小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

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真相・浪士組結成と清河八郎 完

2016-07-11 12:14:32 | 小説
タイミングのいいことに、この年8月、次のような朝命が出されていた。「諸大名ならびに諸藩士、浪人等正義の徒の幕譴を蒙れる者を大赦せよ」というものである。「幕譴」つまり幕府のあやまちによって、というのは井伊政権のことを指しているのだろうが、清河八郎自身、この大赦令の実行に期待をかけていた。
 12月26日、幕府は大赦の令を下し、志士の罪あるものを許した。清河八郎に連座して獄中にあった八郎の弟熊三郎と池田徳太郎を放免した。これを知った清河八郎は翌文久3年正月、浪士取扱の者に自訴し、宥免をかちとった。
 むろんお叱りをうけたが、浪士取扱の松平上総介(主税助)と鵜殿鳩翁に身柄を引き渡されたのであった。。
 浪士取扱の下の浪士取締役には山岡鉄太郎がいた。だが、これまでの関係から八郎の方が兄貴分である。事情を知らない浪士たちから見れば無役の清河八郎の立場の方が上にみえたかもしれない。
 2月8日、募集に応じた浪士およそ250人が江戸小石川の伝通院に集合、京をめざして出発した。
 八郎は隊列の中にはいない。自由人のように「時には先方に、時には後方にはるか離れて歩いて行く」(小山松勝一郎『清河八郎』)

 さて切れ切れに書いてきたけれど、清河八郎が浪士組結成の主導者でないことはご理解いただけたのではないだろうか。
 よく清河八郎を「新選組の生みの親」(新選組の母体が浪士組だから)などと評する人がいるが、事実を歪めたおかしな言い方なのである。もともと新選組は、浪士組に叛いて離反したグループなのである。
 清河八郎を新選組人気に結びつけるのは弊害しかない。むろん彼を顕彰したことにもならず、むしろ実像を歪めるばかりである。彼の顕彰には別の切り口が必要なのだ。私の言いたかったのは、このことである。(完)
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真相・浪士組結成と清河八郎 3

2016-07-10 13:40:14 | 小説
 松平主税助は徳川家康の六男忠輝の七代の孫という名族であった。名は忠敏。文久3年正月には上総介に昇格改称するから、主税助時代のことも上総介と回想されることもある。
 ともあれ格式は大名の上の主税助と一介の浪士清河八郎の建白とでは、うけとる側の重みだって違うのである。
 この年、文久2年の夏以降、いわゆる尊攘激派の浪士たちの動きが活発化し、攘夷問題に悩んでいた幕府を困らせていた。できもしない攘夷をひそかに朝廷に約束していたからである。
 主税助は建白書に「浪士共其儘差置被遊候而は此上何様之変事相働候哉難計」少しも早く、彼らを幕府側に引き付け、天下の人心を幕府に帰一させなければならない、と書いている。
 そして、来春上洛する将軍の警護にあたらせれば、諸藩はじめ京、大坂の人心もあらたまるだろうと。(ちなみに清河八郎の建白には、上洛する将軍の警護などという具体的な提言はない)
 さて、浪士徴募の、手っ取り早い方法として、剣術の道場主に声をかけるのは効率的である。しかし、主税助は宮和田光胤に断られてしまった。
 ここで主税助の胸中に清河八郎の存在が大きくなる。清河八郎も道場主であった。主税助の講武所仲間である山岡鉄太郎は、清河の主宰する虎尾の会に属していたし、山岡を通じて清河八郎のことはよく聞かされている。
 しかも主税助が幕府から受け取った浪士募集の達文には、「尽忠報国」の志が篤ければ、既往の罪を免ずることもあるとされていた。
清河八郎を「お尋ね者」でなくすればよい。
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真相・浪士組結成と清河八郎 2

2016-07-09 12:42:27 | 小説
 松平主税助は、光胤採用については、政治総裁松平春嶽と老中板倉勝静にも話して内諾を得ているからというふうに光胤を口説いたらしい。
 しかし光胤は、12月13日、飯田町に仮住まいの主税助の「屋敷へ参り馳走ニなりし上同務等を断り候」と日記に書いている。
 浪士取扱の話を断ったのである。
 別の個所で光胤は、主税助のことを「此人、佐幕乃人ニテ光胤等と同志にあらす」と評しているから、しょせん幕臣という身分を脱しきれない主税助を見限っていたのであろう。

