郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

謎の招賢閣 防府(三田尻)再訪

2013年04月30日 | 幕末長州
 突然ですが、謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行続・謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行の続きです。

 実は、山本栄一郎氏が防府にお住まいでして、近藤長次郎本についての話もあり、4月27日から3日間、防府に行って参りました。山本氏が車でご案内くださり、長府、下関まで足を伸ばすことができたのですが、その詳細は、またの機会に。

 招賢閣といいますか、三田尻お茶屋・英雲荘なのですが、実は2年ほど前、地元松山のタウン誌かなんかで、補修がなって一般公開されている、という紹介記事を、読んではいたんですね。
 松山から防府に行くには、防予フェリー で柳井港に渡り、JRで行くのが一番の近道なのですが、この国道フェリー、高速船ではありませんから2時間半かかり、飛行機で東京へ行くより長いんです。

 まあ、ですね。松山から近県に遊びに行くなら、一般的にはおそらく、広島が一番多いでしょう。
 高速船もありますし、しまなみ海道をいく手もあります。
 広島市は松山市より大きいですから、観光といいましても、買い物に便利ですし、美術鑑賞、コンサート、観劇などで出かけることが多々あります。
 それにくらべて現代の山口県には、松山より大きい都市がないんですね。

 しかし、防予フェリーを存続させるためにも、愛媛と山口の観光客の行き来は大切ですし、おたがいに宣伝をしております。確か、フェリー会社がらみで、御茶屋・英雲荘の一般公開記事も出ていたように記憶しています。

 ともかく。
 続・謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行で、「保存修理後の使い方としても、市民の結婚式などで使う、という話になっているようでして、観光施設ではないのですね」と書いていまして、このとき(平成18年)、防府市教育委員会へお電話したかぎりではそうだったものですから、どの程度の一般公開かわからなかったのですが、再訪したいもの、と思っておりました。

 なんと山本氏は、ちょうど前回私が訪れました時期、公民館として使われておりましたころに、ここで結婚式をなさったのだそうです。
 平成8年から15年にも及びます、長い長い保存修理を終えまして、文化財として一般公開がなりました三田尻御茶屋・英雲荘。
 午前中に行きましたところが、他に観光客がいなくて、館長さんが丁寧にご案内くださいました。
 以下の5組の写真は、上が前回のもの、下が今回のものです。




 かつては、門からして廃墟じみていたのですが、今は整然としております。
 パンフレットと館長さんのご説明に基づき、簡単に三田尻御茶屋の歴史を述べます
 御茶屋とは、藩主の参勤交代や領地視察の折りの休憩、来客迎賓などに使われました藩の公邸で、三田尻御茶屋は、江戸時代初期、萩藩2代目藩主のころに設置されました。
 江戸時代も後期にさしかかりました天明年間、名君として知られます7代藩主・毛利重就が隠居所として使いましたことから、敷地も大きく広がり、建物も数多くなりましたが、どのように使われたのか、詳細は伝わっておりません。
 幕末、ペリー来航2年前の嘉永4年(1851)、維持費が大変だったのでしょうか、大幅に整理され、敷地も狭くなり、
ほぼ現在の広さになりました。




 中心になる建物、大観楼棟です。
 お庭は、現在調査復元工事中でして、以前は森のように緑が濃くしげり放題だったのですが、いまは整備が進み、建物を覆うような植物はありません。
 建物は、基本的に天明年間のものだそうなんですが、改築が重ねられていまして、大観楼棟の内装は幕末の状態の再現をめざしました。
 文久3年8月18日の政変で京都を追われました七卿が、最初に落ち着きました場所がこの三田尻御茶屋。館長さんのお話では、やはり大観楼(棟二階部分)だっただろうと、推測されるそうです。
 



 七卿が滞在したと思われます大観楼(二階部分)です。
 かつての安っぽい電灯はとりはらわれ、ふすまは幕末のころのものを再現していまして、びっくりするほど美しくなっておりました。




 今回、以前の写真とちょっと角度がちがいますが、大観楼(二階)の窓から、瀬戸内海の方向を見ています。
 幕末には、すぐそばまで海が迫っていたそうでして、潮の香がただよっていたのでしょう。




 一階のこの広間、以前、山本氏が結婚式を挙げられたところです。
 館長さんがおっしゃるには、戦後、進駐軍が占領して、畳をはぎ、板敷きにして、ダンスをしたりと、むちゃくちゃな使い方をして、その後もあまり補修ができないままに、赤絨毯をしいて公民館として使われていたのだそうです。
 毛利家の内々の紋・オモダカを図案にしましたふすまがこの上なく品がよく、天井も塗り替えられまして、幕末モダンな趣味のよさに目を見張ります。

 

 この三田尻御茶屋、明治時代には毛利家の別邸として使われ、婦人の居室だったと思われる棟が建て増されました。当然、その部分は明治の意匠に再現されたわけですが、上の写真は、洋風な趣のある、きらびやかなふすまの引手です。
 昭和14年、御茶屋は毛利家から防府市に寄付され、その2年後、太平洋戦争開戦の年に、当時の毛利家当主により、英雲荘と名づけられました。「英雲」は、ゆかりの深い7代藩主重就の法名からとったそうですが、なんと、昭和になって新しくつけられた呼び名だったんです。

