郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

桐野利秋と龍馬暗殺 前編

2008年02月29日 | 桐野利秋
 とりあえず、おそらく、大政奉還 薩摩歌合戦の続きです。
 最初にお断りしておきますが、私、薩摩陰謀説とか、リアリティの感じられないものはほとんど読んでいませんので、それに対する反論ではありませんので、悪しからず。

 大政奉還と桐野利秋の暗殺にいただいておりますfhさまからのTB、そのころ、ほんとは、左太朗さんは。から以下。

10月17日 高崎左太郎(正風)
小松、西郷、大久保など発京、夕方後藤大東をとふらふ。語ふかして田中の寓にやとる。天気よし。

で、桐野利秋の日記
10月22日
備前藩士青山某の所へ行き、帰りに村田へ寄り、ここより永山、田中氏が同行し、暮に帰邸する。

 この田中が、おそらくは同一人物なんです。
 田中幸介は変名で、中井弘(桜洲)のことです。
 鹿鳴館と伯爵夫人に書きました簡単な人物紹介。

 中井桜洲、桜洲は号で、維新後の名前は中井弘ですが、彼は鹿鳴館の名付け親でした。
薩摩の人ですが、脱藩して江戸に出たところで連れ戻され、また脱藩します。薩摩の気風が、肌にあわなかった人のようです。
二度目の脱藩後、土佐の後藤象二郎と親交を深め、また伊予宇和島藩に雇われて京都で活躍したりするのですが、宇和島藩は薩摩と関係が深かったわけですから、脱藩したといっても、引き立てを得る薩摩の人脈は、あったのではないかと思ってみたり。
後藤象二郎が金を出したといわれるのですが、慶応二年の暮れから渡欧し、パリの万博も見て、簡略ですが、そのときの日記を残しています。

 明治時代に出版されました桐野の伝記の中に、この中井桜洲の回想が出てまいりまして、ちょっといま実物が手元にありませんで、正確ではないんですが、中井の脱藩を一人桐野が見送ったりしていまして、桐野と仲がよかった人なんですね。
 ただ、この人は西郷嫌いです。市来四郎もそうなんですが、桐野はなぜか、西郷嫌いの人々に評価されていたりします。

 パリから帰って来た中井さんは、とりあえず長崎にいて、なにしろ土佐の後藤象二郎の援助で欧州へ行きましたから、後藤の手助けをすることとなります。
 いったい、なぜ後藤が、薩摩脱藩の中井に、洋行の金を出したのかは謎です。
 海援隊には、洋行志願者がいっぱいいますのにね。土佐には古風な攘夷論者が多いですから、脱藩といえども、土佐の人間を洋行させるのに金を出すことが問題だったのか、あるいは、強固だった土佐上士の郷士(土佐勤王党の脱藩者はほとんどそうです)への差別意識に配慮したのか、なにはともあれ中井が気に入ったのか。
 ここらへんは、fhさまのところの方が詳しいかと思うのですが、まあ、そんなわけで、欧州帰りの中井は、坂本龍馬とも知り合い、大政奉還の建白書に手を入れました。(慶応3年6月24日「薩の脱生田中幸助来会、建白書を修正す」と佐々木高行の日記にあります)。
 なにしろ欧州帰りで、薩摩藩留学生たちともお話しして帰ったわけですから。
 ただし、期間が短かったものですから、付け焼き刃だったことは否めませんが。

 で、日記に話をもどしますと、大政奉還の直後です。
 反討幕派の高崎さんは、討幕の密勅をまったく知りません。小松、西郷、大久保の三人が、密勅を奉じて京を発った日、高崎さんは後藤象二郎を訪ねて、おそらく祝杯をあげたのでしょう。語るもつきず、結局、「田中」のところへ泊まります。
後藤と語って泊まったのなら、この「田中」は、薩摩出身の中井であろうと推測されるわけです。

 一方の桐野の日記のこの日の「田中」が中井であるかどうかについては、ちょっと問題があります。
 桐野の日記に最初に「田中」が登場しますのは、9月12日で、田中幸介とフルネームです。この日も田中は永山といっしょで、「田中」は薩摩の永山弥一郎とも親しかった様子なのです。
 永山、桐野は討幕派です。大政奉還建白書に手を加えた中井が親しげに出てくるのは、ちょっとうん?という感じもあるんですが、栗原智久氏は中井であると断じておられます。
 あるいは、土佐脱藩の陸援隊士・田中顕助(光顕)ではないのか? とは、私も思ったんですが、桐野の日記の書き方が、他藩士(脱藩でも)が登場するときには、かならず藩名を書いていまして、「田中」は薩摩藩士のようにあつかわれているんですね。
 それと、田中顕助には、「丁卯日記」という慶応3年6月1日から8月22日までの日記がありまして、薩摩藩士との交流は盛んなんですが、桐野も永山もいっさい名前を見せず、桐野の日記にみられるように、個人的に親しかったとは、とても思えないんです。
 ここは、田中幸介とフルネームが出ているんですし、栗原智久氏の断定が正しかろうと思われます。
 ただ、もう一つ、この日の桐野の日記に中井が出てくるについては、問題があります。

 土佐の京都藩邸にいた重役で、大政奉還の建白書にも署名している神山左多衛の日記に、こうあります。

10月20日条
 長岡謙吉、田中幸輔両人を以て今日出立にて横浜へ指立候事

 つまり、中井は海援隊の長岡とともに、20日に横浜へ出発したことになっているんです。
 なにしに行ったかといいますと、京都土佐藩邸の公費で遊覧旅行です。
 ああ、いえいえ……、表向きは、といいますか、金を出した土佐藩庁は真剣だったみたいですが、イギリス公使館員のアーネスト・サトウに、議会のことなんかあ、教えてくんないかなあ、サトちゃん~♪と、聞きにいったんです。
 で、まずサトちゃんに見せたのが、大政奉還の建白書です。
 それに目を通したサトちゃんは、まず、「これって、体制を変えるつもりはないってことだよねえ」、とつぶやきます。
 議会の開設、教育の普及、条約改正の項目には注目していますが、根本的な変革ではなく、幕府に改革を求めたものとしか、受け取っていないんです。
 そりゃあ、そうでしょう。
 なにしろ、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたが、モンブラン伯爵がパリの地理学会で発表した「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎない」という趣旨の論文をもとに「英国策」を書き、薩摩がパリ万博でなにをしたかも、十分に知っているサトちゃんです。
 さらには、薩摩がモンブランの世話で、これまでにない本格的な軍艦キャンスー(春日丸)を、購入したばかりだということも、知っているんです。
 で、それもそうなんですが、議会の開設を建白しておいて、いまさら外国の公使館を訪ねてきて、「議会ってどんなもん? 教えてくんないかなあ~♪」です。
 なんというあほ!なんでしょう。泥棒をつかまえて縄をなうとは、このことです。
 もっともサトちゃんは、こんな失礼なことはいいません。
 「ぼく、そんなお勉強していないし、こんど開港で大阪へ行くから、ミッドフォードさんに頼んでおいてあげるよ」と、上手に断ります。
 イギリス公使館のミッドフォードは、名門のおぼっちゃんで、パークスやサトウとはクラス(階層)がちがいます。当然、教育環境もちがい、イートンからオックスフォードというエリート教育を受けています。
  まあ、このことは長崎まで伝わったでしょうし、あまりに恥ずかしいですから、そんなこともあって、モンブラン伯の長崎憲法講義で書きましたように、五代は欧州の議会制度や憲法などのモンブラン講義を企画し、土佐の佐々木高行は国許にその講義録を送ったんでしょうね。

 それはともかく、聞きに行った中井と長岡は、どこまで本気だったんでしょうか。
 短期間とはいえ欧州へ渡り、薩摩の留学生たちと親交を持った中井が、ちょっと横浜でサトちゃんから議会を教わろう、と本気で考えたとは、とても思えないんです。
 長岡謙吉は、この旅行で、「握月集」という漢詩集を作っているんですが、その冒頭は「丁卯の秋、予、濃尾に遊ぶ。往還15日」なんです。
 つまり、横浜へ行って来たよ、じゃなくて、濃尾で遊んできたよ、なんです。
 さらに二人が京都へ帰って来たのは、11月12日で、龍馬暗殺の三日前です。
 往還15日ですから、ほんとうに10月20日に京を発ったのかどうかは、疑問なんです。
 妄想をたくましくしますと、神山に多額の旅費をもらったとたんに二人は、一仕事終わったんだしい、金はあるしい、急ぐ旅でもないんだからさあと、京の遊郭にしけこんだんじゃないんでしょうか。

 で、もし、10月22日に中井が京にいたと仮定します。
 桐野は、高崎左太郎が中井の宿に泊まり込んだ10月17日に、密勅を奉じて帰国した小松、西郷、大久保を、伏見まで見送っているんです。密勅のことは、当然中井は知らないわけなのですが、大政奉還の報告に帰国するにしましても、三人そろってとは、尋常ではありません。
  中井が仲良しの永山とともに、桐野の話を聞きに訪ねたとしても、不思議はないんじゃないでしょうか。
  後藤によりそい、反討幕派の高崎正風になつかれていたらしい中井は、しかし一方で桐野に会っている。
  中井は反討幕派なんでしょうか?
  後藤はともかく、海援隊と親しいことは、反討幕派のあかしなんでしょうか。

 つまり、なにが言いたいかと言いますと、後藤が代表する土佐藩庁と、龍馬が率いる海援隊は、ぴったり意志が重なっていたとは、いいがたいのではないか、ということです。
 以下、10月14日、大政奉還のその日、京在海援隊士・岡内俊太郎から、長崎の佐々木三四郎(高行)への手紙です。(宮地佐一郎編「中岡慎太郎全集」より)

 (前略)翌日、才谷(龍馬)、私、中島三人同伴して、白川本邸内に参り、石川清之助(中岡慎太郎)に面会、方今の事情各藩の形事等を聞く。薩長はいよいよ進んで兵力を以て為すの薩論一決し、長藩素より其論一決し、薩長一致協力いよいよ固しとの事に御座候て、下関において聞きたる処寸分違はず、実に愉快なる事に御座候。然る処、御国は象次郎(後藤)もっぱら尽力にて御隠居様の御建言に尽し、石川はもっぱら薩長の間にあって兵力の事に尽し、才谷等私共ぜひ薩長とともにする事の周旋尽力仕り、この際、長岡謙吉はもっぱら筆を採て才谷を助け、才谷は薩長人の間に周旋し、また吾後藤象次郎殿に論議参画し、とにかく御建言は御建言に進め、また薩長の挙兵論は挙兵論に進め(後略)

 くだいて言いますと、こういうことでしょうか。
 京に着いた翌日、龍馬とぼくと中島とで、白川の中岡慎太郎を訪ねて、現在の状況を聞いたんだよ。
 中岡が言うにはね、長州はもちろん以前からそうなんだけど、薩摩もいよいよ挙兵で藩論がまとまったんだって。薩長一致協力で挙兵すると、下関で聞いたこととまったくちがわなかったね。なんて、喜ばしいことだろう。
もっともお国(土佐)じゃ、後藤象次郎が容堂公の大政奉還建言のために尽くしているけどね、中岡は薩長の間に立って兵力のことでいろいろがんばってるし、龍馬と僕はね、ぜひとも土佐を薩長とともに事がなせるよう、ひっぱっていこうとしているよ。で、そのために、長岡は筆で龍馬を助け、ぼくは後藤に入説してるんだけど、まあ大政奉還は大政奉還で進めてね、挙兵は挙兵で進めていこうってことだよ。

 中岡慎太郎は、岩倉具視とひじょうに親しく、討幕挙兵推進論者ですし、討幕の密勅について、知っていた可能性がとても高いのです。この場で、その話はでなかったのでしょうか。
 この日の前日、すでに徳川慶喜は二条城で、大政奉還を発表していたのです。
 ただ、慶喜公がぽんと朝廷に大政奉還したところで、まず朝廷改革からやらなければ、なにごとも前へは進まないのです。
 とりあえず諸侯会議が催されるという話でしたが、いったい、どれだけの諸侯が上洛してくるというのでしょう。
 武力なしには、大政奉還建白書の実現は不可能でしょう。
 だからこそ西郷隆盛は、兵を率いてこなかった後藤象次郎に「土佐はやる気がないのか」と言ったわけです。

 で、この翌月、11月に書かれた坂本龍馬の「新政府綱領八策」。
 1.天下に名の知れた人材を集めて、顧問にしよう
  2.大名の中から有能な人を選んで、朝廷の直臣にして、名前だけの官職は除こうよ
 3.外国との交際を論じなくちゃね
 4.法律を整え、新たに「無窮の大典」(憲法のつもりらしい)がいるね。法律が定まれば、諸侯はみなこれを守って藩士を率いるんだよ
 5.上下議政所(議会のつもりらしい)がいるね
 6.海陸軍局がいるね
 7.近衛兵もいるよね。
 8.金銀の価値を外国とそろえないとね

 これらのことはね、あらかじめ物事のよくわかった二、三人で決めておいて、諸侯が集まったら承認を得ようよ。
 とあって、その後です。
 「○○○自ら盟主と為り、此を以て朝廷に奉り、始て天下萬民に公布云云。強抗非礼、公議に違ふ者は、断然征討す。権門貴族も貸借する事なし」
 ○○○が自ら盟主と為って、これを朝廷に奉ってね、天下萬民に公布して、逆らうものは征討するべきだよ。諸侯貴族だって容赦することないよ。

 「○○○自ら盟主と為り」というこの伏せ字が、これまで、主には慶喜公である、といわれてきたんです。
 以前に書いたことがありますが、容堂公説もあります。
 松浦玲氏は、もともとだれと決めているわけではなく、これを見せられたものが、それぞれに考えればいいように書いたのではないか、というユニークな説でしたが、その後に慶喜公、「大将軍」ではないか、とされました。

