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郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第5回

2009年12月28日 | 伊予松山
「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第4回の続きです。

「なに、この陳腐で紙芝居みたいな三文ロマンス!!!」って、もちろん、広瀬武夫とアリアズナの恋ですが。
原作にどこまで書かれていたか忘れてしまっているのですが、それにしても、ひどすぎです!!! 当時の軍隊といいますのは、騎兵同士、海軍同士で、例え仮想敵国状態にあっても、仲間感覚があり、そういった海軍同士のつきあいの中から、広瀬の恋も生まれたことは、わかるように描かれていた気がするのですが、「安易すぎっ!!!」なんです。

黄海海戦後の名場面を省いて、気持ちの悪い鴎外のセリフのみにしてしまったのと同じ感覚なんでしょうけれども、平時は同じ海軍士官同士、ロシア海軍士官とも気持ちよくつきあっていた感じが、まったく出ていません。ロシア人の描かれ方が、安っぽすぎます。

あー、私、時系列を勘違いしていたみたいで、今回、夏目漱石が松山に来るシーンがありましたね。
しかし、ひどい描き方です。「坊ちゃん列車に乗れよ!!!」といいますのは、松山人の私ならではの要望なんですが、それよりなにより、「漱石っ!!! あんたはあんたを教師にしてくれた帝大恩師の外山正一に、なんか恨みでもあるのかよっ!!!」です。
「日本人はなんでも万歳」って、あーたっ!!! 「万歳」はつい数年前、憲法発布の折に、東大総長・外山正一が考えついた祝賀の発声でしょうがっ!!! 日本の近代化の象徴です。

で、英学に没頭していた漱石が、松山に来て、子規と共に俳句をやり、日本文芸の伝統をいかに近代的に生かすか、そのきっかけをつかんだのだと、そういう肝腎な部分は、さっぱり描こうとしないんですよねえ。
「万歳」に文句をつけるのなら、「外山先生……、万歳じゃだめなんです。いずれ、あなたの新体詩抄を超えてみせます」くらい言わせませんと(笑)。

はあ、そして、ネイティブ・アメリカンですか。
もう、とってつけたような、現代的紋切り型の迫害されたインディアン登場!!! ですけど、なんの必要があって出したんでしょう。
もともと領域国家を形成していた日本と、ネイティブ・アメリカンをいっしょには語れんですわね。「白人が有色人種を虐げている!!! インディアンと日本人は同じ有色人種なんだっ!!!」って、昭和初期の反英米感情の高まりの中で盛んにいわれたことでして、人種差別があったのは事実ですけれども、当時のネイティブ・アメリカンが、です。必死になって西洋近代を受け入れ、あくせくしている当時の日本人を見て「あなたたちは自由で幸せだ」なんぞということは、およそありえません。受け入れる前の江戸時代の日本人に対してならば、わかるんですけれども。

そして、真之です。
前回が尾を引きましたねえ。部下が一人死んだからって、坊主になるって、あーた。軍人を志しといて、それはあんまりでしょう。で、アメリカへ行き、マハンと冷静に語り合い、米西戦争の観戦にはりきるとは、分裂症です。原作の「坊主になる」が生きているのは、日本海海戦という大舞台を乗り切ったあげくだから、です。前回、下っ端士官で、戦闘時に直属の部下が死んだからって、あそこまでおろおろされたのでは、今回に続くのが変です。

そしてきわめつけは、またしても伊藤博文です。
「いくらなんでも、俊輔(伊藤博文)がそんな馬鹿げたセリフを口にするもんかっ!!!」です。「外交は軍事力でやるもんじゃない」とかなんとか、ねえ。
あーた、俊輔は軍事力で維新を勝ち取った長州閥の中でも、下っ端からのし上がった重鎮ですのよ。当時の外交が、軍事力無しに成り立たなかったことなど、身に染みてわかっていますよ。わかっていたからこそ、恐露症といわれたほど用心深かったんでしょうが。
まっ、日英同盟の交渉の最中に、ロシアと交渉しようとした独断行為を、時の駐英公使・林董は怒ってますけど、一方で、おかげで英国の譲歩を引き出せた、とも言ってますからねえ。狸の中の狸の俊輔ですから、わざとやったとも考えられますわね。
ともかく、日本が無理をして海軍を充実させたからこそ、日英同盟はありえたんですわよねえ、伊藤公爵?

最後に、細かいことですが、閔妃です。
あの写真、実は女官のものだといわれていたと記憶しているのですが、まあ、いいでしょう。
閔妃暗殺に日本公使館がかかわっていたことは事実ですが、それを言うんでしたら、閔妃に弾圧された朝鮮開化派がその中心にいたことも説明すべきでしょう。
その後の朝鮮の乱というのも、近代化政策に対する反感が大きく作用していますし、朝鮮国内の近代化をめぐる確執を無視しながら、「坂の上の雲」に閔妃暗殺を出す必然性があるのか、疑問です。

で、続きは一年先ですか。
やれやれ。


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明治6年政変と征韓論 明治4年

2009年12月26日 | 明治六年政変
 唐突ですが、幕末維新の天皇と憲法のはざま、および半神ではない、人としての天皇をの続きです。

 えーと、そのー、です。
 私がそもそもこのブログをはじめましたのは、モンブラン伯爵に関する情報が欲しかったがゆえ、なのですが、なにやらモンブランから薩摩藩留学生にいきまして、なぜか桐野利秋にも話が及ぶようになりまして、まあ、いずれは、明治6年政変と征韓論にも触れるときがくるとは思っていました。
 しかし、前記のものは昔調べたことをもとに書いたのですが、モンブランを調べるうちに、明治初年度の兵制の問題とか、いろいろと考えるべきことが増えまして、まだまだ、という感じでした。
 それが今回、佐賀の乱に間してtomoeさまとメールのやりとりをしますうちに、あれ? と思うことがありまして、まだ思いつきにすぎないのですが、あるいは征韓論と征台論の核になっていたのは、外務省と時のアメリカ公使デ・ロングであり、したがってこれは、条約改正にもけっこうなかかわりがあることなのではないのか、ということから、とりあえず明治6年政変のおさらいをしてみよう、という気になったような次第です。

