郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

桐野利秋と龍馬暗殺 前編

2008年02月29日 | 桐野利秋
 とりあえず、おそらく、大政奉還 薩摩歌合戦の続きです。
 最初にお断りしておきますが、私、薩摩陰謀説とか、リアリティの感じられないものはほとんど読んでいませんので、それに対する反論ではありませんので、悪しからず。

 大政奉還と桐野利秋の暗殺にいただいておりますfhさまからのTB、そのころ、ほんとは、左太朗さんは。から以下。

10月17日 高崎左太郎(正風)
小松、西郷、大久保など発京、夕方後藤大東をとふらふ。語ふかして田中の寓にやとる。天気よし。

で、桐野利秋の日記
10月22日
備前藩士青山某の所へ行き、帰りに村田へ寄り、ここより永山、田中氏が同行し、暮に帰邸する。

 この田中が、おそらくは同一人物なんです。
 田中幸介は変名で、中井弘(桜洲)のことです。
 鹿鳴館と伯爵夫人に書きました簡単な人物紹介。

 中井桜洲、桜洲は号で、維新後の名前は中井弘ですが、彼は鹿鳴館の名付け親でした。
薩摩の人ですが、脱藩して江戸に出たところで連れ戻され、また脱藩します。薩摩の気風が、肌にあわなかった人のようです。
二度目の脱藩後、土佐の後藤象二郎と親交を深め、また伊予宇和島藩に雇われて京都で活躍したりするのですが、宇和島藩は薩摩と関係が深かったわけですから、脱藩したといっても、引き立てを得る薩摩の人脈は、あったのではないかと思ってみたり。
後藤象二郎が金を出したといわれるのですが、慶応二年の暮れから渡欧し、パリの万博も見て、簡略ですが、そのときの日記を残しています。

 明治時代に出版されました桐野の伝記の中に、この中井桜洲の回想が出てまいりまして、ちょっといま実物が手元にありませんで、正確ではないんですが、中井の脱藩を一人桐野が見送ったりしていまして、桐野と仲がよかった人なんですね。
 ただ、この人は西郷嫌いです。市来四郎もそうなんですが、桐野はなぜか、西郷嫌いの人々に評価されていたりします。

 パリから帰って来た中井さんは、とりあえず長崎にいて、なにしろ土佐の後藤象二郎の援助で欧州へ行きましたから、後藤の手助けをすることとなります。
 いったい、なぜ後藤が、薩摩脱藩の中井に、洋行の金を出したのかは謎です。
 海援隊には、洋行志願者がいっぱいいますのにね。土佐には古風な攘夷論者が多いですから、脱藩といえども、土佐の人間を洋行させるのに金を出すことが問題だったのか、あるいは、強固だった土佐上士の郷士(土佐勤王党の脱藩者はほとんどそうです)への差別意識に配慮したのか、なにはともあれ中井が気に入ったのか。
 ここらへんは、fhさまのところの方が詳しいかと思うのですが、まあ、そんなわけで、欧州帰りの中井は、坂本龍馬とも知り合い、大政奉還の建白書に手を入れました。(慶応3年6月24日「薩の脱生田中幸助来会、建白書を修正す」と佐々木高行の日記にあります)。
 なにしろ欧州帰りで、薩摩藩留学生たちともお話しして帰ったわけですから。
 ただし、期間が短かったものですから、付け焼き刃だったことは否めませんが。

 で、日記に話をもどしますと、大政奉還の直後です。
 反討幕派の高崎さんは、討幕の密勅をまったく知りません。小松、西郷、大久保の三人が、密勅を奉じて京を発った日、高崎さんは後藤象二郎を訪ねて、おそらく祝杯をあげたのでしょう。語るもつきず、結局、「田中」のところへ泊まります。
後藤と語って泊まったのなら、この「田中」は、薩摩出身の中井であろうと推測されるわけです。

 一方の桐野の日記のこの日の「田中」が中井であるかどうかについては、ちょっと問題があります。
 桐野の日記に最初に「田中」が登場しますのは、9月12日で、田中幸介とフルネームです。この日も田中は永山といっしょで、「田中」は薩摩の永山弥一郎とも親しかった様子なのです。
 永山、桐野は討幕派です。大政奉還建白書に手を加えた中井が親しげに出てくるのは、ちょっとうん?という感じもあるんですが、栗原智久氏は中井であると断じておられます。
 あるいは、土佐脱藩の陸援隊士・田中顕助(光顕)ではないのか? とは、私も思ったんですが、桐野の日記の書き方が、他藩士(脱藩でも)が登場するときには、かならず藩名を書いていまして、「田中」は薩摩藩士のようにあつかわれているんですね。
 それと、田中顕助には、「丁卯日記」という慶応3年6月1日から8月22日までの日記がありまして、薩摩藩士との交流は盛んなんですが、桐野も永山もいっさい名前を見せず、桐野の日記にみられるように、個人的に親しかったとは、とても思えないんです。
 ここは、田中幸介とフルネームが出ているんですし、栗原智久氏の断定が正しかろうと思われます。
 ただ、もう一つ、この日の桐野の日記に中井が出てくるについては、問題があります。

