郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」前編

2018年02月24日 | NHK大河「西郷どん」

 大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場の続きです。
 まず、第6話「謎の漂流者」の感想なんですが、なに、このジョン万の描き方!!!と、少々うんざりしてます。
「ラブぜよ」はいいんですが、「アメリカではラブがなければ結婚しない」みたいなことを、言ってなかったですか?
 これが、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の成果でなくて、なんだというのでしょう!!!
 「海の向こうの民主的なアメリカでは愛がすべてだが、遅れた君主制の日本では愛のない結婚に耐えなければならない」みたいな印象操作をしてませんか?

 だ・か・ら、幕末当時、アメリカ南部には奴隷制があったんですよ?
 愛しても身分違いで結ばれないことは普通にありましたし、金のために結婚することだって多数。
 だいたい、当時のアメリカは清教徒中心の文化が根底にありましたから、建前だけは相当に禁欲的でして、「恋こそすべて!」なんてことは、絶対にありません。
 当時のアメリカ人、ナサニエル・ホーソーンの「緋文字」、少女のころに読みましたが、あまりに理不尽な世界で、とてもじゃないですが、「アメリカでは愛がすべて」なんぞと気軽に思えませんでした。
 清教徒の文化は苛烈です。少なくとも私には、源氏物語の方がなじみやすいんです。
 ちなみに、ジョン万がアメリカを出て、琉球に上陸したのは1851年(嘉永3年)ですが、前年の1850年に、ナサニエル・ホーソーンの「緋文字」は出版されています。
 
 まあ、家族愛も恋心もいっしょくたに「LOVE」にして、つっつかれないよーに、「アメリカすごーい」気分をもりこんだところが、ずるくて、気持ち悪かった、だけの話なんですが。

 まあ、それは置いておくとしまして。
 なんでジョン万が薩摩にいたのか、あの描き方では、まったく、さっぱり、わからなくないですか?
 琉球へ上陸したジョン万が、薩摩にとって「謎の漂流者」のわけはないんですね。
 また、大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場のコメント欄で、サトウアイノスケさまがご提起くださったことですが、斉彬が唐突に「琉球出兵の命に従わず」と言い出したことといい、要するに、琉球と薩摩の問題を真正面から説明せず、突然、ぽっと、ホームドラマの中に、なにの断片やらわからないままに歴史の断片がまぜこまれていまして、なんとも落ち着きが悪いことになっているわけなんです。
 
 私、島津斉彬のことは、ほとんど調べたことがないのですが、池田俊彦氏の「島津斉彬公伝」だけは、かなり昔に買って読んでいます。
 
島津斉彬公伝 (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論社


 池田俊彦氏は、西南戦争直後の明治13年に鹿児島で生まれ、東大の西洋史学科で学んだ研究者です。
 麻布中学、学習院で教えながら、島津家の史料編纂に携わり、晩年は、鹿児島の中学校の校長に招かれました。
 なにしろ島津家の史料にタッチしていた方ですから、事実関係は確かそうなのですが、なにやら、とても筋道がわかりづらい本でした。
 しかし、この本ですでに、「琉球出兵の命に従わず」は、出てくるんです。それも、唐突に。

 まず、調所広郷の死については、「密貿易をしたと幕府から疑われて、江戸において服毒自殺」とあり、「世子斉彬を浪費家として嫌っていた」というような説明はあるんですが、直接、斉興、斉彬の親子げんかに関係するようには書いてないんですね。
 そして、その2年後、斉興が隠居しなければならなくなった理由として、「斉興の琉球における処置に不都合があった。幕府には七,八百派兵すると答えたのに、実質はわずか百五十名派兵しただけだった」 ということが、出てくるんです。
 つまり、斉興隠居のとき幕府に握られていた弱みとは、実は密貿易ではなく、「琉球に、幕府に請け負っただけの派兵をしていなかった」ことなんですね。

 えーと、私、前後の筋道がとてもわかり辛く、もう1冊、新たに島津斉彬の伝記を買って読んでみました。

島津斉彬 (人物叢書)
クリエーター情報なし
吉川弘文館


 芳即正氏の著作です。
 やはり、格段にわかりやすく書かれていました。
 そして私、自分がこれまで、お由羅騒動前後の薩摩藩について、まったくなにもわかっていなかった!ことを知ったんです。

