郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ』と史実◆最後に萩へ行ってきた!

2016年01月03日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 あけまして、おめでとうございます。
 珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道の続きです。

 実は結局、珍大河「花燃ゆ」、見るのをやめてしまいました。
 時系列が無茶苦茶なのを、いちいち指摘するのも面倒ですし、明治元年から西南戦争までに関しましては、かなり詳しく調べているつもりの私にとりましては、いったい、どこの国のお話???と聞き返すしか、ない感じで、うんざりも極地に達しました。ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが生み出した妄想としか思えない異世界なんです。

 見るのをやめて、しかし、二ヶ月に一回、母がショート・ステイに行くようになりましたので、もう一度萩へ行きたい! という思いが募りまして、中村さまをお誘いしましたところ、来てくださるとのこと。11月の末に行ってまいりました。
 目的は複数ございましたが、一つは、「花燃ゆ」の放送が決まって、去年、萩に建ちました久坂玄瑞の銅像を見ること。冒頭の写真がそれですが、台座にはちゃんと、寄付なさった知り合いの方の名前が刻まれておりました。

 続・久坂玄瑞の法事唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』に書いております京都東福寺退耕庵での法要でいただきました明治維新防長殉難者顕彰会の会報が、なぜか先日、タイミングよく蔵書の間から出てまいりまして、しみじみその会員名簿を見ておりましたら、久坂恵一氏と並んで安倍晋三(現首相)氏の名もあります。

 このとき、久坂恵一氏が吟じておられました七言古詩も掲載されておりましたので、以下、ご紹介します。

 堺町門頭剣戟光 銃弾飛来修羅狂
 勇魂奮起長州勢 暫且交戦分彭殤
 王子渺茫都如夢 苔碑不語断人腸
 首級厚葬上善寺 越候懇誠伝今芳


 禁門の変におきまして、越前藩士の手により、鷹司邸近辺で戦死しました長州藩士の首が、京都上善寺に葬られたのですが、久坂の首もその中にあった、という話が、どうもあるようなんですね。
 その中の一人は、入江九一ですが、私、今回調べ直すまで、珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」に書きましたように、高杉の素っ頓狂な従兄弟にして弟高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 参照)の南貞助が、入江の最期に近いときそばにいたとは、さっぱり存じませんでしたわ。
 久坂玄瑞全集を見直してみれば、確かに、そう書いてあったのですが、気づいてなかったといいますか。

 それで、さっそく南貞助の自叙伝を手に入れました。これ、なんで東大の史料編纂所にしかないのかと思いましたら、貞助の息子の春峰が、弟や妹に父の遺品を分けるにおいて、ごく少部数、謄写版で刷って配ったものなんだそうなんです。刷った数が少なすぎまして、山口の図書館や文書館にもありませんし、国会図書館にもありません。
 
 ともかく。
 今回の旅、最大の目的は、団子岩から夕日を見ること、でした。
 なにしろ一昨年、スイーツ大河『花燃ゆ』と妹背山婦女庭訓に書きましたように、突然、団子岩で文さんの声を聞いた気分になりまして、久坂のそばで永眠できなかった文あらため美和さんの晩年の無念の思いを伝えたい、と思っちゃったんですね。



 時雨れていまして、決していい天気ではなかったのですが、奇跡的に、日の入りの時刻、雨はあがりました。


合本 世に棲む日日(一)~(四)【文春e-Books】
司馬遼太郎
文藝春秋


 司馬遼太郎氏の「世に棲む日日」は、現在(執筆は昭和44年・1969年)の萩、松本村を、司馬氏が訪れるところからはじまります。
 著者が作品中に顔を出します司馬氏のドキュメンタリー風の小説スタイルは、このあたりからはじまったのではないのかなあ、と思うのですが、すばらしい臨場感をかもしだします半面、「司馬氏の書くことは全部史実」といいますような、あらぬ誤解を生む原因ともなったのではないでしょうか。

 しかし、私は若き日に「世に棲む日日」を読むことによって、松陰と長州の幕末に強く関心を抱くことになりましたし、やはり司馬氏は、稀代の文筆家だったと思わずにはいられません。
 いま、あらためて冒頭の紀行文を読み返してみますと、海原徹氏や青山忠正氏、その他諸先生方の著作により、今回新たに得た知識と照らし合わせて、ちょっとしたまちがい、といいますか、勘違いのようなものはちらほら見受けられるのですが、やはり、肝心な点は抑えておられます。

