郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第1回

2009年11月30日 | 伊予松山
えーと、やはりまずはドラマの感想から書くべきなんでしょう。
『坂の上の雲』と脱イデオロギー「坂の上の雲」の幕末と薩摩が関連記事です。


NHK スペシャルドラマ「坂の上の雲」

坂の上の雲 第1部―NHKスペシャルドラマ・ガイド (教養・文化シリーズ)

日本放送出版協会

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 わりに原作に忠実で、悪くはありませんでした。
 細かいことを言いますなら、松山中学時代の子規と真之、妹の律、秋山好古が下宿していた当時の旗本の大屋の娘・多美(後に好古の妻になります)が、ちとふけすぎで、少年、少女役を使ってもよかったのでは、という気がしないでもなかったのですが、まあ許せる範囲かなあ、と。配役そのものに文句はないです。

 一番、あれっ???と思ったのは、陸軍士官学校へ進学した兄の秋山好古が帰郷した場面でした。原作にない場面なんですが、それが問題ではないんです。陸士の制服が白かったりしたの???ってことなんですが、好古は陸軍士官学校三期、明治10年の入学です。まるで海軍兵学校の夏の制服みたいで、一瞬、話がとびまくって、原作にある江田島の海兵に行った弟の真之が帰郷する場面になったのかと驚いたら、好古だったんです。聞いたことがないんですが、明治10年ころには、陸士の制服が白かったりしたんでしょうか???

 もしかして……、真之が帰郷する場面をとばすつもりで、好古の帰郷場面を入れたのかしら、と勘ぐってみたり。だとすれば、ちょっと残念。帰郷した真之がまず大街道で父親に会って、帰宅するのですが、そのときの父母と真之の会話が秀逸なんです。大街道は私の生まれた街でもありますし。

 上京した真之と子規が、高橋是清とともに横浜へ行く場面も、原作にはありません。西田敏行が高橋是清というのは、ちょっとイメージじゃないんですが、まあそれは置いておいて、治外法権のあり様を語り、当時の日本が置かれた状況を説明するエピソードとしては、悪くありませんでした。

 あー、そうです。全体に説明が多すぎるのですが、それも仕方がないんでしょう。
 そのせいなのかどうなのか、どうもすべてが作り物めいて、リアリティが今ひとつ、でした。
 しかし、見ていて不愉快になることはありませんし、最近の大河ドラマのように、いくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎるっ!!!と叫びたくなることもなかったので、これから先が楽しみです。

 で、先日、青山霊園へ出かけたとき、ご同行のみなさまにお付き合い願い、秋山家(好古の方)の墓にお参りしました。昭和5年に死去しました陸軍大将のお墓にしましては、実にささやかでして、お人柄がしのばれます。
 戦死した方の墓石が大きいのは、遺族のお気持ちとしてよくわかるのですが、青山霊園を歩いていますと、異様に大きな権力者一家のお墓も目につきまして、悪趣味きわまりない、と感じました。



 秋山兄弟の生家跡は、以前は常磐同郷会(元松山藩主・久松家が元藩士の学業援助のために作った常磐会と、松山から海軍兵学校へ進学した真之と山路一善-wikiが故郷の青年たちの錬成のために作った松山同郷会が後にいっしょになったもの)が運営する、ぼろぼろの道場と下宿(松山で勉学する学生のためのもの)だけだったんですが、現在ではきれいに整備されていまして、好古の銅像もあり、写真を撮っております。

秋山兄弟生誕地

 

 好古のお墓は、松山市営鷺谷墓地(道後温泉のそばです)にもありまして、実はうちのごく近所なんですが、えー、これまで行ったことがありませんでした。さっそく本日、行ってまいりました!









 ああ、もっと若い頃にお参りするべきでした! 
 ご覧のように、こちらも実にささやかな墓石なんですが、日章旗がくくりつけられているのは、大きな桜の枯れ木でして、この木が元気だったときには、満開の桜が実に見事だったことでしょう。そばの「永仰遺光」の碑は、昭和7年、北予中学校と松山同郷会によって建てられたもののようです。
 好古は、晩年、故郷松山で北予中学校の校長を務めるのですが、戦後、この北予中学校と城北女学校がいっしょになって、現在の松山北高等学校ができ、私の母校なのですが、出来の悪い生徒でして、在学中、校内に好古の像があることにも気付きませんでした。
 最後の写真は、好古のお墓のそばから、松山城を仰いだところ、です。現在では、道後温泉街の旅館の建物が建て込んできていまひとつの眺望ですが、それでも、天守閣が臨めます。

 どうも私、近代陸軍における騎兵というものが、いまだによくわかりません。
 だいたい、司馬氏の原作が、騎兵については、さっぱりわけのわからない書き方をなさっている、と思うのです。
 えー、騎兵について勉強すること、今後の私の課題の一つです。


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岩下長十郎の死

2009年11月25日 | 幕末留学
 (11月25日午前1時39分の最初の文章から、かなりの変更があります)

 突然ですが、先日の土曜日に青山霊園に出かけました。そして……、ないはずの墓石を見つけたんですっ!!!



 えー、これ、普通に見て、墓石の正面だと思いますよね? それが……、ちがうんですっ!!!



 上の写真の左に「岩下家」とあるのが墓石の正面でして、最初の大きく「巌下長十郎」と掘られた写真は墓石裏面なんです。
 逆光で、しかも焦っていまして、うまく撮れなかったんですが、上の写真正面の右から二行目には、「岩下方平 明治三十年八月十二日」と掘ってあります。岩下方平については、いく度か名前だけは出したことがあるのですが、wiki-岩下方平をご参照ください。死亡日が墓石とちがってはいるのですが。

 裏面に大きく刻まれた「巌(岩)下長十郎」は、岩下方平子爵の一人息子なんですが、側面に小さく掘られた父より早く、明治十三年八月十日に死亡しています。長十郎の妻・類は、東郷平八郎の長兄・実猗の娘さんだそうで、ということはおそらく(お妾さんの子でなければ)、海江田信義の妹・勢似の娘でもある、ということですが、墓石によれば、昭和6年8月16日まで生きておられたようです。

 えーと、ですね。つまり、青山墓地の岩下家の墓石は、おそらく、なんですが、まずは、若くして父・方平より先に逝った岩下長十郎の個人墓として、建てられたみたいなんですね。で、愛する息子に先立たれた方平は、がっくりして、「自分は息子の付録でいい、岩下家は長十郎がすべてなんだ!」とでも思ったりしたんじゃないんでしょうか。自分を筆頭に家族の名はみんな小さく、長十郎くんの墓石に名を連ね、長十郎くんの墓石を岩下家の墓石とするように、遺言でもしたのだろうか、とでも、推測するしかありません。
 もっとも、鹿児島にも岩下家のお墓はあるそうでして、あるいはそちらの方には、岩下方平子爵個人の墓石もあるのかもしれませんが。
 ともかく、なぜ、そんなことになったのか。

