郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

昌徳宮と李王朝の末裔

2005年12月31日 | 韓国旅行
今年の韓国旅行は、一応、ソウル世界遺産の旅、というようなものでした。それを2日間延長して、水原華城と板門店を追加したんです。
去年、ある日曜日に、突然、高校時代からの友人が訪ねて来まして、なにごとかと思いましたら、延々、ペ氏について語るんですね。
私はペ氏にはなんの興味もなかったのですが、彼女はペ氏の国、韓国にも関心を持ったようで、韓国語まで勉強しはじめたと言います。
それは好都合と、「実はまだ韓国に行ってないのよ。行くならつきあうわよ」と言っておいたところが、年明けに電話がかかってきまして、ともかく行こうと、なったわけです。
2月に、うっかり、「韓国に詳しいおじさんたちに会いに大阪へ行く」ともらしましたところが、彼女曰く、「韓国のネットで、スターのスキャンダルが出回っているんだけど、どれがだれのことかよくわからないから、聞いてきてほしい」。
いや、あのー、そんな、えーと。あのおじさんたちに、スターのスキャンダルの話なんかしても……。
とはいうものの、彼女も少々変わっているのか、「ドラマのロケ地とか行きたいの?」と聞きましたところが、そうでもない、とのことなので、なにやらほとんど、行き先は私の希望したところになってしまいました。
ソウルにある宮殿を見たかったので、結局、世界遺産の旅になった次第です。

ソウル市内には、いくつか李朝時代の宮殿があるのですが、ほとんどのものがごく新しい再建で、世界遺産になっているのは、昌徳宮(チャンドックン)のみです。
ここも、『チャングムの誓い』のロケ地のひとつですが、李王朝最後の皇太子妃で、梨本宮家の女王、方子妃殿下が晩年を過ごされた場所でもあります。
写真は、昌徳宮仁政殿の玉座です。

方子妃殿下が住まわれた御殿は、楽善斎と呼ばれ、遺品などが展示されていると、昔なにかで読んでいたのですが、最初に昌徳宮を訪れた日は楽善斎の公開日ではなく、板門店へ行った日の夕刻、再び訪れました。
ところが、ようやく楽善斎を見ることができて、驚きました。
楽善斎は、1847年、24代憲宗が建てたものです。韓国の宮殿は極彩色で彩られているのですが、この宮殿は民間を模したもので、色は塗られておらず、主に未亡人が住む建物でした。
昌徳宮が世界遺産となったためなのでしょうか。楽善斎も創建当時の姿にもどされていて、遺品はおろか、方子妃殿下がおられたころの面影は、まったくなくなっていたのです。

最後の皇太子だった李垠殿下は、10歳で日本へ留学され、祖国が日本に併合されたために、日本の王族となられ、陸軍に奉職されていました。梨本宮方子女王を妃殿下とされ、生活の拠点は日本でした。現在、赤坂プリンスホテルにある洋館が、戦前は李王家の邸宅だったのです。朝鮮半島に莫大な資産を持っていたため、世界でも有数の裕福な王族であったそうです。
日本の敗戦により、半島は解放されたのですが、アメリカが後押しして大韓民国の大統領となった李承晩は、李王家に連なる家柄で、李垠殿下の帰国を望まなかったといわれます。また殿下ご自身も、政治的に利用されることを嫌われ、日本に留まられた、という話もあります。
ともかく、李垠殿下が祖国の地を踏まれたのは、朴正熙大統領になってからのことで、しかも帰国時にはすでに、脳軟化症で意識が混濁した状態でおられたとのことです。ソウルはこのとき、殿下のご帰国を祝う人並みであふれた、といいます。
殿下が薨去された後、方子妃殿下は楽善斎に住まわれ、福祉事業に打ち込まれて、生涯を終えられました。

楽善斎から妃殿下の痕跡が消し去られた今、日韓近代史のはざまにゆれたその生涯を偲ぶことができるのは、同じく世界遺産である宗廟だけなのでしょうか。
李王朝歴代王族の位牌を祀った宗廟には、さすがに、李垠殿下と方子妃殿下のお名があり、現在ただ一人、お二人の血を引かれる李玖氏は、どうしておられるのだろうか、と、宗廟にたたずんで、ふと思いをはせました。
アメリカに留学して、アメリカ人の女性と結婚され、長期間アメリカで暮らされていたけれども、韓国へ帰国され、離婚されたという話は、なにかで読んでいました。お子はおられません。
ところが、私が日本へ帰って間もなくのことです。李玖氏が、赤坂プリンスホテルで死去された、というニュースが流れました。
李玖氏は、生まれた日本の地へ帰っておられたのです。

なお、併合時代、楽善斎には、純宗の正妃で、李垠殿下には義母にあたられる尹妃が、未亡人となって住まわれておりました。そこには、李王朝最後の女官たちがお仕えしていて、チャングムのような料理女官もいたんですね。
『チャングムの誓い』で、宮廷料理指導をなさったのは、宮廷料理の研究で韓国の人間国宝になった、黄慧性女史の娘さんです。
黄慧性女史は、裕福な両班の娘で、戦前の日本に留学し、帰国して家庭科の教師になりましたが、奉職した女学校の日本人校長から、「あなたは朝鮮人なのだから朝鮮の料理を研究しなさい」と、楽善斎に紹介され、最後の料理女官から宮廷料理を学んだんです。、
黄慧性女史がいなければ、宮廷料理は伝わらず、『チャングムの誓い』というドラマもできなかっただろう、と思えます。
嘘かほんとうかわからないのですが、併合時代のソウルを知る方のお話では、宮殿のオンドルはボタンの花を燃料にしていて、ほんのり甘い花の香りがただよっていたんだそうです。

みなさん、よいお年を。
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板門店とイムジン河

2005年12月30日 | 韓国旅行
昔、韓国へ行ってみたかったのは、朝鮮半島の歴史、それも近代史ではなく、古代史に興味を抱いていたから、です。
時は流れて、なぜかけっこう近代史にも詳しくなり、半島オタクの端の端くらいには連なれるかな、といったところで、急に、板門店が見たくなりました。
といいますか、北朝鮮に行ってみたくなり、その絶好の機会がなかったわけじゃあないんですが、その時は家庭の事情で行けませんでした。
ようやく、なんとか時間がとれるかな、という状態になってみたら、家族が大反対するような状況です。いえ、観光するだけならば危険はないはずなんですが、そんなことを説明しても、北朝鮮へ行くというだけでいやがられそうですし、高い金額を払って、値段のわりには待遇がいまひとつのツアーに、いっしょに行ってくれそうな友人も、身近にはいません。
それならば、とりあえず韓国へ行って、板門店だけでも見ておこう、となったわけです。

北朝鮮旅行に最初に興味を持ったのは、1992年に発行された関川夏央著『退屈な迷宮』を読んで、でした。北朝鮮へツアー旅行で行けるようになった、ということにまず驚いたんですが、その旅行が、旅行というよりは苦行のようで、「疲れたから今日はホテルで休みたい」と言っても休ませてもらえず、強行スケジュールで、向こうの見せたいところばかり無理矢理見せられる、といったツアー解禁当初の状況は、うそだろ~! と目をむきつつ、いや北朝鮮ならば観光客相手でもそうなのかも、と妙に納得したりもしたものです。
小泉訪朝で、金正日が拉致を認めたとき、朝日新聞に載った関川夏央氏の文章は忘れられません。わざわざコンビニまで、朝日新聞を買いに走ってしまいました。たしか、現在『「世界」とはいやなものである』(日本放送出版協会発行)におさめられている一文です。

 韓国は北朝鮮の轍を踏んではならない。それは破滅への道である。すでに先進国水準に達して久しい韓国は、自分の民族主義を相対化しなければならないと考える。国内と対日だけの狭くて深い井戸のなかから出て、中国と、また世界と対峙し共存したらよいと思う。そのためには北朝鮮に対する正当な評価と正当な態度が必要である。
 同民族といい、「ひとつのコリア」といいつづけるのなら、韓国は北朝鮮のテロと、人災としての飢餓の責任を、まさにわがこととして引き受けなければならない。北朝鮮という病気が同民族の体内から発したものと理解しなくてはならない。