 そして、「招賢閣」なのですが、これがけっこう謎なのです。
 以前に書きましたが、「招賢閣」は七卿のまわりに集まりました各藩の志士たち、真木和泉や宮部鼎蔵や土方久元や中岡慎太郎や、その多くは、この後数年で命を燃やし尽くします志士たちが集った会議室で、隣接した敷地に建てられていたと言われます。
 ところが、実は七卿が三田尻御茶屋にいましたのは、わずか2ヶ月で、わざわざ会議室を建てましたかどうか、疑問も出ていまして、三田尻御茶屋そのものが「招賢閣」だった、という説もあるそうです。

 館長さんのお話では、文化財として一般公開されて2年、中岡慎太郎の故郷、土佐の北川村から、足跡をしのんでこられた方々もいたそうです。

 ぼろぼろだった昔を知っております私にとりまして、ほんとうに嬉しい驚きの再訪となりました!
 
クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土佐、近藤長次郎紀行 後編

2013年04月26日 | 近藤長次郎
 
 土佐、近藤長次郎紀行 前編の続きです。

 土佐:近藤長次郎紀行 Map

 高知市内にて、いよいよ龍馬と長次郎の生まれ育った町です。
 


 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書いておりますが、安政の南海大地震の後、河田小龍は、近藤長次郎の家の近くに引っ越してきまして、これを機会に長次郎は、小龍に師事することになりました。



 近藤長次郎生誕地跡碑から、道路を隔てて筋向かいに、小龍の家の近くにあった水天宮が残っています。



 龍馬が通った日根野道場跡付近には、築屋敷の石垣がわずかながら残り、昔の面影をしのばせてくれます。



 龍馬の生まれた町記念館にあります、龍馬と長次郎の像です。
 二人と並んで、記念撮影をする趣向。
 長次郎の家で使っていたもろぶたが展示されるなど、千頭さまがかかわっておられるため、近藤長次郎の面影がしのべる記念館です。



 9日はこれで終わり、私、元気をとりもどしまして、夜は中村さまと長話。
 翌10日、方向としましては、龍馬空港に近いあたりに、新宮馬之助の生家跡と描いた絵馬があるということで、中村さまを空港へ送りがてら、なんとかして見に行こうと企てておりました。
 結局、私の無茶な計画を聞かれました千頭さまご夫妻が、この日もつきあってくださることとなったんです。

 車ですからついでにと、まず案内してくださいましたのが、ホテルからほど近い武市瑞山道場跡と、次いで郊外の瑞山神社。田園の中で、だれもいなかったのですが、ここも龍馬伝放映中は、ものすごい人だったそうです。

 長次郎とともに河田小龍の弟子だった新宮馬之助は、社中の中でただ一人、長次郎亡き後の遺児のめんどうまでみた、といわれる人です。
 若かりし日に彼が描き、神社に奉納した絵馬をどうしても見たかったのですが、その神社が、なかなか見つかりませんでした。

 

 生家跡にほど近い熊野神社は無人で、小さな社は施錠されています。
 どうすればいいのか、とまどったのですが、千頭さまが、隙間から絵馬が見えることを発見されました。



 この後、絵金蔵のあります赤岡でおろしていただきまして、千頭さまご夫妻とはお別れ。
 絵金は幕末の土佐の絵師です。河田小龍とも交流がありましたし、絵が好きでした新宮馬之助は、絵金の芝居絵を見て育ったにちがいありません。



 
絵金
クリエーター情報なし
パルコ


 静かな赤岡の町でお昼を食べました後、絵金の絵を展示しております絵金蔵を見物して、空港へ。
 ここで中村さまとお別れし、私はバスで市内へ帰って、高速バスに乗り換え、一路松山へ。

 みなさまのおかげで、楽しい旅をさせていただきました。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土佐、近藤長次郎紀行 前編

2013年04月25日 | 近藤長次郎
 私、高知には幾度も……、おそらくは30回くらい、旅行しております。
 隣の県ですし、仕事の取材も10回くらいはあり、妹が住んでいたこともありまして、引っ越しの手伝いをしに行っただけ、ということもありましたが、一番近い旅行は、一昨年、友人とバスツアーで行った絵金祭り、です。

 大昔には、青山文庫に史料のコピーにかよったり、高知で行われました龍馬祭りのはしりにも、行ったことがありました。大河ドラマと土佐勤王党に載せています写真は、そのときのものでして、横に組まれました櫓から撮ったものです。

 

 あー、トントのよさこい節、思い出しましたっ!

 わしが稚児(とんと)に 触れなば触れよ
 腰の朱鞘が鞘走る~♪
 よさこい、よさこい~♪
 

 志士たちへ花束に書いておりますが、このとき望月亀弥太の墓探しにつきあい、喫茶さいたにやで聞いた話では、「龍馬におまかせ」というドラマで、岡田以蔵を反町がやりましてから、以蔵さんのお墓がきれいになり、お花が絶えない、というお話でした。

 しかし、近藤長次郎に関しては、これまでの旅行で、まったく関心を払っていなかったですし、千頭さまご夫妻がご案内くださるとのことでしたので、中村さまをお誘いし、今年の3月8日から10日まで、2泊3日の長次郎紀行を計画しました。
 行った場所のおおよそを、以下のマップにマークしてみました。
 土佐:近藤長次郎紀行 Map

 中村さまは、7日(木曜日)に松山へ来てくださって、一泊。8日午前中の高速バスに乗り、昼頃、はりまや橋バスターミナルに到着しました。
 宿泊は2泊とも、セブンデイズホテルプラスです。