 岩下長十郎については、私、これまで、ほとんどなにも書いていません。「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」で、新納武之助(竹之助)少年の渡仏を書くにあたって、次のように述べただけです。

パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。

パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。


美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。

 このころ、長十郎くんがパリでなにをしていたのかは、さっぱりわからないんですけれども、田中隆二氏の『幕末・明治期の日仏交流』に明治5年ころに製作されたパリ留学生名簿が載っているんですが、それによれば、明治4年までの長十郎くんは、フブール氏に師事し、普通学を学んでいたとのことです。
 ところで、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟にあります西郷従道の渡仏には、中村博愛も同行していまして、当然、フランスに帰って来たモンブランと合流し、武之助くんや長十郎くんとも、会っているものと思われます。ただ、さがしているんですけれども、このときの従道の渡仏の記録には、めぐりあっていません。従道は、アメリカまわりで帰国しますが、その途中で、普仏戦争が勃発します。

 で、帰国した従道と入れ違うように、今度は大山巌が普仏戦争の観戦に出発していまして、こちらは渡欧日記があります。今回、国会図書館の憲政史料室で、その渡欧日記の実物を、見ることができました。時間がありませんでして、ろくろく解読できてないのですが、冒頭に、以下のような記述がありました。えーと、私のいいかげんな読み、書き写しですので、語句のちがいもあると思われますが。

明治3年8月25日
 ………今日大迫、野津両氏横浜に来たり同宿す。また信吾(従道)、中村宗謙(博愛)子同道にて来る。万事両人の世話に預かる。殊にこの両人は近日欧州より帰りくれば……


 ともかく、です。大山巌は帰ってきたばかりの従道と博愛の世話を受けて旅の準備をし、アメリカまわりでまずはイギリスへ、さらにプロイセン、そしてフランスへ入っているんです。この日記、後になるほど殴り書きで文字がくずれ、よく読めませんで、パリ着がいつなのかはわかりませんし、どういう状況なのかもわからないのですが、大山はパリで、長十郎くんと正名くんに会っているのは、確かみたいです。名前だけは、私にでもすぐに読みとることができましたので。普通に考えれば、1871年1月28日(和暦では明治3年12月末になります)のパリ降伏以降、明治4年の初めのこと、と思われます。
 
 そして、fhさまのところの「備忘 岩下長十郎3」によれば、長十郎くん、どうも、大山巌に会ってしばらく後には、帰国したようです。もしかして、大山とともに帰国したのか? とも思われますが、ともかくパリのあたり、大山の日記がちゃんと読めておりません。複写をお願いするつもりですので、それから、ですね。
 で、長十郎くんは、大久保利通のはからいで再び留学決定。とりあえずは、岩倉使節団にいて、大久保一家の通訳のようです。

 さらに、再びfhさまの「備忘 岩下長十郎」。大久保がアメリカから一時帰国をしておりますすきに、長州の山田顕義が長十郎くんを奪います。結局、兵部省に属することになって欧州に渡ったらしく、明治5年(1872年)8月18日、パリで、山田顕義とともに仏留学してきた陸軍兵学寮生徒の夕食会に参加しているそうです。
 もちろん長十郎くんは、大久保をはじめとするパリの薩摩藩出身者一同とも会っていて、大久保を囲む集合写真に写っています。



 このとき、21歳。凛々しく、端正なお顔立ちです。
 そして翌明治6年、長十郎くんは帰国して大尉となり、司法省においてボアソナード(wiki参照)の講義の通訳をしているそうです。
 で、明治7年8月には「御用有之欧羅巴へ差遣」という辞令が出ているそうでして、またも渡欧。以降、フランス語の能力を買われて、フランス式兵制をとった陸軍で活躍していたことは確かです。この7年以降は、アジ歴にかなり辞令などがあがっています。

文明開化に馬券は舞う―日本競馬の誕生 (競馬の社会史)
立川 健治
世織書房

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 上の本は、明治、馬匹改良と直結していた日本の競馬について書かれた本なのですが、明治10年ころから、宮内省、内務省、陸軍が競って、競走馬の生産、育成に力をそそいだ、といいます。陸軍の持ち馬で活躍したのは、ボンレネーと朝顔なんですが、「お傭いフランス人馬医・アンゴ A.R.D.Angot か、砲兵大尉岩下清十郎、あるいはその共同名義で出走」していたのだそうです。この「砲兵大尉岩下清十郎」「長十郎」のまちがいであることは、アジ歴の「参謀本部大日記 明治12年自6月至12月「大日記部内申牒2参水」にある「官馬拝借の処職務に難用引替願 陸軍砲兵大尉岩下長十郎 参謀本部長山県有朋殿」などの書類で証明できます。
 つまり、どうも長十郎くんは、馬匹改良にもかかわっていたようなのです。

矩を踰えて―明治法制史断章
霞 信彦
慶應義塾大学出版会

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 上の本には、短いながら、「異色の陸軍刑法編纂官」という章があり(fhさまの「備忘 岩下長十郎」『書斎の窓』466、1997年「明治史の一隅を訪ねて 法典近代化の先駆けとして-岩下長十郎-」と同じものです)、長十郎くんを「法典近代化の一端を担った人物」と評価しています。えーとですね、明治9年、陸軍刑法を新しくするための「軍律取調」がはじまったのですが、その11名の取調メンバーの一人に、長十郎くんが任命されているんですね。もちろん、フランス語の能力を買われてのものです。ところが、明治14年末に陸軍刑法が完成したとき、長十郎くんは功労者に連なってはいませんでした。不慮の死を遂げていたからです。
 明治13年8月12日付の東京日々新聞は、次のように報道しているそうです。
 長十郎くんは横浜のスイス時計商の夜会に招かれ、その帰りに、某国人と連れだって海岸へ行き、「我らが水泳を見せ申さん」と、衣服を脱いで海に飛び込みました。ところが、いつまでたっても浮かんでこないので、巡査に知らせて篝火を焚き、懸命に探したのですが見つからず、翌朝になって、波止場のわきに遺体が浮いていたのです。

 享年、29歳。妻と幼子を残しての若すぎる死でした。
 再々度、fhさまの備忘 岩下長十郎2。10年後までも、薩摩人の間で語りぐさになっていた悲劇だったんです。
 霞信彦氏は、「『過去帳』は、岩下(長十郎)が『青山』に埋葬されたと述べていますが、それを現在の青山霊園と解するとき、岩下長十郎の奥津城をかの地に見出すことはできません」と述べておられるのですが、私、とあるサイトさんで「岩下子爵の墓は青山霊園にある」とお教えいただき、父親の墓があって、先立った愛息の墓がそばにないわけがない!!!と思い、さがしに出かけたような次第です。


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『抱擁』 映画と原作

2009年11月18日 | 映画感想
すみません。シリーズの途中で、ちょっと寄り道を。
19世紀のイギリスが舞台になっているというので、かなり以前に買って、一度は見ていたDVDです。

