郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

夢の国の「シルクと幕末」

2008年10月09日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
見ようかどうしようか、相当に迷ったのですが、シルク幕末フランスとお題がそろいまして、この私が、見ないわけにもいかないような気になってしまい、つい、見てしまいました………。この映画。


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レッド・バイオリンの監督さんとは、知りませんでした………。ちがいすぎ!!!
キーラ・ナイトレイが出ていたとは、知りませんでした………。似合わない!!!
主人公の妻役なんですが、古典的な「待つ女」。柄じゃありません。



もう、なんといえばいいんでしょうか、「ファンタジーだと思えというのね」と自分に言い聞かせてはいたのですが、いけません。
だって冒頭から1862年と、はっきり実年が出てくるんです。文久2年生麦事件の年ですよねえ。

ヨーロッパの蚕が病気という、これもとてもリアルな話を出してきておいて、エジプトまで元気な蚕の卵をさがしに行った主人公のフランス青年(元陸軍士官)が、そこの蚕もだめなので、日本へ行きます。冒頭から2年くらいはたっていそうなので、元治元年(1864年)くらいかなあ、という感じです。
レオン・ロッシュが公使として来日し、横須賀製鉄所建設と引き替えに、蚕と生糸の日仏独占交易を試みようとする、ちょうどそのあたりのはず。

それが………、日本は蚕交易を禁じているので密入国して秘密の取り引きをしなければいけないって、なんなんでしょうか、いったい!!! 日仏通商修好条約は安政5年(1858年)に結ばれ、万延元年(1860年)の日本の輸出総額395万のうち蚕種と生糸が259万にのぼりますけど、もしもし???

たしかに、いっとき、幕府が生糸と蚕種の取り引きに制限をかけたことはありましたが、すぐにやめさせられていますし、なぜに、シベリアを横断してウラジオストックから密入国??? 文久3年(1863年)には英国の定期客船が横浜まできてるんです!!! 慶応元年(1865年)にはフランス郵船も日本への定期航路を開設しているんだから、普通にマルセイユから客船に乗ればいいでしょうがっ!!! 

その後も内乱が勃発するって、戊辰戦争のことですか、もしもし???

たしかに、戊辰戦争で生糸や蚕種の生産地が戦闘にまきこまれ、交通の遮断もあって、横浜で品薄になり、いっときだけですが開港直前直後の新潟港に、生糸商人が押し寄せ、みたいなことはあったみたいですが、桃源郷のような蚕の村が内乱で壊滅って、どこの藩のことですか、もしもし???

内乱が収まって日本は蚕種取り引きを解禁し、スエズ運河が開通したって、スエズ運河開通は明治2年(1869)ですが、慶応元年(1865年)には幕府はきっちり商標までつけた蚕種をナポレオン3世に贈り、2年後にお礼のアラビア馬をもらってますが、もしもし???

 そして、普仏戦争はどこへ消えたの!!!!! いったい???? 明治3年(1870年)にはじまった普仏戦争で、フランスの生産活動は滞り、生糸も蚕種も買ってもらえなくなって、横浜の生糸商人は大損をするんですけれど。
 ともかく、ただただ疲れました。



 ただ、どうもこの映画の原作「絹 」(白水Uブックス 169 海外小説の誘惑)の著者は、イタリア人みたいなのです。
 だとすれば………、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3などで、ちょっと触れていますが、フランス公使レオン・ロッシュは、友人の銀行家フリューリ・エラールとともに、絹織物の産地リヨンから出資をつのって「フランス輸出入会社」(ソシエテ・ジェネラール)を結成し、幕府との独占貿易を意図し、良質の生糸と蚕種が、イギリスの仲買業者も含めて、他の商人の手には渡らないように、巧妙に工作していた節があるんですね。「この独占にイタリア人も怒っている」というような証言もありまして、ちょうどこの映画の時期、フランス人、それもロッシュの息のかかった商人以外は、良質の蚕種は、手に入れられなくなっていた、はずなんです。
 良質の生糸、蚕種の産地は、そのほとんどが幕府の天領でして、これも以前にバロン・キャットと小栗上野介などで書きましたが、重税をかけられ、人心が幕府から離反しました。戊辰戦争で、その幕府の生糸、蚕種政策が崩壊したのはいいのですが、従来のルートには乗らなくなった上に、戦乱で横浜への荷出しがとまり………、といったようなこともありましたし、主にイタリアの生糸商人が、というのもイタリアも絹織物産業が盛んで、蚕の病気に苦しめられていましたから、新しい取り引きを求めて、新潟開港に期待をかけるんです。
 どうも、エドワルド・スネルが画策したようなのですが、奥羽列藩同盟の各藩に自分が武器を売り、同時に列藩同盟各藩が、自藩領の蚕種や生糸をイタリア商人に売ってその支払いにあてる、というような試みで、開港前から新潟に商人が集まったんです。
 まあ、ですから、まだイタリア人が主人公であれば、話はわからないでもないのですが、フランス人なばかりに、おい、独占交易しといてなにをいう!!!、なんです。

 うーん。ちょっと気になって追記しているんですが、「フランス輸出入会社」にはとてもまぜてもらえない南仏の弱小生糸生産地帯が、ですね、良質の日本産蚕種が市場に出回らなくなったのは、日本が禁輸したのだと思いこんでいて、つまり自国の公使がやっていることだとは知らないで(つーか、知らなかったでしょうけどね、普通)、直接買い付けに人を送ったとしたら、この映画に近い話になるんですかね。
 ただ、シベリア超えて密入国はありえんですし、マルセイユから客船で長崎か横浜まで来て、自国の策謀を知って、どこかに良質の蚕種を密売する藩はないかとさぐったところ、庄内藩が売ろうとしていると知って……、ひそかに庄内領に入る。
 これなら、ありえない話じゃなさげ、ですね。おい、レオン・ロッシュ!!!

 つーか、薩摩藩の開成所で洋学教授をしていた本間郡兵衛は、庄内の人ですわね。文久2年(1862年)の幕府の訪欧使節団とともにパリも訪れていますし、薩摩から幕府の独占交易の情報は入ったでしょうし、庄内藩で蚕種を密売するくらいのこと、考えつきそうなんですが。
 役所広司演じる原十兵衛は本間郡兵衛、ですかね。英語ぺらぺら、もしかしたらフランス語もしゃべってたかもしれませんし。
 ちなみに、本間郡兵衛は慶応3年(1867年)、薩摩のスパイだったとして捕らえられ、その後、庄内藩庁の手で殺されています。



