郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

モンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???

2008年12月07日 | モンブラン伯爵
 えーと、モンブラン伯爵Wiki記事誕生記念プレゼント企画!で予告しましたように、薩摩ボタンはだれが考えたのか???の続きです。

 この記事、実は旅行以前に一部書きかけていまして、以下、町田清藏くんとパリス中尉の続きである部分と天璋院関係は、すでに書いてあったものです。
 で、本題には関係ありませんが、今回の旅行で一泊しました指宿市の今和泉は、篤姫さんの出身地だというので、ふれあいプラザなのはな館(菜の花くらい漢字使えよ!と思うんですが)に、ドラマで使った衣装が飾ってありました。写真を撮りましたので、ついでに載せます。

 

  ところで、最近知ったんですけど、3年も前に書いた慶喜公と天璋院vol1vol2が、他に転載されていまして(転載もと明記、リンクつきですから、いいんですけど)、ちょっとびっくりです。ドラマ効果、なんでしょうねえ。
 ただ、天璋院篤姫の実像にも書きましたが、ろくに資料も読まないで、勢いで書いてしまいましたので、細かいところでは「訂正すべきかなあ」というような点もあり、かといって、ああいうふうに流して読みやすく書きますと直すのもまた微妙な話で、めんどうです。まあ、現実になにがあったか、よりも、それぞれの心情の推理が話の中心ですから、悪しからず。

 で、本題に入りまして、薩摩ボタンはだれが考えたのか???に書きました以下の部分。

 町田兄弟の末弟、町田清蔵くんについては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1vol2で、後年の回顧談を詳しく紹介しております。
 ただ、この回顧談、はるか後年のものの上に、町田清蔵くんとパリス中尉でも書きましたが、帰国後のことはつけ足しであったらしく、年月日をそのまま受け取りますと、慶応2年に帰国して、戊辰戦争がはじまるまで、一回も薩摩に帰らないで長崎で過ごした、という、なんとなく変なことになってくるのです。
 で、私、先に書きました巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2の最後では、勘違いしてしまい、維新前に薩摩に帰ったことにしてしまっております。

 えーと、なんで勘違いしたのか、忘れてしまっていたのですが、いつものfhさまが、思い出させてくださいました。(とりとめもなく。
 町田清藏くんとパリス中尉に引用しております、清藏くんの回顧録からのを、どう解釈するか、です。

 しかるに途中、長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途にて、私が洋服にて無刀であり、其の時までは攘夷論者のおる時ですから、其の武士が抜刀して私を切らむ姿勢で向ひましたから、私は残念で泣きながら腰の六連発のピストルを差し向け、切らは切れわれはピストルでいると云ふかまえへにて、「自分は大守様の命により先年英国に留学し、今帰藩の途中、清水兼二郎、本名町田清次郎という、大目付町田民部(久成にいさんです)が実弟なり。何故あって我を切らんとせらるるや、御名前をうかがひ大守様へ言上する考」と言うに、向こうの勢一変し、無言にて一散に走りましたから、私は実に残念で跡を追ひましたが、追いつかず、伊集院というところにきますと、私の兄の用達を勤むる藩士で、大脇正之助という者と出会いまして、右の始末を語り「ぜひ右の武士の名前を調べてくれ」と申しますと、「それはおだやかに見のがした方がよろし」と言うて、それより跡先に大脇と岩崎との間にはさまれ鹿児島城下に着し、一家親族の見舞やら親族に呼はるやら五六日は席の暖まる間もなき事にて、それから親が志布志というところの地頭所に打ち立ちましたが、このときは慶応四年にて奥州征伐戦中にてありました。

 そうなんです。長崎征伐なんて言葉は聞いたことがありませんし、編者が(ママ)としているってことは、これは第2次長州征伐なんだろう、と、最初は思ったんですね。ところが、よくよく読んでみましたら、そのまま話が「このときは慶応四年にて奥州征伐戦中」に直結してしまっているものですから、だったらこれは「長崎征伐」、つまりは戊辰戦争でいいんだろうか、と思い直した次第なんです。
 しかし、なにしろこれは講演録ですから、話をはしょったり、前後させたりしていたはずで、実は長州征伐、という方が、つながりはよさげです。
 講演の速記録を、まともな文章にする仕事をしたことがありますが、話が時間的に前後したり、横道にそれて時間軸が前にかえったりは、よくあることでして、話をばらばらにして組み立て直さなければ、筋が通った文章にはならないのが普通なんです。

