郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

景福宮と漢字教育

2006年01月01日 | 韓国旅行
あけましておめでとうございます。

元旦で韓国旅行随想をしめくくります。
本日の写真は景福宮(キョンボックン)です。
ツアーには含まれていなかったのですが、時間があったので訪れました。
ソウル市内の宮殿を次々に再建しているその心意気は買うのですが、すでに王朝のない、つまり主のいない宮殿の再建というのは、なんとなく寂しいものでした。

李王朝時代の歴史の記録は、その大部分が漢文です。
先日、水原華城のところで述べましたように、ハングル文は主に、宮中の女性によって綴られたものなのです。歌辞、つまり詩文なんですが、などは、男性でもハングルで綴りますから、『日東壮遊歌』のように、男性によるハングル文が、まったくないわけではないのですが、やはり、ほとんどの文書が漢文なんです。
現在の韓国の国語では、漢文はおろか、漢字をあまり教えません。
しかし、人名はほとんど漢字ですし、例えば景福宮などの歴史建造物を見物しても、漢字の額などがいたるところにあるわけです。
だいたい、景福宮という漢語を、韓国でキョンボックンと読むのは、日本でケイフクキュウと読むのとかわらないわけで、なぜそういう名を宮殿につけたのか、音だけではめでたさがわからなくなりそうな気がします。
これは不便ではないだろうかと、ガイドさんに聞いてみました。
で、ガイドさんがいうには、韓国は高校から弟二外国語があって、日本語、中国語を学ぶ人が多数なのだそうです。したがって、そこで漢字を学んでいるのだと。
なるほど、と納得しつつ、しかしそれでは、韓国語と漢字の縁は切れたまま、ではないのか、という気がしないでもないのですが。
切れてもいいではないか、という意見も当然あるわけなのですが、やはりこれも、寂しいことですね。

珍しくも短く、今日はこれで終わります。
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昌徳宮と李王朝の末裔

2005年12月31日 | 韓国旅行
今年の韓国旅行は、一応、ソウル世界遺産の旅、というようなものでした。それを2日間延長して、水原華城と板門店を追加したんです。
去年、ある日曜日に、突然、高校時代からの友人が訪ねて来まして、なにごとかと思いましたら、延々、ペ氏について語るんですね。
私はペ氏にはなんの興味もなかったのですが、彼女はペ氏の国、韓国にも関心を持ったようで、韓国語まで勉強しはじめたと言います。
それは好都合と、「実はまだ韓国に行ってないのよ。行くならつきあうわよ」と言っておいたところが、年明けに電話がかかってきまして、ともかく行こうと、なったわけです。
2月に、うっかり、「韓国に詳しいおじさんたちに会いに大阪へ行く」ともらしましたところが、彼女曰く、「韓国のネットで、スターのスキャンダルが出回っているんだけど、どれがだれのことかよくわからないから、聞いてきてほしい」。
いや、あのー、そんな、えーと。あのおじさんたちに、スターのスキャンダルの話なんかしても……。
とはいうものの、彼女も少々変わっているのか、「ドラマのロケ地とか行きたいの?」と聞きましたところが、そうでもない、とのことなので、なにやらほとんど、行き先は私の希望したところになってしまいました。
ソウルにある宮殿を見たかったので、結局、世界遺産の旅になった次第です。

ソウル市内には、いくつか李朝時代の宮殿があるのですが、ほとんどのものがごく新しい再建で、世界遺産になっているのは、昌徳宮(チャンドックン)のみです。
ここも、『チャングムの誓い』のロケ地のひとつですが、李王朝最後の皇太子妃で、梨本宮家の女王、方子妃殿下が晩年を過ごされた場所でもあります。
写真は、昌徳宮仁政殿の玉座です。

方子妃殿下が住まわれた御殿は、楽善斎と呼ばれ、遺品などが展示されていると、昔なにかで読んでいたのですが、最初に昌徳宮を訪れた日は楽善斎の公開日ではなく、板門店へ行った日の夕刻、再び訪れました。
ところが、ようやく楽善斎を見ることができて、驚きました。
楽善斎は、1847年、24代憲宗が建てたものです。韓国の宮殿は極彩色で彩られているのですが、この宮殿は民間を模したもので、色は塗られておらず、主に未亡人が住む建物でした。
昌徳宮が世界遺産となったためなのでしょうか。楽善斎も創建当時の姿にもどされていて、遺品はおろか、方子妃殿下がおられたころの面影は、まったくなくなっていたのです。