 庄内日報社 洋学者 日本最初の株式会社創立 本間郡兵衛

  郡兵衛は文久2年欧米各国や清国を巡遊し、西洋諸国の経済発達と、その経済侵略を東洋に向けていることを目の当たりに見て、このままでは日本は外国資本にやられる。それを防ぐには国家としての統一はもちろんだが、株式会社を作り、巨大産業を起こす事が何よりも急務と考えた。
 廻船問屋に生まれた郡兵衛は、経済に敏感だったにちがいない。
 ちょうどこのころ、薩摩の名家老・小松帯刀が英語教師をグラバーに求めたことから郡兵衛が推薦され、開成所の英語教師となった。郡兵衛は早速「薩州商社草案」をつくり帯刀に上書した。というのはこの草案が彼の生家である恒輔家に残っていて、郡兵衛が日本で一番早く株式会社を考えたことを物語る史料となっている。
 開明的な帯刀は大いに共鳴し、大坂に設けてあった薩摩交易の拠点、大和交易方を拡張し、大和方コンパ二―という株式会社を組織することにした。大和方コンパ二―は別名、薩州商社ともいった。
 慶応2年、郡兵衛は大和方コンパ二―に本間家の参加を求めるため、酒田に帰ってきた。彼は本間家から資本を出させるだけでなく、酒田港を東北の拠点としようと計画していた。従ってもしこれが実現していたら、酒田港が幕末の開港場に指定され、明治維新以降の立ち遅れをみないですんだかもしれない。


 これはまちがいなく、原十兵衛は本間郡兵衛、でしょう。
 いや、なんだか、モンブラン伯爵も関係していそうな気が。
 薩摩と庄内の関係悪化で、本間郡兵衛の商社活動が差し止められて、庄内藩が弾圧にまわったのですから、これは映画がいうように「内乱」ですわね。
 あー、いまさらなんですが、この映画を見てよかった!!!かも、しれません。

 すみません。さらに妄想がわいてきて、続けます。中谷美紀演じる謎の日本人マダム・ブランシュ、ですが、ブランシュ、白、ねえ。マダム・モンブラン(白い山)、の伝え間違いだったりしまして。つまり、モンブラン伯爵の愛人フランスお政(笑)。



 主人公の青年エルヴェのモデルにも、心当たりが(笑) モンブランが薩摩に連れてきて、雇うことを断られたフランスの元陸軍士官「アントワン」ですけれどね、薩摩は雇うのは断ったかわりに、たっぷり違約金を支払ったのに、その後もモンブラン伯爵が、どこかに押し込んでやろうと必死に画策して、結局、おそらく後藤象次郎の世話だと思いますが、フランス式を選択した土佐藩の陸軍教師に雇われます。
 と、ここまでは証拠のある話で、「アントワン」くん、よほど日本にとどまりたかった、みたいなんですけど、実は南仏の生糸生産地帯の出身だったりしまして……、どうもモンブラン伯爵家は南仏の出身みたいですし、伯爵の母親はモンガイヤール家の出で、これも南仏貴族みたいですから、良質蚕種品薄騒ぎの裏を知るモンブラン伯爵が、縁の深い南仏の村がそれで困っているのを知り、陸軍士官だったその村の青年「アントワン」くんを日本に送ることを勧め、薩摩の縁から庄内の本間郡兵衛に紹介し、「アントワン」くんは一度庄内に行って買い付けをしますが、庄内だか長崎だか横浜だかそれはわかりませんが、日本人の愛人ができて、どーしてももう一度日本に行きたい!、とモンブラン伯爵にねだって、今度は元陸軍士官の経歴を生かすつもりで来日。愛人と再会した、とか(笑)





 ところで、気のせいかもしれないんですが、確か一昨日は、「生麦事件 横切った」でぐぐったら、生麦事件と攘夷のページが、けっこう上の方にあがっていたように思ったんです。なんか書いたばっかりなのに、早すぎる気もしたのですが。ところが昨日から、どんな言葉を入れてぐぐっても、出てこなくなたんです。な、な、なんなんでしょ??? Google検索 怖いです!!!

なんだか今日は、変なお話ばっかりでしたので、最後に、大先輩からうかがった、素敵なお話を。
つい先日、大先輩が桐野のお墓参りをなさいましたところ、なんとお墓には、薩摩切子のぐいのみと、きれいな香水瓶が、捧げられていたのだとか。さすが桐野、豪勢ですよねえ。

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歩兵とシルクと小栗上野介 vol2

2008年03月26日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
 歩兵とシルクと小栗上野介 vol1の続きです。
 まず参考書の追加を。

幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書)
野口 武彦
中央公論新社

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 慶応4年(明治元年・1868)1月15日、勘定奉行であると同時に、陸海軍奉行でもあった小栗上野介は、鳥羽伏見から逃げ帰った慶喜公に、徹底抗戦を訴えて、罷免されます。
 その日、勘定奉行の管轄下にある岩鼻代官所の渋谷鷲郎は、独自に小栗上野介の抗戦構想を実施しようと、村々の役人を呼び集めます。
 中山道を攻め上ってくるだろう官軍を、碓氷峠(軽井沢の近く)で待ち受け、迎え撃とうというのです。
 同じ中山道の信州和田峠にも、防御戦を張る計画が、こちらは上田藩を中心に練られていました。
 そのために、村々から兵卒を出させて、本格的な農兵銃隊を編成するつもりだったのです。
 
 しかし、これが、農村の多大な反発を招きました。
 そもそも、農村役人(地元実力者)と代官所の対立は、慶応2年、幕府勘定方が、フランスとの提携を進めて、蚕種や生糸に、代官所が重税を課しはじめてから、潜在していました。武州世直し一揆も、それで起こったのです。
 もちろん、村々の人々は、その重税がフランスとの専売契約によって生じたとは、知りません。国内生糸商人の策謀と受け取っていたのですが、生糸輸出にまつわることはわかっていますし、攘夷気分はいやでも盛り上がります。
 そこへ今度は、兵卒を差し出せ、です。
 浪士隊の挙兵や一揆の場合は、村で火付けや強盗をする可能性もありますし、治安を維持して村を守るためには、兵卒を差し出すことも納得がいきました。一揆の場合も、といいますのは、一揆に加勢しなかった村を、他村の一揆が襲撃することは常道でしたし、富農だけではなく、一般の農家も被害を被ることは多いわけですから。
 しかし、今度は碓氷峠まで出ていって戦え、というのです。なんのためでしょうか?
 「もし遠方戦争の地へ繰り出しあいなり、万一の義これあり」ということ、つまり「よそへまで戦争に出かけていって、戦死してしまうこと」を、農民たちは怖れたのです。
 結局、尊王攘夷をかかげた長州の場合とちがって、幕府直轄地、旗本知行地の農村では、幕末の尊王攘夷気分により、幕府への帰属心はほとんどなくなっていたともいえるでしょう。

 2月12日、慶喜公が上野寛永寺で謹慎すると同時に、朝廷からの命を奉じた尾張藩士が、碓氷峠へ姿を現します。
 朝廷は、鳥羽伏見戦の後、幕府旗本の領地を、とりあえず尾張藩に属するものと規定していたのです。
 これで、旗本領への幕府の支配権は正式に否定され、上州の農民たちは集結し、世直し一揆へとなだれこみます。
 ねらうは富農や生糸商人たちですが、もちろん代官所が、一番の襲撃目標です。
 2月19日、岩鼻陣屋(代官所)が一揆に襲われ、渋谷鷲郎たち幕府役人は逃亡した、という記録があります。
 これと、金井之恭たちは3月になって岩鼻陣屋の牢獄から官軍に救い出された、という話との整合をどうつけるか、なのですが、あるいは渋谷鷲郎たち役人は、囚人も連れた上で、野州羽生陣屋(代官所)に避難したのではないのでしょうか。
 羽生陣屋は、慶応3年11月に築かれたばかりの代官所で、羽生城跡を利用したため、敷地は広大で、防御の地の利もあったようですし、岩鼻陣屋が崩壊した2月から、農兵隊を集めて訓練をはじめているんです。
 そうであったとすれば、後の話がわかりやすいのです。

