郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵

2011年02月01日 | モンブラン伯爵
 「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」と、「アーネスト・サトウと龍馬暗殺」の続き、ということになるでしょうか。

 CiNIIで、故高橋秀直氏の論文『「公議政体派」と薩摩倒幕派 王制復古クーデター再考』が全文公開されているのを見つけたんです。

幕末維新の政治と天皇
高橋 秀直
吉川弘文館



 氏の遺作である上の本に収録されている論文です。
 論文の内容の細かな検討は、引用されました他の論文などもろくに読んでいませんので、ひかえたいのですが、思わずメモメモ!!!と叫んでしまいました拾いものの引用がありましたので。

 高橋秀直氏によれば、慶応3年5月末、四候会議の決裂により、薩摩武力倒幕派の小松・西郷・大久保は、長州と結んでの武力挙兵を決意しますが、6月22日、土佐と薩土盟約を結んで、共同で大政奉還建白を行うことになります。
 ここらへんのことにつきましては、「大政奉還と桐野利秋の暗殺」に、概略のみは書いております。
 後藤象次郎はイカロス号事件で足止めされて帰京が遅れ、しかも容堂公に反対されて、まったくもって、兵を伴わずに帰京しました。
 従来説では、この後藤の違約により、薩摩は即時挙兵論に傾いた、ということでした。

 この従来説に、家近良樹氏が「幕末政治と倒幕運動」(だと思います)において反論し、「薩摩が即時倒幕に傾いた要因は、薩摩自身にある」としたのだと、高橋氏は述べておられます。家近氏の論文を直接あたっておりませんので、私の誤解かもしれませんが、それって、ずいぶんと奇妙なこじつけじゃないでしょうか。
 薩土盟約の時点におきましては、大政奉還の建白を幕府は拒絶する、と見られていて(高橋氏もそれは認めておられます)、後藤の率兵上京は、土佐も参加しての武力倒幕になると踏んで、薩土盟約は結ばれたわけです。
 薩摩倒幕派の求める「大政奉還」は、最初から慶喜の辞官納地をも求めるものでした。
 なぜならば、開港地はみな幕府領なのですし、幕府が開港地と良質生糸の産地を手放さない限り、いくら朝廷のもとに公議政体を作ってみたところで、諸外国が新政権を認める可能性はゼロだと、薩摩倒幕派は知っていたから、です。
 とすれば、兵の上京を容堂が認めなかった、ということは、薩摩倒幕派の描く大政奉還と、土佐のそれとには、温度差が出た、ということなのです。
 しかも、状況は刻々と変化しています。
 後藤が兵を伴ってこなかった、ということは、それだけ大きな問題でして、もちろんそれは薩摩藩内の動向にも影響したでしょうけれども、はっきり言って、それがすべてです。

 で、です。高橋氏は家近氏の論考をふまえた上で、公家倒幕派・中御門経之と大久保利通の書簡のやりとりを分析し、薩摩倒幕派が即時挙兵を決めたのは、後藤が帰京する直前、8月14日から30日と推測されています。
 その推測自体は妥当なものだと思われますが、高橋氏は薩摩がこのとき即時挙兵に傾いた理由を、「幕府が天皇を彦根に移したり、外国勢力を使って諸侯を牽制したり、攻勢に出ていると薩摩藩は見ていたから」としておられます。
 その証拠が、8月30日、中御門経之が正親町三条実愛を訪れて語った「嵯峨実愛手記」の次の政情記事です。

一、幕泰山安枕策は、正かの時彦根城御遷座のこと
 一、同上に付き、会人彦へ行向のこと
 一、薩退候様、仏人薩へ下向、軍器代をせむること
 一、同上に付、国元へ早打遣のこと
 一、土州英人下向も、幕策露頭のこと
 一、野宮(定功)勅使下坂のこと
 一、其内後藤、壮士を率被上京のこと
 一、同上之上手筈のこと
 一、幕策も有之候故、断然策とのこと


 高橋氏は、島津久光の帰国を不安に思った倒幕派の中御門経之が、この当時、大久保利通に会って事情を聞いたりしていることから、これは、中御門が大久保から聞いた話を、仲間の正親町三条に伝えたものだとされていまして、その高橋氏の解釈にのっかって現代語訳いたしますと、おおよそ、こういうことになります。

