郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

長崎、近藤長次郎紀行 後編

2013年11月09日 | 近藤長次郎

 長崎、近藤長次郎紀行 前編の続きです。

 さて、小曽根家の墓域をめざす前に、おイネさんと二宮敬作のお墓へ寄り道を志しました。
 またまた、ものすごい急坂だったのですが、高嶋家墓域のすこし下あたりから、かなり整備されました道となり、手すりがついていたりもするようになりました。




 シーボルトの娘・楠本イネにつきましては、吉村昭氏と司馬遼太郎氏が、小説に登場させています。
 司馬氏の「花神」は、おイネさんと大村益次郎が恋仲になる、といいますような、ちょっとありえないフィクションが挿入されていまして、吉村氏の「ふぉん・しいほるとの娘」の方が、史実に忠実です。
 ただ、「花神」の二宮敬作は、好人物として、とても印象的に描かれていまして、これは、ほんとうであってもらいたいところです。

ふぉん・しいほるとの娘〈上〉 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社


花神〈上〉 (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社


 二宮敬作は、四国宇和島藩領出身のシーボルトの弟子で、シーボルトが日本に残した娘、幼いイネの養育を託されました。
 敬作は、シーボルト事件に連座しましたが、蘭学好きの宇和島藩主の配慮で、卯之町(現・西予市宇和町)で医院を開業し、イネを呼び寄せて、その教育に尽力します。
 やがて日本は開国し、敬作はイネとともに長崎へ移って開業。
 シーボルトが再来日し、再会を果たしますが、その三年後、文久2年(1862年)に長崎で病没します。

 今回、初めて知ったのですが、敬作のお墓は、楠本家の墓域にあります。
 いえ、ですね。「おイネさんは、当初、シーボルトにちなんで失本(しいもと)イネと名乗っていたが、宇和島藩主・伊達宗城から、本を失うというのはよくないので、楠本にしてはどうかと勧められ、楠本を名乗った」というような話があるのですが、驚きましたことに、この楠本家の墓域には、没年天保年間の楠本性の墓碑があったりするんですね。
 おイネさんの名前が側面に刻まれました楠本家の墓は、実孫で、養子となりました楠本周三の名もあり、かなり新しいもののようですが、どうも、墓域の状況からは、イネさんの母親のお瀧(たき)さんが楠本性だったように見受けられ、ちょっとびっくりです。

 「長崎のおもしろい歴史」というサイトさんに、イネさんの娘のタカさんの「祖母タキのこと」という回顧談がありまして、これによれば楠本瀧は遊女だったわけではなく、島津家の御用商人だった服部家に小間使いとして勤めていて、シーボルトに見初められた、ということでして、行儀見習いに出ていたのだと考えれば、かなりいい家の娘さんだったのではないでしょうか。

 下の写真は、楠本瀧、イネ、二宮敬作の顕彰碑で、少し離れた区画にあります。
 そして、いよいよ、近藤昶次郎のお墓です。




 見せていただいた過去帳の写しでは、昶次郎さんは、ちゃんと「謙外宗信居士」という戒名をいただいています。
 おおよそ左右二行にわけて、ただし書きのような説明がありまして、右側には「土佐人近藤昶(偏が日でつくりが永という異体字)次郎ゆえ有って薩州上杉宗治郎を称す 没年29」とあり、左側に「明治31年7月特贈正五位 墓は当山の頂に在り梅花書屋之墓と5字のみ刻む」と書いています。(「」内の文字は、私が勝手に読み下しておりますので、悪しからず)
 また「本博多町小曽根より一札入」 ともありまして、小曽根家より「一札入」で当寺に墓がある、といいますことは、薩摩藩士として葬られたわけでは、どうも、なさそうな気がします。

 しかし、戒名をもらっていたにもかかわらず、墓碑には「梅花書屋氏墓」 (過去帳に「之」とあったため、「氏」か「之」か迷っていたのですが、中村さまから「やはり氏では?」とのご指摘が在り、宮地佐一郎氏の著作にもそうありましたことから「氏」とします)としか刻まれていない、といいますのは、どういうことなのでしょうか。あるいは、墓碑が建てられました当初は戒名がなく、戒名はもっと後のもの、だったのでしょうか。
 わが家(真言宗)の例で恐縮ですが、明治期の個人墓は、正面には戒名のみが刻まれ、側面に本名や生年、没年が刻まれていまして、ちょうど、過去帳の形式を、そのまま墓石に刻んだかたちです。本名で葬られることにはばかりがあったにしましても、もしも戒名をいただいていたとしましたら、正面に戒名のみを刻んで、側面を省けばいいことなのです。

 そして、この「梅花書屋」なのですが、昶次郎さんが自害したといわれます小曽根家の離れの名前であった、と言われます。本博多町の小曽根家が一札入れているわけですから、その離れも本博多町にあったのだとしましたら、現在、小曽根邸跡とされています長崎地方法務局(万才町8-16)おあたりでいいのかなあ、とも思うのですが、吉村淑甫氏の伝記では、ちょっとちがう場所であるような描写でして、別邸だった、といいます話も読んだようにも思いまして、謎は深まります。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 次いで、昭和43年4月28日に、現在の場所、小曽根家の墓域に墓石が移されました経緯につきましては、墓石の隣に赤字で刻んだ石碑が建っておりました(写真下左)。
 過去帳を見たわけではなさそうでして、命日は「慶応二年正月十四日」 になっています(過去帳は二十四日)。そして、墓石の文字は「坂本竜馬の筆になる」とあるのですが、これらは、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」をそのまま信じて書かれたようです。
 といいますのも、昭和43年は、NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」が放映された年なのです。

竜馬がゆく〈6〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 私、この大河で、近藤長次郎がどのように描かれていたかさっぱり知らないのですが、当時はおそらく、大河ドラマになれば、その原作も相当に読まれたと思いますので、亀山社中にも注目が集まり、長崎では、「晧臺寺さんに近藤長次郎のお墓があって、荒れた場所に放っておかれている」ということを、つきとめた方がいたのではないのでしょうか。側面に「世話人」の名が刻まれておりますが、小曽根姓の方が二人いて、あるいは、小曽根家のご子孫が、中心になって動かれたのかもしれません。
 どういうご縁があったのか、墓石移転の費用を出しましたのは、親和銀行だったようでして、赤字の石碑には「親和銀行建立」と刻まれています。

 気になることが一つ。赤字で刻まれました文章の最後は「その荒廃を恐れ有志の協力を得て当処に移し併せて同墓域内にあった津藩士服部源蔵の墓碑とも修覆を加えた」 と結ばれておりまして、つまり、おそらくなんですが、もともと墓石があった墓域には、津藩士・服部源蔵の墓碑もあって、そちらも倒れていたかなにかなので、これもご縁と修復いたしましたよ、ということなのです。
 昶次郎さんと同じ墓域に葬られておりました津藩士・服部源蔵っていったい何者???と、またまた謎を深めつつ、お参りさせていただいたような次第です。



 最後に、小曽根家墓域のすぐ横の道からの眺望です。
 すでに、晧臺寺さんの建物も樹間に見えまして、このあたりは、非常にきれいに手入れされた墓域になっております。しかし、やはり木は斬れないのか、風致地区ではありません隣の大音寺さんの墓域にくらべましたら、樹影が濃く、眺望はさまたげられています。ただ、それもこのくらいでしたら、風情があっていいんですけれども。
 今度、もう一度お参りさせていただくときは、お寺から登るつもりです。

 私の数々の疑問につきまして、なにかご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。


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長崎、近藤長次郎紀行 前編

2013年11月08日 | 近藤長次郎

 土佐、近藤長次郎紀行 後編の続き、とでもいったことになるでしょうか。
 連休を利用して、長崎へ行ってまいりました。

 事前に、一応の準備はしようと思っていたのですが、なにしろ、本とコピーの整理途中。
 なかなか思うにまかせませんで、しかも、お目にかかりたい、と思っていました方のお一人、郷土史家の宮崎秀隆氏には、お会いできませんでした。いろいろと手を尽くしましたが、挫折しまして、顕彰碑設立に関します経緯などの取材は、残念ながら断念。
 宮崎さま、もしご覧になられることがございましたら、ご連絡くださいませ。

 しかし、今回、千頭さまからのご紹介で、晧台寺の作山克秀氏にはお時間をさいていただくことができまして、お墓にまつわるお話などは、詳しく伺うことができました。
 したがいまして、この紀行ブログも、顕彰碑ははぶきまして、お墓関連でまとめようと思います。

 まず、晧台寺さんの過去帳では、漢字が長次郎ではなく昶次郎になっていまして、それを使いたいと思います。




 海雲山・晧台寺は曹洞宗。近藤昶次郎のお墓は、晧台寺の小曽根家の墓域にあり、晧台寺の過去帳に名前も載っています。
 大正4年(1915年)には、ここで50年忌の法要が営まれ、田中光顕が贈った漢詩が、残されてもいます。

 晧台寺を訪れましたのは、11月3日日曜日。
 この日、長崎は朝から雨で、近くの料亭・一力で卓袱弁当をいただいてから、うかがいました。
 過去帳の写しを見せていただき、もともとのお墓のあった場所もお聞きしました。実は、昶次郎のお墓は、もとから小曽根家の墓域にあったわけではなく、同じ晧台寺の墓地ではあるのですが、もっと山の上の方で、現在は崩れて荒廃している場所にありましたものを、近年、管理の行き届きました小曽根家の墓地へ、有志の方々が移したわけなのです。

 もとの場所も見ておきたい、さらには、シーボルトの娘・おイネさん一家と、そこに眠るシーボルトの弟子・二宮敬作のお墓にも参りたいということで、雨が上がりました翌日、亀山社中記念館から、龍馬の像が立ちます風頭公園に到り、晧台寺裏山の墓地を、上から下へ、歩くことにしました。

 これがもう、ものすごく荒れた道でして、もしも、東京から来てくださった中村太郎さまの同行がなければ、挫折したにちがいないと、伏し拝みたい気分。ありがたいことです。

 11月4日月曜日、快晴のこの日、寺町通りを北へ行き、深崇寺の横から、亀山社中記念館まで坂を上ります。

 



 坂の途中で、案内板とともに、社中ゆかりの人物の紹介板が立っています。もちろん、近藤昶次郎のものも。
 しかし、記念館内の展示物は、たいしたものではなく、ただ、ここが社中の跡地であることは確かですので、せめて当時をしのびまして窓からの景色を。
 家が建て込んでいます上に、木が茂りすぎ、当時の眺めとは、まるでちがうようなんですけれども。




 ブーツと舵輪のモニュメントや亀山社中資料展示場や若宮稲荷神社を見物しつつ、龍馬通りを登り続けます。土、日、祭日しか開きません亀山社中資料展示場は、熱心な有志の方々が運営していまして、珍しい写真が多数展示されていて、記念館より楽しい雰囲気でした。
 上り坂にくたくたになりまして、やっと風頭公園へ。




 司馬遼太郎氏の文学碑と龍馬像が立ちます風頭公園からの眺めはすばらしく、しばし休憩を。
 風頭公園のすぐ脇に、幕末の写真師・上野彦馬のお墓への下り道があります。



 上野家の墓地からは、急な下り坂。狭い石段があったりしますが、落ち葉が散り敷き、昨日の雨で、滑るのでは?という恐怖に、高所恐怖症の私は、身がすくみます。
 しかし、まずは、作山氏からうかがいました薩摩人墓地をめざそうと、恐る恐る、なんとか足を進めつつ、「こんなとこにうちのお墓があったら、絶対、お参りしないっ!!!」と毒づく私を尻目に、中村さまは軽々と足を進めておられましたが、そのうち、「やだ、藪蚊っ!!!」とこちらも悲鳴。
 途中、茂みに入りますと、ものすごい藪蚊で、私は肌の露出が少なく、あまり刺されなかったのですが、中村さまはあまりの襲撃に、慌てて持参の虫除け薬を塗っておられました。いえ、最後には私も、唯一露出しておりました手の甲を刺されましたが。

 突然、先を行っておられました中村さまの声。「ありましたっ! 薩摩墓の看板!」
 「ほんとですかっ? 来たかいがありました!」と私。
 実は、昶次郎さんが最初に葬られましたとき、薩摩藩士として葬られた、というような書き方をしている本もありまして、薩摩墓と昶次郎さんの元のお墓の位置の関係を、この目で確かめたいと念じていたような次第だったんです。






