郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

日の丸と君が代

2009年03月31日 | 明治音楽
 一昨日の日曜日、家族旅行で、江田島へ行ってまいりました。
 戦前の海軍兵学校がありました江田島には、現在は海上自衛隊第一術科学校、幹部候補生学校があり、通常は決められた時間に自衛官の案内つきで、一般見学をすることができます。
 今回、事前に問い合わせたところでは、当日はお花見一般公開で、自由に見てまわれるかわりに案内はつかない、というお話だったのですが、希望者が多かったのでしょうか、ちゃんと案内してくださいましたが、春休みのお花見期間、見学者は多数でした。

 えー、案内に立たれたのは、かなり年配の自衛官の方だったのですが、国旗掲揚ポールのところで、日の丸のお話になりました。「日の丸が国旗と決められたのは、いつのことで、だれが決めたのでしょう? わかる人いませんか」と、問われて、この私が、黙っているはずがありません。「はーい。幕末に江戸幕府が、島津斉彬の建言によって」とはりきって答えたのですが、はずれ。もしかすると、と思ってはいましたが、正解は「平成11年の国旗国歌法の成立によって」だったんですね。まあ、国内法のことをいうなら、そうなんですけれども。

 それはいいんですけど、続けて自衛官が次のようにいわれたもので、目が点になりました。
 「日の丸は、実にすばらしいデザインで、明治3年にフランスが、ぜひゆずってくれと言ったほど。時の外務卿、寺島宗則がガンとして断った」
 え、えーと、明治3年にはまだ、寺島は外務卿ではなかったはずですが、まあ、それもどうでもいいんですが、フランスが日の丸をゆずってくれって、普仏戦争の最中にいいい??? え、ええええっ??? 伝説にしても、ウートレー公使じゃありえなさげで、もしかしてモンブラン伯爵??? これも、モンブラン伝説なんですかねえ。

 その後、今度は君が代についてお話しをうかがったところ、案内の自衛官の方は、佐々木信綱が書いた「フランスの軍艦から国歌を教えてくれという要請があって、海軍卿・川村純義が君が代を歌詞に選んだ」という説をそのままに、確信をもっておっしゃるので、私は「あー、その説はありえないわ」と声にださずに頭の中でつぶやきつつ、ありえない理由を説明するのがめんどうですし、「あー、まあ、歌詞の制定にはいろいろな説がありますよねえ」とごまかしておきましたが、いやあ、海上自衛隊では、君が代、日の丸双方、おもしろい説が信じられているものだと、感心いたしました。

 佐々木信綱の説がありえない理由を、簡単に述べると、まあ、こういうことなんです。
 国旗、国歌というのは、双方、西洋近代において、外交儀礼上必要とされたものなんですね。当時、独立国として、欧米外交の仲間入りをするためには、西洋式のつきあい方に従う必要があり、まずはそういう必要性から制定された西洋式のものですから、明治初期には、そんなものに慣れない一般国民はもちろん、外国とのつきあいが頻繁な海軍と外務省、宮内省をのぞけば、明治政府にとっても、あまり意味のないものだったんです。
 しかし、日清戦争を経て、次第に国旗、国歌に対する認識も深まり、日露戦争時には、国の象徴として大切なものなのだ、という意識が、ようやく根付いていました。しかし、制定した当初は、国民はもちろん、幕府にしても明治新政府にしても、ほとんど意義を理解せず、必要とした人々が適当に決めたことだったわけでして、制定の経緯など、忘れ去られていたんです。
 わけても国歌は、まずは外交儀礼上、軍楽隊が演奏するものとして必要とされ、吹奏楽などというものは、もちろん当時の日本人にはまったく縁のないものでした。明治初年、廃藩置県の前に、唯一、軍楽隊を自前で作った薩摩藩が、君が代を歌詞に選び、それを海軍軍楽隊が引き継いで、曲を変更した、という経緯ですから、当の薩摩バンドのメンバーでさえ、はっきりとだれが君が代を歌詞に選んだのかは、わからなくなっていたのです。
 明治37年、日露戦争の最中に、元薩摩藩士で、海軍卿を勤めた川村純義が死去し、その追悼の一環として、歌人の佐々木信綱が、雑誌「心の花」に、「君が代を歌詞に制定したのは川村純義」説を発表したんですね。
 しかし、以降、この説にはさまざまな反論がよせられまして、わけても、元薩摩バンドのメンバーで、初代海軍軍楽長となり、雅楽調で、エッケルト編曲の現行君が代メロディー制定の中心となった中村祐輔をはじめ、生存していた薩摩バンド関係者がそろって、佐々木信綱の川村純義説を全面否定していますから、ちょっとありえない話なんです。