 鳥羽伏見でも活躍した幕府歩兵隊は、農兵というよりも、江戸の武家臨時雇い人や博徒、農村のアウトローをよせ集めたような銃隊だったのですが、「負けました、将軍さまはご謹慎、はい解散!」で、納得がいこうはずがありません。放り出されたら、食い扶持がなくなるのです。武器を持って隊ごと脱走する者が、多くありました。
 これを見た古屋佐久左衛門が、一計を案じます。
 古屋佐久左衛門については、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。で書きましたが、プリンスの侍医としてパリへ行き、函館で榎本軍の医師を務めた高松凌雲の兄です。筑後の庄屋の息子で、古屋も英学をおさめ、軍書を訳すなどして幕府に取り立てられる一方、英学塾を開いたりもしていました。
 その古屋が、脱走歩兵隊の説得に赴いたのですが、別にそれは、武器を捨てさせるためではありません。
 古屋佐久左衛門は、罷免となった小栗上野介の自宅を訪れて会ったりもしていたようですし、渋谷鷲郎を知っていたのではないでしょうか。薩摩屋敷の浪人に、家族が皆殺しにされた悲劇とともに。

 3月1日、古屋佐久左衛門は、歩兵隊を懐柔すると同時に、勝海舟に談じて、歩兵頭並格の地位と、信州の幕府直轄地鎮撫の命をもらい、大砲やら資金もたっぷりと得て、900人ほどの歩兵隊を率いて野州羽生陣屋へ向かうんです。
 渋谷鷲郎は、羽生陣屋において、古屋佐久左衛門の配下となっています。
 この隊には、京都見廻組の今井信郎も参加していて、後に衝峰隊と名乗ります。

 ところで、小栗上野介が、上州の知行地・権田村に着いたのは、3月1日です。勘定奉行であった小栗が、渋谷鷲郎の動向や悲劇を、知らなかったなんてことがあるのでしょうか。古屋佐久左衛門の歩兵隊が信州に向かうはずだ、ということも、です。
 その翌日、権田村の隣の室田村に、上州世直し一揆勢は集合しますが、一揆を煽動した博徒たちは、小栗上野介渋谷鷲郎の親分であったと、知ってのことではなかったんでしょうか。
 そして、その博徒たちの中に、挙兵浪士側にくみしていた、猫絵の殿様まわりの者があったとしても不思議はないでしょう。
 3月4日、権田村に襲いかかった一揆を、フランス陸軍伝習を受けた権田村の小栗歩兵は、あっさりと退け、首謀者を斬首します。

 古屋率いる歩兵隊は、東山道軍先鋒隊の進路をさけて、信州へ向かおうとして、3月9日、梁田に宿営していましたが、それを知った東山道軍先鋒隊(薩長大垣軍)の襲撃を受け、多数の死者を出して逃走します。翌10日、どうやら長州隊の手で、羽生陣屋は焼かれたようで、このとき金井之恭たちが解放されたとすれば、話のつじつまがあうのではないか、と思うのです。
 渋谷鷲郎は、梁田で敗れて逃走し、親しくしていた村役人のところへ寄り、刀と金を贈られて会津へ向かい、再び古屋佐久左衛門の衝鋒隊に加わって、越後の戦いで行方不明になっているのだそうです。
 戦死したのかどうか、留守宅の家族を皆殺しにされたこの人の恨みは、尽きることがなかったでしょう。

 小栗上野介は、あきらかに、古屋佐久左衛門のくわだてに期待していたでしょう。
 しかし事敗れて、なぜ知行地に居残ったのかは、不可解です。
 たしかに一揆は諸刃で、当初は一揆を利用していた東山道軍も、征圧の後は一転して一揆鎮圧に転じ、小栗上野介が一揆を退けたことを責めようはなかったわけですが、薩長新政府の幕府納地の方針からして、旗本の知行地が無事であるはずはなく、領主然と農兵を組織する行為は、反逆と見なされる可能性が高かっただろうに、と思うのです。
 また、小栗上野介が中心となっていた幕府の富国強兵策が、関東農村の多数の恨みをかっていたことに、果たして本人は、気づいていなかったのでしょうか。
 小栗上野介の富国強兵近代化策は、明治新政府のそれの先駆けといえますが、庶民に重税と兵役という大きな負担を強いるという面においても先駆けであった、とはいえるでしょう。


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歩兵とシルクと小栗上野介 vol1

2008年03月25日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
 今回は、バロン・キャットと小栗上野介の続きといいますか、補完であり、さらなる探求です。
 といいますのも、「論集 関東近世史の研究」(名著出版)を読みまして、鳥羽伏見から逃げ帰ってきた慶喜公に,
江戸城で罷免された小栗上野介が、なんでよりにもよって3月1日に、上州(群馬)の知行地に入ったのか、なんとも不可解なものに思えてきたんです。
 主な参考書は、前期の研究論文ともに、今回も以下です。
 
相楽総三とその同志 上 (1) (中公文庫 A 27-6)
長谷川 伸
中央公論新社

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 まず、ちょっと世間一般の常識にさからって申し訳ないのですが、長州奇兵隊をストレートに徴兵制に結びつけ、徴兵制イコール農兵重視で四民平等VS志願兵制は士族重視 という図式は、はっきりいって、国民皆兵を誇った大日本帝国陸軍のプロパガンダにすぎません。
 幕末、農兵取立なぞ、大方の藩でやっていたんです。
 
イギリスVSフランス 薩長兵制論争で、数字をしめしましたが、歩兵を士族身分でまかなえる藩なぞ、ほぼ、薩摩だけだったんです。
 わが伊予松山藩も、農兵取立をやっています。そうでなければ、歩兵の養成なぞ不可能でした。
 洋式軍隊は、士官とそれ以下で、はっきりと身分がわかれています。国によって制度はいろいろとちがいますが、もちろん、いざ有事という場合には、一般市民も銃を手に一兵卒となる準備はあるんですけれども、常備軍において、兵卒を務める者と士官以上では、あきらかに階層(クラス)がちがいます。
 ですから、普通にあてはめれば、洋式軍隊で武士がめざすのは指揮官、つまり士官以上であり、兵卒ではなくて当然なのです。
 しかし、ではなぜ、戊辰戦争で、例えば薩摩小銃隊や長州の干城隊など、士族の歩兵が活躍したかといえば、戊辰戦争の軍隊は、本格的に西洋近代軍隊の階級を導入しておらず、隊内においては、士官とそれ以下、のような身分格差がなかったから、なのです。
 薩摩でいえば、城下士のみ、郷士のみ、私領士のみ、で隊を作り、長州もまた士族は士族のみで干城隊、奇兵隊やその他の諸隊は志願者の寄り集まりで別部隊、といった工合で、ひとつの隊の中に、身分格差、上下関係はなかったのです。
 明治、本格的にフランス式軍隊階級を導入してからの薩長土肥、陸軍の騒動は、また別の機会にまわしまして、ともかく、別に歩兵とは、役人化した士族がなりたがるものではなく、武を志した少数の士族にしましても、めざすは士官であり、四民平等をいうならば、農民でも商人でも士官になれる、という制度の確立こそがその実現であり、徴兵制で農兵をとりたてたからといって、四民平等ではないでしょう。
 さらにいえば、長州奇兵隊は、志願制の隊であって、徴兵制とは関係ありません。