 薩摩墓の看板が立てられましたのは、書いてありますように平成25年、今年の3月です。ここの墓石を発掘復元された長崎鹿児島県人会の方々には、つくづく頭が下がる思いです。
 中村さまがすべての墓石を調べてくださったのですが、戊辰戦争はともかく、西南戦争の戦死者、と思われる墓石は、ありませんでした。明治10年の没年が刻んである墓石は、ただ一つの佐賀県士族のものと、あとは鹿児島県の平民で、士族ではなかったそうなのです。私が見ました範囲でも、明治4年の没年のものなどもありまして、薩摩人の墓地であることは確かですか、どういう方々が葬られているのか、いまひとつ、よくわかりませんでした。
 ただ、真ん中左の写真、おじぞうさまの首が落とされていまして、あるいは、幕末からの墓碑もあって、戊辰戦争の廃仏毀釈で首が落とされたものなのか、と思ったりもします。そう思ってあらためて墓石を見ますと、晧台寺さんの墓地であるにもかかわらず、戒名のないものがけっこうあったのですが、中村さまが見られた「平民」のものは、戒名があったそうです。

 (追記)中村さまからお電話があり、改めて撮られた写真をご覧になられたところ、明治10年が没年の鹿児島県士族の墓が、一つあったそうです。ただ、今のところ、西南戦争戦死者名簿(西郷軍側)に同名は見つからないとのこと。あと、佐賀県士族のものは、よく写真をご覧になると、16年没年に見えるとのことです。私も、これは現場で、10年のように見えていたのですが、西南戦争におきます西郷軍側佐賀県士族の戦死者に、やはり同名は見つからないそうです。
 もしかしますと、本連寺の側面に沢村惣之丞の名前を刻みました墓碑の「土佐住民諸氏の墓」といいます表記が、ヒントになりそうな気がします。本連寺には長崎におきます土佐住人の墓域があり、おそらく墓域が整理されました時点で、有志がまとめて墓碑を建てたのではないでしょうか。晧台寺には鹿児島住人の墓域があり、その墓域は整理されることがなく現在にいたっていますので、元の墓石が残っていた、と推測してもいいように思います。


 さて、薩摩墓の南の並びに、高嶋秋帆のお墓があります。町年寄りでした高嶋家の墓地は、百五十坪あるという豪壮なものですが、ここにも荒廃の気配があります。





一番上の写真の階段を上りましたところが高嶋家の墓地で、真ん中の写真が高嶋秋帆の墓石。
 下の写真は、高嶋家の墓域からの眺望です。

 実は、高嶋家の墓域に隣接して、これもかなり広い墓域があり、石垣が崩れ、墓石が倒れたりしていたのですが、白髪の男性がお一人、補修に取り組んでおられました。聞けば、長崎の町役人でおられたご先祖のお墓で、ご本人もこちらに入られるおつもりがあり、毎日、補修に通われているのだそうなんです。りっぱなご先祖をもたれますと、大変なこともあるんですねえ。
 晧台寺の墓地のこのあたりは、風致地区に指定されていまして、いっさい伐採ができないのだとか。実際、とてつもなく大きく育ちました楠が、根を張り、枝をひろげ、墓石を倒したり、眺望をさえぎったり。

 そして、昶次郎さんの元のお墓は、このあたり、高嶋家墓地の北方にあったといわれているんです。
 


 このあたりではないかと、高嶋家の墓域から写した写真が上なのですが、今、気づきましたっ!
 ひいっ! これ、北ではなくて、東だったみたいです。山の上の方が北と、勘違いしていたんです、私。
 としますと……、あの白髪の男性が補修なさっていた墓域のすぐそばで、より薩摩墓に近いところ、ですよねえ。うっかりしてましたわ。

 次回に続きます。
 
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近藤長次郎とライアンの娘 vol10

2013年05月08日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol9の続きです。

 えーと、実は、ですね。
 ずいぶん以前、これの前半を書きましたところで、突然で失礼だろうか、と思わないではなかったのですが、町田明広氏にツイッターで質問させていただきました。
 ご著書『攘夷の幕末史』で、近藤長次郎の薩摩藩への上書(建白書)について書いておられることに、納得がいきませんで、一応、ご本人に疑問をぶつけてみよう、ということでした。

攘夷の幕末史 (講談社現代新書)
町田 明広
講談社


 突然のあつかましい質問に、お答えをいただき、私の言い分を認めていただいたような感触もありましたため、この書きかけの文章をどうしようかと迷っておりました。

 ただ、ですね。近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol2でご紹介いたしました知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』でも、『攘夷の幕末史』で町田氏が近藤長次郎上書について書かれておりますことを高く評価されていて、私の『攘夷の幕末史』の近藤長次郎上書の扱いに関します批判は、かならずしも質問させていただいたことだけではなかったものですから、ちょっと私の頭の中を整理したいと思い、書かせていただくことにしました。

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院


 千頭さまご夫妻は、私にご連絡をくださる以前に、町田明広氏の「攘夷の幕末史」を読まれ、初めて上杉宗次郎(近藤長次郎)上書の存在を知られ、感激しておられました。
 ただ、上書を収録しております玉里島津家史料が刊行物になっていることをご存知なく、「高知の県立図書館にもあるはずです。鹿児島県が全県の中央図書館に寄付してくれているみたいですから」と私が申し上げましたら、さっそくコピーをとりに行かれたんだそうです。
 それはともかく、最初に読まれた町田明広氏の著作において、上書(建白書)が慶応元年12月23日のもの、とされていましたことから、そう信じておられました。

 私は去年の2月、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4におきまして、長次郎のこの上書を絶賛しております。

 実はこの上書には、年号がありません。12月23日の日にちのみです。
 上書の内容から判断して、玉里島津家史料の編者が、元治元年のものとし、しかし一応、疑問符をつけております。
 定本坂本龍馬伝―青い航跡で、松岡司氏は、そのまま元治元年のものとして扱っておられますし、一読しまして私も、それでまちがいないと思ってまいりました。
 これが慶応元年のものだとしますと、留学に関します長次郎の提言が、情勢に会わない、的外れで、おかしなことを言っていることになってしまうんですね。

 それで、この本『攘夷の幕末史』を買って読んでみたのですが、町田明広氏は、元治元年のものとして収録されている上書を、慶応元年のものと断じられましたについて、はっきりとした根拠を示しておられません。
 ただ町田氏は、長次郎がユニオン号の件で長州藩主父子の信頼を得たので久光の信頼も得て上書を書いた、というように推測なさっていますので、あるいはそれが根拠なのかなあ、と憶測しておりましたところ、ツイッターでお答えいただいたところでは、やはりそうでした。

 しかし長次郎は、元治元年までに、私が知りますだけで確実に2回、越前の松平春嶽公に目通りしていまして、前藩主でさえない久光公にくらべましたら、あきらかに春嶽公の方が格上ですし、しかも上書(建白書)を出すだけのことなのですから、理由になりえないと私は思います。

 この『攘夷の幕末史』、一般読者向けの新書ですから、説明不足は仕方がない、といえばそうなのかもしれませんが、駆け足は駆け足なりに、もう少し全体に、納得のいく筋道がたてられなかったものなのでしょうか。攘夷という言葉の定義がはっきりしませんで、腑に落ちない記述が多くなってしまっているように思うんです。

 例えば、なんのまえぶれもなく、突然、竹島は朝鮮領!!!と叫ばれますのも、ちょっと異様な感じを受けまして、町田氏が問題になさっておられます竹島とは鬱陵島のことのようですので、当時、日朝両国がはっきり国境線を定めていたわけではないことを横へ置いてしまいますと、そう言う言い方もできなくはないのでしょうけれども、きっちり説明していただきませんと、馬鹿な私なぞは一瞬お口ポカーン、いったい、なにが侵略なの???と、首をかしげるばかりです。

 幕末維新当時の極東情勢につきましては、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1あたりに書いておりますが、西洋ルールの押しつけが侵略なのなら、結果的に西洋ルールを丸呑みしました日本は侵略者の側に立った、といえなくもないのでしょうけれども、侵略、侵略と叫ぶことにいったいどういう意味がこめられているのか、理解できません。なにが侵略なのか、その定義もはっきりしませんし。

 「海援隊の目的は世界征服」 という小見出しにいたりましては、龍馬はフリーメーソンの手先だった!!!という陰謀論を楽しむと同じくらいのセンス、と感じます。
 町田氏がおっしゃいますように、確かに海援隊は、貿易商社ではなく、政治結社です。
 しかし、ごく普通に考えまして、西洋近代が生みました遠洋海軍は、貿易と一体でして、文化露寇は毛皮交易の販路開拓を任務としていましたロシア海軍が起こしたものですし、西洋列強が極東に武装艦隊を派遣しておりましたのも、自国の交易の利益を守るためです。
 そして、そのためにはまず、石炭補給基地、食糧補給基地が必要でして、植民地を求めることにもなります。

 つまり、ですね。海外交易を盛んにするためには、日本人の手による海運事業が必要ですし、それを実現するためにも、中央集権国家の海軍が必要で、その海軍を打ち立てるため、幕末日本は政治変革を必要としていたんです。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に、私は、以下のように書いております。

 ブラウンはスコットランド系のイギリス人で、商船の船長として明治2年に来日し、前回書きました灯台局のお傭い外国人となり、7年間、灯台船舶長を務めました。その間の明治7年、征台において、輸送を約束していました英米船舶が参加を禁じられ、大久保利通と大隈重信は、急遽、グラバーの協力を求めて蒸気船を三隻買い求め、それを三菱商会に託して、指揮はブラウンに任せ、兵員と物資の輸送をやりおおせました。これが、先に述べました、三菱商会が海軍業で大きくなる最初のきっかけだったのです。

 この後三菱商会は、西南戦争の軍事輸送を任せられ、大きく飛躍し、海軍との強い協力関係のもと、日本の海運と造船、そして貿易を担う商社へと発展していきます。

 私は、大久保利通は大っ嫌い!ですが、旧友が賊として死のうが生まれ故郷がむちゃくちゃに荒れようが、なにもかもを、日本が西欧列強と肩を並べて戦争ができる国にするためにこそ役立てた、その私心のない冷徹さには、感服せずにはおれません。
 ともかく。
 征台と西南戦争がなければ、日本海軍も海運も、日本が主体になっての海外貿易も、育ちようがなかったでしょう。

 つまり、西洋近代の海軍を日本に作ろうとすれば、必然的に、町田氏がおっしゃいますところの侵略!になるわけでして、これは近代西洋ルールの受け入れなんですね。それを東アジア的華夷思想!とかおっしゃるんですが、要するに昔、左巻き学者さんが侵略的小中華帝国思想!とかおっしゃっていたのを、あまり古くささがただよわないよう、言いかえただけじゃないんでしょうか、ふう。

 こういう文脈から、町田氏は、長次郎の上書も侵略的小中華帝国思想!の現れで、しかもこれを龍馬の思想を語るものとされていまして、これでは長次郎がまるで龍馬の影です。
 私は「長次郎は別に思想を述べたわけではなく、幕府海軍の最新の情報を薩摩に伝え、海軍振興のための現実的な方策を述べた上書」だと見ていまして、町田市の見解はとうてい納得がいきません。
 
 それはともかく町田氏は、長州の狂犬攘夷の経緯は、それなりにわかりやすくまとめておられますし、あまり話題にのぼることがありません朝陽丸事件について、詳しく書いておられるのは、おもしろく読ませていただきました。
 しかしなんで、朝陽丸事件に石川小五郎が出てこないんですかね。幕府使節団暗殺の主犯は、れっきとした長州藩士の石川小五郎だったといわれていますよね。
 証拠がないから、なんでしょうか。ないにしましても、これまでの通説には触れてくれた方が親切ですし、事件の経緯が、非常にわかり辛い記述になってしまっていて、せっかくよく調べられておりますのに、もったいないと思います。

 えーと。町田先生。
 ご親切にツイッターでお答えいただいたにもかかわらず、書きたいことを書いてしまいましたが、幕末ファンのただの素人の放言ですので、どうぞお許しください。この批判を見て、これはぜひ読んで見よう!と思われる方も、きっといらっしゃいますし(笑)

 wiki朝陽丸wiki甲賀源吾の大部分は、私が書きました。朝陽丸事件の時の艦長は、宮古湾海戦で回天丸艦長として戦死した甲賀源吾なんです。
 で、「甲賀源吾伝」に収録されました家族宛の書簡に、事件のことが書かれていたのですが、他にあまり参考資料が無く、著述に苦しんだ覚えがあります。防長回天史でも見てみれば、よかったんですかしらん。
 
