郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ』と史実◆最後に萩へ行ってきた!

2016年01月03日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 あけまして、おめでとうございます。
 珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道の続きです。

 実は結局、珍大河「花燃ゆ」、見るのをやめてしまいました。
 時系列が無茶苦茶なのを、いちいち指摘するのも面倒ですし、明治元年から西南戦争までに関しましては、かなり詳しく調べているつもりの私にとりましては、いったい、どこの国のお話???と聞き返すしか、ない感じで、うんざりも極地に達しました。ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが生み出した妄想としか思えない異世界なんです。

 見るのをやめて、しかし、二ヶ月に一回、母がショート・ステイに行くようになりましたので、もう一度萩へ行きたい! という思いが募りまして、中村さまをお誘いしましたところ、来てくださるとのこと。11月の末に行ってまいりました。
 目的は複数ございましたが、一つは、「花燃ゆ」の放送が決まって、去年、萩に建ちました久坂玄瑞の銅像を見ること。冒頭の写真がそれですが、台座にはちゃんと、寄付なさった知り合いの方の名前が刻まれておりました。

 続・久坂玄瑞の法事唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』に書いております京都東福寺退耕庵での法要でいただきました明治維新防長殉難者顕彰会の会報が、なぜか先日、タイミングよく蔵書の間から出てまいりまして、しみじみその会員名簿を見ておりましたら、久坂恵一氏と並んで安倍晋三(現首相)氏の名もあります。

 このとき、久坂恵一氏が吟じておられました七言古詩も掲載されておりましたので、以下、ご紹介します。

 堺町門頭剣戟光 銃弾飛来修羅狂
 勇魂奮起長州勢 暫且交戦分彭殤
 王子渺茫都如夢 苔碑不語断人腸
 首級厚葬上善寺 越候懇誠伝今芳


 禁門の変におきまして、越前藩士の手により、鷹司邸近辺で戦死しました長州藩士の首が、京都上善寺に葬られたのですが、久坂の首もその中にあった、という話が、どうもあるようなんですね。
 その中の一人は、入江九一ですが、私、今回調べ直すまで、珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」に書きましたように、高杉の素っ頓狂な従兄弟にして弟高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 参照)の南貞助が、入江の最期に近いときそばにいたとは、さっぱり存じませんでしたわ。
 久坂玄瑞全集を見直してみれば、確かに、そう書いてあったのですが、気づいてなかったといいますか。

 それで、さっそく南貞助の自叙伝を手に入れました。これ、なんで東大の史料編纂所にしかないのかと思いましたら、貞助の息子の春峰が、弟や妹に父の遺品を分けるにおいて、ごく少部数、謄写版で刷って配ったものなんだそうなんです。刷った数が少なすぎまして、山口の図書館や文書館にもありませんし、国会図書館にもありません。
 
 ともかく。
 今回の旅、最大の目的は、団子岩から夕日を見ること、でした。
 なにしろ一昨年、スイーツ大河『花燃ゆ』と妹背山婦女庭訓に書きましたように、突然、団子岩で文さんの声を聞いた気分になりまして、久坂のそばで永眠できなかった文あらため美和さんの晩年の無念の思いを伝えたい、と思っちゃったんですね。



 時雨れていまして、決していい天気ではなかったのですが、奇跡的に、日の入りの時刻、雨はあがりました。


合本 世に棲む日日(一)~(四)【文春e-Books】
司馬遼太郎
文藝春秋


 司馬遼太郎氏の「世に棲む日日」は、現在(執筆は昭和44年・1969年)の萩、松本村を、司馬氏が訪れるところからはじまります。
 著者が作品中に顔を出します司馬氏のドキュメンタリー風の小説スタイルは、このあたりからはじまったのではないのかなあ、と思うのですが、すばらしい臨場感をかもしだします半面、「司馬氏の書くことは全部史実」といいますような、あらぬ誤解を生む原因ともなったのではないでしょうか。

 しかし、私は若き日に「世に棲む日日」を読むことによって、松陰と長州の幕末に強く関心を抱くことになりましたし、やはり司馬氏は、稀代の文筆家だったと思わずにはいられません。
 いま、あらためて冒頭の紀行文を読み返してみますと、海原徹氏や青山忠正氏、その他諸先生方の著作により、今回新たに得た知識と照らし合わせて、ちょっとしたまちがい、といいますか、勘違いのようなものはちらほら見受けられるのですが、やはり、肝心な点は抑えておられます。

 松陰一家の中心にいたのが母親の滝であることを、司馬氏は明快に記しています。
 松陰の実家・杉一族の墓所が集まります団子岩のことも書いておられますが、ただ、その墓所のそばにあります松陰が生まれた山屋敷を、滝さんが貧乏士族・杉家への嫁入りに際して、持参金のように持ってきたことは書いておられません。
 城下の大火で焼け出されました杉家は、そもそも親戚を頼って郊外の松本村に住むようになったわけでして、まわりは決して百姓の子ばかりではなく、親戚の士族ばかり、といってもいいような状態です。
 しかも、これまでこのシリーズで書いてまいりましたが、長女の千代さん、次女の寿さんの嫁入り先は、団子岩に近い弘法谷ですし、文さんの夫・久坂は、杉家に同居(私は団子岩の山屋敷で新婚生活を送ったのでは?と思っています)ですし、玉木家、吉田家もごく近所でした。

 「世に棲む日日」の影響もあり、私自身、もしかして、これまで誤解していたかなあ、という気がしておりますのは、当時の長州藩士の家のあり方です。
 士族の「家」といえば、男系の血を重んじ、嫡男が受け継いで守っていくもの、というような概念を持っていたのですが、しかし、杉家とその周辺を詳しく知り、考えてみましたら、かなりちがうんですね。
 確かに、通常は長男が家を継ぐわけですが、当時の医学水準では、幼児のときに死んでしまうことが多いですし、中級以下の大方の士族は妾を持ちませんし、とすれば、男の子が生まれない場合も多く、また生まれても、健常ではないこともけっこうありました。

 藩士の「家」とは、公務員の職を家業として受け継いだ「株」のようなものでして、幕臣や薩摩藩では、売買もされていたのですが、長州藩がどうだったのか、詳しくは知りません。
 しかし、そうであったとすれば、まず守るべきは血筋ではなく、そういう意味での「家」なんですね。

 松陰の父親は、杉家の長男でしたが、優秀だったその弟二人が、吉田家と玉木家を継ぎました。
 これによって、杉家にとりましては、吉田家も玉木家も、守るべき「家」となります。
 
 杉民治は、長男で杉家を継ぎますが、その長男の小太郎は、杉家ではなく、松陰亡き後の吉田家を継ぎます。
 小太郎が萩の乱で戦死をした後、わずか2歳の民治の娘が継ぎますが、すぐに病死したため、結局、吉田家は、長女の千代が児玉家に嫁いで産んだ庫三が継ぎます。
 この庫三、実はそれまで、次女・寿の嫁いだ小田村家の養子になっていまして、小田村家の次男・道明は、これまでさんざん書いてきましたように、三女・文の嫁いだ久坂家の養子になっていました。
 なお、これも以前に書きましたが、小田村家の長男は健常者ではなく、家督が継げる状態では、なかったようなんですね。
 また、玉木家の長男(文之進の実子)が戦死しました後、玉木家の養子となりましたのは、乃木希典の弟ですが、これに民治の娘が嫁いで、一粒種の跡取りを産んだような次第です。

 なにが言いたいかと言いますと、女系の血もけっこう重視されまして、姉妹で養子のやりとりはよくあることですし、杉家を中心とします一族を、明治になってからも守りましたのは、杉民治とその姉妹の血の絆だったわけですし、そしてまた、嫁いで来た女性たちの経済力が、それをささえもしました。
 滝が山屋敷を持って嫁いできたことは、先に述べましたが、松陰の叔父にして義父、吉田大助に嫁ぎました久満は、庄屋・森田家の娘で、現在、玉木文之進旧宅として伝えられています家を、持参金のようにして吉田家にもたらし、夫が早くに病死した後、実家の森田家で暮らしながら、しかし、吉田家から籍はぬかず、養子に迎えた松陰への援助を欠かさなかったといわれます。

 

 明治5年に病死しました久満さんは、団子岩の夫の墓のそばにちゃんと葬られました。

 久満さんのお墓の奥に見えているのは、高杉晋作のお墓なんですが、珍大河『花燃ゆ35』と史実◆高杉晋作と長州海軍で書きました民治さんの墓碑銘、これを確かめることも、今回の旅の目的の一つでした。



 読み辛い状態でしたけれども、ちゃんとありました!

 で、明治になっても、民治さんと姉妹たちは、一族に松下村塾生まで加わった団子岩の墓所を守り、萩を愛して生涯を終えたのですが、ふと、私は考えるんです。
 萩で生まれ育ったことを誇りとしていました松陰は、果たしてあの世で、自分の弟子たちがなした明治の極端な中央集権化を、喜んでいただろうか、と。
 
 翌日。
 実は久満さんの実家の森田家の建物は、今に残っていて、国指定の重要文化財に指定されています。(森田家住宅 江戸時代 上層農家として貴重[国指定重要文化財]参照)
 現在も個人住宅として使用されているような話で、あらかじめ連絡をしていなければ内部は見ることができない、というように書いてあたのですが、外部だけでも、と、タクシーで出かけました。
 タクシーの運転手さんのお話では、森田家住宅へ客を乗せたのは5年ぶりだそうでして、どうも、よほどのオタクでなければ、松陰の義母の実家を見たいとは、思わないようなんです。

 

 郊外の山の中にありまして、確かに、訪れる人もまれな雰囲気です。

 

 内部は見ることができない、と覚悟していたのですが、この重要文化財を、現在お一人で守っておられる(近所に住む義妹の方の力も借りて、だそうですが)ご夫人が出てこられて、中村さまが東京から来たと話されますと、大歓迎でご案内くださいました。現在、80歳になられるそうなのですが、おきれいで、実に品のいいご夫人です。森田家の末裔にして、東京で勤めておられたご主人の退職にともない、なんと! 20年前、60歳にして、初めて萩の郊外に住まうことになられたのだそうです。東京生まれの東京育ちで、慣れない暮らしが続くうち、ご主人は逝去され、ご自身も大病を患われ、ともかく、東京の空気がなつかしい、というようなことをおっしゃられました。

 

 上が母屋の外観ですが、中へ入ったところの土間には、松陰も乗ったといわれる駕籠があります。

 

 鷹狩りに際して、藩主を迎えるためにしつらえられた座敷です。七卿の一人、澤宣嘉をかくまっていたこともあるそうでして、書き物が残っています。




 うまく撮れなかったのですが、その座敷から眺める庭です。



 森田家のご夫人のご子息は、東京にお住まいなのだそうなのですが、凜として伝統を守っておられるご夫人の姿に、頭が下がりました。

 他にも、色々とまわりはしたのですが、平日で、天気が悪かったにもかかわらず、一昨年のゴールデンウィーク、山本氏にご案内いただいたときよりも観光客は多く、やはり「花燃ゆ」効果はあったみたいです。
 とはいえ、明倫館跡にできていました「花燃ゆ」ドラマ館はけっこう賑わっていたのですが、そこから歩いて10~15分ほどの萩博物館には、それほど来場者はいませんでした。
 まあ、大河観光効果とオタク旅は、まったく別のものであるようです。


 
 萩博物館で、長州ファイブと写真を。怖いですね、私。

 朝ドラもねえ。
 五代友厚が薩摩辞書を作ったなどという言わなくてもいい大嘘を、わざわざ言いますし、なにより、明治初期の筑豊炭田のあまりにも嘘っぱちな描き方に嫌気がさして、見るのをやめました。明治10年代、曾祖父が働きに行っていましたので、けっこう調べたんです。
 明治初期の筑豊は、ごく小規模な露天掘りが多く、九州、四国の士族たちが、秩禄公債をつぎこんで開発しているんですね。

 最初に筑豊が好景気にわきましたのは、西南戦争です。
 軍需物資や兵隊を運ぶために、蒸気船を使いましたので。さらなる筑豊の発展の画期は、日清戦争。
 はっきり申しまして、文明開化とは、西洋近代的な戦争をすることでした。戦争なくして、産業の発展はありません。
 またごくわずかな陸蒸気なんかで、石炭消費量がのびるわけがないですし、明治初期の西日本は、通常の交通手段も船です。

 実際の広岡浅子が筑豊炭田に手を出しましたのは、明治17年ころで、しだいに開発者が大手に集約されてきまして、うちの曾祖父などは松山へ引き上げてきた時期ですのに、ドラマでは明治初年に設定したおかげで、もうトンチンカンもいいところ。まったく、見る気を無くしました。

 実を言えば、楫取素彦が群馬県知事になりましたのも、はっきり言いまして、井上馨と三井がらみ、としか思えませんし、生糸と西洋式軍隊と汚職の開国日本、といいます、このブログの大テーマにつながるのですが、珍大河は、どーでもいいような、いいかげんな描き方しかしていないようでして、録画しましたものの、おそらく、これからも見ることはなさそうです。

 今度の大河、真田丸は、もしかして、おもしろいかなあ、という気がしています。
 戦国時代はろくに調べたことがないですから、気楽に見ることができますし(笑)

 
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珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道

2015年10月04日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想の続きです。

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 朝ドラに五代友厚と大久保利通が出てきました。
 まったく、ありえへん感じなんですが、おもしろいので許せます。
 朝ドラと大河は基本的にちがいますが、しかし、ドラマである以上、おもしろければ、史実から少々ずれていようがどうしようが、かまわないんです。
 しかしまあ、この珍大河ときたら、まったくもって、おもしろくありません。
 あまりのつまらなさに、もう突っ込む気力も無いのですが。



 だいたい仮住まいに等しい山口に、極端な言い方をすれば、奥なんかありません。
 萩のお城には、奥らしきものもあったんですが、それは正妻のいる場所ではなく、側室がいただけです。
 正妻は江戸にしかいませんでしたから。
 そのありもしない奥が閉じるといわれても、馬鹿馬鹿しくて見る気がなくなるだけなのですが、山本栄一郎氏の「吉田松陰の妹・文(美和)」によれば、明治3年5月に興丸さまは山口の銀姫のもとを離れ、三田尻別邸(お茶屋)に転居しているんだそうです。
 興丸さまはとても病弱で、大阪でオランダ人医師ボードウィンの診察を受けましたところが、気候温暖な瀬戸内海沿岸への転居を勧められたような次第です。そして三ヶ月後、健康のために庶民と同じように育てよ、と、そうせい侯が言われたとやらで、興丸さまつき女中は全員解雇されます。しかし、美和はこの少し前、銀姫つきお側女中として名が挙がっていまして、もちろん、解雇はされていません。
 廃藩置県が行われましたのは、その翌年、明治4年の7月でして、最長、このときまで美和が勤めていた可能性はあります。

 もう一つ。廃藩置県が行われたとたんに、なんで銀姫、都美姫が洋服をこしらえてみたりするんですかね? まったくもって、意味不明です。よくまあ山口に、婦人服の仕立て職人がおりましたこと。
 何回も仮縫いしたり、いろいろと、当時のドレスの仕立ては大変ですのよ。あほらしい。



 次いで、楫取素彦が二条窪に住んでいた時期と目的について、です。
 大きくちがっているわけではないんですけれども、「男爵 楫取素彦の生涯」収録、池信宏證氏著「長門三隅二条窪在住時代の楫取素彦・寿子夫妻のこと」によりますと、楫取は、明治3年3月の諸隊脱退騒動で、藩政府員を辞職して、新築の二条窪の邸宅に住んでいるのですが、その二十日後には、三田尻管掌(市長のような職)となり、三田尻に引き移っているのだそうです。
 楫取が二条窪に荘園を得て、住もうと決めましたのは、どうも、明治2年の3月ころではないか、と推測され、石垣を築いた大層な邸宅を作りますのにほぼ一年。楫取素彦が移り住むと同時に寿夫人や家族が移り住み、しかし素彦は単身赴任で三田尻へ。明治4年3月28にそうせい侯が薨去され、素彦は侯の葬儀を最後に公職を引退し、二条窪へ。翌明治5年2月に足柄兼参事に任命されますまでの実質10ヶ月ほどが、楫取が荘園に住んだ期間だそうです。

 えーと。ドラマでは道明も二条窪にいたような話になっておりますが、スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明に書いておりますように、山口明倫館でフランス語を学んでいたそうですから、寄宿していたのではないでしょうか。
 二条窪でいまにいたるまで語り継がれておりますのは、楫取よりも寿さんの方が、浄土真宗の伝道に尽力したことでして、素彦が百姓をしたといいましても、小規模地主になって荘園の管理をしていたわけですから、ドラマで描かれました趣とは、そうとうにちがっていたように思います。

 もう一つ、秀次郎が萩に現れるタイミングもづれています。
 これまで何度か書いてまいりましたが、秀次郎が萩で久坂の実子と認められましたのは、明治2年の11月17日です。美和さんが御殿女中をしている時期でして、しばらくは、久坂の母方の従姉(大谷家の娘)の嫁入り先、椿家で養育されたと伝わっています。

 以上で、珍大河の話は終えまして、前回の続きを書きたいと思います。

BBC 世界に衝撃を与えた日28 冷戦下のスパイ~ケンブリッジ・スパイグループとローゼンバーグ夫妻の最期 [DVD]
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 このBBCのケンブリッジ・スパイグループの話、ドラマ仕立てのドキュメンタリーですが、珍大河の百倍はおもしろいです。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol2 イートン校リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校において、多少、書いているのですが、第一次世界大戦後、イギリスでは、世の中の価値観が一変しておりました。