ああ、さすがは半島とのつき合いが長いお方、よくぞ言ってくださった、それも朝日で……、と思ったのですが、現実はなかなか、そうすっきりとはいかないままに経緯しています。
今年の2月に、半島に詳しい方たち……、まあ平たくいえば半島オタクの方々と、大阪は鶴橋の焼肉店でオフ会をしたのですが、「北の自壊を促して、嫌でも韓国が北を吸収するしかないでしょ?」という私に、半島とつながりの深いお二人が、口をそろえて、「韓国は絶対にしない」とおっしゃるのです。「韓国は、ようやく先進国並みの暮らしになったんだよ? 北といっしょになって生活レベルを下げることに、国民が耐えられるわけがない」と。
それはその通りですし、だからこそ、韓国の現政権が、なんとか北の現政権を保たせようと必死になっているのはわかっているのですが、関川夏央氏ではありませんが、「南北分断はアメリカや日本のせいで、北とは同じ民族だ」と言い募るのならば、なおさら責任があるでしょうよ、と、釈然としない気分になってしまいます。

韓国へ旅行をしたのは、六カ国協議に向けて、アメリカのライス国務長官が訪韓した直後のことでした。
たしか当時、六カ国協議に北朝鮮が参加を決めたのは、アメリカのステルス戦闘機に平壌上空を脅かされて、怯えたからだという噂がネット上に出回っていて、韓国の米軍基地にステルスがいたことは事実なんですが、半信半疑でした。しかし、北朝鮮に詳しいジャーナリストの惠谷治氏がサピオにそのことを書いておられて、北が暴発しないかぎり、もはや板門店が最前線ではない時代だな、と実感していたのです。

そんなこちらの実感にはかかわりなく、事前に渡された板門店ツアーの注意書きには、「Tシャツ、ジーンズ、衿なし袖なし、ミニスカート、サンダル、スニーカーなどなど、ラフな服装はだめ」とありまして、?????となりました。
えーと、行き先は一応、最前線といわれるところのはず、です。動きやすい服装がだめ? それに、7月です。今どき、真夏の女性の服で、衿があって袖があってって、さがす方が難しい気がするんですが。
なんのためにこんな服装規定があるのかわからず、韓国居住の方などが多いBBSへ行きまして、質問しました。
「パンツスーツにしようかと思うのですが、インナーがノースリーブの衿なしカットソーというのもだめなんでしょうか?」なんぞと書き込みましたところ、さっそく親切なお方が、「OK」と答えてくださいました。なんでも、「韓国はアメリカの退廃文化に染まっている」と北に宣伝させないために、板門店では正装をする、というような伝統があるのだとか、です。

で、当日です。
板門店行きのバスツアーは、それ専門のもので、事前予約した日本人観光客のみを大型観光バス数台に集めて出発します。
ガイドさんの説明では、韓国人が板門店へ行くのは審査があって大変なのだそうなのです。その審査を通過したのか、あるいは在日ならばOKなのか、通路を隔てた隣の席のご夫婦は、関西の在日韓国人のようでした。
なんでわかったか、ですって? 関西弁とパスポートです。
やがて車窓に、南北の国境を流れるイムジン河が見えたときには、これなのねーと、感慨深かったのですが、しかし、ガイドさんが突然カセットを仕掛け、「さあ、みなさん、ごいっしょに歌ってください」と、ザ・フォーク・クルセダーズの『イムジン河』をかけたときには、あらま、と苦笑してしまいました。

『イムジン河』は、日本における半島南北対立の因縁の歌なんです。
リアルタイムで知った話ではなく、人に聞いたり、なにかで読んで得た知識なんですが、1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズというフォークグループが、『イムジン河』という北朝鮮の歌をうたっていました。訳詞は松山猛です。

イムジン河水清く とうとうと流る 水鳥自由に むらがり飛びかうよ
我が祖国南の地 思いははるか イムジン河水清く とうとうと流る

歌は、知っていました。昔、この歌が好きな知り合いがいて、教わったんです。
レコードにはなっていませんでした。
1968年、シングルレコード発売が予定されていたにもかかわらず、突然、中止になったといいます。それは当時、「堕落した西側退廃文化で汚すな」という朝鮮総連からのクレームがあったからだ、といわれていたのですが、現在では、少々ちがうお話が出てきています。
総連のクレームは、訳詞が正確ではないことと、朝鮮民主主義人民共和国という国名と作詞作曲者の名前をちゃんと入れろ、ということで、これに、レコード会社がびびったというのです。
作詞の朴世永は、戦前からのプロレタリア文学者で、南から北へ行った南労党員だったのです。当時の韓国からすれば、裏切り者、であったわけでして、「朝鮮民主主義人民共和国 朴世永」などと名前を入れますと、今度は韓国大使館や民団から強い抗議を受ける怖れがあった、といいますか、実際に圧力を受けてやめた、ということのようです。
ただ、この話も、どうなのだろう、と、私は疑っています。
当初、北朝鮮で歓迎されていた南労党の芸術家たちは、やがて粛正され、かなりの数の人々が、悲惨な境遇に置かれて獄死したり、しているんですけれども、朴世永はどうだったのでしょうか。
そして、この訳詞が意訳であるにしても、これが「南の故郷を恋う」歌であることは、確かなのです。当時の北朝鮮が、この歌を歓迎していたとはとても思えません。朝鮮総連もまた、レコード発売を望まず、難癖をつけてみたのではなかったのでしょうか。
総連と民団と両方が騒げば、それは発売中止にもなるでしょう。

今年、この歌を主題歌とした映画が、封切られましたよね。『パッチギ』です。
朝鮮総連のプロパガンダか、と思える部分がなきにしもあらずでしたけれども、悪くない映画でした。
といいますか、音楽の使い方は、非常にすぐれています。オダギリが歌う『悲しくてやりきれない』に続き、主人公がラジオで歌う『イムジン河』の歌に、在日と日本人の河原での乱闘と、そして、在日と日本人の間の子供の誕生の知らせが重なる……。
ただ、けっこうよかっただけに、もう少し多面的な、深みのあるとらえ方をして、プロパガンダ臭を脱することができなかったものかと、残念でなりませんでした。

話がそれました。
私が観光バスの中で苦笑してしまったのは、作詞者の朴世永が焦がれた南の祖国では、この歌はまったく知られておらず、その南の祖国を訪れた日本人観光客のためにのみ、イムジン河のそばで歌が流されている図が、なんとも奇妙なものに思えたからです。

板門店でもっとも印象的だったのは、若いアメリカ兵の笑顔です。
米軍は念願かなって、大多数が板門店から引き上げたのです。
わずかな数が残っているのですが、変わって重責を担った韓国兵が、堅く、緊張しきった様子なのにくらべ、アメリカさんは、実にお気楽な感じで、ニコニコとバスに手を振ってくれたので振りかえしましたが、緊張したその場の空気とのアンバランスが、ちょっと不気味ではありました。

板門店では、服装だけではなく、「並んで整然と行動してくれ」だとか、細かいことは忘れましたが、あれこれと注意が多く、あるいは乗客から文句でも出たのでしょうか。
といいますのも、私たちの前に、アメリカ人の観光バスがいまして、こちらは服装もラフで、あまり注意深く動いている様子はなかったんですね。
ともかく、ガイドさんは、必死になって、「ここではアメリカが一番強いから」とか「みなさんは韓国人に見えるから、なにか事が起これば韓国人と同じに攻撃される」とか、説明なさってました。
そのあたりは、私もおとなしく聞いていたのですが、しかしガイドさんが、「最近では北朝鮮側にも観光客が来るようになっていますから、北の一般の人たちも、ここで遠目ながら韓国側の観光客を見て、様子を知るようになっています」と言い出したときには、さすがにばかばかしくなりまして、つい友達に、「北の一般人が板門店観光になんか来るわけないじゃない、ねえ。北側の観光客なら、中国人か日本人か在日が多いし、北の人で来られるのは特別な人たちだけよ。板門店観光は、北の方が自由にさせてくれるって」としゃべってしまいました。
いえね、北朝鮮旅行記は、ネットでも読んでいましたし、北朝鮮側から板門店へ観光に行くと、かなり自由に行動させてくれるようなのですね。
私は、そう大きな声でしゃべったわけではないので、聞こえたはずはないと思うのですが、他にも私のようなオタクがいらしたのでしょうか。
どこかを見学し、再びバスが動き出したとき、ガイドさんは、「知らなかったんですが、日本の方は北の板門店ツアーにも参加できるんですね。韓国より自由に観光できるというお話ですが……」とか、説明と言いわけをはじめまして、あらら、と肩をすくめました。

写真は、板門店国境のプレハブ小屋で、テーブルの旗の位置が国境なんです。
この小屋は、南から観光客が入るときは韓国兵が中を警備し、北から観光客が入るときは、北朝鮮兵が警備するのだそうです。
この日、北側からは軍人さんが見学に訪れていたのですが、私たちと時間が重なったため、プレハブ小屋へは入れないで帰りました。

