

 なにより興味深いのは、明治期の午餐・晩餐メニューが紹介されていることです。味の素食の文化センターの所有のメニューカードを解説してくれているのですが、いまひとつイメージがひろがらず、できればこれ、再現料理をカラー写真で見たかったなと。
 私、タイタニック号レストランの料理再現本とか、大好きなんです。
 
 幕末日本のおもてなし料理につきましては、宮廷料理と装飾菓子白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に書いているんですが、それが明治になって、本格的フランス料理導入となっていった様子が、この本には克明に描かれています。
 こちらも、もちろん、西洋外交の定番だったフランス料理そのものの変遷、ということも当然ありまして、そしていまや、和食は欧米においても高級料理店が出現し、宮中晩餐会の和テイストも当然になってきましたのは、日本人として喜ばしいかぎりです。
 現代人としましては、和洋のコラボは、心地よいかぎりなんですよね。

 最後に、この本では、明治外交の裏で活躍しましたおイネさんの異母弟たち、アレクサンダー、ハインリッヒのシーボルト兄弟が大きく取り上げられています。
 それほど目新しいことは書かれていなかったのですが、あまり世間に知られていません兄弟の活躍が描かれているのは、嬉しい限りでした。

 シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」のコメント欄で書きましたが、西郷隆盛とおイネさんは半年違いで、ほぼ同世代です。
 3回目にして、超かわいらしい中村半次郎も出て来たことですし、私、次回からNHK大河「西郷どん」の感想を、定期的に書くことにいたしました。

 今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
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幕末維新はエリザベートの時代 vol2

2017年01月28日 | 幕末東西

 幕末維新はエリザベートの時代 vol1の続きです。

 子供のころ、ディズニーアニメを見て、シンデレラの王子さまがなぜ軍服を着ているのか、不思議に思っていました。
 戦前でしたら、日本でも皇族方の正装は軍服で、妃殿下はロープデコルテでしたから、なにも不思議がることはなかったんでしょうけれども、なにしろ私は、戦後生まれです。

Cinderella 2015 - The Ball dance


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 上の「シンデレラ」は、一昨年公開されたディズニー実写版なんですが、王子様の軍服がおとぎ話風に装飾され、勲章も肩章もありません。1950年公開のもともとのアニメの方は、上着が白でズボンが赤。肩章つきで、いかにも軍服なんです。
 ディズニーアニメに遅れること4年、若き日のロミー・シュナイダーがシシィを演じて大ヒットしたオーストリア映画があります。「プリンセスシシー」です。
 
SISSI IMPERATRICE Valse


 
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 この映画のフランツ・ヨーゼフ皇帝の衣装、ディズニーアニメ「シンデレラ」の王子さまの軍服によく似ているんですよね。

[Trailer]エリザベート 愛と悲しみの皇妃


 「エリザベート 愛と悲しみの皇妃」は、2009年、イタリア・ドイツ・オーストリア共同製作のテレビドラマだそうですが、ここでもフランツは、白い上着に赤いズボンの軍服を着ていますから、オーストリア皇帝の軍服が、史実としてこの色だったんでしょうか。

 そして、どの場合も、二人が手をとって舞踏会で踊るのはワルツです。
 私、確か以前にも、19世紀とおとぎ話とワルツについて書いたような気がしたのですが、思い出しました! 19世紀の舞踏会とお城です! なんと10年以上前の記事で、モンブランの情報が欲しくて書いてたころですね。モンブランのことも、このときの疑問はほとんど解けたのですが、以下の部分。

 老夫婦が、貧相な屋根裏部屋で、時代遅れの王朝風の鬘をかぶってメヌエットを踊り、それを月が影絵として映し出す、といった情景だったと記憶しているんですが、なにに書かれていたのか思い出せなくて、しばらく考えあぐねて、ふと、あれはアンデルセンの『絵のない絵本』ではなかったかと思ったのですが、記憶ちがいでしょうか。 

 私の記憶ちがいでした! モーパッサンの短編「メヌエット」だったんです。
 19世紀、フランス革命も昔話となったパリのリュクサンブール公園で、前世紀の亡霊のように、優雅にメヌエットを踊る老夫妻を描いた、影絵のようなお話です。
 
 そして、以下の部分。

舞踏会もまたそうでして、男女が抱き合った形で踊る円舞曲(ワルツ)は、王朝文化から見るならば、近代的で野卑なものであったわけなのですが、イメージからするならば、シンデレラが王子さまと踊るのはワルツですね。結局のところ、「玉の輿」は身分制度が崩れてこそ成り立ちますので、ここは『山猫』のように、ワルツでいいんでしょう。 

 実はこれを書きました前日、映画『山猫』の円舞曲を書き、古典舞踏を解説してくれていたサイトさんを紹介していたのですが、現在、消えています。
 ワルツが近代的で野卑だといいますのは、言い換えれば、19世紀ヨーロッパはブルジョアの時代であり、ワルツはそれを代表する舞踏であって、決して王朝文化の産物ではない、ということです。

Luchino Visconti’s 1963 classic “Il Gattopardo” (The Leopard)


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 さて、その映画「山猫」のワルツです。
 バート・ランカスター演じるシチリアの大貴族・サリーナ公爵が、クラウディア・カルディナーレ演じる成り上がりのブルジョア娘・アンジェリカに誘われて、ワルツを踊ります。
 アンジェリカは、サリーナ公爵の甥・タンクレディ(アラン・ドロン)の婚約者なのですが、タンクレディは、「変わらずに生き残るためにこそ、変わらなければならない」というモットーのもと、貴族階級に属しながら、イタリア統一運動の先頭に立ち、旧支配打破の戦闘に身を投じて、しかもほどのいいところで身を引き、新興ブルジョアの娘と婚約します。
 サリーナ公爵は、甥の、あまり貴族的とはいえない、ぎらぎらとした変革と保身のエネルギーを容認し、伝統を壊すその婚約を擁護して、シチリアの貴族社会を黙らせるために、あえてアンジェリカと踊るのですが、それが、前世紀の貴族の価値観からすれば野卑な、しかし流行の最先端の感覚でいえば優美な、ワルツなのです。

 山猫のアンジェリカは、新興ブルジョアの娘が旧貴族の御曹司と正規の結婚をするという意味において、18世紀にはありえなかったシンデレラですし、意識してかどうか、「プリンセスシシー」のシシィのドレスに似た、白いふわふわとしたクリノリンスタイルの衣装をまとっています。
 実のところをいえば、シシィもシンデレラでしょう。

 シシィの実家は、バイエルン王家の傍系です。
 バイエルン王国誕生の話は、普仏戦争と前田正名 Vol7普仏戦争と前田正名 Vol8に書いておりますが、バイエルン王国は、フランス革命とナポレオンの中欧席巻の中で生まれた、いわば新興国でした。
 初代バイエルン王となりましたマクシミリアン1世は、当初、ナポレオンに協調して領土をひろげ、ナポレオン没落後も懸命の外交で、王国を保ちます。
 またマクシミリアンには多くの子女があり、王女たちの結婚を、うまく外交に役立てることができました。

