郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

イギリスVSフランス 薩長兵制論争5

2009年11月08日 | 英仏薩長兵制論争
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争4の続きです。実は前回も使ったのですが、以下の2冊が主な参考書です。

イギリス国民の誕生
リンダ・コリー
名古屋大学出版会

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ウェリントンの将軍たち―ナポレオン戦争の覇者 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)
マイケル バーソープ,リチャード フック
新紀元社

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 第2次百年戦争と呼ばれる18世紀の百年間、イギリスはフランスとシーソーゲームをなしつつ、世界帝国を築き上げていきました。前回にも書きましたように、それは、主には海軍力によるものでして、植民地における英仏対戦にまで言及していく必要があるのですが、それは置いておきます。

 七年戦争(wiki七年戦争参照)で勝利したイギリスは、アメリカ独立戦争で敗北を喫し、支配者層は未曾有の危機感を持ちます。とはいうものの、これまでの戦争において、一度たりともイギリスは、本国が戦場になったことはありませんでしたし、大海軍を擁した島国であったがため、本格的な敵軍上陸の危機にさらされたこともありませんでした。
 また、アメリカ独立戦争にしましても、独立側に心をよせるイギリス貴族もありましたし、挙国一致というにはほど遠く、もともと、王の専制は議会によって押さえられ、貴族層と商工業者(ブルジョワジー)とに境目が無く、18世紀の半ばからは産業革命が起こって、他国を凌駕する商工業の発展をみていましたので、エリート層の自己改革もうまく軌道に乗ろうとしておりました。

 皮肉なことに、危機が訪れたのは、勝利したフランスの側でした。これについては、wiki-アメリカ独立戦争におけるフランスが、的確に解説してくれております。フランスの国家財政が苦しくなりましたのは、別にマリー・アントワネットの浪費によるものではありませんで、アメリカ独立戦争への介入によるものです。

 フランス大革命のイギリスにおける衝撃は、勃発の一年後、庶民院(下院)におけるエドマンド・バークの演説が象徴してくれています。以下、「イギリス国民の誕生」からの引用です。

「……富裕なジェントルマンの家系に生まれ、報酬や所領の維持を狙っていると疑われるだけで、彼ら自身には何の責任もないのに、大邸宅が破戒、略奪され、身体は乱暴され、傷つけられてしまう。奪われた権利証書は、彼らの目の前で焼却されるし、ヨーロッパ中の国々に、家族を引き連れて逃亡しなくてはならない状態を想像してみたまえ」

 えーと、ですね。ずいぶん以前に「江戸は極楽である」において、水谷三公氏の「江戸は夢か」 (ちくま学芸文庫)をご紹介しました。19世紀欧米において、「財産権は個人の権利であり、貴族だからといってその例外ではなく、それを侵害するのは政府の暴挙」であった、という話なのですが、水谷氏はイギリスの研究所におられた方ですし、もともとはイギリス近代史がご専門だったようです。わけてもイギリスにおいては、そうだったのではないでしょうか。
 財産権の侵害は、暴虐以外のなにものでもなく、「自由を抑圧する独裁」というわけです。
 20世紀にいたっても、イギリスのフランス革命に対する大衆的イメージが、「恐怖政治」であったことは、「紅はこべ」 (創元推理文庫 507-1)が語ってくれます。

 1789年、バスティーユ襲撃の時点で、イギリスの正規陸軍は4万でした。これが、ナポレオン戦争が終結する1814年までに、25万に膨れあがります。
 フランス革命からナポレオン戦争にかけて、ちょうど産業革命が軌道に乗った時期でもあり、絶対王政時の軍事革命に次ぐ、軍事革命の時代といわれ、国民国家誕生の産床となりますと同時に、それまでとは隔絶した規模で、国民全体をまきこむ戦闘が行われるようにもなったわけです。

 この正規軍のふくらませ方の一つとしまして、上記「ウェリントンの将軍たち―ナポレオン戦争の覇者 」から、私的義勇軍、というんでしょうか、最初から正規軍部隊をめざして、のようでもあるのですが、貴族や大地主が借地人を募集して、歩兵連隊を編制し、そのまま正規軍となる話が散見されます。

 まずはアクスブリッジ伯ヘンリー・パジェットの場合。彼は伯爵家の長男で、革命までの本人の軍務経験は、父親が指揮するスタッフォードシャー州民兵軍の将校を務めたことがあるだけでした。1793年、ルイ16世が処刑されるにいたり、イギリスは危機感を持って第一次対仏大同盟を主催し、対仏戦争に突入します。同時にヘンリーは、父伯爵の借地人から志願者を集め、第80歩兵連隊を作って、一時的に陸軍中佐になった、というのです。そのまま彼はフランダースの戦場に赴き、旅団を指揮するまでになりましたが、歩兵ではなく騎兵隊を指揮したい、ということで、父親に働きかけてもらい、軽竜奇兵の中佐の地位を得て、大活躍をします。
 
 もう一人、トーマス・グレアム。どうもこの人、英国では相当に有名な人物のようです。この時代を舞台にしたイギリスのテレビドラマ「炎の英雄 シャープ」 DVD-BOX 1に出てくるようなんですが、見たいと思いつつ、私、まだ見ていません。
 ともかく、トーマスは、パースシャーのバルゴワンの大地主の三男として生まれました。オックスフォードで学んだ後、キャスカート卿の娘・メアリーと結婚し、パースシャーの領地を購入して、農業経営に専念しました。夫人が病弱であったため、海外で暮らすことも多く、1792年、南仏滞在中に、ついに夫人は病没します。ゲインズバラの肖像画が残っていますが、この夫人が美女でした。

 

 遺体を故国へ運ぶ途中、フランス革命軍の役人が、密輸品を探す目的で夫人の棺を開けたんだそうです。これに憤慨したグレアムは、とりあえず単身イギリス正規軍に志願して将校となり、軍務を経験した上で、故郷バースシャーに帰り、私財を投じて、第90歩兵連隊を編制します。
 えーと私、パースシャーのバルゴワンってどこぞや? と調べてみたんですが、スコットランドの高地地方でした。勇猛でならしたハイランダーの土地、です。古くから傭兵を産出し、近代ではイギリス陸軍の精鋭部隊を生み出した地方ですから、グレアムの歩兵連隊は、当然、強かったことでしょう。

 で、正規軍はもっぱら外地に赴いたわけでして、国土防衛軍なのですが、前回書きましたように、各州民兵軍は常に兵員不足で、平時には3万2千の定員をも満たしていませんでした。それには、人数の割り当てが実情にあっていなかったこともあったようです。急激な産業化で、兵役が勤まる若い男性は、都市集中していたにもかかわらず、都市よりも農村への割り当てが多かったそうでして、おそらくは、ヘンリー・パジェットやトーマス・グレアムのような、貴族やジェントリを主な指導者に想定していたがためなのでしょう。
 最初の5年間、といいますから、イタリア戦役にナポレオンが登場するまで、ですが、イギリス当局は民兵隊の兵卒不足に、積極的な手を打ちませんでした。1796年になって、ようやく民兵補充法ができ、最終的には、百万にまでふくらんだのだそうです。