 で、長州の狂犬攘夷です。
 いくら攘夷令が出されたからといいましても、外国船(清国船はのぞく)が通りかかったら全部砲撃っ!!!って、ただのキチガイです。
 なんでそんなことになったのでしょうか。

 勅許(朝廷からの許し)がないから通商条約破棄、というのはわかるのですが、和親条約は孝明天皇も許容なさったのですし、ともかくなにがなんでも外国船は襲うんだっ!!!なんて、テロリストとしか言いようがないおかしな事態になぜなったのか、町田氏が分析してくださってないのが残念ですけれども、結局、いくら三条実美を中心とします過激派公卿が攘夷の勅令を発しましても、実行しましたのはほぼ長州だけ、でして、例えば木戸や高杉や久坂などが、なにを考えていたのかといいますと、やはりよく言われますように、幕府を追い詰める方策がエスカレートし、松蔭流に「体制をひっくり返すんだっ! 狂わずにやれるかっ!」と突っ走った、ということではないんでしょうか。

横井小楠と松平春嶽 (幕末維新の個性)
高木 不二
吉川弘文館


 こちらは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵でご紹介しました「日本近世社会と明治維新」の著者、高木不二氏が書かれたものです。
 高木氏は幕末越前がご専門のようでして、前回(近藤長次郎とライアンの娘 vol9)書きました文久3年の越前の動きを、非常にわかりやすくまとめてくださっています。

 で、越前藩と長次郎の関係を追おうとしていたのですが、長く放りすぎまして、なにを書こうとしていたのか、忘れてしまいまして。

 出版計画が、まあ、少しばかり具体化してきたこともありまして、とりあえず、このシリーズは終わりにしまして、近藤長次郎本出版計画と龍馬 シリーズを、書き継いでいこうかと思っております。

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土佐、近藤長次郎紀行 後編

2013年04月26日 | 近藤長次郎
 
 土佐、近藤長次郎紀行 前編の続きです。

 土佐:近藤長次郎紀行 Map

 高知市内にて、いよいよ龍馬と長次郎の生まれ育った町です。
 


 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書いておりますが、安政の南海大地震の後、河田小龍は、近藤長次郎の家の近くに引っ越してきまして、これを機会に長次郎は、小龍に師事することになりました。



 近藤長次郎生誕地跡碑から、道路を隔てて筋向かいに、小龍の家の近くにあった水天宮が残っています。



 龍馬が通った日根野道場跡付近には、築屋敷の石垣がわずかながら残り、昔の面影をしのばせてくれます。



 龍馬の生まれた町記念館にあります、龍馬と長次郎の像です。
 二人と並んで、記念撮影をする趣向。
 長次郎の家で使っていたもろぶたが展示されるなど、千頭さまがかかわっておられるため、近藤長次郎の面影がしのべる記念館です。



 9日はこれで終わり、私、元気をとりもどしまして、夜は中村さまと長話。
 翌10日、方向としましては、龍馬空港に近いあたりに、新宮馬之助の生家跡と描いた絵馬があるということで、中村さまを空港へ送りがてら、なんとかして見に行こうと企てておりました。
 結局、私の無茶な計画を聞かれました千頭さまご夫妻が、この日もつきあってくださることとなったんです。

 車ですからついでにと、まず案内してくださいましたのが、ホテルからほど近い武市瑞山道場跡と、次いで郊外の瑞山神社。田園の中で、だれもいなかったのですが、ここも龍馬伝放映中は、ものすごい人だったそうです。

 長次郎とともに河田小龍の弟子だった新宮馬之助は、社中の中でただ一人、長次郎亡き後の遺児のめんどうまでみた、といわれる人です。
 若かりし日に彼が描き、神社に奉納した絵馬をどうしても見たかったのですが、その神社が、なかなか見つかりませんでした。

 

 生家跡にほど近い熊野神社は無人で、小さな社は施錠されています。
 どうすればいいのか、とまどったのですが、千頭さまが、隙間から絵馬が見えることを発見されました。



 この後、絵金蔵のあります赤岡でおろしていただきまして、千頭さまご夫妻とはお別れ。
 絵金は幕末の土佐の絵師です。河田小龍とも交流がありましたし、絵が好きでした新宮馬之助は、絵金の芝居絵を見て育ったにちがいありません。



 
絵金
クリエーター情報なし
パルコ


 静かな赤岡の町でお昼を食べました後、絵金の絵を展示しております絵金蔵を見物して、空港へ。
 ここで中村さまとお別れし、私はバスで市内へ帰って、高速バスに乗り換え、一路松山へ。

 みなさまのおかげで、楽しい旅をさせていただきました。

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土佐、近藤長次郎紀行 前編

2013年04月25日 | 近藤長次郎
 私、高知には幾度も……、おそらくは30回くらい、旅行しております。
 隣の県ですし、仕事の取材も10回くらいはあり、妹が住んでいたこともありまして、引っ越しの手伝いをしに行っただけ、ということもありましたが、一番近い旅行は、一昨年、友人とバスツアーで行った絵金祭り、です。

 大昔には、青山文庫に史料のコピーにかよったり、高知で行われました龍馬祭りのはしりにも、行ったことがありました。大河ドラマと土佐勤王党に載せています写真は、そのときのものでして、横に組まれました櫓から撮ったものです。

 

 あー、トントのよさこい節、思い出しましたっ!

 わしが稚児(とんと)に 触れなば触れよ
 腰の朱鞘が鞘走る~♪
 よさこい、よさこい~♪
 

 志士たちへ花束に書いておりますが、このとき望月亀弥太の墓探しにつきあい、喫茶さいたにやで聞いた話では、「龍馬におまかせ」というドラマで、岡田以蔵を反町がやりましてから、以蔵さんのお墓がきれいになり、お花が絶えない、というお話でした。

 しかし、近藤長次郎に関しては、これまでの旅行で、まったく関心を払っていなかったですし、千頭さまご夫妻がご案内くださるとのことでしたので、中村さまをお誘いし、今年の3月8日から10日まで、2泊3日の長次郎紀行を計画しました。
 行った場所のおおよそを、以下のマップにマークしてみました。
 土佐:近藤長次郎紀行 Map

 中村さまは、7日(木曜日)に松山へ来てくださって、一泊。8日午前中の高速バスに乗り、昼頃、はりまや橋バスターミナルに到着しました。
 宿泊は2泊とも、セブンデイズホテルプラスです。

 私、出かけるためにあれこれと雑用があり、睡眠不足でぼおーっとしておりまして、ホテルに落ち着いて初めて気がついたのですが、なんということでしょうっ!!! 右と左と、履いている靴がちがうんですっ!!!
 気がついてみましたら、なんだか歩きづらく、中村さまにおつきあい願いまして、まずは高知大丸でアシックスの靴を買い、履き替えました。
 この日は、二人で観光です。



 この河田小龍生誕地・墨雲洞跡の碑ははりまや橋バスターミナルのすぐそばで、ホテルに近かったものですから、靴を履き替える前に訪れています。
 その後、町中の吉田東洋暗殺の地の碑だとか、四国銀行帯屋町支店にあります武市瑞山先生殉節之地の碑を訪れ、高知城へ。
 疲れでめまいが起こりまして、お城見物はすでに数回しております私。途中のベンチで休憩して、中村さまを待ちました。
 そのうち夕方になり、タクシーで自由民権記念館へ。出版物をあさって、この日はおしまい。

 爆睡しました翌9日朝、千頭さまご夫妻が、ホテルまで車で迎えに来てくださいました。
 まずは、近藤長次郎とライアンの娘 vol5に書きました護国神社の南海忠烈碑(明治18年建立)へ。





 この碑ができましたときには、海がすぐそばだったそうですが、今は埋め立てられ、昔日の面影はありません。

 龍馬像が太平洋をにらみます桂浜へ行き、しばらく散策。
 龍馬記念館は、私も中村さまもすでに行ったことがありましたので、外から見ましただけです。
 六体地蔵と一領具足供養の碑に案内していただきました。




 車は一路、青山のじじいの故郷、佐川へ。
 私、青山文庫の史料をコピーさせてもらいに、通った過去がありますが、当時は、展示室がありませんでした。
 展示室ができてはじめてなんですが、当日のメインの展示テーマは幕末ではないと、あらかじめお聞きしておりました。
 佐川へ向かう途中、国道沿いに北添佶摩顕彰碑があり、カメラにはおさめたのですが、地図上でどこだったのか、マークできませんでした。

 

 昼食は、佐川町大正軒で天然うなぎをごちそうになりました。
 天然うなぎの香ばしさは格別でして、忘れがたい味です。



 食事の後、なつかしい青山文庫へ。
 お電話で親切にお答えくださった学芸員の方にご挨拶。
 
 佐川は、植物学者・牧野富太郎の生誕地でもあり、また清酒司牡丹の蔵本の地でもありまして、白壁の美しい町並みが続きます。
 ぜひ、桜が咲いている時期に再訪したいなあ、と思いつつ、再び車は高知市内へ。
 次回に続きます。

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近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol2

2013年04月20日 | 近藤長次郎
 近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol1の続きです。

 出版話にいきます前に、知野氏のご著書の紹介を。
 いえ、ですね。近藤長次郎とライアンの娘シリーズを書き始めました去年の12月、「坂崎紫瀾について書かれた本はないの?」と検索をかけていましたところが、『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』という知野氏の本が、近々出版予定らしいと知りまして、題名からしますとぴったり私の求めるもののようでしたし、はずれたらはずれたときのことと、アマゾンに予約を入れておりました。

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院


 2月に届きまして、実際、思った通りぴったりの本でした。
 明治、坂崎紫瀾の著作を中心としまして、龍馬像にどういう変遷があったのか、丁寧に跡づけられております。
 これ、私、ぜひ桐野利秋でやりたいことなんです。
 本当に龍馬が好きで書かれたのだろうなあと、知野氏の熱意が感じ取れ、頭が下がります。

 もしかしまして、明治に限定しましたら、龍馬よりも桐野の人気の方が高いのではないでしょうか。桐野は河竹黙阿弥の歌舞伎の登場人物ですし、錦絵も桐野の方がはるかに多いでしょうし。
 人気がひっくり返りましたのは、おそらく戦後であるような気がします。

 なんとも皮肉と言いますか、実際の龍馬は自由民権運動にはなんのかかわりも持ちませんでしたのに、甥がかかわっていたこともあって、坂崎紫瀾により、元祖自由民権運動の闘士に祭り上げられ、戦後、まるで民主主義の旗手のような描かれ方をします。

 一方、桐野利秋は、同時代の薩摩の歴史家・市来四郎が、「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」と言っておりますのに、無視されてしまいます。

 ちなみに明治の民権論とは、国権と相反するものではありませんで、「国民の権利が拡張することによって国民は帝を慕い、国力もゆるぎのないものになる」というものですから、桐野はれっきとした民権論者だったわけです。

 私、ipadでKindleのデジタル本が読めるようになり、Jinを買ってみたんですが、TVでは出ておりませんでした半次郎(桐野利秋)が、龍馬暗殺にからんで、とてもいやな感じの人物として出てまいりました。

JIN―仁― 12 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
クリエーター情報なし
集英社


 全体として、Jinはおもしろかったのですが、この漫画の気持ちの悪い中村半次郎しか知らない人々も確実にいるわけでして、私、つい、なんとかしなければと焦ってしまいました。

 知野氏が書いておられますが、現代の龍馬伝説は、司馬氏の『竜馬がゆく』が元ではあるのですが、これをもっとわかりやすくしました武田鉄矢原作の漫画『お~い!竜馬』によって、育てられた面も大きいようです。

お~い!竜馬 (第18巻) (ヤングサンデーコミックス)
武田 鉄矢,小山 ゆう
小学館


 これもデジタルになっておりましたので、近藤長次郎がどう描かれているのかを見るために、買いました。
 若いころの私の龍馬嫌いは、武田鉄矢嫌いが高じたようなものでもあり、この『お~い!竜馬』、意識的に、まったく読んでいなかったんです。
 ところが、久しぶりに会いました大阪の友人がですね、私のiPadにこれが入っているのを見まして、「昔、従兄弟に借りて読んだんですが、岡田以蔵と武市半平太がいいんですよ。泣けました」とおっしゃったのには、驚きました。