 なにしろ、お由羅騒動です。
 島津斉興、斉彬父子の親子喧嘩に、斉興の側室・お由羅と重臣・調所広郷がからんだ島津家のお家騒動、というような、歌舞伎の題材みたいなおどろおどろしい物語にばかり、目がいってしまっていたんですね。
 
 まずは、お由羅騒動にいたるまでの薩摩藩、です。
 薩摩藩第10代藩主・島津斉興は、正室との間に数人の子女を設けていて、長男の斉彬は聡明。島津家の世継ぎとして申し分がなく、曾祖父で先々代藩主、蘭学好きの重豪にもことのほか可愛がられていました。
 
 この重豪、娘の茂姫を一橋家(徳川御三卿の一つ)の息子と婚約させておりましたところが、その息子が将軍・徳川家斉となり、茂姫はなんと、御台所となりました。将軍の正室・御台所になれるのは、京都の五摂家か宮家の娘と決まっていまして、茂姫は島津家と縁の深い近衛家(五摂家の一つ)の養女になって嫁ぐのですが、それにいたしましても、外様大名の娘とは異例中の異例でした。
 徳川家斉というお方は、後宮の華やかさで有名でして、数十人の側妻を持ち、50人を超える子女を設けました。

 まあ、現代的な感覚で見ますと、茂姫は不幸な女性のような気がするのですが、当時の正室は、相当な力を持ってきていまして、側室から生まれた子も、嫡出子にするためには正室の養子とする必要があり、側室はあくまでも使用人であって、身分が隔絶しているんですね。江戸時代前半期でしたら、男子を儲けた側室は、御殿をもらったりする場合もあるのですが、この時代、奥女中筆頭の御年寄よりも、側室の待遇は劣るほどでして、大奥ドラマに見るように、たとえ正室に子がなくとも、男子を産んだ側室を妬んだりする必要は、実のところまったくないんです。正室はあくまでも、大奥の頂点に君臨する女主人でした。
 しかも茂姫は後年、京都の朝廷から従一位に叙せられていまして、これは夫・家斉と並ぶ高位です。
 いや、だから茂姫が幸福だった、ということはないのかもしれないのですが、高位の身分には、それなりの責任が伴ってきまして、養子にした側室の子女の嫁ぎ先にも気を配り、庇護し、各大名家と交際し、華麗な大奥行事を主催し、と、するべきことは山のようにありましたので、使用人に嫉妬している暇があったのか、という話になります。

 で、高貴な将軍家御台所の父親、島津重豪は、娘のために将軍家に大金をばらまき、大奥には薩摩特産の貴重な砂糖を大量にプレゼントしまして、外様大名には考えられなかった特権を、さまざまに手に入れます。
 重豪は、次男の奥平昌高(養子に出ていました)と曾孫の島津斉彬をつれて、オランダ商館長の江戸参府に随行していましたシーボルトに会いに行っています。重豪82歳、斉彬18歳の時のことですが、シーボルトは「島津のご隠居(重豪)は60代にしか見えないほど若々しく、オランダ語をまじえて質問してきた」と書き残しています。シーボルトはですね、このとき、江戸城幕府天文方・高橋景保の手引きで、江戸城内紅葉山文庫(将軍のための貴重書図書館)の禁断の地図類を見て、写しを手に入れるのですが、秦新二氏は、著書「文政十一年のスパイ合戦―検証・謎のシーボルト事件」 において、重豪から茂姫に要請があり、シーボルトは大奥を通り抜けることが可能だったのではないか、とまで憶測しておいでです。

 重豪は42歳で、長男の斉宣・13歳に家督を譲りますが、実権は握っていました。
 しかし、やがて若い藩主のまわりには改革派の重臣が集まり、重豪の派手な交際でつのった藩財政の赤字をなんとか解消しようと、緊縮財政に走ります。
 江戸における節約を実行しようとした政策が、重豪の気に入らなかったのではないか、といわれているのですが、改革派の家臣たちは切腹、遠島多数で、政権から遠ざけられ(近思想崩れ)、斉宣は35歳で隠居。斉宣の長男・斉興が、18歳の若さで藩主となります。
 結局、重豪は実権を握り続けますが、藩財政の赤字は気にかけていて、晩年になり、下級藩士だった調所広郷を抜擢し、財政改革を任せます。
 調所広郷は、辣腕をふるい、わけても、調所の取り組みにより、薩摩藩の重要な財源となりましたのが、琉球を通じての清国との密貿易、でした。

