郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

日の丸と君が代

2009年03月31日 | 明治音楽
 一昨日の日曜日、家族旅行で、江田島へ行ってまいりました。
 戦前の海軍兵学校がありました江田島には、現在は海上自衛隊第一術科学校、幹部候補生学校があり、通常は決められた時間に自衛官の案内つきで、一般見学をすることができます。
 今回、事前に問い合わせたところでは、当日はお花見一般公開で、自由に見てまわれるかわりに案内はつかない、というお話だったのですが、希望者が多かったのでしょうか、ちゃんと案内してくださいましたが、春休みのお花見期間、見学者は多数でした。

 えー、案内に立たれたのは、かなり年配の自衛官の方だったのですが、国旗掲揚ポールのところで、日の丸のお話になりました。「日の丸が国旗と決められたのは、いつのことで、だれが決めたのでしょう? わかる人いませんか」と、問われて、この私が、黙っているはずがありません。「はーい。幕末に江戸幕府が、島津斉彬の建言によって」とはりきって答えたのですが、はずれ。もしかすると、と思ってはいましたが、正解は「平成11年の国旗国歌法の成立によって」だったんですね。まあ、国内法のことをいうなら、そうなんですけれども。

 それはいいんですけど、続けて自衛官が次のようにいわれたもので、目が点になりました。
 「日の丸は、実にすばらしいデザインで、明治3年にフランスが、ぜひゆずってくれと言ったほど。時の外務卿、寺島宗則がガンとして断った」
 え、えーと、明治3年にはまだ、寺島は外務卿ではなかったはずですが、まあ、それもどうでもいいんですが、フランスが日の丸をゆずってくれって、普仏戦争の最中にいいい??? え、ええええっ??? 伝説にしても、ウートレー公使じゃありえなさげで、もしかしてモンブラン伯爵??? これも、モンブラン伝説なんですかねえ。

 その後、今度は君が代についてお話しをうかがったところ、案内の自衛官の方は、佐々木信綱が書いた「フランスの軍艦から国歌を教えてくれという要請があって、海軍卿・川村純義が君が代を歌詞に選んだ」という説をそのままに、確信をもっておっしゃるので、私は「あー、その説はありえないわ」と声にださずに頭の中でつぶやきつつ、ありえない理由を説明するのがめんどうですし、「あー、まあ、歌詞の制定にはいろいろな説がありますよねえ」とごまかしておきましたが、いやあ、海上自衛隊では、君が代、日の丸双方、おもしろい説が信じられているものだと、感心いたしました。

 佐々木信綱の説がありえない理由を、簡単に述べると、まあ、こういうことなんです。
 国旗、国歌というのは、双方、西洋近代において、外交儀礼上必要とされたものなんですね。当時、独立国として、欧米外交の仲間入りをするためには、西洋式のつきあい方に従う必要があり、まずはそういう必要性から制定された西洋式のものですから、明治初期には、そんなものに慣れない一般国民はもちろん、外国とのつきあいが頻繁な海軍と外務省、宮内省をのぞけば、明治政府にとっても、あまり意味のないものだったんです。
 しかし、日清戦争を経て、次第に国旗、国歌に対する認識も深まり、日露戦争時には、国の象徴として大切なものなのだ、という意識が、ようやく根付いていました。しかし、制定した当初は、国民はもちろん、幕府にしても明治新政府にしても、ほとんど意義を理解せず、必要とした人々が適当に決めたことだったわけでして、制定の経緯など、忘れ去られていたんです。
 わけても国歌は、まずは外交儀礼上、軍楽隊が演奏するものとして必要とされ、吹奏楽などというものは、もちろん当時の日本人にはまったく縁のないものでした。明治初年、廃藩置県の前に、唯一、軍楽隊を自前で作った薩摩藩が、君が代を歌詞に選び、それを海軍軍楽隊が引き継いで、曲を変更した、という経緯ですから、当の薩摩バンドのメンバーでさえ、はっきりとだれが君が代を歌詞に選んだのかは、わからなくなっていたのです。
 明治37年、日露戦争の最中に、元薩摩藩士で、海軍卿を勤めた川村純義が死去し、その追悼の一環として、歌人の佐々木信綱が、雑誌「心の花」に、「君が代を歌詞に制定したのは川村純義」説を発表したんですね。
 しかし、以降、この説にはさまざまな反論がよせられまして、わけても、元薩摩バンドのメンバーで、初代海軍軍楽長となり、雅楽調で、エッケルト編曲の現行君が代メロディー制定の中心となった中村祐輔をはじめ、生存していた薩摩バンド関係者がそろって、佐々木信綱の川村純義説を全面否定していますから、ちょっとありえない話なんです。

 もっとも、自衛官の方と私とは、「日の丸も君が代も外国交際における必要から制定され、それぞれに伝統をもったりっぱなものであるのに、歴史を知らないで、妙な理由で反対をしたり、敬意をはらわない変な人たちがいる」という見解においては、一致していたのですが。

 はるばるイギリスから運んだ煉瓦で建てられた兵学校の赤煉瓦校舎の中庭では、同期の桜が満開でした。



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町田にいさんと薩摩バンド

2008年02月11日 | 明治音楽
「博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館」 (岩波新書)
関 秀夫
岩波書店

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 町田にいさん、とは、私の愛する清蔵少年の長兄、町田久成です。
 清蔵少年については、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1vol2で、詳しくご紹介しまして、上の本もすでにご紹介済みです。
 清蔵少年が、にいさんの略伝を書いていたことは、これを書いた当時から知っていたのですが、どこで見ればいいのやら、と思っていましたら、いつものお知り合いの方が、さがしあてておられました。
「町田久成略伝」で検索をかけると、Cinniの門田明氏の論文のPDF書類が出てまいりまして、この中に全文入っております。

えーと、関係ありませんが、アドビのCreative Suite 3 Design Premium CS3を導入しまして、Acrobat 8 Professionalになってから、PDF書類を開こうとするたびに、ソフトを選べと出てきてうるさいんですけど、いえ、なんか設定しとけばいいんじゃないんだろうか、と思いつつ、めんどうでほっておいたら、うるさいんですけど、Professionalなんだから、選ばなくても勝手に仕事してよ、とぐちってみたり。

 ともかくです。「町田久成略伝」の中に、以下の文章があります。
「又特に音楽に興味深く、雅楽は宮中の大令人山井景順に師事し、横笛を学び、年二回は必ず宮中の令陣十数輩を招き、春の花秋の月と、隅田の清流に船遊び合奏会を開催、又月毎に文士墨客の書画会を開催するを、無上の楽とせり」
これを見まして私、あわてて、「博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館」を読み返してみたんです。
すっかり、忘れこけておりましたわ。
 君が代誕生の謎で書きましたが、初代君が代メロディ誕生のきっかけと思われる、明治2年のエジンバラ公来日のとき、日本側接待責任者は、当時外務大丞だった町田久成だったんです!

 久成が長兄、清蔵少年が末弟、なんですが、町田兄弟の家は、島津一門の名家で、家老になりえる家柄です。
 兄弟の母親は、やはり名門の小松家から嫁いできております。
 現在、大河ドラマに出てきます小松帯刀は、肝付家に生まれて、町田兄弟の母親の実家に養子に入った人です。
 つまり、香道が好きで、大人しい人物としてドラマでは描かれております小松清猷の妹、小松千賀(千刀)さんと、帯刀は結婚して、小松家の養子になるんですが、清猷、千賀の姉(長女)・国子(波)が、町田兄弟のおかあさんです。漢学にすぐれ、とてつもなく教育熱心なおかあさんでしたが、久成が19歳の年に死んだそうで、末っ子の清蔵少年は、さっぱり漢学をやってなかったような次第みたいです。
 えーと、町田家って、おかあさんが漢学熱心で、おとうさんが「漢学なんぞ国を滅ぼす」と、蘭学、国学熱心。なんといいますか………。
 私、この町田かあさんの妹である千賀さんが、です。いまのドラマみたいにおとなしかったろうとは、ちょっと思えませんです。これからの話ですが、家付き娘ですし、はい。

 またまた話がそれますが、いまちょっと検索をかけていて、おもしろいことを書いておられるサイトさんを見つけました。
 
 神保町系オタオタ日記 町田久成失脚の真相

 三村竹清の日記に、以下の記述がある、ということなんですが。

 町田久成氏の不遇となりしはしめは 大久保公の死もさる事なから一ト年京ヲ遊ひし折 其頃京の名妓にておかよお千代の二人あり 其かよの方なりしやニ馴染ミ根引きして本妻とせんとしたる事あり 久成夫人は小松帯刀の女也 妾もありたるなれは妾とする分にはよかりしも この小松氏を出して京の妓女を納れんとしたるより上の人々も異見したるが聞入れざりし これ等が原因也と黒川氏話