最後の皇太子だった李垠殿下は、10歳で日本へ留学され、祖国が日本に併合されたために、日本の王族となられ、陸軍に奉職されていました。梨本宮方子女王を妃殿下とされ、生活の拠点は日本でした。現在、赤坂プリンスホテルにある洋館が、戦前は李王家の邸宅だったのです。朝鮮半島に莫大な資産を持っていたため、世界でも有数の裕福な王族であったそうです。
日本の敗戦により、半島は解放されたのですが、アメリカが後押しして大韓民国の大統領となった李承晩は、李王家に連なる家柄で、李垠殿下の帰国を望まなかったといわれます。また殿下ご自身も、政治的に利用されることを嫌われ、日本に留まられた、という話もあります。
ともかく、李垠殿下が祖国の地を踏まれたのは、朴正熙大統領になってからのことで、しかも帰国時にはすでに、脳軟化症で意識が混濁した状態でおられたとのことです。ソウルはこのとき、殿下のご帰国を祝う人並みであふれた、といいます。
殿下が薨去された後、方子妃殿下は楽善斎に住まわれ、福祉事業に打ち込まれて、生涯を終えられました。

楽善斎から妃殿下の痕跡が消し去られた今、日韓近代史のはざまにゆれたその生涯を偲ぶことができるのは、同じく世界遺産である宗廟だけなのでしょうか。
李王朝歴代王族の位牌を祀った宗廟には、さすがに、李垠殿下と方子妃殿下のお名があり、現在ただ一人、お二人の血を引かれる李玖氏は、どうしておられるのだろうか、と、宗廟にたたずんで、ふと思いをはせました。
アメリカに留学して、アメリカ人の女性と結婚され、長期間アメリカで暮らされていたけれども、韓国へ帰国され、離婚されたという話は、なにかで読んでいました。お子はおられません。
ところが、私が日本へ帰って間もなくのことです。李玖氏が、赤坂プリンスホテルで死去された、というニュースが流れました。
李玖氏は、生まれた日本の地へ帰っておられたのです。

なお、併合時代、楽善斎には、純宗の正妃で、李垠殿下には義母にあたられる尹妃が、未亡人となって住まわれておりました。そこには、李王朝最後の女官たちがお仕えしていて、チャングムのような料理女官もいたんですね。
『チャングムの誓い』で、宮廷料理指導をなさったのは、宮廷料理の研究で韓国の人間国宝になった、黄慧性女史の娘さんです。
黄慧性女史は、裕福な両班の娘で、戦前の日本に留学し、帰国して家庭科の教師になりましたが、奉職した女学校の日本人校長から、「あなたは朝鮮人なのだから朝鮮の料理を研究しなさい」と、楽善斎に紹介され、最後の料理女官から宮廷料理を学んだんです。、
黄慧性女史がいなければ、宮廷料理は伝わらず、『チャングムの誓い』というドラマもできなかっただろう、と思えます。
嘘かほんとうかわからないのですが、併合時代のソウルを知る方のお話では、宮殿のオンドルはボタンの花を燃料にしていて、ほんのり甘い花の香りがただよっていたんだそうです。

みなさん、よいお年を。
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板門店とイムジン河

2005年12月30日 | 韓国旅行
昔、韓国へ行ってみたかったのは、朝鮮半島の歴史、それも近代史ではなく、古代史に興味を抱いていたから、です。
時は流れて、なぜかけっこう近代史にも詳しくなり、半島オタクの端の端くらいには連なれるかな、といったところで、急に、板門店が見たくなりました。
といいますか、北朝鮮に行ってみたくなり、その絶好の機会がなかったわけじゃあないんですが、その時は家庭の事情で行けませんでした。
ようやく、なんとか時間がとれるかな、という状態になってみたら、家族が大反対するような状況です。いえ、観光するだけならば危険はないはずなんですが、そんなことを説明しても、北朝鮮へ行くというだけでいやがられそうですし、高い金額を払って、値段のわりには待遇がいまひとつのツアーに、いっしょに行ってくれそうな友人も、身近にはいません。
それならば、とりあえず韓国へ行って、板門店だけでも見ておこう、となったわけです。

