郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

歩兵とシルクと小栗上野介 vol2

2008年03月26日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
 歩兵とシルクと小栗上野介 vol1の続きです。
 まず参考書の追加を。

幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書)
野口 武彦
中央公論新社

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 慶応4年(明治元年・1868)1月15日、勘定奉行であると同時に、陸海軍奉行でもあった小栗上野介は、鳥羽伏見から逃げ帰った慶喜公に、徹底抗戦を訴えて、罷免されます。
 その日、勘定奉行の管轄下にある岩鼻代官所の渋谷鷲郎は、独自に小栗上野介の抗戦構想を実施しようと、村々の役人を呼び集めます。
 中山道を攻め上ってくるだろう官軍を、碓氷峠(軽井沢の近く)で待ち受け、迎え撃とうというのです。
 同じ中山道の信州和田峠にも、防御戦を張る計画が、こちらは上田藩を中心に練られていました。
 そのために、村々から兵卒を出させて、本格的な農兵銃隊を編成するつもりだったのです。
 
 しかし、これが、農村の多大な反発を招きました。
 そもそも、農村役人(地元実力者)と代官所の対立は、慶応2年、幕府勘定方が、フランスとの提携を進めて、蚕種や生糸に、代官所が重税を課しはじめてから、潜在していました。武州世直し一揆も、それで起こったのです。
 もちろん、村々の人々は、その重税がフランスとの専売契約によって生じたとは、知りません。国内生糸商人の策謀と受け取っていたのですが、生糸輸出にまつわることはわかっていますし、攘夷気分はいやでも盛り上がります。
 そこへ今度は、兵卒を差し出せ、です。
 浪士隊の挙兵や一揆の場合は、村で火付けや強盗をする可能性もありますし、治安を維持して村を守るためには、兵卒を差し出すことも納得がいきました。一揆の場合も、といいますのは、一揆に加勢しなかった村を、他村の一揆が襲撃することは常道でしたし、富農だけではなく、一般の農家も被害を被ることは多いわけですから。
 しかし、今度は碓氷峠まで出ていって戦え、というのです。なんのためでしょうか?
 「もし遠方戦争の地へ繰り出しあいなり、万一の義これあり」ということ、つまり「よそへまで戦争に出かけていって、戦死してしまうこと」を、農民たちは怖れたのです。
 結局、尊王攘夷をかかげた長州の場合とちがって、幕府直轄地、旗本知行地の農村では、幕末の尊王攘夷気分により、幕府への帰属心はほとんどなくなっていたともいえるでしょう。

 2月12日、慶喜公が上野寛永寺で謹慎すると同時に、朝廷からの命を奉じた尾張藩士が、碓氷峠へ姿を現します。
 朝廷は、鳥羽伏見戦の後、幕府旗本の領地を、とりあえず尾張藩に属するものと規定していたのです。
 これで、旗本領への幕府の支配権は正式に否定され、上州の農民たちは集結し、世直し一揆へとなだれこみます。
 ねらうは富農や生糸商人たちですが、もちろん代官所が、一番の襲撃目標です。
 2月19日、岩鼻陣屋(代官所)が一揆に襲われ、渋谷鷲郎たち幕府役人は逃亡した、という記録があります。
 これと、金井之恭たちは3月になって岩鼻陣屋の牢獄から官軍に救い出された、という話との整合をどうつけるか、なのですが、あるいは渋谷鷲郎たち役人は、囚人も連れた上で、野州羽生陣屋(代官所)に避難したのではないのでしょうか。
 羽生陣屋は、慶応3年11月に築かれたばかりの代官所で、羽生城跡を利用したため、敷地は広大で、防御の地の利もあったようですし、岩鼻陣屋が崩壊した2月から、農兵隊を集めて訓練をはじめているんです。
 そうであったとすれば、後の話がわかりやすいのです。

 鳥羽伏見でも活躍した幕府歩兵隊は、農兵というよりも、江戸の武家臨時雇い人や博徒、農村のアウトローをよせ集めたような銃隊だったのですが、「負けました、将軍さまはご謹慎、はい解散!」で、納得がいこうはずがありません。放り出されたら、食い扶持がなくなるのです。武器を持って隊ごと脱走する者が、多くありました。
 これを見た古屋佐久左衛門が、一計を案じます。
 古屋佐久左衛門については、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。で書きましたが、プリンスの侍医としてパリへ行き、函館で榎本軍の医師を務めた高松凌雲の兄です。筑後の庄屋の息子で、古屋も英学をおさめ、軍書を訳すなどして幕府に取り立てられる一方、英学塾を開いたりもしていました。
 その古屋が、脱走歩兵隊の説得に赴いたのですが、別にそれは、武器を捨てさせるためではありません。
 古屋佐久左衛門は、罷免となった小栗上野介の自宅を訪れて会ったりもしていたようですし、渋谷鷲郎を知っていたのではないでしょうか。薩摩屋敷の浪人に、家族が皆殺しにされた悲劇とともに。

 3月1日、古屋佐久左衛門は、歩兵隊を懐柔すると同時に、勝海舟に談じて、歩兵頭並格の地位と、信州の幕府直轄地鎮撫の命をもらい、大砲やら資金もたっぷりと得て、900人ほどの歩兵隊を率いて野州羽生陣屋へ向かうんです。
 渋谷鷲郎は、羽生陣屋において、古屋佐久左衛門の配下となっています。
 この隊には、京都見廻組の今井信郎も参加していて、後に衝峰隊と名乗ります。

 ところで、小栗上野介が、上州の知行地・権田村に着いたのは、3月1日です。勘定奉行であった小栗が、渋谷鷲郎の動向や悲劇を、知らなかったなんてことがあるのでしょうか。古屋佐久左衛門の歩兵隊が信州に向かうはずだ、ということも、です。
 その翌日、権田村の隣の室田村に、上州世直し一揆勢は集合しますが、一揆を煽動した博徒たちは、小栗上野介渋谷鷲郎の親分であったと、知ってのことではなかったんでしょうか。
 そして、その博徒たちの中に、挙兵浪士側にくみしていた、猫絵の殿様まわりの者があったとしても不思議はないでしょう。
 3月4日、権田村に襲いかかった一揆を、フランス陸軍伝習を受けた権田村の小栗歩兵は、あっさりと退け、首謀者を斬首します。

 古屋率いる歩兵隊は、東山道軍先鋒隊の進路をさけて、信州へ向かおうとして、3月9日、梁田に宿営していましたが、それを知った東山道軍先鋒隊(薩長大垣軍)の襲撃を受け、多数の死者を出して逃走します。翌10日、どうやら長州隊の手で、羽生陣屋は焼かれたようで、このとき金井之恭たちが解放されたとすれば、話のつじつまがあうのではないか、と思うのです。
 渋谷鷲郎は、梁田で敗れて逃走し、親しくしていた村役人のところへ寄り、刀と金を贈られて会津へ向かい、再び古屋佐久左衛門の衝鋒隊に加わって、越後の戦いで行方不明になっているのだそうです。
 戦死したのかどうか、留守宅の家族を皆殺しにされたこの人の恨みは、尽きることがなかったでしょう。

 小栗上野介は、あきらかに、古屋佐久左衛門のくわだてに期待していたでしょう。
 しかし事敗れて、なぜ知行地に居残ったのかは、不可解です。
 たしかに一揆は諸刃で、当初は一揆を利用していた東山道軍も、征圧の後は一転して一揆鎮圧に転じ、小栗上野介が一揆を退けたことを責めようはなかったわけですが、薩長新政府の幕府納地の方針からして、旗本の知行地が無事であるはずはなく、領主然と農兵を組織する行為は、反逆と見なされる可能性が高かっただろうに、と思うのです。
 また、小栗上野介が中心となっていた幕府の富国強兵策が、関東農村の多数の恨みをかっていたことに、果たして本人は、気づいていなかったのでしょうか。
 小栗上野介の富国強兵近代化策は、明治新政府のそれの先駆けといえますが、庶民に重税と兵役という大きな負担を強いるという面においても先駆けであった、とはいえるでしょう。


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歩兵とシルクと小栗上野介 vol1

2008年03月25日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
 今回は、バロン・キャットと小栗上野介の続きといいますか、補完であり、さらなる探求です。
 といいますのも、「論集 関東近世史の研究」(名著出版)を読みまして、鳥羽伏見から逃げ帰ってきた慶喜公に,
江戸城で罷免された小栗上野介が、なんでよりにもよって3月1日に、上州(群馬)の知行地に入ったのか、なんとも不可解なものに思えてきたんです。
 主な参考書は、前期の研究論文ともに、今回も以下です。
 
相楽総三とその同志 上 (1) (中公文庫 A 27-6)
長谷川 伸
中央公論新社

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 まず、ちょっと世間一般の常識にさからって申し訳ないのですが、長州奇兵隊をストレートに徴兵制に結びつけ、徴兵制イコール農兵重視で四民平等VS志願兵制は士族重視 という図式は、はっきりいって、国民皆兵を誇った大日本帝国陸軍のプロパガンダにすぎません。
 幕末、農兵取立なぞ、大方の藩でやっていたんです。
 
イギリスVSフランス 薩長兵制論争で、数字をしめしましたが、歩兵を士族身分でまかなえる藩なぞ、ほぼ、薩摩だけだったんです。
 わが伊予松山藩も、農兵取立をやっています。そうでなければ、歩兵の養成なぞ不可能でした。
 洋式軍隊は、士官とそれ以下で、はっきりと身分がわかれています。国によって制度はいろいろとちがいますが、もちろん、いざ有事という場合には、一般市民も銃を手に一兵卒となる準備はあるんですけれども、常備軍において、兵卒を務める者と士官以上では、あきらかに階層(クラス)がちがいます。
 ですから、普通にあてはめれば、洋式軍隊で武士がめざすのは指揮官、つまり士官以上であり、兵卒ではなくて当然なのです。
 しかし、ではなぜ、戊辰戦争で、例えば薩摩小銃隊や長州の干城隊など、士族の歩兵が活躍したかといえば、戊辰戦争の軍隊は、本格的に西洋近代軍隊の階級を導入しておらず、隊内においては、士官とそれ以下、のような身分格差がなかったから、なのです。
 薩摩でいえば、城下士のみ、郷士のみ、私領士のみ、で隊を作り、長州もまた士族は士族のみで干城隊、奇兵隊やその他の諸隊は志願者の寄り集まりで別部隊、といった工合で、ひとつの隊の中に、身分格差、上下関係はなかったのです。
 明治、本格的にフランス式軍隊階級を導入してからの薩長土肥、陸軍の騒動は、また別の機会にまわしまして、ともかく、別に歩兵とは、役人化した士族がなりたがるものではなく、武を志した少数の士族にしましても、めざすは士官であり、四民平等をいうならば、農民でも商人でも士官になれる、という制度の確立こそがその実現であり、徴兵制で農兵をとりたてたからといって、四民平等ではないでしょう。
 さらにいえば、長州奇兵隊は、志願制の隊であって、徴兵制とは関係ありません。

 幕末、もっとも徴兵制に近い制度をしいたのは、本格的にフランス陸軍の伝習をはじめた幕府です。
 幕府の銃隊養成は、安政年間からはじまり、当初は、旗本、御家人など士族でまかなっていましたが、ものの役に立たない者が多く、とても歩兵とはなりえません。
 文久2年(1862)、兵制改革の建言書が提出されました。だれの建言かわからないのですが、松浦玲氏は「勝海舟ではないか」としているそうです。
 おおまかな内容を言えば、「弓矢や古風な馬術はやめよう。また身分の高いものが、刀や槍の練習や、銃を持って歩兵になる訓練ばかりするのはばかげている。将官となるために文武をおさめるべき。兵卒は農民でまかなおう」ということでして、たしかにこれは、本格的に洋式軍隊の勉強をしたものでなければ言えないことで、オランダ海軍伝習を受けた勝海舟であった可能性は高そうです。これも以前に書きましたが、海軍伝習といっても陸戦隊の訓練もありましたから。
 こういった建言によって、オランダ式に兵制改革が行われ、旗本の知行地から石高に応じて、兵卒を差し出させたんですね。
 結果、旗本たちの中には、自家の士分を出したものもありましたが、若党、中間、小者などと呼ばれる武家奉公人は、臨時雇いであった場合が多く、臨時に雇って差し出したり、また知行地の農民を差し出したり、いろいろでした。
 これは、長州奇兵隊もそうで、なにも農民だけではなく、武家の下働きや軽輩の2、3男が志願したわけで、兵卒の構成階層は似たようなものであったといえましょう。
 この幕府の小銃隊は、ちゃんと洋風制服を着ていて、デビューは元治元年、禁門の変と天狗党の乱でしたが、旗本が勤めた士官の数も足りず、あまり使い物になったともいえず、士官は横浜のイギリス陸軍に弟子入りします。
 次が長州戦でしたが、全員が銃隊となっている長州にくらべ、幕府歩兵隊は少なすぎまして、効率的な戦いができないで終わります。
 それで、後はちょっと省略して、再度の幕府の改革をかんたんにまとめますと、知行地から農民を募れる大身の旗本はそのままにして、傭い人を出すような層からは金を納めさせて、直接、幕府が兵卒志願者を募って傭いいれるようにしたんですね。
 それでも足りなくて、最後には、役人化していた幕府直属の軽輩たちだけで銃隊を作ったり、旗本だけの銃隊もできたりしますけれども。
 このうち、徴兵制に近いのは、旗本知行地の農民兵です。
 小栗上野介も知行地の農民にフランス陸軍伝習を受けさせていたりしました。
 