 「イギリス国民の誕生」によれば、当局は当初、民兵隊の拡大に腐心するよりも、ジェントリによる私設義勇軍を奨励し、それは主に、「当局が自国の武装した民衆(兵卒となる人々)を恐れ、国内の無秩序を防ぐための護衛軍を求めたため」だったのだそうです。
 しかし、どうなんでしょうか。確かに、支配者層の自国民(下層の、ですが)への信頼が足りなかったことは事実なのかもしれませんが、私設義勇軍は私費で賄われるわけでして、正規陸軍だけではなく海軍も膨らみ、戦費がいくらあっても足りない状況において、当局が金のかからない防衛軍を望んだ、ということは、言えると思います。それに、著者も後に述べていますが、貴族やジェントリが指導者となって、あるいは地域の仲間が集まって、結成する義勇軍は、州民兵隊とちがって正規軍のきびしい軍法に従う必要がなく、自己運営される気楽さがありますし、州民兵隊よりも広範に人集めができる、ということが大きかったのではないでしょうか。

 最初のうち、まだまだ、イギリス本土にまで災いがおよぶ実感がない間は、義勇軍を結成するのは裕福な人々がほとんどで、きらびやかで、非実用的な制服を作って着込み、肖像画を描かせる、といったお遊び感覚も目立ったそうです。
 しかし、1797年、ナポレオン軍は欧州大陸を席巻し、第一次対仏大同盟は崩壊して、イギリスは孤立します。以降、紆余曲折はありますが、1802年から一年間和平が成り立った期間をのぞいて、イギリスは戦い続け、1805年には、ナポレオンが18万の兵をドーバー海峡に面した地に集め、イギリス上陸をもくろむ、という危機もありました。
 トラファルガーの海戦の勝利で、一応、フランス陸軍に上陸されるという未曾有の危機は遠ざかりましたが、1806年、ナポレオンは大陸封鎖令によって、イギリスと大陸諸国との交易を禁じる手段に出ます。

 こういった切迫した母国の危機によって、イギリス当局が当初は軽視していた下層の職人や労働者たちまで、愛国心をめざめさせることとなり、「イギリスの自由を守る」義勇軍の兵数も50万にまで膨れあがりました。以下、「イギリス国民の誕生」から、イングランド北部のカンバーランド、ウェストモーランドで2万人近くが署名した宣誓書の文言です。

「われわれは、君主専制をこのうえなく嫌悪する。共和専制をそれ以上に嫌悪する……、われわれが生きているうちは、いかなる類いの専制政府にも屈するつもりはない」

 「市民」とはいうものの、「持てる者」のスローガンだったイギリス伝統の専制政治への嫌悪、自由の尊重は、ナポレオン戦争を通じて、持たざる庶民層にも、浸透していくことになったのです。

 えーと、フランスとの比較まで、今回たどりつけませんで、次回に続きます。


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イギリスVSフランス 薩長兵制論争4

2009年11月06日 | 英仏薩長兵制論争
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争3の続きです。

 清教徒(ピューリタン)革命の内乱の中で、議会軍を指揮して頭角を表し、独裁者にのし上がったのがクロムウェルです。彼も、ジェントリでした。
 しかし、なんなんでしょうか。えー、1644年、マーストン・ムアにおいて、議会軍と王党派軍が、2万6千vs1万7千で未曾有の大会戦を起こした、というのですが。これより44年前、関ヶ原の戦いでは、東軍10万、西軍8万ともいわれていまして、この程度の兵数で未曾有の大会戦とは、さすが海軍を偏重しましたイギリスです。

 ま、ともかく、です。クロムウェル率いる騎兵は、新戦法を身につけ、しかも清教徒の熱狂的な信仰で結ばれていましたがために圧倒的な強さを誇り、議会での発言権を増したクロムウェルは、自分の軍隊を核として、議会の常備正規軍を創設するんですね。つまり、イギリスにおける最初の常備正規軍は、王の軍隊ではなく、議会の軍隊だったのです。
 が、この議会にもさまざまな党派があり、意見がありました。結局、クロムウェルは自分が掌握した正規軍を使って議会の反対派を追い払い、捕らえていた国王を処刑して、共和国を打ち立てるんです。

 クロムウェルが死に、王政復古が成ったとき、常備正規軍は4万に膨らんでいたのですが、解散が求められます。しかし、とりあえずは規模を縮小し、結局、1万5千ほどが王の常備正規軍、ということで落ち着いたようです。
 とはいうものの、共和国独裁の道具であった正規軍が、今度は王の独裁の道具になるのではないか、という懸念は去りません。それが、前回引用しました「急進的ウィッグ派と穏健的ウィッグ派の意見対立」となっていたようです。で、急進的ウィッグ派が打ち出していた「民兵」の概念ですけれども、州防衛の民兵を国防に転用しようということだったのか、あるいは有事には義勇軍を仕立てようということだったのか、はっきりと記した文献にはめぐりあえませんでした。とはいえ、この場合の民兵は、後述する理由から、どうも義勇軍をさすのではないか、と思います。

 17世紀の末、今度は名誉革命が起こります。カトリックに傾倒していましたジェームズ2世が追われ、その娘でプロテスタントのメアリー2世と、夫のウィリアム3世の共同統治ということになったわけなのですが、即位にあたって、議会により権利章典がつきつけられます。この権利章典に、以下の2条があるんです。

 ●国王は議会の承認なしに平時において常備軍を維持することはできない。
 ●新教徒(プロテスタント)である臣民は自衛のための武器をもつことができる。


 これで見る限り、穏健派の意見が通ったことはわかるのですが、同時に、プロテスタントに限って、ですが、圧政に対して武器をとる権利も要求しているわけですから、理念の上においては、反政府義勇軍(ミリシア)の結成も認められていたことになります。
 クロムウェルの独裁は、反対派の財産権を侵害するものでして、これは、政府の圧政から、武器をとって自らの財産を守る権利、といいかえることもできます。ということは、「市民自らの自由を奪う動機をまったく持たない市民兵」とは、私的義勇軍のことをいうのだと、推測できるのです。

財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家1688-1783
ジョン ブリュア
名古屋大学出版会

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 ここからの参考書は、ほぼ上の一冊です。

 18世紀、イギリスは強大な海軍力をもって、植民地経営と交易に邁進し、帝国の礎を築きあげます。海軍の巨大化がはじまりましたのも、クロムウェルの時代から、でして、勃興してきました商工業者の要求に応え、海上運輸の安全確保、という意味合いが大きかったものですから、ロイヤル・ネイビー、王の海軍であったにしましても、市民(ジェントリや富裕な商工業者、です。主には)の自由と対立する、というような見解は起こらず、また海軍に限っては軍備拡大費用も利益となって納税者に返ってくる、ということで、ふくれあがっていきました。19世紀、イギリスが世界帝国となってパクス・ブリタニカを打ち立てる下地は、この時代に完成するのですが、それに寄与したのは主に海軍でした。しかし、とりあえずそれは置いておきます。

 海軍が巨大になった、ということは、海上輸送能力もあがった、ということでして、イギリスはヨーロッパ大陸における争いにもコミットするようになり、18世紀を通して、フランスと対立しました。これは、フランス海軍が強力になっていたこともあり、植民地に渡ってまで繰り広げられ、中世の百年戦争になぞらえて、第2次百年戦争とも呼ばれます。最終的に、ナポレオン戦争でイギリスが勝利をおさめ、19世紀のパクス・ブリタニカが訪れたのです。

 なぜイギリスが大陸にコミットするようになったかといえば、一つには、名誉革命以来、イギリス議会はカトリックの君主を嫌い、女系をたどって大陸出身の王を据えることになったこと、もあります。オランダの王族だったウィリアム3世もそうでしたが、続くアン女王には無事に成人した子供がなく、結局、ドイツ領邦ハノーヴァー公国の君主・ゲオルク・ルートヴィヒが招かれ、1714年、ジョージ1世として即位したのです。以降、19世紀のヴィクトリア女王即位に至るまで、ハノーヴァー公国とイギリスは、同君連合の関係にありました。
 フランスが、イギリスの王位継権を持つカトリックの王族を後押し、しかも海軍力を増強していたフランスは、アイルランド上陸を企てるようなこともありました。