 コメント欄に書いておりますが、基本的に海軍重視のイギリスには徴兵制度がなく、常設陸軍が小規模だったために、専門の将校もごく少数でした。ところが、諸処の理由から19世紀末にはそれではすまなくなってきたのですが、国家財政上からも陸軍の増強はむつかしく、陸戦にのめりこんでしまった第2次ボーア戦争などは、志願兵の大幅増強で乗り切ってます。
 現場の指揮官につきましては、オックスフォード、ケンブリッジの学生、卒業生を中心とします若いエリートたちが、即席の教育で下級将校になります。
 第1次大戦のイギリスでは、50歳以下の貴族の男子の2割までが戦死し、オックスブリッジの学生の三人に一人が戦死。これは、第2次大戦の日本の帝大生の死亡率よりはるかに高く、戦後、オックスブリッジはゴーストタウンのようだったそうです。

 愛国心に満ちた彼らは、エリートだからこそ率先して戦場を志し、ろくに訓練も受けないで下級将校となり、指揮官先頭を実戦し、無謀な作戦の犠牲となりました。
 NHKで断続的に放送されていますイギリスのテレビドラマ「ダウントン・アビー」でも、その様子は描かれていますが、彼らが予想もしていなかった悲惨な塹壕戦の結果、たとえ戦死はまぬがれても、体が不自由になったり、精神をやられたりで、廃人になった者も多かったといいます。

 その後、世界を不況が襲いますなか、神の教えではなく、共産主義にアナザー・カントリー、もう一つの祖国を見ますエリートの卵が、多数現れたわけなんです。

映画『アナザー・カントリー』『眺めのいい部屋』予告編


 映画『アナザー・カントリー』の主人公のモデル、ガイ・バージェスは、イートンからケンブリッジへ進学し、そこで共産主義に出会います。ケンブリッジからエリート外交官となった複数の仲間とともに、ソ連のスパイとなり、それがあばかれかかったためにソ連に亡命。映画では、最初と最後に、ガイが晩年にモスクワで受けた西側ジャーナリストのインタビューが描かれますが、まだ若かったにもかかわらず、ルパート・エヴェレットがその晩年のガイを、見事に演じています。

 Cambridge Five spy Guy Burgess interview unearthed by CBC


 上のフィルムには、本物のガイのそのときのインタビューフィルムが収録されています。
 ソ連のスパイとなりましたケンブリッジ出身者は他にもいて、ソ連が崩壊しましたとき、彼らがソ連に渡しました西側の機密文書は、二万ページを越えることがわかりました。

スパイと言われた外交官―ハーバート・ノーマンの生涯 (ちくま文庫)
工藤 美代子
筑摩書房


 ハーバート・ノーマンが、ガイ・バージェスと重なるような時期にケンブリッジにいて、共産主義者となっていたことは、確かめられています。
産経新聞 「ノーマンは共産主義者」英断定 GHQ幹部 MI5、35年の留学時参照)。
 しかし、工藤美代子氏は、「スパイと言われた外交官―ハーバート・ノーマンの生涯」において、ノーマンがソ連のスパイであったことは、否定しています。
 確かに、スパイだったと言うには、あんまりにも資料不足です。工藤氏も言っておられるのですが、どうやらカナダは、ノーマンに関します文書を、すべて公開しているわけではないようですし、公開しているものも、伏せ字だらけなのだそうです。

 単に共産主義者だった、というだけのことでしたら、当時は日本でもやたらに流行っていまして、ノーマンより四っつ年若い共産主義かぶれが、うちの近所にもいたそうです。
 「気まぐれ美術館」という美術エッセイで知られます、洲之内徹です。
 「近くの陶器屋の息子が赤で、特高が来て、息子は屋根伝いに逃げて、あのときは近所中大騒ぎじゃった」と、昔、祖母が語っておりました。東京美術学校へ行って赤に染まって松山へ帰って来たのですが、後に転向し、中国大陸で軍の対共工作にたずさわり、どうも、共産主義者であることのバカバカしさに目覚めたもののようです。

 問題は、ノーマンが共産主義者であったかどうか、ではなく、共産主義者として、日本をアメリカとの開戦に向かわせる工作に、かかわったのかどうか、ということではないでしょうか。
 工藤美代子氏は、長い伝記の最後を、以下の言葉で結んでいます。

 最後に、私は、ノーマンの死を彼の無実の証明とは考えていない。彼の無実の証明は、むしろ彼の生の中にあったのではないか。ノーマンは本来、自分の生を深く愛した人である。わざわざ、その生の喜びを裏切ってまで、スパイ活動をする必然はいったいどこにあったのか。 

 しかし、ガイ・バージェスたちにしましても、どこからどう見ましても、自分の生を深く愛していたと、思うんですね。
 しかもノーマンの場合、戦前、日米開戦を望む共産主義者たちの策動に加わったところで、祖国カナダの外交方針を裏切ることにはならず、むしろ、1939年にドイツがポーランドに侵攻し、ヨーロッパを席巻して、1940年に英仏軍をダンケルクに追いつめるにいたっては、英連邦の一員であるカナダにとりましては、一刻も早いアメリカ参戦のために、日米開戦こそが、望まれたのではないのでしょうか。

 ノーマンは、ケンブリッジ卒業後、カナダに帰り、ケンブリッジの友人の共産主義者が、スペイン戦線で戦死したことを知り、自分なりに、世界をおおうファシズムと戦うことを誓います。
 それが、ハーヴァード大学で日本史を研究し、論文を書くことだったのですが、ロックフェラー財団から三年間の奨学資金を受けていて、ロックフェラー財団はまた、太平洋問題調査会(IPR)の最大の資金援助者でして、ノーマンがこの期間にまとめました「日本における近代国家の成立」は、ハーヴァードの学位論文を意図して書かれる一方、太平洋問題調査会の調査書の一つとして、刊行されました。
 
日本における近代国家の成立 (岩波文庫)
E.H. ノーマン
岩波書店


 ゾルゲ事件の首謀者の一人として処刑されました尾崎秀実は、中国問題の専門家ということで、1936年、カリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会に参加し、西園寺公一と出会います。尾崎はこれ以前からゾルゲと知り合っていましたが、あらためてゾルゲを紹介され、初めて本名を知ったといいます。(wiki-尾崎秀実より)
 同じ1936年、ノーマンは、カナダ中国人民友の会の書記となった記録があるそうですが、具体的にどういう活動をしていたかは、わからないそうです。しかし、確実に言えることは、この時期のノーマンは、太平洋問題調査会に提供するために、日本史の研究をしていた、ということです。(ハーバーと・ノーマン全集第四巻収録 大窪原二著 「覚書 ハーバート・ノーマンの生涯」より)
 
 ノーマンは、1940年1月、「日本における近代国家の成立」を書き上げ、太平洋問題調査会に手渡した直後、カナダ外務省、在日公使館の語学官に任命され、5月に着任します。
 翌1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日米開戦にいたり、カナダ公使館内に抑留されるまで、ノーマンは日本にいて、翌1942年の交換船でカナダへ帰り、この年12月の太平洋問題調査会・第八回国際会議には、カナダ代表団幹事の一人として出席します。
 ちなみに、太平洋問題調査会とは、そもそもはアジア・太平洋地域のさまざまな問題について、各国の民間組織が研究・討議する、自由主義的知識人の組織だったのですが、尾崎が出席しましたヨセミテ会議のころには、中国の影響力が非常に強い会議となり、同時にこの回からソ連が正式メンバーとして加わり、反日的色彩が決定的なものとなっていました。

 最大の問題は、です。日本の敗戦後、ノーマンがGHQに出向し、支配者のスタッフとして君臨し、太平洋問題調査会のために記した日本近代史が、そのまま、占領政策の指標となったことです。
 
 ケンブリッジで共産主義者となる以前、1933年の時点から、ノーマンは、次のように考えていました。「スパイと言われた外交官」から引用です。

 「あの腐った武士道にはがまんできません。それは恥知らずな軍国主義者たちに利用されている、使いものにならない封建的な観念にすぎません」 

 もしかして、あるいは、なのですが、昭和の岐路◆新渡戸稲造の松山事件でちらりと触れているのですが、日本IRP理事長の新渡戸稲造は、1933年、、カナダのバンフで開かれました太平洋問題調査会の第五回会議に出席し、満州問題で孤立する日本の立場に理解を求めようと奮闘し、心労を募らせ、カナダで客死します。
 新渡戸稲造は、クリスチャンであり、同時に「武士道」を英語で書き、世界に紹介した人物でもあります。
 カナダに帰って、社会主義に傾倒していました若きノーマンにとりましては、武士道を信奉します自由主義的クリスチャンの日本人、新渡戸は、ぬえのようで、打倒すべき日本人の代表となっていたのではないでしょうか。

 ともかく。
 ノーマンの幕末維新史では、あたりまえのように、「士族の封建制信奉」が悪く語られ、それに後世の軍国主義がかぶさるのですが、そういったイメージの骨子は、いまだに日本の俗書で見受けられるものでしょう。
 もう一つ、ノーマンがGHQで成したことは、近衛文麿の排斥でした。「スパイと言われた外交官」から、ノーマンの手になる近衛攻撃文の引用です。

 「彼(近衛)の在任中の記録から、(私は)彼が戦争犯罪人にあたるとの強い印象をもった。しかしそれ以上に容赦ならないことは、彼がよく手懐けた政治的専門家と術策をめぐらし、もっと権力を得ようと上手に立ち回り、中枢的地位に巧みにのしあがり、現状において彼は不可欠の人物であるとほのめかすことにより最高司令官(マッカーサー)の救いを求めて、いまだに公務にでしゃばっていることである。
 一つ確かなことがある。それは、彼(近衛)が重要な地位につくことを許容される限り、それがどのような地位であっても、彼は自由で民主的な運動の台頭を妨害し、挫折させてしまうであろうということである。彼が憲法起草委員会を牛耳るかぎり、民主憲法を作成しようとするいかなる真剣な企みも、彼は打毀してしまうであろう」


  近衛文麿の憲法改正要綱(国立国会図書館)をご覧になってみてください。
 近衛文麿は、GHQの意向もくみながら、日本人が独自に憲法を改正するつもりでいたんですね。もちろん、馬鹿げた第九条などは、これにはありません。
 そして、ノーマンがいうには、近衛文麿は、うまくマッカーサーを取り込みかかっていたんです。
 結局、ノーマンの口出しは成功して、近衛文麿は自殺するのですが、しかし私は、つい想像をめぐらせてしまいます。あるいはノーマンは、ゾルゲ事件が蒸し返され、日米を開戦に導く工作に多くの共産主義者がかかわり、間接的に、でしょうけれども、自分(ノーマン)やカナダ外交部がかかわっていたことを、近衛がマッカーサーに登用され、いつの日か暴露することをも、おそれたのではないでしょうか。
 
 結局、史料がないわけですので、ノーマンがスパイであったとはいえないのですが、どうも私には、伝説の金日成将軍と故国山川 vol6伝説の金日成将軍と故国山川 vol7伝説の金日成将軍と故国山川 vol8で書きました「アリランの歌」の張志楽(キム・サン)が、ノーマンに重なってみえてしまいます。
 張志楽も共産主義者で、同時に、繊細な心を持った文学者でした。
 そして、日中開戦を心より、願っていたんです。
 日本が憎かったわけではありません。日本は敗れる。戦いに敗れた日本は、すばらしい共産主義国に生まれ変わり、ソ連はもちろん、中国とも朝鮮ともいい仲間になれる! と、張志楽は夢想したんです。

 ソ連は、ロシアにとって悲惨きわまりなかった第一次世界大戦の中から、生まれました。
 そう。共産主義国は、近代戦の中からしか、生まれ得ないのです。
 共産主義者は、平和主義者ではありません。日本の軍国主義者は、封建士族とは似ても似つかず、実は共産主義者であったことを、近衛は知っていました。なにしろ近衛は、結果的にうっかり、共産主義者の策動に乗り、開戦への道筋をつけてしまいました、その本人なのですから。wiki-近衛上奏文参照)

 とにもかくにも、です。
 ソ連が崩壊してもう、二十数年です。にもかかわらず、なぜ日本人が、いつまでも占領時の共産主義の亡霊に取り憑かれ、占領史観と占領憲法を、後生大事に守り続けていかなければならないのか、私には、さっぱりわかりません。
 その探求は大変なことになりますので、またの機会にまわし、とりあえず次回は、珍大河の内容にあわせて、秀次郎くんでいこうかな、と。


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珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想

2015年09月30日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ37』と史実◆高杉晋作と海国長州の続きです。

2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」続・完全読本 (NIKKO MOOK)
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 えー、今回は諸隊の脱退騒動です。
 それで一回まるまる使うとは、正直思いませんでしたわ。
 理由は、おそらく、なんですが、史実として、藩政府側、諸隊側の間に入って、楫取素彦が奔走し、双方から信頼できる人物とされていた証拠があるから、なんじゃないんでしょうか。

松下村塾の明治維新―近代日本を支えた人びと
海原 徹
ミネルヴァ書房


海原徹氏の「松下村塾の明治維新」によりますと、楫取は鳥羽伏見の戦いにおいて、遊撃隊副総督となって上洛参戦していまして、実は、諸隊の脱退騒動のきっかけをつくりましたのは、遊撃隊士の上層部批判の上書なんですね。楫取はこのときもうとっくに遊撃隊からは離れていて、利害関係はありませんで、藩政府の中枢にいました。しかも、脱退兵側の嘆願や上書の多くは富永有隣の手になると言われているんですね。

 いうまでもなく富永は、松陰が野山獄で知り合いました書の達人にして偏屈、容貌魁偉な囚人でして、松陰の運動で釈放され、松下村塾の教師を務めましたが、松陰の再度の入獄で、村塾を離れます。その後、私塾を開いたり、諸隊に属したりしていましたが、相当に年齢がいっていましたので、戦いに参加することはなかったようです。
 この人の運命は数奇で、脱退騒動の主導者とされてしまい、一度は藩政府に捕まるのですが、脱走します。まあ、だれか村塾関係者が逃がしたんでしょうね。あるいは、楫取かもしれません(笑)

 富永じいさん、四国へ逃げ、土佐でかくまわれて8年間をすごし、ついに捕まって終身刑になりますが、5年後に特赦で出獄。えー、これもだれか、村塾関係者がはかったことのようです。
 国木田独歩の富岡先生(青空文庫)は、晩年の富永有隣がモデルといわれ、いい作品ですので、ぜひ、ご覧になってみてください。

 このドラマ、前半で富永を出しながら、なんでここで出さないのでしょうか?
 代わりに出してきたものが、椿やら水仙やらの意味不明などアップです。血糊のついた水仙の花のどアップなんぞ、出来の悪い怪奇ものかという気持ち悪さで、やめていただきたいところでした。

 もう一つ、美和さまの弟の敏三郎くんは、このドラマでは奇兵隊に入っていたのではなかったですか? 確か。けっこう大事件みたいに、史実にはない奇兵隊入隊を見せておいて、今回まったく出てこないって、なんなんでしょうか???
 代わりに出てきますのが、なぜか御殿の菜園で食べ物をあさる、お腹を空かせた脱退反乱側の若者兵士です。
 脱退兵が御殿の奥、興丸さまの寝所のそばまで入り込むとは、警備はどーなっているのだろうか、とか、当然な疑問をはさむまもなく、美和さまは兵士に、得意のおにぎりをふるまい、話を聞いてやります。
 だ・か・ら、それより実弟の心配をしてやれよ!とつっこむのもむなしく、おにぎりにかぶりつきます若者の言葉に、呆然となります。
 若者は、兄と共に奇兵隊に入った農民で、兄は侍になりたかったんだそーなのですが、なる暇もなく、戦死しちゃったんだそーなのです。で、若者は。

 「おれは異国にいってみたいんじゃ。アメリカちゅう国じゃ。そこは家柄や身分で一生が決まらんと仲間から聞いた。夢のような国じゃ」 
 あきれてものが言えません。これがウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの今に至る成果じゃなくて、なんだというのでしょうか!
 唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書いておりますが、このドラマに最初に龍馬が登場しましたときと同じで、龍馬よりはだいぶん若いですが平和ボケ勘違い平成ニートそのもので、髪を金髪に染めて、民青か革マルか中核派にでも入って、国会議事堂の前で太鼓叩いて、「九条を守らなければあ、戦争になるう~♪」とか叫んでいる人たちに、妄想しか語れないところがそっくりです。

 だいたい、奇兵隊は、攘夷のために生まれた有志隊です。
 で、当時、メリケン(アメリカ)が、リアルでどういう国だと見られていたのか。
 寺田屋事件と桐野利秋 前編で引いていますが、もう一度、中岡慎太郎の言葉を引用します。

 「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケン(アメリカ)はかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケンここにおいて英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」


 要するに、です。攘夷とは、確固たる独立国として、欧米列強と対峙するための戦いであり、アメリカは、イギリスと戦って独立を勝ち取った攘夷のお手本国なんです。
 当時のアメリカは、南北戦争によってようやく奴隷制度を廃止したばかりでしたが、黒人差別がなくなったわけでは、まったくもってありませんし、西部開拓にともなって、インディアンの虐殺が頻発していました時期です。
 黒人であったり、ネイティブであったりした場合、それによってほぼ、一生が決まってしまっていました。
 攘夷のためにできました奇兵隊の一員が、「アメリカは家柄や身分で一生が決まらん夢のような国」なんぞといいますありえへん馬鹿みたいな妄想を抱くはずがないですし、実際にアメリカがどういう国と伝え聞いていたかと言えば、「国民が命をかけて攘夷戦を戦い、イギリスから独立をもぎとった国」です。

 で、中岡慎太郎は、こうも述べています。
 第一その卓識なる者を久坂玄瑞という。この人、吉田寅二郎の門弟にして英学も少々仕り、事情も大いに知れり。この人常に論じていわく、西洋諸国といえども魯(ロシア)王のペートル、メリケンのワシントン師のごとき、国を興す者の事業を見るに、ぜひとも百戦中より英傑起り、議論に定りたるものに非ざれば役に立たざるもの也。ぜひとも早くいったん戦争を始めざれば、議論ばかりになりて事業はいつまでも運び申さずという。実に名論とあい考え申し候。 