 長女アウグステは、ナポレオンの養子・ウジェーヌ・ド・ボアルネと結婚。
 三女カロリーネ・アウグステは、オーストリア皇帝フランツ1世の四度目の妃。
 四女エリーザベト・ルドヴィカは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃。子はできませんでしたが、およそ20年王妃の座にあり、シシィの名付け親となりました。
 五女アマーリエ・アウグステは、ザクセン王ヨハン妃。
 六女ゾフィが、オーストリア大公フランツ・カールの妻。姉の義子に嫁ぎ、皇帝フランツ・ヨーゼフを産みました。
 七女マリア・アンナは、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世の再婚の妃。つまり、姉の義兄に嫁いだわけです。
 そして
 八女マリア・ルドヴィカはバイエルン公爵マクシミリアンに嫁いで、シシィを産みました。

 バイエルン公爵家は、日本でいえば明治時代の宮家のようなものでして、バイエルン王家からは数代血筋が離れていますが王位の継承権はあり、ルドヴィカは王女でありながら、いわば明治天皇の皇女たちが宮家に嫁いだと同じように、対等の身分とはいえない分家に嫁いだわけです。
 若くして皇帝になりましたフランツ・ヨーゼフの母ゾフィは、数多い姉妹の嫁ぎ先から嫁をさがしていて、本命はプロイセン王家の娘でした。
 しかし、ドイツ統一の盟主の座をオーストリア帝国と競っていましたプロイセンは、王族の婚姻関係でしばられることを嫌い、またプロイセン王妃エリーザベト・ルドヴィカには政治力が無く、断られました。
 次善の候補が、シシィの姉・ヘレーネだったのですが、フランツ・ヨーゼフは、15歳のシシィの方を気に入り、結婚の運びとなります。
 シシィとフランツ・ヨーゼフは、母方からいえばいとこで、本来ルドヴィカの思惑では、シシィはフランツの弟カール・ルートヴィヒにどうだろうということだったようでして、それならばつり合いがとれていたのですが、なにしろ相手は皇帝ですから、保守的なオーストリアの大貴族たちには、王女ではなく公爵家の娘では、と批判するむきもあり、シンデレラといえば確かにシンデレラ、でした。

 しかし、映画「山猫」に即していうならば、です。
 イタリア統一戦争当時の若きシシィは、その若さにもかかわらず、アンジェリカではなく、サリーナ公爵でした。
 自分たちの滅びを見通し、「変わらずに生き残るためにこそ、変わらなければならない」とわかっていながら、保身のための転身には怖気をふるい、身の置き所に窮していたのではないかと、思えます。

 「山猫」の舞台は、イタリア統一戦争時のシチリア。幕開けの1860年といえば、万延元年。横浜開港の翌年で、桜田門外の変が起こった年です。明治維新まで、あと8年。 と 映画『山猫』の円舞曲で書いたのですが、シシィは23歳、篤姫は24歳。
 ともに激動をくぐりぬけました二人のシンデレラは、ともに滅びの側に身を置いていました。
 直接、二人の人生がまじわることはありませんでしたけれども、30代、美貌を誇ったシシィは、宮中午餐会の席で、さる日本人の隣に座し、ちょっとびっくりするような問いを発しています。

 ウィーン宮廷には、シーボルト一族も大きく関係していますし、もう少し、シシィの生涯を追ってみたいと思います。
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幕末維新はエリザベートの時代 vol1

2017年01月08日 | 幕末東西

 桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 前編で書いたのですが、SS席で観劇するために、私たちは宝塚ホテルに泊まりました。
 で、ホテルのテレビには、宝塚チャンネルがありまして、無料で見ることができます。「桜華に舞え」に関する番組もけっこうありましたので、つけっぱなしにしていました。
 と、ちょうどそのとき、東京宝塚劇場で上演していました宙組の「エリザベート」の宣伝も、流れたんですね。


CM エリザベート 宙組2016



 私、うかつにも、エリザベート皇后が主人公のミュージカルがあるとは、存じませんでした。
 およそ11年前に書いた二人の皇后とクリノリンにエリザベートを出していますが、「この時代、オーストリア帝国にも、美しい皇后がおられました。ババリアの狂王ルートヴィヒ二世の従姉妹で、ヴィスコンテの映画『神々の黄昏』ではロミ・ーシュナイダーが演じていた、皇妃エリザベートです」と、昔の映画をあげています。


Ludwig - Trailer



 古い映画ですが、今なお私は、ルキノ・ヴィスコンティのこの映画のルートヴィヒ二世が好きですし、出番は少ないのですが、ロミー・シュナイダー演じるシシィ(エリザベート)も強く印象に残っています。
 『オペラ座の怪人』と第二帝政にも、以下のように記しています。

 「ルキノ・ヴィスコンティの映画「神々の黄昏」で知られるババリアの狂王ルートヴィヒ2世は、フランスの太陽王ルイ14世に憧れ、ワーグナーの描く中世に酔いしれ、その過去への夢を書き割りのような築城に託したことで、身を滅ぼします」 

 基本的に、昔から私は、シシィよりもルートヴィヒ2世の方に関心をよせておりましたが、それでもシシィの伝記は一応読んでおりましたし、それなりの関心は抱いていました。にもかかわらず、ミュージカルの存在は知らなかったのです。

 ホテルの宝塚チャンネルでなにげに見た時点では、それほど気にかかったわけではありません。なにしろ頭の中は「桜華に舞え」でいっぱいでしたし、おしゃべりをしたり、荷物を片付けたりしながら、テレビの音を流していただけなんです。
 「宝塚だから恋愛ものよねえ。不倫? シシィの恋の相手は、ハンガリー貴族かなんかなのかなあ。それにしても変わった恰好だけど、世紀末風の扮装?」なんぞと、宙組男役トップ、朝夏まなとさん演じる闇の帝王・トート閣下をちらりと流し見ながら、見当外れな推測をして終わりました。
 ところが帰宅して後、宝塚の動画をYouTubeでいろいろさがしていまして、これを見つけました。


 宝塚xSMAPコラボ「闇が広がる」



 いや、もう、夢中になってしまいました。
 もちろん、SMAPに、ではありません。花組男役トップ、明日海りおさんが歌うエリザベートの劇中歌「闇が広がる」に、です。

宝塚歌劇 花組 ミュージカル『エリザベート-愛と死の輪舞(ロンド)-』 明日海 りおさんからメッセージ


 2014年の花組「エリザベート」は、皇帝フランツを北翔海莉さんがなさっていた、ということも手伝い、迷わずDVDを購入。

『エリザベート ―愛と死の輪舞―』 [Blu-ray]
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宝塚クリエイティブアーツ


 この「エリザベート 愛と死の輪舞」は、1996年の宝塚初演以来、再演を重ね、2014年の花組公演で観客動員200万人を突破。現在では、「ベルサイユのばら」をしのぐほどの人気演目となっているようです。

 さて、「闇が広がる」です。
 宝塚xSMAPコラボを見たときから、「これはもしかして、マイヤーリンクで自殺した皇太子ルドルフ(シシィの息子)の心の葛藤を表現した歌?」とは、推測していました。
 その通りでした。「エリザベート」は、およそ、私が持っていました宝塚のイメージを覆すミュージカルで、シシィが恋をするのは、ハンガリー貴族などではなく、闇の帝王・トート閣下、タナトス、つまりは擬人化された死なのです。


宙伊魯豆腐


 
 1998年の宙組公演です。トートが姿月あさとさん、ルドルフが朝海ひかるさん、フランツは和央ようかさん。エリザベートは花總まりさんです。歌のうまさでは、有数のメンバーではないかと思い、これもDVDを買いました。

 ルドルフ皇太子の自殺は、昔の映画「うたかたの恋」(見てはいませんが、クロード・アネ著の原作小説は読みました)では、男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとの身分ちがいの悲恋の末の心中として、ロマンティックに描かれています。
 私の従来のイメージからすると、「うたかたの恋」の方が宝塚らしい感じがしていまして、調べましたところ、1983年に宝塚は「うたかたの恋」を独自のミュージカルに仕立てていました。こちらも、幾度となく再演されているようなのですが、YouTubeで断片を見ますかぎり、歌が演歌調で、どうにもしっくりきませんでした。

 くらべて、「闇が広がる」は、ロック調です。ミュージカル「オペラ座の怪人」の「The Phantom Of The Opera」がロック調で、ナイトウィッシュはじめ多くのロックグループがカバーしていますように、この歌も歌詞が英語であれば、カバーされていてもおかしくないでしょう。個人的には、日本語で、BABYMETALに歌ってもらいたいかんじ、なんです!