 私、出かけるためにあれこれと雑用があり、睡眠不足でぼおーっとしておりまして、ホテルに落ち着いて初めて気がついたのですが、なんということでしょうっ!!! 右と左と、履いている靴がちがうんですっ!!!
 気がついてみましたら、なんだか歩きづらく、中村さまにおつきあい願いまして、まずは高知大丸でアシックスの靴を買い、履き替えました。
 この日は、二人で観光です。



 この河田小龍生誕地・墨雲洞跡の碑ははりまや橋バスターミナルのすぐそばで、ホテルに近かったものですから、靴を履き替える前に訪れています。
 その後、町中の吉田東洋暗殺の地の碑だとか、四国銀行帯屋町支店にあります武市瑞山先生殉節之地の碑を訪れ、高知城へ。
 疲れでめまいが起こりまして、お城見物はすでに数回しております私。途中のベンチで休憩して、中村さまを待ちました。
 そのうち夕方になり、タクシーで自由民権記念館へ。出版物をあさって、この日はおしまい。

 爆睡しました翌9日朝、千頭さまご夫妻が、ホテルまで車で迎えに来てくださいました。
 まずは、近藤長次郎とライアンの娘 vol5に書きました護国神社の南海忠烈碑(明治18年建立)へ。





 この碑ができましたときには、海がすぐそばだったそうですが、今は埋め立てられ、昔日の面影はありません。

 龍馬像が太平洋をにらみます桂浜へ行き、しばらく散策。
 龍馬記念館は、私も中村さまもすでに行ったことがありましたので、外から見ましただけです。
 六体地蔵と一領具足供養の碑に案内していただきました。




 車は一路、青山のじじいの故郷、佐川へ。
 私、青山文庫の史料をコピーさせてもらいに、通った過去がありますが、当時は、展示室がありませんでした。
 展示室ができてはじめてなんですが、当日のメインの展示テーマは幕末ではないと、あらかじめお聞きしておりました。
 佐川へ向かう途中、国道沿いに北添佶摩顕彰碑があり、カメラにはおさめたのですが、地図上でどこだったのか、マークできませんでした。

 

 昼食は、佐川町大正軒で天然うなぎをごちそうになりました。
 天然うなぎの香ばしさは格別でして、忘れがたい味です。



 食事の後、なつかしい青山文庫へ。
 お電話で親切にお答えくださった学芸員の方にご挨拶。
 
 佐川は、植物学者・牧野富太郎の生誕地でもあり、また清酒司牡丹の蔵本の地でもありまして、白壁の美しい町並みが続きます。
 ぜひ、桜が咲いている時期に再訪したいなあ、と思いつつ、再び車は高知市内へ。
 次回に続きます。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂本龍馬トンデモ本の盛況!

2013年04月24日 | 幕末土佐
 えーと、またちょっとより道をします。
 あきれ果てたあまり、なのですが。

 近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol2に書いておりますような事情で、知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』を買ったわけなのですが、下のリンクでアマゾンをごらんになってみてください。

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院


 「よく一緒に購入されている商品」に、細野マサシ氏の『坂本龍馬はいなかった』という本があげられていますよね。
 普通に考えて、『坂本龍馬はいなかった』というタイトルの真意は、「現在、世間一般で定説になっている龍馬像は、史料が提示してくれる実体からかけ離れている」ということだろうと思い、商品説明でも、「一次資料を丹念に読み込む」とか書いていますし、わたくしつい、知野氏のご本を予約すると同時に、買っちゃったんです。

坂本龍馬はいなかった
細田 マサシ
彩図社


 一瞥、「ひえーっ!!! トンデモ本にひっかかっちゃた!!! 一次資料どころか、史料と名のつくものはまったく読んでないよ、この著者!!!」と放り投げました。
 しかしまあ、買ってしまったことではありますし、ちょっとだけと、つい先日とばし読んだんです。
 著者の言いたいことは、だいたい、こういうことです。
 「坂本龍馬はいなかった! 現在、世間一般で知られている龍馬像は、坂崎紫瀾が作り上げたものである」 とまあ、ここまではいいんです。続いて、「実は龍馬は3人いたっ!!! 初代龍馬は大石団蔵、二代目は近藤長次郎、そして三代目が現在にまで語られている坂本龍馬で、薩摩が勝海舟と談合して作り上げたスパイであるっ!!!」
 これほどわけのわからない妄想を延々と書き連ねられるって、この人、キチガイなの?????と、お口あーんぐり、です。

 もしかしまして、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!でご紹介しました加治将一氏のキチガイ本の上をいくかもっ!!!なんですが、加治氏のキチガイ本は文庫になってまた出ているみたいですし、細田マサシ氏の『坂本龍馬はいなかった』、去年の9月に第一刷、翌10月に第二刷になっていて、それなりに売れているらしいんです。
 ギャグとしてもおもしろくもないこのキチガイ本が、なんで売れるんでしょうかっ???
 
