郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

普仏戦争と前田正名 Vol1

2012年01月03日 | 前田正名&白山伯

  一応、モンブラン伯の長崎憲法講義の続きでしょうか。これ以降、前田正名のことをまとめて書いたことは、なかったと思いますので。

 あけましておめでとうございます。
 昨年は年明けから体調をくずしていまして、確定申告が終わったらブログ再開、と思っていましたら大震災。その直後に、姪が東京の大学へ進学することになり、その手伝いで、放射能と電力不足の騒ぎの最中の東京へ。
 もともとが、けっこう時事好きの私です。頭の中がもう、すっかり政府への罵倒で渦巻き、熱くなりすぎましてブログも書けないありさま。ついでに禁煙をいたしましたところが、なにしろ私にとりましての書く作業は、ずっと喫煙と結びついてきておりまして、「文章を書くとタバコが吸いたくなるにきまっている」という脅迫観念から、書くことの方もやめてしまいました。
 半年を超えて、ようやくタバコを吸うことの幸せの記憶が少しは薄れてきたかなと。

 それはさておき、去年の11月から、時代劇専門チャンネルで、昔の大河ドラマ「獅子の時代」をやっておりまして、これ、モンブラン伯爵が登場する唯一の大河ドラマです。えー、1~5話がパリ万博でして、事実関係にはおかしなところもありながら、大筋で悪くはないですし、なかなかにおもしろいのですが、モンブランに関しては、ちょっと、ですね。もっと悪者に描いてもいいですから、印象に残る役者さんにお願いしたかったなあ、と。ただの小太りのおっさん、なんですわ。

 そして、さらに。暮れに下の本を読んだんです。

巴里の侍 (ダ・ヴィンチブックス)
月島総記
メディアファクトリー


 「美少年と香水は桐野のお友達」に書いておりますように、正名くんはどうやら桐野利秋のお友達です。
 桐野ファン大先輩の中村太郎さまが、「正名くんが主人公の小説が出た!」ということで、さっそく読まれましたところが、桐野は出てきませんし、ともかくつまらない、ということでして、「坂本龍馬と親しかった、という資料が、あるんですか?」とおっしゃるので、「いや、刀をもらったのは本当らしいですし、陸奥宗光と親しかったみたいですから、親しくないこともなかったんでしょうけど、司馬さんが書いてるほどではなかったと思いますよ」とお答えしますと、「司馬さんが書いているんですか?」。私は、「はい。エッセイですけど」と、ブログの過去記事「龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???」「美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子」をご紹介いたしました。
 それにしても、話をお聞きするだけでつまらなそーですし、その時は読む気にならなかったんですが、宝塚でやるということを知りまして、「正名くんが宝塚??? これはちょっと読んでみなければ!!!」となったような次第です。

 それでー、なにがいやだって、愛がないんですっ!!! 正名くんへのというよりも、この時代に対するー、なんですが。時代物のハーレークイン・ロマンスなんかで、「えーと、なんでこの時代にしてるの? 単にびらびらの衣装着せたかっただけ???」みたいな、コスプレ指向のものがけっこうありますが、それと同じです。

 まっ、そういう大本の話は、順を追ってすることにしまして、細かなお話から始めます。 
 まず、この小説、モンブラン伯爵のパリでの住まいをリヴォリ街だと勘違いしているようなんですけれど、ティボリ街です。
 一見、どうでもいいことのようですが、後述しますように、このティボリ街界隈、かなりおもしろい場所なんです。

 って、パリの話に入る前に、正名くん洋行の状況を整理しておきますと。
 モンブラン伯の長崎憲法講義で書きましたように、正名くんの渡航費用はモンブランが出しています。鮫島尚信在欧外交書簡録に証拠の書簡が入っていまして、確かなことです。

 渡航の時期は、「ニッポン青春外交官―国際交渉から見た明治の国づくり 」(NHKブックス)によれば明治2年11月23日(1869年12月25日)でして、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟に書いておりますが、長州の御堀耕助(大田市之進)といっしょ、です。
 モンブラン、前田正名、御堀耕助の一行に先立ちまして、山県有朋と西郷従道が、パリへ行っています。
 
 国立公文書館のサイト、宰相列伝・山県有朋に「山県有朋露仏2国に差遣し地理形勢を視察せしむ(明治2年)」という書類がありまして、二人の通訳を中村宗見(博愛)が務めています。中村の任命時期から見まして、旅立ちは6月22日以降、のようですね。
 この山県、西郷の渡仏、詳しい資料がなくて困っているんですが、確か「青木周蔵自伝 」(東洋文庫 (168))に、山県と御堀が二人でプロシャに来た、みたいな記述がありましたし、中村博愛はモンブラン伯爵の世話でパリに留学していた薩摩藩留学生ですし、なんといいましても、このときのモンブラン伯爵は日本公務弁理職(日本総領事)ですし、パリのモンブラン邸はそのまま欧州日本総領事館ですし、一行が立ち寄っていないはずはありません。
 ただ、山県、西郷、御堀、そして中村博愛も、普仏戦争開戦直前に欧州を離れまして、確か船の中だかアメリカだかで、開戦の報を聞きました。