 ともかく、ミュージカル「エリザベート」は、シシィ&ルドルフ母子を、滅びゆく帝国の重みにひしがれ、あらがい、タナトスに魅せられる時代の子、として描いていまして、おおよそ、私が抱いていた宝塚のイメージからは遠いんです。
 それもそのはず、でした。
 「エリザベート」は、1992年初演のウィーンミュージカルだったんです。元は、ドイツ語です。

 その初演からまもなく、宝塚の演出家・小池修一郎氏がその楽曲に惚れ、ご自身のオリジナルミュージカル「ロストエンジェル」で、使われたんだそうです(もちろん許可を得て、です)。
 さがしたらあったんですが、やっぱり曲がいいですわ、これ。

 ロストエンジェル07


 1995年、雪組のプロデューサーが、「ロストエンジェル」で使われた曲から「エリザベート」に関心を持ち、一路真輝さんの退団公演にどうだろうかと、小池氏に話をもちかけ、宝塚向けに大幅に変更を加えた上で、小池氏がウィーンへ交渉に行かれたのだとか。
 一番大きな変更点は、なにしろ宝塚は男役が主役ですから、エリザベートではなく、黄泉の帝王・トート閣下を主役に据え、出番を大幅に増やしたことです。
 そもそも、元のウィーン初演版では、トートは、エリザベートとルドルフにしかからまず、わずか30分しか出番がなかったそうですが、黄昏のハプスブルグ家の二人の心の中の死の誘惑を擬人化したものなのですから、そんなものだったのでしょう。
 その他、オーストリア=ハンガリー二重帝国の事情を、日本人にわかりやすくするするためにハンガリーの革命家を出し、トートとルドルフを革命家にからませたり、さらには、作曲担当のリーヴアイ氏に「愛と死の輪舞」という新曲を作ってもらうなど、驚くほどの変更依頼をしましたところが、オーストリア以外でまだ上演されたことがなく、初めての他国からのオファーが日本の女性だけの謎の劇団だった、というので、すべてOKになったと言います。

 宝塚の半年後に、ハンガリーでも上演され、そのとき、宝塚版改変のハンガリーの革命家のシーンや「愛と死の輪舞」が取り入れられ、そしてついには2012年のウィーン再々演では、宝塚から里帰りの形で「愛と死の輪舞」が取り入れられたんだそうなんです。

ウィーン版 エリザベート 愛と死の輪舞 日本語字幕



 なお、日本では、宝塚版と同じく小池氏の演出で、東宝版「エリザベート」も上演され、2000年の初演以来再演を重ねて、チケットが手に入らないといわれる人気です。
 初演の時は、宝塚でトートを演じた一路真輝さんがエリザベート、トートを山口裕一郎さんと内野聖陽さんが役代わりで演じ、余談ですが、これが縁で一路真輝さんと内野聖陽さんがご結婚なさったのだとか。

 東宝版は、宝塚版よりはウィーン版に忠実であるそうなんですが、宝塚版のトートの役割の拡大は、結局、タナトスにとりつかれていたのは、シシィとルドルフだけではなく、ハプスブルグ帝国そのものだったのだ、ということを端的に現すこととなり、「エリザベート」というミュージカルの発展につながったように思うんですね。ただ、宝塚版で私が違和感を感じますのは、ラストのエリザベートと死神トートのハッピーエンドシーンでして、ルドルフとちがって、戦い抜いた末のエリザベートの死は安らぎだった、という解釈はわかるのですが、二人がニコニコあんまりにも嬉しそうなのが、何回見ても変です。エリザベートの死とともに、ハプスブルグ帝国の崩壊を暗示して、闇の帝王トートが、長くつきあったエリザベートを通じて、人の世の栄枯盛衰に哀惜の念を持ってしまった、といった壮大さが欲しいところです。

 宝塚の「エリザベート」は、ラストの後にフィナーレが続きます。
 いくつかの版のフィナーレを見たのですが、これは、明日海りおさん&蘭乃はなさんの花組のものが、まるでクリムトの絵のようで、最高だと思うんですね。

もっと知りたい世紀末ウィーンの美術―クリムト、シーレらが活躍した黄金と退廃の帝都 (アート・ビギナーズ・コレクション)
クリエーター情報なし
東京美術


 まずは北翔海莉さんのフランツが「愛と死の輪舞」を独唱。ロケットと呼ばれるラインダンスの後に、クリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」(上の本の表紙の絵)のような青く耀く衣装をまとった明日海トートと娘役の群舞、続いて、クリムトがよく使った黄金色の衣装で、「闇が広がる」をバックに、明日海さん、北翔さん、望海風斗さん(ルッキーニ役)、芹香斗亜さん(皇太子ルドルフ役)がリードしての男役群舞、そして明日海さん&蘭乃さんのデュエットダンスは、名画「接吻」そのもののようで、見飽きません。


 さて、主人公のシシィ、エリザベートです。
 実は、1937年生まれで、天璋院篤姫より一つ下。二人はほぼ同じ世代です。
 そして、楠本イネは1927年生まれで、シシィより10ほど年上なのですが、実はシーボルトは、シシィの実家がありましたバイエルンにも、嫁ぎましたハプスブルグ帝国にも、深い縁がありました。

 普仏戦争と前田正名 Vol9に、私、以下のように書いております。

 フランツ・フォン・シーボルトは、1796年、ヴュルツブルク司教領で、ヴュルツブルク大学医学部教授を父に、生まれました。
 そうなんです。フランス革命戦争のただ中に、神聖ローマ帝国領邦に生まれたわけなんです。
 ヴュルツブルクは、1803年に一度、バイエルン選帝侯領となりましたが、1805年の仕分けではヴュルツブルク大公国となり、1815年のウィーン会議で、再びバイエルン王国領となりました。
 

 ペーター・パンツァー氏の「国際人としてのシーボルト」によりますと、シーボルトはヴュルツブルク生まれということで、最初はバイエルン王国のパスポートをもって国を出ましたが、結婚してプロイセン国籍をとりましたし、おまけにシーボルトの「フォン」という貴族の称号は、祖父がフランス革命戦争で神聖ローマ帝国軍の負傷兵を治療し、ハプスブルク家の皇帝よりもらったものでしたので、オーストリア貴族ということも、できるんだそうです。

 おイネさんの異母弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトは、オーストリア=ハンガリー帝国の在日公使館に長年勤務し、1891年(明治24年)、オーストリアで男爵の地位を得ています。シシィの死の7年前のことです。

 幕末維新は、すっぽりとエリザベートの時代に重なっていまして、もう少し、シシィのことなどを書いてみたいと思います。
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BS歴史館「幻の東北列藩・プロイセン連合」と史料