(追記)あー、あー、あー!!! なんつー記憶力、なんでしょう。大隈重信の「大隈伯昔日譚」なんですが、これは私、大昔に大正年間だったかに出されたものを全文コピーし、子細に読んだはずなんですね。ところが、偶然なんですが、近デジに明治28年版初版本が出ていることに気づきまして、征韓論政変の部分は、ちゃんとこれに含まれているんです!!! 私、うかつにもこれのもとが明治26年からの報知新聞連載であったことも、初版には副島種臣の序文があることも、これまで知りませんで、なんとなく「かなり後世のもの」というイメージがあったのですが、これ、板垣退助の回顧と並んで、政変渦中にいた関係者の最初の回顧、ということになりますわね。20年しかたっていませんし。でー、ちゃんと書いてあるじゃないですかっ!!! 征韓論の中心は外務省で、征台だけではなく征韓にも、外国公使のそそのかし(後押しということもできますわね)があったのだと。デ・ロングを中心にまわっていた、というのは、私の妄想でもなんでもなく、大隈の話が私の潜在意識に沈んでいたんです!!! 副島も生きていて序文を書いているのですから、かなり信憑性のある回顧録です。tomoeさまのおかげで、デ・ロングが在日公使を辞めさせられた時期も特定できましたし、これからじっくり話を進めていくつもりです。

で、まず、主に下記の本ほか数冊の参考書を元に、事実関係の時系列を復習するための年譜を作ってみます。年譜の間にはさまれるコメントは、私の考えであり、参考書は参考にはしますが、そのままのものではありません。

台湾出兵―大日本帝国の開幕劇 (中公新書)
毛利 敏彦
中央公論社

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明治4年(1871年)
5月    アメリカのアジア艦隊、ジャーマン号事件の補償と開国を求めて、長崎より朝鮮に向かう(辛未洋擾)
7月14日 廃藩置県
7月18日 文部省発足。江藤信平、初代文部大輔(卿は欠員)に就任して、文教の基本路線を定める。
7月28日 江藤、文部大輔を大木喬任に譲り、左院へ移る。後、副議長。
7月29日 日清修好条規が結ばれる。日本が初めて結んだ対等条約。ただし、批准は遅れる。
9月    対馬(厳原県)、伊万里県(佐賀県)に統合される。
10月   宮古島から年貢を運んでいた琉球の船が台風で台湾に漂着。54名が殺害され、12名が逃げる。
11月 4日 副島種臣、岩倉具視の後を継ぎ、外務卿となる。
11月12日 岩倉使節団アメリカへ出発。アメリカ公使デ・ロング随行。


廃藩置県は、多くの問題を抱えて決行されました。
まずは士族問題です。明治2年、すでに版籍奉還は行われ、中央集権化は進もうとしておりましたが、藩主がそのまま知事に横滑りしておりましたし、藩庁がそのまま地方自治を行い、藩士や領民の帰属意識も大方そのままでした。これは、戊辰戦争で戦火が起こらず、解体された藩もなかった西日本において強くあらわれた傾向です。
また同じ西日本においても、勝者となった薩長土肥と他藩では、状況がちがいました。薩長土肥の下級藩士(主に、ですが)の一部は、朝廷の直臣となって、藩主や門閥をさしおき、中央で行政を担うようになりましたと同時に、その地元では藩政改革が行われ、名目上は藩主が知事であったにもかかわらず、藩政の実権は、下級藩士が握るようになっていました。
一方、薩長土肥以外の西日本の藩では、一般には藩主と藩士や領民の関係は、それほどの激変は見せず、多くの領民(藩士ではなく)にとっては、慣れ親しんだ制度の方が暮らしやすいですから、廃藩置県で藩主(知事)が東京住まいとなり、藩政と関係がなくなることに抵抗を感じ、お殿様お引き留め運動が各地(西日本)で起こります。わが松山藩でも起こっております。

島津久光は藩主(知事)ではありませんから、東京住まいの必要はなかったのですが、この事態に激怒。西郷、大久保への不満を募らせたといわれます。

そして、藩が消滅した、ということは、琉球、朝鮮の問題が、クローズアップされてくる、ということでもありました。
まず、琉球です。琉球はそもそも薩摩藩の支配下にあり、徳川幕府への朝貢は、薩摩を通じて行われておりました。そして嘉永6年(1854年)、日米修好条約が結ばれた直後、薩摩藩の指導で別個に琉米修好条約を結んでおります。同時にオランダ、フランスとも条約を結びましたし、また琉球は、清国の朝貢国でもありましたので、ただちに日本の領土だとは主張しづらい状況でした。ですから、とりあえず琉球は鹿児島に属するとしていたわけなのですが、藩がなくなるとなれば、それも改めるしかありません。
廃藩置県以降の状況は、菊川正明氏の以下の論文に詳しく、明治5年以降の年譜では、この論文も参考にさせていただきます。

置県前後における沖縄統治機構の創設

で、朝鮮です。
朝鮮も琉球と同じく清の朝貢国です。実質からいえば、清とのつながりは琉球よりはるかに強いのですが、まあ、それは置いておきます。
江戸時代の朝鮮通信使は、朝鮮側の認識では、決して徳川幕府への朝貢ではありませんでしたし、幕府もそうではないことを承知していたのですが、日本において一般には、琉球使節と並べて見られ、朝貢と受け止められておりました。
この藩政時代の朝鮮との外交関係を、一手に担っていたのが対馬藩です。
対馬藩は、釜山に草梁倭館という10万坪にもおよぶ居留地を借り受け、日本人町、というよりも対馬人町を作ってもおりました。対馬藩の役人や商人が住んでいたわけです。