 お気の毒なのは、まっとうな労作であります知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』が、アマゾンでは、こんなトンデモ本と並べられまして、表紙を一見し、内容説明を読みましただけでは、どうちがうのか、さっぱりわからないことです。

 本を選びますのに、出版社を見る、ということは、当然するのですけれども、歴史物にかぎって言いますと、例えば山本栄一郎氏の著作など、弱小自費出版社から、まともな本が出版されていることもありますし、栗原智久氏の『史伝 桐野利秋 』は、史料を探索しました実にまっとうな桐野の史伝なのですが、当時、一般にはあまり知られていませんでした学研M文庫から出されました。

 そして、例えば新人物往来社や文藝春秋社、新潮社など、名の知られた出版社でも、自費出版であることも多々ありますし、けっこうトンデモ本が出ていたりもします。
 その顕著な例をあげますと、文藝春秋が延々出し続けていました李寧煕氏の万葉集が韓国語で読めるシリーズでしょうか。まったくのキチガイ本なのですが、推理仕立てで、当時、かなり売れたみたいです。

もう一つの万葉集 (解読シリーズ)
李 寧煕
文藝春秋


 ふう。
 私、近藤長次郎本も、おもしろおかしくトンデモ本にしちゃった方が、売れるんではないかい、というような気がしてきちゃいました(笑)

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol2

2013年04月20日 | 近藤長次郎
 近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol1の続きです。

 出版話にいきます前に、知野氏のご著書の紹介を。
 いえ、ですね。近藤長次郎とライアンの娘シリーズを書き始めました去年の12月、「坂崎紫瀾について書かれた本はないの?」と検索をかけていましたところが、『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』という知野氏の本が、近々出版予定らしいと知りまして、題名からしますとぴったり私の求めるもののようでしたし、はずれたらはずれたときのことと、アマゾンに予約を入れておりました。

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院


 2月に届きまして、実際、思った通りぴったりの本でした。
 明治、坂崎紫瀾の著作を中心としまして、龍馬像にどういう変遷があったのか、丁寧に跡づけられております。
 これ、私、ぜひ桐野利秋でやりたいことなんです。
 本当に龍馬が好きで書かれたのだろうなあと、知野氏の熱意が感じ取れ、頭が下がります。

 もしかしまして、明治に限定しましたら、龍馬よりも桐野の人気の方が高いのではないでしょうか。桐野は河竹黙阿弥の歌舞伎の登場人物ですし、錦絵も桐野の方がはるかに多いでしょうし。
 人気がひっくり返りましたのは、おそらく戦後であるような気がします。

 なんとも皮肉と言いますか、実際の龍馬は自由民権運動にはなんのかかわりも持ちませんでしたのに、甥がかかわっていたこともあって、坂崎紫瀾により、元祖自由民権運動の闘士に祭り上げられ、戦後、まるで民主主義の旗手のような描かれ方をします。

 一方、桐野利秋は、同時代の薩摩の歴史家・市来四郎が、「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」と言っておりますのに、無視されてしまいます。

 ちなみに明治の民権論とは、国権と相反するものではありませんで、「国民の権利が拡張することによって国民は帝を慕い、国力もゆるぎのないものになる」というものですから、桐野はれっきとした民権論者だったわけです。

 私、ipadでKindleのデジタル本が読めるようになり、Jinを買ってみたんですが、TVでは出ておりませんでした半次郎(桐野利秋)が、龍馬暗殺にからんで、とてもいやな感じの人物として出てまいりました。

JIN―仁― 12 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
クリエーター情報なし
集英社


 全体として、Jinはおもしろかったのですが、この漫画の気持ちの悪い中村半次郎しか知らない人々も確実にいるわけでして、私、つい、なんとかしなければと焦ってしまいました。

 知野氏が書いておられますが、現代の龍馬伝説は、司馬氏の『竜馬がゆく』が元ではあるのですが、これをもっとわかりやすくしました武田鉄矢原作の漫画『お~い!竜馬』によって、育てられた面も大きいようです。

お~い!竜馬 (第18巻) (ヤングサンデーコミックス)
武田 鉄矢,小山 ゆう
小学館


 これもデジタルになっておりましたので、近藤長次郎がどう描かれているのかを見るために、買いました。
 若いころの私の龍馬嫌いは、武田鉄矢嫌いが高じたようなものでもあり、この『お~い!竜馬』、意識的に、まったく読んでいなかったんです。
 ところが、久しぶりに会いました大阪の友人がですね、私のiPadにこれが入っているのを見まして、「昔、従兄弟に借りて読んだんですが、岡田以蔵と武市半平太がいいんですよ。泣けました」とおっしゃったのには、驚きました。

 知野氏が冒頭に書いておられるんですが、明治9年に出版されました近世報国赤心士鑑(安政5年から慶応3年に死んだ志士の番付)において、リンクでごらんのように(PDFですと文字がちゃんと読めます)竜馬は土佐人の中ではトップでして、中岡慎太郎、武市半平太と続きます。
  坂崎紫瀾の『汗血千里駒』出版以前から、志士としての知名度は、高かったようです。

 今回、私、近藤長次郎が出発点ですから、知野氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』が届いてまず、関係部分から読ませていただきました。
 近藤長次郎が直接出てくるわけではないんですけれども、近藤長次郎が長崎で落命しましたとき、龍馬が京都にいたことにつきましては、明治29年に出版されました弘松宣枝『阪本竜馬』(近デジにあります)に、すでに書いてあったんですね。ブログを書き直さなければ!と、焦ったような次第です。

 もう一つ、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」、なのですが、文章がほぼ一致して、この部分になにが書いてあるのか推測できます史料があると、知野氏は脚注で書いておられたんです! 
 明治30年代にまとめられたと推測される瑞山会編の『近藤長次郎傳』です。