 幕末、もっとも徴兵制に近い制度をしいたのは、本格的にフランス陸軍の伝習をはじめた幕府です。
 幕府の銃隊養成は、安政年間からはじまり、当初は、旗本、御家人など士族でまかなっていましたが、ものの役に立たない者が多く、とても歩兵とはなりえません。
 文久2年(1862)、兵制改革の建言書が提出されました。だれの建言かわからないのですが、松浦玲氏は「勝海舟ではないか」としているそうです。
 おおまかな内容を言えば、「弓矢や古風な馬術はやめよう。また身分の高いものが、刀や槍の練習や、銃を持って歩兵になる訓練ばかりするのはばかげている。将官となるために文武をおさめるべき。兵卒は農民でまかなおう」ということでして、たしかにこれは、本格的に洋式軍隊の勉強をしたものでなければ言えないことで、オランダ海軍伝習を受けた勝海舟であった可能性は高そうです。これも以前に書きましたが、海軍伝習といっても陸戦隊の訓練もありましたから。
 こういった建言によって、オランダ式に兵制改革が行われ、旗本の知行地から石高に応じて、兵卒を差し出させたんですね。
 結果、旗本たちの中には、自家の士分を出したものもありましたが、若党、中間、小者などと呼ばれる武家奉公人は、臨時雇いであった場合が多く、臨時に雇って差し出したり、また知行地の農民を差し出したり、いろいろでした。
 これは、長州奇兵隊もそうで、なにも農民だけではなく、武家の下働きや軽輩の2、3男が志願したわけで、兵卒の構成階層は似たようなものであったといえましょう。
 この幕府の小銃隊は、ちゃんと洋風制服を着ていて、デビューは元治元年、禁門の変と天狗党の乱でしたが、旗本が勤めた士官の数も足りず、あまり使い物になったともいえず、士官は横浜のイギリス陸軍に弟子入りします。
 次が長州戦でしたが、全員が銃隊となっている長州にくらべ、幕府歩兵隊は少なすぎまして、効率的な戦いができないで終わります。
 それで、後はちょっと省略して、再度の幕府の改革をかんたんにまとめますと、知行地から農民を募れる大身の旗本はそのままにして、傭い人を出すような層からは金を納めさせて、直接、幕府が兵卒志願者を募って傭いいれるようにしたんですね。
 それでも足りなくて、最後には、役人化していた幕府直属の軽輩たちだけで銃隊を作ったり、旗本だけの銃隊もできたりしますけれども。
 このうち、徴兵制に近いのは、旗本知行地の農民兵です。
 小栗上野介も知行地の農民にフランス陸軍伝習を受けさせていたりしました。
 
 で、いよいよ本題に入りますが、黒船来航、開港により、幕府直轄地の多い関東の農村は、荒れていました。
 島崎藤村が「夜明け前」で描きましたが、尊王攘夷に心酔する庄屋層が増え、そこに、脱藩者やインテリ豪農層、農業にあきたらない農民たち、博徒などのアウトローなどが出入りし、火種が騒乱に結びつく可能性は大きかったんです。
 名門新田氏として石高はわずかながら、格式は大名並みの旗本、岩松新田氏・猫絵の殿様のまわりにも、そういう人々が集っていました。
 逆説的な話なんですが、開港以来の主な輸出品が生糸、シルクであったことと、それは無縁ではありません。
 シルクが高値で輸出され、関東の農村には多大な利益が流れ込みますが、絹織物などの地場産業はつぶれますし、物価ははねあがりますし、いわば儲けたものとそれができなかったもので、格差が大きくなってくるんですね。
 そして、格差は大きくなってくるんですが、一攫千金の生糸取り引きも可能であってみれば、農民が個人的に地位向上をはかるチャンスも増え、尊王攘夷を唱えて武士になることも可能で、いわば流動化しつつあったわけです。
 ともかく、倒幕にむすびつきかねない尊王攘夷の旗印で、いつ浪士(浪士といっても農民、博徒も含みます)による騒乱が起こっても不思議ではない状態となったわけです。
 
 で、またまた簡略にはしょって言いますと、幕府は、関東直轄地、知行地の治安維持のため、勘定奉行配下の代官所を強化し、農兵を取り立てて、治安維持にあたらせることにしたわけですね。
 小栗上野介は、文久2年(1862)に勘定奉行になって以来、幾度もやめさせられていますが、また返り咲きで、アメリカ視察で得た知識をもとに、この勘定奉行方を中心として、富国強兵策を実行していて、横須賀製鉄所(造船所)の建設やら軍艦の購入、フランス陸軍伝習、代官所の農兵取立、生糸の輸出政策も、すべて、勘定奉行方が中心となって行ったものなんです。
 そして、この代官所の農兵、天狗党の乱には間に合いませんでしたが、慶応2年の武州(埼玉)世直し一揆のときには、しっかり銃隊として編成されていて、鎮圧に力を発揮しました。

 前回、バロン・キャットと小栗上野介で書きましたが、慶応3年、江戸の薩摩屋敷で企てられた、野州(栃木)挙兵です。
 武州川越の村長、竹内啓を隊長とする3、40人の一行は、栃木の出流山満願寺に向かいました。
 薩摩藩主夫人が満願寺に願掛けをしていたが、願ほどきの代参を立てる余裕もなく先年国許にひきあげたので、国許から代参をとの要請があり、代参に出かける、というふれこみだったそうです。
 栃木で宿をとり、竹内啓をはじめとする10名ほどが出流山へ乗り込み、残りは近在に、遊説に出かけます。
 出流山の一行は、賴村の名主の家に泊まり込み、薩摩の旗を立てて、仮面を脱ぎ捨て、満願寺で尊王攘夷の檄文を読み上げます。
 村の人々は、「天狗党の再来か!」とぎょっとするのですが、満願寺の若い僧が一人、還俗して仲間になりたい、と申し出ました。それが、国定忠治の息子だったそうです。
 遊説がきいたのか、やがて出流山には、続々と賛同者が集まりはじめました。
 人数は正確にはわかりませんが、150人から300人くらいであったろうといわれます。
 これだけ人数がふくらみますと、資金が必要になってきます。この資金集めは、往々にして強要になり、しかも集まった浪士には博徒やら無頼漢も多くいますから、住民とのトラブルのもとです。天狗党の乱のときにも問題をひきおこしましたが、今回もそうでした。

