郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

君が代誕生の謎

2008年01月29日 | 明治音楽
三つの君が代―日本人の音と心の深層
内藤 孝敏
中央公論新社

このアイテムの詳細を見る



本日はまた、前回の鹿鳴館と軍楽隊の続きです。

 実はこの「三つの君が代」、著者ご自身の内容紹介ページがありました。三つの君が代

 上のページでありがたいのは、ウイリアム・フェントン作曲の最初の君が代の曲が、聞けることです。
 著者は音楽がご専門で、本の方は音楽的な分析に詳しく、この最初の君が代のメロディー、よく作曲といわれるんですが、採譜であったと断言しておられることが、私にとっては意を得た感じでした。

「君が代」の歌詞を国歌として選択した経緯については、さまざまな説がありますが、明治3年(あるいは2年)、大山巌説が、いまのところ定説といいますか、一番信じられているようです。

 前回、「日本の本格的な洋楽導入は、明治2年、薩摩藩が、駐日イギリス軍の軍楽隊に協力を求め、島津久光公の肝いりで、高価な楽器を注文して、軍楽隊を結成したことにはじまります」と書いたんですが、その駐日イギリス軍(第10連隊第一大隊)所属の軍楽隊長は、ジョン・ウィリアム・フェントンでした。
 つまり、薩摩バンドはフェントンの教えを受けることになったわけでして、そのフェントンが、教え子たちに、日本も国歌を作るべきだ、と言ったことに、定説の話ははじまります。
 そこで、教え子たちが、薩摩藩軍の大隊長たちに相談し、その中の一人(大山巌説が有力です)が、「君が代を歌詞にしてはどうだろうか」と提案し、フェントンが作曲したのだというのです。
 薩摩バンド、海軍軍楽隊、そして海軍軍楽隊と同じくフェントンから教えを受けた式部寮伶人(前回出てきた雅楽の人達です)が、みなフェントン作曲の「君が代」を演奏していますので、国歌誕生に、薩摩バンドがからむのは、ほぼまちがいのないことでしょう。となれば、大山巌のほかに、野津鎮雄、川村純義など、薩摩の陸海軍隊長の名が出てくるのも、当然なのかもしれません。
 
 こういった話は、後世、薩摩バンドのメンバーだった人達から聞き取ったり、書面で事情をよせてもらったり、といったもので、フェントンが「国歌が必要」と言い、薩摩バンドのメンバーの一人がそれを薩摩軍関係者に相談し、君が代の歌詞が提示された、という大筋以外は、あまり確実性のないものなのですが、雑誌「日本及日本人」に載った大山巌の談話にいたっては、こういうことになっています。

「其時、英国の楽長某(姓名を記憶せず)が『欧米各国には皆国々に国歌と云うものがあって、総ての儀式の時に其の楽を奏するが、貴国にも有るか』と一青年に問ふた。青年が是に答えて『無い』と云ふたれば楽長の曰く『其は貴国にとりて甚だ欠点である。足下よろしく先輩に就いて作製すべし』」

 それで、大山が君が代の歌詞を提示した、というのですが。
 いえ、後世、聞く方はみな、「国歌とは歌うものだ」という認識のもと、君が代の歌詞がどうして国歌となったか、それを知りたがって聞いているわけなんですから、仕方がないのですが、フェントンは「儀式の時に其の楽を奏する」として、曲を欲しがっているのです。
 軍楽隊は通常歌うものではないですし、儀式で演奏するために「国歌」のメロディが欲しかったのであって、とりあえず歌詞は欲していません。
 で、フェントンが「作曲するから歌詞を」と言ったという話になるのですが、これは、ありえないんじゃないでしょうか。
 フェントンは、少年鼓手からのたたき上げで、後のエッケルトやルルーのように、専門の音楽教育を受けた人ではなかったんです。
 ちなみに、陸軍分列行進曲の作曲者シャルル・ルルーは、パリのコンセルヴァトワールで学んでいます。現行の君が代の編曲者であるエッケルトもまた、ヴロツワフ(現在はポーランド領)とドレスデンの音楽学校で勉強しています。
 フェントンが、他国の国歌を作曲してあげるから、と言い出したとは、ちょっと思えません。

 それで、フェントンがもっともなじんでいた自国、イギリスの国歌「God Save the Queen (King)」なんですが、作曲者不明の古いメロディですし、「God Save the Queen (King)」という歌詞も、王令発布や議会の開会、閉会や、艦隊命令などで、繰り返されてきた慣用句なのだそうです。

God Save the Queen(You Tube)

 だとすれば、です。フェントンはもともと歌詞を求めたのではなく、イギリスと同じく日本も君主国ですし、儀礼上からいっても、なんですが、「国歌として使えるような、帝を称える古い歌はないのか。あれば急いで吹奏楽用に編曲するから」と、言ったのではないでしょうか。
 なぜかあまり顧みられてないようなのですが、そうであったのではないか、と思わせる説があります。
 国書刊行会昭和59年発行「海軍軍楽隊 日本洋楽史の原点」に載っているのですが、もとは昭和17年に刊行された、澤鑑之丞技術中将著「海軍七十年史談」に出てくる話なのだそうです。以下、引用です。

 明治二年英国貴賓を現在の浜離宮で饗応するに当り、日英両国国歌を演奏する必要から、日本の国歌はどうしたらよいかを軍楽長が接伴掛に問い合わせた。接伴掛は英語に堪能な原田宗助(薩摩藩士・後の海軍造船総監)、乙骨太郎乙(静岡藩士・沼津兵学校教授)が選ばれた。接伴掛の両名は、さっそく軍務局に問い合わせたところ、よきに計らえということではたと当惑した。そこで協議した結果、乙骨が思いついたのは、旧幕時代、徳川将軍家大奥で毎年元旦に施行されてきた「おさざれ石」の儀式に唱う「君が代」であった。
 この歌なら天皇陛下に失礼ではないと評議一決した。これに歌詞をつけることになったが、原田が鹿児島で演奏される琵琶曲に「蓬莱山」という古歌があり、それにも「君が代」の歌詞がある。そこで時間もないことだから原田が軍楽長を招き、数回繰り返してフェントンに聴かせた。フェントンはその場で採譜し、大至急で吹奏楽に編曲し、隊員を集めて練習を重ね、浜御殿の饗応の宴でこの「君が代」を英国国歌とともに演奏し、面目を全うしたという。

 まず、この話にも少々錯誤があります。
 「明治二年英国貴賓を現在の浜離宮で饗応するに当り」といえば、明治2年9月、エジンバラ公(ビクトリア女王の次男)の来日時のことです。
 薩摩バンド(鼓笛隊)が、横浜に駐留するイギリス駐日陸軍付属軍楽隊長であったフェントンのもとへ弟子入りに出向いたのは、明治2年陰暦の9月からなんです。仮に、明治2年のもっと早い段階から弟子入りしていたにしましても、楽器がありませんでした。和楽器などで間に合わせて、これは私の推測ですが、イギリス軍の古い楽器とかを譲り受けたかもしれませんし、そこそこの練習はしたようなんですが、やはり、翌明治3年7月に、イギリスへ注文していた楽器が届いてから、本格的な吹奏楽の練習がはじまったんです。
 とすれば、です。海軍造船総監だった原田宗助の談話を聞き取ったのだろうこの話の筆記者が、どうも勘違いしているようなんですが、この話の軍楽長とは、駐日イギリス軍軍楽隊長フェントンのことであり、「浜御殿の饗応の宴でこの君が代を英国国歌とともに演奏し」たのは、イギリスの軍楽隊でしょう。
 