 ありえないと思うんです。
 だいたい、なんでここに将軍や諸侯が入るんでしょうか。
 幕藩体制をくずしていこうというときに、それはないでしょう。

 「大名の中から有能な人を選んで、朝廷の直臣にして、名前だけの官職は除こうよ」
 これが朝廷改革、幕藩体制解消の第一歩でなくて、なんなんでしょう。
 そしてこれは、多くの既得権を奪うことでもあるんです。
 武力なくして、どうして成し遂げることができるでしょう。だから、「逆らうものは征討するべきだよ。諸侯貴族だって容赦することないよ」なんです。
 ○○○は、薩長土ではないでしょうか。
 岡内俊太郎が言っていますよね。「才谷等私共ぜひ薩長とともにする事の周旋尽力仕り」と。
 中岡慎太郎にとっても、薩長とともに土佐が立ってくれることこそが悲願です。
 土佐郷士たちは、勤王党を結成して以来、藩内で多くの犠牲者を出し、多くが脱藩し、多くが非命に倒れてきたんです。
 その間、時期こそちがえ、かばってくれたのは薩長でした。
 主に土佐脱藩郷士の集まりである海援隊と陸援隊が、薩長の挙兵を喜ばないはずはないのです。
 討幕がなって、はじめて、彼らは故郷に帰ることができるのです。
 この時期、海援隊、陸援隊は土佐藩の庇護下にありますが、その中心人物である龍馬も慎太郎も、いまだ脱藩者扱いであったことは、二人が暗殺された日の寺村左善の日記でわかります。

 桐野は、元治元年、禁門の変以前から、中岡慎太郎と知り合っていました。
 この年の暮れには、神戸海軍操練所に入塾を希望していたことが、小松帯刀の大久保利通宛書簡に見えます。
 同じ小松の書簡に、龍馬をはじめ、もともとは海軍塾にかかわっていた土佐脱藩者を、薩摩藩で傭う話が見えます。
 有馬藤太の後年の回顧ですが、寺田屋で襲われた龍馬が薩摩の伏見藩邸でかくまわれていたとき、桐野がついていた、という話も見えます。
 慎太郎とも龍馬とも、桐野は親しかったんです。

 慶応3年の秋にも、桐野は二人に会っています。
 
 10月12日 
 土佐脱藩士石川清之助が来訪する。

 11月10日
 山田、竹之内両氏が同行し、散歩するところ、途中にて、土佐脱藩士坂元龍馬に逢う。
 
 そして11月17日、龍馬と慎太郎は維新を目前にして、非命に倒れるのです。

 次回に続きます。

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大政奉還 薩摩歌合戦

2008年02月24日 | 桐野利秋
 えーと、またまた書きかけたものがあったんですが、fhさまからすばらしいTBをいただきましたので、予定を変更しまして。
 大政奉還と桐野利秋の暗殺の続きですが、雰囲気はがらりと変わります。参考文献および引用は、すべて昨日のままで。

 慶応3年9月3日、約束を違え、兵を連れず京へ帰って参られました土佐の後藤象二郎さまは、西郷隆盛さまにお会いになられます。
 「土佐は言論でやるじゃがき!」
 その4日後の7日、西郷さまが後藤さまにお答えになられました。
 「もはや口先ではなりもはん。薩摩は兵を挙げもす」


 翌8日、討幕反対派の高崎左太郎(正風)さまは、仁和寺に参られまして、光格帝のお手紙や御経文なんぞを拝観なさったようでございます。
 氷とけみずぬるむえの水のあや をるやつつみの青柳のいと

 西郷さまが、挙兵に言及なされたのは、6日に国許から歩兵三小隊と一大砲隊が到着いたしましたからでございます。
 桐野利秋さま、このときのお名は中村半次郎さまですが、ともかく筋金入りの討幕派でおられる桐野さまは、7日、8日と上京して来られた旧知の方々と会われ、討幕挙兵が決したことへの喜びをかみしめられたようでございます。
 つつみおく真弓もやがて引しぼり 打はなすべき時は来にけり

 高崎さまは、後に宮中のお歌掛長を勤められ、明治大帝のお気に召されたお方でございますので、この歌合戦、当然のことながら、高崎さまに軍配があがりそうなものでございますが、なにしろ合戦でございますので、お歌の出来のみで勝敗がつくものでもございますまい。






 チェストォォォーッ!!! 行けえーっ!!! 
 この桐野さまの迫力には、引いてしまう………、あー、いえいえいえ………、魅せられるものがございます。
 ところがところが。
 そうは問屋がおろさなかったのでございます。
 後藤さまの口先大政奉還運動は、雅におすごしの高崎さまのお望み通りにうまく運びまして、薩摩さまでは、討幕反対の声が高まります。
 お国元では、ご家老の関山糺さまが、このように言っておられたのだそうでございます。
 「京の連中は長州なんぞに義理立てしもうして、お国を滅ぼすつもりでごわんどか!」
 先に大久保利通さまは、長州に赴かれ、木戸孝允さまなどと、出兵の協議をされておられました。
 ところが、お国元の反対が強いことなどもあり、薩摩さまのさらなるご出兵は、遅れたのでございます。
 機会は失われました。
 そこで、西郷さまや大久保さまは、新たな戦略を練られたのでございます。
 大政奉還の実現を、むしろ好機ととらえよう! 
 大政奉還の後には、名目上のみでも、幕府の諸藩への拘束力は消え失せるのでございます。
 その上で、薩摩の藩論をまとめあげ、本格的に軍勢を出せば、諸藩をなびかせることが容易になる、とでもいうことになりましょうか。
 そこで、討幕の密勅でございます。
 天子さまが、薩摩さまに討幕をお命じになれば、それに逆らうことは朝敵となることで、日ごろ尊皇の志云々と申しております以上、だれも逆らえない、というわけでございます。

 慶応3年10月13日、島津久光公、忠義公に、討幕の密勅がくだりました。
 そのようなことは夢にもご存じのない高崎さまは、大政奉還の行方のみを気にかけておいでです。
 10月13日の高崎さまの日記にはこう書かれております。
 今日諸藩を二条城にめす。我藩小松ぬしいでられぬ

 一方の桐野さまの気がかりは、兵のことばかり。
 密勅工作はさすがに詳しくご存じなかったとみえまして、薩摩さまの出兵が遅れておりましたことに、大政奉還の前になんとかと、焦りを感じておられたようでございます。
 このたび長門の国まで兵士が来たと密に告げに来る。悦びに詠む。
 よろこびも袖の中なるうれしさを やがて人にもつたうなりけり
 

 翌10月14日、徳川将軍慶喜公は、朝廷に大政を奉還されました。
 前日には、慶喜公は諸藩の代表を集められ、そうなさる旨を発表されておられまして、薩摩さまの代表は高崎さまの日記に見られますごとく、小松帯刀さまでございました。
 この日高崎さまは、こう記しておられます。
 朝かへりて小松ぬしを訪、きのうふのこと詳に聞く。よろこびにたへず。

 一方の桐野さまは、昨日にうってかわって、うち沈まれたようでございます。
 まず、「川上仲太郎が今朝発足帰国のこと」とありますので、あるいは川上さまに関係することかとも思われますが、やはりこれは、大政奉還前に挙兵が間にあわなかった衝撃ではありませんでしたでしょうか。
 思うことあって。
 草枕おもうもつらき世の中は ただうたたねの夢にこそあれ
 
 ところがところが。
 その翌日、桐野さまは、心願成就の感触を得られるのでございます。
 10月15日、桐野さまはこうしたためられます。
 西郷氏の所へ行き、御朝議のことを承ったところ、いよいよ将軍は職を退職御免となるなどの御内決であるとのこと。もっとも、ほかに勅書を写し置く。
 桐野さまは、不安をかかえながらも、西郷さまを訪ねられたわけでございますね。
 「西郷(せご)さあ、どげんぐあいでごわんそか?」
 「半次郎どん、心配はいりもはん。こいがありもす」
と、にっこり、討幕の密勅を見せてもらわれたわけでございます。

 チェストォォォーッ!!! 行けえーっ!!! 

 いえ、まあ、それからもいろいろと難しいことはございましたが、小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
 こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。

 本日の最後をしめるのは、これでいかがでございましょうか。Gackt-闇の終焉-紅白歌合戦
 (日本版はあげる片端から消されているようですが、外国の方がまた次々あげてくださってます。美しくも笑えます)


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大政奉還と桐野利秋の暗殺

2008年02月23日 | 桐野利秋
「王政復古―慶応3年12月9日の政変」 (中公新書)
井上 勲
中央公論社

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 中村太郎さまから、昭和10年に発行されました赤松小三郎の伝記「幕末の先覚者 赤松小三郎」のコピーをいただきました。著者は、千野紫々男氏です。
 まだ、まったく他の史料を読み込んでないのですが、とりあえず、桐野が赤松小三郎を斬った理由について、考察してみようと思います。
 王政復古直前、慶応三年の政治状況につきましては、井上勲氏著の「王政復古―慶応3年12月9日の政変」を主に参考にさせていただきまして、赤松小三郎暗殺について、克明に記されました桐野の「京在日記」については、栗原智久氏著「桐野利秋日記」を、参考にさせていただきます。

 薩摩藩首脳部の討幕派が、はっきりと討幕を決意したのは、慶応三年五月、京での四侯(松平春嶽、島津久光、伊達宗城、山内容堂)会議が決裂したからです。
 井上勲氏は、そもそもこの四侯会議の前に、薩摩の策謀で、佐幕派の公卿が退けられた、と推察されています。
 といいますのも、この一月前、イギリス公使ハリー・パークスが、京都への旅行を望み、幕府はそれを拒みましたが、洛中には入らない、という約束で、大阪から伏見を通り、日本海側の敦賀(現福井県)へぬける旅行を許可しました。
 これが尊攘檄派を刺激し、公家たちも多く、怒ったわけですね。
 京都の近くまで、夷人を入れるとは! ということです。
 薩摩藩討幕派はもちろん、積極的開国論でして、幕府を困らせるためにパークスをそそのかした可能性が高いのですが、これを利用します。
 親幕派の廷臣(公家)たちを、罷免させたのですね。
 徳川慶喜は、これに抗議しますが、なにしろ朝廷には攘夷派が多いですし、また前年の暮れの孝明天皇の崩御を受けて、二条斉敬が関白となり、新帝はお若いですし、専横が目立つと、近衛、一条、九条という、かならずしも反幕府ではない摂家の当主たちも、親幕派の廷臣罷免に賛成で、抗議は退けられます。
 それで、いよいよ本格的に四侯会議なのですが、議題は兵庫(神戸)開港と長州処分です。
 四侯はみな、神戸開港には賛成です。その点について、慶喜と、つまりこの場合、幕府と、ということになりますが、意見の相違はありませんでした。
 問題は長州処分です。
 長州藩の全面的な復権を認めるかどうか、なんですが、これで、薩摩藩と慶喜は対立しました。
 薩摩藩は、幕府がただちに長州復権を認めることを求め、慶喜は、長州が許しを請う必要がある、としたわけです。
 結局、会議は決裂し、京の薩摩藩首脳部は討幕を決意します。

 そこへ、土佐の後藤象二郎が持ち込んだのが、大政奉還案です。
 とりあえず薩摩側はそれを承認して、土佐と同盟を結びますが、この時点では、幕府が大政奉還案を呑まないだろうと見込んでのことです。呑まないことで、倒幕の兵を挙げる絶好の機会が生まれると。
 ところが、幕閣の一部が、この案に関心を持ちます。慶喜の信頼が厚い永井尚志です。
 野口武彦氏をして、「永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった」といわしめたお方です。(彼らのいない靖国でも参照)

 まあ、それはいいんですが、さて、島津久光は京都藩邸にいます。
 もしも幕府が大政奉還案を呑むならば、久光が討幕の必要を認めるかどうかは未知数です。
 大政奉還が実現され、薩摩藩内に討幕反対の声が高まれば、討幕を承認しない可能性がありました。
 土佐の山内容堂は、国許に帰っていました。
 7月2日、後藤象二郎は、小松帯刀、大久保利通と会合し、国許へ帰り、容堂候に訴えて、土佐の藩論を大政奉還論に統一し、10日後には、兵力を率いて再び上京することを約束します。大政奉還を幕府に呑ませるために、兵力による圧力が必要となるだろう、ということです。
 これが予定通りにいっていたならば、あるいは、状況は少々変わったものになったかもしれません。
 しかし、後藤象二郎は約束を果たすことができませんでした。
 イカルス号事件の折衝に追われることになってしまったのです。長崎で英国船の水夫が殺され、殺害の疑いが、海援隊にかかったんです。このころの海援隊は、すでに薩摩の手を離れ、土佐藩の組織ですから、それは土佐藩士に嫌疑がかかったことになるわけです。

 どうも、このあたりで、赤松小三郎が活発に動いていたようなのです。
 赤松小三郎は信州上田藩の下級士族の次男に生まれました。
 18歳で江戸へ出て蘭学を学び、帰藩後、赤松家の養子となって、藩の兵制改革に携わります。
 安政2年、長崎でオランダ海軍伝習が行われることとなり、勝海舟、矢田堀鴻に随行して長崎へ行った、というのですが。
 つまり第1期生だということになり、それなら幕臣以外も学んでいますので、私、デジタルライブラリーでオランダ海軍伝習生の名簿を見てみたのですが、赤松小三郎の名はありません。
 だいたい、ほとんどが西日本、九州の雄藩で、上田藩は一人も出してないのです。甲賀源吾と回天丸、そしてwikiでちらりと書いていますが、東日本で伝習生を出しているのは、掛川藩の甲賀源吾の兄さんだけです。
 wiki 甲賀源吾で、これ、私が推測しているんですが、2期以降、他藩からの受け入れはなかったので、甲賀源吾は矢田堀鴻の個人的弟子として、伝習を受けたのではないだろうか、と思うんです。それと同じように、赤松小三郎も、勝海舟か矢田堀鴻あたりの個人的な弟子として、オランダ伝習を受けた可能性はあると思います。
 そうでなければ、まさかこの伝記の筆者、幕臣の赤松大三郎(則良)とまちがえているわけじゃあ、ないですよねえ。勝海日記や伝習所報告書に名前が見える、としているんですけど、いや、たしかめてませんが、少なくともこれは、赤松大三郎のまちがいなのではないかと。
 信州松代藩の佐久間象山とは親交があったようで、勝海舟とのつながりは、こちらから考えた方がよさそうな気がするのですが。

