郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

リーズデイル卿とジャパニズム vol6 恋の波紋

2008年07月29日 | ミットフォード
 リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋の続きです。

 さて、バーティの父、ヘンリー・レベリー・ミットフォード(1804-83)です。
 生まれる前に父を亡くし、母は他家に去り、異母姉二人とともに、60歳になった祖父ウィリアム大佐に引き取られ、エクスベリーで育ちました。
 祖父の大佐は、年とともに偏屈になっていき、庭いじりと執筆が趣味で、孫息子にとっては窮屈な生活だったようです。
 大佐も、そして、法律家の弟初代リーズデイル卿も、ヘンリー・レベリーの異母姉たちにはやさしかったそうですが、まあ、じいさんたちにとっては、女の子の方がかわいかったんでしょうねえ。

 が、ヘンリー・レベリーは、気だてが良く、教養豊かに育ちました。
 音楽と絵画に才能を示したところは、祖父ゆずりでしたが、気性の強さには欠けていたようです。
 歴史にも造詣が深く、17世紀、18世紀のフランス史が専門で、語学の才もありました。
 オックスフォードは短くきりあげ、外交官の道を歩みます。
 まだ20代のはじめで、彼は、フィレンツェのイギリス公使館に赴任しました。
 
 1820年代後半ですから、ナポレオン後のウィーン体制が一応安定して、フランスは王政復古。
 イタリア統一をめざすカルボナリ(炭焼党)の活動も、蜂起失敗で沈静化し、フィレンツェは当時、オーストリア・ハプスブルグ帝国支配下の都市国家です。


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 上はジェームズ・アイボリー監督の映画です。
 時代はずいぶんとくだって、20世紀初頭。バーティの子、ヘンリー・レベリーにとっては孫たちの世代になるんですが、フィレンツェで出会った若いイギリス人男女の恋を、丁寧に描いた佳作です。
 ヘンリー・レベリーの時代にも、フィレンツェなど、欧州の主要都市には、かならずイギリス人コミュニティーがありました。
 それはおそらく、20世紀よりは貴族的なもので、映画の男性側、エマソン親子のような階層は、いなかったのではないか、と思えるのですが。
 ヘンリー・レベリーが赴任していた19世紀前半といえば、産業革命による高度成長でイギリス経済は強く、領地を継げない貴族やジェントリーのヤンガー・サンや、現金収入の少ない上流やアッパー・ミドル階級にとって、大陸の諸都市は、安上がりに体面を保つ暮らしが可能だったのです。
 しかし、アッシュバーナム伯爵家の場合は、どうも、「安上がりに」などというものではなかったようです。
 
 Lost Heritage-Ashburnham Place

上のリンクで見ましたところ、「三代伯爵はルネサンス以前のイタリア美術を蒐集していた」というような話で、この三代伯爵サー・ジョージ・アッシュバーナムが、バーティの母方の祖父です。
 アッシュバーナム伯爵家は、フィレンツェに別荘を持っていたそうでして、「眺めのいい部屋」が描く英国人コミュニティーよりもはるかに豪華ですが、箱入りの令嬢がイギリスを離れ、古都フィレンツェに身を置けば、開放感を味会うという点では、同じだったんじゃないんでしょうか。
 レディ・ジョージアナ・ジェミマ・アッシュバーナム(1805-82)は、大家族の一員でした。異母兄2人に異母姉1人。兄が三人、弟が二人。姉が二人に妹が四人です。四つちがいですぐ下の妹が、スウィンバーンの母となるレディ・ジェイン・ヘンリエッタです。
 なぜか、姉たちはみな生涯独身で通したようでして、もしかすると、フィレンツェにもいっしょに来ていたでしょうか。

 ともかくジョージアナは、フィレンツェの別荘に滞在していて、公使館の若き外交官、ヘンリー・レベリー・ミットフォードに出会います。
 二人とも二十歳を少し超えたばかりです。実家は双方がイギリス南部。イタリア美術や音楽や、共通の話題は多そうですよね。
 ロマン主義の時代、コスチュームはこんな感じです。COSTUMES.ORG
 映画では、「ジェイン・エア」とか「嵐が丘」の衣装を、イメージすればいいんじゃないでしょうか。Jane Eyre-You Tube

 二人は恋に落ち、イギリスへ帰った後、1828年に結婚します。
 この前年、祖父のウィリアム大佐は死去していて、ヘンリー・レベリーはエクスベリーを相続し、外交官をやめて、ジェントリーの暮らしに専念します。
 大佐は、ヘンリー・レベリーに金融資産を残してはくれず(おそらく異母姉にいったんでしょう)、イギリスの貴族やジェントリーの子弟が務める外交官というのは、俸給よりも持ち出しの方が多い職業でして、結婚もしたことだし、ということで辞めたようです。当時の男性としては、若い結婚でした。
 おそらく、なんですが、父母を知らないで育ったヘンリー・レベリーは、早く自分の家庭が欲しかったのではないでしょうか。
 二人の間には、数人の子が生まれましたが、幼児期に死なないで育ったのは、男の子三人でした。
 1833年に、双子のパーシーとヘンリー。そして、1837年にバーティです。
 いままでバーティの伝記を読み進めたところで、わかっているのは、バーティの二人の兄のうち、パーシーは結局早世し、ヘンリーはなぜか理由はわかりませんが、家族から絶縁され、ドイツに渡ってドイツで死んだ、ということです。

 さて、ジョージアナは、10年間のエクスベリーでの、地味な田舎地主夫人暮らしで、次第に不満をつのらせたようなのです。
 これは、わからないでもない気がします。
 金融資産がなかった、ということは、ロンドンの社交界とはほとんど無縁だったのだろう、と思えますし、イタリアで美術品を買い集めるようなアッシュバーナム家に育ったジョージアナには、田舎暮らしが、次第に退屈になってきたのではないでしょうか。
 バーティが生まれた直後、どうやらジョージアナの提案で、一家はエクスベリーの邸宅を人に貸し、大陸暮らしをすることに決めます。
 先に書いたように、大陸での暮らしの方が安上がりなので、各地にイギリス人コミュニティがありはしたのですが、それよりもどうも、ジョージアナの心境が優先したようです。

  1838年、一家は、ドイツのフランクフルトに到着しました。
 そこで待ち受けていたのは、イギリス公使館書記官で、セフトン伯爵の末の息子、フランシス・モリノー(1805-86)です。モリノーは、ジョージアナと同い年で、ヘンリー・レベリーとも一つちがいですし、外交官ですから、どうやら二人の共通の友人であったようなのです。
 一家ぐるみのつきあいなので、ヘンリー・レベリーは、まったく疑っていなかったようでしたが、モリノーは毎日のようにジョージアナと会っていたのです。
 三年後の1841年、ミットフォード家はヴィースバーデンに移り住んでいましたが、ジョージアナは、家政婦に荷物をまとめるよう言いつけると、子供たちにさよならのキスをして、モリノーとともに去っていきました。
 バーティが、わずか4歳のころのことです。

 ヘンリー・レベリーにとっては、妻と友人が自分を裏切った仰天の事態で、結局、ロンドンでの離婚裁判になります。
 ヘンリーがモリノーを訴えたわけですが、こういった裁判は、裏切られた夫にとっても恥になりますから、おそらくは、ジョージアナの離婚の意志が固かった、ということではないんでしょうか。
 1842年に離婚は成立し、ジョージアナとモリノーは、結婚してイタリアへ去ります。

 レディ・ジョージアナは、アーネスト・サトウ volで出しました、フランツ・リストの愛人、マリー・ダグー伯爵夫人と同じ年です。
  ジョルジュ・サンドとも、一つちがいで同年代なのですが、奔放な二人のフランス女性は、離婚を禁じたカトリックのお国柄ゆえか、離婚することなく、愛人と同棲しているわけです。
 イギリスの上流社会においても、不倫は珍しいことではないはずで、離婚に踏み切ったジョージアナの思いっきりのよさにあきれるんですが………、それとも、ヘンリー・レベリーの愛が真剣なもので、裏切られたことへの怒りがすさまじかった、ということなんでしょうか。
 おそらく………、なんですが、家族の暖かさを求めて結婚したヘンリー・レベリーにしてみれば、幼い子供まで捨てて出ていく妻は、とても許せるものではなかったのでしょう。
 それにしましても、家政婦が細々と証言するような離婚裁判を引き起こしたのでは、一世紀以上の後までも、英国上流階級がスキャンダルを記憶していた、というのも、無理はないかもしれません。
 結局のところ、どうやらジョージアナは、エクスベリーにいたときからモリノーと関係を持ち、バーティが生まれて、ドイツに赴任したモリノーを追いかけるために、大陸暮らしを提案した、ということであるようなのです。
 ちなみに、ジョルジュ・サンドとショパンの同棲が、ちょうど、ジョージアナの離婚騒動と同じ時期です。Chopin & Sand-YouTube