北朝鮮旅行に最初に興味を持ったのは、1992年に発行された関川夏央著『退屈な迷宮』を読んで、でした。北朝鮮へツアー旅行で行けるようになった、ということにまず驚いたんですが、その旅行が、旅行というよりは苦行のようで、「疲れたから今日はホテルで休みたい」と言っても休ませてもらえず、強行スケジュールで、向こうの見せたいところばかり無理矢理見せられる、といったツアー解禁当初の状況は、うそだろ~! と目をむきつつ、いや北朝鮮ならば観光客相手でもそうなのかも、と妙に納得したりもしたものです。
小泉訪朝で、金正日が拉致を認めたとき、朝日新聞に載った関川夏央氏の文章は忘れられません。わざわざコンビニまで、朝日新聞を買いに走ってしまいました。たしか、現在『「世界」とはいやなものである』(日本放送出版協会発行)におさめられている一文です。

 韓国は北朝鮮の轍を踏んではならない。それは破滅への道である。すでに先進国水準に達して久しい韓国は、自分の民族主義を相対化しなければならないと考える。国内と対日だけの狭くて深い井戸のなかから出て、中国と、また世界と対峙し共存したらよいと思う。そのためには北朝鮮に対する正当な評価と正当な態度が必要である。
 同民族といい、「ひとつのコリア」といいつづけるのなら、韓国は北朝鮮のテロと、人災としての飢餓の責任を、まさにわがこととして引き受けなければならない。北朝鮮という病気が同民族の体内から発したものと理解しなくてはならない。

ああ、さすがは半島とのつき合いが長いお方、よくぞ言ってくださった、それも朝日で……、と思ったのですが、現実はなかなか、そうすっきりとはいかないままに経緯しています。
今年の2月に、半島に詳しい方たち……、まあ平たくいえば半島オタクの方々と、大阪は鶴橋の焼肉店でオフ会をしたのですが、「北の自壊を促して、嫌でも韓国が北を吸収するしかないでしょ?」という私に、半島とつながりの深いお二人が、口をそろえて、「韓国は絶対にしない」とおっしゃるのです。「韓国は、ようやく先進国並みの暮らしになったんだよ? 北といっしょになって生活レベルを下げることに、国民が耐えられるわけがない」と。
それはその通りですし、だからこそ、韓国の現政権が、なんとか北の現政権を保たせようと必死になっているのはわかっているのですが、関川夏央氏ではありませんが、「南北分断はアメリカや日本のせいで、北とは同じ民族だ」と言い募るのならば、なおさら責任があるでしょうよ、と、釈然としない気分になってしまいます。

韓国へ旅行をしたのは、六カ国協議に向けて、アメリカのライス国務長官が訪韓した直後のことでした。
たしか当時、六カ国協議に北朝鮮が参加を決めたのは、アメリカのステルス戦闘機に平壌上空を脅かされて、怯えたからだという噂がネット上に出回っていて、韓国の米軍基地にステルスがいたことは事実なんですが、半信半疑でした。しかし、北朝鮮に詳しいジャーナリストの惠谷治氏がサピオにそのことを書いておられて、北が暴発しないかぎり、もはや板門店が最前線ではない時代だな、と実感していたのです。

そんなこちらの実感にはかかわりなく、事前に渡された板門店ツアーの注意書きには、「Tシャツ、ジーンズ、衿なし袖なし、ミニスカート、サンダル、スニーカーなどなど、ラフな服装はだめ」とありまして、?????となりました。
えーと、行き先は一応、最前線といわれるところのはず、です。動きやすい服装がだめ? それに、7月です。今どき、真夏の女性の服で、衿があって袖があってって、さがす方が難しい気がするんですが。
なんのためにこんな服装規定があるのかわからず、韓国居住の方などが多いBBSへ行きまして、質問しました。
「パンツスーツにしようかと思うのですが、インナーがノースリーブの衿なしカットソーというのもだめなんでしょうか?」なんぞと書き込みましたところ、さっそく親切なお方が、「OK」と答えてくださいました。なんでも、「韓国はアメリカの退廃文化に染まっている」と北に宣伝させないために、板門店では正装をする、というような伝統があるのだとか、です。