 浜御殿という場所もどうなのでしょう。
 以前にモンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1でご紹介しました「英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 」によりますと、確かにエジンバラ公は浜御殿に滞在しています。
 しかし、イギリス陸軍軍楽隊が演奏した場といえば、リーズデイル卿が「横浜港に8月31日に入港し、通例のことだが、挨拶や接見や歓迎の辞など、きまりきった退屈な行事が終わると」と簡略に書いているこの部分でしょう。
 なにしろリーズデイル卿にとって「きまりきった退屈な行事」なのですから、この場はすべてイギリス側が取り仕切ったものと推測できます。
 
 で、「接伴掛は英語に堪能な原田宗助、乙骨太郎乙」という「接伴掛」なのですが、リーズデイル卿は「その当時は、現在のように日本人は、西洋の週間に慣れていなかったので、パークス公使に対して準備不足のないように私に手伝って欲しいとの依頼があった。それで現地に駐在するため、浜御殿の部屋の一部が私のために準備され、そこに私は一ヶ月の間滞在したのである」と述べていまして、この接待準備、横浜での行事も含めて、イギリス側との連絡係だったのが、接伴掛の二人じゃなかったでしょうか。

 フェントンが、横浜の儀式で両国国歌を演奏する必要から、困って、「接伴掛」であった二人に問い合わせた。しかし、「なにか国歌になりそうな歌はないか」と言われても、二人も困ったでしょう。軍務局に問い合わせてはみても、おそらく軍務局では「国歌」という概念がわからず、「よきにはからえ」となった。そこで、「おさざれ石」の「君が代」案が出て、おそらく原田宗助は、これからフェントンに弟子入りする予定の薩摩鼓笛隊のリーダー格に相談したと。

 大奥の「おさざれ石」という行事、知らなかったものですから、ぐぐってみました。
 江戸城大奥の正月行事で、元旦の朝、御台所が将軍を迎える前に、清めの儀式で、御台所と御中老が小石の三個入った盥をはさんで向かい合い、御中老が「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を述べると、御台所が「いわほとなりて苔のむすまで」と応じ、御中老が御台所の手に水を注ぐ、というものなのだそうです。
 たしかにこれは儀式歌といえますが、しかし、メロディというほどのものはないでしょう。
 そこで、薩摩琵琶歌が出てきたのではないでしょうか。
 私、君が代の歌詞があるという「蓬莱山」は聞いたことがありませんが、薩摩琵琶歌として、「川中島」と「敦盛」はCDで持っています。これを五線譜に直すってえ!? と絶句するんですが、フェントンも相当苦労したんじゃないでしょうか。

 えーと、です。「君が代」の歌詞は、文字記録としては、冒頭の句が「我が君は」となったものが、詠み人知らずの句として、古今和歌集に出てくるのが最初です。
 詠み人知らずの句というのは、歌謡の一種であった場合もあり、実際、次にこの句が記録されているのは、「和漢朗詠集」で、いろいろな写本が伝わる中、鎌倉初期だかには、すでに「君が代」になったものがあるのだそうです。
 君が代は賀歌でして、その後もさまざまな歌謡に歌い継がれ、維新の時点で、大奥の祝歌にも、薩摩琵琶歌にも、君が代の歌詞があったんですね。薩摩では特に親しまれていたようで、島津重豪公は、ローマ字で君が代の歌詞を書き残していたりします。
 しかし浄瑠璃や瞽女唄にもあるそうですから、日本人のあらゆる階層に親しまれていた賀歌で、たしかに、国歌の歌詞としてはふさわしかったでしょう。
 問題は、メロディでした。

 エジンバラ公の訪日行事も無事終わり、薩摩鼓笛隊はフェントンに弟子入りします。
 しかし、前述の通り、楽器が届いて本格的に練習をはじめたのが、翌明治3年の7月です。
 一ヶ月ほどで、なんとか形にはなったようでして、8月には横浜山手公園で、イギリス軍楽隊と競演。
 それからまた一ヶ月、明治3年9月8日に、越中島で、天皇ご臨席の薩長土肥四藩軍事調練があり、そこで、薩摩バンドがデビューすることになったんですね。ここで君が代が演奏されていますので、通説である大山巌や薩摩の大隊長が出てくるのは、この時のさわぎなのじゃないでしょうか。
 前年の譜面が、当然あったでしょう。
 国歌といえば、歌詞が必要です。薩摩バンドのメンバーに、楽譜をくばるにあたって歌詞を入れようとし、フェントンは、前年、原田宗助が歌った歌詞を問い合わせ、国歌の歌詞がそれでいいのかどうか、念押ししたのではないでしょうか。
 後年、この2年間にわたる出来事が、当事者、関係者の頭の中で混乱し、さまざな証言になったのだと、私は思うのです。

 薩摩バンドが中心となり、引き続きフェントンが教師を務めた海軍軍楽隊は、薩摩琵琶歌をフェントンが採譜、編曲した第一の君が代を、国歌として演奏し続けました。
 しかし、歌詞をつけて歌ったのは、前回に述べた雅楽の人達のみ、です。
 天長節の宮廷儀式で歌ったのですが、「歌い辛かった」との回想があります。
 一方、フランス式を採用し、フランス軍事顧問団のラッパ手だったシャルル・ダグロンから軍楽を教わることとなった陸軍軍楽隊(こちらの中核メンバーも薩摩バンドです)は、「国歌」演奏の必要が生じた場合、外国の国歌や、フランスのラッパ曲「オーシャン」を演奏していたといいます。
 もっとも、薩摩バンドのメンバーが多数残り、軍楽長フェントンを教師としていた海軍の方が、陸軍より演奏技術がすぐれていたのは当然でして、公式行事では、海軍軍楽隊がメインとなっていたのですが。
 その海軍軍楽隊も、薩摩琵琶歌にわか採譜のメロディを、気に入ってはいませんでした。
 薩摩バンドの若手メンバーで、初代海軍軍楽長であった中村裕庸は、「フェントンの作曲は当時英語の通訳たりし原田宗助の歌へる国訛りの曲節を聞き日本の曲風をとらんとしたるものの如く三十一文字ことごとく二分音符を配したる誠に威厳なきものなりしをもって、(薩摩バンドの)楽長鎌田新平は他に改作を期することとし採用したるものなるにより」と、語り残していまして、歌詞は君が代でいい、としたものの、吹奏楽用向けの編曲にはまったく向かず、しかも日本の音楽を代表するわけでもない薩摩琵琶歌では、国歌として威厳に欠けると、当初から、雅楽による作曲を考えていたようなのです。
 海軍軍楽隊は、新たに君が代のメロディを作ろうと、和歌と音楽との関係を雅楽の人達に教わったりもしていたのですが、実現しないうちに、フェントンが去り、エッケルトが来日して、現行の君が代メロディが誕生したわけです。
 海軍省から宮内省に雅楽での作曲が依頼され、いくつか候補曲が出て、その中から和声をつけて編曲しやすいものをエッケルトが選んだ、という順番であったとか。