 で、ここからが、本日書きます部分です。
 ともかく、パリ万博以前、慶応2年に町田清蔵くんはパリのモンブランのもとから帰国しているわけでして、しかも北賴家と養子縁組みの約束ができていたわけです。
 それで私、今回の薩摩行で、「北郷久信報功事歴並歴代系譜」という本のコピーを、鹿児島県立図書館に頼んできたのですが、これはまだ届いていません。
 しかし、旅行前に、薩摩川内市川内歴史資料館に郵便小為替を送って頼んでおりました「市政60周年記念特別展 用と美 平佐焼の世界展」の図録が届いたんです。



 これがすぐれものでして、ちゃんとまとめて、平佐焼に関する歴史史料を転載してくれてます。
 その中に、「北郷久信報功事歴並歴代系譜」の一部も転載されいるのですが。

慶応元年乙丑藩において開成所を建設し英学を講習せしめることに尽力し、その教師として安保清康(男爵林謙三)、嵯峨根良吉、白川謙次朗等の人々を聘せり。久信これらの人々を自邸に客たらしめ人材を選び英学を修めしむ。また皿山陶器製造の業を拡張し、大花瓶の類を製出せしめ長崎へ輸出し、外国貿易の途を開きたり。

 えーと、です。つまり、北郷久信は、薩摩藩が開成所で英学を教えることに尽力し、安保清康、嵯峨根良吉、白川謙次朗などを教師として招いた。またこれらの人々を自宅に招き、藩士(あるいは川内領の藩士かも)の中から人材を選んで学ばせた。また、自領の陶器製造業を拡張し、大花瓶の類を製造させて長崎へ出し、海外に輸出するみちを開いた、というんです。
 自宅というのが鹿児島の自宅なのか、あるいは川内の自宅なのかわからないのですが、いずれにせよ、白川謙次朗って、モンブランがパリへ連れて行っていた斎藤健次郎、ジェラールド・ケンとしか、考えられません。
 ケンは、モンブランが白山伯と名乗ったからなのか、白川と名乗るようになっていたのです。
 ケンが開成所にいた時期として考えられるのは、おそらく、なんですが、慶応2年(1855年)です。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2を見ていただければ、だいたいの流れがわかると思うのですが、薩摩藩密航留学生とともに、薩摩使節のような形でイギリス、ベルギー、フランスを訪れていました五代パパ、新納とうさん、そして通訳の堀は、慶応元年12月26日(1866年2月2日)に、帰国の途につきます。どうもこのとき、ケンが薩摩へ伴われていったようなのです。おそらくは、パリ万博の準備のためだったでしょうし、万博に出発するまで、開成所で教授を務めたとしてもおかしくありません。
 そのケンが、北賴久信と知り合っていた、ということは、モンブランを平佐窯へ伴ったのは、清蔵くんではなく、あるいはケンであった可能性もあります。
 そうなんです。ほぼ確実に、モンブランは平佐窯を訪れていました。

 前回ご紹介しました世界に翔けた幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼―薩摩焼発祥400年記念出版が、「そのような平佐焼の窯地に、慶応2年(1866)フランスの貿易商コント・デ・モンブランが来航した」、つまりモンブランが平佐窯を訪れたのは慶応2年と誤記していたものですから、不確かな伝承かと思ったのですが、「平佐焼の世界展」図録史料集に、ちゃんと史料が転載されていまして、慶応3年になっているんです。モンブランと平佐焼に関する記述がある、いちばん古い史料は、大正15年、公爵島津家臨時編輯所発行、坂田長愛編『薩摩陶磁器傳統誌』です。