 ジョージアナとモリノーはイタリアへ去り、そして二度とイギリスへは帰らなかったのでしょうか?
 どうも私には、そうは思えないのです。二人とも、1880年代まで生きています。
 前回にふれたオスカー・ワイルドの「ウィンダミア卿夫人の扇」なんですが、たしかに、エドワード皇太子の愛人、リリー・ラングトレーの極秘出産も、ヒントであったかもしれません。
 しかし、バーティの母親のスキャンダルは、はるかに、アーリン夫人の場合と似ていないでしょうか。アーリン夫人も、幼い娘を夫の元に置き去りにして、愛人と大陸へ去っていたわけですから。
 20世紀半ば、パーティの孫の結婚においてさえ、イギリスの貴族階級は、「あそこの血筋は実はセフトン」というような形で、レディ・ジョージアナの離婚劇を覚えていたのです。まして、1874年、バーティがエアリー伯爵令嬢と結婚したときには、つい30年ちょっと前のできごとにすぎず、「彼の父親は実はー」とささやかれていたとしても、不思議はありません。
 モリノー夫人となったジョージアナが、ひそかにロンドンへ帰り、成長した息子、バーティに会うようなことがあったならば、なおさらです。

 追記
 実は私、「ウィンダミア卿夫人の扇」を読んだのがあまりにも以前なので、大筋以外は忘れてしまっていまして、読み直そうと文庫本を注文しまして、本日とどきました。どびっくり! です。アーリン夫人の過去のスキャンダルについて男同士が話す場面で、なんと「それからヴィースバーデン事件は?」と、あるじゃないですか。いうまでもなく、レディ・ジョージアナが子供たちを捨てて、モリノーと駆け落ちしたのは、ヴィースバーデンです。
 ここまで、あからさまって………、オスカー・ワイルド!!!


 そして………、バーティが実はヘンリー・レベリーの息子ではなく、モリノーの息子だったのだとするならば、バーティにバッツフォードを残したリーズデイル伯爵は、まったくの他人だということになり、「真面目が肝心」で、ひろい子のジャック・ワージングに資産をゆずったジェントリー、カーデュ氏を思わせるのです。
 で、たとえバーティがミットフォード家の血筋ではなく、セフトン伯爵家の血筋であったにしましても、良家の結婚相手としてふさわしくない血筋、というわけではないですし、めでたしめでたし、なわけです。

 とはいうものの、どうも私には、バーティの母、レディ・ジョージアナの実像が、はっきりと思い描けません。
 彼女の曾孫のダイアナ・ミットフォードのように、二度目の夫を愛しぬいたのでしょうか。
 しかしダイアナは、子供を捨ててギネス家を出て行きはしなかったのです。二人の息子をともなって家を出て、ともに暮らしています。
 あるいはジョージアナの後半生は、オスカー・ワイルド描くアーリン夫人のように、平凡な幸せを捨てたことを後悔するようなものだったのではないかと、想像してみたりもします。

 なんにせよバーティ・ミットフォードは、スキャンダルの中、幼くして母に捨てられたわけです。
 
 「恋の波紋」の最後は、コリン・ファースがジャック・ワージングを演じる「真面目が肝心」で。The impottance of being earnest-YouTube


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リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋

2008年07月27日 | ミットフォード
 リーズデイル卿とジャパニズム vol4 恋の波紋の続きです。
 まずはちょっと、映画の紹介から。

アーネスト式プロポーズ

アルバトロス

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 この映画、なんでこんな題名にしたんだか、原作は、オスカー・ワイルド(1854-1900)の喜劇「真面目(アーネスト)が肝心」です。人名のErnestと、earnest(真面目)という単語が同じ発音であることからの、ダジャレっぽい題名です。詳しくはWikiをご参照ください。
 私、この原作を読んでないのですが、うまく原作を生かしているのではないか、と感じます。

 なぜこの映画を持ち出したかと言いますと、まず、バーティは、オスカー・ワイルドと交流があったんだそうなんです。
 以下、ヒュー・コータッツィ著 中須賀哲朗訳「ある英国外交官の明治維新―ミットフォードの回想」の訳者あとがきより、です。

 建設庁に在任中(1874-86)、ミットフォードは英国の指導的な政治家・芸術家・文人らと交友関係をむすんだ。そのなかにはJ・ホイッスラー、F・レイトン、T・カーライル、オスカー・ワイルド、R・ブロウニング、アーサー・サリバン、それからハンガリー生れのバイオリニスト、J・ヨアヒムなどがいる。

 こういったバーティの交遊とジャパニズムについては、伝記の購読が進んでから、ゆっくり取りあげるつもりですが、山田勝著「オスカー・ワイルドの生涯―愛と美の殉教者 」(NHKブックス)によれば、です。ワイルドは「ごく一部の人にしかわからないことを作品に注入するのが好き」で、前作の喜劇「ウィンダミア卿夫人の扇 」(新潮文庫)においては、バーティの友人、エドワード皇太子の秘事を、だれにもわからないように取り入れているんだと、いうんですね。
 つまりワイルドは、皇太子の愛人、リリー・ラングトリーが密かに皇太子の子供を産んだことを知っていて、そのリリーを、劇中人物アーリン夫人(実はウィンダミア夫人の失踪した母)のモデルにしていた、というのです。

 私、映画でコリン・ファースが演じるジャック・ワージングを見て、最初からなんとなく、バーティってこんなかんじだったのかな……、と思っていたのですが、一世紀にわたってなり響いたミットフォード家の血筋の噂を知って、ジャック・ワージングのモデルはバーティにちがいない!という妄想を抱くようになりました。

 ワイルドと知り合ったころ、バーティは結婚してロンドンのチェルシーに邸宅をかまえ、落ち着いていましたが、なにしろ皇太子の友人で、妻の姉にも手を出していたらしいバーティです。ロンドンで遊んでいないわけはなく、しかし一方で、バーティの父親はエクスベリーに、金持ちで独身の親戚リーズデイル卿はバッツフォードに、カントリー・ハウスをかまえていましたから、訪れないわけもなく、しかも結局、バーティはバッツフォードを相続して本拠にすることになります。

 で、劇中のジャック・ワージングなんですが、ハートフォードシャーにあるカントリー・ハウスでまじめ人間を装って暮らしながら、時々ロンドンへ出向き、アーネストという偽名を使って遊んでいます。資産は十分に持ち、一見、結婚相手として申し分ないのですが、実はジャックは捨て子で、血筋がわかりません。資産家で独身の紳士カーデュ氏が、ヴィクトリア駅で取り違えた黒い大きなカバンに、赤子のジャックが入っていまして、カーデュ氏は、たまたま手にしていた切符が「ワージング行き」だったことから、赤子をジャック・ワージングと名付け、資産をゆずったのです。
 ジャックが結婚を申し込んだ娘の母親ブラックネル夫人は、娘が「手荷物預かり所に嫁いで、小包の縁者になる」ことはがまんがならない、と退け、DVDの字幕によりますと、「駅から家系が派生するとは知らなかった」と皮肉ります。
 結局ジャックは、夫人の妹の子であり、ちゃんとした血筋だったとわかり、めでたしめでたし、なんですが、貴族名鑑とにらめっこして結婚を考える貴族社会への諷刺、にほかなりません。

 で、そのワージングなんですが、西サセックスにある海浜の上流階級保養地です。
 そして………、偶然だとは思うのですが、ワージングは、バーティの父、ヘンリー・レベリー・ミットフォードが、祖父ウィリアム・ミットフォードから受け継いたエクスベリーと、東サセックスにあるバーティの母親の実家のカントリー・ハウストとの、ちょうど中間点あたりに位置しているんです。
 アッシュバーナム伯爵家のカントリー・ハウスについては、前回ご紹介しましたので、今回はエクスベリーを。

  EXBURY GARDENS

 上のリンクでhistoryを見ますと、1919年に突然ロスチャイルド家のものになったようにとれるんですが、他のサイトで見たところでは、すでに1880年代初頭、といいますから、バーティの父親が死の直前に手放し、フォスター家のものとなり、さらにロスチャイルド家の手にわたったもののようです。
 バーティは、「地上の楽園だ」と言って、とても気に入っていたのだとか。

 ミットフォード家は、やはり中世からの古い家系ですが、イングランド北方、スコットランドとの境界に近いノーサンバーランドに根をはった一族で、田舎の名家にとどまり、歴史に名を残すような人物は出なかったそうです。
 ローカルとはいえ、城をもち続けてけっこう栄えたようで、この北部の本家筋は、18世紀か19世紀かよくわからないのですが、婚姻関係から、ヨークシャーのオズバルディストン(Osbaldeston)とHunmanbyの土地も手にいれ、オズバルディストン・ミットフォードと名乗るようになったそうです。
 この北部の本家筋の一族が1828年に新築したカントリーハウスが、下のリンクみたいです。