草梁倭館

この居留地、朝鮮にしてみれば、対馬藩に貸しているのであって、新政府が支配する日本に貸しているわけではありません。朝鮮は、明治新政府を認めていなかったんです。
対馬藩が消滅してしまった以上、朝鮮側からは、草梁倭館を維持する理由は無くなります。しかし、明治新政府としては、当然、日本人居留地として確保しておきたいところです。

廃藩置県の直前に起こった辛未洋擾とは、アメリカの清国公使フレドリック・ロー が、慶応2年(1866)に起こったシャーマン号事件の補償と開国を求めて、長崎で艦隊を編制し、江華島に陸戦隊を上陸させた事件です。戦闘においては、アメリカ側優勢であったともいわれますが、結局、朝鮮側は交渉に応じず、アメリカは目的を遂げることができませんでした。艦隊編制は長崎で行われているわけですし、当然、駐日アメリカ公使デ・ロングも協力したものと思われます。
この事件で、朝鮮側は多数の戦死者を出していますし、攘夷意識は極度に高まり、明治新政府への不審の念も高まっていました。
ここらへんの状況は、以下の吉野誠氏の論文に詳しく書かれていますので、関心がおありの方はご覧下さい。

明治初期における外務省の朝鮮政策


ただ、ですね。上の論文のように征韓論を思想的に語ってしまいますと、朝鮮問題は、欧米諸国も注目し、それぞれに意見を持った外交の問題であるにもかかわらず、です。まるで日朝二国間で話が完結しうるような変なことになりまして、当時の現実の外交関係から遊離しますので、とりあえず、事実関係のみを見ることをお勧めします。
なお、この難しい時期に一時ですが、朝鮮外交を担ってきた対馬藩士も、草梁倭館の住人たちも、佐賀藩と同じ伊万里県人となっていたことを、確認しておきたいと思います。これは、対馬藩の飛び地が、佐賀藩にあったためだと思われます。

そして、さまざまな問題を留守政府に預け、まずはアメリカへ出向いて行った岩倉使節団は、駐日アメリカ公使デ・ロングに先導されていたことも、です。

次回、明治5年に続きます。


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「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第4回

2009年12月21日 | 伊予松山
「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第3回の続きです。

いやあ、もう、最初は気持ちよく見てたんです。
好古の描き方に文句はないですし、米倉斉加年の大山巌も、年が行き過ぎだけど雰囲気は出てるわ、といった感じで、なにしろいま、若かりし日の巌の普仏戦争観戦日記を読んでいるものですから、時が流れたのよねえ、と感慨深かったり。

今回、松山が出てきませんので、あんまりつっこみどころはなかろう、と安心していたのですが、とんでもない間違いでした。
えー、子規のおかあさんが、ですね。仏壇にむかって、「漢学者だったおじいさまが夢の国のように言っていた国と戦争するのねえ」とか言い出しものですから、つい、「大原観山がそんな馬鹿みたいなこと言うわけなかろうがっ!!!」と、最初のつっこみを。
もちろん、こんな馬鹿な場面は、原作にはありません。
あーた、漢学の元になった中華文明と、現実の清帝国を混同するほど、幕末の漢学者は馬鹿ではありませんわよ。
例えば、です。もし、当時のイギリスがギリシャと戦争することになったとして、イギリス人従軍記者のおかあさんが、「ギリシャ学者だったおじいさまが夢の国みたいにいっていた国と戦争するのねえ」といったら、かなり馬鹿馬鹿しい場面になります。

まあ、しかし、そこらへんは、中国で撮影したらしいからサービスだろう、と耐えました。
極めつけは超似合わない榎木孝明の森鴎外です。「この戦争の戦死8000名のうち三分の二が脚気などの戦病死者。日本の衛生は遅れている」とかなんとか言い出されたときには、えー、セリフの人数とか数字をまちがえて覚えているかもしれませんが、ともかく、もうお口ぽっかーん。
「NHKっ!!!  あんたいつから2ちゃんねるになったの? 視聴者に、おまえが言うなっ!!!!! と叫ばせたいのっ?」

日清戦争における陸軍の戦死者は、293人にすぎません。えらく悲惨そうに描いていましたが、戊辰戦争より西南戦争より、はるかに戦死者が少ないんです。
ところが、日清戦争における陸軍の脚気の死者は、なんと3944人!!!。戦死者の10数倍なんです。

「衛生がなってない」なんて、とんでもないです。 じゃあ、なぜかって、陸軍は兵士に白米を食べさせていたからです。 
 それよりなにより、海軍では脚気の死者をほとんど出していません。遠洋航海をする海軍では、脚気による死者が相次ぎ、イギリス留学を経験した海軍医務局長の高木兼寛が、食物に関係していることを突き止め、ともかく白米の取りすぎがよくないらしいと、兵士の食事を麦ご飯に変えて、日清戦争までに脚気による死者をほぼ根絶したんですね。

ところが、陸軍と東大は、ドイツ医学です。海軍のイギリス医学を軽く見て、イギリス医学を修めた高木兼寛を総攻撃。「脚気は感染による。麦飯で直るなぞと馬鹿げている」と主張した急先鋒が森鴎外でして、極端な言い方をしますと、日清戦争における陸軍の戦病死者3944人は、森鴎外が殺した!!! ということになります。
まあ、本人が感染だと思い込んでいたんですから、仕方がないといえばないんですけどねえ。現実に海軍では麦飯で死者がいなくなったんですから、自分の思い込みより、目の前の事実に目をむけるべきだったでしょうが、鴎外っ!!! 兵士に麦飯食べさせたからって死ぬわけじゃなし、ためしにでも食わせろよ。 写生の精神が一番必要だったのは、陸軍の広報担当者じゃない、あんたよっ!!!