 もっとも、自衛官の方と私とは、「日の丸も君が代も外国交際における必要から制定され、それぞれに伝統をもったりっぱなものであるのに、歴史を知らないで、妙な理由で反対をしたり、敬意をはらわない変な人たちがいる」という見解においては、一致していたのですが。

 はるばるイギリスから運んだ煉瓦で建てられた兵学校の赤煉瓦校舎の中庭では、同期の桜が満開でした。



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幕末の着物と洋装

2009年03月21日 | 幕末東西
 えーと、その、このお題でなんの写真? といわれると困るのですが、実は、ですね、若い頃に着たこの振袖を姪に譲るつもりでいましたところが、裄丈(ゆきたけ)がさっぱりあいません。「最近の子は腕が長いから、着られないかもしれませんよ」と、着物の古着屋さん(神楽坂 路地裏 ふくねこ堂)をやっている友人に忠告されてまして、昔買ったデパート(昔はそごうで、今は高島屋なんですが)の呉服売り場へ持っていって、直してもらおうとしたのですが、姪の腕の長さがはんぱじゃなく、どうにもなりません。

 「じゃあ、安いものを新調するか」という話になりまして、売り場の方が、「こちらがご奉仕品でございます」とおっしゃるものですから、私、そこにあるものはぜーんぶ同じサービス価格かと思いまして、とびついたものが、下の写真です。群をぬいて品が良く、好みでした。
 姪によく似合って、スポンサーの母(姪にとってはおばあちゃん)も気に入り、しかしまだ十六の姪はといえば、もっと派手な、赤とかピンクの地色のものがよかったみたいなんですが、そういうものを姪が手にしますと、売り場の方が、「そういうのは、軽々しくてあきがきますよ」とかいってらっしゃるので、もしかして、これはーと不安になり、「で、おいくらですの?」と聞きましたところが………、はじかれた電卓の数字を見て、もう………、仰天しました。
 まして帯まで含めますと、とんでもないお値段だったのですが、上の帯は母の若い頃のもので、相当にくたびれていますし、第一、こちらには似合いそうもありません。
 しかし、もう、他のものではだめだめな気分になっていますし、母が「たった一人の女の孫の一生に一度のものだから」と思い切りまして、このたび、このように仕立て上がってきましたような次第です。


 

 総絞り(白地の部分も絞りです)なんですが、染め分けが大胆で、一部、辻が花が入っていて、なんとなく、安土桃山から江戸中期までの小袖の雰囲気が、あるような気がしたんですよねえ。

 最初の写真の私の若い頃の振袖は、地紋のある綸子地に、水彩画を描くように花を描いて、色止めしたものです。
 総絞りほど高価なものではないんですが、一点もので、けっこう気に入っていました。
 これ、いろいろな色の綸子地に、多数の絵描きさんが、それぞれに好きな花を描いた企画ものの一つでして、例えばクリーム地に水仙とか、薄い水色の地にあやめとか、淡い桃色地に藤とか、もう、どれもステキでして、目移りがして選び難かったのですが、なんとなく、飛び抜けて洋風の趣があるこの薔薇を選んだものです。
 母がデパートの案内で企画を知り、大学の春休みか夏休みかに帰省していたとき、呉服売り場に連れていかれてのことでした。

 日本の上流女性の晴れの衣装は、歴史時代に入り、はっきり記録に残る最初のころは、中華王朝のものを、あまりアレンジしないでそのまま取り入れた、という感じがしますよね。明治、鹿鳴館の貴婦人たちのドレスと似たようなものではなかったんでしょうか。
 それが、平安時代に入り、いわゆる「十二単」、単色の色をいろいろ重ね着する、日本独自のものになっていったのですが、土台になる単(ひとえ)の模様はいわゆる地紋でして、単色です。行事のときなどに一番上に着る表着(おもてぎ)が、二倍織物で、二色使いだったりしますが、あとは白い裳(も)に絵が描いてあるくらいで、基本的に、単色で模様のない薄い袿(うちぎ)を色とりどりに重ねることで、季節感を表したりしたわけです。

 で、ですね、現在、主に帯として使われます唐織りは、京都における宮廷衣装製作の伝統の上に、さらに中華王朝からの新しい技法が導入され、金銀をまじえた色とりどりのきらびやかなものに発展していくのですが、日本独自のもの、というならば、室町時代くらいから現れ、現在の着物の原型となりました小袖の模様の方が、そういう感じが強いですよね。