 要するに、ですね。
「久坂玄瑞は、吉田松陰の門弟で、英学も学び、外国事情もよく知っているすぐれた識者だ。西洋諸国はどこも、例えばロシアのピョートル大帝、アメリカのワシントンなど、戦を重ねる中から英雄が立ち上がって、国家を成り立たせたのだから、まずは戦わなくては何事もはじまらないと、常々久坂は言っていて、実に名論だ」と中岡は言い、「戦わずして富国強兵はできない」と結論づけているんですね。

 中岡慎太郎の攘夷論は非常にわかりやすく、かつ、普遍性をもったものでして、手に入れやすいところで、平尾道雄氏の「陸援隊始末記―中岡慎太郎」に主なものは原文を載せてくれておりますので、ぜひ、ご一読ください。

陸援隊始末記―中岡慎太郎 (中公文庫)
平尾 道雄
中央公論新社


 それにしても、ですね。
 諸隊の反乱の中心には、遊撃隊がいました。
 だのになぜ、これまで、奇兵隊ばかりが取り上げられてきたのでしょうか。

 創始者が高杉晋作で、明治陸軍におきまして位人臣を極めた山縣有朋の出世のステップボードとなったからじゃないんでしょうか。
 これも、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書いたんですが、奇兵隊はなにも、高杉晋作一人の力でできたものではありませんで、久坂玄瑞が中山忠光卿を頂き、率いていました光明寺党が奇兵隊の核となりましたことは、長州幕末史の基本的文献「防長回天史」に、ちゃんと書いてあるんです。

 で、遊撃隊なのですが、奇兵隊結成に遅れること一年あまり。
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」でも書いたのですが、8.18政変で落ちてきました七卿周辺の御親兵や、天誅組の残党など、土佐や久留米、水戸などの他藩人が多く参加し、来島又兵衛が中心となってまとまりました有志隊です。禁門の変では、長州軍の主力となって孤軍奮闘し、高杉の挙兵にも最初から参加し、幕長戦争では芸州口の激戦で主力となり、鳥羽伏見でも奮闘。その活躍は、奇兵隊を上回ったにもかかわらず、奇兵隊ほど名が知られませんでしたのは、やはり、他藩人が多かったためなのでしょうか。
 しかし、長州の軍ではなく、日本の国民軍、ということを考えれば、奇兵隊よりは、出身藩をといませんでした遊撃隊の方が、その原型だったというにふさわしいでしょう。

高杉晋作と奇兵隊 (岩波新書)
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岩波書店


 青山忠正氏の「高杉晋作と奇兵隊」は、高杉晋作の伝記でして、奇兵隊につきましては、ほとんどなにも書かれていないのですが、田中彰氏の「高杉晋作と奇兵隊」は、逆に高杉に関します伝記的記述はほとんどなく、奇兵隊についての考察書です。田中彰氏は、巻末に、奇兵隊に関します文献を解説つきで挙げてくださっていまして、非常に助かります。
 私、若かりしころからなんとなく、「長州奇兵隊は、近代日本の徴兵制度の先駆であり、国民皆兵の原型となった」というような言説を聞かされ続け、疑問符でいっぱいになっておりました。
 奇兵隊は有志隊で、どうみましても、イギリスVSフランス 薩長兵制論争3に書いておりますイギリスの義勇軍(ミリシア)に近く、一方、明治陸軍の徴兵制は、フランスの大陸陸軍にならったもので、似てもにつきません。

 いったい、だれがこんなでたらめな話を広めたのだろうか、おそらくきっと、奇兵隊を踏み台に日本陸軍の妖怪に成り上がりました山縣有朋にちがいない、なんぞと憶測していたのですが、それが、どうもちがうようなのです。
 なんともはや、どびっくり、です。どうも、ハーバート・ノーマンが戦前に著した「旧時代の日本における兵士と農民」、のようなんですね。
 ハーバート・ノーマンは、カナダ人宣教師の息子で、軽井沢生まれ。長じて社会主義に共鳴し、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学んだことで、共産主義者となります。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol2 イートン校に出てまいりますが、「アナザ・カントリー」の主人公のモデルでソ連のスパイだった、ガイ・バージェスと同世代で、どうも集団でソ連にリクルートされたケンブリッジの外交官の卵集団の一人、だったようなんですね。
 近年、イギリスの機密文書が公開され、戦前からすでに、イギリスの情報局保安部は、ノーマンが共産主義者であると認定していたことがわかりました。
 ケンブリッジのスパイグループ事件につきましては、下のBBCのドキュメンタリーがわかりやすくまとめてくれています。

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 ノーマンは、ケンブリッジ在学中に共産主義者となりました後、ハーバード大学で日本史を研究し、カナダ外務省に勤務し、東京へ赴任。都留重人と親しく、マルクス主義歴史学の羽仁五郎に師事した、といいますから、相当に偏った歴史観を身につけたようです。
 それにいたしましても、ノーマンの「旧時代の日本における兵士と農民」は、私が長年、ありえない!と感じ続けてきました、日本の戦後の長州偏重農民革命史観そのものでして、ほんとうにびっくり、です。
 そしてなんと、第二次大戦後、ノーマンはGHQに出向しまして、日本の占領政策にかかわり、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの一翼を担っていました。

 あきれましたことに、ノーマンは「旧時代の日本における兵士と農民」におきまして、日本陸軍の妖怪、軍国主義の親玉・山縣有朋を絶賛する気にはどうしてもなれなかったようでして、高杉晋作を褒めちぎり、次いで、山縣の代わりに大村益次郎を絶賛し、奇兵隊が攘夷のための軍隊であったことには、まったく触れていないんです。
 いや、以前から思っていたのですが、確かに大村益次郎は有能な人でしたけれども、長州軍の洋式化は、なにもかも大村一人でやったわけではないですし、攘夷感情を抜きにしまして、有志隊結成はありえなかったでしょう。
 
 スイーツ大河『花燃ゆ』と西本願寺に書いたのですが、薩摩を除きます大方の藩で、幕末当時、武士は地方公務員でしかなく、まともな軍隊は成り立ちようもなかったんです。長州におきましては、村田清風が浄土真宗のネットワークを、国防意識を庶民にまで持たせることに活用しようと思いつき、それに成功しましたことなども、奇兵隊成立の素地としてあるわけでして、いま現在、ノーマンの書は、マルクス主義者の妄想としか、私には受け取れません。

 しかし、考えてみましたら、日本共産党の大物リーダーでした、宮本顕治も野坂参三も山口県の生まれですし、功山寺の高杉晋作の騎馬像には、岸信介の賛辞が添えられていますが、同時に、左巻き傾向の菅直人がこれまたやたらに、高杉晋作と奇兵隊を賛美していましたねえ。
 
 現在、学術書レベルで言いますならば、もちろんハーバート・ノーマンは問題になりませんけれども、俗書で言いますならばなお、幕末維新史の概略が、ノーマンのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの呪いを脱しているとは、言いがたいのではないでしょうか。

 私、こんな占領政策時のマルクスの亡霊に今までさんざん悩まされていたのかと、今回初めて知りました衝撃で、もう少し、攘夷とウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの話を続けます。
 なお、ハーバート・ノーマンは、ソ連のスパイ容疑をかけられ、1957年(昭和32年)に自殺しました。

 関係ないですが、新しく始まりました朝ドラ、けっこうおもしろく、先々五代友厚が出てくるそうですから、楽しみにしているところです。
 珍大河とは、えらいちがいですねえ。

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珍大河『花燃ゆ37』と史実◆高杉晋作と海国長州

2015年09月22日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ36』と史実◆高杉晋作と幕長戦争の続きです。

2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」続・完全読本 (NIKKO MOOK)
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 なんとも、ふざけたお話です。
 世子の持病のお薬が京にはないから、美和さまがお届けがてら、久坂の落とし子探しをさせてもらう!って、馬鹿も休み休み言えっ!!!ですわ。薬を欠かせないような持病があるなら、普通、侍医が従軍しますし、どーしても薬を届けなければならないなら、小姓が行きます。
 なんでもこうも、常識の無い方がシナリオ書くんでしょ!

 で、スーパー・ナニー美和さまは、どういう突風に乗って、いつの時代の京へ行ったというのでしょうか。
 えー、前回、奥女中の鞠さんが「美和さま、今知らせが入りました。京で戦がはじまるようです」と告げ、京へ向かった世子にお薬を届けがてら、久坂の落とし子をさがしに、美和さまは京へ向かったわけなのですが、まず、京で戦がはじまる、というのですから、その戦とは鳥羽伏見の戦いのことではないか、と思うのですが、史実では、世子が京へ向かって山口を出発しましたのは、鳥羽伏見が薩長の勝利に終わり、徳川慶喜が会津桑名の藩主を連れて江戸へ逃げ、大阪城が落城して後の慶応4年(明治元年1868)1月22日のことでして、もう、なにがなんだか、です。

 えー、いったいいつ、どこのことなのやら、わけもわからず、旅姿の美和さまは男たちにからまれまして、逃げ込んだ路地で、偶然、辰次さんとその子に出会う、といいます、馬鹿馬鹿しいにもほどがある設定で、辰次さんいわく「今の京にはあんた、脱藩浪士がうようよいてるんやから」って、あーた、文久年間、京にうようよいました脱藩浪士は、死ぬか投獄されるか長州にいるかですわよ。だいたい史実では、坂本龍馬も後にそうなりますが、長州まで久坂を慕ってきた脱藩浪士やその卵を、文さんは手厚く持てなしたはずですし、辰次さんもずいぶん、お座敷で脱藩浪士の相手をしたはずですのに、なんでここまで脱藩浪士を馬鹿にするでしょうか。大阪城が落ちて、略奪をしましたのはごく普通の地元の住民たちで、脱藩浪士じゃありませんから。 

 そして、禁門の変とちがいまして、鳥羽伏見の戦いは、京洛中の花街はまったく戦火とかかわりはありませんでしたから、薩長兵歓迎で相当に忙しかったはずでして、戦争の時こそ芸者さんの稼ぎ時ですし、長期の近代戦じゃないんですから、食べ物がないなんて、ありえません。
 さらに文句をいえば、品川弥二郎は、絶対にありえへん高杉を狙う刺客、なんぞといいます妙ちきりんな役を割り振られましたあげくに、薩摩との連絡役として、薩長同盟に大きな役割を果たした史実はすっぽりとぬかされ、錦の御旗を作ったことまで無視されてしまいましたわね。一方、野村靖は、この時期京にはいませんでしたのに。

 で、NHK独自創作のラブストーリーが、またまた気持ち悪いかぎり。
 「日本のナニーになる!」と決心しましたスーパー・ナニー美和さまに、初恋の楫取さまが「わしがそばにいてお前をささえてやる」と、堂々の不倫宣言!です。
 いや、だから、妻をほっぱりだして、義妹とたわむれるな! 馬鹿め。という、とんでもない結びでございました。

 さて、本題です。

幕長戦争 (日本歴史叢書)
三宅 紹宣
吉川弘文館


 三宅紹宣氏の「幕長戦争 」には、「幕長戦争をめぐる国際問題」という章があります。
 ちょうど、ですね。この時期、フランスはロッシュ公使が日本へ赴任していまして、前回述べました、フランス海軍によります富士山丸の取り扱い伝習から発展し、横須賀製鉄所(製鉄所という名前ですが、要するに本格的なドックです)の建造をフランス人に任せ、同時に三井を介しましてフランスに生糸独占取り引きをさせようと、幕府が着手しておりました時期です。

 これって、私がこのブログを書き続ける動機になりました事件でして、関心がおありの方は、最初の経緯はモンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1あたりを、幕長戦争とのからみは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3あたりを、ご覧になってください。

 三宅紹宣氏は、イギリスのパークス公使が、幕府が戦場となることを想定して下関の外国船通過を禁止しようとしたことに抗議し、幕府の下関攻撃にも懸念を示し、幕府に雇われて兵士・武器弾薬を運んでいたイギリス商船に対します長州の砲撃(空砲)を黙認し、イギリス商船が幕府に協力することを禁止するなど、暗黙のうちに、長州政府が幕府と対等の立場で交戦権を持っていると認めていたことを、指摘されています。
 一方、フランスのロッシュ公使が幕府の支配を認める立場だったことが述べられ、しかし長州は盟約関係にあった薩摩から、「ロッシュとフランス本国の意志は乖離している」と知らされたことが、「吉川経幹周旋記5」に見える(西郷従道が岩国藩に伝えた)のだそうです。

 薩英戦争と下関の長州攘夷戦争によりまして、日本と条約を結びました欧米諸国は、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない」という認識を、噛みしめるようになったといえるでしょう。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2あたりに書いておりますが、それは薩摩藩が、欧州にまで出かけていって、そういった認識をひろめたからでもあるのですが、一方、ドイツが統一戦争の最中、イタリアのリソルジメントが現在進行形でした当時の欧州におきまして、簡単に理解できることでもありました。

 幕長戦争は、いわば、「日本は統一国家であって将軍がその実質的支配者だ」 と主張します幕府と、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は、実質長州藩主と同等の存在でしかない」と主張しています長州の戦いであった、と言い換えることも可能でしょう。
 そうであったときに、です。関門海峡の制海権をどちらが握るかは、最大の争点であった、といえます。

海国兵談
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 林子平は、寛政の三奇人の一人で、 寛政5年(1793年)に55歳で没していますので、幕末というには少し早い時期の人物でした。
 マリー・アントワネットより十数歳年上で、死んだ年は同じです。つまり、フランス革命の最中に世を去りました。
 彼の著作「海国兵談」は、先見の明をもって、海防の必要性を訴えたものだったのですが、幕府の政策の不備を批判していましたため、発禁とされました。

 海国は、外寇の来たりやすきわけあり。また来たり難きいわれもあり。その来たりやすしというは、軍艦に乗じて順風を得れば、日本道二、三百里の遠海も一、二日に走り来るなり。このごとく来たりやすきわけあるゆへ、この備えを設けざれば、かなはざることなり。また来難しといういわれは、四方みな大海の険ある故、みだりに来たり得ざるなり。しかれども、その険をたのみて備えに怠ることなかれ 

 江戸の日本橋より唐、阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路なり

 要するに、以下のようなことを、林小平は、ペリー来航のおよそ70年も前に、警告していたわけです。
 日本は四方を海に囲まれて、外国が攻めて来づらい国である。しかし一方、軍艦に乗って順風を得たら、二、三百里の遠くからも一、二日で来られるわけで、陸路よりも攻めやすい、ともいえる。したがって、現在のようにまったく海防を考えない日本は危うい。

 江戸の日本橋から、清国やオランダまで、海は境のない水路である。

  遠い昔から、瀬戸内海航路は、西日本の交通の大動脈でした。
 そして、蒸気船の発達により、林子平の預言は現実となったのです。
 アメリカの砲艦外交による開国で、横浜が開港し、瀬戸内海は、横浜と長崎を行き来する武装外国船の通路ともなり、瀬戸内海沿岸の住民たちは、否応も無く自分たちが無防備であることを、思い知らされました。

 江戸が海に面した都市であったために、アメリカの砲艦外交は非常な力を発揮したわけなのですが、内陸の京都といえども、瀬戸内海通路の拠点、大阪、兵庫から、それほどの距離があるわけではありませんし、幕末、まさに海は、無防備な日本を、その中枢まで、侵略の脅威にさらすこととなったわけなのです。

 関門海峡は、上方に直結します瀬戸内海の入り口であり、交通の大動脈の要です。
 海峡の制海権を得ることで、長州は対外的に、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍と長州藩主は対等である」ことを、証明できるのです。そして、制海権を得るためには、対岸の小倉藩領(小笠原家)を占領する必要があります。
 つまり、短距離とはいえ、軍団の渡海の必要があり、そのためにはやはり、どうしても蒸気船が欲しいところ、でした。

 高杉晋作とモンブラン伯爵

 上の「高杉晋作とモンブラン伯爵」に、その経緯を逐一述べておりますが、木戸(桂小五郎)が京都へ行き、一応、薩長盟約が成立し、近藤長次郎が自刃し、それでも解決しませんでしたユニオン号問題。
 幕長戦争を目前にして、高杉はその解決をはかることを一つの目的とし、薩摩へ入国しようとしますが、それは果たせず、グラバーから独断でオテントサマ丸(丙寅丸)を購入します。
 この時点で、ユニオン号問題の行方は不透明で、長州海軍には、丙辰丸、庚申丸、癸亥丸の木造帆船しかありません。
 機動力を考えれば、たとえボート程度の小艦でも、蒸気船が必要だ、と購入にいたりました高杉の独断は、的確なものだったでしょう。
 無事、長州海軍局の運用となりましたユニオン号、あらため乙丑丸とともに、丙寅丸は獅子奮迅の働きを見せます。

長州戦争―幕府瓦解への岐路 (中公新書)
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中央公論新社


 幕長戦争は、幕府海軍によります大島口の砲撃、兵の上陸で幕を開けます。
 幕府海軍の優勢から、周防大島近海の制海権はをあきらめていました長州ですが、あるいは薩摩からの情報でもがあったのでしょうか、高杉は藩庁の許可のもと、丙寅丸で奇襲をかけます。未明のことで、たった一隻の小さな蒸気船の攻撃だとはわからず、実質的被害はなかったのですが、幕府海軍はあわてふためきます。結果、小舟によります長州軍の上陸奇襲を許し、周防大島を占領していました松山藩と幕府歩兵隊は、総崩れになって撤去に追い込まれ、幕府側は制海権を失うんですね。
 大島近辺の制海権喪失は、そのまま芸州口の補給にひびいてくるようになるわけです。

 なお、野口武彦氏の「長州戦争」で、松山藩兵はくそみそにけなされているのですが、三宅紹宣氏の「幕長戦争」は、かなり公平に描いてくれています。
 前回もご紹介しました内藤鳴雪の自叙伝(青空文庫「鳴雪自叙伝」)では、幕府歩兵隊がやった乱行が全部、松山藩のせいにされてしまったのだそうでして、後に長州に謝罪の使者を出しましたのは、幕府がまったく頼りにならないし、長州に攻められては弱兵の松山藩はどうにもならないので、単独講和の必要があったからだそうです。
 野口武彦氏は、非常に興味深い考察をなさるので、昔から尊敬申し上げていたのですけれども、けっこういろいろと、偏見をお持ちでおられ方だ、とも思ってしまいます。