 
薩摩藩対外交渉史の研究
クリエーター情報なし
九州大学出版会


 私、びっくりいたしました!
 徳永和喜氏の「薩摩藩対外交渉史の研究」によれば、です。調所広郷が切り開いた密貿易の要にいたのは、越中富山の薬売!だったんです。
 ドラマの中では、「薬売の越中さんが噂をしちょいもした」と、縁談に関する噂話を藩内にひろげてまわる行商さん、みたいな感じで、会話の中にちょろりと出てくるんですが、なんで、こんなわけのわからない、もったいない使い方をするんでしょうか?
 この当時、清国と日本との交易は、長崎を中心に行われていました。日本は、昆布、俵物(いりナマコ、干しアワビ、フカヒレの高級中華料理材料)といった海産物を輸出し、漢方の薬剤を輸入していました。もちろん、双方に、幕府の統制がかかっていました。
 富山の薬売は、海運業者でもあり、蝦夷や北陸の海産物を取り扱っていましたので、調所は、藩内での薬の行商を認める見返りに、良質の昆布と俵物を、ひそかに薩摩まで運ばせ、琉球交易に利用したわけです。
 薩摩藩内の関係書類はほとんど残されていませんで、徳永和喜氏は薬売側の史料に丹念にあたって、密貿易を裏付けておいでなのですが、現在、徳永氏は、西郷南州顕彰館の館長さんをしておいでだそうなんですね。ライターさんが、シナリオを書くための取材で館長さんに話を聞く、という展開は十分にありそうでして、「薬売の越中さん」だけが頭に残って、せっかくの調所の密貿易の秘密を素通り、という、なんとも残念な断片になっちゃったんでしょうか。

 で、実際の所、調所が隠居の重豪に取り立てられ、財政改革に取り組んだことは、芳即正氏の「調所広郷」に、明確に述べられています。

調所広郷(ずしょひろさと) (人物叢書)
クリエーター情報なし
吉川弘文館


 重豪が89歳で大往生を遂た後、藩主・斉興が引き続き調所を重用し、改革を続けさせたことは確かですが、それは、あくまでも重豪が引いた路線の延長、だったんです。

 ところが往々にして通説、………そうですね、例えばウィキペディアなどでは、の話ですが、「調所に改革を任せたのは斉興で、重豪によく似た浪費家の斉彬が藩主になれば、またも財政が傾く、と憂慮した斉興は、40になろうとしていた斉彬に家督を譲らず、側室・お由羅が産んだ久光を跡継ぎにしたいと望み、調所もそれに同調していた」と、されているんですね。
 しかし、ですね。これには大きな疑問があります。

 まず、重豪と曾孫の斉彬は、ともにオランダかぶれで浪費家だったとされますが、オランダかぶれ=浪費家とはいえません。
 重豪の次男・昌高は、養子として豊前中津藩主となり、シーボルトに会っていたことは前述しましたが、オランダ名を持ち、江戸の屋敷にガラス張りのオランダ部屋を造って、西洋の輸入品を展示していました。だからといって、中津藩の財政が傾いた、わけではないんですね。
 昌高が、どこからその費用をひねり出したか、なんですが、おそらく、かなりの部分、実家の薩摩藩から出ていたのではないか、と推測されます。
 つまり重豪の浪費とは、将軍家御台所となりました娘をはじめ、諸大名家に嫁いだり、養子となりました数多い子、孫へのお手当、親戚づきあいなどの経費が、莫大にふくれあがっていたことなんです。
 斉彬は子女を次々と亡くしていましたし、第一、藩主になってもいないわけですから、重豪の浪費をまねようにも、まねようがありません。

 次に、斉彬は正室が産んだ長子で、とっくの昔に世継ぎとして幕府に届け出て、お披露目されているわけですから、薩摩藩が勝手に廃嫡することは許されません。 
 先に書いたように、正室と側室の立場は隔絶していまして、斉興は、早くに正室(斉彬の母)を亡くした後、後妻を迎えていませんでしたから、久光は正室の養子にもなれていなかったんです。

 じゃあ、なぜ斉興は、藩主の座をあけわたそうとしなかったのか、そして「お由羅騒動」とは、実のところいったいなにだったのか、ですが、長くなりましたので、次回に続きます。

 第7話はなんとも地味なホームドラマでしたが、続く第8話は、ペリー来航となるようです。今度の日曜までにぜひ、続きをあげたいな、と思っています。
コメント (4)
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