 小袖の原型は、平安時代の庶民の衣装で、鎌倉あたりの上流女性にとっては下着、でした。
 絞り染めも、例えば麻とか、庶民の小袖に施された模様だったわけなのですが、安土桃山期に、辻が花となって、刷り泊や刺繍と組み合わされ、上流の小袖を飾るようになったわけです。
 江戸時代前期ころまでに、刷り泊、刺繍、絞り、といった絢爛豪華な技法が完成し、中期ころに、そういった手間のかかる模様を、もう少し手軽に、そしてもっと鮮やかに染め付けで表現する友禅染めが考案されまして、現在の振袖や訪問着などの晴れ着に使われる技法は、ほぼ出そろいました。

 江戸時代に入っても、呉服製作の中心は京都でした。
 三代将軍家光の妹、東福門院和子が後水尾帝に嫁ぎまして、無理強いした徳川幕府は威信をかけて、多額の化粧料で盛り立てます。朝廷に渡した扶持が1万石そこそこなのに、化粧料は10万石を超えた、といわれますので、徳川から嫁いだ奥様の方が、はるかにお金持ちだったわけなのです。
 で、和子さんは、この化粧料を、けっこうかしこく使うのです。
 京都の地場産業といえば、平安の昔から絹織物なわけでして、和子さんが金にあかして衣装を注文すれば、京の庶民は潤います。自分や子供の着物だけではなく、近親者や侍女の着物も多量に注文するんですね。
  この東福門院の豪華衣装を一手に引き受けましたのが、雁金屋という高級呉服商でして、尾形光琳は、雁金屋の息子です。

 和子さんの娘時代の小袖は、慶長小袖といわれるものですが、和子さんがファッションリーダーとなって、小袖は華麗な発展をしていきます。絞り染めで地色を大きく染め分ける、というのは、慶長小袖の特色でして、この染め分けがけっこう大胆でして、例えば白、紅、黒紅と三色の絞り染めでくっきりと染め分けた地に、細かく花や風景、扇面などが配され、刺繍や刷り泊がほどこされる、という、大胆かつ豪華な全面模様、という感じです。

 和子さんは、周囲の人々のために、でしょうか、晩年の方が多量の衣装を作っていまして、三代将軍家光の死後に現れた寛文小袖こそが、ファッションリーダーとしての東福門院の面目躍如たるものでした。
 ともかく、デザインが絵画的で、大胆なんです。金の刷り泊が姿を消し、鹿の子絞りと刺繍で、その刺繍に金糸を使うようになったのですが、余白が大きく、アンシンメトリー。まさに、いまなお日本的、といわれるデザインセンスなんですが、斬新さに目を奪われます。
 余白とアンシンメトリーは、19世紀西洋のジャポニズムにおいて、注目された日本のデザインの特徴です。
 尾形光琳は、子供の頃から青年期にかけて、東福門院御用の雁金屋で、このすばらしいデザインを見て育ったわけなのです。

  
 左が慶長小袖、右が寛文小袖です。

 この光琳などが、ですね、後に白い小袖地に淡く、しかし大胆な構図で植物の日本画を描いて色止めする、といったようなことをしはじめまして、ですからまあ、一見洋風の私の振袖にも、小袖の伝統は息づいているわけなのです。
 一方、寛文小袖は、アンシンメトリーで大胆な構図はそのままに、余白が減り、豪華さをまして、元禄小袖となります。絞りと刺繍の分量が増えたわけですから、豪華にはなったんですが、模様の大胆さは、減じます。
 で、ここらへんになってきますと、ファッションの中心はすでに江戸に移っておりまして、ファッションリーダーは大奥の女性たちです。

 下、左が元禄小袖、右が光琳の弟子・酒井抱一画の墨絵小袖、です。
  


 去年の大河ドラマ、篤姫でも、さまざまな打ち掛け、小袖(振袖含む)が出てきましたが、幕末の時点においては、すっかりデザインに大胆さがなくなり、びっしりと細かな模様なんですよねえ。
 もしかしますと、すでにこのころ、江戸のファッションリーダーは粋な芸者さんたちで、大奥はその座を降りていた、といえるのかもしれないですね。

  

 私、どうもこの、全体びっしり華やか模様が好きにはなれませんで、元禄小袖までのデザインがいいよなあ、と思ってしまいます。
 デザインとしては、中でも寛文小袖が最高ですけれども、これはけっこう、着こなしがむつかしそうなんですよね。

 で、着物ではなく、帯の方、なんですけれど、小袖の模様が大胆さをなくしたにあたっては、帯幅が広くなったこともかかわる、といわれているようです。
 細かった帯が、広くなっていくのは、やはり江戸中期からでして、このころから、着物と帯のコーディネイトが、相当、重要になってきます。