抱擁 [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

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 最初に見たときの印象は、それほど強いものではなかったんです。
 地味で、品はいいけれども、わりに通俗的なメロドラマ、といった感じでして。

 この映画は、イギリスを舞台に、現代と19世紀と、百数十年の時を隔てた2組の恋人たちを、平行して描いています。
 イギリス・大英博物館の研究施設で、19世紀イギリスの桂冠詩人、ランドルフ・ヘンリー・アッシュを研究しているアメリカ人の青年が、ふとしたことから、アッシュ直筆の女性宛手紙の下書きを発見します。調べたところ、どうもその手紙は、女流詩人のクリスタベル・ラモットに宛てたものらしく、青年は夢中になります。アッシュには、妻以外の女性との浮いた話はまったく伝わっておらず、もし、手紙が本当に出されたものであり、二人の間に交流があったとすれば、英文学史上の大発見なのです。
 青年は、クリスタベル・ラモットの研究家である若い女性教授を訪ね、二人はともに、19世紀の恋人たちの足跡を追いかけつつ、自分たちも恋に陥っていきます。

 こういう筋立ては好みのはずですし、役者さんも悪くないですし、19世紀の風俗もけっこう忠実に描かれています。で、あるにもかかわらず、なぜ印象が薄かったか、といいますと、19世紀の部分があんまりにも絵画的で、よくある名画調で、一方、現代の二人はあまりにも普通の現代人すぎでして、なるほど、二つの恋は時代に応じて、それなりによく描かれているのですが、なぜ現代の二人が、過去の二人の足跡を夢中になって追いかけるのか、その熱情が伝わってこないんです。あー、きれいな恋よね、というだけで終わってしまう、というんでしょうか。

 とはいうものの、なにかひっかかるものがありまして、今回、もう一度、見直してみました。で、思ったんです。これは、原作の方がおもしろいのではないだろうか、と。

抱擁〈1〉 (新潮文庫)
A.S. バイアット
新潮社

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抱擁〈2〉 (新潮文庫)
A.S. バイアット
新潮社

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 読んでびっくり、です。よくもまあ、これを映画化できたものだと。
 久しぶりに読んだすばらしい翻訳小説でした。といいますか、文学が力を失いました現代において、映像ではできないこと、小説ならではの試みが存分につめこまれていまして、著者に脱帽です。
 これほど懲りに凝った作品を、です。ごく一般向けの映画にしようと思えば、古典的なロマンスにするしかなかったのだと、それも納得です。ただ……、まったくもって一般的ではない私の好みからしますと、もっと原作に忠実に登場人物を設定し、作中の叙事詩をも映像化し、かぶせて、登場人物の心理を掘り下げた長編が見たい!のですが、いまどき、そんなことにお金をかけてくれる映画会社は、ないんでしょう、おそらく。

 クリスタベル・ラモット役のジェニファー・エイル(エール)は、BBCドラマの「高慢と偏見」 [DVD]で、主人公のエリザベスを演じた役者さんです。演技達者で、19世紀の雰囲気にぴったりではあるのですが、自己主張の強い、時代の枠をはみだそうとする女の強烈な個性や、なんというんでしょうか、いかにも冷ややかな隔絶した美しさが、容姿にないんです。オースティンの作品や、あるいはジェイン・エアならばお似合いなのですが。
 第一、原作におけるクリスタベル・ラモットの髪は、白に近い金髪、つまりプラチナ・ブロンドでして、それが、物語のキー・ポイントになっています。一言でいって、クリスタベルは塔に閉じこめられたラプンツェルであり、ラプンツェルを閉じこめる魔女でもありました。
 私のイメージでは、ニコール・キッドマンです。見てないんですが、「めぐりあう時間たち」 [DVD]で、ヴァージニア・ウルフを演じたのですから、十分にこなせただろうに、と思います。
 ランドルフ・アッシュは、もうこれは好みの問題なんでしょうけれども、ルパート・エヴェレット。ジェニファー・エイルは、アッシュの妻、エレンだとぴったりだったんですが。映画では、あまり強いイメージがなかったエレンですが、原作では、陰の主役です。クリスタベルを裏返してみればエレン、という感じで。
 現代の恋人たち、アッシュを研究する学者の卵、ローランド・ミッチェルは、原作ではアメリカ人ではありませんで、イギリス人。これはもう、ぜひ、コリン・ファース。クリスタベルの研究家、モード・ベイリーは、グウィネス・パルトロウでも悪くはないんですが、見た目の氷の姫君然とした冷たい雰囲気がいま一つ。ニコール・キッドマンの一人二役希望、です。
 
 ランドルフ・アッシュとクリスタベル・ラモット。19世紀の二人の詩人は、架空の人物です。
 訳者あとがきによれば、アッシュのモデルはロバート・ブラウニング。うーん。バーティ・ミットフォードの友人ですわね(リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋参照)。
 クリスタベルの方は、クリスティーナ・ロセッティ(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妹)、エミリー・ディキンスン、そしてブラウニング夫人のエリザベス・バレットが、モデルとして考えられるそうです。
 物語の焦点となる二人の往復書簡はもとより、二人の恋をぬきには成り立たなかった重要な長編詩も、全部、著者が作り上げたものでして、そればかりか、エレン・アッシュをはじめ、二人の周辺の人物の日記や書簡が次々に引用されるのですが、これも全部、創作です。驚嘆しますことには、ちゃんとヴィクトリア朝の文体なのだそうです。
 さらに、現代の登場人物は、主人公の男女二人をはじめ、その多くが、アッシュまたはクリスタベルの研究者です。それぞれに個性的な研究者たちの、詳細な脚註付きの論文が引用され、いえ、実はこの脚註、あまりにも専門的にすぎまして、全部は訳出されてないそうなのですが、すべてが創作なのです。アッシュに関する創作論文に以下の脚註がありまして、もう、目眩がしました。

「(アッシュの葬式の様子について)スウィンバーンがセオドール・ワッツ・ダントンにあてた手紙の中でそう記録している。A.C.スウィンバーン『書簡集』五巻 二八〇頁。スウィンバーンの『老いたる世界樹と教会墓地のイチイ』なる詩はR.H.アッシュの死去を悼む思いに誘発されたものと言われている」

「わあっ!!! アッシュって架空の人物……、だよねえ???」と、思わず叫びたくなるではありませんか。
 アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンはもちろん実在の詩人で、バーティ・ミットフォードの従兄弟です(リーズデイル卿とジャパニズム VOL1ほか参照)。ワッツ=ダントンも、もちろん実在しますし、アルジー(スウィンバーンを私が勝手にこう呼んでいます)の友人だったことも事実です。