 土佐の京都藩邸にいた重役で、大政奉還の建白書にも署名している神山左多衛の日記に、こうあります。

10月20日条
 長岡謙吉、田中幸輔両人を以て今日出立にて横浜へ指立候事

 つまり、中井は海援隊の長岡とともに、20日に横浜へ出発したことになっているんです。
 なにしに行ったかといいますと、京都土佐藩邸の公費で遊覧旅行です。
 ああ、いえいえ……、表向きは、といいますか、金を出した土佐藩庁は真剣だったみたいですが、イギリス公使館員のアーネスト・サトウに、議会のことなんかあ、教えてくんないかなあ、サトちゃん~♪と、聞きにいったんです。
 で、まずサトちゃんに見せたのが、大政奉還の建白書です。
 それに目を通したサトちゃんは、まず、「これって、体制を変えるつもりはないってことだよねえ」、とつぶやきます。
 議会の開設、教育の普及、条約改正の項目には注目していますが、根本的な変革ではなく、幕府に改革を求めたものとしか、受け取っていないんです。
 そりゃあ、そうでしょう。
 なにしろ、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたが、モンブラン伯爵がパリの地理学会で発表した「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎない」という趣旨の論文をもとに「英国策」を書き、薩摩がパリ万博でなにをしたかも、十分に知っているサトちゃんです。
 さらには、薩摩がモンブランの世話で、これまでにない本格的な軍艦キャンスー(春日丸)を、購入したばかりだということも、知っているんです。
 で、それもそうなんですが、議会の開設を建白しておいて、いまさら外国の公使館を訪ねてきて、「議会ってどんなもん? 教えてくんないかなあ~♪」です。
 なんというあほ!なんでしょう。泥棒をつかまえて縄をなうとは、このことです。
 もっともサトちゃんは、こんな失礼なことはいいません。
 「ぼく、そんなお勉強していないし、こんど開港で大阪へ行くから、ミッドフォードさんに頼んでおいてあげるよ」と、上手に断ります。
 イギリス公使館のミッドフォードは、名門のおぼっちゃんで、パークスやサトウとはクラス(階層)がちがいます。当然、教育環境もちがい、イートンからオックスフォードというエリート教育を受けています。
  まあ、このことは長崎まで伝わったでしょうし、あまりに恥ずかしいですから、そんなこともあって、モンブラン伯の長崎憲法講義で書きましたように、五代は欧州の議会制度や憲法などのモンブラン講義を企画し、土佐の佐々木高行は国許にその講義録を送ったんでしょうね。

 それはともかく、聞きに行った中井と長岡は、どこまで本気だったんでしょうか。
 短期間とはいえ欧州へ渡り、薩摩の留学生たちと親交を持った中井が、ちょっと横浜でサトちゃんから議会を教わろう、と本気で考えたとは、とても思えないんです。
 長岡謙吉は、この旅行で、「握月集」という漢詩集を作っているんですが、その冒頭は「丁卯の秋、予、濃尾に遊ぶ。往還15日」なんです。
 つまり、横浜へ行って来たよ、じゃなくて、濃尾で遊んできたよ、なんです。
 さらに二人が京都へ帰って来たのは、11月12日で、龍馬暗殺の三日前です。
 往還15日ですから、ほんとうに10月20日に京を発ったのかどうかは、疑問なんです。
 妄想をたくましくしますと、神山に多額の旅費をもらったとたんに二人は、一仕事終わったんだしい、金はあるしい、急ぐ旅でもないんだからさあと、京の遊郭にしけこんだんじゃないんでしょうか。