 知野氏が冒頭に書いておられるんですが、明治9年に出版されました近世報国赤心士鑑(安政5年から慶応3年に死んだ志士の番付)において、リンクでごらんのように(PDFですと文字がちゃんと読めます)竜馬は土佐人の中ではトップでして、中岡慎太郎、武市半平太と続きます。
  坂崎紫瀾の『汗血千里駒』出版以前から、志士としての知名度は、高かったようです。

 今回、私、近藤長次郎が出発点ですから、知野氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』が届いてまず、関係部分から読ませていただきました。
 近藤長次郎が直接出てくるわけではないんですけれども、近藤長次郎が長崎で落命しましたとき、龍馬が京都にいたことにつきましては、明治29年に出版されました弘松宣枝『阪本竜馬』(近デジにあります)に、すでに書いてあったんですね。ブログを書き直さなければ!と、焦ったような次第です。

 もう一つ、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」、なのですが、文章がほぼ一致して、この部分になにが書いてあるのか推測できます史料があると、知野氏は脚注で書いておられたんです! 
 明治30年代にまとめられたと推測される瑞山会編の『近藤長次郎傳』です。

 私、そんなものがあろうとは、まったく存じませんでした。
 ただちょっと、私が不審に思いましたのは、知野氏は、瑞山会編『近藤長次郎傳』において、「近藤がユニオン号購入に際して長州と金銭の授受を行い、それを資金に洋行しようとしたが露見して切腹したと記されている。もうここまで来ると完全に業務上横領扱いである」 としておられるのですが、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」にそんなことが書いてあるとは、私には思えませんでした。

 近藤長次郎とライアンの娘 vol5に原文を引用しておりますが、「ユニオン号の売買に多額の金が動くのを目の当たりにして、聞多に頼んで金を借りた」とのみ書いておりまして、当時、こういった武器や船の売買には、リベートが動くのが一般的でして、これより後のことになりますが、薩摩脱藩で、桐野の友人の中井桜洲が、船の売買の仲介をして、後藤象二郎に洋行費用を出してもらい、帰国後は海援隊に入っていたりします。
 そういう中で、もらったのではなく「借りた」と明記しているのですから、これはむしろ、横領を否定した記述です。
 
 ともかく、瑞山会編『近藤長次郎傳』を読まなければ!!!となりまして、いったいどこにあるものなのか、ちょうど青山のじじい(田中光顕)の手紙をさがしていたこともありまして、高知の青山文庫に問い合わせました。
 結局、わからなかったのですけれども、学芸員の方が非常に親切でおられまして、知野氏のご著書で知った旨を申しますと、「数日後に知野氏にお会いする予定があるので、聞いてみます」とおっしゃってくださったんです。

 数日後、お伝えいただいた知野氏のお答えは、「個人蔵」ということでして、つまり、それでは私は見ることができませんので、がっかりしたのですが、詳しいことはメールでならばお答えします、と知野氏が言ってくださったとのことでしたので、私、ご好意に甘えてメールで問い合わせました。
 知野氏は、実に丁寧にお答えくださり、「業務上横領扱い」 は撤回してくださった上で、同一の文章だと、保証してくださいました。
 この件はまた、全体を書き直します中で取り上げなければなりませんが、実にいろいろと勉強させていただきました。

 ただ、知野氏のご本、史料探索の話になって参りますと、ちょっとわかり辛くなってきますのが玉に瑕なのですが、推測を重ねるしかない部分も多いわけですから、おそらく、致し方のないことなのでしょう。
 なにより、この愛と情熱を見習わなければ、と思いまして、うーん。

 私、どうせ出すならば一般受けする本にしたいと欲を出すあまりに、千頭さまご夫妻のインタビュー記事を入れたい、とか、どうも、よけいなことを考えすぎていたような気がします。
 山本栄一郎氏がおっしゃるように、シンプルに、埋もれた近藤長次郎の実像を、それぞれの方向で史料から発掘してみてみれば、いいのでしょう。

 しかし、山本氏は現在、ご専門の長州に関係しましたことで、ものすごく大きな発見をなさっておられまして、これは、私にとりましてもとても楽しい発見で、発表が待ち遠しいのですが、えー、山本さま、こちらも見捨てないでくださいまし(笑)

 次回、書きかけのシリーズにもどるか、旅行記にするかで、ちょっと迷っております。

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近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol1

2013年04月17日 | 近藤長次郎
 株価と北朝鮮から目が離せない今日このころです。
 今回もちょっとシリーズから離れまして、「近藤長次郎本を出したらどうだろうか」というお話を。

 実はこの話、私が思いついたわけではなく、山本栄一郎氏の提案なんです。
 近藤長次郎とライアンの娘 vol2で初めてご紹介いたしましたが、山本栄一郎氏は、「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」の著者でおられます。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
山本 栄一郎
文芸社


 私、実際のところ、近藤長次郎とライアンの娘 vol1で書きましたような事情で千頭さまご夫妻にお会いするまで、近藤長次郎について、このカテゴリーユニオン号の以前のシリーズ(桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1以下)で書きました以上のことを、調べる気はまったくありませんでした。私にとりましては、それですんでしまった話でして。

 私は別に、歴史学者でもなんでもないですし、ブログを書いておりますのはあくまで趣味でして、気分のおもむくままに、覚え書きを書きなぐっているにすぎないからです。
 しかしとりあえず、それを人様に読んでいただける形にしよう、という意識は、職業ライターをやっておりました私の習性かもしれないのですが、一方から言いますと、金をもらって注文通りに書いておりましたかつての苦痛から離れ、好き勝手に殴り書きたい、という意欲の発散、でもあります。

 それでまあ、このブログは仕事の文章とちがいまして、ごく一般向け、というわけでは、決してありません。
 以前にも書いた覚えがありますが、高校時代からの友達が私のブログを見て、「龍馬か新撰組ならわかるけど、知らない人ばかりが出てきて、さっぱりわけがわからない」と、つまらなさそうに言っておりました。

 人間、自分のまったく知らないことについて書かれた長文を、読んでみようという気にはなかなかならないものでして、えーと、家庭の事情でほとんど仕事ができなくなりまして、私、今やほとんど忘れてしまいましたが、一般の方々の関心を引くための工夫、というものが、一般向けの文章を書くに際しては、必要になってくるわけなのです。

 で、好き勝手に書きなぐっておりますこのブログ、いったいでは、誰に向かって書いているかと申しますと、基本的には自分なのですが、そこが習性で、一応、読者を想定していないわけではなく、どういう読者かといいますと、ご同好の幕末オタクな方々、ということになるでしょう。
 もともとが、そういう少数をターゲットにしている文章ですから、当然のことながら反響は少なく、したがいまして読まれた方からの反響を直にいただきますと、やはり非常に嬉しく、調子に乗ってしまうわけなのです。

 そんな中で、私が千頭さまに山本氏のご本を紹介し、今度は、山本氏に直線連絡をとられました千頭さまから、山本氏が「近藤長次郎の本を出しましょう」 と提案しておられること、同時に私に連絡をとりたいと言っておられることをお聞きし、その運びとなりまして、近藤長次郎本を出そうという話が、突然、具体化することとなったわけです。

 山本氏は、防府にお住まいの幕末史研究家でおられ、「山口歴史研究会」の会長としてご活躍。ご研究の中心テーマは、大村益次郎です。
 当然のことながら、とても詳しくておられますから、初回から、いただいた電話にもかかわらず、とんでもない長話をしてしまいました。

 私、中村さまを筆頭に、基本、幕末に非常に詳しい方以外とは、ほとんど幕末の話はいたしません。どうも、ですね。どっぷりとこの世界にひたっておりますおかげで、一般の方々に対しては、なにをどう説明すればいいのかさえ、わからなくなってしまっているんですね。
 結果、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編に書いておりますように、妹にさえ、しかられます始末。
 そんなわけでして、私、山本氏とのコミュニケーションは、きっちりとれていると思うのですが、千頭さまご夫妻とは、さっぱりです。

 もちろん、私と山本氏の見解が、百パーセント一致しているわけではありません。しかし、「あの史料はこうで、こういう史料にはこう書いているから、私はこう考える」という、お互いの考え方の基本はよくわかるわけでして、推測部分にちがいがありますのは、これまでにお互いが読んできました史料のちがいもありますし、理解できます。

 基本、山本氏は、「世間一般に龍馬は過大評価されすぎている」
という認識をお持ちですし、私がこれに同感でありますのは、これまでにも延々とカテゴリー幕末土佐に書いておりまして、私はむしろ今回、近藤長次郎について調べておりました課程で、「私が感じていたほど龍馬がなにもしなかったわけではなく、慕われる個性を持ち、土佐脱藩者の中心になった人物ではあったんだなあ」と見直しました。

 私がこれまでに持ってきました「巨大化した龍馬をもてはやす世間一般へのうんざり感」は、スーパーミックス超人「龍馬伝」続・いろは丸と大洲と龍馬「龍馬史」が描く坂本龍馬坂本龍馬の虚像と実像などなどに、もう十二分ににじんでいると思います。

 私の頭の中では、世間一般の龍馬の巨像が虚像でしかないことは常識でして、ただ、だからといって、世間にはびこりました虚像はなかなか消えるものではないですし、本気でそれを語るならば、ちゃんと史料を積み上げて調べなくてはなりません。私にとりまして、歴史オタクではない一般の方と、そんなことをあらためて語り合いますのは、うんざりすることです。

 「史料を読み解いて龍馬の実像を」という趣旨の著書は、有名どころでまず坂本龍馬の虚像と実像でご紹介しております、松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』があります。

検証・龍馬伝説
松浦 玲
論創社


 実は山本氏も『実伝・坂本龍馬』という本を出しておられまして、主に長州側の史料から、龍馬の行動の実態を追っておられます。

実伝・坂本龍馬―結局、龍馬は何をしたのか
山本 栄一郎
本の泉社


実伝・坂本龍馬 ──結局、龍馬は何をしたのか
クリエーター情報なし
株式会社本の泉社


 この下の方はデジタル版なんですが、実はAPPストアでは、85円で売られておりました。山本氏がブログで「びっくり!電子書籍『実伝・坂本龍馬』って」と、書いておられる通りだったんです。
 現在、なぜか85円ではなくなっています。アップルがiBookstoreで日本語のデジタル本を売るようになりまして、アマゾンのKiindleと値段のバランスをとるようなことにでもなったのかと思うのですが、山本氏によれば、デジタルに関する契約はまったくかわしていなくて、なんの連絡もなかったそうでして、出版社が勝手にデジタルにして、勝手な値段で売っているって、これ、違法行為ですよねえ、あきらかに。

 それはともかく。
 つい最近に出版されました知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』も、維新土佐勤王史が描きました龍馬像を検証し、実像に迫ろうという取り組みです。

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院
 

 この知野氏のご著書に関しましては、近藤長次郎に関係する部分もありますし、長くなりましたので、詳しくは次回に取り上げたいと思います。

 ともかく、ですね。
 なにをこう長々といまさら、私が龍馬の虚像について書いているかと申しますと、主に「龍馬の虚像はどうしてできたのか」ということと、それにも関係してくるのですが、「長次郎はなぜ死んだのか」という肝心な部分につきまして、私と千頭さまご夫妻の間には、どうにも、超えがたい垣があるようでして、いったい、なにをどうお話すればいいのか、私はただただ呆然とするばかりで、垣は越えようがないように思うからです。

 えーと、その、確かに私は、自分に向けてブログで覚え書きを書いているようなものでして、話があちらへ飛びこちらへ飛び、まとまりがありませんし、長くて読み辛いのはわかります。そして、基本的に読者層は幕末オタク層を想定してはいるのですけれども、今回の「近藤長次郎とライアンの娘」シリーズは、一応、千頭さまご夫妻を、一番の読者と想定して書いていることもまた、事実です。

 にもかかわらず、それが、どうも……、さっぱり理解していただいてはいないようなのです。
 なにかもう、書く気力を無くしてしまう事態でして、まあ、それと山本氏から出ました出版話がからみあいまして、どういう企画にすればよいのか、どういう形で出版すればよいのか、ただいま迷走中です。

 ただ、これまで書いてまいりましたこのシリーズも、訂正を入れ、整理をする必要がありますし、せっかく山本氏がいっしょにやろうと言ってくださっているのですから、私としましても、覚え書きの域を脱するためにも、ごいっしょに出版させていただければ嬉しいかも、とは思いまして、がんばってみるつもりです。