 町田久成は、エジンバラ公の歓迎行事を成功させるのですが、にもかかわらず、その直後に謹慎を命じられ、やがて外務省から出されて、いわば左遷されます。
 これを「博物館の誕生」では、外務省の中で「エジンバラ公は皇太子ではなく、次男であるのに歓迎のしすぎだ」というような突き上げがあり、明治3年7月、久成を支持していた小松帯刀が病没したことによって、その直後に久成は左遷された、というように推測していたんですが、私も、この推測は正しいと思います。つけ加えますならば、その突き上げには、おそらく薩長の対立も影響しただろうことでしょうか。
 三村竹清の日記に載る話のもとになったのは、おそらく、小松帯刀の養子のいきさつでしょう。
 帯刀と千賀さんの間には、子供が出来ませんで、町田久成の弟の一人(おそらくは四男)、町田申四郎(英国留学生です)が、久光公のお声掛かりで小松家の養子となったんです。千賀さんにとっては、姉さんの息子、実の甥ですから、自然な話です。
 ところが、その後になって、祇園の名妓で、帯刀さんの妾になっていたお琴さんが、実子の男子を生むんですね。それで、やがて、なんですが、申四郎くんとの養子縁組は解消となりました。
 小松帯刀には、やはりお琴さんが産んだスミという女の子がいるんですが、少なくとも帯刀が生きているうちには、久成にいさんの嫁になりうるような年齢には、達していないはずです。お琴さんの女の子が、男の子より先に生まれていたのであれば、あるいは、養子に入る申四郎くんと結婚する予定ではなかったか、と思われますが、もしそうだとすれば、養子縁組解消と同時に婚約解消、ではあったと思います。

 で、話が脱線しまくりなんですが、明治2年、エジンバラ公の来日時、ですね。
 日本側接待の責任者としては、伊達宗城中納言(元宇和島藩主)と大原重実(公家)がお飾りで、実務を取り仕切ったのは、町田久成、中島錫胤(徳島藩士)、宮本小一(旧幕臣)です。となれば、君が代誕生の謎の以下の部分。

で、「接伴掛は英語に堪能な原田宗助、乙骨太郎乙」という「接伴掛」なのですが、リーズデイル卿は「その当時は、現在のように日本人は、西洋の週間に慣れていなかったので、パークス公使に対して準備不足のないように私に手伝って欲しいとの依頼があった。それで現地に駐在するため、浜御殿の部屋の一部が私のために準備され、そこに私は一ヶ月の間滞在したのである」と述べていまして、この接待準備、横浜での行事も含めて、イギリス側との連絡係だったのが、接伴掛の二人じゃなかったでしょうか。

と述べたんですが、町田久成が薩摩の原田宗助を起用し、宮本小一が同じく旧幕臣の乙骨太郎乙を起用した、と考えれば、ごく自然なことでしょう。
だとすれば、です。フェントンが「なにか国歌になりそうな歌はないか」と、原田宗助、乙骨太郎乙に聞き、二人が軍務局に問い合わせたところが「よきにはからえ」となって、「そこで協議した」とか、君が代で「評議一決した」とか言っているのは、当然、原田宗助、乙骨太郎乙の二人だけ、ということはなく、町田久成や宮本小一が入っているんじゃないんでしょうか。

 町田にいさんは、イギリスでは、例えば陸軍の大規模演習だかを見物しただか参加しただかですし(すみません。資料見ないで書いてます。またいつものお方に𠮟られるかも……)、あるいはフランスでの万国博覧会関連でも、軍楽隊が活躍し、国歌が吹奏される場面をいろいろ見学したはずでして、当時の日本で、これほど軍楽や国歌に詳しかった人は、数少ない、はずです。
 しかも、清蔵少年がいうには、にいちゃん音楽好きです。
 えーと、そういえば小松帯刀も、青少年のころ、ですから、現在のドラマのころ、ですが、薩摩琵琶が好きでたまらず、一時も琵琶を手放さないほど懲りに凝っていたそうですが、肝付家の家令からたしなめられ、やめたそうです。
 とすれば、この薩摩琵琶歌「君が代」決定の過程に、町田にいさんも一枚噛んでいるとみて、まちがいないんじゃないでしょうか。

 そして、です。薩摩鼓笛隊、フェントン弟子入りの過程なんですが、エジンバラ公来日の少し後のことです。
 
 吹奏楽発祥の地・記念碑について

 上のサイトさんにあるんですが、フェントンとのつながりの経緯は以下です。

 1869(明治2)年
 5月、薩摩藩一等指図役肝付兼弘は、藩命により練兵法質問のため横浜英国歩兵隊に派遣され、11月まで大隊長ローマン中佐について勉強し、この間軍楽隊の行進を見、楽長フェントンに紹介され、指導を依頼した。同年9月、鹿児島から歩兵第2大隊が天皇の徴兵として上京し神田に駐在していたが、肝付はこの隊長に軍楽隊の伝習を進言した。すぐそれは受け入れられ、上京した藩兵のなかから20名を選んで9月横浜本牧北方の妙香寺に派遣し、フェントンに師事した。その後すぐ、フェントンの意見により、30余名に増員された。これが日本最初の吹奏楽の伝習であり、軍楽隊であった。同時に英国ベッソンへ楽器発注、隊員は妙香寺に宿泊して調練と 信号ラッパを習い、11月に入って読譜練習と鼓隊を習うようになった。

 肝付兼弘って、名前からして、どうも、小松帯刀の実家の肝付氏の一族ではないかと思うんですね。(ご存じの方がおられましたらご教授のほどを)
 となれば、原田宗助が肝付兼弘に相談しないはずがないですし、当然、君が代決定の過程には、肝付兼弘も噛んでいたはずです。
 で、町田にいさんは、実際にエジンバラ公歓迎の実務責任者としてやってみて、儀礼音楽の貧弱さは、痛感したはずです。
 イギリス側には、フェントン率いる駐日陸軍軍楽隊だけではなく、当然のことながら、エジンバラ公を乗せていたガラティア号の軍楽隊もいたでしょうし、どちらの軍楽隊が演奏したかわかりませんが、横浜のイギリス公使館では舞踏会が催され、兵部卿小松宮や参議大久保利通などが、招かれているんです。(町田にいさんは招かれなかったんでしょうかしらん。ご存じの方、おられませんか?)
 つまり、です。君が代とともに、薩摩バンド結成の直接的動機もまた、エジンバラ公来日行事だったんじゃないでしょうか。
 そして、町田にいさんは、育ちがよすぎる、というんでしょうか、政治力のないお方です。しかし、名門ですし、久光公や藩主忠義公へ、軍楽隊の必要性を訴えた人物としては、もっともふさわしいんじゃないでしょうか。
 もちろん、肝付兼弘とともに、ですけれども。


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バロックの豪奢と明治維新

2008年02月07日 | 明治音楽
王は踊る

アミューズ・ビデオ

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鹿鳴館と軍楽隊の続き、といいますか、補足かな、という感じです。


この「王は踊る」、評判だけは昔から聞いていたのですが、見たのは去年、DVDです。
太陽王ルイ14世、側近の宮廷音楽家ジャン=バティスト・リュリが主人公です。
踊るルイ14世は、ともかくセクシーです。リュリが惚れるのも無理はない、と思うほど。

王の三つのダンス(YouTube)

 この2番目の青年王のダンスとリュリの指揮、これを見たとたんに、なにかに似てる! と思ったんですが、はっと気づきました。「レッド・ツェッペリン 狂熱のライヴ 」のロバート・プラントとジミー・ペイジです!

天国への階段ー「狂熱のライヴ」より(YouTube)

 もちろんルイ14世がロバート・プラントで、ジミー・ペイジがリュリ。似てませんか? この色っぽさ!(笑)
 王としての誇りに裏打ちされた少年の優美な手の動きと、一身に集まる観衆の視線を当然と心得たロバート・プラントのしぐさ。
 王の踊りを輝かせる自作の調べを熱を入れて指揮するリュリと、歌うロバートにねっとりとダブル・ネック・ギターの調べをからませるジミー・ペイジ。

 いえ、先週の金曜日にまた週刊新潮を買いまして、美容院でぺらぺらとめくっていましたら、年老いたジミー・ペイジの写真が出てまいりまして、今度は映画の冒頭の年老いたリュリを思い出しましたわ。そういえば去年、ツェッペリン臨時再結成したんだよね、と、YouTubeでさがしたら、ロンドン公演のビデオがあがってました。
 ‥‥‥‥‥見なければよかった! じいさんになったロバート・プラント。

 と、すっかり話がそれてしまいましたが、この映画のルイ14世の踊りは、ほぼ史実です。
 舞踏譜が残っているのだそうです。細かな手の動きなどは、たしかじゃないんですけれど、まちがいなく、こういうダンスをルイ14世は踊ったんです。リュリの音楽で。
 
 バロックのジミー・ペイジ(ちがう?)、ジャン=バティスト・リュリ。
 しかしバロックの巨匠といえば、バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディなどの名前が浮かんできて、クラシックに詳しいわけでもない、私のような普通の日本人が、とっさにリュリの名を思い浮かべられないのは、なぜなんでしょう。
 少なくとも私、小学校から高校までの音楽の授業で、リュリの名前を聞いた覚えがないんです。

 一つには、私たちがよく名前を聞くバロックの巨匠たちは、みな、バロック後期、末期の人々なんです。
 一方リュリはバロック中期の音楽家で、彼らの先輩です。
 と同時に、リュリはまったく、ドイツ語圏に関係しないですごした人です。
 バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ。
 巨匠たちはみな、ドイツ語圏の出身だったり、あるいはドイツ語圏に移住したりと、ドイツ語圏に関係しています。
 ここらへんのクラシック音楽の流れを、わかりやすく解説してくれているのが、岡田暁生氏著「西洋音楽史―クラシックの黄昏」 (中公新書)です。

 日本がクラシック音楽に出会った明治維新当時、つまり19世紀半ば、なんですが、すでに近代市民音楽としてのクラシックが確立し、欧米諸国では、中産階級の家庭で教養としてピアノが奏でられていた時代です。
 アメリカでのそういった状況は、ちょうど明治維新の年にかかれたオルコット「若草物語」 (福音館文庫)など、児童小説を読めばよくわかります。

