郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下

2010年08月25日 | 森有礼夫人・広瀬常
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上の続きです。
 
 下の犬養孝明氏の著作は、森有礼の伝記として、簡潔に、かなりうまくまとめられていると思います。適宜、参考にさせていただいております。

若き森有礼―東と西の狭間で
犬塚 孝明
鹿児島テレビ


 明治12年末、有礼は特命全権イギリス公使となり、常と、長男・清、次男・英、二人の子供も同行。13年のはじめにロンドン着。明治17年に帰国するまでの4年間をロンドンで過ごし、常の不倫があったとすれば、この間のことです。
 さて、常はこのロンドン時代に、磯野計と知り合ったものと思われます。
 以下は、竹越與三郎著「磯野計君傳」より、です。

 磯野計は、安政5年(1858)生まれ。常より3つ下です。津山藩士の次男として、現在の岡山県津山市に生まれました。
 津山藩は、蘭学者・箕作阮甫の出身藩で、阮甫の養子・秋坪、孫の麟祥と、著名な洋学者を排出しています。
 計は、明治元年、10歳(数えで11)で神戸へ出て箕作麟祥の英学塾で学び、翌2年、藩の留学生となって東京へ行き、秋坪、麟祥の塾へ入りました。翌3年には、藩の貢進生に選ばれて大学南校(東大の前身)に入学。南校が開成学校と名を改めた明治7年、アメリカへ少年期留学をしていた大久保利通の長男・利和と次男・牧野伸顕が帰国し、入学してきました。「牧野 伸顕 回顧録〈上巻)」によれば、このころの開成学校は全寮制で、受業はすべて英語だったんだそうです。計は、一つ年下の大久保利和と非常に仲良くなり、生涯、友情が続きます。
 また、開成学校の関係者は、森有礼と福沢諭吉が中心になってはじめた明六社に多くかかわっていまして、有礼が新聞記者を招いて派手に喧伝した常とのシビルウェディングは、もちろん計も知っていたでしょう。

 開成学校は、明治10年東京大学となり、12年、計は法学部を卒業します。
 東大の法学部です。通常は官吏になるのですが、反骨精神が旺盛だったんでしょうか。計は、友人数人と、当時あまり高級な職業とはされていなかった代言人(弁護士)となって事務所を開きましたが、これはあまり上手くいかなかったようです。翌13年、三菱商会が優秀な人材を英国留学させるという試みに推挙され、イギリスへ渡ることになります。
 岩崎弥太郎が海運を中心に始めた三菱商会は、大久保利通、大隈重信の引きを受け、征台と西南戦争の輸送、商品納入で事業拡大し、さらなる発展のために、東大出の人材確保をめざし、留学投資をはじめていました。
 さて、22歳にしてロンドンに到着した計は、法学を学ぶのではなく、自らの意志で、回船仲立ち業のノリスエンドジョイナー商会へ見習い書記として入社します。実地で、商務を覚えようというわけです。
 当時のロンドン在留邦人は、そのほとんどが公使館官員や留学生で、商業にたずさわるものはごく少なく、会合して議論するたびに、官員および官費留学生と、私費留学生および実業家の間に対立があったんだそうです。前者の中心は末松謙澄。伊藤博文に見込まれて、公使館の書記生名目で、ケンブリッジに官費留学していました。後者の中心が計で、藩閥政治批判を展開し、末松謙澄と討論することしきりだったんだそうです。ところで、ちょうどこのとき、牧野伸顕も公使館の書記生になってロンドンに来ていたんですが、回顧録に末松は出てきても、計は出てきません。兄の大久保利和とは親友だった計ですが、弟の牧野はちがったみたいです。

 計の帰国は、有礼・常夫妻と同じ年、明治17年です。
 ところがこの計の留守中に、三菱商会は苦境に陥っていました。明治14年の政変で大隈重信は政府から追われ、翌15年、井上馨を中心とする長州閥が、三井を使って半民半官海軍会社・共同運輸を起こし、運賃値下げ競争による三菱つぶしをねらってきたんです。
 帰国したものの、三菱に連なる計の起業は不可能な状態にあり、計は一時、外国語学校(一橋大学の前身)の教授を務めますが、明治18年、岩崎弥太郎の死去にともない、政府の仲買で、三菱の海運部門と共同運輸は合併し、日本郵船となりました。これによって計は、三菱色の濃い日本郵船に働きかけることが可能になり、船舶へ物資を納入する商店を開くことができたんです。
 その開店の年の暮れに、計は広瀬福子と結婚したわけでして、このときにはまだ計の事業は小規模なもので、福子の結婚は玉の輿というようなものではなく、苦労を共に分かつ覚悟を持ってのものだったでしょう。
 ところが翌明治19年、結婚生活1年にも満たず、福子は生まれたばかりの女の子を残して、世を去ってしまうのです。以下、「磯野計君傳」から引用です。
 
 「(福子は)磯野君に嫁して後も、夫君に仕ふること静淑で、夫婦の仲は人の羨むほどのものであったが、十九年九月十九日一女を生み、分娩の後、五日にして病を得て不帰の人となった。その寿は僅かに二十二才であって、その遺骸は久保山の墓地にクリスト教の儀式に従つて葬られた。磯野君は琴絃を弾じて別鴻を傷み、股釵を折つて分鸞を悲しみ、孤児菊子嬢を他人に育養せしむるに忍びず、再婚せずして終つた」

 計は、この11年後、明治30年の冬に、急性肺炎で妻の後を追いますが、その間、再婚しなかったんです。
 常の離婚は、書類上、明治19年11月28日ですから、菊子が生まれて福子が死んだ三ヶ月ほど後です。
 離婚の4ヶ月前、同年7月13日には、有礼の父親が死去していまして、おそらく、なんですが、有礼の父は、初めての女の子の孫の誕生を、とても喜んでいたのではないか、と思うのですね。「青い目」といいますが、例え常夫人のロンドンでの不倫の噂が本当だったにしましても、イギリス人の目がかならずしも青いわけではなく、赤ん坊が混血かどうかなんて一目でわかるものでもないでしょう。で、もし有礼に身に覚えがなかったとしましたら、有礼にだけは、不倫の子だとわかるわけですわね。
 もしそうだったとしまして、常にとっては、義父が死去した直後、離婚話が本格化したときに、妹の福子が幼子を残して産褥死した、ということになります。