 次回、知野氏のご本を紹介しがてら、企画を模索していこうと思います。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol9

2013年01月21日 | 近藤長次郎

 今年になって初めての記事です。
 去年書きかけてはいたのですが、途中、調べなければいけないことがいくつかでてきまして、さらに正月の準備やらが重なりました。
 今年になりましてからは、町内会の用事と青色申告の準備でごちゃごちゃと。

 遅くなりましたが、近藤長次郎とライアンの娘 vol8の続きです。
 
 現在、一般に近藤長次郎とユニオン号事件著述の元になっておりますのは、坂崎紫蘭の「維新土佐勤王史」 です。

維新土佐勤王史
瑞山会
冨山房インターナショナル


 この「維新土佐勤王史」がどのような本で、坂崎紫蘭が描きました龍馬像がどのようなものであったか、端的にまとめられました論文がありました。
 松下祐三氏の「薩長商社計画と坂本龍馬 : 坂崎紫瀾の叙述をめぐって」(駒澤史学59号収録)です。

 この論文の最後に書かれておりますが、「維新土佐勤王史」は、 坂崎紫瀾が執筆していますが、編纂は瑞山会です。「瑞山」は言うまでもなく、武市半平太の号でして、その名を冠しました瑞山会は、土方久元、田中光顕(青山伯)、佐々木高行など、土佐出身者の中でも、元は土佐勤王党の郷士や下級士族だった面々が中心となって結成されたものです。
 吉田東洋の暗殺、土佐勤王党の弾圧によります軋轢は、明治の維新史編纂にまで尾を引きまして、山内家の維新編纂に対峙する形で、瑞山会は「維新土佐勤王史」を企画しました。

 したがいまして、彼らにとりましての「維新を成し遂げた土佐人」とは、藩主や藩秩序に忠実だった上士ではなく、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎を中心とする土佐勤王党の郷士や庄屋、下級士族たちでした。
 その事績を顕彰するためにこそ、「維新土佐勤王史」は書かれたわけでして、瑞山会が提示しましたこの目的は、幕末の土佐勤王党の活動と明治の自由民権運動を重ね、坂本龍馬に民権運動闘士の先達としての面影を見ていました執筆者の坂崎紫瀾にとりましても、十二分に共有できるものでした。

 そして、松下祐三氏が書いておられますように、その目的のためであれば、坂崎紫瀾は、史料の読み方も恣意的に行っておりますし、史料にない創作もしています。「維新土佐勤王史」とは、そういう書物なのです。
 松下祐三氏の論文は、近藤長次郎の死後、薩長商社計画をめぐりまして、「維新土佐勤王史」が坂本龍馬をその中心にすえて描いたことの虚実、影響を論じているのですが、結局のところ、龍馬が商社の元祖!といいますような現代の虚像も、実はどうも、「維新土佐勤王史」の創作が元になっているようなのです。

 当然のことなのですが、「維新土佐勤王史」が描きますユニオン号事件と近藤長次郎の死にもまた、かなり恣意的な史料解釈が見受けられます。しかし。ここで初めて登場します史料もあり、事実関係は正確なものと見なされて、今なおこれが、基本史料とされているわけなのです。そのことの是非は、また後で検討するとしまして、ここで一つ、私、坂崎紫瀾の著作で、見逃していたものがありました。
 松下祐三氏の論文の脚注で気づかされたのですが、坂崎紫瀾は「維新土佐勤王史」に先立ち、少年読本シリーズで伝記「坂本龍馬」を書いています。

 少年読本は、明治に刊行されました少年向けの伝記シリーズなのですが、けっこうちゃんと書かれたものが多く、第十一編、春山育次郎著「桐野利秋」(中村半次郎)は、桐野のもっとも詳しい伝記ですし、春山育次郎が桐野の甥と友人で、身内に話を聞いて書いていますから、信頼できる記述が多いんです。
 少年読本第十九編・坂崎紫瀾著「坂本龍馬」、初版は明治33年2月7日発行です。
 紫瀾も龍馬の甥・坂本直寛(南海男)と友人で、身内に話を聞いて書いたということでは、春山育次郎と同じような書き方をしています。

 実は、うちの近くの図書館に、数冊、少年読本の合本がありまして、紫瀾の「坂本龍馬」は春山育次郎の「桐野利秋」といっしょに綴じられていますから、私は幾度か借り出したことがありました。にもかかわらず、ろくに読んでいなかったのですが、思い出しまして、また借りてまいりました。

 さて、近藤長次郎の死についてどう書かれているかといいますと、これが……、前作「汗血千里駒」そのまま!なんです。全体が短くなっていますので、少々、簡略化されてはいるのですが、そっくりな上に、近藤長次郎その人の描写につきましては、「汗血千里駒」は非常に詳しく、好意的な面もあったのですけれども、簡略化することによって、印象が変わってしまっています。
 例えば、龍馬の竹馬の友として、長次郎の生い立ちを紹介する部分。

汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝 (岩波文庫)
坂崎 紫瀾
岩波書店


「汗血千里駒」
 龍馬が家にほど遠からぬ水道丁なる商人の息子に長次郎といえるものあり。苗字は近藤といい父の名を伝次と呼びけるが、長次郎は幼きより軍書など読むを好みてほぼ我が国の歴史にも通ずるまでになり、後には細川延平に入門して漢学を修め、今は唐本の会読さえ差支なきほどに進みければ、かの唐詩選読むと孔雀の尾が欲しいといえる人情の常とて、自ら名をば昶(えい)、字(あざな)は子長とし、藤陰と号し、また別号を梅花堂人といいければ、さなきだに妬み嫉みのくせある俗人ばらは、「町人風情の身で家業の二一天作に厘毛のもうけを弾き出すことには精出さで、青表紙(漢籍)ひねくりまわす博士顔はよけれども、あまりに現をぬかして店の饅頭を子供に盗みぐいせらるるをも気づかざるは、沙汰の限りの保け者なり」と後指さして笑い罵りしかども、流石にまのあたり長次郎を辱しむる者は一人もあらざりし。 

少年読本第十九編「坂本龍馬」
さてまた龍馬の隣家に饅頭屋の長次郎といえる少年ありけり。その父の名は伝次と呼びて店には饅頭を売り、長次郎は焼継を渡世として市中を徘徊するに、この長次郎は常に坂本家に来たりて軍書などそらんじつつ、後には師につきて漢学を修め、おこがましくも名は昶(えい)、字(あざな)は子長とて、梅花堂人といえる別号さへ称するに隣家の者どもは「あな笑止や伝次の小せがれが青表紙をひねくる博士顔こそ憎さげなれ」と罵れど、燕雀なんぞ大鵬の志を知らんとてあえてこれを意とせず。 

 町人に似つかわしくない学問に打ち込む長次郎を、近所の人々が、身のほど知らずだと罵っていた、という話なのですが、その近所の人々に対して、「汗血千里駒」「妬み嫉みのくせある俗人ばら」と酷評して、むしろ非難する隣人の方がおかしい、という書き方です。
 しかし少年読本第十九編「坂本龍馬」は、すっぽりそれを落としていますし、隣人の長次郎への罵りの言葉も、前者は学問をすること自体に、ではなく、打ち込むあまりに日常の商売がおろそかになっていることへの非難であって、まだ暖かみがあるのですが、後者は「えらそうに博士顔をしている」ことへの反発で、長次郎の人格に問題があったかのようにも、受け取れる表現なのです。

 そして、近藤長次郎とライアンの娘 vol5に引用しておりますが、明治32年の11月、高知の地方紙「土陽新聞」に連載されました川田雪山の龍馬の妻・お龍さんへの聞き書き 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)において、お龍さんは「伏見の寺田屋にいた龍馬の元へ、長崎から、陸奥宗光が近藤長次郎の自刃を知らせに来た」と言っているわけですから、 明治16年に紫瀾が「汗血千里駒」において、「長崎において、龍馬が長次郎を糾弾して切腹させた」という話は否定されているのですが、少年読本第十九編「坂本龍馬」執筆時点(執筆は明治32年だったようです)で、紫瀾はその記事を読んでいなかったようでして、そのまま、龍馬が長崎で糾弾したという話になってしまっています。

 さて、いよいよ「井上伯伝」「維新土佐勤王史」が語りますところの、ユニオン号事件です。

 ユニオン号事件は、龍馬と長次郎を中心とします社中が、薩長の連携をめざして活動する中で起こったのですが、まずは、そこへ至りますまでの経緯をふりかえってみたいと思います。
 
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol3をごらんください。
 文久3年(1863年)、土佐藩政に参画し、京都におきまして活動しておりました土佐勤王党は、しかし前年に土佐藩重臣・吉田東洋を暗殺しておりましたことから、前藩主・山内容堂の復帰にともない、その足場は危うくなり、平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太という中心メンバーが入牢、切腹。
 8.18政変で長州が京都を追われますと同時に、武市半平太など、幹部すべてが国元で逮捕。壊滅状態に陥ります。
 神戸海軍操練所で学ぶ土佐出身者にも帰藩命令が出ますが、龍馬&長次郎たちは無視し、とどまります。

 土佐勤王党が土佐藩政を牛耳りますと同時に、龍馬が勝海舟の門をたたいた理由を、私は越前藩の記録・「続再夢紀事」「大坂近海の海防策」という記述を手がかりに、「土佐藩が受け持ちます大阪近海のコーストガードに取り組もうとしたもの」と推測したわけなのですが、結局これは土佐勤王党としての取り組みだったわけですし、としますと。

坂本龍馬 (岩波新書)
松浦 玲
岩波書店


 私、松浦玲氏の「坂本龍馬」を読み返していまして、文久3年7月、ですから、平井・間崎・弘瀬が国元で切腹となって勤王党の足下がゆらぎはじめ、長州は攘夷戦をはじめ、薩英戦争が起こった直後、のことですけれども、「龍馬は、幕府海軍とは別に朝廷の海軍を設立する構想を持っていた」とあるのにめぐりあい、「結局、これは海の御親兵構想だろうか」と思ったんですね。

 佐藤与之介が龍馬と連名で勝海舟に出した書簡に、龍馬の構想として、「神戸海軍の総督を京都朝廷で人選し、その総督のもとで身分にとらわれず人材を集める。運営の費用は関西の諸侯に出させる」とあるのだそうです。
 松浦氏は、「これは当時、横井小南を中心とする越前藩改革派が、将軍が退京したのだから幕府は中央政権ではなくなったのであり、京都に新政権を樹立するべき、としていたのに呼応した構想だろう」とされ、しかしほぼ同時期に越前藩で政変が起こって改革派は失脚し、8月に入ってからの京都では、薩摩と会津が手を握って8.18クーデターが起こり、情勢は激変します。

 長州が主導していましたクーデター前の朝廷では、学習院御用掛徴士として、真木和泉守など諸藩の尊皇の志士が召し出されていましたし、一方で、土佐の国元では勤王党に危機がしのびよっています。こういった諸般の状況の中、龍馬は、越前を核としまして、藩の垣を越えて諸藩士が集まった朝廷の海軍をイメージするようになっていたようです。
 そもそも、土佐勤王党の結成理念が、「自分たち郷士や庄屋は天皇の直臣」 というものですから、現実をとりあえず横に置き、朝廷が中心だということにしてしまいますと、幕府が消え藩も消えでしまうわけなのでしょう。

 松浦玲氏が明記しておられますが、勝海舟は、神戸海軍繰練所の運営に西日本各地の大名が参画することを考え、朝廷のあります近畿のコーストガードを見込んでいたでしょうけれども、あくまでもそれは幕府の海軍の範疇であり、すでにここで、龍馬とは根本的な認識がずれています。
 龍馬の構想といいますのは、非常に感覚的でして、観念の上では簡単でしょうけれども、現実には非常な困難をともない、多大な軋轢の末にしか、成し遂げえないことです。
 大きな方向性としてはいいのですが、なんの障害もなく簡単にそうできるかのように言われましても、この時点におきましては、飛躍がすぎまして、大風呂敷の珍奇なホラ話、としか、受け取れません。
 近藤長次郎は、そういった龍馬のそばにいて、客観的で、理論だった観察力、著述力を持ち、参謀として龍馬を助けていたのではないか、と推測できるエピソードがあります。