 「国歌」という概念は、ヨーロッパにおいて、近代国民国家とともに生まれたものです。
 日本では、歌詞ばかりが注目される傾向が強いのですが、儀礼歌としては、演奏される場面の方が多く、独立国として、欧米諸国とつきあうにおいて、最初に必要とされるのはメロディの方です。
 しかし、器楽演奏そのものが西洋のものですし、西洋諸国以外の国では、よく知られた賛美歌などのメロディを借りて国歌としていた国も多く、ごく最近までありました。
 日本でもそうなのですが、民間歌謡はそもそも、一つの歌詞に一つのメロディということはなく、三千世界の鴉を殺しで述べました都々逸のように、歌詞も変われば、メロディも変わるものです。
 国歌を、まずは歌うものとしてとらえると、メロディはある意味、どうでもよくなるのです。

 日本は、薩摩藩のいち早い西洋音楽導入の試みによって、国歌におけるメロディの重要性を認識することとなり、日本における儀礼音楽といえば雅楽ですし、雅楽による作曲で、メロディにも国柄を盛り込むことができたのだといえるのではないでしょうか。

 最後に、これは趣味です。YouTubeの君が代独唱の中では、Gacktが一番(笑)

君が代ーGackt(YouTube)

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (21)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿鳴館と軍楽隊

2008年01月25日 | 明治音楽
鹿鳴館 (新潮文庫)三島 由紀夫新潮社このアイテムの詳細を見る



 本日は、前回のチェロが歌う「海ゆかば」の続きです。

 1月5日の夜です。
 風邪をひきこんでいましたから、寝床でテレビでも見るしかないなというのもあって、フジの「のだめカンタービレ」にしようか、テレ朝の「鹿鳴館」にしようか迷ったのですが、のだめはどうも、原作のイメージとあわなかったので、これも感心しないなあ、と思いつつ、「鹿鳴館」を見ておりました。
 こちらも原作は読んでおりますので、どう処理するだろうか、ちょっと見てみたい場面がありまして。
 気になっていたのは、鹿鳴館における舞曲演奏です。いったいだれが演奏していたのか? です。

 去年の正月、陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌で、
「実は、『抜刀隊』の歌が最初に演奏されたのは、明治18年の鹿鳴館だったのです。
それを、前田愛氏は、皮肉なこととして描いておられますし、江藤氏もまた「少々グロテスクな様相」としています」
と書き、そのときは、それもそうかな、と思っていたのですが、次第に、いや、別に皮肉でもグロテスクでもないんじゃなかろうか、と思うようになりまして。

 ピエール・ロチの「江戸の舞踏会」(「秋の日本」収録)については、猫絵と江戸の勤王気分で触れました。
 原作である三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」にロチは出てきていませんが、テレ朝ドラマはロチを出していましたから、「江戸の舞踏会」とテレ朝ドラマは、同じ日の夜会を描いているわけです。
 ピエール・ロチの来日は明治十八年。「江戸の舞踏会」はその年の天長節の夜会を描いたもので、主催者は外務大臣井上馨と夫人の武子です。で、三島由紀夫の「鹿鳴館」のヒロイン影山朝子も、井上武子伯爵夫人をモデルにしている、といわれていますので、同じ日であっても不思議はないわけです。

 モンブラン伯にとりつかれたあたりから、なんですが、鹿鳴館の舞踏伴奏はだれがしていたのだろう? とふと思うようになりまして、そこのところを気にしながら、「江戸の舞踏会」を読み返してみたのです。
 以下、村上菊一郎・吉氷清訳の「江戸の舞踏会」より引用です。
 
「一方はフランス人、もう一方はドイツ人の、二組の完全なオーケストラが、片隅に隠れて、最も著名なフランスのオペレットから抜萃した堂々たる四組舞踏曲《コントルダンス》を演奏している」

 当時の日本で、きっちり舞踏曲を演奏できる楽団といえば、陸海の軍楽隊しかないはずなのです。
 おまけに、当時の軍楽長は、陸軍がフランス人のシャルル・ルルー、海軍がドイツ人のフランツ・エッケルトですから、フランス人、ドイツ人というのは指揮者の話で、日本の陸海軍楽隊の競演でまちがいなかろう、とは思ったのですが、ひっかかったのは、「オーケストラ」という言葉です。
 オーケストラは、管弦楽団です。しかし軍楽隊は吹奏楽団。つまり、基本的にヴァイオリンなどの弦楽器がありません。

 ロチの原文は、本当に管弦楽団となっているのでしょうか。
 フランス語が読めませんし、確かめようもないのですが、どんなものなんでしょう。
 ロチは海軍士官です。軍艦には軍楽隊が乗り込んでいて、寄港先でその地の有力者の娘さんなどを招き、軍楽隊の伴奏、つまいは吹奏楽で舞踏会を開く、というのは、当時の普通の軍艦外交ですから、ロチは、軍楽隊の伴奏を当然と思っていたはずなのです。
 本当に管弦楽団なら、宮内省洋楽部も鹿鳴館で演奏していた、という話ですから、そういう場合には、軍楽隊にまざって弦楽器を受け持ったのかなあ、などとも思ったりしていました。

 宮内省洋楽部、というのは、です。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1で書きましたような状況で、あるいはモンブラン伯が指南なんぞしたのでは、と私は妄想するのですが、西洋の儀式、儀礼には、音楽がつきものです。
 で、日本で儀式音楽といえば、雅楽しかありません。
 王政復古はなりましたし、先祖代々雅楽を伝えてきた朝廷の奏者たちが、がぜんはりきったんですね。
 
 西洋の軍楽と儀式音楽は、同じようなものでして、つけくわえるならば、舞踏音楽もそうです。

 日本の本格的な洋楽導入は、明治2年、薩摩藩が、駐日イギリス軍の軍楽隊に協力を求め、島津久光公の肝いりで、高価な楽器を注文して、軍楽隊を結成したことにはじまります。
 すぐに藩はなくなり、この薩摩バンドは、陸海にわかれて軍楽隊の中核となりますが、自藩の勢力が強い海軍へ行くことをみんな望んで、陸軍軍楽隊は当初、海軍よりも貧弱であったようです。

