郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

アーネスト・サトウと龍馬暗殺

2008年10月17日 | アーネスト・サトウ
 またまた突然ですが、ちょっと気にかかるものを発見しまして。
 お題なんですが、サトウと龍馬暗殺が直接関係するか、といえば、直接ではないんです。
 このふたつを結びつけるのは、西尾秋風氏です。
 西尾秋風氏は、坂本龍馬暗殺犯は中村半次郎と土佐脱藩士だった!という、突拍子もない説で有名なお方です。
 私、ご本人が出されていたのだと思うのですが、小冊子「龍馬謀殺秘聞余話」の部分コピーしかもっていませんで、なんでコピーを持っているかといいますと、関西在住の久坂ファンさんが、なにかの会合でご本人にお会いして、いただいたかなんかで、桐野の話が出てくる部分だけ、コピーして送ってくださったのです。
 説としてはとんでもないんですが、きっちりくずし字の読める方で、こう、まあ、身軽に取材しようという意欲のあった方のようでして、桐野の京都時代の愛人、村田サトさんの実家の村田煙草店のご子孫の方に取材しておられまして、いや、いったいサトさんのお身内のご子孫が、なんで龍馬暗殺に関係するのかは、私にはさっぱりわからなかったのですが、ともかく、その部分があったために、私はコピーをずっととっておいたようなわけです。

 部分しか読んでいませんので、まちがっていたらごめんなさい。しかし、西尾秋風氏の大意としては、桐野利秋と龍馬暗殺 前編 後編に出てくる土佐人なんですが、三条制札事件で逃げ延びて、薩摩藩邸にかくまわれていた松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六、前嶋吉平が、桐野とともに、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬ったんだろうというのです。
いや、あの、そのー、どこからどう見ても、5人は薩摩藩邸を出た後、陸援隊に属してまして、そのうちの4人までが、龍馬と中岡の仇討ちをめざした天満屋事件に参加しています。
 ものすごい発想です!!! 久しぶりに読んで、頭痛がしてきました。
 あー、まあ、いいんですけど。世の中には、いろいろな方がおられますから。

 その西尾秋風氏が、です。「中岡慎太郎全集」(えらいお値段ですが、私は知人から安くゆずってもらいました)で、山本頼蔵の「洛陽日記」の読み下しをなさっている、と知ったときには、少々ショックでした。しかし、まあ、発想が突拍子もないことと、くずし字を読み解く能力はまた別の話ですから、いいんでないのか、と納得していたのです。

 しかし、なんでよりにもよって、山本頼蔵の「洛陽日記」なのか、と思いはしたのですが。といいますのも、京都時代の桐野、つまり中村半次郎、それも薩長同盟締結まで、については、同時代の日記や手紙、といった確実な史料が、ほとんどなにもありませんで、この山本頼蔵の「洛陽日記」、元治元年(1864年)4月16日条に、「当日石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩ノ肝付十郎、中村半二郎ニ逢テ問答ノヨシ。此両人ハ随分正義ノ趣ナリ」、つまり「中岡慎太郎が薩摩藩の肝付十郎、中村半次郎に会って話した。この二人は、(薩人には珍しく)ずいぶん正義の趣だったよ」とあるのが、一番早い時期のものだったのです。今回、いつものfhさまが、もっと早い時期のものを松方日記から発見してくださいまして、それは次回に詳細を書きます。

 ところで、山本頼蔵というお方は、中岡と同郷の土佐郷士ですが、名前の知れた方ではありませんので、その日記も注目されていたわけではないんですが、「洛陽日記」が活字になったのは、なにも「中岡慎太郎全集」が最初、ではありません。戦前から平尾道雄氏が注目なさって、ご著書の「中岡慎太郎」と「陸援隊始末記」に、一部抜粋して載せておられるんです。中岡慎太郎が、早くから薩摩との連携を模索していた、という話で、桐野が出てくる部分も活字化してくださっていましたので、たとえ西尾秋風氏が、少々変わった読み方をなさったにしても、その部分は動かせない、という安心感はありました。

 で、今回、松方日記との関係で、「中岡慎太郎全集」を読み返していましたら、西尾秋風氏の「洛陽日記」論考、という論文がありまして、その中で、本文部分におさめきれなかった山本頼蔵の日記の断片、雑文などが一部、収録されているのですが、そこになんと、アーネスト・サトウが出てくるんです!!! いえ、名前は出てきません。英夷となっていますが、あきらかにサトウなんです。