 元治元年、赤松は藩主の共で江戸へ出て、その機会に横浜を訪れ、英語を学んだようです。
 そのときの学友でしょうか、金沢藩士・浅津富之助(南郷茂光)と共同で「英国歩兵練兵」を訳したことで名を挙げました。
 しかし、どうやら藩での待遇が不満で、慶応2年、京都へ出て塾を開きました。
 越前、薩摩、会津、大垣、岡山など、在京の藩が競って藩士を塾へ通わせたようで、条件がよかったのでしょう、私塾はそのままに、赤松は薩摩藩の講師として迎えられます。
 この年の暮れ、赤松には幕府からの誘いがかかるのですが、これを上田藩が拒んで、赤松に帰郷を命じます。藩としては、惜しくなった程度のことだったようなのですが、ここで赤松が幕臣になっていれば、薩摩藩との縁は切れたでしょうし、赤松の功名心もおさまり、悲劇は起こらなかったでしょう。
 
 赤松は帰藩を拒み、幕府から福井藩、会津藩、薩摩藩と、はばびろく人脈があることを活用し、政治活動に乗り出します。
 慶応3年、なぜか会津藩は、赤松の帰藩を止めようと工作していたようです。以下、赤松の兄への書簡から。
 
 慶応3年7月16日
 会藩にてはしきりに止め候て、今諸藩の間に入り一和を謀り候人(赤松自身)を、用もなき国(上田藩)に帰し候てはあいならずと申し候て、幕府へもこの節周旋いたし、また赤座(上田藩京都留守居役)を説き、上田へも公用人より説得書差出候はずにござ候。


 帰藩をうながす兄への言い訳ともとれるのですが、会津藩が、赤松を「一和を謀り候人」と見ていたことがわかります。
 会津藩もけっして一枚岩ではないのですが、この春、長らく蝦夷へ左遷されていた秋月悌次郎が、京へ復帰しています。いうまでもなく秋月悌次郎は、薩摩の高崎正風とともに、8・18クーデターをなしとげた人です。
 つまり、会津藩の中にも、薩摩と「一和を謀る」勢力ができていたことになります。
 しかも、時期が時期です。
 後藤象二郎が約束した10日間は過ぎ、土佐の大政奉還案がどうなったものか、関係者が気をもみはじめたころでしょう。もちろん、永井尚志も。
 続いて、また兄への手紙から。

 8月17日
 この節、小生は薩幕一和の端を開候事につき、薩西郷吉之助え談合し、幕の方は会津公用人にて談じ始め居申候。小生は梅澤孫太郎、永井玄蕃(尚志)え説く、少しは成りもうすべく見込に候。

 会津公用人と西郷隆盛に、なにを話したんでしょうか。
 後藤象二郎の約束からすでに一ヶ月。
 薩摩藩討幕派(中心は西郷、大久保、小松帯刀です)にとっては、困った存在になってきていたはずです。
 といいますのも、いくどか書きましたが、薩摩藩も一枚岩ではないからです。
 当時、京都にいた討幕反対派としては、高崎正風をあげることができるでしょう。
 高崎正風は歌人ですから、公卿たちのもとへ個人的に出入りできますし、久光公のお気に入りでもあります。そして、会津の秋月悌次郎との縁もあり、もしも高崎正風が、赤松小三郎を久光公に面会させて、薩摩が挙兵することの不利を並べて、薩幕一和を説かせたとしたら、兵術家としての信頼を得ているだけに、耳を傾ける可能性は高いでしょう。

 慶応3年9月2日、後藤象二郎は大阪へ着きました。
 翌日、西郷と会います。
 後藤象二郎は、兵を連れてきていませんでした。容堂公が許さなかったのです。
 土佐の兵が上京していたならば、幕府が大政奉還案を呑む前に薩長が挙兵すれば、その勢いで土佐も引きずりこめる可能性は高いのです。土佐もまた一枚岩ではなく、討幕派も多いのですから。
 しかし、兵を連れてきていないとなると。

 桐野が赤松小三郎を斬ったのは、この日、9月3日です。
 単独ではありません。田代五郎左ェ門とともに、ですが、あと三人を饅頭屋に待たせておいて、ということで、あるいは、桐野と田代が失敗した場合の控え、と考えることができます。
 桐野の日記で、暗殺理由は「探索におよんだところ佐幕派奸賊で、将軍にも拝謁している」、つまり、工作をしている、ということです。
 しかし奸賊状には、「西洋を旨とし、皇国の御趣意を失い」とのみしたため、攘夷派の仕業に見せかけています。
 これは、どう考えてみても、薩摩藩討幕派首脳部との連携でしょう。

 この3日後の朝彦親王日記に、赤松暗殺のことが見えます。
 朝彦親王とは、青蓮院宮。8.18クーデターの中心人物で、佐幕派です。
 もともとは、薩摩藩と良好な関係だったのですが、薩摩が長州よりに大きく舵をきって以降、一会桑政権との連携を深めてきたお方です。

 慶応3年9月6日
 深井半右衛門参る。過日東洞院通五条付近にて薩人キリ死これあり候風聞のところ、右人体は信州上田藩洋学者赤松小三郎と申す者のよし、右人体天誅をくわえ候よし書きつけこれあり候。
 もっとも○十印、よほどこのころなにか計これあるべくか内情難斗よし、よほど苦心の次第仍摂公へもって封中申入る。もっとも秋月悌次郎へ申し入る。

 やはり、どうも、秋月悌次郎がかかわっていた可能性が高まります。
 そして、高崎正風の日記。(fhさまのご厚意です)

9月29日条。
朝、小松を叩、秋月(会)堀(柳河)を訪、後、大野と村山に行。


 やはり、秋月悌次郎に会っています。
 ふう、びっくりしたー白虎隊でも書きましたが、後年、秋月が熊本の第五高等中学校で漢文を教えていたところへ、高崎正風がたずねて来ます。8.18クーデターから30年数年の後、二人は終夜酒を酌み交わし、秋月は翌日の授業の準備も忘れるのです。
 私、なにかこう、ですね、中村彰彦氏の小説に出てくるように、慶応三年の高崎が、秋月に冷たくて、居留守を使うような状態であれば、このときの会合が、それほど秋月にとって、心に響くものとはならなかったと思うのです。
 クーデターを成功させた二人が、時勢の変化をかみしめ、それでもなんとかならないものかとあがいてみた、そんな共通の体験があったのではないでしょうか。

 美少年と香水は桐野のお友達でご紹介しましたfhさまのブログ。
 11月17日、高崎正風は「赤松某の碑文」を手配しています。「薩摩受業門生謹識」、つまり薩摩藩受講生一同の名義で、赤松小三郎を悼んだのは、反討幕派の高崎正風だったのです。


 そして、一夕夢迷、東海の雲に出てきました、秋月悌次郎がその晩年、西郷隆盛の墓に参った時の詩。

 生きて相逢わず、死して相弔す 足音よく九泉に達するや否や
 鞭を挙げて一笑す、敗余の兵 亦これ行軍、薩州に入る

 8.18クーデターのとき、西郷は島流しの憂き目にあっていました。
 西郷が京に復帰し、秋月は蝦夷に左遷。
 そして慶応三年、久しぶりに京へ復帰した秋月の前に、薩摩藩討幕派の中心人物として、西郷が影を落としたのです。
 秋月は、西郷に会おうとしたのではないでしょうか。
 西郷隆盛を動かすことができれば、薩会の和合はなると。赤松もそう思ったのですから。
 しかし、西郷は拒んだでしょう。もはや、遅すぎたのです。
 そう考えたとき、「生きて相逢わず」の言葉は、より深い響きをもつのではないでしょうか。

 幕末、人はそれぞれの信念を持って、それぞれに命をかけて、生きていました。
 桐野利秋は、元治元年の春、薩摩藩が汽船を沈められて長州と敵対していたころから、長州よりの志士と気心をかよわせていた筋金入りの討幕派です。
 高杉晋作とともに、中岡慎太郎が久光公暗殺を考えていたころ、その中岡と会って、中岡たちから「正義の趣」といわれているんです。
 翌慶応元年には、やはり土佐の土方久元をして、「この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と言わしめています。
 そして桐野は、同志の多くの死を、見つめてきました。
 自らの信念に基づき、薩摩藩討幕派首脳部と連携して行ったこの暗殺を、桐野が後悔することはなかったと、私は思います。

 レクイエムは再びこれを。SleepingSun Live-Nightwish(YouTuve)



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モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟

2008年02月21日 | モンブラン伯爵
えー、別のものを書きかけていたのですが、いつものfhさまが「木戸孝允日記」を調べてくださいまして、おもしろかったので、予定を変えました。

 鳥羽伏見の戦い直後、生まれたばかりの新政府の外交顧問として、フランスのロッシュ公使懐柔に活躍しましたモンブラン伯爵は、慶応4年(明治元年)2月10日(旧暦です)、パリ駐在日本総領事に任じられます。
 幕府がフリューリ・エラールを任じていましたので、それに代えて、ということです。
 モンブランは、公使になりたかったようで、とりあえず欧州どころではなかった新政府は、別に公使に任じてもよかったようなのですが、フランス人が日本を代表する公使となることを、フランス側が認めなかったといいます。

 モンブラン伯爵が、薩摩の前田正名(20歳)を秘書役として伴い、離日しましたのは、翌明治2年11月24日です。
 で、これまでも何度か書いてまいりましたように、正名くんがモンブランと渡仏しましたのは、わりに知られた話であったわけです。
 ところが、宮永孝氏の「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(CiNNiで読めます)によりますと、1869年12月30日付「ザ・ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メイル」紙のラブールドネ号乗客名簿には、Ch. de Montblanc(シャルル・ド・モンブラン)の名前と共に、以下のマルセーユ行き日本人の名が。

 Mihori Koszke  Maheda  Kohan

 Mahedaはまちがいなく前田正名です。
 Kohanがだれなのかは、さっぱりわかりません。
 いや、私は妄想たくましく、モンブランが伴った女かも、と思ったりします。

追記
 宮永孝氏の論文では、Maheda(マエダ)とKohanを行替えして書いておられたので、別人だと思いこんだのですが、fhさまのご指摘で、Kohanは弘安ではないかと。前田正名の家は医者で、弘安という名をもっています。
 原文がどうなっているのかわからないのですが、続いているなら、ご指摘ごもっともです。

 で、驚いたのはMihori Koszkeです。御堀耕助(大田市之進)じゃありませんか!

 乃木希典の従兄弟です。以下、「明治維新人名辞典」(日本歴史学会編)より、まとめてみました。

 天保12年(1841)生まれです。桐野より三つ年下ですね。しかしこの渡欧のとき、数えでは30歳ですか。
 18歳のとき江戸に出て、斉藤弥九朗に剣を学び、塾長になったそうで、木戸孝允の後輩です。
 長州へ帰国後、世子の小姓になり、40石。中級藩士です。
 文久3年、8.18クーデターにより、大和の天誅組が瓦解するんですが、担がれていた中山忠光卿は逃亡に成功し、長州へ逃れます。(続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)
 そのとき、大阪の長州藩邸に忠光卿を迎え、長州まで共をして無事逃れさせたのが、御堀です。
 禁門の変では、大垣藩兵と果敢に戦い、部分的勝利。
 帰国後は四国連合艦隊との戦いに参加し、和議がなって後、山田市之丞、品川弥二郎たちとともに御盾隊を編成して、総督となります。
 幕長戦争では、芸州口で活躍し、参政(長州藩)となります。
 参政となったためなのか、体を悪くしていたからなのか、戊辰戦争では戦っていないようです。

 で、fhさまのご厚意による木戸孝允の日記から、御堀さん渡欧の経緯を追います。

明治2年4月19日条
(略)夜半井上聞多山県狂介より書翰来る狂介弥西洋行に決し御堀耕助亦西洋に至ると云(略)

 この日夜になって、京都にいた木戸さんは、井上聞多と山県狂介から手紙をもらってます。
 内容は、山県と御堀耕助が洋行することになったと。
 
明治2年10月7日条
(略)御堀は香港に至得病不得止帰国不日再行の論あり(略)

 御堀耕助は香港まで行ったけれども、病気になって帰国した。もう一度渡欧させたら、という話があったと。
 おそらくは山県といっしょに渡欧しかかったんですけど、途中で病気になって、引き返したんすね。

明治2年10月17日条
(略)十字大久保を訪ひ談論数時二字頃相去る上国への書状を認大久保へは御堀西洋行の事件に付余屡談于彼(略)

 木戸さん、大久保さあに、御堀の洋行を頼んだんですね。
 えーと、そうなれば当然、大久保さあがモンブラン伯爵に御堀の同行を頼んだことになりますが、fhさまによれば、大久保日記には、なあーんにも、まったく、書いてないんだそうです。

明治2年11月6日条
今日御堀別杯の約あり築地より舟を泛へ芳梅と深川平清楼に至る(略)
亦築地に至り一泊す今宵御堀を送るの一巻を認む余長風万里の四大字を題す又其巻中へ戯に口に任せて
欧羅巴洲何物ぞ我只朝寝をしたり睡足今将起少女と小児たもとヽすそにからむ嗚呼
此出たらめを認めり酔中の一興なり(略)

御堀さんとのお別れに、築地から舟で料亭をはしごした、と。
その夜は築地に泊まります。おそらく、築地ホテルですね。
もしかすると、たしか、築地ホテルにはモンブラン伯爵がいたはずです。
御堀さんへ送別の巻物を贈ろうと、えー、どうもみんなでお別れの寄せ書きなんかしたみたいなんですが、木戸さんが、その寄せ書きに、「長風万里」と題を書いたんですね。
 長州の風が万里を渡る、でいいんでしょうか。すみません。笑えます。
 で、その巻物の中には、酔いの戯れにこう書きました。
「ヨーロッパなんぞどれほどのもんだい! ぼくなんか朝寝をして寝足り、いま起きたとこだけど、少女と子供がたもとと裾にからんじゃってさあ」
 あら、「三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい」を意識したみたいな戯れ言ですね。
 三千世界の鴉を殺しでは、長州志士作という仮託だろう、と書いたんですが、そういう仮託は幕末からあったのか、あるいは長州志士が好んで歌ったか、あるいはほんとうにその中のだれかが作ったか、かもしれないですね。
 「やっと三千世界の鴉を殺して朝寝ができたのに、起きてみたら少女や子供がまつわりついてきてさあ、やってられないぜ。その苦労にくらべれば、ヨーロッパへ行くことなんぞ、どれほどのもんだい! がんばれ!」
 ああ、ねえ。ほんとうに木戸さんは、老婆のような。洋行のはなむけに、なにもグチらなくても(笑)
 私以前から、明治維新以降の木戸さんは「青筋たてて一人で苦労しているようなふりをしているお方」と思ってまして。
 で、「少女と子供」って、だれ、あるいはなに、のことなんすかねえ?