 が、そもそも、です。音楽を娯楽としてよりも教養として尊重する‥‥‥、それは言い換えれば、クラシック音楽を深遠な「芸術」として位置づけることと同義なんですが、そういった近代市民音楽としてのクラシックのあり方は、ドイツ語圏で生まれてきたものなんです。
 ごく簡単に、枝葉をはぶいて19世紀クラシック音楽確立の歴史を述べますと、ルネサンスイタリアで盛んだった宮廷を中心とする音楽がフランスに移植され(リュリもイタリア人です)、ルイ14世の宮廷で宮廷音楽が確立し、そのあり方を各国宮廷が模倣し、やがて18世紀の産業の興隆と中産市民階級の勃興、啓蒙主義への流れの中で、フランスでは豪奢な宮廷音楽(いわば外交をも含めた社交のバックグラウンドミュージックなんですが)が、私的娯楽、ステイタスとして市民の側にとりこまれていくんですが、ドイツ語圏(主にプロテスタント圏)では、宮廷音楽と哲学が結びつき、やがて本来宮廷音楽がそうであったところの、環境音楽としての役割が軽視され、まじめな市民が目を閉じて交響楽に聴き入り感動する、といった、現在のクラシック音楽のイメージに重なる状況が生まれるんですね。
 バロックに続く古典音楽の三代巨匠、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンは、みなドイツ語圏の出身です。

 ルイ14世の宮廷音楽は、なにしろ「朕は国家なり」なのですから、環境音楽ではありましたが、私的娯楽ではなく、公的な国の音楽といえるものです。
 環境音楽、つまりはバックブラウンドミュージックであったことの意味なのですが、音楽もまた、料理と同じように、宮廷の、そして国家の、祝宴を盛り上げる要素だったのです。

 西洋音楽の歴史を、そういった社会的側面からわかりやすく説明してくれているのは、上尾信也氏の「音楽のヨーロッパ史」 (講談社現代新書)です。

 クラシック音楽の歴史は、通常、カトリックの教会音楽にはじまるといわれます。
 宮廷音楽も、もちろんそうなのです。
 戴冠式にも結婚式にも教会はからみますし、教会音楽もそういった儀式を盛り上げます。やがて祝宴の場をも、宗教行事で育まれた音楽が彩るようになっていくのです。
 戴冠式、支配都市への入城式、君主間の外交である結婚式。
 それらの儀礼にともなうパレードと祝宴は、中世からあったわけなのですが、ルネサンスに至って、何日にも渡る大スペクタクルとなります。
 ショー化された騎士たちの馬上武芸試合や、テーマを定めたきらびやかな飾り付けに仮装、歌やダンスの入った芝居、夜空を彩る花火。そしてもちろん、豪華な食事。

 この祝宴スペクタクルが、もっとも洗練されていたのはイタリアで、それはおそらく、イスラム圏との交易による富の蓄積と文化の流入、カトリックの総本山ローマの存在、小国に別れて活発に行われた外交、といったさまざまな要素によるものでしょう。
 ともかく、ルネサンス美術の中心がイタリアであったように、祝宴スペクタクルの本場もイタリアであり、そこから、オペラ、バレー、ダンスが生まれましたし、また料理、ファッションにおいても、最先端の流行を作り出していたのです。
 そのイタリアの最先端の流行を、フランスにもたらしたのは、フィレンツェからフランス王家に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスであり、マリー・ド・メディシスでした。
 そして、ルイ14世にいたり、ついにフランス宮廷は、はるかにイタリアを凌駕し、ルイ14世の宮廷は、ヨーロッパのすべての宮廷の規範になったのです。

 映画「王は踊る」に、いまひとつ欠けているのは、豪華さでしょうか。
 この点では、以前に宮廷料理と装飾菓子でご紹介しました宮廷料理人ヴァテールの方が、近いでしょうか。
 ただ、かなり豪華さが出てはいるんですが、ヴァテールの人物像については、この映画は史実に近いとはいえないようでして、ヴァテールは料理人ではなく、祝宴全体を取り仕切る執事であった、という方が、現在では定説になっているそうです。
 料理人という設定で、舞台裏を描いていることと、やはり予算不足でしょうか。史実の祝宴にくらべるならば、かなり安っぽいはずです。

太陽王を歓待するコンデ公の宴会1 「宮廷料理人ヴァテール」より(YouTube)

太陽王を歓待するコンデ公の宴会2 「宮廷料理人ヴァテール」より (YouTube)

 ルイ14世がヴェルサイユで催した祝宴の中で、詳細な記録が残っていて、有名なのは、1664年に行われた「魔法の島の悦楽」。イタリアルネサンス文学「狂乱のオルランド」の中からテーマがとられ、3日間にわたり、600人を集めて行われた大スペクタクルです。
 王自身も物語の登場人物であり、貴族たちもまた、さまざまに役を演じます。
 その中に幕間劇として、専門の役者によるオペラといいますかバレーといいますか劇といいますか、そんなものが入るのです。
 実のところ、ヴェルサイユ宮殿は、そういった祝宴の豪奢な背景として、建てられたものなのです。ルイ14世は、日々、莫大な金額を投じて、太陽王を演じていた、といっても、過言ではないでしょう。

 ルイ14世の宮廷音楽隊には、宮廷礼拝堂に属するシャペル、そして祝宴楽や儀礼楽、軍楽などを演奏するエキュリ、王のそばで室内楽を奏で、音楽教育をも担当するシャンブルがありました。
 バロックのジミー・ペイジ、リュリは、シャンブルの長でしたが、エキュリやシャペルの上にも立ち、祝宴や儀礼の音楽、オペラやダンス、バレーの音楽も作曲すれば、軍楽も作曲したのです。
 祝宴にはそもそもパレードがつきものでしたし、馬上武芸模擬試合でも、行進曲を中心とした軍楽は使われます。
 ルイ14世にいたっては、現実の戦場でも、祝宴用の派手な音楽を演奏させたのです。
 勝利の祝宴では、そのままエキュリがダンス曲をも演奏しますし、鹿鳴館と軍楽隊で書きましたように、つまりは、ダンス音楽と軍楽隊は兄弟なのです。
 なお、バロックの舞踏は、王侯貴族たちが集団で踊ったものが社交ダンスに発展し、舞踏の専門家が幕間劇で踊ったものがバレーとなっていきました。

 このようなバロックの王の豪奢は、一方で私的な贅沢、あるいは教養となっていき、一方で、公的な国家儀礼、外交を飾る豪奢へと、分離することとなりました。
 音楽もまたそうで、王制から共和制に移行したにしても、いえ、革命でさえも華々しく音楽に彩られ、それは、ナショナリズムを盛り上げる要素となっていったのです。
 以前に、美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で、「正名がパリで絶望を感じたのは、第二帝政最末期の豪奢な都市のさまざまな様相、産業にしろ軍事にしろ学問にしろ、なんでしょうけれども、その西洋近代文明のりっぱさが、とても日本人が追いつくことはできないものに見えたから、だったんですね」と書いたんですが、正名がなによりも圧倒されたのは、ヴェルサイユ宮殿でした。
 過去の豪奢が、国の富の際限のなさ、奥の深さとして彼にのしかかり、日本がどのように背伸びをしたところで、到底追いつけないもののように思えたようです。

 正名はもちろん、かつてヴェルサイユ宮殿で繰り広げられた祝宴の徹底した浪費、豪奢を知らなかったわけなのですが、バロックの王の祝宴は、19世紀の万国博覧会と似ています。これも以前、『オペラ座の怪人』と第二帝政で、私は、こう書きました。

 万博といえば、近代化と進歩の祭典、であるはずです。
 しかし、第二帝政下のこの万博には、反近代の夢がただよっていたのではないでしょうか。ちょうど、オペラ・ガルニエを代表とするこの時代の建築が、書き割りのように、過去への豪奢な夢をつめこんでいたように。
 パリの万博会場のまわりには、広大な庭園がしつらえられ、その庭園には、エキゾチックなオリエントのパヴィリオンが立ち並んでいました。江戸の水茶屋も、その中にあったのですが、それは、夢のように不思議な空間でした。
また、この万博には、世界各国から王族が集い、華麗な社交をくりひろげ、パリの歓楽に身をひたしました。

 そもそも、ヴェルサイユ宮殿が、壮大な書き割りだったのです。
 時代は下って、選挙で選ばれた皇帝のもと、庶民も自由に参加できる祝宴とはなっていても、祝宴、娯楽の空間は、壮大なまでの贅沢に満ちていました。
 それほどの西洋の富は、軍事にもつぎこまれていたわけでして、それなりに洗練されながらも、つつましく自足していた日本は、黒船来航により、このすさまじい消費と生産の渦に、身を投じざるをえなくなったといえるのではないでしょうか。

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君が代誕生の謎

2008年01月29日 | 明治音楽
三つの君が代―日本人の音と心の深層
内藤 孝敏
中央公論新社

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本日はまた、前回の鹿鳴館と軍楽隊の続きです。

 実はこの「三つの君が代」、著者ご自身の内容紹介ページがありました。三つの君が代

 上のページでありがたいのは、ウイリアム・フェントン作曲の最初の君が代の曲が、聞けることです。
 著者は音楽がご専門で、本の方は音楽的な分析に詳しく、この最初の君が代のメロディー、よく作曲といわれるんですが、採譜であったと断言しておられることが、私にとっては意を得た感じでした。

「君が代」の歌詞を国歌として選択した経緯については、さまざまな説がありますが、明治3年(あるいは2年)、大山巌説が、いまのところ定説といいますか、一番信じられているようです。