 常は離婚してしばらくの間、計のもとで、残された姪の菊子のめんどうを見たのではないでしょうか。
 福子が三女だというのですから、常には他にも姉妹がいたことになりますが、早世していたかもしれませんし、父親の秀雄が森家の執事のようなことをしていたということは、他に頼るべき親族はいなかったのではないか、と考えられます。
 「青い目」と噂された常の女の子が、最終的に高橋家に養子に出ていますのは、従来、「子爵となって再婚する有礼の体面上、甥の籍に混血児があっては差し障りがあって、赤の他人に養女に出した」と、森家の都合として考えられることが多いのですが、私は、常が自分の手元に引き取るために、とりあえず広瀬家の知り合いの家の籍に入れてもらったのでは、と思ったりします。
 幼い女の子をかかえて、一人で身を立てようとしたとき、常は、混血の女医、楠本イネを思い出しはしなかったでしょうか。
 これから幸せになるはずだった妹の、あまりにも早すぎる産褥死も、十分な動機になりうるでしょう。
 そして、離婚の前年、明治18年には、常より三つ年上の荻野吟子が、苦難の末、女性で初めて、国が施行する医師開業試験に合格し、正式に医者になっていたのです。

 当時まだ、女性が医者になるために、学ぶ場は少なかったのですが、後に初めての女子医学学校を東京に設立した吉岡弥生の例からしまして、明治20年代には、済生学舎(日本医科大学の前身)が女性を受け入れていましたし、また、荻野吟子はじめ、開業試験に合格した最初の三人の女性は、とりあえず、産婆を養成する紅杏塾で学んだといわれます。
 紅杏塾は、東京医学校(現在の東大医学部)の最初の卒業生・桜井郁次郎が開いていたもので、産婆学校とはいえ、物理学化学、解剖・生理・病理の基礎も教えていて、明治16年には東京産婆学校と名をかえ、19年にはアメリカへの女子留学生も送り出していました。

 実は、磯野計は、明治28年8月から翌29年5月まで、起業当初からの部下だった「広瀬角蔵」を同道して、事業拡張のため欧米諸国を巡遊しています。森有礼夫人・広瀬常の謎 前編で藪重雄の養子先を検討してみましたように、「広瀬」だけで決めつけるのは危険なんですが、あるいは、常と福子姉妹の若い親族だった可能性がなきにしもあらず、ではないでしょうか。
 そして、常がもし、明治31年からグラスゴウ大学に籍を置いたモリ・イガだとしますと、それ以前にいたサンフランシスコのクーパー・カレッジ入学は、計の欧米行きに同行して明治28年9月だったと考えれば、時期がぴったりなんです。
 計はこのころ手広く事業をやっていまして、サンフランシスコにももちろん、創業以来のなじみの取引先があります。
 そしてなにより、グラスゴウには、リチャード・ブラウンがいました。

 ブラウンはスコットランド系のイギリス人で、商船の船長として明治2年に来日し、前回書きました灯台局のお傭い外国人となり、7年間、灯台船舶長を務めました。その間の明治7年、征台において、輸送を約束していました英米船舶が参加を禁じられ、大久保利通と大隈重信は、急遽、グラバーの協力を求めて蒸気船を三隻買い求め、それを三菱商会に託して、指揮はブラウンに任せ、兵員と物資の輸送をやりおおせました。これが、先に述べました、三菱商会が海軍業で大きくなる最初のきっかけだったのです。
 その後ブラウンは、新設の海運局で航海に関する規則制定に尽力し、大久保が民営海運保護育成政策をとったのに呼応して、三菱商会に入社します。入社後は、三菱商船学校(東京商船大学の前身)を設立して商船員の養成に務め、また船舶修理や造船にもつながる三菱横浜製鉄所の設立、グラスゴウの造船所からの船舶購入にも活躍し、しかも西南戦争においては、全面的に政府に協力して、三菱商会飛躍に大きく貢献しました。
 日本の海軍業におけるブラウンの業績は大きく、前述しました経緯で日本郵船が誕生しましたとき、ブラウンは理事格で迎え入れられます。

 明治22年、ブラウンは帰国を決意して退社しますが、そのとき、グラズゴウ在日本領事に任命され、親日家として、生涯日本との関係を保つのです。
 帰国後のブラウンは、グラスゴウで日本領事を務めながら、日本育ちの長男とともに、日本郵船と東京海上保険の代理店を運営します。
 計は、ブラウンが日本にいたときから親しくしていて、帰国したブラウンと協力して、明治屋とは別に、機械や鉄材を扱う輸入商社・磯野商会を起こすに至りました。
 磯野家とブラウン家の関係は長く続き、計の死後、遺児・菊子と結婚して磯野家に養子に入った長蔵も、そしてその息子も、グラスゴウへ長期修業に出かけ、ブラウン家に滞在したといいます。

 で、あれですね。残る問題は、「常夫人は、ほんとうにロンドンで不倫をしたのか?」ということなのですが、離婚理由としては、やはり、それ以外には考えられない気がするのです。
 そしてむしろ、養女に出されました高橋安が、その結果生まれた混血の女の子であればこそ、常は安のために一人立ちを志し、グラスゴウ大学医学部に留学するまでのがんばりを見せたのではないのかと、そんなふうにも思えるのです。
 しかし、なぜ不倫をしたのかという話になりますと、これはもう完璧に妄想の世界ですし、森有礼という人物を男としてどう見るか、という、独断と偏見のオンパレードになりそうです。
 私、実像を考える、なぞという柄にあわないことをしまして、欲求不満がたまりにたまりましたので、次回、番外編で、思いっきり、常と有礼の結婚を妄想します。