 私、そんなものがあろうとは、まったく存じませんでした。
 ただちょっと、私が不審に思いましたのは、知野氏は、瑞山会編『近藤長次郎傳』において、「近藤がユニオン号購入に際して長州と金銭の授受を行い、それを資金に洋行しようとしたが露見して切腹したと記されている。もうここまで来ると完全に業務上横領扱いである」 としておられるのですが、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」にそんなことが書いてあるとは、私には思えませんでした。

 近藤長次郎とライアンの娘 vol5に原文を引用しておりますが、「ユニオン号の売買に多額の金が動くのを目の当たりにして、聞多に頼んで金を借りた」とのみ書いておりまして、当時、こういった武器や船の売買には、リベートが動くのが一般的でして、これより後のことになりますが、薩摩脱藩で、桐野の友人の中井桜洲が、船の売買の仲介をして、後藤象二郎に洋行費用を出してもらい、帰国後は海援隊に入っていたりします。
 そういう中で、もらったのではなく「借りた」と明記しているのですから、これはむしろ、横領を否定した記述です。
 
 ともかく、瑞山会編『近藤長次郎傳』を読まなければ!!!となりまして、いったいどこにあるものなのか、ちょうど青山のじじい(田中光顕)の手紙をさがしていたこともありまして、高知の青山文庫に問い合わせました。
 結局、わからなかったのですけれども、学芸員の方が非常に親切でおられまして、知野氏のご著書で知った旨を申しますと、「数日後に知野氏にお会いする予定があるので、聞いてみます」とおっしゃってくださったんです。

 数日後、お伝えいただいた知野氏のお答えは、「個人蔵」ということでして、つまり、それでは私は見ることができませんので、がっかりしたのですが、詳しいことはメールでならばお答えします、と知野氏が言ってくださったとのことでしたので、私、ご好意に甘えてメールで問い合わせました。
 知野氏は、実に丁寧にお答えくださり、「業務上横領扱い」 は撤回してくださった上で、同一の文章だと、保証してくださいました。
 この件はまた、全体を書き直します中で取り上げなければなりませんが、実にいろいろと勉強させていただきました。

 ただ、知野氏のご本、史料探索の話になって参りますと、ちょっとわかり辛くなってきますのが玉に瑕なのですが、推測を重ねるしかない部分も多いわけですから、おそらく、致し方のないことなのでしょう。
 なにより、この愛と情熱を見習わなければ、と思いまして、うーん。

 私、どうせ出すならば一般受けする本にしたいと欲を出すあまりに、千頭さまご夫妻のインタビュー記事を入れたい、とか、どうも、よけいなことを考えすぎていたような気がします。
 山本栄一郎氏がおっしゃるように、シンプルに、埋もれた近藤長次郎の実像を、それぞれの方向で史料から発掘してみてみれば、いいのでしょう。

 しかし、山本氏は現在、ご専門の長州に関係しましたことで、ものすごく大きな発見をなさっておられまして、これは、私にとりましてもとても楽しい発見で、発表が待ち遠しいのですが、えー、山本さま、こちらも見捨てないでくださいまし(笑)

 次回、書きかけのシリーズにもどるか、旅行記にするかで、ちょっと迷っております。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol1

2013年04月17日 | 近藤長次郎
 株価と北朝鮮から目が離せない今日このころです。
 今回もちょっとシリーズから離れまして、「近藤長次郎本を出したらどうだろうか」というお話を。

 実はこの話、私が思いついたわけではなく、山本栄一郎氏の提案なんです。
 近藤長次郎とライアンの娘 vol2で初めてご紹介いたしましたが、山本栄一郎氏は、「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」の著者でおられます。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
山本 栄一郎
文芸社


 私、実際のところ、近藤長次郎とライアンの娘 vol1で書きましたような事情で千頭さまご夫妻にお会いするまで、近藤長次郎について、このカテゴリーユニオン号の以前のシリーズ(桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1以下)で書きました以上のことを、調べる気はまったくありませんでした。私にとりましては、それですんでしまった話でして。

 私は別に、歴史学者でもなんでもないですし、ブログを書いておりますのはあくまで趣味でして、気分のおもむくままに、覚え書きを書きなぐっているにすぎないからです。
 しかしとりあえず、それを人様に読んでいただける形にしよう、という意識は、職業ライターをやっておりました私の習性かもしれないのですが、一方から言いますと、金をもらって注文通りに書いておりましたかつての苦痛から離れ、好き勝手に殴り書きたい、という意欲の発散、でもあります。

 それでまあ、このブログは仕事の文章とちがいまして、ごく一般向け、というわけでは、決してありません。
 以前にも書いた覚えがありますが、高校時代からの友達が私のブログを見て、「龍馬か新撰組ならわかるけど、知らない人ばかりが出てきて、さっぱりわけがわからない」と、つまらなさそうに言っておりました。

 人間、自分のまったく知らないことについて書かれた長文を、読んでみようという気にはなかなかならないものでして、えーと、家庭の事情でほとんど仕事ができなくなりまして、私、今やほとんど忘れてしまいましたが、一般の方々の関心を引くための工夫、というものが、一般向けの文章を書くに際しては、必要になってくるわけなのです。