 その野口氏ですが、小倉口の幕府海軍につきましては、鋭く、つぎのような引用をなさっておられます。

 小倉藩の史料「豊倉記事4」より
 今日、戦地に彼(長州兵)が戦争中、当方(小倉藩)蒸気艦肥料丸を乗り出し、しきりに運動し大砲を打ち立て、しばしば彼が横撃をなし、彼これがために大いに苦しみたり。公船(幕府の)富士(山)丸・回天丸も時々、彼(長州)が地方(陸地)および海上彼が船に向かい発砲せしも、彼地台場(長州の陸の砲台)また船をば砲撃せず、彼地にも近づかず、独り飛竜丸のみ乗り廻り発砲するをもって、これを防がんとして彼が蒸気艦を乗り出すも、富士丸などの軍艦海上に備え向はん事を怖れて退く。 

 長州側の「防長回天史」にも、次のように記録されています。
 「敵艦三艘新町沖に来たり、大里・赤坂の間を砲撃し、その往来を中断す。我が軍(長州)の死傷これがために多し(小倉藩記録によるに、この三艦は幕艦富士・回天と小倉艦飛竜丸なり。しかして前二艦は発砲したるに相違なきも、真に敵(長州)の台場あるいは敵船を攻撃するの活動をなさず、ひとり飛竜丸のみ真面目に活動して戦いたり)」 

 要するに陸戦にあわせて幕府側海軍、富士山丸、回天丸、飛竜丸も砲撃をしたが、長州側の台場、艦船をまじめに攻撃したのは、小倉藩の小型蒸気船・飛竜丸のみで、本格的な幕府軍艦、富士山丸、回天丸は、相手の砲弾が届かない距離に居て、ただ発砲しているだけだった、というんですね。
 幕府海軍は、当時の日本では一番の強力な軍艦を持ちながら、脅しをかけるだけで、戦闘は避けていたわけです。
 乗組員が、幕府官僚化して、サラリーマン気質になっちまっていたんでしょうね。
 幕府海軍に戦闘魂が宿りますのは、江戸開城の後、脱走海軍となった後のことなんです。

 海軍総督として小倉口の戦いに望みました高杉晋作は、主に長州藩奇兵隊と長府藩報国隊(支藩の有志隊で、乃木希典も所属していました)から成り立ちます陸軍と、小型蒸気船2隻、木造帆船3隻の長州海軍を率いて、海陸共同作戦の総指揮をとります。
 奇兵隊と報国隊の関係は、かならずしもよくはなく、この二軍に海軍をあわせた作戦を実行できる人物は、高杉晋作しかいなかったでしょう。
 幕府海軍とちがいまして、捨て身の長州海軍は、結果的に関門海峡の制海権を握りました。
 陸上の占領は、制海権の確保に付随する問題でしかなく、高杉は、その機微を十分に心得、勝負勘を発揮して、長州を勝利に導いたんです。

 航法計算がどれほど苦手でも、高杉晋作は、すばらしい戦闘能力を持った海軍総督となって、その短い生涯を終えました。

 松山藩は、惨敗を喫しました幕長戦争で、「幕府は当てにならない」「蒸気船がどうしても必要だ」という、二つの大きな教訓を得ました。
 実は、親戚筋の土佐藩で蒸気船を借りていたのですが、到着が開戦に間に合わず、幕府海軍は頼りになりませんでしたし、思いきって7万ドルの蒸気船を購入します。
 鳥羽伏見でも、松山藩は、後方で少数ながら幕府方で参戦していたのですが、援軍を積んで大阪に来ました自藩蒸気船に、そのまま世子と敗走の藩兵を積んで帰って、謹慎し、かろうじて最悪の事態とはならずにすんだような次第です。

 ようやく、高杉晋作と海軍について書き終えまして、次回は再び、久坂の子孫について、になりそうな感じです。まだ、ドラマを見てないんですけど(笑)

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珍大河『花燃ゆ36』と史実◆高杉晋作と幕長戦争

2015年09月14日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ35』と史実◆高杉晋作と長州海軍の続きです。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」オリジナル・サウンドトラック Vol.2
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 今回から、シナリオが「天地人」の小松江里子氏です。
 「天地人」は、子役の子が実に上手くって、最初は見ていたのですが、大人になったとたん、つまらなくなったので見ませんでした。
 まあ、あれですね。シナリオライターがかわったからって、いまさらどうにもならなさげな気はしていました。
 ありえへん急成長を遂げました興丸ちゃんに、いかに野菜を食べさすか? そうだっ! 家庭菜園だっ!
 って、あーた、野菜食べなくてもあっという間に大きくなってるし、平成の成金社長宅のスーパー子守じゃないんだからっ!

 それはまあ、いいとしまして。
 いくら架空のお中臈美和さまが、モンスターに進化しているからって、高杉を看取ってこれからの日本の子供たちの教育を託されるっ!!!って、あーた、どういう誇大妄想!なんでしょう。

 で、もちろん、どや顔のでしゃばりは、セットです。小田村改め楫取素彦さまも。
 まず、順番がちがうんですね。たび重なる時系列無視!です。
 史実としましては、高杉の死去は、慶応3年(1867年)4月13日深夜で、小田村が楫取になったのは、同年9月25日なんです。
 したがいまして、すべてはこれも架空のこととなるのですが、よりにもよって高杉の死を、ですね。
 まだ小田村のはずの楫取が、「高杉晋作、療養の甲斐もなく、下関で死去いたしました」とか、そうせい侯と世子に報告し、それまでなにも知らなかったかのように二人が驚く!って、いくらなんでもひどすぎる!でしょ。
 だいたい、そもそも、殿様と世子は通常御殿が別ですし、山口でももちろんそうです。
 このドラマでは、いつも殿様と世子が横並びで家臣に接しているのが、まず異様なんですが。 

 これはドラマの中でも言っていたと思うのですが、高杉は世子の小姓でしたし、文久3年には父親の高杉とは別に百六十石で召し出され、奥番頭格・若殿様御内用を命じられています。
 青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)」におきまして、「定広(世子)と晋作は、これも深い信頼関係で結ばれるようになる。主従というより、同志というほうがふさわしいのではないか、と思いたくなるくらいで、晋作の行動の背景には、つねに定広の存在があったと言っても過言ではない」とまで、言っておられます。

 晋作さんは、慶応2年、幕長戦争の最中から体調不良を覚えるようになり、8月半ばには、馬関口海陸軍参謀の指揮権を前原一誠に譲り、戦線離脱します。
 以降、下関で療養し、症状がしだいに悪化していくのですが、翌慶応3年の正月そうそう、長州政府は、晋作さんに新たに5人扶持と見舞い一時金20両を給し、同年2月15日には、世子から、「長州藩のこれからを、おまえにこそ頼みたいのだから、養生してどうか元気になってくれ」と異例の見舞い状を受け取っているんですね。
 余命いくばくもないとわかった3月29日には、藩主そうせい侯が、高杉家の跡取りではなくなっていました晋作に、百石・大組で新たに谷家創立の栄誉を与えもしています。
 
 そして、話は少しさかのぼります。桐野利秋と伊集院金次郎に書いておりますが、3月21日、高杉晋作の病状が悪化した、との知らせが大宰府に届き、木戸孝允とともに大宰府の五卿の元を訪れていました藩医・竹田祐伯が、呼び返されます。
 大宰府から上京しようとしていました中岡慎太郎は、20日に下関で坂本龍馬に逢って、高杉の症状が悪化していると聞き、翌21日に見舞うのですが、悪化しすぎていて、会えませんでした。
 つまり、三条侯の侍医を務めていた長州の名医が晋作の元に遣わされ、坂本・中岡の土佐勤王党員にも憂慮されていました幕長戦争の英雄の最後が、なんであんなさびしい様子に描かれなければならないんでしょうか。唖然呆然の果てに悪寒です。

 さらにいえば、ですね。
 慶応三年、大政奉還、討幕の密勅、王政復古のクーデターにいたる緊張感が、いまだ公式には朝敵の藩主・世子の奥御殿にさっぱりなく、野菜菜園騒動で終わって、奥女中の鞠さんが「美和さま、今知らせが入りました。京で戦がはじまるようです」と暢気にぬかすっていくらなんでも間抜けすぎ!でしょう。密勅によって、ようやく、密かに、ではありますが朝敵ではなくなったわけでして、それもさっぱりわかっていない奥って、平成の成金一家がコスプレしているだけ!としか、思えません。

 さて、本題です。

幕末の蒸気船物語
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成山堂書店


 「幕末の蒸気船物語」に、元綱数道氏は、幕府海軍の整備に関して、以下のように書いておられます。
 「慶応年間には長州征伐の戦訓により再び運送船の拡充が計られ、次の蒸気船が購入された」 
 つまり、幕府海軍にとりまして、幕長戦争における最大の戦訓は、海上輸送力の不足だったようなんですね。

幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書)
野口 武彦
中央公論新社


 野口武彦氏の「幕府歩兵隊」にも、以下のようにあります。
 (幕府)歩兵隊は、ひっぱり凧状態であった。一つの持ち場に貼り付けず、戦線の弱い箇所を手当するために次々と転戦を要求されたのである。その足になったのは、幕府海軍の蒸気艦であり、輸送船になったり、援護射撃をしたり、撤退する歩兵を収容したり、軍艦同士で砲撃戦をしたりとこれも大忙しであった。長州側の観察では、幕府軍艦は海戦を嫌って歩兵輸送に専念しているといっている。

 幕府歩兵隊とは、ミニエー銃(主に1861年式オランダ製ミニエー銃)を装備した洋式軍でして、野口武彦氏によれば、その最初の出動は、水戸天狗党の乱なのだそうです。
 私は、「忠義公史料」で、禁門の変で一橋慶喜が率いていました兵隊の服装が歩兵隊のものだった、という記事を読んだ記憶があるんですが、手元にありません。記憶が正しければ、薩摩藩の誰かからは「見かけ倒しで役に立たない」と酷評されておりました。

 とはいいますものの、幕府の呼びかけにしたがって参戦しました諸藩の大多数は、黒船来航以来、軍制改革に取り組んでいなかったわけではないのですが、既得権益を持つ者の抵抗が強く、たいしたことはできていませんでした。
 芸州口の越後高田藩(榊原)と彦根藩(井伊)、そして大島口のわが松山藩などがその代表ですが、平和呆けの儀仗団体に毛が生えただけの旧式軍でしかなく、それが、既得権益のない有志隊を核に成り立ち、ミニエー銃を持って洋式化されました長州諸隊に、かなうわけがありません。

 松山藩の中の上の士族の家に生まれ、後に俳人になりました内藤鳴雪が、大正になってから自叙伝(青空文庫「鳴雪自叙伝」)を書いています。弘化4年(1847年)生まれですから、高杉晋作の従弟にして義弟、南貞助と同じ年で、第二次征長の年には19歳で、松山藩世子の小姓を勤め、後詰めとして、大島口対岸の三津浜におりました。
 大島へ向かいました松山藩の軍勢は、大方が旧式で、一軍だけは新選隊という洋式銃隊がいたそうなんですが、結局、負けて帰ってきまして、鳴雪は、逆に長州兵が攻めてくるのではないか、「彼(長州)は熟練した多数兵、我(松山)は熟練せぬ少数兵であるから、とても防御は仕終おせない」、したがってそうなれば、世子と共に松山城の天守閣に籠もって自刃するしかない、と覚悟を決めたんだそうなのです。

 まあ、そんなわけで、幕府歩兵隊はひっぱりだこだったんですが、野口武彦氏が「蒸気船を足に転戦」としておられますのは、大島口から備前口へ転戦しただけでして、小倉口、石州口でも、幕府歩兵隊の応援は望まれていましたのに、転戦、増援はできていませんでした。

幕長戦争 (日本歴史叢書)
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吉川弘文館


 三宅紹宣氏の「幕長戦争」には、以下のようにあります。
 (盟約を守って)薩摩の大軍が京都に駐屯したことは、幕府軍へ威圧を与え、幕府軍は芸州口戦争で敗北を続けているにもかかわらず、幕府軍本体が駐屯している大阪から援軍を出すことを困難にさせた。 

 しかし、京に駐屯していた薩摩軍は、たかだか七,八百でして、朝廷対策の牽制でしたら会津、桑名がいたのですし、幕府がそれほど多数の軍を大阪に残す必要はありませんでした。
 要するに、幕府には、兵や物資を運ぶ汽船が足らなかったのではないでしょうか。

 とりあえず、今回、石州口は置いておきます。
 陸路から萩をつかれるルート、ということで、石州口の防備も重視した、ということなんでしょうけれども、隣藩・津和野が中立姿勢をとり、長州軍の通過を認めていたくらいですから、あるいはここは、攻め出していくほどのことは、なかったかもしれません。

 大島口は放っておかれたと、「防長回天史」にも書かれているのですが、これは、周防大島周辺の制海権を幕府に握られるだろうとは、予想できましたので、放っておかざるをえなかった、ということです。今でこそ、周防大島は、柳井市との間に橋がかかっているのですが、当時は、船に乗らなければいけませんでした。
 
 当初、大島口に配備されました幕府海軍の船は、富士山丸、翔鶴丸、大江丸、旭日丸、八雲丸です。
 小倉口で使われましたのは、富士山丸、翔鶴丸、順動丸、後に回天丸、飛竜丸です。

 このうち、大島口の八雲丸は、出雲松江藩の鉄製スクリュー式蒸気船を、幕府が乗員ごと借り上げた形でした。329トンと小型ながら、1862年(文久2年)イギリス製造、砲6門の新鋭軍艦です。
 旭日丸は、1856年(安政3年)水戸藩が製造しました洋式帆船で、推定750トン。砲を積んでいましたが、主には運搬船として活用されていました。
 翔鶴丸(原名ヤンツェー、350トン、外輪)、大江丸(原名ターキャン、609トン、スクリュー式)、順動丸(原名ジンキー、405トン、外輪)は、どれも英米が中国航路で使用していました武装商船で、鉄製蒸気船です。
 小倉口の飛竜丸は、参戦していた小倉藩の船です。アメリカ製、木造スクリュー式蒸気船、トン数、砲数は不明ですが、小型の新造艦のようです。

 同じく小倉口の回天丸は、木造外輪式蒸気コルベット、710トン。プロイセン製で、1855年(安政2年)進水と古かったのですが、イギリスで修理改装され、左右に40斤ライフル砲を5門ずつ、銅製のホイッスル砲を1門ずつ、前面に50斤ライフルカノン砲1門を備えていました。長崎奉行支配下の船で、乗り組みもほとんど長崎の地役人です。詳しくはwiki-回天丸をごらんください。ほとんど、私が書きました。

 そして、富士山丸です。
 これは、幕府がアメリカに発注していて、1864年(元治元年)に完成し、慶応2年(1866年)2月20日、つまりは、大島口開戦のほんの3ヶ月あまり前に、日本に届いたばかりでした。排水量1000トンの木造スクリュー式蒸気スループで、砲は12門。これまで、幕府が所有したことがない大きさの三本マストの最新鋭艦です。

 対する長州の軍艦は、前回と重複するものもありますが、長州藩で建造しました洋式帆船、丙辰丸、庚申丸と、イギリスから購入しました小型帆船・癸亥丸(原名ランリック)ですが、庚申丸、癸亥丸は、アメリカの軍艦ワイオミングに撃沈・大破されたものを、引き上げ、修理したもののようです。

 そして、蒸気船が2隻。乙丑丸と丙寅丸ですが、乙丑丸はユニオン号。海援隊と近藤長次郎がかかわり、薩長盟約のはざまでもめにもめました木造スクリュー式蒸気船で、300トンほど。もめごとの経緯は、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5あたりから、近藤長次郎シリーズで延々と追求しておりますが、私は、これを書いたころから、海援隊よりも、松島剛蔵に率いられていました長州海軍の方が、技量ははるかに上、と思っておりました。
 どころか、前回検討しましたが、攘夷戦の経験を経まして、長州海軍の戦闘力は、この時点では日本一です。
 
 丙寅丸は、鉄製スクリュー式蒸気船ですが、わずか80トン。高杉晋作が、幕府との開戦をひかえて、独断でグラバーから購入しました、ボート程度の砲艦です。

 一見、幕府海軍と長州海軍の間には、大きな格差があるように見えるのですが、子細に検討してみれば、それほどでも、ないんですね。
 まず、幕府は兵も荷物も長距離を海上輸送する必要がありますが、長州は地元で迎え撃つわけですから、それほどの運搬船は必要ありません。
 艦船同士の戦いでしたら、知り尽くした長州近海、という条件のもと、相手が大きな蒸気船でも帆船で戦いうることは、オランダのメデューサ号との戦いで証明されています。

 また、幕府の富士山丸がいかに最新艦であろうと、です。メデューサ号やワイオミング号よりは小さいわけですし、しかも、幕府海軍にとりましては初めての型の船でして、マストの扱いが、非常に難しかったんだそうなんですね。また製造元のアメリカ人が操作を伝授してくれたわけではなく、困惑しました幕府海軍は、どうやら、横浜にいましたフランスの軍艦、ラ・ゲリエールの士官に伝習を受けたそうなのですが、それもわずかな期間です。

 つまるところ、いくら最新鋭の軍艦を持っていましても、的確な運用ができなければ宝の持ち腐れですし、実際、幕長戦争における富士山丸はそうなってしまった、ということができるでしょう。

 もう、まったく、「花燃ゆ」とはちがった方向の話で、またまた長くなってしまったのですが、海軍から見た幕長戦争につきましてまとめて書かれた本がなく、考え考え、書いておりまして、またしても、続きます。
 
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珍大河『花燃ゆ35』と史実◆高杉晋作と長州海軍

2015年09月06日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ34』と史実◆久坂玄瑞と高杉晋作の続きです。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」オリジナル・サウンドトラック Vol.2
クリエーター情報なし
バップ