 で、まあ、おそらく、です。欧米諸国との外交儀礼のたびに、薩摩バンドを中核とする軍楽隊と、古式豊かな雅楽でなんとかしのいでいたのでしょうけれども、はりきった雅楽奏者たちが、軍楽隊に出向いて、洋楽も学ぶことになったんですね。
 その雅楽奏者の一部は、そのうち弦楽も学んだ、というのですが、これがだれに学んだものやら、よくはわかっておりません。
 ともかく、です。明治12年から海軍軍楽隊の軍楽長となりましたエッケルトが、雅楽隊の方のめんどうもみまして、そのときには弦楽器も教えたそうなのですが、どうやらエッケルトはあまり弾けなかったようで、自分が弾いて指導は、できなかったそうなのです。
 このようにして、宮内省洋楽部には弦楽奏者が幾人かいたのですが、少数です。基本的には、軍楽隊の吹奏楽であったはずだよなあ、などと考えていましたら、洋楽導入者の軌跡―日本近代洋楽史序説という本にめぐりあいまして、やはりそうだったんです。
 日本の洋楽の歴史に詳しい堀内敬三氏が、実際に鹿鳴館で演奏した古老の談話から、「伴奏には陸海軍の軍楽隊が出張し、時々宮内省の人達も出たが、すべて吹奏楽でやったので管弦楽は使われなかった」と書かれているそうでして。
 また、どうやら、エッケルトは、明治18年天長節夜会に、鹿鳴館で海軍軍楽隊を指揮したような記録があるようでして、一方のシャルル・ルルーも、陸軍軍楽隊の指揮をしていたことは、ほぼまちがいないでしょう。

 芥川龍之介の短編に、ロチの「江戸の舞踏会」を素材として、その後日談を描いたとも言える「舞踏会」 (角川文庫)があります。
 芥川龍之介が、原文で「江戸の舞踏会」を読んだのかどうか知らないのですが、この「舞踏会」でも、鹿鳴館に響いていた音楽は管弦楽です。
 
 そして、困ったことに三島由紀夫も、「階段より外国人の楽士二組が手に手に楽器を携えて登場。ドイツ人の一組、フランス人の一組である」と書いていまして、ピエール・ロチの記述からなんでしょうけれども、完全に誤解していますよね。

 それで、もちろん、なんですが、テレ朝ドラマも、軍楽隊を出しはしなかったですね。
 なぜか「外国人の楽士二組」を出しもせず、燕尾服だかモーニングだかを着た音大生風の日本人が……、つまりのだめカンタービレの登場人物のような人達が一生懸命ヴァイオリンなんかを弾く感じで、ものすごい違和感でした。
 といいますのも、その前に、ご婦人方が屋敷の庭から、練兵場の観閲式だかを遠望するシーンがありまして、当然、陸軍軍楽隊が演奏しただろう設定の、分列行進曲が流れていたんです。
 なんだかこう、軍楽は硬派、舞踏曲は軟派、という色分けですよね。
 しかし、行進曲と舞踏曲は兄弟のようなもので、軍楽隊とは、行進曲と共に、舞踏曲も演奏するものです。どちらも、当時の外交儀礼に欠かせないものでしたので。
 つまり、軍楽隊が演じますのは、基本的に公的な場でして、外務大臣が皇族の臨席を得て開く舞踏会は、個人的な趣味ではなく、公的な外交の場なのですから、軍楽隊が演じるのです。
 駐日各国大使館が催す舞踏会も、それぞれの国の軍楽隊が演奏していたわけですし。

 えーと、です、だから、シャルル・ルルーによる抜刀隊の初演が鹿鳴館であることは、ごく自然なことだったんです。

 いったい、芥川龍之介から三島由紀夫まで、この延々と続いている日本人の誤解はなんだったんでしょうか?
 どうも日本人には、音楽や舞踏といえば個人の楽しみ、という感覚が、かなり昔からしみついていたような気がするのです。

 雅楽はそもそも、王朝の舞曲であり、軍楽ともなりえる儀礼楽でしたよね。
 平安時代、雅楽の演奏家や舞人は、衛府に属してまして、衛府とはそもそも、軍事組織なんです。
 源氏物語で、光源氏と頭中将が青海波を舞う場面がありますが、二人は近衛の武官で、武官装束で舞うんです。
 武士の世になって、あいかわらず儀礼音楽といえば雅楽しかなかったのですけれども、音楽や舞踏が公的な催しにつかわれる場が少なくなっていき、儀礼音楽が軟弱なものだと受け取られるようになっていったのでしょうか。
 
 外交感覚にすぐれた薩摩藩が真っ先、そして雅楽奏者たち。という順番で、洋楽にとびついたのは、武と結びついた儀礼音楽の日本における貧弱さに、いち早く気づいたからなのだと思います。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チェロが歌う「海ゆかば」

2008年01月23日 | 明治音楽
海ゆかばのすべて
オムニバス,日本合唱団,奥田良三,東京音楽学校,石川高,徳山レン,和田信賢,掛橋佑水,花崎薫,寺嶋陸也
キング

このアイテムの詳細を見る



 このCD、だいぶん以前に買っていたのですが、まちがえて他県の友人に送ってしまったりしてまして、最近まで、よく聞いていなかったんです。
 
 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍
 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ

 この「海ゆかば」の歌詞は、万葉集におさめられた大伴家持の長歌の一部でして、メロディーは賛美歌か聖歌のような、荘重な洋風です。
 万葉歌が西洋音楽で歌われるということは、他にあまりありませんし、昔から、とても心ひかれる歌でした。

 一昨日書きましたように、去年Apple iPod touch 16GBを買いまして、よく音楽を聴くようになりました。それで、このCDもじっくり聞いたんです。
 戦前の古い録音から、現在のものまで、いろいろな「海ゆかば」がおさめられていまして、なかには、昭和17年、いわゆる9軍神の葬儀で、「海ゆかば」が流れる中、弔辞を述べる海軍大臣が感極まって言葉をつまらせた録音とか、戦後、戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」の朗読LPが発売されたんだそうですが、その冒頭、渥美清が「海ゆかば」をバックに朗読し、最後に、後半の歌詞を歌ったものとか、どれも聞かせるんですが、私がもっとも感動したのは、昭和17年、戦時中の録音で、ピアノ伴奏によるチェロの独奏でした。
 なにしろ戦中のSPですから、録音が悪い。にもかかわらず、そのチェロの音色が、歌うように美しく、せつないほどに心にしみるんです。
 編曲とピアノ伴奏は高木東六。この編曲もよくって、高木東六氏、名前はなんとなく知っていたんですが、詳しい経歴とかは知らなかったので、調べてみましたら、戦前、昭和初期に、パリのコンセルヴァトワールへ留学していた方なんですね。