 fhさまによれば、老婆のような木戸さんは、11月8日から18日まで横浜に滞在しまして、御堀耕助は、12日に横浜入り。
 木戸さんは連日、御堀耕助に会っているんだそうです。
 そして話はとびまして、翌年。

明治3年8月3日条
伊藤両井上等来訪御堀山県西洋より帰り山県来り泊す彼地の近情を聞(略)

 ヨーロッパから帰ってきた御堀と山県の話を、伊藤博文や井上聞多とともに聞いた、ですね。
 どうやら二人は、普仏戦争が始まる前に、ヨーロッパを発ったようですね。
 大久保日記によれば、西郷従道も、8月2日に大久保に帰朝の挨拶をしているそうです。

明治3年9月14日条
(略)西郷真吾の此度欧洲より帰る其益甚多し余去年山県狂介御堀耕助等を欧洲行せしめんと周旋せし時西郷も亦同此行の事を謀今日不図彼我とも其益不少是又国家に関係せり(略)

 西郷真吾(従道)は、ぼくが山県と御堀をヨーロッパに行かせようとしたとき、いっしょにどうか、と勧めたんだけど、おかげでいい子になってるじゃん。これって、国家の利益だよ。
 って、とこですかね。
 よくこれ、木戸が「攘夷論」の山県、西郷を欧州に送り出して、西洋に目覚めさせた、とかいわれる話じゃないですかね。
 山県は知りませんが、西郷従道に関しては、ありえんですわ。
 ただ、兵制に関して言えば、大久保は海軍重視で陸軍はとりあえず志願兵制で小規模に、って論ですね。
 一方の長州は、陸軍重視で、徴兵制をめざしてます。
 どうも、このときの山県、西郷、御堀の渡欧は、長州藩がフランス兵制を採ったことと関係するみたいで、イギリスを重視してないようなんですね。
 薩摩藩は陸軍もイギリス兵制をとっていて、イギリス陸軍は志願制です。
 西郷従道も、美々しい大陸陸軍を見て、どうやら「長風」になびいたようですね。
 ああ、松島剛蔵が生きていたら! と、明治初年の兵制論争を見るたびに思うんです。
 松島剛蔵が無理なら、高杉晋作でも。(高杉晋作「宇宙の間に生く」と叫んで海軍に挫折参照)
 だいたい、日本は島国なんですから、とりあえず、予算のないときに、大陸陸軍を見習って、徴兵制で陸軍をふくらませて、莫大な金額をかけるって、どうなんでしょ。それよりもまず、海軍でしょう。

 まあ、それはそれとしまして、木戸さんの言っていることが薩長融和ならば、その通りだったかもしれません。
 帰国しました御堀耕助は、薩摩藩で療養したみたいです。
 このときには、すでにイギリス人医師ウィリスが薩摩藩に傭われ、鹿児島で病院を開いていましたから、病気の治療を受けたんでしょうね。
 しかし、そのかいもなく、翌明治4年5月、長州の三田尻に帰り着いてまもなく、病死します。

 幕末の動乱を戦いぬいて、モンブラン伯爵とともに欧州に渡り、死を目前にした日々を薩摩ですごし、故郷で死ぬ。
 御堀耕助へのレクイエムは、趣味で、これを。Sleeping Sun -Night wish(You Tube)


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町田清蔵くんとパリス中尉

2008年02月19日 | 幕末留学
「フランス艦長の見た堺事件」
ベルガス・デュ プティ・トゥアール
新人物往来社

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 以前にも書いたと思うのですが、鳥羽・伏見の戦いは、兵庫(神戸)・大阪開港と近接してまして、各国公使団の見守る中で、行われました。
 ああ、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1ですね。
 ほんとうは、この話も、モンブランシリーズで順を追って詳しく書くはずだったんです。
 鳥羽・伏見の直後、発足したばかりの京都政権が直面した異人殺傷事件は、京都へ向かっていた備前藩の戦列が神戸で発砲した神戸事件にはじまり、それがなんとか解決しかかったかと思うまもなく、堺港攘夷事件と続きます。
 この堺港攘夷事件、堺港で測量をしていたフランス軍艦の乗組員が、外国人に遊歩許可が出ていた堺に上陸しましたところが、堺警備の土佐藩兵が発砲し、11人のフランス人を撃ち殺した、という事件でして、神戸事件には死者がなく、発砲命令責任者一人の切腹ですみましたのに、11人の死者という異例の事態に、フランスだけではなく、各国公使が態度を硬化させ、「殺害者を処分しろ」という話になりまして、結論だけ言いますと、11人の土佐藩士が切腹したんです。
 殺されたフランス人の水兵さんたちも気の毒ですが、土佐の兵隊さんも、発砲命令を出した隊長級以外は軽輩だったそうで、命令に従っただけですのに、気の毒です。
 まあ、これは改めて詳しく取り上げたいと思いまして、といいますのも、この事件の一級史料の一つである伊達宗城の「御手帳留」が刊行されていませんで、容易に読めないんです。
 いずれ、宇和島へ出かけて見てくるつもりでいます。
 ともかく、事件の後始末にはモンブラン伯爵がかかわっていますし、私、思いますに、大正のはじめ、森鴎外がこの事件を取り上げて、攘夷気分を盛り上げる小説にしまして、こう、幕末維新期のフランスが卑怯な悪鬼であるような見解がひろまり、モンブラン山師伝説にも影響したんじゃないんでしょうか。

 で、今回取り上げます「フランス艦長の見た堺事件」の著者、ベルガス・デュ プティ・トゥアール艦長は、まさに堺事件の渦中の人で、彼が艦長を務めるデュプレクス号の乗組員が殺され、彼は土佐藩士の切腹に立ち会いました。
 と、いいましても、今回はこの本に付録として載っておりますパリス中尉の手記の方の話題で、中尉こそがその測量船の指揮をとっていたのですが、手記の方は、事件の直後、明治天皇に謁見しますロッシュ公使と艦長たちのお供として、中尉が京都を訪れましたときのお話です。

 これもいずれ詳しく書くつもりですが、薩摩藩は、鳥羽伏見の戦いの前から、周到に外交準備をしていました。
 五代友厚、寺島宗則とともにモンブラン伯爵をひそませていて、ただちに各国公使に新政府を認めさせる布石を打っていたのです。
 にもかかわらず、次々と事件が起こってしまったのは、なぜなんでしょうか。
 私、外国人に対する薩摩藩内と他藩の感覚が、ちがいすぎたのではないか、と思うのですね。
 いつものfhさまのこれ。
 すみません。うちこみがめんどうなので、リンクさせていただきます。
 慶応3年の話です。いつの時点かは、ちょっとわかりません。
 忠義公史料の編者は、5月頃と思っていたようですが、モンブランが連れてきたフランス人たちが入り込んでいるとすれば、おそらく11月ころです。
 薩摩の隣国、熊本の横井小楠は、「薩摩には外人が数人入っているし、薩摩藩の若いのはたいてい洋服を着て、ざんぎり頭だよ」と言っています。
 そして、慶応3年の7月30日には、小松帯刀など家老の名前で、薩摩藩内にお触れが出ています。
 「わが藩では、西洋各国の事情がわかり、学問や技術を日々新たにしているわけだが、西洋のうわべばかりに気をとられていては、国を盛り立てる道を失ってしまう。いいところは取り入れても、わが日本の本質は見失わないように」
 
 はい、そうなんです。
 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、慶応2年(1866)の9月には、イギリス公使パークスが薩摩を訪れまして、それ以降、イギリスの軍艦が再び鹿児島湾へ入ったりしておりますし、グラバーの世話で紡績工場ができ、イギリス人が常時滞在するようにもなりました。
 で、英国留学生も、次々に帰ってきております。
 私、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2で、書きたかったんですけど、長くなりすぎたので、省いたエピソードがあります。

 私の愛する清蔵くんは、巴里のリヨン駅で、下宿のお嬢さんと涙ながらに別れ、豪華客船でオランダ海軍一家の少年と親友になり、大金を持って長崎に帰り着いて、薩摩藩長崎留学生に丸山遊郭へつれていかれて、おごらされます。
 これではいけない、というので、薩摩へ帰ることになったのですが、薩摩藩領の阿久根までは船で、そこから騎馬です。

 私は洋服で腰に六連発のピストルを帯し、馬上にて岩崎は籠にて出立しました。

 えーと、なにしろ清蔵くんは名門のおぼっちゃまですから、「岩崎」はお供なんですが、お供が籠で、清蔵くんは馬だったようです。


 しかるに途中、長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途にて、私が洋服にて無刀であり、其の時までは攘夷論者のおる時ですから、其の武士が抜刀して私を切らむ姿勢で向ひましたから、私は残念で泣きながら腰の六連発のピストルを差し向け、切らは切れわれはピストルでいると云ふかまえへにて、「自分は大守様の命により先年英国に留学し、今帰藩の途中、清水兼二郎、本名町田清次郎という、大目付町田民部(久成にいさんです)が実弟なり。何故あって我を切らんとせらるるや、御名前をうかがひ大守様へ言上する考」と言うに、向こうの勢一変し、無言にて一散に走りましたから、私は実に残念で跡を追ひましたが、追いつかず、伊集院というところにきますと、私の兄の用達を勤むる藩士で、大脇正之助という者と出会いまして、右の始末を語り「ぜひ右の武士の名前を調べてくれ」と申しますと、「それはおだやかに見のがした方がよろし」と言うて、それより跡先に大脇と岩崎との間にはさまれ鹿児島城下に着し、一家親族の見舞やら親族に呼はるやら五六日は席の暖まる間もなき事にて、それから親が志布志というところの地頭所に打ち立ちましたが、このときは慶応四年にて奥州征伐戦中にてありました。

 どうもその、清蔵くんの帰国後の話には、えらく時間の短縮があるようでして、清蔵くんが長崎へ帰りつきましたのは、慶応2年 の秋ころのはずなんですが、突然、慶応4年(明治元年)の夏に話がとびます。
 このまま年代を信じますと、清蔵くんは帰国後2年間長崎にいたことになり、当然、慶応三年の秋に来日したモンブランには長崎で会っていた、ということになります。
 そして、「長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途」というのは、戊辰戦争の出兵から帰って来た兵隊たち、ということになるんですが、九州内の薩摩の出兵は、たしか郷士隊だったはずなので、田舎の兵隊さんがよそへ行っていて帰ってきてみたら、「異国人が内陸にまで入ってきてら、許せん」とでもいうことだったんでしょうか。
 それにしても、「斬ってやれ!」と迫ってみたら、「ぼくをだれだと思っているんだあ!!!」と叫ばれて、自藩の名門のおぼっちゃまでは、やってられませんね。
 清蔵くんはともかく、他の留学生は、維新前に鹿児島城下に帰っていた者もあったはずですし、fhさまのおっしゃるように、清蔵くんみたいに洋装で帰ったものも、きっといたはずです。

 そして、これも後年の回顧なんですが、有馬藤太の「維新史の片鱗」から。

 29歳のとき、すなはち慶応元年磯御邸紡績所開設につき、教師の英国人監督の命令を受けた。
 攘夷家をもって自任している私には、非常な苦痛であった。
 知るも知らぬも皆、「藤太どんな夷人の共をして歩く」とそしったもので、私もこれには誠にツライ思いをしたけれども、いったん拝命の上は私自身でこの英人を斬るようなことはできない。
 また一方においては、攘夷論の張本人と目さるるほどの私が、おとなしく監督してがんばってる以上、何人たりとも手出しは出来ぬ。藩ではそこを見てとって、わざと私に監督を命じたのだ。

 紡績所開設は、慶応2年か3年のはずで、ちょっと時期が早いですし、こう、話をおもしろおかしくしているようなところがあるんですが、少なくとも鹿児島城下では、「攘夷家」も慣らされていった様子は、うかがえます。
 で、慶応3年には、「あんまり西洋のまねばかりしないように」とお触れを出すような状態ですから、異人と見れば発砲をためらわない、というような他藩の状態は、五代友厚をはじめ、寺島宗則にも、小松帯刀にも大久保利通にも西郷隆盛にも、ちょっと想定できずらかったのではないか、と思ったりします。

 で、ようやく、土佐藩兵の攻撃を受けたパリス中尉です。
 パリス提督のおぼっちゃま、若きフランス海軍中尉の手記は、なかなかに詳細で、おもしろいものです。
 なにしろ、堺事件の直後です。
 もっとも襲われる危険の高いフランス公使一行を、薩摩藩が引き受けます。
 これは、一つには、薩摩藩の京都二本松藩邸(相国寺と現同志社大学構内を含む)が広大で、御所に近接していたことと、またモンブラン伯爵がロッシュ公使を説得して、帝への謁見を承知させたらしいこと、そしてもちろん、薩摩藩兵が守護している異人に手を出す命知らずも少なかろう、ということもあったでしょう。
 で、現実には土佐が引き受けていたイギリス公使が襲われてしまったわけなのですが、それはまた別の機会に。

 パリス中尉は、謁見ができるわけではありませんで、ロッシュ公使と艦長二人のお供です。
 どうも京都は、禁門の変の打撃から立ち直っていなかったようでして、大阪にくらべると、ずいぶんさびれた感じであったようです。
 二本松藩邸で一行を迎えたのは、モンブラン伯爵です。洋食も準備されていたりします。
 パリス中尉一行は、40人の水兵を連れていたのですが、午前中、水兵たちが訓練をしていましたところが、薩摩の老練な司令官(吉井友実のことじゃないか、と思われます)がそれを見ていて、薩摩侯(島津忠義)に感想を話したらしいのですね。
薩摩候は、「演習を見せてくれ」と所望。