当時は多く外国向の製品をなしたりしが、かの慶応三年の初に仏国にて開会せられたる万国博覧会にて、薩摩の出品陳列に尽力し、後商会設立のために薩摩に来り、維新の際外国交際に関する種々の助言をも呈したる仏国の貴族コント、デ、モンブランも当所(平佐窯)に来りて、製品の指揮をなせしことあり。今縁端に菊花を巡らし中に玉冠を戴ける獅子の旗を持ちて対立したる紋章を描ける磁器のなお残存せるは、この時モンブランの指揮によりて製造せしものにて、その製造したる器物は三、四年分を集めて、これを長崎に搬出し、外国に輸出したりという。

 まわりを菊が囲んでいて、向獅子の紋章(サントリーのマークみたいなものです)が入った平佐焼の磁器は、モンブランが指導し、この本が出た大正末年当時、まだ残っていた、というんですね。

  ただ、薩摩ボタンはどんなものでしょうか。
 実はですね、薩摩伝承館が、薩摩ボタンを収蔵しているのです。私が見たのは、一組だけだったのですが、図録にはもっと載っていました。
 この図録を、実は私買い損ねまして、ただいま送金して注文中です。

 なんという馬鹿でしょう、私。沈壽官氏のティーカップなど、素敵なミュージアムグッズに見とれていまして、目立たないところにあった図録に、気づかないでいたんです。このティーカップが、ですね、普通のものより大降りで、受け皿がケーキ皿にもなるという使い勝手のよさそうなものだったんですが、なにしろ一客15000円。せめて三客は欲しいですし、ちょっと手が出ないなあ、と思いつつ、未練がましく眺めていたりしまして。

 で、その日、旅行二日目、知覧観光をして、鹿児島まで移動しまして、ホテルにて夜、初めて大先輩のお友達のNezuさまにお目にかかったわけなのですが、大先輩とNezuさまは、その日の飛行機で鹿児島に来て、それから指宿まで往復して、私より3時間くらい後に、伝承館を見学されていました。
 初対面の挨拶がすむや否や、Nezuさまに、「図録買われました?」と聞かれて、「えっ!!! 図録……、あったんですよねえ」と、呆然としました私。さっそくNezuさまに見せていただいたのですが、薩摩ボタンが6組くらい、ありました。
 ともかく、です。いま、手元にないものですから、正確ではないのですが、私が「古そうなものは絵付けが丁寧で初期SATUMAの面影がある」と感じた、その古そうなボタンは、伝承館図録のキャプションによりますと、みんな京薩摩なんです。そして、「ちょっと新しいかな」という感じのものは、神戸薩摩。
 うーん。ということは、幕末に薩摩で、薩摩ボタンは焼かれていないのでしょうか。
 
 薩摩ボタンが平佐窯で幕末から焼かれた、という可能性を考えますと、あまり薩摩焼らしくない、新しく見えるものに、わずかながら、その可能性があるんじゃないだろうか、と考えるようになりました。
 実は、三彩ではなく、白薩摩に似た感じの輸出品の平佐焼は、普通にイメージする白薩摩よりも、有田焼に近い磁器なんです。つまり、白薩摩の地は卵色、というのですか、薄くクリームがかっていて、貫入が入っているのですが、平佐焼は真っ白なんです。しかし、京薩摩にも真っ白なものはあるようですし、卵色の貫入入り薩摩ボタンは、むしろSATUMAの名が欧州にひびきわたったウィーン万博以降の傾向、と考えてもいいんじゃないんでしょうか。
 もしも、平佐窯薩摩ボタンがあるとするなら、真っ白に、モンブランの指導でモダンな絵が描かれたものだったりして、などと、妄想しています。

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モンブラン伯爵Wiki記事誕生記念プレゼント企画!

2008年12月06日 | モンブラン伯爵
 薩摩旅行の最中に、なんと、Wikiにモンブラン伯爵の記事が立ち上がりました!!! 書きたい、という気はあったのですが、Wikiともなれば、楽しい推測、といいますか、妄想は書けませんし、とってもめんどうなので、敬遠していたんです。ありがとうございました、トホホ川さま。えーと、さっそく、私も執筆に参加させていただきました。
 いや、もう、ほんとうに立ち上げはめんどうで、実は、ミットフォードの記事を立ち上げようと、下書きをしかけているのですが、半分ほどで長いこと放ってます。