なんだかんだと、ガイドさんには迷惑な客だったでしょうけれども、広大な緩衝地帯に生息する野鳥の群を見せてもらい、しかしそこは地雷原で、統一がなってもすべての地雷を取り除くには多大な時間がかかるだろうだとか、緩衝地帯の中だったかすぐそばだったかにも村があり、そこの村人は軍の護衛付きで耕作していて、地雷除去の名人だとか、初めて聞くお話もたくさんあって、行ったかいがありました。

ガイドさんは、「生活レベルが下がっても私は統一を願う」と断言しておられましたが、ぜひ、そうあってください。私も心より、そうあれかしと祈っております。
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水原華城と李朝大奥実録

2005年12月29日 | 韓国旅行
今年の夏は、念願の韓国旅行に行ってきました。
かなり若いころから、一度行きたいと思いつつ行ってなかったのですが、友人がペ氏にはまりまして、連れはできましたし、今のうちに板門店を見ておかなくてはと、決意した次第です。
見たかったのはまず板門店ではあったのですが、世界遺産の水原華城(スウォンファソン)に一日を費やしたんです。

水原華城は李王朝の後期、1794年に築城を開始して3年足らずで完成、といいますから、維新の70年ほど前で、将軍家斉のころです。城といっても、城壁と言った方がいいでしょうか。華城行宮という宮殿を中心とする市街地を、およそ5.7キロの城壁が取り巻き、その各所に、城門や見張り台などがあるんですね。
宮殿を行宮というのは、当時、ソウルから遷都するつもりがあったそうなのですが、結局とりやめになり、王が常に住まわれたことがないから、のようです。
遷都がなかったため、水原華城は長く放っておかれて自然に崩れた上に、朝鮮戦争で完全に破壊されたのですが、詳しい図面が残っていて、1974年、朴正熙大統領の時代に、再建されたものです。
華城行宮はつい先年に再建がなったところで、NHKで放映されている韓国大河ドラマ『チャングムの誓い』のロケにも使われました。

韓国へ行くというので、それならばと、半年ほど買うのを迷っていた本を買って読みました。

梅山秀幸編訳『朝鮮宮廷女流小説集 恨(ハン)のものがたり』(総和社発行)

日本でも、平安時代、ひらがなによって王朝文学が生まれたように、時代は大きく下るのですが、ハングルという表音文字が作られたことによって、李王朝に女流文学が生まれた、というんですね。いったいどんなものだろう、と、読んでみたかったんですが、五千円というけっこうなお値段でして。
読んだ感想ですか? うーん。
小説といっても実録で、フィクションじゃないんです。三編が収録されているのですが、どれも、王妃や王太子妃といった高貴な女人が政争に巻き込まれて、いかにひどい目にあったか、いかに競争相手が不正で邪悪で、自分たちは行い正しかったかを、恨みをこめて延々書き連ねてあるんですね。政治的な主張の書、でもあり、ちょうど、日本がいかに邪悪で、正しくりっぱな自分たちが悲惨な目にあわされたかを、延々書き連ねている韓国の歴史教科書に、気分が似てます。

三編とも著者は、高貴な女人その人か、あるいはその周辺の高級女官か、といわれているそうです。
ともかく、『源氏物語』や『枕草子』、『更級日記』などなどを期待すると、文学的な趣がなさすぎて……、ちょっとげんなりしてくる代物です。
清少納言が、自分の仕えた定子中宮がいかに貞節かつ親孝行で、にもかかわらず一族もろともどれほど悲惨な目にあったか、藤原道長側がいかに邪悪で、やることがきたなかったか、ということばかりを、恨みを込めて書き連ねているようなものなのです。
しかし、文学じゃなくて実録、と思い定めれば、興味深く読めまして、まあ、李王朝大奥独白録、という感じでしょうか。
やはり、時代が下るにつれ、ハングル文がこなれてくるのでしょうか、三編のうち一番読み応えがあり、記述に客観性が出てくるのが、荘献世子の正妃で、正祖の実母だった恵慶宮洪氏本人が綴ったといわれる『閑中録』です。

実は、水原華城を作ったのは、この正祖なんです。
若くして米櫃に閉じこめられて餓死させられた父、荘献世子の遺骸をこの水源に祀り、亡父のそばに遷都したい、ということだったんですね。
荘献世子を餓死させたのは、その父の英祖で、恵慶宮洪氏は、夫の無惨な死を間近で見守るとともに、陰惨な権力闘争にもまきこまれ、自分の息子が世継ぎになったにもかかわらず、長らく閉塞をよぎなくされます。
成長した正祖は、亡き父への追慕の念深く、日陰の身のままで年老いた実母にも孝心を持ち、完成した水原華城へ母を伴い、大宴を催します。
写真は、現在、華城行宮に人形で再現されている、そのときの恵慶宮洪氏と女官です。

ともかく、『閑中録』を読んで間もなく歩いた水原華城には、恵慶宮洪氏の恨みの念が……、恨(ハン)二百年、漂っているような気がいたしました。

あー、ご参考になるかどうかわかりませんが、水原へは、ソウルから車を雇って、日本語ガイドさんつきで行きました。個人一日ツアーというやつですね。
水原の名物はカルビなんですが、食べあきましたので、昼食はカルグクス(うどん)と饅頭(餃子と肉マンのあいのこみたいなもの)が食べたい、とリクエストしましたところ、華城行宮の近くで、ガイドさんが店をさがしてくれました。
大衆食堂といった感じの地味な店で、ハングルのメニュー書き以外なにも表示がなく、ガイドさんがいなければ、そこがカルグクスと饅頭の専門店だとは、とてもわからなかった店です。実に美味、かつ安価でした。
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ナショナリズムと中国空軍病院

2005年12月28日 | 時事感想
ここのところ、雑誌を買ってきたり、ネットでニュースを見たりで、中国関係のニュースにふれることが多く、去年、中国情報機関の脅迫で、上海総領事館職員が首をつっていた、というニュースが目にとまりました。
かなり前から日本は、スパイ天国といわれはおりましたし、スパイ防止法さえない現状では仕方のないことですが、外務省の脇の甘さも、指摘はされておりましたけどねえ。
まあ、なぜいまごろになって、という疑問もないではないのですが、スパイ防止法でも制定する気運が出てきているのでしょうか。だとすれば、喜ばしいことですが。

ちょっと話がとびます。
仕事で、地方史を調べる機会が多かったのですが、昭和初期というのは、地方にとって、ほんとうにやってられない時期だったのだなあ、と、思ったものです。
よく、農村の惨状といわれ、東北の農家が食べていけないで娘を売った、という話が出てきて、凶作と米価の下落が語られるのですが、私の住んでいる四国では、同じ農村の話でも、ちょっとちがうような感じを受けるのです。
明治以来、殖産興業が叫ばれて、農村においても、輸出できるものの生産が、盛んにすすめられていたわけですよね。うちの県では、絹糸、磁器、蝋、手漉き和紙といったものが主な産物でした。
これらの輸出が、たとえば絹糸は化学繊維の普及でだめになりますし、蝋は蝋燭の需要が減ったことが大きかたのでしょうし、紙は工場生産の洋紙にとってかわられ、磁器は中国や東南アジアへの輸出が、中国の反日政策や宗主国の施策で激減し、ともかく、すべて売れなくなってしまったんですね。

私は別に、地場産業全体の歴史を調べていたわけではなく、伝統産業の歴史を、それぞれに調べる必要がでてきて、後で思い合わせてみると、みんなそうだったわけなのです。
ただ一つ、ちがうものがありました。
私が住んでいる市は、県庁所在地ですが、平成の大合併で吸収した隣の市(現在は郊外の通勤通学圏ですが、農村地帯ではあります)に、明治から続いた製薬会社があるんですね。
必要があって、その会社の歴史を調べましたところが、この会社が大きく発展したのは、昭和初期なんです。満州に販路がひろがったんです。

中国大陸への日本軍の侵攻は、学校教育では、軍部の暴走と教わるのですが、民衆の支持がなければ暴走もできないわけでして、それも、ナショナリズムの高まりだけでは説明できないことでしょう。経済的要因が大きかったのです。

よく、現在の日中関係で、メディアなどは、日本側のナショナリズムを危惧する、というような論調を載せたりしましが、私がそれをばかばかしく思うのは、現在の日本には、他国を攻める軍備はまったくありませんし、そんな軍備を整えることは不可能だから、です。
まあ、あれですね。メディアの論調も経済ゆえ、なんでしょう。
現在の日本では、経済的利益とナショナリズムが大きく乖離していて、ナショナリズムの暴走の心配がない点は喜ばしいのですが、むしろ逆に、乖離しすぎなところに、心配の種が転がっているように思えます。