 まあ、いまさら、どや顔美和さんの奥パートはどーでもいいのですが。
 まず。
 だいたいそもそも、なんども言ってきましたように、山口城に奥なんかないからっ!!!
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆29回「女たちの園」珍大河『花燃ゆ』と史実◆30回「お世継ぎ騒動!」で、書いておりますが、都美姫さまは宮野御殿ですし、銀姫さまは五十鈴御殿ですし、どこぞの成金中小企業の社長宅じゃないんだから、嫁と姑が同居なんかしません!
 最初から、もうありえへん妄想世界なんですけれども、いやはや、軍師美和殿が、社長宅の非常時通路を考えたから、お中臈に出世して、久坂家再興!って、もう、いくらなんでもくだらなすぎ!、でしょう。
もう何度も書いてまいりましたが、久坂家再興の後に、文さんは奥勤めして美和となったんですし、珍大河『花燃ゆ33』と史実◆高杉晋作挙兵と明暗で書きましたように、明治3年にいたって、美和さんはようやくお側女中なんです。史料が全部、残っています。

 あと、高杉の愛人のおうのさんね、ちらっとしか映りませんが、かいがいしい世話女房みたいで、おっとりのおの字もなく、かわいくなさすぎ!です。あんた、伊藤博文の女房・梅さんじゃないんだから。

 で、さっそく本題に入りましょう。
 幕長戦争です。

高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏は「高杉晋作と奇兵隊」、エピローグにおいて、次のように述べておられます。

 晋作の死去直後、地元での評価はどのようであったのだろう。萩護国山にある「東行暢夫之墓」は胎髪臍帯を収めたものだが、その裏面に杉修道(梅太郎)撰に成る、慶応三年丁卯十月十五日付の碑銘が刻まれている。そこには、「君、つとに尊攘の大義をあきらかにし、長ずるにおよんで果断勇決、用兵神の如し、去歳小倉の役、諸軍を監し、海戦功を奏し、城ついに陥つ」とある。同時代の人々にとって晋作は、四境戦争でも一番の激戦となった小倉口の戦いを勝利に導いた立役者と見なされていたようだ。

 

 団子岩の杉家と松陰、久坂ほかの墓地に、並んである晋作さんのお墓です。
 私、去年お参りしながら、民治さんが書いたそんな墓碑銘があるとは、さっぱりと気づきませんでしたわ。
 すごいですね。「用兵神の如し」ですよ。そして、「諸軍を監し、海戦功を奏し」ですから、亡き松島剛蔵に代わって長州海軍を掌握し、海陸共同作戦の指揮を執って、見事に成功させたんですわね。

 つくづく、民治さんの墓碑銘を見つめるうち、私は、ふと、あることに気づきました。
 この時点の長州海軍が、乗組員の質において、相当に優秀であっっただろうことに、です。

幕末期長州藩洋学史の研究
小川 亜弥子
思文閣出版


 私、小川亜弥子氏の「幕末期長州藩洋学史の研究」を読みますまで、オランダの長崎海軍伝習を受け、長州海軍の洋式化に取り組みました松島剛蔵が、どれほど長州三田尻のお船手組「村上両組」に悩まされていたか、まったくもって存じませんでした。
 それもそのはずで、史料が山口県文書館に眠りましたまま、ほとんど活字化されてないようなんです。

 ちなみに、村上両組といいますのは、能島村上、因島村上の両元水軍です。
 戦国時代に活躍しました村上水軍三家は、来島村上氏が九州の山の中の小藩として残りましたが、能島、因島の二家は、長州お船手組となって周防大島に移住し、三田尻を根拠地として幕末を迎えました。
 戦国時代には、厳島合戦やら石山合戦やらで大活躍しました村上水軍ですが、江戸三百年で、すっかり平和ボケ状態。主な仕事は、参勤交代の御座船運行、合戦など思いもよらない、儀仗団体となっていました。
 まあ、いわば、です。先祖代々のやり方で、たまにしか使わない殿様専用クルーズ船を手入れして、運行していれば、それで十分に名誉と収入があったわけでして、あえて苦労して、洋夷のまねをし、危険に身をさらしたいとは思いませんわね、普通。
 
 そんなわけで、松島剛蔵は、洋式海軍教育にあたり、お船手組からはやる気のあるものしかとらず、藩の大組士や中下層の諸氏から、希望者を募って、別組織を作ろうとしました。
 松島は、実地訓練を重んじる方針でして、まあ、あたりまえの話なのですが、洋式船の操船と戦闘を学ぶのに、座学だけでは、どうにもなりませんわね。
 高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で書きました高杉晋作の海軍修業も、その一環で行われたものなのですが、結局、高杉が海軍の勉強をやめてしまったにつきましては、青山忠正氏いわく、「上海に行ったときは船酔いしていないので、やはり、数学が苦手で航法計算ができなかったせいだろう」ということですが、私もそう思います。

 で、長州藩の最初の攘夷戦が、砲台を使っての陸からの攻撃ではなく、海戦であったことは、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書きました。
 要するに、攘夷戦開始時、中山忠光卿を頂き、久坂が率いていました光明寺党は、正式な長州の軍ではなく、しかし一応、正規軍の配下ではあったものですから、指揮官の決断がなければ砲撃はできず、そして指揮官には、やる気がありませんでした。
 しかし、このとき、松島剛蔵率いる長州洋式海軍は、通常の家臣団とは切り離された別組織でしたから、陸の指揮官の命令に従う必要は無く、光明寺党は軍艦に乗り込んで、松島剛蔵の決断で、軍艦が攘夷戦の口火を切ったわけです。

幕末の蒸気船物語
クリエーター情報なし
成山堂書店


 元綱数道氏著「幕末の蒸気船物語」によりますと、最初に攻撃を受けましたアメリカ商船ベムグローブ号は、241トンのスクリュー式蒸気船です。
 対しました長州軍艦は、庚申丸(木造帆装艦、トン数不明、30ポンド砲6門、製造は長州)、癸亥丸(木造帆装艦、283トン、18ポンド砲2門、9ポンド砲8門、原名ランリック、イギリスから購入)です。

 
幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲 (中公新書)
古川 薫
中央公論社


 古川薫氏の「幕末長州藩の攘夷戦争」も参考にさせていただきながら、書きます。

 文久3年5月11日午前2時、出港準備をしていて、煙突から火花を出していましたベングローブ号を、庚申丸と癸亥丸が砲撃し、三発は命中したのですが、損傷はわずかなものでした。
 当時の商船の常で、ベムグローブ号も武装はしていたのですが、それほどたいした砲を積んでいたわけでもありませんし、ちょうど出港準備をしていたところでしたので、応戦しながら港外へ出て、そのまま長崎へと走り去りました。

 次いで5月22日、フランスの通報艦(外輪式蒸気船)キャンシャンを攻撃しますが、このとき長州の陸の総指揮官は代わっていまして、初めて、陸上砲台が火を吹きます。
 そしてこのときは、庚申丸、癸亥丸よりも砲台の方が攻撃の主になっていました。
 いっせい砲撃に、キャンシャンは軽微ながら損傷を受け、しかしなにが起こっているのかわからず、敵意がないことを説明するため、ボートに書記官を乗せて陸に近づきました。ところがこのボートが陸から狙い撃ちされ、書記官は負傷し、水兵4人が死亡します。
 キャンシャンはボートを収容し、応戦しながら、船足を速め、長崎をめざしました。

 そして、5月26日御前7時。オランダ軍艦メデューサ号が関門海峡に入ってきました。スクリュー式蒸気船で、三本マスト、1700トンの大きさです。
 この当時、日本では、幕府海軍でさえ、400トンほどの軍艦しか持っていませんで、庚申丸、癸亥丸で突っかかっていくのは、無謀といえそうなのですが、それをやってしまうんですね。
 「幕末の蒸気船物語」に、オランダ国立博物館所蔵、下関で交戦中のメデューサ号の絵が載っていますが、やはり、メデューサ号は大きいです。
 庚申丸、癸亥丸は、砲台の援護を受けながらも、健闘したといってもいいかと思うのですが、メデューサ号は結局、一時間半に渡る砲撃戦の末に、17発の命中弾を受け、死者4人、重軽傷者5人を出しました。長州側には、死傷者はいなかったもようです。

 従来、オランダ船は、古くからの親交があるのでオランダだけはまさか砲撃されないだろう、と思って海峡へ入った、といわれておりましたが、元綱数道氏は、オランダ総領事ボルスブルックの日記を引用され、そうではなさそうだとしておられます。
 要するに、長崎の晩餐会で、アメリカ商船ベムブローク号の船長が「下関で砲撃を受けた」と語り、それを聞いたメデューサ号の船長が「これから下関を通るが、もし砲撃を受けたら徹底的にこらしめてやる」と演説し、熱狂的な拍手を受けた、というんですね。メデューサ号に乗って横浜へ行く予定だったホルスブルック総領事は、当初、オランダ船が攻撃されることはない、と考えていましたが、長崎湾の出口でキャンシャン号に出会い、砲撃される可能性が高いことを知り、晩餐会で勇ましい演説をした船長が、「海峡に入らず外回りで横浜に行きたい」と言い出す始末です。しかし、ポルスブルックは、「晩餐会で演説した以上、回避して臆病者呼ばわりされるよりも沈没された方がまし」 だとして、下関を通る命令書を書いたんだそうなんです。

 そして、7月16日。アメリカの軍艦ワイオミングが、単艦、ペムブローク砲撃の復讐に乗り込んできます。
 ワイオミングは、木造スクリュー式蒸気、スループ(フリゲートとコルベットの中間の軍艦)です。1457トンで、オランダのメデューサ号より少し小さいですが、そこそこ大きく、32ポンド砲4門、予備砲2門。

 海には境がありませんし、欧州諸国は多くの植民地をかかえていましたので、交戦しますと、極端な場合、商船(武装しているのが普通です)も交えて、世界中の海で戦闘をすることになります。
 日本は島国ですから、それにまきこまれる事態も起こります。すでに19世紀初頭、ナポレオン戦争の余波で、オランダ船を拿捕しようとイギリスのフリゲート艦フェートン号が長崎に侵入してくる、という事件が起こって、日本は防ぎようもなく、自国の無防備に震え上がったわけなのですが、クリミア戦争では、極東におきましても、ロシアの軍艦が英仏の軍艦から逃げ隠れしておりました。
 
 アメリカは当時、南北戦争の最中でした。
 以前に書いたと思うのですが、欧州の陸続きの国同士の戦いでは、海上封鎖に重きが置かれず、海戦が勝敗に寄与することはあまりありませんでした。
 ところが、この南北戦争におきまして、北軍は、大々的な海上封鎖を実行するんですね。
 といいますのも、南部の経済は、綿花をイギリスに輸出することで成り立っていまして、それを止めることが、勝利への最短距離でした。
 北部は、この海上封鎖に160隻の艦船を投入した、といいますから、当時の日本の状況を考えますと、めまいがしそうな格差です。

 ともかく。
 ワイオミングは北軍の軍艦でして、極東で北部の商船を攻撃していました南軍の軍艦を攻撃しようと、香港を基地にして活動していました。
 まあ、つまり、戦いに来ていたわけですから、士気がちがいます。
 生麦事件の関係で、在日居留民の安全確保の必要から、ワイオミングは横浜へ呼ばれていたのですが、そこへ、ペムブローク号が砲撃されたとの知らせが入りました。
 そこは、血の気の多いヤンキーです。

 ワイオミング号は、下関に停泊中の庚申丸、癸亥丸、そして壬戌丸を襲います。
 壬戌丸は、原名ランスフィールド。鉄製の蒸気船でしたが、448トンほどの武装商船で、砲は2門しかありません。しかもこの日は、たまたま世子の乗船予定があり、そのせいなのかどうなのか、どうも、砲ははずしていたようなのですね。
 ともかく、ワイオミング号は、死者6名、重軽傷者4人を出しながら、庚申丸、壬戌丸を撃沈し、癸亥丸を大破。長州側の死者は8人、重軽傷7人。
 陸の砲台も火を噴く中、すごいですねえ、ヤンキーの戦闘魂。

 いや、しかし。
 長州海軍教育は、この攘夷戦と平行して、新たな取り組みを始めていました。
 従来の三田尻御船蔵を廃し、代わりに、海軍士官養成の本格的な学校を作ろうというわけです。
 


 写真は、三田尻御船蔵跡です。
 庚申丸、壬戌丸沈没、癸亥丸大破で、海軍学校設立は一時中断したそうですが、松島剛蔵を中心としまして、すぐに再開され、この年11月には、三田尻御船蔵は規模拡大の上、海軍局と改称。剛蔵は、海軍局頭取役となります。そして翌年、艦内での教授を開始。

 で、ですね。
 この文久3年の時点で、日本の中で戦闘を経験した海軍は、長州のみ!なんですね。
 幕府海軍はもちろん、一度も戦ったことがないですし、薩英戦争でも艦船は戦いませんでしたから、薩摩海軍にも実戦経験はありません。
 そういや、勝海舟が「一度はちゃんと攘夷をやるべき」と言っていたという話ですが、経験の必要を痛感したり、したんですかね。
 何事も経験がものをいうわけでして、犠牲ははらいましたが、貴重な戦闘経験を積み、長州海軍は、船は無くとも、人材は最強!となったんです。
 
 その最強の海軍人材を、幕長戦争におきまして、海軍総督となりました高杉が、見事に指揮するわけなのですが、長くなりましたので、続きます。
 すみません。今回は本題に入り損ねました。
 

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珍大河『花燃ゆ34』と史実◆久坂玄瑞と高杉晋作

2015年08月30日 | 大河「花燃ゆ」と史実

珍大河『花燃ゆ33』と史実◆高杉晋作挙兵と明暗の続きです。


花燃ゆ メインテーマ
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 本題に入ります前に、私のこのブログ、簡単なアクセス解析がついています。どのページにどの程度のアクセスがあったかはわかるのですが、どういう経過でアクセスされたのかは、結局、よくわからない解析です。
 で、ここのところ、少しづつなのですが、薩摩スチューデント、路傍に死すへのアクセスがありましたのを不思議に思い、「村橋久成 テレビ」で検索をかけてみましたところ、北海道新聞の「村橋久成、大河ドラマに 撮影誘致へ会設立 札幌に開拓使麦酒醸造所」という記事が出てきました。
 うちのコメント欄にもこられました『残響』の著者・田中和夫氏が中心になられて、誘致運動が行われるみたいです。

 

 実は去年、中村さまにおつきあい願い、鹿児島県いちき串木野市羽島の「薩摩藩英国留学生記念館」のオープンセレモニーに出かけました。
 関連の催しで、神田紅さんの講談があったのですが、やはり、村橋久成を題材に選んでおられました。劇的な生涯、ですものね。

 
薩摩藩英国留学生 (1974年) (中公新書)
犬塚 孝明
中央公論社


 昔、乙女のころ、犬塚孝明氏の「薩摩藩英国留学生」を読みまして、もっとも心引かれましたのが、村橋久成と英国へ渡った土佐郷士の流離で書きました高見弥一(大石団蔵)でした。

 しかし、ですね。村橋久成一人では弱い気がしまして、薩摩スチューデントと開拓史がらみの集団劇ならけっこうおもしろいし、美形オンパレードなんだけどなあ、と思ったんですが、あえて誰かを主人公にするなら、村橋と森有礼と、対照的な二人中心でやればどんなでしょう。
 森有礼につきましては、広瀬常と森有礼 美女ありき5が一番略歴がわかりやすいんですが、日本初の女学校、開拓史女学校へ通っていた広瀬常と結婚し、これが鹿鳴館スキャンダルにつながりますし、有礼の留学仲間で魂の伴侶、鮫島尚信は、東京大学教養学部附属博物館所蔵の肖像画でみますと、ものすごい美形ですわよ。

 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 下で見ていただけたら、と思うのですが鮫ちゃんは、高杉晋作の従弟で、素っ頓狂な貞ちゃんとも無二の親友っぽいですし、美形同士で絵になります。
 江戸は極楽であるに書いております、有礼と吉田清成の国際的大喧嘩も、二人とも若くていい男ですから、これまた絵になります。
 モンブラン伯爵とグラバーの大喧嘩も出して、町田兄弟から岩下、新納少年、そしてもちろん五代友厚を出す必要がありますが、いくら来期の朝ドラが五代がらみとはいえ、朝ドラとはまったくちがって、善悪相半ばする桁外れな発想力の持ち主として、描けると思うんですね。パリ万博が出てきて、外交をやっていた岩下方平が帰国した途端に京都で王政復古。高見弥一を出しますと、龍馬と中岡慎太郎も出してこれますし、村橋にからめて、箱館戦争で幕府海軍と新撰組も登場。薩長土、幕府、全部ひっくるめて、幕末維新が描けますわよ。
 
 これね、薩摩・長崎(小菅修船場は薩摩が造ったものです)の明治近代産業遺産にも関係しますし、ぜひ、ボクサーパトロンや薩摩バンドの話も出していただければ、と。
 シナリオはジェームス三木あたりかな。
 去年の薩摩藩英国留学生記念館オープンの関連催しで、薩摩近代産業遺産の世界遺産登録についての報告もあったのですが、舞台に立たれたどなただったかが、「この前の会議では、安倍さんがまるで幕末の近代化は長州が中心、みたいな話をされた」と、ご不満をもらしておられました(笑) どう考えても、近代化産業では薩摩・佐賀の方が上なのですが、いかんせん、現在の政治力は、長州の方がはるかに上ですわねえ。まあ、明治からそうなんですが。
 北海道もあまり政治力はなさそうですが、ぜひ、鹿児島と組んで、運動すべきだと思います。

 さて、本題ですが。
 またまた、脚本が金子ありさ氏です。
 
 とっぱなから、興丸のお小姓を決めねば、とか、奥とはそれほど関係のなさそうな話を奥でしてしていまして、あげくの果てに銀姫さまいわく、「征長軍が再びさしむけられるであろう。裏にはあの薩摩がー」です。
 どや顔美和さんに関しましては、すべて出来の悪い嘘話なのでどーでもいいのですが、馬鹿が、なにを考えているんだか。 なんの得にもならず、金がかかるばかりの征長を、なんで薩摩がやりたがったことにしてしまっているんだろ。これまでの西郷の描き方が妙ちきりんなので仕方ないけど、それにしても調子外れだわさと、そっぽを向きたい気分満点。