 
完本 坂本龍馬日記
菊地 明,山村 竜也
新人物往来社


 「完本 坂本龍馬日記」P116-118にあります『続再夢紀事』からの引用です。
 文久3年6月29日、龍馬は京都の越前藩邸を訪れ、越前藩士で春嶽公側近の村田巳三郎(『続再夢紀事』の著者)と、長州の攘夷戦に関して、激論を戦わせます。
 龍馬は同日、土佐の乙女姉さんに手紙を書いていまして、長州の攘夷戦に対します龍馬の心情は、こちらの方に、激情のまま素直に書かれていますので、青空文庫 図書カード:No.5139 文久三年六月二十九日 坂本乙女あて書簡より、以下、引用します。

 然ニ誠になげくべき事ハながと(長門)の国に軍初り、後月より六度の戦に日本
ハナハダ利すくなく、あきれはてたる事ハ、其長州でたゝかいたる船を江戸でしふく(修復)いたし又長州でたゝかい申候。是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものニて候。右の姦吏などハよほど勢もこれあり、大勢ニて候へども、龍馬二三家の大名とやくそく(約束)をかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本をたて、夫より江戸の同志(はたもと大名其余段々)と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候。
 

 いいかげんな現代語訳ですが、ご参考までに。
実に嘆かわしい事態になっているんだよ。長門の国(長州)で戦が始まったんだけど、六度戦って六度とも、日本側には得るところが少なかった。あきれたことには、長州で戦った外国の船は、江戸で修理して、また長州で戦っているんだよ。これはみな、幕府の腐った役人たちが異人に内通したもので、売国奴の役人どもは勢力もあって、数も多いけれども、私龍馬は、二、三の大名と堅く約束し、同志をつのって、朝廷を中心にして神州日本の大本を守り、江戸の旗本や大名などの同志と心をあわせ、売国奴の役人たちを一掃する戦を起こして殺し、日本をもう一度洗濯したいものだと、神に願っているよ。

 まあ、さすがに勝海舟のもとにいただけのことはありまして、長州に砲撃された外国船が、江戸の幕府のドッグで修理されて、長州を攻撃に行くことに怒っているのですが。

 長州の攘夷海戦につきましては、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に簡単に書きましたが、突然、狂犬みたいな長州軍艦に襲いかかられましたアメリカ商船やオランダ軍艦にしてみましたら、日本人は狂ったかっ!と驚愕しただろう、状況です。
 で、長州海軍がやられましたのは、アメリカでは南北戦争の最中ですから、南軍の巡洋艦をさがして香港に入った北軍の軍艦ワイオミング号でして、生麦事件の影響なんだと思いますが、自国民保護を命じられて横浜へ来ていましたところが、突然、アメリカ商船が襲撃されたとの知らせを受け、報復のため急遽下関へ出向いて、10名の死傷者を出しながら、長州海軍を壊滅させるんですね。

 この当時の幕府のドッグは、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1に書いておりますように、簡単なものが浦賀にありました。江戸ではありません。本格的な修理ができるドッグではありませんし、ワイオミング号が浦賀ドッグに入った可能性は、なさそうに思います。
 で、「戦って殺すべき売国奴の幕府役人たち」 って、だれなんですかね?
 勝海舟の悪口を鵜呑みにしていたとしましたら、小野友五郎とか、小栗上野介とか、でしょうか。

 『続再夢紀事』によりますと、龍馬の言います大名の同志とは、越前の春嶽公と、肥後熊本藩主の六男で、喜連川藩主だったことのある長岡護美。旗本は勝海舟と大久保一翁のことのようなんですけれども、実際には、彼らと龍馬の間には、相当大きな溝があります。
 
 したがいまして、龍馬の書いている情報はいいかげんなものですが、ただ、狂犬みたいな長州に味方して、「日本の代表だ! がんばれっ!」と応援する心情は、当時の西日本の庶民の総意に、あい通じるものがあったのではないでしょうか。
 
花冠の会津武士、パリへ。で書いておりますが、こののちの四国艦隊下関砲撃戦で勝利しましたオランダの軍艦が本国へ帰り、歓迎されておりましたところに、欧州歴訪中の会津藩士・海老名李昌が行き会い、「長州をうちて勝利を得たる軍艦帰り祝う。余、朝敵なれども同国のことなれば身を潜め見るにしのびず」 と、会津とは敵対していました長州の攘夷戦ではありましても、長州は日本ですし、それに勝ったというオランダの祝いは、日本人として見るにしのびなかったわけです。
 敵対する山国の会津藩士にしてこうですから、まして西日本の庶民は、瀬戸内海を異国船がわがもの顔に行き来し、自分たちの生活圏に踏み込んで来るのを日々目の当たりにしていたわけでして、理屈は横へ置いておいて、「日本の代表だ! がんばれっ、長州!」という心情が、一般的だったでしょう。

 『続再夢紀事』によりますと、姉に手紙を書いた日、京都の越前藩邸を訪れました龍馬は、姉に書いたと同じような無茶苦茶な感情論を、村田巳三郎にぶつけます。
 「このままでは長州は異国に占領されてしまいますき。日本の全力を挙げて、長州の応援をすべきです。そのためには、まず幕府の売国役人どもを片付けなければならず、勝海舟と大久保一翁に相談して標的をさだめ、春嶽公、長岡公子、うちの殿様容堂公とに上京してもらって、幕府の掃除をしましょうぞ」 

 よくも言ったり無茶苦茶を、でして、村田もあきれ果てたようです。
 「とんでもないまちがいをやらかしたのは、長州人の方ですよ。例え、異国と談判して退去してもらうことができたとしても、償金をはらって、こちらが謝らざるをえません。そうしなければ日本は、不義無道の汚名を世界にとどろかすこととなり、武力で攻められても文句が言えなくなります。にもかかわらず今、朝廷は長州の暴挙を賞賛していて、それがために外国との和談が進まないことが頭痛の種です」 

 これに答えまして龍馬は「国のために死のうという長州の心意気は、賞賛すべきじゃないか!!! 長州の地を外人に取られて、憤激した長州人が江戸へ出て火をつけ、横浜を砲撃して内戦になったらどうするんだっ!!!」 と絶叫します。
 もうね。どう頭をひねくれば、こんな無茶苦茶な話が出てくるんでしょうか。
 船を全部沈められた長州人が、どうやって横浜を砲撃するんでしょう? 江戸に火を放つんでしょう?

 村田巳三郎の筋道だった話に、長州の罪を認めざるをえなくなりました龍馬は、それでも幕府の売国役人退治に固執し(いったい、どこから入った情報を信じ込んでのことなんでしょうか?)、翌日、近藤長次郎を連れて、再び、越前屋敷に乗り込みます。
 そして、龍馬は再び昨日の話を蒸し返すのですが、話し合いの結果、「長州の事は天下の公論にゆだねる。私情でその罪を判断してはいけない。外国とのことは、当然の道理に基づいて談判を尽くすべき。国内においては人心一和をはかり、もしも外国と戦をするのであれば、日本全国一致し、全国民が必死になる必要がある」 という、ごく一般的な話で落ち着き、龍馬は幕府の売国役人退治をあきらめたようです。

 近藤長次郎が説得したのは、村田巳三郎ではなく、どうも、龍馬だったようですね。

 えーと、次回もちょっと復習、といいますか、近藤長次郎の上書(「玉里島津家史料三」に収録)はいつ書かれたのか、という問題などもありまして、ユニオン号事件にいたるまでの薩長の状況を、いましばらく、追ってみたいと思います。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol8

2012年12月22日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol7の続きです。

 そのー、ですね。考えたいことがいろいろと出てきまして、ちょっと間を置きました。
 これは以前から気になっていたことなのですが、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の著者が坂崎紫蘭だったのではないかと私は推測いたしましたが、もしそうだったとしますと、一つ、不可解なことがあるんですね。
 明治16年の「汗血千里駒」、大正元年の「維新土佐勤王史」がともに、近藤長次郎の命日を1月14日としておりますのに、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」はちがうんです。

 「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る」(「土佐史談240号」収録)で、皆川真理子氏が、野村宗七の日記をもとに探求しておられますのが、近藤長次郎の命日でして、前回ご紹介いたしましたように、前河内愛之助(沢村惣之丞)、多賀松太郎(高松太郎)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)が野村に、「上杉(長次郎)が自刃した」と告げに参りましたのが1月23日です。
 しかし、命日はその翌日とされたようでして、長次郎が葬られました長崎海雲山 皓台寺の過去帳には、1月24日とあります。

 伝記の中で、命日が正確に1月24日となっておりますのは、実は井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」「勤王事績調」(「山内家史料 幕末維新第5編 第16代豊範公紀」収録)の二つのみです。
 「勤王事績調」がいつ書かれたものかはわからないのですが、内容は「海南義烈伝」近代デジタルライブラリー「海南義烈伝.2編」)を短くしたような感じでして、あるいは双方に共通する文書があったのではないか、と思われます。しかし、なぜか命日は「勤王事績調」のみが正しく書かれています。

 おそらく、なんですが、「勤王事績調」のもとになった伝記は、河田小龍の手になったものではないかと思われ、だとすれば、小龍は長次郎の死から間もなく、京都の薩摩藩邸を訪ね、中村半次郎(桐野利秋)に話を聞いているのですから、正確な命日は知っていたわけなのです。

 しかし、内容につきましては小龍の話を元にしたと思われます明治15年出版の「海南義烈伝」が、なぜか10日まちがえまして、14日としているんですね。
 明治16年、坂崎紫蘭は、これもおそらくなんですが、「海南義烈伝」を踏襲して、「汗血千里駒」で14日とし、30年後の「維新土佐勤王史」も、同じにしているんですね。

 とすれば、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の著者は、坂崎紫蘭ではないのではないだろうか、と考え直しました。
 その理由をもう一つあげますと、さまざまな新しい史料を取り入れながら、「維新土佐勤王史」の長次郎に対します見解が、「汗血千里駒」とまったく変わらず、なんのためらいもなく、冷ややかなものであること、です。

 ではいったい、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、誰が書いたのでしょうか。
 近藤長次郎とライアンの娘 vol5で書きましたように、土佐出身者であることは、まちがいなさそうです。

 もっとも肝心な点は、高松太郎か千屋寅之助から話を聞いたのではないかということなのですが、もう一つ、グラバーから直接話を聞いたか、あるいは、中原邦平が聞き取りましたグラバー談話を読ませてもらった、可能性が高い、ということがあります。

明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末
内藤 初穂
アテネ書房


 近藤長次郎とライアンの娘 vol7に追記いたしましたが、、内藤初穂氏の「明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末」によりますと、芝のグラバー邸は1893年(明治26年)3月20日に火事で全焼しまして、以降、グラバーは芝に邸宅は持たなかったそうなのです。一方、グラバーに受勲を、といいます動きは、明治31年ころから始まっているのだそうでして、どうも、中原邦平のグラバー談話は、明治30年前後のものであるようなのです。

 ここでもう一度、近藤長次郎の物語が、どう世間に伝わったかをまとめてみますと。

 明治15年、「海南義烈伝 二編」が出版されます。
 土佐出身者のみの伝記集ですから、それほど広く読まれたわけではないでしょうけれども、伝記としましては、以降かなりの期間、これが基本となり、その死は、「薩長同盟のために尽くしていたが、両藩の行き違いの責任を一身に引き受けてりっぱに自刃」と描かれます。

 ところが翌明治16年、龍馬を主人公としました自由民権政治小説「汗血千里駒」が高知の「土陽新聞」に連載され、その年のうちに大阪で、そして間もなく東京でも出版されまして、人気を得ます。ここで初めて長次郎の死は、「長次郎は洋行させてくれるという長州の誘いに乗り、社中の仲間を裏切ったので、龍馬が詰め腹を切らせた」と否定的に描かれます。
 これは小説でしたので、公式な場合の伝記としては問題にされませんでしたけれども、取材した様子がうかがえ、長次郎の生い立ちにつきましても詳しく、現代におきます司馬遼太郎氏著「竜馬がゆく (文春文庫)」のような感じで、一般にはむしろ、こちらが真実と受け取られるようになったのではないでしょうか。

 「明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末」によりますと、明治17年、岩崎弥太郎の三菱に雇われていましたグラバーは上京し、息子を学習院に入学させ、横浜のビール工場を取得し、さらに、病にたおれました弥太郎に代わる弟・弥之助の相談役ともなるため、芝に別邸を設けます。
 弥太郎は翌明治18年2月7日に死去。
 前回に推測しましたように、明治17年、弥太郎は病の床で「汗血千里駒」を読み、そこに描かれました愛弟子・近藤長次郎の死に様に驚愕して、グラバーに話し、実情を聞いた可能性は高いと思います。