 ところで、ネットで見ましたところ、このシリーズの最初に触れました植松三十里氏の「美貌の功罪」は、どうも「辛夷開花」と名を変え、9月に単行本として出されるみたいですね。楽しみに待ちたいと思います。


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森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上

2010年08月25日 | 森有礼夫人・広瀬常
 森有礼夫人・広瀬常の謎 中編の続きです。
 
 このシリーズは、森本貞子氏の小説「秋霖譜―森有礼とその妻」が、どこまで常夫人の実像を反映しているのか、というお話です。
 これも、鹿鳴館のハーレークインロマンスですでに書いていることなのですが、下の本ですでに、森本氏は「グラスゴウ大学医学部に留学していた日本人女性モリ・イガは、離婚後の常夫人ではないか?」という推測をされていまして、またこちらは常夫人が主人公ではないだけに、かなり事実に即した書き方をされています。
 前々回、「常夫人と森有礼の離婚は、記録の上で明治十九年十一月二十八日」と書いたのは、下の本によるのですが、基の資料は、木村匡著「森先生傳」であろうと思われます。
 
女の海溝―トネ・ミルンの青春 (1981年)
森本 貞子
文藝春秋


 常夫人に関しては、わずかな資料しかないのですが、その一つが、1972年発行、大久保利謙編、森有礼全集の伝記資料です。
 まず、森有礼と有礼の甥・横山安克の戸籍に、常、および「青い目」と噂された常の娘・安が出てきます。これらの戸籍の実物を、森本氏が森家のご子孫のご協力を得てさがされたそうなのですが、見つからなかったといいます。

(森有礼戸籍)
 妻 常 安政二年七月生 東京府士族廣瀬秀雄長女
 長女 安 明治十七年十二月八日生 明治二十年五月七日仝町士族横山安克養女トナル

(横山安克戸籍)
 養女 安 明治一七年十二月八日生 當県士族森有禮長女
 明治二十年五月七日仝町百十一番仝居ヨリ入籍
 明治二十年九月十九日東京府南豊島郡原宿村貳百九拾六番戸
 平民高橋尊太郎江線女(ママ)



 森有礼全集の伝記資料には、明治8年2月6日に行われた、有礼と常の結婚式の資料もあります。
 二人の結婚式は、もちろん有礼の発案なんでしょうが、東京府知事・大久保一翁を立会人としたシビルウェディングです。
 福沢諭吉を証人とする婚姻契約書をはじめ、招待状、新聞記事などが集められています。そのうち、二人の年齢がわかります契約書冒頭部分が、以下です。

 現今十九年八ヶ月ノ齢ニ達シタル静岡縣士族廣瀬於常同二十七年八ヶ月鹿児島縣士族森有禮各其親ノ喜許ヲ得テ互ニ夫婦ノ約ヲ為シ今日即チ紀元二千五百三十五年二月六日即今東京府知事職ニ在ル大久保一翁ノ面前ニ於テ婚式ヲ行ヒ約ヲ為シ双方ノ親戚明友モ共ニ之ヲ公認シテ茲ニ婚姻ノ約定ヲ定ムル■ 左ノ如シ

 
 結婚から間もないと思われる、有礼から常に宛てられた手紙で、有礼は常を「春江」と呼んでいますが、戸籍も結婚契約書も「常」ですから、あるいは愛称のようなものであったかもしれません。
 また常は、安政2年(1855)7月生まれで、明治8年(1875)2月に19歳8ヶ月というのは、ほぼあっていますから、戸籍の生年は正しく届けられたものと思われます。厳密にいえば、常の実際の生まれ月は7月ではなく、5月ではないか、ということになりますが。
 ところが、開拓使女学校の記録は、少々ちがうんですね。
 
 えーと、ですね。常の実像について述べるならば、開拓使女学校時代の資料を調べるべきなんですが、適当な論文がありませんで、実物は北海道ですし、さっぱり見てません。で、一応、小説ではなくノンフィクションということで、近藤富枝氏の「鹿鳴館貴婦人考 」からの引用です。

 宿所    第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門
 拝命入校  壬申(明治五年)九月十八日同十月十九日
 本貫生國  静岡県武蔵
 年齢    明治六年九月、十六年四ヶ月


 戸籍からいけば、明治6年9月には18歳になっているはずで、二つほど年を若くしていますが、これは、開拓使女学校の入学条件が、13歳から16歳までだったからだと思われます。

 (追記)通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)に開拓使女学校の記述がありましたので、以下、少々書き直します。
 開拓使女学校の生徒募集は、東京と北海道でしか行われていません。明治6年、開拓使女学校在籍者55人のうち、27人までが開拓使官員の縁故。当時、北海道開拓使5等出仕だった大鳥圭介の娘もいます。
 で、どうも、開拓使官員の娘以外では、北海道出身者がほとんどだったみたいです。なにしろ、北海道洋式開拓のための女学校だったんですから。
 しかし、広瀬常の父親は開拓使官員名簿には名前が無いそうで、常の場合は、そのどちらにもあてはまりません。

 開拓使については、鹿鳴館のハーレークインロマンス薩摩スチューデント、路傍に死すで、ちょっと触れた程度だったと思うのですが、簡単に言ってしまいますと、「ロシアに備えて、北海道をアメリカ風に開拓しよう!」と薩摩閥がはじめたことでして、しかし、薩摩の洋務官僚は外務畑などに多くがとられていましたので、大鳥など、抗戦した旧幕府系の者を多数かかえたんですね。元新撰組もいたりしますから、かならずしも西洋知識に明るい者ばかりではなかったんですが、主には、そうです。
 