2013年04月07日 | 幕末東西
 ちょっと近藤長次郎とライアンの娘シリーズを離れます。

 青色申告の最中にパソコンが壊れ、中村さまがご同行くださいまして高知へ旅行し、東京で大学生をやっております姪が遊びに来て、前期試験で失敗しました甥がなぜか後期試験に受かりまして、引っ越しの手伝いに出かけと、次々にブログに集中できない事件が起こったわけなのですが、千頭ご夫妻がご案内くださいました高知旅行は、いずれ、写真とともにここにまとめたいと思います。

 また現在、近藤長次郎についての本を出版したらどうだろうか、という話ももちあがっておりまして、いまだ漠然とした思いつきの段階にすぎませんで、千頭ご夫妻のご意向や、執筆者が何人になるかなど、基本的な企画もできあがってはおりません。しかし、ぜひ、真剣に取り組んでみたいとは、思っておりまして、旅行の話とともに、そのうち、書いてみたいと思っております。

 えーと、本日(2013.4.7)は、ですね。アマゾンで予約をしましてから、一年以上出版が延びて、待ちわびておりました本が届いたんです! ご紹介したくて、久しぶりに書いています。
 箱石大氏編の「戊辰戦争の史料学」です。

戊辰戦争の史料学
箱石大 編
勉誠出版


つい最近再放送したみたいなのですが、2011年の7月、NHKのBS歴史館で、発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」 が放送されました。BS歴史館も、期待はずれであることが多く、最近はほとんど見ていないのですが、このときだけは、「えええっ!!!!!」と、ただただ驚いて、言葉もなく見入ってしまったんです。

 私にとりましては、衝撃の新資料が紹介されておりました。プロイセン代理公使として日本におりましたマックス・フォン・ブラントが、戊辰戦争中、本国の宰相オットー・フォン・ビスマルクへ書いた手紙に、「会津と庄内が蝦夷地(北海道)の一部の売却を申し出ているのだが買ってはどうだろうか?」というような提案があった!!!、というんです。
 
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編に出て参ります杉浦奉行の日記に記されていることなのですが、幕府から蝦夷地の一部をまかされておりました東北各藩は、本藩が大変だからと、おっぽりだして引き上げているんですね。まあ、それは仕方がないことと思っていたのですが、ロシアの南下を憂い続け、きっぱりと援助を断りました杉浦奉行にくらべまして、「その売国はなんなのっ???」と、思わず叫びたくなる話です。

 番組では、これまでにもけっこう知られておりますスネル兄弟(wiki-スネル兄弟)やガトネル(ゲルトナー)兄弟など、幕末維新に日本で活躍しましたドイツ関係者がひとまとめに出てきまして、同列に語られてしまっているのですけれども、研究途上の新資料の衝撃度のみでは、番組が成り立たなかった、ということなのでしょうか。

 私、これまでに、スネル兄弟については書いていなかったと思いますが、ガトネル兄弟につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 中で書いております。ガトネルの農園に関して言いますと、杉浦奉行から新政府、間に榎本軍をはさんでまた新政府に引き継がれ、その間にお雇いのはずが長期借地に変じてしまった話ですから、会津も庄内もまったくかかわっておりませんし、番組タイトル「幻の東北列藩・プロイセン連合」には、ほとんど関係ないんですけどねえ。

 ともかく。
 衝撃の新資料について研究なさっておられるのは、東京大学史料編纂所准教授の箱石大氏である旨、番組で紹介されておりましたので、私、あわてて論文を探したのですが見つからず、しかしアマゾンに、これから出版予定の「戊辰戦争の史料学」なる本がありましたので、さっそく予約しました。
 ところが、ところが。
 出版予定が延びに延び、ようやくのことで今日、届いたような次第です。

 全編、興味深い記事ばかりでして、これからじっくり読むつもりですが、まずは、箱石大氏ご自身によります「序論 戊辰戦争に関する新たな史料の発見」を見てみますと、「衝撃の新資料」は、すでに1995年、日本大学国際関係学部准教授アンドレアス・H・バウマン氏によって、日本の学界に紹介されていたんだそうです。その4年後には、ドイツのボン大学教授ヨーゼフ・クライナー氏が北海道新聞を通じて、一般にも紹介していたそうでして、ひいーっ! 知らないって怖いですね。
 といいますか、もっと早く、日本の歴史学界がとりあげるべきだったことですよね。

 この文書は、フライブルクの連邦軍事文書館が所蔵しているそうなんですが、はあ、松山の姉妹都市のフライブルグに、そんなものがあろうとは!!!、です。
 普仏戦争と前田正名 Vol5に書いておりますが、戊辰戦争時のドイツはいまだ統一されていませんで、フライブルクはバーデン大公国なんですよねえ。

 で、箱石氏は、2009年からボン大学名誉教授ペーター・パンツァー氏の協力の元、この文書館所蔵の幕末維新期日本関係文書の調査をはじめ、そんな中で、関連文書も発見されたそうでして、実は、番組で紹介されました「衝撃の新資料」には、続きがあったというんですっ!!!

 番組では、「ビスマルクは、欧州の他国との協調関係をおもんばかって、ブラント公使に会津・庄内の申し出を断るよう指示した」 とされ、そこでこの話は終わっていました。

 戊辰戦争は、ちょうど、普墺戦争と普仏戦争の間の出来事でして、ドイツ統一をめざすプロイセンとしましては、イギリスの機嫌を損ねるようなことは、できなかったんですね。
 イギリスは、対ロシアということで、広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、クリミア戦争ではフランスと組み極東まで戦いに来まして、そのおかげで五稜郭ができたようなものですから、もしもプロイセンが蝦夷に領地を得るようなことになりましたら、実際に黙っていなかったでしょう。
 
 しかし、当時の在日イギリス外交官、バーティ・ミットフォードは、上流階級出身のよしみか、ブラント公使とはけっこう仲が良かったとか言っていますのに、この件につきましては、情報収集できていなかったのでしょうか。あるいは、どうせ会津・庄内が勝つはずないとたかをくくっていたか。

 えー、箱石氏の最新のご研究に話をもどします。
 ブラント公使のビスマルクへの報告には、続きがありました。
 「会津と庄内が蝦夷地を売りたがっている」といいます情報に続けて、「グラバーは琉球を担保として薩摩に金を貸しつけていて、イギリス政府がその利権を手に入れ、土地を取得するつもりだ。またアメリカも長崎に海軍基地を持とうと計画している」という続報を送ったというのです。
 結果、ビスマルクは前言を撤回し、「英米が日本で土地を得ようとしていることが本当なら、会津・庄内の申し出に応じよ」 とブラント公使に命じました。しかし、当時の手紙のやりとりは船便で、欧州と日本の間では、およそ2ヶ月かかりました。その命令が日本へ届いたときには、とっくの昔に、会津も庄内も降伏し、機会は失われていたのですが。

 箱石氏も書いておられますが、イギリスが薩摩から土地を得ようとしていた話は、眉唾です。 
 ミットフォードかモンブラン伯爵かが偽情報を流した……といいますか、私、思いますにモンブラン伯爵が「この田舎者、おもしろい。おちょくってやれ!」とからかったのではないかと。
 ほどなく普仏戦争がはじまり、モンブラン伯爵が生まれ育ちました花の都パリは、ドイツ諸国の田舎者に蹂躙されることも知りませんで。
 この当時のフランス人のドイツ人に対する一般的感情は、普仏戦争と前田正名 Vol9Vol10でご紹介しております、アルフォンス・ドーデーの「月曜物語 」あたりが、語ってくれているように思います。