「外国交際 遠い崖5 アーネスト・サトウ日記抄」 (朝日文庫 は 29-5)
萩原 延壽
朝日新聞社

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 「遠い崖」のこの5巻に出てまいりまして、再び8巻で解説がくりかえされる、西郷隆盛の書簡があります。萩原延壽氏は、明治2年の1月、サトウが6年半滞在した日本を離れ、初めての休暇でイギリスに帰る際、サトウが流した涙、そして帰国後、同僚に「つくづく日本がいやになった」と書いているその心情を、懇切丁寧に解説なさっているんですが、その焦点となるのが、この西郷書簡なのです。

 若き日の通訳官サトウは、維新を傍観していたのではなく、あきらかに一方の側、つまりは薩摩に、ですが、荷担して、身をもって維新を体験しました。この手紙は、それを象徴していまして、後年、老練な外交官となったサトウの外交官としての立場からすれば、消してしまいたい過去であったことは確かでしょう。
 サトウは、北京公使を最後に、明治39年、62歳で外交官を引退し、帰国の途上、日英同盟のもと日露戦争に勝利したばかりの日本を訪れ、大歓迎を受けます。40年近くの昔、サトウが語り合った多くの日本人は、すでにこの世の人ではありませんでしたが、それでも生き残りはいて、サトウは薩摩出身の松方正義から、「あなたの名前が出てくるから」と、西郷の大久保宛手紙の写しをもらうんですね。
 その手紙のサトウが出てくる部分なのですが。

「さて、薩道(サトウ)へ逢いとり見候処、まったく已前(以前)の通りの訳にて、かくべつなにも替わり候向きとは相見え申さず、依然たる次第にて、柴山(良助)の疑迷とは大いに違い申し候ゆえ、先日よりおはなし申し上げおり候通り、大阪商社仏人(フランス人)と取り結び、大いに利をはかり候趣くわしく申し聞け、仏人のつかわれものと御話しの通りいいかけ、いささか腹を立てさせて見たきつもりに御座候ゆえ、仏に憤激いたし候様説きこみ候ところ、おおいによく乗り、思い通りにおこらせ候処、だんだん意底をはなし出し申し候間、左の通りに御座候」

 これと同じことを、西郷は桂久武(西郷と仲が良かった薩摩の家老)宛の手紙にはもっと詳しく書いていまして、それとあわせた萩原氏の解釈を参考にしまして、簡単に解説しますと、以下のようです。
「サトウに会ってみたところ、以前にあったときと変わった様子もなく、柴山(良助)が心配していたようなこともなさそうだったので、今度の兵庫・大阪開港で、幕府は大阪商社を作って、横浜でやっているのと同じように、フランス人と独占取り引きをしようとしているようだが、と詳しく語り、兵庫開港に骨を折ったのはイギリスだが、利はフランスにさらわれる結果になるとは、結局、イギリスはフランスのつかわれもの(召使い)ではないのか、と、腹を立てるように話してみたところ、サトウはこちらの思ったように怒って、だんだんと正直な胸の内を話すようになったよ」

 柴山良助は、慶応はじめころからの江戸藩邸の留守居役です。寺田屋事件で謹慎をくらった人ですが、西郷復帰によって、重要な役をこなすようになったんですね。サトウは、この柴山と、とても親しくしていたようで、この年の暮れ、柴山は庄内藩の攻撃で捕らえられ拳銃自殺したのですが、サトウは柴山が打ち首になったと聞いて、「仇を討ってやりたいものだ」とまで、日記に書きつけています。

 しかし、それにしても。私、松方正義って、なんだか鈍感な人のようなイメージがあるんですが、いくら名前が出てくるからって、そして、いくら40年も前の手紙だからって、これって、見せられて嬉しい文面ですかねえ。サトウにとっては、手玉にとられた、って話なんですから。鳥羽伏見の直後に、モンブラン伯爵がとびだしてきて、まあ、サトウはそのときから、つくづく、薩摩藩の外交感覚には舌をまいたでしょうし、手玉にとられた、とも感じていたでしょうし、それでもその数年は、サトウにとって「本当に生きた」と実感できる充実した日々で、西郷に好意をよせていたサトウです。そして………、すべては遠い過去ですし、笑えたのかもしれませんけれど。