 Mitford Hall

 
 17世紀のバーティの祖先、ジョン・ミットフォードは、三男だったため、ロンドンで商人となり、一財産作って英国南部に落ち着きました。
 そのジョンの曾孫に、ウィリアム(1744-1827)とジョン(1748-1830)の兄弟があり、二人は英語のWikiには載っていますから、ここでミットフォードの南部の分家の方が、全国的な存在となったわけです。
 バーティの直系の祖先は、兄のウィリアムなのですが、まずは男爵となった弟のジョンの方から。

 ジョン・フリーマン・ミットフォードは法律家で、法廷弁護士、法官となりました。「ミットフォードの弁論」という本を書き、どうやらこれハウツーものみたいなのですが、世界的大ベストセラーとなって、大金を得ました。
 なにしろ、1873年にバーティがアメリカ旅行をしたとき、アメリカの法曹界の人々から、「あなたは、ミットフォードの弁論の著者と関係があるのか?」とさかんに聞かれたんだそうです。
 またこの本のおかげで、ジョンは父祖の地ノーサンバーランドのリーズデイルに領地を買い、リーズデイル男爵となります。
 さらにジョンは、血のつながりのない親戚のトーマス・フリーマンから、バッツフォードを中心として、グロスタシャー、オックスフォードシャーなどにまたがる広大な領地を相続しました。

 ジョンは晩婚で、60近くになってから、エグモント伯爵令嬢と結婚し、息子と娘が一人づつ生まれましたが、その息子が、リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の最後に出てきます、バーティに莫大な遺産を残してくれた上流野蛮紳士の典型、狩猟好きのリーズデイル伯爵、ジョン・トーマス・フリーマン・ミットフォード((1805-86)です。
 ジョン・トーマスは生涯独身で、同じく独身の妹だか姉だかとともに、バッツフォードに壮麗なジョージアン様式の邸宅をかまえて暮らし、ロンドンにはタウン・ハウスを持っていて、上院(貴族院)の活動に熱心でした。
 院内幹事や議長を務め、その長年の功労により、1877年、ディズレーリー首相の推薦で、伯爵にしてもらった、というわけです。

 バーティの曾祖父に当たる、兄のウィリアム・ミットフォードの方は、エクスベリーにカントリーハウスをかまえたジェントリーであり、歴史家でした。
 歴史家といっても、ギリシャ史に造詣が深く、「ローマ帝国衰亡史」を書いたエドワード・ギボンの勧めで、ギリシャ史の本を出しました。視点が保守的にすぎて、現在では評価されていないそうですが、上品で、おもしろく読めて、当時は評判になったものであり、トーマス・カーライルは「歴史のかわいた骨組みに、生きている肉と血を与えた」と、高く評価していたそうです。
 下院議員を務めたこともあり、ハンプシャー民兵軍の将校でもあって、大佐と呼ばれましたが、7つ年上のギボンは、やはりハンプシャーに領地を持つ一族で、この民兵軍の同僚だったのだそうです。
 またアマチュアとして、ですが、絵画や音楽にも、才能を示していたのだとか。
 アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争の時代を生きた人で、ちょうど、ジェイン・オースティンの父親の年代です。オースティンおばちゃんもハンプシャーの生まれですから、ウィリアム・ミットフォード大佐を、知っていたかもしれないですね。
 彼女の小説は、ほとんどすべて、自分が住んだイギリス南部のジェントリーの世界を描いています。あれに野性味をプラスすれば、バーティの曾祖父、祖父の住んだ世界がよくわかる感じ、なんじゃないのでしょうか。

 ウィリアムの長男、ヘンリー・ミットフォード(1769-1803)は、ジェイン・オースティンより6つ年上で、ほぼ同世代です。
 ナポレオン戦争の時代です。ヘンリーはロイヤル・ネイビーの将校となりました。
 そのまま、映画「マスター・アンド・コマンダー」の世界です。
 当時の英国海軍将校は、徒弟制度でして、伯爵の息子だろうが公爵の息子だろうが、12、3歳くらいから、艦長の縁故を頼り、候補生として舟に乗り組ませます。
 これでは教育が偏る、というので、貴族やジェントリーの子弟を対象として、ポーツマスに王立海軍兵学校ができてはいたのですが、不評で、ナポレオン戦争時代の入学者は、将校のわずか3パーセントだったといいますから、果たしてヘンリーはどうだったんでしょう。オースティンの弟たちは、この不評の兵学校に入ったらしいですけどね。
 1803年、ヘンリーは34歳で、軍艦ヨーク号の艦長に任命されました。
 艦長になれた!と喜んだのもつかのま、航海長と視察に出向きましたところが、このヨーク号、とても航海に耐えられる代物ではありませんでした。
 ヘンリー艦長は、その旨、海軍省に報告したのですが、海軍省はこれを反抗ととって激怒し、「航海するか罷免か」と迫ったため、やむをえずヘンリーは航海したのだそうです。
 この年のクリスマス・イブ、ヨーク号は北海の霧の中で、艦長をはじめ400名の乗組員と共に、沈没しました。

 ヘンリー艦長は、二人の娘を得た最初の結婚の後、二度目の結婚をしていて、二度目の妻は、ちょうど身ごもっていました。
 ヘンリーが殉職した翌1804年、男の子が生まれ、ヘンリー・レベリー・ミットフォード(1804-1883)と名付けられます。
 母親はすぐに再婚し、ヘンリー・レベリーは異母姉二人とともに、エクスベリーの祖父、ウィリアム大佐に引き取られました。
 父母を知らないで、祖父に育てられたこの男の子、ヘンリー・レベリー・ミットフォードが、バーティの父………、のはずです。
 ヘンリー艦長の従兄弟、リーズデイル伯爵ジョン・トーマス・フリーマン・ミットフォードは、1805年生まれで、年齢をいうならば、遺児のヘンリー・レベリーと同世代となり、二人は生涯親友だったそうです。

 長くなりましたので、「恋の波紋」は、また次回に続きます。

 最後に余談を。映画「アーネスト式プロポーズ」は、アナザー・カントリー以来のコリン・ファースとルパート・エヴェレットの共演です。
 容姿からいきますと、アーネスト・サトウがルパート・エヴェレット、バーティがコリン・ファースで、ぴったりだと思うのです。ああ、もうちょとこの二人が若いときに、二人が演じる明治維新のイギリス公使館暗躍映画を見てみたかったなあ、とため息です。


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リーズデイル卿とジャパニズム vol4 恋の波紋

2008年07月26日 | ミットフォード
 リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の続きです。
 このシリーズの最初にちょこっと書いたのですが、いま英文で、バーティ・ミットフォードの伝記を読んでいます。
 伝記といいましても、ミットフォード家全体について書いてあるもので、そのうちバーティの伝記は100ページほどです。
 著者はバーティの曾孫のモイン男爵ジョナサン・ギネスと、その娘のキャサリン・ギネスです。

The House Of Mitford

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 前回の記事のコメント、のり坊さまとのやりとりで、ちょっと出てきたのですが、バーティの孫の美人6姉妹は、とてつもないお騒がせ姉妹でした。
 といっても全員ではなく、話題になったのは主に、ダブル不倫の末英国ファシスト党党首夫人となった3女ダイアナ、ヒットラーに恋して自殺未遂事件を起こした4女ユニティ、共産主義に走って又従弟とかけおちした5女ジェシカ、の3人なのですが、第2次大戦直前の不穏な国際情勢の中で、国境を越えて仰天スキャンダルをまきおこしたものですから、欧米では、祖父バーティより、はるかに有名なのです。
 姉妹については、メアリー・S. ラベル著 粟野 真紀子 ・大城 光子訳 「ミットフォード家の娘たち―英国貴族美しき六姉妹の物語」という翻訳本が出ていまして、以下、この本を主に参考にして、書かせてもらいます。

 ジョナサン・ギネスは、ダイアナの最初の結婚で生まれた長男です。
 ギネスって、あのギネス・ブックと関係ありか、といえば、名前の上ではあるんでしょう、一応のところ。ギネス・ブックを発行しているギネス・ワールド・レコード社は、アイルランドのビール会社・ギネス社 の関連会社だそうですから。