 で、もし、10月22日に中井が京にいたと仮定します。
 桐野は、高崎左太郎が中井の宿に泊まり込んだ10月17日に、密勅を奉じて帰国した小松、西郷、大久保を、伏見まで見送っているんです。密勅のことは、当然中井は知らないわけなのですが、大政奉還の報告に帰国するにしましても、三人そろってとは、尋常ではありません。
  中井が仲良しの永山とともに、桐野の話を聞きに訪ねたとしても、不思議はないんじゃないでしょうか。
  後藤によりそい、反討幕派の高崎正風になつかれていたらしい中井は、しかし一方で桐野に会っている。
  中井は反討幕派なんでしょうか?
  後藤はともかく、海援隊と親しいことは、反討幕派のあかしなんでしょうか。

 つまり、なにが言いたいかと言いますと、後藤が代表する土佐藩庁と、龍馬が率いる海援隊は、ぴったり意志が重なっていたとは、いいがたいのではないか、ということです。
 以下、10月14日、大政奉還のその日、京在海援隊士・岡内俊太郎から、長崎の佐々木三四郎(高行)への手紙です。(宮地佐一郎編「中岡慎太郎全集」より)

 (前略)翌日、才谷(龍馬)、私、中島三人同伴して、白川本邸内に参り、石川清之助(中岡慎太郎)に面会、方今の事情各藩の形事等を聞く。薩長はいよいよ進んで兵力を以て為すの薩論一決し、長藩素より其論一決し、薩長一致協力いよいよ固しとの事に御座候て、下関において聞きたる処寸分違はず、実に愉快なる事に御座候。然る処、御国は象次郎(後藤)もっぱら尽力にて御隠居様の御建言に尽し、石川はもっぱら薩長の間にあって兵力の事に尽し、才谷等私共ぜひ薩長とともにする事の周旋尽力仕り、この際、長岡謙吉はもっぱら筆を採て才谷を助け、才谷は薩長人の間に周旋し、また吾後藤象次郎殿に論議参画し、とにかく御建言は御建言に進め、また薩長の挙兵論は挙兵論に進め(後略)

 くだいて言いますと、こういうことでしょうか。
 京に着いた翌日、龍馬とぼくと中島とで、白川の中岡慎太郎を訪ねて、現在の状況を聞いたんだよ。
 中岡が言うにはね、長州はもちろん以前からそうなんだけど、薩摩もいよいよ挙兵で藩論がまとまったんだって。薩長一致協力で挙兵すると、下関で聞いたこととまったくちがわなかったね。なんて、喜ばしいことだろう。
もっともお国(土佐)じゃ、後藤象次郎が容堂公の大政奉還建言のために尽くしているけどね、中岡は薩長の間に立って兵力のことでいろいろがんばってるし、龍馬と僕はね、ぜひとも土佐を薩長とともに事がなせるよう、ひっぱっていこうとしているよ。で、そのために、長岡は筆で龍馬を助け、ぼくは後藤に入説してるんだけど、まあ大政奉還は大政奉還で進めてね、挙兵は挙兵で進めていこうってことだよ。

 中岡慎太郎は、岩倉具視とひじょうに親しく、討幕挙兵推進論者ですし、討幕の密勅について、知っていた可能性がとても高いのです。この場で、その話はでなかったのでしょうか。
 この日の前日、すでに徳川慶喜は二条城で、大政奉還を発表していたのです。
 ただ、慶喜公がぽんと朝廷に大政奉還したところで、まず朝廷改革からやらなければ、なにごとも前へは進まないのです。
 とりあえず諸侯会議が催されるという話でしたが、いったい、どれだけの諸侯が上洛してくるというのでしょう。
 武力なしには、大政奉還建白書の実現は不可能でしょう。
 だからこそ西郷隆盛は、兵を率いてこなかった後藤象次郎に「土佐はやる気がないのか」と言ったわけです。

 で、この翌月、11月に書かれた坂本龍馬の「新政府綱領八策」。
 1.天下に名の知れた人材を集めて、顧問にしよう
  2.大名の中から有能な人を選んで、朝廷の直臣にして、名前だけの官職は除こうよ
 3.外国との交際を論じなくちゃね
 4.法律を整え、新たに「無窮の大典」(憲法のつもりらしい)がいるね。法律が定まれば、諸侯はみなこれを守って藩士を率いるんだよ
 5.上下議政所(議会のつもりらしい)がいるね
 6.海陸軍局がいるね
 7.近衛兵もいるよね。
 8.金銀の価値を外国とそろえないとね

 これらのことはね、あらかじめ物事のよくわかった二、三人で決めておいて、諸侯が集まったら承認を得ようよ。
 とあって、その後です。
 「○○○自ら盟主と為り、此を以て朝廷に奉り、始て天下萬民に公布云云。強抗非礼、公議に違ふ者は、断然征討す。権門貴族も貸借する事なし」
 ○○○が自ら盟主と為って、これを朝廷に奉ってね、天下萬民に公布して、逆らうものは征討するべきだよ。諸侯貴族だって容赦することないよ。