 あるいは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編に書いておりますが、薩摩が琉球国名義で各国と独自に通商条約を結ぼうとしていたことを、ブラントが誤って受け取ったのでしょうか。まあ、プロイセンの田舎貴族ですしねえ(笑)

 それにいたしましても、ねえ。
 極東におきますプロイセンの情報収集能力は、ぐだぐだぐだのぐちゃぐちゃ、だったみたいです。いや、世界に冠たる007の国大英帝国とくらべちゃ、気の毒なんですが。

 追記 家近良樹氏の『西郷隆盛と幕末維新の政局』第部 第四章 慶応二・三年の薩摩藩を読んでおりましたら(P172)、穏健派の薩摩藩士・道島某の日記に(忠義公史料第四巻P156~161 P197~198「道島家記抄」)、慶応2年6月パークスが鹿児島を訪れたときに、一般の薩摩藩士からは多大な反発があり、「グラバーからの藩の借金は一割四分の高利で30万両にもおよび、その返済のために大島の銅山を渡すらしい」という噂話があった、という旨、書いておりました。ブラントは、そういう噂話のたぐいを耳にしたらしくはありますね。

西郷隆盛と幕末維新の政局: 体調不良を視野に入れて (大阪経済大学日本経済史研究所研究叢書)
家近 良樹
ミネルヴァ書房


 ついでに言わせていただきますと、会津・庄内の国際感覚もぐだぐだのめちゃくちゃ、だったみたいですねえ。双方、個々には情報通の有能な人材もいたのですけれども、生かせなかったといいますか。
 庄内藩なんか、出身者に佐藤与之助や本間郡兵衛などもいましたのに、ねえ。

 この本には、また触れる機会があろうかと思いますが、今日は、ここまでです。

 最後に、甥の引っ越しの手伝いで大阪へ行きましたおかげで、懐かしい友人に会うことができました。若くして大病を患って一時は命も危なかった方が、元気でいてくださって、ご一緒にランチを。嬉しゅうございました。
 千里阪急ホテルさくらラウンジのさくら弁当です。




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幕末の着物と洋装

2009年03月21日 | 幕末東西
 えーと、その、このお題でなんの写真? といわれると困るのですが、実は、ですね、若い頃に着たこの振袖を姪に譲るつもりでいましたところが、裄丈(ゆきたけ)がさっぱりあいません。「最近の子は腕が長いから、着られないかもしれませんよ」と、着物の古着屋さん(神楽坂 路地裏 ふくねこ堂)をやっている友人に忠告されてまして、昔買ったデパート(昔はそごうで、今は高島屋なんですが)の呉服売り場へ持っていって、直してもらおうとしたのですが、姪の腕の長さがはんぱじゃなく、どうにもなりません。

 「じゃあ、安いものを新調するか」という話になりまして、売り場の方が、「こちらがご奉仕品でございます」とおっしゃるものですから、私、そこにあるものはぜーんぶ同じサービス価格かと思いまして、とびついたものが、下の写真です。群をぬいて品が良く、好みでした。
 姪によく似合って、スポンサーの母(姪にとってはおばあちゃん)も気に入り、しかしまだ十六の姪はといえば、もっと派手な、赤とかピンクの地色のものがよかったみたいなんですが、そういうものを姪が手にしますと、売り場の方が、「そういうのは、軽々しくてあきがきますよ」とかいってらっしゃるので、もしかして、これはーと不安になり、「で、おいくらですの?」と聞きましたところが………、はじかれた電卓の数字を見て、もう………、仰天しました。
 まして帯まで含めますと、とんでもないお値段だったのですが、上の帯は母の若い頃のもので、相当にくたびれていますし、第一、こちらには似合いそうもありません。
 しかし、もう、他のものではだめだめな気分になっていますし、母が「たった一人の女の孫の一生に一度のものだから」と思い切りまして、このたび、このように仕立て上がってきましたような次第です。


 

 総絞り(白地の部分も絞りです)なんですが、染め分けが大胆で、一部、辻が花が入っていて、なんとなく、安土桃山から江戸中期までの小袖の雰囲気が、あるような気がしたんですよねえ。

 最初の写真の私の若い頃の振袖は、地紋のある綸子地に、水彩画を描くように花を描いて、色止めしたものです。
 総絞りほど高価なものではないんですが、一点もので、けっこう気に入っていました。
 これ、いろいろな色の綸子地に、多数の絵描きさんが、それぞれに好きな花を描いた企画ものの一つでして、例えばクリーム地に水仙とか、薄い水色の地にあやめとか、淡い桃色地に藤とか、もう、どれもステキでして、目移りがして選び難かったのですが、なんとなく、飛び抜けて洋風の趣があるこの薔薇を選んだものです。
 母がデパートの案内で企画を知り、大学の春休みか夏休みかに帰省していたとき、呉服売り場に連れていかれてのことでした。

 日本の上流女性の晴れの衣装は、歴史時代に入り、はっきり記録に残る最初のころは、中華王朝のものを、あまりアレンジしないでそのまま取り入れた、という感じがしますよね。明治、鹿鳴館の貴婦人たちのドレスと似たようなものではなかったんでしょうか。
 それが、平安時代に入り、いわゆる「十二単」、単色の色をいろいろ重ね着する、日本独自のものになっていったのですが、土台になる単(ひとえ)の模様はいわゆる地紋でして、単色です。行事のときなどに一番上に着る表着(おもてぎ)が、二倍織物で、二色使いだったりしますが、あとは白い裳(も)に絵が描いてあるくらいで、基本的に、単色で模様のない薄い袿(うちぎ)を色とりどりに重ねることで、季節感を表したりしたわけです。

 で、ですね、現在、主に帯として使われます唐織りは、京都における宮廷衣装製作の伝統の上に、さらに中華王朝からの新しい技法が導入され、金銀をまじえた色とりどりのきらびやかなものに発展していくのですが、日本独自のもの、というならば、室町時代くらいから現れ、現在の着物の原型となりました小袖の模様の方が、そういう感じが強いですよね。

 小袖の原型は、平安時代の庶民の衣装で、鎌倉あたりの上流女性にとっては下着、でした。
 絞り染めも、例えば麻とか、庶民の小袖に施された模様だったわけなのですが、安土桃山期に、辻が花となって、刷り泊や刺繍と組み合わされ、上流の小袖を飾るようになったわけです。
 江戸時代前期ころまでに、刷り泊、刺繍、絞り、といった絢爛豪華な技法が完成し、中期ころに、そういった手間のかかる模様を、もう少し手軽に、そしてもっと鮮やかに染め付けで表現する友禅染めが考案されまして、現在の振袖や訪問着などの晴れ着に使われる技法は、ほぼ出そろいました。

 江戸時代に入っても、呉服製作の中心は京都でした。
 三代将軍家光の妹、東福門院和子が後水尾帝に嫁ぎまして、無理強いした徳川幕府は威信をかけて、多額の化粧料で盛り立てます。朝廷に渡した扶持が1万石そこそこなのに、化粧料は10万石を超えた、といわれますので、徳川から嫁いだ奥様の方が、はるかにお金持ちだったわけなのです。
 で、和子さんは、この化粧料を、けっこうかしこく使うのです。
 京都の地場産業といえば、平安の昔から絹織物なわけでして、和子さんが金にあかして衣装を注文すれば、京の庶民は潤います。自分や子供の着物だけではなく、近親者や侍女の着物も多量に注文するんですね。
  この東福門院の豪華衣装を一手に引き受けましたのが、雁金屋という高級呉服商でして、尾形光琳は、雁金屋の息子です。