 で、好き勝手に書きなぐっておりますこのブログ、いったいでは、誰に向かって書いているかと申しますと、基本的には自分なのですが、そこが習性で、一応、読者を想定していないわけではなく、どういう読者かといいますと、ご同好の幕末オタクな方々、ということになるでしょう。
 もともとが、そういう少数をターゲットにしている文章ですから、当然のことながら反響は少なく、したがいまして読まれた方からの反響を直にいただきますと、やはり非常に嬉しく、調子に乗ってしまうわけなのです。

 そんな中で、私が千頭さまに山本氏のご本を紹介し、今度は、山本氏に直線連絡をとられました千頭さまから、山本氏が「近藤長次郎の本を出しましょう」 と提案しておられること、同時に私に連絡をとりたいと言っておられることをお聞きし、その運びとなりまして、近藤長次郎本を出そうという話が、突然、具体化することとなったわけです。

 山本氏は、防府にお住まいの幕末史研究家でおられ、「山口歴史研究会」の会長としてご活躍。ご研究の中心テーマは、大村益次郎です。
 当然のことながら、とても詳しくておられますから、初回から、いただいた電話にもかかわらず、とんでもない長話をしてしまいました。

 私、中村さまを筆頭に、基本、幕末に非常に詳しい方以外とは、ほとんど幕末の話はいたしません。どうも、ですね。どっぷりとこの世界にひたっておりますおかげで、一般の方々に対しては、なにをどう説明すればいいのかさえ、わからなくなってしまっているんですね。
 結果、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編に書いておりますように、妹にさえ、しかられます始末。
 そんなわけでして、私、山本氏とのコミュニケーションは、きっちりとれていると思うのですが、千頭さまご夫妻とは、さっぱりです。

 もちろん、私と山本氏の見解が、百パーセント一致しているわけではありません。しかし、「あの史料はこうで、こういう史料にはこう書いているから、私はこう考える」という、お互いの考え方の基本はよくわかるわけでして、推測部分にちがいがありますのは、これまでにお互いが読んできました史料のちがいもありますし、理解できます。

 基本、山本氏は、「世間一般に龍馬は過大評価されすぎている」
という認識をお持ちですし、私がこれに同感でありますのは、これまでにも延々とカテゴリー幕末土佐に書いておりまして、私はむしろ今回、近藤長次郎について調べておりました課程で、「私が感じていたほど龍馬がなにもしなかったわけではなく、慕われる個性を持ち、土佐脱藩者の中心になった人物ではあったんだなあ」と見直しました。

 私がこれまでに持ってきました「巨大化した龍馬をもてはやす世間一般へのうんざり感」は、スーパーミックス超人「龍馬伝」続・いろは丸と大洲と龍馬「龍馬史」が描く坂本龍馬坂本龍馬の虚像と実像などなどに、もう十二分ににじんでいると思います。

 私の頭の中では、世間一般の龍馬の巨像が虚像でしかないことは常識でして、ただ、だからといって、世間にはびこりました虚像はなかなか消えるものではないですし、本気でそれを語るならば、ちゃんと史料を積み上げて調べなくてはなりません。私にとりまして、歴史オタクではない一般の方と、そんなことをあらためて語り合いますのは、うんざりすることです。

 「史料を読み解いて龍馬の実像を」という趣旨の著書は、有名どころでまず坂本龍馬の虚像と実像でご紹介しております、松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』があります。

検証・龍馬伝説
松浦 玲
論創社


 実は山本氏も『実伝・坂本龍馬』という本を出しておられまして、主に長州側の史料から、龍馬の行動の実態を追っておられます。

実伝・坂本龍馬―結局、龍馬は何をしたのか
山本 栄一郎
本の泉社


実伝・坂本龍馬 ──結局、龍馬は何をしたのか
クリエーター情報なし
株式会社本の泉社


 この下の方はデジタル版なんですが、実はAPPストアでは、85円で売られておりました。山本氏がブログで「びっくり!電子書籍『実伝・坂本龍馬』って」と、書いておられる通りだったんです。
 現在、なぜか85円ではなくなっています。アップルがiBookstoreで日本語のデジタル本を売るようになりまして、アマゾンのKiindleと値段のバランスをとるようなことにでもなったのかと思うのですが、山本氏によれば、デジタルに関する契約はまったくかわしていなくて、なんの連絡もなかったそうでして、出版社が勝手にデジタルにして、勝手な値段で売っているって、これ、違法行為ですよねえ、あきらかに。

 それはともかく。
 つい最近に出版されました知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』も、維新土佐勤王史が描きました龍馬像を検証し、実像に迫ろうという取り組みです。

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院
 

 この知野氏のご著書に関しましては、近藤長次郎に関係する部分もありますし、長くなりましたので、詳しくは次回に取り上げたいと思います。

 ともかく、ですね。
 なにをこう長々といまさら、私が龍馬の虚像について書いているかと申しますと、主に「龍馬の虚像はどうしてできたのか」ということと、それにも関係してくるのですが、「長次郎はなぜ死んだのか」という肝心な部分につきまして、私と千頭さまご夫妻の間には、どうにも、超えがたい垣があるようでして、いったい、なにをどうお話すればいいのか、私はただただ呆然とするばかりで、垣は越えようがないように思うからです。