 そこで、狙撃兵の演習が展開された。
 薩摩候は、細心の注意を払ってそれを見守っていたのであるが、このことを他の大名たちに魅力たっぷりに話して聞かせたらしく、その翌日、長門候(毛利敬親)および数人の諸侯が居並ぶ前で、同じことをくりかえさねばならなくなった。

 軍事熱心なのは諸侯だけじゃありませんで、パリス中尉によれば、二ヶ月前から「肥前候の所有する日本のコルベット艦」が、パリス中尉が乗り組んでいましたデュプレクス号の近くに投錨していまして、肥前、つまり佐賀のコルベット艦の将校たちは、毎日のようにデュプレクス号を訪れ、そこで行われることを観察しては、そっくりそれをまねして、「大砲と機動作戦の訓練」をやりこなしたんだそうです。
 私、佐賀の中牟田倉之助(この人も長崎オランダ海軍伝習を受けた人です)が、幕府海軍がすでに軍艦として使っていなかった朝暘丸を使いこなし(幕府海軍は役に立たないと思ったから官軍にひきわたしたわけでして)、函館戦争で活躍したことを不思議に思っていたのですが、まあ、そういうようなわけだったみたいです。もっとも朝暘丸は、佐賀がもっていた電流丸と同型で、勝手がわかっていたこともあったでしょうけれど。(朝陽丸wiki参照・私が書いた部分が多いのですが)
 で、パリス中尉に話をもどしますが、清蔵くん、帰国して、長崎にずっといたのでしょうか?
 モンブラン伯の長崎憲法講義で書きましたように、長崎で、清蔵くんがモンブランに会わない方がおかしいわけです。
 そして、慶応4年(明治元年)の5月ころまで、中村博愛はパリにいましたから、モンブランが、生まれたばかりの明治新政府外交顧問となっていましたこの時もやはり、日本にいた薩摩藩フランス留学経験者は、朝倉と清蔵くんのみで、朝倉省吾はこのとき、モンブランの通訳についていた証拠があります。
 清蔵くんも、京都でモンブランの手伝いをしていておかしくないかと、思ったりするんです。で、以下。

 われわれの京都での滞在の残りの二日間は、買い物や見物に充てられた。
 また、われわれを持て成してくれた人々とより広く知り合うこともできた。
 あの老練な司令官に加えて、いつもわれわれと一緒にいた若い将校がその一人であるが、私が今まで出会った日本人の中で、彼はもっともヨーロッパ化された男で、ワイシャツを着、付け外しできるカラーを付け、フロックコートを羽織っていたのである。
 下着類を使用するなどということは、彼の同郷人らには思いもつかぬことだった。金のある連中は、頻繁に衣服を取り替え、古くなったものは捨て去るが、そうでない連中は、いつまでも同じ服を着続け、自分の体を頻繁に洗うことによって、洗濯不足を補っているのである。

 この身だしなみのいい「若い将校」が、清蔵くん以外のだれだというのでしょう?(笑)

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揚州周延と桐野利秋

2008年02月17日 | 桐野利秋
  

 揚州(橋本)周延の錦絵「幻燈写真競 洋行」と「千代田之大奥 歌合」です。
双方とも、オリジナルプリントを持っています。
 周延は開化ものを得意とした明治の浮世絵師で、鹿鳴館風俗、というんでしょうか、バッスルスタイルの洋装の貴婦人の錦絵は、大方、この人の作です。
 明治の宮廷行事などもけっこう画題にしていまして、憲法と天皇のはざまに出しました憲法発布の錦絵も、周延のものです。
 私、この他にも周延の開化ものを持っていますが、「幻燈写真競 洋行」は、ネットで見かけてとても気に入り、神田古書街のお店に電話をかけて捜しまして、かなりな代金を払って、手に入れたものです。憲法発布の方は、安価に手に入りました。
 一方、周延は、幕府御家人の出身だといわれていまして、千代田之大奥シリーズも代表作で、こちらは残った数が多いのか、比較的安価に手に入ります。この歌合は三枚組で、三枚とも持っていますが、とりあえず右端のみをあげました。
 大奥シリーズは、最後のお立ち退きが夜の風景で、これも気に入って手にいれたのですが、えーと、私のスキャナーでは取り込めませんで、まだ、取り込みを頼んでなくって、あげることができません。
 状態や刷りをあまり気にしなければ、周延の錦絵は、ヤフー・オークションでけっこう安価に手に入るものがあります。

 で、です。本日、桐野ファンの先輩、中村太郎さまから、いろいろと資料を送っていただきましたところが、なんと、その周延と桐野が、上野の戦争で出会っていた、という記事があったんです!

 歴史読本昭和52年5月、渡辺慶一氏著の随筆です。
 周延が上野の戦争で幕府側にいて、有名な浮世絵師だと知った桐野が助けた、というんですが、うーん。どうなんでしょう。
 だいたい、私の持っております周延の錦絵は、全部明治20年代のもので、開化絵が20年代の前半、大奥が20年代後半、なんです。オークションで見かけた宮廷画で、明治10年代のものがあったようには記憶しているのですが、明治20年代が全盛期なんじゃないんでしょうか。
 御家人という話は聞いていましたし、周延が上野のお山に籠もっていても不思議はないんですが、当時から浮世絵師として活躍していた、というのが、ちょっと腑に落ちないんですけれども。
 貧乏御家人で浮世絵師、というのは、けっして珍しくないですし、たしかに明治以前から浮世絵師であってもおかしくはないのですが、ひっかかるのは、名前が知れていた、というところです。
 瓦解で禄を失い、本格的に浮世絵師として活動を始めたものだ、と、私は思いこんでいました。
 だいたい、周延が桐野と同じ天保9年(1838)生まれとは! もっと若いのかと勘違いを。

 この随筆によりますと、周延は御家人ではなく、越後高田藩(藩主は榊原家)の江戸屋敷詰め下級藩士(八石二人扶持)だったんだそうです。
 はじめは歌川国芳および二代目豊国に絵を学び、22、3歳ですでに、独立した版画家となり、一鶴斎または二代芳鶴と号したんだそうで、いや、22、3歳ならば、安政5、6年あたりで、安政の大獄のころ、ということになりますねえ。
 さらに豊原国周に師事して門弟中第一とうたわれるようになり、周延と称し、陽洲または陽洲斎と号して、どんどん大奥風俗絵を出した、とあるんですが、いや、大奥風俗絵ねえ。
 明治になるまで、大奥もそうなんですが、徳川家のことを、直接描くことはできなかったはずです。
 皇妹和宮さまの江戸お輿入れを、狐の嫁入りとして描いた錦絵がありまして(欲しいんですけど)、まあ、そういう風に、なにかに例えて描くならあり、でして、もしほんとうに幕末から大奥風俗を描いていたのだとしましたら、「偽紫田舎源氏」みたいに、足利将軍家の大奥、とでもして描いたんでしょうか。
 それで、「一説によれば、彼は濃艶な美人画ばかり描くので、朱子学を藩学とする藩侯に嫌われて、幕府の御家人に追いやられたが、これがかえって彼の画筆に幸運であったという」なのだそうです。

 さて、周延数えの30歳、幕府が瓦解します。
 高田藩主榊原政敬は、恭順を決し、長岡城の攻撃に官軍の先導を命ぜられて従軍。
 ああ、これは確か、越後口の長州の山縣有朋が、盟友・時山直八の戦死に呆然として、ものの役に立たないので、薩摩の黒田清隆と吉井友実が高田藩懐柔をはかって成功した、って話だったじゃなかったですかね。

 ともかく、それより以前、江戸の高田藩邸では、硬軟ニ派に分かれて対立。
 佐幕派は神木隊を結成して、彰義隊とともに上野のお山にこもります。
 周延もこれに加わり、さて上野戦争の当日。
 周延は黒門口の守りについていたそうなんですが、やがて攻めてくる薩摩藩兵に押されて、覚成院へ引き上げました。
 敗戦を悟った周延は、薩摩本陣に斬り込みをかけましたが、足に銃弾を受けて倒れ、薩摩藩兵にとらえられ、桐野の前に引き出されます。
 氏素性を問いただされ、「おれは絵かきの周延だ! さあ斬れ! 斬れ!」と叫びましたところが、桐野はただちに、黒門に近い絵草紙屋で調べさせ、いま売り出し中の周延であることがわかり、殺すに忍びず「すぐ帰れ!」と。
 周延は言い返します。
 「このままでは帰れん。死ぬ前におれの一言を聞け! 薩長はなぜ兵を収めないか? 将軍はすでに昨年10月、大政を奉還し職を辞しているではないか。(中略) 幕府に代わって薩長の政治にする積りか! おまえらこそ錦の御旗の影にかくれた逆賊だ! 許されない!」
 桐野はこれを聞き流し、二人の護衛兵をつけて、上野に送り返した(つまり釈放した)んだそうです。
 その後周延は、品川沖の榎本艦隊に至って蝦夷へ渡り、五稜郭陥落まで戦いぬいたんだそうです。

 いや、たしかに桐野は、上野戦争当日、一番小隊監軍として黒門口で戦っていますし、刀傷を負ってもいるのですが。
 どうにも話ができすぎていまして、西南戦争後に桐野が人気者となり(なにしろ絵双紙になったり歌舞伎になったりしてますし)、売り出し中の周延の人気を盛り上げようと、版元か絵双紙屋が作って流した逸話なんじゃないですかしらん。

追記
 どうもその、「越後高田藩榊原家」というのが、桐野との関係でひっかかっていたんですが、思い出しました! 桐野が陸軍少将時代に住んだ屋敷が、旧榊原家江戸屋敷(現岩崎邸)じゃないですか!
 もう、こうなってきますと周延が神木隊に入っていた、というあたりから、作り話めくんですが、もし本当なら、すごい因縁話ですよねえ。

 
 江戸の、といいますか明治の東京の庶民にとって、上野戦争と西南戦争は、妙な言い方ですが、物語の宝庫、だったように感じます。
 ほんとうだったのかどうか、月岡芳年の血みどろ錦絵は、上野の戦争を見に行って、写生した成果で、あんなにも迫力があるのだといいますし。これは、製作年代が上野戦争と近接していますし、ほんとうだったのではないか、という気がします。
 ちなみに芳年の錦絵の中でも、血みどろ武者絵はかなり高価でして、手が出ません。

 ただ、これも中村太郎さまが送ってくださった資料で、桐野は京都時代、絵を習っていたのだそうなのです。
 1968年発行、南日本放送の「維新と薩摩」図録に、丙子重陽、つまりは明治9年重陽の節句の日付がある、桐野の和歌入り書画の写真が載っておりまして、そのコピーです。
 山に咲く菊の絵で、モノクロのあまり大きくない写真のコピーですが、なかなかうまい絵のように見受けられます。
 和歌の方は、くずし字で、読めません。

 桐野が和歌を習っていたことは、市来四郎が断言していまして、薩摩で和歌を習うとなりますと、三千世界の鴉を殺しで書きましたように、八田知紀じいさまに習った可能性が高いんです。あるいは、八田のじいさまは、近衛家に嫁ぐ島津家の姫様について京にいたこともあったみたいですし、京の薩摩藩邸で希望者に教える、なんてことだったかもしれないですね。

 桐野が絵を習ったのは、中村太郎さまの推測では、丸山派の森寛斎だったのではないか、ということです。
 森寛斎は文化11年(1814)、長州藩士の子として生まれ、天保2年(1831)、大阪へ出て丸山応挙門下の森徹山に学んで養子となり、25歳で京都へ出て丸山派の復興をはかったんだそうです。
 その後、長州藩士に復して、密使として京都、長州間を往復。品川弥二郎とは長く親交があったんだとか。
 品川弥二郎は、薩長同盟の中心人物で、薩摩藩邸に長くひそんでいましたし、なるほど、長州びいきの桐野が絵を習った先生として、うなずけますよね。

追記
 中村太郎さまのご教授に従い、霊山歴史館に電話して、お聞きしました。
 桐野から森寛斎宛、二見浦の絵が入った葉書のようなものがあって、それを他館に貸し出して展示したことがあるのだそうです。お忙しい中でお聞きしたので、私の思い違いで、もしかすると桐野宛の森寛斎葉書、だったかもしれません。どちらにせよ、交際があったことは、確かなようです。

 ともかく、です。桐野はきっちり和歌も絵も習い、私、和歌はどうにも感心いたしませんが、絵心はかなりあるように感じます。
 つーか、けっこううまいんです。
 だから、もしかして、あるいは……、桐野が揚州周延を逃がした話も、ほんとうであったかも、しれないですね。

 正名くんといい周延といい、私はこのお気に入りの「幻燈写真競 洋行」を見るたびに、これからは桐野を思い浮かべることになりそうです。

 
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モンブラン伯の長崎憲法講義

2008年02月14日 | 前田正名&白山伯
 いけません。昨日書きました美少年と香水は桐野のお友達 のような次第で、妄想がとまりません。
 ほんとうは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1 vol2 vol3に続けまして、順をおって書こうと思っていたのですが、がまんできなくなりました。

 モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
 ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
 ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
 岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
 実のところ、薩摩も藩論がまとまっていたわけではなく、藩主の弟・島津図書を筆頭として、討幕反対派が多数いました。
 そりゃあ、そうでしょう。薩摩はなにも朝敵ではありませんし、薩摩内のことのみを考えるならば、なにも危ない橋を渡ることはなかったのです。
 討幕の密勅は、薩摩にとっては藩内むけ、つまりは久光公説得のためであったという説に、私は賛成です。密勅は、世間に公表できないから密勅なんですから。
 朝敵とされていた長州は、なにがなんでも討幕を、と必死でしたが、それでも大村益次郎は、即時挙兵に反対でした。
 薩摩内にも反対派がいることから薩摩の出せる軍勢もかぎられていましたし、長州はといえば、とりあえず朝敵ですから、堂々と軍勢を出すことはむつかしいですし、幕府軍の兵力がはるかにまさっていましたので、勝ち目はないと踏んでいたのです。
 それで私は、久光に影響力を持ちかけていた赤松小三郎が、薩摩藩討幕派にとっては、邪魔だったんだろうと憶測するのですが。