 狂歌が歌われた。

 松平主税助、浪士取扱仰せ付けられけれバ、
  此節は浪人どもが流行でちからを入れて奉行勤める

 むろん「ちから」に主税を掛けている。

 さて、ここで清河八郎の立場を確認しておかねばならない。彼は例の無礼討ち事件によって、幕府より指名手配されている、いわば「お尋ね者」である。
 その彼が、春嶽に上表するのは、彼の度胸の良さと文章家としての自信である。とはいえ、お尋ね者の建白を幕議にかけるわけはなく、浪士利用は松平主税助の建白によって実現したのである。いや、主税助の建白の黒幕が実は清河八郎であると言いたい人がいるかもしれないが、そんな気配や証拠はどこにもない。
 元新選組の永倉新八の回顧談などによって、清河八郎を判断してはいけない。永倉は大正まで生きたが、「真相と怪しげなことの両方を大量に伝えた」と著書『新選組』(岩波新書)に書いたのは松浦玲だった。
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真相・浪士組結成と清河八郎 1

2016-07-08 10:14:55 | 小説
 清河八郎は生前からなにかと誤解されやすい人物であったが、いわゆる浪士組の誕生に関しては、いまなお発起人であるかのようにみなされる誤解が定説化されている。たとえば、Wikipediaの「浪士組」の項目には、こう記されている。

「もともとは尊皇攘夷論者・清河八郎の発案で、攘夷を断行する・浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)・文武に秀でたものを重用する(急務三策という)ことを条件に結成されたものだったため、腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な組織であった。最初の浪士取締役には、松平忠敏(上総介)・中条景昭・窪田鎮勝・山岡鉄太郎などが任じられる。」

 さて、記事中の「急務三策」(これとて真向から浪士徴募を提言したものではない)を清河八郎が松平春嶽に建白したのは、文久2年11月12日である。
 ものごとは冷静に時系列にながめてみればよい。
 清河の建白より、ほぼ一か月前の10月18日に浪士利用を幕府に提言した人物がいる。講武所剣術教授方松平主税助である。松平主税助の建白によって幕府は浪士徴募を決定し、まず松平主税助を12月9日に「浪士取扱」に任命し、10日後の19日、浪士徴募の命令を下している。松平主税助は、すでに浪士徴募の統括責任者として宮和田又左衛門光胤に白羽の矢を立て、10日には光胤に話をもちこんでいた。宮和田光胤は江戸日本橋近くのヘッツイ河岸に北辰一刀流の剣術道場を開いていたが、松平主税助とは平田篤胤の気吹舎における同門人で、かねて熟知の間柄だった。(続く)
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村上春樹新訳『高い窓』を読む

2015-04-06 11:18:34 | 読書
 チャンドラーの『高い窓』を村上春樹の新訳で読んだ。ほぼ50年ほど昔、たぶん清水俊二訳で読んでいるのだが、まるっきり筋立てを忘れていて、初めて読む本と同じだった。ところが妙なことに情景描写に既視感があった。たとえば次のような箇所。
「外はもう暗くなり始めていた。ラッシュ時の車の騒音はやや静まったものの、開けた窓から入ってくる風は、まだ涼しい夜風とは言いがたく、そこには一日の終わりにつきものの埃っぽい、くたびれた匂いが含まれていた。自動車の排気ガス、壁や歩道から放射される陽光の余韻、無数のレストランから立ち上る料理の匂い(略)温かい気候の中でユーカリの木が発する雄猫のような、あの独特の匂いだ」
 この描写はハリウッドの丘の住宅地のことである。私が初めてアメリカ西海岸を旅し、ハリウッドの安ホテルに泊まっていたとき、どこかでチャンドラーのこの描写を意識していたような気がする。
 一人称小説だから、情景描写はそのまま主人公の心理を暗示している。うだうだした心理描写などせずに、情景描写で登場人物の心理を暗示する優れた作家にスタンダールがいる。そのスタンダールに、おそらく文体上の影響を受けている作家に大岡昇平がいる。大岡昇平の『花影』はまさにハードボイルド的文体で描かれた恋愛小説の傑作だ。しかし、こうした文体は読者にある一定のリテラシーを要求する。昨今のわかりやすくて読みやすい万人受けする小説の文体とは別物なのである。
 チャンドラー自身、この小説は売れないだろうと出版社の社長に弱きな手紙を出していた。けれども読者に迎合して安易な物語にはしなかった。村上春樹もまた「超訳」などというバカな真似はしていない。
高い窓
レイモンド チャンドラー
早川書房