 えーと、その、確かに私は、自分に向けてブログで覚え書きを書いているようなものでして、話があちらへ飛びこちらへ飛び、まとまりがありませんし、長くて読み辛いのはわかります。そして、基本的に読者層は幕末オタク層を想定してはいるのですけれども、今回の「近藤長次郎とライアンの娘」シリーズは、一応、千頭さまご夫妻を、一番の読者と想定して書いていることもまた、事実です。

 にもかかわらず、それが、どうも……、さっぱり理解していただいてはいないようなのです。
 なにかもう、書く気力を無くしてしまう事態でして、まあ、それと山本氏から出ました出版話がからみあいまして、どういう企画にすればよいのか、どういう形で出版すればよいのか、ただいま迷走中です。

 ただ、これまで書いてまいりましたこのシリーズも、訂正を入れ、整理をする必要がありますし、せっかく山本氏がいっしょにやろうと言ってくださっているのですから、私としましても、覚え書きの域を脱するためにも、ごいっしょに出版させていただければ嬉しいかも、とは思いまして、がんばってみるつもりです。

 次回、知野氏のご本を紹介しがてら、企画を模索していこうと思います。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BS歴史館「幻の東北列藩・プロイセン連合」と史料

2013年04月07日 | 幕末東西
 ちょっと近藤長次郎とライアンの娘シリーズを離れます。

 青色申告の最中にパソコンが壊れ、中村さまがご同行くださいまして高知へ旅行し、東京で大学生をやっております姪が遊びに来て、前期試験で失敗しました甥がなぜか後期試験に受かりまして、引っ越しの手伝いに出かけと、次々にブログに集中できない事件が起こったわけなのですが、千頭ご夫妻がご案内くださいました高知旅行は、いずれ、写真とともにここにまとめたいと思います。

 また現在、近藤長次郎についての本を出版したらどうだろうか、という話ももちあがっておりまして、いまだ漠然とした思いつきの段階にすぎませんで、千頭ご夫妻のご意向や、執筆者が何人になるかなど、基本的な企画もできあがってはおりません。しかし、ぜひ、真剣に取り組んでみたいとは、思っておりまして、旅行の話とともに、そのうち、書いてみたいと思っております。

 えーと、本日(2013.4.7)は、ですね。アマゾンで予約をしましてから、一年以上出版が延びて、待ちわびておりました本が届いたんです! ご紹介したくて、久しぶりに書いています。
 箱石大氏編の「戊辰戦争の史料学」です。

戊辰戦争の史料学
箱石大 編
勉誠出版


つい最近再放送したみたいなのですが、2011年の7月、NHKのBS歴史館で、発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」 が放送されました。BS歴史館も、期待はずれであることが多く、最近はほとんど見ていないのですが、このときだけは、「えええっ!!!!!」と、ただただ驚いて、言葉もなく見入ってしまったんです。

 私にとりましては、衝撃の新資料が紹介されておりました。プロイセン代理公使として日本におりましたマックス・フォン・ブラントが、戊辰戦争中、本国の宰相オットー・フォン・ビスマルクへ書いた手紙に、「会津と庄内が蝦夷地(北海道)の一部の売却を申し出ているのだが買ってはどうだろうか?」というような提案があった!!!、というんです。
 
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編に出て参ります杉浦奉行の日記に記されていることなのですが、幕府から蝦夷地の一部をまかされておりました東北各藩は、本藩が大変だからと、おっぽりだして引き上げているんですね。まあ、それは仕方がないことと思っていたのですが、ロシアの南下を憂い続け、きっぱりと援助を断りました杉浦奉行にくらべまして、「その売国はなんなのっ???」と、思わず叫びたくなる話です。

 番組では、これまでにもけっこう知られておりますスネル兄弟(wiki-スネル兄弟)やガトネル(ゲルトナー)兄弟など、幕末維新に日本で活躍しましたドイツ関係者がひとまとめに出てきまして、同列に語られてしまっているのですけれども、研究途上の新資料の衝撃度のみでは、番組が成り立たなかった、ということなのでしょうか。

 私、これまでに、スネル兄弟については書いていなかったと思いますが、ガトネル兄弟につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 中で書いております。ガトネルの農園に関して言いますと、杉浦奉行から新政府、間に榎本軍をはさんでまた新政府に引き継がれ、その間にお雇いのはずが長期借地に変じてしまった話ですから、会津も庄内もまったくかかわっておりませんし、番組タイトル「幻の東北列藩・プロイセン連合」には、ほとんど関係ないんですけどねえ。

 ともかく。
 衝撃の新資料について研究なさっておられるのは、東京大学史料編纂所准教授の箱石大氏である旨、番組で紹介されておりましたので、私、あわてて論文を探したのですが見つからず、しかしアマゾンに、これから出版予定の「戊辰戦争の史料学」なる本がありましたので、さっそく予約しました。
 ところが、ところが。
 出版予定が延びに延び、ようやくのことで今日、届いたような次第です。

 全編、興味深い記事ばかりでして、これからじっくり読むつもりですが、まずは、箱石大氏ご自身によります「序論 戊辰戦争に関する新たな史料の発見」を見てみますと、「衝撃の新資料」は、すでに1995年、日本大学国際関係学部准教授アンドレアス・H・バウマン氏によって、日本の学界に紹介されていたんだそうです。その4年後には、ドイツのボン大学教授ヨーゼフ・クライナー氏が北海道新聞を通じて、一般にも紹介していたそうでして、ひいーっ! 知らないって怖いですね。
 といいますか、もっと早く、日本の歴史学界がとりあげるべきだったことですよね。

 この文書は、フライブルクの連邦軍事文書館が所蔵しているそうなんですが、はあ、松山の姉妹都市のフライブルグに、そんなものがあろうとは!!!、です。
 普仏戦争と前田正名 Vol5に書いておりますが、戊辰戦争時のドイツはいまだ統一されていませんで、フライブルクはバーデン大公国なんですよねえ。

 で、箱石氏は、2009年からボン大学名誉教授ペーター・パンツァー氏の協力の元、この文書館所蔵の幕末維新期日本関係文書の調査をはじめ、そんな中で、関連文書も発見されたそうでして、実は、番組で紹介されました「衝撃の新資料」には、続きがあったというんですっ!!!

