郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

普仏戦争と前田正名 Vol10

2012年04月14日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol9の続きです。

 なんといえばいいのでしょうか。

 前田正名が主人公だというので「巴里の侍 」(ダ・ヴィンチブックス)を読み、あんまりといえばあんまりな……、普仏戦争の記述にあきれまして、普仏戦争関連の読書をはじめましたところが、モンブラン伯爵とリンクしましてのシーボルトに出会い、そのシーボルトがまた、美貌のバイエルン国王ルートヴィヒ2世とリンクしていた、という予想外の展開に、私、かなりな、どびっくり状態です。

月曜物語 (旺文社文庫 540-2)
アルフォンス・ドーデ
旺文社


 お客さまが見えられて、コメント欄に続きを紹介してくださっておりますが、「盲の皇帝」によりますと、ドーデは普墺戦争の最中にミュンヘンへ行き、シーボルトに会います。
 ところが、シーボルトが贈ると約束してくれていました日本の悲劇「盲の皇帝」の訳本(何語に訳したものなのかはわかりません)は、ヴュルツブルクにいますシーボルト夫人の手元にあり、ヴュルツブルクにはプロイセン軍が迫っていまして、フランス人が出かけていくことは不可能でした。
 (追記)コメント欄にて、ver a soia氏が、フランス語の訳本であった旨、詳細に推論くださっています。ご覧になってください。

 さて、夫人をヴュルツブルクに置いて、なぜシーボルトがミュンヘンにいたのか、なんですけれども、シーボルトは、自分の日本コレクションをバイエルン王国が買い上げてくれるように働きかけていまして、王宮の一部を提供され、史書や絵画や工芸品や武具や、すばらしく雑多なそのコレクションを整理していたんです。

黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本 (NHKブックス)
ヨーゼフ クライナー
日本放送出版協会


 「黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本」収録のブルーノ・J・リヒツフェルト氏著「ミュンヘンのシーボルト・コレクション」を見ますと、1866年(慶応2年)、普墺戦争が終わりました後の秋に、シーボルトがミュンヘンの王宮でコレクションを展示しておりました最中、風邪で体調をくずし、死去した経緯が、詳しく述べられています。

 ミュンヘンのシーボルト・コレクションは、シーボルト二度目の来日時に、主に江戸で、買い集められましたものです。
 帰国後の1863年(文久3年)、シーボルトはそのコレクションをアムステルダムで公開展示し、図録を作り、オランダ政府の買い上げを希望したのですが、すでに日本の開国後で、それほど珍しいものではなくなっていたため、かないませんでした。

 そこでシーボルトは、コレクションをヴュルツブルクの学校の講堂に移して、バイエルン王国に買い上げを打診しました。
 時のバイエルン王、マクシミリアン2世(ルートヴィヒ2世の父親)は、シーボルトのコレクションを核として、民俗学博物館を設立する構想を持つようになりましたが、 実現しないまま、1864年(元治元年)に死去します。
 リヒツフェルト氏の推測によりますと、シーボルトは、19歳で即位しましたルートヴィヒ2世に謁見して、さらに買い上げを依頼したのではないか、ということです。

 しかし、なかなか実現に至りませんでした間に、ヴュルツブルクの学校の講堂が使えなくなり、シーボルトは、コレクションの収納場所を、早急に見つける必要に迫られます。
 それが、ちょうど1865年(慶応元年)の冬のことだったのですが、シーボルトはパリに滞在しておりました。
 結局、バイエルン王国文部省から、ミュンヘンのホーフガルテン、王宮の公園に面しています宮殿内の北部ギャラリーホールの使用許可がおり、1866年の3月、シーボルトは帰国し、自費で、コレクションをミュンヘンに移します。

 コレクションの展示公開は、1866年5月19日から行われました。
 当初、シーボルトは、移送費と展示運営のために、低額ながら入場料を取ろうとしたのですが、国王(ルートヴィヒ2世です!)から断られ、一般公開はやめて、招待者のみに限定しました。

 その上で、ですね。
 シーボルトは、「日本の学術研究と武道をヨーロッパに広めるために日本の士官と学者をヨーロッパに招いて、ここミュンヘンをはじめ、他の都市でもシーボルトの責任のもとで研修会を開く」という計画で、「1866年8月26日付で国王の許可も下りていた」(ルートヴィヒ2世です!!! 仰天)そうなのですが、この計画も買い上げも、1866年10月18日のシーボルトの死去により、実現しませんでした。

 結局、バイエルン政府がコレクション購入を決定しましたのは、1874年(明治7年)、普仏戦争が終わり、ドイツ帝国が成立した後の話です。

 以上の事実と、ドーデの小説をくらべてみますと、シーボルトのパリ来訪の時期をずらしております以外に、シーボルトの死の時期も、普墺戦争の最中にずらしています。

 しかし、ミュンヘンでのシーボルトのコレクション展示公開が1866年5月19日からのことでして、プロイセンがオーストリアに宣戦布告しましたのが6月15日ですから、前年パリで世話になったお礼に、シーボルトがドーデを招待していまして、ドーデは戦争見物も兼ね、6月の半ばすぎてからミュンヘンへ出かけた、というようなことがありましても、これは、おかしくありません。

 この小説の軸になっています、日本の悲劇「盲の皇帝」云々の話はどうなのでしょうか。
 ドーデは、出来事の時期をずらし、物語の時間を短くしまして劇的にし、シーボルト死去の時に居合わせたことにも、してしまっています。
 「盲の皇帝」の訳本をシーボルトが贈ってくれる予定だった、という話も、創作であった可能性が高そうに思います。
 シーボルトから『妹背山婦女庭訓』のあらすじは聞いて印象に残っていたのでしょうし、訳本もあったのかもしれませんけれども、結局、この小説を、「普仏戦争によって、かわいそうな盲の皇帝は、遠い異国の物語の中にではなく、現実のフランスにいるとわかった」と、ナポレオン3世への揶揄でしめくくりたかったがために、話をふくらませたのではなかったでしょうか。

 それにいたしましても。
 ドーデが描いています、王宮に展示されましたシーボルト・コレクションの描写は、迫真です。

 プロイセンの鷲勲章を与えられているオランダの軍人として、大佐(シーボルト)は自分がここにいるかぎり何びともあえて自分のコレクションには手をつけまいと考えていた。そしてプロイセン軍の到来を待ちながら、国王が彼に与えた王宮の庭のなかにある三つの細長い広間を礼装して歩きまわるほかはもう何もしなかった。この広間はパレ=ロワイヤルのようなもので、ただ本物のパレ=ロワイヤルよりももっと緑が多くもっと陰気で、フレスコ画をえがいた壁にとりまかれている。
 この陰鬱な大宮殿のなかで、札をつけて陳列されたこれらの骨董品は、まさに博物館というもの、つまりその本来の環境から切り離されてはるばると招来された品物の、あのものさびしい寄せ集めをなしていた。シーボルト老自身もこの寄せ集めの一部であるかのように見えた。わたしは毎日彼に会いに行き、彼とふたりで版画で飾られたあの日本の写本や、あるものは開くためには床に置かねばならないほどばかでかく、あるものは縦の長さが爪ほどしかなく、虫めがねでしか読めないような、金色に塗った、繊細で貴重な科学書や史書をひもといて長い時間を過ごした。

 
 そしてドーデは、この「青の国」と題されました章を、こうしめくくっているんです。
 
  とりわけ大佐が清純で品位があって独創的でひじょうに深遠な詩情を持つあの日本の短詩の一つを読んでくれた日など、漆や玉や地図のけばけばしい色彩だのの、ああいったきらめきを目のうちに残しながらそこを出ると、ミュンヘンの町はわたしに奇妙な印象をあたえた。日本、バイエルン、わたしにとっては目新しいこの二つの国、わたしがほとんど時を同じゅうして知り、その一方を通して他方を見ているこの二つの国が、わたしの頭のなかでもつれ、混り合い、一種の茫漠とした国、青い国となるのだった……。今しがた日本の茶碗に描かれた雲の線や水の素描のなかに見たあの旅路の風物の青い線を、城壁の青い壁画のなかにわたしはまた見出した……。そして日本の兜をかぶって広場で教練しているあの青服の兵士たちも、忘れな草(フェアギスマイニヒト)と同じ青さのあの静かな大空も、わたしを「青ぶどう」ホテルへ連れ帰るあの青服の御者も!……

 どびっくりです!!! 日本とバイエルンが重なって見えるって!!!
 青い国四国というのは聞いたことがありますが、青い国バイエルンと日本だそうで。
 1890年(明治23年)にルートヴィヒ2世を題材にして『うたかたの記』(青空文庫図書カード:No.694)を書きました森鴎外は、ドーデがこんなことを書いているって、知っていたんでしょうか?
 知らなかったんでしょうけれども……、おそらく。

 一方の「盲の皇帝」、ナポレオン3世です。
 普仏戦争の直接の原因は、エムス電報事件でした。
 スペインでクーデターが起こり、ブルボン朝のイサベル2世が王位を追われ、スペイン臨時政府は、プロイセン王ヴィルヘルム一世の従弟で、ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家のレオポルド王子に、スペイン王位に就くことを要請したんですね。

 レオポルド王子の母方の祖母は、ステファニー・ド・ボアルネ。ナポレオン3世の母オルタンス・ド・ボアルネの又従姉妹で、ナポレオンの養女になっていた人です。
 ナポレオン3世にしてみましたら、レオポルド王子は親族ですし、反対する筋合いもないことだったんですが、フランスの新聞が大騒ぎをはじめます。

 歴史的に見ましたら、スペイン・ブルボン朝は、フランスの太陽王ルイ14世にはじまってはいるのですが、すでに第二帝政のフランス自身がブルボン家を追い出しているのですから、レオポルド王子でもよさそうなものなのですが、ラインラントを領有しますプロイセンの親戚の王子がスペイン王となることが、いかにフランスにとって危険か、フランスの新聞は書き立てたんですね。
 あるいは、もしかしまして、フランス人が王だった国に、ドイツ人の王が立つことへの単純な反発、だったりしたのでしょうか。

 このときの帝政は、帝政といいましても自由帝政ですし、だいたいそもそも、ナポレオン3世は普通選挙で皇帝になった人ですから、新聞が騒ぎ、世論が騒ぎますと、それに答えなくてはいけません。
 フランス政府は、反対の意向を公にしますと同時に、駐プロイセン大使を、保養地エムスのヴィルヘルム1世のもとへ差し向け、「フランスは大騒ぎで、このままでは紛争の種になりかねないから王位を辞退してもらえないか」と、懇願します。

 ヴィルヘルム1世にしてみましたら、クーデタが起こりました不安定な状況の国へ、親戚の王子を差し向けますのは、さして望ましいことでもなく、王子とその父親に相談し、結局、辞退することになりました。
 ことは、これで終わったはずだったのですが、かさにかかりましたフランス政府が、「今後とも絶対にプロイセン王家筋がスペインの王位につかないと確約させろ」と大使に命じるんです。
 これは、ナポレオン3世はもとより、首相でさえも知らず、ウージェニー皇后と外相がしたことではなかったか、といわれているようです。

 大使は、またもヴィルヘルム1世に迫り、本国の意向を伝えたのですが、当然のことながらヴィルヘルム1世は「すでに辞退を決めて問題は終わっている。確約の必要はない」と、拒否します。大使はしつこく、午後にまた会見を願い、ヴィルヘルム1世は断りました。
 ことの次第を、ヴィルヘルム1世はエムスから、ベルリンのビスマルクに打電しました。
 一般に、ビスマルクはこの出来事に少々の脚色を加え、電報をドイツの新聞社に流した、といわれます。

 このエムス電報事件によりまして、フランスの世論はわき上がり、ドイツへの宣戦布告にいたります。
 なぜそこまで、フランスの世論がわいたのかが、私にはいまひとつ、よくわからないのですけれども。
 普墺戦争でオーストリアが敗北しまして以来、同じカトリックのオーストリアと南ドイツ諸国に味方するべきだった、と主張していましたフランスの保守勢力は、プロイセンへの敵対意識を燃え上がらせていました。
 ドイツ人が、老大国オーストリアではなく、隣国のプロイセン(ラインラントを領有しています)を中心として統一しますことには、不気味なものを感じていたのでしょう。
 
 ビスマルクの工作はフランスに宣戦布告をさせるためであった、といわれるのが常なのですが、本当にそうなのでしょうか。
 いくらビスマルクであっても、これでフランスが宣戦布告する、とまでは、予想していなかったのではないのでしょうか。
 ではなんのためか、といいますと、つい4年前には敵として戦った南ドイツ諸国が、ドイツ人意識を持ち、積極的に同盟国としての約束を果たしてくれることを目論んで、だったのではないか、と思われます。

 
ドイツ史と戦争: 「軍事史」と「戦争史」
三宅 正樹,新谷 卓,中島 浩貴,石津 朋之
彩流社

 
 上の本の中島浩喜氏著「第一章 ドイツ統一戦争から第一次世界大戦」より、引用です。
 「エムス電報事件でビスマルクによって脚色されたフランス大使の振るまいに対するドイツ人の怒りは、プロイセン一国に向けられたものではなく、ドイツ全体に対するフランス人の行動としてみなされたゆえに、大きな憤激を呼びおこした」

狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏 (中公文庫BIBLIO)
ジャン デ・カール
中央公論新社


 さて、ルートヴィヒ2世です。
 普仏戦争で宣戦布告しましたのは、フランスの方です。
 バイエルン王国に、選択の余地はほとんどなかったと言ってよく、プロイセンを中心としますドイツ統一の中で、プロイセンに恩を売り、独立性を保つためにも、積極的な参戦が必要でした。

 ルートヴィヒ2世は軍と首相の助言により動員令を発し、緊急に召集されました議会では、賛成89票、反対58票で、動員令が承認されます。
 反対58票は、カトリック教会を中心とします保守勢力です。
 しかし、ミュンヘンの民衆は開戦を支持していました。
 動員令直後、ルートヴィヒ2世に歓呼しました民衆は、バイエルン軍を指揮しますプロイセンのフリードリッヒ皇太子が到着しますと、熱狂的な歓呼で迎えます。

 動員されましたバイエルン兵は10万5千にのぼり、ドイツ軍の三分の一をしめていた、といいます。
 「狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏」より、以下、引用です。

 ドイツ軍の勝利のなかで、バイエルンもまた血の価を知った。フランスのバゼイユ近郊では、バイエルン軍は海軍陸戦隊第一師団を包囲して打ち取り、町を略奪して歩いた。今回の戦争でのバイエルン軍の損失は、将校二百十三名、兵四千名にのぼった。ライオンのように勇敢に戦ったバイエルンの兵士たちは、その代償としてプロイセンから「永遠に眠る」という栄誉を与えられた。

 ミュンヘンにセダンの大勝利が伝えられましたとき、戦争を嫌悪していましたルートヴィヒ2世は、国民の祝賀にバルコニーで応えることを拒み、プロイセン出身の母マリー・フォン・プロイセンに代わりを頼んだんだそうです。
 
 それにいたしましても。
 バゼイユにおきますバイエルン軍の蛮行は、よほど有名になったようでして、ドーデの「盲の皇帝」にも皮肉が出てまいります。ここらあたりまでまいりますと、この小説、バイエルン王国への罵詈雑言に満ち満ちてきまして、それはそれで、おもしろいんですけれども。


 数年前からフランス人の盲目的愛国主義(ショーヴィニスム)、愛国心からの愚行、虚栄心、誇張癖についていろいろと書かれているけれども、わたしはバイエルンの国民以上に高慢ちきでいばりくさってうぬぼれた国民がヨーロッパにいるとは思わない。ドイツ全史のなかから取りだした十ページばかりのごくささやかなバイエルンの歴史が、絵画となり記念物となってばかでかく仰山にミュンヘンの町々に誇示されている。まるで子どもにお年玉としてやる絵本の趣だ。文章はほとんどなく、絵がむやみに多いのだ。パリには凱旋門は一つしかない。バイエルンには十もある。勝利の門だの、元帥の柱廊だの、「バイエルン戦士の勇武のために」建てられたいくつとも知れぬオベリスクだのと。
 この国で有名人であるってことはたいしたことだ。その名前はいたるところで石やブロンズに刻まれ、すくなくとも一度は広場の中央に、ないしは白大理石の勝利の女神像にまじってフリーズの高いところに彫像を立ててもらえること請合いなんだから。この彫像や英雄崇拝や記念物への熱中は、この善良な国民にあっては実にとほうもないものになっていて、そのため彼らは町かどに、まだ未知のあすの名士をのせるため万全の準備をととのえて、主のない台座をちゃんと立てているほどなのだ。今ではどの広場もふさがってしまっているに相違ない。一八七〇年の戦争は彼らに無数の英雄を、無数の武勲談を供給したろうから!……
 たとえばわたしは、緑の小公園のまんなかに古代ふうの簡易な衣服で立っている有名なフォン・デア・タン将軍を想像すると楽しい。その美しい台石の片面は「バゼイユの村を焼き払うバイエルンの戦士たち」を、他面は「ヴェルトの看護所でフランス負傷兵を虐殺するバイエルンの戦士たち」をあらわすバス・リリーフで飾られているのだ。なんという豪華な記念物となることだろう!