 この手紙が書かれたのは、慶応3年の7月27日です。これがどんな時期だったかといえば、大政奉還と桐野利秋の暗殺を見ていただければわかりやすいのですが、7月2日、後藤象二郎は、小松帯刀、大久保利通と会合し、土佐の藩論を大政奉還論に統一し、10日後には兵力を率いて再び上京することを約束し、帰国したのですが、そこでイカロス号事件が起こり、約束は守られませんでした。
 このイカロス号事件、長崎でイギリス船の水夫二人が殺されたもので、疑いは海援隊にかかり、イギリス公使館は土佐への態度を硬化させていました。

 「柴山良助の疑迷」について、荻原氏は、この春、将軍慶喜公が、大阪城で各国公使を謁見し、パークス公使が非常な感銘を受けた上に、慶喜が兵庫・大阪開港を実現させたことで、イギリス公使館自体が幕府支持にかたむきかけていることなのではないか、と推測されていますが、私は、それもあったでしょうけれども、タイミングとしては、イカロス号事件が大きかったと思います。大政奉還から倒幕へと事を運ぶには、土佐藩は、どうしても同志として引き入れる必要のある存在であり、その土佐藩がイギリス公使館から嫌われ、イギリスが積極的な幕府支持にまわったのでは、事がなりようもありません。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で詳しく書きましたが、薩摩藩は、モンブラン伯爵にフランスの地理学会で「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という発表をさせ、しかもちょうどこの時期にパリで開かれています万博で、琉球王を名目に、独立国然と交易の意欲を示し、おそらくはモンブランの地理学会演説をアーネスト・サトウに提示する形で「英国策」を書かせて、それをまた和訳して、「英国は天皇を頂く諸侯連合政府を認めるだろう」という感触を、ひろめていました。

 私は、おそらく薩摩藩は、大阪・兵庫開港をにらんで、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを、起こしたのだと思っています。開港時には各国公使が京都の近くに集まりますから、新政府への承認をとりつけることが容易、だからです。
 つまり薩摩が、慶喜公に、執拗に納地を迫ったのは、慶喜が納地に応じないままでは、幕府から外交権が奪えないから、なのです。長崎も横浜も函館も、そして大阪も兵庫も、開港地はすべて幕府の領地であり、それをかかえたまま、幕府に独立されてしまったのでは、諸外国に新政府を承認させることは、不可能でした。
 そして実際に慶喜公は、鳥羽伏見の開戦まで、開港地と外交権を握って離さなかったのです。

 で、まあ、そんな薩摩藩ですから、宣伝のつもりで、話を流すこともありえるかなあ、とも思うのですが、驚いたことに、西尾秋風氏によれば、慶応3年7月27日朝、「西郷がサトウを訪れ、わざと怒らせて本音をはかせた」話が、それから一ヶ月もたたない8月22日、大阪から土佐の片田舎の山本頼蔵に届いた手紙に、書かれていた、というのです。
 西尾秋風氏が読み解かれたという、その「浪花よりの書簡ぬき書き」を、「中岡慎太郎全集」より、以下、引用してみます。(あー、とはいえ、漢字、カタカナをひらがなに直したり、旧かなを新かなにしたりで、正確ではありませんので、悪しからず)

「西郷、過日下坂の節、英人に接しいう。英国は世界第一の強国と聞こえしに、今日をもって見れば英に人無しと。英夷おおいに憤激、そのいはれ何にとおおいに迫り来る。吉(西郷吉之助)、しかればいい聞かすべし。なんじ、さきに我横浜を開く。今は仏のために使役せらる。人無しというべしと。英、いよいよ怒り、なんぞかの小仏に役せらるる事をせんや。そのいわれ如何。吉、いわく、なんじ知らざるか、仏の日本に来る、なんじに遅るる事ひさし。江戸始め兵庫に至るまで、好市場みな仏に取られてその役に従う。これ、その人なきいわれなりと。英、おおいに憤慨して退くという。英仏離間の策なるべし」