 「○○○自ら盟主と為り」というこの伏せ字が、これまで、主には慶喜公である、といわれてきたんです。
 以前に書いたことがありますが、容堂公説もあります。
 松浦玲氏は、もともとだれと決めているわけではなく、これを見せられたものが、それぞれに考えればいいように書いたのではないか、というユニークな説でしたが、その後に慶喜公、「大将軍」ではないか、とされました。

 ありえないと思うんです。
 だいたい、なんでここに将軍や諸侯が入るんでしょうか。
 幕藩体制をくずしていこうというときに、それはないでしょう。

 「大名の中から有能な人を選んで、朝廷の直臣にして、名前だけの官職は除こうよ」
 これが朝廷改革、幕藩体制解消の第一歩でなくて、なんなんでしょう。
 そしてこれは、多くの既得権を奪うことでもあるんです。
 武力なくして、どうして成し遂げることができるでしょう。だから、「逆らうものは征討するべきだよ。諸侯貴族だって容赦することないよ」なんです。
 ○○○は、薩長土ではないでしょうか。
 岡内俊太郎が言っていますよね。「才谷等私共ぜひ薩長とともにする事の周旋尽力仕り」と。
 中岡慎太郎にとっても、薩長とともに土佐が立ってくれることこそが悲願です。
 土佐郷士たちは、勤王党を結成して以来、藩内で多くの犠牲者を出し、多くが脱藩し、多くが非命に倒れてきたんです。
 その間、時期こそちがえ、かばってくれたのは薩長でした。
 主に土佐脱藩郷士の集まりである海援隊と陸援隊が、薩長の挙兵を喜ばないはずはないのです。
 討幕がなって、はじめて、彼らは故郷に帰ることができるのです。
 この時期、海援隊、陸援隊は土佐藩の庇護下にありますが、その中心人物である龍馬も慎太郎も、いまだ脱藩者扱いであったことは、二人が暗殺された日の寺村左善の日記でわかります。

 桐野は、元治元年、禁門の変以前から、中岡慎太郎と知り合っていました。
 この年の暮れには、神戸海軍操練所に入塾を希望していたことが、小松帯刀の大久保利通宛書簡に見えます。
 同じ小松の書簡に、龍馬をはじめ、もともとは海軍塾にかかわっていた土佐脱藩者を、薩摩藩で傭う話が見えます。
 有馬藤太の後年の回顧ですが、寺田屋で襲われた龍馬が薩摩の伏見藩邸でかくまわれていたとき、桐野がついていた、という話も見えます。
 慎太郎とも龍馬とも、桐野は親しかったんです。

 慶応3年の秋にも、桐野は二人に会っています。
 
 10月12日 
 土佐脱藩士石川清之助が来訪する。

 11月10日
 山田、竹之内両氏が同行し、散歩するところ、途中にて、土佐脱藩士坂元龍馬に逢う。
 
 そして11月17日、龍馬と慎太郎は維新を目前にして、非命に倒れるのです。

 次回に続きます。

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2 コメント

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ご挨拶。 (logos_yoshii)
2010-08-25 13:47:28
拝啓。今年3月6日に墨田区の母が亡くなり、父と昔話をしながら家系図を作り始めました。曽祖父吉井常也は黒田清隆とともに長州に砲術指南に出向いた名人だったようです。黒田と戊辰戦争を従軍。村田新八の娘を嫁にもらい後離婚。西南戦争に薩軍として従軍、牢屋に入れられてから黒田清隆に姪を嫁にもらってくれるなら出してやるといわれ出獄、再婚。息子卓爾をもうける。その子友也。その子健夫が私です。吉井友実も中井弘も常也の従兄弟ということです。毎回楽しみに拝見させてもらっております。残暑ゆえくれぐれもご自愛ください。敬具
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ようこそ (郎女)
2010-09-12 16:13:09
お越しくださいました。
黒田清隆の「姪を嫁にもらってくれたら出してやる」が、いかにも黒田の言いそうなことで、おもしろいです! 吉井友実、中井と従兄弟って、資料の宝庫みたいでおうらやましいんですが、いかがなんでしょう。西南戦争で、失われているのでしょうか。

かなり変なことばかり書き連ねておりますが、今後とも、どうぞ、よろしくお願いいたします。
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