「幕府は、まさかのときは天皇を彦根にお移り願う策をたててね、そのためのうちあわせに会津の人間が彦根に行っているよ。また、幕府は薩摩(おそらく久光)が京から撤退するように、フランス人を薩摩へ向かわせてね、武器代金を早く払えと攻めさせて、久光は慌てて帰国することになったようだ。土佐にイギリス人が行ったのも、同じように幕府の策略だったとわかったんだよ。野宮定功が勅使として大阪へくだったのも怪しい。そのうち、後藤象次郎が土佐から倒幕派の兵を率いてくるから、それにあわせて手配をしていて、幕府の策謀もいろいろあるから、薩摩は断然挙兵策と定まっているよ」

 ひいーっ!!! これって、ほんとうに大久保が語ったことなんでしょうか。
 笑い転げてしまいました。
 最初の彦根に云々の件は、会津藩の史料でも読んでみなければ真偽がわかりませんし、まあ、そういう話が出たこともあったのかもしれません。
 しかし………、「薩退候様、仏人薩へ下向、軍器代をせむること。同上に付、国元へ早打遣のこと。土州英人下向も、幕策露頭のこと。野宮(定功)勅使下坂のこと」
 って、ねえ。
 大久保の説明がとんでもなかったのか、それとも、中御門と正親町三条の聞き取りがとんでもなかったのか、おそらくは、大久保が大嘘を並べ立てた、としか思えないんですけど。

 「久光が突然国元に帰らにゃならんなりもしたも、幕の策略ごわす。幕はフランス人を薩摩によこして、武器の代金を早う払えと攻めるようにし、慌てて帰国せにゃならんこつなりもした。土佐にイギリス人が行ったのも幕の策略と、はっきりし申した。むろんのこと、土佐の出兵を邪魔だてする手段ごわす。勅使を大阪に行かせたも、兵庫開港にむけ、柴田(剛中 兵庫奉行兼任の大阪奉行)と談じて、仏英のご機嫌取りの算段ごわす」

 はっきりいって、ギャグですっ!!!
 だって、ですね。薩摩へ出向いてくるフランス人って、モンブラン伯爵のこと、ですわね。
 「イギリスVSフランス 薩長兵制論争」に「忠義公史料」から引用しておりますが、ちょうどこの8月、大久保は国元の本田親雄から、以下のように記された書簡を受け取っています。

 「仏人モンフランと申者、海陸軍士官両名ツヽ・地学者両人・商客両人・従者壱人を岩下大夫被召列、不日入津之筈、小銃五千挺、大砲廿門、右之員数之仏服一襲ツヽ強て御買入候様モンフラン申立、且兵式も仏則ニ可建と之云々、洋地ニおひて世話ニ相成候付、無下ニ理りも立兼候容子共、渋谷・蓑田之両監馳帰候始末ニ付、伊地知壮州出崎、右銃砲之代価乍漸相調候て、此よりハ薩地江不乗入様理解之為、五代上海へ参る等、新納大夫出崎、崎陽ニて右仏人江御談判、海陸二事件御辞絶いつれも拙之拙成跡補、混雑之次第(以下略)」

 いいかげんな現代語訳を再録しますと、以下です。
「フランス人のモンブランというものが、海陸軍士官二名づつ、地学者二名、商人二名、従者一人をつれ、これをパリ万博に行っていた岩下方平が全部連れ帰っているようで、そのうち長崎に着くはずですが、モンブランは、小銃5000挺、大砲20門、これだけの人数(5000人分ですかね)のフランス軍服を買えといい、そして海陸の兵制もフランス式にしろといっています。
 フランスで世話になったから、むげに断るわけにもいかない様子で、渋谷、蓑田があわてて知らせてきたようなことで、伊地知が長崎に出て、鉄砲の代金はなんとか都合しましたが、モンブランは薩摩へ乗り込んでくるつもりらしく、五代を上海へ迎えに派遣し、新納刑部も長崎へ出てもらい、そこでモンブランに談判して、陸海の兵制をフランス式にすることだけは断らなければ、跡の始末がどうにもまずくなると、こちらは混乱しているようなことです」


 これについては、8月12日付け、桂久武の小松帯刀宛書簡にも見えることが、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」でご紹介しました下の本に出てまいります。