 松陰一家の中心にいたのが母親の滝であることを、司馬氏は明快に記しています。
 松陰の実家・杉一族の墓所が集まります団子岩のことも書いておられますが、ただ、その墓所のそばにあります松陰が生まれた山屋敷を、滝さんが貧乏士族・杉家への嫁入りに際して、持参金のように持ってきたことは書いておられません。
 城下の大火で焼け出されました杉家は、そもそも親戚を頼って郊外の松本村に住むようになったわけでして、まわりは決して百姓の子ばかりではなく、親戚の士族ばかり、といってもいいような状態です。
 しかも、これまでこのシリーズで書いてまいりましたが、長女の千代さん、次女の寿さんの嫁入り先は、団子岩に近い弘法谷ですし、文さんの夫・久坂は、杉家に同居(私は団子岩の山屋敷で新婚生活を送ったのでは?と思っています)ですし、玉木家、吉田家もごく近所でした。

 「世に棲む日日」の影響もあり、私自身、もしかして、これまで誤解していたかなあ、という気がしておりますのは、当時の長州藩士の家のあり方です。
 士族の「家」といえば、男系の血を重んじ、嫡男が受け継いで守っていくもの、というような概念を持っていたのですが、しかし、杉家とその周辺を詳しく知り、考えてみましたら、かなりちがうんですね。
 確かに、通常は長男が家を継ぐわけですが、当時の医学水準では、幼児のときに死んでしまうことが多いですし、中級以下の大方の士族は妾を持ちませんし、とすれば、男の子が生まれない場合も多く、また生まれても、健常ではないこともけっこうありました。

 藩士の「家」とは、公務員の職を家業として受け継いだ「株」のようなものでして、幕臣や薩摩藩では、売買もされていたのですが、長州藩がどうだったのか、詳しくは知りません。
 しかし、そうであったとすれば、まず守るべきは血筋ではなく、そういう意味での「家」なんですね。

 松陰の父親は、杉家の長男でしたが、優秀だったその弟二人が、吉田家と玉木家を継ぎました。
 これによって、杉家にとりましては、吉田家も玉木家も、守るべき「家」となります。
 
 杉民治は、長男で杉家を継ぎますが、その長男の小太郎は、杉家ではなく、松陰亡き後の吉田家を継ぎます。
 小太郎が萩の乱で戦死をした後、わずか2歳の民治の娘が継ぎますが、すぐに病死したため、結局、吉田家は、長女の千代が児玉家に嫁いで産んだ庫三が継ぎます。
 この庫三、実はそれまで、次女・寿の嫁いだ小田村家の養子になっていまして、小田村家の次男・道明は、これまでさんざん書いてきましたように、三女・文の嫁いだ久坂家の養子になっていました。
 なお、これも以前に書きましたが、小田村家の長男は健常者ではなく、家督が継げる状態では、なかったようなんですね。
 また、玉木家の長男(文之進の実子)が戦死しました後、玉木家の養子となりましたのは、乃木希典の弟ですが、これに民治の娘が嫁いで、一粒種の跡取りを産んだような次第です。

 なにが言いたいかと言いますと、女系の血もけっこう重視されまして、姉妹で養子のやりとりはよくあることですし、杉家を中心とします一族を、明治になってからも守りましたのは、杉民治とその姉妹の血の絆だったわけですし、そしてまた、嫁いで来た女性たちの経済力が、それをささえもしました。
 滝が山屋敷を持って嫁いできたことは、先に述べましたが、松陰の叔父にして義父、吉田大助に嫁ぎました久満は、庄屋・森田家の娘で、現在、玉木文之進旧宅として伝えられています家を、持参金のようにして吉田家にもたらし、夫が早くに病死した後、実家の森田家で暮らしながら、しかし、吉田家から籍はぬかず、養子に迎えた松陰への援助を欠かさなかったといわれます。

 

 明治5年に病死しました久満さんは、団子岩の夫の墓のそばにちゃんと葬られました。

 久満さんのお墓の奥に見えているのは、高杉晋作のお墓なんですが、珍大河『花燃ゆ35』と史実◆高杉晋作と長州海軍で書きました民治さんの墓碑銘、これを確かめることも、今回の旅の目的の一つでした。



 読み辛い状態でしたけれども、ちゃんとありました!