 チェロ独奏の倉田高については、まったく知りませんでした。
 CD付属のパンフレットによれば、「昭和11年(1936)、東京音楽学校を卒業後、日本青年館でデビュー、ちょうどフランスから来日中の巨匠モーリス・マレシャルに見出されてパリに留学した。翌年5月、フランス国内のコンクールで一位となり、2年後にコンセル・プレーのメンバーになって活躍した。またスペインに楽旅して、フランコ将軍夫妻の前で演奏している。昭和15年(1940)、パリのサール・ガルボーやサール・ショパン=プレイエルでのリサイタルや、ラジオの出演で、最も将来を嘱望される若手という高い評価を得て帰国した」となっていまして、「彼の活躍が戦時中に止まり、存命であれば、戦後の日本のチェロ界に新風を吹き込んだであろうことを思うと夭折が惜しまれる。なお彼は現役のチェリスト倉田澄子の父親である」と結ばれています。
 このすばらしいチェロ奏者について、もう少し、詳しくわからないだろうかと、検索をかけてさがしていましたところが、もしかすると載っているのではないか、という本が見つかりました。
「長岡輝子の四姉妹―美しい年の重ね方」という本です。
女優長岡輝子の末の妹、陽子さんが、倉田高と結婚し、倉田澄子の母となった人だったんです。

 安く古書が出ていましたから、期待をかけて、さっそく購入しました。載っていました。
 倉田高の帰国は、昭和15年、第二次大戦の勃発によるものだったんだそうです。倉田高の師であったマレシャルは、第一次大戦では自動車隊の勇士だったので、「今度も志願したい」と言っていたと、高は帰国後に新聞で述べているのだとか。
 高と陽子の結婚は昭和17年。恋愛結婚です。
 高と高木東六とは、同じくフランス留学経験者だったこともあって、非常に息が合い、よくいっしょに演奏をしていたようです。戦争が激しくなってくると、音楽挺身隊として日本各地の部隊や軍需工場へ、慰問に駆け回る毎日。
 そのうち高は病(肺結核)に倒れ、終戦の年の秋、一人娘を陽子の手に残し、疎開先の箱根で息を引き取りました。
 終戦のとき、病に伏せっていた高は「何だか、おくれをとったような気がするな」とつぶやいたのだそうです。
 倉田高が弾く「海ゆかば」は、親族や友人をも含めて、戦場に赴く男たちへの、心を込めたはなむけだったのです。
 チェロを歌わせる天性の才能に加えて、その切迫した高の思いが、これほどまでに美しい「海ゆかば」を残したのだと、納得したような次第です。

 日本の洋楽導入は軍楽にはじまり、最初にパリのコンセルヴァトワールへ留学したのも、明治15年、陸軍軍楽隊員の二人です。明治期、洋楽といえば軍楽隊であり、鹿鳴館の舞踏会も、陸海軍の軍楽隊なくしては成り立たなかったのです。

 このCDにはそれも入っているのですが、実のところ、明治の「海ゆかば」は、現在の曲ではなく、ちょっと君が代にも似た雅楽調の曲でした。君が代に似ているといいましても、言い方は変なのですが、もっとこう陽気なものでして、軍艦マーチのトリオ(中間部)は、この明治の「海ゆかば」を編曲したものです。
 万葉研究の第一人者、中西進氏によりますと、「海ゆかば」の歌詞は、実は「勇壮な言挙げ」なのだそうでして、鎮魂の歌ではないのだそうなのです。
 続日本紀の記事によれば、「海ゆかば」は大伴氏が代々伝えていた歌なんだそうです。天平の昔、東大寺の大仏に塗る金をさがしていた朝廷に、金が掘り当てられたという朗報が入りました。それを喜んだ聖武天皇が大伴、佐伯氏の忠誠を称えた詔を発し、その中で、この歌を引用しているのだと。
 ちなみに続日本紀の方では、万葉集の「かへりみはせじ」という結句が、「のどには死なじ」になっています。雅楽調で使われているのは、こちらの方です。
 これも変な言い方かもしれませんが、「こういう覚悟でがんばっている!」という宣伝歌だったんですね。明治の雅楽調が陽気に聞こえても、不思議はなかったんです。

 現在知られている「海ゆかば」のメロディーは、昭和12年(1937)、倉田高がフランス留学したと同じ頃に、信時潔によって作曲されたものです。
 このメロディーと、その直後の太平洋戦争で鎮魂歌のように歌われたこととで、この歌は悲しみの歌となったんです。
 信時潔は明治20年(1887)に牧師の子として生まれ、賛美歌に親しんで育ち、東京音楽学校でドイツ人の音楽家に学びます。その後、ベルリン留学して、本格的に作曲を勉強した人で、すでにこの時代になってくると、軍楽隊とは関係なく、西洋音楽を学ぶ者が多くなっていたのです。

 倉田高がチェロで奏でる「海ゆかば」を聞いていますと、軍楽にはじまった日本の洋楽が、軍楽を離れて親しまれるようになり、しかし、再び時代の要請で、美しい軍楽として結実したその数奇が、胸に迫ります。

 幕末から明治にかけての洋楽の導入については、また改めて詳しく語りたいと思います。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
 
 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日出処の天子

2008年01月21日 | 読書感想
日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)
山岸 凉子
白泉社

このアイテムの詳細を見る



 風邪が治りません。パソに向かい合うのもかったるく、えー、私のパソは馬鹿でかいPower Mac G5。寝床で見るわけにはいかないもので、失礼をしてしまっております。
 あー、関係ないですけど、近々発売予定のApple MacBook Air 13.3/1.6GHz Core 2 Duoが欲しい!!!
 去年、発売と同時にApple iPod touch 16GBを買ってしまった新物食いです。しかし、アップルの初物はどんな不具合があるやら怖いですし、MacBook Airはtouch とちがってものすごくいいお値段だし、さて、どうしたものですか。

 で、本日は「日出処の天子」です。風邪が治らないので、先週の金曜日に医者に行きまして、ついでに週刊新潮を買い、お薬を飲んで、寝床に入って、ぺらぺらとめくっておりました。そうしたら、

 ベルばら「池田理代子」の聖徳太子マンガに「盗作疑惑」が浮上

 という記事があったんです!
 いや、池田理代子氏の聖徳太子漫画は読んでないんですけど、見出しを見たとたんにピンと来ました。
 山岸凉子さんの「日出処の天子」は、私にとっては、少女漫画というより、すべての漫画の中で……、といいますか、おそらく日本古代史を素材とした小説、映画、TVドラマなどの創作物をすべて集めた中で、ぬきん出て衝撃を受けた作品で、好みのペスト1といえるものだったんです。
 それから数年後、同じく聖徳太子を主人公とする作品を池田理代子氏が書いたということは、週刊誌か新聞記事かで読んで、本屋でその本を見かけたんですけど、その表紙絵が、どこからどう見ても、「日出処の天子」を模倣したとしか思えないもので、「まあ、少女漫画にするとああならざるをえないのだろうか」と思いつつ、なにしろ池田さんの絵はバタ臭いですから、違和感を覚えて手にとる気にもならなかったのですが、「盗作疑惑」って、山岸さんの「日出処の天子」を盗作したってことだよねえ、と思ったら、やっぱりそうでした。
 しかし、なんでいまごろ? ということなんですが、池田理代子氏は去年、朝日新聞紙上で聖徳太子を語り、はっきりとわかる形で、「日出処の天子」を批判したんです。
 この記事を読んだ人々の間に波紋がひろがり、ネット上で池田理代子氏の方こそ盗作ではないのか、という批判が延々とくりひろげられ、ついに去年の暮れには、「あきらかな盗作だろう」という話になったというのです。
 いけません。みなさんに失礼をしながら、好奇心がおさえきれませんで、寝床からぬけだし、パソを立ち上げ、検索をかけてみました。
 批判は2ちゃんねるで行われていたらしいのですが、一発でまとめページが出てきまして、詳細に資料があげられていました。
 漫画『聖徳太子』(作 池田理代子)盗作疑惑検証サイト
 これは、朝日新聞のコラムの書き方そのものがよくないですわ。
 飛鳥をめぐる人物像、ということで、聖徳太子を取り上げ、池田氏の写真と彼女の描いた聖徳太子のカット(あきらかに山岸聖徳太子の模倣です)が載っています。