 薩摩藩邸からの浪士組に、高橋亘という上州の村の漢学者の息子がいました。
 この人の経歴は、当時の関東農村の上昇志向の強い中上層農民の典型です。
 文久2年、清川八郎が幕府に献策し、新撰組誕生のきっかけとなった浪士取立に応じ、京へのぼって壬生浪人になります。
 新撰組とちがって、清川八郎に共鳴していたので、江戸へ帰り、幕府の方針転換により、失望して故郷へ帰ります。
 しかし慶応元年、再び京へ出て、尊王攘夷、反幕府の浪士活動をくわだてますが、幕府側(新撰組だったかもしれません)に包囲され、からくも逃れて江戸へ帰り、水戸藩士と事を起こそうとしますがまた失敗し、潜伏の後、相楽総三の呼びかけに応じて、薩摩藩邸に入ったんです。
 新撰組には、当初、水戸天狗党関係者がいましたし、御陵衛士の分裂が起こったり、またそのまま陸援隊に入るものがいたり、だったのは、天狗党や長州、陸援隊、薩摩藩邸の浪士組と、多少、幕府に対する意識がちがうだけで、出身構成もその上昇志向も、本質的に差がなかったからなのです。
 農村から出た彼らは、一兵卒になりたかったのではありません。それぞれが文武をおさめた指揮官、つまりは、れっきとした士族になりたかったのです。
 
 ともかく、高橋亘は、斉藤、高田、山本、吉沢、みな上州、野州の農村出身者だったのですが、この4人とともに、足利戸田家の栃木陣屋へ軍資金の引き出しに出向きました。
 ところが、この地域一帯は、ほぼ4年前の天狗党の乱で、天狗党の中でも粗暴なために問題視されていた浪士の一隊によって、大きな損害を被っていたのです。栃木陣屋の責任者は、交渉を引き延ばしつつ、近在の小藩や幕府代官所に連絡をとり、戦闘準備を始めました。
 一方、出流山の本部でも、様子がおかしいことを察し、応援隊をくりだします。
 幕府関東代官所の治安組織は、関八州取締出役と呼ばれ、その下に農兵隊が組織されていたのですが、その中心だったのが上州岩鼻代官所で、出役の一人に、渋谷鷲郎(和四郎)という、非常にすぐれた指揮官がいました。
 関東小藩の戦力には、銃隊はほとんどありません。
 渋谷鷲郎の農兵は、農兵といっても猟師や博徒が多かったのですが、武州一揆を鎮圧した実績もあります。戦力の中心は、こちらでした。
 まずは各個撃破で、10人ほどの浪士応援部隊を襲い、同時に高橋亘たち5人にも襲撃をかけました。このうち、高橋を含む3人は逃れて、本部に急を告げます。
 浪士隊本部では軍議がひらかれ、出流山は守るに不利な地形なので、そこには囮部隊11人を残し、四里ほど離れた唐沢山に本拠を移すことにしました。
 結論から言いますと、渋谷鷲郎は周到に情報を集め、囮残留部隊を襲撃すると同時に、移動中の本隊を待ち伏せて、戦闘をしかけます。浪士隊には銃を持つものがなく、あっけなくけちらされ、死者、生け捕り多数を出し、しかしそれでも、20数人は、薩摩藩邸へ逃げ帰りました。
 首領の竹内啓をはじめ、生け捕りになった浪士たちは、結局、ほとんどが処刑されたようです。

 前回も書きましたが、薩摩藩邸の浪士たちの首領、相楽総三は、すでに、これも農村インテリ層で新田氏を名乗る金井之恭と連絡をとっていて、浪士隊の挙兵と同時に、猫絵の殿様をかついだ挙兵をも計画していたのですが、これも代官所の探索でばれまして、金井之恭たちは、岩鼻代官所の牢獄につながれます。

 そして………、相楽総三は、残酷な復讐を思いつきました。
 関八州取締出役渋谷鷲郎の家族は、江戸にいたのですが、総三は浪士の一隊を組織し、渋谷の留守宅を襲って、家族を皆殺しにしたんです。詳しい記録は残っていないそうなのですが、泊まり客まで、といいますから、親や妻子は当然でしょうが、すべて、斬り殺したもののようです。

 次回へ続きます。


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バロン・キャットと小栗上野介

2008年03月08日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
「ぎゃー、さらに検索をかけてみましたら、小栗が戦争の準備をしていると総督府にちくったのは、猫絵と江戸の勤王気分 に出てまいりました、猫絵の殿様、バロン・キャットだとか」
と、土方歳三はアラビア馬に乗ったか? で書きました。

これ以前から、横須賀製鉄所の生みの親・小栗上野介の最期は気にかかっていたのですが、もう一つ、バロン・キャットと伯爵夫人猫絵と江戸の勤王気分 で書きました、鹿鳴館の花・井上武子伯爵夫人の実家、岩松新田の猫絵の殿様。この人が中心になっていたという新田官軍の実態も、いまひとつ釈然としなくて、あれこれ調べていたところで、この驚きでした。
岩松新田の知行地と、小栗上野介の知行地は、ともに上州にあり、近くだったんです。

そしてその上州は、最高級ジャパン生糸の産地であり、国定忠治伝説の生まれた地でもありました。

「八州廻りと博徒」

山川出版社

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著者の落合延孝氏は、上州在住。『猫絵の殿様 領主のフォークロア』の著者でおられます。

江戸時代の関東の農村は、天領、旗本の知行地、譜代小藩領などが複雑に入り乱れていたため、治安取締がゆるやかで、博徒、いまでいう893、やーさんですが、アウトローといった方がいいでしょうか、ともかく、そういう方々の活動が活発であったと、そういうことは、かなり昔から言われておりました。
で、私、さすがに「赤城の山も今宵かぎりか」のセリフだけは、なぜか知っていますが、国定忠治伝説については、ほかになにも知りませんで、結局のところ、史実としては、幕末、といっても 嘉永3年(1851年)ですから、ペリー来航、黒船騒動の3年前ですが、殺人罪で刑死した博徒だったようです。
一応、飢餓の時に救民活動をした、というような話はあるんですが、それ以上にどうも、はりつけという極刑になったことから美化され、幕末の不穏な空気の中で、民衆のヒーローとなっていったようです。
救民活動といえば、某最大手やーさん組織が、神戸大震災のときにやってますから、まあ、あっておかしくないんですけれども。
この国定忠治が、新田氏を名乗っていまして、岩松新田の猫絵の殿様ご近所まわり出身者なんですね。

と、実はここまで、去年の4月に書いたものなのです。
下書きのままで、いまにいたりまして。
今回、続きを書く気になりましたのは、桐野利秋と龍馬暗殺 後編を書いていまして、またしてもぎゃー!!!と思ったからです。
それもまたまた、土方歳三はアラビア馬に乗ったか?の小栗上野介。
「土方久元の回想によれば、小栗上野介の乗馬は、官軍の豊永貫一郎が奪い取って乗っていたそうなんです」と書いた、豊永貫一郎です。