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佐々木克『幕末史』(ちくま新書)批判

2014-11-20 11:07:07 | 読書
幕末の通史を一冊の新書で叙述するためには、どうしても割愛、あるいは捨象されることがらのあるのはわかる。しかし本書には捨象されたことがらが大きすぎて、そこに著者の歴史学者としてのあざとい立ち位置があらわれている。
 たとえば、浪士組と清河八郎に関する記述はいっさいない。天誅組と生野の蜂起への言及もない。それどころか戊辰戦争への論及がまったくない。王政復古のクーデターから、戊辰戦争をカットして、いきなり最終章が「明治国家の課題」なのである。
 どうやら本書に伏流しているのは、言わば、討幕のエートスの減殺である。「あとがき」に著者は書いている。「討幕あるいは倒幕運動の歴史として書かれる幕末史には、かなり早くから違和感をもっていた」と。
 ここで討幕と倒幕の用語の概念はこう違うなどと、言葉遊びをしている一部の論者につきあっている暇はないが、要するに佐々木克という歴史学者は、「討幕」という意志のなかった幕末史を語りたいのであった。
 第5章で、こんなことを言っている。「討幕という言葉がなかったというのではない。酒宴が盛り上がったときなどには、飛びかっていた言葉であろう」
 なんということを言うひとだろう。現代のサラリーマンが呑み屋で政治への不満にオダをあげているのと同じレベルに、当時の志士たちの心情をおとしめているのである。刀という武器を持ち、最終的には刀で決着をつけることも辞さない志士たちが国事を論じた処士横議の状況を、「討幕」などは酒宴でのみ語られた言葉とはなにごとか。
 討幕のエートスをなにがなんでも減殺したいらしく、こうも言う。西郷隆盛は幕府は自滅すると断言していたから、討幕に動いたわけはない、と。これは理屈にならない。
 自滅する幕府とわかっていても、討幕に動いた者はいるからである。文久3年8月に書かれた文書に次のような文言がある。
「嗚呼、方今世上の形勢スデニ幕府自ラ倒レ、乱ヲ醸ストイヘドモ、列藩諸侯、旧弊ノ因循大事々々トノ議論サカンニシテ、日月ヲ送ルニ随ッテ姦ハマスマス姦トナリ、正ハマスマス憤発シテ終ニハ海内瓦解シ、目的トスル攘夷ハサテオキ、如何トモナスベカラザルニ至ラン(略)干戈ニアラズンバ治マラズ」
 引用は、大和国に義兵を挙げる趣意を述べた松本謙三郎(天誅組)の『大和日記』からである。天誅組つながりで付言すれば、文久3年8月17日に中山忠光が朝廷に出した出陣届も、まごうことなき討幕の表明であった。ここで思い出すのは、佐々木克と同じように、討幕のエートスを減殺したいらしい家近良樹の言葉である。「私は武力討幕派なる言葉を使って幕末史を説明する必要はない」と家近は『孝明天皇と「一会桑」』に書きつけていた。「もし武力討幕派なるものが成立したとしたら、鳥羽伏見戦争の直前の時点だと思っているくらいである」とも。見られる通り、天誅組の挙兵は視野に入っていない。そもそも天誅組のことを一地方で起きた徒花的な暴挙ぐらいの認識しかないとすれば、歴史学者としての看板をおろせばいいと思う。
 さて、佐々木克のことであった。
 なぜ佐々木は討幕のエートスの減殺にやっきとなるのであろうか。「新政府は薩長討幕派の政府などではなかった」(本書「はじめに」)と言いたいがためである。つまり新政府のいかがわしさを隠したいのである。そのためには小御所会議の王政復古クーデターを、強引に正当化するのである。会議では「慶喜を参加させるべきだと主張する容堂と春嶽、反対する岩倉、大久保との議論になった」が「はじめから岩倉と大久保の方に分があり、時間を要したが容堂と春嶽が納得し」欠席裁判となった慶喜も会議の結果を「すべて承諾した」と語られる。ほとんど事実を歪曲した語り口である。会議には薩土芸尾越の5藩しか出席していなかった。会議のありようそのものがおかしいし、「陰険」であると発言したのは土佐の容堂であった。春嶽も容堂と同じ立場だった。だから出席していた中根雪江は『丁卯日記』に「薩を除くの外は、悉越土と同論なり」と書いているのである。岩倉と大久保は劣勢だったのだ。ところが休憩時間にその状況を聞いた西郷が容堂を刺せと示唆し、その恫喝によって強引に王政復古に傾いたのであった。「短刀一本あれば」という有名な西郷の恫喝のエピソードに佐々木はここでもいっさい触れない。歴史学者のあざとい立ち位置と最初に書いたのは、こういうことを含めてである。鳥羽伏見の戦いの直前、慶喜の名で用意された「討薩の表」や各大名に飛ばされた檄文には小御所会議を牛耳った薩摩への批判があふれている。とりわけ檄文の「公議を尽くさず」という批判は、まっとうなクーデター批判だった。 
 鳥羽伏見の戦いは、徳川と島津の私戦として始まり、やがて新政府軍と旧幕府軍の戦争、つまり戊辰戦争へと拡大していった。大政奉還の前後に暗殺された赤松小三郎や坂本龍馬の新政府構想のキーワードは「公議」だった。公議を尽くした路線を歩めば、戊辰戦争は避けられていたのではなかったか。王政復古は薩長の「私」と海舟は糾弾した(松浦玲)。おそらく佐々木克は「私」ではないと言いたいのだろうが、そうはいかない。
 テロと謀略のるつぼでもあった幕末を、きれいごとで語ることはできないのである。大政奉還後の修羅場をよくよく検証した幕末史を、歴史学者は叙述すべきではないだろうか。
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赤松小三郎研究会にて講演の記事