 で、いよいよ本題に入りますが、黒船来航、開港により、幕府直轄地の多い関東の農村は、荒れていました。
 島崎藤村が「夜明け前」で描きましたが、尊王攘夷に心酔する庄屋層が増え、そこに、脱藩者やインテリ豪農層、農業にあきたらない農民たち、博徒などのアウトローなどが出入りし、火種が騒乱に結びつく可能性は大きかったんです。
 名門新田氏として石高はわずかながら、格式は大名並みの旗本、岩松新田氏・猫絵の殿様のまわりにも、そういう人々が集っていました。
 逆説的な話なんですが、開港以来の主な輸出品が生糸、シルクであったことと、それは無縁ではありません。
 シルクが高値で輸出され、関東の農村には多大な利益が流れ込みますが、絹織物などの地場産業はつぶれますし、物価ははねあがりますし、いわば儲けたものとそれができなかったもので、格差が大きくなってくるんですね。
 そして、格差は大きくなってくるんですが、一攫千金の生糸取り引きも可能であってみれば、農民が個人的に地位向上をはかるチャンスも増え、尊王攘夷を唱えて武士になることも可能で、いわば流動化しつつあったわけです。
 ともかく、倒幕にむすびつきかねない尊王攘夷の旗印で、いつ浪士(浪士といっても農民、博徒も含みます)による騒乱が起こっても不思議ではない状態となったわけです。
 
 で、またまた簡略にはしょって言いますと、幕府は、関東直轄地、知行地の治安維持のため、勘定奉行配下の代官所を強化し、農兵を取り立てて、治安維持にあたらせることにしたわけですね。
 小栗上野介は、文久2年(1862)に勘定奉行になって以来、幾度もやめさせられていますが、また返り咲きで、アメリカ視察で得た知識をもとに、この勘定奉行方を中心として、富国強兵策を実行していて、横須賀製鉄所(造船所)の建設やら軍艦の購入、フランス陸軍伝習、代官所の農兵取立、生糸の輸出政策も、すべて、勘定奉行方が中心となって行ったものなんです。
 そして、この代官所の農兵、天狗党の乱には間に合いませんでしたが、慶応2年の武州(埼玉)世直し一揆のときには、しっかり銃隊として編成されていて、鎮圧に力を発揮しました。

 前回、バロン・キャットと小栗上野介で書きましたが、慶応3年、江戸の薩摩屋敷で企てられた、野州(栃木)挙兵です。
 武州川越の村長、竹内啓を隊長とする3、40人の一行は、栃木の出流山満願寺に向かいました。
 薩摩藩主夫人が満願寺に願掛けをしていたが、願ほどきの代参を立てる余裕もなく先年国許にひきあげたので、国許から代参をとの要請があり、代参に出かける、というふれこみだったそうです。
 栃木で宿をとり、竹内啓をはじめとする10名ほどが出流山へ乗り込み、残りは近在に、遊説に出かけます。
 出流山の一行は、賴村の名主の家に泊まり込み、薩摩の旗を立てて、仮面を脱ぎ捨て、満願寺で尊王攘夷の檄文を読み上げます。
 村の人々は、「天狗党の再来か!」とぎょっとするのですが、満願寺の若い僧が一人、還俗して仲間になりたい、と申し出ました。それが、国定忠治の息子だったそうです。
 遊説がきいたのか、やがて出流山には、続々と賛同者が集まりはじめました。
 人数は正確にはわかりませんが、150人から300人くらいであったろうといわれます。
 これだけ人数がふくらみますと、資金が必要になってきます。この資金集めは、往々にして強要になり、しかも集まった浪士には博徒やら無頼漢も多くいますから、住民とのトラブルのもとです。天狗党の乱のときにも問題をひきおこしましたが、今回もそうでした。

 薩摩藩邸からの浪士組に、高橋亘という上州の村の漢学者の息子がいました。
 この人の経歴は、当時の関東農村の上昇志向の強い中上層農民の典型です。
 文久2年、清川八郎が幕府に献策し、新撰組誕生のきっかけとなった浪士取立に応じ、京へのぼって壬生浪人になります。
 新撰組とちがって、清川八郎に共鳴していたので、江戸へ帰り、幕府の方針転換により、失望して故郷へ帰ります。
 しかし慶応元年、再び京へ出て、尊王攘夷、反幕府の浪士活動をくわだてますが、幕府側(新撰組だったかもしれません)に包囲され、からくも逃れて江戸へ帰り、水戸藩士と事を起こそうとしますがまた失敗し、潜伏の後、相楽総三の呼びかけに応じて、薩摩藩邸に入ったんです。
 新撰組には、当初、水戸天狗党関係者がいましたし、御陵衛士の分裂が起こったり、またそのまま陸援隊に入るものがいたり、だったのは、天狗党や長州、陸援隊、薩摩藩邸の浪士組と、多少、幕府に対する意識がちがうだけで、出身構成もその上昇志向も、本質的に差がなかったからなのです。
 農村から出た彼らは、一兵卒になりたかったのではありません。それぞれが文武をおさめた指揮官、つまりは、れっきとした士族になりたかったのです。
 
 ともかく、高橋亘は、斉藤、高田、山本、吉沢、みな上州、野州の農村出身者だったのですが、この4人とともに、足利戸田家の栃木陣屋へ軍資金の引き出しに出向きました。
 ところが、この地域一帯は、ほぼ4年前の天狗党の乱で、天狗党の中でも粗暴なために問題視されていた浪士の一隊によって、大きな損害を被っていたのです。栃木陣屋の責任者は、交渉を引き延ばしつつ、近在の小藩や幕府代官所に連絡をとり、戦闘準備を始めました。
 一方、出流山の本部でも、様子がおかしいことを察し、応援隊をくりだします。
 幕府関東代官所の治安組織は、関八州取締出役と呼ばれ、その下に農兵隊が組織されていたのですが、その中心だったのが上州岩鼻代官所で、出役の一人に、渋谷鷲郎(和四郎)という、非常にすぐれた指揮官がいました。
 関東小藩の戦力には、銃隊はほとんどありません。
 渋谷鷲郎の農兵は、農兵といっても猟師や博徒が多かったのですが、武州一揆を鎮圧した実績もあります。戦力の中心は、こちらでした。
 まずは各個撃破で、10人ほどの浪士応援部隊を襲い、同時に高橋亘たち5人にも襲撃をかけました。このうち、高橋を含む3人は逃れて、本部に急を告げます。
 浪士隊本部では軍議がひらかれ、出流山は守るに不利な地形なので、そこには囮部隊11人を残し、四里ほど離れた唐沢山に本拠を移すことにしました。
 結論から言いますと、渋谷鷲郎は周到に情報を集め、囮残留部隊を襲撃すると同時に、移動中の本隊を待ち伏せて、戦闘をしかけます。浪士隊には銃を持つものがなく、あっけなくけちらされ、死者、生け捕り多数を出し、しかしそれでも、20数人は、薩摩藩邸へ逃げ帰りました。
 首領の竹内啓をはじめ、生け捕りになった浪士たちは、結局、ほとんどが処刑されたようです。

 前回も書きましたが、薩摩藩邸の浪士たちの首領、相楽総三は、すでに、これも農村インテリ層で新田氏を名乗る金井之恭と連絡をとっていて、浪士隊の挙兵と同時に、猫絵の殿様をかついだ挙兵をも計画していたのですが、これも代官所の探索でばれまして、金井之恭たちは、岩鼻代官所の牢獄につながれます。

 そして………、相楽総三は、残酷な復讐を思いつきました。
 関八州取締出役渋谷鷲郎の家族は、江戸にいたのですが、総三は浪士の一隊を組織し、渋谷の留守宅を襲って、家族を皆殺しにしたんです。詳しい記録は残っていないそうなのですが、泊まり客まで、といいますから、親や妻子は当然でしょうが、すべて、斬り殺したもののようです。

 次回へ続きます。


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「坂の上の雲」の幕末と薩摩

2008年03月10日 | 伊予松山
 春や昔 十五万石の城下かな

 この正岡子規の句を引いて、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」は幕をあけます。



 上の写真は、松山城天守閣から、その十五万国の城下町を見下ろしたところです。
 松山城天守閣は、市内中心部の小高い山の上にありまして、少し前までは、市内のどこからでも仰ぐことができました。

 実は、松山城の天守閣は、江戸時代も後期にさしかかった天明4年(1784)、雷が落ちて全焼してしまったんです。
 二度ほど建て直そうとしたんですが、財政難で、かなわないまま時は過ぎました。
 なんせ天守閣は、けっこうな山の上なんです。
 他県の友人を案内しましたら、「これ、散歩っていうより登山!」と驚いていたほどです。
 藩主の住居である二之丸などは麓にありまして、山の上の天守閣がなくとも、実質、困りはしないわけなのです。

 ところで、松山城を造ったのは、豊臣秀吉の家臣だった加藤嘉明です。
 しかしお城の完成を目前にして、会津へ転封。
 次いで蒲生忠知が入り、お城を完成させるんですが、男子なく断絶。
 次いで松平定行が来て、徳川家の親藩となり、幕末まで続きます。
 みーんな、鉢植え大名です。

 えーと、です。伊予の松山は、中世からの、いえ源平合戦に出てきますので古代からの、でしょうか。ともかく、古い豪族で守護職ともなった河野氏がずっと治めていまして、うちの近所に道後公園(温泉のそばです)がありますが、14世紀ころからそこに築城しまして、16世紀末に土佐の長宗我部氏に攻められて降伏しましたところが、その直後、豊臣秀吉に従った中国地方の毛利氏にやられて、河野氏は滅亡します。
 なんでも戦国時代には、道後にキリシタンの教会なんかもあったそうで、瀬戸内海の要所ですから、けっこう栄えていたんですけれども、まあ、そのー、兵は弱いですわ。
 あー、陸兵より水軍の土地柄なんですけどね、河野氏配下だった村上水軍が離反したりもしましたし。

 で、徳川将軍家光の時代、桑名から松山へやってきた松平定行です。
 松平といいましても、本姓は久松で、明治以降は久松にもどし、伯爵家となりましたが、この人の父親が、徳川家康の異父兄弟、なんですね。
 つまり家康のおかあさんの於大の方は、松平家に嫁いで家康を生み、離縁になった後、久松家に嫁いで、定行の父親を生んだ、というわけです。
 で、なぜだか知りませんが、定行の嫁さんが薩摩島津家の出で、この方は桑名で亡くなっているそうですが、二代定頼は、正室である島津家の姫さんのお子です。
 で、この二代目定頼の娘さんが、今度は薩摩藩・島津綱久に嫁ぎ、三代目薩摩藩主・島津綱貴を生みます。
 この島津綱貴の娘さんが、また松山藩五代目・松平定英の嫁さんとなり、六代藩主・松平定喬を生みます。
 伊予松山藩は、八代目までは、養子が入っても久松松平の血筋だったんですが、九代目にして、幕府の命で御三卿の田安家より、婿養子をとることになります。そして、九代、十代、十一代と田安家の血が続くんですが、十一代定通がなかなか男子に恵まれず、そこで、ですね、島津家より養子を迎えることになります。
 えーと、三代目薩摩藩主・島津綱貴の母親は、二代目松山藩主・松平定頼の娘で、島津家では綱貴の子孫がずっと続いていますから、「母系では久松松平の血だい!」というわけなんですが、何代前の話を持ち出すやら、ものすごい発想です。
 まあ、あれです。当時、徳川将軍家の御台所は、薩摩藩八代藩主・島津重豪娘・茂姫(広大院)でしたし、御台所のお世話なんかがあったんでしょう。
 で、松山藩に養子に入ったのは、重豪の孫で、薩摩藩九代藩主・島津斉宣の十一男、松平勝善(定穀)です。島津斉彬は斉宣の孫ですから、勝善にとっては甥に、天璋院篤姫も同じく斉宣の孫ですので、実の姪になります。
 
 で、松山城の天守閣は、数十年なかったんですが、この島津家から養子に入った勝善が、復興するんです。
 いや、さすが大藩からのご養子です。
 完成したのは安政元年(1854)、ペリー来航の2年後です。
 その天守閣が、今も残っているわけでして。