 モンブランは、ちょうど大久保が長州と討幕挙兵の相談をしているころに長崎に着きまして、どのくらいの期間かよくはわからないのですが、長崎に滞在しました。
 そこはそれ、転んでもただでは起きないのが、五代友厚です。
 長崎には、薩摩藩だけではなく、西日本各地から、蘭学や英学を学ぶ洋学生が集まってきています。
 モンブランに講義をさせて、「天皇を頂く西洋式統一国家」とは、どのように運営されるものか、宣伝しようとしたらしいのですね。
 尾佐竹猛氏が「維新前後に於ける立憲思想」というご著書に、「佐々木老僕昔日談」から、以下の一文を引いておられます。

 白川の紹介で仏人のモンブランに面会して、薩の朝倉省吾の通訳で、種々議論を聞いた。同人は岩下と同船して来朝したのだ。仏国の貴族で勤王論を主張して居る。一体仏国は佐幕論であるが、同人は反対の主義であるところからして、薩人とも昵懇にした。松の森の千秋亭、吉田屋などで會宴したり、或は直接往来して、色々と談話を聞き、大に新知識を得た。彼の書物の講義も聞き、著述ももらい、またその談話を筆記して之を聞き書きと命名して、四冊ばかりのものを揃えた。この聞書は当時にあっては非常に有益なものとして珍重せられ、自分は国許にも送ってやるし、また前田に託して太宰府にも送るし、それから君公が御覧になりたいからと云うて渡辺から希望されてやったり、芸藩の石津大蔵からも懇願されてやった。大分方々にひろがった。モンブランの紹介で、他に同国人三人とも交際して事情等を聞いたけれども、名前は忘れて了った。


 「佐々木老僕」とは、土佐藩士・佐々木高行です。渡辺とは渡辺清のことと思われ、君公とは大村藩主でしょう。
 最初に出てくる白川は、モンブランがフランスへ連れていっていた日本人で、薩摩藩にやとわれたジェラールド・ケンだと思われますが、ときの長崎奉行は河津伊豆守で、文久三年幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使なんです。ジェラールド・ケンは、モンブランのもとで、この使節団の随員とは懇意にしていました。
 それで、河津伊豆守がモンブランを幕府側に誘った、というような話もあり、どうもその仲買を、ケンがしようとしたらしいのですね。白川ことジェラールド・ケンは、この後、薩摩藩士に殺された、といわれています。
 松の森の千秋亭・吉田屋は、現在、富貴楼という名の卓袱料理店になっていますが、建物は当時のままです。
 
   

 諏訪神社や長崎奉行所も近く、一等地です。
 モンブランはおそらく、五代友厚が越前藩士に吹き込んだようなこと、つまり「上下両院の制を設け、上院は公卿諸大名、下院は諸大名の家臣集会して国事を議定し」といったような議会制度をもっと詳しく説明し、おそらくは憲法制定にまで話はおよんだのでしょう。なにしろ聞書が四冊なんですから。
 もちろん、おそらく、この立憲政体講義のプロデュースは五代友厚でしょう。

追記 
「続再夢紀事」を見て確かめなければいないのですが、赤松小三郎が、慶応3年(1867年)5月、松平春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書」というのは、五代友厚の宣伝工作の一環であったと、私は思っています。
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、すでに慶応元年のパリで、五代は、オランダ留学をしていた幕臣・津田真道と西周の知識を乞い、モンブラン伯爵、レオン・ド・ロニーとともに、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない」という、ヨーロッパの現状にあてはめて、近代的日本を築くべき理論を構築しているんです。イギリス公使官員・アーネスト・サトウの「英国策」は、モンブラン伯爵がパリの地理学会で発表したこの理論を、五代が筆記して持ち帰り、それを下敷きにして書かれていた可能性が高いんです。
ヨーロッパの政治制度を、じっくりと勉強していた日本人は、この時点では、津田真道と西周しかいませんし、この二人が話に加わっていた以上、議会制から憲法まで、出てこないはずはありません。
ちなみに、モンブラン伯爵はベルギーの男爵でもありますが、ベルギーは新しい国で、初代国王はヴィクトリア女王の母方の親族であり、イギリスに領地を持っていた人で、政治的にはイギリスの影響が強いんです。イギリスには成文憲法がありませんから、このベルギーの憲法は、当時のヨーロッパでは、理想的な立憲君主国憲法と見られていました。
なお、五代友厚が討幕をどう思っていたか、ですが、この人はまず通商ありき、ですから、戦争状態が長引くことを望んではいなかったでしょう。しかし、寺島宗則のような学者ではありませんし、根本的な変革には戦いが必要であることは、十分に呑み込んでいたと私は思います。当時のヨーロッパで、現在進行形だったドイツ、イタリアの統一運動がそうでしたしね。



 通訳が朝倉省吾。
 朝倉は、中村博愛とともに、薩摩密航イギリス留学生仲間の中の蘭方医で、長崎でオランダ人ボードウィンに学んでいたのですが、イギリスでは入学可能な適当な学校がなく、二人してフランスに渡って、モンブランの世話になっていました。中村博愛は、博覧会の始末をつけるため、フランスに残りましたが、朝倉は帰国し、モンブラン一行の通訳をしていたのです。
 ええ、もうこうなりますと、ぜひとも、私の愛する町田清蔵くんを登場させたいものです。
 この当時、日本にいた薩摩藩フランス留学経験者は、朝倉と清蔵くんのみですし、清蔵くんはモンブランの世話になっていますから、長崎へ顔を出さない方が不思議なくらいじゃないでしょうか。

 そして、佐々木は言っていますよね。「また前田に託して太宰府にも送る」と。
 当時太宰府には、薩会の8.18クーデターで長州に落ちた七卿のうち、五卿がいました。
 こうなってくるともう、まるで討幕後の準備のようなんですが、モンブラン講義録を、太宰府に運んだ前田とは、当然、正名くんでしょう。
 薩摩藩長崎留学生で、洋行を宿願としている正名くんが、突然、薩摩藩が目の前につれてきたフランス人を、見逃すはずがありません。
 どうも私、正名くんをフランスに連れていってくれるよう、モンブランに紹介したのが大久保利通だって話、あやしいと思うんです。いつものお方が調べてくださった話では、正名くんの渡航費用は、どうやらモンブランが出したようなのです。数年の後、モンブランを嫌っていた英国留学生の鮫島が、フランス公使として赴任してきたとき、モンブランは鮫島に、正名くんの渡航費用を請求しているんだそうなんです。
 正名くんは、このとき長崎で、五代友厚に紹介してもらって、モンブランに気に入られたんじゃないでしょうか。

 しかし、ここから昨日の続きなんですが、桐野と正名くんがいつ知り合ったのかは、さっぱりわかりません。
 桐野が京都へ出る前、正名くんがまだ子供で、鹿児島の蘭学者・八木称平の住み込み弟子になっていたころから知り合いだった、と考えた方が、自然ではあるでしょう。
 桐野が京都へ出てからとなると、一度はたしかに帰郷していますし、他にも帰郷した可能性は高いんですが、そうゆっくり故郷に止まったわけではなく、そのうち正名くんも長崎へ行ってますし、ゆっくり知り合う機会がなかったように感じます。

 桐野も正名くんも貧しい育ちです。
 想像をたくましくすれば、です。10歳に満たない正名くんが、住み込み弟子、つまりは学僕をしていて、その日、忙しくて、か、あるいは兄弟子に意地悪をされて、か、ご飯を食べるひまもなく、なにか失敗をして、城下の道端でしょんぼりしているところへ、たまたま桐野が歩いてきて、「おい、どうした?」と聞き、「ま、これでも食ってがんばれ」と、懐から食べかけの芋を出してなぐさめる、なんていうのはどうでしょう?(笑)

 それで、話はとびまして、明治2年の初めころの鹿児島です。
 会津へ行く前に、桐野は横浜の病院で静養していまして、イギリス、フランスの駐日陸軍や海軍をゆっくりと見ています。おそらくは中井桜州から、たっぷりとパリ万博の話なんぞも聞いています。あるいは横浜を案内してもらって、香水なんかを買ったかもしれません。靴は中井にもらったでしょうか(笑)

 で、会津から帰ってきたころの桐野は、すでに大隊長級。
 「フランス軍服の方がよか。士官のサーベルもフランスもんはよかな」なんぞと横浜の見聞を思いだしておりましたところが、鹿児島城下にフランスの伯爵が降ってわきます。
 「田中(中井)どんより、あん人の話の方がおもしろいんじゃなかとか」と、好奇心をたぎらせていたところへ、「半次郎さあ!」と、訪ねてきたのが正名くん。
 正名くんの案内で、太郎くんをお供に、モンブラン伯爵の宿舎を訪ねましたら、モンブランのそばには、朝倉と清蔵くんが。

 モンブラン伯爵はご機嫌で、桐野にいろいろとアドバイスをしてくれます。
 えー、なにしろ、桐野は大隊長級ですし、フランスで士官といえば、もともとは貴族が多く、当時でも士官学校に入れるのは中の上の階層で、下士官以下とは、あきらかにクラスがちがいます。
 まさか桐野が、武士とはいえども百姓より貧しく、近所のお百姓に土地を借りて農業にはげみ、芋ばかり食べて育ったなぞとは夢にも思わず、清蔵くんと同じようなもんだと、美しい誤解をしてのアドバイスです。
「おお、サーベル。日本の刀も美しいが、サーベルも名職人にやらせれば、美しいものですよ。どうだろう、日本刀をサーベル風に仕立てては。ああ、あなたがフランスの軍服を着て、金銀装の日本刀サーベルを持てば、似合いますとも!」
「それは、いい思いつきですねえ、伯爵。僕は海軍がいいかなあ、と思っているんだけど、中村さんは陸軍だし、陸軍はフランス式が一番ですよ。中村さんのフランス式軍服姿、ぼくも早く見たいなあ」
 と、清蔵くん。
 太郎くんも、うっとりと桐野を見上げます。
「半次郎さあ! ぼくが責任もって、日本刀をお預かりしますよ。モンブラン伯爵は、日本の総領事(パリ駐在)になられたんで、ぼくを秘書として、パリにつれていってくれるとおっしゃるんです!」
 と、正名くん。
 朝倉は一人あきれて、「なんかおかしくないか?」と首をかしげていたり。

 で、その年の暮、正名くんは本当に、モンブランに連れられて、パリへ出発するんですが、その手にはしっかりと桐野から預かった綾小路定利が。
 って、桐野の綾小路は、たしか庄内の殿様からもらった、っていうのが定説なので、このときはまだないですかね(笑)
 まあ、そういった疑問はちょっと置いておきまして、妄想をたくましくしますと、です。
 桐野の綾小路は、パリで金銀装の華麗なサーベルとなり、例えば新納少年とか、帰国した薩摩人の手で、桐野に届けられます。ああ、西郷従道の線もありですし、大久保さあかも、しれないですね。
 正名くんは、明治10年、翌年に開かれるパリ万博の準備のために帰国するのですが、すでにそのときには、西南戦争がはじまっていました。
 おそらくは、明治2年に桐野と別れてから、二度と会っていなかったはずです。
 昨日のこのくだり。

 この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。

 桐野の孫を見て、桐野をなつかしむ後年の正名に、桐野の息子が、大切に保管してあった金銀装の綾小路定利を見せた、という光景が、あんまりにもじんときましたので、ついあらぬ妄想を(笑)

追記
上、妄想は妄想なのですが、もしかすると勘違いされる方がおられるかもと、付け加えます。
桐野が綾小路定利であった、といわれる名刀を、金銀装の完璧なサーベル仕立てにしていたことは、史実です。
西南戦争後の懲役人質問でも、西南戦争に参加して、桐野のそばにいた人が、それを認めていますから。
これは、もしかしたら、日本刀をサーベル仕立てにして、将校の儀礼刀にした最初ではないかと思うのですが、日本の工芸職人は器用ですから、私は、舶来のサーベルを手本に、日本でしたものだと思っていました。
もちろん、その可能性もあるのですが、フランスまで加工に出した可能性も、なくはありません。
鞘が日本刀のもので、例えば漆に金細工をからませたもの、などであれば、日本製の可能性が高いのですが、桐野の綾小路は、どうも鞘が金属製であったのではないかと、うけとれるような描写なんです。

これは確かな話ではないのですが、以前に、土佐史談会のおじさまからお聞きした話で、戦後、桐野の綾小路は、有名な横綱の手に渡っていて、土俵入りに使われていた、というのですが、もし、なにかご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。

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美少年と香水は桐野のお友達

2008年02月13日 | 桐野利秋
えー、昨日は、うそだろ!!! の連続でございました。
まずはこれ、いつものお方のブログ。

備忘 中井弘50

ええ??? 赤松小三郎のお墓が金戒光明寺にあって、しかも墓石の横に「中村半次郎の名前で師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれた碑がある」ってえ?????
いや、ほんとにwikiにそう書いてあるんですけれども。
だいたい、京都黒谷の金戒光明寺といえば、会津藩がいたところじゃないですか! そんなところに、桐野が斬った赤松小三郎のお墓があるなんて知りませんでした。
が、たしかにそれはあるみたいなんですが、中村半次郎の名前の碑?
えー、ぐぐっても他に出てきませんで、信じられないんですが、どなたか京都にお住まいの方、おられませんか?(笑) いますぐ、たしかめに行きたいんですが、そうもできませんで。

いや、8.18クーデターを会津の秋月悌次郎と協力してやった高崎正風(左太郎)は、です。倒幕反対派で、ふう、びっくりした白虎隊でご紹介しました「落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎 」ではそうは描かれておりませんが、慶応3年の秋、京に帰ってきた秋月(左遷されて蝦夷にとばされていました)と会ったりしていたわけですし、薩摩藩邸にも軍学を教えに来ていた赤松小三郎への気配りを見せるのはわかるんですが、討幕派の桐野が、私の憶測では、おそらくは大久保利通、西郷隆盛の藩内倒幕推進コンビと連携して、公武合体論者の赤松小三郎を斬った桐野が、です。「師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれた碑」をほんとうに建てているんだとすれば、です。赤松個人に恨みがあるわけではなく、倒幕のためにやったことだから、悼んだ、とでもいうことになりますかねえ。