 うーん。こうして、書き写していますと、なにしろイカロス号事件がありますから、心配する土佐の同志、中岡慎太郎かだれか、を、安心させるために西郷がわかりやすく語ったことを、その中岡かだれか、が、国許に書き送った、のかもしれないんですが、「英(サトウ)が憤慨」したままでは、あまり意味がなさげな気もしないではないのです。
 とはいえこの話、最後まで出しますと、サトウが「薩摩側にイギリスは軍事支援してもいい」とまで言ってしまい、西郷が「日本の政体改革は自分たちだけの力でする」と応じた、という、見方によっては、「薩摩はイギリスと通じている」と、とられかねない結末でして、「幕府はフランスに日本を売りかけている」といったような、それまでさんざん薩摩藩がくりひろげた宣伝とちがって、これは宣伝することなのか、という気がしたわけなのです。
 まあ、ありえる道筋としては、西郷は、土佐の同志を安心させるつもりで語り、それを聞いた中岡なりが、国許の攘夷気分にあった語り代えをして、手紙に書いた、ということでしょうか。

 ともかく、土佐の田舎の文書にアーネスト・サトウ登場!!!とは、偽もの???と思わず疑ってしまったほど、驚きました!!! 桂久武宛の書簡には、かなり詳しく、これに近い感じで書かれていますし、萩原氏の解説のしめが、西郷が狙ったのは「英仏離間」だった、ということでしたので、私はつい、疑ってしまったのです。

 世の中には、奇妙な創作意欲で偽文書を作る方がいて、また学者さんが簡単にそれに騙されることについては、松本 健一氏の「真贋―中居屋重兵衛のまぼろし」 (幻冬舎アウトロー文庫)を読んで、「いかにもありそう」と思ったりもしまして、まあ、あれです。どうも最近の学者さんは、ご自分でくずし字がちゃんと読めない方がけっこういて、それで騙される場合がけっこうありげな感じですが、しかし今回、私が疑ってしまったことには、もちろん、私の西尾氏への偏見があります(笑)

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5 コメント

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思わず慎太郎全集を開いてしまいました、 (みみこ)
2008-10-18 11:44:16
こんにちは、みみこです。

松方から写しを見せられたサトウ… 「遠い崖」で何度も妄想した一件でしたので、郎女さまの語りで読めて嬉しいです。
この写しを見せられて、様々な思いや場面が甦ったんでしょうか…。今では憧れていた西郷の年齢をすっかり飛び越して、突っ走っていた若い頃が心底懐かしかったりしたんでしょうか…?(何度憶測しても飽きない場面ですv)

ああ…それにしましても、
バッサリ鋭い語りで西尾さんインパクト(?)が読めて…危うくサトウの話題がどっかに吹っ飛びそうな程に面白かったです(!!) 
西尾さんの本は私は「龍馬殉難西尾史観」という自費出版誌を読みましたが、そちらでも
『私の眼の黒いうちは断じて刺客共に“時効”はゆるされないのであります!』(引用)
……という勢いで桐野さん+αの方々を攻めていらっしゃって、とにかくその勢いと熱さだけで仰天してしまったのを昨日の事のように思い出しました。(考証内容について深く考えた事のなかった私に…語る資格はないのですが…)
様々な解説、非常にためになりました、ありがとうございます!
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うー、こんなに (郎女)
2008-10-18 23:35:10
中途半端な形で、あの西郷書簡の話を書くつもりはなかったんですけど、つい、昔の西尾氏ショックを思い出してしまいまして(笑) もしかして、「洛陽日記」の他の部分に桐野の名前があったりしたら、消さた可能性があるかもっ!!! と半分本気で怯えたんです。

私はPR誌など、ごく一般的な読者相手の雑文書きをしていましたので、なにかというと坂本龍馬を持ち出したくなる気持ちや、おもしろおかしくミステリー仕立てにしたくなる気持ちは、わからないでもないんです。私も、仕事で幕末維新関係の企画をたてるときには、龍馬と関係づけるようにしていましたし(笑)
だいたい、高校時代からの友人が「パソコンの使い方がよくわからない」というので、「ブログを作ったりするのは簡単よ。私も作っているから」といってここを見せたら、「坂本龍馬とかならわかるけど、知らない人ばかり並べられても」と言いましたです(笑)
ちょっと存じあげている方で、龍馬脱藩ルートの話で本を出された方がいるんですが、それが他の方面からお聞きした話では、「書簡の扱いがおかしい。吉村虎太郎をさしていることが明白なのに、龍馬にしている」というようなお話でしたし、まあ、コマーシャリズムの中では、仕方がないんですよね。学者じゃないんですから。