2014-10-20 12:17:16 | 小説
 
朝日新聞10月18日付朝刊(都内版)の28面に写真のような記事が掲載された。
そうなのだ、21日に「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたか」と題して講演することになっている。四谷の某酒場で月一回開かれている幕末の勉強会のような雰囲気を想像して、軽い気持ちで講演をおひきうけしたのだが、なんだかおおがかりなことになってきた。
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芭蕉『奥の細道』出発日の謎

2014-10-02 18:04:13 | 小説
暦の小の月のことを、子供の頃「にしむくさむらい」とおぼえた。2、4、6、9月と11月(士)で、「西向くさむらい」である。つまり私たちが慣れ親しんでいる暦では、小の月は固定化されているのだが、陰暦ではそうではなかった。年ごとに大小の月が違っていて、小の月も太陽暦のように30日以下ではなく29日以下であった。
 さて、元禄2年3月は小の月であった。3月は29日で終わっていた。
 ところが次のような記事がある。

 卅日(みそか) 日光山の麓に泊る。(以下文章が続く)


 記述者は松尾芭蕉である。
「おくのほそ道」の元禄2年3月30日というありえない日付の項である。
 実は旅の同行者の曽良の日記から、日光に泊ったのは、4月1日だったことがわかっている。それはそうだろう、3月30日という日付はないのだから。
 なにが言いたいかといえば、「おくのほそ道」における芭蕉の日付は、鵜呑みにしてはいけないということなのである。
 芭蕉は陸奥の国への旅立ちの日を、3月27日深川を発つと明記している。ところが曽良は3月20日と書いている。
 曽良の日記は、自分用の手控えで、人に見せるものではないし、嘘をつく必要もない。かたや芭蕉の「おくのほそ道」は、人に見せるための「作品」である。作為があって、日付を変えているのだ。
 芭蕉研究の第一人者の今栄蔵が『芭蕉年譜大成』で、曽良の日記のほうが誤記だとしているのを見て驚いたが、芭蕉にいれあげると目がくもるのであろう。
 芭蕉と曽良とで出発日が違うという謎は、ほんとうは「おくのほそ道」の謎を解き明かす最初の関門である。曽良の誤記だろうぐらいですまされる問題ではないのである。
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おススメ本・徳田武「幕末維新の文人と志士たち』

2014-09-08 16:30:37 | 読書
この本はもっと早く読んでおくべきだった。第3章の清河八郎の項目で、八郎と土佐の間崎滄浪との交流の、その親密さを検証した記述の新鮮さに、そう思ったのである。
 あと注目すべきは、大庭松斎の生涯をたどった第6章と7章である。大庭は会津藩が尊攘派志士のグループに潜入させたスパイ(とみなされている)の会津藩下士大庭恭平のことである。明治まで生きて、役人にもなったが、飲んだくれて鬱屈した晩年であったらしい。
 第5章の「大橋訥庵逮捕一件」はざっと斜めよみしただけだが、第4章の『町井台水の「南封紀略」も注目すべき記事だった。天誅組を逮捕者側からみた貴重な史料が紹介されている。なんと安積五郎の逮捕時の様子がわかるのである。あらためて安積五郎はいい男だと感じた。