 リーズデイル男爵令嬢ダイアナ・ミットフォードは、1910年の生まれです。幼児期には祖父バーティがまだ生きてましたから、バッツフォードのおじいさまが、うっすら、記憶にあったんじゃないでしょうか。
 美人姉妹の中でももっとも美しいといわれたそうですが、ギリシャ彫刻のような典雅な美貌で、第一次大戦後の直線的なアールデコ・ファッション(アールデコのファッションブック参照)が、実によく似合う感じです。
 1928年の春、ダイアナは国王、王妃の御前で紹介を受け、ロンドン社交界デビューを果たすと、まもなく、ブライアン・ギネスからプロポーズを受けます。ブライアンは、ギネスビールのギネス社創業の一族で、「イギリスでももっとも裕福な家柄」であるモイン男爵の跡取り息子でした。しかも、容姿もなかなかに端麗で、教養があって、おだやかな性格で、22歳の若さです。
 ダイアナは2年後にブライアンと、だれもがうらやむような幸せな結婚をし、ジョナサン、デズモンドと二人の男の子にも恵まれるのですが、やがて、傲岸な魅力をもったオズワルド・モーズリー卿と激しい恋におちます。オズワルドにも妻がありましたし、通常、こういった上流階級の恋は、結婚生活はそのままに不倫を続けることが多いのですが、ダイアナは決然と離婚にふみきり、世間を騒がせることになったのです。
 その後、オズワルドがファシスト党党首となったことなどから、ダイアナは第2次大戦では苦難を経験しますが、生涯添い遂げます。一途な恋だった、のではないでしょうか。

 しかし一途と言えば、ヒットラーに恋をした4女ユニティなんですが、彼女の場合は、「男は容姿」をモットーとする私の理解を超えます。
 いえね、ヒットラーの容姿も容姿なんですが………、なにしろユニティ・ミットフォードは、有力政治家ウィンストン・チャーチルの親戚の男爵令嬢で、姉が英国ファシスト党党首夫人です。ヒットラーも好意はよせたようなのですが、どこまで個人的なつきあいがあったかは、???なんです。少なくとも肉体関係はなかったとみられ、にもかかわらずユニティは、英国とドイツの開戦に絶望し、ドイツでピストル自殺を決行します。ヒットラーの手厚い配慮で、命は助かり、英国の両親のもとに帰りますが、以降は廃人同然だったとか。
 ユニティが生まれたのは、1914年、第1次大戦開戦の年です。祖父のバーティが、セカンド・ネームは時勢にあったものにと、バルキュリー(ワルキューレ)と名付けたといいます。バーティったら………。

 それはともかく、です。ダイアナの息子、モイン男爵ジョナサン・ギネスの手になるバーティの伝記です。
 周に一回一時間半、英語の個人教授を受けつつ購読しているのですが、これがなかなか、先へ進みません。
 まずは、ミットフォード家の祖先の話から、でして、先日、ようやく、バーティのお母さん、アッシュバーナム伯爵令嬢、レイディ・ジョージアナ・ジェミマ(1805-82)が登場したんですが、もう仰天!でした。

 なぜ仰天したかといいますと………、です。
 なにしろ、この本のバーティの伝記部分の冒頭は、オックスフォードを出て外務省に勤めていた若き日のバーティが、ベルギーの保養地でサー・バーナード・バークに会い、「もしもあなたが、エクスベリーのミットフォード氏とレディ・ジョージアナ・アッシュバーナムの息子なのなら、あなたはおそらく、イギリスでもっとも古い2つのサクソン人の家系の子孫だ」と言われたことにはじまり、延々とミットフォード家の祖先の話がはじまったんです。
 にもかかわらず、です。
 先日購読した部分の最後は、突然、20世紀の話になるんですが、実はバーティは、ミットフォードの血筋となんの関係もなかったかもしれない、という話になってしまったんです。

 バーティの孫の美人6姉妹の末娘、デボラ・ミットフォードは、第2次大戦中に、デボンシャー公爵の次男、アンドリュー・キャベンディッシュ卿と結婚します。このときデボンシャー公爵は、クラブで友人に「息子がリーズデイル男爵の娘と結婚するのでね、バーク貴族名鑑で調べたよ」と、言ったのだそうです。すると友人は、こう答えたのだとか。

いまのリーズデイル男爵が、ほんとうに何者か知りたいなら、ミットフォード家で見てもわからないよ。セフトン伯爵モリノー家で見るべきだね。

 あー、つまり、です。デボラの祖父のバーティは、ミットフォードを名乗っていても、その血筋は実はミットフォード家のものではなく、モリノー家のものだ、というのですね。
 原因は………、バーティの母親、レディ・ジョージアナにありました。

 その話に入る前に、ちょっと余談を。
 デボンシャー公爵家に嫁行った末娘のデボラ・ミットフォードは、1920年、祖父バーティの死後に生まれています。
 六姉妹のうちで、彼女一人はまだ、元気でおられるはずです。
 公爵家の長男は、やはり第二次大戦中に、ジョン・F・ケネディ(後のアメリカ大統領)の妹、キック(キャサリン)・ケネディと、宗教のちがいをのりこえて結婚したのですが、結婚間もなく、戦死してしまうのです。
 デボラの夫、次男のアンドリューは生還し、公爵家を継ぎます。
 したがってデボラは、デボンシャー公爵夫人となったわけなのですが、大戦後の高額な相続税で、公爵家は窮地に追いやられます。
 手放した屋敷もありましたが、最大のチャッツワース・ハウスだけは、デボラが主になって守り抜き、英国のカントリー・ハウスの中でも最大の集客力を誇る観光地に育て上げました。デボラが考えた土産物からブランド商品が育ち、カフェやレストラン、ケータリングなどの事業も成功をおさめているそうです。

 Chatsworth-チャツワース

 チャツワースは、さすが英国の公爵邸、大きさをいうならベルサイユ宮殿より大きいのだそうです。部屋数は300を超えると書いてあるものと、100以上というのもあるんですが、数え方でしょうか。階段は17カ所です。ちなみに、バーティのバッツフォード邸は、階段が5カ所でした。それでも十分、巨大ですけれどねえ。
 ジェーン・オースティンが、「高慢と偏見」で登場させたベンバリー邸のモデルが、チャツワースだったといわれ、映画「プライドと偏見」は、実際にチャツワースでロケをしています。
 と……、どうやら、キーラ・ナイトレイが新作で、チャツワースを舞台に、18世紀のデボンシャー公爵夫人ジョージアナ・スペンサー(1757-1806)、あー、スペンサー伯爵家が実家ですから、ダイアナ妃の実家の祖先でもある公爵夫人を、演じているみたいですね。

 だいぶん話がそれましたが、バーティの母、アッシュバーナム伯爵令嬢レイディ・ジョージアナは、キーラ・ナイトレイ演じる公爵夫人が死ぬ前年、ナポレオン戦争の最中に、生まれていることになります。
 で、血筋、ですよね。じゃあ、vol1出会いで書きました、バーティがスウィンバーンと従兄弟って話はどうなるの? ってことなんですが、これはまちがいなく従兄弟です。
 バーティがレディ・ジョージアナの息子であることは確かですし、唯美派詩人スウィンバーンの母は、ジョージアナの4つちがいの妹、レディ・ジェイン・ヘンリエッタだったんです。
 姉妹の実家アッシュバーナム家は、中世からサセックス(Wiki)にあった古い家系で、17世紀の清教徒革命の時には王党派として戦い、チャールズ1世が処刑されたときに着ていた血まみれのシャツを、家宝として伝えていたそうです。
 そのお屋敷も、東サセックスで一番美しいカントリー・ハウスといわれていたそうなのですが、第二次大戦で被害を受けた上に巨額の税金で、補修ができないまま手放され、現在、ずいぶん規模が小さくなり、かつての面影はないそうです。

  Ashburnham-past

 
 また、絵画コレクションで有名で、わけても姉妹の父のアッシュバーナム伯爵(3rd)は、ルネッサンス以前のイタリア絵画を中心に集めていたそうなのですが、散逸してしまいました。

 こういった豪奢なカントリー・ハウスでくりひろげられた、ヴィクトリア朝貴族の世界で、当然のことながら、血筋はとてつもなく重要なのでしょうけれども、それが夫人の行動いかんで?????になるというのは、なんとも皮肉ですね。
 というわけで、次回へ続きます。



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リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校

2008年07月19日 | ミットフォード
 リーズデイル卿とジャパニズム vol2の続きです。

英国パブリック・スクール物語 (丸善ライブラリー)
伊村 元道
丸善

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 えーと、19世紀前半、パブリック・スクール改革のお話でした。
 野蛮な上流紳士ではなく、クリスチャン・ジェントルマンたらしめる人格教育が、どういった改革で生まれたのか。
 それは、生徒の自治制度を活用したことと、全寮制を活用した生活指導、しつけの徹底でした。

 最上級生から選ばれた生徒たちが、校内自治の中心となる制度は、それ以前からあったのですが、改革では、この上級生たちに自覚を持たせるため、少人数で直接校長と対話する時間をとり、同時に、鞭打ちの権利もあたえて、権威をもたせるようにしたのです。
 そうです。別に、鞭打ちがなくなったわけではありません。
 子供はものを知らず、ものを知らないということは動物といっしょなので、悪いことをすれば痛い目にあう、ということを体で覚えさせなければならない、というのは、当時の欧米の一般的な考え方です。
 極東では、こういった子供に関する考え方はありませんでしたので、幕末に日本を訪れた欧米人は、子供が甘やかされることに驚いています。
 鞭は別にして、日本でこのイギリスのパブリック・スクールの自治制度にもっとも近かったのは、あるいは、イギリス式を全面的に受け入れた海軍兵学校のそれ、ではなかったでしょうか。日本人にとっての鞭打ちは、こう、囚人に対するような感じで、いいイメージがなかったためか、上級生が下級生を拳固で殴る制裁に、変わってはいるのですが。