日本近世社会と明治維新
高木不二
有志舎


 高木不二氏は、脚註で、小銃五千挺、大砲廿門の代金支払いについても、触れておられます。

「この(武器の)費用はモンブランが工面したようである(慶応3年7月11日付、日本名誉総領事エラールからロッシュあて書簡、宮地正人編『徳川昭武幕末滞欧日記』松戸市戸定歴史館、1997、155-156頁)。なおこの立替え分(22万ドル)の支払いは、伊地知がオランダのボードウィンに頼み込み、大島の白糖を担保に融資を受けるかたちで弁済している(小松帯刀宛桂久武書簡、『桂久武書簡』鹿児島県立図書館編、12頁)」

 えーと、ですね。
 これまで幾度も述べてきましたように、この慶応3年の春、薩摩は岩下方平を「欧州使節並仏国博覧会総督」としてパリに派遣し、モンブランを外交顧問にして、幕府と派手な外交合戦をくりひろげていたんです。高木氏によれば、薩摩は、フランス、ベルギーだけではなく、イギリスとも、琉球国名義で、和親条約を結ぶつもりでいたんです。それには失敗しましたが、ともかく幕府のフランスでの借款はつぶしました。
 幕府全権公使・向山栄五郎外国奉行は、モンブランが作った薩摩琉球国の勲章がフランス要人にばらまかれていましたのを憂い、「薩摩が勝手に条約を結ぶような事態になりかねない」と上申書を日本へ送っていますし、四候会議瓦解直後の京にまで、その話は伝わっていました。慶喜の腹心だった原市之進は、訪ねてきた越前藩士に、薩摩琉球国勲章の図案を示して、「これが薩摩の討幕論の証だ。あまりに憎らしい仕業だ」と言ったというのです。

 しかし、ですね。むしろ、薩摩琉球国名義によります条約提携の失敗こそが、薩摩を、即時武力倒幕に駆り立てた、といえるのではないでしょうか。
 たとえ、慶喜公が大政奉還に応じましたところで、辞官納地を承知せず、大大名として朝廷の官職にありました場合、開港地をすべて握っているわけですから、外交権は慶喜公の手の内で、なんの意味もないのです。

 岩下方平は、幕府の軍備増強についても、パリできっちり情報を仕入れていますことが、野口武彦氏の「鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間」 (中公新書)に見えます。
 4月21日付で、パリの岩下方平が国元に送りました書簡に、幕府がパリで調達しました銃につきまして、「一、本込(元込)小銃二万五千挺。内一万挺シャスポー。本文シャスポーは新発明の由にて、至りて利用と申す事」とあるそうです。

 ま、要するに小銃五千挺、大砲廿門は、幕府に対抗しまして岩下方平が買い込み、モンブランが立て替え払いをしたわけですわね。
 で、モンブランは、薩摩の政治顧問として、パリで働いた直後なわけです。
 モンブランの来日に薩摩が慌てていたのは事実ですし、あるいは、このときの久光の退京は、それに関係して、だったのかもしれないんですけれども。「幕府の陰謀」って、はあ。
 イカロス号事件で、イギリスのパークス公使が土佐入りしたのも、「幕府の陰謀」だそうで、はあ。
 ギャグですっ!!!
 
 「野宮(定功)勅使下坂のこと」なんですが、野宮定功は佐幕派の公家で、武家伝奏です。
 で、この時期、大阪奉行は、開港をにらんで兵庫奉行をも兼ねていまして、フランスへ行ったことのある柴田日向守剛中です。
 「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4」に出てまいりますが、柴田剛中は、モンブランと面識があるんですね。慶応元年のフランスにおけるモンブランと薩摩の接触も、知っていた模様です。
 で、当然のことながら、慶喜公から、薩摩琉球国勲章騒動も、それにモンブランがからんでいたことも、聞いていたはずですよね。
 よくはわかりませんが、この時期はまだ、久光が大阪にいるはずですし、武家伝奏が大阪へ下ったのも幕府の陰謀、というのは、大久保の牽制だったんですかね。

 ともかく、です。
 高橋秀直氏は、「嵯峨手記が記すところの幕策とは、非常時に天皇を彦根に移そうとの準備、外国を利用しての牽制であった。こうした幕策が本当に行われたのかは不明だが、薩摩倒幕派はそのように見たのである」としておられるんですが、こんなギャグみたいな解釈を書かれて、「本当に行われたのかは不明」って、それはないでしょう、先生っ!!! 
 あー、今さら叫んでも、逝去されているんですよね。
 残念です。長生きなさって、高木不二氏の論考を、あわせて考察していただきたかったところです。


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コメント (3)
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