いったいこのドラマ、これからどうなるんでしょう。
まあ、仕方がないです。突っ込みを楽しみましょう。

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「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第3回

2009年12月16日 | 伊予松山
「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第2回の続きです。

 前回、「もしかして、真之のお囲い池のエピソードは省かれるのかも」と心配していましたら、今回、ちゃんと入っていました。

 まつやまインフォメーション お囲い池
 
 お囲い池は、確かに藩のプールのようなものでしたが、藩校・明教館とは離れていました。明治以降は一般に開放され、ボランティアで元藩士の老人が見張りをしていたというような話で、作法にうるさかったといわれます。しかし、外観は非常に牧歌的なため池のようなもので、なっ、なに??? この竜宮城みたいなの!と、そばにりっぱな建物がある、というドラマの風景は、ものすごい違和感だったんです。


 松山市ホームページ 明教館

 どうしてあんな風景になったのか、不思議で、検索をかけてしらべてみました。
 そしたらなんと……、ロケ地は、会津の藩校、日新館でした!

 会津藩校日新館ー白虎隊の学びの社 お知らせ

 あー、行ってみたいかも。なんですが、これ、ぜーんぶ新築ですよねえ。
 撮影に解放していて、しかもプールがあって、安上がりにロケができたんでしょうけれども、いくら同じ佐幕藩とはいえ、です。あーんな北国の山の中で、まーったく藩風のちがう会津の藩校で撮影とは!と、ちょっと笑えました。
 えー、だって、松山藩は軟弱ですし、俳句はしても、抵抗もしませんでしたし、誰も自決も切腹もしてませんし。
 まあ、会津と同じく、長州は嫌いだったでしょうけれども。
 戊辰戦争において、松山藩に進駐してきた土佐藩兵の指揮は、小笠原唯八がとっていたんです。このお方が、育ちがよく、実にさっぱりとした気性で、松山藩では、土佐にはあまり反感を持たなかったんです。
 ところが、長州藩兵が勝手に上陸してきまして、土佐藩兵とにらみあったあげくに、松山藩虎の子の汽船をかっぱらっていきやがりました。
 ちなみに、小笠原唯八は、新政府において、短期間でしたが佐賀の江藤新平と親友になり、その後、会津攻めに加わって、華々しく戦死します。いい人はみーんな、早死にするんですねえ。

 秋山好古が、ですね、フランスに留学していましたとき、山県有朋が渡仏してきます。
 このとき好古は、山県の出迎えに遅れたり、山県がフランス陸軍高官のために持ってきた土産を汽車の中に置き忘れたりした、という話があります。
 えーと、たしか司馬氏の原作の中では、それで山県が「この男は事務仕事には使えない」と見極めたとかなんとか、ということになっていたように記憶しているのですが、私、思うに、ですね。好古は、山県が大嫌い!で、飄々と、しかしわざと、やったんですわ、きっと(笑)。冗談ですけど。

 山県といえば、私、それまでけっこう楽しんで見ておりましたのに、伊藤博文と山県が登場しましたとたんに、「あー、あー、あー、まあっ! えらそーに!」と、どん引きでした。
 いえ、別に、明治における伊藤と山県の存在が、大きなものであったことを否定するわけではありませんし、第一、明治10年以降のことは、私、ろくに調べておりませんんので、否定するだけの材料も持ち合わせておりません。
 しかしもう、私の頭の中が幕末に染まっておりまして、「そうよっ! あんたなんか周旋が上手いだけの高杉の使い走りよっ! つーか、仲良しモンタ(井上馨)を語りなさいよ!」と、テレビに叫びつつ、しかし、イメージじゃないなあ、二人の配役! と、うろんな目で見つめておりました。

 真面目な話、どーせナレーションの多いドラマなんですから、政治劇は、ナレーションですませた方がよかったんじゃないんでしょうか。
 もともと、原作について、小説としての構成が破綻している、というような感じの評価もあります。
 つまり、最初は、子規と秋山兄弟に焦点をあわせて、時代を描いているのですが、日清戦争がはじまるあたりから、それでは全体像が鮮明になりませんから、主人公格の三人は背景に引き、その他大勢になってしまう、というんですね。確かに、日清、日露戦争において、子規や秋山兄弟がいた位置からは、外交交渉などはつかめませんし、戦争全体の有り様が、俯瞰的に描けなくなります。

 小説として読んでいるぶんには、それもありかな、と思うんですが、TVドラマとしてはどうなんでしょう。あくまでも子規と秋山兄弟の視点にあわせる、という方法もあったのではないか、と思います。子規の新聞「日本」(薩摩スチューデント、路傍に死す参照)入社で、加藤拓川の名前だけは出したのですから、この人こそ、登場させるべきだったんじゃないんでしょうか。陸奥宗光や加藤拓川や、ですね。明治政府の中にあって貢献しながら、政権中枢に批判的な視線は持ち続けた側面も、十二分にあると思うんですのよ。時の政権イコール日本、ではないわけなのですから。子規入社直前のこの時期は、薩摩藩密航留学生だった村橋久成が路傍に行き倒れ、陸奥宗光が青春の日をしのんで哀悼した、そういう時代でもあったのです。

 えーと、ですね。坂の上の雲が長らくドラマ化されなかったについては、様々な説があるんですけれども、私が故石浜氏(『坂の上の雲』と脱イデオロギー参照)からお聞きした話では、原作について、乃木希典と伊地知幸介(wiki-伊地知幸介参照)のご遺族から抗議があり、ドラマ化がはばかられた、ということでした。
 旅順攻防戦については、近年、評価の見直しが行われておりますし、私も、乃木・伊地知無能説には懐疑的です。といいますのも、近代戦における要塞の攻略は、そもそも多大な犠牲を強いられるものでして、クリミア戦争から第1次世界大戦まで、肉弾戦なくして攻略できた要塞はない、といわれます。で、当時、リアルタイムで、旅順の攻略は、諸外国から高く評価されていたのですから。
 まあ、これに関しましては、ドラマがどう処理するのか楽しみです。