 なお、ですね。
 慶応2年の末に新納竹之助(武之助)少年が、慶応3年には岩下長十郎くんが、モンブランを頼って渡仏しておりまして(「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」 「岩下長十郎の死」参照)、ずっとパリで勉学に励んでいたわけです。この二人に、正名くんが日本からの便りを手渡しただろうことは、「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」に書いておりますように、十分に推測できることです。

 モンブランが日本へ行っております間、二人はおそらく、「巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2」の町田清蔵くんのように、とても家庭的な下宿に預かってもらっていたでしょう。あるいは、清蔵くんがいたところそのもの、だったかもしれません。

 で、その下宿の場所です。fhさまの「かっつんころころ☆倉庫」2007.03/03 [Sat] 備忘にもならない戯言3に出てまいりますが、「幕末・明治期の日仏交流 」(中国地方・四国地方篇1)に収録されております入江名簿(明治5年秋頃のものと推定されるパリの日本人留学生名簿)によりますと、新納武之助(竹之助)少年は、オルチュス氏塾で学んでおりまして、このオルチュス氏塾とはなにかと申しますと、リセで学ぶ前の進学塾のようなものです。これまたfhさまのところの2007.02/19 [Mon]にあるんですが、l'Institution Hortus(オルチュス塾)で検索をかけますと、住所は94 rue du Bac(バック通り94蕃地)、唯美派作家ユイスマンスが少年時代に寄宿していた塾だということがわかります。
 「ユイスマンス伝」、読んだのがずいぶん以前でして、記憶がちょっとあれなんですが、ユイスマンスは竹之助くんよりはるかに早く、1856年にオルチュス塾に入り、1862年には名門リセ・サン=ルイ(Lycée Saint-Louis)に進学しています。したがって、いっしょに受業を受けた、ということはありえなさそうなんですが、オルチュス塾の寄宿舎からサン=ルイに通っていまして、わずかながら、同じ敷地にいた時期があったようです。

 私といたしましては、竹之助くんがものすごく不味い食事を出した!といわれますオルチュスの寄宿舎にいたとは思えませんで、教師の家に下宿して塾に通ったのでは? と推測するのですが、やはりそれは、オルチュス塾のあるパリ左岸、サンジェルマン・デ・プレ界隈の学生街だったのではないでしょうか。

 さて、しかし。
 正名くんは一応、モンブラン伯爵の秘書です。
 1870年(明治3年)2月11日(「ニッポン青春外交官―国際交渉から見た明治の国づくり 」)、パリに着いてとりあえずは、ティボリ街の伯爵邸に入ったのではないかと思われるのですが、その場所です。
 Rue de Tivoli.8.(ティボリ街8蕃地)のティボリ街とは、宮永孝氏の論文「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」によれば、現在のrue du Amsterdam(アムステルダム通り)ですが、下の写真、「優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48」、P408の地図によれば、rue du Athènes(アテーヌ通り)です。



 下の本のP82の地図でも、現在のアテーヌ通りが、rue de Tivoliですので、現在のアテーヌ通りとアムステルダム通りが交わるあたりの角、と考えればいいのかもしれません。

「近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂」 (河出ブックス)
北河 大次郎
河出書房新社


  パリ9区、ショセ=ダンタン地区の一部でして、王制復古から7月王制期にかけては、新興大ブルジョワや新興貴族、そして芸術家など、流行りの先端を行く富裕層が住む高級住宅街、であったようです。
 それが、ですね。ちょうど幕末維新と重なります第二帝政期には、あんまりにもサン・ラザール駅が近すぎまして、繁華街すぎて場末っぽい雰囲気もあり、どういうこと???と疑問だったんですが、上の本が見事に答えてくれていました。
 現在のサン・ラザール駅一帯は、ヨーロッパ街区と呼ばれ、ティボリ庭園周辺の土地を中心に、王制復古期の1821年から開発が始まった新興高級住宅分譲地でした。

 現在、サン・ラザール駅のすぐそば、線路の上にヨーロッパ橋があります。



このカイユボットの「ヨーロッパ橋」は、1877年(明治10年)のものですから、正名くんが、故郷薩摩でくりひろげられています西南戦争に思いを馳せながら見た景色です。

 しかし、実は当初の住宅地開発予定では、ここは地上のヨーロッパ広場であり、リヴォリ街の建物のように統一された高級住宅が建ち並ぶ予定、だったのだそうです。
 ところが、です。これと競合して鉄道計画が持ち上がり、1837年、ヨーロッパ広場のすぐそばに、パリ市内初めての鉄道駅であるサン・ラザール仮駅が出現します。しかも計画では、マドレーヌ広場の北側まで線路が延びて、終着駅ができるはずだったのですが、界隈の有力地権者の反対で実現せず、サン・ラザールが終着駅となってどんどんと膨れあがり、すでに1867年(慶応3年)に、ヨーロッパ広場は駅に呑み込まれて、線路の上にかかるヨーロッパ橋となってしまっていた、というわけなのです。
 下は「近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂」P102から、駅が広場を呑み込む経緯を示した地図です。



 
 カイユボットもそうなのですが、マネ、モネといった印象派の巨匠たちがこのサン・ラザール駅を描き残していまして、それはなぜなのか、モンブラン伯爵の邸宅があり、幕末から明治にかけ、正名くんを含む多くの日本人が訪れたこの場所はどんなところだったのか、次回に続きます。

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コメント (2)
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