 18世紀、平時におけるイギリスの正規常備陸軍は、3万から5万ほどで、クロムウェルが最終的に組織していた正規軍数と、さして変わりません。しかも、そのうちの大半はアイルランド正規軍としてアイルランドに常駐し、アイルランドの税金で養われましたので、イングランドに常駐する正規軍は、ほぼ1万5千であったようです。
 やはり、「大規模な正規陸軍は独裁政治の道具になりかねない」という観念は、根強くあったのです。
 しかし、有事にはこの正規軍が大幅に増強されます。
 スペイン継承戦争で9万、オーストリア継承戦争で6万、7年戦争で9万、アメリカ独立戦争では10万を超えました。
 正規軍の兵卒は、基本的に志願でしたが、有事にはそれだけでは足らなくなり、かなり無理な強制徴募もされたようです。
 
 貴族やジェントリーの子弟を中心とする、正規軍の将校団は、専門職化されていきました。とはいうものの、正規常備軍の存在そのものが、大陸諸国にくらべれば一世紀遅れて成り立ったものでしたので、士官学校の設立も遅れ、徒弟制度というのでしょうか、いきなり入隊して見習い将校からはじめる、という形態が、19世紀の前半まで残ったようです。さすがに、技術専門職である工兵隊、砲兵隊の将校については、1741年、ウーリッジに士官学校ができましたが、陸軍の華である騎兵隊、歩兵隊の士官学校が、サンドハーストに設立されるのは、18世紀も押し詰まり、ナポレオン戦争の最中、1799年のことでした。
 つまり、18世紀いっぱい、イギリスに本格的な士官学校はなかったといってよく、ナポレオン戦争時に活躍した将軍たちの中で、専門の将校教育を受けた者は、なぜか、アルザス・ロレーヌ地方にあったストラスブール士官学校に留学していた割合が多いようです。18世紀のイギリス陸軍将校には、フランス系の亡命ユグノー教徒の末裔がかなりいて、おそらく、なんですが、彼らに好まれた士官学校であったのかもしれません。

 さらに、これもナポレオン戦争時から逆に推測すると、なのですが、有事には、貴族や大地主所有者が編制した私的義勇軍が、そのまま正規軍に組み込まれることもあったようです。地域にもよったようですが、兵卒となる庶民にとって、まったくなじみのない正規軍に突然放り込まれるよりも、自分たちの地主が編制した軍で、顔なじみの仲間とともにある方が安心でき、志願兵になりやすかった、という状況だったのでしょう。
 
 また、この当時のイギリスは経済強国となっていて、ハノーヴァー陸軍はイギリス王の指揮下にありましたので当然ですが、同盟軍の外国兵に資金援助をすることも多く、前世紀に引き続いて傭兵も多数傭いましたので、正規軍の兵数のみでははかりきれないい兵力を備えていました。

 以上は派遣陸軍ですが、国土防衛軍としては、民兵隊が整備されます。1757年、フランス軍の上陸が懸念された7年戦争において、民兵隊法が成立します。以降、各州の民兵は年に28日の教練を義務づけられ、従軍中は軍法に従う必要がある正規の存在となり、その費用は、地方税で賄われました。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋に出てきますバーティ・ミットフォードの曾祖父、ウィリアム・ミットフォード大佐は、ハンプシャー民兵軍の将校を務めましたが、同僚のエドワード・ギボンは、「近年の戦闘教練と機動演習を経験して、私は古代のファランクスとレギオンがどのようなものであったか鮮明に想像できるようになった」と述べているそうです。
 新しく再編された州民兵軍では、初歩ながら、最新の軍事技術に触れえるようになり、18世紀に入って専門化していた軍事が、今度はもっと広範に、国民にとって身近なものともなっていった、といえなくもないのですが、バーティの曾祖父やギボンのように、将校となったジェントリたちはともかく、兵卒として駆り出される農民や労働者にとっては、あまりありがたいものではなかったようで、十分な兵数がそろわなかったといわれます。
 イギリスの陸軍が国民軍と呼べるようになるのは、やはり、欧州を席巻したナポレオン戦争においてのことでした。

 えーと、では、前回書きました私説義勇軍は? ということなのですが、前述しましたように、ずっと存在はしていたのではないか、と思われます。少なくとも、結成の自由はありました。しかし、これも本格的に市民軍として稼働しはじめましたのは、どうやら、ナポレオン戦争においてのことのようです。
 
 次回、そのナポレオン戦争におけるイギリス陸軍のあり方を見て、フランス陸軍とのちがいを、考えていきたいと思います。


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イギリスVSフランス 薩長兵制論争3

2009年11月04日 | 英仏薩長兵制論争
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争2の続きです。

 ごく最近なんですが、薩摩藩イギリス密航留学生の一人である畠山義成のファンである、という方からメールをいただきまして、私も畠山義成は好きですし、やりとりをさせていただいておりました。残念なことに、いま、サーバートラブルがおありだったとかで、その方の畠山サイトが落ちておいでで、ご紹介できないのですが。

 ともかく。畠山義成は、慶応3年(1867年)のはじめころ、ドーバーで行われた英国海軍と陸上兵力との共同調練に参加しています。中井桜洲(弘)の「西洋紀行航海新説 下」(デジタルライブラリーで読めます)に書かれていることなのですが。

 見物に出かけた中井は、「友人野田(鮫島尚信)、長井(吉田清成)、松村(淳蔵)、杉浦(畠山義成)の4名は遊軍隊なるをもって兵卒とともに至れり」と書いているのですが、この「遊軍隊」とはなんぞや、ということになったんです。なんでもアメリカの資料では、「畠山はイギリスでVolunteer(市民兵)になっていた」とあるそうでして、この「遊軍隊」は、Volunteer(市民兵)が構成していたと考えられます。

 で、前回書きましたが「グラッパム公園邸」という荘園を近代農法で運営していましたハワード兄弟。彼らが雇い人を歩兵にして組織していた義勇軍(ミリシア)のようなものこそが、おそらくはこの「遊軍隊」であろう、という話に落ち着きました。あるいは、見学したその隊に、留学生たちはそのまま体験入隊することになったのかもしれませんし。

 私、近代イギリス陸軍の成り立ちについて系統立てて書かれた本を、ずっとさがしていたのですが、これが、見つかりません。海軍については、「ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ」という恰好の参考書が、見つかったのですけれども。そして、これによりますと、19世紀後半に至っても、イギリスの正規常備陸軍は、異常なほどに小規模だった、ということだったんです。

それで、さまざまな本からひろい読みまして、ようやく19世紀前半までの話が、不完全ながらも一応はわかりました。

戦略の形成〈上〉―支配者、国家、戦争
ウィリアムソン マーレー,アルヴィン バーンスタイン,マクレガー ノックス
中央公論新社

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 上の本なのですが、イギリス陸軍について書かれていたわけではありません。イギリスに関しては、やはり海軍のみ。ただ、中のピーター・マスロウスキー著・森本清二郎訳「列強国への胎動期間 アメリカ(1783~1865)」に、以下の文章がありました。