 一方、ですね。いわゆる左傾史観団体からのドラマへの変な抗議もあるわけですが、松山にもそういう団体が存在しまして、わりに中心になって活動しておられる方が、リアルでお知り合いだったりするんですわ、これが(笑)。いえ、困ったことに、ですね、とてもいい方なんですわよ、ホホホホホ。
 しかし、ですね。その団体はこれまでにも、坂の上の雲ミュージアムの戦争展示にクレームをつけてきたりしたわけでして、いや、しかし、「坂の上の雲」から日露戦争をぬいて、なにが残るというのでしょう。
 まあ、仕方がないですね。団塊の世代のこういった思い込みは、死ぬまで直りませんわ、おそらく。

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薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 下

2009年12月14日 | 幕末留学
薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上の続きです。

 私の畠山義成に対する関心は、当初、モンブランから入りましたがゆえに、渡米の後についてはとぎれておりました。
 幕末も押し詰まった時点において、イギリスのオリファントとフランスのモンブランが綱引き状態。オリファントの背後からトーマス・レイク・ハリスが現れ、フランスにまで乗り込んだとなりますと、留学生たちのハリス教団とのかかわりまでは視野に入れざるをえず、畠山が吉田清成、松村淳蔵とともにハリス教団を離れました経緯は、前回ご紹介しました林竹二氏の論文など、ある程度は調べておりました。

 しかし、なんといっても在イギリスの間に関心は集中しまして、この間、残っております畠山の書簡がすべて新納刑部(新納とうさん)宛であったことなどから、「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」において、以下のような推測をしたようなわけです。

新納とうさんの手紙の英訳を、チャールズ・ランマンが見た経緯なんですが、畠山義成が見せたのではないか、という推測が自然ではないか、と、思われます。
武之助少年の帰国は、明治6年5月26日です。ということは、岩倉使節団に参加していて、一足先に帰国した大久保利通に、いっしょに連れて帰ってもらったことになります。パリの集合写真で、武之助が大久保のそばにいるのは、武之助少年の送別会でもあったからなんでしょう。
畠山義成については、また改めて書きたいと思いますが、1867年(慶応3年)、ロンドンからアメリカに渡って、ラトガース大学で学んでいました。1871年(明治4年)の春、新政府の帰国命令を受けたんですが、猶予をもらい、同年10月28日にアメリカを発ち、ヨーロッパまわりで帰国する予定でパリへ向かいました。あるいは、自分がロンドンにいたころ、留学して来た武之助少年のことが、気になっていたのかもしれません。
おそらくはパリで武之助に会い、とうさんの手紙を見せられて、望郷と不安を訴えられたのではないでしょうか。
これもまた、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、13歳で密航留学生となり、ハリス教団にどっぷりと身を入れてしまった長沢鼎を、畠山は見たばかりですので、これは武之助の不安ももっともだと思っていたところへ、岩倉使節団への協力要請があり、アメリカへ引き返します。
ライマンが幼い女子留学生の世話をしてくれているのを見て、「親御さんは、こんな思いでいるんだよ」と、新納とうさんの手紙を見せます。
そして、使節団随行中、新納とうさんに連絡をとり、大久保利通に武之助の帰国のことを頼んだ、と、そういう筋道ではなかたかと、私には思えてなりません。


えー、私、「あらためて書きたい」とか「別の機会に」とかいいながら、さっぱり書いてきませんでしたが、この集合写真の新納竹之助くんが、これです。



 証拠がないのですが、畠山義成がアメリカに渡ってからもずっと竹之助くんを気遣っていただろうという推測は、私の中で確信にまでなろうとしております。畠山義成とは、そういう人だったと思うのです。
 その畠山の生涯は、けっして長いものではありませんでした。詳しくはtomoeさまのサイトで見ていただきたいのですが、天保14年(1843)の生まれですから、23歳(数え)でイギリスに密航留学し、アメリカへ。ハリス教団を出てラトガース大学に学び、岩倉使節団の通訳。帰国後は文部省に奉職し、明治9年(1876)、フィラデルフィア万博に派遣され渡米。病が悪化し、帰国途上に死去。数えで34歳でした。

kozo-web 畠山義成 みじかい半生の足跡

 私、よくは知らなかったのですが、船上で畠山を看取ったのは、薩摩出身の留学生・折田彦市(wiki-折田彦一参照)でした。
 ちなみに、「岩下長十郎の死」で書きました大山巌の明治3年普仏戦争観戦日記によりますと、往路の経由地アメリカで、巌は、畠山と折田、岩倉の息子に会っています。
 tomoeさまは、折田の日記の複写を見ておられまして、よく読めない日記だそうなんですが、畠山には身内がほとんどおらず、遺品の整理をしたのは折田と二階堂という人物だったらしい、ということを気にかけておられました。

 「畠山の生まれた場所と墓さえわからない!」とtomoeさまはおっしゃられまして、お墓についていうならば、青山霊園に葬られたという話はある、ということだったんです。
 畠山の死は、青山霊園ができるかできないかの時期でして、ともかく私、青山霊園の事務所で詳細を話し、調べていただいたのですが、「必ずしも墓石が最初の位置にあるわけではなく、猶予はありますが、基本的に管理費が5年間滞りますと撤去されます」というお話しで、記録を調べても「畠山義成という墓石はない」という結論でした。後継がいなかった、ということは、長の年月、管理費がとだえた可能性は、きわめて高いでしょう。

 で、生まれた場所の方です。
 
鹿児島城下絵図散歩―新たな発見に出会う
塩満 郁夫,友野 春久
高城書房

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 上の本で見てみましたところ、畠山の名で「家老になれる身分」にふさわしいお屋敷といえば、安政6年(1859)の地図の畠山主計の屋敷(1047坪)しかなさそうでした。畠山義成、数えで17歳の年です。
 この屋敷、天保13年(1842)の地図では畠山伝十郎の屋敷になっていまして、近くに小さな畠山主計下屋敷もあるんですが、これが天保13年の持ち主は、島津伝十郎となっています。つまり、伝十郎さんは島津一門から畠山家に養子にいったのでは? と推測できたんですね。下に、地図を作っております。