 今回の旅行、初日の指宿では、なによりも、モンブランが作りました薩摩伝承館所蔵の薩摩琉球国勲章が、見たかったんです。



 この薩摩伝承館は、維新資料も少々は置いてあるのですが、それより陶磁器のコレクションがすごくて、中国陶磁器の超一級骨董品も多いのですが、ずらりと並ぶきらびやかな里帰りSATUMA、つまり、幕末明治の薩摩焼コレクションは圧巻です。
 で、ミュージアムグッズも、沈寿官氏が特別に焼いたという白薩摩の紅茶カップや、1922年のイギリス皇太子(後のエドワード8世、ウィンザー公)の来日記念に焼かれた白薩摩フリーカップの復元品とか、とても欲しかったのですが、ちょっと手が出ませんで、買いましたのはもちろんこれ、薩摩琉球国勲章の携帯ストラップです。



 組紐部分が、赤、青、黒の三色があります。三色とも買って、私は黒。青はいつもお世話になるfhさまへのお土産。そして、写真左端の赤をプレゼントしたいんです。モンブラン伯爵ファンの方に。どこかにおられませんか? モンブランを愛してやまない、という方! ぜひ、このページのコメント欄で、お申し出ください。伝承館と磯にしか置いていないという(本当かどうかは知りません)このストラップを、差し上げたいのです。愛の記念に(笑) 早い者勝ち、お一人だけですが、ぜひ!!!

 

 モンブラン伯爵は、指宿に滞在していた、という伝承があります。慶応3年の秋、長崎から薩摩に入ったものの、鹿児島ではモンブランに反感を持つ勢力があって、一時、五代友厚とともに、指宿の浜崎家にいたのだ、というのです。
 浜崎家は、海運と造船で、薩摩の繁栄をささえた豪商で、文久3年(1863)に死去した8代浜崎太平次は、海外交易にも乗り出していて、上の碑の場所が屋敷跡だったという話なので、モンブランが滞在したのもここであったはずです。



 太平次の像は、海岸沿いの公園にあります。もっとも、モンブランが浜崎家に滞在した、というのは、太平次の死後なのですけれども。
 実は、薩摩伝承館のSATUMAコレクションには、薩摩ボタンもありまして、さらには平佐焼の資料が手に入ったりもしたことから、薩摩ボタンはだれが考えたのか???の続きが書けそうなんです。
 慶応3年の秋、モンブラン伯爵が平佐窯を訪れて指導していたことは、ほぼ確実でして、指宿にモンブランが滞在したにしても、どうも、それほど長い期間ではなさそうなのです。
 次回(できれば明日)、ちょっと旅の写真シリーズを離れまして、平佐窯とモンブランについて書きたいと思っています。

 で、なんの関係もありませんが、最後に、お土産に買いました薩摩切子のグッズを。



 リングホルダーは、切子ではないので安いのですが、薩摩切子工房の手作りです。これと、真ん中の藍のキーホールダーは自分用。左右のキーホールダーは妹たちへのお土産です。
 母のために買った花瓶は、本格的な切子で、とてもきれいなのですが、品切れ予約注文のため、届くのは三ヶ月先で、残念ながらお見せできません。

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我が胸の燃ゆる想いとホテルライフ

2008年12月05日 | 幕末薩摩
 今回の薩摩行は、指宿一泊、鹿児島三泊でした。なにしろ母を連れていたものですから、鹿児島宿泊は、ちょっと豪華に城山観光ホテル。本日は、思うぞんぶん桜島を眺め、我が胸の燃ゆる想いにひたったホテルライフを、写真で(笑)



 

 MacBook Airをのせた机が、桜島をのぞむ窓に面している、というこの贅沢。
 そして、ベッドのそばのもう一つの窓からも、もちろん桜島が。



 上の写真ではわかり辛いのですが、窓際の寝椅子からは、下のような感じで桜島が見えるんです。



 朝の7時半くらいだったと思います。朝日と桜島です。お部屋でこれを見ることができる幸せ!