 いえ、実はまた、桐野ファンの先輩がお電話をくださいまして、ああでもない、こうでもないと、この金戒光明寺にあるという碑のことや、その他、桐野のことを話していたところが、です。桐野の嫁さんの回顧談の話になりました。
 大正年間の桐野の嫁さんの回顧談、というのがあるんです。
 これのコピー、私は持っているんですけれども、たしか、一坂太郎氏からいただいたもののような気がしまして、どこでどうコピーしたものやら、まったく覚えがないんです。しかし、持っております。
 これをさがしたきっかけ、といいますのが、やはりこの先輩から、桐野が吉田清成に出した手紙の印刷コピーを、送っていただきまして、えー、吉田清成って、薩摩藩密航英国留学生で、最初に江戸は極楽であるに登場しまして以来、このブログには、たびたび出てまいります。

 手紙は短いもので、まあだいたいの意味は、こういうことなんだと思います。
「お元気でがんばっておられてなによりです。太郎のことなんですが、先日こちらへ来て、函館へ共をしたいというんです。なにぶん、あなた(吉田)に相談しなければと聞き置いたんですが、また来て、お暇を願ってお許しを得てきたからつれていってください、というんですが、その通りでしょうか。もしあなたの方で差し支えがなければ、つれていってやりたいのですが」
 8月10日(旧暦です)とあって、年はわからないのですが、吉田清成は明治3年にアメリカから帰国して大蔵省に奉職していまして、「太郎」を桐野が函館に連れていきたい、と言っているわけですから、考えられるのは、明治4年です。
 明治4年の7月(新暦ではないかと)、桐野は函館出張命令を受けていまして、この年しか考えられません。
 で、太郎くん、なんですが、桐野のまわりで太郎くん、といえば、桐野が京都でひろった少年、太郎くん、しかいません。

 で、私、なんとなく、桐野が京都でひろった太郎くんに、英語の、といいますか英学の勉強をさせてやろうとしていたのに、明治6年政変で桐野が帰郷するとき、どうしてもついて行くといってきかず、結局、西南戦争でも桐野に殉じた、という話を、なにかで読んだよーな気がしまして、だとするならば、桐野は太郎くんを、同郷でアメリカ帰りの吉田清成のもとへ学僕として預けていて、この手紙になったのかなあ、などと考えたりしました。
 にしても、なにに太郎くんのことが書いてあったっけ?と、最初に思い出したのが、桐野の嫁さんの回顧談です。
 たしかに、この回顧談には、「御維新の際、京都から召し連れてきました太郎」とか、太郎くんの話が出てくるんですが、「勉強をさせてやろうとしていた」というような話はありませんで、もうひとつ回顧談を持っていたはず、と一生懸命思い出していたのです。
 お電話の途中で、ムックの中の記事だった! と思い出しまして、お電話を切ってから、さがしました。
 あったんです。私、勘違いをしていまして、こちらの方は、桐野の嫁さんではなく、お孫さんで、桐野富美子さんといわれる上品なおばあさんの回顧談でしたわ。
 たしかに、こちらにも、太郎くんの話は出てきました。以下です。

 大正の初め頃、鞍馬天狗の活動写真を観て帰った祖母が、「杉作とうちの太郎はすっかり同じだねえ……」「中村太郎はおじいさんの京都でのお仕事に、その意をよくくんですばしこく立ち回ったそうです。でも、あれだけ止められていたのに、後を追い戦死したのはいじらしくてたまらなかった。この子のお墓参りを忘れないでね」と目頭をおさえて言いました。

 結局、「勉強をさせてやろうとしていた」は、こちらにもなしで、いったいなにで見たのやら、それとも記憶ちがいなのやら、なんですが、それよりも、どびっくりだったのは以下です。

 生前の祖父と親交があり国士として世界中を旅していた前田正名翁が帰国して訪れ、私の兄利和に、「お前は顔も気性も、利秋によく似ている」と嬉しそうにみつめ、「この子は俺に食いかけの芋をくれた、うまかったなあ!」と言われたので、皆大笑いしました。
 この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。

 えええええっ!!!!! 前田正名あ????? 
 いや、「世界中を旅していた国士」が、桐野の孫を見て桐野をなつかしんだ、というようなことが書いてあったことは、覚えていたんです。ただ、その「国士」が前田正名だったなんて!!!!!
 もうすっかり、名前を忘れこけておりましたわ。
 つーか昔は、前田正名ってだれなん? とわからないまま、放っておいたですわね。ネットもないままに。いや、経歴くらいは調べたかもしれないんですけど、まったく印象に残らなかったようでして。
 美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子の美少年です。
 モンブラン伯爵についてパリに行き、ヴェルサイユ宮殿に圧倒され、普仏戦争とパリコミューンを経験し、貴公子新納少年の悩みも聞き、これはまだ書いたことがないですが、ゴンクールからも絶賛された美青年、正名くんです。
 そりゃあ、同じ薩摩藩士です、知り合う機会はあったでしょうが、正名くんは、桐野より12歳年下なんですけど。
 
 じゃあ、です。明治2年の初め頃、モンブランは薩摩に入国していますし、もしかして、正名くんも帰郷していて、桐野も会津から凱旋帰国していますし、太郎くんもまじえて、おフランスの香水の話なんかしたりって、ありなんでしょうかっ?????
われながら、いままで気づかなかった自分のうかつさに、愕然としました。

 ちなみに、当時の香水は、そう甘ったるい匂いのもではありません。当時流行ったと思われる、ゲランが初めて作った香水「ブーケ・ド・ユジェニー」。
ユージェニーは、ナポレオン三世の妃で、その皇妃にささげられた(といいますかささげて宣伝にしたんですが)香水なんですが、現在、「オー インペリアル」という名前で復刻され、男性用ということで売られています。私、持っていますが、柑橘系の香りのとてもさわやかなものです。


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町田にいさんと薩摩バンド

2008年02月11日 | 明治音楽
「博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館」 (岩波新書)
関 秀夫
岩波書店

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 町田にいさん、とは、私の愛する清蔵少年の長兄、町田久成です。
 清蔵少年については、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1vol2で、詳しくご紹介しまして、上の本もすでにご紹介済みです。
 清蔵少年が、にいさんの略伝を書いていたことは、これを書いた当時から知っていたのですが、どこで見ればいいのやら、と思っていましたら、いつものお知り合いの方が、さがしあてておられました。
「町田久成略伝」で検索をかけると、Cinniの門田明氏の論文のPDF書類が出てまいりまして、この中に全文入っております。

えーと、関係ありませんが、アドビのCreative Suite 3 Design Premium CS3を導入しまして、Acrobat 8 Professionalになってから、PDF書類を開こうとするたびに、ソフトを選べと出てきてうるさいんですけど、いえ、なんか設定しとけばいいんじゃないんだろうか、と思いつつ、めんどうでほっておいたら、うるさいんですけど、Professionalなんだから、選ばなくても勝手に仕事してよ、とぐちってみたり。

 ともかくです。「町田久成略伝」の中に、以下の文章があります。
「又特に音楽に興味深く、雅楽は宮中の大令人山井景順に師事し、横笛を学び、年二回は必ず宮中の令陣十数輩を招き、春の花秋の月と、隅田の清流に船遊び合奏会を開催、又月毎に文士墨客の書画会を開催するを、無上の楽とせり」
これを見まして私、あわてて、「博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館」を読み返してみたんです。
すっかり、忘れこけておりましたわ。
 君が代誕生の謎で書きましたが、初代君が代メロディ誕生のきっかけと思われる、明治2年のエジンバラ公来日のとき、日本側接待責任者は、当時外務大丞だった町田久成だったんです!

 久成が長兄、清蔵少年が末弟、なんですが、町田兄弟の家は、島津一門の名家で、家老になりえる家柄です。
 兄弟の母親は、やはり名門の小松家から嫁いできております。
 現在、大河ドラマに出てきます小松帯刀は、肝付家に生まれて、町田兄弟の母親の実家に養子に入った人です。
 つまり、香道が好きで、大人しい人物としてドラマでは描かれております小松清猷の妹、小松千賀(千刀)さんと、帯刀は結婚して、小松家の養子になるんですが、清猷、千賀の姉(長女)・国子(波)が、町田兄弟のおかあさんです。漢学にすぐれ、とてつもなく教育熱心なおかあさんでしたが、久成が19歳の年に死んだそうで、末っ子の清蔵少年は、さっぱり漢学をやってなかったような次第みたいです。
 えーと、町田家って、おかあさんが漢学熱心で、おとうさんが「漢学なんぞ国を滅ぼす」と、蘭学、国学熱心。なんといいますか………。
 私、この町田かあさんの妹である千賀さんが、です。いまのドラマみたいにおとなしかったろうとは、ちょっと思えませんです。これからの話ですが、家付き娘ですし、はい。

 またまた話がそれますが、いまちょっと検索をかけていて、おもしろいことを書いておられるサイトさんを見つけました。
 
 神保町系オタオタ日記 町田久成失脚の真相

 三村竹清の日記に、以下の記述がある、ということなんですが。

 町田久成氏の不遇となりしはしめは 大久保公の死もさる事なから一ト年京ヲ遊ひし折 其頃京の名妓にておかよお千代の二人あり 其かよの方なりしやニ馴染ミ根引きして本妻とせんとしたる事あり 久成夫人は小松帯刀の女也 妾もありたるなれは妾とする分にはよかりしも この小松氏を出して京の妓女を納れんとしたるより上の人々も異見したるが聞入れざりし これ等が原因也と黒川氏話

 町田久成は、エジンバラ公の歓迎行事を成功させるのですが、にもかかわらず、その直後に謹慎を命じられ、やがて外務省から出されて、いわば左遷されます。
 これを「博物館の誕生」では、外務省の中で「エジンバラ公は皇太子ではなく、次男であるのに歓迎のしすぎだ」というような突き上げがあり、明治3年7月、久成を支持していた小松帯刀が病没したことによって、その直後に久成は左遷された、というように推測していたんですが、私も、この推測は正しいと思います。つけ加えますならば、その突き上げには、おそらく薩長の対立も影響しただろうことでしょうか。
 三村竹清の日記に載る話のもとになったのは、おそらく、小松帯刀の養子のいきさつでしょう。
 帯刀と千賀さんの間には、子供が出来ませんで、町田久成の弟の一人(おそらくは四男)、町田申四郎(英国留学生です)が、久光公のお声掛かりで小松家の養子となったんです。千賀さんにとっては、姉さんの息子、実の甥ですから、自然な話です。
 ところが、その後になって、祇園の名妓で、帯刀さんの妾になっていたお琴さんが、実子の男子を生むんですね。それで、やがて、なんですが、申四郎くんとの養子縁組は解消となりました。
 小松帯刀には、やはりお琴さんが産んだスミという女の子がいるんですが、少なくとも帯刀が生きているうちには、久成にいさんの嫁になりうるような年齢には、達していないはずです。お琴さんの女の子が、男の子より先に生まれていたのであれば、あるいは、養子に入る申四郎くんと結婚する予定ではなかったか、と思われますが、もしそうだとすれば、養子縁組解消と同時に婚約解消、ではあったと思います。

 で、話が脱線しまくりなんですが、明治2年、エジンバラ公の来日時、ですね。
 日本側接待の責任者としては、伊達宗城中納言(元宇和島藩主)と大原重実(公家)がお飾りで、実務を取り仕切ったのは、町田久成、中島錫胤(徳島藩士)、宮本小一(旧幕臣)です。となれば、君が代誕生の謎の以下の部分。

で、「接伴掛は英語に堪能な原田宗助、乙骨太郎乙」という「接伴掛」なのですが、リーズデイル卿は「その当時は、現在のように日本人は、西洋の週間に慣れていなかったので、パークス公使に対して準備不足のないように私に手伝って欲しいとの依頼があった。それで現地に駐在するため、浜御殿の部屋の一部が私のために準備され、そこに私は一ヶ月の間滞在したのである」と述べていまして、この接待準備、横浜での行事も含めて、イギリス側との連絡係だったのが、接伴掛の二人じゃなかったでしょうか。

と述べたんですが、町田久成が薩摩の原田宗助を起用し、宮本小一が同じく旧幕臣の乙骨太郎乙を起用した、と考えれば、ごく自然なことでしょう。
だとすれば、です。フェントンが「なにか国歌になりそうな歌はないか」と、原田宗助、乙骨太郎乙に聞き、二人が軍務局に問い合わせたところが「よきにはからえ」となって、「そこで協議した」とか、君が代で「評議一決した」とか言っているのは、当然、原田宗助、乙骨太郎乙の二人だけ、ということはなく、町田久成や宮本小一が入っているんじゃないんでしょうか。

 町田にいさんは、イギリスでは、例えば陸軍の大規模演習だかを見物しただか参加しただかですし(すみません。資料見ないで書いてます。またいつものお方に𠮟られるかも……)、あるいはフランスでの万国博覧会関連でも、軍楽隊が活躍し、国歌が吹奏される場面をいろいろ見学したはずでして、当時の日本で、これほど軍楽や国歌に詳しかった人は、数少ない、はずです。
 しかも、清蔵少年がいうには、にいちゃん音楽好きです。
 えーと、そういえば小松帯刀も、青少年のころ、ですから、現在のドラマのころ、ですが、薩摩琵琶が好きでたまらず、一時も琵琶を手放さないほど懲りに凝っていたそうですが、肝付家の家令からたしなめられ、やめたそうです。
 とすれば、この薩摩琵琶歌「君が代」決定の過程に、町田にいさんも一枚噛んでいるとみて、まちがいないんじゃないでしょうか。

