郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォード

2008年09月01日 | ミットフォード
 リーズデイル卿とジャパニズムvol10 赤毛のいとこの続きです。
 前回、スウィンバーンのその後を書こう、と思っていたのですが、スウィンバーンの話はラファエル前派の話になりますし、そうであれば、まずは、バーティこと、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード(Algernon Bertram Mitford)と、アルジーこと、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)がともに進学し、ラファエル前派とも非常に関係が深い、オックスフォードの話をまとめてみることにしました。

 1854年(嘉永7年)、ですから、前年にペリーが初来航し、再来して日米和親条約が結ばれたこの年、バーティ・ミットフォードはイートンを卒業し、四週間ほど、バッツフォードを初めて訪れ、祖父の従弟にあたるリーズデイル卿、ジョン・トーマス・フリーマン・ミットフォードとともに、狩猟にあけくれて過ごしました。
 とはいえ、この時点では、バッツフォードがバーティに遺される可能性は、ほとんどなかったはずです。前に書きましたように、ジョン・トーマスは独身でしたが、まだ50そこそこですから、結婚して子供を作る可能性だってあったでしょうし、それよりなにより、まだバーティの二人の兄は、健在だったようなのです。
 それで、なのでしょうか。……それで、というのは、つまりこの時点のバーティは、資産を受けつぐ可能性の少ないヤンガー・サンですし、またイートンでの成績もよかったですし、あるいは学者でもめざしたのか、1855年の1月から10月まで、オックスフォードの入学準備に、ウェールズ在住の有名なギリシャ語学者のもとで、みっちりと指導を受けました。
 猛勉強のかいあってか、バーティは、クライスト・チャーチ学寮の奨学金を勝ち取って、オックスフォードに入学したのです。
 この奨学金、たいそうなもののようでして、バーティは主席入学したに等しいようです。

 オックスフォード大学には、現在では39にのぼる学寮(カレッジ)があり、バーティの進学当時も20の学寮がありましたが、その中でもクライスト・チャーチはもっとも貴族的な伝統を持つ学寮で、これは現在までの話ですが、13人の英国首相がこの学寮出身だそうです。
 貴族的な伝統、というのは、おそらく、なんですが、やはりもっとも英国王室と関係が深い学寮であるから、のようです。
 後にバーティが親しくなるエドワード皇太子も、この学寮で学びました。

    

 上の写真は、クライスト・チャーチ学寮の中心である大聖堂とホールの内部です。ホールの方は現在も学食として使われているそうで、双方、よく映画のロケに使われます。有名なのは、「ハリー・ポッター」シリーズでしょうか。
 日本が黒船騒動でわきあがっていたころ、こういう魔法使いの学校のような所に、バーティはいたわけです。

 「不思議な国のアリス」の作者、ルイス・キャロル、本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Charles Lutwidge Dodgson 1832-98)は、バーティより5つ年上で、バーティとは入れ違いの1854年卒業ですが、やはり奨学金を勝ち取ってクライスト・チャーチに所属し、そのまま数学講師として学寮に残っていましたので、バーティは見知っていたはずです。
 バーティが入学した1856年、ヘンリー・リデルがクライスト・チャーチの学寮長となり、妻子をともなって赴任してくるのですが、「不思議な国のアリス」誕生のきっかけとなったアリス・リデルは、この新学寮長の娘でした。
  
ドリームチャイルド

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 映画「ドリームチャイルド」は、1932年、80歳の老婦人になったアリス・リデルが、ルイス・キャロル生誕100年祭でアメリカに招かれ、10歳の頃の自分とルイス・キャロルを回想するお話です。
 回想シーンには、クライスト・チャーチ大聖堂が出てきますし、「不思議な国のアリス」が生まれたのは1862年のことですから、バーティがいた時期の直後で、映画としての出来もいいのですが、ただ、ちょっと、ルイス・キャロルが年をとりすぎな設定なのが変かな、という感じです。実際には、30そこそこのはずなのですが、映画では50歳以上に見えるんです。
 中古DVDがえらいお値段ですが、予告編がありましたので。Dream child-YouTube

 この映画の子供のころのアリス・リデルは、実際のアリス・リデルに、とてもよく似ています。
 予告編にもちょこっと出てきます、着物のようなものを着て和傘を持つアリス。実際にルイス・キャロルは、チャイナ・ドレスに和傘のアリスの写真を撮っていまして、当時のイギリスの東洋趣味をうかがわせます。
 「不思議な国のアリス」は、1862年のピクニックで、ルイス・キャロルがアリスとその姉妹に語って聞かせた物語を、文章にしてくれとアリスにせがまれ、第二回ロンドン万博見物に向かう汽車の中で、下書きしたものでした。いうまでもなく、この万博には、駐日公使ラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock 1809-97)の手配で日本の美術工芸品が出品され、日本の遣欧使節団も会場に姿を見せて、評判を呼んでいました。
 