 アルジーは、クリスタベルの長編叙事詩『妖女メリュジーヌ』の評価者としても登場します。「控えめながらも、たくましい蛇の物語で、女性の手になる作品とは思えぬほどの力強さと毒気をはらんでいるが、それは迫力あるストーリーの展開によりも、むしろ想像力を象徴するコールリッジの蛇のように、己れの尾を己れ自身の口にくわえたイメージによるところが大きい」と評しているとされていまして、伝説を素材にしたクリスタベルのこの作品は、一度は忘れ去られながら、1960年代以降のフェミニズム文学興隆の流れの中で見直された、という設定ですので、後期ラファエル前派の仲間だった唯美派詩人のアルジー(リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォード参照)が評価していた、というのは、いかにもありそうなことなのです。
 
 アルジーだけではありません。エドマンド・ゴス(リーズデイル卿とジャパニズム vol9 赤毛のいとこ参照)も評論文に出てきますし、ウィリアム・ロセッティも出てきます。ウィリアムは、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの弟でして、英仏世紀末芸術と日本人に出てきました薩摩密航イギリス留学生の吉田清成と畠山義成がロセッティとお茶したらしい話は、このウィリアムの書簡の中に出てきます。アッシュとクリスタベルは、バーティ・ミットフォードと同世代で、二人が生きたイギリスには、長州や薩摩の密航留学生たちがいて、見事に、幕末から明治初年のお話なのです。

 そういえば、映画でもさわりだけは描かれていますが、19世紀の恋人たちの関係に、降霊会(まあー、その、コックリさんの世界です)が重要な役割を果たしていまして、その関係で、スウェーデンボルグの名も出てきます。吉田清成や森有礼が傾倒していましたハリス教団は、このスウェーデンボルグの流れをくむもので、「江戸は極楽である」を書いたときには、よく知らなかったのですが、19世紀の英米で流行った降霊会も、同じ流れの中にあるものだったんです。「ねじの回転 」の著者、ヘンリー・ジェイムスの父親が、スウェーデンボルグを信奉する宗教哲学者だったりします。
 非常におおざっぱな感触でしかないんですが、ラファエル前派や唯美主義と、霊体験を重んじるスウェーデンボルグの神秘主義は、ごく近い場所にあり、平田国学が霊界を重んじていたことを考えますと、案外、幕末日本の文化は、19世紀欧米のこういった流れになじみやすいものであった、という気がします。

 ところで、クリスタベルの名は、サミュエル・テイラー・コールリッジの「クリスタベル」を、モード・ベイリーの名は、クリスティーナ・ロセッティの「モード」を連想させますし、私が思いつくのはその程度でしかないのですが(といいますか、コールリッジが登場しまして、私ははじめて、連想を期待した名だということに気づいたのですが)、この小説は、例え英語圏の住人であっても、よほどの文学オタクでなければ、十二分には鑑賞しきれないのではないでしょうか。

 英文学通が読めば、そういう深い、といいますかディープな楽しみ方ができる小説なのですが、とはいうものの、この小説のすばらしさは、例え私のようにろくに英文学を知らなくても、19世紀のロマンスを掘り起こし、その時代に生きた人々を生々しく甦らせる、という、架空の探検に参加できるところにあります。これぞ、小説を読むことの醍醐味、です。
 いい作品にめぐりあいました。


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イギリスVSフランス 薩長兵制論争5

2009年11月08日 | 英仏薩長兵制論争
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争4の続きです。実は前回も使ったのですが、以下の2冊が主な参考書です。

イギリス国民の誕生
リンダ・コリー
名古屋大学出版会

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ウェリントンの将軍たち―ナポレオン戦争の覇者 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)
マイケル バーソープ,リチャード フック
新紀元社

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 第2次百年戦争と呼ばれる18世紀の百年間、イギリスはフランスとシーソーゲームをなしつつ、世界帝国を築き上げていきました。前回にも書きましたように、それは、主には海軍力によるものでして、植民地における英仏対戦にまで言及していく必要があるのですが、それは置いておきます。

 七年戦争(wiki七年戦争参照)で勝利したイギリスは、アメリカ独立戦争で敗北を喫し、支配者層は未曾有の危機感を持ちます。とはいうものの、これまでの戦争において、一度たりともイギリスは、本国が戦場になったことはありませんでしたし、大海軍を擁した島国であったがため、本格的な敵軍上陸の危機にさらされたこともありませんでした。
 また、アメリカ独立戦争にしましても、独立側に心をよせるイギリス貴族もありましたし、挙国一致というにはほど遠く、もともと、王の専制は議会によって押さえられ、貴族層と商工業者(ブルジョワジー)とに境目が無く、18世紀の半ばからは産業革命が起こって、他国を凌駕する商工業の発展をみていましたので、エリート層の自己改革もうまく軌道に乗ろうとしておりました。

 皮肉なことに、危機が訪れたのは、勝利したフランスの側でした。これについては、wiki-アメリカ独立戦争におけるフランスが、的確に解説してくれております。フランスの国家財政が苦しくなりましたのは、別にマリー・アントワネットの浪費によるものではありませんで、アメリカ独立戦争への介入によるものです。

 フランス大革命のイギリスにおける衝撃は、勃発の一年後、庶民院(下院)におけるエドマンド・バークの演説が象徴してくれています。以下、「イギリス国民の誕生」からの引用です。

「……富裕なジェントルマンの家系に生まれ、報酬や所領の維持を狙っていると疑われるだけで、彼ら自身には何の責任もないのに、大邸宅が破戒、略奪され、身体は乱暴され、傷つけられてしまう。奪われた権利証書は、彼らの目の前で焼却されるし、ヨーロッパ中の国々に、家族を引き連れて逃亡しなくてはならない状態を想像してみたまえ」

 えーと、ですね。ずいぶん以前に「江戸は極楽である」において、水谷三公氏の「江戸は夢か」 (ちくま学芸文庫)をご紹介しました。19世紀欧米において、「財産権は個人の権利であり、貴族だからといってその例外ではなく、それを侵害するのは政府の暴挙」であった、という話なのですが、水谷氏はイギリスの研究所におられた方ですし、もともとはイギリス近代史がご専門だったようです。わけてもイギリスにおいては、そうだったのではないでしょうか。
 財産権の侵害は、暴虐以外のなにものでもなく、「自由を抑圧する独裁」というわけです。
 20世紀にいたっても、イギリスのフランス革命に対する大衆的イメージが、「恐怖政治」であったことは、「紅はこべ」 (創元推理文庫 507-1)が語ってくれます。

 1789年、バスティーユ襲撃の時点で、イギリスの正規陸軍は4万でした。これが、ナポレオン戦争が終結する1814年までに、25万に膨れあがります。
 フランス革命からナポレオン戦争にかけて、ちょうど産業革命が軌道に乗った時期でもあり、絶対王政時の軍事革命に次ぐ、軍事革命の時代といわれ、国民国家誕生の産床となりますと同時に、それまでとは隔絶した規模で、国民全体をまきこむ戦闘が行われるようにもなったわけです。