 えーと、検索もかけて調べたのですが、豊永貫一郎について、書いた以上のことはわかりませんでした。
 が、おそらく、土佐藩士で長州よりの考えをもっていたのですから、軽輩だったんではないんでしょうか。
 軽輩ゆえに、土佐勤王党に心をよせ、念願かなって京都藩邸勤務。土佐藩邸には、同じような仲間がいっぱいいて、「お国の因循姑息は、どげんかならんか!」と悲憤慷慨していますが、脱藩するほどの勇気はありません。
 仲間八人で酒を飲んで、ほんのいたずら気分で制札事件を起こし、二人死亡、一人捕縛で、残りの四人とともに薩摩藩邸に逃げ込んで、一年間、かくまってもらったわけです。
 時勢が動き、藩邸を出て、陸援隊に入り、今度は天満屋事件。
 陸援隊ですから、高野山に行ったんでしょう。
 その後、岩倉具視に気に入られたんでしょうか。
 岩倉具視の息子、具定が総督を務める東山道軍の軍監となり、板橋まで進軍。
 で、その板橋の総督府に、何者かが「旧幕臣小栗上野介事、上州三野倉村へ引き籠もり、追々要地により、みな相構へ候模様、その上大小砲多分所持、諸浪人等召し抱へ、官軍に抗し候景況これある由」と、密告したむね、「復古記」にあるそうです。
 つまり、「小栗上野介が、知行地だった上州三野倉村へ引きこもり、砦を築いて、大小の砲を多く所持した上、浪人をいっぱい召し抱えて、官軍と戦うかまえでいる」と、何者かが、密告したんですね。
 で、この何者かが、猫絵の殿様だという可能性は、あるんでしょうか。
 それが………、どうもありそうなんです。

 この小栗上野介の知行地「上州三野倉村」というのは、最初に述べましたように、猫絵の殿様の知行地のご近所です。
 で、ですね、シルクの産地であり、横浜開港以来、多額の収入を得る者がでてきた一方で、シルクを織物にしていた地場産業は、生糸が輸出にまわって確保できなくなり、つぶれるんですね。
 さらに、実は、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で述べました、以下。
「理念の面からいえば、モンブラン伯爵は、自由貿易主義者だったように感じます。
当初、生糸、蚕種の現物で、幕府が鉄工所建設費を払う、というような噂も出回っていまして、このことからも、在日イギリス商人が猛反発したのです。
さらに、以前にも書きましたが、在日フランス公使レオン・ロッシュは、富豪で銀行家のフリューリ・エラールに、フランスの対日貿易をすべて取り仕切らせるような画策をするんですが、フリューリ・エラールは、ロッシュの個人的友人なんですね。当時、主に生糸はイギリス商人が取り扱っていたのですが、柴田使節団訪仏の翌年、慶応2年(1866)から幕末の2年間だけ、極端に、イギリス商人の生糸取扱量が減っています。
取扱量が減ったのは、あるいはこの年、在日イギリス商人は、軒並み、金融危機に見舞われていまして、これはインド、中国貿易に原因した資金繰りの悪化だったんですが、そのためかとも受け取れますが、減り方が異常です。
証拠はあげようもないのですが、小栗上野介と三井の関係を考えますと、幕府が三井を使って、うまくフランスに、それも独占的にフリューリ・エラールの関係した商人に、生糸をまわしていたのではないか、という疑念に、私はとらわれてしまうのです。
ともかく、いくらモンブラン伯爵がフランス人であっても、フリューリ・エラールが個人的に対日貿易を独占する、というのは、自由貿易主義者として、賛成しかねることだったんじゃないんでしょうか。」


 これは、石井寛治著「近代日本とイギリス資本 ジャーディン・マセソン商会を中心に」(東京大学出版会)で、横浜における生糸の取り引きを見ましたら、幕末、押し詰まりました時点で、イギリスの取扱量が極端に落ち込み、が、フランスは増えていて、その理由を石井寛治氏が述べておられなかったことから、推測したことなんですね。
 また、『ポルスブルック日本報告 1857-1870 オランダ領事の見た幕末事情』(雄松堂)という本で、オランダ領事ホルスブルックの手紙が訳されているんですが、「(フランスと幕府の生糸交易で)こんな取引を認めたら、イタリアや南フランスにとっても損失になることで、私がにぎった証拠書類を、親しいフランス人神父に見せたら、彼らも怒っていた」というようにもあるんです。
 これについてfhさまから、柴田三千雄・朝子共著「幕末におけるフランスの対日政策「フランス輸出入会社」の設立をめぐって」という論文をご紹介いただきまして、「フランス輸出入会社」、ソシエテ・ジェネラールの中心には、やはりロッシュ公使の友人、フリューリ・エラールがいまして、日本の生糸輸出の独占を一つの目的として、試験的取り引きには成功していたけれども、結局、頓挫した、何故頓挫したかといえば幕府が倒れたから、であるらしいんですね。
 日本側でこれをどう実現していたかといいますと、まず横浜で。
 元治元年(1864)幕府は、生糸の売り込み商人(日本人)たちに仲間規定を作成させていて、それによれば、規定に違反すれば、江戸の問屋と協議して、以後、江戸から荷をまわさなくするということだったんですが、慶応2年、仲間規定は改訂され、規則に違反すれば罰金と営業停止。
 また慶応三年には、幕府御用商人の三井が、売込商の主要なものに「荷物為替組合」を結成させたりしていまして、どうも幕府の生糸取り引きには、三井がかんでいた節があるんですね。
 そして、上州、です。生糸の産地であると同時に、幕府の支配地の多いところです。
 幕末、関東の天領の農政は、岩鼻代官書(陣屋)が取り仕切り、ご紹介の「八州廻りと博徒」は、その諸相について述べられたものです。ここに、註釈として小さく、なんですが、慶応2年(1866)4月から、蚕種元紙100枚につき永30文、輸出蚕種については市場で改印を受けるとき一枚につき永100文の税金がついたと載っています。
 で、いつから、どのぐらいかかっていたのかはわからないのですが、口糸上納、つまり生糸の付加税を廃止して欲しい、というような嘆願書が見られるそうで、幕府が天領の蚕種紙や生糸に、高額の税をかけ、資金力のある者にしか、買い集められないようにしていたことは、たしかなようなんです。

 これで、農民たちから文句が出ない方がおかしいでしょう。
 慶応3年の上州には、不穏な空気がただよっていたと考えてよく、薩摩藩江戸屋敷に集まった浪人たちは、これを利用しようと考えるんです。
 慶応3年10月3日、桐野の日記に「益満休之助ほかに弓田正平(伊牟田尚平)、今日より江戸へ送り出されるとのこと。もっとも、彼表において義挙のつもりである」とあります。
 大政奉還よりも、討幕の密勅よりも以前のことです。
 これは、「義挙」とある通り、京都で薩長が兵を挙げるとき、かつて天狗党が起こった土壌、尊皇攘夷派の庄屋や神官などが多い関東地方でも、討幕の兵が起こることを期待してのものです。鳥羽伏見の開戦のきっかけ作り、といわれますが、西郷隆盛の書簡を見ても、それは結果論であって、江戸薩摩藩邸の焼き討ちは、むしろ誤算であったことがわかります。