 前回、「日本の本格的な洋楽導入は、明治2年、薩摩藩が、駐日イギリス軍の軍楽隊に協力を求め、島津久光公の肝いりで、高価な楽器を注文して、軍楽隊を結成したことにはじまります」と書いたんですが、その駐日イギリス軍(第10連隊第一大隊)所属の軍楽隊長は、ジョン・ウィリアム・フェントンでした。
 つまり、薩摩バンドはフェントンの教えを受けることになったわけでして、そのフェントンが、教え子たちに、日本も国歌を作るべきだ、と言ったことに、定説の話ははじまります。
 そこで、教え子たちが、薩摩藩軍の大隊長たちに相談し、その中の一人(大山巌説が有力です)が、「君が代を歌詞にしてはどうだろうか」と提案し、フェントンが作曲したのだというのです。
 薩摩バンド、海軍軍楽隊、そして海軍軍楽隊と同じくフェントンから教えを受けた式部寮伶人(前回出てきた雅楽の人達です)が、みなフェントン作曲の「君が代」を演奏していますので、国歌誕生に、薩摩バンドがからむのは、ほぼまちがいのないことでしょう。となれば、大山巌のほかに、野津鎮雄、川村純義など、薩摩の陸海軍隊長の名が出てくるのも、当然なのかもしれません。
 
 こういった話は、後世、薩摩バンドのメンバーだった人達から聞き取ったり、書面で事情をよせてもらったり、といったもので、フェントンが「国歌が必要」と言い、薩摩バンドのメンバーの一人がそれを薩摩軍関係者に相談し、君が代の歌詞が提示された、という大筋以外は、あまり確実性のないものなのですが、雑誌「日本及日本人」に載った大山巌の談話にいたっては、こういうことになっています。

「其時、英国の楽長某(姓名を記憶せず)が『欧米各国には皆国々に国歌と云うものがあって、総ての儀式の時に其の楽を奏するが、貴国にも有るか』と一青年に問ふた。青年が是に答えて『無い』と云ふたれば楽長の曰く『其は貴国にとりて甚だ欠点である。足下よろしく先輩に就いて作製すべし』」

 それで、大山が君が代の歌詞を提示した、というのですが。
 いえ、後世、聞く方はみな、「国歌とは歌うものだ」という認識のもと、君が代の歌詞がどうして国歌となったか、それを知りたがって聞いているわけなんですから、仕方がないのですが、フェントンは「儀式の時に其の楽を奏する」として、曲を欲しがっているのです。
 軍楽隊は通常歌うものではないですし、儀式で演奏するために「国歌」のメロディが欲しかったのであって、とりあえず歌詞は欲していません。
 で、フェントンが「作曲するから歌詞を」と言ったという話になるのですが、これは、ありえないんじゃないでしょうか。
 フェントンは、少年鼓手からのたたき上げで、後のエッケルトやルルーのように、専門の音楽教育を受けた人ではなかったんです。
 ちなみに、陸軍分列行進曲の作曲者シャルル・ルルーは、パリのコンセルヴァトワールで学んでいます。現行の君が代の編曲者であるエッケルトもまた、ヴロツワフ(現在はポーランド領)とドレスデンの音楽学校で勉強しています。
 フェントンが、他国の国歌を作曲してあげるから、と言い出したとは、ちょっと思えません。

 それで、フェントンがもっともなじんでいた自国、イギリスの国歌「God Save the Queen (King)」なんですが、作曲者不明の古いメロディですし、「God Save the Queen (King)」という歌詞も、王令発布や議会の開会、閉会や、艦隊命令などで、繰り返されてきた慣用句なのだそうです。

God Save the Queen(You Tube)

 だとすれば、です。フェントンはもともと歌詞を求めたのではなく、イギリスと同じく日本も君主国ですし、儀礼上からいっても、なんですが、「国歌として使えるような、帝を称える古い歌はないのか。あれば急いで吹奏楽用に編曲するから」と、言ったのではないでしょうか。
 なぜかあまり顧みられてないようなのですが、そうであったのではないか、と思わせる説があります。
 国書刊行会昭和59年発行「海軍軍楽隊 日本洋楽史の原点」に載っているのですが、もとは昭和17年に刊行された、澤鑑之丞技術中将著「海軍七十年史談」に出てくる話なのだそうです。以下、引用です。

 明治二年英国貴賓を現在の浜離宮で饗応するに当り、日英両国国歌を演奏する必要から、日本の国歌はどうしたらよいかを軍楽長が接伴掛に問い合わせた。接伴掛は英語に堪能な原田宗助(薩摩藩士・後の海軍造船総監)、乙骨太郎乙(静岡藩士・沼津兵学校教授)が選ばれた。接伴掛の両名は、さっそく軍務局に問い合わせたところ、よきに計らえということではたと当惑した。そこで協議した結果、乙骨が思いついたのは、旧幕時代、徳川将軍家大奥で毎年元旦に施行されてきた「おさざれ石」の儀式に唱う「君が代」であった。
 この歌なら天皇陛下に失礼ではないと評議一決した。これに歌詞をつけることになったが、原田が鹿児島で演奏される琵琶曲に「蓬莱山」という古歌があり、それにも「君が代」の歌詞がある。そこで時間もないことだから原田が軍楽長を招き、数回繰り返してフェントンに聴かせた。フェントンはその場で採譜し、大至急で吹奏楽に編曲し、隊員を集めて練習を重ね、浜御殿の饗応の宴でこの「君が代」を英国国歌とともに演奏し、面目を全うしたという。

 まず、この話にも少々錯誤があります。
 「明治二年英国貴賓を現在の浜離宮で饗応するに当り」といえば、明治2年9月、エジンバラ公(ビクトリア女王の次男)の来日時のことです。
 薩摩バンド(鼓笛隊)が、横浜に駐留するイギリス駐日陸軍付属軍楽隊長であったフェントンのもとへ弟子入りに出向いたのは、明治2年陰暦の9月からなんです。仮に、明治2年のもっと早い段階から弟子入りしていたにしましても、楽器がありませんでした。和楽器などで間に合わせて、これは私の推測ですが、イギリス軍の古い楽器とかを譲り受けたかもしれませんし、そこそこの練習はしたようなんですが、やはり、翌明治3年7月に、イギリスへ注文していた楽器が届いてから、本格的な吹奏楽の練習がはじまったんです。
 とすれば、です。海軍造船総監だった原田宗助の談話を聞き取ったのだろうこの話の筆記者が、どうも勘違いしているようなんですが、この話の軍楽長とは、駐日イギリス軍軍楽隊長フェントンのことであり、「浜御殿の饗応の宴でこの君が代を英国国歌とともに演奏し」たのは、イギリスの軍楽隊でしょう。
 
 浜御殿という場所もどうなのでしょう。
 以前にモンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1でご紹介しました「英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 」によりますと、確かにエジンバラ公は浜御殿に滞在しています。
 しかし、イギリス陸軍軍楽隊が演奏した場といえば、リーズデイル卿が「横浜港に8月31日に入港し、通例のことだが、挨拶や接見や歓迎の辞など、きまりきった退屈な行事が終わると」と簡略に書いているこの部分でしょう。
 なにしろリーズデイル卿にとって「きまりきった退屈な行事」なのですから、この場はすべてイギリス側が取り仕切ったものと推測できます。
 
 で、「接伴掛は英語に堪能な原田宗助、乙骨太郎乙」という「接伴掛」なのですが、リーズデイル卿は「その当時は、現在のように日本人は、西洋の週間に慣れていなかったので、パークス公使に対して準備不足のないように私に手伝って欲しいとの依頼があった。それで現地に駐在するため、浜御殿の部屋の一部が私のために準備され、そこに私は一ヶ月の間滞在したのである」と述べていまして、この接待準備、横浜での行事も含めて、イギリス側との連絡係だったのが、接伴掛の二人じゃなかったでしょうか。

 フェントンが、横浜の儀式で両国国歌を演奏する必要から、困って、「接伴掛」であった二人に問い合わせた。しかし、「なにか国歌になりそうな歌はないか」と言われても、二人も困ったでしょう。軍務局に問い合わせてはみても、おそらく軍務局では「国歌」という概念がわからず、「よきにはからえ」となった。そこで、「おさざれ石」の「君が代」案が出て、おそらく原田宗助は、これからフェントンに弟子入りする予定の薩摩鼓笛隊のリーダー格に相談したと。

 大奥の「おさざれ石」という行事、知らなかったものですから、ぐぐってみました。
 江戸城大奥の正月行事で、元旦の朝、御台所が将軍を迎える前に、清めの儀式で、御台所と御中老が小石の三個入った盥をはさんで向かい合い、御中老が「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を述べると、御台所が「いわほとなりて苔のむすまで」と応じ、御中老が御台所の手に水を注ぐ、というものなのだそうです。
 たしかにこれは儀式歌といえますが、しかし、メロディというほどのものはないでしょう。
 そこで、薩摩琵琶歌が出てきたのではないでしょうか。
 私、君が代の歌詞があるという「蓬莱山」は聞いたことがありませんが、薩摩琵琶歌として、「川中島」と「敦盛」はCDで持っています。これを五線譜に直すってえ!? と絶句するんですが、フェントンも相当苦労したんじゃないでしょうか。