 で、明治になっても、民治さんと姉妹たちは、一族に松下村塾生まで加わった団子岩の墓所を守り、萩を愛して生涯を終えたのですが、ふと、私は考えるんです。
 萩で生まれ育ったことを誇りとしていました松陰は、果たしてあの世で、自分の弟子たちがなした明治の極端な中央集権化を、喜んでいただろうか、と。
 
 翌日。
 実は久満さんの実家の森田家の建物は、今に残っていて、国指定の重要文化財に指定されています。(森田家住宅 江戸時代 上層農家として貴重[国指定重要文化財]参照)
 現在も個人住宅として使用されているような話で、あらかじめ連絡をしていなければ内部は見ることができない、というように書いてあたのですが、外部だけでも、と、タクシーで出かけました。
 タクシーの運転手さんのお話では、森田家住宅へ客を乗せたのは5年ぶりだそうでして、どうも、よほどのオタクでなければ、松陰の義母の実家を見たいとは、思わないようなんです。

 

 郊外の山の中にありまして、確かに、訪れる人もまれな雰囲気です。

 

 内部は見ることができない、と覚悟していたのですが、この重要文化財を、現在お一人で守っておられる(近所に住む義妹の方の力も借りて、だそうですが)ご夫人が出てこられて、中村さまが東京から来たと話されますと、大歓迎でご案内くださいました。現在、80歳になられるそうなのですが、おきれいで、実に品のいいご夫人です。森田家の末裔にして、東京で勤めておられたご主人の退職にともない、なんと! 20年前、60歳にして、初めて萩の郊外に住まうことになられたのだそうです。東京生まれの東京育ちで、慣れない暮らしが続くうち、ご主人は逝去され、ご自身も大病を患われ、ともかく、東京の空気がなつかしい、というようなことをおっしゃられました。

 

 上が母屋の外観ですが、中へ入ったところの土間には、松陰も乗ったといわれる駕籠があります。

 

 鷹狩りに際して、藩主を迎えるためにしつらえられた座敷です。七卿の一人、澤宣嘉をかくまっていたこともあるそうでして、書き物が残っています。




 うまく撮れなかったのですが、その座敷から眺める庭です。



 森田家のご夫人のご子息は、東京にお住まいなのだそうなのですが、凜として伝統を守っておられるご夫人の姿に、頭が下がりました。

 他にも、色々とまわりはしたのですが、平日で、天気が悪かったにもかかわらず、一昨年のゴールデンウィーク、山本氏にご案内いただいたときよりも観光客は多く、やはり「花燃ゆ」効果はあったみたいです。
 とはいえ、明倫館跡にできていました「花燃ゆ」ドラマ館はけっこう賑わっていたのですが、そこから歩いて10~15分ほどの萩博物館には、それほど来場者はいませんでした。
 まあ、大河観光効果とオタク旅は、まったく別のものであるようです。


 
 萩博物館で、長州ファイブと写真を。怖いですね、私。

 朝ドラもねえ。
 五代友厚が薩摩辞書を作ったなどという言わなくてもいい大嘘を、わざわざ言いますし、なにより、明治初期の筑豊炭田のあまりにも嘘っぱちな描き方に嫌気がさして、見るのをやめました。明治10年代、曾祖父が働きに行っていましたので、けっこう調べたんです。
 明治初期の筑豊は、ごく小規模な露天掘りが多く、九州、四国の士族たちが、秩禄公債をつぎこんで開発しているんですね。

 最初に筑豊が好景気にわきましたのは、西南戦争です。
 軍需物資や兵隊を運ぶために、蒸気船を使いましたので。さらなる筑豊の発展の画期は、日清戦争。
 はっきり申しまして、文明開化とは、西洋近代的な戦争をすることでした。戦争なくして、産業の発展はありません。
 またごくわずかな陸蒸気なんかで、石炭消費量がのびるわけがないですし、明治初期の西日本は、通常の交通手段も船です。

 実際の広岡浅子が筑豊炭田に手を出しましたのは、明治17年ころで、しだいに開発者が大手に集約されてきまして、うちの曾祖父などは松山へ引き上げてきた時期ですのに、ドラマでは明治初年に設定したおかげで、もうトンチンカンもいいところ。まったく、見る気を無くしました。

 実を言えば、楫取素彦が群馬県知事になりましたのも、はっきり言いまして、井上馨と三井がらみ、としか思えませんし、生糸と西洋式軍隊と汚職の開国日本、といいます、このブログの大テーマにつながるのですが、珍大河は、どーでもいいような、いいかげんな描き方しかしていないようでして、録画しましたものの、おそらく、これからも見ることはなさそうです。

 今度の大河、真田丸は、もしかして、おもしろいかなあ、という気がしています。
 戦国時代はろくに調べたことがないですから、気楽に見ることができますし(笑)

 
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コメント (4)
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