 どこまでが金子ありさ氏の責任かは、判然としませんが、公卿の描き方のひどさも絶好調。
 どや顔小田村が、大宰府の五卿の元を訪れた、までは史実ですが、「幕府と戦う? (長州)たった一藩で? 正気の沙汰とは思えん」なんぞと、三条侯がそんな暢気なこと、言うわけがないでしょうが、糞馬鹿!!!です。

 史実としまして、小田村は藩命を受けて、五卿に長州藩の時事を知らせるために大宰府入りし、坂本龍馬に会いましたのは、慶応元年(1865年)5月24日のことです。
 すでにこの三ヶ月以上前、2月に、ですね。三条側近の土佐脱藩士・土方久元と中岡慎太郎は、薩摩藩士の吉井幸輔と共に上京するつもりで、船待ちの間、下関の白石正一郎宅で、報国隊(乃木希典が属していた長府藩の有志隊)隊長や白石正一郎の実弟・大庭伝七、赤禰武人とともに、薩長和解を謀り懇談(土方久元「回天実記」より)していまして、あきらかに土方、中岡は、ともに三条の意を受けて、上京の後も薩長和解に動いているんですね。
 薩摩に身をよせていました龍馬は、京で土方と会い、鹿児島へ入った後、三条に会いに来ているんです。

 ところが、ですね。このキチガイドラマのくたびれ果てた龍馬は、小田村に向かって、「どうやったかの? お公家さんらは? この国の大事を語る相手としてはちっくとものたらんろ」なんぞと、「そこまで三条を馬鹿にしてるんなら、あんた、なんのために大宰府にいるのさ!」と怒鳴りつけてやりたくなるようなことを、平気でぬかすんですのよ。

 そして、さらに龍馬は続けます。
 「昔会うたとき、久坂さんは言いよった。幕府も公家も大名も顧みるに価せん。草莽の志士がこの国を変える。草莽崛起じゃと。それを聞いて胸が熱うなって、わしは脱藩ー(以下略)」 
 だ・か・ら、いまさらそんなことを言うなら、ちゃんと久坂が草莽崛起を語り、龍馬が胸を熱くする場面を描いとけよっ!!!!!と、もう、私、あきれ果てました。
 唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書きましたが、第18回「龍馬!登場」で、肝心要のこの久坂の見せ場をまったく描かないで終わらせたのは、金子ありさ氏です。いまさら、くたびれ龍馬になんと語らせたところで、このキチガイドラマの久坂のイメージは、ぼーっとしたでくの棒のまま、ですわ。

 今回、私、久坂について、少し語りたいと思います。
 
 
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏の「高杉晋作と奇兵隊 」に、村塾生だった渡辺蒿蔵(天野清三郎)の次のような回想が載っています。
「久坂と高杉の差は、久坂には誰もついてゆきたいが、高杉にはどうもならんとみな言うほどに、高杉の乱暴なりやすきには人望少なく、久坂の方人望多し」 

  にもかかわらず、ですね。 昨今、高杉晋作はトリックスターとしてもてはやされます一方、久坂が悪く言われるのはなぜか、といえば、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3で書いております加徳丸事件が大きいでしょう。
 これ、一坂太郎氏が「長州奇兵隊」で書かれて、一般に知られるようになったのですが、一坂氏も文中で述べておられますように、もとはといえば、井上勝生氏の「幕末維新政治史の研究―日本近代国家の生成について」に書かれていることなのですね。
 
長州奇兵隊―勝者のなかの敗者たち (中公新書)
一坂 太郎
中央公論新社


幕末維新政治史の研究―日本近代国家の生成について
井上 勝生
塙書房


 一坂氏は、基本的には、中原邦平の「忠正公勤王事蹟」に基づいて事件の全体像を描いておられまして、新書版という制約もあったかと思うのですが、おおざっぱで、正確さに欠ける記述になっています。
 私、あらためて、できるだけ原本にあたりつつ、検討してみたのですが、この事件処理にまつわる悲劇の責任を久坂におわせるのは、はっきり言いまして無茶苦茶でしょう。

 まず、ですね。加徳丸事件の先例として、長崎丸事件があるんですが、この二つの事件は、似ているようでいて、まったくちがっています。

 長崎丸は、薩英戦争で蒸気船が足りなくなりました薩摩藩が、幕府の長崎製鉄所所属の老朽船を借り受け、自藩士を乗せて藩の商用に使っていました。
 文久3年12月、繰綿などの商品を積んで、長崎丸は兵庫から長崎に向かって航行していまして、下関において、砲撃を受けます。
 砲撃したのは、長州奇兵隊ですが、薩摩船だと認識していたかどうかは、定かではありません。折からの濃霧で、長崎丸が掲げた明かりを目標に砲撃していた、というのですが、一寸先も見えない瀬戸内海の濃霧を経験したことがあります私としましては、薩摩藩の船印なんぞ確認しようもなかっただろう、としか思えません。

 砲撃が命中した、というわけではなかったようなのですが、なにしろ老朽船ですし、砲撃を受けて回避行動をとるうち、蒸気機関が火を噴き、綿に燃え移ったんだそうなんです。乗り組んでいた68人のうち、28人が死亡しました。以前に書きましたが、その中には前田正名の実兄もいます。おそらく、蒸気機関が爆発したのではないんでしょうか。
 死亡者のほとんどは薩摩藩士ですし、長州としましても、これはひたすら謝るしかない事件です。
 
 一方、加徳丸の船主は、実は長州藩上関に近い、田布施別府の住人でした。つまり、長州の民間の船だったわけです。
 長崎丸事件から一月後の元治元年一月、その民間船を、薩摩商人が雇い、大阪で買い集めた繰綿を長崎へ運ぶ途中、船の母港・田布施別府に停泊していましたところ、地元上関の攘夷有志隊・上関義勇軍の数名に襲われ、船は積み荷ごと焼き捨てられ、同乗していました薩摩商人・大谷仲之進は斬り殺されました。
 つまり、積み荷の綿は薩摩商人のもので、綿でしたら結局取り引きに薩摩藩もかかわってはいたでしょうけれども、焼き捨てられました船は薩摩のものではありませんし、乗組員も薩摩人ではありません。
 おそらく、薩摩藩の船印をかかげたりはしていなかった、と思われますのに、なぜ襲われたか、といえば、地元の船でしたから、上関義勇軍隊士が噂を聞きつけたわけなのでしょう。

 これまでに幾度か書いてきたのですが、アメリカの南北戦争で、南部の綿花輸出が止まり、値段が高騰したんですね。
 グラバー(ジャーデン・マセソン)を中心とした在日商人たちが綿花を求め、薩摩藩はそれに応えて、大阪で買い占めを行っていました。
 薩摩商人の買い占めはすさまじいばかりで、材料が入らなくなりました日本の綿織業は、操業ができなくなり、怨嗟の声が上がります。
 油などの買い占めも行われ、物価が急上昇し、それが海外交易のせいだということは、火を見るよりも明らかでしたから、それにたずさわる商人は憎まれることとなり、攘夷のために結成されました上関義勇隊では、襲うことが正義、という気分が盛り上がっちゃったんでしょうね。

 なんと、上関義勇隊では、隊員二人に斬り落とした薩摩商人の首をもたせて、大阪まで行き、さらそうとします。
 これは別に二人だけの判断ではなく、隊としての行動でしたから、後ろめたさはなにもなかったわけなのです。
 ここで、久坂が出てきます。以下、野村靖の「追懐録」(マツノ書店復刻版)より、です。

 「久坂など今回、永井など(船を焼き討ちした上関義勇隊員)の軍令を犯したることを聞きて、痛く規律の緩慢に流れたるあらんことを憂い、品川弥二郎および余(野村靖)をしてこれを処理せしむ」 

 つまり、久坂など、在京の長州藩政務役の命令で、野村靖たち(他に杉山松介、時山直八)は、隊の規律違反だとして、二人に自裁を迫ったんですね。二人にしてみましたら思いもよらないことで、逃げ出して、上関に帰りますが、野村と品川弥二郎はそれを追いかけ、山口の政庁に処分を計って、藩の決定により、大阪まで二人を連れ帰り、自刃させます。
 その自刃が、薩摩商人の首をさらしたそばで行われましたことは、異常といえば異常なんですが、これって、長州が藩として、決定したことですわね。
 長州人の船主にしてみましたら、船を焼かれるなど財産権の侵害ですし、船の乗組員も職を失ったわけですし、地元から苦情が上がっていた、と見るべきではないでしょうか。

 なお、このとき、二人が自刃すべきだと決定を下した山口の政庁には、政務役として高杉晋作がいますし、久坂が政務役となっていましたのは、おそらくは高杉の引き立てですし、なんでこの事件の処理で、久坂ばかりが悪くいわれなければならないのか、私にはさっぱりわかりません。

 次は、ちゃんと小倉口の戦いをやってくれるのでしょうかね。


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珍大河『花燃ゆ33』と史実◆高杉晋作挙兵と明暗

2015年08月22日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ32』と史実◆高杉晋作伝説の虚実の続きです。
 
花燃ゆ メインテーマ
クリエーター情報なし
VAP


 なんだか、文句を叫ぶのにもあきてまいりました昨今ですが、一つだけ、叫びます。
 傅役(守り役)って、主には女じゃないから!!! まずは藩士。興丸の傅役の一人は、高杉のおやじです。
 ついでに言いますと、銀姫の守り役は、乃木希典の父親で、乃木家は玉木家の本家で、杉家と親戚です。私は、その縁で、文(美和)が奥勤めに上がったものと推測しています。

 

 久坂美和の奥勤めの史料はちゃんと残っていまして、山本栄一郎氏が「女儀日記」や「中正公伝」を探索して、調べておいでです。
 山本氏の「吉田松陰の妹・文(美和)」によりますと、慶応元年(1865)9月25日に銀姫付きのお次女中として召し出されているんですね。
 もちろん、高杉の挙兵より後の話で、道明が久坂家を継ぎ、父・百合之助を看取った後です。

 その後、明治2年の記録があるんだそうですが、興丸「着袴の儀」のとき、お伽(子守)同役で、拝領金に預かれた女中の中では、一番下の身分です。なお、このときの記録に、奥女中の守り役の名前が出てきますが、どうも興丸につきっきり、というわけではないようでして、銀姫付きの奥女中が兼任した様子、なんですね。御中臈頭・御守役・袖野、御側・御守役・濱野ということです。ちなみに、美和が銀姫のお側女中として記録されていますのは、翌明治3年のこと、です。
 まあ、ともかく、ですね。大出世の守役でっせ!!!みたいな、ドラマの描き方は、?????です。まあ、もともと、史実では、興丸誕生の時、文(美和)はまだ、奥御殿に上がっていないわけなんですが。 

 で、本題です。
 私、けっこうなショックを受けております。
 なんだかんだいいまして、桐野利秋が禁門の変の前から長州びいきだったことは史料に残っていることですし、高杉晋作を尊敬していたのではないか、というような伝説もありましたし、やはり、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と、後世形容されました高杉の挙兵伝説を、私も信じてしまっていたから、です。
 司馬遼太郎氏の作品が、けっして史実ではないと知ってはいましても、やはり、若かった頃に読みました巧みな表現は、脳裏にしみついてしまっていたのでしょう。

 
世に棲む日日〈4〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 以下、司馬遼太郎氏著「世に棲む日々」より、「功山寺挙兵」の部分の引用です。
 奇妙なものであった。結果からいえば、
「高杉晋作の挙兵」
 として維新史を大旋回させることになるクーデターも、伊藤俊輔をのぞくほか、かつての同志のすべてが賛同しなかった。
 歴史は天才の出現によって旋回するとすれば、この場合の晋作はまさにそうであった。かれの両眼だけが、未来の風景を見ていた。いま進行中の政治状況という山河も、晋作の眼光を通してみれば、山県狂介らの目で見る平凡な風景とはまるでちがっていた。晋作は、この風景の弱点を見ぬき、河を渡ればかならず敵陣がくずれるとみていた。が、かれは自分の頭脳の映写機に映っている彼だけの特殊な風景を、凡庸な状況感受能力しかもっていない山県狂介以下の頭脳群に口頭で説明することができなかった。
(行動で示すあるのみ)
 と、晋作がおもったことは、悲痛であった。なぜならば、行動とは伊藤俊輔がひきいる力士隊三十人だけで挙兵することであり、三十人で全藩と戦うことであった。その前途は死あるのみであった。
 

 いまにして思えば、いったい、どこうがどうなって、ここまでの大嘘になってしまったのでしょうか。

まず結論から言いまして、高杉の挙兵は、決して維新史を大旋回させたわけではなく、むしろ、殺されるはずではなかった前田孫右衛門や松岡剛蔵など、長州「正義党」幹部が殺されることとなり、薩摩が長州に手をさしのべることへの支障を作り、傷口をひろげただけだった、と言えるでしょう。
 現在の私にとりましては、これで長州海軍の生みの親・松島剛蔵が殺され、奇兵隊を赤禰武人ではなく山縣有朋が牛耳ることになったわけですから、明治になっての長州の陸軍偏重という悶着の種が芽ばえた痛恨の挙兵、のように思えます。

 以下、「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房版)より、元治元年12月23日付け小松帯刀宛西郷隆盛書簡の一部引用です。
 二十一日朝、萩表より使者両人岩国へ相達し、変動の向き相聞得候折柄、岩国より差し出し置き候人々も罷り帰り、得と承り合い仕るところ、長谷川惣蔵萩へ参り居り、余程せり立ち、討ち取るの策を立て候向き、もちろん戸川鉡三郎、山口城破却巡見として参り居り、色々責め付けられ候向きと相聞こえ、十八日晩七人の者を入牢申し付け、翌日はすぐさま斬罪に取り行い候よし、前田孫右衛門・楢崎弥八郎・山田又助・大和国之助・渡辺内蔵太・松崎(島)剛蔵・毛利登人、この七人にてござ候。左候て、末藩等へも人数差し出し候様相達し、千人位の勢い萩表より押し立て候よし。激党の内には蒸気船一艘を奪い、撫育金と申すをかすめ取り候よし、いずかたへ乗り廻し候かいまだ相分らず、繋場より届け申し出候までにござ候。とんと調和の道も絶え果て、残念の事にござ候。右等の拙策を用いられ候ては実にこまった事にござ候。 

また、いい加減な現代語訳をしますと、以下です。
 12月21日の朝、萩からの使者が岩国へ来まして、変動(12月16日高杉挙兵)があったと聞こえてきたところへ、岩国から萩へ行っていた人々も帰ってまいりました。じっくりと話を聞きましたところが、ちょうど折悪しくその挙兵のときに尾張藩士の長谷川(征長軍強硬派)が来ていて、鎮圧しろと萩政府に迫り、おりから幕府目付の戸山も山口城破却の検分に行っていまして、いろいろと圧迫されたこともあり、萩政府は18日夜、「正義党」幹部の七人を野山獄に入れ、翌日にはすぐさま全員斬罪にしてしまったんです。そのうえ、支藩からも兵隊をかり集め、千人ばかりを諸隊の追討に出す勢いで、決起した諸隊激派の中には、蒸気船を奪い、撫育金をかすめとって、行方をくらます者も出る始末です。現在の萩政府から三人を罷免し、代わりに「正義党」幹部から三人を政府に入れ、諸隊と政府の融和をはかって、五卿に移転していただく心づもりが無になってしまい、残念でなりません。挙兵する方も、それを理由に無駄な血を流す方も、実に困ったことです。

 いったいなぜ、高杉は挙兵したのでしょうか? 
 挙兵といいましても、決して、司馬氏が書かれたような悲壮なものではありません。
まず人数ですが、力士隊と遊撃隊あわせて、80人ほどが高杉に応じました。力士隊も遊撃隊も、来島又兵衛の直属部隊として、禁門の変で奮闘しましたその生き残りです。


 力士隊は、隊長が戦死し、残りの者が又兵衛の遺骸を運んで無事埋葬し、長州に帰り着いた者たちは、とりあえず、馬関新地(下関の萩藩直轄地)の会所で通訳業務をしていた伊藤俊輔(博聞)が、自分の護衛として預かっていました。参加したのは、伊藤が高杉にくどかれたからだと言われますが、なにしろ、禁門の変での活躍が評価されませんような体制では、いつ解散となるかわからない状態ですし、征長軍とそれに迎合する「俗論党」政府への恨みが深かったのでしょう。
 遊撃隊の方は、全員が駆けつけたわけではなく、一部なのですが、その多くが脱藩しました他藩人で、これまた、追い詰められていた人々です。そして、この時、挙兵遊撃隊の隊長となりましたのは、石川小五郎(後の河瀬真孝)で、れっきとした長州藩士だったものですから元は先鋒隊だったのですが、朝陽丸事件で幕府使節を暗殺していまして、幕府からしましたらまさに、お尋ね者でした。
 元松下村塾の参加者は力士隊を率いた伊藤と、後は単身で参加しました前原一誠のみ、なんですが、伊藤の場合は高杉に恩を売っておく損得を考えたのでしょうし、前原は、本人がれっきとした藩士でしたので、村塾では数少なかった中級藩士で、しかも俊才でした高杉に、心底心酔していた、ということだったでしょう。

 さらに挙兵といいましても、伊藤の勤め先、馬関新地の会所を包囲して空砲を放っただけのことでして、会所の奉行は「正義党」ですから最初から戦争になるはずもなく、「俗論党」だった人々が萩へ帰っただけのことでした。次いで三田尻(防府)の海軍局に船を奪いに行くのですが、ここもそもそもトップは松島剛蔵で「正義党」の集まりですから、抵抗するはずもなかったわけなんです。