 全寮制度については、それまでのパブリック・スクール、わけてもイートンのようなお坊ちゃま校では、寮は給費性、つまり基本的にあまり家庭が豊かではない生徒が入るもので、大部屋に数十名という多人数が押し込められ、教師は学外に家をかまえていて目が届かず、規律もなにもない状態でした。
 一方、金のある生徒は、寮に入らないで、校外にある教師の家などに下宿し、家庭的で食事もよかったわけです。
 そこで、全寮制にするかわりに、寮を教師が開く下宿の雰囲気に近づけることで、格差をなくしました。つまり一つの寮の人数を減らし、寮監督教師が家族と共にそばに住み、日々の生活が教育の一環となるよう配慮したわけです。

 また、直接トーマス・アーノルドの改革というわけではないのですが、改革の当初には、狩猟好きで体力があまった上流階級の生徒の息抜きでしかなかった集団スポーツが、………フットボールとかクリケットとかボートとか、ですが………、やがて、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という精神のもと、次第に、チームワークを養うなど、人格形成の手段、教育の一環、となっていきました。
 
 井村元道氏は、「英国パブリック・スクール物語」の中で、このパブリック・スクールの改革により、「野蛮」な上流階級と、上層中産階級(アッパー・ミドル)の子弟が入り交じり、「同じ釜の飯を食う」ことによって一体化し、「ジェントルマン」という名の新エリートが作り出されたのだと解説し、英国の社会史家、A・ブリッグズの以下の文章をひいています。

 諸階級を融合させる上で、パブリック・スクールは、貴族と中流階級の子弟に対し、彼らの華美や安楽とは相反する「質素な生活を分かちあうことの訓練」を課し、その実をあげた。(中略)古くからのパブリック・スクールも新設のそれも、生まれと富で甘やかすことは決してなかった。これらの学校がなした最善のことといえば、それは、公務における責任の理念を生徒たちに教えたことであった。この理念は、技術の陶冶と思想の独創性の涵養とはほとんど無縁のもので、プロフェッションと官公吏の権威を高めるようには働いたが、実業の世界に活力を与えたり、学術の世界を啓発したりすることはできなかった。そしてそれはやがて、イギリス帝国と結びつき、その新しい理念に特徴的な色彩を付与することになったのである。
 この種の理念の明白な限界は、上流階級と中流階級が労働勢力に対抗して融合し、新しい保守主義の同盟を結成しはじめた世紀末までには、誰の目にも明らかなものとなった。だが、世紀の中葉においては、この理念の直接的な効用こそが問題であり、その限界はほとんど問題にもされなかった。



 前々回に書きましたが、バーティ・ミットフォードと、同い年のスウィンバーンがイートンにいたのは、以下の年代です。
 
 1846年イートンに入学し、54年まで在学した。三級下のクラスに従兄弟に当るスウィンバーン(詩人・評論家。1837~1909)がいて、彼らは親友になった。

 バーティは9歳から17歳までイートンにいたわけですが、入学年にはばがありますから、年が同じでも学年がちがうというのは、よくあることでした。
 で、この当時のイートンは、おそらく改革にとりかかったばかりで、どこまで、アナザー・カントリーに描かれたようであったかは、わかりません。
 
 この直前、1832~41年のイートン在学者の思い出話では、まだ全寮制ではなく、給費生のみが大部屋に押し込められていて、監督もなく、「野蛮で、粗野で悪ふざけが盛んな自由の国、ある時は陽気で馬鹿さわぎする無法者の国となりかねない寮生活であった」のだそうです。

 元気な盛りの男の子たちが、女っ気なしで長年集団生活をしていれば、同性愛がまるでない、という方が不思議です。
 「野蛮」な上流子弟たちは、ちょこっと同性愛で精力発散をしてみたところで、先生にばれなければいいのであって、気にもとめていなかったのではないか、と思うのです。
 しかし、改革後のクリスチャン・ジェントルマン教育は、同性愛への罪悪感を強め、そして世紀末には、逆説的なのですが、アナザー・カントリーのガイがそうであったように、同性愛を社会への反逆行為として意識するような、そんな風潮が芽生えたのではないか、と思うのです。
 そのはしりがスウィンバーン、だったのではないでしょうか。
 スウィンバーンは、サド侯爵の著作を愛読し、当時の子供のしつけにおいてはごく普通のことであった鞭打ちに、性的な意味を見出します。
 私、高校生のころに、澁澤龍彦氏の訳で、サド侯爵は読みましたが………、いえ、あまりに昔のことで、よくは覚えてないのですが、ともかく登場人物が、いつも延々と演説をぶつ感じで、「いくらサディズムが趣味の人でも、これでは劣情を催したりできないだろう」と、思ったものです。
 
 えーと、そしてスウィンバーンは、SM趣味とともに同性愛をも誇示したようなのですが、双方を「イートンで覚えた」と公言していたのは、事実ではあったのでしょうけれども、改革されて、確立しようとしていたパブリック・スクールの、中産階級的な倫理意識を取り込んだ、クリスチャン・ジェントルマン教育に対する皮肉でもあったのではないか、と感じるのです。

 ちなみに、アナザー・カントリーで描かれているように、イートンで軍事教練が行われるような状態は、20世紀になってからのもので、それも、本格的には第1次世界大戦中から、ですから、バーティやスウィンバーンは無縁でした。
 だいたい、イギリス陸軍の軍服が、あのどんよりとしたカーキー色になったのは、1899年の暮れにはじまった第2次ボーア戦争の最中です。それまでは、華やかな真っ赤が主体、でした。

 第1次世界大戦は、イギリス社会を根底からくつがえしました。
 かろうじて、勝ちはしましたが、それはアメリカの参戦によるものであり、厖大な戦死者(第2次大戦よりはるかに多いものでした)を出し、深い傷を負ったのです。
 「アナザー・カントリー」という題名は、第一次世界大戦中に作られた国教会の聖歌であり、イギリスの第二の国歌ともいわれる、I Vow to Thee, My Country(祖国よ、我は汝に誓う)の二番の歌詞から、とられました。
 一番の歌詞で祖国への愛を歌い、二番の歌詞で、「軍隊もなければ王もいない」アナザー・カントリーを歌うのですが、「古くから聞き覚えた」アナザー・カントリー、もう一つの国とは、神の国であり、これは、大戦で祖国のために戦死し、いまは神のもとにいる人々への鎮魂歌なのです。
 皮肉にも、イートンの先輩たちが率先して守ろうとした祖国の社会は、大戦で一変し、エリートの価値観も崩壊して、神の教えではなく、共産主義にアナザー・カントリーを見るエリートの卵が現れた、というわけです。

  I Vow To Thee,My Country(祖国よ、我は汝に誓う) -You Tube

 英国の第二の国歌といわれる歌は他にもあるのですが、18世紀に生まれたRule, Britannia(統べよ、ブリタニア)がもっとも有名でしょう。

  Rule Britannia(統べよ、ブリタニア)ーYouTube
  

「支配せよ、ブリタニア! 大海原を治めよ!」と繰り返す、勇壮な曲です。
 「Rule, Britannia」が「軍艦マーチ」なら、「I Vow To Thee,My Country」は「海ゆかば」であるようです。

 狐狩りの話で、前回も触れましたが、K.M.ペイトンの「フランバーズ屋敷の人びと 」 、シリーズ第1巻の「愛の旅立ち」(岩波少年文庫 (3116))では、20世紀初頭、昔ながらの生活に固執して、落魄れかけた小ジェントリーの暮らしが描かれます。
 フランバーズ屋敷の主人ラッセルは、マークとウィルという息子二人を残して妻に死なれ、落馬で半身不随になりながら、狐狩りにしか興味を示しません。おそらく農業不況で、なのでしょうけれど、借金にまみれて屋敷もぼろぼろでありながら、馬屋だけはぴかぴかで、息子たちにも、そういう狐狩りで世界がまわっているような暮らしを強いるのです。
 主人公のクリスチナは、幼くして父母を亡くし、親戚をたらいまわしにされますが、21歳になれば父親の莫大な遺産を相続することになっていたため、伯父のラッセルによって、母親の実家のフランバーズ屋敷に引き取られるのです。
 ラッセルは、自分によく似て、傲慢で、思い切りがよく、他人の感情を無視する無神経な………、それこそ、前世紀の上流野蛮人の典型のような、長男のマークが、将来従妹のクリスチナと結婚すれば、フランバーズ屋敷を建て直すことができる、と見込んだわけでした。
 クリスチナは、乗馬と狐狩りには魅力を感じながら、ラッセルとマーク親子の、あまりにも旧式の傲慢さや無神経に、やりきれなくなり、次第に、知的で、進歩的な考えを持った次男のウィリアムに惹かれていきます。
 一巻の最後で、17歳になったクリスチナは、狩猟舞踏会で、マークから結婚の申し込みを受けるのですが、そのとき、楽団が演奏するエルガーの間奏曲(威風堂々の第一番中間部で、エドワード7世の戴冠式威頌歌 Land of hope & gloryだろうと思えます)を聴きながら、マークがいうのです。エルガー指揮Land of hope & glory(希望と栄光の国)を聞きながら、お読みください。