 
 明治24年ころ、馬場文英が「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を書き、これは「海南義烈伝」に近い内容なのですが、出版はされなかったようでして、世間にひろまった様子はありません。

海援隊隊士列伝
クリエーター情報なし
新人物往来社


 明治26年、芝のグラバーの別邸が焼け、グラバーが長次郎の形見として大切にしておりました刀が、失われます。
 同年、千屋寅之助(菅野覚兵衛)が死去します。
 「海援隊隊士列伝」の佐藤寿良氏著「千屋寅之助」によりますと、千屋は海援隊士として戊辰戦争に参加した後、明治2年、白峰駿馬(長岡藩出身の海援隊士)とともにアメリカ留学。明治7年に帰国し、海軍省勤務。西南戦争時に鹿児島の火薬庫接収を志願して失敗。白峰がいた横須賀造船所に転出しますが、活躍の場を見いだせず、明治17年、甥の千屋孝忠の誘いを受け、海軍を休職して、福島県郡山の安積原野開拓に参加します。

 調べてみましたら、ちょうど士族救済の国家プロジェクトで、安積疏水の灌漑が開始されたばかり、だったんですね。
 どうも、大久保利通のお声掛かりで開始されたプロジェクトみたいでして、海軍関係者に土地の割り当てが優遇されたりとか、なにか、あったんでしょうか。
 千屋は海軍を休職して参加しましたが、慣れない北国の田舎のきびしい開墾生活に、長男が死に、妻の起美(竜馬の妻・お龍さんの妹)は東京へ帰り、結局、千屋も一時海軍に復職することとなります。
 明治24年、千屋は再び安積開拓地の甥のもとに帰りますが、甥も開拓地を去り、千屋は体を壊して東京へ帰り、26年5月、東京で、52歳の生を終えました。

 明治31年11月7日、土佐において、龍馬の跡を継いでおりました高松太郎(坂本直)が病で死去します。享年57。
 この人のことは、これまでにも書いておりますが、明治22年に宮内省を免官になって、土佐へ帰ります。
 実は明治20年、自由民権運動の闘士で高知県会議員だった実弟の坂本直寛(南海男)が、建白のために上京し、保安条例違反で逮捕され、入牢しておりました。22年、憲法発布の大赦で釈放されて直寛は土佐へ帰り、それにあわせるように高松太郎は、免官になっているのですが、明治23年に東京で借金した証文が残っていまして(坂本龍馬記念館所蔵だそうです)、すぐに帰郷したわけではなさそうです。

 しかし、やがて帰郷して、直寛宅に身をよせましたことは、戸籍でわかるそうです。
 直寛は北海道開拓を志すようになり、明治29年に単身で出かけて準備し、31年5月、一家を挙げて北海道へ移住します。
 高知に残った高松太郎は、その年の11月に死去。残された妻子は、直寛を頼って北海道へ行きます。

 一方、ちょうどそのころ、京都におきましても、近藤長次郎にゆかりのある人物が、世を去っていました。
 河田小龍です。
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書いておりますが、小龍は画家としての勉強を京都でしておりまして、明治のいつころからか土佐を出て、京阪神方面に住まい、明治27年からは京都の息子と同居しておりました。
 明治31年12月19日、土佐で高松太郎が世を去りましたおよそ一月後、75歳で生を終えました。

 そして明治32年の末、近藤長次郎とライアンの娘 vol5でご紹介しました 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)が、土陽新聞に連載されます。
 龍馬の妻でしたお龍さんから話を聞き、談話を執筆しましたのは、川田雪山(瑞穂)。明治12年高知生まれですから、このとき若干20歳。
 どういう人なのか、慌てて調べましたところ、エドガー・ケイシーと学ぶ魂の学舎終戦詔勅の起草者と関与者(上-2)~川田瑞穂翁と安岡正篤翁~というページが一番詳しく、どこまで正しいのかわからないのですが、参考にさせていただきつつ、以下。

 明治28年、17歳にして大阪に出て、土佐出身の漢学者で自由民権運動の闘士・山本梅崖に漢学を学びます。
 31年に東京に出て漢学者・根本通明に学び、32年の末に 千里駒後日譚を高知の新聞に連載。
 35年に早稲田に入学しますが中退。京都へ行き、府会書記として就職し、かたわら政治文学雑志主宰。大正5年、維新史科編纂会嘱託になるんだそうなんです。

 もう、おわかりでしょうか。
 私、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」著者は川田雪山ではなかったか、と思い始めているんです。

 実は、ですね。
  高松太郎が死去しました明治31年、千里駒後日譚が連載されました32年は、土佐におきまして、近藤長次郎の生涯が、大きくクローズアップされた年でもあったんです。

 
龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社

 
 明治31年7月、近藤長次郎は正五位を追贈されています。
 どうも、青山のじじい(田中光顕)の配慮だったようです。
 このとき、遺児の百太郎が、生まれてはじめて高知に足を踏み入れました。
 百太郎は、母・お徳さんの里、森下家の籍に入っておりましたので、追贈者の遺族であることを証明しますような手続きが、必要だったんだそうなんですね。
 そして翌明治32年、再び高知を訪れ、行方不明になってしまったんです。

 「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」の著者・吉村淑甫は、百太郎のご子孫から、高知郊外北山山中で獣に食べられた、というような風説も聞いておられ、「あるいは殺されたのかもしれない」というような感触を、持っておられたようなのです。
 「長次郎自身が殺されたのではないか」とも、思っておられたようですが、なんにしろ、坂崎紫蘭の「維新土佐勤王史」を否定しますだけの材料を、お持ちではなかったのでしょう。

  維新に遅れますこと12年、高知に生を受けました川田雪山は、六つの時に連載、出版されました「汗血千里駒」を読み、なにしろ、登場人物が育った場所はすぐそこで、まだみんな親族が健在ですし、身近なヒーローとして、坂本龍馬の活躍に、ワクワク胸をときめかせたのではないでしょうか。
 明治28年、17歳にして大阪に出る以前に、高松太郎に話を聞きに行ったのではないか、とは、十分に考えられることです。
 雪山の経歴からしまして、河田小龍からも直接話が聞けたでしょうし、あるいは百太郎やお徳さん、長次郎の妹・お亀さんにも、会っていた可能性があります。

 井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」には、最後に明治31年の長次郎贈位記事がありますので、それ以降に書かれたことはまちがいない、と以前にも書きましたが、著者が川田雪山だったと仮定しますと、書かれたのは、明治35年前後でしょうか。
 中原邦平のグラバー談話を参照し、書かれたものが井上馨関係文書として保管されたにつきましては、あるいは、青山のじじい(田中光顕)が世話したアルバイトだった、とは考えられないでしょうか。「千里駒後日譚」の連載で、じじいの目にとまったのではないかと。

 肝心な部分ほぼ4行分に黒々と惹かれた墨線につきましては、高松太郎から聞いていたことをそのまま書くべきではないかという20代前半の青年の良心と、敬愛する郷土の英雄・坂本龍馬の後継者の汚点を世間に知らせることへの抵抗と、せめぎあった結果 で、あったのではないかと、考えたいと思います。

 結局しかし、明治40年の「井上伯伝」は、馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を下敷きにして、「海南義烈伝」以来の「近藤昶次郎、薩長の板挟みとなって名誉の自刃説」をとり、「長次郎は洋行させてくれるという長州の誘いに乗り、社中の仲間を裏切ったので詰め腹を切らされた」という土佐の説は、異説として小さく併記しているだけです。

 大正元年に出ました「維新土佐勤王史」は、いわばこれに対する反論ともいえまして、かつて自由民権運動の闘士でした坂崎紫蘭の、長州閥に対します長年の嫌悪が、色濃く出た結果となっております。

 ユニオン号に関します動きを、まだ詳しく追っておりませんし、次回から、「井上伯伝」「維新土佐勤王史」をくらべつつ、真相を考えていきたいと思います。

 続きます。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol7

2012年12月14日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol6の続きです。

 私、グラバー談話につきましては、近藤長次郎とライアンの娘 vol5で、山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」を見て、すでに考察いたしました。この大筋が、ちがっていたわけではないのですけれども。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
山本 栄一郎
文芸社


 ところが、ですね。
 山口県立図書館から届きましたコピーを読んでおりますと、グラバーは、実に生々しい話をしております。
 以下、引用です。

 その翌日坂本龍馬といっしょに来た人が、佐々木という人だろうと思いますが、それはたしかではありません。しかし二人で来て、上杉(長次郎)は非常に立派な自害をしたと話しました。ほんとうかと訊くと、ほんとうだと答えましたから、なぜ自害したか、どういう理由で死んだかとたずねました。するとわれわれ同志が盟いを立てたことがある。それを破ったから死んだという。よろしい、それなら私は刀をもらう約束がしてあるからそれを渡してくれというと、それはやるわけにはいかぬという。これは怪しからぬ、上杉はおまえたちが盟を破ったために自殺させたということであるから、殺したおまえたちに、その責任が生じてこなければならぬ。どうしてもその刀は受けとらねばならぬと談判したところが、坂本は顔を青くしてよく考えてみようという。実は、その刀は死骸と共に埋めてしまったのであるが、しかいう理屈をグラバがいうならば、よく考えてみようというので、乗物に乗って出て行った。やがて、短刀の方は持ってこなかったが、大きい刀を持って来てくれた。その刀は、この間まで持っていましたが、芝の火事で焼いてしまいました。 

 まず、ですね。このインタビューが行われました時期の訂正から、いたします。
 中原邦平は冒頭で、「今日の質問は、ミストル・グラバの履歴を調査するためではありません。旧長州藩(すなわち毛利公)の歴史編輯の材料ならびに伊藤井上二公の事績調査の参考とするのであります」 と言っていますし、グラバーの談話中「この間まで持っていましたが、芝の火事で焼いてしまいました」とあります芝の火事は明治42年4月のものと思われ、どうも、グラバー死去(明治44年12月)の直前、明治43年か44年ころのようなのです。

 そうだとしますならば、「井上伯伝」出版(明治40年)より後ですし、おそらくは、ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」が書かれた後、と思われます。

 (追記) 芝の火事でグラバー邸が焼けた時期を、私、勘違いしていたことが判明いたしました。詳細ははぶきますが、内藤初穂氏の「明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末」によりますと、芝のグラバー邸は1893年(明治26年)3月20日に火事で全焼しまして、以降、グラバーは芝に邸宅は持たなかったそうなのです。一方、グラバーに受勲を、といいます動きは、岩崎弥之助によりまして、明治31年ころから始まっているのだそうでして、どうも、明治30年ころの聞き書きであった可能性が出てまいりました。このことは、次回の考察で反映する予定です。

 井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」「井上伯伝」のどちらが先に書かれたかは悩ましいのですが、「井上伯伝」が長次郎の死の原因をどう記述しているかと言いますと、近藤長次郎とライアンの娘 vol2ですでに書きましたが、なにしろ山 栄一郎氏がおっしゃいますように、「井上伯伝」は、馬場文英著「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を下敷きにしています。
 したがいまして、リアルタイムに社中の三人が薩摩屋敷に届け出ました、野村宗七日記の「同盟中不承知之儀有之」 から、大きくはずれるものではありませんし、「土藩坂本龍馬伝」そのままと言ってよく、桜島丸(ユニオン号)に長州海軍局の中島四郎が船長として乗り込み、長崎へ現れたので、約束にたがうと薩摩藩士が怒った、ということになっていて、以下のように記しています。

 「上杉はこれがため薩長連合の進行に破綻を生ぜんことを憂へ、責を一身に引請けて自刃したり」 

 ただ、小さく以下のような説もあることを載せているんです。

 「海援隊士が上杉に迫りて自殺せしめたるは、汽船購入に就き、彼が長州より巨額の金を収受したりとの嫉妬的非難もありたりといふ」 

 これ、近藤長次郎とライアンの娘 vol5でご紹介しました井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の話を要約しただけと思えまして、とすれば、坂崎紫瀾が書いたと思われます井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、明治40年以前に書かれたものでしょうし、先に推測しましたように、紫瀾は中原邦平より先に、ユニオン号事件につきまして、グラバーに話を聞いていたのではないでしょうか。
 むしろ、中原邦平は、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の異説に誘発されまして、「井上伯伝」出版後の明治43年か44年ころ、再びグラバーに話を聞こうと思い立ったのでしょう。