 常の本貫が静岡県で生まれが武蔵ならば、幕臣の娘だったことは確かです。
 宿所の住所は、ネットで調べてみましたところ、大洲藩(加藤)の江戸藩邸が現在の御徒町台東中学校にあり、上野広小路に面した現在の松坂屋本館と南館の間から中学校(大洲藩邸)へ向いて行く小道を、青石横丁と言ったらしいですね。御徒町と通称される地域で、小さな屋敷が並び、旗本というよりは、御家人が多く住んでいたようです。
 推測でしかないのですが、おそらく常の母方などの縁戚に、開拓使関係者、それも洋学に関係した新興幕臣がいたのではないのでしょうか。
 いずれにせよ、明治5年の段階で、父親が開拓使の役人でもなく、北海道在住でもありませんのに、常が年齢のさばをよんでまで、洋学を教える、授業料のいらない学校に入学した、ということは、です。広瀬家が女子教育に熱心で、常自身も向学心に旺盛で、しかし維新によって貧しくなっていた、ということはいえそうです。
 前回出てきました妹の福子なんですが、元治元年(1864)生まれ。常とは10近く年が離れています。そして福子が通った横浜海岸女学校といえば、青山学院の前身の一つで、宣教師が経営していた女学校なんですが、学費は必要で、常が森有礼夫人となり、経済的に余裕ができた結果だと思えます。

 開拓使女学校時代に、常は森有礼と知り合い、結婚に至るわけでして、その結婚の動機は、常の生き方にかかわってきますし、森有礼との関係は、ロンドン時代の不倫の有無にもつながっていくんですが、憶測、妄想をまじえずに語れる話ではなく、それについては稿を改めまして、もっとはじけて書きたいと思います。

 とりあえず、常が離婚後にグラスゴウ大学医学部で学んだ可能性です。
 その一つのきっかけになったかもしれない出会いが、明治8年2月に森有礼と結婚し、12月30日、長男の清を生んだときに、あったかもしれないのです。
 清をとりあげたのは、もしかすると、日本で初めての女医といわれるシーボルトの娘・楠本イネではなかったか、というのは、それほど突飛な推測ではないはずです。
 イネは文政10年(1827)の生まれですから、この年、48歳。4年ほど前から東京へ出てきて、異母弟アレキサンダー・シーボルトの援助もあり、産科医院を開業していたんです。評判が高く、宮内省の御用掛にもなって、明治天皇の第一皇子を取りあげたほどでした。
 森有礼の明六社仲間で、常との婚姻契約書の証人でもあった福沢諭吉は、西洋医学を学んだ女医であるイネに心をよせ、妻の姉で未亡人になっていた今泉とうをイネに紹介し、弟子入りさせて、産科医として身を立てる道を歩ませてもいました。
 イネのもとに、福沢諭吉の義姉がいたんです。
 もともと産婆さんは女性ですが、産科医の多くは男性でした。ただ、そのほとんどが医者の娘や妻にかぎられていましたが、女性が産科医になって父や夫を手伝う、というのは、江戸時代かあったことなのだそうです。
 しかしそれは、いってみれば家業の受け継ぎですし、一般の女性に開かれた職業とはいいがたかったわけですが、そういった背景があればこそ、当時、女性が身を立てる高級技術職として、西洋式産科医は有望な職業だったのではないでしょうか。

 清生誕当時、森有礼は特命全権公使として清国にいました。一時帰国した後、常夫人と清をともなって北京に赴任し、明治11年3月4日、常は北京で次男・英を出産します。北京での公使の生活は欧米式ですし、おそらく、なんですが、英を取りあげたのは欧米人ドクターだったのではないか、と思います。
 英誕生まもなく、森は帰国し、本国勤務となります。

 ところで、森有礼の屋敷について、全集の伝記資料解説から。
 有礼が常と結婚式をあげたのは、木挽町の自邸の豪壮な西洋館でした。
 ところが、ですね。築地精養軒(日本初の本格的な西洋料理屋です。仕出しもしました)を背にしたこの敷地、どうもかなりの部分が、東京商法講習所設立を目的として、東京会議所から借用していたものだったようなのですね。結局、有礼はこの件から手を引き、西洋館は東京会議所に寄付し、新しい屋敷が必要となりました。
 有礼の清国勤務の間、常の父・秀雄が、森家の執事のような役目をして、新しい屋敷を準備したのですが、これ、麹町区永田町1丁目14蕃地の5千坪にわたる大邸宅で、もちろん母屋は西洋館です。調べましたところ、現在の国会議事堂敷地の一部のようです。
 常夫人の日本における活躍は、実は、明治11年半ばから12年にかけて、有礼の短い本国勤務中が、もっとも華やかであったようです。12年の8月28日には、有礼が自宅で、アメリカの元大統領グラント将軍を迎えての晩餐会を催し、常はホステスを務め上げています。

 えーと、全文書き上げましたところが、文字数が多すぎるそうでして、急遽、後編を上下にわけることにしました。
 区切りがいいので、ここで切り上げ、森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に続きます。


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森有礼夫人・広瀬常の謎 中編

2010年08月18日 | 森有礼夫人・広瀬常
 森有礼夫人・広瀬常の謎 前編の続きです。
 
 鹿鳴館のハーレークインロマンスですでに書いていることですが、私が森本貞子氏の「秋霖譜―森有礼とその妻」に感激しましたのは、「女の海溝―トネ・ミルンの青春 」以来、長年、森本氏が常夫人の実像を求められた、その情熱です。
 そして、もう一つ。当初から森本氏の姿勢が、定説をくつがえす史料を発掘することだった、ということもあります。
 従来、森有礼と離婚してからの常夫人については、「精神に異常をきたしたらしい」というような噂があり、森家にはまったく消息がのこされていないことから、「零落してひっそりと果てたのでは?」というような見方が一般的でした。
 そこへ、森本氏は、最初の一石を投じられました。

スコットランドと近代日本―グラスゴウ大学の「東洋のイギリス」創出への貢献
北 政巳
丸善プラネット


 北政巳氏は、明治、日本の近代化に多大な影響を及ぼしたスコットランドの経済史がご専門です。
 上の本は、昭和59年に発行されました「国際日本を拓いた人々―日本とスコットランドの絆」と内容が重なっていまして、明治時代からグラスゴウ大学に留学した日本人についての章があるのですが、中にただ一人、女性が在籍していたことを紹介されています。
 時期は、明治31年(1898)から翌32年。医学部病理学の専修過程です。