幕末維新の文人と志士たち
徳田 武
ゆまに書房
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路通という俳人

2014-08-24 12:05:08 | 小説
 芭蕉の「奥の細道」紀行の随伴者は、よく知られているように曽良であったが、実は当初に予定されていたのは路通であった。路通と曽良が入れ替わったのである。
 この路通には謎が多い。まず出身地に定説がない。美濃、京都、筑紫と諸説ある。本名は八十村与次右衛門とされているが、齋部(忌部)姓だともいう。いずれにせよ教養があって、三井寺育ちだったという説もある。
 元禄2年12月5日付で、芭蕉が大津の医者で俳人の尚白に宛てた手紙で、路通の俳句を紹介している。

  火桶抱(い)て をとがい臍(ほぞ)をかくしけり

 そして芭蕉は、「此作者は松もとにてつれづれ読みたる狂隠者。今我隣庵に有。俳作妙を得たり」と書きつけている。
「松もと」というのは現大津市の松本のことらしい。大津で徒然草の講義をしている狂隠者が路通だった。
 注目されるのは今は路通は江戸に出て、深川の芭蕉の隣に住んでいるという事実だ。
 芭蕉と路通の関係に、ただならぬものがあるように思われる。
 その路通を、なぜ奥の細道への同行者からはずしたのか、よくわからない。わからないことだらけだが、路通にかまけていると、私の小説『芭蕉の妻』執筆が先に進まない。ひとまず路通のことは棚上げしておこうと思う。けれども、あとで微妙に路通がからんできそうな予感がしている。
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ネットTV「庄内おじさんが行く」にゲスト出演 

2014-08-20 13:54:20 | 小説
6月28日にネットTVにゲスト出演して、とりとめののないことを喋った。そのときの動画をアップ。庄内おじさんが行く #25 2014/06/28
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小島毅『増補 靖国史観』を読む

2014-08-16 10:59:12 | 読書
 終戦記念日の8月15日に小島毅『増補 靖国史観』を読んだ。その前日に別の本を求めたついでに買った本だから、終戦記念日に読むことを意図したわけではないが、なにかの因縁だろう。
 著者は平成の儒教思想研究者である。靖国神社の思想的根拠が、神道ではなく儒教にあるという切り口がおもしろい。「檄文」と著者みずからが、この本を評していてるが、たしかに挑戦的な内容を軽口でカモフラージュしている。だが私なんかは、随所で著者の見解に同意するところが多かった。とりわけ、次の箇所などは、まるで日頃の私の気持ちを代弁してもらったような気分になった。

<……薩摩藩や長州藩の系譜を引く平成の御代の首相たちが、近隣諸国の批判をよそに参拝するのは彼らの勝手だが、私は中国や韓国が批判するからではなく、一人の日本国民として個人的感情・怨念からこの施設への「参拝」はできない。(略)ある人たちが「東京裁判」を認めないのと同様に、慶喜追討を決めた小御所会議の正当性を認めたくないからである>

 小御所会議の正当性を認めない、と言明した学者に、私ははじめて出会ったような気がする。
それが靖国史観とどうかかわるか、幕末維新史を見直していただければわかることだ。
増補 靖国史観: 日本思想を読みなおす (ちくま学芸文庫)
小島 毅
筑摩書房
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清河八郎暗殺前後 完

2014-07-28 15:35:53 | 小説
間延びした書き方になった。この稿を閉じることをはばむような気分に領されて、なぜそうなるか私自身がわからなかった。
 歴史の濃霧に閉じこめられて、動きがとれなくなることはあるけれど、それとも違う。霧は晴れているのに、動きたくないという気分に近かった。
 いずれにせよこの稿も終らなければならない。
 石坂の八郎暗殺現場への到着が早すぎる、と私は書いた。石坂は八郎が暗殺されたという知らせを受けてから、駆けつけたのではない。八郎が刺客に襲われると予想して、現場に行ったのである。そうであれば、早すぎるということもないわけだ。
 さて石坂は刺客のことを誰から聞いたか。その日、下城した高橋泥舟からである。(このことを含めて、これから述べることに確たる証拠はない。あくまで状況から推論した蓋然性の論証である)泥舟は、幕閣に、八郎らの小栗の拉致計画のあることを伝えたのである。幕府としては、その計画を阻止するために、刺客を送り込むのは泥舟にはよくわかっていた。わかっていて、伝えたのである。
 八郎暗殺の契機をつくったのは、泥舟なのである。思えば、八郎の逃亡生活のきっかけを作ったのが、例の無礼討ち事件ではなく、ほんとうは山岡鉄舟の幕府への密告であった。
 こうしてみると泥舟ファミリーは、清河八郎に、贖罪の念を抱きながら、明治を生きなければならなかったはずである。
 琳瑞の泥舟の弟子による暗殺の謎も、もはや解ける。琳瑞は、八郎暗殺の日の泥舟の言動を知り、泥舟を詰問したのである。それを聞いていた弟子ふたりが、泥舟の名誉保全のために、琳瑞を殺したのである。
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清河八郎暗殺前後 17