 えーと、です。「君が代」の歌詞は、文字記録としては、冒頭の句が「我が君は」となったものが、詠み人知らずの句として、古今和歌集に出てくるのが最初です。
 詠み人知らずの句というのは、歌謡の一種であった場合もあり、実際、次にこの句が記録されているのは、「和漢朗詠集」で、いろいろな写本が伝わる中、鎌倉初期だかには、すでに「君が代」になったものがあるのだそうです。
 君が代は賀歌でして、その後もさまざまな歌謡に歌い継がれ、維新の時点で、大奥の祝歌にも、薩摩琵琶歌にも、君が代の歌詞があったんですね。薩摩では特に親しまれていたようで、島津重豪公は、ローマ字で君が代の歌詞を書き残していたりします。
 しかし浄瑠璃や瞽女唄にもあるそうですから、日本人のあらゆる階層に親しまれていた賀歌で、たしかに、国歌の歌詞としてはふさわしかったでしょう。
 問題は、メロディでした。

 エジンバラ公の訪日行事も無事終わり、薩摩鼓笛隊はフェントンに弟子入りします。
 しかし、前述の通り、楽器が届いて本格的に練習をはじめたのが、翌明治3年の7月です。
 一ヶ月ほどで、なんとか形にはなったようでして、8月には横浜山手公園で、イギリス軍楽隊と競演。
 それからまた一ヶ月、明治3年9月8日に、越中島で、天皇ご臨席の薩長土肥四藩軍事調練があり、そこで、薩摩バンドがデビューすることになったんですね。ここで君が代が演奏されていますので、通説である大山巌や薩摩の大隊長が出てくるのは、この時のさわぎなのじゃないでしょうか。
 前年の譜面が、当然あったでしょう。
 国歌といえば、歌詞が必要です。薩摩バンドのメンバーに、楽譜をくばるにあたって歌詞を入れようとし、フェントンは、前年、原田宗助が歌った歌詞を問い合わせ、国歌の歌詞がそれでいいのかどうか、念押ししたのではないでしょうか。
 後年、この2年間にわたる出来事が、当事者、関係者の頭の中で混乱し、さまざな証言になったのだと、私は思うのです。

 薩摩バンドが中心となり、引き続きフェントンが教師を務めた海軍軍楽隊は、薩摩琵琶歌をフェントンが採譜、編曲した第一の君が代を、国歌として演奏し続けました。
 しかし、歌詞をつけて歌ったのは、前回に述べた雅楽の人達のみ、です。
 天長節の宮廷儀式で歌ったのですが、「歌い辛かった」との回想があります。
 一方、フランス式を採用し、フランス軍事顧問団のラッパ手だったシャルル・ダグロンから軍楽を教わることとなった陸軍軍楽隊(こちらの中核メンバーも薩摩バンドです)は、「国歌」演奏の必要が生じた場合、外国の国歌や、フランスのラッパ曲「オーシャン」を演奏していたといいます。
 もっとも、薩摩バンドのメンバーが多数残り、軍楽長フェントンを教師としていた海軍の方が、陸軍より演奏技術がすぐれていたのは当然でして、公式行事では、海軍軍楽隊がメインとなっていたのですが。
 その海軍軍楽隊も、薩摩琵琶歌にわか採譜のメロディを、気に入ってはいませんでした。
 薩摩バンドの若手メンバーで、初代海軍軍楽長であった中村裕庸は、「フェントンの作曲は当時英語の通訳たりし原田宗助の歌へる国訛りの曲節を聞き日本の曲風をとらんとしたるものの如く三十一文字ことごとく二分音符を配したる誠に威厳なきものなりしをもって、(薩摩バンドの)楽長鎌田新平は他に改作を期することとし採用したるものなるにより」と、語り残していまして、歌詞は君が代でいい、としたものの、吹奏楽用向けの編曲にはまったく向かず、しかも日本の音楽を代表するわけでもない薩摩琵琶歌では、国歌として威厳に欠けると、当初から、雅楽による作曲を考えていたようなのです。
 海軍軍楽隊は、新たに君が代のメロディを作ろうと、和歌と音楽との関係を雅楽の人達に教わったりもしていたのですが、実現しないうちに、フェントンが去り、エッケルトが来日して、現行の君が代メロディが誕生したわけです。
 海軍省から宮内省に雅楽での作曲が依頼され、いくつか候補曲が出て、その中から和声をつけて編曲しやすいものをエッケルトが選んだ、という順番であったとか。

 「国歌」という概念は、ヨーロッパにおいて、近代国民国家とともに生まれたものです。
 日本では、歌詞ばかりが注目される傾向が強いのですが、儀礼歌としては、演奏される場面の方が多く、独立国として、欧米諸国とつきあうにおいて、最初に必要とされるのはメロディの方です。
 しかし、器楽演奏そのものが西洋のものですし、西洋諸国以外の国では、よく知られた賛美歌などのメロディを借りて国歌としていた国も多く、ごく最近までありました。
 日本でもそうなのですが、民間歌謡はそもそも、一つの歌詞に一つのメロディということはなく、三千世界の鴉を殺しで述べました都々逸のように、歌詞も変われば、メロディも変わるものです。
 国歌を、まずは歌うものとしてとらえると、メロディはある意味、どうでもよくなるのです。

 日本は、薩摩藩のいち早い西洋音楽導入の試みによって、国歌におけるメロディの重要性を認識することとなり、日本における儀礼音楽といえば雅楽ですし、雅楽による作曲で、メロディにも国柄を盛り込むことができたのだといえるのではないでしょうか。

 最後に、これは趣味です。YouTubeの君が代独唱の中では、Gacktが一番(笑)

君が代ーGackt(YouTube)

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鹿鳴館と軍楽隊

2008年01月25日 | 明治音楽
鹿鳴館 (新潮文庫)三島 由紀夫新潮社このアイテムの詳細を見る



 本日は、前回のチェロが歌う「海ゆかば」の続きです。

 1月5日の夜です。
 風邪をひきこんでいましたから、寝床でテレビでも見るしかないなというのもあって、フジの「のだめカンタービレ」にしようか、テレ朝の「鹿鳴館」にしようか迷ったのですが、のだめはどうも、原作のイメージとあわなかったので、これも感心しないなあ、と思いつつ、「鹿鳴館」を見ておりました。
 こちらも原作は読んでおりますので、どう処理するだろうか、ちょっと見てみたい場面がありまして。
 気になっていたのは、鹿鳴館における舞曲演奏です。いったいだれが演奏していたのか? です。

 去年の正月、陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌で、
「実は、『抜刀隊』の歌が最初に演奏されたのは、明治18年の鹿鳴館だったのです。
それを、前田愛氏は、皮肉なこととして描いておられますし、江藤氏もまた「少々グロテスクな様相」としています」
と書き、そのときは、それもそうかな、と思っていたのですが、次第に、いや、別に皮肉でもグロテスクでもないんじゃなかろうか、と思うようになりまして。

 ピエール・ロチの「江戸の舞踏会」(「秋の日本」収録)については、猫絵と江戸の勤王気分で触れました。
 原作である三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」にロチは出てきていませんが、テレ朝ドラマはロチを出していましたから、「江戸の舞踏会」とテレ朝ドラマは、同じ日の夜会を描いているわけです。
 ピエール・ロチの来日は明治十八年。「江戸の舞踏会」はその年の天長節の夜会を描いたもので、主催者は外務大臣井上馨と夫人の武子です。で、三島由紀夫の「鹿鳴館」のヒロイン影山朝子も、井上武子伯爵夫人をモデルにしている、といわれていますので、同じ日であっても不思議はないわけです。

 モンブラン伯にとりつかれたあたりから、なんですが、鹿鳴館の舞踏伴奏はだれがしていたのだろう? とふと思うようになりまして、そこのところを気にしながら、「江戸の舞踏会」を読み返してみたのです。
 以下、村上菊一郎・吉氷清訳の「江戸の舞踏会」より引用です。
 
「一方はフランス人、もう一方はドイツ人の、二組の完全なオーケストラが、片隅に隠れて、最も著名なフランスのオペレットから抜萃した堂々たる四組舞踏曲《コントルダンス》を演奏している」

 当時の日本で、きっちり舞踏曲を演奏できる楽団といえば、陸海の軍楽隊しかないはずなのです。
 おまけに、当時の軍楽長は、陸軍がフランス人のシャルル・ルルー、海軍がドイツ人のフランツ・エッケルトですから、フランス人、ドイツ人というのは指揮者の話で、日本の陸海軍楽隊の競演でまちがいなかろう、とは思ったのですが、ひっかかったのは、「オーケストラ」という言葉です。
 オーケストラは、管弦楽団です。しかし軍楽隊は吹奏楽団。つまり、基本的にヴァイオリンなどの弦楽器がありません。

 ロチの原文は、本当に管弦楽団となっているのでしょうか。
 フランス語が読めませんし、確かめようもないのですが、どんなものなんでしょう。
 ロチは海軍士官です。軍艦には軍楽隊が乗り込んでいて、寄港先でその地の有力者の娘さんなどを招き、軍楽隊の伴奏、つまいは吹奏楽で舞踏会を開く、というのは、当時の普通の軍艦外交ですから、ロチは、軍楽隊の伴奏を当然と思っていたはずなのです。
 本当に管弦楽団なら、宮内省洋楽部も鹿鳴館で演奏していた、という話ですから、そういう場合には、軍楽隊にまざって弦楽器を受け持ったのかなあ、などとも思ったりしていました。

 宮内省洋楽部、というのは、です。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1で書きましたような状況で、あるいはモンブラン伯が指南なんぞしたのでは、と私は妄想するのですが、西洋の儀式、儀礼には、音楽がつきものです。
 で、日本で儀式音楽といえば、雅楽しかありません。
 王政復古はなりましたし、先祖代々雅楽を伝えてきた朝廷の奏者たちが、がぜんはりきったんですね。
 