 アメリカには、軍隊に関する二つのイデオロギーがイギリスから大西洋を越えてもたらされていたが、ほとんどのアメリカ人は、正規の常備軍の保有は専制的制度であり、絶えず自由に脅威を与えるものであるという急進的ウィッグ派の考え方を受け入れていた。急進的ウィッグ派は、職業軍隊を設ける代わりに、民兵の概念を打ち出していた。彼らの考え方によれば、市民兵というものは市民自らの自由を奪う動機をまったく持たないため、もっとも安全な国防体制であるとされた。こうした急進派ウィッグ派の主張にもかかわらず、イギリスは実際には小規模な常備軍を持っていた。それは1645年に新型軍(New Model Army)として始まり、最終的にはクロムウェルの独裁制を布いた。しかし、17世紀後半に入ると、イギリスのイデオロギーのもう一方の潮流をなしていた穏健的ウィッグ派が、専制状態に陥る可能性があらかじめ憲法によって制約されていれば、正規軍は自由と両立するものであると主張した。さらに穏健的ウィッグ派は、自由を守るためには常備軍が必要であるとさえ主張した

 現在でもアメリカでは、あくまでも理念上ですが、政府の圧政に隊して国民が銃を持って立ち上がる権利が保障されている、ということは、わりに知られていると思うのですが、それがイギリスからもたらされた理念だったとは、うかつにも私は知りませんでして、目から鱗、でした。考えてみれば、アメリカはイギリスの植民地だったのですし、清教徒(ピューリタン)革命には、アメリカに渡っていて帰国して参加した清教徒もいる、というような話ですし、イギリスもアメリカもともに長らく正規常備陸軍の規模が小さかったのですから、当然といえば当然のことだったんですけれども。
 そんなわけで、まずは19世紀以前のイギリスにおける正規常備軍と民兵につきまして、参考書は「クロムウェルとピューリタン革命」 (清水新書 (023))「イギリス革命史(上)――オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム」「財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家1688-1783」です。

 封建社会であった中世の欧州において、軍隊は国家的なものではなく、戦争となれば、王が諸侯に命じて軍団を編制させるか、あるいは、プロの戦闘集団である傭兵を傭うか、でした。
 王(あるいは国家)の常備軍拡大は、諸侯の権力がそがれた絶対王政とともにはじまった、といえるのだと思うのですが、「国土に敵が迫っている」ことを理由に常備軍を拡大しますと、戦後もその常備軍は残り、今度はその常備軍が内政にもちいられて権力が中央(王)に集中する、というパターンだったようです。
 戦争の規模も変わってきました。16世紀から17世紀に「軍事革命」が起こった、といわれるのですが、軍事作戦が複雑になり、戦闘が長期化するようになったため、統制がとれた軍事行動が求められ、日頃の訓練の必要も増えて、常備軍は拡大されていったのです。この時期は日本でいえばほぼ、戦国時代から江戸時代初期です。
 そして17世紀の末、といいますから、すでに日本では江戸時代。綱吉が将軍になって、元禄文化が花開こうか、というそのころです。欧州各国の常備軍の数ですが、スペイン7万、フランス12万、日本と交易をしていたオランダにいたっては、国土が狭いにもかかわらず11万で、それぞれ200年前のほぼ10倍になっていた、というのですが、イギリスは1万5千にすぎませんでした。
 
 イギリスは島国です。この絶対王政の時代、海軍に力をそそいでいたことは確かですが、大陸諸国の海軍も強力でしたので、それほど卓越したものではありませんでした。島国であったがために、大規模な常備軍を持つ必要がなかったことは、同じく海軍国であったオランダとくらべれば歴然としています。
 陸戦の規模が大きくなったということは、兵員その他の海上輸送が大変になった、ということでして、攻められる心配も少なくなったと同時に、攻めていくこともなかなか大変、ということになり、人口も少なく、経済的にもそれほど強力であったとはいえなかった当時のイギリスにおいて、大規模な常備軍は、持つ必要がない、と同時に、持つことができないものでもありました。

 イギリスの絶対王政が本格的にはじまったのは、ヘンリー8世から、といわれます。日本でいいますならば、室町時代も後半、銀閣寺を建てた足利将軍義正の孫の世代くらいのお話です。
 ヘンリー8世は、なかなか跡継ぎの男子に恵まれませんで、6人の妻を娶った王さまです。
 ヨーロッパの王室では、一般に、正式な婚姻による嫡出子でなければ跡継ぎになれず、カトリックは基本的に離婚を禁じていました。で、ローマ教皇が結婚の無効を認めるだけのちゃんとした理由がなければ、いくら男子が生まれなくとも次の結婚はできないわけですが、ヘンリーの最初の妻はスペインの姫君、キャサリン・オブ・アラゴンで、スペインからの圧力もあり、教皇は離婚を認めません。

 当時、すでにローマ教皇の権威は衰え、世俗的な教会のあり方を批判したプロテスタントが生まれて、イギリスにも浸透しておりました。結局のところヘンリーは、ローマン・カトリックと縁切りをして、イギリス国教会が設立されることになったんです。映画「ブーリン家の姉妹」が、その当時を舞台にしたお話です。
 以前にも書きましたが、これは当初、簡単にいってしまえば、ローマ教皇にヘンリー8世がとってかわっただけの話でした。とはいうものの、世俗的な権力でもあったカソリック教会は、当時のイギリスの三分の一ともいわれる莫大な資産を所有していまして、実は財政的に苦しかったヘンリーが、それを狙ったのではないのか、という見方もあります。ヘンリーは、修道院などを徹底的に取りつぶし、こうして手に入れた邸宅つき領地を、売りに出しました。

 これを買って資産を増やし、力をつけてきましたのが、ジェントリ(田紳、賴紳などと訳されます)といわれる人々です。ジェントリはもともと村単位くらいの小領主で、ノルマン人を主体とします貴族層の下に位置していたのですが、この時期になってきますと、法律家や医師といった専門職、商工業で資産を蓄えた人々が、地主になる意欲を高めていたんですね。そこへ多量の荘園が売り出されたものですから、これを買い、新たにジェントリの仲間入りをする人々が爆発的に増えたんです。
 時代は一世紀くだって17世紀の話ですが、リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋に出てきますバーティ・ミットフォードの祖先も、イングランド北部のジェントリの三男であったために商人になり、一財産築いて、新たに南部に領地を買い、ジェントリとなりましたが、こういうことが、もっと大規模に起こったわけです。
 封建制がくずれていく中で、ジェントリたちは地方行政の担い手となり、治安判事や、州防衛を担った民兵隊の組織、指揮を、無報酬で務めました。官僚ではなく、土地に密着した存在であったわけです。

 で、誕生したイギリス国教会なのですが、いったんローマ教皇とは縁切りをしたものの、それは政治的な意味合いのものでして、宗教としてどうなのか、といえば、カトリックの教義に批判的だったわけでもありませんで、ヘンリー8世以降、カトリックとプロテスタントの争いは絶えませんでした。「エリザベス」 [DVD]「エリザベス : ゴールデン・エイジ」 [DVD]が、この時代を舞台とした映画です。

 イギリス黄金期の礎を築いた、エリザベス一世。彼女は、国教会とローマ教皇との決別を確実なものにはしましたが、しかし、王政と結びついた国家宗教という位置づけですので、宗教儀式にはカトリック色も残り、大陸におけるプロテスタントとは必然的に異なりました。
 女王の死後、こういった国教会のありかたにあきたらず、徹底したプロテスタント化を求める人々が増え、彼らをピューリタン(清教徒)と言いますが、国教会の頂点には王がいて、国教会が密接に政治と結びついていましたために、ピューリタンたちは議会を根城として、王権と対立するようになっていきます。