ただ、自分が愛する人物が、そういうもののまきぞえになるのは、いやなんです(笑)

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ミットフォード他 (なんと名乗っていいやら)
2009-09-21 10:31:05
郎女姉様
興味深く拝見しております。ミットフォードをキーワードに検索していたらたどり着きました。私は比較近代建築史を専攻し、現在「近代日本の建築世界(仮称)」を執筆中です。幕末の江戸公使館の建設と焼き討ちから始まり、長州5人のイギリス留学、燈台寮とブラントン、グラスゴー大学と工部大学校、工務局とイギリス外交施設建築、コンドルとボアンヴィルなどがおおまかな章立てです。幕末の英国領事館文書にMitfordの名前がSatowとともによく登場し、わたしはつい最近までこのミットフォードが工務局(Her Majesty Office of Wroks)の局長と同一人物だとは知りませんでした。英国に帰ってからも日本との縁は続き、英国駐在の日本官民人のお世話をやいたようです。園田孝吉が英国紳士かぶれになって帰ってきたのは、このミットフォードの影響だと思われます。建築史研究の方ではミットフォードはまったく知られていませんが、日本近代建築に大きく関与しています。工務局は、戦前日本の宮内庁と大蔵省の営繕局を合わせたような部局で、王所有の建造物(庭園なども含む)と官公庁建築の設計や修繕などを担当し、当然外交の施設建築も含みます。1880年代、ミットフォードが局長で、日本で工部大学校や初代皇居迎賓館などを設計したボアンヴィルが建築長でした。
とりあえず
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なんとお呼びすれば、 (郎女)
2009-09-22 03:09:46
いいのでしょうか。
えー、私はネットで知り合った方々には、リアルでお会いしても「郎女さん」と呼ばれております。このハンドルは、使って長いものですから、すっかりなじみになって、もう手放せません。

私がバーティ・ミットフォードに格別の感心を抱きましたのは、バッツフォードを建築したことに大きな理由がありまして、金持ちの親戚からゆずってもらった屋敷は、さほど古いものではありませんでしたのに、ゆずられた後、壮麗なネオ・ゴシックの屋敷を新築したそうなのですね。一般向けのカントリーハウスの歴史の本を読みますと、19世紀の末、暖房とか快適に暮らせる設備の数々が取り入れられはじめたとかで、大々的に改築するよりも、新築した方がてっとりばやかったのかな、と思ってはみたんですが、それにしても金のかかることを、と、うなりました。ジェントリーの没落がはじまった時期でもあるんですし。

園田孝吉がバーティに傾倒していたんですか? まったく存じませんでした。園田さんの奥方は、森有礼の写真集にお美しい姿を残していて、以前は森の最初の妻・お常さんとまちがわれていたのだと記憶しています。あの素晴らしい洋装も、バーティの影響だったり、しませんかねえ。

ミットフォードは厖大な回顧録を残していますよね。読んでみたいのですが、私には無理ですわ。英語力と、本が手に入らなさそうなので。

ボアンヴィルについてもまったく知りませんでしたので、勉強になります。バッツフォードがどういう趣味で建てられたのかと、英国の建築の本を一応読んではみたのですが、今ひとつ、よくわかりませんでした。一般向けの本なので、本当に代表的な人物しか取りあげられてなかったですし。そのうち、本と資料の山をなんとか片づけ、掘り出しますので、また、ご教授の程をお願いします。
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うわっ!ちょっとびっくりです。 (郎女)
2009-09-22 14:45:39
園田孝吉って、川内平佐賴の出身なんですね。モンブラン伯爵がかかわった平佐釜のあるところです。

私、モンブラン伯爵と仲が悪かった鮫島が、どうやってパリ上流社交界にくいこんだのか、最初のとっかかりがちょっとわからなかったのですが、今、お話をうかがって、バーティだったのか! と妄想してます。バーティはフランス社交界にも顔がひろかったですし、帰国後すぐ、普仏戦争直後にパリへ行っているんです。あー、びっくりです。
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