 ミュンヘンの凱旋門につきまして、ネット検索をかけてみました。
 ひとつだけ、ミュンヘン大学のそばにあるものが出てきたのですが、ミュンヘンは、第二次大戦の空襲で相当な被害を受け、この凱旋門も、復興されたものだそうです。
 もともとは、1814年から15年にかけての解放戦争、つまりは対フランスの諸国民戦争の勝利を祝い、1852に建てられたものだそうでして、おそらく、ドーデが見た記念碑といいますのは、ほとんどが対フランス戦の勝利に関するものだったのでは、なかったでしょうか。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 普仏戦争と前田正名 Vol7で書きかけておりましたエミール・ゾラの「壊滅」に話をもどします。

 主人公モーリスの双子の姉アンリエットは、バゼイユへ出かけていた夫のヴァイスが帰ってきませんで、心配して、戦場のただ中へさがしに出かけます。
 命がけでバゼイユにたどりつきましたアンリエットは、ようやく夫にめぐりあうのですが、そのときすでにヴァイスは捕虜になっていまして、銃殺されようとしていました。
 正規の兵隊ではなく、民間人が銃をとって戦ってしまったわけですから、バイエルン兵は、即座に射殺していい、ということだったんでしょうね。

 目の前で夫を殺されましたアンリエットは、せめて夫の遺体のそばにいたい、と願うのですが、奪還をめざすフランス海軍陸戦隊とバイエルン兵の猛烈な戦闘がはじまり、やがてアンリエットは撤退する兵士たちの波におされて街を出て、さ迷いますうちに、やはり敗走していました弟のモーリスとその戦友ジャンにめぐりあい、ともにセダンの城壁内に帰り着きました。

 ヴァイスはアルザスのミュルーズ生まれで、もともとはと言いますと、ドイツ語圏だった地域の住人でしたし、ドイツ人の知り合いも多く、戦争に賛成ではなかったんです。
 しかし、居住区が戦場になってしまい、女子供も砲弾にやられ、自分の家が破壊されますと、銃をとらずにはいられなかったわけですし、一般住民が銃をとるような戦いで、攻めるバイエルン兵も殺気だったということなのでしょう。

図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
セバスチァン ハフナー
東洋書林


 セバスチァン・ハフナー氏著「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」より引用です。

 ホーエンツォレルンとボナパルと、この両王家間の名誉をかけた争いとして始まった戦争は、ドイツ対フランスの国民の戦争となった。その際両者の側で爆発した荒々しい国民憎悪の源は、この戦争をひき起こした諸原因よりも、むしろナポレオン戦争時代の想い出にあった。
 ビスマルクをも驚かさずにはおかなかった新たな現象は、突然に戦ったのが一八六四年や一八六六年の時のように国家対国家ではなく、国民対国民だったということである。


 ということで、ようやく次回、この未曾有の国民戦争の渦中に身を置きました、前田正名のお話に入りたいと思います。
 自叙伝その他をもとに、龍馬との関係のあたりから、始めようかな、と。
 
 「壊滅」のジャンとモーリスにつきましては、パリ・コミューンにまで話が進みましたら、もう一度、登場願う予定でおります。
 このシリーズ、次回に続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol9

2012年04月11日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol8の続きです。

 アルフォンス・ドーデです。
 「最後の授業」は、知っている方もけっこうおられるんじゃないでしょうか。
 簡単に言ってしまいますと、普仏戦争の結果、ドイツ領となりましたアルザスの学校でフランス語を教えることができなくなった、という物語です。
 なんだかお説教くさくって、私、好きではありませんでした。

 しかし、ですね。この「最後の授業」は、普仏戦争を題材にしました短編集『月曜物語』の中の一遍であると知りまして、私、この際、『月曜物語』を読んでみようかなあ、と思ったんですね。

月曜物語 (旺文社文庫 540-2)
アルフォンス・ドーデ
旺文社


 岩波文庫からも訳本が出ていたようなんですが、私が読みましたのは大久保和郎氏の訳でしたので、旺文社文庫版と同じもののようです。
 実は私、Voyager Booksで購入し、iPadで読みました。

 読んでみますと、ですね。「最後の授業」はむしろ例外でして、実におもしろい短編が多かったんですけれども、一番最後の「盲の皇帝」には仰天しました。
 短編と言いましても、「盲の皇帝」はちょっと長めで、一章のタイトルが「フォン・シーボルト大佐」 です。

 1866年の春、オランダに仕えるバイエルン人の大佐で日本の植物誌に関するすばらしい著述で学界によく知られているフォン・シーボルト氏は、彼が三十年以上も滞在したあの驚くべきニポン=ジェペン=ジャポン(日出ずる帝国)の開発のための国際協会という大計画を皇帝に提案するためにパリに来た。

 冒頭が、これです。
 シーボルトが日本に「三十年以上も滞在した」ってありえないですし、小説ですから、どこまで本当なの? という気もするのですが、この小説、ちょっとエッセイっぽいんですよね。
 あるいは、史実との関係が、司馬遼太郎氏の幕末エッセイくらいにはある、と思ってもいいかもしれません。

 私、これまで、シーボルトについては、ほとんどなにも書いていません。
 シーボルト本人よりもその娘のおイネさんについて、仕事で書いたりしたことがけっこうありまして、ちょっとあんまり……、触手が動きませんでした。
 といいますのも、おイネさんが女医さんになるための最初のめんどうを見ましたのが、シーボルトの弟子で、伊予宇和島藩領で開業していました蘭方医・二宮敬作でした。四賢侯の一人で、長面侯といわれました宇和島藩主・伊達宗城は蘭学好きで、おイネさんを奥の女医さんとして迎え、おイネさんの娘・タダを、奥女中として処遇したりもしています。
 そして、二宮敬作の甥で、大洲藩に生まれました三瀬周三(諸淵)は、再来日しましたシーボルトに師事し、やがてタダと結婚します。
 そんなわけで、愛媛県限定のローカルな仕事をしておりました私は、おイネさんについて、書くことが多かったんです。

 さて、シーボルトです。
 フランツ・フォン・シーボルトは、1796年、ヴュルツブルク司教領で、ヴュルツブルク大学医学部教授を父に、生まれました。
 そうなんです。フランス革命戦争のただ中に、神聖ローマ帝国領邦に生まれたわけなんです。
 ヴュルツブルクは、1803年に一度、バイエルン選帝侯領となりましたが、1805年の仕分けではヴュルツブルク大公国となり、1815年のウィーン会議で、再びバイエルン王国領となりました。

黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本 (NHKブックス)
ヨーゼフ クライナー
日本放送出版協会


 主にヨーゼフ・クライナー氏編著「黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本」を参考にしまして、シーボルトの生涯を、簡単に述べます。
 父親は早くに亡くなり、シーボルトは司祭だった母方の叔父のもとで育ちました。1815年、19歳にして、かつて父親が教えていましたヴュルツブルク大学で医学を専攻します。
 卒業後、オランダ陸軍の軍医となり、バタビアへ赴任し、父親の親友だった総督に好遇されて、長崎・出島への赴任が決まります。
 来日は、1823年(文政6年)、シーボルト27歳のときです。

 ヨーゼフ・クライナー氏は、なぜシーボルトは父親と同じく、ヴュルツブルク大学に奉職しなかったのか、という問いのひとつの答えとして、ウィーン会議後のドイツ諸国の閉塞感をあげておられます。

 一度燃え上がりましたドイツナショナリズムの炎は、ナポレオンの没落で消えるものでもなく、ドイツ各地の大学で結成されました大学生組合によって、ロマン主義的なドイツ統一運動が盛り上がったのですが、大方、保守的な政治勢力によって、弾圧されました。
 また産業革命の中で、小国に分かれましたドイツ全体が、イギリス、フランスはもちろん、オランダにさえも経済的に遅れをとり、植民地や拠点がありませんので、欧州の外に出る術も少なく、多くのドイツ人研究者が、他国に雇われる道を選んだ、というんです。

 オランダが若いシーボルトに期待したのは、医術だけではありませんでした。
 シーボルトは、医学専攻だったとはいえ、自然科学を広範囲に学んでいましたし、オランダが極東で独占貿易を営んでおります日本について、さまざまな角度からの調査を依頼されていました。

 オランダが、ナポレオン戦争の最中にフランスに併合され、1811年にはフランスに敵対していましたイギリスに植民地のジャワ島(インドネシア)も奪われ、世界中でただ一カ所、長崎の出島にのみ、オランダ国旗をかかげていた時期があったのは、けっこう知られていると思います。

 イギリスがジャワを占領する以前、1808年(文化5年)の話ですが、フェートン号事件もありました。
 オランダ船拿捕を狙っていましたイギリス船フェートン号が、オランダ国旗を揚げて船籍を偽り、長崎に入港し、オランダ商館員を人質にとって薪水や食料を求めたんです。日本側にはろくな防備が無く、イギリスの言いなりになるしかありませんでした。
 長崎奉行は切腹し、長崎警備当番だった鍋島藩は、勝手に警備兵を減らしていたこともありまして、家老数人が切腹。

 この事件の直前に起こりました文化露寇(文化3年)につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編に書いておりますが、このときのロシアの極東進出は、ナポレオンのロシア侵攻により、それどころではなくなって一段落したような次第でして、すでにこのとき、日本列島は、欧州の嵐の影響をまともに受けるようになっていました。

 ナポレオン没落の後もオランダは、しばらくの間、イギリスからジャワを返してもらえず、1819年になって、ようやく取り返しました。
 実は、フランス革命戦争中の1799年に、オランダ東インド会社は解散させられていまして、オランダ政府は直接、返還されましたジャワの植民地経営を手がけることになりました。
 イギリスは、シンガポールに足がかりを得て、東アジアでの通商活動を活発化させています。オランダは、対日本独占交易のもっと有益な活用を、模索していました。
 ジャワ返還から4年、オランダがシーボルトによせる期待は、大きかったんです。

 当時、日本側も西洋の知識を求めていまして、特に医学について、そうでした。
 時の長崎奉行は、シーボルトが出島を出て日本人を診察しますことを許可し、また、日本人蘭方医に教えることをも認めます。
 これにより、知識に飢えていました日本人蘭方医が各地から長崎に集まり、二宮敬作もそうだったんですが、教えを受ける一方で、植物、地理、歴史、言語、宗教、美術など、多方面にわたりますシーボルトの日本研究に、協力もします。

 国立国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」第2部トピックで見る 1. 来日外国人の日本研究(3)にシーボルトの項目がありまして、簡略かつ的確に、業績が述べられています。
 デジタルで見ることが出来ます資料は、日本語じゃありませんので、ちょっと参考にし辛いのですが、シーボルトの著作『日本』も紹介されていまして、挿絵は、1826年(文政9年)、シーボルトがオランダ商館長の江戸参府に従いました際に、大坂で見た歌舞伎「妹背山婦女庭訓」なんです。
 実はこれが、ドーデの「盲の皇帝」の元ネタになったようなんです。

 なお、このときの将軍は精力絶倫子沢山の徳川家斉でして、御台所は後の広大院、蘭癖贅沢薩摩藩主・島津重豪の娘、茂姫です。
 将軍の岳父であります特権を、フルに活用しました重豪は、豊前中津藩に養子にいっていました息子の奥平昌高と、曾孫の島津斉彬を連れまして、商館長とシーボルトに会いに大森まで出向いたことが、シーボルトの『日本』には、書かれています。

 シーボルトは、来日して間もなく、16歳の商家の娘・お滝を見初め、当時、素人の日本女性がオランダ人とつきあうことは許されていませんでしたから、お滝は遊女となることによってシーボルトの日本人妻となり、出島に暮らします。(遊女であったお滝をシーボルトが見初めた、という説もあります)
 1827年(文政10年)、娘のイネが生まれました。

 ところが1828年(文政11年)、任期満ちて離日しようとした際、シーボルトが日本地図などの禁制品を持ち出そうとしていたことが発覚し、事件になります。地図を渡した高橋景保が死罪になりました他、日本側に多くの処罰者が出て、シーボルトも国外追放、再渡航禁止で、二度と来日がかなわないことになってしまったんです。

 オランダへ帰りましたシーボルトは、オランダ軍医の身分のまま、日本研究に没頭し、日本の専門家として、欧州に名を知られるようになります。
 「日本」出版と研究費を調達しますために、ロシアやオーストリア、ドイツ諸国など各地に出かけもしました。
 1845年(弘化2年)、49歳にして、プロイセン女性ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚します。
 ヘレーネがオランダを嫌ったため、プロイセン国籍をとり、プロイセン領だったラインラントのボッパルトに館を買って住みます。

 ペリー来航により、開国しました日本にオランダが働きかけ、シーボルトの渡航禁止処置が解けます。
 1859年(安政6年)、シーボルトは13歳の長男アレクサンダーを連れ、63歳にして、30年ぶりに来日しました。オランダ貿易会社顧問の肩書きでした。
 すでに30歳を超えました娘のイネと再会し、弟子で、イネの世話をしてきました二宮敬作とも会い、甥の三瀬周三を弟子にします。
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 上に書いていますが、大政奉還の建白書を起草したとされます海援隊の長岡謙吉が、このときやはり、シーボルトに師事したようです。

 1861年(文久元年)、シーボルトは幕府顧問となって江戸に出ますが、あまり上手くはいかず、翌年、15歳のアレクサンダーをイギリス公使館の日本語通訳生として残し、帰国します。
 そして、1864年(元治元年)、オランダの官職をすべて辞めて、生まれ故郷のヴュルツブルクへ帰ります。

 国籍は、どうなんでしょうか?
 ペーター・パンツァー氏の「国際人としてのシーボルト」によりますと、シーボルトはヴュルツブルク生まれということで、最初はバイエルン王国のパスポートをもって国を出ましたが、結婚してプロイセン国籍をとりましたし、おまけにシーボルトの「フォン」という貴族の称号は、祖父がフランス革命戦争で神聖ローマ帝国軍の負傷兵を治療し、ハプスブルク家の皇帝よりもらったものでしたので、オーストリア貴族ということも、できるんだそうです。

 さて、冒頭のドーデの小説「盲の皇帝」からの引用です。
 1866年の春に、「ニポン=ジェペン=ジャポン(日出ずる帝国)の開発のための国際協会という大計画を皇帝に提案するためにパリに来た」とドーデーは書いているのですが、1866年(慶応2年)というのがちょっと、ちがうのではないか、と思いました。

 実は、ですね。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4を書きましたとき、柴田剛中の「仏英行」(日本思想大系〈66〉西洋見聞集収録)を見ましたら、1865年(慶応元年)の夏、パリで柴田剛中を訪ねてきました人物として、モンブラン伯爵と並びますように、といいますか、まるで連れだって現れたかのように、シーボルトの名が書かれていたんです。

 以下、「仏英行」慶応元年(1865年)7月28日条より、抜粋引用です。
 「シーボルトは、仏商民会社を立、日本へ渡し置の策を、当国帝へ建議せんと欲するにより、同意有之度旨を縷術」
 要するにシーボルトは、「日本との交易商社設立をフランス皇帝ナポレオン三世に建議したいからあなた(柴田)も了承してくれ」と言った、というわけですから、ドーデが小説で述べて言っていることと、あまりかわらないんです。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3バロン・キャットと小栗上野介に書いておりますが、このときの柴田の渡仏は、横須賀製鉄所設立がらみで、そしてその資金調達の方策として、駐日フランス公使・レオン・ロッシュの友人、フリューリ・エラールが中心となりました「フランス輸出入会社」、ソシエテ・ジェネラールに良質生糸と蚕種を独占的に取り扱わせるについての話し合いも、あったと思われます。

 こういったロッシュ公使の画策は、イギリス、オランダ商人の大きな反発を買っていまして、その証拠は、オランダ領事ホルスブルックの手紙など、いくつも見ることができます。
 私、シーボルトはおそらくオランダ商人の依頼を受けていまして、フランスの生糸独占交易とならないよう、もっとオープンに、オランダ商人も参加できるような日本交易取り扱い会社の設立をナポレオン三世に提案するつもりだったのだろう、と思ったのですが、証拠がありませんし、めんどうになって、この時、シーボルトについては触れませんでした。

 「仏英行」7月20日条に、柴田は、モンブランの従者・斎藤健次郎(ジェラールド・ケン)がもってきた新聞を見ての感想としまして、「アールコック(初代駐日イギリス公使オールコック)、シーボルト、出水泉蔵(薩摩の密航使節団の一員としてイギリス滞在中の寺島宗則)、ロニ(レオン・ド・ロニー)等一穴狐となるの勢あり」と、すべてモンブランの仲間で、同じ穴の狢となってなにかを企んでいる、というような、ものすごい感想……といいますか、ある程度、正鵠を射ていますような、そんな見方を柴田は書き付けていまして、モンブランもぼろくそにけなしていますが、シーボルトに対しても、まったくもっていい感情は抱いていません。

 
シーボルト日記―再来日時の幕末見聞記
クリエーター情報なし
八坂書房


 上記、「シーボルト日記―再来日時の幕末見聞記」に詳細な年表がありまして、確かめてみました。
 やはり、1865年(慶応元年)の夏から、シーボルトはパリを訪れ、10月にはナポレオン3世に謁見していますが、翌1866年の春にパリへ行った事実はなく、ドーデの思い違いか、あるいはわざと半年ずらしたか、だと思われます。
 なおこの年表によりますと、シーボルトは1864年(元治元年、)池田長発が正使を務めました横浜鎖港のための遣欧使節団にも会っていまして、妙にモンブランと行動が重なります。

 それはともかく。ドーデの「盲の皇帝」です。
 ドーデによりますと、このときシーボルトがチュイルリー宮殿でナポレオン三世に謁見できましたのは、ドーデのおかげだそうなんです。
 これは、本当であってもおかしくはありません。
 この当時、ドーデは、ナポレオン3世の異父弟シャルル・ド・モルニー侯爵と親しく、秘書として待遇されていたんです。

 そしてシーボルトは、そのドーデの労に報いるため、ミュンヘンから「『盲の皇帝』と題する十六世紀の日本の悲劇を送ると約束」したそうなんです。
 これがどうも、先述しました「妹背山婦女庭訓」らしく、この人形浄瑠璃&歌舞伎は18世紀のものなんですが、天智天皇が盲目、という設定で登場します。

 おそらく、これが言いたくて、ドーデはシーボルトの謁見を1866年春にずらしたのだと思うのですが、「不幸にして彼(シーボルト)の出発から数日後ドイツで戦争〔一八六六年の普墺戦争〕がはじまり、例の悲劇のことはそれっきりになった。プロイセン軍がヴユルテンベルクとバイエルンに侵入したのだから、大佐(シーボルト)が愛国の熱情と外敵侵攻の大混乱のなかでわたしの『盲の皇帝』のことを忘れたとしても当然と言えば当然だった」ということなんです。

 で、嘘か本当か、ドーデは『盲の皇帝』が気になってたまらず、また戦争がどういうものかも見てみたいと思って、ミュンヘンへ出かけたんだそうなんです。
 『盲の皇帝』の話はともかく、ドーデが普墺戦争の最中にミュンヘンへ出かけたのは、どうも本当のことのような気がします。
 ドーデによれば、戦争の最中だというのに、バイエルンはとてつもなくのどかでした。
 ドーデは、普仏戦争の後に、この小説を書いています。

 いくら血のめぐりのわるい国民だって! 戦争の最中のこのかんかん照りのなかで、ケールからミュンヘンまでのライン彼岸の全域は、まったく冷静でおちつきはらっているように見えた。シュヴァーベン領をのろのろと重たげに横切って行くわたしの乗ったヴュルテンベルクの客車の三十の窓を通して、さまざまの風景がくりひろげられて行く。山、谷、せせらぎの涼気の感じられる豊かな緑のかさなり。列車の動きにつれて転廻して消えて行く山腹には、百姓の女たちが赤いスカートをはき、びろうどのブラウスをきて羊の群れのまんなかにいやにぎごちなく立っており、彼女たちのまわりで木々は青々として、樹脂と北国の森林の芳香のする、あの樅の小箱のなかから取り出した箱庭の牧場そっくりだった。ときどき緑の服の十人ぐらいの歩兵が牧場のなかを、頭をまっすぐ立て、足を高く上げ、銃を弩のようにかついで歩調を取って歩いている。これはナッサウのなんとか公の軍隊だった。ときどきまた大きな舟を積んだ汽車が、われわれのそれと同じようにのろのろと通った。寓意画に出て来る車みたいにそれに満載されたヴュルテンベルクの兵士たちは、プロイセン軍からのがれながら三部合唱で船歌をうたっていた。そしてわたしたちはどの駅の食堂にもはいる。給仕頭の変わらぬ笑顔、ジャムをそえた巨大な肉片を前にして顎の下にナフキンを結んだあのドイツ人らしい上機嫌な顔、そして大型馬車や脂粉や乗馬の人々でいっぱいのシュトゥットガルトの王宮前庭園、泉水をかこんでワルツをかなでる楽団、カドリーユ、キッシンゲンでは戦争しているというのに。実際そういうことを思いだしてみると、そしてまた四年後〔普仏戦争の年〕の同じ八月に見た、まるで烈日でボイラーが狂ってしまったように行く先も知らずに錯乱して突っ走る汽罐車、戦場のまっただなかに停止した客車、たちきられた線路、立往生した列車、東部の鉄道線が短くなるにつれて日ごとに小さくなって行くフランス、そして見捨てられた線路の全長にわたって辺鄙な土地にぽつんと残されたあの駅々の混雑、荷物のようにそこに置き忘れられたいっぱいの負傷兵たちを思うと、プロイセンと南部諸国との一八六六年のこの戦争は茶番でしかなく、だれがなんと言おうとゲルマニアの狼どもはけっして共食いなどしないのだとわたしは信じるようになる。

 さらにドーデは、こうも書いています。

 奇妙なことではないか! これらの善良なバイエルン人たちは、われわれがこの戦争について彼らの味方にならなかったことをあんなに怨んでいたくせに、プロイセン人に対してこれっぱかりも敵意をいだいていなかったのだ。敗戦を恥じる気も、勝利者への憎悪もない。「やつらは世界最強の兵隊ですよ……」と、キッシンゲンの戦闘の翌日、「青ぶどう」館のおやじはある種の誇りをもってわたしに言ったものだ。そしてこれがミュンヘンの一般の気持ちだった。

 私、それがために前回、延々とフランスとドイツ諸国の宗教について述べたのですけれども、基本的に、バイエルンを含みます南ドイツ諸国はカトリックで、プロイセンをはじめとします北ドイツは、プロテスタントだったんです。
 したがいまして、宗教を言いますならば、南ドイツはオーストリアの方に親近性があり、またフランスとも同じ基盤を持っておりました。

 しかし、フランス革命戦争、ナポレオン戦争は、すべてを変えてしまったと言ってもよく、バイエルンがプロテスタント人口を抱え込みましたと同じく、プロイセンもラインラントをはじめとしますカトリック人口をかかえこみ、ドイツ諸国におきまして、プロテスタントもカトリックも、一国内で同等の権利を持つようになっていて、国家と宗教の関係は、国家の方がはるかに重くなっていたといえるでしょう。

 それにいたしましても。
 ナポレオン3世は普墺戦争で傍観するべきではなかった、とよく言われます。
 実際フランス国内には、オーストリアに味方して、せめてラインラント(プロイセン領です)との国境線に軍をはりつけるべきだ、という意見も強くあったんです。
 ところがナポレオン3世は、それを退けました。

 プロイセンが善戦して長期戦になるだろうけれども、最終的にはオーストリアが優勢だろうから、中立の立場から仲裁に入ってプロイセンに恩を売り、あわよくばラインラントでもをせしめよう、そのためにも、かえって軍は出さない方がいい、という計算だったんです。
 ビスマルクの外交がまた上手く、事前にナポレオン3世を訪問して、「ラインラントはちょっと困るが、中立を保ってくれるならば、ルクセンブルグのフランス併合を認めてもいい」というようなことを、ほのめかしていたんですね。

 結局、プロイセンが普墺戦争でやりたかったことは、ドイツ統一の主導権をとる、ということだけでして、開戦二週間、サドワとケーニッヒグレーツの間にある平原で、プロイセンはオーストリアに電撃的勝利をおさめて、フランスが介入してくる以前に、早々と講和しました。
 プロイセンはオーストリアに領土も賠償金も要求しませんで、北ドイツ、中部ドイツの諸国を併合し、南ドイツ諸国には進駐することもなく、同盟を結んだだけでした。

 実際、当時のドイツ諸国の新聞の報道でも、あまり戦争への熱意はうかがえず、「兄弟戦争と呼んでナショナリストたちは嫌悪した」そうでして、ドーデの観察は、まちがってはいなかった、といえるでしょう。

 長くなりましたが、もう一度だけ、シーボルトとバイエルンと普仏戦争のお話が、続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol8

2012年04月09日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol7の続きです。

 バイエルン王国です。
 バイエルン選帝侯領は、グリム兄弟が生まれましたヘッセン=カッセル方伯領と同じく、神聖ローマ帝国の領邦国家でした。
 ヘッセン=カッセル方伯領との大きなちがいは、カトリックが支配的な宗教であったことです。

バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成
谷口 健治
山川出版社


 谷口健治氏の「バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成」の「終わりに」より、以下引用です。

 1789年の革命によって近代国家に転換したフランスの軍事的圧力を受けて、領邦国家の連合体というかたちで生き延びていた神聖ローマ帝国は、1801年に崩壊を始めた。その渦中で、領邦国家の整理統合が行われ、最終的には35の領邦国家が生き残った。生き残った領邦国家は消滅した領邦国家に所属していた領土を抱え込むことになり、旧来の領土と新しい領土を融合させるために中央集権的な近代国家体制を採用せざるをえなくなったのである。1806年に神聖ローマ帝国は消滅し、領邦国家の君主は完全な主権を獲得したので、領邦国家体制にとどまっている必要もなくなった。さらに、そこに、フランスの法体系や社会体制の輸出を目論むナポレオンの圧力が加わった。大国のプロイセンすらナポレオンの軍隊に抗しきれず、1807年には近代国家建設に向けて舵を切らざるをえなくなった。

 前回、すでにご紹介しておりますセバスチァン・ハフナー氏の「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」によりますと、プロイセンは決して大国ではありませんでしたし、1806年以前にも、「革命後のフランスに進歩性や近代性で負けまいとして、またフランス革命の成果を上からの改革によって模倣しようとして、感動的とさえ言える必死の努力をしていた」のであって、決して、ナポレオンの圧力によって近代化が推し進められたわけではないそうなのですけれども、フランスの圧力があったがゆえに必死の努力をしないわけにはいかなかった、という言い方もできますから、大筋において、谷口健治氏の述べておられることにまちがいはないでしょう。

 ドイツ領邦国家の整理は、神聖ローマ帝国の解体にともなって、必然的に行われたことです。
 フランス革命は、なにしろ王の首を斬り落とし、新しい秩序を打ち立てよう、というところまでいってしまいましたので、王を王たらしめていましたカトリック教会とも、当初、徹底した縁切りをするしかなかったんです。

 ジャン・ボベロ氏著、フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ)によりますと。
 アメリカは清教徒の国でしたから、その独立宣言には「創造主によって……侵すべからざる権利を与えられている」「この宣言を支えるため、神の摂理への堅い信頼とともに、我らは相互に以下のものを約する」とありまして、人権をもたらしたのは神(God)なのです。

 一方、フランスはカトリックの国でしたから、「人権宣言の第三条は、主権(=至高性)を宗教から独立したものにしている。つまり、主権は国民から来るのであって、もはや神授権に与る国王は存在しない」ということなのです。

 カトリックは古い宗教で、司教が領主であったり、世俗の権力でもありましたから、そのカトリックを国の宗教としておりましたフランスでは、革命前から宗教の世俗化が進んでおりました。
 アーネスト・サトウ  vol1に書いておりますが、フランスにおきますカトリックは、いわば日本の葬式仏教に近いような状態で、アメリカの清教徒のようなプロテスタントの方が、はるかに信心深い場合が多かったわけです。

 とはいいますものの、それまで、それなりに社会を律していましたカトリックを、一挙に全否定してしまいますことには無理があり、ロベスピエールが権力を握りました時期には、ルソーのいわゆる至高存在を神のようなものととらえ、市民教という奇妙な宗教を作り出そうとする模索もありましたが、失敗に終わります。

 再びジャン・ボベロ氏によりますと、結局、フランス革命におきますライシテ(脱宗教性)は不完全で、矛盾をはらみ、非常に不安定な状況を生み出したのですけれども、その混沌を受け継ぎましたナポレオンは、ローマ法王とコンコルダート(政教条約)を結んでカトリック教会と和解しますが、「革命で得られたいくつかのことが安定したやり方で具体化されているし、市民と認められた人間(男性)の法の前での平等が達成されている。また、限界こそあれ、宗教と信条の自由がきちんと与えられている」というような、施策をとります。

 ナポレオンは、コルシカ島の弱小イタリア貴族の子弟にすぎませんで、神授権を否定した革命の申し子でした。
 神聖ローマ帝国の否定は、その帝冠をひきずったオーストリアのハプスブルク家の権威の否定でありますと同時に、カトリックの頭領ローマ法王の権威の否定でもあったんです。

 ナポレオンがオーストリアをたたきのめした後、1801年に結ばれましたリュネヴィル講和条約によって、神聖ローマ帝国領邦国家の整理統合がはじまりました。
 結果、谷口健治氏によりますと、以下のようなことになります。

 帝国代表者会議によって正式決定された領土の変更は、非常に大規模なものであった。この領土の変更によって、マインツからレーゲンスブルクに移転したもとのマインツ大司教とドイツ騎士団の領土を除いて、68の聖界諸侯領はすべて姿を消した。また、51の帝国都市のうち、45の都市が帝国直属の地位を失った。聖界諸侯から取り上げられた領土や帝国都市は、ライン左岸がフランスに割譲されたために領土を失った世俗の帝国諸侯に補償として分配された。これによって、神聖ローマ帝国は重要な支柱であった聖界諸侯と帝国都市の大半を失い、崩壊への歩みを速めることになった。

 まあ、あれです。
 聖界諸侯領を天領に置き換えれば、廃藩置県で日本に起こったことに、似ているといえば、いえなくもありません。
 薩摩とか土佐とか長州とかは、「領邦国家」でも規模が大きく、薩摩にいたっては、琉球国名義で独自外交をくりひろげて西洋諸国と独自の通商条約を結ぼうとしていたのですから、幕末、幕府の統制がゆるんでバイエルン王国並になっていた、とはいえるでしょう。
 しかし、わが愛媛県、7世紀の令制国の一つであります伊予国は、江戸時代、十五万石の松山藩を筆頭に、小は小松藩、新谷藩の一万石まで、十近い藩に分かれていまして、別子銅山を中心とします天領も混在していました。

 ツヴァイヴリュッケン公爵マクシミリアン・ヨーゼフは、ルートヴィヒ2世の曾祖父ですが、1799年2月、縁戚で嫡出子がいませんでしたバイエルン選帝侯カール・テオドーアの死によって、バイエルン選帝侯領を受け継ぎました。
 マクシミリアン・ヨーゼフは、フランス王軍のドイツ人部隊、アルザス連隊の司令官の地位にあったくらいでして、フランス文化になじんでいました。
 しかし、フランス革命のためにその職を失い、しかも1795年、やはり嫡出子がおりませんでした実兄が死に、ツヴァイヴリュッケン公爵となりましたときには、その公国はフランスに占領され、無くなってしまっていました。

 私、これもまったく知らなかったのですが、バイエルン人は伝統的に、オーストリアが嫌いだったんだそうです。
 そうは言いましても、フランス革命勃発直後、1792年に始まりました対フランス戦争は、プロイセンとオーストリア、そして神聖ローマ帝国領邦諸国が戦ったのですから、バイエルンに迷いはなかったでしょう。

 しかし、1795年、プロイセンが戦線を離脱しましてから、国内には親フランス勢力もあって、厭戦気分がひろがっていたようなのですが、前選帝侯カール・テオドーアが親オーストリアだったことも手伝い、マクシミリアンが選帝侯になりましたときには、バイエルンは対仏同盟に取り込まれて、オーストリアの大軍が国内に駐留していました。

 マクシミリアンは、オーストリアを牽制する意味からも、ロシアに近づき、ロシアの仲買でイギリスからの補助金を受けることにしました。
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争4に書いているのですが、伝統的に正規常備陸軍が小規模でしたイギリスは、同盟国の陸軍に資金援助をすることがよくありました。
 イギリスはまた、 神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯領と同君連合でして、ときのイギリス王ジョージ3世はハノーファー選帝侯ゲオルク3世でもあったわけですから、ナポレオンによります攻勢は、他人事ではありませんでした。
 しかし、バイエルンのイギリス補助金軍と言いますのも、なんだか奇妙です。

 その補助金軍は、オーストリア軍に合流しまして、スイス方面からドナウ川添いに東進してきますフランス軍と戦いましたが、敗退し、フランス軍はバイエルン領内に入って、首都ミュンヘンを占領します。
 いったん退却しましたオーストリア&補助金軍は、さらに1800年12月、ホーエンリンデンで大敗を喫しました。
 この年の6月、北イタリアのマレンゴでも、オーストリアはナポレオンが指揮するフランス軍に敗れていまして、ついにリュネヴィル講和条約が結ばれ、前述しました神聖ローマ帝国領邦国家の整理統合、となったわけです。

 もともとが領土の大きかったバイエルンは、敗戦国でしたし、この整理統合で、領土をひろげたというほどではありませんでした。
 しかしフランスは、オーストリア、プロイセンを牽制する意味で、この地域に中規模国家を育成したがっていましたので、バイエルンは近隣にあった司教領や修道院領、帝国都市を得ることとなり、領土一円化の足がかりができました。
 以降、バイエルンはフランスに近づき、オーストリアと手を切ります。
 
 再び、「バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成」より引用です。

 1799年にマックス(マクシミリアン)・ヨーゼフの政権が誕生すると同時に近代国家への模様替えが始まっていたバイエルンの場合も、その後の事情はほかのドイツの領邦国家と変わらなかった。1801年から始まる神聖ローマ帝国の崩壊過程で、バイエルンはナポレオンと手を結んで領土を拡大した。バイエルンの場合、領土の拡大に近代国家への転換の出発点があるわけではないが、領土の拡大が近代国家体制の整備を促したことは間違いない。1806年にはバイエルンは王国に昇格し、神聖ローマ帝国も消滅したので、近代国家体制を整備するうえでの障害物もなくなった。その後、ナポレオンとの外交的駆け引きのなかで、1808年にはバイエルン最初の成分憲法が制定されて、非常に中央集権的な近代国家が生み出されることになった。

 結局のところ、プロイセンにしろバイエルンにしろ、です。
 フランス革命戦争からナポレオン戦争へ、フランスが欧州に巻き起こしました嵐の中で、自国の独立を保ちますためには、上からの近代化をはかる以外に、方法はなかったんです。
 そういった点において、当時のドイツ領邦国家群は、欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達しました幕末維新期の日本と、似ています。

 先に書きましたが、バイエルンは基本的にカトリックの国でした。
 ところが、領土が拡大しますことによって、四分の一のプロテスタントの人口をかかえこみます。
 それまで、もちろん、領邦によって宗教政策はちがっていたのですが、バイエルンが国としてまとまりますために、宗教政策も中央集権化する必要に迫られ、1809年、宗教勅令によって、キリスト教宗派の平等な取り扱いを保証し、宗教活動の自由を認め、と同時に、カトリック教会に対しては、国家の統制権を強化し、ローマ法王とコンコルダート(政教条約)を結んで調整する方向へ進みます。

 ただし、谷口健治氏によりますと、個々の住民の宗教の自由は保障されましたが、バイエルン国内で宗教活動が行えるのは、カトリックとプロテスタントのルター派、カルバン派のみでして、これらの宗派に関しては、国がその人事や財政にも深くかかわっておりまして、徹底的にライシテ(脱宗教性)が追究されたわけでは、ありませんでした。
 しかし、それが19世紀ヨーロッパ近代国家のグローバルスタンダードでしたし、それによって国の安定が得られたわけです。

 国の近代化は、軍隊の近代化に直結します。
 どうも日本では、軍の近代化といいますと、銃器だとか火器の話になってしまうのですけれども、何度か書きましたが、簡単にいいまして、19世紀の大陸国家の陸軍の近代化とは、国民を総動員しまして、ものすごい数の歩兵をそろえることが基本なのです。
 志願兵制で、ものすごい数の歩兵が集まるわけがないですから、必然的に国家が強制力を持って施行する徴兵制となります。

 いわば、ごく一般の人々が大量に、軍隊の最下級の一兵卒になるわけですから、ここでやたらめったら鞭がふるわれたり、奴隷そのもののような扱いですと、徴兵制は機能しません。
 軍の組織そのものが、人権を配慮しましたものに近代化される必要も、出てくるんです。

 そして、ごく一般の農民や商工業者の子弟が大量に動員されるといいますことは、どこの国と同盟してどういった外交を展開するのか、自国の外交が自分たちの運命に直結することになりますから、庶民に政治参加への意欲が生まれ、国民としての意識も強固なものとなり、ナショナリズムが燃え上がりやすくなるわけなのです。

 バイエルン人のドイツナショナリズムが燃え上がりましたのも、プロイセンと同じく、前回に書きましたナポレオンのロシア遠征によって、でした。
 ロシア遠征に参加しましたバイエルン軍3万6千人のうち、無事に帰国できたのは5千人あまりだった、といいます未曾有の惨状に、バイエルン人の対仏感情は極度に悪化し、ドイツナショナリズムが野火のようにひろがっていきます。

 しかし、ナポレオンと手を結び、国を大きくしてきましたバイエルンにとりまして、外交転換の舵取りはむつかしく、1813年、諸国民戦争の最後の最後の段階で寝返り、退却するナポレオン軍に反旗をひるがえします。
 6万のナポレオン軍に襲いかかりました2万5千のバイエルン軍(オーストリア軍とあわせて4万3千)は完敗し、9千人の犠牲者を出すのですが、この犠牲のおかげで、ナポレオンと戦ったという実績が残り、連合軍の仲間入りをして、フランス国内に攻め入ります。
 そして、戦後処理におきましても、バイエルンは領土を減らすことなく、中規模王国として、ドイツ連邦の一員となることができたのです。

 それからおよそ50年、初代国王マクシミリアン・ヨーゼフの曾孫の代になりまして、再びフランス国内へ攻め入って戦うことになったわけなんですけれども。
 バイエルン王国のその後の50年を解説した参考書にはめぐりあえませんで、またしても「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」を参考に、簡単にまとめます。

 
図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
セバスチァン ハフナー
東洋書林


 1815年、ウィーン会議の結果、勢力均衡がはかられ、欧州には平和が訪れました。
 フランスの王政復古とともに、ドイツ領邦諸国も保守的な雰囲気につつまれますが、しかし、フランス革命とそれに続きましたナポレオン戦争によって、神聖ローマ帝国は消えてしまったわけですし、けっして後戻りのきかない変化が生まれていました。
 セバスチァン・ハフナー氏によりますと、「国民は民族としての同一性を意識しはじめ、民主主義的民族国家を要求しはじめ、勃興しつつあった市民階級は自由主義的憲法を欲していた」ということになります。

 そして、ナポレオンの没落で訪れました欧州の平和は、イギリス一国が先行しておりました産業革命の本格的な波を大陸にもたらし、鉄道が敷かれ、中産階級(ブルジョア)の層が厚くなりますと同時に、都市労働者の数が急増していきました。

 ライン川西岸のラインラントは、神聖ローマ帝国の小領邦国家が並んでいた地域だったんですが、ナポレオン戦争時にはフランスに占領され、ウィーン会議によりまして、プロイセンの領土とされました。
 この地帯は、フランスに隣接していました上に、プロイセンからは飛び地で、自由主義的傾向が強かったものですから、当初は、「オーストリアのメッテルニヒが、プロイセンにお荷物を背負わせようともくろんだことではないのか」とまでいわれましたが、鉱工業が栄え、産業革命の牽引車となった地域です。
 ウィーン会議から間もない1818年、カール・マルクスが、このラインラントに生まれています。

 ドイツ関税同盟は、飛び地ラインラントの存在から、流通の不便を痛感しましたプロイセンが、1828年にまずはヘッセン=ダルムシュタット大公国と関税協定を結び、北ドイツ関税同盟を成立させたことにはじまります。
 しかし、当初はドイツ連邦諸国の警戒を招き、バイエルンはヴュルテンベルクとともに南ドイツ関税同盟を立ち上げ、またザクセン、ハノーファーを中心としまして、グリム兄弟の祖国ヘッセン=カッセル選帝侯国などを含む中部ドイツも、通商同盟を作ったのですが、結局のところ、この分裂はドイツ連邦経済にとってマイナスでしかありませんで、プロイセンが個々に働きかけて、切り崩し、ついに1834年、ドイツ関税同盟が発足します。
 この経済的な一体化は、域内の流通を促進しましたし、さらに政治的な一体化を求める声も、大きくなっていきました。

 欧州で活発になってまいりました民族運動は、多民族国家でしたオーストリアにとりましては危険きわまりないものでした。
 しかしプロイセンは、ほぼドイツ民族のみの大国でしたので、他民族の反乱の心配はなく、むしろドイツ連邦諸国の民族主義者から、統一国家の核となることを望まれていました。
 しかし、オーストリアの政治家・フェリックス・シュヴァルツェンベルクは、多民族帝国オーストリアにドイツを呑み込んで、いわばかつての神聖ローマ帝国を、近代版として蘇らせるような構想をもっていまして、シュヴァルツェンベルクが長生きをすれば、あるいはそういう可能性も皆無あったかもしれない、といわれております。

 ともかく、紆余曲折がありましたけれども、プロイセンとオーストリアは、ドイツ統一の主導権を争いまして、1866年、普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)となりました。
 このときのプロイセンとオーストリアを、現代の感覚で見ますと、ちょっと事実とちがってしまうでしょう。
 いまのオーストリアは小国ですが、当時のオーストリアは、広大な領土を持った老大国です。
 当時の民族主義者は、自由主義者でもありまして、いわば進歩的な勢力と見られていたのですが、プロイセンを核とした統一を望んでいましたドイツ人は、大方そういう人々でした。

 そして当時、オーストリアがプロイセンに勝つ可能性の方が高いと、見られてもいました。
 プロイセンの側につきましたのは、北ドイツの小邦のみで、バイエルン、ヴュルテンベルクの南ドイツはもちろん、中部ドイツも、オーストリアの味方につきました。
 プロイセンが同盟を結びましたのは、ほぼ統一を果たしたイタリアです。イタリアの目的は、オーストリアの支配下にあったヴェネト地方でした。

狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏 (中公文庫BIBLIO)
ジャン デ・カール
中央公論新社


 ジャン・デ・カール氏の伝記によりますと、若きバイエルン国王ルートヴィヒ2世は、普墺戦争を目前にして国事を放り、崇拝する作曲家のワーグナーに会いに行ったりしていたのですが、ワーグナーの説得でようやく議会の開会宣言を行い、その宣言の中で「偉大なる祖国ドイツ」を語って野党自由党の拍手をあび、しかし「一触即発の状態にある内戦を嫌っている」と述べて、保守派の顰蹙を買ったんだそうです。

 よく知られている話だと思うのですが、この当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と、美貌のオーストリア皇后エリーザベトは、従兄妹です。
 フランツ・ヨーゼフの母親ゾフィー・フォン・バイエルンとエリーザベトの母親ルドヴィカ・フォン・バイエルンは姉妹で、ルートヴィヒ2世の曾祖父、初代バイエルン国王マクシミリアン・ヨーゼフの娘でした。

 しかも、当時のプロイセン王ヴィルヘルム1世の兄で、先代の王だったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の王妃、エリーザベト・ルドヴィカ・フォン・バイエルンもまた、マクシミリアン・ヨーゼフの娘でした。
 つまり、オーストリア皇帝夫妻の母親と、プロイセンの王太后は姉妹で、ともにバイエルン王国の王女だったわけです。

 さらに、ルートヴィヒ2世の母親、マリー・フォン・プロイセンは、ヴィルヘルム1世の叔父の娘、つまりはプロイセン王の従妹で、王家の話をしますならば、ドイツ諸国はどこもが親戚状態でして、まさに内戦でしかありませんでした。

 そしてルートヴィヒ2世だけではなく、実はバイエルン国民も、この戦争を嫌がっていたのではないか……、という証言が、他にもあります。
 実は、これが私をバイエルンに深入りさせたのですが、19世紀のフランスの作家アルフォンス・ドーデが、普仏戦争を描いた連作の中で、なんと!!!バイエルン王国と幕末の日本を重ねて描いているんです。
 バイエルンと幕末の日本になんの関係があるか、ですって?
 それが……、シーボルトなんです。
 シーボルトは、バイエルンの出身でした。

 長くなりましたので、続きます。
 バイエルンのお話は次回で終わり、その次から、正名くんのお話に入る……、はずです。

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普仏戦争と前田正名 Vol7

2012年04月06日 | 前田正名&白山伯
 普仏戦争と前田正名 Vol6の続きです。

 今回、「巴里の侍 」(ダ・ヴィンチブックス)に感謝すべきなのかも、と思いましたのは、このさい普仏戦争に関する本をもっと読んでみよう、ということで、いろいろと読み返したり、新しい本にめぐりあったりで、発見が多々あったことでした。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 このゾラの「壊滅」は、戦争文学として傑出していると、私は思います。
 と、ここまで書いて間が開きすぎまして、なにが書きたかったのかも、忘れるほどなんですけれども。

 これまでに、「壊滅」の主人公で若きインテリのモーリスと、年のいった農民ジャンが、戦友としての絆を深めながら、セダン(スダン)の戦いで敗走するところまで、ご紹介したんですけれども、二人は、セダンの城壁内に逃げ込みますこの敗走の途中で、なんと、モーリスの双子の姉・アンリエットに出会います。
 
 アンリエットは、普仏戦争と前田正名 Vol5で書きましたが、セダンの織物工場の監督になっているヴァイスという好青年と、恋愛結婚をしていました。
 ヴァイスは、仕事の都合でセダンに住んでいたのですが、近郊のバゼイユに家を持っていて、プロイセン軍が迫ってくる中、様子を見に出かけていて、市街戦にまきこまれます。
 まきこまれたといいますか、敵の砲弾が、息子の病気で避難できなかった街の女性を殺し、自分の家が破壊されるのを見ましたとき、ヴァイスは思わず、死んだ味方の兵士の銃を取り、戦闘に加わらないではいられませんでした。

 バゼイユを守っていましたのは、フランスの海軍陸戦隊です。
 以前にもご紹介いたしました松井道昭氏のブログ、普仏戦争 開戦 集団的熱狂の綺想曲(2) 第2章 泥縄式編成の軍隊を読ませていただきますと、海軍は圧倒的にフランスが勝っていたことがわかります。

 しかし、大陸国家同士の場合、この時期、海軍の優劣はあまり戦争全体の勝敗に影響しなかったようなのですね。
 1864年、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)のヘルゴラント海戦では、デンマーク海軍がオーストリア・プロイセン海軍に勝ち、1866年、普墺戦争のリッサ海戦では、オーストリア海軍がプロイセンの同盟国イタリア海軍に勝ちましたけれども、いずれも、海戦では勝った側が負けています。

 普仏戦争では、制海権はフランスが握りましたまま大きな海戦はなく、そのせいなのか、あるいは陸軍の兵隊が足りなくなったあまりなのか、よくはわからないのですが、フランスはずいぶんと、海軍陸戦隊を船から降ろして、内陸戦に使ったみたいです。

 それはともかく。
 バゼイユを攻撃しましたのは、南ドイツ連邦のバイエルン王国軍です。
 私、ですね。普仏戦争におきますバイエルン王国軍が、ものすごい勇猛ぶりを見せて奮戦した、という事実を、つい最近まで、まったく存じませんでした。

 
ルートヴィヒ 復元完全版 デジタル・ニューマスター [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


 おそらく、このルキノ・ヴィスコンティ監督の映画、「ルートヴィヒ 神々の黄昏」の影響です。
 美貌のバイエルン王、ルートヴィヒ2世につきましては、ずいぶん以前に『オペラ座の怪人』と第二帝政で書いたんですが、この若き王が、普仏戦争をあんまりありがたがっていませんでしたことは、確かに映画の描く通りにそうだったんでしょうけれども、考えてみましたら、王が嫌がったからって、国民が嫌がったとはかぎらないんですよねえ。
 それで、ルートヴィヒ2世の伝記を読み返してみました。

 
狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏 (中公文庫BIBLIO)
ジャン デ・カール
中央公論新社


 私、相当なうっかり屋です。
 といいますか、映画の印象が強すぎまして、後で読みました伝記の内容が、まったく頭に入っていなかったのでしょうか。
 ジャン デ・カール氏によりますと、美貌のルートヴィヒ2世は、かなり冷静に外交を考え、バイエルン王国のためをはかって、プロシャに味方しての参戦を承諾した、ということなんですね。
 
 説明の必要があるでしょうか。
 神聖ローマ帝国について、書いたことがあったはず、と思いましたら、ずいぶんと古い記事なんですが、アラゴルンは明治大帝か、でした。まだ、じぞうさまといっしょに、パロディ本に参加させてもらっていたころ、ですねえ。
 必要部分を、再録します。

 ところで、神聖ローマ帝国です。
日本の天皇制が西洋で理解されないのと同じくらい、日本人には理解し難いものですが、ごく簡単に言ってしまえば、「中世ドイツ王国を基礎にして10世紀から19世紀初頭までつづいた帝国。盛期にはドイツ・イタリア・ブルグントにまたがり、皇帝は中世ヨーロッパ世界における最高権威をローマ教皇とのあいだで争った」となるんでしょうか。
 帝国は大中小さまざまな諸侯国から成り立ち、わずかな数の有力諸侯が選挙権を持って、諸侯の中から皇帝を選んだわけですが、15世紀から、ほぼハプスブルグ家の世襲となり、皇帝の権威がおよぶ範囲は、ドイツ語圏に限定されましたので、「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。
しかし、そうなりながら、フランス王が皇帝候補として名乗りを上げたりもしていますので、なんとも複雑です。

 近代国民国家の成立は、神聖ローマ帝国を解体する方向で進みます。
 近世、ヨーロッパの王家の中で、ハプスブルク家だけが皇帝を名乗るのですが、これは神聖ローマ皇帝であり、しかしハプスブルク家が統治する領域は、神聖ローマ帝国と重なる部分はあるにせよ、一致しないんですね。
 つまり、神聖ローマ帝国は、領域国家ではなかったんです。

 最終的に、神聖ローマ帝国を葬ったのは、ナポレオンです。
 一応貴族ではありましたが、王家の血筋とはまったく関係のないナポレオンが、実力によって、自ら皇帝を名乗ったのです。このときから、ハプスブルク家は名ばかりとなっていた神聖ローマ皇帝の名乗りを捨て、オウストリア・ハンガリー帝国という領域国家の皇帝となりました。
 ナポレオンが、神聖ローマ皇帝という古い権威を否定するために持ち出したのは、古代ローマ皇帝です。もちろん、「古代ローマ皇帝に習う」とは、実質、新秩序の立ち上げです。


 基本的には、こういうことで、まちがってはいないと思います。
 「それが幕末維新になんの関係があるの?」といわれるかもしれませんが、以前の記事にも書いております通り、私は、大ありだと思っています。

 伝説の金日成将軍と故国山川 vol1に書いておりますが、簡単に言ってしまいますと、幕末維新の日本は欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達したわけでして、いわば、当時の西洋のグローバルスタンダードにあわせて独立を保つべく、懸命に、無理を重ねて、変革に挑みました。

 とかく、ですね。日本史は日本史のみで見る傾向があるんですけれども、それは、ちがいます。
 日本は、世界の中にあるのですし、まして幕末維新は、ロシアの南下に始まります西洋近代との衝突が、直接国内の動乱につながっていったわけです。
 生麦事件と攘夷寺田屋事件と桐野利秋 前編など、たびたび引用してまいりました中岡慎太郎の言葉が、もっとも鋭く、維新がなんだったのかを語ってくれています。

 「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」

 攘夷感情は、国民国家を成り立たせますナショナリズムとなります。
 維新は、ドイツ、イタリアの統一とほぼ同時代の出来事ですし、慎太郎が、「日本の攘夷は、アメリカの独立戦争と変わらないんだよ」と述べていますのは、本質を突きました世界史的理解なのです。

 
ドイツ史と戦争: 「軍事史」と「戦争史」
三宅 正樹,新谷 卓,中島 浩貴,石津 朋之
彩流社


 上の本の中島浩貴氏著「第一章 ドイツ統一戦争から第一次世界大戦」に、非常にわかりやすく、ドイツ統一までの道程をまとめてくれていますので、引用します。

 地域としてのドイツは、ドイツ語によって、国家が成立する前から認識されていた。プロイセン、オーストリア、バイエルン、ザクセンといった諸国が地域としてのドイツには存在していたからである。地域名でしかなかったドイツが民族の統一的な国家の土台として認知されるのは、フランス革命戦争とナポレオン戦争の時期においてである。革命の炎によって生まれ出た国民国家フランスとの軍事的衝突、そしてフランスによる占領は、ドイツ地域に住む人々のナショナリズムを高めることになった。しかし当時その愛国主義の中核となるドイツ民族の国家は存在していなかった。この点で、ヨハン・ゴットフリート・フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』は、愛すべき祖国のない思想家の嘆きとしてもとることができよう。当時のドイツにあったのは、細かく分かれた小国家にすぎなかった。
 ドイツ国民のナショナリズムと統一国家への傾斜の発端を「はじめにナポレオンありき」という言葉で表現したのは、ドイツの歴史家トマス・ニッパーダイであるが、少なくとも隣国の変化が国民国家ドイツの建設を促進したことは否定できない。1871年(明治4年)のドイツ帝国の成立まで、統一国家としてのドイツは存在しなかった。普墺戦争の後の1867年(慶応3年)に、北ドイツ連邦が設立され、そして、その後の普仏戦争をへてドイツはプロイセンを中心とした統一国家になっていくのである。


ブラザーズ・グリム DTS スタンダード・エディション [DVD]
クリエーター情報なし
ハピネット・ピクチャーズ

 
 グリム兄弟の神風連の乱に感想を書いておりますが、映画「ブラザーズ・グリム」は、グリム兄弟の若かりし日、フランスに占領されましたドイツ領邦国家の攘夷の物語を、すばらしいパロディにしてくれています。

 グリム兄弟は年子でして、1785年とその翌年に、ヘッセン=カッセル方伯領で生まれました。
 フランス革命の始まりが1789年ですから、兄弟が三つ、四つのころです。
 フランス革命は、フランス国内の秩序を破壊しただけではありませんで、その変動はヨーロッパ全土の秩序をゆるがします。
 フランス革命期の対外戦争は、ナポレオンに受け継がれました。

 1805年、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)で、オーストリア・ロシア連合軍は、ナポレオン率いるフランス軍に敗退します。
 それまで、名目的にではありましたが、オーストリアのハプスブルグ家が、神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)皇帝として、ドイツ領邦国家群の上に君臨しておりましたが、この敗戦により退位して、神聖ローマ帝国は消滅します。
 1806年、領邦国家群のかなりの数が、ナポレオンの圧力により、フランスを盟主としたライン同盟に参加します。
 ちょうど日本では、ロシア人が樺太、択捉で日本人を攻撃しました文化露寇が起こり、国防が憂慮され始めましたころです。

 プロイセンは、フランス革命の初期はともかく、ナポレオンに対しましてはずっと中立を保ち、対イギリスでは同盟国にさえなって、むしろ領土をひろげていたのですが、神聖ローマ帝国が解体され、今度はフランスに対ロシアでの同盟を求められて、ついに反旗をひるがえします。
 しかし、1806年イエナ・アウエルシュタットの戦いで、プロイセンはあっけなく破れ、プロイセンを支持していましたヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル方伯領)は消滅し、フランス軍に占領されて、ナポレオンの弟が統治するヴェストファーレン王国に組み入れられました。
 グリム兄弟は、青年期に祖国が消滅し、フランスの統治下に入る経験を持ったわけです。
 プロイセンのベルリンで、フィヒテが、「ドイツ国民に告ぐ」と名づけられました十数回の演説で、国が独立を失うことへの危惧を訴えましたのは、このフランスの占領下でした。
 
グリム兄弟―生涯・作品・時代
ガブリエーレ ザイツ
青土社


図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
セバスチァン ハフナー
東洋書林


 上の二冊の本を参照しまして、述べてまいりますと。
 1812年のナポレオンのロシア遠征は、60万もの大軍によるものでしたが、その遠征軍の三分の一はドイツ人でした。
 そのうちの半分、ヨルク将軍が率いていましたプロイセン軍は、バルト海沿岸地帯の側面防備にまわされていましたために、モスクワから退却中のフランス軍が被りました破滅からまぬがれ、単独で、ロシアと講和を結びます。
 
 これが、ドイツナショナリズムに火をつけるんです。
 フランスの徴兵制で、フランスのためにロシアまで連れていかれて、戦わされて飢えと寒さにさらされ、負傷させられたり、病気にさせられたり、あげく戦死させられたりしたのでは、ドイツの農民はたまったものではありません。

 1813年、プロイセン王はむしろ消極的だったのですが、国民の熱気が募り、プロイセンはロシアとの同盟、フランスへの宣戦布告に踏み切ります。
 フィヒテの弟子で、スウェーデン領で生まれました詩人・エルンスト・モーリッツ・アルントは、「バイエルン人ではなく、ハノーファー人ではなく、ホルンシュタイン人ではなく、オーストリア人ではなく、プロイセン人ではなく、シュヴァーベン人ではなく、己をドイツ人と呼ぶことが許されているすべての人々が、敵対するのではなく、ドイツ人がドイツ人に味方するのだ」と宣伝し、多くの人々が、「祖国ドイツの自由と統一を戦い取るために」、義援金を出し、また義勇軍に参加しました。

 当初、プロイセンの出兵は敗北に終わるのですが、オーストリアとフランスの交渉が決裂し、ドイツ民族解放闘争は、1813年10月、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデン、オーストリアが同盟してナポレオン軍に対しました諸国民戦争の勝利で、ついに結実します。
 グリム兄弟もまた、積極的に祖国解放運動に参加し、ヘッセン選帝侯国が蘇り、ドイツ連邦の一員となる喜びを味わいました。

 えー、脱線のしすぎでしょうか。
 なぜ普仏戦争でバイエルンのドイツナショナリズムが燃え上がったか、というお話です。
 最近、なんとなく、ですね。
 薩摩はなぜ、バイエルンたりえずにプロイセンにならざるをえなかったのか、なんぞと思ったりもしていまして、もう少しおつきあいください。

 長くなりましたので、次回に続きます。

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高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 下

2012年04月04日 | 幕末留学

 春の嵐が過ぎ去りまして、桜と菜の花が、美しく輝く今日このごろ。
 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 中の続きです。

 明治維新のとき貞ちゃんは二十歳。
 まだまだ若いですし、再びイギリスへ!という夢を抱いていたらしいのですが、明治4年(1871年)、東伏見宮(小松宮)の英国留学に随従する、という機会がめぐってきます。
 今回もまた、主な参考書は小山騰氏の下の著作です。

国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始 (講談社選書メチエ)
小山 騰
講談社


 貞ちゃんの今回の目標は、法学修行です。
 あのオリファントと、そして今度はハリー・パークスの尽力もあり、ロンドンの法律学校リンカーンズ・インに入学がかないました。

 ところが、ですね。
 このとき貞ちゃんは、アメリカまわりでイギリスへ行っているのですが、小山氏は、すでにイギリスに着きます前に貞ちゃんは、チャールズ・ボウルズなる詐欺師まがいのアメリカの金融業者と、船中ででも知り合っていたのではないか、と推測なさっています。

 ともかく、貞ちゃんの自叙伝によりますと、リンカーンズ・インで法律を学ぶうち、「イギリスの法律は、商習慣に関係するものが多いので、実地見習いが必要だと教師にいわれ、チャールズ・ボウルズに相談したところ、最近設立したうちの子会社ナショナル・エージェンシーはさまざまな商業に関係しているから株主になって勉強すればいい、といわれた」ということでして、ナショナル・エージェンシーなる子会社は、岩倉使節団がヨーロッパに渡るのにあわせるかのように設立されていまして、勘ぐりますと、最初から日本人詐欺をもくろみまして、貞ちゃんを株主に誘ったのではないか、という疑いももたれるんです。

 チャールズ・ボウルズは、兄弟たちとともに、ニューヨーク、ボストン、ロンドン、パリ、ニースなど、各地に店を持つボウルズ兄弟社銀行を運営する、金融業者でした。
 当時としましては、非常に新しい形の総合経営をしていまして、アメリカ人旅行者に、物品の購入や送付などを代行したり、旅行代理店のようなサービスを行い、それに金融をからめていましたから、けっこう繁盛してはいたらしいんですね。
 ただ、経営がずさんでして、資金繰りは苦しく、顧客からの預かりものを勝手に抵当に入れ、他の銀行から金を借りるなどの不法行為を行ったりもしていました。

 明治5年(1872年)、貞ちゃんはチャールズ・ボウルズに誘われまして、ナショナル・エージェンシーの株主になり、同時に取締役になります。当時、やはりロンドンに留学していました尾崎三良の自叙略伝には、次のようにあるそうです。

 南は取締役として月給二百ポンド、すなわち我今の二千円を受け、倫敦(ロンドン)に宏壮なる家屋を借り、英人を妻となし随分贅沢の活計を為し、たまたま日本の書生などが訪問すると客室へ招じ葡萄酒などを饗し、妻諸共出で来り挨拶を為し(後略)

 貞ちゃんの英人の妻とは、ロンドン近郊の庭師の娘、ライザ・ピットマンでした。
 明治6年、貞ちゃんがライザを連れて帰国しましたとき、「まいにちひらがなしんんぶんし」の記事は、「我国始つてよりこのかた、珍しき縁組なり」と述べ、ライザが貞ちゃんと結婚した理由について、「ライザが南を大金持ちと誤解したから」という噂を伝えているのだとか。

 まあ、ライザは、初等科の教師が務まる程度の教育は受けていたようなのですが、ロンドン近郊の庶民の娘さんが、極東の小さな島国がどんな国やら知るわけないですし、東洋の大金持ちの御曹司だと誤解したといいますのは、ありえる話ではないんでしょうか。
 後年の自叙伝によれば、なんですが、貞ちゃんの方も「自分は人種改良論者だったので、日英の混血の子供が欲しかったのだ」なんぞとのたまっていまして、一応、日本人の国際結婚第一号とされるのですが、まったくもって、ロマンティックではありません。

 ナショナル・エージェンシーは貞ちゃんに、豪邸で大金持ちのように暮らせるほどの給料をなぜ払っていたのか、あっという間に種は明かされます。

 先にも書きましたが、ナショナル・エージェンシーは、岩倉使節団の便宜をはかり、一行の日本人から金をまきあげるために、設立されたような会社です。実際に貞ちゃんは、岩倉使節団がイギリスの造船所や兵器工場を訪問する手続きに奔走しておりまして、同時に、ナショナル・エージェンシーへ預金するよう、日本人を勧誘してまわっているのです。
 ナショナル・エージェンシーは、親会社ボウルズ兄弟社のロンドン支店に同居していまして、その支店がまた、トラファルガー広場のすぐそば、チャーリング・クロス駅の真ん前の角地に、堂々と建っていたのだそうです。

 現在も、Google地図チャーリング・クロス駅前でストリートビューをしますと、真正面に丸っこい建物があるんですが、これ、もしかして、当時のままなんでしょうか。ちがっていたにしましても、当時もロンドンの一等地ですし、りっぱな建物だったんでしょうし、騙されてしまいますよねえ。

 なにしろ、岩倉使節団は動く日本政府のようなものでしたから、多額の公金をうずんでいましたし、随行員の手当の額も破格で、それを私金として溜め込んでいる人間も多数いました。
 貞ちゃんはまず、私金を預けるように誘い、ついで公金にも勧誘の手をのばしていました。
 英語がぺらぺらで、今をときめく長州閥の御曹司が取締役を務める銀行が、いろいろと便宜もはかってくれるわけですし、安全な上に利子がつくという話なのですから、預かってもらった者は多く、金額も膨らみました。

 ところが、まだ使節団がイギリス滞在中の明治5年11月、突然、ロンドンのボウルズ兄弟社とその子会社のナショナル・エージェンシーはともに閉鎖され、預けたお金が引き出せなくなってしまうんです。
 ナショナル・エージェンシーは、日本人から集めた金をすべて親会社ボウルズ兄弟社に貸していまして、ボウルズ兄弟社の資金繰りが悪化しましたために、ほとんどの幹部がアメリカに引き揚げてしまい、貞ちゃんの知らないところで、閉鎖、倒産という事態になってしまったんです。

 なにしろ岩倉本人からして、1127ポンドという多額の金を預けていましたし、副使の大久保利通、木戸孝允、山口尚芳、みんな私費を預けていたらしく、パニックです。
 しかし、使節団の公金は、会計主務の青山伯(田中光顕)が、文久遣欧使節団参加経験者の福地源一郎の忠告を入れ、貞ちゃんの勧誘を拒絶しましたことが、林董の回顧録「後は昔の記」(近デジにあります)に見えます。

後は昔の記 他―林董回顧録 (東洋文庫 (173))
林 董,由井 正臣
平凡社

 
 公金を預けることを拒んだといいますと、もう一人、やはり文久遣欧使節団に参加していました人で、寺島宗則がいます。
 寺島は薩摩藩の密航使節&留学生の一員でもありましたが、慶応2年3月28日(1866年5月12日)に帰国しておりますので、貞ちゃんが幕末に一千両使ってイギリスにたどり着きましたときには、もういませんでした。
 そして寺島は、先に述べましたように、外務大輔としてガルトネル開墾条約事件の後始末にかかわっているわけでして、私、思いますにこのとき、「相当なうっかり屋だな、こいつ。信用ならん」と、鋭くにらんでいたにちがいありません。

 しかし、その寺島の外務省薩摩閥の後輩に、公金をもっていかれてしまいました超うっかり屋が、いました。
 2677ポンドを失った鮫ちゃん、鮫島尚信です。この事件の最大の日本人被害者でした。

 寺島も鮫ちゃんも、岩倉使節団のメンバー、というわけでは、ありませんで、広瀬常と森有礼 美女ありき5で、以下のように書いた通りです。

 鮫ちゃんと有礼は、日本が海外へ送り出す最初の日本人駐在外交官となりました。鮫ちゃんは普仏戦争最中の欧州へ、有礼はアメリカへ、20代半ばという若さで、日本を代表する少弁務使(代理公使)としての赴任です。鮫ちゃんは、イギリスでは拒否され、フランスに落ち着きます。何度か書きましたが、イギリスの外交官は官僚ではなく、貴族かジェントリーの子弟が自腹をきって奉仕するものでして、まあ世界の一等国イギリスとしましては、公使をよこすなら、せめて大名の一門とか、名門で、なおかつ経験豊かな年輩の者をよこせ、ということなんですね。
 しかし、手探りで外交デビューする日本側にしてみましたら、条約改正問題もありますし、日本のお殿様は通常、「よきにはからえ」で大人しく祭られていることをよしとしていて、イギリスの貴族のように英才教育を受けてリーダーシップがとれるようには育てられていませんし、海外事情もなにもさっぱりわからないでは、手探りのしようさえないわけなのです。それでイギリスには結局、名門の条件は満たしていませんが、幕末からの外交経験を買われて、寺島宗則が赴任することになります。


 鮫ちゃんのフランス赴任につきましては、普仏戦争と前田正名シリーズで、もう一度ちゃんと書くつもりでおりますが、ともかく、鮫ちゃんは駐仏公使館を開設する費用など、公金を貞ちゃんの会社に預けていたんです。
 これってやっぱり、ハリスつながりの濃い絆なんじゃなかったんでしょうか。

 明治元年の京都で、貞ちゃんはフェアリーのようにやさしく、ハリスの祝福を受けて帰国しました鮫ちゃんと有礼を迎えてくれたのでしょう。
 薩摩と欧米しか知りませんで、突然、様変わりの京都へ迷いこみました鮫ちゃんにとりまして、魂の伴侶であります有礼をのぞけば、まわりにいる人間、みんなが宇宙人のようだった中、ただ一人貞ちゃんは、心を許せる友だったりしたかもしれません。いや、客観的に見ますならば、鮫ちゃん、貞ちゃん、有礼のハリス教団三人組の方が、宇宙人だったんですけれども。
 そして鮫ちゃんは、気が大きくて素っ頓狂な貞ちゃんの人柄をこよなく愛し、信頼していたにちがいないのです。

 公金としましては他に、尾崎三良が預かっていましたイギリス公費留学生たちの費用、2198ポンドも消えてなくなりました。この尾崎三良というお方も、イギリス人女性と結婚しておりますが、これがまたいいかげんなものでして、私、まだろくに調べてはいないのですけれども、相当な素っ頓狂仲間のようではあります。あんまりかわいげがなさげで、調べる気にならないのですけれども。

 結局のところ、このボウルズ銀行倒産騒ぎの解決には22年という長い時間がかかりまして、被害額の四分の一を返してもらえることになりましたが、そのときには、日本人被害者にも、死んでしまった者があり、鮫ちゃんもその一人でした。
 まあ、あれです。
 貞ちゃんも、被害者ではあったわけですけれども、こう、ですね。突然株主にしてやるだとか、富豪のような多額の給料をくれるだとか、なんかおかしいなと立ち止まるような性格では……、なかったんですね。

 しかし、まあ、これも当然のことなのですが、貞ちゃんをかばいましたのは、長州閥の頭領・木戸孝允のみでして、明治6年(1873年)春、貞ちゃんは、妻のライザとともに、ひっそりと帰国します。
 えー、いくら貞ちゃんが、まったくもって悪気があったわけではなかったといいましても、欧州日本人使節団が被りました巨額金銭詐欺被害は、貞ちゃんのせいであるにはちがいないのですが、帰国後の活動を見ますかぎり、高杉晋作の従弟にして義弟、といいます、今をときめく長州閥の御曹司ブランドは強かった、と思わざるをえません。

 帰国して間もなく、貞ちゃんは、内外用達会社を立ち上げ、やがてこの会社を、一応ちゃんとした形式の株式会社にします。
 業務内容は、日本と海外との仲介で、書簡や電信の翻訳、訴訟や商売のための通訳、海外への荷物の送付・受け取り、外国為替の取り扱い、海外取り引きの代理、などなどでした。
 株主には、渋沢栄一もいたようですし、民間の海外取り引きが少なかった当時、官の引き立てなくして、この事業はできなかったでしょう。

 しかし、それでも事業は失敗し、貞ちゃんは、明治14年には会社を投げ出し、官界に復帰します。
 木戸はすでに世を去っていましたが、伊藤もいれば、井上もいましたし、なにしろ、高杉晋作の従弟にして義弟ですし、素っ頓狂ではありましたけれども、語学力はたいしたものですし、社交的で、物怖じしない人柄です。物怖じしなさすぎで、困ったものなんですけれども。

 どうも、ですね。
 官界に帰りました翌年、明治15年あたりから、貞ちゃんとイギリス人妻ライザとの仲は、極端に悪化したようです。
 貞ちゃんは、ライザをイギリスに放っておいたりはしませんで、ちゃんと日本に連れ帰りました。
 行き当たりばったりの貞ちゃんだったからこそ、ともいえますが、見方をかえますと、実のところは、とても愛していたのかもしれませんし、そして、内外用達会社の設立は、なんとかイギリスにいたときと同じように、不自由のない生活をライザにさせてやりたかったがゆえの貞ちゃんの奮闘であった、と見ることも可能でしょう。

 しかし、おそらく、貞ちゃんにとっての最大の不満は、子供が生まれなかったことだったでしょう。
 そこへもってきまして、貞ちゃんが官界に復帰しまして最初の仕事は、明治9年に日本領となりました小笠原諸島に出向き、欧米系島民を帰化させること、でした。
 あるいは、貞ちゃんは事業の失敗で多額の負債をかかえ、離島、小笠原への赴任を引き受けたのかもしれませんし、ライザが小笠原諸島へ行ったとは思えません。貞ちゃんの実家・南家や、あるいは高杉家の人々といっしょに暮らすことになったりしたのではなかったでしょうか。

 明治16年、二人は離婚し、ライザはイギリスへ帰りますが、その離婚理由といいますのがなんと!、妻ライザの暴力です。
 貞ちゃんは、井上聞多宛の書簡で、妻の暴力について、以下のように述べているそうです。

 「その残酷なるは、拙官の愛する実父および実伯父母兄弟などに対し、残酷無礼を行い、ともにその残酷を受けること数度なり。よって実父は同居を去り、他家において死し、その他拙官の面部および手足を負傷せしめたること数度なり。明治15年2月に至りては、日本刀をもって切りかかり、酷してこれを脱し、実伯父の家にいたり、衣類などの扶助を乞ひ、あるいは官吏の家に潜伏すること数日、すでに告発し法律に訴えんとせしも、英国人親友の仲裁によって、別紙乙号約定書をもって誓いをなすにつき、こんどかぎり勘弁を加え候ところ、その後一月も過ぎず三月中、重ねてほとんど同様の挙動これあり候。故離縁の義申渡し候ところ、英国へ送り帰しくれ候様申出候故、同年四月上旬横浜出帆為致候」

 「ライザは、ぼくの愛する父や伯父(晋作さんの父親です。おそらく)、母や兄弟などに対して、残虐無礼で、家族といっしょにぼくも暴力を受けたことが数回あって、父は家を出て、よその家で死んでしまったんだよ。ぼくの顔や手足に傷を負わせることもたび重なり、ついに明治15年2月、日本刀で斬りかかってきたので、必死になって逃げて、伯父さんの家に駆け込み、衣類なども都合してもらって、部下の家に隠れて数日、法に訴えようとしたのだけれど、イギリス人の親友が仲裁に入ってくれて、二度と暴力はふるいませんというライザの誓約書をとったところが、一ヵ月もたたないうちに、ほとんど同じようなことをやらかしたので、離縁すると宣言したら、ライザはイギリスへ帰してくれ、と言うので、四月上旬に横浜から出航させたんだよ」

 えー、小山騰氏がおっしゃることには、この手紙を書きましたとき、貞ちゃんは一年勘違いしていまして、明治15年ではなく、これは翌16年のことなんだそうです。
 それにいたしましても………。
 異国で、おそらくは貞ちゃんの会社がつぶれまして以来、生活が激変し、ライザの鬱屈は募ったのでしょうけれども、晋作さんの従弟が妻に虐待されて離婚って、なんだか呆然としますよね。

 その後貞ちゃんは、日本女性と再婚して子供も生まれ、明治24年には、官界での自分の処遇が不満で受け入れなかったものですから、首になりました。
 その年に、貞ちゃんのアイデアで、渋沢栄一などが資金を出し、蜂須賀茂韶を会長に担いで、「外国から日本へ観光客を呼ぼう!」ということを目的にしました「貴賓会」が立ち上がります。
 蜂須賀茂韶は元阿波藩主ですが、戊辰戦争の最中に先代が急死して藩主となり、明治5年にイギリス留学しまして、貞ちゃんとライザの結婚の立会人を務めた人です。
 貞ちゃんが名誉書記になりましたのは、三年後のことだそうですが、実務は最初から貞ちゃんが担当していたようです。

 数年後、明治35年、貞ちゃんは55歳にして名誉書記を辞しまして、翌年、海外から日本へ来た旅行者、日本から海外へ行く旅行者にサービスを提供する旅行代理会社を立ち上げます。
 なんと、ですね。その資金作りには、15歳の自分の娘を尾崎三良のもとへ頼みに行かせるなど、家族ぐるみ作戦を展開し、ついにこの生涯最後の事業に、貞ちゃんは成功したようです。
 大正元年、貞ちゃんは長男に事業をゆずって引退し、書道と和歌をたしなんで、大正4年、68歳で世を去りました。

 なんといえば、いいのでしょうか。
 長州高杉晋作ブランドで若くして密航留学し、語学もできて、数学もできて、それなりの才はあったはずですのに、素っ頓狂で、失敗続きの人生でしたけれども、いつもまわりに助けられまして、結局はやりたいことをやり、最後にはそれなりに成功して、子孫に後を託し、畳の上で往生。
 とても幸せな人生だったんじゃないんでしょうか。
 
 しかし、ね。西からの光はやはり、美しくも身を焼く業火であったのだと思います。
 要は使い方で、見方によれば貞ちゃんは、しゃにむにがんばって命を縮めたりもしませんで、うまく綱渡りのバランスをとって、渡りきったのだとも、いえると思うのですけれども。

 自分の身代わりに貞ちゃんを西洋へ送り出し、西洋近代文明と激突した日本の変革のために、炎のように燃えつきました晋作さんの人生。
 貞ちゃんとともに密航して間もなく、おそらくは貞ちゃんに自分のぶんまでの望みもたくし、はかなく異国の土となりました山崎小三郎。
 貞ちゃんを愛し、ともに騙され、最初の日本人海外駐在外交官としましての奮闘のあげくに、体を壊してパリに客死しました鮫ちゃん。
 
 最後はやはり、これでしめたいと思います。

ザ・バンド with ボブ・ディラン アイ・シャル・ビー・リリースト


 They say ev'rything can be replaced
 Yet ev'ry distance is not near
 So I remember ev'ry face
 Of ev'ry man who put me here
 I see my light come shining from the west unto the east.
 Any day now, any day now, I shall be released.

 すべての物事は、やがて変わっていくだろう。
 しかしそれは、容易なことじゃないんだ。
 そしておれは、去っていったみんなの顔を思い出す。
 おれがいまここにいるのは、先に逝ったみんなのおかげなのだから。
 西から東へ、届く光がきらきらとおれを照らす。
 いつの日か、いや今すぐにでも、おれは自由になれるだろう。

 舞い散る桜の花びらを見つめていますと、先に逝った人々も、そして後に残った貞ちゃんも、みんなみんな、その営みが、とても愛おしく脳裏によみがえってまいります。

 私、次は……、次こそは、普仏戦争と前田正名に立ち返ります。

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高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 中

2012年04月02日 | 幕末留学

 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 上の続きです。
 前回に引き続きまして、主な参考書は下の「国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始」です。


国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始 (講談社選書メチエ)
小山 騰
講談社


 密航留学しました貞ちゃんは、さっそくロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ(UCL)に籍を置きます。
 アーネスト・サトウ  vol1に書いておりますが、アーネスト・サトウの出身校でありますUCLは、「非国教徒の優秀な子弟を積極的に受け入れていた自由主義的な大学」で、当時、極東からの異教徒の留学生がイングランドで学ぶ大学としましては、ここしかありませんでした。
 最初に密航留学を企てました長州ファイブのうち、井上、伊藤が帰国しまして、残された野村(井上勝)、遠藤、山尾は、やはりUCLにいたのですが、薩摩からの14名の留学生が入ってくるのと入れ替わりますように、山尾はスコットランドのグラスゴーへ造船を学びに行き、遠藤は病気になったこともあり、慶応2年のはじめには帰国を決めます。

 なお、団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航に出てまいりますが、単身、後からイギリスへたどりつきました竹田傭次郎は、スコットランドのアバディーンで、グラバーの実家にめんどうをみてもらうことになったようです。
 長州の遠藤が帰国するころには、山崎は世を去り、薩摩藩留学生も長沢鼎は早くからアバディーンへ行っていましたし、フランスへ行く者あり、帰国するものも多数ありで、UCLに残ったのは、森有礼、鮫島尚信、吉田清成、松村淳蔵、畠山義成の5人です。
 
 つまり、ですね。
 貞ちゃんはロンドンで、実に個性的な、薩摩英国ファイブとでも呼びたくなります5人と、濃くつきあっていた、ということになります。
 5人の中では、有礼が最年少なんですが、貞ちゃんはその有礼と同い年です。
 どのようにつきあっていたのか、その一端は、中井弘(中井桜洲)が書き留めてくれています。

 イギリスVSフランス 薩長兵制論争3の冒頭に、中井の「西洋紀行航海新説 下」から、ドーバーで行われた英国海軍と陸上兵力との共同調練の様子を引用しましたが、鮫ちゃん、ライオン清成、畠山ギムリ、松村校長が参加しましたこの演習で、中井さんは貞ちゃんに出会っているんです。

 「ローバカノハ一帯の高丘に在って海に臨み砲台あり。四方数十里の広原銃隊を以て寸地を見ざるにいたる。たがいに陣列を敷き縦横に隊伍をわかち発砲す。ほとんど実地の戦争を見るが如し。城より発する大砲は、海上の軍隊と対応し、その響き天地を動かせり。余(中井)、マーチンを失い、大いに困迫奔走す。偶然に長人南貞助に原野の間に逢う。あい共に調練の精しきを賞賛し、終に旅宿に投じ一杯を酌し、南に分れ火輪車に乗り、一睡夢覚めれば火輪車は龍動(ロンドン)に達す」

 上の引用、適当にカタカナをひらがなにしたり、漢字を開いたりしていますので、まちがいもあろうかと思います。「西洋紀行航海新説」は近デジにありますから、正確なところは、直接ご覧になってみてください。
 それにいたしましても。
 やっぱり、中井さんは文章がうまいですね。

 海に面したドーバーの野を、歩兵隊が埋めつくしています。
 城壁から大砲が撃たれ、海を埋める戦艦がそれに呼応します。
 中井は、案内してくれていたイギリス人のマーチンとはぐれてしまい、困り果てて右往左往しますが、そこで偶然、若き長州人の南貞助に出会い、大喜びです。
 演習のすばらしさを賞賛しあい、いっしょにパブに入って乾杯し、「南に別れて汽車に乗り、一眠り夢のまにまにロンドンに着いていた」というんです。

 大砲の轟きも白煙も、そんな中での貞ちゃんとの偶然の出会いも、ひとときの夢だったような、そんな不思議な臨場感をかもしだしてくれています。

 貞ちゃんがなんで広野にいたか、なんですけれども、貞ちゃんは別に、中井さんのフェアリーになるために広野にいたわけではなく、貞ちゃんはもともと、イギリスで陸軍の勉強をするつもりで、密航留学したわけだったんです。
 UCLに籍を置きます一方で、貞ちゃんは学費を借金しまして、ウーリッジで退職したイギリス陸軍大尉の家に下宿し、軍関係の私塾に通い、慶応2年の間に、ローレンス・オリファント(広瀬常と森有礼 美女ありき3参照)の尽力により、ウーリッジの王立陸軍士官学校に入学していました。

 ウーリッジの陸軍士官学校は、士官学校といいましても、砲兵及び工兵士官の養成をしていまして、貴族やジェントリーの子弟の希望が多い騎兵や歩兵の士官学校は、サンドハーストにありました。
 砲兵・工兵は、技術職ですから、もともと中産階級の子弟が学校で学ぶものでして、貴族やジェントリーの子弟が望む華やかさには欠けていたんですが、それよりなにより、数学、科学が重要視されていまして、入学試験のハードルがけっこう高かったわけです。

 晋作さんは、ですね。
 高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますように、おそらくは船酔いと、そしてまたおそらくは数学に嫌気がさしまして、海軍に挫折しました後、文久2年(1862年)に上海に行きました折り、「数学啓蒙」など、洋数の漢訳書を買い込んで帰りました。
 きっと、ですね。自分のことは棚の上にあげまして、貞ちゃんに「数学の勉強だけはちゃんとしとけよ。砲術も航海術も、数学が基本だぜい!」と日々、言い聞かせていたにちがいありません。
 貞ちゃん、数学はかなりいけたようです。
 
 中井の「西洋紀行航海新説」には、当然のことながら、カルト教祖さまトーマス・レイク・ハリスも登場いたします。
 薩摩英国ファイブとハリス教団につきましては、薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上広瀬常と森有礼 美女ありき3をごらんください。後者の方に、貞ちゃんがはまりかかったことも、書いております。

 小山騰氏の「国際結婚第一号」によりますと、アメリカのコロンビア大学に「ハリス・オリファント・ペーパーズ」という、ハリスとローレンス・オリファントの書簡などを集めました文書コレクションがあるのだそうです。
 その中の1867年(慶応3年)11月26日付、在アメリカのオリファントから在イギリスの親友宛書簡に、「南貞助は、アバディーンでグラバーの実家の世話になっている長州人二人が、渡米してハリス教団に入る許可を得るために、帰国した。青年の一人は、長州世子(Prince of Chosin)の甥である。南は、長州世子本人も説得し、渡米させる予定でいる」というようなことが、書かれているようです。
 小山氏によりますと、アバディーンの青年二人とは、たぶん毛利親直(変名は土肥又一)と服部潜蔵であろうとのことでして、毛利親直は阿川毛利家の出で、若干15歳。前年の長幕戦争(第二次征長)で、芸州方面の諸軍を統帥しているんだそうです。

 このオリファントの手紙につきましては、広瀬常と森有礼 美女ありき3でご紹介しております林竹二氏の論文、森有礼研究第二 森有礼とキリスト教にも出てまいりまして、林氏は、以下のように書いておられます。

 オリファントが上記書簡の中で記すところによると、薩摩の留学生と同じ年にロンドン大学に入った長州の南貞助は、当時帰国中であった。帰国の目的は、長州の藩主を説いて藩主自身の渡米を実現させるにあった。ハリスの許で彼に新生の真理を学ばせたいという大望を南は抱いていたのである。明らかに新生を受け容れる一人の藩主を見出す努力とみてよい。オリファントはまた、グラバーにこの計画実現に一役買わせるため、クーパーの影響力の行使を望んだ。さらに南は、当時スコットランドのアバディーンに留学中の長州のDokieとHatoriの渡米を実現するため藩主の許可(命令という言葉をオリファントは使っている)を得ることをも期待していた。この二人は、ハリスの許に来て新生の真理と清浄の生を生きる道を学ぶことを切望して、手紙を新生社によせたのである。オリファントによれば、Dokieは長州藩主の甥であり、Hatoriは「下関のプリンス」の家老の息子であった。

 貞ちゃんの自叙伝によりますと、慶応三年の突然の帰国は、借金がかさんで学費が続かなくなったためということでして、ハリスのハの字も出てこない、ということなのですけれども。
 しかし貞ちゃんの言うことをそのまま信じますと、一千両を、ですね。上海からイギリスへの旅費として使い切ってしまい、借金ばかりで少なくとも一年半はイギリスに滞在し、帰りの旅費はどうしたのか、とにもかくにも日本へ帰り着いた、というわけのわからないことになりまして、とてもじゃないですけれども、私には信じられません。

 とにもかくにも、帰国の途につきました貞ちゃんは、香港で晋作さんの訃報に接しました。
 小山氏の推測では、維新直前に長州へ帰りつきました貞ちゃんは、ハリス教団の影響からすぐに覚めて、世子の渡米はもちろん、二人の長州人の渡米許可を求めることもしなかったのではないか、ということです。
 確かに、学費がない、ということなんでしたら、薩摩英国ファイブ+長沢とともに渡米してハリス教団に入ってしまえばよかったわけでして、洗脳の程度が浅かったのかなあ、という気がしないでもないのですけれども、貞ちゃん本人はぜひそうしたいと思っていましたところが、オリファントとハリスが、貞ちゃん一人ではなく、もっと大きな魚を狙いまして、貞ちゃんを長州に帰したのではないか、と私は思います。

 あー、で、とにもかくにも貞ちゃんは帰国しまして、世子だけではなく、伊藤や木戸などもつかまえて、えー、ぜひ新生のために世子さまの渡米をーだとかなんとか言ってみたんだと思うのですが、いったい貞ちゃんがなにを言っているのか、世子にもだれにもさっぱりわからず、まったく相手にされなかっただけの話ではないんでしょうか。

 貞ちゃんは、鳥羽伏見の戦いがはじまるまで、長州諸隊から選ばれましたエリート軍団に、英国式調練をほどこしたりしていましたが、どうも鳥羽伏見の直後から上方へ行き、外国官権判事になりました。
 えーと。一方、渡米して洗脳覚めやらぬ鮫ちゃんと有礼は、しかし憂慮しました薩摩藩政庁が、ハリスに二人の帰国旅費を送りましたことで、教祖様の祝福を受けて帰国。明治元年6月、大久保か小松かに呼び寄せられたのでしょう。京都に姿を見せます。
 貞ちゃんによりますと、「先に帰国していた自分が、鮫ちゃんと有礼くんを、三条実美、岩倉具視に紹介して、自分と同じ外国官権判事にしてもらった」ということなんですけれども。

 なんか……、私、二十歳そこそこの有礼と貞ちゃんと、それより二つ上なだけの鮫ちゃんと、それぞれにけっこうな美形の三人のこのときの会話を想像しますと、エキセントリックで濃すぎまして、そのまわりから浮きました三人だけの世界が……、怖いっ!です。

 前年(慶応3年)のパリで、おそらく貞ちゃんも含めまして、面識がありましたはずのモンブラン伯爵がこのとき上方にいまして、少なくとも貞ちゃんは会ったはずです。
 しかし、このときのモンブラン伯爵につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上に書いておりますが、私は、以下のようなことを推測しております。

 鳥羽伏見直後の京都におけるモンブランの活動には、すでにイギリス公使館からクレームがついていたのではないか、と、私は推測をしているのですが、これについては、確証がえられません。長州がフランス兵制を採用したについて、伊達宗城と大村益次郎の関係、五代友厚とモンブランの関係、宗城と五代の関係、を考えますと、モンブランが介在した可能性があると思うのです。
 
 モンブランのせいだったかどうかは置いておきまして、長州陸軍はフランス兵制を採用しましたから、ここで貞ちゃんは、陸軍とは縁切りです。
 それはまあ、悪いことではなかったかもしれないのですが、その後、明治3年、箱館府判事に任官しまして、思わぬところで貞ちゃんの名前が見受けられます。
 ガルトネル開墾条約事件の後始末です。

 えーと。この事件もちょこっと明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編に出てくるんですけれども、幕府から蝦夷地を引き継ぎました薩摩の井上石見が、幕府のころからのつながりで、リヒャルト・ガトネルを雇い入れ、七飯を開墾して模範農場を作ろう、というようなことを計画していたのですが、志半ばに船舶事故で行方不明となり、そうこうしますうちに、榎本武揚を中心とします旧幕府軍が上陸してきまして蝦夷地を占領し、300万坪という広大な土地を99年間リヒャルト・ガルトネルに貸すという、とんでもない契約を結んでしまいます。
 北方資料データベースで、蝦夷地七重村開墾條約書が公開されておりまして、19ページには永井玄番と中島三郎助、20ページには榎本武揚の署名があります。

 その後始末を、最初に担当しましたのが、箱館府判事の貞ちゃんでして、これはfhさまから教えていただいたのですが、国立公文書館のデジタルアーカイブで、孛国商人カルトネルヘ貸与セシ箱館七重村地所取戻始末(太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五十九巻・外国交際・開港市二)を見ることができまして、このときの貞ちゃんがまた、え、え、えええええっ???という感じだったことがわかります。

 要するに外務省は、えー、外務省って、おそらくは外務大輔になっていました寺島宗則が、だと思うのですが、箱館府が勝手に新しくガルトネルと条約を結んでしまいましたことに疑問を持ち、問いただすんですね。
 箱館府知事・清水谷公考は、「南に丸投げしましたよって、知りませんのや」といい、当時はまだ藩が存在しまして、貞ちゃんへの問い合わせの答えは、山口県公用人の手を経て出されています。

 まあ、結論からいいまして、300万坪という広大な土地ではなくなっていますが、7万坪なのか10町四方なのか、ともかく、ガルトネルを雇う話ではなく、土地を貸し出す話になってしまっているんですね。
 結局、この事件は外務省が引き取って決着をつけますが、貞ちゃん、けっこうなうかつさ、です。

 というところで、破天荒な貞ちゃんの物語は、次回に続きます。
 次回で終わります。

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高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 上

2012年04月01日 | 幕末留学

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 下・後編高杉晋作とモンブラン伯爵の続編、ということになるでしょうか。

 実は仕事が入りまして、おもしろい仕事というわけではないのですが、貧乏性な私は、入ってきました仕事を断ることができません。
 まあ、少しでも原稿収入がありますと、参考書籍費などはかなりな額にのぼりますから、私の青色申告にはかえって好都合だったりするかも、な実利もあったりします。

 えーと、しかし。仕事はおもしろくないですから、引き受けておいて逃避に走るわけです。
 とはいいますものの、仕事があるということがひっかかりまして、ブログ書きに集中することも難しくなっているわけなのですけれども。
 高杉晋作の従弟にして義弟、南貞助のことを書きたくなってから、二度横道にそれました。
 これを書かなくては、気分が落ち着きませんで、書くことにしました。

 最近、私、死ぬまでに、ちゃんとした桐野利秋の伝記を書き残したいなあ、と思うようになりまして、仕事からの逃避も手伝いまして、頭の中であれこれ、中村半次郎の幼少期を思い描いております。
 私が初めて鹿児島を訪れましたのは、いまの姪と同じくらいの乙女のころでして、考えてみましたら、あのころは半次郎の存在さえも知らず、西郷、大久保の名前くらいは知っておりましたが、「昔、暑苦しいおっさんたちがいたのよねえ」くらいの感慨しかありませんでした。
 
 じゃあ、なにしに鹿児島に行ったかって、種子島でロックコンサートがあったんです。
 ああ、映画「半次郎」でお母さん役だったりりィが、出演していました。
 といいますか、「半次郎」にりりィが出ていたことにびっくりです。
 福岡でミキサーをやっていました友達一行と一緒でして、コンサート機材満載の四トントラックとともに福岡から鹿児島まで夜中に走ったのですが、ちょうどその夜中、福岡エリアではザ・バンドの解散コンサートがテレビ放映されるという話で、なんとしてでも見ようと、さびれたドライブインなんかに入ってみたんですが、福岡県でも山の中では放送が入らず、一同がっかり。

 道中、私はよくは眠れないままに、うつらうつらしていたのですが、「着いたよ」と言われ、車から出て仰いだ目の前の桜島の姿。いまも、忘れることができません。
 ここで、この景色を見ながら子供のころから育った人って、どんな思いを抱くのだろう?
 そのとき、私の頭の中に鳴り響きましたのが、I Shall Be Releasedだったのは、一晩、ザ・バンドの解散コンサートが見たいっ!と思いつめたあげくだったから、かもしれません。

ザ・バンド with ボブ・ディラン アイ・シャル・ビー・リリースト


 
 I see my light come shining from the west unto the east.
 Any day now, any day now, I shall be released.

 西から東へ、届く光がきらきらとおれを照らす。
 いつの日か、いや今すぐにでも、おれは自由になれるだろう。

 太陽も月も、東から出て西へ動きます。
 だのになぜ、光が西から東へなのかと言いますと、時事にからめてさまざまに解釈されてきました歌です。
 ボブ・ディラン作詞作曲のこの歌が、最初に世に出ましたのは1967年でしたから、「西からの光とは、アメリカ西海岸を中心に起こったカウンターカルチャーのこと」といわれ、1990年代にリバイバルしましたときには、「東側共産圏を照らす西側自由世界の光のこと」なんぞともいわれたようです。

 幕末日本にこの歌をもってきますと、当然、西からの光とは、西洋近代文明なのですが、それはきらきら輝くだけではなく、極東の人間にとりましては、植民地化の危機をともなった身を焼く業火でもあったわけでして、自由になったのか不自由にならざるをえなかったのか、結局のところ、解放の光だったと言ってしまうことはできません。
 できませんけれども、しかし。
 きらきらとした異世界の輝きは、わくわくドキドキ、危険をともないつつも、好奇心をかきたててくれます。

 今気づいたんですけれど、ザ・バンドのロビー・ロバートソンは、大河の「翔ぶが如く」で大久保をやりました鹿賀丈史と顔が似てますね。
 考えてみますと、なんといいますか実に、幕末日本にふさわしい歌だと思います。

 幕末、貞ちゃんもまた、西からの光を受けて、勢いのおもむくままに密航した一人です。
 貞ちゃんには、「宏徳院御略歴」といいます自叙略伝が残っていまして、東大史料にこれがあることは確かなんですが、ほかにないものなのかどうか、ともかく、読みますのがけっこう面倒そうでして、実はまだ読んでおりません。
 しかし、下記、小山騰氏の「国際結婚第一号」には、けっこう詳しく伝記が載っておりまして、参考にさせていただいて、述べて参ります。

国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始 (講談社選書メチエ)
小山 騰
講談社


 南貞助の母親は、高杉晋作の父親の妹でした。
 貞ちゃんは南家の三男で、高杉家の一人息子でした従兄の晋作より、八つ年下。
 文久元年(1861年)、14歳の時に高杉家の養子になります。
 晋作さん、妹は三人いましたが、男の兄弟はおらず、従弟にして義弟になりました貞ちゃんをとてもかわいがり、また貞ちゃんはどうも、実の兄よりも晋作さんの方を慕っていたようです。まあ、素っ頓狂なところはよく似てましたし。

 元治元年(1864年)は長州にとって、大変な年でした。
 前年に、長州は下関で外国船を一方的に攻撃するという攘夷戦をやらかし、八・一八政変で京都を追われ、そのつけがすべてこの年にやってきまして、晋作さんは、京都進発に燃える来島又兵衛に世子の親書を届けてとめるも、元気きわまった来島のじいさんを説得することができませず、わけがわかりませんことに、これでは役目が果たせないからと、単身上方へ出奔。
 京都では、中岡慎太郎とともに島津久光暗殺を計画しますが、果たさず、高杉晋作 長府紀行に書いておりますように、妻にいろは文庫を贈って帰藩し、脱藩の罪で士籍を削られ、投獄。

 父親の懸命の尽力で、親戚預け、謹慎になったところで、禁門の変が起こり、英仏蘭米の四国連合艦隊が下関に攻めよせます。
 しかし、なにしろ晋作さんは謹慎の身ですから、かかわりたくともかかわれない状態。
 ここらあたり、晋作さんの素っ頓狂は身を助けている、ともいえます。
 禁門の変で木戸は行方不明。他に人材がなく、晋作さんは英仏蘭米との講和にかつぎだされ、役目を果たすんですが、その後の長州はガタガタです。
 
 講和して攘夷の旗を降ろした、といいますことは、それまで藩内をリードしてきました反幕派(松蔭門下生中心)の権威が失われることでした。それをなしとげたのが、反幕派の高杉たちだったにしても、です。
 と、同時に、禁門の変で御所に発砲しましたことから、長州征討の勅命が下り、第一次長州征討がはじまります。
 勅命ですから、長州は朝敵になったわけでして、反幕派の尊皇の看板もおかしなものになるんですね。
 藩論は急速に保守化しまして、いわゆる俗論派が政権を握り、松島剛蔵などは投獄されますし、晋作さんも身が危うくなり、脱藩して筑前に逃れます。
 この間、貞ちゃんがなにをしていたかはさっぱりわからないのですが、17歳と若いですし、まあ、勉学に励んでいたのでしょうか。

 
クロニクル高杉晋作の29年 (クロニクルシリーズ)
一坂 太郎
新人物往来社


 上の本の「高杉家と谷家の謎」におきまして、一坂太郎氏は次のように述べておられます。
 元治元年12月、晋作さんが筑前から藩地へ帰り、功山寺挙兵に踏み切りましたとき、晋作さんの父親は、家を守るために晋作さんを廃嫡し、すでに嫁いでいました晋作さんの末の妹ミツを呼び返して、婿養子を迎えます。
 晋作さんは、筑前へ亡命するときに、谷梅之助と変名していたのですが、この実家との離縁で変名の方が重要なものとなり、さらに翌慶応元年9月、幕府の追究をかわすために高杉晋作という名前は抹消されまして、谷潜蔵という変名が、晋作さんの正式な名前となったような次第なんだそうです。

 貞ちゃんは、元治元年に晋作さんとともに高杉家と縁をきり、谷松助と名乗った、といいますから、筑前への亡命はともかく、功山寺挙兵のときは、晋作さんによりそっていたのではないか、と思われます。
 挙兵は成功し、長州は再び反幕姿勢を固めますが、その原動力となりましたのは奇兵隊を中心とします諸隊であり、一坂太郎氏の春風文庫・研究室 ~ 長州奇兵隊は理想の近代的組織だったのか(中央公論」平成22年10月号掲載)によりますと、晋作さんは「人は艱難を共にすべきも、安楽は共にすべからず」と述べて藩政府の一翼を担おうとはせず、しかしある種の敗北感を抱きつつ、慶応元年3月、海外渡航を志します。

 しかし、同じく春風文庫の研究室 ~ 晋作と『英国志』(晋作ノート20号・平成22年11月)によりますと、晋作さんの渡洋希望はずっと以前からのものですし、そこらへんが晋作さんの勘の良さなのですが、とりあえず藩内で自分にできることはなく、将来を見すえて、一度西洋を視察しておきたい、ということだったのでしょう。

 晋作さんは藩の許可を得て、長崎まで行き、グラバーに相談するのですが、「井上伯伝」によりますと、イギリス領事ラウダから「いま長州の外交の中心にいるあなたがたが渡航すべきときではない。新任の公使ハリー・パークスが赴任してくるところなので、新たな外交がはじまる。下関を開港するのはどうだろうか? 長州に多大な利益となるはずだ」というような話を聞き、あきらめます。
 そして、いわば自分の身代わりに、貞ちゃんをイギリスへ留学させるんです。

 長州藩は、18歳の貞ちゃんとともに、藩海軍の俊才で21歳の山崎小三郎、そして竹田傭次郎を留学させることに決定します。
 慶応元年春、貞ちゃんと山崎、竹田は、とりあえず上海に渡りまして便を待つのですが、竹田はどうしても帰国しなければならなくなり、遅れて、単身渡英することになりました。
 したがいまして、上海から英国まで、貞ちゃんは三つ年上の山崎と二人で、旅をしました。

 先の長州ファイブのときもそうだったんですが、長州の密航留学といいますのは、どうも思いつきじみていまして、あんまり計画性がないように感じます。といいますか、あるいは薩摩とくらべて、金のかけかたが少なすぎ、なんでしょうか。
 それでも一人頭一千両は用意していた、というのですけれども。
 また、金がないならないで、団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航の三人のように、グラバーに貨物船を世話してもらうとか、ですね、なんとかする工夫が必要だったはずなんです。

 まあ、あるいは若すぎた、というのもあるかもしれません。
 安芸の野村と肥前の二人はみな30歳前後、当時としましてはいい年のおっさんですし、世間知に長けていたのでしょうけれども、貞ちゃんは素っ頓狂なおぼっちゃんですし、山崎はエリートすぎまして、どーしたらいいのか、状態であったのかもしれません。
 ちょっといま、竹田傭次郎の年がわからないのですけれども、あるいは竹田が二人の世話係の予定だったりしたんじゃないのかと、思ってみたりもするんですけれども。

 ともかく、です。
 貞ちゃんと山崎は上海から130日、つまりは四ヶ月と10日かかって、ようやくイギリスへたどりつきましたときには、一千両をほとんど全部使い果たしていた!!!といいます。
 なんなんでしょうか、いったい。
 同じグラバーの世話で、野村たち三人が片道一千両も使ったとは、私にはとても思えません。
 なんでも、上海からの船の船長に一人頭一千両渡してそれで全部なくなったというんですけど、馬鹿馬鹿しいにもほどというものがあります。

 翌年の春、晋作さんは、長崎のグラバーに届いた知らせで、イギリスへたどり着きました貞ちゃんと山崎が一文無しとなり、あまりの貧窮生活に、山崎は冬の寒さで肺をやられ、栄養失調も手伝いまして、逝去したことを知ります。

高杉晋作の手紙 (日本手紙叢書)
一坂 太郎
新人物往来社


 上の本より、慶応2年(1866年)3月26日、長崎にいた晋作さんから、木戸、井上に宛てた書簡の一節の引用です。

 「ここに驚くべき一事あり。義弟同行の山崎生、倫頓(ロンドン)にて病死す。これまた金なども少く、寒貧よりして病を起し候様子なり。この事などを君上へ御聞せ致せなば、さぞさぞ御嘆息と察し奉り候。実にこの両人難儀を見候様子にござ候。(中略)山崎も残念は残念にござ候えども、日本人にて西洋に埋骨せし候者未だこれあらず。長門人の先鋒、これまた他邦に勝れるところ、同人の薄命は悲しむべきなれども、かくの如き名臣あるは国家の盛んなるならずや。少々の遊学料を惜しむ位にては困り入り候。政府へさよう御伝声頼み奉り候」
 
 だから、ねえ。
 なんでもっとちゃんと計画して留学費を使わなかったのよっ!!!
 「日本人で西洋に骨を埋めるのは山崎が初めてで、長州人が先鋒となったのは他の藩に勝っているんだっ!!!」なんてねえ、果たして初めてだったかどうかはちょっと置いておきましても(私が知る限りで、アメリカの話なんですが、咸臨丸の水夫が、航海途中から病んで、アメリカへ着く前に一人、着いてから二人死に、サンフランシスコに葬られました。熱病だとかいわれたようですが、脚気だったのではないでしょうか)、誇るべきことなんでしょうか、これ。

 貞ちゃんたちがロンドンに着きましたのは、慶応元年の秋ころでしょうか。
 薩摩藩の密航使節と留学生が、羽島から出航しましたのが元治2年(慶応元年)4月17日で、貞ちゃんたちの離日とほとんど変わらない時期なんですが、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1に書いておりますように、香港までグラバーの船で行き、そこからは豪華客船でしたので、5月28日にはサザンプトンに着いております。
 豪華客船一等客室の船賃が100ポンド。100ポンドって、いくらなんでも一千両にまではならないと思うんですけど。

 長くなりすぎましたので、半分に分けることにしまして、次回に続きます。

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コメント (2)
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