つい先日、母が病院へ行き、偶然、知り合いに出会いました。
その方は、肺癌が再発なさったそうなのですが、一年前とくらべたら、とても元気そうだったとのことなんです。聞くところによれば、一千万だか三千万だか払って、中国空軍の病院で特別な治療を受け、すっかりよくなったといいます。
なにそれ? と思って、ぐぐってみたら、ありました。
北京空軍総医院というところで、京大に留学していた夏医師という方が、ボディ型ガンマナイフという放射線治療の一種の特許を持っていて、どうも、ここでしか治療が受けられないらしいんですね。日本で入院の斡旋をしているのは、元通産省のお役人だか、という話です。
母が聞いてきたところでは、その空軍病院の広いワンフロア全部が、外国人専用となっていて、入院患者は日本人だけではなく、アメリカ人もいればフランス人、スイス人と、国籍もさまざま、なのだそうです。賄賂の額によって待遇もかわってくるので、医師や看護婦長から賄い人まで、お金をばらまく必要があるだとか。
なお、そこに外国人患者がいることは、中国国内では秘密なので、回復期になっても、その病院のそのフロアから外へ出ることは、いっさい禁じられているという話でして。

で、その病院の膨大な儲けが、中国空軍の軍備の足しになるのかと思うと、なんとも複雑な気分です。儲けの元の夏医師を育てたのは、国立の、つまり日本の国税で成り立っている、京大ですしねえ。
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ディープに飛んだ百四十万

2005年12月27日 | 時事感想
今日もまじめに書くつもりだったんですけど、いただいたTBがあまりに笑えましたので、つい。

痛いニュース(ノ∀`) ディープインパクトはとんでもないものを盗んでいきました。私の140万円です!

元ネタ、どこの板かいな、と思ったら、芸スポN速+だったんですね。
当然ながら、スレッドはすでに過去ログになってました。
あー、競馬のロマンにひたっているところへ、なんというTBをいただいたものでせう!
……って、百四十万あれば、かなり豪華に、凱旋門賞、見にいけますね。

男はん……、絶対に、この百四十万すったお方は、男性だと思います。
いや、中村うさぎさんみたいな方もおられますからねえ、わかりませんけど。
昔、東京にいたころ、月に一度は、かならず馬券を買っていた時期があったんですけど、費やすお金は、一回に三千円と決まっていました。
千円で三点流し、です。千円しかかけないんですから、どうしても、中穴ねらい、になります。
大好きな馬の晴れ舞台になると、別に単勝千円買うんですけど、これは、応援馬券とでもいうんでしょうか、記念なんですね。

オークスで、大好きな馬が本命となり、府中へ出かけたときのことです。
近所の競馬好きのにーちゃんたちと、偶然出会いました。
「おー! 今日はかなり単勝買うんでしょ?」と聞かれ
「千円」と答えると、馬鹿にされました。
大好きな馬が、まちがいなく本命とされているのに、千円はないだろう、というのです。
実際、私好みの後方からの追い込み脚質で、府中は直線が長いので有利ですし、それまで、牡馬まさりの成績を残していましたので、オークスは確実視されていたんです。
でもねえ、突然骨折するかもしれませんし、騎手が落馬するかもしれませんし、競馬はなにがあるかわかりません。応援馬券ならば、千円までかと。

あー、大好きな馬は勝ちました。単勝はあまりつかなかったんですが、流しがあたって、たしか一万数千円くらいにはなり、にーちゃんたちに夕食をたかられたような記憶があります。

あのときは、男はんの度胸がうらやましかった!
単勝二倍から三倍くらいだったと思いますので、十万かけていれば、二、三十万にはなったんですよね。あたった流しの方にそれだけかけていれば、百数十万、だったんですけどね。

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構造改革と廃村

2005年12月26日 | 時事感想
昨日のディープインパクト敗戦ショックが尾を引いていますが、気をとりなおして。
先日、過疎の村に人がいなくなり、次々と廃村になって、鎮守の神様が消え、治水にも影響が出ている、というようなことをNHKのクローズアップ現代でやっていました。
つい、なにをいまさら、と思ってしまいました。

かなり以前、仕事で、四国の僻村を取材してまわりましたが、暗澹とした気分になったものでした。
僻地の山村には、仕事がないんです。
木材は育てても赤字ですし、シイタケや果実などの農作物は、いくらでも外国から安価なものが入ってきます。土木工事と役場関係の仕事で、ようやく、細々と過疎地に人がいたんです。その片手間で、農業や林業をしていたわけです。
土木工事は、税金の無駄使いだったかもしれませんし、利権もあったでしょう。しかし、それで雇用が生まれ、薄くても、全体に金がまわっていたんです。
もはや日本の経済に、そんなことに金をまわす余裕は、なくなったんですよね?
構造改革が僻村をつぶすことは、やる前からわかっていました。

そういえば、最初に構造改革が叫ばれていたころ、行きつけのチャットで論争して、「そんなことばかりしていたら、過疎地に住む人がまったくいなくなる」と言ったのですが、だれも、賛同してはくれませんでした。
「インターネットが発達するし、僻地でもできる居宅の仕事が増える」とかいっていたおじさんも、いましたっけ。
あー、ね。パソコンが壊れたって、僻地に住んでいれば、すぐには直せませんわね。街にいれば、仕事でどうしてもすぐに必要な場合、買いに走れます。実際私は、一度、どうしてもその日にパソが必要なので、買ったことがありました。
それに、ずっと居宅でできる仕事なんて、めったにないですよね。
同じころ、地方紙の特集で、瀬戸内海の小島に住んで、世界的な仕事をしている外国人の話などが載っていましたけれど、それは、馬鹿げた大赤字の土木工事、といわれている瀬戸大橋今治尾道ルートぞいの小島で、広島空港に短時間で行けるようになったところ、なんです。

また、子供の教育の問題もあります。僻村では、通う中学校や高校も遠く、寄宿舎だったりします。経済的に余裕が有れば、高校から下宿させて街へ出しますけどね。
私自身は、これまでずっと都市生活者でした。
家庭の事情で、高校を出た後、僻村の生家に留まらなくてはいけなくなった若い子を知っていましたが、そのやりきれなさは、聞いて十分に理解できましたし、村を出たいという気持ちも、もっともに思いました。
いえ、生まれた土地に愛着がないわけではないんです。しかし、若い子にとって僻村の暮らしは、あまりにも刺激がなさすぎ、束縛ばかりが多いんです。
鎮守の神様や伝統行事の保存といったって、若者は少ないですから、そのごく少ない若者に、過重に負担がかかります。さまざまな村の行事やつきあいに、都会に住めば自分の自由になる時間を、すべて捧げなければならないんです。
高校や大学、あるいは就職で街へ出て、やがて結婚して子供ができて、都市に生活が根付けば、とても僻村では暮らせなくなります。
そういう子も、知っています。彼女も、彼女の兄弟も、もう、生まれた村には帰らないでしょう。愛着は深くても、住める場所ではなくなっているのですね。

私はもう、あきらめています。
国家経済に余裕がなくなった、というなら、それもそうなんでしょう。
確実にできることは、都市居住者から、治水税か環境税といったような、反対の少ない名目で金を集めて、過疎地にまわすこと、くらいじゃないんでしょうか。
私? 都市居住者として、もちろん喜んで払います。
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無敗で凱旋門賞挑戦の夢破る

2005年12月25日 | 日仏関係
あー!!!!! 負けてしまいました。ディープインパクト。
うちの地方は、中央競馬の馬券売り場がなく、地方紙は三冠馬誕生のニュースさえ、まったく載せないほどですので、現在の競馬に詳しいわけじゃあ、ないんです。
でも、東京にいたころは、けっこう見ていましたし、少しながら馬券も買っていました。好きな馬の晴れ舞台には、府中まで足を運んだこともあります。