 和子さんの娘時代の小袖は、慶長小袖といわれるものですが、和子さんがファッションリーダーとなって、小袖は華麗な発展をしていきます。絞り染めで地色を大きく染め分ける、というのは、慶長小袖の特色でして、この染め分けがけっこう大胆でして、例えば白、紅、黒紅と三色の絞り染めでくっきりと染め分けた地に、細かく花や風景、扇面などが配され、刺繍や刷り泊がほどこされる、という、大胆かつ豪華な全面模様、という感じです。

 和子さんは、周囲の人々のために、でしょうか、晩年の方が多量の衣装を作っていまして、三代将軍家光の死後に現れた寛文小袖こそが、ファッションリーダーとしての東福門院の面目躍如たるものでした。
 ともかく、デザインが絵画的で、大胆なんです。金の刷り泊が姿を消し、鹿の子絞りと刺繍で、その刺繍に金糸を使うようになったのですが、余白が大きく、アンシンメトリー。まさに、いまなお日本的、といわれるデザインセンスなんですが、斬新さに目を奪われます。
 余白とアンシンメトリーは、19世紀西洋のジャポニズムにおいて、注目された日本のデザインの特徴です。
 尾形光琳は、子供の頃から青年期にかけて、東福門院御用の雁金屋で、このすばらしいデザインを見て育ったわけなのです。

  
 左が慶長小袖、右が寛文小袖です。

 この光琳などが、ですね、後に白い小袖地に淡く、しかし大胆な構図で植物の日本画を描いて色止めする、といったようなことをしはじめまして、ですからまあ、一見洋風の私の振袖にも、小袖の伝統は息づいているわけなのです。
 一方、寛文小袖は、アンシンメトリーで大胆な構図はそのままに、余白が減り、豪華さをまして、元禄小袖となります。絞りと刺繍の分量が増えたわけですから、豪華にはなったんですが、模様の大胆さは、減じます。
 で、ここらへんになってきますと、ファッションの中心はすでに江戸に移っておりまして、ファッションリーダーは大奥の女性たちです。

 下、左が元禄小袖、右が光琳の弟子・酒井抱一画の墨絵小袖、です。
  


 去年の大河ドラマ、篤姫でも、さまざまな打ち掛け、小袖(振袖含む)が出てきましたが、幕末の時点においては、すっかりデザインに大胆さがなくなり、びっしりと細かな模様なんですよねえ。
 もしかしますと、すでにこのころ、江戸のファッションリーダーは粋な芸者さんたちで、大奥はその座を降りていた、といえるのかもしれないですね。

  

 私、どうもこの、全体びっしり華やか模様が好きにはなれませんで、元禄小袖までのデザインがいいよなあ、と思ってしまいます。
 デザインとしては、中でも寛文小袖が最高ですけれども、これはけっこう、着こなしがむつかしそうなんですよね。

 で、着物ではなく、帯の方、なんですけれど、小袖の模様が大胆さをなくしたにあたっては、帯幅が広くなったこともかかわる、といわれているようです。
 細かった帯が、広くなっていくのは、やはり江戸中期からでして、このころから、着物と帯のコーディネイトが、相当、重要になってきます。

 明治初頭、はじめてだったか二度目だったか、京都を訪れたバーティ・ミットフォードが西陣に案内され、唐織りの帯地を見て感心しているのですが、「洋服に使うには生地が硬すぎるし、インテリア・ファブリックにするには高価すぎる」というようなことを言っています。
 しかし、ですね、鹿鳴館の時代、伊藤博文が、「日本の絹地をドレスに」というようなことを唱えまして、実際、帯地を使ったドレスとか、貴婦人たちはいろいろ考えたようです。「勝海舟の嫁 クララの明治日記」 (中公文庫)にも、そういう話がでてまいります。

 西洋ファッションにおけるジャポニズムについては、ちょっとこれも調べていまして、また、取りあげることがあるかもしれません。


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幕末明治の洋菓子

2009年03月19日 | 幕末東西
 ようやく青色申告も終わり、いいかげんお部屋の整理をしなければ、頭の整理もできない、と思うこのころです。
 生麦事件連載が途中ですが、えー、なぜか……、生麦事件で小説を書いてみたい! と思うようになり、主人公は生麦村の女の子、と決めたあたりから、もう、調べることがいろいろ、でして。
生麦村については、桐屋の位置など、これまで書いてきたことがまちがっていた部分もありまして、事件当時の村の地図を作ってみました。

 幕末の生麦村をしのぶ

 主人公は、米屋(与次右衛門)のおじょうちゃんで、しのちゃんといいます。架空の人物です。
 おじょうちゃんは、明治になって横浜へ出て、お菓子屋さんをはじめます。
 でー、ですね、明治日本の洋菓子導入について、いろいろ本も読んだのですが、詳細は省きます。

 洋菓子の基本の材料というのは、小麦粉と卵とバターに砂糖、といえますよね。
 このうち小麦粉は、中華王朝から、室町時代に伝わってきた饅頭の皮は、小麦粉ですわね。砂糖も早くから入ってきますし、卵は安土桃山時代から江戸時代初期あたりにかけて、ポルトガル、オランダあたりから、カステイラだの鶏卵素麺だののレシピが伝わり、高級品南蛮菓子として、ですが、江戸時代には日本人の口にもなじんだわけです。
 カステイラは、ですね。朝鮮のお役人も日本の名菓としてとても好んで、釜山の倭館につめていた対馬藩士が、朝鮮の役人を接待するとき、むこうから催促されるほどの大人気で、かならずメニューに加えていたようです。

 明治、日本人がもっともなじみの薄かった製菓材料が、バターだったわけです。
 私、しのちゃんが作るお菓子として、バターを使わないサブレを考えていました。で、バターの代わりには、油分をたっぷり含んだ練り胡麻はどうだろうか、と思ったのです。しかし、バターを全部練り胡麻に代えてしまって、上手くサブレになるかどうか不安で、少し暇が出来たら実験しようと思っていたのです。
 ところが、その話をいたしましたところ、なんと!!! 胡麻味洋菓子はお嫌いなfhさまが、先に実験してくださったのです。

 fhさまのごまジンジャービスキュイ

 これに勇気づけられました私も、さっそく実験してみました。



 一応、レシピを。

 練り胡麻一瓶    180グラム
 洋菓子用米粉    110グラム
 きな粉        25グラム
 アーモンドパウダー  25グラム
 きび砂糖       60グラム
 蜂蜜         少々
 卵          3個
 黒胡麻        少々

 卵は、2個は全卵、1個は黄身だけを生地に練り込み、残りの一個分の白身は、つや出しに使いました。
 練り胡麻をバターに見立てて、これに全卵2個、卵黄一個、砂糖、蜂蜜をいれてよく練り、米粉、きな粉、アーモンドパウダーはいっしょにふるっておいて、さっくりとまぜあわせます。
 まとめた生地を冷蔵庫で一時間ほどねかせ、のして、型抜きして、黒胡麻を飾り、卵白をはけで塗って、焼きます。

 砂糖は、赤砂糖を使いたい、と思っていたのですが、近所のスーパーにはありませんでして、代わりに「きび砂糖」という名の黄色い粉砂糖を使いました。
 できあがりの色が濃いのは、練り胡麻がどうも磨き胡麻の練り胡麻ではなかったようで色がついていたのと、きび砂糖、きな粉、なんでしょう。