 ごくごく簡単に言ってしまいますと、この王と議会の対立が頂点に達し、17世紀の半ば、日本でいいますと三代将軍・徳川家光の時代、清教徒(ピューリタン)革命が起こり、内乱がはじまります。
 議会派は、当初州民兵を味方に組み込もうとしていたのですが、この当時の民兵はろくに戦闘ができるような組織ではなく、結局、この内乱の主体となりましたのが、王党派、議会派ともに、貴族やジェントリが私的に組織しました義勇軍(ミリシア)でした。
 この時代を描いた小説に、ダフネ・デュ・モーリアの「愛すればこそ」 (1965年)がありまして、昔、愛読しました。ハーレークィンっぽい歴史小説ですが、イギリス南西部の王党派ジェントリの暮らしが克明に描かれ、イギリス版「風と共に去りぬ」っぽくもあり、おもしろかったのですが、いまから思えば「義勇軍」だったわけで当然なのですが、なにしろ私の固定観念にあった「王の軍隊」は正規軍ですから、様相がちがいすぎまして、物語の筋運びのために軍隊がこんなに自由きままなのかな、などと、時代背景への理解がゆき届いていなかったようです。

 字数が多くなりすぎまして、次回へと話が続きます。


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イギリスVSフランス 薩長兵制論争2

2009年10月30日 | 英仏薩長兵制論争
 なんといいますか、久しぶりに仕事をすることになりまして、ごく一般向け(例えば幕末維新といえば龍馬と新撰組くらいしか知らない、というのが「ごく一般」の想定です)の文章を書くのってこんなにうっとうしいことだったんだなあ、と、悪戦苦闘しておりました。なにがうっとうしいって……、ちょっと仕事から離れておりました期間に、「ごく一般の人」の感覚が、つかみ辛くなってしまっていたんです。

 で、伝説の金日成将軍と故国山川 vol4の続きなんですが、シベリア出兵について、少々文献不足(といいますか、私、ロシア語が読めません。韓国語のように、機械翻訳にかけてなんとかなるものでもなさげですし)も手伝いまして、考えがまとまりきらず、めんどうになってwiki金擎天を、先に書いてしまったような次第です。えー、韓国で建国勲章を追敍され、はっきり経歴がわかっている人物であるにもかかわらず、日本語のHPでは、まるで正体不明のような話しか載っていませんでしたので、つい、ブログに書くよりwikiに書いた方がよさげな気がしまして。

 そして、書きかけのシリーズを多数放り出し、ちょっと今回は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争の続きです。

 えーと、ですね。これ、もともと続編を書く予定ではあったのです。といいますのも、薩摩がフランス兵制を採用することで話が落ちついたか、といえば、どうにもそうは思えなかったから、なのですけれども。
 といいますのも、国家予算がろくになかった当時、フランス兵制をとって徴兵制をしくことになれば、陸軍に莫大な費用がかかり、海軍にはろくろく予算がまわらない、ということになるしかないから、なんです。
 参考書が出てきませんで、不正確なんですけれども、ともかく、明治4、5年ころの話なのですが、海軍は陸軍の10分の1に予算を抑えられ、幕府はおろか、海軍熱心だった佐賀や薩摩一藩にもおよばない艦艇の状況が、確か明治10年近くまで続くんです。これはイギリスに習って海軍力を重視する薩摩にとって、なんのための維新だったのか? という状況ではないでしょうか。
 あるいはこのことは、明治6年政変から西南戦争へと、尾を引く問題であったのではないか、という、もやもやとした推測、といいますか憶測を、私はずっともっておりまして、折に触れ、ころころと転がしてはいたんです。

 まずは、「元帥西郷従道伝」から、です。
 モンブラン伯爵のいるフランスへ、兵制視察に行っていました山縣有朋と西郷従道が帰国し、明治3年10月2日、新政府陸軍はフランス式となることが、公式発表されます。「同時に薩摩もフランス式に転換した」とされているんですが、私は、それほどすっきり転換されたものなのかどうか、ちょっと疑っているんです。これは後述しますが、軍制度がフランス式かイギリス式かということは、国家デザインそのものに、大きくかかわってくる問題であったからです。維新の時点においては、おそらく、憲法よりも、です。

 薩摩藩兵は、9月に引き上げたままです。新政府と薩摩藩とのつなぎ役となっていた小松帯刀は、その直前の7月に病没しています。長州閥を中心とします生まれたばかりの新政府にとって、これは不気味なことでした。西郷隆盛と藩主・島津忠義の上京を促す勅使派遣の下準備ために、10月12日に、西郷従道が薩摩へ向かいます。10月22日、従道は東京にいる大久保、吉井に手紙を書いています。えー、私、原本を見ていませんで、「元帥西郷従道伝」からの孫引きになります。

「最早愚兄にも相見え篤(とく)と朝廷の実情を詳らかに申し述べ、就て当今御両公(久光・忠義)之御趣旨、かつ鹿府の動静、素より次来目的如何と慨嘆議論、真密に尽し候ところ」 、隆盛は、「落涙に相及候次第に御座候」 でした。

 これがどういう状況を示すことなのか、具体的なことが書かれてない以上、憶測にしかならないのですが、従来「守旧的な久光が下級藩士が中枢にいる新政府を嫌っていて」というような解釈がなされてきたように思います。
 しかし久光は、この時点で守旧的だったのでしょうか。
 薩摩スチューデント、路傍に死すで述べましたが、久光は、イギリス密航留学を拒む門閥の子弟を、自ら説得しているんです。
 そして実際に薩摩藩は、紡績機の導入など、さまざまな一藩近代化策を講じようとしていましたし、「イギリスを見習った近代化」は、久光も賛同した藩を挙げての事業でした。
 その薩摩藩、わけても久光が思い描いた新しい日本とは、いったいどういうものだったのか。
 まずは幕末の現状認識なのですが、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!?に書いておりますように、モンブラン伯爵が地理学会で発表し、アーネスト・サトウが「英国策論」で書きました『日本は天皇をいただく諸侯連合国』でした。
 まあ、欧州で例えるならば、ドイツ連邦のような状態です。で、目標としていた「帝を中心とする新しい日本」なのですが、モデルをフランスにするのかイギリスにするのかでは、中央集権化の度合いが、大きくちがってきまして、軍制は、それに密接にかかわってくるんです。
 久光が思い描いていたのは、地方分権的なイギリス型であり、薩摩藩全体においても、そうだった、と言えるのではないでしょうか。その傍証とするには、ちょっと弱いかもしれないのですが、fhさまのところの備忘 伊地知正治、「大久保宛伊地知正治書簡」の「農兵・屯田兵的な形での開墾と、それを「西洋流行之農器」の使用と結びつけて実効を挙げようという考え方」は、その気分を伝えてくれているのではないでしょうか。
 そして後半、薩摩留学生たちが見学した「ハワード兄弟が クラッパム公園邸(荘園)を買い取り、近代的に運営されていた農園」なんですが、兄弟は自分の雇用者たちを組織して歩兵隊を作っていたということで、当時のイギリスの義勇軍(ミリシア)のあり方も、見えてきます。余談になりますが、fhさまにお送りいただいて、この論文を読んでみましたところ、クラッパム公園邸をハワード兄弟に売ったのは、バーティ・ミッドフォードの母親の実家、アッシュバーナム伯爵家(リーズデイル卿とジャパニズム vol6恋の波紋参照)でした。

 ということをふまえて憶測すれば、です。
 大久保を中心とする、新政府中枢の元下級藩士たちにとっては、です。自分たちの権威は、新政府こそが保障してくれているのであり、いくら長州閥と基本的な方針がちがっても、手切れをするわけにはいかないのです。となれば、妥協点を見出しつつ、自分たちの構想をも実現していく必要があり、部分的にでも、薩摩藩が思い描いたイギリス流近代化が実現するならば、久光も納得するだろう、ということだったのではないでしょうか。そのうち、どうしても実現しなければならない最大の課題は、斉彬以来、薩摩藩が力をそそいできた近代海軍の整備です。