 西洋の軍楽と儀式音楽は、同じようなものでして、つけくわえるならば、舞踏音楽もそうです。

 日本の本格的な洋楽導入は、明治2年、薩摩藩が、駐日イギリス軍の軍楽隊に協力を求め、島津久光公の肝いりで、高価な楽器を注文して、軍楽隊を結成したことにはじまります。
 すぐに藩はなくなり、この薩摩バンドは、陸海にわかれて軍楽隊の中核となりますが、自藩の勢力が強い海軍へ行くことをみんな望んで、陸軍軍楽隊は当初、海軍よりも貧弱であったようです。

 で、まあ、おそらく、です。欧米諸国との外交儀礼のたびに、薩摩バンドを中核とする軍楽隊と、古式豊かな雅楽でなんとかしのいでいたのでしょうけれども、はりきった雅楽奏者たちが、軍楽隊に出向いて、洋楽も学ぶことになったんですね。
 その雅楽奏者の一部は、そのうち弦楽も学んだ、というのですが、これがだれに学んだものやら、よくはわかっておりません。
 ともかく、です。明治12年から海軍軍楽隊の軍楽長となりましたエッケルトが、雅楽隊の方のめんどうもみまして、そのときには弦楽器も教えたそうなのですが、どうやらエッケルトはあまり弾けなかったようで、自分が弾いて指導は、できなかったそうなのです。
 このようにして、宮内省洋楽部には弦楽奏者が幾人かいたのですが、少数です。基本的には、軍楽隊の吹奏楽であったはずだよなあ、などと考えていましたら、洋楽導入者の軌跡―日本近代洋楽史序説という本にめぐりあいまして、やはりそうだったんです。
 日本の洋楽の歴史に詳しい堀内敬三氏が、実際に鹿鳴館で演奏した古老の談話から、「伴奏には陸海軍の軍楽隊が出張し、時々宮内省の人達も出たが、すべて吹奏楽でやったので管弦楽は使われなかった」と書かれているそうでして。
 また、どうやら、エッケルトは、明治18年天長節夜会に、鹿鳴館で海軍軍楽隊を指揮したような記録があるようでして、一方のシャルル・ルルーも、陸軍軍楽隊の指揮をしていたことは、ほぼまちがいないでしょう。

 芥川龍之介の短編に、ロチの「江戸の舞踏会」を素材として、その後日談を描いたとも言える「舞踏会」 (角川文庫)があります。
 芥川龍之介が、原文で「江戸の舞踏会」を読んだのかどうか知らないのですが、この「舞踏会」でも、鹿鳴館に響いていた音楽は管弦楽です。
 
 そして、困ったことに三島由紀夫も、「階段より外国人の楽士二組が手に手に楽器を携えて登場。ドイツ人の一組、フランス人の一組である」と書いていまして、ピエール・ロチの記述からなんでしょうけれども、完全に誤解していますよね。

 それで、もちろん、なんですが、テレ朝ドラマも、軍楽隊を出しはしなかったですね。
 なぜか「外国人の楽士二組」を出しもせず、燕尾服だかモーニングだかを着た音大生風の日本人が……、つまりのだめカンタービレの登場人物のような人達が一生懸命ヴァイオリンなんかを弾く感じで、ものすごい違和感でした。
 といいますのも、その前に、ご婦人方が屋敷の庭から、練兵場の観閲式だかを遠望するシーンがありまして、当然、陸軍軍楽隊が演奏しただろう設定の、分列行進曲が流れていたんです。
 なんだかこう、軍楽は硬派、舞踏曲は軟派、という色分けですよね。
 しかし、行進曲と舞踏曲は兄弟のようなもので、軍楽隊とは、行進曲と共に、舞踏曲も演奏するものです。どちらも、当時の外交儀礼に欠かせないものでしたので。
 つまり、軍楽隊が演じますのは、基本的に公的な場でして、外務大臣が皇族の臨席を得て開く舞踏会は、個人的な趣味ではなく、公的な外交の場なのですから、軍楽隊が演じるのです。
 駐日各国大使館が催す舞踏会も、それぞれの国の軍楽隊が演奏していたわけですし。

 えーと、です、だから、シャルル・ルルーによる抜刀隊の初演が鹿鳴館であることは、ごく自然なことだったんです。

 いったい、芥川龍之介から三島由紀夫まで、この延々と続いている日本人の誤解はなんだったんでしょうか?
 どうも日本人には、音楽や舞踏といえば個人の楽しみ、という感覚が、かなり昔からしみついていたような気がするのです。

 雅楽はそもそも、王朝の舞曲であり、軍楽ともなりえる儀礼楽でしたよね。
 平安時代、雅楽の演奏家や舞人は、衛府に属してまして、衛府とはそもそも、軍事組織なんです。
 源氏物語で、光源氏と頭中将が青海波を舞う場面がありますが、二人は近衛の武官で、武官装束で舞うんです。
 武士の世になって、あいかわらず儀礼音楽といえば雅楽しかなかったのですけれども、音楽や舞踏が公的な催しにつかわれる場が少なくなっていき、儀礼音楽が軟弱なものだと受け取られるようになっていったのでしょうか。
 
 外交感覚にすぐれた薩摩藩が真っ先、そして雅楽奏者たち。という順番で、洋楽にとびついたのは、武と結びついた儀礼音楽の日本における貧弱さに、いち早く気づいたからなのだと思います。

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チェロが歌う「海ゆかば」

2008年01月23日 | 明治音楽
海ゆかばのすべて
オムニバス,日本合唱団,奥田良三,東京音楽学校,石川高,徳山レン,和田信賢,掛橋佑水,花崎薫,寺嶋陸也
キング

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 このCD、だいぶん以前に買っていたのですが、まちがえて他県の友人に送ってしまったりしてまして、最近まで、よく聞いていなかったんです。
 
 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍
 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ

 この「海ゆかば」の歌詞は、万葉集におさめられた大伴家持の長歌の一部でして、メロディーは賛美歌か聖歌のような、荘重な洋風です。
 万葉歌が西洋音楽で歌われるということは、他にあまりありませんし、昔から、とても心ひかれる歌でした。

 一昨日書きましたように、去年Apple iPod touch 16GBを買いまして、よく音楽を聴くようになりました。それで、このCDもじっくり聞いたんです。
 戦前の古い録音から、現在のものまで、いろいろな「海ゆかば」がおさめられていまして、なかには、昭和17年、いわゆる9軍神の葬儀で、「海ゆかば」が流れる中、弔辞を述べる海軍大臣が感極まって言葉をつまらせた録音とか、戦後、戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」の朗読LPが発売されたんだそうですが、その冒頭、渥美清が「海ゆかば」をバックに朗読し、最後に、後半の歌詞を歌ったものとか、どれも聞かせるんですが、私がもっとも感動したのは、昭和17年、戦時中の録音で、ピアノ伴奏によるチェロの独奏でした。
 なにしろ戦中のSPですから、録音が悪い。にもかかわらず、そのチェロの音色が、歌うように美しく、せつないほどに心にしみるんです。
 編曲とピアノ伴奏は高木東六。この編曲もよくって、高木東六氏、名前はなんとなく知っていたんですが、詳しい経歴とかは知らなかったので、調べてみましたら、戦前、昭和初期に、パリのコンセルヴァトワールへ留学していた方なんですね。

 チェロ独奏の倉田高については、まったく知りませんでした。
 CD付属のパンフレットによれば、「昭和11年(1936)、東京音楽学校を卒業後、日本青年館でデビュー、ちょうどフランスから来日中の巨匠モーリス・マレシャルに見出されてパリに留学した。翌年5月、フランス国内のコンクールで一位となり、2年後にコンセル・プレーのメンバーになって活躍した。またスペインに楽旅して、フランコ将軍夫妻の前で演奏している。昭和15年(1940)、パリのサール・ガルボーやサール・ショパン=プレイエルでのリサイタルや、ラジオの出演で、最も将来を嘱望される若手という高い評価を得て帰国した」となっていまして、「彼の活躍が戦時中に止まり、存命であれば、戦後の日本のチェロ界に新風を吹き込んだであろうことを思うと夭折が惜しまれる。なお彼は現役のチェリスト倉田澄子の父親である」と結ばれています。
 このすばらしいチェロ奏者について、もう少し、詳しくわからないだろうかと、検索をかけてさがしていましたところが、もしかすると載っているのではないか、という本が見つかりました。
「長岡輝子の四姉妹―美しい年の重ね方」という本です。
女優長岡輝子の末の妹、陽子さんが、倉田高と結婚し、倉田澄子の母となった人だったんです。

 安く古書が出ていましたから、期待をかけて、さっそく購入しました。載っていました。
 倉田高の帰国は、昭和15年、第二次大戦の勃発によるものだったんだそうです。倉田高の師であったマレシャルは、第一次大戦では自動車隊の勇士だったので、「今度も志願したい」と言っていたと、高は帰国後に新聞で述べているのだとか。
 高と陽子の結婚は昭和17年。恋愛結婚です。
 高と高木東六とは、同じくフランス留学経験者だったこともあって、非常に息が合い、よくいっしょに演奏をしていたようです。戦争が激しくなってくると、音楽挺身隊として日本各地の部隊や軍需工場へ、慰問に駆け回る毎日。
 そのうち高は病(肺結核)に倒れ、終戦の年の秋、一人娘を陽子の手に残し、疎開先の箱根で息を引き取りました。
 終戦のとき、病に伏せっていた高は「何だか、おくれをとったような気がするな」とつぶやいたのだそうです。
 倉田高が弾く「海ゆかば」は、親族や友人をも含めて、戦場に赴く男たちへの、心を込めたはなむけだったのです。
 チェロを歌わせる天性の才能に加えて、その切迫した高の思いが、これほどまでに美しい「海ゆかば」を残したのだと、納得したような次第です。