 池田は91年~94年、漫画「聖徳太子」を発表した。「ベルばら」から約20年たっていた。「太子の顔に特定のモデルはありません」。しかし、史実にまじめに向き合った。

 太子の顔に特定のモデルはありませんって、なに??? と私でも疑問を感じます。
 どう見ても、山岸聖徳太子に影響を受けているんです。
 史実にまじめに向き合ったって、飛鳥時代です。史料が少なすぎまして、なにが「史実」やら、学者にもわかりようがない、といいますか、史実とやらに忠実であるなら、学者によればああいう説もある、こういう説もあると列挙するしかなく、一つのストーリーにはならないんじゃないんでしょうか。
 以下、朝日のコラムから続いて引用です。

 東京教育大(現筑波大)の哲学科に学び、「学者になりたかった」という池田は、歴史を徹底的に掘り起こして作品にすることを信条とする。「ベルばら」の時は、断頭台に送られるマリー・アントワネットらを調べ上げた。

 ええ? そうなの?
 実を言うと、「ベルばら」は妹からコミックスを借りて読んだだけで、詳しくは覚えてないのですが、当時の私の印象では、
シュテファン・ツヴァイクの「マリー・アントワネット 」 (河出文庫)をベースに、といいますか、そのまんまの世界に、池田氏の想像上の人物であるオスカルとアンドレを置いて遊ばせた、ツヴァイク作品へのオマージュでした。
 ただ、ツヴァイクの「マリー・アントワネット」への傾倒ぶり、といいますか、その世界が好きでたまらない、という熱気が感じられましたし、戦後民主主義的な価値観のもとで育ちました私たち少女漫画の読者にとって、オスカルという架空の男装の麗人を出してきて、お姫様の世界に置きながら、最後の最後に革命軍の側に立たせる、というのは、少々通俗的にすぎる気はしますが、ツヴァイクが描くヨーロッパの過去の世界に、感情移入しやすくしてくれるうまい手だよなあ、と感心したのは覚えております。
 実際、中学生の私は、夏休みの宿題にツヴァイクで読書感想文を書こうとしたのですが、おそらくは教師から要求されるだろうと私が想定した価値観と、私の正直な感想の間に、大きな乖離があって、どうにもうまくまとめることができませんでした。
今でこそ、ロココと化政文化をくらべてみるとか、うまいごまかしようがあったろうに、と思うんですが。
 しかし、等身大のマリー・アントワネットで書きましたように、すでにツヴァイク描く「マリー・アントワネット」に、おそらくは池田氏とは少々ちがう感覚で夢中になっていた私にとっては、自分でコミックスを買って読むほどのものではなかったんです。
  以下、引用を続けます。

 大阪そだちの池田にとって、聖徳太子は身近すぎて作品の対象にならなかった。 飛鳥は父親の故郷で、子どもの頃から飛鳥に何度も来た。四天王寺、法隆寺など、太子ゆかりの寺にも親しんだ。 ところが、ある漫画家が、聖徳太子と蘇我毛人との霊的恋愛を描いた。 『違和感をおぼえました』 。池田は文献を読み、仏教学者の中村元らに助言を受けた。

 違和感をおぼえるのはいいんですが、この朝日のコラムの書き方だと、「日出処の天子」がろくに文献も読まず、史実を無視して描かれた作品だから違和感を覚えた、ということになりませんか?
 それどころか「日出処の天子」は、驚くほどあれこれ、文献を読み込んで練り上げられた作品です。
 読み込んだ上で、取捨選択し、山岸さん独自の世界が造りあげられているのです。
 「ベルばら」がツヴァイクの「マリー・アントワネット」に影響を受けて描かれたように、山岸さんご自身が、梅原猛氏の「隠された十字架―法隆寺論」 (新潮文庫)に影響を受けた、とおっしゃっておられるのですが、すでに「隠された十字架」を読んでいた私にとっても、「日出処の天子」は、梅原猛氏の描く古代の世界ともまったくちがう、山岸さん独自のものが、強烈に感じ取れました。
 いえ、「日出処の天子」を読む前から、古代史には興味がありましたし、それほど詳しく文献を読みこんでいたわけではないんですけれども、現在、自分のサイトの女帝の夢庭園に載せていますように、「蘇我蝦夷は実は聖徳太子と同年代ではなく、その長男の山背大兄皇子に年が近かったんじゃなかろうか」とか、自分なりにあれこれ想像をふくらませていたりもしたのですが、それがすべてふっとんでしまうほどだったんです。

 えーと、つまるところは、です。蘇我蝦夷の年齢でさえも、史料ではわからないのです。
 蘇我蝦夷が、甥(妹の子)であるにもかかわらず、なぜ山背大兄皇子の即位を支持しなかったのか、については、なんの史料も存在しないのですから、私のように、「蘇我蝦夷は通常考えられているよりも若く、山背大兄皇子の母の刀自子郎女と同母ではなく、田村皇子(舒明天皇)に嫁いだ法提郎女と同母ではなかったのか」と想像してみることも可能ですし、史料を読み込んでなお、それと大きく矛楯しないように、さまざまな想像が成り立ちます。
 したがって、物語に「聖徳太子と蘇我毛人との霊的恋愛」を想定したからといって、史料を読んでいないことにはなりませんし、史実を無視したとも、言えないでしょう。

 とはいえ、「日出処の天子」という作品のすばらしさは、もちろん、史料を読み込んでよく勉強した歴史ものである、というようなところにはありません。
 今回、久しぶりに、寝床で読み返しましたが、20年も前の作品であるとは、とても思えませんでした。
 なんといえばいいんでしょうか、漫画であるにしろ、小説であるにしろ、映画であるにしろ、です。創作物であるかぎりに置いては、現代に生きる私たちにも通じる、普遍的なテーマがなければ、読者の心に響くことはないんじゃないんでしょうか。フィクションだけではなく、あるいはノンフィクションにおいても、です。
 「日出処の天子」には、確かに、それがあります。
 と同時に、山岸さんの作品の構成のうまさにも、あらためて脱帽しました。