私は、追い込み馬というんでしょうか、後方にいて、直線一気に刺す馬が好きです。しかし、後方から前へ出るには、大外をまわらなければならなくなることが多いですし、進路があかなかったりで、不運に泣き、三冠馬などには、なかなかなれないんですね。
今年の皐月賞を見て、びっくりしました。
皐月賞は短距離です。短距離だと、先行馬の方が、通常有利なんです。
ところがディープインパクト、出遅れて最後方をいき、大外をまわって、直線、楽々と勝ったんです。
うそだろ~!? と、驚くと同時に、もちろんファンになりました。
ダービーの勝ち方も圧倒的でした。
菊花賞は、ちょっと不安だったんです。逃げた馬が、非常にうまかった。スローで逃げられると、追い込み馬は、最後、届かないんですよねえ。
それでも勝ってしまったディープインパクト。
先日、日本語版ニューズウィークを買ってきましたら、ディープインパクトが記事になっていまして、来年、凱旋門賞に挑戦する予定があるようなことを書いていました。有馬記念に勝って、無敗の凱旋門賞挑戦を期待したのですが……。
勝ったハーツクライのルメール騎手、上手かったですねえ。
先行馬に届かない、という悪夢を見てしまいました。

昔、凱旋門賞を見てみたくて、あのときもエミール・ゾラの『ナナ』を、読み返していたんですよね。
ロンシャン競馬場で、凱旋門賞に勝つ日本馬を見たい! 夢です。
1867年、維新の前年、日本使節団はナポレオン三世にロンシャン競馬へ招待され、競馬を見て、上流階級が賭博をすることに驚いたのですよね。
鹿島茂氏の『怪帝ナポレオン三世』によれば、ロンシャン競馬場も、ナポレオン三世によるオスマン大改造の一環として計画されたもので、1857年に完成し、1863年にはパリ・グランプリが催されて、いまなお世界の競馬ファンを集めている、のだそうです。

こうなったら、無敗でなくてもかまいません。
ぜひ、ディープインパクトには、凱旋門賞に挑戦してもらいたい!
そして……、見に行きたいものです。
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幕末ラッコ姫

2005年12月24日 | 幕末東西
えーと、昨日の文章がまだ仕上がっていませんが、それはゆっくりと終わらせます。
寒さのあまりにビーバーの編み込みの上着を買い込んでしまいまして、思い出したことがありまして。
ビーバーって、物語なんかに出てくる、かわいいビーバーです。養殖でしょうけど。
友人が、海外のオークションサイトで、とても安く、中古の毛皮のマフを手に入れまして、それがどうも、アザラシかラッコの皮ではないか、というのです。
「ラッコ!? ラッコの皮ってどんなのか見てみたい!」という私に、友人は「えっ?」と聞き返しました。

いえね、昔、幕末物語を書こうとして挫折した話なんですが、主人公が幕臣の娘、という設定でして、函館戦争に参加するんですね。で、降伏間際に五稜郭を抜け出しまして、なにかこう金儲けをさせねば、この子、食べていけないではないか、と、考えたわけです。
そこで思いついたのが、ラッコ狩りです。
当時の欧米では、ラッコのマフが流行でして、ラッコはカリフォルニアにたくさんいたらしいんですが、取り尽くしたんですね。
それで、アメリカ人が目をつけたのが、開港したばかりの函館から近い、日本の北方領土、千島列島です。わんさかラッコがいて、地元のアイヌとかが捕っていたのは、ほんの少しでしたから、猟銃をそろえ、船を仕立てて乗り込めば、おもしろいように捕れたのです。
最初に、カリフォルニアのラッコ猟師が千島列島のラッコに気づいたのは、実際には、明治5年のことなんだそうです。しかし、その前に気づいていたアメリカ人がいたかもしれないじゃないですか。
そういうアメリカ人が函館にいて、船を仕立てる費用を出資してくれたとすれば、鉄砲は五稜郭から持ち出せますし、撃ち手の人数もそろうでしょう。
ラッコ猟で金もうけさせよう! と思いつきまして、そのころよく電話で話していた幕末好きの男性の友人に、延々と、構想を語りました。
「ラッコ姫かいな。やめときいな。ラッコを殺すんは読者に好感もたれへんで」
と彼は言ったものでした。

さて、それを聞いたマフの友人も、言いました。
「ラッコ姫!? やめた方がいいですわ、ラッコを殺すなんて」
「あら、でも、ラッコのマフが流行ってたんですし、だれかが狩らなければ、マフもできませんわよ」
と、私。
「好感度の問題です。こう、北海道なら薄荷なんかのハーブを作るとか、もっとなんかあるでしょう」
えー、開拓農業なんて大変だし、五稜郭を脱出した連中がすぐにもうけられる、という話なんだから、地道な農業、なんてねえ。
と、思いはしたのですが、ラッコ姫は、昔も今も不評です。
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慶喜公と天璋院vol2

2005年12月23日 | 幕末の大奥と薩摩
さて、将軍後見職を押しつけられた一橋慶喜公から、お話をはじめます。
才気にあふれているだけに、自分の置かれた立場は十分に見えていて、うんざりしたでしょう。
幕府からありがたがられるわけではありませんし、一橋家の当主である以上、幕府に敵対するわけにもいきません。となれば、なにをどうしようと、かならず朝幕両陣営から文句が出るでしょう。かといって、久光のように、自前の軍団を持っているわけではなく、どちらにも圧力のかけようがないのです。

これは、宮尾登美子氏もそのように描いておられたことなのですが、どうも、一橋慶喜というお方は、相手によって、がらりと態度を変えるようなところがおありだったのではないか、という気がするのです。
言い方をかえるならば、育ちがよすぎて正直すぎる、とでもいうのでしょうか。相手に対する感情が、無意識のうちに態度に出てしまう、ともいえるのですが。
久光がしたことを思えば、慶喜が最初から久光に好感が持てなかったことは、理解できます。しかし、したことだけではなく、久光が側室腹の薩摩育ちであったあたりに、消しようのない軽蔑を、慶喜は抱いていたのではないのでしょうか。
だいたい、父親の水戸烈公が、正室が有栖川宮家の王女であることを誇り、側室でさえも、京の公家出を、異常なほどに好んだお方です。天璋院が将軍家へ嫁ぐについても、分家の出であることを察知し、難色を示したともいわれます。
そして、烈公が、数多い息子の中でも、慶喜を特に将軍候補にと押したのも、慶喜が正室の子であり、有栖川宮家の血を引いているから、であったわけです。
慶喜が十一歳で一橋家へ入ったときのことです。初めて大奥を訪れ、奥女中たちに母親の名を問われ、「麿は有栖川の孫なるぞ」と呼ばわり、奥女中たちを平伏させた、という伝説があるのですが、やはり、それを誇るような気配はあって、そういう伝説も生まれたのではないのでしょうか。
もしも、この推測があたっているとしたならば、天璋院に対しても慶喜は、外様の分家の出の分際で将軍家の正室におさまっている、というような反感は持っていたでしょうし、まして、同じ島津家の久光のおかげで災難がふってわいたところなのですから、慇懃にふるまいながらも、どこか、侮蔑の色がにじみ、投げやりな応答になったはずです。
それを受けた天璋院が、この人はやはり将軍になれなかったことが不満なのか、だとすれば、後見職などといってもみても、本当に徳川家のために、そして家茂のために働いてくれるつもりはないだろう、と感じたとしても、無理はないでしょう。

久光東上の後、政局の舞台は、江戸から京都へ移ります。
安政の大獄以前、すでに流動化のきざしを見せていた朝廷は、久光の上京で力を得て活気づき、さらには藩をあげて尊攘志士化した長州の手入れで、すっかり下克上状態となり、これまでの機構は機能しなくなりました。
しかし、かといって、新しい機構が整ったわけではありませんので、そうなってくるとかえって、孝明天皇の真意はかき消されてしまいます。
テロの横行については、桜田門外の変の大きな後遺症だったでしょう。
安政の大獄では、大名から公家まで弾圧されましたから、本来、大老を暗殺するなどという秩序破壊の行為に、共感する立場にはないはずの賢侯や高位の公家までが、これを義挙、と見たのです。
大獄で隠居させられていた土佐の山内容堂などは、「亢龍元(くび)を失う桜花の門、敗鱗は散り、飛雪とともに翻れり」にはじまり、「汝、地獄に到り成仏するや否や、万傾の淡海、犬豚に付せん」という、すさまじい漢詩をつくっています。
「亢龍」とは井伊大老、「万傾の淡海」とは大老の彦根の領地です。
つまり、「首を失って負けたおまえが成仏できるものかな。おまえの領地は犬や豚にくれてやれ」というのですから、なんとも格調の高い罵詈雑言です。
しかしその容堂が、土佐の内政においては、公武合体派の吉田東洋を片腕としていて、土佐勤王党が東洋を暗殺するにおよんでは、暗殺者に激昂し、徹底した究明を命じました。
久光にいたっては……、私は、京のテロの最初の一石となった島田左近暗殺は、ひそかに久光が命じたものではなかったか、と思っています。
島田左近は、幕府よりの九条関白家の侍ですが、大獄の時には大老側にたって、京の公家や志士たちの動向をさぐり、報知していました。
近衛家はこのために当主が辞官、落飾に追い込まれ、恨みとともに怯えを持っていたようなのです。この時期、久光への書簡で、「京にいてくれなければ九条家の島田がなにをするかわからない」というようなことをこぼしているのです。
島田左近の暗殺犯としては、薩摩の田中新兵衛、志々目献吉、鵜木孫兵衛の名があげられていますが、志々目、鵜木は、探索方とでもいうのでしょうか、あきらかに薩摩藩庁に属していました。
つまるところ、桜田門外の後遺症で、テロは正義になり、公家は暗殺におびえて、尊攘派の志士の言うとおりに動くようになってしまったのですね。
孝明天皇の意志もなにも、あったものではありません。