 しかも、征長軍総督参謀の西郷隆盛が、戦う気がまったくありませんで、ということはつまり、征長軍のうちの薩摩軍が戦闘に入る心配はまるでなかったわけですから、司馬氏いわくの「その前途は死あるのみ」なんぞということはまったくありえませんで、挙兵側にはなんの危険も無く、「俗論党」政府に諸隊追討令を出させて、対決姿勢をとらせるためだけの挙兵でした。
 そして、確かに挙兵の時にたまたま、征長軍強硬派の長谷川が萩にいたとか、不運がありはしたのですけれども、捕らえられていた「正義党」幹部が斬罪になる可能性を、高杉は十分に認識していたはずなのです。

 太田市之進(御堀耕助)が止め、野村靖が止め、奇兵隊副将の福田良助にいたっては、伊藤の回想によれば、雪の中に土下座して「今日だけはぜひおとどまりを願いたい」と、高杉に頼んだというのですね。それはどう考えても、挙兵すれば、「正義党」幹部が斬罪になる可能性が高かったから、でしょう。交渉が続いているわけなのですから、いざとなればやるぞ、と、戦闘姿勢を見せる必要はありますが、挙兵してしまえば、相手に口実を与えてしまうだけなのです。

 再び、いったいなぜ、高杉は挙兵してしまったのでしょうか? 
 私には、赤禰武人への反感と不信としか、思えません。
 「元を正せば周防の島医者の子でしかない赤禰ごときが、生意気な! 征長軍総督参謀の薩摩芋(さつまいも)が動き、吉川が動くって? 赤禰のホラに決まっている。「正義党」の復活交渉なんぞ、どうせ失敗するのだから、こちらが先に挙兵すべきなんだっ!」 
 そういうことでは、なかったんでしょうか。

 「正義党」幹部が斬罪になり、諸隊追討令が出て、戦闘をためらう理由がまったくなくなったから、奇兵隊を中心とした諸隊は、決起したわけです。
 交渉の失敗と高杉との確執から、奇兵隊総督だった赤禰武人は居場所を無くし、決起したときに奇兵隊を牛耳っていましたのは、山縣有朋でした。
 こののち、赤禰は幕府のスパイだという嫌疑をかけられ、濡れ衣によって惨殺されますが、その名誉回復を、大正になってまで拒み続けたのも、山縣有朋です。

 「俗論党」は、千人ほどの諸隊討伐軍を繰り出したわけですが、「俗論党」とは、中級以上の藩士を中心としました保守派なんですから、ろくろく軍の改革もできてはいませんし、戦闘意欲のある軍勢では、ありませんでした。
 私が疑問に思いますのは、「正義党」幹部を斬ってしまいましたら、諸隊に歯止めがなくなることはわかりきったことでして、なぜ椋梨藤太たち「俗論党」幹部は、そんな冒険をあえてやったのか、ということです。征長軍によほど怯えていたのか、あるいは、「正義党」幹部によほど恨みをもっていたのか、どうなんでしょうか。

 
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊」のあとがきに、次のように述べておられます。
 (高杉晋作について書くことに苦労する)もう一つの理由は、もう少し複雑だし、それに政治的でもある。いつ、どのようにして「有名」になり、どのような経緯で、彼にまつわる伝説が作られていったか、を常に念頭に置いておかなければならないせいである。伝説や神話に引きずられてしまうと、史料の言葉が本来の意味どおりに読めなくなり、人物像までが変形させられる。その引力に抗しながら、史料から実像を読み出すのは、「無名人」相手に比べて三倍のエネルギーを要する。
 後者の問題は、もとより高杉晋作だけの問題では済まない。それは、おそらく明治から大正、昭和と、日本の近代国家が確立してゆく過程で、いわば建国神話のような意味合いで編み上げられてゆく物語の一環なのだろう。それはそれで、別に機会を設けて考えるべき課題である。吉田松陰にしても、晋作にしても、その神話のなかに、神々の一人として役割を割り振られて登場するのだろうと、今のところ私は考えている。
 この神々は、第二次大戦の敗戦という、価値観の大きな変動のなかで、大多数が消滅していった。楠木正成や小島高徳は天皇制の変容に殉じて、「七生報国」や「誉の桜」のフレーズとともに、いなくなった。晋作、それに坂本龍馬は、大上段に振りかぶった尊皇イデオロギーとは少し離れた場所に役割を振られていたため、姿を変えて生き延びた。高度経済成長期には、自由奔放、恋と冒険、このあたりが二人を象徴するキーワードになった。国のために命を捧げることが最大の価値とされた「帝国臣民」にかわって、自由主義社会のもとで豊かな生活を謳歌しているはずの「市民」にとって、幕末の動乱を生きたトリックスターたちは、夢を託すに恰好の存在であったし、今もそうであるらしい。
 

 歴史とは物語である、と私は思います。
 過去の出来事にまったく物語を読み取らなかったとしたら、それは、歴史とはならないでしょう。
 しかし、私は、勝者にのみ光があたる歴史を好みません。
 無数の無名の人々がいて、不運な敗残者も多数いて、複雑に明暗が織りなされる物語こそが、歴史の名に値するのではないでしょうか。
 明後年は、明治維新から150年の年です。
 もう一度、維新史が見直される節目と、なってくれたらいいのですが。

 次回(すでに明日です)は、もう一人のトリックスター、坂本龍馬が登場するようですけれども、暗澹と、ため息しかでないドラマになることは、確実な気がします。

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珍大河『花燃ゆ32』と史実◆高杉晋作伝説の虚実

2015年08月13日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ31』と史実◆高杉は西郷と会ったか?の続きです。

 感想を一言だけ。
 今回一応、玉木文之進の一人息子、玉木彦助の戦死を描いていましたね。
 彦助が品川弥二郎より二つ年上で、同じ御楯隊にいたとは、さっぱりわからない描き方ではあるんですけれども。
 この戦死によって、乃木希典の弟が、跡継ぎのいなくなった玉木家へ養子に入ります。
 今回のシナリオは宮村優子氏で、まあ、この方がまだ、一番マシではあるのかもしれません。
 彦助の戦死以外、さっぱりなにも印象に残っていませんし、金子ありさ氏よりはマシ、という程度の話ですが。
 
花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 えー、時間軸を狂わせまくりましたこのドラマ、松島剛蔵を含みます「正義党」幹部がすでに殺されたからと、今回がいわゆる「功山寺挙兵」です。史実は、高杉の挙兵があったから、「正義党」幹部は殺されたわけでして、まるで逆です。

 しかし、ですね。
 この時間軸の逆転に、なぜNHKが無頓着なのかといえば、これまで、一般には、三家老・四参謀の処分と「正義党」幹部の惨殺はどちらも「俗論党」が征長軍に屈してしたことで、高杉晋作はその非道な「俗論党」を叩いて長州の生気を取り戻すために立ち上がった、という伝説が、信じられてきたからではないんでしょうか。 

高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊」のプロローグにおいて、東行庵に建つ巨大な顕彰碑の銘文を紹介しています。
 伊藤博文撰の「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」に始まる、有名な長文です。



 この長文のさわりの部分を引いた後、青山氏は、次のように述べておられます。

 要するに長州毛利家における「俗論」党打倒、「藩論」統一のさきがけをなしたのは高杉による馬関挙兵であり、それに当初から加わっていたのは自分(伊藤)たちだったというストーリーが、ここには盛りこまれている。そして、このストーリーは、現在に至るまで、高杉伝と言わず、長州藩幕末史の定説になっているようだ。
 結論だけを先に言ってしまえば、このストーリーは、本文で詳述するように八割がた虚構である。そのような虚構が、なぜ碑文に記されるのか。それは、伊藤博文、山縣有朋、井上馨といった長州閥の「元勲」たちにとって、高杉と行動をともにしたことは、自らの過去を装飾し、さらには現在の政治的立場を強固にしてくれる華々しい経歴だったからである。


 高杉晋作が挙兵にいたるまでの状況について、比較的、脚色なく語っているのではないか、と思われますのが、天野御民(冷泉雅二郎)の回顧録(一坂太郎氏編「高杉晋作史料 第三巻」収録)です。
 天野御民は、御堀耕助(乃木希典の従兄弟)と同い年、品川弥二郎より二つ上で、禁門の変で破れて帰って来ました彼らと共に、御楯隊を結成しました、元松下村塾生、なんです。
 この御楯隊、玉木文之進の息子の玉木彦助や、久坂と共に死んだ村塾生・寺島忠三郎の兄・秀之助も参加していまして、そもそも隊長の御堀耕助は玉木家の親戚ですし、松下村塾関係者が中核となっていた隊、なんですね。

 で、天野御民の回顧録は、後年のものですし、高杉の挙兵前に「正義党」幹部粛正があったとしますような、時間軸の思い違いも入っているのですが、御楯隊が関係しましたことの事実関係に、大筋でまちがいはないと思われます。
 天野が言いますことには、11月17日、五卿を奉じまして長府に入りました諸隊(およそ750人)は、八方ふさがりでした。
 その状況をまとめますと、おおよそ以下のようだったそうなのです。

 長州藩士の隊員は、萩から来た親戚知人に脱退を促されて脱ける者も多く、また尊皇攘夷の旗頭の元に長州諸隊に参加した他藩人も、「俗論党」が政権をとり、尊皇攘夷の旗を降ろした長州の現状に不満で隊をぬける者が多く、諸隊がこれからどうするのか、隊長たちの会議でも意見がまとまらなかった。
 そこで、御楯隊のうちの有志が、「このままでは諸隊はみなだめになる。外からの衝撃が必要だから、われわれは今から各郡をまわり、俗論家が選任した代官を惨殺してまわろう。そうすれば俗論藩庁は諸隊全体に罪をかぶせ、討伐するだろうから、戦争になる。戦争になってこそ、諸隊は人心団結して、たちまち俗論軍を倒すことができる」と、密かに語り合っていた。
 高杉晋作が亡命先から帰ってきて(11月25日)、このことを持ちかけたが、最初は高杉は、「諸隊が一致団結して行動するべきときに勝手にそんなことをするのはだめだ」と賛成しなかった。
 しかし高杉は、どうしようもない諸隊の現状がわかってくるにつれ、馬関新地(下関本藩領)の官署を襲撃しようと、御楯隊の総督・太田市之進(御堀耕助)、遊撃隊の軍艦・高橋熊太郎にその話をもちかけ、承諾させていた。
 

 御楯隊は、先にいいましたように、松下村塾関係者が中核となっていた隊で、珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」に書いておりますが、禁門の変でろくに戦えなかった悔しさをばねに結成された隊ですし、遊撃隊は他藩士が圧倒的に多く、来島又兵衛が率いて禁門の変で奮闘しました、その生き残りです。

 この話の流れですと、要するに高杉は、「俗論党」政権に諸隊追討令を出させて、諸隊に戦う気を起こさせるために挙兵するつもりだった、ということになります。
 考えてみましたら、奇兵隊は攘夷のためにできた組織ですし、遊撃隊にしましても御楯隊にしましても、尊皇攘夷の旗を降ろして、戦う相手を無くしてしまえば、存在意義を失い、組織は解体してしまいかねない、ですよね。
 要するに、軍隊が軍隊として存続するためには、敵が必要、なんです。

 ところが、ですね。
 天野御民いわく、ですが、「直前になって太田市之進(御堀耕助)は、挙兵を取りやめ、高杉は、決行予定日だった12月12日の夜、酔っ払って、長府修繕寺の御盾隊陣営を訪れ、傍若無人にふるまった。太田市之進に頼まれて、村塾生だった品川弥二郎が止め、同じく元村塾生で奇兵隊の客分だった野村靖がいさめても高杉はきかず、「おまえらは赤禰武人に騙されているんだ! 武人なんぞ大島郡の一土民だぞ。あいつに国家の大事や両君公の危急がわかるわけがない。おれは毛利家三百年来の家臣だ!」と、毛髪を逆立て、まなじりがさけんばかりの憤怒の形相で難じたが、それは、一同、肌に粟を生じるほどに恐ろしいものだった」ということでした。

 諸隊が高杉への同調をためらった理由について、青山氏は、以下の二点を挙げておられます。
 一つには、奇兵隊総督赤禰武人が進めてきた萩政府との「調和論」が順調に運び、12月6日以降には、諸隊解散(10月21日通達済み)は取りやめ、諸隊員は「土着」と内決、という事情があった。
 二つには、征長軍と五卿の存在である。下関対岸の小倉には福総督府があり、解兵条件の五卿移転を待ち望んでいた。その五卿を長府に置いたまま、下関で行動を起こせば、征長軍の介入を招きかねない。今、ここで事を起こすのは、どう見ても得策ではない。
 

 一つ目の理由に関しましては、雑多な人々の集まりでしかない奇兵隊はともかく、元村塾生を中核としました本藩下級藩士が主流の御盾隊では、当初、「俗論家が選任した代官を惨殺してまわろう」という意見があり、「俗論党」政権が継続したままでの諸隊土着では意味がない、と考える者が多く、ためらいの理由とはならなかったからこそ、高杉の挙兵に同調する予定だった、ということではないでしょうか。

 そして、二つ目です。
 これにつきましては、同じ青山氏の「明治維新と国家形成」の方で、より詳しく見てみましょう。

明治維新と国家形成
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吉川弘文館


 五卿は、移転交渉に来ていました、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)、月形洗蔵と早川養敬へ、五卿は「長州藩の内紛で、諸隊の有志が動揺しているため、移転は考えられない」と伝えていて、要するに、五卿移転と諸隊の要求はリンクしていたわけです。
 では、その諸隊の要求とはなんだったか、といえば、以下です。

 ●諸隊の土着
 ●「正義党」幹部(前田孫右衛門、松島剛蔵など)の解放
 ●現「俗論党」政権から3人罷免、代わりに「正義党」幹部から三人を政権へ加える


 このうち、諸隊の土着とは、青山氏いわく、「諸隊を存続させるための基盤を確保することではないか」としておられ、前述しましたように、12月6日以降、ほぼ妥協が成り立っていたもようなんですね。
 残る二点なのですが、なにしろ、五卿移転が解兵の条件ですから、征長総督参謀・西郷隆盛が直接乗り出します。

 前回も書きましたように、12月11日夜、西郷隆盛は、吉井幸輔、税所篤を供に下関に渡り、諸隊の隊長など4、5人に会ったことは、12月23日つけ西郷の小松帯刀宛て書簡(大和書房版「西郷隆盛全集 第1巻」収録)にあります。
 西郷が会った諸隊の隊長などの中心が赤禰武人であったことは、「防長回天史」の推察する通りだと思うのですが、太田市之進、野村靖、品川弥二郎なども赤禰に誘われて会った可能性が高いのではないでしょうか。
 赤禰は短期間とはいえ、松下村塾に籍を置いていましたし、高杉を説得して挙兵を押さえることができるのは、彼ら(太田、野村、品川など)である、と思っていたはずですし、西郷は「諸隊4、5人」と言っているのですから、奇兵隊の赤禰だけでは無く、他の隊の者とも会ったはずです。
 ちなみに、青山氏が「高杉晋作と奇兵隊」で挙げておられます表から言いますと、挙兵後の翌元治2年(慶応元年)1~2月、総勢1637人(人数不明二隊のぞく)にふくれあがりました諸隊のうち、奇兵隊は303人、御盾隊が277人ですから、もともとそれほど人数に差があったわけではなかったようなんです。

 この翌日の12月12日、西郷と諸隊の交渉を踏まえた月形、早川は、五卿と面談し、「移転された後には、筑前・薩摩が共同で、三条侯の朝廷復帰をはかり、幕府の横暴を防ぐ」と訴え、それに対して五卿は「諸隊の要求が通り、長州の内紛がおさまれば即、移転しよう」と答えています。
 一方、西郷の小松宛書簡によれば、西郷は「諸隊と俗論党政府の和解が成り立てば五卿移転が可能」という諸隊、五卿との会談結果に基づき、吉川監物に動いてもらおうと岩国へ向かったわけです。
 その最大の目的は「萩府にての俗吏両三人を退け、激党より望みを掛け居り候者両三人も引き上げ、調和の筋も相立つつもりに御座候」
(萩の「俗論党」政府から三人を罷免し、代わりに諸隊が希望する「正義党」から三人を政府に入れたら、長州の内紛もおさまり、五卿移転の障害も無くなるものと思っておりました)ということです。

 「正義党」幹部から三人復職、ということは、前提として「正義党」幹部の解放は含まれているはずですから、征長軍参謀の西郷が乗りだし、仲介役の岩国藩主・吉川監物を動かして、確実に「正義党」幹部解放、政権復帰は行われる手はずとなっていた、わけなんです。
 太田市之進(御堀耕助)が挙兵をとりやめたのは、当然じゃなかったでしょうか。

 で、高杉です。
 この12月11日、高杉は西郷に会ったと、後年、早川養敬は証言しています。
 しかし、この証言に問題がないわけでは、ありません。
 西郷と高杉が会見したときに同席していたのは月形洗蔵で、早川は月形から伝え聞いただけだそうなんですね。おまけに月形は、会見の翌年、慶応元年の秋には、築前藩の内紛で斬首されていますので、伝え聞きが正しいかどうか、確かめる術もなかったわけなんです。

 以下、宮地佐一郎氏編「中岡慎太郎全集」収録、史談会速記第241輯「報効志士早川勇事蹟書(下)」より、です。
 隆盛、友実(吉井)、税所篤をともない下ノ関に至る。隊士(諸隊過激派)の暴行を避け、秋月藩士と唱う。洗蔵(月形)迎へて稲荷町大阪屋に至る。宴席の間交誼を温め款話をつくし、半夜におよぶ。この日会する者、晋作(高杉)、洗蔵(月形)、円太(中村)、泰、対馬人多田荘蔵、藤四郎、安田喜八郎、真木菊四郎等とす。積日の敵讐、散解して痕なからしむ。この夜、晋作も名を裏みて席に陪し、晋作は酔余、隆盛を指して薯堀爺(いもほりじい)と戯言を発し、隆盛一笑ただいに隔意なかりしと。隆盛、洗蔵、晋作など内密の主意は、以後幕府如何の処為におよばんも計られず、薩、筑、長三藩聯合して輩下(猊下?)を取り巻かずんばあらずというに存す。 