 物語の冒頭は、敏達12年(西暦583)、蘇我馬子一家の描写です。
 馬子は土建屋の社長さんタイプ、政治家でいえば田中角栄のような、ワンマンで精力的なイメージです。
 物部から嫁いできた馬子の正妻は、地味で堅実な感じ。
 二人の子がいます。兄の蝦夷は、書を好み、読書にふける秀才タイプ。
 子供にしては覚めている感じで、父親の愚痴にも、他人事のように客観的な観察で応じます。
 娘の刀自子は活発で、泥にまみれて戦遊びをするようなお転婆。
 一家の話題は、10歳の子供でありながら、すでに学者よりもの知りだという厩戸王子(聖徳太子)。
 
 この導入が、現代にでも普通にありそうな家庭での一こまのように描かれ、それでいて、この時代の政治状況をリアルに感じさせてくれるため、読者はごく自然に、蝦夷の視点になじみ、物語世界へ引き込まれていきます。
 蝦夷は散歩に出かけて、池で泳ぐ美少女に出会い心引かれます。やがて、どうやらその美少女こそが厩戸王子だと知り、しかも美しい王子は、もの知りどころか、人間離れした超常能力を持ち、しかもその能力で大人顔負けに政治をきりまわしていこうとしているのだと、気づくのです。
 途中まで、読者は、日本書紀の世界が、くっきりとリアルに、しかし斬新な切り口で解き明かされるのに幻惑されます。しかしやがて蝦夷とともに、厩戸王子が大きな欠落を抱えていることに気づき、王子に魅せられるのです。

 これは、欠落の物語です。
 厩戸王子を筆頭に、主要登場人物は、みな欠落をかかえています。
 一番わかりやすいのが、刀自子でしょうか。
 おそらく彼女は、女として生まれたくはなかったのです。女として生まれたことが、彼女の欠落です。
 
「男に生まれたかった」と思う、活発で、才気にあふれたお転婆娘。
 これは少女漫画にかぎらず、「私がんばる!」タイプの少女の描き方の典型的なパターンでしょう。
 現在の大河ドラマ「篤姫」で、宮崎あおいが演じている篤姫も、そうですよねえ。
 小松帯刀が出てくるので、我慢して見ていますが、こうまでパターン通りにやられると、勘弁して! と悲鳴をあげたくなります。
 「ベルばら」のオスカルもそうですよねえ。
 しかし、なんといいますか、近代の賭場口、フランス革命の時代に、貴族のお姫様が近衛兵だかなんだか、軍隊を指揮するって、リアリティなさすぎです。たいした葛藤も摩擦もなく、軍隊の指揮官にしてもらって、じゃあ女を捨てたのかと思えば、アンドレでしたっけ、ちゃんと男にも愛され、女としての喜びも手に入れる。
ご都合主義にすぎる感じなんですが、まあ、少女(あるいはおばさん、でしょうか)の夢の世界だと思えば、確かに、きらびやかな宝塚の題材としては、ぴったりでしょう。
 ただ、少女のファンタジーだというならば、です。私は、パステル調「マリー・アントワネット」で書きましたソフィア・コッポラ監督の映画の方が、根も葉もある感じを受けるんです。

 「日出処の天子」が描く刀自子は、ものの見事に、「私がんばる!」のパターンをはずしています。
 がんばったところで、生物的に女が男になれるものではないですし、それは、実現不可能な願望なんです。そのことを刀自子は、もっとも無惨な形で思い知らされます。
 蘇我と物部の戦争の最中、母親の実家である物部のもとにあった刀自子は、物部の奴たちに輪姦され、身ごもり、自ら堕胎するのです。
 犯されたら身ごもる可能性がある、という女の性は、どんなにジェンダー、社会的、文化的な性のありようが変わろうとも、変わるものではありません。現実にこの現代においても、民族紛争の中で女が犯される話は、世界中に転がっています。
 刀自子にとっての自己実現が、男になること(あるいは兄になること)だったのだとすれば、それはあまりにも無惨な形で砕かれ、彼女は他者を他者として愛することができず、救いを、同母兄である兄への恋情に求めます。
 最後に、蝦夷が厩戸王子に告げるのですが、王子の蝦夷への激しい恋情が、他者への愛ではなく、自己の欠落を埋めるための自己愛であったように、刀自子の兄への恋情も、そうなのです。
 だからこそ、王子は自嘲しながら、刀自子を苛みます。王子にとって、刀自子の存在は、鏡に映る自分の姿でしかないのです。

 厩戸王子にとっての自己実現とは、なになのでしょうか。世界を思のままにあやつること、なのだとすれば、王子の苦しみは、天才的な創造者の苦しみでしょう。
 精魂込めて一つの作品を作るということは、作者が、その作品世界に君臨する、ということでしょう。創造に打ち込む、といいますか、天才的な人間が内的欲求に突き動かされて、創造にとらわれてしまったならば、おそらく、それと引き替えに、その天才は、ごく普通の人としての喜びを失うのです。
 そして逆説的なことに、作品創造の内的な欲求とは、渇望です。渇望のないものに、創造はできません。
 その超常能力ゆえに、母に受け入れられなかった王子は、シジフォスの神話のように、永遠に満たされることのない渇望をかかえて苦しみます。
 王子にとっての救いもまた、刀自子と同じく蝦夷への恋情でした。

 厩戸王子の孤独を理解し、王子に魅せられようとしていた蘇我蝦夷もまた、欠落をかかえていたのではないでしょうか。
 蝦夷にもまた、王子と共鳴することを条件に、超常能力があります。
 どこか普通ではないものを抱えていたがために、一歩引いて世の中を見てしまい、現実に自己が置かれた蘇我の長子、跡取りという立場に違和感がある。
 しかし、優等生タイプの蝦夷は、普通の人として、自らの生を引き受けようとします。
 そうしたときに、蝦夷の欠落を埋め、満たされることのない渇望を押さええた相手が、布都姫でした。
 石上の斎宮で、蝦夷の母方の叔母にあたる布都姫は、物部氏の没落で、石上に留まることがかなわなくなります。
 この人は、斎宮として、欠落を強いられ、人としての普通の情愛から、遠ざけられていた人でした。
 彼女の欠落は外部からやってきて、そして、すでにその外部の強制が失われたときに恋をし、超常能力は失われます。
 例えば、ピアノやバイオリンに優れた才能を持った女の子が、猛烈なステージママに強いられて、演奏活動にすべてを捧げて打ち込み、恋も普通の遊びも知らないで大人になったところが、ぽっくりママが死んでしまった、という状況に近いでしょうか。
 普通の少女時代を過ごしていないのですから、彼女にも欠落はあります。
 内的な渇望はないにもかかわらず、世間を知らないがために、普通の人として生きることへの違和感もあります。
 二人は、引かれあうべくして引かれあったのであり、おたがいに他者として認め合いながら、欠落を補いえる相手であったのです。
 