「こんないいことがいつまでもつづくはずがない。じきに戦争がおこるだろう。でも、たとえ戦争になっても、ちっともかまわない。なんのために戦っているかがわかってさえいれば、いっちょうやりにいくさ……楽しむことだってできるかもしれない。ぼくはここにあるすべてのもののために戦うぞ。ぼくはばかなことをしているが、それでも感情はある、クリスチナ。ここにあるすべてのものが、けっして変わることがないとわかったら、ぼくはころされにいくよ、よろこんでね。古くからの場所、ここやフランバーズ屋敷のような。それと昔ながらの生活。この田園地帯……世界じゅう探したって、イギリスのようなところはないさ」

 そしてマークは、ほんとうに喜んで、愛馬とともに第1次大戦の悲惨な戦場に出かけていくのです。

 バーティが愛し、期待をかけた長男もまた、妻と二人の娘を残して戦場へ行き、二度と帰りませんでした。
 バーティにバッツフォードを残してくれたリーズデイル伯爵(バーティの祖父の従弟)は、ラッセルより上流で、地方行政にも貴族院での活動にも熱心でしたが、やはり狩猟好きで、「専制君主」というあだ名を持ち、上流野蛮紳士の典型のような人物であったそうで、バッツフォードには大厩舎があり、多くのサラブレッドが飼われていました。
 どうやらバーティも、その楽しみを受け継いだようです。バーティの生前には、大厩舎があったそうですし、親友のエドワード7世も、そういう趣味の方でしたし。
 長男の後を追うようにバーティも生涯を閉じ、そして大戦後、壮麗なバッツフォードは、ミットフォード家の手を離れました。
 
 話がそれましたが、次回、いよいよ、ともにイートンで青春の日々をすごしたバーティとスウィンバーンと、世紀末の唯美主義、そしてジャパニズムの関係にせまりたいと思います。


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リーズデイル卿とジャパニズム vol2 イートン校

2008年07月18日 | ミットフォード
リーズデイル卿とジャパニズム vol1の続きです。まずはパブリック・スクール、名門中の名門イートンのお話から。

アナザー・カントリー

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 実はこの映画、英国美少年学園お耽美もの、みたいな先入観が強くて、見てなかったんです。
 しかし、イートン校を舞台にしている、というので、今回、見てみました。
 ワンパターンのボーイズ・ラブ映画、と思いこんでいたのは、とんでもないまちがいでした。
 名門エリート寄宿学校の閉鎖的な空間を舞台に、第1次世界大戦後の激変の中の大英帝国を、うまく、象徴的に描いている歴史映画、と思います。

 Another Country ーYouTube

 上のビデオは、いかにもイートンっぽい、と思わせるイメージの場面が、うまく抜き出されています。
 この映画の原作は、ジュリアン・ミッチェルの戯曲で、 ルパート・エヴェレットが演じる主人公のガイ・ベネットには、モデルがあります。1910年(明治43年)生まれのガイ・バージェスです。
 ガイ・バージェスは、イギリスの名家に生まれ、現実にイートンからケンブリッジに進学し、外務省に勤務したあげくに、ソ連のスパイとなった人です。

 バーティ・ミットフォードがイートンに入学したのが、1846年ですから、映画の舞台は、それからおよそ80年後のイートンでしょうか。実は、リーズデイル男爵家の跡取りを予定されていたバーティの孫、トム・ミットフォードは、1909年生まれですから、ちょうどガイと同じ頃にイートンにいました。
 バーティは、第1次世界大戦で長男を亡くし、長男には男子がいませんでしたので、次男のデイビットが跡を継ぎ、次男は、六人の美人姉妹と、たった一人の男の子、トム・ミットフォードをもうけたのです。
 トムは8歳で、祖父や戦死した伯父が学んだ全寮制のイートンに入学しました。
 えー、父親のデイビッットがぬけていますが、優秀な長男を愛したバーティが、出来の悪い次男をイートンに入れると長男の評判に傷がつく(!!!)と、二流のラドリー校に入れたんだそうなんです。
 トムは、祖父バーティに似たんでしょうか、容姿端麗、才能があり、性格も明るく、ホームシックにもならず、いじめにもあわず、学園生活を楽しんでいた様子だそうなんですが、やがて、何度か同性愛を経験し、しかもそれを姉妹に打ち明けていたんだそうなのです。
 あるとき、トムは、イートンの友人を自宅に招待したのですが、他に泊まり客がたくさんあって客用寝室のあきがなく、母親はトムに、「あなたの部屋に泊めてあげて」と言いました。母親には、同性愛行為なんぞ思いもよりません。そばでそれを聞いていた姉妹たちは、笑いをこらえるのに必死だったのだとか。
 つまりは、映画に描かれているように、20世紀初頭のイートンでの同性愛は、ごくありふれた行為であり、バーティの親友だった詩人スウィンバーンによれば、19世紀半ばころにも、あったもののようです。
 ただ、その意味するところは、時代に応じて変わった、といえそうな気がするのです。

 ここでちょっと、英国パブリック・スクール、イートン校の歴史を、井村元道著「英国パブリック・スクール物語 」(丸善ライブラリー)と、フィリップ・メイソン著 金谷展雄訳「英国の紳士」を主な参考書として、おおざっぱにまとめてみます。

  英国において、パブリック・スクールとは、公立を意味しません。私立、といいますか、個人的な寄付によって基金を持ち、その運用益のみでやっていけるので公的助成金を必要としない、名門エリート坊ちゃん学校(日本風に見るならば有名私立中高一貫校といったところ)です。
 むしろ、一般庶民向けの公立校とは、対極にある存在です。
 ややっこしいことに、スコットランドとアメリカにおける「パブリック・スクール」は、公立学校でいいんだそうですが。

 パブリック・スクールの中でも、ウインチェスター、イートン、セント・ポールズ、シュルーズベリー、ウェストミンスター、マーチャント・テイラーズ、ラグビー、ハロー、チャーター・ハウスの9校は、「ザ・ナイン」と呼ばれる特別な名門校で、わけてもイートンは、名門中の名門です。
 えー、上は、9校を創立順に並べているんですが、ウィンチェスターは14世紀、イートンは15世紀と、2校がとびぬけて古く、中世にまでさかのぼります。
 えーと、すでにこの2校の創立以前から、オックスフォード、ケンブリッジは存在しました。古い欧州の大学がすべてそうであるように、両校とも、ローマン・カソリックの神学校だったわけです。
 それで、当初、ウインチェスターはオックスフォードの、イートンはケンブリッジの付属予備校として、聖職志願者のためにできたわけでして、しかも、もともとはといえば、中流の貧しい志願者を、寄宿給費学生として受け入れることを目的としたものでした。金がある者は、家庭教師につくのが普通だった時代です。もっとも、当初から自費学生も受け入れていて、坊ちゃん学校となりうる下地は、あったようですが。
 で、なぜはるか後世、イートンの方がより名門とされるようになったのかといえば、イートンの創立者はヘンリー六世、つまり王であり、ずっと英国王室とのつながりが深かったためのようです。
 
 中世、ローマン・カソリック教会は、世俗的な権力でもありました。教会も修道院も領主であり、教皇も枢機卿も司教も司祭も、政治的存在でもあったわけです。
 イギリス国教会は、16世紀、ヘンリー8世が、自国教会の支配権は王にある、として、ローマに反旗をひるがえしたことによって生まれました。
 つまり、簡単にいえば、イギリス王がローマ法王にとってかわっただけの話だったのです。
 以降、修道院の領地などは売りに出され、貴族やジェントリーのものとなったのです。
 ジェーン・オースティンの小説に、「ノーサンガー・アビー」という邸宅の名前を題名にしたものがありますが、「アビー」と名前がつくカントリー・ハウスは、修道院の建物がもとになったものです。

 えーと、です。
 つまるところ、乱暴にまとめますと、オックスブリッジも、その予備校的存在であったイートンなども、ローマン・カソリックの神学校ではなく、イギリス国教会の神学校となったわけですね。
 その後、ルネサンス期の人文主義の影響で、ギリシア・ローマの古典文芸を重視するようになりますし、また宗教的にも紆余曲折がありますが、基本を言うならば、アナザー・カントリーの時期、つまり20世紀にいたるまで、オックスブリッジもイートンも、国教会のもとにあった、といえます。