 残念なことに、松平勝善は子を残しませんで、十三代松山藩主はまたまた養子で、今度は高松藩松平家(ここは水戸徳川家の血筋です)からの勝成。十四代がまたまたまた養子で、どういうわけか津藩藤堂家からの定昭で、ここで維新を迎えます。
 しかし、将軍家御台所となった島津家の篤姫さんの親族交際の中に、島津家から養子が入った家、ということで、松山藩の勝成、定昭父子は、しっかりと入っています。

 幕末の松山藩は、悲しいかな親藩です。第二次長州征伐(四境戦争)に出兵せざるをえなくなり、周防大島へ出兵するんですね。
 周防大島って、その昔、毛利家に従った村上水軍が移住したところでして、伊予とは深いかかわりがあり、松山城下でも、姻戚関係にある者があったりもする土地なんです。だいたい、村上水軍の氏神も氏寺も、伊予大三島、伊予大島にあったわけでして、往来は盛んです。
 えーと、おまけに松山は、薩摩とは正反対の土地柄。
 士族数は存じませんが、俳句とかお能とかが盛んで、小作農までが俳句をやるような土地柄ですから、武士も軟弱。
 農兵の取立をやってましたから、主にはやーさんとか(水争いは盛んでして)みたいな方々が、兵士だったようでして、幕府の歩兵といっしょに、かなりな乱暴をした様子で、負けて逃げて帰った上に、幕府からさえ咎めをうけていたりするんですわ、これが。
 あげくの果てに、慶応3年(1867)、最後の最後に、若い藩主・定昭が、二条城で老中を押しつけられてしまい、大阪城まで慶喜公のお供なんかしたこともありまして、すっかり朝敵にされてしまうんです。
 ここらへん、私、なんだか、篤姫さんが嫁入り先の徳川家のために、一生懸命尽くしたのではないか、という気が………、します。
 最後まで、容堂公が徳川家をかばってねばり通したのも、容堂公の義母、島津家から土佐山内家にお輿入れした智鏡院候姫に、篤姫さんが懸命の働きかけをしたのではないかと、勘ぐってみたり。
 なにしろ、土佐の支藩、土佐新田藩の藩主・山内豊福とその奥方は、江戸の麻布藩邸にいたのですが、鳥羽伏見の後、「土佐藩兵が徳川家に対し発砲したとは申しわけない」と、自刃して果てたというのですから。

 まあ、海をへだてて長州の筋向かいですし、山路をゆけば高知のお隣ですので、多勢に無勢ですわ。
 戦国時代の繰り返しです。
 山を越えて土佐から進駐軍がやってきて恭順しましたのに、今度は海から長州軍がやってきまして、土佐軍と長州軍は一色触発のにらみ合い、だったそうですが、朝廷から正式に命令を受けたのは土佐だったので、長州はしぶしぶ引きましたが、松山藩虎の子の汽船をかっぱらって行ったそうです。

 さて、しかし、久松家と島津家のご縁は続きます。
 定昭の後はさらに養子だったんですが、こんどは旗本になっていた久松松平の分家からで、ここできっちり血筋をもどします。その久松定謨伯爵は、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学します。
 秋山好古はそのおつきでフランス留学し、正岡子規の叔父・加藤拓川も、おつきで行って、そのままパリ公使館の外交官となり、旧藩主のお世話をします。
 この加藤拓川というお方、陸羯南や原敬とともに、司法省法学校でストライキをやらかした方で、晩年、外交官を辞めて郷里へ帰り、松山市長を務めるんですが、そのとき、大正12年、久松家へ払い下げられた松山城を、定謨伯爵からそのまま市で貰い受け、公園として市民に開放する基礎をかためました。
 拓川はこの年に死ぬんですが、翌年には、秋山好古が故郷に帰り、北予中学校という小さな私立中学の校長を務めるなど、故郷松山の発展に尽力します。
 フランスでともに時をすごした三人は、みな、松山への愛着を持っていたようです。

追記
 フランス時代、久松定謨伯爵は、薩摩出身で、同時期にフランス留学をし、洋画家となった黒田清輝ととても親しくつきあっていました。加藤拓川もいっしょに遊んだりしていたようですし、あるいはフェンシングなんかしていますので、秋山好古もいっしょだったりした可能性は高いんです。(fhさまのところの黒田清輝の日記参照)

 駐在武官を勤め、フランス生活が長かった定謨伯爵は、大正11年、城山の麓にフランス風の別邸・萬翠荘を建て、一家で住んでいたような話です。
 
  

 で、その定謨伯爵なんですが、島津忠義公爵令嬢、島津貞子を妻に迎え、嫡子定武伯爵をもうけています。
 貞子伯爵夫人の妹・島津俔子が、久邇宮邦彦王に嫁いで、香淳皇后の母となっていますので、久松定武伯爵香淳皇后は、母親が島津家の姉妹で、いとこになります。
 戦後、久松定武氏は、愛媛県知事になるんですが、最初、社会党から選挙に出たそうなんです。
 祖父母の話で、どこまで本当かしらないんですが、松山へ来られた昭和天皇が、皇后のいとこにあたる定武知事に、「社会党はいかがなものか」とご忠告なさったので、自民党に鞍替えしたとかで(笑)
 これも祖父母の話ですが、当時、田舎にはまだ、投票用紙に「お殿さま」と書く人がいるとの噂だったそうです。


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天璋院篤姫の実像

2008年03月09日 | 幕末の大奥と薩摩
幕末の大奥―天璋院と薩摩藩 (岩波新書 新赤版 1109)
畑 尚子
岩波書店

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 大河ドラマのおかげで、天璋院本が多くでまわっております。
 えー、私以前、天璋院篤姫と慶喜公vol1 vol2で、ろくに調べもしないで勢いで篤姫のことを書いてしまいまして、きっちり資料調べした本がないものか、と思っていましたところが、ありました!
 この本の著者、畑尚子氏は、江戸東京博物館の学芸員さんだそうです。
 やはり宮尾登美子氏の「天璋院篤姫」から入り、何度か読んで少し資料をかじるうちに、「小説といえどもかなりの時代考証がされている」と感じ、「どのような史料を見られたのかという興味が沸き上がった」と、前書きに書かれています。
 で、あとがきでは、この本を書かれて、「私の天璋院像は一変し、宮尾登美子氏の小説に描かれたものは偶像であったことに気づいた」とされているんです。

 最初、私は、「一変してるかなあ」とちょっと首をかしげていました。
 たしかに、資料不足による細かなまちがいはあるようなんですが、将軍家御台所になってからの将軍後継者工作や、家定との関係、後に一橋慶喜を嫌い、家茂を支持していたこと、皇妹和宮との関係など、重用な部分はむしろ、宮尾氏がきっちり資料に基づいて書かれていたことがわかり、ただ、男勝りで「しっかり家をささえている」部分の描き方が古風なだけではないのか、と思ったのですが。

 宮尾氏の描かれた篤姫像で、私が一番疑問だったのが、「情報不足による攘夷主義者で蘭方医嫌い」という部分でして、「蘭癖大名といわれた斉彬公の養女で、将軍家後継者工作もあって御台所となった人が、これってありなの?」と思っていたのですが、畑氏によれば、篤姫さんの主治医が、薩摩藩医でもある蘭方医・戸塚静海でして、さらに情報不足どころか、かなり積極的に情報を集めているようすで、たしかにこの点では、一変しています。

 一番びっくりしましたのが、篤姫が御台所となりましたお相手の将軍家定が、大奥で逝去していたことです。
 たしか宮尾氏の小説では、篤姫は夫の逝去もすぐには知らせてもらえず………、とかになっていたと思うのですが、「彦根藩公用方秘録」によりますと、「家定公が脚気で重体になり、井伊大老をはじめ老中は、ふだん足を踏み入れない大奥のご寝所に入った」ということなんだそうです。
 また脚気ですか。いや、この当時の将軍家って、次代の家茂さんも和宮さんも、みなさん死因は脚気で、いったいどういう食生活だったんだろう、と思うんですが。
 さすがに、あれです。最後の将軍慶喜公は、豚一と呼ばれるほどの豚肉好きだったといわれ、鳥羽伏見から逃げ帰った直後もまずは江戸前のウナギを食されたともいわれ、長生きなさいましたよねえ。
 まあ、豚肉だのウナギだのは、品のいいものではなさげですが、大豆を食せばいいんですから、お豆腐なんか食べていればいい話ですし、副食をたくさん食べれば、と思うんですけどねえ。
 運動しないものですから、あっさりと白米につけもの、そして甘いものばっかり、食べていたんでしょうか。
 慶喜公は、なんとも身軽に、動きまわるお方でしたしねえ。
 それはともかく、です。
 家定将軍の脈をとった蘭方医の伊東玄朴は、「毒がまわられた」と言っちまったらしいんですね。いや、ですね、正確には「(脚気の)毒がまわられた」、だったそうなのですが、脚気は当時、ビタミンB1不足とは知られておりませんで、なんらかの毒素が体にまわってなるのだろうと考えられていましたようなわけで、脚気をはぶいちゃったんです。

 あー、また話がそれますが、明治になって、西洋医学の導入を長州がしきってドイツ式に決まり、これも薩摩は、陸軍と同じでイギリス式を推していたんですが、敗れて、戊辰戦争で援助してもらったイギリス公使館の医師・ウィリアム・ウィリスを薩摩藩で引き取ります。
 ドイツ式もいいんですが、なにも軍隊じゃないんですから、イギリス式も残しておけばいいのに、なんでそう、一辺倒にしてしまうんでしょう。
 結局、医学においても、イギリス式が残ったのは薩摩がしきった海軍だけです。
 薩摩でウィリスの教えを受けた高木兼寛が、イギリスに留学して、帰国後、海軍軍医となり、脚気の原因は食べ物にある、ということで、食事改善により、海軍の脚気による死者を根絶させます。
 ところが、ドイツ医学では、これを細菌による病気と見ていたんですね。
 森鴎外をはじめドイツ留学した陸軍軍医上層部、そして医学界の主流もそうなんですが、頑固に、海軍の成果を認めず、日清戦争においては、戦死者が450名ほどだったのに、その10倍近い脚気による死者を出します。それでも懲りずに、日露戦争においては3万近い脚気による死者が出たといいますから、あきれます。

 話をもとにもどしますと、「上さまに、毒を!」と大奥はパニック状態。
 家定つきの御使番(奥女中)藤波は、将軍逝去の翌日、「上さまはまだ、35才の若さでおられたのよ。御台さまも迎えられ、お世継ぎのご誕生をみんな楽しみにしてたのに、こんなことって! あんただから秘密の話をするんだけど、毒薬がつかわれたのよ! 水戸、尾張、一橋、越前がこれにかかわっていることは確かよ」と、弟に手紙を書いているんです。
 
 水戸、尾張、一橋、越前です。
 将軍後継者問題の一橋派、つまり、一橋慶喜を推す派が並んでいるんですが、薩摩がぬけてます。
 たしかに、島津斉彬は帰国中ですし、将軍家のお世継ぎに関係する親藩じゃないんですが、一橋派が毒殺にかかわったというのなら、別個にでも薩摩も名があがりそうなものです。実際、先に失脚した老中の名なんかもあげているんですよね。
 篤姫さん、ただ者じゃないですね。すっかり、大奥を掌握しています。
 この直後、島津斉彬は国許で死去し、徳川将軍家では紀州から家茂が入って将軍となり、井伊大老による安政の大獄へとむかうんですが、天璋院となった篤姫さんが、どのようにしていたかは、やはりさっぱり、資料がないようです。

 次いで、将軍家茂のもとへ御降嫁なった和宮さんとの軋轢です。
 ここらへんが、私は一番、畑氏と感想を異にするところなんですが、畑氏の見解は、おおよそ、以下のようです。
 「和宮は朝廷から格下の将軍家へ嫁いだわけで、さらにこの幕末、朝廷の権威は上昇している。尊重されて当然なのだが、天璋院は和宮とは逆に、格下の外様大名から将軍家へ嫁いだのに、これまでの大奥や将軍家、大名家のしきたりからいって当然のことに従わず、感情的な対処が多い」
 見解を異にするというか、あれですわ。
 朝廷の権威があがった、といいましても、それは薩摩藩など外様大名にとっては、われわれのおかげであって、薩摩藩は朝廷を盛り立てつつ、実力で将軍家を脅かすようになっていたんですから、天璋院が、「皇女ったって私の嫁よ。朝廷に実力なんかないんだから」と思ったとしても、それは、朝廷の権威があがると同時進行な事態ですわね。

 で、残念なことに、文久2年(1862)、島津久光が朝廷の勅使と軍勢を引き連れ、幕政改革を迫りに江戸へ姿を現したとき、篤姫さんがなにをしていたかは、これもさっぱり資料がないみたいです。
 一番、知りたいところなんですけどねえ。
 ただ、篤姫さんは、江戸の薩摩藩邸とは密接に連絡をとり、島津家と縁戚関係にある大名家と、積極的に外交をくりひろげていたようでして、家格をあげてあげたりもして、同時に情報蒐集にも務めていたようです。
 とすれば、私が以前憶測しましたように、京で一橋慶喜が久光を罵倒したことが、篤姫さんの慶喜嫌いを決定的なものにしたのではないか、ということは、十分ありえると思うんですね。
 畑氏はまた、将軍不在の期間が長くなってから、篤姫さんは表へ出て、政にかかわっていた節が見える、とされていまして、まったくもって、「徳川家は私がささえなければ!」だったようです。