鹿児島城下幕末屋敷図

 で、tomoeさまから、なんと、私がお送りしました論文の中に「畠山義成の実兄は二階堂蔀」という一節があるとのご指摘を受けまして、私、さっぱりそんなことには気づいていなかったものですから、慌てて、論文の脚註を頼りに調べましたところ、二階堂蔀という人物が畠山の遺品である洋書を図書館に寄贈しました時に、「畠山義成の実兄である」旨、明記した添え書きの引用を見つけました。

 さあ、これで、またわからなくなりました。えー、兄が二階堂氏に養子に出て弟の義成は畠山家に残ったのか、あるいは義成が二階堂家に生まれて、畠山家に養子に行ったのか。
 それが今回、tomoeさまが鹿児島県立図書館に行かれて、関係系図を見られたことで、ほぼ、解決がついたと思います。
 最終的には推測をまじえるしかないのですが、新納家、村橋家も近い関係にあるんです。





 島津伝十郎は、加治木島津家から畠山家に養子に入ったんですね。
 これは様々な材料からの推測なんですが、伝十郎さんは、畠山義成の父親であったと思われます。
 そして、伝十郎さんが嗣いだ畠山家から養子に出た新納久仰は、新納刑部の父、竹之助くんの祖父にあたります。wikiの岩下方平の項目に「新納久仰は方平の叔父にあたる」ともありまして、これはどういうことなのか、ちょっと調べてみなければ、と思っています。
 
 新納氏の系図も、近々、見てみる予定です。
 村橋家が加治木島津家の分家だというのは、これも私、読んでいたはずなのですが、忘れこけておりまして、桐野ファンの大先輩からご指摘を受けて、あらためて気づきました。

 幕末の薩摩藩門閥洋行組は、別格(格上という意味で)の町田家を除きまして、どうも加治木島津家関係者が多いようです。想像をたくましくすれば、です。密航留学に際して、島津織之助と高橋要が、どうしてもいやだと拒んだとき、村橋久成を誘ったのは、縁戚の新納刑部と畠山義成であった、かもしれません。
 将軍家の岳父となり、島津の豪奢を見せつけた蘭僻大名・島津重豪。彼にゆかりの深い加治木家、ということが、あるいは関係あるのでしょうか。

 加治木島津家は、今和泉、重富、垂水と並び、一門家と呼ばれる島津の分家で、一万石以上あり、宗家に跡継ぎがない場合には、跡継ぎを出せる格です。
 重年と重豪が宗家と重なっていますのは、一度、加治木に養子に出ていた重年が、兄の6代藩主・宗信の早世で宗家に戻り、息子の重豪に一度は加治木を嗣がせたのですが、結局正妻に男子が恵まれなかったような関係から重豪を戻した、というようなことです。


 なお、畠山義成が生まれた畠山家は、養子が入って血筋がかわってはおりますが、関ヶ原の合戦、島津の退き口で、島津義弘の身代わりとなって討ち死にした長寿院盛敦を祖としていて、幕末に生まれた義成も、それを誇りにしていたようです。

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薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上

2009年12月14日 | 幕末留学
岩下長十郎の死の続きです。

 えーと、ですね。今回、青山霊園を訪れましたのは、長十郎くんのお墓さがしもあったんですが、薩摩スチューデント路傍に死すで書きました、村橋久成のお墓にお参りする、という目的もありました。



右の方が、明治、行き倒れのニュースに衝撃を受けました開拓使人脈が募金を募り、建てられていた墓石のようです。さらに右の碑には、「残響」 (サッポロ叢書 (01))の一節が引かれています。こんなところへ、ようこそ、だったんですが、「残響」の著者でおられる田中和夫氏からコメントをいただき、もう、どびっくりだったんですが、お墓参りを、という思いは、それ以来のものです。
 いっしょにおりました、一般人(幕末オタクではない)のビール好きの友人は、この碑で初めて村橋を知り、「もっとちゃんと、サッポロビールが顕彰すべきよっ!!!」と叫んでおりました。



 で、今回、その友人だけではなく、桐野ファンの大先輩とブログに来ていただいた勝之丞さま、そして、アメリカから久しぶりに里帰りなさったtomoeさまがごいっしょで、みなさまのおかげで、無事、お参りすることができましたような次第です。なにしろ、青山霊園は迷路ですっ!!!

 ところで、tomoeさまは、留学生の一人、畠山義成の大ファンでおられ、なぜか知りませんが(あんまり書いた覚えはないのですが)、畠山義成で検索をかけると私のブログがヒットする確立が高いそうでして、gooホームの方にメールをくださっていたのです。ところが私、確かにgooホームを設定した覚えはあるのですが、ろくに見ておりませんで、長らく気付かないでいた、というボケぶり。
 まあ、ともかく、です。お知り合いになりまして、ごいっしょに、お墓さがしをすることとあいなった次第です。