 明治、グラスゴウ大学に留学した日本人は多いのですが、そのほとんどが工学系です。
 といいますのも、明治初期、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など、近代的インフラを担当する工部省を握ったのは長州閥でしたが、日本人技術者を養成するために工部学校(後の東大工学部)を設けることになりました。そこへ招かれたのが、グラスゴウ大学を卒業したばかりのヘンリー・ダイアーです。
 えーと、ですね。こういった工学系の技術は、確かに産業基盤の整備に必要なものですが、国防、軍備にも直結します。
 もうこれは、私のこのブログの主要テーマともいえますが、幕府は、横須賀製鉄所の運営をフランス人にゆだねることによって、造船、製鉄、灯台など、海防にかかわる部分の工学は、フランスからの導入をはかろうとしていました。

 これには、理由がなくもないんです。
 幕末。そもそもの始まりは、近代海軍の導入でしたし、つきあいが長くて日本の事情を熟知している、ということから、当初はオランダが相手でした。
 しかし、やがて陸軍近代化の必要も悟ってきますし、列強各国からの売り込みも激しく、当時のオランダはすでに小国になっていて、系統立てた近代技術の導入先としては役不足でした。
 当時の世界の最強国は、イギリスです。
 ところがこのイギリス、産業革命の先端をきって、近代産業国としても世界一だったにもかかわらず、です。工学系の実学は軽視されていて、系統立てて学ぶ場が、整備されていなかったのです。いえ、おそらくこれは、先端をきっていたから、なんでしょう。実学は、もともとは職人の学問ですし、上に立つ文系エリートさえしっかり教育していれば、後は民間に任せて自由な発展を、といったところです。
 以前に書きましたが、グラバーの世話だった薩摩の密航留学においても、工学系の学問をめざしていた中村博愛、田中清洲(朝倉)の二人は、はロンドンで適当な学校を見いだせず、モンブラン伯爵の世話でパリに移ったんです。
 といいますのもフランスは、もともと中央集権化が極度に進んでいましたので、土木技術者なども官僚化していたのですが、産業革命に遅れをとっていたところに革命が起こって、産業と経済はますます荒廃し、テルミドールの後、イギリスに追いつけで、エコール・ポリテクニークを創設し、国策として軍事に役立つ工学系実学を盛り立てていたんです。これには、中流商工階層が台頭し、実学が軽んじられなくなった、という、革命のプラスの効用も、もちろんあります。

 一方、これも以前に書きましたが、薩摩に一歩先んじてイギリスに渡っていた長州の密航留学生・山尾庸三は、伊藤博文と井上馨の帰国後、薩摩からの留学生たちに出会い、カンパしてもらって、スコットランドのグラスゴウへ、造船を学びに行きます。
 実のところ、イギリスの産業革命を技術的にささえたのはスコットランドだった、といっても過言ではないんです。
 スコットランドは独立性が高く、イングランドにくらべて後進的とされていましたが、それだけに独自の気風が育っていて、実学を重んじていました。
 わけても当時のグラスゴウは、産業都市として大きくなってきていて、技術職人が働きながら学べるアンダーソン・カレッジ(現在のストラスクラウド大学)という新興の市民学校があったんです。薩摩藩留学生とちがって、藩から十分な留学資金をもらっていなかった山尾は、造船所で働きながら、このアンダーソン・カレッジの夜学に通いました。

 山尾が帰国してからの話は、一応、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4の最後に簡単に書いたのですが、つけ加えますと……、といますか、訂正しますと、伊藤博文がトップに立ち、実質的に山尾がしきった工部省は、徐々にフランス人技師をイギリス人に入れ替え、技術導入先をイギリスに切り替える方策をとり、燈台設置に関しては、早々とそれを成し遂げます。
 ただ、造船に関しては、当時のフランスの小型軍艦の技術には見るべきものがあり、かなり後々まで、フランスとイギリス(スコットランド)と、並行して残りました。そして、日本人技術者を養成する工部学校には、山尾が学んだスコットランドのグラスゴウからヘンリー・ダイアーを迎え入れ、基本的な技術導入先はイギリス、という路線が確定するんですね。
 グラスゴウのアンダーソン・カレッジは、一般大衆を対象とした市民学校でしたが、優秀な者は伝統あるグラスゴウ大学への進級が可能で、ヘンリー・ダイアーは、山尾と同じ時期に、やはり働きながらアンダーソン・カレッジの夜学で学び、非常に優秀であったためグラスゴウ大学入学を認められ、そこでまた最優秀といえる評価を得ていた、若手の工学博士でした。

 これはおそらく、なんですが、18世紀末のエコール・ポリテクニーク創設で、フランスがリードしていた理工系エリート教育は、フランスの国力低下とともに、19世紀後半、民間産業の活力が上昇して結晶した形でようやく体系づけられてきたイギリスに、その先端の地位をゆずったのではないんでしょうか。
 明治日本の近代技術導入は、フランスに似た国家主導型でしたが、それだけに、どこが導入先としてふさわしいか、には敏感でしたし、またイギリスの自由貿易最盛期に理工系教育の隆盛を誇ったグラスゴウ大学土木・工学科は、この明治初期、ちょうど海外留学生の積極的な受け入れを推進してもいました。

 そんなこんなでして、明治、日本からグラスゴウ大学への留学生は、そのほとんどが工学系なのです。
 医学での留学は非常に珍しく、北政巳氏の調査で、二人しかいません。
 そして、その一人が、明治31年から2年間在籍した、モリ・イガという女性でした。
 といいますのも、明治日本は「医学はドイツから」という方針でして、官費留学生をはじめ、ほとんどの医学生が、ドイツに留学していたんです。
 しかしこの当時はまだ、欧州においても、女性に門戸を開いている大学は珍しかったのですが、グラスゴー大学はこの面でも先進的で、女性専用の寄宿舎を設けて積極的な受入を行っていましたし、医学教育は、エジンバラ大学の伝統を受け継ぎ、非常にすぐれてもいました。