 以下は、長谷川伸著「相楽総三とその同志 上」よりです。
 薩摩藩主・忠義公が、兵を率いて入京した直後、11月24、25日ころのことです。
 薩摩藩邸に集っていた浪人たちの一部が、野州(栃木県)、甲府、相洲(神奈川)に散りました。
 野州挙兵の隊長は、竹内啓。武州川越の村長で、平田国学を学んだ人です。この挙兵には、国定忠治の息子なども加わりますが、足利戸田家所領・栃木陣屋の農兵隊(といってもこちらも博徒中心)と戦闘になり、近在の小藩から援軍も出て、多くの死者を出し敗走します。
 ところで、これに呼応しようとしていたのが、猫絵の殿様だったのです。
 勤王の旗印、新田の殿様のまわりには、尊皇攘夷派が多く、出入りの医者が薩摩藩邸に入っていたりしたんだそうです。
 実は、薩摩藩邸浪士たちの中心だった相楽総三は、天狗党の乱のとき、新田一族を名乗る勤王家の金井之恭とともに、猫絵の殿様をかつごうとしたことがありまして、今回も金井之恭と連絡をとり、呼応させるつもりでいたのです。
 金井之恭とその仲間たちは、浪士たちとの共犯を疑われて岩鼻陣屋の獄につながれ、峻烈な取調を受けますが、知らぬ存ぜぬで通し、猫絵の殿様は格式高いお旗本ですので、陣屋も手が出せません。
 そして翌慶応4年(明治元年)3月5日こと、岩倉具定総督の東山道軍、先鋒隊鎮撫士の一隊が、岩鼻陣屋を征圧し、金井之恭たちを救いだします。偶然なのか、話を聞いていたのか、薩摩4番隊長川村与十郎が率いる薩摩の一隊だったといいます。
 で、金井之恭たちはただちに猫絵の殿様のもとへおもむき、新田官軍を立ち上げて、3月8日、東山道総督府の認可を受けるのです。

 えーと、です。
 最近の研究では、岩鼻陣屋は、上州世直し農民一揆で、2月19日に崩壊した、という話もあるようでして、だとすると、このとき金井之恭たちも解放されたんですかね。
 ともかく、新田官軍が立ち上がる直前の3月1日、小栗上野介は上州権田村に着き、4日、博徒に煽動されたこの一揆が、権田村を攻撃するんですね。上野介は、それこそ農兵を訓練していまして、あっさり一揆を撃退し、首謀者の首をはねます。
 この首謀者たちに、猫絵の殿様まわりの博徒などがいたとすれば、金井之恭たちのうちのだれかが、東山道軍総督府にちくった可能性は高いですよね。
 で、だとすれば、総督府からの命令を受けて高崎、安中、吉井の三藩が上野介を取り調べ、無罪だとしたにしても、総督府の方で受けつけなかった理由が見えてくるような気がするんです。
 金井之恭は、後年、相楽たちの顕彰に尽力したといいます。
 それにしても、フランスとの生糸独占取り引きの中心にあっただろう小栗上野介が、その政策も原因の一端となった上州世直し一揆の渦中に身を置いたことは、奇妙な縁です。

 東山道総督府から、小栗上野介のもとへ向かったのは、軍監豊永貫一郎と原保太郎が率いる一隊です。原保太郎は、丹波園部藩脱藩で、岩倉具視の用心棒をしていたそうで、要するに、よせあつめの一隊だったようです。
 閏4月5日、小栗上野介の首をはねたのは、原保太郎自身だったという話もあり、そして、豊永貫一郎は、どうやら、小栗上野介がはるばるアメリカから連れ帰った高価なアラビア馬を奪って、乗り回したのです。
 月光に照らされた三条大橋のたもとで、新撰組に捨て身で立ち向かい、仲間の死と引き替えに命をまっとうしてから、まだ2年もたっていないのです。
 この10日ほど前には、同じく東山道総督府の命で、新撰組元局長・近藤勇が処刑されていました。


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猫絵と江戸の勤王気分

2007年01月03日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
猫絵の殿様―領主のフォークロア

吉川弘文館

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バロン・キャットと伯爵夫人 でご紹介した本です。

ピエール・ロチの『江戸の舞踏会』(『秋の日本』収録)は、フランス海軍士官として明治18年に来日したロチが、外務大臣主催の鹿鳴館の舞踏会に招かれ、その様子と感想を、ほとんどフィクションをまじえず書き記したものです。
時の外務大臣は井上馨、連名で招待状を出した外務大臣夫人を、ロチは「Sodeska《ソーデスカ》伯爵夫人」としているのですが、これはあきらかに井上武子伯爵夫人なのです。
武子さんについては、あまりたいした資料もなく、伯爵夫人となった次第は、鹿鳴館と伯爵夫人 で書きました。
その武子さんの実家・岩松家は、幕臣だったのですが、とても奇妙な幕臣でした。
清和源氏の名門、新田氏の血脈であるため、大名並の格式を与えられながら、禄はわずか百二十石。
明治、男爵に取り立てられたのは、どうも、娘の武子さんが長州の大物政治家、井上馨の正妻になったからのようです。

岩松新田家には、中世からの古文書が多数残されていて、その中には、江戸時代中期から明治に至るまでの、歴代殿様の日記もありました。昭和41年(1966)、元男爵家の新田義美氏が、それらの資料をすべて、地元群馬大学の付属図書館に寄贈なさったんだそうです。
著者の落合延孝氏は、1980年に群馬大学に赴任し、新田岩松氏古文書の整理を頼まれ、10年以上も研究を重ねて、この本をかかれました。
「1980年代から顕著になった近世史像の転換の中で」と著者は書かれていますが、「鼠の害をふせぐ」とされた岩松氏の猫絵に注目し、それを「領主の祭祀機能」と受け止めるような見解は、従来の日本の歴史学に欠けていた視点でしょう。
江戸時代後半に盛り上がった国学の興隆は、これまでにも幾度かふれましたが、講談などによって太平記が流行ったことも、大きく勤王気分を盛り上げました。
太平記における新田氏は、南朝の忠臣で、勤王の血筋なのです。
18世紀後半以降、農村における商品経済の発展と通信制度の発達の中で、朝廷の権威が浮上し、明治維新を準備した、という基本的な見解はもっともなものですし、結びの言葉が印象的です。
「幕藩体制から、外圧に対する復古主義的な民族運動の形態をとりながら、天皇制という形をとった近代国民国家への転換期のなかで、鼠をにらむ猫絵は、殿様の権威を求めてきた人々の歴史をもにらんでいたに違いない」

戊辰戦争において、岩松家の当主・俊純は、幕臣ながら新田官軍を立ち上げます。しかし、あまり品がいいともいえなかったらしい新田の郷臣は、江戸ではいろいろと問題を起こしたりもして、俊純は窮地に立ったこともあったようです。神坂次郎氏の『猫男爵?バロン・キャット』では、この時に武子さんは中井桜洲と知り合ったのではないか、と推測していますが、私もそう思います。