で、当日です。
板門店行きのバスツアーは、それ専門のもので、事前予約した日本人観光客のみを大型観光バス数台に集めて出発します。
ガイドさんの説明では、韓国人が板門店へ行くのは審査があって大変なのだそうなのです。その審査を通過したのか、あるいは在日ならばOKなのか、通路を隔てた隣の席のご夫婦は、関西の在日韓国人のようでした。
なんでわかったか、ですって? 関西弁とパスポートです。
やがて車窓に、南北の国境を流れるイムジン河が見えたときには、これなのねーと、感慨深かったのですが、しかし、ガイドさんが突然カセットを仕掛け、「さあ、みなさん、ごいっしょに歌ってください」と、ザ・フォーク・クルセダーズの『イムジン河』をかけたときには、あらま、と苦笑してしまいました。

『イムジン河』は、日本における半島南北対立の因縁の歌なんです。
リアルタイムで知った話ではなく、人に聞いたり、なにかで読んで得た知識なんですが、1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズというフォークグループが、『イムジン河』という北朝鮮の歌をうたっていました。訳詞は松山猛です。

イムジン河水清く とうとうと流る 水鳥自由に むらがり飛びかうよ
我が祖国南の地 思いははるか イムジン河水清く とうとうと流る

歌は、知っていました。昔、この歌が好きな知り合いがいて、教わったんです。
レコードにはなっていませんでした。
1968年、シングルレコード発売が予定されていたにもかかわらず、突然、中止になったといいます。それは当時、「堕落した西側退廃文化で汚すな」という朝鮮総連からのクレームがあったからだ、といわれていたのですが、現在では、少々ちがうお話が出てきています。
総連のクレームは、訳詞が正確ではないことと、朝鮮民主主義人民共和国という国名と作詞作曲者の名前をちゃんと入れろ、ということで、これに、レコード会社がびびったというのです。
作詞の朴世永は、戦前からのプロレタリア文学者で、南から北へ行った南労党員だったのです。当時の韓国からすれば、裏切り者、であったわけでして、「朝鮮民主主義人民共和国 朴世永」などと名前を入れますと、今度は韓国大使館や民団から強い抗議を受ける怖れがあった、といいますか、実際に圧力を受けてやめた、ということのようです。
ただ、この話も、どうなのだろう、と、私は疑っています。
当初、北朝鮮で歓迎されていた南労党の芸術家たちは、やがて粛正され、かなりの数の人々が、悲惨な境遇に置かれて獄死したり、しているんですけれども、朴世永はどうだったのでしょうか。
そして、この訳詞が意訳であるにしても、これが「南の故郷を恋う」歌であることは、確かなのです。当時の北朝鮮が、この歌を歓迎していたとはとても思えません。朝鮮総連もまた、レコード発売を望まず、難癖をつけてみたのではなかったのでしょうか。
総連と民団と両方が騒げば、それは発売中止にもなるでしょう。

今年、この歌を主題歌とした映画が、封切られましたよね。『パッチギ』です。
朝鮮総連のプロパガンダか、と思える部分がなきにしもあらずでしたけれども、悪くない映画でした。
といいますか、音楽の使い方は、非常にすぐれています。オダギリが歌う『悲しくてやりきれない』に続き、主人公がラジオで歌う『イムジン河』の歌に、在日と日本人の河原での乱闘と、そして、在日と日本人の間の子供の誕生の知らせが重なる……。
ただ、けっこうよかっただけに、もう少し多面的な、深みのあるとらえ方をして、プロパガンダ臭を脱することができなかったものかと、残念でなりませんでした。

話がそれました。
私が観光バスの中で苦笑してしまったのは、作詞者の朴世永が焦がれた南の祖国では、この歌はまったく知られておらず、その南の祖国を訪れた日本人観光客のためにのみ、イムジン河のそばで歌が流されている図が、なんとも奇妙なものに思えたからです。