 
 一応、成功です。
 バターを使わなくても、クッキーみたいなサクサク感はそれなりにあります。ただ、サブレというには、ちょっとパリッと感が足りないかなあ、という気がしないでもないのですが。
 お味? そこそこ、悪くはないです。
 しかし、こう、しまりがない、とでもいうんでしょうか、そうですねえ、ちょっと胡麻風味の蕎麦ぼうろっぽい感じで、もうちょっとしまった味にしたく……、fhさまのジンジャー入り、というのは、正解ですわ。いっそ、生姜をすりおろして生地にまぜてもよかったかも、です。

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英仏世紀末芸術と日本人

2007年03月02日 | 幕末東西
HOKKAI

新潮社

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えーと、その。この本、小説だと知らないで買ってしまいまして。
著者の高樹のぶ子氏については、たしか拉致問題で、見識を疑うようなことを毎日新聞だったかのコラムに書いておられたのしか存じませんで、「そんなに日本国内の北朝鮮批判が信じられないなら、せめてピエール・リグロの『北朝鮮の真実 フランスからみたその誕生と行方』くらい読んでから書けよ」とうんざりした印象が強烈でしたので、いや、どんなもんだろ、と迷ったのですが、なにしろ高島北海についてのノンフィクションだと思いこんでしまいまして、つい。
で、それがどうにも、読む気になりません。

最近、あんまり小説を読む気になれないのもあるのですが、ちょっとこれは、どんなもんなんでしょう。
いえ、鹿鳴館のハーレークインロマンスでご紹介しました森本貞子氏の『秋霖譜 森有礼とその妻』なんかは、小説仕立てですが、一気に読ませる迫力とおもしろさがあります。
この本の場合、現代に生きる「私」を前面に出してきて、それも、「私」の私生活がごちゃごちゃからんでいるらしいのが、なんとも、うっとうしいんです。あげく、高島北海という人物とその生きた時代に対する著者の情熱が、まったく伝わってこないんです。

で、読まないで書くことになりました。すみません。高島北海です。
ちょっと検索をかけていただいたらわかるのですが、高島北海は嘉永3年(1850)、長州の生まれ。明治、官員となって山林学を学ぶため、フランスに留学します。もともと絵を学んでいまして、趣味で描いていたのですが、留学先のナンシーで、エミール・ガレなどに大きな影響を与え、フランスのアールヌーボーに貢献した人です。
ガレの工芸ガラス、初期のもの、というんでしょうか、普及品ではなく、芸術品として力を込めた作品には、日本画の面影がより強かったりします。高価にすぎまして、とても買えませんけれども。
そこまでは、昔から知っていたのですが、最近、なにかで、北海は生野銀山のフランス人学校で学んだ、というような話が目にとまりまして、生野銀山時代の北海について、詳しい本はないかな、と思ったんです。
えーと、モンブラン伯の明治維新で書きましたが、生野銀山のフランス人、コワニーは、モンブラン伯爵が連れて来たんです。
日本学に魅せられたモンブランが、薩摩にフランス人を連れてきて、そのフランス人が、維新で生野銀山に行って、そこで学んだ長州人がフランスへ渡り、ガレのガラス工芸が生まれる………。
なんか、めぐりめぐって、すごくないですか?


もう一つ、最近、昔読んだ本を読み返していて、おもしろい記事があったことに気づきました。
『密航留学生たちの明治維新 井上馨と幕末藩士』なんですが、読み飛ばして、昔読んだときには気づかなかったみたいなんですね。
いえ、これは、けっこういい本なんですけど、あんまりにも多くの留学生が出てきまして、多少、記述が散漫、っていうんでしょうか、井上馨が題名にあがっているわりに、その描き方があまりに一面的だな、という印象で、なかなか、再び手に取る気になれなかったものです。

それで、おもしろかった、といいますのは、江戸は極楽であるに出てきます吉田清也と、同じく薩摩密航イギリス留学生の畠山義成が、ジャポニズムに魅力を感じたらしいラファエル前派のお茶会に呼ばれて、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなんかとお茶したらしいのですね。
二人とも、いったんはハリス教団に入った堅物、といいますか、勉強家でして、維新以降、吉田清也は政治畑、畠山義成は教育畑、なんですけど、私のイメージでは、どうも二人とも、あんまり趣味豊かな感じではありませんで、この取り合わせって、どうなんでしょう。なにか、ラファエル前派のインスピレーションに、寄与するものがあったんでしょうか。


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ふう、びっくりしたー白虎隊

2007年01月07日 | 幕末東西
なにしろテレビ朝日ですから、あまり期待はしていなかったのですが、つい見てしまいました。新春ドラマスペシャル『白虎隊』を、です。
それにいたしましても、ふう、びっくり!
なぜに沖永良部島に流刑の身の西郷隆盛が、8.18クーデター当時の京都にいるの???
頭がくらくらしてまいりました。
まあ、いいや。

『幕末とうほく余話』

無明舎出版

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白虎隊といえば、ヤッパンマルスと鹿鳴館 で、ご紹介いたしましたこの本、『幕末とうほく余話』が出版されていたことを知りまして、さっそく注文しました。まだ全部は読んでいないのですが、東北の幕末群像をていねいに追っていて、いい本でした。
これまで知らなかったことも、けっこう出てきます。
藩主に従い、恭順派の家老を斬ったといわれる二人の桑名藩士のその後など、いい話でした。函館戦争にまで参加した後、渡米。またも登場、という感じですが、薩摩の森有礼の引きを受けたらしいのですね。一人は後の一橋大学の助教授となった上、横浜の銀行発展に尽力。もう一人は、横浜で実業家になったのだそうです。

この本は、会津の話は少ないのですが、つまらない『白虎隊』を見ておりまして、母の本棚からひっぱり出して読んだ本を思い出しました。珍しく幕末ものだったのです。
8.18クーデター、会津方の立役者だった秋月悌次郎を描いた『落花は枝に還らずとも?会津藩士・秋月悌次郎』です。
江戸の昌平坂学問所に長くいたため、他藩士との交遊がひろく、薩摩藩に見込まれて交渉相手となった秋月悌次郎。
後年、悌次郎は熊本の第五高等中学校で漢文を教え、ラフカディオ・ハーンから「神のような人」といわれます。そのころ、クーデター当時、京における薩摩の中心になっていた高崎正風が、悌次郎をたずねるのです。
クーデターから30年数年、終夜酒を酌み交わした二人。
たしかこのエピソードは、司馬氏がエッセイかなにかに書いておられて、一度、秋月悌次郎の伝記を読みたいと思っていたところでした。
『落花は枝に還らずとも』ではじめて知ったのですが、秋月悌次郎は、会津と薩摩が敵対するようになったころ、蝦夷に左遷されていたのですね。
幕末の最初の衝動は、ロシアの南下でした。維新の60年ほど前、ロシア使節のレザノフは、幕府に開国を迫るとともに、千島や樺太の日本人居留地を攻撃したんです。
恐れをなした幕府は、会津藩に北方領土の防備を託しました。
このときは、ロシアの襲撃にはあわなくてすんだのですが、極寒の地のきびしい自然に、命を落とすものもありました。
そして、ペリー来航。続いて、またしてもロシアがやってきまして、一時ですが、対馬を占領したりもします。これは、イギリスに牽制してもらって、なんとか引き上げてもらいましたが、幕府がまっさきに心配したのが北方でして、かつて功績のあった会津藩に蝦夷の一部の領地を与えて、せめてもの防備を考えるんです。
その蝦夷地へ、悌次郎は左遷されたのです。会津もまた、けっして一枚岩ではなく、内紛があったことがうかがえます。