 日本の洋楽導入は軍楽にはじまり、最初にパリのコンセルヴァトワールへ留学したのも、明治15年、陸軍軍楽隊員の二人です。明治期、洋楽といえば軍楽隊であり、鹿鳴館の舞踏会も、陸海軍の軍楽隊なくしては成り立たなかったのです。

 このCDにはそれも入っているのですが、実のところ、明治の「海ゆかば」は、現在の曲ではなく、ちょっと君が代にも似た雅楽調の曲でした。君が代に似ているといいましても、言い方は変なのですが、もっとこう陽気なものでして、軍艦マーチのトリオ(中間部)は、この明治の「海ゆかば」を編曲したものです。
 万葉研究の第一人者、中西進氏によりますと、「海ゆかば」の歌詞は、実は「勇壮な言挙げ」なのだそうでして、鎮魂の歌ではないのだそうなのです。
 続日本紀の記事によれば、「海ゆかば」は大伴氏が代々伝えていた歌なんだそうです。天平の昔、東大寺の大仏に塗る金をさがしていた朝廷に、金が掘り当てられたという朗報が入りました。それを喜んだ聖武天皇が大伴、佐伯氏の忠誠を称えた詔を発し、その中で、この歌を引用しているのだと。
 ちなみに続日本紀の方では、万葉集の「かへりみはせじ」という結句が、「のどには死なじ」になっています。雅楽調で使われているのは、こちらの方です。
 これも変な言い方かもしれませんが、「こういう覚悟でがんばっている!」という宣伝歌だったんですね。明治の雅楽調が陽気に聞こえても、不思議はなかったんです。

 現在知られている「海ゆかば」のメロディーは、昭和12年(1937)、倉田高がフランス留学したと同じ頃に、信時潔によって作曲されたものです。
 このメロディーと、その直後の太平洋戦争で鎮魂歌のように歌われたこととで、この歌は悲しみの歌となったんです。
 信時潔は明治20年(1887)に牧師の子として生まれ、賛美歌に親しんで育ち、東京音楽学校でドイツ人の音楽家に学びます。その後、ベルリン留学して、本格的に作曲を勉強した人で、すでにこの時代になってくると、軍楽隊とは関係なく、西洋音楽を学ぶ者が多くなっていたのです。

 倉田高がチェロで奏でる「海ゆかば」を聞いていますと、軍楽にはじまった日本の洋楽が、軍楽を離れて親しまれるようになり、しかし、再び時代の要請で、美しい軍楽として結実したその数奇が、胸に迫ります。

 幕末から明治にかけての洋楽の導入については、また改めて詳しく語りたいと思います。

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陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌

2007年01月02日 | 明治音楽
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戦前日本の名行進曲集~陸軍軍楽隊篇~
行進曲, 陸軍軍楽隊
キングレコード

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あけましておめでとうございます。
元旦には初詣のはしごをしまして、最後は護国神社でした。いえね、うちの地方では、おそらく護国神社がもっとも初詣客が多いんです。
いつも行く近所の延喜式内社、つまり10世紀初頭から朝廷に認められていた由緒ある神社ですが、ここもまあ、かなりの人出ではあります。次に、藩政時代に藩主がこの式内社から分祀したような形の神社で、非常に格式は高いのですが人出の少ないところへ行き、そして最後が、人であふれる護国神社でした。
それで、というわけではないのですが、本日は帝国陸軍分列行進曲のお話しです。
このCD、戦前の帝国陸軍軍楽隊の演奏がおさめられていまして、トップが分列行進曲。

YouTube『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-1)

昭和18年、雨の神宮。当時女学生だった母は、学校でこの映画を見ていて、私が子供の頃、幾度もそのときの哀切な思いを話してくれていました。このとき、ずっと流れていた曲が、帝国陸軍分列行進曲です。
ところが、です。なつかしいだろうと思いまして、「これ、なんの曲かわかる?」と、母に聞かせてみましたところが、「なんだか、聞いたことがある曲ねえ。トルコの行進曲じゃない?」といわれて、がっくりきました。
「忘れたの? 陸軍の分列行進曲よ。雨の神宮でも流れていたでしょ?」というと、さすがに思い出しましたが、母に言われてみれば、どことなくトルコの軍楽に似ているんですよねえ。下のサイトさんに、「旧日本陸軍分列行進曲 抜刀隊」と「トルコ軍楽 古い陸軍行進曲ジェッディン・デデン(先祖も祖父も)」と両方ありますから、聞きくらべてみてください。もっとも、分列行進曲の方は、前奏が略されています。

MIDI pro musica antiqua 軍楽等のコーナー

さがしていたら、陸上自衛隊中央音楽隊の演奏がありました。帝国陸軍分列行進曲は、現在も陸上自衛隊に受け継がれているのです。

YouTube JSDF MARCHING FESTIVAL 2006

下は、ロック調ジェッディン・デデン(先祖も祖父も)です。あまりによかったので、ついリンクを。YouTubeには、メフテルの正調演奏もいくつかあるようですので、聞いてみてください。

YouTube zafer i?leyen ceddin deden

実は最近、前田愛著『幻景の明治』という本を読みました。これに「飛ぶ歌 民権歌謡と演歌」という章がありまして、否定的なニュアンスで、陸軍分列行進曲(抜刀隊の歌)が取り上げられていたんですね。
先ほどから、陸軍分列行進曲イコール抜刀隊の歌のように書いていますが、厳密にはイコールではありません。しかし、陸軍分列行進曲は、抜刀隊の歌を取り込んでいるのです。抜刀隊の歌は、明治10年、西南戦争時の軍歌です。

天翔艦隊 軍楽隊 抜刀隊

こちらのリンクに歌詞が載っておりますが、官軍、つまり政府軍の側の軍歌です。
しかし「天地容れざる朝敵ぞ」と歌いながら、「敵の大将たる者は、古今無双の英雄で、これに従うつわものは、ともに剽悍決死の士」と、西郷軍を褒め称えていまして、なんとも不思議な軍歌なのです。
作詞は外山正一。元幕臣です。幕末も押し詰まった慶応2年、林董(蘭医佐藤泰然の子で松本良順の弟。函館戦争に参加。日露戦争時のイギリス大使で日英同盟の立役者)などとともに、19歳にしてイギリスに留学しました。瓦解によりやむなく帰国しますが、外務省にひろわれ、薩摩のイギリス留学生だった森有礼の引き立てでアメリカ留学。化学と哲学を修めて学者となり、東京帝国大学初の総長となった人です。

東京大学コレクション 幕末・明治期の人物群像 幕末の遣欧使節団 5.幕府イギリス留学生

明治15年、正一は『新体詩抄』を発表しますが、その中に、この『抜刀隊』がありました。「フランスの『ラ・マルセイエーズ』やドイツの『ラインの守り』のような愛国歌に倣って作ってみた」という詩なんです。
作曲は、フランス人お雇い軍楽教師のシャルル・ルルー。ルルーを雇ったのは、西郷隆盛の従弟である大山巌です。

前田愛氏によれば、堀内敬三氏がこういっていたのだそうです。
「ビゼーの『カルメン』を下敷きにつくられた『抜刀隊』のメロディーは、『ノルマントンの歌』から『小川少尉の歌』を経て、添田唖蝉坊の名作『ラッパ節』にいたるまで、演歌のもっとも代表的な旋律としてうたいつがれた」
とりあえず驚いたのは、「ビゼーの『カルメン』を下敷きにつくられた」という部分です。初耳でした。

SigMidi MIDIダウンロード

上のサイトさんで、ビゼー「カルメン」組曲1番 アルカラの龍騎兵、を、お聞きになってみてください。たしかに最初の部分が似ています。
ビゼーはフランス人で、歌劇『カルメン』の初演は1875年(明治8年)、パリのオペラ・コミック座。シャルル・ルルーが、そのメロディーの一部を、日本での作曲に使ったとしても、なんの不思議もないわけなのですよね。
ただ、ふと、ビゼーもまた、どこかからこの旋律をひろった可能性はないのだろうか、と思ったりします。どこかって、もちろん、トルコの軍楽です。
以前にヤッパンマルスと鹿鳴館でも少し書きましたが、西洋のマーチ、行進曲は、オスマントルコの軍楽の多大な影響を受けて成立したものです。

ジェッディン・デデン(祖先も祖父も) トルコ軍楽隊

バー ステイツ コラム

上のバー ステイツ コラムさんの投稿「Vol.174 ウィーン包囲 投稿者:KEN1 投稿日:2004/05/09(Sun) 16:04 No.553」が、とても詳しく、トルコ軍楽の西洋音楽への影響を、まとめておられます。
さらにいえば、『カルメン』の中で一番有名な『ハバネラ』なんですが、ビゼーは、キューバのハバナの民謡と信じた曲をモチーフに使っているんですね。その曲は民謡風でしたが、実はスペイン人の作曲者がいて、裁判沙汰になったりしています。

さて、堀内氏の「演歌のもっとも代表的な旋律としてうたいつがれた」という後半の部分なんですが、前田愛氏は、さらにこの旋律から、「私の家内が、群馬県の疎開先で聞きおぼえた手合わせ歌を三十年ぶりにおもいだしてくれたのである」とおっしゃるのです。