 ルイス・キャロルは、ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais 1829-96)やダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 1828-82)など、ラファエル前派の画家たちと親交を持っていましたし、第一、ラファエルル前派を理論的に応援していた美術評論家のジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900)は、クライスト・チャーチの出身者なのですが、どうもこの時点で、バーティがそういった人々とつきあった形跡は見あたらないようなのです。

 で、ファンタジーに彩られたようなこのクライスト・チャーチで、バーティがなにをしていたかというと、どうも、非常に世俗的な遊びとスポーツに、熱中していたようです。
 ジャナサン・ギネスは、「クライスト・チャーチには、そうなったのはバーティが最初でもなく最後でもないが、屈服するような誘惑があった」と、えらくもってまわった言い方をしているのですが、要するに、当時の大学には男しかいませんし、若い独身の男たち、それも主に裕福な男たちがいっぱい集まっていましたから、当然のことながら、オックスフォードの町には、お金で愛を売る女性たちが、これまたたくさんいたわけです。

 1858年、バーティと入れ違うように、エドワード皇太子がオックスフォードへやってきます。一応、クライスト・チャーチ学寮に席は置きますが、実際には学寮に入らず、おつきの陸軍少将たちとともに学外の一軒屋を借りていました。皇太子はこのおつきの監視を受けて、学生たちとまったく交際できず、なんとも不幸な大学生活を送るのですが、これは、おそらく………、なんですが、「屈服するような誘惑」から皇太子を遠ざけようと、ヴィクトリア女王と夫君のアルバート殿下がはかったことだったんじゃないでしょうか。
 オックスフォードの学生で、聖職者や学者になる気などさらさらない貴族やジェントリーの子弟であれば、バーティのように、勉学よりも仲間との交流を楽しみ、遊ぶ方が普通だったでしょう。
 ヴィクトリア女王は、婚姻外の男女関係に非常に潔癖でして、アルバート殿下の方はといえば、これも王室スキャンダルを怖れたゆえなのか、夫婦で中産階級的なモラル意識をもち、長男の皇太子を律しようとしていました。あげく、独身の皇太子が金銭で片のつく女性を相手にすることさえ、怖れていたようなのです。
 クライスト・チャーチの学生たちは、さすがにお行儀がよく、あえて皇太子を誘おうとはしませんでしたが、1861年、今度は陸軍に身を置いた皇太子を、若い陸軍将校たちは放っておきませんでした。皇太子も自分たちの仲間なのだから、とばかりに、そういう女性を皇太子のベッドに送り込み、皇太子は大喜びで、以降もこの女性とつきあいを深めます。
 これを知ったアルバート殿下の心痛は、ちょっと信じがたいほどのものでして、この直後の殿下の死の引き金となった、ともいわれているほどです。
  
 さて、バーティが熱中したスポーツというのは、主にボクシングです。
 私、ボクシングがイギリスで生まれたスポーツであり、貴族が好んでいたものだったとは、これまでまったく、知りませんでした。Wikiをご参照いただきたいのですが、「現在のボクシングのルーツは18世紀のイギリスのテムズ川オックスフォードシア村で誕生したジェームス・フィグ(James Figg、レスリング、フェンシングとくに棍棒術を得意とする)が1718年にロンドンで「ボクシング・アカデミー」(ジムの原型か?)を設立して貴族などにボクシングを教え始めた」のだそうでして、バーティは、友人たちと共同でロンドンからボクシング教師を呼び、当時のオックスフォードには、スポーツ施設がありませんでしたから、魔法でも習った方が似合いそうな自分たちの部屋で、ボクシングを習いました。

 バーティの知的関心は、どうや東洋に向かっていたようでして、サンスクリット文献学者で、リグ・ヴェーダの翻訳者、フリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Muller、1823 - 1900)教授との出会いは、回想録にも特筆しているようです。ミュラーはドイツ人で、ベルリン大学、次いでフランスへ行きパリで、サンスクリットを学び、イギリスの東インド会社の招きで渡英し、1850年にオックスフォード大学教授となっていたのですが、詩と音楽が好きで、ドイツではメンデルスゾーンに音楽の才を認められていたそうですので、そういう面でも、バーティは話があったようです。
 ミットフォード家は、もちろん代々イギリス国教会で、だからこそバーティはイートン、オックスフォードとすんなり進学しているわけなのですが、父のヘンリー・レベリーはフランス人とのつきあいを好み、アーネスト・サトウ vol1に出てきます、リストの愛人・マリー・ダグー伯爵夫人の父親ように、西洋の教養の両輪だったヘレニズム(ギリシャ・ローマ古典思想)とヘブライズム(キリスト教思想)のうち、ヘレニズムに偏っていたように思えます。
 したがってバーティもまた、国教会への信仰は儀礼的なものと受け止めていた節があり、宗教思想に関しては、非常に自由で柔軟な受け止め方をして、後年、このオックスフォードで出会ったインド思想に傾倒し、仏教哲学を信奉することとなります。