ところで、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。 にまとめてありますが、パリ万博に赴いた水戸民部公子・徳川昭武の一行には、二人の会津藩士がおりました。
20歳の横山常守と24歳の海老名季昌です。公子に先だって帰国した二人は、戊辰戦争を戦い、横山常守は戦死します。

慶応から明治へ。この時期、パリと京都、江戸を往来した人々の運命の転変には、呆然としてしまうものがあります。


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幕末ラッコ姫

2005年12月24日 | 幕末東西
えーと、昨日の文章がまだ仕上がっていませんが、それはゆっくりと終わらせます。
寒さのあまりにビーバーの編み込みの上着を買い込んでしまいまして、思い出したことがありまして。
ビーバーって、物語なんかに出てくる、かわいいビーバーです。養殖でしょうけど。
友人が、海外のオークションサイトで、とても安く、中古の毛皮のマフを手に入れまして、それがどうも、アザラシかラッコの皮ではないか、というのです。
「ラッコ!? ラッコの皮ってどんなのか見てみたい!」という私に、友人は「えっ?」と聞き返しました。

いえね、昔、幕末物語を書こうとして挫折した話なんですが、主人公が幕臣の娘、という設定でして、函館戦争に参加するんですね。で、降伏間際に五稜郭を抜け出しまして、なにかこう金儲けをさせねば、この子、食べていけないではないか、と、考えたわけです。
そこで思いついたのが、ラッコ狩りです。
当時の欧米では、ラッコのマフが流行でして、ラッコはカリフォルニアにたくさんいたらしいんですが、取り尽くしたんですね。
それで、アメリカ人が目をつけたのが、開港したばかりの函館から近い、日本の北方領土、千島列島です。わんさかラッコがいて、地元のアイヌとかが捕っていたのは、ほんの少しでしたから、猟銃をそろえ、船を仕立てて乗り込めば、おもしろいように捕れたのです。
最初に、カリフォルニアのラッコ猟師が千島列島のラッコに気づいたのは、実際には、明治5年のことなんだそうです。しかし、その前に気づいていたアメリカ人がいたかもしれないじゃないですか。
そういうアメリカ人が函館にいて、船を仕立てる費用を出資してくれたとすれば、鉄砲は五稜郭から持ち出せますし、撃ち手の人数もそろうでしょう。
ラッコ猟で金もうけさせよう! と思いつきまして、そのころよく電話で話していた幕末好きの男性の友人に、延々と、構想を語りました。
「ラッコ姫かいな。やめときいな。ラッコを殺すんは読者に好感もたれへんで」
と彼は言ったものでした。

さて、それを聞いたマフの友人も、言いました。
「ラッコ姫!? やめた方がいいですわ、ラッコを殺すなんて」
「あら、でも、ラッコのマフが流行ってたんですし、だれかが狩らなければ、マフもできませんわよ」
と、私。
「好感度の問題です。こう、北海道なら薄荷なんかのハーブを作るとか、もっとなんかあるでしょう」
えー、開拓農業なんて大変だし、五稜郭を脱出した連中がすぐにもうけられる、という話なんだから、地道な農業、なんてねえ。
と、思いはしたのですが、ラッコ姫は、昔も今も不評です。
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花の都で平仮名ノ説

2005年12月14日 | 幕末東西
えーと、なんといいますかこのブログ、モンブラン伯の情報をお願いする、という最初の目的から、脱線してしまっておりますが、昨日、TBをはらせていただくのでぐぐったり、TBしていただいたりで、いろいろと楽しく読ませていただきましたし、とりあえず国語の話題を幕末へと引っ張ってみることにしました。

以前に書きました1867年、帝政パリでの万国博覧会において、幕府の出品の一環として、民間からも出品者を募ったんですね。
このとき、民間からただ一人話に乗ったのが、江戸の商人、清水卯三郎です。
生まれたのは、武蔵国埼玉郡の豪農の家でしたが、薬種業と造り酒屋も営んでいて、後に江戸の浅草にも店舗をかまえますが、そんな関係から、蘭学に興味を持って学びます。
非常に好奇心が強かったみたいで、ロシアのプチャーチンが下田に来たときには、川路聖謨の臨時の足軽にしてもらって、ロシア人に接触し、ロシア語を学んだりします。その後、英語も学んで、福沢諭吉や、薩摩の松木弘安(寺島宗則)なととも知り合いでした。
薩英戦争のときです。イギリスは、薩摩へ行くのに、文書の通訳に困ったんですね。話し言葉は通訳がいるのですが、薩摩側から文書をよこされた場合、それを読む能力がない。かといって、幕府の役人についてきてもらうわけにもいかず、清水卯三郎ならば、民間人ですし、英語もできて漢文も読める、というわけで、卯三郎は、通訳としてイギリス軍艦に乗ってくれ、と頼まれたのです。

余談になりますが、うちの地方の元回船問屋から出た古文書に、薩英戦争の絵図があります。簡略なもので、部屋に飾ったりするものではなく、情報を伝えるための絵図です。古書店で見かけて、出所を聞いて、写しにしても、もともとの絵はだれが描いたものだったのだろう、鹿児島商人かな、と思ったのですが、あるいは、卯三郎さんかも、しれないですね。

まあ、そんなこんなで、卯三郎さんは薩英戦争を見物し、わざと英艦の捕虜になった松木弘安と五代友厚をかくまったりしたことが、『福翁自伝』に書いてあります。『福翁自伝』は、いうまでもなく福沢諭吉の自伝です。
その卯三郎さんがパリへ行ったのは、もちろん商品の売り込みもあったのでしょうし、一番知られているのは、万博会場に水茶屋を出して芸者を置き、評判になったことなんですが、一方、彼には、近代化のために導入できる機械などを購入する、という目的もあったんですね。活版印刷の機械を買い、そのためのひらがなの字母をつくらせてもいます。この機械は、後に『東京日々新聞』が買ったそうですが。

また余談になりますが、この万博には、後に実業家になった渋沢栄一も参加しています。
渋沢栄一も卯三郎と同じように、関東の富裕郷士の出ですが、攘夷運動であばれていたところ、機会を得て一橋家に雇われ、抜擢されたものです。民間ではなく、幕府の使節団の会計係のような形でして、こちらは、経済運営の面で、いろいろと知識を仕入れることになったようです。
ますます余談ですが、このお方は、パリに渡る直前まで京都にいましたから、新撰組とも接触があり、たしか土方の印象を語り残していたはずです。

で、本論に帰りますと、その卯三郎さんが、です。明治のはじめに『平仮名ノ説』という論文を書いていまして、要するに、「漢字をつかうのをやめて全部平仮名にしてしまおう」という話らしいのですが、実は読んでいませんので、詳しいことはわかりません。
印刷における合理性を考えたのでしょうか。あるいは化学教育の普及のためを考えたのでしょうか。
炭素を「すみね」、水素を「みずね」というような、独特な用語まで作っていたんだそうです。
いま現在の感覚からしますと、そこで大和言葉をもってくるかな、と、不思議な気がします。卯三郎さん自身は、もちろん、漢文の教養も十分に持っていたのです。
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