 番組では、「ビスマルクは、欧州の他国との協調関係をおもんばかって、ブラント公使に会津・庄内の申し出を断るよう指示した」 とされ、そこでこの話は終わっていました。

 戊辰戦争は、ちょうど、普墺戦争と普仏戦争の間の出来事でして、ドイツ統一をめざすプロイセンとしましては、イギリスの機嫌を損ねるようなことは、できなかったんですね。
 イギリスは、対ロシアということで、広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、クリミア戦争ではフランスと組み極東まで戦いに来まして、そのおかげで五稜郭ができたようなものですから、もしもプロイセンが蝦夷に領地を得るようなことになりましたら、実際に黙っていなかったでしょう。
 
 しかし、当時の在日イギリス外交官、バーティ・ミットフォードは、上流階級出身のよしみか、ブラント公使とはけっこう仲が良かったとか言っていますのに、この件につきましては、情報収集できていなかったのでしょうか。あるいは、どうせ会津・庄内が勝つはずないとたかをくくっていたか。

 えー、箱石氏の最新のご研究に話をもどします。
 ブラント公使のビスマルクへの報告には、続きがありました。
 「会津と庄内が蝦夷地を売りたがっている」といいます情報に続けて、「グラバーは琉球を担保として薩摩に金を貸しつけていて、イギリス政府がその利権を手に入れ、土地を取得するつもりだ。またアメリカも長崎に海軍基地を持とうと計画している」という続報を送ったというのです。
 結果、ビスマルクは前言を撤回し、「英米が日本で土地を得ようとしていることが本当なら、会津・庄内の申し出に応じよ」 とブラント公使に命じました。しかし、当時の手紙のやりとりは船便で、欧州と日本の間では、およそ2ヶ月かかりました。その命令が日本へ届いたときには、とっくの昔に、会津も庄内も降伏し、機会は失われていたのですが。

 箱石氏も書いておられますが、イギリスが薩摩から土地を得ようとしていた話は、眉唾です。 
 ミットフォードかモンブラン伯爵かが偽情報を流した……といいますか、私、思いますにモンブラン伯爵が「この田舎者、おもしろい。おちょくってやれ!」とからかったのではないかと。
 ほどなく普仏戦争がはじまり、モンブラン伯爵が生まれ育ちました花の都パリは、ドイツ諸国の田舎者に蹂躙されることも知りませんで。
 この当時のフランス人のドイツ人に対する一般的感情は、普仏戦争と前田正名 Vol9Vol10でご紹介しております、アルフォンス・ドーデーの「月曜物語 」あたりが、語ってくれているように思います。

 あるいは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編に書いておりますが、薩摩が琉球国名義で各国と独自に通商条約を結ぼうとしていたことを、ブラントが誤って受け取ったのでしょうか。まあ、プロイセンの田舎貴族ですしねえ(笑)

 それにいたしましても、ねえ。
 極東におきますプロイセンの情報収集能力は、ぐだぐだぐだのぐちゃぐちゃ、だったみたいです。いや、世界に冠たる007の国大英帝国とくらべちゃ、気の毒なんですが。

 追記 家近良樹氏の『西郷隆盛と幕末維新の政局』第部 第四章 慶応二・三年の薩摩藩を読んでおりましたら(P172)、穏健派の薩摩藩士・道島某の日記に(忠義公史料第四巻P156~161 P197~198「道島家記抄」)、慶応2年6月パークスが鹿児島を訪れたときに、一般の薩摩藩士からは多大な反発があり、「グラバーからの藩の借金は一割四分の高利で30万両にもおよび、その返済のために大島の銅山を渡すらしい」という噂話があった、という旨、書いておりました。ブラントは、そういう噂話のたぐいを耳にしたらしくはありますね。

西郷隆盛と幕末維新の政局: 体調不良を視野に入れて (大阪経済大学日本経済史研究所研究叢書)
家近 良樹
ミネルヴァ書房


 ついでに言わせていただきますと、会津・庄内の国際感覚もぐだぐだのめちゃくちゃ、だったみたいですねえ。双方、個々には情報通の有能な人材もいたのですけれども、生かせなかったといいますか。
 庄内藩なんか、出身者に佐藤与之助や本間郡兵衛などもいましたのに、ねえ。

 この本には、また触れる機会があろうかと思いますが、今日は、ここまでです。

 最後に、甥の引っ越しの手伝いで大阪へ行きましたおかげで、懐かしい友人に会うことができました。若くして大病を患って一時は命も危なかった方が、元気でいてくださって、ご一緒にランチを。嬉しゅうございました。
 千里阪急ホテルさくらラウンジのさくら弁当です。




クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする