郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

モンブラン伯の日本観

2005年11月24日 | モンブラン伯爵
『モンブランの日本見聞録』S62新人物往来社発行

幕末維新に日本を訪れ、見聞録を残した欧米人はけっこういますし、日本語訳も多数出版されています。そのすべてに目を通したわけではないのですが、日本および日本人に好意的なものでも、最終的に、「われわれとはちがう世界に属する野蛮人」という感触を持っている様子がうかがえたりするものです。
そういった日本観は、結局のところ、日本の社会基盤にキリスト教がない、というところからきているのですが、わかりやすい例をあげるならば、ハインリッヒ・シュリーマンです。以下、講談社学術文庫『シュリーマン旅行記 清国・日本』(石井和子訳)から引用してみます。

もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。だがもし文明という言葉が次のことを意味するならば、すなわち心の最も高邁な憧憬と知性の最も高貴な理解力をかきたてるために、また迷信を打破し、寛容の精神を植えつけるために、宗教……キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なことを広め、定着させることを意味するならば、確かに、日本国民は少しも文明化されていないと言わざるをえない。

これと同じようなことは、イギリスの外交官だったオールコックも言っていますし、また、旧教のイタリア人でさえ、似たようなことを言っている例があります。
同じ世界の人間と認められなければ、まともな外交はできませんから、明治になってから、一部の政治家、識者が、「キリスト教を国教にしよう」などと、馬鹿なことを言い出したというのも、わからないではありません。

シャルル・ド・モンブラン伯爵の見聞録には、それがまったくない点が印象的です。
残念ながら、全編の訳出ではない上に、幕末での著作のようで、政治状況には読み違いもあるのですが、日本社会への観察眼は卓越しています。「個人の自由の希求」という近代の精神が、日本の社会にはある、としているんですね。
こういった近代精神は、キリスト教と不可分だとする考え方が、当時の西洋知識人の間では主流だったようですし、その状況からすると、モンブラン伯の価値観こそが、柔軟で自由なものだったと感じるのです。

このブログ、創作メモになろうとしていますが、この本の訳者後書きでは、「1861年から翌年にかけて日本に滞在し」となっていて、鹿島茂氏が『妖人白山伯』で、「1861年には相続のためベルギーへ帰っている」と書いているのと、まったくちがうのですが、うーん。
ここは鹿島氏の方が正しそうな気がしないでもないのは、訳者後書きでは、死亡年が1898となっていて、これは高橋邦太郎氏によれば1891年なんですよね。高橋氏は、モンブラン伯家の後継者にインゲルムンステル城の礼拝堂墓地まで案内してもらっているそうなので、正しい死亡年だと思われる次第なんです。
ああ、パリとインゲルムンステル城に取材に行きたい! 言葉ですか? 通訳を雇えばいいことです。

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