 この正規軍のふくらませ方の一つとしまして、上記「ウェリントンの将軍たち―ナポレオン戦争の覇者 」から、私的義勇軍、というんでしょうか、最初から正規軍部隊をめざして、のようでもあるのですが、貴族や大地主が借地人を募集して、歩兵連隊を編制し、そのまま正規軍となる話が散見されます。

 まずはアクスブリッジ伯ヘンリー・パジェットの場合。彼は伯爵家の長男で、革命までの本人の軍務経験は、父親が指揮するスタッフォードシャー州民兵軍の将校を務めたことがあるだけでした。1793年、ルイ16世が処刑されるにいたり、イギリスは危機感を持って第一次対仏大同盟を主催し、対仏戦争に突入します。同時にヘンリーは、父伯爵の借地人から志願者を集め、第80歩兵連隊を作って、一時的に陸軍中佐になった、というのです。そのまま彼はフランダースの戦場に赴き、旅団を指揮するまでになりましたが、歩兵ではなく騎兵隊を指揮したい、ということで、父親に働きかけてもらい、軽竜奇兵の中佐の地位を得て、大活躍をします。
 
 もう一人、トーマス・グレアム。どうもこの人、英国では相当に有名な人物のようです。この時代を舞台にしたイギリスのテレビドラマ「炎の英雄 シャープ」 DVD-BOX 1に出てくるようなんですが、見たいと思いつつ、私、まだ見ていません。
 ともかく、トーマスは、パースシャーのバルゴワンの大地主の三男として生まれました。オックスフォードで学んだ後、キャスカート卿の娘・メアリーと結婚し、パースシャーの領地を購入して、農業経営に専念しました。夫人が病弱であったため、海外で暮らすことも多く、1792年、南仏滞在中に、ついに夫人は病没します。ゲインズバラの肖像画が残っていますが、この夫人が美女でした。

 

 遺体を故国へ運ぶ途中、フランス革命軍の役人が、密輸品を探す目的で夫人の棺を開けたんだそうです。これに憤慨したグレアムは、とりあえず単身イギリス正規軍に志願して将校となり、軍務を経験した上で、故郷バースシャーに帰り、私財を投じて、第90歩兵連隊を編制します。
 えーと私、パースシャーのバルゴワンってどこぞや? と調べてみたんですが、スコットランドの高地地方でした。勇猛でならしたハイランダーの土地、です。古くから傭兵を産出し、近代ではイギリス陸軍の精鋭部隊を生み出した地方ですから、グレアムの歩兵連隊は、当然、強かったことでしょう。

 で、正規軍はもっぱら外地に赴いたわけでして、国土防衛軍なのですが、前回書きましたように、各州民兵軍は常に兵員不足で、平時には3万2千の定員をも満たしていませんでした。それには、人数の割り当てが実情にあっていなかったこともあったようです。急激な産業化で、兵役が勤まる若い男性は、都市集中していたにもかかわらず、都市よりも農村への割り当てが多かったそうでして、おそらくは、ヘンリー・パジェットやトーマス・グレアムのような、貴族やジェントリを主な指導者に想定していたがためなのでしょう。
 最初の5年間、といいますから、イタリア戦役にナポレオンが登場するまで、ですが、イギリス当局は民兵隊の兵卒不足に、積極的な手を打ちませんでした。1796年になって、ようやく民兵補充法ができ、最終的には、百万にまでふくらんだのだそうです。

 「イギリス国民の誕生」によれば、当局は当初、民兵隊の拡大に腐心するよりも、ジェントリによる私設義勇軍を奨励し、それは主に、「当局が自国の武装した民衆(兵卒となる人々)を恐れ、国内の無秩序を防ぐための護衛軍を求めたため」だったのだそうです。
 しかし、どうなんでしょうか。確かに、支配者層の自国民(下層の、ですが)への信頼が足りなかったことは事実なのかもしれませんが、私設義勇軍は私費で賄われるわけでして、正規陸軍だけではなく海軍も膨らみ、戦費がいくらあっても足りない状況において、当局が金のかからない防衛軍を望んだ、ということは、言えると思います。それに、著者も後に述べていますが、貴族やジェントリが指導者となって、あるいは地域の仲間が集まって、結成する義勇軍は、州民兵隊とちがって正規軍のきびしい軍法に従う必要がなく、自己運営される気楽さがありますし、州民兵隊よりも広範に人集めができる、ということが大きかったのではないでしょうか。

 最初のうち、まだまだ、イギリス本土にまで災いがおよぶ実感がない間は、義勇軍を結成するのは裕福な人々がほとんどで、きらびやかで、非実用的な制服を作って着込み、肖像画を描かせる、といったお遊び感覚も目立ったそうです。
 しかし、1797年、ナポレオン軍は欧州大陸を席巻し、第一次対仏大同盟は崩壊して、イギリスは孤立します。以降、紆余曲折はありますが、1802年から一年間和平が成り立った期間をのぞいて、イギリスは戦い続け、1805年には、ナポレオンが18万の兵をドーバー海峡に面した地に集め、イギリス上陸をもくろむ、という危機もありました。
 トラファルガーの海戦の勝利で、一応、フランス陸軍に上陸されるという未曾有の危機は遠ざかりましたが、1806年、ナポレオンは大陸封鎖令によって、イギリスと大陸諸国との交易を禁じる手段に出ます。

 こういった切迫した母国の危機によって、イギリス当局が当初は軽視していた下層の職人や労働者たちまで、愛国心をめざめさせることとなり、「イギリスの自由を守る」義勇軍の兵数も50万にまで膨れあがりました。以下、「イギリス国民の誕生」から、イングランド北部のカンバーランド、ウェストモーランドで2万人近くが署名した宣誓書の文言です。

「われわれは、君主専制をこのうえなく嫌悪する。共和専制をそれ以上に嫌悪する……、われわれが生きているうちは、いかなる類いの専制政府にも屈するつもりはない」

 「市民」とはいうものの、「持てる者」のスローガンだったイギリス伝統の専制政治への嫌悪、自由の尊重は、ナポレオン戦争を通じて、持たざる庶民層にも、浸透していくことになったのです。

 えーと、フランスとの比較まで、今回たどりつけませんで、次回に続きます。


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イギリスVSフランス 薩長兵制論争4

2009年11月06日 | 英仏薩長兵制論争
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争3の続きです。

 清教徒(ピューリタン)革命の内乱の中で、議会軍を指揮して頭角を表し、独裁者にのし上がったのがクロムウェルです。彼も、ジェントリでした。
 しかし、なんなんでしょうか。えー、1644年、マーストン・ムアにおいて、議会軍と王党派軍が、2万6千vs1万7千で未曾有の大会戦を起こした、というのですが。これより44年前、関ヶ原の戦いでは、東軍10万、西軍8万ともいわれていまして、この程度の兵数で未曾有の大会戦とは、さすが海軍を偏重しましたイギリスです。