2014-06-16 10:27:10 | 小説
 八郎が暗殺される12日前即ち文久3年4月1日、金子與三郎が八郎に宛てた手紙がある。
 ふたりの関係を知る上でも貴重な手紙であるが、今年3月に刊行された庄内町史資料集第2号『清河八郎関係書簡 二』所収の「読み下し文」全文を以下に引用する。


「書中を以って申し上げ候、然らば、新井式部 親病死に付き、在所へ引き戻し申し度由、尤も、同人帰府前、拙寓右住所より追々迎いの人参り申し候、右に付き山岡君へ御談し下され。明朝にも帰郷致し候様、御取り計り下され候、委細は同人よりお聞取り下され候、
 一昨日は御尋ね下され謝奉り候、山岡君へよろしく御伝晤下され候様願い奉り候、明日は多分参上仕り候積りに御座候
                           頓首拝

 四月一日                               」 


 一昨日はせっかく訪問してくれたのに留守にしてすまなかった、とあるように、日頃から八郎が金子の家を行き来していたことがわかる。
 さらに「山岡君へよろしく」とあるように、金子が山岡鉄太郎(鉄舟)と交流のあったこともわかる。
 あるどころではない、この手紙に出てくる新井式部は、浪士組の一員であった。「浪士組名簿」の5番組に、その名がある。山城国(京都)出身の、まだ18歳の若者であるけれど、どうやら金子が面倒をみていたらしい。
 ここでの金子は、あたかも浪士組の後援者のような立場で、新井の親が病死したので京都に帰らせてやりたい、その旨、山岡にも伝えてくれと八郎に頼んでいるのであった。
 この浪士組後援者のような金子の立場を、鉄舟の義兄の高橋泥舟が知らないはずはない、と思うが、泥舟のあの冷たい金子評はなんだろう。
 ともあれ八郎暗殺の真相の焦点をぼかすために、泥舟は姑息な談話を残しすぎた。                               
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清河八郎暗殺前後 16

2014-05-16 14:53:31 | 小説
 八郎の遺体の懐中から、「五百人の連判帳」を取り出して、自分が回収したと主張する石坂であるけれど、『官武通紀』は、これとまったく違うことを記録している。
 八郎は、たしかに連判帳らしきものを懐中にしていた。だがそこに記録されている姓名は28名。その28名の名簿を「取上、直ちに御目付へ訴訟仕候者有之、夫より俄に御吟味」となって、翌14日に記載人物が吟味対象になったと記しているのだ。 もとより、こちらのほうが実情を伝えている。石坂以前に「連判帳」はすでに役人の手にわたっていたのである。
 それはそうだろう、殺害された人物の身元を確認するためにも、まず、いの一番に懐中のものが探られるはずだ。番人に囲まれていた八郎の遺体に、まだ懐中物が残っているほうがおかしいのである。
 あえて、連判帳がまだあった、などとうそぶく石坂には、どこかに恩を売りたかった仲間でもいたのだろう。それにしても28人を500人とは、話をおおげさにしたものである。500人の連判帳があったとしたら、それだけで八郎の懐中はふくらんでいたのではないだろうか。
『官武通紀』には、なお注目すべき記述がある。添え書きのように小さい文字になっているのだが、以下のような文言である。
「金子與三郎其説を承り驚愕、篤と説得仕候得共、更に聞入不申由」
 つまり、清河八郎が暗殺されたという一報に驚愕し、「ばかな、そんなことはありえない」と否定し、誰かが「いや風体その他から間違いない」と説得しても、まだ「信じられない」と聞入れようとしない金子の様子が記されているのである。八郎暗殺後の金子については、とかく暗殺関与者というバイアスのかかった見方をされているが、案外こちらの金子のほうが真実の金子かもしれない。(続く) 
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