 この本のハイライトは、なんといっても、徳川家存続の嘆願と、江戸開城でしょう。
 畑氏は、ここで、江戸城無血開城は、篤姫さんの西郷隆盛への嘆願がきいたのではないか、とされます。
 「いまさら言っても取り返しがつかないんだけど、一昨年、大阪で家茂公がはかなくなられたとき、慶喜は上京中だったし、そのまま将軍に座ったのも仕方がないかと口を出さなかったんだけど、慶喜は将軍としてどうよ、と前々から疑問だったし、国を危うくするようなことをしでかすんじゃないかと、心配だったの。だから、慶喜はどうでもいいんだけどね、徳川家がつぶれたのでは私、祖先に申し訳がたたないし、たくさんの家来たちを路頭に迷わせ、苦しませることに、たえられないわ。私は徳川家に嫁に来て、この家に骨を埋める覚悟よ。あの世で亡き夫に言い訳のたたないようなことには、したくないの。今の世の中、頼みがいがあり、実力のある諸侯(大名)もいなくって、ご迷惑でも、あなただけが頼りなの。わかって!」

 いや………、すごいです、篤姫。
 勝海舟に会って事情を聞いたりもしていたんでしょうが、ものすごい洞察力です。
 事態を動かしているのは、実家の島津家ではなく、ましてや朝廷でもなく、下級藩士の西郷隆盛なんだって、ちゃんとわかってるんですね。
 だって西郷は、和宮さんからの朝廷への嘆願に「和宮なんぼのもんじゃ!」とかいってますもんね。
 おまけに、「ねえ、ねえ、私だって慶喜は嫌いなのよ」みたいにはじまる嘆願書って、実に効果的!

 篤姫さんの嘆願書が、無血開城を決定的にした、という畑氏のご推測、なるほど頷けますわ。

 そして、江戸城大奥の最後なんですが、よく大奥ドラマに出てくる最後の大奥取締・滝山は、一橋慶喜が将軍になると同時にやめていた、という推測が成り立つみたいです。よほど慶喜公が嫌いだったんでしょうね。
 ともかく、篤姫さんも和宮さんも、荷物が多くて片付けが間に合わず、篤姫さんは薩摩藩士の海江田信義に、「女の荷物って大変なの。明け渡しの日を、少し先へのばしてもらえないかしら?」と言ってやるんですが、海江田の一存でできることでもないので、「動かせない荷物はまとめておいてくださったら、こちらで厳重に保管して、かならずお返ししますよ」との答え。
 それで安心して、篤姫は大奥を去ったのですが。

 ところがところが、後で江戸城にやってきた大村益次郎が、和宮さんのものも含めて全部略奪して売り払い、軍費にしたんだそうです。
 ここから後は、東郷尚武著「海江田信儀の幕末維新」からですが、海江田はもちろん大村を咎めましたが、大村は我意を通し、篤姫さんとの約束を守れなかった海江田は、以来、大村と不仲になったのだとか。
 


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バロン・キャットと小栗上野介

2008年03月08日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
「ぎゃー、さらに検索をかけてみましたら、小栗が戦争の準備をしていると総督府にちくったのは、猫絵と江戸の勤王気分 に出てまいりました、猫絵の殿様、バロン・キャットだとか」
と、土方歳三はアラビア馬に乗ったか? で書きました。

これ以前から、横須賀製鉄所の生みの親・小栗上野介の最期は気にかかっていたのですが、もう一つ、バロン・キャットと伯爵夫人猫絵と江戸の勤王気分 で書きました、鹿鳴館の花・井上武子伯爵夫人の実家、岩松新田の猫絵の殿様。この人が中心になっていたという新田官軍の実態も、いまひとつ釈然としなくて、あれこれ調べていたところで、この驚きでした。
岩松新田の知行地と、小栗上野介の知行地は、ともに上州にあり、近くだったんです。

そしてその上州は、最高級ジャパン生糸の産地であり、国定忠治伝説の生まれた地でもありました。

「八州廻りと博徒」

山川出版社

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著者の落合延孝氏は、上州在住。『猫絵の殿様 領主のフォークロア』の著者でおられます。

江戸時代の関東の農村は、天領、旗本の知行地、譜代小藩領などが複雑に入り乱れていたため、治安取締がゆるやかで、博徒、いまでいう893、やーさんですが、アウトローといった方がいいでしょうか、ともかく、そういう方々の活動が活発であったと、そういうことは、かなり昔から言われておりました。
で、私、さすがに「赤城の山も今宵かぎりか」のセリフだけは、なぜか知っていますが、国定忠治伝説については、ほかになにも知りませんで、結局のところ、史実としては、幕末、といっても 嘉永3年(1851年)ですから、ペリー来航、黒船騒動の3年前ですが、殺人罪で刑死した博徒だったようです。
一応、飢餓の時に救民活動をした、というような話はあるんですが、それ以上にどうも、はりつけという極刑になったことから美化され、幕末の不穏な空気の中で、民衆のヒーローとなっていったようです。
救民活動といえば、某最大手やーさん組織が、神戸大震災のときにやってますから、まあ、あっておかしくないんですけれども。
この国定忠治が、新田氏を名乗っていまして、岩松新田の猫絵の殿様ご近所まわり出身者なんですね。

と、実はここまで、去年の4月に書いたものなのです。
下書きのままで、いまにいたりまして。
今回、続きを書く気になりましたのは、桐野利秋と龍馬暗殺 後編を書いていまして、またしてもぎゃー!!!と思ったからです。
それもまたまた、土方歳三はアラビア馬に乗ったか?の小栗上野介。
「土方久元の回想によれば、小栗上野介の乗馬は、官軍の豊永貫一郎が奪い取って乗っていたそうなんです」と書いた、豊永貫一郎です。

 えーと、検索もかけて調べたのですが、豊永貫一郎について、書いた以上のことはわかりませんでした。
 が、おそらく、土佐藩士で長州よりの考えをもっていたのですから、軽輩だったんではないんでしょうか。
 軽輩ゆえに、土佐勤王党に心をよせ、念願かなって京都藩邸勤務。土佐藩邸には、同じような仲間がいっぱいいて、「お国の因循姑息は、どげんかならんか!」と悲憤慷慨していますが、脱藩するほどの勇気はありません。
 仲間八人で酒を飲んで、ほんのいたずら気分で制札事件を起こし、二人死亡、一人捕縛で、残りの四人とともに薩摩藩邸に逃げ込んで、一年間、かくまってもらったわけです。
 時勢が動き、藩邸を出て、陸援隊に入り、今度は天満屋事件。
 陸援隊ですから、高野山に行ったんでしょう。
 その後、岩倉具視に気に入られたんでしょうか。
 岩倉具視の息子、具定が総督を務める東山道軍の軍監となり、板橋まで進軍。
 で、その板橋の総督府に、何者かが「旧幕臣小栗上野介事、上州三野倉村へ引き籠もり、追々要地により、みな相構へ候模様、その上大小砲多分所持、諸浪人等召し抱へ、官軍に抗し候景況これある由」と、密告したむね、「復古記」にあるそうです。
 つまり、「小栗上野介が、知行地だった上州三野倉村へ引きこもり、砦を築いて、大小の砲を多く所持した上、浪人をいっぱい召し抱えて、官軍と戦うかまえでいる」と、何者かが、密告したんですね。
 で、この何者かが、猫絵の殿様だという可能性は、あるんでしょうか。
 それが………、どうもありそうなんです。

 この小栗上野介の知行地「上州三野倉村」というのは、最初に述べましたように、猫絵の殿様の知行地のご近所です。
 で、ですね、シルクの産地であり、横浜開港以来、多額の収入を得る者がでてきた一方で、シルクを織物にしていた地場産業は、生糸が輸出にまわって確保できなくなり、つぶれるんですね。
 さらに、実は、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で述べました、以下。
「理念の面からいえば、モンブラン伯爵は、自由貿易主義者だったように感じます。
当初、生糸、蚕種の現物で、幕府が鉄工所建設費を払う、というような噂も出回っていまして、このことからも、在日イギリス商人が猛反発したのです。
さらに、以前にも書きましたが、在日フランス公使レオン・ロッシュは、富豪で銀行家のフリューリ・エラールに、フランスの対日貿易をすべて取り仕切らせるような画策をするんですが、フリューリ・エラールは、ロッシュの個人的友人なんですね。当時、主に生糸はイギリス商人が取り扱っていたのですが、柴田使節団訪仏の翌年、慶応2年(1866)から幕末の2年間だけ、極端に、イギリス商人の生糸取扱量が減っています。
取扱量が減ったのは、あるいはこの年、在日イギリス商人は、軒並み、金融危機に見舞われていまして、これはインド、中国貿易に原因した資金繰りの悪化だったんですが、そのためかとも受け取れますが、減り方が異常です。
証拠はあげようもないのですが、小栗上野介と三井の関係を考えますと、幕府が三井を使って、うまくフランスに、それも独占的にフリューリ・エラールの関係した商人に、生糸をまわしていたのではないか、という疑念に、私はとらわれてしまうのです。
ともかく、いくらモンブラン伯爵がフランス人であっても、フリューリ・エラールが個人的に対日貿易を独占する、というのは、自由貿易主義者として、賛成しかねることだったんじゃないんでしょうか。」


 これは、石井寛治著「近代日本とイギリス資本 ジャーディン・マセソン商会を中心に」(東京大学出版会)で、横浜における生糸の取り引きを見ましたら、幕末、押し詰まりました時点で、イギリスの取扱量が極端に落ち込み、が、フランスは増えていて、その理由を石井寛治氏が述べておられなかったことから、推測したことなんですね。
 また、『ポルスブルック日本報告 1857-1870 オランダ領事の見た幕末事情』(雄松堂)という本で、オランダ領事ホルスブルックの手紙が訳されているんですが、「(フランスと幕府の生糸交易で)こんな取引を認めたら、イタリアや南フランスにとっても損失になることで、私がにぎった証拠書類を、親しいフランス人神父に見せたら、彼らも怒っていた」というようにもあるんです。
 これについてfhさまから、柴田三千雄・朝子共著「幕末におけるフランスの対日政策「フランス輸出入会社」の設立をめぐって」という論文をご紹介いただきまして、「フランス輸出入会社」、ソシエテ・ジェネラールの中心には、やはりロッシュ公使の友人、フリューリ・エラールがいまして、日本の生糸輸出の独占を一つの目的として、試験的取り引きには成功していたけれども、結局、頓挫した、何故頓挫したかといえば幕府が倒れたから、であるらしいんですね。
 日本側でこれをどう実現していたかといいますと、まず横浜で。
 元治元年(1864)幕府は、生糸の売り込み商人(日本人)たちに仲間規定を作成させていて、それによれば、規定に違反すれば、江戸の問屋と協議して、以後、江戸から荷をまわさなくするということだったんですが、慶応2年、仲間規定は改訂され、規則に違反すれば罰金と営業停止。
 また慶応三年には、幕府御用商人の三井が、売込商の主要なものに「荷物為替組合」を結成させたりしていまして、どうも幕府の生糸取り引きには、三井がかんでいた節があるんですね。
 そして、上州、です。生糸の産地であると同時に、幕府の支配地の多いところです。
 幕末、関東の天領の農政は、岩鼻代官書(陣屋)が取り仕切り、ご紹介の「八州廻りと博徒」は、その諸相について述べられたものです。ここに、註釈として小さく、なんですが、慶応2年(1866)4月から、蚕種元紙100枚につき永30文、輸出蚕種については市場で改印を受けるとき一枚につき永100文の税金がついたと載っています。
 で、いつから、どのぐらいかかっていたのかはわからないのですが、口糸上納、つまり生糸の付加税を廃止して欲しい、というような嘆願書が見られるそうで、幕府が天領の蚕種紙や生糸に、高額の税をかけ、資金力のある者にしか、買い集められないようにしていたことは、たしかなようなんです。

 これで、農民たちから文句が出ない方がおかしいでしょう。
 慶応3年の上州には、不穏な空気がただよっていたと考えてよく、薩摩藩江戸屋敷に集まった浪人たちは、これを利用しようと考えるんです。
 慶応3年10月3日、桐野の日記に「益満休之助ほかに弓田正平(伊牟田尚平)、今日より江戸へ送り出されるとのこと。もっとも、彼表において義挙のつもりである」とあります。
 大政奉還よりも、討幕の密勅よりも以前のことです。
 これは、「義挙」とある通り、京都で薩長が兵を挙げるとき、かつて天狗党が起こった土壌、尊皇攘夷派の庄屋や神官などが多い関東地方でも、討幕の兵が起こることを期待してのものです。鳥羽伏見の開戦のきっかけ作り、といわれますが、西郷隆盛の書簡を見ても、それは結果論であって、江戸薩摩藩邸の焼き討ちは、むしろ誤算であったことがわかります。