 この引用、少々漢字をひらいたり、仮名遣いを改めたりしていますので、正確ではありませんことをお断りします。
 非常にわかりづらいのですが、まず晋作も名を裏みて席に陪しとあるのですが、これは高杉は変名を使って同席したということで、いいんじゃないんでしょうか。

 で、この会合の他のメンバー、洗蔵(月形)、円太(中村)、藤四郎、安田喜八郎の4人は、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)です。
 対馬人・多田荘蔵は、桂小五郎と親しく、この時期、京都から幾松を連れて下関へ来ていたようなのですが、対馬藩も保守派が政権を握って帰れなくなり、九州の藩の飛地と下関(あるいは長府)の間を、いったり来たりしていたんだそうなんですね。
 真木菊四郎は、禁門の変で自決しました真木和泉の4男。久留米の人ですが、父に従って禁門の変に参戦し、五卿側近として長州に身をよせていました。
 「泰」が誰なのかは、私にはわかりませんで、どなたかおわかりの方、ご教授頂ければ幸いです。

 ともかく。
 高杉以外で名前が挙がっています中に、長州人はいないんですね。
 となりますとこの会合は、西郷が「諸浪(諸隊)の内4・5輩も参り」と書簡で述べている会合とは、別ではないでしょうか。高杉はこのとき、どこの隊にも属してはいませんし。 

 しかも話の内容も、対諸隊のものと高杉が出たものでは、少々、ちがっていたように思えます。
 先に述べましたように、西郷と諸隊との話の中心は「萩「俗論党」政権の改革」であったと推測できるのですが、高杉のいた会合では、「薩、筑、長三藩聯合して輩下(猊下?)を取り巻かずんばあらず」の輩下を猊下のまちがいだと考え、三条侯のことだとしますと、これは筑前移転後の五卿の待遇の問題ですから、翌12日に早川、月形が五卿に訴えた「移転された後には、筑前・薩摩が共同で、三条侯の朝廷復帰をはかり、幕府の横暴を防ぐ」ということだったようです。

 つまるところ、高杉は名前を変え、長州人であることも隠して、薩摩の出方をさぐるため、九州の人々にまじって西郷に会った、ということではないでしょうか。
 そして、それとは別に、西郷と諸隊(赤禰、太田、野村など)の会合があり、したがって、西郷その人も税所篤も吉井も、長州の高杉晋作に会った、という認識はなかった、と思われます。

 とすれば、ここで高杉は、「薩摩は解兵したがっている。とすれば、幕府がどういうつもりだろうが、薩摩が長州の内政に干渉する気は無いな」ということのみを洞察し、西郷は相手が長州人だとは思っていませんので、長州「正義党」復権のために岩国へ出かけて吉川監物を動かすつもりだ、というようなことは、話さなかったのではないでしょうか。

 高杉晋作とモンブラン伯爵で、高杉の漢詩を紹介しておりますが、あきらかに高杉は、五卿の扱いで、薩摩の幕府との距離のとり方をはかっていた、ということでしょう。

 長くなりましたので、続きます。

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珍大河『花燃ゆ31』と史実◆高杉は西郷と会ったか?

2015年08月08日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆30回「お世継ぎ騒動!」の続きです。

  最初に、来る9月19日(土)、京都で幕末祭がありまして、翌20日、同志社大学で行われます「幕末本気トークライブ」に文(美和)さん研究家(笑)でおられます山本栄一郎氏が出演されるそうです。私はどうも、行けそうもないのですが、関西方面にお住まいの方は、どうぞ、お出かけください。

花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
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NHK出版


 まずは簡単に感想を。
 このドラマ、脚本家が複数います。いまのところ3人ですが、手がけた回数の多さから順に並べますと、大島里美氏、宮村優子氏、金子ありさ氏。
 このうち宮村優子氏のみは時代劇の経験があるみたいなんですが、大河は、例えば捕物帖系の話のように一話一話それなりに完結するものではないですし、はっきり申しまして、私には、ほとんどどの回が誰なのか、区別がつかないひどさです。
 しかし、ただ、一番回数の少ない金子ありさ氏の回が、なぜかけっこう、目立って調子外れに拍車がかかってくるような気がします。
 今回の「命がけの伝言」、金子ありさ氏、3度目の脚本です。

 いえね。すでにこの異次元RPGに、幕末の歴史のリアルさは、まったく期待していません私。
 その上で、なにがひどいって、主人公の恋愛感情にまったく共感できないこと、だと思うんですね。
 本物の美和(文)さんは、最晩年にいたるまで、久坂からもらった手紙を読み返し読み返し、すっかりそらんじていたと、家族が語り残しているほどでして、若くして逝ってしまった夫の姿は、いつまでも美しく、彼女の胸にとどまり続けたわけなんですね。
 ところが制作統括の某氏は、最初から文がスカーレット・オハラで、小田村がレッド・バトラー。ヒロインが、初恋の人と一度は別れるが、やはり愛していたと気づいて再婚する話。という、?????とあきれるばかりの構想を、講演で述べておられたようでして、まったくもって脚本家さんの責任ではなさそうなんですが、理解に苦しむだけの話になっちまっているんです。

 だいたいそもそも、スカーレットの初恋はレッドではなくアシュレー・ウィルクスで、10代で男を虜にする術を身につけた我の強いスカーレットと、地味な家庭に育って「不美人」伝説を持つ文さんは似ても似つかず、レッドと小田村も共通点といえば世の中の変動で成金になったことだけですし、幕末で和風「風と共に去りぬ」(アメリカの南北戦争は幕末と同時代なので、思いつき自体が悪いわけではないのですが)をめざすんでしたら、無理矢理、不自然なはめこみをしないで、架空のヒロイン、ヒーローでやればよかったんです。
 幕末を舞台にしました大河は、「三姉妹」「獅子の時代」と、架空の主人公のものが、すでに複数あったりします。

 例えば、架空の江戸詰長州藩士の娘をヒロインにして、銀姫さまが9歳で本藩養女になったときからお側女中で上がっていて、文久の銀姫さまお国入りで生まれて初めて長州へ行き、しかし家族は江戸詰のままだった、というような設定ですと、江戸の長州藩邸内にいました姉小路なぞも登場させ、本物の江戸城大奥も描けますし、なにしろ生まれ育ったのは江戸ですから、ヒロインの初恋の人は幕臣だったけれど最初の結婚は長州藩士、とすれば、「大奥」もまともに描けますし、相当に劇的な少女漫画風展開も可能だったはずなんですけれど、ねえ。

 まあ、そういうわけですから、かならずしも脚本家さんの責任ではないと思うのですが、今回、なにが気持ちが悪かったって、姉の寿さんが「夫(小田村)を助けて」と妹に土下座するところと、えらく場違いに美和さんが小田村の命乞いをし、「大事なお人なのであろう?」と聞く銀姫さまに、悪びれることもなく「私の初恋の人にございます」と答える場面です。
 いや、だから。なんで世子夫人の下っ端女中でしかない妹に姉が土下座??? しかも、仕える主人に姉の夫を指して妹が「初恋の人」???
 いくらなんでもあんまりすぎる、調子外れの展開でした。
 
 で、本論です。

高杉晋作 (文春新書)
一坂 太郎
文藝春秋


幕末維新の政治と天皇
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吉川弘文館


 一坂太郎氏の「高杉晋作」(文春新書)は、10年あまり前に出版されているのですが、私、持っていながら、ろくに読んでいなかったようなのですね。
 一坂氏は、赤禰武人の書簡によって、一般的に世間に定着しています「一人先見の明を持って藩内俗論党打破に決起した高杉晋作」という像に、疑問を呈していました。

 これまでに高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」を主な参考文献に、書いてきましたことをまとめますと、以下のようです。

 ●三家老・四参謀の処分は、長州藩「正義党」政権がすでに決定していた。 
 ●「正義党」政権中枢全員を罷免して「俗論党」が政権を握ったが、逃亡した高杉をのぞく「正義党」は拘束されたとみられる。(ただし野山獄に入れられたわけではない) 
 ●征長軍参謀・西郷隆盛が「三家老・四参謀の処分」を求めたのは攻撃猶予の条件で、早急に果たされた。 
 ●次いで解兵のための条件が出されたが、三条実美以下五卿の差し出し以外の要件は、簡単に満たせるものだった。

 これまでに書いてまいりましたが、なぜ元治元年10月のはじめまで、いわゆる「俗論党」が政権をとれなかったかと言いますと、奇兵隊をはじめとします諸隊が「正義党」を支持していたからです。
 そもそも、長州正規軍がまったく機能しないということは、攘夷戦においても禁門の変においても証明済みでして、およそ750名と、諸隊の人数は少なくとも、征長軍が迫っていましたからこそ、これを無視することはできなかったわけでした。
 藩主そうせい侯を手中にしました「俗論党」政権は、一応、10月21日に諸隊の解散令を出していたのですが、そんなものに実効性のあろうはずもありません。なにしろ「俗論党」には、ろくに武力がありませんで、「正義党」の井上聞多にしかけたように、個々の暗殺を狙うのがせいいっぱいだったんです。

 藩主を萩に連れ去られた諸隊は、11月4日、西郷が岩国を訪れたと同じ日に山口へ入って、「俗論党」政権に圧力をかけようとしていたのですが、前回書きましたように、11月15日、山口を出て、湯田温泉にいた五卿を奉じ、17日、長府に入りました。
 五卿とは、8月18日の政変で都を追われ、長州に身をよせました七卿から、病死しました錦小路頼徳と、生野の変に参加し、潜伏していました澤宣嘉をのぞき、残った尊攘過派の公卿です。
 もともと、諸隊のうちの遊撃隊には、五卿について長州へ来ました他藩士も多かったですし、奇兵隊は攘夷のためにできた規格外の有志隊で、幕藩体制からははずれた存在でした。したがいまして諸隊にとりましては、長州藩主が「俗論党」のもとにあるなら、五卿を奉じることが、自然な成り行きではあったんです。

 高杉晋作が亡命していました筑前から帰ってきましたのは、11月25日です。
 そして、功山寺挙兵が12月15日夜。
 その間、五卿を預かることになりました筑前藩から長州への働きかけがあり、その五卿の警護には薩摩藩が中心的役割を果たすことになっていましたので、総督府参謀の西郷隆盛が動き、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)、月形洗蔵と早川養敬も、西郷隆盛の要請で、五卿&諸隊の説得に動きます。

 高杉晋作の亡命は、筑前出身で長州に身をよせていました中村円太の案内によるものでした。
 幕府の長州征長に批判的な九州諸藩に呼びかけて、長州の味方をしてもらおう、という円太の提案に、高杉が乗ってのことでしたから、当然なのですが円太は、筑前に潜伏する高杉を、月形、早川に会わせています。
 しかも、諸隊説得のため下関に渡った月形、早川の元へ、12月2日、五卿のもとにいました中岡慎太郎が現れ、早川の従僕ということにしてもらった慎太郎は、小倉にいた西郷に会い、真意をただしています。

 とすれば、中村円太、月形、早川、中岡慎太郎と、これだけ顔ぶれがそろえば、高杉晋作は、挙兵前に西郷に会っていたのではないか?と、普通、思います。ところが、これには否定的意見が多いんですね。
 それにつきましては、基本的な文献であります「防長回天史」が、否定していることが大きいと思います。
 
 12月11日夜、西郷隆盛は、吉井幸輔、税所篤を供に下関に渡り、諸隊の隊長など4、5人に会ったと、西郷の小松帯刀宛の書簡にあるのですが、同席した税所篤が高杉晋作はそこにいなかったと証言していまして、「防長回天史」は「西郷が会った諸隊の隊長は、当時、奇兵隊総督だった赤禰武人ではないだろうか」と推論しているんですね。

 実は、ですね。ただ一人、早川養敬は「高杉と西郷は会った」と証言しているんです。
 早川養敬には「落葉の錦」という手記があるんですが、「会った説」はすべて、これを元ネタにしています。しかし活字化されていないのか、容易に手に入りませんで、私、山本氏にお願いしてはいるのですが、まだ、見ていません。
 ところが、手持ちの本の中で、中岡慎太郎全集の年譜のみは、「会った説」を確定的に記載していまして、「なぜだろう?」と目次に見入りますうち、なんと!、早川養敬の史談会速記録が収録されていることに、気づきました。

 結論からいきますと、やはり西郷と高杉は会っていた可能性が高いのでは?と、私は思います。
 その詳細を述べます前に、高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」には、以下のような記述があります。

 高杉はその挙兵の論理を正月二日、討奸檄という檄文で示した。そこで述べられている「俗論党」政権の非は何よりも征長軍への恭順方針であり、具体的には1.山口城破却、2.三家老・四参謀の処刑、3.「敵兵を御城下に誘引」、4.親敬父子への処分の容認であった。しかしこれは無理な非難である。そもそも征長軍への恭順は高杉もその一員であった「正義党」政権段階で決定されていたものであり、1の山口城破却は形式に留まり、2、4の受け入れはその段階で覚悟していたものであった。そして、3も征長軍の使節が山口を訪れただけであり、征長軍の乗り込みや藩主が軍門に下るといった屈辱的な儀式は行われていなかった。つまり、絶対的恭順論にたつ「俗論党」の恭順といっても、もし「正義党」政権が存続していればやったであろうことにすぎなかったのであり、ここの高杉の非難は多分にためにする議論なのであった。

 さらに高橋氏は、脚注において、これまで一般的でした、さっそうとした高杉晋作像が壊れかねないことを、述べておられます。

 平和的に要求が実現する可能性があったのに高杉はなぜあえて決起したのだろうか。彼が決起の趣旨を説明した討奸檄がためにする議論であり、説得姓をもたないことはすでに述べた。そして、ここで決起すれば、現在拘束中の前田(孫右衛門)ら「正義党」幹部の生命が危険にさらされるのは高杉の予想できることであったろう。それなのになぜ彼がここで挙兵したのだろうか。この挙兵は高杉の生涯のいわばハイライトであるが、その動機について今後なお検討する必要があるだろう。

 高橋氏が述べておられますところの、平和的に要求が実現する可能性とは、「正義党」の政権復帰でして、これは、奇兵隊総督赤禰武人などを中心に、進められてきていたことなのですが、五卿の九州移転問題の中で、五卿の側から「移転の条件」としてその話が持ち出されるなど、平和裏に「俗論党」「正義党」連立政権が樹立される可能性は、高くなってきておりました。

 一坂太郎氏は「高杉晋作」において、慶応元年の3月に、赤禰武人が故郷の叔父と養母に書いた手紙の一部を引用しています。赤字、下手な現代語訳は私です。
 諸隊いよいよ沈静つかまつり候ところ、高杉晋作一手遊撃隊わたくしの議論ききわけ申さず、下関新地の一暴挙(いわゆる功山寺挙兵)いたし候てより、萩俗論家共たちまち約束にそむき、こころなくも前田已(以)下有志の人々をさんりくいたし残念の至り、なげかわしき事にござ候。 
 萩「俗論党」政府との調停が進み、諸隊もようやく静かになろうとしていましたところが、高杉晋作と遊撃隊の一手のみが私の意見を聞かず、挙兵して新地の藩会所を襲撃してしまいました。萩の「俗論党」たちは、たちまち約束に背き、心なくも前田孫右衛門以下七名(山田亦介、松島剛蔵を含む)の「正義党」幹部の方々を、惨殺してしまい、残念でなりません。なげかわしいことです。

 
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏の「高杉晋作と奇兵隊」は、今回、初めて読ませていただいたのですが、明治以来、形作られてきました高杉晋作英雄伝説の中から実像を探り出しました、画期的な伝記で、今の今までこれを知らなかったことが悔やまれます。
 プロローグにおいて、青山氏は、「私の見るところ、高杉晋作とは、プライドの高い、しかも向こう見ずのおっちょこちょいに近い人物だったようだ」 と書いておられまして、これは、私が晋作さんに感じていましたかわいらしさ、愛嬌そのもの、なんです。

 古い記事ですが、高杉晋作 長府紀行のコメント欄に書いております、これ。
 面白きこともなき世を面白く 住みなす心得「男は愛嬌」

 さて、青山氏もまた、前田以下「正義党」幹部七人の斬首、続く、小田村以下三人の入牢、元家老・清水清太郎の切腹、について、以下のように書いています。

 この時点で彼らを処刑また投獄しなければならない理由は他にない。すなわち、彼らが萩において、晋作側と呼応することを、椋梨党(「俗論党」)が警戒したためである。半ば疑心暗鬼の所産だが、振り返ってみれば、前年九月坪井党(「俗論党」)が弾圧されたとき、「高杉が坪井九右衛門などに腹を切らせた」(伊藤博文談話)とすれば、晋作は椋梨党から見て不倶戴天の仇だった。晋作の挙動が不穏であれば、その党類も根絶やしにしておく必要があると思われたのだろう。

 あまり一般に知られていませんが、実は8.18政変の直後にいわば「俗論党」がクーデターを起こし、「正義党」中枢の毛利登人、前田孫右衛門、周布政之助を罷免したことがあったんですね。しかし、京都に出していました軍勢二千人が帰国し、10日間で状況は一変します。主に高杉の活躍により、「正義党」中枢は返り咲き、続いて、高杉、久坂などが政務役に抜擢されるのですが、同時に、「俗論党」首領格の坪井九右衛門は切腹、椋梨以下4人が隠居、他数名遠流、永流になっていまして、青山氏いわく、禁門の変から下関戦争を経たのちの内乱の過程では、血みどろの党派抗争が繰り広げられるのだが、その直接のきっかけは、八月政変後の「俗論沸騰」と麻田(周布)党(「正義党」)側の反撃にあったのである、ということなんですね。

 とすれば、いったい高杉は、なにを考えて挙兵したのか、という謎は深まるばかりでして、私は、あるいは高杉は計算違いをしてしまったのではないのか、そして、それはむしろ、高杉が西郷と会っていたからではないのか、と思いついたのですが、長くなりましたので、次回に続きます。
 
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