 つまり、従道の説得の大筋とは、「新しい日本のデザインについては、長州閥には長州閥の考え方があり、薩摩が妥協点を見出さなければ、困るのは朝廷である」ということに尽きたのではないかと、私は憶測しています。

 明治3年12月18日、勅使・岩倉具視、参議・大久保は、陸軍の山県有朋、海軍の川村純義を伴って、薩摩に到着します。これも孫引きですが、「明治天皇紀」によれば、岩倉は次のように述べたというのです。

「具視さらに正旨を敷演して曰く、維新以来天下の形勢容易ならざるものあり、日夜宸襟を悩ましたまう。さきに薩長二藩は同心戮力、もって大政復古に尽す。これすなわち両藩報国至誠の致す所、実に皇室の羽翼、国家の柱石といふべし。前途ますます多事ならんとするに当り、聖慮切に久光をして隆盛を伴いて東上せしめ、万機を補佐せしめんことを望みたまふ」

 つまり岩倉は、「いまの新政府を作ったのは薩長両藩で、両藩協力して朝廷をささえるべきなのに、片方が欠けている現況に帝はお悩みだから、久光さん、西郷さん、上京してね」といっているわけでして、私の憶測も、それほどはずれたものでは、ないと思います。

 で、松下 芳男の「徴兵令制定史 」によれば、なのですが、薩摩へ来た山県有朋を、従道はなじります。なぜなじったかというと、「山県は従道に相談することなくして、兵士の教育、調練、その他兵器の製造等に着手して、兵部省の定額30万石をこれに充用してしまった」からなんです。当時、陸海ともに兵部省で、予算は一本化されていましたから、海軍には一銭もまわさずに、山県が使ってしまったわけだったようなのです。

 薩摩藩は、すでに手持ちの艦船を、政府に寄贈しています。最新式のオランダ製軍艦を所有していた佐賀藩もそうです。これでは、それらの艦船の整備でさえ、できません。このあげくに、山城屋和助事件が起こったのですから、薩摩閥の長州閥への不満は、尋常ではなかったのです。

 で、次回なんですが、手探りながら、イギリスとフランスの軍制のちがいについて、もう少しつっこんでみるつもりでいます。

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イギリスVSフランス 薩長兵制論争

2008年03月05日 | 英仏薩長兵制論争
 このお題で、えっ? と思われるかもしれませんが、町田にいさんと薩摩バンドと、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟の続きです。

 薩摩藩が、幕末からイギリス式の兵制に習っていたことは、中岡慎太郎が書き残しています。
 以下、慶応3年9月21日、慎太郎より国許の大石彌太郎宛書簡より。

 兵談
 一、薩藩の兵制、全く英制に改まりたり。この改正は長州の改制より眼を開きし故、去る亥年以来の改制なり。それまでは古流なりし。然るに古流なりし時といえども、士分一統みな総筒の制にありしゆえ、変革も他藩と違ひやすきなり。
 一、薩藩兵士といふは、みな士分のみにて、足軽は兵士にあらず、士間たいてい極く小禄にて御国の足軽よりも窮せる者多し。少々給を遣はしむれば悦んでなるなり。これ他藩になきところなり。


 薩摩藩の兵制は、すっかりイギリス式に改まったよ。この改正は、長州の改正を見て亥年(長州に習って亥年、文久三年というのはちょっと疑問なんですが)以来やってきたことなんだ。それまでは古流(合伝流)だったけどね、薩摩は古流といっても、士分がみな銃をもつ習わしだったので、他の藩とちがって簡単にできたんだよ。薩摩の歩兵はみんな士分で、足軽は兵士じゃないんだよ。身分は士族でも、とても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になるんだよ。これは、他藩にない薩摩の特長だね。

 薩摩の古流というのは、合伝流のことです。
 薩摩藩では、戦国時代には、武士身分のものがそれぞれに鉄砲を持って戦ったのであって、足軽というのは、その武士について槍を渡したりするだけで、戦闘要員ではなく、鉄砲足軽などというのは藩政時代(江戸時代)になって、実際に戦わなくなってからできたんだ、として、幕末、士族こそが鉄砲を持つべきだ、という意識を、薩摩では早くから浸透させていました。
 それに加えて、薩摩は武士の数が多く、城下士でも、桐野やら黒田清隆みたいに、四石だの五石だの、農民から土地を借りたり、あるいは開拓したりで、農業をしなければ食べていけないれっきとした士族が、多数にのぼったんです。
 明治初年、各藩主から太政官に提出した藩の禄高と士数が残っています。(林義彦著「薩藩の教育と財政並軍備」より)

 鹿児島藩 43119戸 20.1石(一人あたり平均石高)  
 
 熊本藩8050戸(97.6石) 久留米藩948戸(386.3石) 徳島藩2100戸(210.8石)
 高知藩7269戸(68.1石) 山口藩3000戸(123.1石) 岡山藩2711戸(167.5石)
 広島藩1780戸(274.1石) 姫路藩706戸(212.4石) 鳥取藩1710戸(250.3石)
 彦根藩1251戸(162.9石) 金沢藩7797戸(173.5石) 秋田藩3219戸(103.1石) 
 弘前藩2066戸(132.8石)

 
 鹿児島藩の士族戸数43119戸は、他の13藩をすべてあわせたと同じくらいあります。そして、士族一人あたりの平均石高は極端に少なく、他に100石以下のところといえば、高知藩68.1石、熊本藩97.6石で、どちらも勇猛といわれた藩ですが、高知でも薩摩の3倍以上ありまして、中岡慎太郎がいっていることを裏付けています。
 これはもちろん、郷士の数が多かったためなのですが、城下士もまた平等に貧しく、相当な兵力となったことを、以下の慶応元年鹿児島城下士の戸数が裏付けています。

一門4家 一所持21戸 一所持格41戸 寄合54戸 寄合並10戸

無格(小番の上位で寄合並の下位) 2戸
小番(一代小番は小姓與に合算す)760戸
新番(一代新番は小姓與に合算す) 24戸
小姓与             3094戸

 この最後の小姓与というのが、歩兵となった人々で、西郷隆盛も大久保利通も黒田も桐野も、みんなこれに属します。
 そして、これは一戸の数ですから、一戸に男子数人はざらですし、鹿児島城下のみで、およそ1万の歩兵動員が可能であったといわれます。