 ま、ともかく、です。クロムウェル率いる騎兵は、新戦法を身につけ、しかも清教徒の熱狂的な信仰で結ばれていましたがために圧倒的な強さを誇り、議会での発言権を増したクロムウェルは、自分の軍隊を核として、議会の常備正規軍を創設するんですね。つまり、イギリスにおける最初の常備正規軍は、王の軍隊ではなく、議会の軍隊だったのです。
 が、この議会にもさまざまな党派があり、意見がありました。結局、クロムウェルは自分が掌握した正規軍を使って議会の反対派を追い払い、捕らえていた国王を処刑して、共和国を打ち立てるんです。

 クロムウェルが死に、王政復古が成ったとき、常備正規軍は4万に膨らんでいたのですが、解散が求められます。しかし、とりあえずは規模を縮小し、結局、1万5千ほどが王の常備正規軍、ということで落ち着いたようです。
 とはいうものの、共和国独裁の道具であった正規軍が、今度は王の独裁の道具になるのではないか、という懸念は去りません。それが、前回引用しました「急進的ウィッグ派と穏健的ウィッグ派の意見対立」となっていたようです。で、急進的ウィッグ派が打ち出していた「民兵」の概念ですけれども、州防衛の民兵を国防に転用しようということだったのか、あるいは有事には義勇軍を仕立てようということだったのか、はっきりと記した文献にはめぐりあえませんでした。とはいえ、この場合の民兵は、後述する理由から、どうも義勇軍をさすのではないか、と思います。

 17世紀の末、今度は名誉革命が起こります。カトリックに傾倒していましたジェームズ2世が追われ、その娘でプロテスタントのメアリー2世と、夫のウィリアム3世の共同統治ということになったわけなのですが、即位にあたって、議会により権利章典がつきつけられます。この権利章典に、以下の2条があるんです。

 ●国王は議会の承認なしに平時において常備軍を維持することはできない。
 ●新教徒(プロテスタント)である臣民は自衛のための武器をもつことができる。


 これで見る限り、穏健派の意見が通ったことはわかるのですが、同時に、プロテスタントに限って、ですが、圧政に対して武器をとる権利も要求しているわけですから、理念の上においては、反政府義勇軍(ミリシア)の結成も認められていたことになります。
 クロムウェルの独裁は、反対派の財産権を侵害するものでして、これは、政府の圧政から、武器をとって自らの財産を守る権利、といいかえることもできます。ということは、「市民自らの自由を奪う動機をまったく持たない市民兵」とは、私的義勇軍のことをいうのだと、推測できるのです。

財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家1688-1783
ジョン ブリュア
名古屋大学出版会

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 ここからの参考書は、ほぼ上の一冊です。

 18世紀、イギリスは強大な海軍力をもって、植民地経営と交易に邁進し、帝国の礎を築きあげます。海軍の巨大化がはじまりましたのも、クロムウェルの時代から、でして、勃興してきました商工業者の要求に応え、海上運輸の安全確保、という意味合いが大きかったものですから、ロイヤル・ネイビー、王の海軍であったにしましても、市民(ジェントリや富裕な商工業者、です。主には)の自由と対立する、というような見解は起こらず、また海軍に限っては軍備拡大費用も利益となって納税者に返ってくる、ということで、ふくれあがっていきました。19世紀、イギリスが世界帝国となってパクス・ブリタニカを打ち立てる下地は、この時代に完成するのですが、それに寄与したのは主に海軍でした。しかし、とりあえずそれは置いておきます。

 海軍が巨大になった、ということは、海上輸送能力もあがった、ということでして、イギリスはヨーロッパ大陸における争いにもコミットするようになり、18世紀を通して、フランスと対立しました。これは、フランス海軍が強力になっていたこともあり、植民地に渡ってまで繰り広げられ、中世の百年戦争になぞらえて、第2次百年戦争とも呼ばれます。最終的に、ナポレオン戦争でイギリスが勝利をおさめ、19世紀のパクス・ブリタニカが訪れたのです。

 なぜイギリスが大陸にコミットするようになったかといえば、一つには、名誉革命以来、イギリス議会はカトリックの君主を嫌い、女系をたどって大陸出身の王を据えることになったこと、もあります。オランダの王族だったウィリアム3世もそうでしたが、続くアン女王には無事に成人した子供がなく、結局、ドイツ領邦ハノーヴァー公国の君主・ゲオルク・ルートヴィヒが招かれ、1714年、ジョージ1世として即位したのです。以降、19世紀のヴィクトリア女王即位に至るまで、ハノーヴァー公国とイギリスは、同君連合の関係にありました。
 フランスが、イギリスの王位継権を持つカトリックの王族を後押し、しかも海軍力を増強していたフランスは、アイルランド上陸を企てるようなこともありました。

 18世紀、平時におけるイギリスの正規常備陸軍は、3万から5万ほどで、クロムウェルが最終的に組織していた正規軍数と、さして変わりません。しかも、そのうちの大半はアイルランド正規軍としてアイルランドに常駐し、アイルランドの税金で養われましたので、イングランドに常駐する正規軍は、ほぼ1万5千であったようです。
 やはり、「大規模な正規陸軍は独裁政治の道具になりかねない」という観念は、根強くあったのです。
 しかし、有事にはこの正規軍が大幅に増強されます。
 スペイン継承戦争で9万、オーストリア継承戦争で6万、7年戦争で9万、アメリカ独立戦争では10万を超えました。
 正規軍の兵卒は、基本的に志願でしたが、有事にはそれだけでは足らなくなり、かなり無理な強制徴募もされたようです。
 
 貴族やジェントリーの子弟を中心とする、正規軍の将校団は、専門職化されていきました。とはいうものの、正規常備軍の存在そのものが、大陸諸国にくらべれば一世紀遅れて成り立ったものでしたので、士官学校の設立も遅れ、徒弟制度というのでしょうか、いきなり入隊して見習い将校からはじめる、という形態が、19世紀の前半まで残ったようです。さすがに、技術専門職である工兵隊、砲兵隊の将校については、1741年、ウーリッジに士官学校ができましたが、陸軍の華である騎兵隊、歩兵隊の士官学校が、サンドハーストに設立されるのは、18世紀も押し詰まり、ナポレオン戦争の最中、1799年のことでした。
 つまり、18世紀いっぱい、イギリスに本格的な士官学校はなかったといってよく、ナポレオン戦争時に活躍した将軍たちの中で、専門の将校教育を受けた者は、なぜか、アルザス・ロレーヌ地方にあったストラスブール士官学校に留学していた割合が多いようです。18世紀のイギリス陸軍将校には、フランス系の亡命ユグノー教徒の末裔がかなりいて、おそらく、なんですが、彼らに好まれた士官学校であったのかもしれません。