 さて、森本貞子氏は、この北氏の調査から、「グラスゴウ大学医学部に留学していた日本人女性モリ・イガは、離婚後の常夫人ではないか?」と、推測されたんですね。
 モリ・イガは、「年齢は34歳。日本での住所は、東京芝。出身校はサンフランシスコのクーパー・カレッジ(スタンフォード大学医学部の前身)。父の名前はエマ(ユマとも)で、職業は医者」、一見、離婚後の広瀬常とは共通点が少なそうなのですが、森本氏は、「この当時、常は43歳だが、日本女性が年齢を若く届けるのはよくあることで、43歳を反対にすれば34歳。当時の日本では、離婚すれば広瀬姓にもどるが、欧米ではそのまま夫の姓を名乗ることもあった。また父の名の「ユマ」は「有礼」の音読みに通じる。届け出た住所は、開拓使女学校時代の常の親友の家のもの」と考え、当時、グラスゴウ大学に留学できるほどの語学力を持った日本人女性がそれほどいるわけはない、ということから、推測されたんですね。
 「モリ・イガ」の素性は、北氏の調査でもさっぱり判明していませんで、私は、これについては、森本氏の推測に、かなりの可能性があるのではないか、と思っています。

 森本氏は、「秋霖譜―森有礼とその妻」執筆にあたって、もう一つ、従来知られていなかった、常夫人にまつわる確かな史料を発掘されました。
 「常夫人の妹、福子は、明治屋の創業者・磯野計に嫁いで、娘・菊子を残している」というんですね。
 これは、事実です。
 昭和10年、磯野計没後、遺児の菊子と結婚して磯野家に養子に入った磯野長蔵が、竹越與三郎著「磯野計君傳」という伝記を発行していまして、戦後、明治屋がそれを復刻しているんですが、以下の節があります。引用です。

 「磯野君は、明治十八年十二月幕府の旗本広瀬氏の第三女福子嬢を迎へて夫人とした。夫人は元治元年十二月生まれであるから、此時二十一才であった。多分その媒酌人は森有礼君がロンドンで公使であったときその下に書生であり、後に領事となった宮川久次郎君であったであらうと思ふ。夫人は幼児から外国宣教師の建てた横浜海岸女学校で新教育を受けたものである。森有礼君が曾て伊藤博文公などをその邸に招待したとき、頻りに女子教育の必要を説いたことがあるが、伊藤公は森君に対し、君は頗る女子教育に熱心であるが、女子に教育を授けても、見るべきほどのものが出来るかと冷評するに対し、森君は席末に居た福子嬢を麾きて、伊藤公の傍に立たしめ、新教育を受けし婦人は、此の如き才媛であると示したほどであつて、その才学の評判が高かった」

 「旗本広瀬氏の第三女」としか書かれていませんが、これだけ森有礼が身近に出てくるのですから、これは常夫人の妹である、と断定してまちがいないでしょう。
 で、あるならば、です。離婚後の常夫人についても、磯野計の援助は当然あっただろう、と推測できますし、「グラスゴウ大学で医学を学んだモリ・イガは常夫人では?」という仮定も、非常に現実味をおびてくるんです。
 にもかかわらず森本氏が、そちらの方面の可能性を追求されず、不確かな藪重雄離婚原因説にこだわられましたのはなぜなのか、と不思議なんですが、おそらく、従来の「不倫の果てに離婚された性格の弱い女性」という常夫人像と、「グラスゴー大学で最先端の医学を学ぶ強い女性」という新たなイメージが、森本氏にとっては乖離するものであり、不倫を否定なさりたいあまり、だったのではないか、と思ったりします。

 次回後編、「常夫人の妹は磯野計に嫁いでいた」という事実から、離婚後の常夫人がグラスゴウ大学医学部で学んだのではないか、という可能性を追求して、結びとします。


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森有礼夫人・広瀬常の謎 前編

2010年08月14日 | 森有礼夫人・広瀬常
 唐突ですが、現在、ちょっとまじめに、森有礼夫人・広瀬常の実像の謎を追っています。
 したがいまして、鹿鳴館のハーレークインロマンスと、アウトローがささえた草莽崛起の続き、ということになります。

 ネット上で知ったのですが、去年から今年の春にかけて、静岡新聞夕刊に、植松三十里氏が、広瀬常を主人公に『美貌の功罪』という小説を連載されたようです。本になっているわけではないですし、読めていないのですが、著者ご本人がブログで述べておられることや、読まれた方の感想をもとに推測しますと、これはどうも、従来からある説を元に書かれたもののようです。
 従来からの説といいますのは、「森有礼の最初の妻・広瀬常は、公使夫人としてイギリス在住時、あるいは帰国後の鹿鳴館時代に不倫をして、青い目の子を産み、離婚にいたった」ということです。ただ従来説では、「開明的すぎる森有礼に常夫人はついていけず、性格が弱くて不倫に走った」というような、どちらかといえばマイナスの評価が多かったのですが、植松氏は、常の外交官夫人としての苦悩に焦点をしぼり、知的な像を描き出しているようではあるのですが。
 私がもっとも気に掛かりましたのは、植松氏は、同じく常夫人を主人公とした森本貞子氏の小説が、従来説をまっこうから否定していることを、まったく意識しなかったのだろうか、ということです。


秋霖譜―森有礼とその妻
森本 貞子
東京書籍

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 上の本における森本氏の提起は、こうです。
 「常夫人は、不倫をしてはいないし、青い目の子を産んでもいない。森有礼との離婚の理由は、広瀬夫人の実家に養子に入って義兄弟となった広瀬重雄が、自由党激派に属し、政府要人暗殺を企てた静岡事件に関与して罪人になったためである」


 鹿鳴館の劇的な色恋スキャンダルが、実は深刻な政治劇だった……とは、仰天です。
 小説とはいえ、森本氏は、かなりきっちり史料にあたっておられるようで、検索をかけてみますと、森有礼に関する論文でも話題にのぼるような提起だったようです。
 しかし、どこまでこれが事実であったのかは、どうも史料不足で確定できないのではないのか、という感触もありまして、まあ、最初に話題にしたときにも、疑問は並べてはおきました。
 ただ、当時、自由民権檄派事件を引き起こした藪重雄が、広瀬家に養子に入り、常夫人の義兄弟となったこと自体は、疑っていなかったんです。それについては、森本氏が断定的な書き方をなさっていましたし、この事実がなければ、成り立たない小説なのです。
 しかし、改めて読み返してみますと、なんと!!!、あとがきには以下のようにあったんです。