 以下は、長谷川伸著「相楽総三とその同志 上」よりです。
 薩摩藩主・忠義公が、兵を率いて入京した直後、11月24、25日ころのことです。
 薩摩藩邸に集っていた浪人たちの一部が、野州(栃木県)、甲府、相洲(神奈川)に散りました。
 野州挙兵の隊長は、竹内啓。武州川越の村長で、平田国学を学んだ人です。この挙兵には、国定忠治の息子なども加わりますが、足利戸田家所領・栃木陣屋の農兵隊(といってもこちらも博徒中心)と戦闘になり、近在の小藩から援軍も出て、多くの死者を出し敗走します。
 ところで、これに呼応しようとしていたのが、猫絵の殿様だったのです。
 勤王の旗印、新田の殿様のまわりには、尊皇攘夷派が多く、出入りの医者が薩摩藩邸に入っていたりしたんだそうです。
 実は、薩摩藩邸浪士たちの中心だった相楽総三は、天狗党の乱のとき、新田一族を名乗る勤王家の金井之恭とともに、猫絵の殿様をかつごうとしたことがありまして、今回も金井之恭と連絡をとり、呼応させるつもりでいたのです。
 金井之恭とその仲間たちは、浪士たちとの共犯を疑われて岩鼻陣屋の獄につながれ、峻烈な取調を受けますが、知らぬ存ぜぬで通し、猫絵の殿様は格式高いお旗本ですので、陣屋も手が出せません。
 そして翌慶応4年(明治元年)3月5日こと、岩倉具定総督の東山道軍、先鋒隊鎮撫士の一隊が、岩鼻陣屋を征圧し、金井之恭たちを救いだします。偶然なのか、話を聞いていたのか、薩摩4番隊長川村与十郎が率いる薩摩の一隊だったといいます。
 で、金井之恭たちはただちに猫絵の殿様のもとへおもむき、新田官軍を立ち上げて、3月8日、東山道総督府の認可を受けるのです。

 えーと、です。
 最近の研究では、岩鼻陣屋は、上州世直し農民一揆で、2月19日に崩壊した、という話もあるようでして、だとすると、このとき金井之恭たちも解放されたんですかね。
 ともかく、新田官軍が立ち上がる直前の3月1日、小栗上野介は上州権田村に着き、4日、博徒に煽動されたこの一揆が、権田村を攻撃するんですね。上野介は、それこそ農兵を訓練していまして、あっさり一揆を撃退し、首謀者の首をはねます。
 この首謀者たちに、猫絵の殿様まわりの博徒などがいたとすれば、金井之恭たちのうちのだれかが、東山道軍総督府にちくった可能性は高いですよね。
 で、だとすれば、総督府からの命令を受けて高崎、安中、吉井の三藩が上野介を取り調べ、無罪だとしたにしても、総督府の方で受けつけなかった理由が見えてくるような気がするんです。
 金井之恭は、後年、相楽たちの顕彰に尽力したといいます。
 それにしても、フランスとの生糸独占取り引きの中心にあっただろう小栗上野介が、その政策も原因の一端となった上州世直し一揆の渦中に身を置いたことは、奇妙な縁です。

 東山道総督府から、小栗上野介のもとへ向かったのは、軍監豊永貫一郎と原保太郎が率いる一隊です。原保太郎は、丹波園部藩脱藩で、岩倉具視の用心棒をしていたそうで、要するに、よせあつめの一隊だったようです。
 閏4月5日、小栗上野介の首をはねたのは、原保太郎自身だったという話もあり、そして、豊永貫一郎は、どうやら、小栗上野介がはるばるアメリカから連れ帰った高価なアラビア馬を奪って、乗り回したのです。
 月光に照らされた三条大橋のたもとで、新撰組に捨て身で立ち向かい、仲間の死と引き替えに命をまっとうしてから、まだ2年もたっていないのです。
 この10日ほど前には、同じく東山道総督府の命で、新撰組元局長・近藤勇が処刑されていました。


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イギリスVSフランス 薩長兵制論争

2008年03月05日 | 英仏薩長兵制論争
 このお題で、えっ? と思われるかもしれませんが、町田にいさんと薩摩バンドと、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟の続きです。

 薩摩藩が、幕末からイギリス式の兵制に習っていたことは、中岡慎太郎が書き残しています。
 以下、慶応3年9月21日、慎太郎より国許の大石彌太郎宛書簡より。

 兵談
 一、薩藩の兵制、全く英制に改まりたり。この改正は長州の改制より眼を開きし故、去る亥年以来の改制なり。それまでは古流なりし。然るに古流なりし時といえども、士分一統みな総筒の制にありしゆえ、変革も他藩と違ひやすきなり。
 一、薩藩兵士といふは、みな士分のみにて、足軽は兵士にあらず、士間たいてい極く小禄にて御国の足軽よりも窮せる者多し。少々給を遣はしむれば悦んでなるなり。これ他藩になきところなり。


 薩摩藩の兵制は、すっかりイギリス式に改まったよ。この改正は、長州の改正を見て亥年(長州に習って亥年、文久三年というのはちょっと疑問なんですが)以来やってきたことなんだ。それまでは古流(合伝流)だったけどね、薩摩は古流といっても、士分がみな銃をもつ習わしだったので、他の藩とちがって簡単にできたんだよ。薩摩の歩兵はみんな士分で、足軽は兵士じゃないんだよ。身分は士族でも、とても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になるんだよ。これは、他藩にない薩摩の特長だね。

 薩摩の古流というのは、合伝流のことです。
 薩摩藩では、戦国時代には、武士身分のものがそれぞれに鉄砲を持って戦ったのであって、足軽というのは、その武士について槍を渡したりするだけで、戦闘要員ではなく、鉄砲足軽などというのは藩政時代(江戸時代)になって、実際に戦わなくなってからできたんだ、として、幕末、士族こそが鉄砲を持つべきだ、という意識を、薩摩では早くから浸透させていました。
 それに加えて、薩摩は武士の数が多く、城下士でも、桐野やら黒田清隆みたいに、四石だの五石だの、農民から土地を借りたり、あるいは開拓したりで、農業をしなければ食べていけないれっきとした士族が、多数にのぼったんです。
 明治初年、各藩主から太政官に提出した藩の禄高と士数が残っています。(林義彦著「薩藩の教育と財政並軍備」より)

 鹿児島藩 43119戸 20.1石(一人あたり平均石高)  
 
 熊本藩8050戸(97.6石) 久留米藩948戸(386.3石) 徳島藩2100戸(210.8石)
 高知藩7269戸(68.1石) 山口藩3000戸(123.1石) 岡山藩2711戸(167.5石)
 広島藩1780戸(274.1石) 姫路藩706戸(212.4石) 鳥取藩1710戸(250.3石)
 彦根藩1251戸(162.9石) 金沢藩7797戸(173.5石) 秋田藩3219戸(103.1石) 
 弘前藩2066戸(132.8石)

 
 鹿児島藩の士族戸数43119戸は、他の13藩をすべてあわせたと同じくらいあります。そして、士族一人あたりの平均石高は極端に少なく、他に100石以下のところといえば、高知藩68.1石、熊本藩97.6石で、どちらも勇猛といわれた藩ですが、高知でも薩摩の3倍以上ありまして、中岡慎太郎がいっていることを裏付けています。
 これはもちろん、郷士の数が多かったためなのですが、城下士もまた平等に貧しく、相当な兵力となったことを、以下の慶応元年鹿児島城下士の戸数が裏付けています。

一門4家 一所持21戸 一所持格41戸 寄合54戸 寄合並10戸

無格(小番の上位で寄合並の下位) 2戸
小番(一代小番は小姓與に合算す)760戸
新番(一代新番は小姓與に合算す) 24戸
小姓与             3094戸

 この最後の小姓与というのが、歩兵となった人々で、西郷隆盛も大久保利通も黒田も桐野も、みんなこれに属します。
 そして、これは一戸の数ですから、一戸に男子数人はざらですし、鹿児島城下のみで、およそ1万の歩兵動員が可能であったといわれます。

 ただ、中岡慎太郎がいう薩摩の兵制については、多少の事実誤認がありまして、「古流」とされる、士族がみな鉄砲を持って歩兵となる制度が薩摩にしかれたのは、島津斉興(藩主1809-1851)の時代でして、同時に藩士が長崎の高島秋帆から砲術を習い、天保13年(1842)には、オランダ式軍制採用となります。
 これは、オランダ式といいましても、高島秋帆流です。オランダ語の軍書をもとに、勝手に工夫するわけです。
 嘉永4年(1851)、斉彬公が藩主となりますと、オランダの歩兵操典を独自に翻訳させたり、フランスの軍学書も研究させたともいわれるんですが、あるいは、高野長英の『三兵答古知幾』かもしれず、そうだとすれば実はプロシャ式ということになりますが、ともかく、独自の洋式軍制を採用します。ただ、これには高島流砲術家の反発があったといわれます。
 で、オランダ式とかフランス式とかいいましても、翻訳軍書を参考にして、独自にやるわけです。
 唯一、実地で勉強できただろう機会は、安政2年(1855年)から長崎で行われた幕府のオランダ海軍伝習で、海軍といいましても、海兵隊の陸戦訓練もありますから、西日本各藩では、それを目当てに藩士を派遣したところも多かったんです。薩摩も五代友厚をはじめ16人派遣していますから、かなり参考になったかと思われます。
 中岡慎太郎がイギリス式といっていますのは、赤松小三郎が翻訳した軍学書を、多少参考にした程度のことだと思われ、ただ、もしかしますと、イギリスは横浜に陸軍を駐屯させていましたから、薩摩とイギリスの関係を考えれば、ひそかに見学に人を出した、程度のことはあったかもしれませんし、また町田にいさん、久成をはじめ、帰国した留学生たちが、軍書翻訳などに参加したか、とも思われます。
 もちろん、長州だとて勝手式洋風で、この当時、本格的に洋式を採用していましたのは、フランスの陸軍伝習がはじまりました幕府だけです。

 で、ちょうど中岡慎太郎が、薩摩の兵制がイギリス式である、と書いた直前のことです。以下、慶応3年8月に本田親雄が大久保に宛てた書簡。
 仏人モンフランと申者、海陸軍士官両名ツヽ・地学者両人・商客両人・従者壱人を岩下大夫被召列、不日入津之筈、小銃五千挺、大砲廿門、右之員数之仏服一襲ツヽ強て御買入候様モンフラン申立、且兵式も仏則ニ可建と之云々、洋地ニおひて世話ニ相成候付、無下ニ理りも立兼候容子共、渋谷・蓑田之両監馳帰候始末ニ付、伊地知壮州出崎、右銃砲之代価乍漸相調候て、此よりハ薩地江不乗入様理解之為、五代上海へ参る等、新納大夫出崎、崎陽ニて右仏人江御談判、海陸二事件御辞絶いつれも拙之拙成跡補、混雑之次第(以下略)

 くだいて言いますと、こういうことでしょうか。
 フランス人のモンブランというものが、海陸軍士官二名づつ、地学者二名、商人二名、従者一人をつれ、これをパリ万博に行っていた岩下方平が全部連れ帰っているようで、そのうち長崎に着くはずですが、モンブランは、小銃5000挺、大砲20門、これだけの人数(5000人分ですかね)のフランス軍服を買えといい、そして海陸の兵制もフランス式にしろといっています。
 フランスで世話になったから、むげに断るわけにもいかない様子で、渋谷、蓑田があわてて知らせてきたようなことで、伊地知が長崎に出て、鉄砲の代金はなんとか都合しましたが、モンブランは薩摩へ乗り込んでくるつもりらしく、五代を上海へ迎えに派遣し、新納刑部も長崎へ出てもらい、そこでモンブランに談判して、陸海の兵制をフランス式にすることだけは断らなければ、跡の始末がどうにもまずくなると、こちらは混乱しているようなことです。
 