 さらに、これもナポレオン戦争時から逆に推測すると、なのですが、有事には、貴族や大地主所有者が編制した私的義勇軍が、そのまま正規軍に組み込まれることもあったようです。地域にもよったようですが、兵卒となる庶民にとって、まったくなじみのない正規軍に突然放り込まれるよりも、自分たちの地主が編制した軍で、顔なじみの仲間とともにある方が安心でき、志願兵になりやすかった、という状況だったのでしょう。
 
 また、この当時のイギリスは経済強国となっていて、ハノーヴァー陸軍はイギリス王の指揮下にありましたので当然ですが、同盟軍の外国兵に資金援助をすることも多く、前世紀に引き続いて傭兵も多数傭いましたので、正規軍の兵数のみでははかりきれないい兵力を備えていました。

 以上は派遣陸軍ですが、国土防衛軍としては、民兵隊が整備されます。1757年、フランス軍の上陸が懸念された7年戦争において、民兵隊法が成立します。以降、各州の民兵は年に28日の教練を義務づけられ、従軍中は軍法に従う必要がある正規の存在となり、その費用は、地方税で賄われました。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋に出てきますバーティ・ミットフォードの曾祖父、ウィリアム・ミットフォード大佐は、ハンプシャー民兵軍の将校を務めましたが、同僚のエドワード・ギボンは、「近年の戦闘教練と機動演習を経験して、私は古代のファランクスとレギオンがどのようなものであったか鮮明に想像できるようになった」と述べているそうです。
 新しく再編された州民兵軍では、初歩ながら、最新の軍事技術に触れえるようになり、18世紀に入って専門化していた軍事が、今度はもっと広範に、国民にとって身近なものともなっていった、といえなくもないのですが、バーティの曾祖父やギボンのように、将校となったジェントリたちはともかく、兵卒として駆り出される農民や労働者にとっては、あまりありがたいものではなかったようで、十分な兵数がそろわなかったといわれます。
 イギリスの陸軍が国民軍と呼べるようになるのは、やはり、欧州を席巻したナポレオン戦争においてのことでした。

 えーと、では、前回書きました私説義勇軍は? ということなのですが、前述しましたように、ずっと存在はしていたのではないか、と思われます。少なくとも、結成の自由はありました。しかし、これも本格的に市民軍として稼働しはじめましたのは、どうやら、ナポレオン戦争においてのことのようです。
 
 次回、そのナポレオン戦争におけるイギリス陸軍のあり方を見て、フランス陸軍とのちがいを、考えていきたいと思います。


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イギリスVSフランス 薩長兵制論争3

2009年11月04日 | 英仏薩長兵制論争
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争2の続きです。

 ごく最近なんですが、薩摩藩イギリス密航留学生の一人である畠山義成のファンである、という方からメールをいただきまして、私も畠山義成は好きですし、やりとりをさせていただいておりました。残念なことに、いま、サーバートラブルがおありだったとかで、その方の畠山サイトが落ちておいでで、ご紹介できないのですが。

 ともかく。畠山義成は、慶応3年(1867年)のはじめころ、ドーバーで行われた英国海軍と陸上兵力との共同調練に参加しています。中井桜洲(弘)の「西洋紀行航海新説 下」(デジタルライブラリーで読めます)に書かれていることなのですが。

 見物に出かけた中井は、「友人野田(鮫島尚信)、長井(吉田清成)、松村(淳蔵)、杉浦(畠山義成)の4名は遊軍隊なるをもって兵卒とともに至れり」と書いているのですが、この「遊軍隊」とはなんぞや、ということになったんです。なんでもアメリカの資料では、「畠山はイギリスでVolunteer(市民兵)になっていた」とあるそうでして、この「遊軍隊」は、Volunteer(市民兵)が構成していたと考えられます。

 で、前回書きましたが「グラッパム公園邸」という荘園を近代農法で運営していましたハワード兄弟。彼らが雇い人を歩兵にして組織していた義勇軍(ミリシア)のようなものこそが、おそらくはこの「遊軍隊」であろう、という話に落ち着きました。あるいは、見学したその隊に、留学生たちはそのまま体験入隊することになったのかもしれませんし。

 私、近代イギリス陸軍の成り立ちについて系統立てて書かれた本を、ずっとさがしていたのですが、これが、見つかりません。海軍については、「ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ」という恰好の参考書が、見つかったのですけれども。そして、これによりますと、19世紀後半に至っても、イギリスの正規常備陸軍は、異常なほどに小規模だった、ということだったんです。

それで、さまざまな本からひろい読みまして、ようやく19世紀前半までの話が、不完全ながらも一応はわかりました。

戦略の形成〈上〉―支配者、国家、戦争
ウィリアムソン マーレー,アルヴィン バーンスタイン,マクレガー ノックス
中央公論新社

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 上の本なのですが、イギリス陸軍について書かれていたわけではありません。イギリスに関しては、やはり海軍のみ。ただ、中のピーター・マスロウスキー著・森本清二郎訳「列強国への胎動期間 アメリカ(1783~1865)」に、以下の文章がありました。

 アメリカには、軍隊に関する二つのイデオロギーがイギリスから大西洋を越えてもたらされていたが、ほとんどのアメリカ人は、正規の常備軍の保有は専制的制度であり、絶えず自由に脅威を与えるものであるという急進的ウィッグ派の考え方を受け入れていた。急進的ウィッグ派は、職業軍隊を設ける代わりに、民兵の概念を打ち出していた。彼らの考え方によれば、市民兵というものは市民自らの自由を奪う動機をまったく持たないため、もっとも安全な国防体制であるとされた。こうした急進派ウィッグ派の主張にもかかわらず、イギリスは実際には小規模な常備軍を持っていた。それは1645年に新型軍(New Model Army)として始まり、最終的にはクロムウェルの独裁制を布いた。しかし、17世紀後半に入ると、イギリスのイデオロギーのもう一方の潮流をなしていた穏健的ウィッグ派が、専制状態に陥る可能性があらかじめ憲法によって制約されていれば、正規軍は自由と両立するものであると主張した。さらに穏健的ウィッグ派は、自由を守るためには常備軍が必要であるとさえ主張した

 現在でもアメリカでは、あくまでも理念上ですが、政府の圧政に隊して国民が銃を持って立ち上がる権利が保障されている、ということは、わりに知られていると思うのですが、それがイギリスからもたらされた理念だったとは、うかつにも私は知りませんでして、目から鱗、でした。考えてみれば、アメリカはイギリスの植民地だったのですし、清教徒(ピューリタン)革命には、アメリカに渡っていて帰国して参加した清教徒もいる、というような話ですし、イギリスもアメリカもともに長らく正規常備陸軍の規模が小さかったのですから、当然といえば当然のことだったんですけれども。
 そんなわけで、まずは19世紀以前のイギリスにおける正規常備軍と民兵につきまして、参考書は「クロムウェルとピューリタン革命」 (清水新書 (023))「イギリス革命史(上)――オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム」「財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家1688-1783」です。