 ただ、中岡慎太郎がいう薩摩の兵制については、多少の事実誤認がありまして、「古流」とされる、士族がみな鉄砲を持って歩兵となる制度が薩摩にしかれたのは、島津斉興(藩主1809-1851)の時代でして、同時に藩士が長崎の高島秋帆から砲術を習い、天保13年(1842)には、オランダ式軍制採用となります。
 これは、オランダ式といいましても、高島秋帆流です。オランダ語の軍書をもとに、勝手に工夫するわけです。
 嘉永4年(1851)、斉彬公が藩主となりますと、オランダの歩兵操典を独自に翻訳させたり、フランスの軍学書も研究させたともいわれるんですが、あるいは、高野長英の『三兵答古知幾』かもしれず、そうだとすれば実はプロシャ式ということになりますが、ともかく、独自の洋式軍制を採用します。ただ、これには高島流砲術家の反発があったといわれます。
 で、オランダ式とかフランス式とかいいましても、翻訳軍書を参考にして、独自にやるわけです。
 唯一、実地で勉強できただろう機会は、安政2年(1855年)から長崎で行われた幕府のオランダ海軍伝習で、海軍といいましても、海兵隊の陸戦訓練もありますから、西日本各藩では、それを目当てに藩士を派遣したところも多かったんです。薩摩も五代友厚をはじめ16人派遣していますから、かなり参考になったかと思われます。
 中岡慎太郎がイギリス式といっていますのは、赤松小三郎が翻訳した軍学書を、多少参考にした程度のことだと思われ、ただ、もしかしますと、イギリスは横浜に陸軍を駐屯させていましたから、薩摩とイギリスの関係を考えれば、ひそかに見学に人を出した、程度のことはあったかもしれませんし、また町田にいさん、久成をはじめ、帰国した留学生たちが、軍書翻訳などに参加したか、とも思われます。
 もちろん、長州だとて勝手式洋風で、この当時、本格的に洋式を採用していましたのは、フランスの陸軍伝習がはじまりました幕府だけです。

 で、ちょうど中岡慎太郎が、薩摩の兵制がイギリス式である、と書いた直前のことです。以下、慶応3年8月に本田親雄が大久保に宛てた書簡。
 仏人モンフランと申者、海陸軍士官両名ツヽ・地学者両人・商客両人・従者壱人を岩下大夫被召列、不日入津之筈、小銃五千挺、大砲廿門、右之員数之仏服一襲ツヽ強て御買入候様モンフラン申立、且兵式も仏則ニ可建と之云々、洋地ニおひて世話ニ相成候付、無下ニ理りも立兼候容子共、渋谷・蓑田之両監馳帰候始末ニ付、伊地知壮州出崎、右銃砲之代価乍漸相調候て、此よりハ薩地江不乗入様理解之為、五代上海へ参る等、新納大夫出崎、崎陽ニて右仏人江御談判、海陸二事件御辞絶いつれも拙之拙成跡補、混雑之次第(以下略)

 くだいて言いますと、こういうことでしょうか。
 フランス人のモンブランというものが、海陸軍士官二名づつ、地学者二名、商人二名、従者一人をつれ、これをパリ万博に行っていた岩下方平が全部連れ帰っているようで、そのうち長崎に着くはずですが、モンブランは、小銃5000挺、大砲20門、これだけの人数(5000人分ですかね)のフランス軍服を買えといい、そして海陸の兵制もフランス式にしろといっています。
 フランスで世話になったから、むげに断るわけにもいかない様子で、渋谷、蓑田があわてて知らせてきたようなことで、伊地知が長崎に出て、鉄砲の代金はなんとか都合しましたが、モンブランは薩摩へ乗り込んでくるつもりらしく、五代を上海へ迎えに派遣し、新納刑部も長崎へ出てもらい、そこでモンブランに談判して、陸海の兵制をフランス式にすることだけは断らなければ、跡の始末がどうにもまずくなると、こちらは混乱しているようなことです。
 
 実のところ、このころグラバーは金に困っていた様子でして、また先年五代がグラバーに注文した汽船は小さなもので、なおトラブルを起こしたようなのですね。
 五代の上海行きは、軍艦調達もかねたものでして、実際、このとき薩摩は、モンブランの世話により、本格的な軍艦キャンスー(春日丸)を購入することができています。
 これはイギリス船籍の船だったのですが、モンブランに資金力があったゆえなのか、フランス人のモンブランが仲買し、イギリス商人仲間では、薩摩はなかなかいい買い物をし、モンブランもいい商売をしたものだ、とうらやまれていたようです。
 幕府との開戦をひかえて、およばずとも、せめて一隻は幕府の軍艦に匹敵するものが欲しかったのでしょうし、小銃5000挺や大砲20門も、あって困るものではないでしょう。
 どうやら薩摩が困っていたのは、兵制であったようです。
 あるいは、海陸ともにイギリス式兵制をとると、イギリス公使館と密約があったのかもしれないですね。
 とすれば、この当時から横浜駐屯イギリス陸軍に、人を派遣していたことも、なかったとはいえません。
 実際、「幕末明治実歴譚」の「村田銃発明談」には、村田銃を開発した村田経芳や吉井友実など、薩摩藩士10名あまりが、横浜から江戸の英国公使館に派遣されていた英国陸軍と、競射をした話が見えます。
 当時、薩摩が採用していた銃は、先込めの施条銃で、イギリス制のエンフィールド銃だったようです。
 
 ところで、モンブラン伯爵が持ち込んだ銃は、なんだったのでしょうか。
 キャンスーと同じく、銃は買う、と薩摩藩がすぐに決めたところをみますと、後装銃だったのではいかと思われます。あるいは幕府と同じくフランスのシャスポーだったのではないか、と推測するのですが、キャンスーがイギリス製だったことを考えますと、ウェストリー・リチャード銃か、スナイドル銃 であった可能性もあります。
 これを薩摩が、一部、鳥羽伏見から使ったのではないか、と思われる証拠が、やはり「村田銃発明談」に出てきます。
 村田経芳は、鳥羽伏見の戦いに参戦したのですが、村田の所属した一隊は、桑名兵と接戦し、桑名兵が築いた台場を落とせないでいました。
 そこへ現れたのが、桐野、中村半次郎です。
 「村田君、こんな小さな台場がなぜ落ちぬか。あまり手間が取れるではないか」
 と、怒るのですが、激戦につきあい、桑名藩士が、大胆にも台場の上に出て、膝打ちで狙った弾が桐野の頭上をかすめ、納得しました。
 で、そのとき桐野は、「自分がいま持っている銃は、大久保からもらったんだが、弾のこめかたがわからないから教えてくれ」と、村田に言います。
 このエピソードを、たしか司馬遼太郎氏が、「桐野は刀ばかり使ってきたから弾のこめかたも知らなかった」というような話に使われていたと思うんですが、「村田銃発明談」には、以下のようにあります。

 村田氏は激戦中なれども、やむをえずこれを取りて一見せしに、かねて自分の欲している英国発明のウェストリー・リチャードといえる後装銃にして、これをその時代で刀剣にたとうれば、あたかも正宗の如きものである。また上等の銃ゆえその弾丸を一々これを紙に包んであった。

 要するに後装銃で、これまで慣れて使ってきた前装銃とは勝手がちがったんです。
 上野戦争で、長州兵がはじめて支給されたスナイドル銃にまごついた話と同じです。
 ちなみに、薩摩藩兵の銃は、基本的には自前です。藩がまとめて買ってきて、それを藩士に買わせるんです。
 大久保から桐野が後装銃をもらったんなら、あるいは開戦を前に、薩摩は大盤振る舞いをしたのではないか、とも考えられる………、かもしれません(笑)

 だいぶん話がそれましたが、ともかく薩摩は、モンブランから武器は買いましたが、海陸兵制をフランス式にすることは、断りおおせたようなのですね。
 ちなみに、このときモンブランが連れてきた人材のうち、鉱山技師のF. コワニーは、薩摩藩密航留学生でフランスに留学していた朝倉盛明(田中静洲)とともに、明治元年、新政府に傭われ、ともに生野銀山の近代化に努めることとなりました。ここの付属学校で学んだ高島北海が、やがてフランスに渡り、アール・ヌーボーに多大な影響を与えることとなるのも、奇妙な縁です。