ごんべ007の雑学村 なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡

上のサイトさんに『一かけ二かけて』というわらべ歌があります。これがその「手合わせ歌」です。

一掛け二掛けで三掛けて 四掛けて五掛けて橋を架け
橋の欄干手を腰に はるか彼方を眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香を手に持って もしもし姉さんどこ行くの 
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦役に 切腹なさった父上の お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン

昔、NHKの大河ドラマで司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』をやったんですが、そのラストで、この歌がうたわれていたんです。
私にとっては、まったく知らない童謡だったんですが、いっしょに見ていた父母が、突然、声をあわせて歌いはじめて、びっくりしました。なんでも手まり歌で、子供の頃によく、この歌を歌いながらまりをついて遊んだんだそうだったんです。
似ているんでしょうか? 陸軍分列行進曲、抜刀隊のメロディーに。
いえね、明治から昭和へ、戦前の日本に流れていた、どこか哀しく、それでいてなぜかなつかしいような、そんななにものかが、地下水脈となって、陸軍分列行進曲とこの手まり歌をつないでいることは、感じられもするのですが。

江藤淳氏の晩年の著作に、『南洲残影』があります。
最初にこれを読んだとき、ほんとうに久しぶりに泣きました。
なんといえばいいんでしょうか、『海は甦える』で、明治海軍を取り上げ、近代海軍が代表する西洋近代の合理性を、肯定的に描いた江藤氏が、まさかこんな風に西南戦争を描き、西郷軍とともに滅び、そして先の敗戦で再び滅びた「何ものか大きなもの」、「もう二度と取り戻すことができないもの」への哀惜の情をつづられようとは、思いもかけないことでした。
そして私は、この本ではじめて、陸軍分列行進曲と抜刀隊の関係を知ったのです。
江藤氏によれば、シャルル・ルルーが作曲した日本陸軍分列行進曲は『扶桑歌行進曲』という曲で、後に定まって、雨の神宮でも流れた日本陸軍分列行進曲とは、似ても似つかないものだったのだそうです。
ルルー帰国後、陸軍分列行進曲は変遷を経ますが、最終的に、扶桑歌行進曲の前奏のみを残し、同じシャルル・ルルー作曲の『抜刀隊』に入れ替えられたのだというのです。
「この改変の過程から浮かび上がって来るのは、明治の日本人にとって『抜刀隊』の歌が、いかに特別な歌だったかという動かし難い事実である」と江藤氏。

実は、『抜刀隊』の歌が最初に演奏されたのは、明治18年の鹿鳴館だったのです。
それを、前田愛氏は、皮肉なこととして描いておられますし、江藤氏もまた「少々グロテスクな様相」としています。
しかし、続けて江藤氏は、『抜刀隊』を作曲したルルーの心情について、「作曲者自身に国籍を超えた西郷への共感がなければ、あのような曲譜が生まれるはずもないではないか」とし、またルルーを雇った大山巌の存在を描きます。
さらに、作詞の外山正一についても、「この稀代の秀才が、その心の奥底に西郷、桐野や貴島の、そして特攻隊の諸士のエトスに通じるものを共有していたとしても、少しも不思議ではない。外山もまた二十一歳のとき、幕府留学生として滞在していた英京ロンドンで、幕府の瓦解、つまりは滅亡を遠望していた一人だったからである」というのです。
鹿鳴館の舞踏会もまた、二度と帰りこないものへの哀惜とともにあった、悲壮な舞いであったのかもしれないのですよね。それがいかに皮相に見えようとも、そうせざるをえなかった人々の心情としては。

『南洲残影』の最後もまた、あの不思議な手まり歌で結ばれるのです。

お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン


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ヤッパンマルスと鹿鳴館

2005年12月04日 | 明治音楽
二本松少年隊でぐぐっていたら、詳しいページを見つけました。

幕末とうほく余話

東北の地方出版社のページみたいですね。
いえ、二本松少年隊のことだけではなく、幕末の軍楽について詳しく述べられていて、感激です。注目は、以下の部分。

『日本音楽の歴史』(吉川英史、創元社)に、「天保年間(1830~43)、長崎の高島秋帆はオランダ式鼓笛隊を作りあげた。彼はオランダ式兵学を学んで歩兵の調練を行ったので、それに伴う鼓笛隊が必要になったのである。これ以来、諸藩に新しい兵学や軍楽が行われるようになった」と書いてあった。
 高島秋帆は、長崎の町年寄で、独学で西洋流の砲術を研究し、「高島流砲術」を創始した人だ。幕府に洋式兵制の採用を建言し、天保十二年には、現在の東京都板橋区高島平の原野で、洋式大砲の実射を披露した。ちょうど中国ではアヘン戦争が起きていて、幕府も西洋の軍事力に注目し始めたころだ。
 しかし、これで鼓笛隊が広まったというのは、ちょっと時期が早いと思う。幕府はもちろん、諸藩もまだ、全面的な兵制改革の必要性を認識してはいない時期だからだ。やはりそれは、幕末のことだろう。

 たしかに、実際に鼓笛隊がひろまったのは幕末なのでしょうけれども、西洋軍隊の優秀性と、それを取り入れるには西洋音楽の導入が必要だ、という認識は、識者の間で、かなり早くからひろまっていたようなのです。
 例えば、長州の来原良蔵。たしか桂小五郎の親戚筋で、吉田松陰にも信頼された人ですが、文久二年に切腹して果てています。その彼が、若い頃から、首から太鼓を下げ、鼓手のまねをして歩いていたというのです。万延元年には、長州西洋銃陣の改革に努めています。
また、佐賀の江藤新平が幕末に藩庁へ出した建白書に、「西洋音楽を取り入れる」といった項目がありまして、読んだ当初は、なぜに音楽? と疑問を持ったのですが、西洋軍制を導入するにあたっては、西洋音楽が欠かせなかったんですね。
先日読んだ野口武彦氏『幕末伝説』の中にも、「赤房のラッパ」という一編があり、幕末歩兵隊の喇叭手に、スポットがあてられていました。『幕府歩兵隊』の方には詳しく、上記のサイトにある「日本人は行進ができなかった」という話も、出てきました。
以前になにかで読んだのですが、五稜郭に集まった旧幕軍の行進を、加勢したフランス軍人だったか、函館在住の外国人だったかが見て、「行進がまったくできていない」というような書き残しもあります。

以前、自分のBBSで、軍楽について情報を求めたことがあるんですが、そのとき解明したかった疑問は、なぜ日本の音楽は、流行り歌までが西洋音階、リズムになってしまったか、ということでして、中近東やインドなどでは、ごく最近まで、流行り歌は民族音楽だったんですね。
もちろん、明治新政府が、西洋音楽の普及をはかり、小学校から教育したからなんですが、それはなぜなのか、といえば、近代軍隊の歩兵に必要なリズム感を、国民一般につけさせるためでしょう。
ではなぜ、中近東やインドでは、その必要がなかったのか? と考えて、西洋軍楽の歴史に興味を持ったんです。
で、知ったのですが、もともとの西洋軍楽は、喇叭が中心で、太鼓は使っていなかったんです。西洋軍楽が太鼓を取り入れたのは、オスマン・トルコの軍楽の影響でした。
トルコ軍楽は、どうやら世界遺産になったようですね。無料で聞けるトルコ語のサイトを見つけていたんですが、ちょっと出てきません。
ともかく、影響を与えた方なのだから、性急に取り入れる必要はなかったのだろう、という結論です。
西洋音楽が、軍隊と密接に関係して発展を遂げたのならば、西洋舞踏だとて、そうです。下は、以前に映画『山猫』の感想で、紹介したサイトなんですが、きっちり解説してくれていました。

武闘と舞踏の関係

日本の舞踊にも剣舞もあれば黒田節もあるが、舞踊でいつも軍事訓練をしていたわけでなないし、踊りのお師匠さんが剣術の指南をする必要もなかったし、道場で舞踊を教えたのでもながった。
しかし、ヨーロッパの貴族社会、例えばフランスでは、バロック舞踏の教師が剣術と乗馬を教えていたのである。
図1はその道場である。バロック舞踏の動作はフェンシングや乗馬と共通したものがあるという指描も的外れではないのである。
貴族、騎士階級に限らないで、兵卒達の動きを見ても舞踏との関わりは深い。西欧の音楽にしろ舞踏にしろ、その西欧的特徴というものについて輿味を抱く人は少なくないと思われるが、歩兵の戦聞法を見てみると、まさに音楽と舞踏で西欧的と感じられた特徴がそのまま軍事技術とも関連し合っているのがよくわがる。
(中略)
集団の統一のとれた運動と団結力を期するには、歩調を揃えなければならないが、足並みを揃えるリズムを指令するのが太鼓などの打楽器で、旋律を付け士気を盛り上げたのが笛類であった。
軍団の隊長に旗手のほか鼓手と吹手が配されており、この隊長付きめ楽隊が兵士たちを奮い立たせ、整然と死地に赴かせたのである。
《キャプテン・デゴリーの鈷吹きのガイヤルド》という曲はよく知られているが、この笛吹きも、軍団の行進、戦闘、凱旋での勤め他、舞踏会では伴妻を行なったはずである。
ルネサンス舞曲では太殻を用いるが、太鼓そのものも、その使い方も軍事技術として発違したものの平和利用と言えるだろう。

こう見てきますと、幕末の少年太鼓手や喇叭手の孤影に、戯画のような鹿鳴館の舞踏会が、不協和音を放ちながら、重ならないでもないのですね。
最後に、軍楽が聞けるサイトを見つけました。
トルコのジェッディン・デデンもありますし、幕末維新のヤッパンマルスもあります。しばらく、聞き惚れてしまいました。

軍楽等のコーナー
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