板門店でもっとも印象的だったのは、若いアメリカ兵の笑顔です。
米軍は念願かなって、大多数が板門店から引き上げたのです。
わずかな数が残っているのですが、変わって重責を担った韓国兵が、堅く、緊張しきった様子なのにくらべ、アメリカさんは、実にお気楽な感じで、ニコニコとバスに手を振ってくれたので振りかえしましたが、緊張したその場の空気とのアンバランスが、ちょっと不気味ではありました。

板門店では、服装だけではなく、「並んで整然と行動してくれ」だとか、細かいことは忘れましたが、あれこれと注意が多く、あるいは乗客から文句でも出たのでしょうか。
といいますのも、私たちの前に、アメリカ人の観光バスがいまして、こちらは服装もラフで、あまり注意深く動いている様子はなかったんですね。
ともかく、ガイドさんは、必死になって、「ここではアメリカが一番強いから」とか「みなさんは韓国人に見えるから、なにか事が起これば韓国人と同じに攻撃される」とか、説明なさってました。
そのあたりは、私もおとなしく聞いていたのですが、しかしガイドさんが、「最近では北朝鮮側にも観光客が来るようになっていますから、北の一般の人たちも、ここで遠目ながら韓国側の観光客を見て、様子を知るようになっています」と言い出したときには、さすがにばかばかしくなりまして、つい友達に、「北の一般人が板門店観光になんか来るわけないじゃない、ねえ。北側の観光客なら、中国人か日本人か在日が多いし、北の人で来られるのは特別な人たちだけよ。板門店観光は、北の方が自由にさせてくれるって」としゃべってしまいました。
いえね、北朝鮮旅行記は、ネットでも読んでいましたし、北朝鮮側から板門店へ観光に行くと、かなり自由に行動させてくれるようなのですね。
私は、そう大きな声でしゃべったわけではないので、聞こえたはずはないと思うのですが、他にも私のようなオタクがいらしたのでしょうか。
どこかを見学し、再びバスが動き出したとき、ガイドさんは、「知らなかったんですが、日本の方は北の板門店ツアーにも参加できるんですね。韓国より自由に観光できるというお話ですが……」とか、説明と言いわけをはじめまして、あらら、と肩をすくめました。

写真は、板門店国境のプレハブ小屋で、テーブルの旗の位置が国境なんです。
この小屋は、南から観光客が入るときは韓国兵が中を警備し、北から観光客が入るときは、北朝鮮兵が警備するのだそうです。
この日、北側からは軍人さんが見学に訪れていたのですが、私たちと時間が重なったため、プレハブ小屋へは入れないで帰りました。

なんだかんだと、ガイドさんには迷惑な客だったでしょうけれども、広大な緩衝地帯に生息する野鳥の群を見せてもらい、しかしそこは地雷原で、統一がなってもすべての地雷を取り除くには多大な時間がかかるだろうだとか、緩衝地帯の中だったかすぐそばだったかにも村があり、そこの村人は軍の護衛付きで耕作していて、地雷除去の名人だとか、初めて聞くお話もたくさんあって、行ったかいがありました。

ガイドさんは、「生活レベルが下がっても私は統一を願う」と断言しておられましたが、ぜひ、そうあってください。私も心より、そうあれかしと祈っております。
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水原華城と李朝大奥実録

2005年12月29日 | 韓国旅行
今年の夏は、念願の韓国旅行に行ってきました。
かなり若いころから、一度行きたいと思いつつ行ってなかったのですが、友人がペ氏にはまりまして、連れはできましたし、今のうちに板門店を見ておかなくてはと、決意した次第です。
見たかったのはまず板門店ではあったのですが、世界遺産の水原華城(スウォンファソン)に一日を費やしたんです。