 とはいうものの、です。
 18世紀後半、イートンを筆頭とするパブリック・スクールには、大きな変化がありました。
 多くの貴族の子弟が、入学するようになったのです。
 それまで、貴族やジェントリーの子弟でも、聖職者を筆頭に、法律関係、医者など、知的職業をめざすヤンガー・サン(次男以下、領地を相続できない息子たち)の中には、オックスブリッジの予備校的存在であるパブリック・スクールに入る者もありはしたのですが、家庭教師に学ぶ方が一般的でした。
 
 この変化は、おそらく、 1775年から1783年にわたったアメリカ独立戦争、1789年にはじまったフランス革命、によって、西洋文明圏に現実に、王や貴族の支配によらない国家が誕生したこと、に発する激震、によるものだったのではないでしょうか。
 もちろん、それまでも、農民や商人、実業家が、まったく政治にかかわっていなかった、というわけではないのですが、それは、王と貴族の支配を前提とした上でのものでした。王も貴族も排除して、制度的に国が成り立ちうる、という事実は、貴族は、血筋によって、生まれながらに社会の指導者である、という意識を、根底からゆるがします。
 人が生まれによって指導者たりえず、生まれた後に指導者になるのならば、人を指導者となすのは、教育です。
 社会の指導者たる人格は、教育が作る。
 だとするならば、個人教育にしかならない家庭教師ではなく、社会的訓練をも兼ねた、長い伝統のある学校教育を、ということでしょう。

 が、このことは、パブリック・スクールの秩序を乱しました。
 貴族やジェントリーの子弟は、中流インテリ階級であるパブリック・スクールの教師よりも、社会的身分が上でした。
 しかも、イギリスの貴族というものは、基本的に田舎に属していて、洗練よりも、蛮勇や豪快さを称える気風が濃厚だったのです。ヴィクトリア朝中期の文人、マシュー・アーノルドは、こういった上流階級を、野蛮人ども(バーバリアンズ)と呼んでいます。

 貴族制のあり方として、フランスとイギリスの大きなちがいは、フランスでは革命以前から中央集権が徹底して、貴族が土地から切り離され、官僚化していたのにくらべ、イギリスは分権的で、貴族が領地と密着し、農村行政をも担い、中央行政への関与は、基本的に俸給に頼る官僚としてではなく、莫大な地代収入をむしろつぎ込む形で、公への奉仕(サービス)としてなされていたことです。
 つまりイギリスの貴族は、ロンドンにタウン・ハウス、領地にカントリー・ハウスをかまえ、シーズンによって行き来しつつ、カントリー・ハウスでの生活を重んじる場合が多かったのです。
 で、そのカントリー・ハウスでの最大の娯楽というのが、狩猟です。その狩猟の中でも、イギリスの田舎貴族の信仰の対象、とまでいわれましたのが、狐狩りです。
 これ、簡単に言いますと、多数の猟犬に狐を追わせ、猟犬の群れが狐を追い詰めていくのを、馬に乗って追いかけ、食い殺すのを見届ける、といったような、独特の猟です。つい最近、動物愛護精神からなのかどうだか知りませんが、どうやら法律で禁止されたようですが、イギリス王室も愛好していた伝統の猟でもありました。
 狐狩りの魅力とイギリスのジェントリーについては、20世紀初頭のそういった伝統社会の黄昏を描いた小説があります。
 K.M.ペイトン著 「フランバーズ屋敷の人びと 」 (岩波少年文庫 (3116))のシリーズなんですが、私はこれで初めて、狐狩りのなんたるか、を、知りました。
 まあ、ともかく、競馬の大障害のように、溝や策を飛び越え、やぶをくぐり、先を争って猟犬を追い、泥だらけになって一日中馬を乗り回すという、なんともワイルドなお遊びです。
 その歴史までは、よく知らないのですが、もしかするともともとは、日本の武士の「犬追うもの」のように、封建貴族の戦闘訓練であると同時に、領地の農作物を害する獣(狐)を退治することを兼ねた猟、であったのかもしれないですね。

 18世紀末から19世紀前半にかけてのイギリスの紳士といえば、ついジェーン・オースティンの小説を思い出すのですが(映画『プライドと偏見』参照)、上記「英国の紳士」には、こう述べられています。

 同時代の人々の多くは、紳士という言葉を聞いて、ダーシー氏やナイトリー氏(両名ともオースティンの小説の登場人物)とは全然違う人物像を思い浮かべたことだろう。それは、コリント的伝統に立つスポーツマン、あるいは血気盛んな伊達者である。勇気、けんか好き、思い切りのよさ、金銭に対する無頓着……往々にしてむこうみずな贅沢、しばしば他人の感情を無視する無神経……これらが、19世紀の前半に脚光を浴びたスポーツマン的変わり者資質である。彼らの中には大貴族も金持ちの地主(ジェントリー)もいた。大抵大衆に支持されていたが、それは19世紀を通じて変わることがなかった。その行動がかならずしも礼儀にかなっていなかったにもかかわらず、彼らは愛され崇拝されていた。

 大人しい聖職志願者の集団だったイートンに、こういった狩猟家の卵たちが多数、入学するようになったのです。
 その一人、アシュトン・スミスは11年間イートンで学びましたが、彼が数十年後までにイートンの語り草となったのは、勉学ではなく、学友との1時間にわたる壮絶な格闘です。大喧嘩が終わったとき、二人は生涯にわたる親友になっていましたが、スミスは、この格闘で生来の美貌を損なったと、口ぐせのように言っていたのだそうです。
 もう一人、伝説的な狩猟家ジョージ・オズバルディストン(大地主)も、イートン、オックスフォード組です。イートンに在学中は、いつも問題を起こして鞭打たれていました。その問題というのが、受業をさぼって、生まれてはじめて二頭立て二輪馬車を走らせ、馬を暴走させて馬車をこわしただとか、そういう田園スポーツ愛好にかかわることだったのです。
 L・ストレイチー著「ヴィクトリア朝偉人伝」には、19世紀初頭のイートンについて、こうあります。
 
 懲罰という名の公認の野蛮行為と、オウィディウスの美しいラテン詩の購読が一体となった生活だった。自由と恐怖、韻律と反逆、果てしない鞭打ちと、すさまじい悪ふさけが渾然一体となった生活だった。
 イートン校のキート校長は、誰の助けも借りずに………教師の数が少なくて当てにならなかったからだ……自分の人格の力だけで生徒たちを支配した。だがその不屈の意志でさえ、無法の洪水に圧倒されることがあった。毎週日曜日の午後に、キート校長は全校生徒を集めて説教を行ったが、集められた全校生徒は、毎週キート校長を野次り倒した。礼拝堂の中の光景は、説教の場とは程遠いものだった。年老いた校長が説教壇でよろめくとネズミが放たれ、どよめく生徒たちの足の間を走りまわった。だが翌朝、きびしい規律の手が力を取り戻し、鞭打ち台の野蛮な儀式が、哀れっぽくすすり泣く生徒たちにこのことをしっかりと思い出させた。人と神にたいして犯した罪は許されるかもしれないが、度が過ぎると、涙と血によって償うしかないことを。

 
 こういったバブリック・スクールの無法状態への改革は、1828年、ラグビー校の校長となった、トーマス・アーノルド(マシュー・アーノルドの父です)とその弟子たちによって、はじまります。
 トーマス・アーノルドは、まず大人数の講義方式だったそれまでのやり方を改め、個人指導教師制度(チューター)を導入します。家庭教師のよさを、取り入れたわけです。
 もっとも、貴族の若さまなどは、それまでにも家庭教師を連れてきていたりしたのだそうですが、それを、正規の教師が務める公式の制度としました。
 そして、古典の受業を、一方的な講義方式ではなく、問答方式にきりかえます。
 ラテン語、ギリシャ語を基礎とする古典の偏重は、むしろ押し進めた感じで、理系の学問が軽視される要因ともなり、アナザー・カントリーの時代になってくると、ドイツに遅れをとった原因として、批判されるようにもなります。

 が、それよりも、アーノルドの改革が、後世に語り次がれることとなったのは、パブリック・スクールをして、野蛮な上流紳士ではなく、クリスチャン・ジェントルマン、………つまり、しっかりと信仰に基づいた道義心を持ち、公(国家)への奉仕(サービス)に邁進する、礼儀作法を心得た紳士(オースティンのようなおばちゃんに気に入られるような感じ、でもある気がするのですが)………といったところなんですが、そういったクリスチャン・ジェントルマンの人格育成の場たらしめる、基礎となったためです。
 