 明治初頭、はじめてだったか二度目だったか、京都を訪れたバーティ・ミットフォードが西陣に案内され、唐織りの帯地を見て感心しているのですが、「洋服に使うには生地が硬すぎるし、インテリア・ファブリックにするには高価すぎる」というようなことを言っています。
 しかし、ですね、鹿鳴館の時代、伊藤博文が、「日本の絹地をドレスに」というようなことを唱えまして、実際、帯地を使ったドレスとか、貴婦人たちはいろいろ考えたようです。「勝海舟の嫁 クララの明治日記」 (中公文庫)にも、そういう話がでてまいります。

 西洋ファッションにおけるジャポニズムについては、ちょっとこれも調べていまして、また、取りあげることがあるかもしれません。


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幕末明治の洋菓子

2009年03月19日 | 幕末東西
 ようやく青色申告も終わり、いいかげんお部屋の整理をしなければ、頭の整理もできない、と思うこのころです。
 生麦事件連載が途中ですが、えー、なぜか……、生麦事件で小説を書いてみたい! と思うようになり、主人公は生麦村の女の子、と決めたあたりから、もう、調べることがいろいろ、でして。
生麦村については、桐屋の位置など、これまで書いてきたことがまちがっていた部分もありまして、事件当時の村の地図を作ってみました。

 幕末の生麦村をしのぶ

 主人公は、米屋(与次右衛門)のおじょうちゃんで、しのちゃんといいます。架空の人物です。
 おじょうちゃんは、明治になって横浜へ出て、お菓子屋さんをはじめます。
 でー、ですね、明治日本の洋菓子導入について、いろいろ本も読んだのですが、詳細は省きます。

 洋菓子の基本の材料というのは、小麦粉と卵とバターに砂糖、といえますよね。
 このうち小麦粉は、中華王朝から、室町時代に伝わってきた饅頭の皮は、小麦粉ですわね。砂糖も早くから入ってきますし、卵は安土桃山時代から江戸時代初期あたりにかけて、ポルトガル、オランダあたりから、カステイラだの鶏卵素麺だののレシピが伝わり、高級品南蛮菓子として、ですが、江戸時代には日本人の口にもなじんだわけです。
 カステイラは、ですね。朝鮮のお役人も日本の名菓としてとても好んで、釜山の倭館につめていた対馬藩士が、朝鮮の役人を接待するとき、むこうから催促されるほどの大人気で、かならずメニューに加えていたようです。

 明治、日本人がもっともなじみの薄かった製菓材料が、バターだったわけです。
 私、しのちゃんが作るお菓子として、バターを使わないサブレを考えていました。で、バターの代わりには、油分をたっぷり含んだ練り胡麻はどうだろうか、と思ったのです。しかし、バターを全部練り胡麻に代えてしまって、上手くサブレになるかどうか不安で、少し暇が出来たら実験しようと思っていたのです。
 ところが、その話をいたしましたところ、なんと!!! 胡麻味洋菓子はお嫌いなfhさまが、先に実験してくださったのです。

 fhさまのごまジンジャービスキュイ

 これに勇気づけられました私も、さっそく実験してみました。



 一応、レシピを。

 練り胡麻一瓶    180グラム
 洋菓子用米粉    110グラム
 きな粉        25グラム
 アーモンドパウダー  25グラム
 きび砂糖       60グラム
 蜂蜜         少々
 卵          3個
 黒胡麻        少々

 卵は、2個は全卵、1個は黄身だけを生地に練り込み、残りの一個分の白身は、つや出しに使いました。
 練り胡麻をバターに見立てて、これに全卵2個、卵黄一個、砂糖、蜂蜜をいれてよく練り、米粉、きな粉、アーモンドパウダーはいっしょにふるっておいて、さっくりとまぜあわせます。
 まとめた生地を冷蔵庫で一時間ほどねかせ、のして、型抜きして、黒胡麻を飾り、卵白をはけで塗って、焼きます。

 砂糖は、赤砂糖を使いたい、と思っていたのですが、近所のスーパーにはありませんでして、代わりに「きび砂糖」という名の黄色い粉砂糖を使いました。
 できあがりの色が濃いのは、練り胡麻がどうも磨き胡麻の練り胡麻ではなかったようで色がついていたのと、きび砂糖、きな粉、なんでしょう。

 
 一応、成功です。
 バターを使わなくても、クッキーみたいなサクサク感はそれなりにあります。ただ、サブレというには、ちょっとパリッと感が足りないかなあ、という気がしないでもないのですが。
 お味? そこそこ、悪くはないです。
 しかし、こう、しまりがない、とでもいうんでしょうか、そうですねえ、ちょっと胡麻風味の蕎麦ぼうろっぽい感じで、もうちょっとしまった味にしたく……、fhさまのジンジャー入り、というのは、正解ですわ。いっそ、生姜をすりおろして生地にまぜてもよかったかも、です。

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