 実のところ、このころグラバーは金に困っていた様子でして、また先年五代がグラバーに注文した汽船は小さなもので、なおトラブルを起こしたようなのですね。
 五代の上海行きは、軍艦調達もかねたものでして、実際、このとき薩摩は、モンブランの世話により、本格的な軍艦キャンスー(春日丸)を購入することができています。
 これはイギリス船籍の船だったのですが、モンブランに資金力があったゆえなのか、フランス人のモンブランが仲買し、イギリス商人仲間では、薩摩はなかなかいい買い物をし、モンブランもいい商売をしたものだ、とうらやまれていたようです。
 幕府との開戦をひかえて、およばずとも、せめて一隻は幕府の軍艦に匹敵するものが欲しかったのでしょうし、小銃5000挺や大砲20門も、あって困るものではないでしょう。
 どうやら薩摩が困っていたのは、兵制であったようです。
 あるいは、海陸ともにイギリス式兵制をとると、イギリス公使館と密約があったのかもしれないですね。
 とすれば、この当時から横浜駐屯イギリス陸軍に、人を派遣していたことも、なかったとはいえません。
 実際、「幕末明治実歴譚」の「村田銃発明談」には、村田銃を開発した村田経芳や吉井友実など、薩摩藩士10名あまりが、横浜から江戸の英国公使館に派遣されていた英国陸軍と、競射をした話が見えます。
 当時、薩摩が採用していた銃は、先込めの施条銃で、イギリス制のエンフィールド銃だったようです。
 
 ところで、モンブラン伯爵が持ち込んだ銃は、なんだったのでしょうか。
 キャンスーと同じく、銃は買う、と薩摩藩がすぐに決めたところをみますと、後装銃だったのではいかと思われます。あるいは幕府と同じくフランスのシャスポーだったのではないか、と推測するのですが、キャンスーがイギリス製だったことを考えますと、ウェストリー・リチャード銃か、スナイドル銃 であった可能性もあります。
 これを薩摩が、一部、鳥羽伏見から使ったのではないか、と思われる証拠が、やはり「村田銃発明談」に出てきます。
 村田経芳は、鳥羽伏見の戦いに参戦したのですが、村田の所属した一隊は、桑名兵と接戦し、桑名兵が築いた台場を落とせないでいました。
 そこへ現れたのが、桐野、中村半次郎です。
 「村田君、こんな小さな台場がなぜ落ちぬか。あまり手間が取れるではないか」
 と、怒るのですが、激戦につきあい、桑名藩士が、大胆にも台場の上に出て、膝打ちで狙った弾が桐野の頭上をかすめ、納得しました。
 で、そのとき桐野は、「自分がいま持っている銃は、大久保からもらったんだが、弾のこめかたがわからないから教えてくれ」と、村田に言います。
 このエピソードを、たしか司馬遼太郎氏が、「桐野は刀ばかり使ってきたから弾のこめかたも知らなかった」というような話に使われていたと思うんですが、「村田銃発明談」には、以下のようにあります。

 村田氏は激戦中なれども、やむをえずこれを取りて一見せしに、かねて自分の欲している英国発明のウェストリー・リチャードといえる後装銃にして、これをその時代で刀剣にたとうれば、あたかも正宗の如きものである。また上等の銃ゆえその弾丸を一々これを紙に包んであった。

 要するに後装銃で、これまで慣れて使ってきた前装銃とは勝手がちがったんです。
 上野戦争で、長州兵がはじめて支給されたスナイドル銃にまごついた話と同じです。
 ちなみに、薩摩藩兵の銃は、基本的には自前です。藩がまとめて買ってきて、それを藩士に買わせるんです。
 大久保から桐野が後装銃をもらったんなら、あるいは開戦を前に、薩摩は大盤振る舞いをしたのではないか、とも考えられる………、かもしれません(笑)

 だいぶん話がそれましたが、ともかく薩摩は、モンブランから武器は買いましたが、海陸兵制をフランス式にすることは、断りおおせたようなのですね。
 ちなみに、このときモンブランが連れてきた人材のうち、鉱山技師のF. コワニーは、薩摩藩密航留学生でフランスに留学していた朝倉盛明(田中静洲)とともに、明治元年、新政府に傭われ、ともに生野銀山の近代化に努めることとなりました。ここの付属学校で学んだ高島北海が、やがてフランスに渡り、アール・ヌーボーに多大な影響を与えることとなるのも、奇妙な縁です。

 明治2年2月、薩摩は陸海ともにイギリス兵制をとることを、正式に決定します。
 これは、あるいはイギリス公使館からの働きかけもあったかと思うのですが、それよりも、幕末以来ずっと、薩摩が海軍を重視していたことが大きいでしょう。
 イギリスとフランスは対照的でして、当時のイギリス海軍、ロイヤル・ネイビーは、欧州で絶対的な優位を誇っていましたが、これに金がかかるので、陸軍は徴兵制をとらず、志願兵制で、規模が小さかったのです。
 一方のフランスは、大陸にありますから、当然陸軍重視で、海軍はとてもイギリスにかなうようなものでは、ありませんでした。
 この時点で、陸軍もイギリス式を、と進言した人物としては、町田にいさん、久成が考えられます。
 イギリス陸軍の演習参加、などもしていたようですので、イギリスの兵制は、十分に見学してきたといえるでしょう。
 町田にいさんと薩摩バンドにありますように、この5月から、薩摩藩一等指図役肝付兼弘は、藩命により練兵法質問のため横浜英国歩兵隊に派遣され、11月まで大隊長ローマン中佐について勉強し、薩摩バンドの結成も決まったんです。

 ところが長州は、陸軍をフランス式にしました。
 理由ははっきりとはわかりませんが、一つには、海軍軽視です。
 明治初頭の藩政改革で、各藩の陸軍は、主にフランスかイギリス、そしてオランダ兵制を採用しますが、薩摩と同じく海軍を重視していた佐賀は、イギリス兵制です。
高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で書きましたが、松島剛蔵の死後、長州海軍には人材がなく、高杉晋作が引き受け、その死後は、前原一誠が継ぎます。
 しかし前原は、政治的力量があるわけではなく、大村益次郎が陸軍の重鎮としてある長州では、海軍はすみに追いやられていた、といえるでしょう。
 ともかく、それで長州は、新政府の兵制もフランス式にしようとするのですが、これは、理由のないことではありません。
 幕府が、フランス陸軍の伝習を受けていましたし、フランス肝いりの横須賀製鉄所(造船所)もあって、幕臣を採用すれば、フランス語やフランス陸軍の知識をもった人材が、けっこういたからです。
 
 ここに、長州VS薩摩の兵制論争がはじまります。
 大陸陸軍を持つのか、それとも海防を重視するのか、国の防衛の基本となることですので、どちらもゆずりません。海陸どちらにお金をかけるか、ということでもありますしね。
 ただ、長州側の言い分を考えるならば、海は薩摩の主張通りイギリスに決めたのだから、陸はゆずってフランスにしようぜ、ということだと思います。
 とはいえ、大陸陸軍をもってしまえば、海軍にかける予算は少なくなりますわね。

 で、降着状態を打破しようと、木戸孝允が思いついた案が、西郷従道を、山県有朋とともに、兵制視察に送り出す話じゃ、なかったでしょうか。(モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟参照)
 この西郷従道と山県有朋の洋行の記録を、見つけることができないんですが、伝記でもさがして読むしかないんでしょうか。
 どうせ、書いていないと思うんですが、二人のあとを追いかけるように洋行した御堀耕助は、モンブラン伯爵といっしょだったんです。
 しかもモンブラン伯爵は、日本のパリ在住総領事として、赴任するところだったのです。
 これは、どう見ても、木戸孝允の作戦勝ちだったでしょう。
 なにしろモンブラン伯爵は、薩摩にフランス式兵制をとれ、と迫っていたのですから。
 しかも、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れvol2に出てきますが、モンブラン伯の「御妹子」が結婚した男爵は、どうやら、フランス陸軍の関係者のようなのです。

 妄想をたくましくすれば、です。
 明治2年3月22日、モンブラン伯爵は薩摩で、忠義公に謁見し、ナポレオン3世から預かってきた品を贈ったことが記録にありますが、それ以降、同年11月24日に横浜から船出するまで、なにをしていたかは、さっぱりわかっていません。
 ただ、この時期、日本とフランスのトラブルとして、ブリュネ大尉以下、函館戦争に参加していたフランス人の問題があります。(函館戦争のフランス人vol1vol2vol3参照)
 これは外交問題に発展していましたから、モンブラン伯爵が仲介に入った可能性は高く、明治初年の京都とともに、木戸孝允がモンブラン伯爵と知りあっていた可能性はあります。
 さらにもう一つ、後に山県有朋の陸軍省汚職に関連して割腹自殺する山城屋和助(長州・奇兵隊出身)が、横浜に店を出しています。明治時代の噂話では、さる人物が函館戦争の様子を外国人からさぐりださせるため、金を出して和助に店をもたせたのだ、というのですが、それを裏づけるかのように、木戸孝允の日記には、明治2年2月4日「薄暮帰寓于時野村道三来り横浜の事を話す」とあるんだそうです。野村三道というのが和助のことでして、和助が来て横浜のことを話した、というんですね。以降、和助の名はちょくちょく日記に見られるそうです(fhさま、ありがとうございました)
 ここで、気になってきますのが、モンブランが持って来たというフランス軍服です。薩摩藩兵がフランス軍服を着ていた、という話は聞いたことがありません。
 和助が買い入れて、長州軍なり、後に新政府なりに納入した、という話は、十分考えられると思うのですが。
 
 西郷従道、山県有朋、御堀耕助の帰国が、明治3年8月2日です。
 8月28日には、山県が兵部少輔となり、西郷従道が権大丞になり、そして長州における唯一の海軍理解者、前原一誠が兵部大輔を辞任します。
 このころ、薩摩藩は、桐野が大隊長を務める1番大隊、野津七左衛門(鎮雄)大隊長の4番大隊、そして大山巌が隊長の大砲隊を東京に出しています。が、大山巌は、普仏戦争観戦のため、8月28日、横浜から船出します。
 で、明治3年9月8日、君が代誕生の謎で述べましたように、越中島で、天皇ご臨席の薩長土肥四藩軍事調練があり、そこで薩摩バンドは、フェントン採譜、編曲の君が代を演奏します。つまり、このとき桐野は、大隊指揮官として、演習に参加していたわけですね。

 その直後、突如として薩摩藩兵は、薩摩へ引き上げ、東京をからにします。もちろん、生まれたばかりの薩摩バンドもいっしょです。
 これは、あきらかに、フランス兵制採用への抗議でしょう。
 桐野たち薩摩藩兵は、9月17日に鹿児島へ帰り着き、「徴兵解免の願書」を提出します。この場合の徴兵というのは、藩兵が新政府に徴兵される、つまり朝廷の御用を勤めることです。
 が、おそらくは、大久保利通と西郷従道の必死の説得があったのではないでしょうか。
 10月2日、新政府陸軍はフランス式となることが公式発表され、同時に薩摩藩でも、陸軍はフランス式に転換することが決定します。
 当時、横浜には、イギリス、フランスの陸軍が駐屯していまして、海軍がイギリス、陸軍がフランスと、フランスに花をもたせることで、引き上げ交渉をうまく進める含みもあったのではないか、というような話も出ています。
 
 大久保利通は懲りたんでしょうね。
 この年の閏10月2日には、薩摩藩密航留学生だった鮫島尚信を欧州公使にしまして、モンブラン伯爵を解任します。(fhさまの前田正名に躓いたこと参照)
 森有礼と鮫島は、ハリスの新興宗教にすっかりはまりこんでいたのですが、薩摩藩が、ひそかにハリスに二人の帰国費用を払い、帰国するようしむけたものです。
 その鮫島が、山城屋和助のパリでの豪遊を怪しいと見て、知らせるんですから、まあ勘ぐれば、イギリスに寺島宗則、フランスに鮫島、アメリカに森有礼と、主要国にいち早く薩摩出身者を配した大久保利通の処置は、兵制論争に敗れた反省からと、とれないこともありません(笑)


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墓碑銘が語る赤松小三郎暗殺の真相

2008年03月03日 | 桐野利秋
 もう、どびっっくりしました!!!
 いや、中村太郎さまが、またまたコピーを送ってくださいました。
 その中に、2006年5月号、歴史読本「幕末京都志士日誌」から、結城しはや氏の「桐野利秋 京都日記」というエッセイがあったんですが、美少年と香水は桐野のお友達で話題になりました、黒谷・金戒光明寺の赤松小三郎の墓石のことが詳しく書かれていました。
 やはり、墓石の側面と背面に追悼文が刻まれているそうですが、右側面は剥落し、背面が判読可能なんだそうです。
 そこになんと、緑林之害而死と、刻まれているんだそうなんです。
 
 どうも、fhさまの備忘 中井弘50でご紹介いただきました、忠義公史料の文面と、大きくはちがわないようなのです。引かせていただきます。

先生、姓源、諱某、赤松氏称小三郎、信濃上田人也、年甫十八、慨然志於西洋之学、受業同国佐久間修理及幕府人勝麟太、東自江戸西至長崎遊、方有年、多所発明、後益察時勢之緩急、専務英学、於其銃隊之法也尤精、嘗訳英国歩兵練法、以公于世、会我邦兵法採用式旦夕講習及、聘致先生於京邸、所其書更使校之原本、而肆業焉、今歳之春、中将公在京師也、召是賜物、先生感喜益尽精力、而重訂書成十巻、上之 公深嘉称、速命刻�*、将少有用於天下国家也、蓋先生平素之功、於是乎為不朽、可不謂懿哉、不幸終遭緑林之害、而死年三十有七、実慶応三年丁卯秋九月三日也、受業門人驚慟之余、胥議而建墓於洛、東黒谷之塋、且記其梗概、以表追哀意云尓、
                                   薩摩 受業門生謹識