 なにやら、文字数が多いそうで、イートンとアナザー・カントリーの話が、次回Vol3へ続きます。


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リーズデイル卿とジャパニズム vol1 出会い

2008年07月06日 | ミットフォード
 また長らく休んでしまいました。
家庭の事情もあるのですが、アーネスト・サトウの生涯を調べているうちに、大英帝国の極東外交とか、植民地政策とか、世界戦略とか、それに対峙した清朝の状況とか、ヴィクトリア朝の社会情勢とか、あらゆる方向に興味が飛びまして、あれこれあれこれ、本を読みふけってしまいました。
 と、そうこうするうちに、えええっ!!!!!と、驚くことがありまして、興味はすっかり、幕末維新期に、アーネスト・サトウの同僚、といいますか、上司だった在日イギリス外交官、後のリーズデイル男爵、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード、愛称バーティの上に。
 えー、現在週に一回、英語の個人教授を受けつつ、バーティの伝記を読み進めておりますんですが、そうまでになりました理由を、まず。

「英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録」 (講談社学術文庫)
A.B. フリーマン・ミットフォード
講談社

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 この本はもう、何回もご紹介しています。
 冒頭で、「遠い崖」の荻原延壽氏が、「本書に寄せて」という一文を書いておられて、その中に、1916年(大正5年)、といいますから第一次世界大戦の最中、バーティ・ミットフォードが79歳で死去した折、サトウが日記に記した文が引用されています。

 8月17日 (前略)散歩から帰ると、リーズデイル夫人の電報が届いていた。「主人は今朝安らかに息を引き取りました」と。さっそく悔みの電報を夫人に送った。
 われわれがはじめて日本で会ったのは、1866年(慶応2年)の秋、リーズデイルが当時横浜に在ったイギリス公使館の一員になったときである。それ以来、われわれはずっと親しい友人であった。わたしはかれの日本語の勉強の手助けをするため、初歩的な日本語の例文を書き、これを「会話編」と名付けて印刷させた。かれは日本語を学びはじめたとき、すでに相当の数の漢字を知っていた。やがてパークス(公使)が公使館を江戸に移してからは、丁度公使館の門前に在って、泉岳寺とも向き合っていた門良院という小さな寺を二人で借り、勤勉と放縦とが入り交じった生活、つまり、よく働き、よく遊ぶといった生活を共にした。われわれは数多くの冒険を共有したが、そのことは昨年かれが刊行した「回想録」(Memories)に述べられている通りである。
 かれは1837年(天保8年)2月の生まれだから、わたしよりも約六歳年長である。
 わたしはかれのバッツフォード(Batsford)の古い家にも、それを後にかれが建て直した新しい家にも、よく泊りにいったものである。最後に会ったのは、この7月23日、昼食を共にしたときだが、あのときは非常に元気そうに見えたのだが。


 バーティ・ミットフォードは、1870年(明治3年)1月、休暇をとるためイギリスに帰国し、その後、外交官として日本にかかわることはありませんでした。
 一方のアーネスト・サトウは、通訳官から外交官に昇格し、以降も長期間にわたって、日本と関係を持ち、日清戦争の後、イギリスにとって日英関係の重要性が増した時期に、駐日公使をも務めました。
 帰国後のバーティは、ヴィクトリア女王の長男であるエドワード皇太子、後のエドワード7世、なぜかこの方も愛称がバーティですが、に気に入られ、建設省長官を務めているうちに、独身子なしの親戚から広大な領地を相続し、下院議員となってみたり、どうも華麗な社交生活を送ったみたいなのです。
 なにしろ、エミール・ゾラの「ナナ」にも登場し、フランスにまでも遊び人として名がとどろいていたエドワード皇太子の、お気に入りだったんですから。
 
 えーと、私、それで、ふと、サトウが泊りに行ったこともあるという、バーティのカントリー・ハウス、バッツフォード(Batsford)について、調べてみる気になりました。
 バーティ・ミッドフォードは、1901年(明治34年)にヴィクトリア女王が崩御し、親友の皇太子が即位して、男爵に取り立ててくれるまで、爵位はありませんでしたが、バーティに領地を残してくれた親戚は、男爵、伯爵と二つの爵位持ちでしたし、バーティのように親戚に貴族がいるような、イギリスのジェントリー(地主・郷紳)は、例え爵位がなくとも、フランスなどの基準でいうならば、貴族なのです。
 バッツフォードは、バーティが領地と共に爵位持ちの親戚から譲り受けたカントリー・ハウスですが、エドワード7世も宿泊したということですし、大庭園つきのマナー・ハウス(領主館)といえるような規模のものだろう、と思ったような次第です。
 ヴィクトリア朝のカントリー・ハウス! 執事がいてメイドがいっぱいて、これはもう、りっぱに「エマ 」(Beam comix)の世界です!
 で、検索をかけてみました。

Batsford Arboretum(バッツフォード植物園)

 第一次大戦後、バーティの跡を継いだ息子が、維持しきれずバッツフォード邸を手放すのですが、第2次大戦後には、広大な庭園はバッツフォード植物園として、一般公開されるようになったようなのです。
 舘の方は、今なお個人住宅で、公開されていません。
 驚くのはこのバッツフォードの庭園、和風を取り入れていたことです。
 バーティは、1896年(明治29年)にThe Bamboo Garden(竹の庭)という本を出しましたし、竹とか紅葉とか桜とか、日本から植物を取り寄せて、大規模なジャパニズム風景庭園を造ろうとしていたようです。
 一時、荒廃していたそうなのですが、現在では整備され、上のリンクの写真でも、仏像とか石灯籠とか狛犬とか、バーティが日本から自分の庭へ運んだらしいものがいまも残っていて、どびっくりです。
 ちなみに、バーティがイギリスで「竹の庭」を出版したころ、アーネスト・サトウは公使として日本に赴任していましたが、すっかりこの昔なじみの本の影響を受けて、竹の栽培に熱中し、一橋伯爵家の竹林を見学したりしました。
 おそらく、休暇でイギリスに帰ったサトウは、バッツフォードにバーティを訪れ、二人して庭園を散策して、一橋家の竹林の話をしたりなんかしたんだろうな、と思うのです。
 イギリスのコッツウォルズの、壮麗なネオ・ゴシック様式のカントリー・ハウスの庭を、幕末維新の激動の中に若かりし日を送った英国紳士が和風にしたてて、いまも極東と深いつながりを持つかつての仲間を招き、思い出話をしながら散策する‥‥‥。

 それにしても、これって!
 フランスほど顕著ではないのですが、ヴィクトリア朝のイギリスでは、ジャパニズムがもてはやされ、英仏世紀末芸術と日本人で書きましたように、ラファエル前派の画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなどが、薩摩の留学生をお茶会によんだり、なんかしていたんですね。
 この当時、というのは慶応2年(1866)の春ですが、バーティは北京公使館に勤務していて、まだ日本の地を踏んでいなかったわけではあるんですが、その4年前の文久2年(1862)、第2回ロンドン万博において、初代駐日公使ラザフォード・オールコックが、日本で集めた多数の美術工芸品を展示し、幕府の文久使節団(福沢諭吉や薩摩の寺島宗則も加わっています)を会場に招いて、大評判となりました。それ以前から日本美術に関心をよせていたロゼッティなど、ラファエル前派の画家たちは、むろん、大歓迎です。
 バーティは、ちょうど、イギリス外務省アフリカ局に勤務してロンドンにいましたから、これは知っていたはずなんですけれども、さらに、1865年(慶応元年)、志願して北京公使館に赴任したときの上司(駐在公使)が、オールコックだったんです。

 私、あわてて、丁寧に、「英国外交官の見た幕末維新」の訳者あとがきを読み返してみまして、バーティの経歴に仰天!


 1846年イートンに入学し、54年まで在学した。三級下のクラスに従兄弟に当るスウィンバーン(詩人・評論家。1837~1909)がいて、彼らは親友になった。

 えええっ!!!!!
 イートンで、スウィンバーン親友!!!???

 

 えー、上、ロセッティの手になるアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンの素描です。
 スウィンバーンについては、なぜかwikiがけっこう詳しいので、ご参照のほどを。
 イートンからオックスフォードと、バーティと同じく名門子弟のエリートコースを歩み、唯美主義の詩人になった方です。後期ラファエル前派の仲間の評論家、でもありました。

 しかし、これって‥‥‥‥、まるっきり、映画アナザ・カントリーの世界ではありませんか!!!
 いや、私、なんでいまのいままで、こんなおいしい‥‥‥‥、いや、もとい、こんなに興味深い一行に、気づかなかったのでしょう。

 イートンで、スウィンバーンと親友だったバーティ・ミットフォード。
 もしかすると、モンブラン伯爵の上をいく怪しいお方だったんじゃないかと‥‥‥‥、いや、いまさら気づくのもなんですが、なにしろ「享楽の王子」といわれたエドワード皇太子の親しいお友達だったわけなのですから、それだけで十分に怪しいわけで、著作のまじめさに騙されておりました。
 さすがに、表面あくまでも上品であることを旨とした、ヴィクトリア朝の紳士です。
 というわけで、次回後半、その怪しさの解明、といいますか、なぜ怪しいのかを、もう少し詳しく書くつもりでおります。

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