京へ出た慶喜は、有栖川宮家の血を受けているだけに、公家に幻想は抱いていませんし、才覚のある人ですから、長州や志士たちがふりかざす天皇の意志など、真意ではなく、偽勅に近いものが数々発せられている、というからくりは、十分に見透かしていたでしょう。
尊攘派に牛耳られた朝廷からは、攘夷の総大将として期待をかけられますし、かといって慶喜のよって立つ地盤は幕府の下にあり、下手に動けば幕府主流派から疑われます。それよりなにより、慶喜はそもそも開国派です。
なんとも微妙なその立場からするならば、できるかぎりの事をしたとはいえるのですが、あげくの果てに、攘夷を宣言しておいて、将軍家茂を置きざりにして江戸へ帰り、将軍後見職を辞してしまった、というのは、どんなものなのでしょうか。
少なくとも、幕府の側からするならば、誠意ある態度とは見えませんし、ならば最初から将軍後見職を固辞してくれ、という話にもなってきます。

無法地帯となった京の状況を一転させたのは、またしても薩摩でした。
久光は、江戸から引き上げる途中、行列に割り込んできたイギリス人たちを斬らせて、薩英戦争を余儀なくされていました。そのために国元に帰っていたのですが、朝廷を牛耳る長州に、反感を募らせてもいました。
薩摩が、京都守護の任務についていた会津藩と手を結ぶにいたったのは、京に残っていた高崎正風の働きによります。彼は久光の側近でした。
薩摩は、中川宮を動かし、孝明天皇の真意をさぐり出して、クーデターの決意をかためたのです。しかし自藩兵は、薩英戦争のために、京へ多数を送ることはできません。しかし、孝明天皇の大和御幸が策されていて、京の状況にも猶予がありません。それで会津と組むことを決意したわけですから、久光の指示による藩の方針、以外のなにものでもなかったはずです。

薩摩が会津と組んで、京から尊攘派を一掃した八.一八クーデターの結果、再び、慶喜は京に帰り咲きます。幕府は、慶喜の行動に疑念を抱きながらも、朝廷との橋渡しを、慶喜に頼らざるをえなかったのです。
長州が追われ、尊攘激派の公家や志士たちがいなくなった朝廷では、新しい政治の形の模索が、はじまっていました。
参与会議です。参与に任命されたのは、賢候と呼ばれた大名たちで、もちろん、島津久光がその中心にいました。慶喜は、幕府を代表しての参加です。
慶喜が、久光を気に入らなかった気持ちは、わかります。
元々の反感に加えて、新たに、してやられた、という気分が加わったでしょう。
孝明天皇の真意を引き出し、会津と結んで朝廷クーデターを起こすことならば、中川宮を動かす機略を持ち、決断と度胸がありさえすれば、できたことなのです。
外様の田舎者とあなどっていた久光に、それをやられてしまい、参与会議の中心に座られてしまったのです。
横浜鎖港というばかげた提唱を幕府がして、その幕府の意向を背負うという窮地のなかで、慶喜は、あまりにも正直に、その気持ちを表明してしまいました。
久光と松平春嶽、伊達宗城とともに、中川宮邸で供応を受けたときのことです。慶喜は泥酔し、中川宮につめより、「薩摩の奸計は天下の知るところなのに、宮は騙されておられる」と放言し、久光、春嶽、宗城の三人に、「天下の大愚物、大奸物」と罵声をあびせ、さらに宮へ、「久光を信用するのは薩摩から金をもらっているからだろう。ならば、これからはこっちが面倒をみるからこっちのいいなりになればいい」とまで、言いつのったのです。

これは、慶喜にとって、取り返しのつかない失敗だったではなかったでしょうか。
久光は、基本的には、公武合体をよしとしていたのです。田舎者のくせにえらそうであろうが、考えなしの行動で波瀾をまきおこす無骨者であろうが、薩摩の事実上の支配者です。なんとしてでも、幕府側に取り込んでおくべき人物だったのです。
久光は、正室の子ではなく、江戸育ちではないことに、コンプレックスを持っていたでしょう。しかしそれと同時に、薩摩人としての誇りを、強く持っていた人です。
中川宮の面前で、春嶽や宗城もいる中、年下の慶喜に、ここまで罵られた屈辱と怒りは、生涯忘れられないほどのものとなったのではないでしょうか。
この事件は、決定的に、久光の気持ちを幕府から遠ざけました。西郷隆盛の京都返り咲きという薩摩の方向転換は、この直後です。

江戸の大奥にいる天璋院は、この事件を知らなかったでしょうか。
この時点では、江戸の薩摩屋敷との連絡もあったでしょうし、天璋院は近衛家の養女で、京の近衛家の当主・近衛忠房は、妻も母も島津家の養女です。ちょうど、将軍家茂が上京していたときですし、情報を集めようとすれば、噂がまいこんだ可能性は十分にあります。
知っていたのではないか、と思うのです。
自分の実家を罵られて、気分のいい人間は、あまりいないでしょう。
それ以上に、慶喜の行動は馬鹿げています。
天璋院にしてみれば、将軍家と家茂のためを思うならば、島津家を遠ざけるべきではない、と、暗澹とするしかなかったのではないでしょうか。

慶喜の側に立ってみるならば、久光を遠ざけたことは、一面、朝廷における慶喜の行動を軽快にしました。
なんといっても慶喜は、有栖川宮家の血を受けています。孝明天皇にしても、中川宮にしても、慶喜には身内の感覚で接し、信頼することができたはずです。
そして慶喜は、実に誠実に雄弁をふるって孝明天皇を説得し、きっちりと勅状を引き出して、京に一会桑政権を築き上げました。一会桑とは、一橋、会津、桑名です。外様を遠ざけ、がっちりと公武合体をめざしたわけです。
あまり知られていないことですが、長州攻めの幕府軍は官軍です。二度目の征長のときも、ちゃんと孝明天皇の勅命を得ているのです。
長州寄りの路線をとり、倒幕に傾きはじめた薩摩の大久保利通は、この勅命を「もし朝廷これを許し給い候らはば非議の勅命にて」と、西郷隆盛宛の書簡に書き残していますが、いくら非議の勅命でも、勅命は勅命で、しかも偽勅ではなく、慶喜が誠実に引き出したものだったのです。

第二次征長の幕軍苦戦の中、将軍家茂が大阪城で病に倒れ、死去します。当然、世継ぎ問題が起こってきますが、このとき天璋院は、家茂の遺志は田安亀之助(後の家達)にあったとして、慶喜の将軍就任に反対したといわれます。
しかし、亀之助はわずか四歳です。征長の最中であってみれば、幕閣としては、中継ぎであったにしても、慶喜を立てるしかなかったでしょう。
そして、慶喜の将軍就任は、暗黙のうちに、中継ぎと意識されていたのではないか、と思われます。慶喜の正妻は、大奥へ入ることなく、一橋屋敷に留まりました。

慶喜は、徳川家の宗主の座は受けるけれども、将軍職は受けない、と、しばらくの間、がんばり続けます。これは、幕閣の全面支持をとりつけるための闘争であると同時に、孝明天皇へのデモンストレーションでもあったでしょう。
しかし、慶喜が将軍となっそのわずか20日後、慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇が崩御されます。
天然痘でした。12月11日に罹患され、回復のきざしを見せながら、突然、崩御されたのです。当時から、毒殺の噂がありました。
ついに将軍となった慶喜にしてみれば、思いもかけない出来事で、大きな打撃だったでしょう。
一方の薩長にとっては、あまりにも都合のいい崩御です。これで、「非議の勅命」を気に病むことはなくなるのですから。
私は、家茂が毒殺されたとは思いませんが、孝明天皇の毒殺は、考えられるのではないかと、つい、思ってしまいます。