 「常の実家広瀬秀雄家については懸命の調査にもかかわらず戸籍もなく、一家の墓もない。しかし藤枝市役所には静岡事件と関係のある藪家と広瀬家が親類の間柄であるとの戸籍が現存していたのであった」

 「藪家と広瀬家が親類の間柄」という表現は、微妙です。なにか手がかりはないのかと、さがしました。
 

自由民権運動の研究―急進的自由民権運動家の軌跡 (慶應義塾大学法学研究会叢書 77)
寺崎 修
慶應義塾大学出版会



 寺崎修氏の上の本には「広瀬重雄 静岡事件を中心に」という章がありまして、ごく短いのですが、重雄の経歴が載っています。
 これによれば、藪家の除籍謄本が静岡県藤枝市に残っているそうなのですね。
 藪重雄は、安政6年(1859)、幕臣の家の次男として江戸麹町三番町に産まれ、慶応2年(1866年)、16歳年長の兄・藪勝が家督を相続していることがわかるのだとか。しかしどうも、この除籍謄本には、重雄が常夫人の父である広瀬秀雄の養子に入ったと書かれているわけでは、なさそうです。
 寺崎氏は、重雄が「広瀬家」の養子になったことは書いておられるのですが、その広瀬家が森有礼の岳父の家だとは一言も書いておられず、であるならば、森本氏の断定には、実は根拠があるわけではないのではなかろうかと、疑念がわきます。
 じゃあ、森本氏がいわれる「藪家と広瀬家が親類の間柄」とはなになのか、ということなのですが、これは森本氏の小説P253-4に見えます「重雄には四つ年上の姉・つるがあり、幕臣・広瀬滝蔵家の養子・義正の妻となった」という部分ではないのか、と思うのです。本文中に、広瀬滝蔵家の戸籍は残っている旨、書いておられますし。しかし、同じ幕臣の広瀬姓といいましても、果たしてこの滝蔵家と、森有礼の岳父・秀雄の家と、親しかったかどうかは謎ではないのか、と思われます。

 寺崎氏の論文で見るかぎり、藪重雄が広瀬姓になったについてわかることは、新聞紙上に広瀬姓で重雄が登場する時期からして、原口清氏が「明治11年頃のことではないか」と推定なさっている、ということのみです。

 (追記)原口清氏の「明治前期地方政治史研究〈下〉 」(1974年)を、図書館で見てきました。
 重雄が広瀬家に養子に入ったについての資料は、飯田事件の際の公訴状の以下の部分です。「被告実家ハ姓ヲ藪ト称シ、元ト東京麹町富士見町ニ居住セリ。被告出デテ広瀬家ニ養子トナリ、同家ヲ相続セリ」
 原口氏によれば、重雄は明治11年に広瀬家を相続したと推測でき、そうだとすれば、このとき、重雄は19歳なんだそうです。
 うわっ!!!!! これって、要するに徴兵逃れですね。そりゃあ、元旗本の家の子が一兵卒にはなりたくないですわね。だとすれば、便宜的に跡取りのない家に籍を入れただけ、かもです。
 あと、この本で、重雄と「広瀬家」のかかわりを見ることができるのは、明治19年2月19日付の警察の報告書です。「広瀬重雄ハ、 去ル十四日着京、四谷区四谷鮫ヶ橋南町六番地広瀬政良方ニ止宿ノ旨当地通ニ越セリ」とあるんですけど、四谷鮫ヶ橋って、ものすごい貧民街だったみたいなんです。これが養子先と関係ありだとすれば、ますます常夫人の実家とは関係なさそうで、これから少々、以下の文章を書きかえます。


 そして、この明治11年です。
 藪家の静岡での住まいは、旧田中藩(四万石)、現在の藤枝市にありました。
 田中藩主は本多家でしたが、江戸城明け渡しの後、徳川宗家が駿府70万石となって移封されるにつき安房に移されたのですが、藩校日知館は、どうもそのまま、移住してきた幕臣の手に移って運営され、その後、どうも養正舎という小学校になったらしいのですね。
 藪重雄はこの養正舎で教育を受け、卒業の後、小学校教師に採用されます。しかし、小学校教師の職にあきたらなくなったのでしょうか。
 明治10年から12年にかけて、重雄は東京に遊学し、共慣義塾と、広瀬範治の私塾で学びます。
 共慣義塾というのは、南部盛岡藩主が明治になって、人材育成のために東京に作った英学塾です。重雄より三,四歳年上の原敬や犬養毅も一時学んだ、といいますから、当時、東京で評判の英学塾だったのでしょう。原敬は盛岡の出身ですが、犬養毅は岡山の人です。藩外からの入塾も盛んであった反面、かなりの学費がかかったようです。

 さて、問題は、「広瀬範治の私塾」です。
 重雄が明治11年ころに広瀬家の養子となり、ちょうどその時期に広瀬範治の私塾で学んでいたのだとしますと、この広瀬範治は重雄の養子先となにか関係があるのだろうか、と推測するのが普通です。
 やはり森本氏も、なさっているのです。なさっているのはいいのですが、ここで、大きな勘違いをされています。
 なにが勘違いかって………、森本氏は、重雄の姉が嫁いだ広瀬滝蔵家の養子が、上京して四谷鮫ヶ橋(鮫河橋)に住んでいたことなどから、「広瀬範治の私塾」とは幕臣広瀬氏一族がはじめた私塾で、その中心人物が広瀬範治。重雄は、範治の教えを受けながら、この私塾で子供たちに教えていた、となさり、「広瀬範治は幕臣の広瀬氏」と断定しておられるんです。
 ちがいます!!!!!