 畠山義成につきましては、英仏世紀末芸術と日本人で、「(留学中)ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなんかとお茶したらしい」と書いたのが最初でしょうか。このときの私の畠山に対するイメージは、堅物一辺倒でして、「なにか、ラファエル前派のインスピレーションに、寄与するものがあったんでしょうか」と懐疑的な書き方をしていたものですから、fhさまが、下の写真と資料を送ってくださいました。えー、後期ラファエル前派にちなみ、ウィリアム・モリスの壁紙を使って加工しております。



fhさまは、「大礼服の着くずしが似合う男!」とおっしゃるのですが、私のイメージは、「ギムリ!」wiki-ギムリ)です。

ともかく、性格が高潔で、ノーブレス・オブリージュを実践していた、とでもいうんでしょうか。

私、薩摩スチューデント路傍に死すで、以下のように説明いたしました。

使節団として渡欧した、新納刑部、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之をのぞいて、留学生は当初16名。巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたように、町田四兄弟のうちの一人が、出発直前に発病し、最終的には15名になりますが、このうち、将来家老となるだろう島津一門の門閥から、町田民部(久成)、畠山義成、村橋久成、名越平馬の4人が選ばれていました。門閥出身で、もともと蘭学を学んでいて、一家中が渡欧を喜び勇んだのは、町田一家のみです。
薩摩門閥は、新納刑部や町田とうさんのような、蘭癖の開明派ばかりではありませんでした。ほんとうは最初、町田と畠山、そして島津織之助、高橋要が、門閥の跡取りで候補にあがっていたのですが、町田久成をのぞいた後の三人は、渡航を恥辱と感じて、拒んだといいます。
島津久光が、直々に説得し、ようやく畠山は承諾しましたが、あとの二人がどうしてもいやだと言い張り、代わりに急遽、門閥から選ばれたのが、村橋久成と名越平馬だったのです。
つまり、留学生メンバーの中で、畠山義成、村橋久成、名越平馬の三人のみは、渡欧するまで、蘭学とも英学とも、無縁でした。


 そうなんです。畠山は町田兄弟、村橋、名越とともに、「将来家老になりえる身分」でした。この名門の留学生たちのうち、村橋が最初に帰国。続いて、名越、長兄・久成をのぞく町田兄弟が帰国しまして(「巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2」参照)、慶応3年のパリ万博まで残っていましたのは、町田にいさん(久成)と畠山義成のみです。

 えーと、これまでに、ですね。薩摩の幕末外交に手を貸したローレンス・オリファントについては、幾度か触れたことがあるのですが、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2」で書きましたように、寺島に手を貸しましたちょうどそのころ、以前から傾倒していましたアメリカの神秘宗教家、トーマス・レイク・ハリスにはまりこむんですね。

 このハリス教団、退廃した既存の西洋近代キリスト教社会を否定し、私設修道院のような共同体で新しい自己を見出し、社会をも変えていこうというものでして、新世界アメリカ、そして東洋に人類の新しい息吹を見出す、とでもいったような理想をかかげていました。それで、オリファントとハリスは、日本人留学生に非常な期待を持ちます。

 いえ、オリファントとハリスは、留学生だけではなく、留学生の所属する藩(薩摩と長州)が新しい日本を作るものと期待し、その新しい日本が、自分たちの教団の影響のもとに成り立つものだとまで、夢想したんです。ハリスは渡欧し、パリ万博において、薩摩藩の代表である岩下方平に接触しますが、方平は相手にしませんでした。

 パリ万博まで、欧州に残っていた薩摩藩留学生は、町田久成と畠山のほか、イギリスに森有礼、鮫島尚信、長澤鼎、吉田清成、松村淳蔵、フランスに田中静洲、中村博愛なんですが、畠山を含むイギリスの全員が、ハリス教団に入るべく、渡米することになります。年長で、学頭だった町田久成が、渡米することなく帰国したところをみれば、これは推測なんですが、薩摩藩の方針としては、ハリス教団への入団は認めていなかったのではないんでしょうか。

 オリファントとハリスの誘い方は非常にうまく、ハリス教団で学校を創設するので働きながら学べる、というような約束であったらしく、渡米した6人は、かならずしも全員がハリスに傾倒していたわけではなさそうです。最初にはまった吉田清成と鮫島尚信、そして森有礼、年少の長澤鼎は、かなり深くハリスを信じていたようですが、松村淳蔵の場合はどうも、イギリスでかなわなかった海軍の勉強がアメリカならば可能なのではないか、ということがすべてだったような気がします。性格は実によさそうなんですが、おそらく非常な現実主義者で、理念よりも技術、石にかじりついても初心貫徹、といった感じを受けます。

 そして、畠山です。彼がなにを考えてハリス教団に入団したかについては、ずっと以前にfhさまからご紹介いただいた林竹二氏の論文があります。ご関心のある方は、ご覧になってみてください。

 森有礼研究 第二 森有礼とキリスト教

 畠山こそが、もっとも真摯に、西洋文明の根底に横たわるキリスト教と対峙したのだという、林氏のご見解はもっともだと思うのですが、私はもう一つ、畠山には高貴に生まれた者の責任感があったのではないだろうか、という気がします。
 町田久成が帰国した後、渡米してハリス教団に入ろうとしていたイギリス留学生の中で、畠山はもっとも藩での身分が高く、責任ある立場だったんです。それぞれにとってハリス教団がほんとうに自らを生かす道なのか、もしかして道を誤っていた場合、彼らのめんどうを自分は見なければいけない、という思いを、強く持っていたのではないでしょうか。

 アメリカに渡ってから後の畠山については、私はまったく詳しくありませんで、ぜひ、tomoeさまのサイトをご覧ください。

 kozo-web 畠山義成 みじかい半生の足跡

 で、ようやくお話が、tomoeさまとの畠山義成墓探しにもどるのですが、次回、その詳細と、tomoeさまからいただいた資料から推測されます畠山家の血脈の謎に迫ってみたいと思います。

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「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第2回

2009年12月10日 | 伊予松山
「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第1回の続きです。サラ・ブライトマンの歌、なかなかいいです。

NHKスペシャルドラマ 「坂の上の雲」 オリジナル・サウンドトラック
久石譲,外山雄三,NHK交響楽団
EMIミュージックジャパン

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今回の目玉は、なんといってもサン・シール!!!wiki-サンシール陸軍士官学校)です。

社団法人・日本映画テレビプロデューサー協会 特集 大型企画1「坂の上の雲」

しかし、サンシールを出すならば、子規の叔父・加藤拓川を、ぜひ、出していただきたかったところです。

加藤恒忠(たむたむページ)