 封建社会であった中世の欧州において、軍隊は国家的なものではなく、戦争となれば、王が諸侯に命じて軍団を編制させるか、あるいは、プロの戦闘集団である傭兵を傭うか、でした。
 王(あるいは国家)の常備軍拡大は、諸侯の権力がそがれた絶対王政とともにはじまった、といえるのだと思うのですが、「国土に敵が迫っている」ことを理由に常備軍を拡大しますと、戦後もその常備軍は残り、今度はその常備軍が内政にもちいられて権力が中央(王)に集中する、というパターンだったようです。
 戦争の規模も変わってきました。16世紀から17世紀に「軍事革命」が起こった、といわれるのですが、軍事作戦が複雑になり、戦闘が長期化するようになったため、統制がとれた軍事行動が求められ、日頃の訓練の必要も増えて、常備軍は拡大されていったのです。この時期は日本でいえばほぼ、戦国時代から江戸時代初期です。
 そして17世紀の末、といいますから、すでに日本では江戸時代。綱吉が将軍になって、元禄文化が花開こうか、というそのころです。欧州各国の常備軍の数ですが、スペイン7万、フランス12万、日本と交易をしていたオランダにいたっては、国土が狭いにもかかわらず11万で、それぞれ200年前のほぼ10倍になっていた、というのですが、イギリスは1万5千にすぎませんでした。
 
 イギリスは島国です。この絶対王政の時代、海軍に力をそそいでいたことは確かですが、大陸諸国の海軍も強力でしたので、それほど卓越したものではありませんでした。島国であったがために、大規模な常備軍を持つ必要がなかったことは、同じく海軍国であったオランダとくらべれば歴然としています。
 陸戦の規模が大きくなったということは、兵員その他の海上輸送が大変になった、ということでして、攻められる心配も少なくなったと同時に、攻めていくこともなかなか大変、ということになり、人口も少なく、経済的にもそれほど強力であったとはいえなかった当時のイギリスにおいて、大規模な常備軍は、持つ必要がない、と同時に、持つことができないものでもありました。

 イギリスの絶対王政が本格的にはじまったのは、ヘンリー8世から、といわれます。日本でいいますならば、室町時代も後半、銀閣寺を建てた足利将軍義正の孫の世代くらいのお話です。
 ヘンリー8世は、なかなか跡継ぎの男子に恵まれませんで、6人の妻を娶った王さまです。
 ヨーロッパの王室では、一般に、正式な婚姻による嫡出子でなければ跡継ぎになれず、カトリックは基本的に離婚を禁じていました。で、ローマ教皇が結婚の無効を認めるだけのちゃんとした理由がなければ、いくら男子が生まれなくとも次の結婚はできないわけですが、ヘンリーの最初の妻はスペインの姫君、キャサリン・オブ・アラゴンで、スペインからの圧力もあり、教皇は離婚を認めません。

 当時、すでにローマ教皇の権威は衰え、世俗的な教会のあり方を批判したプロテスタントが生まれて、イギリスにも浸透しておりました。結局のところヘンリーは、ローマン・カトリックと縁切りをして、イギリス国教会が設立されることになったんです。映画「ブーリン家の姉妹」が、その当時を舞台にしたお話です。
 以前にも書きましたが、これは当初、簡単にいってしまえば、ローマ教皇にヘンリー8世がとってかわっただけの話でした。とはいうものの、世俗的な権力でもあったカソリック教会は、当時のイギリスの三分の一ともいわれる莫大な資産を所有していまして、実は財政的に苦しかったヘンリーが、それを狙ったのではないのか、という見方もあります。ヘンリーは、修道院などを徹底的に取りつぶし、こうして手に入れた邸宅つき領地を、売りに出しました。

 これを買って資産を増やし、力をつけてきましたのが、ジェントリ(田紳、賴紳などと訳されます)といわれる人々です。ジェントリはもともと村単位くらいの小領主で、ノルマン人を主体とします貴族層の下に位置していたのですが、この時期になってきますと、法律家や医師といった専門職、商工業で資産を蓄えた人々が、地主になる意欲を高めていたんですね。そこへ多量の荘園が売り出されたものですから、これを買い、新たにジェントリの仲間入りをする人々が爆発的に増えたんです。
 時代は一世紀くだって17世紀の話ですが、リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋に出てきますバーティ・ミットフォードの祖先も、イングランド北部のジェントリの三男であったために商人になり、一財産築いて、新たに南部に領地を買い、ジェントリとなりましたが、こういうことが、もっと大規模に起こったわけです。
 封建制がくずれていく中で、ジェントリたちは地方行政の担い手となり、治安判事や、州防衛を担った民兵隊の組織、指揮を、無報酬で務めました。官僚ではなく、土地に密着した存在であったわけです。

 で、誕生したイギリス国教会なのですが、いったんローマ教皇とは縁切りをしたものの、それは政治的な意味合いのものでして、宗教としてどうなのか、といえば、カトリックの教義に批判的だったわけでもありませんで、ヘンリー8世以降、カトリックとプロテスタントの争いは絶えませんでした。「エリザベス」 [DVD]「エリザベス : ゴールデン・エイジ」 [DVD]が、この時代を舞台とした映画です。

 イギリス黄金期の礎を築いた、エリザベス一世。彼女は、国教会とローマ教皇との決別を確実なものにはしましたが、しかし、王政と結びついた国家宗教という位置づけですので、宗教儀式にはカトリック色も残り、大陸におけるプロテスタントとは必然的に異なりました。
 女王の死後、こういった国教会のありかたにあきたらず、徹底したプロテスタント化を求める人々が増え、彼らをピューリタン(清教徒)と言いますが、国教会の頂点には王がいて、国教会が密接に政治と結びついていましたために、ピューリタンたちは議会を根城として、王権と対立するようになっていきます。

 ごくごく簡単に言ってしまいますと、この王と議会の対立が頂点に達し、17世紀の半ば、日本でいいますと三代将軍・徳川家光の時代、清教徒(ピューリタン)革命が起こり、内乱がはじまります。
 議会派は、当初州民兵を味方に組み込もうとしていたのですが、この当時の民兵はろくに戦闘ができるような組織ではなく、結局、この内乱の主体となりましたのが、王党派、議会派ともに、貴族やジェントリが私的に組織しました義勇軍(ミリシア)でした。
 この時代を描いた小説に、ダフネ・デュ・モーリアの「愛すればこそ」 (1965年)がありまして、昔、愛読しました。ハーレークィンっぽい歴史小説ですが、イギリス南西部の王党派ジェントリの暮らしが克明に描かれ、イギリス版「風と共に去りぬ」っぽくもあり、おもしろかったのですが、いまから思えば「義勇軍」だったわけで当然なのですが、なにしろ私の固定観念にあった「王の軍隊」は正規軍ですから、様相がちがいすぎまして、物語の筋運びのために軍隊がこんなに自由きままなのかな、などと、時代背景への理解がゆき届いていなかったようです。

 字数が多くなりすぎまして、次回へと話が続きます。


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