話を先へ進めましょう。
大政奉還をして、慶喜はほんとうに、政権を手放す気でいたでしょうか。
ちがうと思います。政権の受け皿が出来上がっていたわけではないのです。
幕府は、諸藩を統べる中央政府でした。その役割を、突然朝廷が果たせるはずがありません。朝廷には、まったくといっていいほど、領国もなければ、経済的基盤もないのです。

この押し詰まった段階で、慶喜の誤算は、またしても、薩摩を甘く見すぎたことだったでしょう。
武力に訴えなければ、新しい政体の創出は不可能であると、薩摩の大久保と西郷は見切っていました。
薩摩藩は、けっして一枚岩ではなかったのです。久光の慶喜への反感を利用し、二人は徐々に、倒幕へと舵をとってきましたが、最後の止めが、倒幕の密勅でした。
これは、井上勲氏が『王政復古』で述べられていることですが、密勅とは、表沙汰にできないから密勅なのです。そんなものが、なぜ必要だったのでしょうか?
薩摩にとっては藩内向け……、久光を説得するため、でした。
もちろん、この密勅は、かぎりなく偽勅に近いのです。

そして、鳥羽伏見です。
慶喜は、最初から、戦いを避ける気でいたのでしょうか?
たしかに、好んで戦をする気はなかったでしょう。しかし、幕軍は「討薩の表」を持って京へ向かい、それを慶喜は、知らなかったわけではないようなのです。
ほんとうに、なにがなんでも戦いを避ける気でいたのならば、例え不可能でも、孝明天皇を説得したときの誠意をもって、幕軍の首脳部を、説得するべきだったでしょう。
薩摩への憎悪は、このときの慶喜の目を曇らせていたでしょうし、戦になるならなれ、負けることはない、くらいの気でいたと、私は思うのです。
そして、幕軍の敗退です。慶喜は、これに怖じ気づいて、軍艦に飛び乗り、江戸へ逃げ帰ったのでしょうか? いいえ、そうとも思えません。
薩長軍が押し立てた錦の御旗ゆえ、ではなかったのでしょうか。
朝敵になったことが、怖かったのです。
最初から最後まで、このお方は、理念に生きたのではなかったかと、私には思えます。あまりにも長い期間、一橋家の当主であるというだけで、最終的な責任のない立場にいたための錯誤も、あったでしょうし、なによりも育ちがよすぎて、才気走りすぎ、下のものを思いやる想像力に欠けたのではないでしょうか。
そして、現実にそこで戦っている兵士たちよりも、路頭に迷うかもしれない幕臣たちよりも、自分が朝敵となり、歴史に汚名を残すことの方に、リアリティーを感じてしまったのです。
置き去りにされた幕軍にとってみれば、あまりにも無責任な放り出され方であったでしょう。
「非議の勅命」など、どうでもいいではありませんか。
そう思いさだめられなかったところに、このお方の、悪い意味での育ちのよさがにじみます。

逃げ帰ってきた慶喜に泣きつかれて、天璋院は、その無責任にあきれ、煮えくりかえる思いだったことでしょう。最初は会わないとつっぱねていたものを、幾度も懇願され、周囲に説得され、ようやく会ったといわれています。
しかし、天璋院にも負い目はあります。実家が仕掛けていることなのです。
慶喜のため、ではありません。
徳川家の御台所として、できる限りのことをしなければ、という責任感が、天璋院を突き動かしたでしょう。
そして、徳川家は存続しました。
天璋院は、念願かなって家達を当主として迎え、手ずから養育して、徳川宗家の子々孫々に崇められ、一方で、慶喜を嫌い抜き、世を去ったのです。

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慶喜公と天璋院vol1

2005年12月22日 | 幕末の大奥と薩摩
宮尾登美子氏が、『天璋院篤姫』という歴史小説を書いておられます。
本来、大奥については資料といえるほどの資料がありませんし、フィクションが多くなってくるのは当然なのですが、ここに描かれた天璋院篤姫像には、リアリティがあります。
分家から本家に引き取られ、薩摩から江戸に出て、養父・斉彬公から託された使命を果たすため、将軍家定の正妻となるのですが、実際に一橋慶喜に会って失望し、「なによりも徳川のためをお考えください」というような、大奥総取り締まり・滝山の説得にも心を動かされ、積極的に動くことをやめ、やがて、慶喜を嫌い抜くようになるのです。
宮尾登美子氏は、これについて後書きの対談で、次のように述べられています。

この小説の中で、天璋院が最後まで慶喜を嫌いまして、家茂が毒殺であるということをずうっと終わりまで言いましたね。それは徳川の天璋院が自分の子として育てました家達の娘さんがまだ生きてらして、お話を伺ったんです。私が、取材させていただきました後ですぐ亡くなられましたけど、その方が、おばあさまに当たる天璋院のお話として、「うちの家訓は代々家茂が毒殺されたということを後々子々孫々まで伝えよ」と、天璋院が大変堅く言い伝えたということとか、そういうふうなことは、私は徳川さんのお話を信じていいと思うのです。それで慶喜さんをとても悪く言っていたと。

家茂は紀州徳川家の出ですが、11代家斉の孫にあたります。一橋慶喜と並んで将軍世継ぎ候補となり、大奥はこちらを支持していたのですが、結局、井伊大老の強引な決定で、慶喜を押しのけて14代将軍となり、皇妹和宮を正妻に迎えた人です。
つまり、天璋院の本来の使命からすれば、敵方、であったわけなのですが、天璋院は家茂を義理の息子として大切に思い、一橋慶喜に毒殺されたと信じこんで、徳川宗家の子々孫々にまで伝えていた、というのですね。
いったいなぜ、そうなったのでしょうか。

天璋院は、島津の分家に生まれた人ですから、最初から江戸屋敷の派手な暮らしの中にあったわけではなく、地味で、厳格な武家のしつけの中に育っていて、また、斉彬公から見込まれたのであってみれば、聡明で、美しい女性だったのでしょう。
宮尾登美子氏もそう描いているように、夫となった家定が、夫としての役目を果たせない人物であった、というのも、事実のように思われます。
昨日、藤田覚著『幕末の天皇』を読み返していて、当時、孝明天皇が近衛左大臣に送った書簡に、家定を「愚昧の大樹(将軍)」と述べているのを発見しました。
近衛家は島津家と姻戚関係にあり、広大院の例にならって、天璋院も近衛左大臣の養女として、将軍家に輿入れしていました。近衛左大臣は当然、一橋派です。
それはともかく、孝明天皇が手紙に書かれるほど、家定が「愚昧」であるという評判は、ひろまっていたことになります。

そういえば、フランス大革命で断頭台の露と消えたルイ16世も、当初、男性としての務めが果たせず、王妃マリー・アントワネットの情緒不安定はそこに原因があった、という説があります。
しかし、ハプスブルク帝国の王女だったマリー・アントアネットにくらべて、薩摩の分家の出であった天璋院は、本来は将軍の正室にふさわしくない身分であったわけですから、誇りの持ちようがちがってきます。血筋ではなく、徳川家の御台所の職分を果たすことに、生き甲斐と誇りを見出したのでしょうし、むしろ、夫をかばって自分が徳川家をささえなければ、という責任感を強く持っただろうことは、宮尾登美子氏の描かれた通りだと思えます。

それでいったい、いつ天璋院は、一橋慶喜を嫌うようになったのでしょうか。
その点では、多少、私は宮尾氏と見方がちがいます。
天璋院は責任感の強い人だったようですし、例え個人的に慶喜に好意を持たなかったにしても、養父・斉彬の見識は信じていたでしょう。また、斉彬は徳川家のために一橋慶喜を押していたわけですから、それと夫をかばうことは矛盾することではない、と感じていたでしょう。

天璋院輿入れの直後から、事態は急展開します。
ハリスが来日し、日米通商条約の調印問題と将軍の世継ぎ問題が、同時に切迫した課題となったのです。京の朝廷もまきこんで、一橋派と紀州派が争う中、紀州派の井伊大老が就任し、間もなく将軍家定が死去し、大老の果断により、条約は調印され、家茂が14代将軍となります。
条約の調印は、ある程度、仕方のないことでした。前々回に書きましたように、攘夷戦争を覚悟することで、覚醒した可能性もあるのですが、幕府は藩ではないのですから、それこそ、国が滅ぶ方向へ行った可能性も、ないではないのです。
斉彬や春嶽は開国派ですし、水戸烈公でさえも、最終的に調印を認めてはいたのです。ただ、一橋派は、調印するにしても幕府の政治機構を大きく改革する必要がある、という立場でしたから、その先頭に立ちうる将軍として、慶喜を据えようとし、条件闘争のような形で、京都朝廷の調印反対の気運を利用していました。