 不幸終遭緑林之害とありますよね。
 反討幕派の高崎正風が、中井桜洲にかかせたものらしいことが、高崎の日記でわかります。
 桐野が赤松小三郎を斬った理由については、王政復古と桐野利秋の暗殺で推測しました。
 そして、「これは、どう考えてみても、薩摩藩討幕派首脳部との連携でしょう」と、書いたのですが。
 緑林之害ってなんなんでしょう?
 緑林之害に死す、資料原文は、不幸にして終(つい)に緑林之害に会うではないかと、fhさまのご教授です。

 私、漢文が苦手です。
 以前、入江九一から吉田松陰宛てだったと思うんですが、あるいは松蔭の書簡だったか、漢文で読むとなにを書いているのやらさっぱりわからない箇所がありまして、読み下し全集を持っている友人に頼んでコピーを送ってもらったのですが、その註釈を見てもさっぱりわからず、図書館で後漢書だったかを必死になってひっくりかえし、まる一日がかりで、ようやく、その言わんとした故事をさがしだしたことがありました。
 戦後の松蔭全集の註釈がまちがっていたのですから、あきれてものがいえません。
 あれ以来、苦手な漢文は、すすっと、だいたいの意味をとって頭の中で流すようにしていまして、緑林之害がなんであるのか、気にとめていませんでした。
 便利な世の中になったものです。検索をかけてみましたら、ありましたわ。

 wiki緑林軍
 緑林軍は、新代に荊州を主要な活動地域とし、王莽が創立した新に反抗した民間武装勢力である。
新の統治の末期に、荊州江夏郡新市県で顔役を務めていた王匡と王鳳は 、衆に推されて数百人の民衆の頭領となった。そこへ、馬武、王常、成丹などの浪人たちも加わり、離郷聚を攻撃した後、緑林山(荊州江夏郡当陽県)に立て篭もった。その軍勢は、数ヶ月の間に7,8千人に膨らんだという。地皇2年(21年)、荊州牧が2万の軍勢を率いて緑林軍を討伐しにきたが、王匡は雲杜(江夏郡)でこれを迎撃し、殲滅した。これをきっかけに、軍は5万人を超えたと称し、官軍も手を出せなくなった。


 緑林軍が、薩摩受業門生ですね。
 王匡と王鳳って、だれでしょう?
 大久保利通と西郷隆盛以外に、考えられるでしょうか。
 「衆に推されて数百人の民衆の頭領となった」なんですから。

 いや、中井桜洲って………、すごいですわ。


 追記 妄想です。
 11月17日、ちょうど、高崎と中井は、この日、龍馬と慎太郎が襲われたことを知ったところでした。
 中井は、龍馬とも海援隊士ともつきあいがあります。
 といいますか、海援隊の長岡謙吉と遊覧旅行をしてきたばかりです。(桐野利秋と龍馬暗殺 前編参照)

 長岡謙吉といえば、この翌日、龍馬と慎太郎の葬儀の日、京在土佐藩政・寺村左膳道成の日記に以下の記述があります。
 今夜御国脱走人長岡謙吉ともうす者、福岡へ対面のため松本へ来候ところ、もとより才谷、石川同断の者につき、会、桑、新撰組などの目をそそぐところとなり、すでに今夜右長岡の跡付来候者これあるよし、密に告るものあり。依而にわかに松本より裏道を開き、川原へ出し、立ち退かせたり
 今夜、脱藩人の長岡謙吉というやつが、福岡孝弟(土佐藩士)に会うために松本(料亭ですかね)へ来たんだがね、もとより長岡は、暗殺された龍馬や慎太郎の仲間なんで、会津、桑名、新撰組に目をつけられ、跡をつけられていると密かに言ってきたものがあった。いま土佐藩のものが、こんな連中と会っていたとわかってはまずいので、裏道から川原へ出して、引き取ってもらったよ。

 自らも脱藩の身の中井さんには、海援隊士の悲哀がよくわかったでしょう。
 「海援隊、陸援隊は、緑林兵みたいなものだからなあ」と、深いため息をつきます。
 高崎さんいわく。
 「赤松をやったうちの奴らだとて、似たようなもんじゃないか。三郎さま(久光公)のお気に召された者に手をかけるとは! ともかく、墓碑銘を書いてくれ。薩摩がやったと会津の連中が怒っているが、三郎さまは関係ないんだからな」
 桐野がやったらしい、と勘づいていた中井は、苦笑い。
 「ま、赤松は不幸にして緑林の害にあった、とは、いえるかもしれんな」
 と、こうして、不幸終遭緑林之害という言葉は生まれた………、かもしれません。
 

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桐野利秋と龍馬暗殺 後編

2008年03月01日 | 桐野利秋
 桐野利秋と龍馬暗殺 前編に続きます。
 慶応三年十月、大政奉還が公表された当時の京は、殺伐とした空気を濃くしていました。
 昨日もご紹介しましたが、10月14日、大政奉還のその日、京在海援隊士・岡内俊太郎から、長崎の佐々木高行への手紙の最後は、この文句で結ばれています。
 「新撰組という奴らは私共の事に目をつけ、あるいは探偵を放ちある由にて、河原町邸(土佐藩邸)と白川邸(陸援隊)との往来も夜中は相戒め居候次第に御座候」
 新撰組のやつらはぼくたちに目をつけて、探偵にさぐらせていたりして、ここ白川邸と河原町藩邸とを行き来するのも、夜はやめておこうと気をつけているほどなんだよ。

 「私共」というのは、郷士や庄屋、軽輩が中心の土佐勤王党、つまりは主に陸援隊、海援隊士です。
 土佐勤王党と新撰組は、壮絶な闘争を重ねてきました。
 もっとも知られているのが、池田屋事件でしょうか。禁門の変の前に、長州よりの尊皇派の会合を、新撰組が襲った事件です。
 土佐藩は、望月亀弥太、北添桔磨、石川潤次郎、藤崎八郎、野老山吾吉諸の五人という、最大の死者をだしました。
 このうち望月亀弥太は、勝海舟の海軍塾にいた人で、私、高知市内の草深い小山へ、お墓参りに行ったことがあります。
 
 次に知られているのが、三条制札事件です。
 これは、慶応2年の9月、ですから、この大政奉還のちょうど一年ほど前の話です。
 長州を朝敵であると公示する幕府の制札が、三条大橋のほとりに建てられていたんですが、これが墨で塗りつぶされ、鴨川に投げ捨てられました。これは十津川郷士たちがしたことでしたが、当時、犯人はわかりませんでした。すぐに町奉行所が、立て直しましたが、また川へ捨てられたんです。
 またまた制札は立て直されたのですが、9月12日月明の夜、8人の土佐藩士が加茂川沿いを三条大橋の方へむかっていました。
 これを怪しいと見た新撰組原田左之助の一隊は、尾行し、土佐藩士たちが犯行に及ぼうとした瞬間、新撰組隊士二人は屯所へ援軍を呼びに行きます。
 原田佐之助は抜刀し、驚いた土佐藩士たちもそれに応じますが、そこへ新撰組の援軍がかけつけました。
 土佐藩士の刀は長いことで知られていましたが、捨て身の覚悟を決めた8人の白刃が月光に輝き、鬼神も思わずさけてしまいそうな、すさまじい気迫の抵抗だったといいます。
 しかし、多勢に無勢です。土佐側は、藤崎吉五郎が斬られ、宮川助五郎が深手を負ってとらえられ、残りの6人が逃走しようとしたところへ、さらに新撰組の援軍が到着します。
 安藤鎌次は、他の五人に、「おれがここでささえるから、早く逃げろ! みんな、生き延びてやることがあるだろ」と叫び、松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六、前嶋吉平を逃がしました。
 全身に刀傷を負い、絶命したかに見えた安藤でしたが、新撰組が引き上げて後に蘇生し、刀を杖に河原町の藩邸に帰り着きました。邸内の同志は、藩邸にいては咎めを受けるので、逃がそうとしましたが、安藤にはもうその体力がなく、自刃しました。
 捕らえられた宮川助五郎は、奉行所の牢に入れられましたが、土佐藩邸では、厳罰を加えるから引き渡してくれといい、むしろ、そうなることでよけいに過激に走られることを怖れた幕府の方が、引き渡さなかったといいます。
 そして、逃げた5人は、薩摩藩邸にかくまわれました。

 大政奉還の一月後、宮川助五郎は土佐藩邸に引き渡され、藩邸の牢に入れられましたが、坂本龍馬と中岡慎太郎は、それを陸援隊で引きとっては、という話し合いをしていた最中に、刺客に襲われたのです。
 一方、薩摩藩邸にかくまわれていた5人は、大政奉還の前に、薩摩藩邸を出ました。

 以下、10月6日の桐野の日記です。
 松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六、前嶋吉平
 この者どもは、昨年9月13日より故あって、薩摩屋敷へ召し入れ、置かれていたが、このたびまた故あって、お暇下されたとのこと。
 今日より十津川方面へ行くとのこと。

 五人は、どうやら全員陸援隊士となり、本川はこののちも、桐野に会いに来ています。

 龍馬と慎太郎が襲われたとき、まず新撰組が疑われたことには、土佐藩士、脱藩士と新撰組の対立が、ずっと続いてきたことがあったのです。

 大政奉還の後、京は不気味な空気に包まれ、ますます治安は乱れました。
 諸侯は上京してきません。
 そりゃあ、そうでしょう。
 なんの準備もない朝廷に、ぽんと名目だけの大政が投げ帰されて、表面上、無政府状態になったのです。
 いったい、なんのための上京でしょうか。藩地に引きこもっていた方が安全です。
 名目だけでも大政が奉還されたことの不安から、直後に、大政再委任運動が起こりました。
 佐幕派にとっては、大政奉還は討幕への布石ととれ、事実、そうなりつつあったわけですし、佐幕派、討幕派の対立は、かえって激化します。
 なにより肝腎の土佐藩において、その激化から、容堂公は身動きとれず、いっこうに上京の気配はありませんでした。

 10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
 桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
 大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
 一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。

 そして………、土佐藩在京の参政、神山佐多衛の日記です。
11月14日
 薩土芸を会藩より討たずんば有るべからざると企これあるやに粗聞ゆ。石精(中岡)の手よりも聞ゆ
 「会津藩は薩摩、土佐、安芸藩を討つべきだということで企てがあるという。中岡慎太郎も同じ事を言っていた」というんですね。
 
11月15日
 町御奉行より今日宮川祐五郎を受取、河原町御邸牢屋へ入候事
 松力へ行、否ヤ我宿より家来申来るは、才谷梅太郎(坂本変名)等切害せられ候由、仍て直に藤次下宿へ行、諸事手くばり等取扱致し候事
但梅太郎即死、石川精之助数カ所疵受、梅太郎家来深手也

 まず、町奉行所から宮川祐五郎が帰され、とりあえず牢に入れたことが語られます。
 そして、その夜、龍馬と慎太郎は刺客に襲われました。
 
 神山と同じく、土佐京都藩邸参政で、大政奉還の建白書に署名した寺村左膳の日記は、後にまとめられたものだけにもっと詳しいものです。事件の詳細が書かれた部分は省きまして、しめくくりの部分を。
11月15日
 多分新撰組等之業なるべしとの報知也。右承る否、御目附方よりは夫々手分し而探索させたるよし也。然るに此者両人とも、近此之時勢に付寛大之意を以黙許せしといえども、元、御国脱走者之事故、未御国之命令を以て両人とも復籍事にも相成ず、そのままに致し有し故、表向不関係之事
 ここで、すでに、新撰組のやったことだろう、という話が出ています。そして………、犯人は探索させているけれども、二人は脱藩者であると。こういう時勢になったので、罪は問わないことになったけれども、復籍したわけではないので、表向き、土佐藩邸は関係ないということだ、というのです。

 桐野がそれを知ったのは、翌々日のことでした。
11月17日
 坂元龍馬、一昨晩何者ともわからぬが、無体に踏み込み、もっとも坂元をはじめ、家来ほかに石川清之助手負いとのこと。家来と坂元は即死、石川は未だ存命とのこと。しかしながら、右の仕業は壬生浪士と見込み入る

11月18日
山田氏が同行し、土佐藩士岡本健三郎のところへ行き、それより坂元龍馬、石川清之助へ墓参りするところに、土佐藩士高松太郎(龍馬の甥・海援隊)、坂元清次郎(龍馬の姪の夫)が墓参りにて、同行して帰る。

 墓参りといいますか、二人の葬儀はこの日に執り行われたわけですから、岡本健三郎、龍馬の親族の二人といっしょだったということは、野辺送り、そして埋葬に、桐野は参列したということです。
 ここらあたりから、粛然と、桐野は、下手な歌も詠まなくなります。