 えー、インターネットは便利です。広瀬範治で検索をかけると、すぐに出てきました。
 広瀬範治とは広瀬青邨のことなんです!!!! つまり広瀬淡窓の養子であって、九州豊前の出身です。
 幕臣じゃありません!!!!!
 かんがくかんかく(漢学感覚)というサイトさんが詳しいのですが、個人ブログは信用がならないという方は、近デジで、「広瀬青邨」で検索をかけてみてください。明治40年発行の「大分県偉人伝」と明治43年発行の「先哲百家伝」に、小伝が載っています。
 広瀬淡窓の咸宜園は、大村益次郎や長三洲が学んでいた幕末九州の超有名漢学塾で、広瀬範治は淡窓の養子になって塾主を務めたのですから、新政府に知人は多いのです。誘われて奉職していましたが、明治10年に官職を辞し、東京神楽坂で私塾「東宜園」を開いたんです。
 重雄は、幕末以来の名声を慕って、超一流の漢学塾で学んだのであり、貧民街で元幕臣の親戚が細々とやっていた私塾なんかじゃないんです。
 また広瀬青邨(範治)は、ついこの2年前の明治8年には、咸宜園門下で岩手県令となった島惟精に推挙され、岩手県に奉職しています。つまり、岩手県の南部藩主が主催して名声を得ていた英学塾・共慣義塾を重雄に紹介したのも、広瀬青邨であった可能性が高いのです。
 
 これって、どうなんでしょうか。
 広瀬青邨の妻子については、さっぱりわからないのですが、あるいは重雄が養子になった広瀬家とは、青邨に関係した可能性も、ありえるんじゃないんでしょうか。
 もっとも、重雄の姉が幕臣の広瀬家に嫁いでいるそうなのですから、その関係で幕臣広瀬家の養子に入った可能性ももちろん高いのですが、それが広瀬秀雄、つまり森有礼の岳父の家であったとは、根拠のない想像にすぎないのではないのか、と思えます。
 つけくわえます。
 徴兵逃れのための養子だったとすれば、養子先が元幕臣の親戚である可能性は高まりますが、常夫人の実家だった可能性は、ゼロに近いのではないでしょうか。だいたい、公訴状で「広瀬家を相続した」となっているんですから、すでに戸主の死亡した家に養子に入ったようですし。

 そして……、もし仮に重雄が常夫人の義兄弟になっていたとしましても、そのことが常夫人と森有礼の離婚理由にはなりえなかったのではないのか、とも思えるのです。
 これは、偶然以外のなにものでもないのですが、常夫人が「青い目」と噂された女の子を産んで離婚にいたるまでの日々は、重雄が激化事件にかかわって逮捕された時期と、ぴったりと重なっています。
 記録の上からいって、「青い目」だったかもしれない女の子・安の出生は、明治17年(1884)12月8日です。近藤富江氏は、鹿鳴館貴婦人考 (講談社文庫)において、「実際の誕生日は、それ以前かも知れない」としておられますが、これはおっしゃる通りでしょう。
 「若き森有礼―東と西の狭間で」によりますと、イギリスに公使として赴任していた森有礼と常夫人は、この年の4月14日に帰国。常夫人は、6月12日から鹿鳴館で開かれたバザーには出席していますので、すでにイギリスで妊娠していて、6月末から12月8までの間に出産した、ということになりそうです。

 重雄は、安出生とされる日の前日、明治17年12月7日、逮捕されます。飯田事件、名古屋事件の関係者と接触し、政府転覆の挙兵について話し合っていた、というのです。結局、この件では、証拠不十分で無罪となりますが、翌18年10月27日、判決が出るまで獄中にいました。
 重雄が再び逮捕されたのは、19年の6月12日です。予審が始まるのが9月で、公判は翌20年の7月。このときの裁判記録で、重雄は広瀬姓ではなく、藪姓にもどっています。
 森有礼と常夫人の離婚は、書類上、19年の11月28日です。

 えーと、です。要するにこれって、偶然以上の意味が果たしてあるのだろうか、ということなんです。
 重雄が、例え常夫人の義兄弟になっていたとしましても、です。養子なんですから、養子縁組を解消すれば、それで終わりです。事実重雄は、静岡事件によって縁組解消に至っていますし、これが離婚理由になどなるのでしょうか? 
 だいたいこの時期、西南戦争関係者はまだ大赦を受けていませんで、全員が国事犯です。政府の中枢にいる薩摩閥の要人で、国事犯の親戚を持たない者の方が、珍しかったでしょう。

 もう一つ、これは前々からの疑問なんですが、森有礼と伊藤博文の関係についても、森本氏は勘違いなさっています。「伊藤が森の能力を認めて文部大臣に起用したのは、森のイギリス公使時代(明治15年)に欧州へいったときのことで、森は伊藤に深く恩を感じていた」となさっているのですが、伊藤と森の縁は、もっと早くからありました。
 岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保で書きましたが、岩倉使節団アメリカ訪問時、伊藤は森に心酔して、親分の木戸孝允との関係をこじらせるほどだったんです。木戸は森を嫌いぬいていまして、この直後、駐米公使(正確には初代少辮務使)を辞した森は、教育行政に携わることを望むのですが、木戸の反対で実現せず、大久保利通のはからいで外交畑にとどまります。
 重鎮の木戸、大久保亡き後、維新当初から外交に携わった薩摩出身の寺島宗則が条約改正に失敗して外務卿を辞任し、伊藤は後任の外務卿に盟友の井上馨を起用し、それと同時に、森有礼はイギリス公使に任じられているんです。当時のイギリスはアジア外交を牛耳っていた世界一の大国で、条約改正にイギリス公使が果たす役割は最重要です。つまり伊藤は、岩倉使節団以来、藩閥を超えてずっと森の能力を買っていたわけで、森の方はといえば、政治力こそありませんが自負心は強く、伊藤が能力を買ってくれることは喜んでいたでしょうが、恩にきて恐れ入るような玉ではありません。
 
 まあ、そんなわけでして、私はいま、「秋霖譜―森有礼とその妻」の最大のテーマに懐疑的なんですが、森本貞子氏は、他にも常夫人の実像に迫る史料を提示してくださっていまして、次回以降、それを検討してみたいと思っています。


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