上のサイトさんに詳しいのですが、好古の友人です。

「坂の上の雲」の幕末と薩摩で、
フランス時代、久松定謨伯爵は、薩摩出身で、同時期にフランス留学をし、洋画家となった黒田清輝ととても親しくつきあっていました。加藤拓川もいっしょに遊んだりしていたようですし、あるいはフェンシングなんかしていますので、秋山好古もいっしょだったりした可能性は高いんです。(fhさまのところの黒田清輝の日記参照)
と書いたんですが、確かどうも、最初に拓川が伯爵のお供をして、好古は後から追いかけてフランスへ行った形だったようですので、黒田清輝と好古と、顔合わせくらいはあったでしょうけれども、つきあいがあったかどうかは微妙です。私、大昔に仕事で、ごく短い好古さんの伝記を書いたことがあるのですが、詳しい内容を忘れこけてしまっております。

ひとびとの跫音
司馬 遼太郎
中央公論新社

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上の司馬遼太郎氏の作品は、「坂の上の雲」後日談というにはとても地味なんですが、正岡子規の死後養子で、加藤拓川の息子、正岡忠三郎の周辺を描いたドキュメンタリー、といいますか、随筆のような物語で、私はとても好きです。拓川も出てきますし、子規の妹・律も出てきます。
実は拓川の伝記も、ごく短いものですが、書いたことがありまして、お墓の写真を撮りに行きましたが、拓川は「少しでも解放の役に立てば」と、遺言により、一族の寺ではなく、関係者のお寺の境内に眠っているんです。外交官が市長を務める、というのは、当時において、陸軍大将だった秋山好古が、新説私立中学校の校長を務めたのに匹敵するくらい異例のことだったようでして、乞われたとはいえ、両人、ほんとうに故郷を愛していたのだと思えます。

ところで今回、最大のえええっ???は、原作にない話なんですが、律さんが真之を追いかけていく場面でして、当時、律さんが住んでいました中の川から三津浜までは、けっこうな距離なんです。三津浜は、お城下ではありませんし。まあ、当時の人は歩いて行きもしたでしょうけれども、「走るかっ!? 普通???」と、私が思わず叫びましたら、妹は「律さんはマラソンランナーだったのよ、ホホホホホ」と応じました。

NHK松山放送局 坂の上の雲 正岡律ゆかりの地

地図を1/75000に切り替えますと三津浜が出てきますが、JRでも一駅ありますし、JRの三津浜駅はえらく港から離れてまして、実際の距離からいきますと2駅分くらい。現在では、三津浜港はさびれていまして、旅客船は大方、すぐ北にある高浜港のそのまた北、松山観光港に着きます。で、律さんが住んでいた場所に近い市駅から高浜まで、伊予鉄道高浜線が走っていまして、こちらでいきますと市駅から六つ目が三津駅です。

だいたい、ですね。夏目漱石が「坊っちゃん」 (新潮文庫)で描いております「坊ちゃん列車」は、明治21年、全国でも2番目に古い私鉄として城下から三津までが開通していまして、三津浜は、もっと賑やかな場所だったと思います。

坊ちゃん列車(たむたむページ)

調べてみましたら、海軍兵学校が築地から江田島に移ったのは、この明治21年でして、真之の帰郷は江田島からということですから、好奇心旺盛な真之は、三津浜から、あるいは三津浜まで、できたばかりの坊ちゃん列車に乗った可能性が高いんですね。

ついでにもう一つ、細かいことを言いますと、私が生まれました大街道は、明治時代、真ん中に川が流れておりまして、道幅は、現在よりもだいぶん狭いんです。米軍の空襲で全焼し、戦後、区画整理で住民が土地を供出し、現在の道幅になりました。
川のそばには柳が植えられていたらしく、まあ、そうですね、賑やかな城崎温泉街とか祇園白川通りとかをイメージすればいいのでは、という感じです。真之が帰郷して、父親と出会ったのがこの大街道なのですが。

話はとびますが、日露戦争中、松山には捕虜収容所がありましたが、その待遇のよさが知れ渡り、投降するロシア人は「マツヤマ!」と叫んだといいます。道後温泉の入浴や海水浴もあり、経済的に余裕がある者は、市内に妻を呼びよせることも可能だったりしたみたいなんですが、やはり、慣れない土地での暮らしです。当時は、今のように医療水準も高くないですし、百名ほどがここ松山の地で、亡くなったんですね。異国で果てた彼らを葬ったロシア人墓地が、今も城北にあり、近所の人々がボランティアできれいにお祀りしております。






第一次大戦のときも、一時、少数ながらドイツ人捕虜を預かっていたような話で、そのとき病死した一人の海兵隊員も、このロシア人墓地で眠っています。

 

さらに、松山が空襲を受けた太平洋戦争において、空襲機、あるいは空襲機の護衛をしていた米軍艦載機のパイロットの中には、迎撃機に打ち落とされて松山近辺で戦死、ということもありました。その中で、結局身元がわからなかった米兵のお墓も、一つあります。墓石の裏面には、昭和20年8月9日とありますから、終戦のほんの6日前に亡くなったんですね。
無名の米兵の墓が、ずっと守られてきたということは、おそらく、なんですが、息子や夫が戦死して、遺体も帰ってこなかった松山の人々が、異国に眠る身内に思いをはせつつ、敵であった無名戦士を悼んだ、ということなんでしょう。

 



ドラマに話をもどしますと、松山の描写については、いろいろと細かな不満があるのですが、全体に、NHKにしては近年になく、出来のいい歴史ドラマ、と思います。ああ、そういえば、夏にやった「気骨の判決」も、けっこうよかったですけど。

NHKスペシャル 終戦特集ドラマ「気骨の判決」

しかし、司法の話とかははりきってドラマ化しますのに、近代戦史はろくにドラマ化してこなかったNHKが(妙に内籠もりに偏った反戦スタンスをとったものならあったのかもしれませんが)、世界史の中の日本、という視点を尊重して、「坂の上の雲」をドラマ化してくれているのは、歓迎です。

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