 しかし、若き日のバーティは、スポーツ好きで、社交的な上に、多趣味でした。結局、遊びすぎまして、2年間かかってやるべき勉強を、試験前の6週間で速習し、それでも、オックスフォードの公式第1次試験では2番の成績をおさめましたが、クライスト・チャーチの奨学金受給資格は、満たすことができませんでした。
 どうもこの奨学金、よほど優秀でなければ継続して受けることができないようでして、卒業試験で主席だったルイス・キャロルも、途中、奨学金試験には失敗しています。
 で、ルイス・キャロルとちがってバーティは、自分が性格的に………、なにしろ行動的かつ社交好きですから、勉学に向いていないと思ったのか、あるいは英国外務省にあきができた機会をとらえたのか、あと2年、卒業試験までとどまることなく、1858年、さっさとオックスフォードを辞めて、外務省に勤務することにします。
 当時の英国外交は、首相と外務大臣が直接とりしきっていましたし、欧州では王国がほとんどでしたから、外交は上流社交の延長である要素も濃く、外交官は貴族やジェントリーの子弟のお飾り職的傾向があったわけでして、オックスブリッジの学位に意味はなく、イートン校卒業生である方が重要でした。

 一方、バーティの赤毛の従兄弟、アルジー・スウィンヴァーンは、バーティと同じく1853年いっぱいでイートンを卒業し、1855年には、母方のおじ、ですから、アッシュバーナム伯爵家のおじといっしょにドイツに旅行して、1856年の一月、オックスフォードのベリオール学寮(Balliol College)に入ります。
 ベリオール学寮は、1263年設立という歴史を誇り、やはり数人の英国首相を生んでいます。伝統的に国際色豊かで、学部生の政治活動が盛んな学寮だそうです。現代の話をするならば、雅子さまが外務官僚として留学されたのが、ここです。



 その学寮の雰囲気ゆえなのか、入寮したその年に、さっそくアルジーは共和国思想を抱くようになり、学生間の知的親睦を目的とする「人間倶楽部」の設立メンバーとなります。
 ボクシングと、そしてどうやら………、ヴィクトリア女王がお嫌いになるような、しかし年若い上流の男性としては一般的な、世俗的遊びに熱中していたバーティにくらべ、アルジーはさまざまな政治思想にふれ、宗教的な思索も深めて、ニヒリズム、つまりは無神論を受け入れるにいたったりもしたようです。
 もっとも、勉強をしなかった点ではバーティといっしょで、ただ、バーティのような器用さを持ち合わせず、1859年には古典の試験に落第し、結局、卒業することなく、1860年の6月に大学を辞めます。
 しかし、ベリオール学寮の学寮長であり、指導教師だったベンジャミン・ジャウィットには詩才を認められ、1858年、イタリア独立運動に共鳴するアルジーが、フランスのナポレオン3世を暗殺しようとしたテロリストを過激なまでに褒め称え、学内で問題視されたときにも、かばってもらいました。

 そして、なによりもアルジーにとって運命的だったのは、1857年、このオックスフォードで、ロセッティを中心とするラファエル前派の画家たちに出会ったことでした。
 ラファエル前派の中心にいたのは、いうまでもなく、常にダンテ・ガブリエル・ロセッティで、ロセッティ自身は、直接オックスフォードに関係していたわけではありません。
 しかし、ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt、1827 - 1910)を中心に、既成のアカデミズム画壇の古典的画風に異を唱えた前期ラファウェル前派を支持したのは、先に述べましたように、クライスト・チャーチ出身のジョン・ラスキンでした。
 そして、ミレイ、ハントが運動を離れた後、ロセッティのまわりには、オックスフォード、エクスター学寮出身のウィリアム・モリス(William Morris, 1834 - 96)、エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones, 1833- 98)が集まって、後期ラファエル前派と呼ばれるようになります。
 アルジーがオックスフォードで出会ったのは、この後期ラファエル前派の面々で、ロセッティも二人の若手にひっぱられるように、オックスフォードを知ります。
 「中世の最後の魅惑」(マシュー・アーノルド)をたたえた学園都市、オックスフォードは、その「土地の霊」(ジョン・ヘンリー・ニューマン)の力………、これこそがオックスフォードの魔法なのですが、を、後期ラファエル前派の上におよぼしていました。
 ところで、デザイナーであり、詩人であり、思想家でもあったウィリアム・モリスは、大人向けのファンタジーも多数書き残しています。
 「 指輪物語 」の著者、J・R・R・トールキン((John Ronald Reuel Tolkien 1892 - 1973)は、20世紀のはじめに、エクスター学寮で学びましたが、学寮の数十年先輩である画家バーン=ジョーンズとモリスに、傾倒していたことで知られています。
 オックスフォードの「土地の霊」は、ファンタジーの誕生にも、力を及ぼしたのです。

 次回、オックスフォードとラファエル前派の関係を、もっと詳しく見ていきたいと思っています。

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