 そして、です。薩摩鼓笛隊、フェントン弟子入りの過程なんですが、エジンバラ公来日の少し後のことです。
 
 吹奏楽発祥の地・記念碑について

 上のサイトさんにあるんですが、フェントンとのつながりの経緯は以下です。

 1869(明治2)年
 5月、薩摩藩一等指図役肝付兼弘は、藩命により練兵法質問のため横浜英国歩兵隊に派遣され、11月まで大隊長ローマン中佐について勉強し、この間軍楽隊の行進を見、楽長フェントンに紹介され、指導を依頼した。同年9月、鹿児島から歩兵第2大隊が天皇の徴兵として上京し神田に駐在していたが、肝付はこの隊長に軍楽隊の伝習を進言した。すぐそれは受け入れられ、上京した藩兵のなかから20名を選んで9月横浜本牧北方の妙香寺に派遣し、フェントンに師事した。その後すぐ、フェントンの意見により、30余名に増員された。これが日本最初の吹奏楽の伝習であり、軍楽隊であった。同時に英国ベッソンへ楽器発注、隊員は妙香寺に宿泊して調練と 信号ラッパを習い、11月に入って読譜練習と鼓隊を習うようになった。

 肝付兼弘って、名前からして、どうも、小松帯刀の実家の肝付氏の一族ではないかと思うんですね。(ご存じの方がおられましたらご教授のほどを)
 となれば、原田宗助が肝付兼弘に相談しないはずがないですし、当然、君が代決定の過程には、肝付兼弘も噛んでいたはずです。
 で、町田にいさんは、実際にエジンバラ公歓迎の実務責任者としてやってみて、儀礼音楽の貧弱さは、痛感したはずです。
 イギリス側には、フェントン率いる駐日陸軍軍楽隊だけではなく、当然のことながら、エジンバラ公を乗せていたガラティア号の軍楽隊もいたでしょうし、どちらの軍楽隊が演奏したかわかりませんが、横浜のイギリス公使館では舞踏会が催され、兵部卿小松宮や参議大久保利通などが、招かれているんです。(町田にいさんは招かれなかったんでしょうかしらん。ご存じの方、おられませんか?)
 つまり、です。君が代とともに、薩摩バンド結成の直接的動機もまた、エジンバラ公来日行事だったんじゃないでしょうか。
 そして、町田にいさんは、育ちがよすぎる、というんでしょうか、政治力のないお方です。しかし、名門ですし、久光公や藩主忠義公へ、軍楽隊の必要性を訴えた人物としては、もっともふさわしいんじゃないでしょうか。
 もちろん、肝付兼弘とともに、ですけれども。


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バロックの豪奢と明治維新

2008年02月07日 | 明治音楽
王は踊る

アミューズ・ビデオ

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鹿鳴館と軍楽隊の続き、といいますか、補足かな、という感じです。


この「王は踊る」、評判だけは昔から聞いていたのですが、見たのは去年、DVDです。
太陽王ルイ14世、側近の宮廷音楽家ジャン=バティスト・リュリが主人公です。
踊るルイ14世は、ともかくセクシーです。リュリが惚れるのも無理はない、と思うほど。

王の三つのダンス(YouTube)

 この2番目の青年王のダンスとリュリの指揮、これを見たとたんに、なにかに似てる! と思ったんですが、はっと気づきました。「レッド・ツェッペリン 狂熱のライヴ 」のロバート・プラントとジミー・ペイジです!

天国への階段ー「狂熱のライヴ」より(YouTube)

 もちろんルイ14世がロバート・プラントで、ジミー・ペイジがリュリ。似てませんか? この色っぽさ!(笑)
 王としての誇りに裏打ちされた少年の優美な手の動きと、一身に集まる観衆の視線を当然と心得たロバート・プラントのしぐさ。
 王の踊りを輝かせる自作の調べを熱を入れて指揮するリュリと、歌うロバートにねっとりとダブル・ネック・ギターの調べをからませるジミー・ペイジ。

 いえ、先週の金曜日にまた週刊新潮を買いまして、美容院でぺらぺらとめくっていましたら、年老いたジミー・ペイジの写真が出てまいりまして、今度は映画の冒頭の年老いたリュリを思い出しましたわ。そういえば去年、ツェッペリン臨時再結成したんだよね、と、YouTubeでさがしたら、ロンドン公演のビデオがあがってました。
 ‥‥‥‥‥見なければよかった! じいさんになったロバート・プラント。

 と、すっかり話がそれてしまいましたが、この映画のルイ14世の踊りは、ほぼ史実です。
 舞踏譜が残っているのだそうです。細かな手の動きなどは、たしかじゃないんですけれど、まちがいなく、こういうダンスをルイ14世は踊ったんです。リュリの音楽で。
 
 バロックのジミー・ペイジ(ちがう?)、ジャン=バティスト・リュリ。
 しかしバロックの巨匠といえば、バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディなどの名前が浮かんできて、クラシックに詳しいわけでもない、私のような普通の日本人が、とっさにリュリの名を思い浮かべられないのは、なぜなんでしょう。
 少なくとも私、小学校から高校までの音楽の授業で、リュリの名前を聞いた覚えがないんです。

 一つには、私たちがよく名前を聞くバロックの巨匠たちは、みな、バロック後期、末期の人々なんです。
 一方リュリはバロック中期の音楽家で、彼らの先輩です。
 と同時に、リュリはまったく、ドイツ語圏に関係しないですごした人です。
 バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ。
 巨匠たちはみな、ドイツ語圏の出身だったり、あるいはドイツ語圏に移住したりと、ドイツ語圏に関係しています。
 ここらへんのクラシック音楽の流れを、わかりやすく解説してくれているのが、岡田暁生氏著「西洋音楽史―クラシックの黄昏」 (中公新書)です。

 日本がクラシック音楽に出会った明治維新当時、つまり19世紀半ば、なんですが、すでに近代市民音楽としてのクラシックが確立し、欧米諸国では、中産階級の家庭で教養としてピアノが奏でられていた時代です。
 アメリカでのそういった状況は、ちょうど明治維新の年にかかれたオルコット「若草物語」 (福音館文庫)など、児童小説を読めばよくわかります。

 が、そもそも、です。音楽を娯楽としてよりも教養として尊重する‥‥‥、それは言い換えれば、クラシック音楽を深遠な「芸術」として位置づけることと同義なんですが、そういった近代市民音楽としてのクラシックのあり方は、ドイツ語圏で生まれてきたものなんです。
 ごく簡単に、枝葉をはぶいて19世紀クラシック音楽確立の歴史を述べますと、ルネサンスイタリアで盛んだった宮廷を中心とする音楽がフランスに移植され(リュリもイタリア人です)、ルイ14世の宮廷で宮廷音楽が確立し、そのあり方を各国宮廷が模倣し、やがて18世紀の産業の興隆と中産市民階級の勃興、啓蒙主義への流れの中で、フランスでは豪奢な宮廷音楽(いわば外交をも含めた社交のバックグラウンドミュージックなんですが)が、私的娯楽、ステイタスとして市民の側にとりこまれていくんですが、ドイツ語圏(主にプロテスタント圏)では、宮廷音楽と哲学が結びつき、やがて本来宮廷音楽がそうであったところの、環境音楽としての役割が軽視され、まじめな市民が目を閉じて交響楽に聴き入り感動する、といった、現在のクラシック音楽のイメージに重なる状況が生まれるんですね。
 バロックに続く古典音楽の三代巨匠、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンは、みなドイツ語圏の出身です。

 ルイ14世の宮廷音楽は、なにしろ「朕は国家なり」なのですから、環境音楽ではありましたが、私的娯楽ではなく、公的な国の音楽といえるものです。
 環境音楽、つまりはバックブラウンドミュージックであったことの意味なのですが、音楽もまた、料理と同じように、宮廷の、そして国家の、祝宴を盛り上げる要素だったのです。

 西洋音楽の歴史を、そういった社会的側面からわかりやすく説明してくれているのは、上尾信也氏の「音楽のヨーロッパ史」 (講談社現代新書)です。

 クラシック音楽の歴史は、通常、カトリックの教会音楽にはじまるといわれます。
 宮廷音楽も、もちろんそうなのです。
 戴冠式にも結婚式にも教会はからみますし、教会音楽もそういった儀式を盛り上げます。やがて祝宴の場をも、宗教行事で育まれた音楽が彩るようになっていくのです。
 戴冠式、支配都市への入城式、君主間の外交である結婚式。
 それらの儀礼にともなうパレードと祝宴は、中世からあったわけなのですが、ルネサンスに至って、何日にも渡る大スペクタクルとなります。
 ショー化された騎士たちの馬上武芸試合や、テーマを定めたきらびやかな飾り付けに仮装、歌やダンスの入った芝居、夜空を彩る花火。そしてもちろん、豪華な食事。

 この祝宴スペクタクルが、もっとも洗練されていたのはイタリアで、それはおそらく、イスラム圏との交易による富の蓄積と文化の流入、カトリックの総本山ローマの存在、小国に別れて活発に行われた外交、といったさまざまな要素によるものでしょう。
 ともかく、ルネサンス美術の中心がイタリアであったように、祝宴スペクタクルの本場もイタリアであり、そこから、オペラ、バレー、ダンスが生まれましたし、また料理、ファッションにおいても、最先端の流行を作り出していたのです。
 そのイタリアの最先端の流行を、フランスにもたらしたのは、フィレンツェからフランス王家に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスであり、マリー・ド・メディシスでした。
 そして、ルイ14世にいたり、ついにフランス宮廷は、はるかにイタリアを凌駕し、ルイ14世の宮廷は、ヨーロッパのすべての宮廷の規範になったのです。

 映画「王は踊る」に、いまひとつ欠けているのは、豪華さでしょうか。
 この点では、以前に宮廷料理と装飾菓子でご紹介しました宮廷料理人ヴァテールの方が、近いでしょうか。
 ただ、かなり豪華さが出てはいるんですが、ヴァテールの人物像については、この映画は史実に近いとはいえないようでして、ヴァテールは料理人ではなく、祝宴全体を取り仕切る執事であった、という方が、現在では定説になっているそうです。
 料理人という設定で、舞台裏を描いていることと、やはり予算不足でしょうか。史実の祝宴にくらべるならば、かなり安っぽいはずです。

太陽王を歓待するコンデ公の宴会1 「宮廷料理人ヴァテール」より(YouTube)

太陽王を歓待するコンデ公の宴会2 「宮廷料理人ヴァテール」より (YouTube)

 ルイ14世がヴェルサイユで催した祝宴の中で、詳細な記録が残っていて、有名なのは、1664年に行われた「魔法の島の悦楽」。イタリアルネサンス文学「狂乱のオルランド」の中からテーマがとられ、3日間にわたり、600人を集めて行われた大スペクタクルです。
 王自身も物語の登場人物であり、貴族たちもまた、さまざまに役を演じます。
 その中に幕間劇として、専門の役者によるオペラといいますかバレーといいますか劇といいますか、そんなものが入るのです。
 実のところ、ヴェルサイユ宮殿は、そういった祝宴の豪奢な背景として、建てられたものなのです。ルイ14世は、日々、莫大な金額を投じて、太陽王を演じていた、といっても、過言ではないでしょう。

 ルイ14世の宮廷音楽隊には、宮廷礼拝堂に属するシャペル、そして祝宴楽や儀礼楽、軍楽などを演奏するエキュリ、王のそばで室内楽を奏で、音楽教育をも担当するシャンブルがありました。
 バロックのジミー・ペイジ、リュリは、シャンブルの長でしたが、エキュリやシャペルの上にも立ち、祝宴や儀礼の音楽、オペラやダンス、バレーの音楽も作曲すれば、軍楽も作曲したのです。
 祝宴にはそもそもパレードがつきものでしたし、馬上武芸模擬試合でも、行進曲を中心とした軍楽は使われます。
 ルイ14世にいたっては、現実の戦場でも、祝宴用の派手な音楽を演奏させたのです。
 勝利の祝宴では、そのままエキュリがダンス曲をも演奏しますし、鹿鳴館と軍楽隊で書きましたように、つまりは、ダンス音楽と軍楽隊は兄弟なのです。
 なお、バロックの舞踏は、王侯貴族たちが集団で踊ったものが社交ダンスに発展し、舞踏の専門家が幕間劇で踊ったものがバレーとなっていきました。

 このようなバロックの王の豪奢は、一方で私的な贅沢、あるいは教養となっていき、一方で、公的な国家儀礼、外交を飾る豪奢へと、分離することとなりました。
 音楽もまたそうで、王制から共和制に移行したにしても、いえ、革命でさえも華々しく音楽に彩られ、それは、ナショナリズムを盛り上げる要素となっていったのです。
 以前に、美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で、「正名がパリで絶望を感じたのは、第二帝政最末期の豪奢な都市のさまざまな様相、産業にしろ軍事にしろ学問にしろ、なんでしょうけれども、その西洋近代文明のりっぱさが、とても日本人が追いつくことはできないものに見えたから、だったんですね」と書いたんですが、正名がなによりも圧倒されたのは、ヴェルサイユ宮殿でした。
 過去の豪奢が、国の富の際限のなさ、奥の深さとして彼にのしかかり、日本がどのように背伸びをしたところで、到底追いつけないもののように思えたようです。

 正名はもちろん、かつてヴェルサイユ宮殿で繰り広げられた祝宴の徹底した浪費、豪奢を知らなかったわけなのですが、バロックの王の祝宴は、19世紀の万国博覧会と似ています。これも以前、『オペラ座の怪人』と第二帝政で、私は、こう書きました。

 万博といえば、近代化と進歩の祭典、であるはずです。
 しかし、第二帝政下のこの万博には、反近代の夢がただよっていたのではないでしょうか。ちょうど、オペラ・ガルニエを代表とするこの時代の建築が、書き割りのように、過去への豪奢な夢をつめこんでいたように。
 パリの万博会場のまわりには、広大な庭園がしつらえられ、その庭園には、エキゾチックなオリエントのパヴィリオンが立ち並んでいました。江戸の水茶屋も、その中にあったのですが、それは、夢のように不思議な空間でした。
また、この万博には、世界各国から王族が集い、華麗な社交をくりひろげ、パリの歓楽に身をひたしました。

 そもそも、ヴェルサイユ宮殿が、壮大な書き割りだったのです。
 時代は下って、選挙で選ばれた皇帝のもと、庶民も自由に参加できる祝宴とはなっていても、祝宴、娯楽の空間は、壮大なまでの贅沢に満ちていました。
 それほどの西洋の富は、軍事にもつぎこまれていたわけでして、それなりに洗練されながらも、つつましく自足していた日本は、黒船来航により、このすさまじい消費と生産の渦に、身を投じざるをえなくなったといえるのではないでしょうか。

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