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バロン・キャットと伯爵夫人

2006年12月26日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
『食客風雲録―日本篇』

青土社

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個人掲示板の方で、築地梁山泊時代の中井桜洲について、この草森紳一著『食客風雲録―日本篇』が詳しいとお教えいただき、さっそく購入しました。たしかにとても詳しく、中井の足跡を跡づけてくれていまして、買って正解、だったんですが、一つだけ、ひっかかったことがありました。井上武子伯爵夫人の素性です。
鹿鳴館と伯爵夫人 に書きましたように、築地梁山泊は、中井桜洲と井上馨、後の井上伯爵夫人、武子さんの三角関係の舞台だったんですね。それで、なぜ私が、武子さんを幕臣の娘だと断定したかと言いますと、ひとつは、近藤富江氏の『鹿鳴館貴婦人考』 (1980年)に、はっきり、幕臣新田某の娘と書かれていまして、さらに小説ながら、神坂次郎氏の『猫男爵?バロン・キャット』が、武子夫人の父親、新田(岩松)満次郎を主人公にして、幕臣岩松氏(維新以降新田と改姓)を描いたものでして、小説ですから細かな筋立てはフィクションでしょうけれども、基本設定が嘘だとは思えなかったからなんです。
で、草森氏の『食客風雲録』にも、中井の結婚について、大隈重信の回想が引用されていました。
「ところでその頃、何の気まぐれでか、新田義貞か誰かの子孫だと云う、新田満次郎と云う名門の旗本の娘さんを妻に貰って、あまり間のない時であった」
あー、ちゃんと大隈も武子さんの素性を語っているじゃないの、と、思うまもなく、です。草森氏はこう続けているのです。
「中井弘三(桜洲)は、一時、同じ官僚の金井之恭の家で居候していた。彼は群馬の豪農の出身で、書家として鳴らした。新田義貞の子孫だという。維新前、金井は新田満次郎を首領に推し、赤城山で挙兵している。大隈の言う新田満次郎の名が、ここで出てくる。(中略)ただし、大隈の言う新田満次郎は、旗本でなく、阿波出身の勤王家である。のちに有栖川宮の支援のもとに神道の宗派をおこし、その官長となる」
ええっ?! 阿波出身の勤王家??? 神道の宗派をおこし、その官長となる???
新田満次郎は、岩松満次郎俊純、バロン・キャットじゃなかったの???
えーと、まだ読んではいませんが、神坂氏の小説だけではなく、『猫絵の殿様?領主のフォークロア』って本も出ていますし、幕臣新田岩松家の猫絵は、群馬大学図書館にコレクションがあるようですし。新田岩松家旧蔵粉本コレクション
なにがなにやらわからなくなりまして、「維新前、金井は新田満次郎を首領に推し、赤城山で挙兵している」を手がかりに検索をかけましたところ、どうやらこれは、慷慨組の赤城山挙兵(赤報隊哀歌 )らしいとわかり、あわてて『相楽総三とその同志 上 』を本棚からひっぱり出してみたのですが、詳細はわかりません。
なぜに新田満次郎が阿波出身の勤王家になっているんでしょう???
草森氏がなにをもとにおっしゃっていることなのか、お心当たりのある方、どうぞご教授ください。

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鹿鳴館と伯爵夫人

2005年12月15日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
コメントで中井桜洲に触れましたので、メモ程度にちょっと書いておこうかな、と。
中井桜洲、桜洲は号で、維新後の名前は中井弘ですが、彼は鹿鳴館の名付け親でした。
薩摩の人ですが、脱藩して江戸に出たところで連れ戻され、また脱藩します。薩摩の気風が、肌にあわなかった人のようです。
二度目の脱藩後、土佐の後藤象二郎と親交を深め、また伊予宇和島藩に雇われて京都で活躍したりするのですが、宇和島藩は薩摩と関係が深かったわけですから、脱藩したといっても、引き立てを得る薩摩の人脈は、あったのではないかと思ってみたり。
後藤象二郎が金を出したといわれるのですが、慶応二年の暮れから渡欧し、パリの万博も見て、簡略ですが、そのときの日記を残しています。

中井弘は、明治27年に死去していますし、あんまりたいした伝記もありませんで、世に知られなくなってしまった人なのですが、彼がかかわったもっとも有名な事件は、イギリスのパークス公使を救ったことでしょうか。
鳥羽伏見の戦いの後、薩長に担がれた京都朝廷は、外交に乗り出すわけなんですが、「攘夷」を武器に倒幕運動を進めてきただけに、新政府は苦境に陥ります。
つまり、外国人殺傷をめぐる事件が頻発するのですが、ちょっとそれは置いておいて、中井です。
パークス公使が、天皇に拝謁のため、英兵に守られて、御所に向かっていたときのことです。二人の浪士がその行列に斬り込みました。
あまりに突然で、英国兵はふせぐことができず、次々に負傷します。このときパークスをかばって奮闘したのが、中井弘と後藤象二郎、なんですね。二人とも、剣の腕前もかなりなものだったようです。
後に二人は、ヴィクトリア女王から宝剣を送られました。

で、中井さん、開明派であると同時に、他藩士とのつきあいが深いですから、維新後は薩摩人脈には属さないで活躍します。パークス事件後、神奈川、東京の判事を務め、なにをやっていたかというと、戊辰戦争が続いていましたので、軍事費を調達していたんだそうです。
そのとき、後の井上伯爵夫人、幕臣の娘である新田武子と知り合ったわけなんですが、武子さんは芸者に出ていた、というように、後々には噂されました。
ところが、です。知り合って間もなく、中井さんは薩摩に引き戻されるんですね。薩摩藩からの呼び戻しであったようです。
帰ってみたところ、脱藩の罪は許されたのですが、上京は禁じられます。なんとか上京する方法はないかと考えていたところ、薩摩藩兵が御親兵となっていくにあたり、親しかった桐野が隊長の一人となって人選にあたっているというので、桐野に頼み込むんです。兵隊にもぐりこんで上京してしまえば、これまで培った人脈で、再び新政府に返り咲けますから。
それを桐野が快諾し、中井桜洲は上京を果たしました。
で、中井さんは武子さんを、武子さんと同じく幕臣の娘だった大隈重信夫人に預けておいたのですが、訪ねてみるとなんと、武子さんは長州の井上聞多とできていたんです。
大隈重信の築地の屋敷は大きく、聞多や伊藤博文など多数、主に開明派の若手が出入りしたり住み着いたりで、築地梁山泊と言われていまして、恋が芽生えたもののようです。聞多が武子さんを正式に夫人とする気があることを聞き、中井さんは「それならいい」と、あっさり引いたのだとか。
悶着があって別れたわけではありませんので、聞多と中井さんの親交は続き、聞多が外務大臣となり、鹿鳴館を作ったとき、名付け親になるんですね。
鹿鳴館における井上武子伯爵夫人の華麗なる活躍は、ピエール・ロチが『江戸の舞踏会』に書き残しております。
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