 11月20日 再び神山日記です。
一昨日御邸へ駆込候新撰、薩へはいり候由、其者の口にて梅太郎一事大要分り候事但、恭助中村半次郎(桐野利秋)より聞
 土佐藩邸へ逃げ込んで来た新撰組が、結局、薩摩藩邸でかくまわれて、その者の口から、龍馬暗殺者がだれか、だいたいわかったと、土佐目付の毛利恭助が桐野から聞いてきた、というんですね。

 
 「土佐藩邸へ逃げ込んで来た新撰組」というのは、伊東甲子太郎を中心として、新撰組から分派して御陵衛士となっていた高台寺党です。新撰組本体により、伊東甲子太郎を殺され、斬り合いとなってまた死者を出し、生き残りが薩摩藩邸に保護を求めてきていたのですが、当日に他出していた阿部十郎と内海次郎は、土佐の河原町藩邸に駆け込んで追い出され、薩摩藩邸に保護されました。
 阿部十郎の回顧談では、河原町藩邸を追い出された二人は、陸援隊の白川藩邸をめざしましたところが、その門前で桐野が待ち受けてくれていて、薩摩藩邸にかくまわれた、ということになります。
 一方、西村兼文の「新撰組始末記」では、白川藩邸の陸援隊・田中光顕が、桐野に連絡をとって、二人は薩摩藩邸にかくまわれた、ということです。
 実際に、11月19日の桐野の日記には、三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛が駆け込んできたことと、その子細がのべられ、翌20日には、篠原泰介、内海次郎、阿部十郎の名前が並んでいます。
 しかし、土佐藩目付の毛利恭助の名前が見えるのは、その翌日です。

11月21日
我は土佐藩士毛利恭助、谷守部と同行して、伏見へ行き、泊す
高台寺党の面々は、薩摩の伏見藩邸にかくまわれていて、桐野は、谷と毛利を案内したんですね。

 もっとも簡潔に、王政復古の前夜、二人の暗殺から、海援隊、陸援隊が新撰組を襲う天満屋事件にまでいたる経過を報告しているのは、桐野が二人の埋葬の後にともにすごした、龍馬の甥、小野惇輔(高松太郎の変名)の書簡です。
 本文中にも見えるのですが、この手紙は、翌年、鳥羽伏見の戦いが終わったのちに、龍馬の兄夫婦に宛てて書かれたものです。親族への知らせが、二ヶ月も遅れるほどに、慶応三年の暮れは、激動の中にありました。
 卯之十一月十五日の夜、邸前の下宿にて海陸両隊長会談致しいたり。然るに辰の半刻戸外より案内を乞うものあり。僕藤吉といふもの出てその名を問ふ。十津川の士と答へ尋ねいで名札を出し、才谷先生に逢んことを乞ふ。僕先づ名札を取て樓に上る。彼も亦ひそかに其迹に尾ふ。僕知らずして才谷氏に告ぐ。ひとしく斬りて入る。僕六刀を受けて斃る。十六日の夕方落命。次に才谷を斬る。石川氏同時の事、然れども急にして脱力にいとまもなく、才谷氏は鞘のまま大に防戦すると雖、終にかなわずして斃る。石川氏亦斃る。石川氏は十七日の夕方落命す。衆問ふといえども敵を知らずといふ。不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。衆之を聞き会す。すなわち乗船17日朝入京、伏見より隊士散行す。其夜邸の命を受け、隊の式を以て東山鷲尾に葬る。神葬なり。
 十七日の夜、新撰隊(これは会の司る幕の隊なり)、京師七条の辺りにて戦ふ。王政復古に就て隊長近藤と井藤との二つに分る也、かの井藤は王政復古と知るべし。然るに同十八日之朝、井藤氏の隊中二士難を避け、ひそかに薩の邸に走り来り、才谷、石川氏の事件を中村半次郎といふ人に告ぐ。またわれらが隊中に告る。皆大にいかるといえども大事を思ひ、獨君公よりの御書付あれば、その確証を得んとしてみな白川邸に退く。同十九日の朝、隊中より二士を出して新撰の脱士に面会せし時、確証を得んとて薩の邸に行かしむ。行いて計らず毛利公の二士にあひ、二士われらに今日はまかせと留めらるるを以て、すなわちたくしてまた白川に帰る。夕方また新撰井藤の隊伏見の帰り、変を聞きしとて河原町の邸に入んことをこふ。邸、俗論を以て入れず。すなわち白川にさく。この夜子の刻頃、右の両士を薩の伏見の邸に送る(かたく衛るなるべし)。これより衆敵をうかがう。ついに十二月七日の夜辰の刻より衆茶屋に会し(この時白きはち巻をなす)、紀伊殿下陣御馬屋通り油の小路入る所に三浦休太郎(この人は幕、会、紀の間にありて大に奸をなすとなり)をはじめ、新撰隊長等およそ二十余人、薩土芸の王制復古の論を妨げんとて会せしを告る者ありて、すなわち十六人をまとめて表裏の二つに分ち、彼らを斃さんとて行く。策大にあたり、敵の人数十九人を斃す。手負す者八人と聞く(これは翌日に聞きしこと也)。味方一人死す。手負三人。乱れ皆よく苦戦す。のがるる者追て斃し、あるいはピストルにてうち大に心よく復仇して速に退く。すなわち子の刻なり。翌日の風聞、子の刻ころ、新撰隊士五十有余人変を聞きおしよせ、味方退きし後なれば空しく反るよし。
 右の通りの儀にござ候。実に隊中手足を失ひし如く存じ奉りそうらえども、仕方ござなく候。なお私よりは変死の節はやに申し上げ候儀なれども、時勢急なる故、やむをえず延引つかまつり候。惇輔も天下の為に死を致し候心得にござ候間、それより西東へ走り回りい候ゆえ、御叔父上様の変ははやに申し上げず候。この段平に御ゆるし願いたてまつり候。頓首   正月二十三日 小埜惇輔


 龍馬と慎太郎が襲われた11月15日、高松太郎は大阪にいて、翌16日の昼ころに知らせを受け取ります。
 大阪近辺にいた仲間に知らせがいきわたり、一同が伏見へ向かう川船に乗り、京へ着いたのは翌17日の早朝です。
 まだ命を保っていた中岡慎太郎に、みなが「いったいだれがこんなことを!」と問いますが、慎太郎は「知らない奴らだった」と答えて、17日の夕方に絶命します。
 18日の東山鷲尾埋葬時に、高松太郎は桐野と出会い、嘆きをともにします。
 高松太郎は桐野より四つ年下ですが、旧知の仲であったわけです。
 前回にも述べましたが、元治元年の暮れ、小松帯刀は大久保利通に「中村半次郎が神戸海軍塾に入りたいと言っているので、はからってやってくれないか」と頼み、同時に、脱藩扱いで海軍塾にいることができなくなった龍馬ほかの塾生を、薩摩で引き受ける話をしています。
 この塾生に、高松太郎もいたわけでして、おそらく桐野は、このころから塾生と親交があったのだろうと思われるのです。

 高松太郎は、ちょっと日にちをまちがえているようなのですが、以降の経過は、おそらくこういうことなのではないでしょうか。
 この18日の深夜に油小路事件が起こり、翌19日の早朝、三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛が薩摩藩邸に駆け込んできて保護を求めるのですが、桐野はちょうど帰京していた大久保利通の許可を得て、三人をかくまいましたところが、どうやらこのうちの二人が、龍馬と慎太郎の暗殺者が新撰組である旨を告げたようです。それを桐野は、ひそかに海援隊士に伝えたと。
 寺村左膳の日記に見えますように、すでに二人が襲われた15日から、新撰組がやったのだという噂はありました。
 また「新撰組始末記」は、生前の伊東甲子太郎と、20日に一人で薩摩藩邸に駆け込んだ篠原泰之進が、龍馬と慎太郎に新撰組が狙っている、と告げたという話を、「新撰組始末記」は載せています。
 おそらくこれは、11月14日の神山日記「薩土芸を会藩より討たずんば有るべからざる」に相当する話でしょう。
 ともかく、海援隊、陸援隊は騒然となっていたようです。
 
 この19日、内海次郎、阿部十郎は河原町土佐藩邸で門前ばらいをくらいます。
 邸、俗論を以て入れずの言葉に、高松太郎の歯ぎしりが聞こえるようです。
 ここにいたってまだ、土佐藩庁は覚悟を決めないのか、というもどかしさと、そして高松もまた、脱藩浪士であったがゆえに、よるべなく追われる身の悲哀を味わいつくしていたわけでして、自藩に頼ってくる者をかばう度量が欲しい、という切望があったでしょう。
 次いで、内海次郎、阿部十郎は陸援隊の白川邸に駆け込み、あるいは阿部の回想にあるように、白川邸には桐野が来ていたのでしょうか、夜を待って二人は薩摩の伏見藩邸へ送られます。おそらく、暗殺者が新撰組であると詳しく語ったのは、この二人であった可能性が高く、翌21日、海陸援隊から二人が、もっと詳しい話を聞こうと伏見へ行ったのですが、そこには、桐野とともに、土佐藩の目付である谷干城と毛利恭助がいて、「ここはおれらに任せとけ」といわれたので、引き下がったわけです。

 そして、翌11月22日、三千の藩兵を引き連れて、島津忠義公が、西郷隆盛とともに、伏見へ着きます。
 龍馬と慎太郎を失ったことへの悲しみは、西郷をもとらえていたでしょう。
 王政復古、新しい政体創出へ向けての大詰めは、この日にはじまりますが、龍馬と慎太郎は死をもって、薩長に土が並び立つ土壌をかためたのです。

 王政復古のクーデターを目前にして、12月7日、天満屋事件が起こります。
 海援隊の陸奥宗光が、海陸援隊士ほか浪士から有志をつのり、新撰組が守護する紀州藩の重臣三浦休太郎を襲った事件です。
 手紙に見えるように、この襲撃に高松太郎は加わっていました。そして、制札事件の後、薩摩藩邸にかくまわれていた松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六も加わっていたのです。
 三浦休太郎は、この年の春、海援隊が運用する大洲藩のいろは丸と紀州藩の汽船がぶつかった事件で、紀州藩側の中心となっていた人物であり、海援隊とは因縁がありました。交渉で、紀州藩が負けた形になったところから、龍馬に恨みを持ち、新撰組に暗殺させたのではないか、というような憶測もあって、この日の襲撃となったようです。
 しかし、高松太郎が「この人は幕、会、紀の間にありて大に奸をなすとなり」と書いていますように、龍馬の直接の仇というよりは、「薩土芸の王制復古」のためだったのではないでしょうか。
 長州はいまだ晴れて京都に入ることはできないため、王政復古のクーデターは薩摩が行ったのですが、その薩摩がはっきり味方と認識したのは、土佐と安芸だけです。
 ここに土佐が入ったのは、もちろん土佐藩討幕派に期待してのことですが、薩長の間に立って大きく働いてくれた、龍馬と慎太郎があればこそでした。
 ところが土佐は、この日になってもまだ、容堂公は京へ姿を現していず、後藤象次郎は煮え切らないままに、クーデターの日を迎えようとしていたのです。
 海援隊、陸援隊の中心人物は、岩倉具視あたりから、王政復古の概容は聞いていた可能性があり、同時に土佐藩への危惧も耳にしたでしょう。
 陸奥宗光は、「薩長に並んで土佐が立つ」という龍馬の悲願のために、土佐の支配下にある陸海援隊が紀州藩重役を襲った、という既成事実をつきつけ、後藤象次郎と土佐藩庁に後戻りの道がないことを、思い知らしめようとしたのではないでしょうか。
 しかし念願かなって土佐が立ったとき、高松太郎は、叔父・龍馬と慎太郎の死の大きさを実感します。
 二人が築いたものを受け取ったのは、藩の上士たちだったのです。

 そして12月9日、王制復古のクーデターの日。桐野は簡略に記しました。
 今朝八時、幕会の賊を攘わんため、一番隊はじめ、出勤する
 天気は、と。

 文久二年(1862)、はじめて京へ出た桐野は、それから幾度も脱藩を考えたでしょう。
 わけても元治元年には。
 しかし、西郷隆盛と小松帯刀の理解に守られ、脱藩することなく、この日を迎えることができたのです。
 外へ出たい、という思いを、常に桐野は抱いていたからこそ、脱藩士に共感を抱き得たのではなかったかと思うのです。
 国許にいたころ、脱藩する中井桜洲の背を、むしろうらやましく見たのではなかったかと。
 父を早くに失い、兄にも死なれ、貧しい一家を背負った身で、それは不可能なことでした。
 が、このとき桐野は、脱藩の身のよるべなさ、悲哀もまた、知る年齢になっていました。

 龍馬と慎太郎と、そして多くの非命に倒れた脱藩同志たちの思いを、桐野はこの日の風花のような雪に、かみしめていたでしょう。


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