で、京都です。
幕府は、日米和親条約については、朝廷に結果報告しただけです。しかし、通商条約については、将軍世継ぎ問題もからみ、諸大名の意見が割れたため、天皇の勅許があれば反対派も納得するだろうと、勅許を得ようとしたのです。簡単に得られるはずでした。
それが……、得られなかったのです。
幕府の意志決断を老中が担っていたように、朝廷もまた、意志決断は最終的に摂政関に任され、天皇はお飾りのはず、だったんです。
将軍が口をききはじめるより早く、「愚昧の大樹」に任せてはおけない、とばかりに、天皇が、動きはじめたんですね。
朝廷も幕府と同じで、頂点はお飾りにすぎない、という政治機構になっていますから、頂点にいる天皇が、それを破って発言をしようとすると、別の回路が必要になってきます。それで天皇は、広く、下位の公家にまで意見を求められ、結果、摂政関白が牛耳るという、これまでの機構は否定されてしまったんです。
長く政治にかかわってこなかった朝廷は、幕府のように国政に責任を持つ機構ではありませんから、天皇のひと動きで、いとも簡単に流動化しました。
その朝廷と、一橋派は手を結んでいるのです。
これは、幕府守旧派から見れば、看過できない事態でした。

井伊大老は、無勅許調印を責めた一橋派の諸侯に蟄居を命じ、弾圧しました。安政の大獄のはじまりです。
この事態に、国元にいた島津斉彬は、軍勢を率いて江戸へ出て、幕政改革をせまろうともくろんでいた、といわれますが、志を果たせないまま、急死しました。
もはや、井伊大老の果断をはばめる者はいません。弾圧は各藩の志士、公家にも及び、志士たちへの扱いは苛烈をきわめました。西郷隆盛は月照をかばいきれずに入水、吉田松陰の死刑と、これが、各藩の志士たちの反幕感情に、火をつけたのです。
わけても、孝明天皇の勅書をもらった水戸藩では、家老や京都留守居役まで死罪となり、藩士たちの反感は強烈だったのですが、薩長の志士たちとちがうのは、やはり反幕というよりは、幕府守旧派や井伊大老個人への恨みが強かった点でしょう。
水戸浪士と、ただ一人薩摩から有村治左衛門が参加して、井伊大老は、桜田門外で首を落とされます。
下級藩士たちが、幕府の大老という最高権力者を斬殺したのです。幕府の権力は失墜し、朝廷に続いて、各藩が流動化するきざしが、見えはじめました。

天璋院はどうしていたでしょうか。
夫の死に引き続き、養父斉彬の死、さらには同じく養父である近衛左大臣にも弾圧の手はのびて、井伊大老に対しては、けっして好感情は持てなかったはずです。
しかし、年若くして将軍となった家茂に対しては、今度は養母として、かばってあげなければ、という強い責任感とともに、好感を抱いていたようなのです。
家茂は、まわりに、「この方のためならば」と思わせる、気配りのできる少年であったようです。
勝海舟も好意的な回想を残していますし、けっして守旧派であったわけではなく、幕府の組織がしっかり機能している場合であったならば、名君と呼ばれてもおかしくなかったでしょう。

さて、桜田門外に続く次の衝撃は、島津斉彬の異母弟、久光です。
斉彬は斉興の正妻の息子でしたが、久光の母はお国御前、お由羅の方です。江戸の町人の娘だったお由羅は、斉興の寵愛を得て、自分の息子を藩主にしようとたくらんだといわれ、斉彬の藩主就任は異常に遅くなりましたし、世継ぎの男子は次々に夭折します。斉彬派の藩士が騒いで弾圧され、お由羅騒動と呼ばれるほどの確執がくりひろげられたのです。
その確執を乗り越えて藩主となった斉彬は、久光の息子を世継ぎに据え、久光に後をたくすのです。
斉彬は正室腹の世子で、江戸で生まれ江戸で育ちましたが、久光は薩摩で育ち、視野が狭く、人付き合いが下手ではありましたが、生真面目だった、とはいえると思います。自分なりに、真剣に兄の意志を継ごうとしたのでしょう。

桜田門外の変の時、誠忠組と呼ばれていた薩摩の尊皇派の一部は、水戸浪士と提携して京へ上ろう、としていたのですが、それを止めたのは、大久保利通に話を聞いた久光であったといわれます。
「幕政改革は藩を挙げて迫らなければ不可能だ」という久光の言い分は、もっともではあったでしょう。
久光は、藩政を掌握し、ついに薩摩藩兵を率いて、京へ、そして江戸へ、向かいます。しかし、井伊大老の弾圧と桜田門外の変を経て、世の中は大きく変わっていたのです。
薩摩が動く、という知らせは、西日本を駆けめぐり、尊皇派の志士たちは色めきたちます。坂本龍馬が脱藩したのも、このときです。
いえ、長州などは藩を上げて、薩摩と連携する気配さえ見せていました。

余談ですが、幕末も早い時期から、なぜ薩摩の軍が他を圧して強かったか。
もちろん、斉彬が軍の洋式化に腐心した、ということもあります。
しかし洋式化とは、外国から新式銃を買えばすむことではなく、簡単にいってしまえば、銃を持つ歩兵を数多く養成すること、なんです。
他藩には、この歩兵がいません。
ペリー来航以来、国防が叫ばれ、各藩は兵士を養成しようとするのですが、そもそも下級藩士の数が少なく、しかも役人化していて、歩兵にはならないのです。そこで大多数の藩は、郷士や農兵を募集しますが、これも、はかばかしくは集まりません。
ちなみに、土佐郷士が勤王党を結成して志士化したのも、もとはといえば、海防のために、土佐藩が郷士をかり集めたことがきっかけです。
しかし、薩摩はちがっていました。農民より貧しいほどの下級藩士の数が、異常に多かったのです。しかも薩摩には、そもそも戦国時代、足軽ではなく藩士が、銃を持って戦った、という伝統があったんですね。
また伝統だけではなく、貧しくて、山の畑を耕したり、開墾に携わった藩士が多い、ということは、それぞれが鉄砲を持っている、ということでもあります。猪などの害から農作物を守るために、必要なのです。

その強力な薩摩藩兵を千人あまりも引き連れ、大砲まで引いて、久光は上京したのです。
久光本人は、幕政を改革し公武合体の実を上げるため、つまりは、幕府のためにやっていることだと、思い込んでいました。
京都で、自藩の尊攘激派を上意討ちにし(寺田屋事件です)、志士たちの期待には冷や水をあびせましたが、それくらいのことで、京に巻き起こった熱気がおさまるわけがありません。
しかしともかく京はそのまま置いておいて、朝廷の勅使を伴い、軍勢をも引き連れたまま江戸へ行き、幕府に脅しをかけて、改革を迫ったわけなのです。改革の目玉は人事で、とりわけ、一橋慶喜を将軍後見職にする、というものでした。
無茶苦茶です。
慶喜が将軍になることと、家茂という将軍がいるにもかかわらず、さらに後見職をかぶせることとでは、まったく意味が変わってきます。
しかも慶喜には、よって立つ地盤がありません。
一橋家は、格式は高いのですが、水戸などの御三家とちがって、領国のある大名ではなく、独自の家臣団がいないのです。必要最小限の家臣は、幕府からの出向でした。
その慶喜が、薩摩軍団の圧力により、朝廷の口出しという形で将軍後見職になったのでは、幕府側が反感を持たないわけがありません。

嫁ぎ先に実家の理不尽な圧力がかかる、というこの事態に、天璋院はどうしていたのでしょうか。
この時期の資料はないらしく、宮尾登美子氏もほとんど触れておられません。
ただ、養子である家茂に、母性愛を育んでいたらしい天璋院の立場に立てば、わが子を貶めるような形で、一橋慶喜が浮上してきたことは、歓迎できなかったのではないか、と思えます。
また斉彬に見込まれたほど聡明であったわけですから、慶喜が将軍になることと、家茂にかぶさってくることとのちがいは、十二分にわかっていたはずです。
そして、おそらくこの時点で、天璋院は慶喜とゆっくりと話し合う機会を、得ていたのではないのでしょうか。
天璋院が慶喜への反感を育みはじめたのは、この時期からであったのではないか、と、私は思うのです。

で、また続きます。次回でしめくくれると思うのですが。

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