 上は、バイキングの朝食がサービスされる4階ホールの、広々としたテラスからの桜島です。鹿児島はあたたかいですから、12月でも十分に、オープンテラスで食後のコーヒーを楽しむことができました。しかも嬉しい喫煙席(笑)

 なによりすばらしいのは、露天風呂から見る桜島だったんですが、それはちょっと、写真に撮るわけにもいきませんで。
 そうなんです。本格的なホテルにもかかわらず、城山観光ホテルには本物の温泉があって、そこだけは部屋着でOKなんです。おかげで、個室のバスルームもとてもりっぱだったんですが、一度も使用しませんでした。

 BGMは、なぜかこれで。

I Shall Be Released


 なぜかって………、あれですね。私が初めて桜島を見たのは、まだ幕末なんてなんの興味もなかった乙女のころ、種子島の野外コンサートに泊まりがけでいくために、早朝、鹿児島の港で、だったんです。あのときのときめきは、ちょっと忘れ難いものでして、圧倒されるような桜島の噴煙に、なぜかこの歌の「Any day now, any day now,I shall be released」というリフレインが、胸の中で重なっていたのです。
 で、ですね。その後、桐野利秋にはまったとき、「I see my light come shining, From the west unto the east. Any day now, any day now, I shall be released」と、時のかなたから、桐野が桜島に語りかけているような気がしたものでした。

 ところで、次回(できれば明日)は、Wikiでどなたかがシャルル・ド・モンブラン伯爵の項目を作ってくださいましたお祝いに、今回の旅のモンブラン関係をちょこっとまとめ、ファン募集プレゼントを実施する予定ですっ!!!


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桐野・花の生誕祭ー追いかけて

2008年12月04日 | 桐野利秋
 ご迷惑にも、こんな夜中まで、大先輩とそのお友達の方のお部屋で話し込んでしまい、優雅というにほど遠いホテルライフです。お二人のおかげで、宿願が果たせました。ありがとうございます!!!

 とはいうものの、です。本日は鹿児島を離れますし、このままで……、といいいますのは、桐野・花の生誕祭ーためいきが出ちゃうの状況に、圧倒されたままで去るのはいかにも残念です。
 そこで、ここはやはり、この胸の燃ゆる思いを、私も形として現すべきだろうと、昨日の午後、一人タクシーをとばして、花束をささげてまいりましたっ!!!


  

 これって、どう見てもお墓にお供えするお花ではないですよね。だって……、お誕生日ですもの。お許しくださいませ。



 午後の日差しで、お供えの品々もうまく撮れました。
 今回のBGMはこれで。恋のフーガ ザ・ピーナツ YouTube
 またしばし、さようなら桜島山。


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桐野・花の生誕祭ーためいきが出ちゃう

2008年12月02日 | 桐野利秋
ただいま、城山観光ホテルの10階の一室で、これを書いています。
窓の外の桜島は、闇に溶け込んで、鹿児島の街のネオンがきらきら。
立ち上がれば眼下に、メリー・クリスマスの電飾。
はるばる運んできたMacBook Airが快適に作動してくれています。

本日は桐野利秋の生誕170年です。お誕生日にお墓参りをと、大先輩のお誘いを受け、鹿児島までやってまいりました。
ともかく、すごいんですっ!!!!!
なにがって…………、お誕生日かクリスマスのケーキのデコレーションを思わせるこのお花!!!



 うーん。なんだか影が濃すぎて、あんまり、あのスウィートな豪華さが、うまく撮れていません。ともかく、です。クリームとホワイトとピンクの薔薇にかすみ草が散って、ロココかロリータかマリー・アントワネットか、といった花々のデコレーションが、生誕祭を祝っていたのです!!!

 ところで、夢の国の「シルクと幕末」の最後に書きました、これ。

「つい先日、大先輩が桐野のお墓参りをなさいましたところ、なんとお墓には、薩摩切子のぐいのみと、きれいな香水瓶が、捧げられていたのだとか」

 高価な薩摩切子が気になっていたのですが、ちゃんとありました!!!

 

 切子だけではありません。金の薔薇やら鶴やら、影にかくれて写ってませんがきらきら小箱やら、まあなんというのでしょうか、まるで下妻物語の世界、でした。

 


 BGMは、なぜかこれです(笑)
 
恋のバカンス ザ・ピーナツ YouTube

 詳細は、また帰りましてから。

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