水原華城は李王朝の後期、1794年に築城を開始して3年足らずで完成、といいますから、維新の70年ほど前で、将軍家斉のころです。城といっても、城壁と言った方がいいでしょうか。華城行宮という宮殿を中心とする市街地を、およそ5.7キロの城壁が取り巻き、その各所に、城門や見張り台などがあるんですね。
宮殿を行宮というのは、当時、ソウルから遷都するつもりがあったそうなのですが、結局とりやめになり、王が常に住まわれたことがないから、のようです。
遷都がなかったため、水原華城は長く放っておかれて自然に崩れた上に、朝鮮戦争で完全に破壊されたのですが、詳しい図面が残っていて、1974年、朴正熙大統領の時代に、再建されたものです。
華城行宮はつい先年に再建がなったところで、NHKで放映されている韓国大河ドラマ『チャングムの誓い』のロケにも使われました。

韓国へ行くというので、それならばと、半年ほど買うのを迷っていた本を買って読みました。

梅山秀幸編訳『朝鮮宮廷女流小説集 恨(ハン)のものがたり』(総和社発行)

日本でも、平安時代、ひらがなによって王朝文学が生まれたように、時代は大きく下るのですが、ハングルという表音文字が作られたことによって、李王朝に女流文学が生まれた、というんですね。いったいどんなものだろう、と、読んでみたかったんですが、五千円というけっこうなお値段でして。
読んだ感想ですか? うーん。
小説といっても実録で、フィクションじゃないんです。三編が収録されているのですが、どれも、王妃や王太子妃といった高貴な女人が政争に巻き込まれて、いかにひどい目にあったか、いかに競争相手が不正で邪悪で、自分たちは行い正しかったかを、恨みをこめて延々書き連ねてあるんですね。政治的な主張の書、でもあり、ちょうど、日本がいかに邪悪で、正しくりっぱな自分たちが悲惨な目にあわされたかを、延々書き連ねている韓国の歴史教科書に、気分が似てます。

三編とも著者は、高貴な女人その人か、あるいはその周辺の高級女官か、といわれているそうです。
ともかく、『源氏物語』や『枕草子』、『更級日記』などなどを期待すると、文学的な趣がなさすぎて……、ちょっとげんなりしてくる代物です。
清少納言が、自分の仕えた定子中宮がいかに貞節かつ親孝行で、にもかかわらず一族もろともどれほど悲惨な目にあったか、藤原道長側がいかに邪悪で、やることがきたなかったか、ということばかりを、恨みを込めて書き連ねているようなものなのです。
しかし、文学じゃなくて実録、と思い定めれば、興味深く読めまして、まあ、李王朝大奥独白録、という感じでしょうか。
やはり、時代が下るにつれ、ハングル文がこなれてくるのでしょうか、三編のうち一番読み応えがあり、記述に客観性が出てくるのが、荘献世子の正妃で、正祖の実母だった恵慶宮洪氏本人が綴ったといわれる『閑中録』です。

実は、水原華城を作ったのは、この正祖なんです。
若くして米櫃に閉じこめられて餓死させられた父、荘献世子の遺骸をこの水源に祀り、亡父のそばに遷都したい、ということだったんですね。
荘献世子を餓死させたのは、その父の英祖で、恵慶宮洪氏は、夫の無惨な死を間近で見守るとともに、陰惨な権力闘争にもまきこまれ、自分の息子が世継ぎになったにもかかわらず、長らく閉塞をよぎなくされます。
成長した正祖は、亡き父への追慕の念深く、日陰の身のままで年老いた実母にも孝心を持ち、完成した水原華城へ母を伴い、大宴を催します。
写真は、現在、華城行宮に人形で再現されている、そのときの恵慶宮洪氏と女官です。

ともかく、『閑中録』を読んで間もなく歩いた水原華城には、恵慶宮洪氏の恨みの念が……、恨(ハン)二百年、漂っているような気がいたしました。

あー、ご参考になるかどうかわかりませんが、水原へは、ソウルから車を雇って、日本語ガイドさんつきで行きました。個人一日ツアーというやつですね。
水原の名物はカルビなんですが、食べあきましたので、昼食はカルグクス(うどん)と饅頭(餃子と肉マンのあいのこみたいなもの)が食べたい、とリクエストしましたところ、華城行宮の近くで、ガイドさんが店をさがしてくれました。
大衆食堂といった感じの地味な店で、ハングルのメニュー書き以外なにも表示がなく、ガイドさんがいなければ、そこがカルグクスと饅頭の専門店だとは、とてもわからなかった店です。実に美味、かつ安価でした。
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