 したがいまして、最初に引用しました生々しいグラバー談話を、です。紫瀾がそのまま先に聞いていたかどうかはわからないのですけれども、大正元年の「維新土佐勤王史」に、少々は反映されているように思われまして、似たような感じでは、聞いていたのではないでしょうか。

 要するにグラバーは、「社中のメンバーは、長次郎が死んだ翌日に『上杉(長次郎)は非常に立派な自害をした』と言いに来たが、自分には信じられなかった」といいますことを、後年まで、覚えていたんですね。
 「土佐史談240号」収録の皆川真理子氏の論文「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る」から、野村宗七(盛秀)日記の関係部分を、孫引きさせていただきます。お断りしておきますが、適当に漢字を開いたりいたしますので、正確なものではありません。

1月13日(晴)
御邸へ出蘭岡色爾ボードウィンへさしこし、それより伊地知大人(壮之丞、貞馨)へさしこし候ところ、土州家上杉宗次郎(長次郎)あい見え、今夕、伊地知大人ならびに喜入(摂津)氏、上杉と小島屋
1月14日(朝5時ころまで雨、昼晴)
英人ラウダへ8後さしこし、今晩、上杉宗次郎、伊東春輔(伊藤博文)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)とガラバ別荘へ約束いたし置さしこし候
1月23日
今晩8前、土州家・前河内愛之助(沢村惣之丞)、多賀松太郎(高松太郎)、菅野覚兵衛入来。上杉宗次郎へ同盟中不承知の儀これあり、自殺いたされ候だん、届け申し出候間、翌朝、御邸・伊(伊地知壮之丞)、汾(汾陽次郎右衛門)そのほかへ、届け申し出候
1月24日(晴)
上杉旅舎自殺いたし候小曽根方へさしこし、前河内と会とり、なおまた、始終を聞く。ガラバ方にて、伊東春輔と面会、上杉が次第を話す。
 

 伊藤博文は、このときグラバーの別荘に滞在していました模様で、あくまでも野村の日記によれば、ですが、長次郎の死を伊藤とグラバーに告げましたのは、薩摩藩士である野村本人です。
 しかし野村は、その前に沢村惣之丞に詳しい話を聞いているのですし、野村とともにか、その前後に別にか、どちらにせよ、社中のだれかが、伊藤とグラバーに話をしに行かない方がおかしいでしょう。
 
 この伊藤公直話 「詰腹切った近藤昶一郎」(近代デジタルライブラリー)、いったいいつ聞いた話なのかわからないのですが、伊藤が死んだのが明治42年ですから、グラバー談話よりも前であることは確かです。
 で、グラバーとともに長次郎が死んだことを聞きました伊藤博文は。

 「小松帯刀が、この男は後来役に立つ男だといって、いくらか金を出して洋行させることにした。それを他の海援隊の奴が聞いて、けしからぬといって切腹させてしまった。その前日なども一緒に酒を飲んでいたが、翌日になって、昨夜腹を切らしてしまったというような話だった。気の毒なことをした、これが一番役に立つ男だった」

 翌日に、おそらくは社中のメンバーから長次郎の死を知らされたグラバーと伊藤は、後年ですが、口をそろえて「長次郎は小松帯刀に洋行させてもらうことになっていた。それが原因で、社中に迫られて詰腹を切らされた」 と言っているわけです。

 前回もご紹介しました犬塚孝明氏の論文「第2次薩摩藩米国留学生覚え書 日米文化交流史の一齣」(日本歴史学界の「日本歴史 453号」p34-51)によりますと、長次郎の死後、慶応2年3月26日に長崎を出ました第2次薩摩藩米国留学の第一陣は、渡航の世話から留学中の費用一切、アメリカ商人ロビネットに任されていました。グラバーには一切、関係ありません。
 したがいまして、井上聞多が長次郎に頼んでおりました「薩摩の留学生に長州人もまぜて欲しい」という点に関しましては、1月13日、長次郎が、野村と伊地知壮之丞や喜入摂津などと会っていたときに、話し合われた可能性が高いと思われます。

 ではいったい、その翌日、1月14日にグラバーの別邸で、長次郎と野村に伊藤、千屋寅之助が話し合ったのはなんだったかと言いますと、もちろん、ユニオン号のことであったと思われます。
 しかし、千屋のいた席でその話が出たかどうかはわかりませんが、グラバー、伊藤、長次郎の三人は、前回、慶応2年12月10日付けの伊藤博文から桂小五郎(木戸)宛の書簡から推測しました「薩英会談に、長州の代表も加えて三者会談を実現させよう!」ということについて、頻繁に、つっこんだ話をしていたと思います。
 薩英会談の実現に、グラバーは相当に尽力していますし、下関開港は、グラバーの悲願でした。

 そして、薩摩に頼っての長州人の留学話にしろ、薩英会談に長州の代表を出席させる話にしろ、双方、井上聞多と伊藤博文が、近藤長次郎個人に頼んだ話でして、伊藤にしてみましたら、龍馬は別格として、社中の他のメンバーには、いっさい関係のない話なんですね。長次郎にしましても、薩摩側の判断がどう転ぶかまったくわからない段階で、長州からの頼み事を他にもらすことは、むしろ、してはならないことではないでしょうか。

 後年の伊藤の話が、どこまで正確なものなのかはわからないのですが、伊藤のいいます通り、長次郎が死にましたその日、伊藤と長次郎と社中のメンバー、それもおそらく沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助が酒を飲んでいたのだとしまして、酒の勢いで、伊藤がなにげなく留学の話を長次郎に聞いたりするようなことが、あったのではないでしょうか。
 土佐勤王党のこの三人にしましたら、日頃、伊藤は長次郎ばかり特別扱いで、自分たちには、なにも話してくれない、という不満が募っていたのだと思います。
 後年のことながら伊藤は、長次郎について「これが一番役に立つ男だった」と言っているわけですし。

 後年の回想の上に重ねて、もはや憶測にしかならないのですが、長次郎が井上聞多から留学生についての周旋を頼まれていることは知らず、伊藤の言葉のはしばしから、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助は、逆に、長次郎の留学が長州の世話を受けたものだと誤解したのではないのでしょうか。
 そして、伊藤と別れ、小曽根邸へ帰りました長次郎と沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の間に実際になにがあったのかこそが、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分に書いてあることなのでしょう。

 ユニオン号問題の解決とともに、「薩英会談に、長州の代表も加えて三者会談を実現させよう!」としていましたグラバーと伊藤にとりまして、長次郎の突然の死は、呆然と、信じることのできないものでしかなかったと思われます。
 グラバーの回顧談に出てきます坂本龍馬と佐々木を、坂崎紫瀾は「維新土佐勤王史」を書きました時点で、高松太郎と沢村惣之丞だったと、理解したのでしょう。高松太郎はともかく、なぜ沢村惣之丞が前面に出て来たのかは、今のところ、私にはさっぱりわからないのですが、後に、「維新土佐勤王史」の記述とともに、ユニオン号をめぐります社中の動きを検証してみますので、なにか、考えつくことがあるかもしれません。
 私、書きながらでなければ、なにも考えることができないんです。

 近藤長次郎とライアンの娘 vol5に書きましたが、後年の談話ですし、グラバーの記憶は、いろいろなことをごちゃごちゃにしてしまっているのですけれども、冒頭で引用しました部分、どうやら「長次郎が自殺などするはずがない!」と感じて、社中のメンバー、おそらくは高松太郎と沢村惣之丞を問い詰めました部分は、やけに生々しいんですね。
 そして、長らくグラバーは、長次郎の形見の太刀を、大切に持ち続けていたわけです。

 これ、やはり私は、死ぬ直前の岩崎弥太郎が、明治16年に出版されました「汗血千里駒」を見まして、そこに書かれました愛弟子・長次郎の死の原因に驚愕し、グラバーに話したんだと思うんですね。グラバーなら知っているだろう、という思いもあったのだと思います。

 ご存知のように、岩崎弥太郎は後藤象二郎に抜擢され、土佐商会の長崎留守居役を務めますと同時に、龍馬の海援隊の経理も担当するのですが、長次郎の死について、龍馬と話したことがあったにしましても、近藤長次郎とライアンの娘 vol5で引用しておりますが、 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)のお龍さんの回想からしまして、龍馬は真相を知りませんでした。
 河田小龍の塾からずっと長次郎と同じ道を歩み、長次郎の死後も遺児のめんどうをみたといわれます新宮馬之助は、このとき龍馬とともに京都にいまして、やはり事件の真相を、知ってはいません。

 もしかしますと社中の三人の知らせを受けました野村は、グラバー、伊藤とともに、その言い分を疑ったのかもしれないのですが、薩摩人らしく「社中の連中のためにはそうしておいてやるしかなかろう。りっぱな自決といえば、長次郎の名誉にもなるだろう」と、追及しなかったでしょう。

 そんなわけで、岩崎弥太郎にとりまして、「汗血千里駒」の記述は驚愕の種で、長次郎への哀悼の思いを深めて、長次郎の形見の刀を愛蔵していますグラバーに、あらためて話を聞いたのではないかと、思えるんですね。
 つまりグラバーは、明治16年ころに一度、岩崎弥太郎に話したこともあって、明治の終わりになりましても、この部分のみは生々しく、自分が「殺したおまえたち」とつめよったこと、つめよられた「坂本は顔を青くし」たことなど、語りえたのではないのでしょうか。

 実は私、千頭さまご夫妻にお目にかかる以前から、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は手に入れておりました。しかし、黒々と墨線が引いてありますほぼ4行分になにが書いてあるかなぞ、いまさら考えてもわかることではないと、放り出していたんですね。

 千頭さまご夫妻は、「長次郎は殺された」と確信しておられました。
 私、かならずしも最初から、ご夫妻の確信に、同意していたわけではありません。
 ただ、殺されたと言いましても、「酒の入った場で、感情の行き違いから言い争いになり、三人の誰かが勢いで、つい長次郎を刺してしまったのではないか」というお話でしたので、まあ、ありえないことではないけれども、と思いつつ、ユニオン号の話にしろ洋行の話にしろ、あまりにも情報がごちゃごちゃでして、整理して考えてみないことには、なんとも、と、ずっと留保しておりました。

 ご夫妻が、「長次郎が自殺したはずがない」と思われます最大の理由は、出産が近い妻お徳さんに、なんの遺言もなかったことです。長次郎の死の二ヶ月後に遺児・百太郎は生まれていまして、長次郎は妻が出産の時にそばにいられないことはわかっていましたから、「こう名付けるように」という手紙は、出していたそうなのですね。
 おそらく、なんですが、龍馬とともに上京しました新宮馬之助が、届けたのでしょう。
 それほどに気をつかっていました長次郎が、なんの遺言もなく、覚悟の自殺をするでしょうか? ということです。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 もう一つ。
 ご夫妻は、「龍馬の影を生きた男近藤長次郎」の著者、吉村淑甫氏とお知り合いです。
 吉村氏は、90を超えられてご健在だそうですが、「書けなかったことがある」というようなことを、ご夫妻におっしゃったそうなのです。
 これは私の推測なのですが、吉村氏が伝記を書かれました当時には、「玉里島津家史料」も刊行されておりませんし、また吉村氏は、野村の日記を見てみようとは、思いもかけておられなかったでしょう。
 「維新土佐勤王史」に反論しますには、あんまりにも材料不足でおられたのではないでしょうか。

 井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」黒々と墨線が引いてありますほぼ4行分になにが書いてあるのか。
 これ、短い伝記なのですから、なにも墨線を引いた部分を残さなくても、きちんと清書すればいいことなのです。
 だのになぜ、わざわざ墨線を見せつけるように残したのか。
 長次郎の死が不審なものであることを、後世に伝えたかったのだと、私には思えます。

 妄想だといわれますとそれまでなのですが、墨線の下には「長次郎は、高松太郎と沢村惣之丞に殺された」ということが、書いてあったのではないでしょうか。
 そして、それを坂崎紫瀾に話した人物は、高松太郎以外にいないでしょう。
 反対から言いますと、高松太郎が、長年の胸のつかえを打ち明け、世間へ公表するかどうかの判断をゆだねる相手としましては、実弟・坂本直寛(南海男)の自由民権運動仲間で、「汗血千里駒」の著者、坂崎紫瀾以外にいなかったのではないでしょうか。

 続きます。

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