 明治2年2月、薩摩は陸海ともにイギリス兵制をとることを、正式に決定します。
 これは、あるいはイギリス公使館からの働きかけもあったかと思うのですが、それよりも、幕末以来ずっと、薩摩が海軍を重視していたことが大きいでしょう。
 イギリスとフランスは対照的でして、当時のイギリス海軍、ロイヤル・ネイビーは、欧州で絶対的な優位を誇っていましたが、これに金がかかるので、陸軍は徴兵制をとらず、志願兵制で、規模が小さかったのです。
 一方のフランスは、大陸にありますから、当然陸軍重視で、海軍はとてもイギリスにかなうようなものでは、ありませんでした。
 この時点で、陸軍もイギリス式を、と進言した人物としては、町田にいさん、久成が考えられます。
 イギリス陸軍の演習参加、などもしていたようですので、イギリスの兵制は、十分に見学してきたといえるでしょう。
 町田にいさんと薩摩バンドにありますように、この5月から、薩摩藩一等指図役肝付兼弘は、藩命により練兵法質問のため横浜英国歩兵隊に派遣され、11月まで大隊長ローマン中佐について勉強し、薩摩バンドの結成も決まったんです。

 ところが長州は、陸軍をフランス式にしました。
 理由ははっきりとはわかりませんが、一つには、海軍軽視です。
 明治初頭の藩政改革で、各藩の陸軍は、主にフランスかイギリス、そしてオランダ兵制を採用しますが、薩摩と同じく海軍を重視していた佐賀は、イギリス兵制です。
高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で書きましたが、松島剛蔵の死後、長州海軍には人材がなく、高杉晋作が引き受け、その死後は、前原一誠が継ぎます。
 しかし前原は、政治的力量があるわけではなく、大村益次郎が陸軍の重鎮としてある長州では、海軍はすみに追いやられていた、といえるでしょう。
 ともかく、それで長州は、新政府の兵制もフランス式にしようとするのですが、これは、理由のないことではありません。
 幕府が、フランス陸軍の伝習を受けていましたし、フランス肝いりの横須賀製鉄所(造船所)もあって、幕臣を採用すれば、フランス語やフランス陸軍の知識をもった人材が、けっこういたからです。
 
 ここに、長州VS薩摩の兵制論争がはじまります。
 大陸陸軍を持つのか、それとも海防を重視するのか、国の防衛の基本となることですので、どちらもゆずりません。海陸どちらにお金をかけるか、ということでもありますしね。
 ただ、長州側の言い分を考えるならば、海は薩摩の主張通りイギリスに決めたのだから、陸はゆずってフランスにしようぜ、ということだと思います。
 とはいえ、大陸陸軍をもってしまえば、海軍にかける予算は少なくなりますわね。

 で、降着状態を打破しようと、木戸孝允が思いついた案が、西郷従道を、山県有朋とともに、兵制視察に送り出す話じゃ、なかったでしょうか。(モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟参照)
 この西郷従道と山県有朋の洋行の記録を、見つけることができないんですが、伝記でもさがして読むしかないんでしょうか。
 どうせ、書いていないと思うんですが、二人のあとを追いかけるように洋行した御堀耕助は、モンブラン伯爵といっしょだったんです。
 しかもモンブラン伯爵は、日本のパリ在住総領事として、赴任するところだったのです。
 これは、どう見ても、木戸孝允の作戦勝ちだったでしょう。
 なにしろモンブラン伯爵は、薩摩にフランス式兵制をとれ、と迫っていたのですから。
 しかも、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れvol2に出てきますが、モンブラン伯の「御妹子」が結婚した男爵は、どうやら、フランス陸軍の関係者のようなのです。

 妄想をたくましくすれば、です。
 明治2年3月22日、モンブラン伯爵は薩摩で、忠義公に謁見し、ナポレオン3世から預かってきた品を贈ったことが記録にありますが、それ以降、同年11月24日に横浜から船出するまで、なにをしていたかは、さっぱりわかっていません。
 ただ、この時期、日本とフランスのトラブルとして、ブリュネ大尉以下、函館戦争に参加していたフランス人の問題があります。(函館戦争のフランス人vol1vol2vol3参照)
 これは外交問題に発展していましたから、モンブラン伯爵が仲介に入った可能性は高く、明治初年の京都とともに、木戸孝允がモンブラン伯爵と知りあっていた可能性はあります。
 さらにもう一つ、後に山県有朋の陸軍省汚職に関連して割腹自殺する山城屋和助(長州・奇兵隊出身)が、横浜に店を出しています。明治時代の噂話では、さる人物が函館戦争の様子を外国人からさぐりださせるため、金を出して和助に店をもたせたのだ、というのですが、それを裏づけるかのように、木戸孝允の日記には、明治2年2月4日「薄暮帰寓于時野村道三来り横浜の事を話す」とあるんだそうです。野村三道というのが和助のことでして、和助が来て横浜のことを話した、というんですね。以降、和助の名はちょくちょく日記に見られるそうです(fhさま、ありがとうございました)
 ここで、気になってきますのが、モンブランが持って来たというフランス軍服です。薩摩藩兵がフランス軍服を着ていた、という話は聞いたことがありません。
 和助が買い入れて、長州軍なり、後に新政府なりに納入した、という話は、十分考えられると思うのですが。
 
 西郷従道、山県有朋、御堀耕助の帰国が、明治3年8月2日です。
 8月28日には、山県が兵部少輔となり、西郷従道が権大丞になり、そして長州における唯一の海軍理解者、前原一誠が兵部大輔を辞任します。
 このころ、薩摩藩は、桐野が大隊長を務める1番大隊、野津七左衛門(鎮雄)大隊長の4番大隊、そして大山巌が隊長の大砲隊を東京に出しています。が、大山巌は、普仏戦争観戦のため、8月28日、横浜から船出します。
 で、明治3年9月8日、君が代誕生の謎で述べましたように、越中島で、天皇ご臨席の薩長土肥四藩軍事調練があり、そこで薩摩バンドは、フェントン採譜、編曲の君が代を演奏します。つまり、このとき桐野は、大隊指揮官として、演習に参加していたわけですね。

 その直後、突如として薩摩藩兵は、薩摩へ引き上げ、東京をからにします。もちろん、生まれたばかりの薩摩バンドもいっしょです。
 これは、あきらかに、フランス兵制採用への抗議でしょう。
 桐野たち薩摩藩兵は、9月17日に鹿児島へ帰り着き、「徴兵解免の願書」を提出します。この場合の徴兵というのは、藩兵が新政府に徴兵される、つまり朝廷の御用を勤めることです。
 が、おそらくは、大久保利通と西郷従道の必死の説得があったのではないでしょうか。
 10月2日、新政府陸軍はフランス式となることが公式発表され、同時に薩摩藩でも、陸軍はフランス式に転換することが決定します。
 当時、横浜には、イギリス、フランスの陸軍が駐屯していまして、海軍がイギリス、陸軍がフランスと、フランスに花をもたせることで、引き上げ交渉をうまく進める含みもあったのではないか、というような話も出ています。
 
 大久保利通は懲りたんでしょうね。
 この年の閏10月2日には、薩摩藩密航留学生だった鮫島尚信を欧州公使にしまして、モンブラン伯爵を解任します。(fhさまの前田正名に躓いたこと参照)
 森有礼と鮫島は、ハリスの新興宗教にすっかりはまりこんでいたのですが、薩摩藩が、ひそかにハリスに二人の帰国費用を払い、帰国するようしむけたものです。
 その鮫島が、山城屋和助のパリでの豪遊を怪しいと見て、知らせるんですから、まあ勘ぐれば、イギリスに寺島宗則、フランスに鮫島、アメリカに森有礼と、主要国にいち早く薩摩出身者を配した大久保利通の処置は、兵制論争に敗れた反省からと、とれないこともありません(笑)


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