 しかし物語は、厩戸王子の壮絶な絶望に染め上げられ幕を閉じます。
 カタルシスがない、といえば、そうなのです。
 王子はすでに、国家をデザインすることにさえ情熱は抱きえません。満たされない渇望に呑み込まれて、母に似た狂気の少女に慰めを見出す。
 しかし、ここまで突き抜けてしまうと、これもまたカタルシスです。
 続編の「馬屋古女王」 (あすかコミックス・スペシャル―山岸凉子全集)は、厩戸王子、聖徳太子の死に始まり、一族の散華を予感して終わるのですが、この短編は、王子の悲劇の謎を解く鍵であるとともに、挽歌でしょう。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ

 

  
 

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三千世界の鴉を殺し

2008年01月15日 | 桐野利秋

昨年は、さまざまな災難がふりそそぎ、ひたすら落ち込んでおりまして、ブログどころではありませんでした。
年末ころから、そろそろ再開、と思っていたのですが、今度は風邪をひきこんでしまいまして。

同好のお知り合いとは、ありがたいものです。
昨夜、桐野ファンの先輩からお電話をいただきまして、久しぶりに桐野の話をしましたら、元気が出ました。
それにしましても、どびっくりなお話。

 「三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい」

という都々逸があります。
一般に、高杉晋作が作ったといわれていますが、まあ都々逸、俗謡ですから、実のところ、だれが作ったものやらわかりません。
こういう流行歌の歌詞は、作者不明の古謡、民謡から歌詞がとられ、その歌詞が場に応じて歌いかえられたり、宴席などで即興で歌った歌詞がよければ、それがまた自然にひろまっていったりで、作詞者などわからないのが普通です。

普通に解釈すれば、これは、玄人の女が、好いた男に語りかけるセリフです。
芸者(遊女かもしれませんが)さんは、パトロンへの借金もあるでしょうし、義理もしがらみもあります。好いた男がいても、自由にその男とばかりつきあうことはできません。
身も心も焼きつくすような恋をして、「ああ、できることなら、あなたとゆっくり朝寝ができる身分になりたい。それを邪魔する、この世のすべてのしがらみ(三千世界の鴉)を、消してしまうことができればいいのに」
というのですから、切ない歌です。
「朝寝がしてみたい」ではなく、「添寝がしてみたい」という歌詞もあったようでして、意味としては添寝の方がふさわしいのでしょうけれど、音の響きとしては「朝寝」の方がいいですね。
「三千世界」という仏教用語を使うことで、スケールの大きさが出て、恋情の強さが感じ取られ、しかもゴロがいい。
梁塵秘抄の昔から、俗謡に仏教用語が入るのは珍しいことではないのですが、要は使い方でしょう。

この歌詞が、高杉晋作の作だと仮託されると、意味が変わってきます。
検索をかけてみますと、木戸孝允(桂小五郎)説もあるようですね。

26字詩 どどいつ入門―古典都々逸から現代どどいつまで
中道 風迅洞
徳間書店

このアイテムの詳細を見る


上の本に詳細が載っているんだそうです。
詳細はともかく、木戸説、高杉説ともに、活字としてあらわれるのは大正年間で、久坂玄瑞説もあったようです。
要するに大正年間には、長州の志士作、という伝説が出来上がっていたのでしょう。
高杉、木戸、久坂。
だれでもいいんですが、維新回天の志を持ちつつ、追い詰められています。
幕府役人に、新撰組に、あるいは藩内俗論派に追われ、愛人のもとでのんびりとくつろぐことは許されません。
「長州を、そして日本を縛りつけているすべてのしがらみを消して、おまえとゆっくり朝寝ができたらなあ」と、つかの間の休息を、ひいきの芸者の膝枕でとりながら、つぶやく……。
仮託から浮かび上がってくるのは、そういう状況でしょうか。

高杉晋作とおうの、木戸孝允と幾松、久坂玄瑞とお辰。
それぞれに有名な芸者の愛人がいましたし、俳句、和歌、漢詩ともにそこそこ達者で、木戸と久坂には、他にも作ったといわれる都々逸が伝わっています。

 木戸孝允 「さつきやみ あやめわかたぬ浮世の中に なくは私とほととぎす」

 久坂玄瑞 「咲いて牡丹といわれるよりも 散りて桜といわれたい」

 こう並べてみますと、高杉晋作説が有力になっていった理由が、わかるような気がしますね。

 「三千世界の鴉を殺し」と雄壮に言い切り、一転して「主と朝寝」という生々しい男女の情景をもってくる。
 花鳥風月を排した言葉の選び方が近代的で、秀逸です。破天荒な性格の高杉作と仮託するのに、いかにも似つかわしい。


 って……、いえ、どびっくりしたのは、この秀逸な都々逸を、桐野利秋作だと書いているブログがある、とお聞きしたからです。
 はあ?
 桐野の和歌は、すばらしく下手です。
 かなり若い頃から、いい先生について学んでいたらしい、にもかかわらず、です。

 薩摩の国学者で、歌人に、八田知紀という方がいます。
 寛政11年(1799)生まれで、島津斉彬公の先生でもあった方で、多くの薩摩藩士が学んでいるのですが、桐野も不肖の弟子であったらしいのですね。
 去年、いつものお方が、この八田知紀が明治元年(1867 慶応4年)に、関東へ旅をしたときの歌日記「白雲日記」を見つけてくださったのです。デジタルで読めます。
 戊辰の夏です。江戸城は無血開城、上野戦争は官軍側の勝利に終わりましたが、奥羽越列藩同盟が結ばれ、戦争はまだこれから。そういう時期です。

 八田のじいさまは、小松帯刀や大久保利通や、薩摩藩士たちと酒をくみかわし、小松帯刀の案内で横浜へ行きます。
詳細ははぶきますが、横浜の病院で、桐野を見舞っているのです。
 「白雲日記」を見つけた方が調べられたところでは、じいさまの息子が、桐野と同じ隊(城下一番小隊)にいて、伏見で戦傷を負い、京都の病院で死んだそうなのですね。
 したがいまして、じいさまは、息子のことを桐野に聞きたかったのでしょうけれども、同じ一番小隊にいたということは、です、じいさまの家は、桐野の家と同じ賴中にあった可能性が高いのではないでしょうか。
 桐野がちゃんと和歌を習っていた、という話は、市来四郎が書き残していて、だとすれば、師匠は八田のじいさまだった可能性は大きいでしょう。

 それにしても下手です、桐野の和歌は。
 土方歳三の俳句とどちらが下手なのか……、いえ、俳句というのは、下手は下手なりにおもしろみが出ることもあるので、個人的には土方に軍配をあげてしまいたいほど、です。

 その桐野が、このすばらしい都々逸を作ったあ?????
 
 お口ぽかーんで、ぐぐってみましたら、ほんとうにそういうことを書いておられるブログがありましたわ、仰天。
 しかもそのブログのこの都々逸の解釈が………、「邪魔なものは全て殺してしまえという考え方を述べたもの」ということで。
 いや、まあ、その………、世の中にはほんとうに、いろいろな方がおられますねえ。

◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする