郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵

2011年02月01日 | モンブラン伯爵
 「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」と、「アーネスト・サトウと龍馬暗殺」の続き、ということになるでしょうか。

 CiNIIで、故高橋秀直氏の論文『「公議政体派」と薩摩倒幕派 王制復古クーデター再考』が全文公開されているのを見つけたんです。

幕末維新の政治と天皇
高橋 秀直
吉川弘文館



 氏の遺作である上の本に収録されている論文です。
 論文の内容の細かな検討は、引用されました他の論文などもろくに読んでいませんので、ひかえたいのですが、思わずメモメモ!!!と叫んでしまいました拾いものの引用がありましたので。

 高橋秀直氏によれば、慶応3年5月末、四候会議の決裂により、薩摩武力倒幕派の小松・西郷・大久保は、長州と結んでの武力挙兵を決意しますが、6月22日、土佐と薩土盟約を結んで、共同で大政奉還建白を行うことになります。
 ここらへんのことにつきましては、「大政奉還と桐野利秋の暗殺」に、概略のみは書いております。
 後藤象次郎はイカロス号事件で足止めされて帰京が遅れ、しかも容堂公に反対されて、まったくもって、兵を伴わずに帰京しました。
 従来説では、この後藤の違約により、薩摩は即時挙兵論に傾いた、ということでした。

 この従来説に、家近良樹氏が「幕末政治と倒幕運動」(だと思います)において反論し、「薩摩が即時倒幕に傾いた要因は、薩摩自身にある」としたのだと、高橋氏は述べておられます。家近氏の論文を直接あたっておりませんので、私の誤解かもしれませんが、それって、ずいぶんと奇妙なこじつけじゃないでしょうか。
 薩土盟約の時点におきましては、大政奉還の建白を幕府は拒絶する、と見られていて(高橋氏もそれは認めておられます)、後藤の率兵上京は、土佐も参加しての武力倒幕になると踏んで、薩土盟約は結ばれたわけです。
 薩摩倒幕派の求める「大政奉還」は、最初から慶喜の辞官納地をも求めるものでした。
 なぜならば、開港地はみな幕府領なのですし、幕府が開港地と良質生糸の産地を手放さない限り、いくら朝廷のもとに公議政体を作ってみたところで、諸外国が新政権を認める可能性はゼロだと、薩摩倒幕派は知っていたから、です。
 とすれば、兵の上京を容堂が認めなかった、ということは、薩摩倒幕派の描く大政奉還と、土佐のそれとには、温度差が出た、ということなのです。
 しかも、状況は刻々と変化しています。
 後藤が兵を伴ってこなかった、ということは、それだけ大きな問題でして、もちろんそれは薩摩藩内の動向にも影響したでしょうけれども、はっきり言って、それがすべてです。

 で、です。高橋氏は家近氏の論考をふまえた上で、公家倒幕派・中御門経之と大久保利通の書簡のやりとりを分析し、薩摩倒幕派が即時挙兵を決めたのは、後藤が帰京する直前、8月14日から30日と推測されています。
 その推測自体は妥当なものだと思われますが、高橋氏は薩摩がこのとき即時挙兵に傾いた理由を、「幕府が天皇を彦根に移したり、外国勢力を使って諸侯を牽制したり、攻勢に出ていると薩摩藩は見ていたから」としておられます。
 その証拠が、8月30日、中御門経之が正親町三条実愛を訪れて語った「嵯峨実愛手記」の次の政情記事です。

一、幕泰山安枕策は、正かの時彦根城御遷座のこと
 一、同上に付き、会人彦へ行向のこと
 一、薩退候様、仏人薩へ下向、軍器代をせむること
 一、同上に付、国元へ早打遣のこと
 一、土州英人下向も、幕策露頭のこと
 一、野宮(定功)勅使下坂のこと
 一、其内後藤、壮士を率被上京のこと
 一、同上之上手筈のこと
 一、幕策も有之候故、断然策とのこと


 高橋氏は、島津久光の帰国を不安に思った倒幕派の中御門経之が、この当時、大久保利通に会って事情を聞いたりしていることから、これは、中御門が大久保から聞いた話を、仲間の正親町三条に伝えたものだとされていまして、その高橋氏の解釈にのっかって現代語訳いたしますと、おおよそ、こういうことになります。

「幕府は、まさかのときは天皇を彦根にお移り願う策をたててね、そのためのうちあわせに会津の人間が彦根に行っているよ。また、幕府は薩摩(おそらく久光)が京から撤退するように、フランス人を薩摩へ向かわせてね、武器代金を早く払えと攻めさせて、久光は慌てて帰国することになったようだ。土佐にイギリス人が行ったのも、同じように幕府の策略だったとわかったんだよ。野宮定功が勅使として大阪へくだったのも怪しい。そのうち、後藤象次郎が土佐から倒幕派の兵を率いてくるから、それにあわせて手配をしていて、幕府の策謀もいろいろあるから、薩摩は断然挙兵策と定まっているよ」

 ひいーっ!!! これって、ほんとうに大久保が語ったことなんでしょうか。
 笑い転げてしまいました。
 最初の彦根に云々の件は、会津藩の史料でも読んでみなければ真偽がわかりませんし、まあ、そういう話が出たこともあったのかもしれません。
 しかし………、「薩退候様、仏人薩へ下向、軍器代をせむること。同上に付、国元へ早打遣のこと。土州英人下向も、幕策露頭のこと。野宮(定功)勅使下坂のこと」
 って、ねえ。
 大久保の説明がとんでもなかったのか、それとも、中御門と正親町三条の聞き取りがとんでもなかったのか、おそらくは、大久保が大嘘を並べ立てた、としか思えないんですけど。

 「久光が突然国元に帰らにゃならんなりもしたも、幕の策略ごわす。幕はフランス人を薩摩によこして、武器の代金を早う払えと攻めるようにし、慌てて帰国せにゃならんこつなりもした。土佐にイギリス人が行ったのも幕の策略と、はっきりし申した。むろんのこと、土佐の出兵を邪魔だてする手段ごわす。勅使を大阪に行かせたも、兵庫開港にむけ、柴田(剛中 兵庫奉行兼任の大阪奉行)と談じて、仏英のご機嫌取りの算段ごわす」

 はっきりいって、ギャグですっ!!!
 だって、ですね。薩摩へ出向いてくるフランス人って、モンブラン伯爵のこと、ですわね。
 「イギリスVSフランス 薩長兵制論争」に「忠義公史料」から引用しておりますが、ちょうどこの8月、大久保は国元の本田親雄から、以下のように記された書簡を受け取っています。

 「仏人モンフランと申者、海陸軍士官両名ツヽ・地学者両人・商客両人・従者壱人を岩下大夫被召列、不日入津之筈、小銃五千挺、大砲廿門、右之員数之仏服一襲ツヽ強て御買入候様モンフラン申立、且兵式も仏則ニ可建と之云々、洋地ニおひて世話ニ相成候付、無下ニ理りも立兼候容子共、渋谷・蓑田之両監馳帰候始末ニ付、伊地知壮州出崎、右銃砲之代価乍漸相調候て、此よりハ薩地江不乗入様理解之為、五代上海へ参る等、新納大夫出崎、崎陽ニて右仏人江御談判、海陸二事件御辞絶いつれも拙之拙成跡補、混雑之次第(以下略)」

 いいかげんな現代語訳を再録しますと、以下です。
「フランス人のモンブランというものが、海陸軍士官二名づつ、地学者二名、商人二名、従者一人をつれ、これをパリ万博に行っていた岩下方平が全部連れ帰っているようで、そのうち長崎に着くはずですが、モンブランは、小銃5000挺、大砲20門、これだけの人数(5000人分ですかね)のフランス軍服を買えといい、そして海陸の兵制もフランス式にしろといっています。
 フランスで世話になったから、むげに断るわけにもいかない様子で、渋谷、蓑田があわてて知らせてきたようなことで、伊地知が長崎に出て、鉄砲の代金はなんとか都合しましたが、モンブランは薩摩へ乗り込んでくるつもりらしく、五代を上海へ迎えに派遣し、新納刑部も長崎へ出てもらい、そこでモンブランに談判して、陸海の兵制をフランス式にすることだけは断らなければ、跡の始末がどうにもまずくなると、こちらは混乱しているようなことです」


 これについては、8月12日付け、桂久武の小松帯刀宛書簡にも見えることが、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」でご紹介しました下の本に出てまいります。

日本近世社会と明治維新
高木不二
有志舎


 高木不二氏は、脚註で、小銃五千挺、大砲廿門の代金支払いについても、触れておられます。

「この(武器の)費用はモンブランが工面したようである(慶応3年7月11日付、日本名誉総領事エラールからロッシュあて書簡、宮地正人編『徳川昭武幕末滞欧日記』松戸市戸定歴史館、1997、155-156頁)。なおこの立替え分(22万ドル)の支払いは、伊地知がオランダのボードウィンに頼み込み、大島の白糖を担保に融資を受けるかたちで弁済している(小松帯刀宛桂久武書簡、『桂久武書簡』鹿児島県立図書館編、12頁)」

 えーと、ですね。
 これまで幾度も述べてきましたように、この慶応3年の春、薩摩は岩下方平を「欧州使節並仏国博覧会総督」としてパリに派遣し、モンブランを外交顧問にして、幕府と派手な外交合戦をくりひろげていたんです。高木氏によれば、薩摩は、フランス、ベルギーだけではなく、イギリスとも、琉球国名義で、和親条約を結ぶつもりでいたんです。それには失敗しましたが、ともかく幕府のフランスでの借款はつぶしました。
 幕府全権公使・向山栄五郎外国奉行は、モンブランが作った薩摩琉球国の勲章がフランス要人にばらまかれていましたのを憂い、「薩摩が勝手に条約を結ぶような事態になりかねない」と上申書を日本へ送っていますし、四候会議瓦解直後の京にまで、その話は伝わっていました。慶喜の腹心だった原市之進は、訪ねてきた越前藩士に、薩摩琉球国勲章の図案を示して、「これが薩摩の討幕論の証だ。あまりに憎らしい仕業だ」と言ったというのです。

 しかし、ですね。むしろ、薩摩琉球国名義によります条約提携の失敗こそが、薩摩を、即時武力倒幕に駆り立てた、といえるのではないでしょうか。
 たとえ、慶喜公が大政奉還に応じましたところで、辞官納地を承知せず、大大名として朝廷の官職にありました場合、開港地をすべて握っているわけですから、外交権は慶喜公の手の内で、なんの意味もないのです。

 岩下方平は、幕府の軍備増強についても、パリできっちり情報を仕入れていますことが、野口武彦氏の「鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間」 (中公新書)に見えます。
 4月21日付で、パリの岩下方平が国元に送りました書簡に、幕府がパリで調達しました銃につきまして、「一、本込(元込)小銃二万五千挺。内一万挺シャスポー。本文シャスポーは新発明の由にて、至りて利用と申す事」とあるそうです。

 ま、要するに小銃五千挺、大砲廿門は、幕府に対抗しまして岩下方平が買い込み、モンブランが立て替え払いをしたわけですわね。
 で、モンブランは、薩摩の政治顧問として、パリで働いた直後なわけです。
 モンブランの来日に薩摩が慌てていたのは事実ですし、あるいは、このときの久光の退京は、それに関係して、だったのかもしれないんですけれども。「幕府の陰謀」って、はあ。
 イカロス号事件で、イギリスのパークス公使が土佐入りしたのも、「幕府の陰謀」だそうで、はあ。
 ギャグですっ!!!
 
 「野宮(定功)勅使下坂のこと」なんですが、野宮定功は佐幕派の公家で、武家伝奏です。
 で、この時期、大阪奉行は、開港をにらんで兵庫奉行をも兼ねていまして、フランスへ行ったことのある柴田日向守剛中です。
 「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4」に出てまいりますが、柴田剛中は、モンブランと面識があるんですね。慶応元年のフランスにおけるモンブランと薩摩の接触も、知っていた模様です。
 で、当然のことながら、慶喜公から、薩摩琉球国勲章騒動も、それにモンブランがからんでいたことも、聞いていたはずですよね。
 よくはわかりませんが、この時期はまだ、久光が大阪にいるはずですし、武家伝奏が大阪へ下ったのも幕府の陰謀、というのは、大久保の牽制だったんですかね。

 ともかく、です。
 高橋秀直氏は、「嵯峨手記が記すところの幕策とは、非常時に天皇を彦根に移そうとの準備、外国を利用しての牽制であった。こうした幕策が本当に行われたのかは不明だが、薩摩倒幕派はそのように見たのである」としておられるんですが、こんなギャグみたいな解釈を書かれて、「本当に行われたのかは不明」って、それはないでしょう、先生っ!!! 
 あー、今さら叫んでも、逝去されているんですよね。
 残念です。長生きなさって、高木不二氏の論考を、あわせて考察していただきたかったところです。


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明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編下

2010年10月03日 | モンブラン伯爵
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上の続きです。

 今回のシリーズは、これまでにも何度か出して参りました、下の榎本洋介氏のご著書に誘発されましたものでして、デ・ロングと樺太問題が出てきたものですから、これをメモしておこうと思い、ただ、モンブランの件がそっくりぬけているのが残念、と書き始めたものなのです。

開拓使と北海道
榎本 洋介
北海道出版企画センター


 デ・ロングについては、まだろくに調べておりませんで、ちらっとでも見ておこうとアジ歴で検索を書けましたら……、出てくるわ出てくるわで、調べている余裕がありません。
 結局、「柯太境界談判」をしらみつぶしに読む必要があるのでしょうけれど、私、学者じゃありませんし、誰かきっちり、明治初年の樺太問題と露英仏米外交について調べてまとめてくれっ!!!と、悲鳴をあげたくなりました。
 そんなわけで、ちょっと見た程度なんですが、アジ歴の「柯太境界談判」も材料に、このシリーズを締めくくりたいと思います。
 その前に、ちょっと、前回書き忘れましたことを。
 モンブランが短時間なりとも函館に滞在したとしましたら、おそらく、堀達之助に会ったでしょう。
 堀達之助は、長崎通詞の家に生まれ、ペリー来航時に活躍しました洋学者で、慶応元年(1865年)から箱館奉行所で通訳を務め、そのまま新政府に奉職。明治2年には開拓使権少主典として、函館にいました。彼の次男・堀孝之は五代友厚と親しく、薩摩藩士となって、幕末留学生を伴いました五代の渡欧に同行し、通訳を務めて、モンブランのインゲルムンステル城に滞在したんです。

 で、本論ですが、まず、前回の以下の部分です。

此度佛国人モンフランを 皇国弁理職ニ被仰付候就ては樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付候処右地方境界凡先年徳川ノ頃五十度ニテ相定メ云々ノ談判モ 有之当事政府ノ論ニテハ境界之処 如何之庁議一決ニ候哉同人心得迄に承置度段申出候ニ付 其段当月八日外務卿殿より岩倉大納言殿エ被申入御返答承之上 同人出帆之都合ニて出立見合せ此程中より築地ホテルに旅宿いたし日々宿料相掛候下知を相待居候 右は過日も認メ上候通同人儀来夕給料等も不被下儀ニて御用向相勤候事故御沙汰以来滞在中之宿料丈ケハ相当ニ不被下候ては相成間敷 就ては御下知速緩ニ相成候得は一同ハ一日丈ケノ御失費も相懸かり候

 えーと。いいかげんな口語訳です。ちがっていたら、ごめんなさい。
「このたびフランス人モンブランを我が国の弁理職に任じたことではあり、樺太が日露雑居になっている件について交渉することを命じました。樺太の日露国境について幕府は50°線で定めようと交渉してきた経緯があり、モンブランから、今の政府もそういう交渉でいいと庁議ではっきり決めているのか心得までに聞いておきたいと言ってきたので、10月8日、沢外務卿から岩倉大納言へ申し入れました。返答があってからと出発を見合わせておりまして、10月半ばから築地ホテルに泊まっています。モンブランは給料も受け取らず御用向きを務めるわけで、宿泊料くらいは払わないわけにはいかず、返答が一日のびればそれだけ費用もかかります」

 なんつー貧乏たらしい外務省なのか、とあきれるのですが、「幕府以来の50°線国境を主張」で首脳陣がまとまったのかどうか、返答の書類を、私は見つけることができないでいます。
 「モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟」で書いていますが、モンブランが前田正名と御堀耕助を伴い、フランスへ向けて出航しましたのが、11月24日。一ヶ月以上後のことです。
 時間かかりすぎでして、結論は出たのかと首をかしげたくなるのですが、私は、デ・ロングにまつわる資料から、なんですが、一応、「50°線国境主張をしてみよう」でまとまったのではないか、と思います。

 デ・ロングは、モンブランが離日する以前、外務省に接触し、樺太問題を問い合わせています。レファレンスコードB03041107700に、以下のようなデ・ロングの書簡があります。

合衆国ニてアラスコ並其領地を残らす 魯西亜より買入遣し以来北太平洋之 漁猟大ニ増進せり就ては近日右精細ニ取調んと頼すれは我政府並其業を 営む我国民之為貴国の北境いつれニ 御定相成居り候哉承知致し度存候 以上 千八百六十九年 大十二月十三日 合衆国ミニストルレジデント シ・イ・エル・デ・ロング 東京 外務卿閣下号

「アメリカはアラスカをロシアから買って、以来、北太平洋の漁業が盛んになっていましてね、いろいろ細かく実態を調べたいものだから、わが政府と漁労民のために、おたくとロシアの国境がどう定まっているのか、教えてくれないかな デ・ロング」

 この手紙は、1869年12月13日付けですから、明治2年の和暦でいえば、11月13日付けになるようなのです。
 これについての外務省の回答は、モンブラン離日後の12月10日、幕府がロシアと結んだ条約の文面を示すことでなされたと、レファレンスコードB03041107900の書類に見えます。このとき同時に、どうも日本側の主張が50°線国境であることも伝えたようなのですね。
 といいますのも、デ・ロングはさっそく、「アメリカこそが国境線を定める交渉の仲介をしよう!」、と申し出たらしく、レファレンスコードB03041108600に、「@@公使ヂロング 至澤 宣嘉 寺島宗則 樺太島境界一件 米大統領ノ@@依頼ノ件 」という明治3年3月20日にまとめられた書類があります。
 このとき、デ・ロングになにを依頼していたかの具体的な内容こそが、最初、私が榎本氏の「開拓使と北海道」に引用されていました資料を見て、メモメモ!!!と喜んだものだったようなのです。
 以下、明治3年2月13日付、岩村通俊宛、東久世通禧書簡(「岩村通俊関係文書」)の一部を、孫引きです。

「樺太之経界は五〇度を限りとし、来春古丹(クシュコタン)へ開港致候条約面に基き、アメリカ公使ヘ中人相頼魯政府ヘ申入候筈、其上にて買却ならは買却にて先々手始め中人にアメリカを入候事決定候よし」
「樺太国境は50度線ということで、クシュコタンを開港を条件に、アメリカ公使に仲介に入ってもらってロシアに申し入れるはずなんだよね。その上で、売却するなら売却するという話になるかもしれないが、まず手始めにアメリカを仲介に入れることが決定したんだよ」

 というわけでして、モンブランへの回答も「50度線国境でOK」ということだったと、推測されるわけなのです。
 で、モンブランの交渉がどうなったか、なのですが、在パリのロシア大使館にかけあうためには代表権が必要で、なにしろ「周旋申し付けた」わけですから、日本側はそれを了承していたのですが、「フランス人が日本の代表権を持つこと」をフランス政府が拒み、モンブランが公使としての役割を果たすことはできないと、早々とわかったようなのです。
 またフランス政府にしてみましたら、普仏戦争直前の多難な時期、ロシアが遠い極東でなにをしようが、気にかけるような余裕はなかったでしょう。

 間髪入れない、デ・ロングのアメリカ売り込みには感心するのですが、B03041108600には、日本政府がアメリカ仲介国境線策定交渉を決定したことに対する、反対意見書も添付されております。署名がなく、だれの意見書なのかわからないのですが、おそらく岡本監輔のものでしょう。「樺太は、本来全島が日本領なのであり、ロシアとの雑居という現状はまちがっているが、すでにロシアに呑み込まれようとしている現状で、国境策定をすることはもっとよくない。雑居していれば、いつかは盛り返すという望みがあるが、国境を定めてしまえば、本来日本のものである領土が永遠に失われてしまう。しかも、それをアメリカの仲介でするなどと、日本の弱みをさらすようなもので、費用も高くつくだろう。現状の方がましだ」というようなものです。

 一見、現実離れした意見書に見えるんですが、この時点においては、実のところ、かなり的確に状況を把握しているのです。
 検索をかけますと、麓慎一氏の「維新政府の成立とロシアのサハリン島政策―プリアムール地域の問題に関する特別審議会の議事録を中心に―」という論文がPDFで出てきます。明治初年のロシア側の樺太問題における姿勢を研究しましたもので、これによりますと、1870年(明治3年)5月のロシア当局は、「樺太雑居条約が、維新以来、日本に有利に作用している」と、脅威を感じていたんですね。岡本監輔の樺太移住振興は、意味のないものではなかったのです。
 ロシアにしましたら、樺太はどうしても手に入れておきたくはあったんですが、一方、ロシアの重心はヨーロッパに偏っていますから、極東の島のために武力衝突まではしたくはありませんでした。日本の後ろにはイギリス、アメリカがいる、ということで、そうなった場合には、国際的非難をあびることを、覚悟する必要もありましたし。
 そんなわけで、このとき日本が樺太移民を強化しましたからこそ、ロシアは国境策定交渉に応じることを望み、「できることならば樺太全島と千島の交換をしたいけれども、日本側はどうしても樺太南部に固執するだろうから、できるかぎり南へ国境線を下げることで妥協しよう」という結論だったんです。
 デ・ロングの介入は、どうも失敗に終わったらしいのですが、とはいえ、日本にとって、アメリカを味方につけている、と見せつけたことになり、それ自体は、けっして悪いことではなかったのですが、問題は、どうも「樺太の維持なんて無理なんだから、交渉がだめなら売ればいい」という、日本の弱腰の姿勢だったんです。

 明治3年の11月、ロシアは、まずは在北京代理公使ビュツォフを日本に派遣し、外務卿の沢と大輔・寺島宗則と会談を持ちます。このときの日本の外務省の姿勢は、まずは全島日本領を主張し、最低でも50°線から交渉をはじめるべき、という申し分のないものでした。このときの会談結果に基づき、翌明治4年5月、日本は参議・副島種臣をポシェット湾に派遣するのですが、前年の約束に反して、ロシア側は交渉に応じませんでした。
 1年の間に、樺太の状況が、ロシア有利に激変していたのです。
 元凶は、明治3年5月、黒田清隆が開拓使次官に就任し、この当初、樺太専任となって問題を手がけたことでした。
 黒田は結局、当初から樺太放棄論だったようでして、外務省をしきる寺島宗則と意見対立していたことが、榎本氏の「開拓使と北海道」に見えます。
 そりゃあそうでしょう。最初から放棄前提の樺太施策をとったのでは、交渉にもなにもなりはしません。さすがに、幕末から薩摩の対英外交をしきっていました寺島は、そこらへんの機微を、よく呑み込んでいたのです。
 デ・ロングが、この問題で具体的にどう動いたのか調べてはないのですが、意見書のいうごとく、どうも途中で、「樺太経営なんて無理だから、だめなら売ってもいいや」という日本の側の弱腰姿勢を、ロシア側にさらしたのではないか、という疑いがもたれます。

 明治2年から出ていました樺太売却論は、最初パークスが「ロシアがアラスカをアメリカに売ったように、ロシアに売ってもいいんじゃないか」ともらしたそうなんですが、これは金満海運国家イギリス公使の見当違いのアドバイスでした。金のない大陸国家ロシアには、買う気など、まったくありません。
 また、これもパークスのアドバイスがはずれていたことなのですが、当時のロシアは、北海道本土へまで攻め寄せる気は、まったくありませんでした。
 となれば、手駒がなければ交渉は成り立たないのですから、樺太南部をできるかぎり維持する努力が、日本側に必要だったのです。
 イギリス、アメリカ、フランスの理解を得て味方につけることは大事なことですが、同時に、日本が領有意欲を行動で見せなければ、相手(ロシア)には通じないのです。モンブランの建言の方が親身でした。アントワンくんの売り込みは余計でしたが、砲兵を駐留させるくらいのことは、した方がよかったでしょう。どうもこの当時から、外交の武器、抑止力としての駐留軍という概念が、日本人には希薄だったようです。

 (追記) うっかりしていました! 犬塚孝明氏の「寺島宗則」によれば、寺島はすでに明治2年の段階で、パークスのいいかげんなアドバイスを「日本への内政干渉になりかねない」と指摘し、箱館への高官派遣を進言しています。あるいは、なんですが、パークスの樺太現状説明とロシアの意図分析を、鵜呑みにすべきではないと見た寺島が、モンブランの樺太派遣を考えついたのかもしれません。
となれば、「樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付」ということの意味は、とりあえずロシアが樺太でやっていることへの抗議、だったんですわね。で、あわよくば国境交渉の糸口を作ろうと。寺島ママン、すごいです! フランスにとっての時期が悪かったことが、残念ですが。

 
 大久保利通はいったい、黒田と寺島と、ともに薩摩閥の、どちらの意見に傾いていたのでしょう。
 黒田に樺太を任せたところをみれば、放棄論に傾いていたのか、と思えますが、この甘さが、条約改正交渉でデ・ロングにしてやられた原因だったのでしょう。
 北海道開拓は、維新当初、井上石見がプロシャ人を雇い入れたり、イギリスから金を借りましたりで、特にどこに頼る、という方針もなかったことは見てきましたが、デ・ロング介入、黒田の開拓使次官就任で、アメリカ一辺倒が決定したようです。
 当時のアメリカは新興国で、列強の中ではもっとも日本に好意的、といっていいような外交姿勢でしたし、開拓使お雇いアメリカ人として日本にやってきましたのエドウィン・ダンが、日本人の妻を娶り、ちょうど日清戦争のとき、在日本アメリカ公使となっていた、というような幸運の種も生まれましたので、かならずしも、それが悪かったわけではなかったのですけれども。
 
 岡本監輔は、失意のうち、明治4年に開拓使を辞職しました。明治37年、日露戦争の最中、東京の病院で、「旅順はまだ落ちないか、樺太へ早く!」と叫んで、息を引き取ったといわれます。

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明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上

2010年10月02日 | モンブラン伯爵
明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編の続きです。

 まず、モンブラン伯爵が樺太問題に起用された証拠から、お話を進めたいと思います。
 wikiシャルル・ド・モンブランにも追記しておきましたが、国立公文書館 アジア歴史資料センター外務省外交史料館/ 柯太境界談判、レファレンスコードB03041106800、B03041106700、 B03041107200、B03041107300など、一連の書類がそれです。
 B03041106800をfhさまが全文読んでくださっていますので、下にあげます。

〔明治2年〕10月19日 弁官御中外務省 十月十九日達ス 此度佛国人モンフランを 皇国弁理職ニ被仰付候就ては樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付候処右地方境界凡先年徳川ノ頃五十度ニテ相定メ云々ノ談判モ 有之当事政府ノ論ニテハ境界之処 如何之庁議一決ニ候哉同人心得迄に承置度段申出候ニ付 其段当月八日外務卿殿より岩倉大納言殿エ被申入御返答承之上 同人出帆之都合ニて出立見合せ此程中より築地ホテルに旅宿いたし日々宿料相掛候下知を相待居候 右は過日も認メ上候通同人儀来夕給料等も不被下儀ニて御用向相勤候事故御沙汰以来滞在中之宿料丈ケハ相当ニ不被下候ては相成間敷 就ては御下知速緩ニ相成候得は一同ハ一日丈ケノ御失費も相懸かり候

 モンブランより樺太之策申出
 以手紙啓上いたし候。就は過日御引合申候節、御談有之候カラフト島於て魯人之所為並彼等此後之所置振篤と探索いたし候間、左之弐ケ条申進、且同島御所置振之見込をも申上候。右ニ付、左之三ケ条はいつれも肝要之事件ニ御座候。

第一条 カラフト島於て、魯西亜人之所為は兵隊を以て厳重ニ固メ、其兵卒之人数ハ小銃常備隊は四大隊農兵四大隊其他山砲隊守城砲隊ニ有之候。何れもカラフトにある弐ケ所之岬に台場を設け備へ居申候。右兵隊如此集め候義は、全ニコラエフ之地において、軍器製作所を設け、巳ニ同所エ四百人之職人を抱入、亦同所ニは、施条元込大砲五百挺貯置申候。右は何れも欧羅巴より取寄候ものに有之、亦カラフト之内にて三ヶ所之石炭山を開き、且鉄鉱山をも見出申候。其海岸には蒸気軍艦二艘、小形帆前軍艦等繋泊いたし居、其外端舟運送船等之用意も有之候。

第二ヶ条 魯人此後之所置振を左ニ申上候。此度魯人カラフトエ侵入いたし候は、元大望有之義ニて、同所を兵溜りといたし、夫よりニコラエフ其外之港々并シベリヤ国守衛之海陸軍を盛大ニ致さんと欲し、先手初ニカラフト南ノ方を掠奪いたし候事と被察申候。右之訳は、米利堅よりシベリヤ国え諸品物之運送を十分ニ行届かせ、亦各国と戦争を起し候時は、大なる利益と相成候間、欧羅巴ニ於て海陸軍之勢力ある国々に取り候てハ、大害を可生義眼前ニ御座候。其大害と申は、
則左ニ記述いたし候。

第三ヶ条 前文申述候儀ハ、能々御注意有之度、若し魯西亜人朝鮮国を掠奪する時ハ、魯国東方之海岸カラフト之地より長崎辺迄陸続と相成、右様之場合ニ至り候節ハ、大日本国之義も、今日之カラフト島に於る如く相成可申候。右ニ付同島之事件を取纏候は、唯日本国之為め而已ならす、欧州各国之大関係ニて、其国力之強弱に係り候儀ニ付、最重大之事件ニ有之候。

右ニ付ては、欧州海陸軍之盛なる国々に於てハ、各自国之利益を計り候より、自然日本国之危難を救ひ可申存候。此日本之危難を救ふ為め、必用之急務は英仏両都之外務局より魯国之都府迄掛合之書簡を送り、公法ニ依て議論を起すより無他事、右書簡を可送手筈は最急速に無之てハ、難相叶間、日本政府より直ニ英仏両国外務局え書簡を以て掛合およひ候方可然。
尤日本在留之各国人えは報告不致方宜敷候間、其辺も御含之上何れとも右之手続を以て、カラフトを御取静め之御仕法有之度存候。


不用「再ひカラフトを取戻す迄之間に設備可致義は、先土工兵并砲兵を取立るに如ことなりく、右ニ付ては、幸仏国大砲隊一等士官アントワンと申者有之、既ニ伊達民部卿殿えも申上置候人物ニて、支那ニ於て伝習教師をいたし、漸成業当時不勤之身と相成居候間、若日本政府ニて急速カラフト之固等も有之御用も候はヽ、御下命次第奉職可致存候。惣して」
右申上候廉々取縮め申上候時は、欧羅巴ニ於て之義は、御委任次第御都合ニ相成候様、私於て取斗可申候。亦御国ニてハ、カラフトを御取戻之御用意有之度との義ニ御座候。


 我十月十日 千八百六十九年第十一月十三日 日本公務弁理職コントデモンブラン 沢外務卿閣下ニ呈す

 「築地ホテルのモンブラン滞在費用がもったいないから早く政府方針を示せ」だの、モンブランが自分が連れてきた砲兵士官アントワンを売り込んでいる部分を不用としますなど(ちなみにアントワンくんはフランス兵式を採用しました土佐藩に傭われることになりました)、おもしろい文書なんですが、それは置いておきまして。
 最初にはっきりと、「佛国人モンフランを 皇国弁理職ニ被仰付候就ては樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付候」と書いています。周旋申し付けた、とは、ロシアとの交渉を依頼した、ということです。そして、モンブランが沢外務卿宛に意見書を提出した日付が、明治2年10月10日。モンブランは、どうやら樺太、函館まで足を運んだらしいのです。


開拓使と北海道
榎本 洋介
北海道出版企画センター


 榎本洋介氏の上の著作で見ますと、樺太問題の急浮上で、開拓使は、北海道開拓事業だけではなく、外交をくり広げなければならない、という認識が浮上したようなのですね。といいますのも、ロシアは、明治7年(1874)東京に公使館を置きますまで、日本における外交施設は函館の領事館のみで、これが事実上のロシア大使館だったんです。

 8月1日、寺島宗則外務大輔が、イギリス公使パークスから、樺太情報を聞きます。外務卿は沢宣嘉で、実質、薩摩出身の寺島が外交を取り仕切っていました。
 翌2日、杉浦元箱館奉行が、外務省出仕を要請されます。もちろん、樺太の件について事情聞き取りのためです。杉浦は、江戸帰着後、駿府(静岡)へ移住していましたが、実務能力を買われて藩の公義人となり、ちょうど東京へ出向いていたところでした。
 5日、杉浦は外務省の樺太地取調御用掛に任命され、以降、ロシアとの条約提携にかかわった元幕府関係者から、詳細に事情を聞き取ります。
 9日、外務省の沢と寺島、開拓使長官・鍋島閑叟。岩倉具視、大久保利通、大隈重信が、樺太問題について、パークスから話を聞きます。

 この後、鍋島閑叟が開拓使長官を退きます。おそらく、なんですが、ロシア領事と頻繁に接触するためには、開拓使長官が函館に常駐する必要があったから、ではないでしょうか。閑叟は高齢な上、病弱です。
 外務卿の沢を長官にして、黒田清隆を次官につけるとか、いろいろな案がいきかうのですが、そんな中、東久世通禧長官案が、浮上します。東久世は、鳥羽伏見直後の京都で、外国御用掛となり、元宇和島藩主・伊達宗城とともに、神戸事件、堺事件の解決にあたった人です。
 この東久世担ぎ出しについて、大久保利通日記8月24日条に「今朝東久世公開拓使長官、町田被遣候事共岩公へ建論一封を呈し候」とあって、最終的には、大久保が強く押したことがわかります。東久世を長官にして町田を遣わす、とは、町田久成を次官にするか、あるいは臨時に出張させるか、ということではなかったでしょうか。町田については、実現しませんでしたけれども。
 翌25日付け、大久保利通宛の岩倉具視書簡(「大久保利通関係文書1」収録)に、東久世に長官就任要請をした顛末が述べられています。結局、東久世は引き受けるのですが、最初はしぶり、次のように言ったというのです。

 「草莽徒西洋心酔説今日存候ヘハ尤ノ事ニテ、右様ノ者御登傭ハ実ニ不可然為朝廷御断申上候」

 榎本洋介氏は、この「右様ノ者」を東久世本人のこととされ、「草莽徒が私を西洋心酔者というのは、今にして思えばもっともなことで、このような私を登用するのはあってはならないことで、朝廷のためにお断りする」というように解釈されているのですが、私は、ちょっとちがうのではないか、と思うのです。
 だいたいこの書簡は、「昨日の朝密示ノ旨ヲ以三条公を訪ね、話したら同意してくれた」という文章にはじまっていまして、東久世を開拓使長官にすることが、「密示」なわけはありません。
 じゃあ「密示」とはなにかといえば、これが「樺太問題でモンブランに交渉してもらう」ことだったのではないでしょうか。ついては、顔なじみの東久世が長官を引き受けてくれないだろうか、と。
 小出大和守がロシアまで交渉に出かけましたとき、杉浦奉行は、頻繁にビュツォフ領事と連絡をとっていました。モンブラン伯爵と開拓使長官の間で、打ち合わせが必要になるだろう、ということだったのでしょう。
 したがいまして、「右様ノ者」とはモンブラン伯爵のことであり、「神戸事件の後、草莽徒が薩摩藩は西洋に心酔している、といったのは、今にして思えばもっともなことで、その元凶となったモンブランを登用するとはとんでもない。朝廷のためにお断りする」と解釈した方が、自然な気がするのです。

 薩摩藩は鳥羽伏見直前から大阪にモンブランを潜ませていまして、外交顧問としていました。神戸事件では、被害者がフランスの水兵でしたので、モンブランが解決に尽力したことが、薩摩藩の資料で確認できます。また、フランス公使ロッシュを説得して明治天皇謁見を実現。そのときには、京都の薩摩藩邸にいたことが、「フランス艦長の見た堺事件」に見えます。
 朝廷もその働きを認めて、モンブランを日本公務弁理職(総領事)に任じたのですし、東久世はいくどもモンブランと同席しています。
 しかし、ですね。神戸事件、堺事件が日本人の切腹で決着し、責任をとって切腹した者に同情が集まりましたことは、日本人として自然の心情ではあったでしょうし、モンブランと協力し、決着交渉を担当しました東久世にしてみましたら、心痛に堪えない出来事だったでしょう。

 町田久成は、ロンドン留学時代、弟の清蔵くんがモンブランのもとにいましたし、幾度も会っています。
 なぜ久成の派遣が実現しなかったのかはわかりませんが、大久保にしてみれば、モンブランにつける薩摩人としては恰好の人物、だったのでしょう。

 で、どうしてモンブラン起用が「密示」だったか、なのですが、「草莽徒」からの批判に対する憂慮も、あったかもしれません。ただ、榎本氏の解釈では、「草莽徒」イコール攘夷主義者で、対ロシア強硬論者というのは、ちがうでしょう。「草莽徒」イコール攘夷主義者としまして、モンブラン起用を嫌がる、というのはわかるのですが、そういう人々が、かならずしも対ロシア強硬論者とは限らないでしょう。
 そして、「密示」だったことの最大の理由は、対イギリス配慮、だったと思われます。
 これまで、このブログでずっと述べてきているのですが、幕府とフランスのシルク独占貿易は、イギリス商人の多大な反発を買い、イギリス公使館は、薩摩藩のモンブラン雇い入れをも、相当に警戒していました。

 幕府が倒れ、イギリス公使館は、これまで日本で勢力を張ってきましたフランスの追い落としをはかり、自国の影響力拡大を狙って動いています。
 モンブランは、維新直後の大阪、京都に滞在し、外交顧問として活躍しつつ、イギリスに対抗し、日本に対するフランスの影響力は保持しようとしていたことが、「フランス艦長の見た堺事件」でうかがえます。
 イギリスとフランスは、協力すべき場面では協力して日本に対し、しかし水面下で火花を散らしていまして、この時期にもちょうど、函館戦争にフランス軍事顧問団の一部が参加しましたことを問題にしていまして、寺島宗則は在日フランス公使ウートレーを相手に、やりあっていたりしました。
 これも、ずっと述べてきていることなのですが、海軍重視の薩摩はイギリス軍制、陸軍重視の長州はフランス軍制で、ちょうどぶつかりあっているところです。薩長もまた、水面下で火花を散らしていまして、薩摩閥としましては、イギリス公使館の意向は重視する必要がありました。

 樺太問題で、イギリスの協力は不可欠です。しかし、小出大和守がフランスの口利きもあってロシアへ交渉に出かけましたように、フランスのロシアに対する影響力は強く、フランス人のモンブランを起用しますことで、協力を得られる可能性もでてきます。
 とはいえ、イギリス公使館の手前、フランスに偏る姿勢を見せるわけにはいきませんから、モンブランが日本国内にいる間、樺太問題への助力は極秘にする必要があったのでしょう。
 いえ……、鳥羽伏見直後の京都におけるモンブランの活動には、すでにイギリス公使館からクレームがついていたのではないか、と、私は推測をしているのですが、これについては、確証がえられません。長州がフランス兵制を採用したについて、伊達宗城と大村益次郎の関係、五代友厚とモンブランの関係、宗城と五代の関係、を考えますと、モンブランが介在した可能性があると思うのです。

 さて、開拓使長官となりました東久世は、9月21日に出航し、25日に函館に到着しました。
 岡本監輔を中心としまして、樺太へ向かうメンバーは、それより早く、ヤンシー号にて9月13日に横浜を出航し、17日に函館入港。必要物資を買い入れまして、19日に出港し、22日に樺太のクシュコタンに到着しています。
 で、開拓使から二人、外務省から派遣の一人が、10月2日には再びヤンシー号に乗り樺太を出港。8日に函館へ到着して東久世に会った後、東京へ向かっているんです。
 モンブランは、これに同行していたのではないか、と、私は推測しています。
 意見書の日付が10月10日。樺太におけるロシアの備えが「二個所の岬に台場を設けて、小銃常備隊は四大隊、農兵四大隊、そのほか山砲隊と守城砲隊が常駐している。ニコラエフスク(尼港)が樺太の補給基地になっていて、武器製造工場があり、またヨーロッパからの武器もここに備蓄されている」などと細かく記されていますが、モンブランが実地に確かめたのでなければ、書く必要がないことでしょう。
 また、ロシア士官はフランス語をしゃべるでしょうから、日本人には話さないことも、フランス人であるモンブランは聞き出すことができたはずです。

 それにいたしましても、開拓使の記録から、なぜモンブランの名ががすっぽりとぬけ落ちているか、ということなのですけれども、それは開拓使の記録に限ったことではありませんで、「モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟」で書いたのですが、大久保と木戸の日記は、モンブランの名が当然出てくるべきところで、まったく出さず、東久世の日記も同じなのです。
 理由は、推測にしかなりませんが、やはり明治政府の初期外交の肝腎な場面で外国人であるモンブランに頼っていた……、といいますのは、明治の国民感情を考えますと、彼ら元勲のプライドの許すところではなかった、のではないでしょうか。まして堺事件は、切腹した土佐藩士たちが英雄となったのですし、仇であるフランス人に頼って事件を処理した事実は、政府の威信にかかわることであったのでしょう。
 その堺事件の後、今度は対ロシアという重大問題で、またもモンブランを起用。表立つ記録に残したくはなかったのだろうと思えます。
 それともう一つ、これも確証がつかめないことなのですが、私は、モンブランが山城屋和助事件にかかわっていたのではないか、とも憶測しています。

 今回また長くなりましたので、次回へ続きます。


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明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編

2010年10月01日 | モンブラン伯爵
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編の続きです。

 慶応2年(1866)、箱館奉行でした小出大和守が、樺太国境談判にロシアへ赴くことになりまして、後任となりましたのが、杉浦誠(梅潭)です。
 森有礼夫人・常の実父だった、かもしれない広瀬寅五郎が、仕えていた人です。
 最後の箱館奉行・杉浦は、こまめに日記を記していまして、下の本は読みやすいその解説書です。

最後の箱館奉行の日記 (新潮選書)
田口 英爾
新潮社


 杉浦は知識欲旺盛で、過激尊王攘夷論者・大橋訥庵の門下にいたこともありますが、かならずしも訥庵に全面的に同調していたわけでありませんで、バランス感覚にすぐれ、幕府官僚としての節度を守りつつの尊王開明派であった、といえそうです。
 その経歴を見ますと、大番衛士から鉄砲玉薬奉行、洋書調所頭取と昇進しまして、文久2年(1862)目付となり、翌年、松平春嶽に随行して、攘夷テロリズムの吹き荒れます京へ。杉浦は、このとき同時に浪士掛にもなっていますから、後の新撰組の中核メンバーが募集に応じました将軍護衛浪士の京での扱いにも、かかわっていたわけです。
 文久3年、春嶽が政治総裁職を放り出し、京を離れましたのにともない、杉浦も江戸へ帰りますが、翌元治元年、今度は将軍家茂に随行しまして、再び京へ。8.18クーデターの後ですから、過激浪士は一掃されていたのですが、このとき、横浜鎖港問題にまきこまれまして、鎖港不可能派だった杉浦は、江戸に帰った直後に罷免され、以降、一年半の間、自宅謹慎となります。
 そして、函館奉行赴任です。
 つまり杉浦は、京都におきまして、激動した幕末の政治状況を目の当たりにした経験を持ち、幕府の倒壊をも、冷静に受け止めるんです。

 杉浦が、鳥羽伏見の敗戦情報を得たのは、一ヶ月近く遅れてのことでした。
 部下からは、江戸に引き揚げようという意見が出るんですが、杉浦はそれを退け、幕府の姿勢を問い合わせる建白書を提出し、同時に一万両と米を江戸に送ります。
 杉浦の最大の懸念は、樺太でした。以下、上記の本から、田口英爾氏の建白書口語訳の一部引用です。

 「第一の大憂患は北地(樺太)のことである。たとい雑居の条約を取交しているといっても、もし支配向が現地を引揚げてしまったならば、ロシア人は現地人の撫育を大義名分として、たちまち南進してくるだろう」
 
 慶喜恭順の知らせに、杉浦は、奉行の職務を全うした上で、朝廷に引き継ぐ決心をします。
 4月になり、新政府の先触れが到着した10日、ロシア領事ビュツォフは、杉浦に面会を求め「抵抗するならばロシアが武器も兵力も援助する」と申し出ましたが、もちろん杉浦は断りました。

 そして4月26日、清水谷総督一行が到着します。実は、判事・井上石見を筆頭とします一行の中には、坂本龍馬の甥・小野惇輔(高松太郎)がいます。杉浦と小野は、京で面識があったようです。
 引き継ぎは見事に行われ、残留を希望する幕府の役人はそのまま残り、杉浦は、江戸へ帰りたいと願い出た者とその家族を引き連れ、箱館を離れました。
 権判事・岡本監輔は、農工300人ほどを募って樺太に渡り、魚場を開いて開拓に努めます。

 さて、実質的な長である、井上石見です。
 彼については、fhさまのところが詳しいんです。「種蒔く人」「備忘 井上長秋2」「宗谷のふたり」「北から来た男は北へ帰る。」などから、簡単に足取りをまとめさせていただきます。

 まず、5月13日、プロシャ領事で、貿易商でもありましたコンラート・ガトネルの兄で、七飯で開墾事業を行おうとしていたリヒャルト・ガトネルと会い、雇い入れを決めたようです。杉浦奉行は、ガトネル兄弟と親しくしていまして、七飯の開墾も、やらせてみようとしていたようなんですね。
 このガトネル、後に榎本武揚を中心とします旧幕府軍が箱館を占領しましたとき、300万坪という広大な土地をを99年間借りる契約を結びまして、騒動になるのですが、石見との契約は、雇い入れでして、ヨーロッパ式に機械を導入して手本になるような農場を作る、ということです。

 これ、やり方としては、黒田清隆が開開拓使でアメリカ人を雇い入れて、模範農場を作ったことに近いですよね。イギリスVSフランス 薩長兵制論争2で書いたのですが、どうも、薩摩密航留学生一行がイギリスで見学しました近代的農場から、「西洋流行之農器」による「農兵・屯田兵的な形での開墾」は、幕末薩摩藩におきまして、新しい日本の国作りにおいての基本アイテムになっていたのではないか、という気がするのです。

 それにいたしましても、新政府の箱館裁判所改め箱館府には、お金がありません。杉浦奉行は、一万両を幕府に送ってしまいましたし。
 いや、一万両って、もしかして購入船の代金だったんじゃないんでしょうか。
 といいますのも、杉浦奉行は、プロシャ船ロア号を買う契約をして、内金を払っていたそうなのですね。5月30日に船は箱館に着き、支払いを求められます。
 石見は、横浜、江戸へ、金策に走ります。まずは、6月20日横浜で、大阪から来たばかりの大久保利通に会います。そこで小松帯刀にも会い、金策を頼んだみたいなのですが、だめなので、今度は神奈川裁判所の寺島宗則さんにお願い。しかし、こちらも文無しです。26日には江戸で、また大久保に会っているそうです。
 あるいは、大久保から紹介されたのでしょうか。結局、イギリス公使パークスの口利きで、イギリス系の銀行から無事、借金。
 
 7月7日、石見は、小松帯刀、大久保利通、八田知紀、中井桜洲など、在京薩摩人に送別会を開いてもらい、さらに7月11日には、小松、中井、松根(宇和島)にアーネスト・サトウをまじえて宴会。
 7月22日、石見は、アーネスト・サトウとともに、イギリス船ラットラー号に乗り、出港します。
 えーと、ですね。たしか、「フランス艦長の見た堺事件」に載っていたのでは、と思うのですが、確かこのとき、エトロフ島にロシア人が基地を作りはじめた、というような噂が入ったんだったかなんだかで、イギリス、フランスともに、軍艦を千島列島偵察に出すんですね。
 石見は、そのイギリス軍艦に同行し、7月26日函館着。
 その後、石見はロア号に乗り換え、イギリス軍艦と東西に別れて、探索に出ます。
 イギリス軍艦は宗谷沖で座礁し、サトウはじめ、乗り組んでいたイギリス人は全員、フランス軍艦デュプレスク号に救助されます。
 同じころ、実はロア号も遭難していたんです。しかもこちらは、行方不明。
 井上石見は北海の霧の中に消え、そして箱館府は、舵取りを失ったまま、旧幕府軍の襲来に遭って、青森へ逃走します。

 えーと、岡本監輔は、ずっと樺太にいます。
 近デジに、「岡本韋庵先生略伝」というのがあるんですが、これによれば、です。明治2年になってロシアとの摩擦が頻発します中、樺太開拓に従事していましたところが、6月24日、ロシア船が母子泊(ハコドマリ)に現れて、アイヌの墓所や漁民の住んでいる場所に宿舎を建て始め、応援を求めようと箱館に出たのだそうなのです。
 旧幕府軍が降伏しましたのが、5月18日です。清水谷総督をはじめとします箱館府のメンバーは、青森以来、黒田清隆の指揮します薩摩中心の軍といっしょになり、戦勝後は函館に残って、戦後処理をしていました。

 明治2年になりまして、樺太で紛争が頻発しましたのは、おそらく、なんですが、北海道の内乱にロシア側が乗じたわけですね。杉浦奉行の危惧は当を得ていたわけでして、ガトネル問題といい、榎本武揚と旧幕府軍の行動には、思慮の足りない処置が見受けられます。

 監輔が函館に着きましたのが7月のいつなのかわからないのですが、ちょうどこの時期、中央では、戊辰戦争の終結と版籍奉還にともなって、大規模な官制改革があり、蝦夷開拓御用局が開拓使となって、開拓使人事が行われています。
 その事実関係を、以下、榎本洋介氏の「開拓使と北海道」を参考に述べますが、起こったことの解釈につきましては、私の考えです。

 7月11日、鍋島閑叟が大久保利通を訪問しまして、「開拓一条御談」と大久保日記にあります。つまり、閑叟から開拓使について、大久保に、なんらかの相談があったわけです。
 13日には、閑叟が開拓使長官となります。
 16日、大久保日記によれば、「蝦夷開拓議事、大綱決定」
 20日、民部大輔・広沢真臣(長州)が兼任で開拓使出仕。
 22日、島義勇(佐賀)、開拓使判官となる。
 24日、清水谷公考が次官に任じられ、兵部省が、蝦夷地開拓返上願書を出します。

 そもそも、です。官制改革の立案者は佐賀の副島種臣であり、大久保利通は副島と連携して、政権の中核となっていたわけですが、開拓使については、大久保利通がしきっていて、佐賀の元藩主・鍋島閑叟と相談し、名目上、広沢を加えることで長州閥の了解を得て、佐賀閥主導で蝦夷開拓を進める、となったように見えます。
 24日の兵部省云々といいますのは、です。兵部省は、長州の大村益次郎が事実上の長でして、明治2年の初めから、会津藩をはじめとします降伏人を、石狩、小樽、発寒へ移住させて開拓する、という計画を立てていたんです。大久保と閑叟が相談しました開拓使の方針も、函館から石狩へ開拓使の中心を移し、石狩を中心として開拓する、というものでして、兵部省の施策と重なるのです。兵部省に手を引かせるために、広沢を抱き込んだのではないでしょうか。

 ところがこの24日、岡本監輔が東京に姿を現し、樺太の危機を訴えます。
 監輔が最初に訪ねたのは、大久保利通の家です。「岡本監輔入来。唐太より今日着ニて彼地之近状承り実ニ不堪驚駭候」と大久保日記。
 翌25日、監輔は開拓使判官に任じられ、26日、樺太事件は廟堂に報告され、議論。
 あるいは、これと関係しているのではないかと思われるのですが、翌27日、長州閥のトップ・木戸孝允は、兵部省が蝦夷から手を引くことにクレームをつけ、29日、大久保がそれを了承します。

 樺太問題が緊急なものになった以上、兵部省の協力が不可欠となりかねない、という話だったのではないのでしょうか。

 さて、この樺太緊急事態によって、開拓使人事に大きな変更が生じるのですが、榎本洋介氏はそれを、「樺太放棄へ向かう政策決定を弱腰外交と解釈するであろう攘夷派士族の脅威を加える視点で考察」されているんですが、ちがいます!!!
 まず大久保は、この年、樺太放棄を考えたりはしていません。外交交渉によって、なんとか島の半分を日本領とできないものかと、モンブラン伯爵を起用したがゆえの人事ではないのかと、私は推測しています。
 モンブラン起用には証拠がありまして、詳しくは、次回に続きます。


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明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編

2010年09月28日 | モンブラン伯爵
 えーと、また唐突なんですが、さがしていた資料が見つかりましたので。
 尖閣諸島で中国ともめている昨今ですが、尖閣諸島は沖縄の一部でして、大清帝国の主張では「琉球は清朝の朝貢国であるから日本の領土ではない」と、日清戦争の敗戦まで、日本領と認めなかったところに、問題の発端はあります。
 あー。もちろん、台湾問題もありますね。結局、現在の中国の主張は、尖閣諸島は台湾の一部、ということですので。

 明治6年政変と征韓論 明治4年で書きかけていたことなのですが、「征韓論」というのは、政変の後の事情を知らない世論の受け止めは方は別にしまして、実際に留守政府首脳の懸案になっておりましたのは、草梁倭館に出兵して開国を迫る、ということでして、李王朝が実効支配していました朝鮮半島を征服する、などという、突拍子もない案ではありません。
 しかし、同時期の征台論については、あわよくばその半分を征服しようという話でした。なぜならば、アメリカ公使デ・ロングが「台湾には清国の実効支配が及んでおらず、清国も領有を主張していない」という見解を、どうやら明確にしていまして、アモイ駐在アメリカ領事のル・ジャンドルを、征台顧問として日本に世話してもいます。そこらへんの細かな実情は、資料をつみあげていく必要がありまして、やりかかったんですけれど、めんどーになってきまして、中断しています。
 ともかく、政変の後に、征台は大久保利通、大隈重信の手で実行に移されますが、そのときはすでに、デ・ロングは在日公使を辞めさせられて、本国に呼び返されています。
 
 デ・ロングは、まったくもって外交官経験のない素人でして、アメリカが得意としますご褒美任命外交官の口です。
 で、この当時のアメリカは、アジア外交を牛耳っていましたイギリスに、多大な反発を抱いていました。
 アメリカは日本を、清国進出の足がかりにしようと開国させましたのに、その後の南北戦争でろくにアジア外交にかかわることができず、日本への影響力をも維持できず、イギリスどころか、幕府にくいこみましたフランスにも、大きく遅れをとっていたんですね。
 明治2年、日本に公使として着任しましたデ・ロングは、日本におけるアメリカの勢力拡大のためならばイギリスとの衝突もかまわず、といった、問題の多い姿勢で、日本の外交をひっかきまわすのです。

 そういうわけでして、征台についても、デ・ロングが公使だったときに、兵士、物資の輸送に、米英国籍の民間船が協力するという約束ができていたんですけれども、清国に深く根をはっていますイギリスから横やりが入り、後任のアメリカ公使もそれに同調しまして、大久保利通と大隈重信は、急遽三菱を援助して船を買わせて使う、ということになったんです。
 おまけに、ですね。そもそも、ル・ジャンドル案では「春以降、暑くなってくると疫病が蔓延する島なので、冬に」ということでしたのに、なにをとち狂ったのか4月に計画しまして、それが5月にのび、結果、多数の戦病死者を出すことになりました。
 結局、イギリスの仲裁で、日本はほどほどの成果を得はしたんですけれども、これで清国が琉球の日本帰属を認めたわけでもなく、逆に清国は領有権の西洋ルールに目覚めまして、この直後、台湾の領有を確定的なものにすべく、出兵して、清に逆らう台湾現地民を徹底的に虐殺し、実質的な台湾領有権を確立したわけです。このときの清の残虐ぶりは、とうてい日本軍がまねできるものではなかったと、アメリカ人の学者さんが言っております。

 日本にとって、をいいますならば、ごちゃごちゃ政争をやってないで、予定通り、明治6年の晩秋に、すみやかに台湾出兵すべきでした。そうすれば、イギリスの口出しが遅れ、米英民間船がかかわることによって、もっと日本有利にことが運んだ可能性がなきにしもあらず、ですし、それが無理でも、少なくとも、戦病死者はごく少なくてすんだはずです。

 いずれにしましても、明治6年政変において、問題になっていましたのは、朝鮮、台湾、琉球をめぐる清国の宗主権であり、そしてもう一つは、幕末からの最大の懸案、ロシアとの国境線、樺太領有権です。
 これは全部、現代にまで尾を引いている問題ですが、とりあえずそれは置いておきまして、誕生間もない明治新政府の対清懸念に首をつっこみましたデ・ロングが、です。対ロシアにも首をつっこまないわけはないのです。
 
 これまでも何度か書きましたが、開拓使は、明治新政府が、樺太をにらんで設立したものでして、北海道に確実な実効支配を打ち立てなければ、ロシアが樺太を征服し、さらに南下する恐れが大きかったからなのです。
 このことは、イギリス、フランスも警戒していまして、維新直後に、自国軍艦を千島列島偵察に出しています。
 で、幕府は、ロシアとの国境線画定の仲介を、フランスに頼ろうとした経緯がありまして、明治新政府も、当初は、フランスの仲介を期待した節があるんですね。

開拓使と北海道
榎本 洋介
北海道出版企画センター


 上の本は、樺太問題と開拓使をあつかい、細かく分析しているのですが、冒頭で、非常に興味深い指摘があります。
 明治2年5月、開拓使の前身であります蝦夷開拓御用局が設置されます。6月、その長官(総督)に鍋島閑叟が任命されるのですが、直前の5月、島義勇(佐賀)、桜井慎平(長州)、大久保利通(薩摩)の三人が、開拓御用掛になっているんです。御用掛は他にも数名任命されるのですが、彼らは、もともと蝦夷にかかわりをもった実務官と見ていいようでして、鍋島閑叟が総督になりました時点で、事実上の長官は島義勇であり、佐賀閥がしきろうとしているところへ、大久保が長州人を一人加えて、わりこんだのではないか、と思えます。

 ところがです。不思議なことがあればあるもので、明治2年の開拓使日誌、京都で刷ったものには大久保の就任がちゃんと載っているもかかわらず、東京で刷った版からは大久保利通の就任記事がすっぽり消えてしまっている!!!のだそうなんです。大久保の開拓使御用掛就任は、複数の傍証がありまして確かなことなのですが、そんなわけでして、なかったことにされていたりします。
 この謎を提示なさった榎本洋介氏は、しかし、なぜなのか?については、回答を見出しておられません。
 私、もしかしてこれは、モンブラン伯爵がらみだったからではないのか?と、憶測しているんです。

 えーと、ですね。ロシアの南下についてどこかで書いたはず、と思いましたら、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1ですね。金光瑞個人については、wikiをご覧下さい。このシリーズを書いている途中で、確実な情報を見つけまして、wikiに書いております。
 ともかく、です。日本の幕末はロシアの南下とともにはじまった、といっても過言ではなく、少年期の森有礼が読んで世界情勢に目覚めた、林子平の「海国兵談」も、ロシアの南下を危惧して書かれたものです。

 樺太開拓は、17世紀の終わりから、松前藩によって、はじめられていたのですが、幕府が衝撃を受け、異例にも朝廷に報告しました赤蝦夷騒動(文化露寇・フヴォストフ事件)は、ペリー来航の50年前、文化3年(1806)に起こりました。徳川家斉の時代です。
 この当時のロシア人は、ラッコの毛皮を求めて、シベリアからカムチャッカ半島、アリョーシャン列島、千島列島、北米海岸に進出、植民していました。
 やがて毛皮商人たちは、宮廷から出資を得て、国策会社露米会社を立ち上げます。会社といいましても、武装通商集団で、ロシア海軍軍人が、そのまま社員だったりします。
 露米会社の総支配人、ニコライ・レザノフも、ロシア海軍省に属した人で、露米会社の維持、発展のために海軍を利用し、食料などの物資補給、交易路の開拓に努めます。
 その一環として、文化元年(1804)、長崎に来港し、通商を要求しますが、幕府は拒否します。
 そのレザノフの部下の海軍士官フヴォストフとダヴィドフが、文化3年(1806)に樺太の松前藩の番所を襲撃、略奪し、翌年にも樺太、千島列島など各所の日本人を襲撃した事件でして、ciniiにいくつか論文があがっていますが、どうも、これまでいわれてきましたような突発的なの海賊行動ではなく、露米会社の命令を受けて、レザノフが受けた扱いの報復と、日本人の樺太千島進出をはばむための軍事行動であったようです。
 この事件は、北前船のルートに乗って日本全国にひろがり、京都の朝廷も大騒ぎ。幕府は慌てて、東北諸藩に動員をかけ、蝦夷の防備にあたらせます。
 
 このときのロシアの極東進出は、開拓をともなった本格的なものではなく、結局、1812年のナポレオンのロシア侵攻もありまして、一息つく形でおさまりましたが、以降、蒸気船の発達により、ロシアが極東に鉱物資源や軍事拠点、通商拠点を求める勢いは増し、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1で書きましたように、ペリーに乗じて安政元年(1855)に日露和親条約を結びました後、清国に迫って、沿海州を得るんですね。
 こうなりますと、ロシアの勢いはとまりません。樺太にも囚人を送り込み、軍隊を常駐させて、日本人がいた南部へも、どんどん進出してきます。
 幕府の樺太開発は、失敗していたといっていい状態でして、維新直前には、雑居といいつつ、圧倒的なロシア優勢状態に陥っていました。

 この幕末、なぜか樺太に魅せられてしまった一人の日本人がいました。
 阿波(四国徳島)の民間人、岡本監輔です。
 そういえば、エトロフ島を開拓した高田屋嘉兵衛が、淡路島の出身でした。赤蝦夷騒動の後遺症ともいえるゴローニン事件でロシア船につかまった人です。司馬遼太郎氏が彼を主人公に「菜の花の沖」を書いておられます。
 ともかく、京阪に近い阿波の漁民は、蝦夷の情報に通じていて、岡本監輔も樺太を知ったようです。

 なんだか、幕末は不思議な時代です。
 四国の片田舎の農村に生まれた監輔が、北に憧れて、京阪、江戸で探求を重ね、北方探検家の松浦武四郎とも知り合いまして、ふらふらと蝦夷へ、そして樺太へ行ってしまうんです。あげく、樺太一周をなしとげ、ロシア人の植民を目の当たりにしまして、このままでは憧れた島がとられてしまう、と危機感を持ちます。
 監輔は、樺太全土が日本領だという信念を持っていまして、慶応2年(1866年)、小出大和守が国境談判のためロシアへ向かうのを阻止しようと京都へ行くんですが、失敗します。
 その監輔の目の前で、鳥羽伏見の戦いは起こり、チャンス到来!とばかりに監輔は、親しくしていました貧乏なお公家さん、清水谷公考にロシアの脅威と樺太開拓の必要を訴え、すっかりその気にさせてしまうんですね。
 証拠はないのですが、監輔はどうも、清水谷だけではなく、薩摩藩士の井上石見をその気にさせたらしいんですね。井上石見は、藤井良節の弟で、神官の血筋だけに、公卿の家に出入りしつけた古くからの京詰め藩士です。どうやら、岩倉具視の側近となっていたようでもあります。
 なんといいましても、実質、維新政府をきりまわしていましたのは、薩摩です。井上石見が清水谷をかついだ、ってことなんでしょう。

 それで、清水谷は弱冠23歳で箱館裁判所総督、37歳壮年の井上石見は判事に任じられまして、29歳で権判事となりました岡本監輔もともに、蝦夷地鎮撫に向かうのですが、これに大久保利通が噛んでいないわけがありません。

 長くなりましたので、続きます。

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モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編

2010年01月16日 | モンブラン伯爵
またまた唐突ですが、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2vol3の補足といいますか、訂正といいますか、再考といいますか、大筋ではちがわないのですが、細かく見直す必要があるようだ、というお話しです。

ともかく、驚きました!1!
きっちり、薩摩藩の幕末外交を評価し、モンブラン伯爵にも言及した、といいますか、モンブランが焦点となった論文が書かれていたんです。

日本近世社会と明治維新
高木不二
有志舎

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 上の本なんですが、前半(一章、二章)は、日本近世社会(江戸時代)の特徴と、その解体(幕末)の全体像が描かれています。この部分に関しては、世界史と関連を持たせたい、という意欲は買うんですが、戦後の日本歴史学界の主流だったマルクス史観のかわりに、アナール学派のマルク・ブロックを据えた手法が、あんまりしっくりときていない感じがあります。封建時代、ということで、西洋の中世と江戸時代を比較検討しているわけなのですが、ちょっとそれはちがうんじゃないのか、と思います。江戸時代も後半になれば、日本は日本なりの近代社会のとばぐちにあった、という見方も出てきていますし、私は、その方が納得がいきます。

 しかし、具体的に、越前藩と薩摩藩に幕末の諸相を見ていく後半は、すばらしいんです。わけても「第四章 幕末の国家構想」においては、冒頭から、薩摩藩とモンブランが結んだベルギー商社計画の話になりまして、それが薩摩藩の国家構想の話にまでつながってきますので、もう、ここ数年、私が追っていたテーマそのもの! 感激しました。

 なんといっても驚きましたのは、薩摩藩がベルギー、フランスと、独自に通商条約を結ぼう、としていたのではないか、とする推測です。
 私、慶応元年、ブリュッセルとパリにおいて、新納刑部・五代友厚がモンブラン伯爵とかわしたベルギー商社計画の仮契約については、これまで、詳しく触れてきませんでした。詳しい解説書がなく、いまひとつよく理解できないでいたんです。五代友厚の日記には、「ヴェルギー政府と和親条約を成して、富国強兵の基石を立てることを欲し、その条約を、一先、モンブランと盟約せんことを談決」とあるんですが、この「和親条約」、これまでの定説では、「商社契約の話であって、モンブラン個人が相手」ということになっていたのですね。
 そのわりには、新納・五代は、ベルギーでは皇太子ブラバン公をはじめとする政府高官に面会し、公的な扱いを受けていますし、ベルギーにおける最初の仮契約には、ベルギー政府から証人が立ち会っているんです。
 なんだろう? と思いながら、定説を疑ってみることはしなかったのですが、高木不二氏は、和親条約は文字通り和親条約であって、新納・五代のつもりとしては、商社契約と共に、薩摩独自に、ベルギーと和親通商条約を結ぶつもりがあったのだ、となさっているんです!
 これは、言われてみれば、その通りです。新納、五代、寺島は、欧州まで外交に出かけたのですし、通商条約を結ばなければ、商社活動も不可能に近いですし。

 ただ、ですね。高木氏は、こういった外交から、薩摩藩の幕末、慶応3年春までの国家構想を、ドイツ連邦をモデルとした大名同盟国家、それぞれに主権を持った国家連盟方式、となさっているんですが、これはちょっと、私はちがうと思います。
 ベルギーとともに、薩摩が通商条約を生かそうした国として、高木氏はフランスを挙げられ、慶応三年のパリ万博における薩摩藩の活動こそが、モンブランの力を借りてフランスに薩摩が独自国家であることを認めさせ、同時にベルギーとの条約提携をめざしたものであり、幕府の面目はつぶしたものの、ベルギーとの条約提携には失敗した、とされています。

 これも盲点だったんですが、すでに1855年、薩摩藩の指導により琉仏修好条約は結ばれていました。ただし、批准されていなかったんです。フランス本国政府は、この条約の存在さえも忘れ去っていて、結局、薩摩の要請を受けて、同じように琉球と条約を結んでいたオランダに問い合わせましたところが、なんとすでに文久2年(1862)、「琉球は日本である」という幕府の宣言を受け、オランダは条約の批准を見送っていたんです。
 これによって、岩下方平を団長とするパリ万博薩摩使節団は、結局、フランスにおいて一国の代表としての扱いを受けることができず、それをみていたベルギー政府も、条約提携を見合わせた、ということだったんです。

 しかし、そうであってみれば、薩摩がベルギーと結ぼうとしていた条約も、琉球国名義であったことになります。さらに、です。五代がモンブランととりかわした契約によれば、長期的には大阪を中心に、都市開発、瀬戸内海航路の開設、鉄道や電信の設置、といった大規模事業を起こすことになっていまして、ってー、大阪は幕府の直轄地です。
 五代の国家構想が、果たして大名連盟、というようなものであったといえるのでしょうか。
 琉球国名義にした、ということは、とりもなおさず、薩摩藩に独自の外交権があるとは、認識していなかったことになります。
 私は、五代、そして薩摩藩の国家構想は、確かに、高木氏がおっしゃるように、郡県制よりは分権的なものであった、と思いますが、氏がおっしゃるところの「大名の連合体」ではなく、「統一国家元首(天皇)のもとでの連邦国家」をめざしていて、幕府の直轄地である開港地を朝廷のものにし、条約もまた天皇の名のもとに結び直されることを求めていたがために、武力に訴える可能性は、薩長同盟のときから考えられていた、という見解をとります。

 生糸の問題もあります。薩摩藩とグラバー(ジャーデン・マセソン)やモンブランとの取り引きが、うまくいかなかった点について、高木氏は、しっかり、生糸・種紙を買い付けることができなかったことを、主要な理由として挙げておられます。もう少し、ここをつっこんでいただけたら、嬉しかったのですが。
 一方、オランダとの取り引きは米中心であったとされていまして、これが米を運搬して有利な相場で売り払う、投機的なものであったとは、目から鱗、でした。
 なるほど。それで、オランダ商人(アルフォンス・ボードウィン)との取り引きのみはうまくいき、結局、押し詰まった時点での薩摩への出資者は、オランダのみになったわけなのですね。

 高木氏に感服いたしましたのは、五代の商取引を、外資導入による拡大路線、としているところでして、これが主には生糸の問題でうまくいかず、五代が藩内で孤立した状況も、玉里史料を主な材料として、克明に述べられています。
 慶応三年の初めころ、ですが、五代を支持していたのは桂久武一人であり、小松帯刀を筆頭に、吉井、汾陽(かわみなみ)、伊地知壮之丞 、松岡十太夫といった藩の経済官僚(オランダとの取り引きをメインにしていたと考えられます)が、そろって反発していた、というのは意外でした。
 玉里史料ですかあ。読まないといけないですねえ。忠義公史料は、かなり読んだつもりなんですが、玉里史料はまだ、まったく読んでないんですよねえ。

 ともかく、です。こういった五代の商業活動の失敗から、慶応三年のモンブランに対する薩摩藩の期待は、外交問題に限られ、結局、その外交活動、つまりはベルギーと条約を結ぶことに失敗したがために、薩摩は当初、モンブランの扱いに困ったのだ、ということなんですね。
 しかし、まあ、です。モンブランがかなりの資産家であり、とりあえず薩摩藩の立て替え払いをする資金力があったらしいことは、よくわかりました。
 ただ、高木氏、モンブラン家の話は、なにを典拠になさったのか、まちがっておられます。

「モンブラン家は南フランスの出であって、祖父ジャン・バチストの功により伯爵の位を授けられた。父シャルルのときフランス革命に遭遇し、オランダに亡命。西フランドルのインゲルムンステルの男爵領を手に入れた」

 って、モンブラン伯爵の父、シャルル・アルベリック・クレマン・デカントン・ド・モンブランは、1785年の生まれです。フランス革命がはじまった時は、わずか4歳。フランス革命に遭遇したのは、祖父の代ですわね。ドイツ人領主オットー・フォン・ブロートからインゲルムンステル男爵領を譲られたのは、父親ですが。
 フランスの伯爵位がそれより先か後かはわからないのですが、以前にも書いたのですが、どうも7月王政期にオルレアン家のルイ・フリップより与えられたらしい、という資料もありまして、私は、後ではないか、と思います。

(追記)うわっ!!! ドイツ・オランダ語(?)wikiにモンブラン伯の記事が立ち上がってますね。どうも、日本に留学していたベルギー人・Willy Vande Walle氏の著作などが参考にされているようです。これ、です。オランダ語、といいますか、ドイツ語で翻訳できるのですが、はっきり、1841年6月30日にルイフィリップから伯爵位を受けた、と書かれてますね。後で正解みたいです。


 憶測にすぎないんですが、ベルギーの初代国王・レオポルド1世は、モンブランの父親より五つ年下で、1831年に初代ベルギー国王となり、翌年、ルイ・フィリップの娘のルイーズ=マリー・ドルレアンと結婚しているんですね。
 ベルギーに男爵領を得たフランス人、それも、おそらくなんですが、南フランスの貴族に近い家柄(ジェントリーだったのでは、と思うのですが)ということで、モンブラン伯爵の父親は、この結婚になんらかの役割を果たした、といますか、マリー・ドルレアンの側近となり、その仲介で伯爵位を得たのでは? と考えたりします。


 

 
 ベルギー王妃、ルイーズ=マリー・ドルレアンです。1830年代の典型的なロマンティック・スタイルですわね。

(さらに追記)ドイツ語wikiによれば、「モンブラン伯爵の父親・シャルル・アルベリック・クレマン・デカントン・ド・モンブランは、その妹のスザンヌ・アガタ・フェリックスとともに、子供がいなかったシャルル・ルイス・マリー・ヒスラン・デ・プロート男爵から、インゲルムンステル城を受け継いだ」ということです。宮永氏の論文とプロート家の最後の男爵の名前がちがっていて、典拠がわかりませんし、どこまで正確な情報かは謎なんですが、宮永氏の論文では、「1825年と1835年に二度にわけて、財産のすべてを家来筋にあたるモンブランの父親に渡譲」ということになっていますから、1825年にプロート家の最後の男爵が死去し、モンブランの父親は、1825年に妹のスザンヌ・アガタ・フェリックスとともに男爵領を受け継ぎ、1835年に妹が死去してすべてを受け継いだ、とも考えられます。あるいは、モンブランの父親の妹は、プロート家の最後の男爵と結婚していたのだけれども子供がなかった、という線もありかと。

(再々追記)ドイツ語wikiで、お聞きしましたところ、プロート家の項目に詳しいとのことで、わかりました! 「1825年にアルベリック・フォン・シャルル・ルイス・マリー・ヒスラン・バロン・デ・プロートが死去したとき、1835年にその兄弟のフェルディナン・マクシミリアン・オーガストが死去したときと、2回にわたってインゲルムンステル男爵領すべてが、モンブランの父親とその妹のスザンヌ・アガタ・フェリックスに譲られた」とのことです。うーん。やはり、モンブラン伯爵の叔母、スザンヌ・アガタ・フェリックスは、プロート家の兄弟のどちらかと結婚していて、子供がなかったのでは? と思えます。シャルル・フェルディナン・カミーユ・ヒスラン・デカントン・ド・モンブラン( Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc)のヒスラン(Ghislain)の意味もわかりました。インゲルムンステル城主だったプロート家の家名だったんですね。確かに、領土を受け継いだら家名も受けつぎますよね。


 最後に、現在私は、高木不二氏にお目にかかって、お話しをうかがいたい気分です。


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モンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???

2008年12月07日 | モンブラン伯爵
 えーと、モンブラン伯爵Wiki記事誕生記念プレゼント企画!で予告しましたように、薩摩ボタンはだれが考えたのか???の続きです。

 この記事、実は旅行以前に一部書きかけていまして、以下、町田清藏くんとパリス中尉の続きである部分と天璋院関係は、すでに書いてあったものです。
 で、本題には関係ありませんが、今回の旅行で一泊しました指宿市の今和泉は、篤姫さんの出身地だというので、ふれあいプラザなのはな館(菜の花くらい漢字使えよ!と思うんですが)に、ドラマで使った衣装が飾ってありました。写真を撮りましたので、ついでに載せます。

 

  ところで、最近知ったんですけど、3年も前に書いた慶喜公と天璋院vol1vol2が、他に転載されていまして(転載もと明記、リンクつきですから、いいんですけど)、ちょっとびっくりです。ドラマ効果、なんでしょうねえ。
 ただ、天璋院篤姫の実像にも書きましたが、ろくに資料も読まないで、勢いで書いてしまいましたので、細かいところでは「訂正すべきかなあ」というような点もあり、かといって、ああいうふうに流して読みやすく書きますと直すのもまた微妙な話で、めんどうです。まあ、現実になにがあったか、よりも、それぞれの心情の推理が話の中心ですから、悪しからず。

 で、本題に入りまして、薩摩ボタンはだれが考えたのか???に書きました以下の部分。

 町田兄弟の末弟、町田清蔵くんについては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1vol2で、後年の回顧談を詳しく紹介しております。
 ただ、この回顧談、はるか後年のものの上に、町田清蔵くんとパリス中尉でも書きましたが、帰国後のことはつけ足しであったらしく、年月日をそのまま受け取りますと、慶応2年に帰国して、戊辰戦争がはじまるまで、一回も薩摩に帰らないで長崎で過ごした、という、なんとなく変なことになってくるのです。
 で、私、先に書きました巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2の最後では、勘違いしてしまい、維新前に薩摩に帰ったことにしてしまっております。

 えーと、なんで勘違いしたのか、忘れてしまっていたのですが、いつものfhさまが、思い出させてくださいました。(とりとめもなく。
 町田清藏くんとパリス中尉に引用しております、清藏くんの回顧録からのを、どう解釈するか、です。

 しかるに途中、長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途にて、私が洋服にて無刀であり、其の時までは攘夷論者のおる時ですから、其の武士が抜刀して私を切らむ姿勢で向ひましたから、私は残念で泣きながら腰の六連発のピストルを差し向け、切らは切れわれはピストルでいると云ふかまえへにて、「自分は大守様の命により先年英国に留学し、今帰藩の途中、清水兼二郎、本名町田清次郎という、大目付町田民部(久成にいさんです)が実弟なり。何故あって我を切らんとせらるるや、御名前をうかがひ大守様へ言上する考」と言うに、向こうの勢一変し、無言にて一散に走りましたから、私は実に残念で跡を追ひましたが、追いつかず、伊集院というところにきますと、私の兄の用達を勤むる藩士で、大脇正之助という者と出会いまして、右の始末を語り「ぜひ右の武士の名前を調べてくれ」と申しますと、「それはおだやかに見のがした方がよろし」と言うて、それより跡先に大脇と岩崎との間にはさまれ鹿児島城下に着し、一家親族の見舞やら親族に呼はるやら五六日は席の暖まる間もなき事にて、それから親が志布志というところの地頭所に打ち立ちましたが、このときは慶応四年にて奥州征伐戦中にてありました。

 そうなんです。長崎征伐なんて言葉は聞いたことがありませんし、編者が(ママ)としているってことは、これは第2次長州征伐なんだろう、と、最初は思ったんですね。ところが、よくよく読んでみましたら、そのまま話が「このときは慶応四年にて奥州征伐戦中」に直結してしまっているものですから、だったらこれは「長崎征伐」、つまりは戊辰戦争でいいんだろうか、と思い直した次第なんです。
 しかし、なにしろこれは講演録ですから、話をはしょったり、前後させたりしていたはずで、実は長州征伐、という方が、つながりはよさげです。
 講演の速記録を、まともな文章にする仕事をしたことがありますが、話が時間的に前後したり、横道にそれて時間軸が前にかえったりは、よくあることでして、話をばらばらにして組み立て直さなければ、筋が通った文章にはならないのが普通なんです。

 で、ここからが、本日書きます部分です。
 ともかく、パリ万博以前、慶応2年に町田清蔵くんはパリのモンブランのもとから帰国しているわけでして、しかも北賴家と養子縁組みの約束ができていたわけです。
 それで私、今回の薩摩行で、「北郷久信報功事歴並歴代系譜」という本のコピーを、鹿児島県立図書館に頼んできたのですが、これはまだ届いていません。
 しかし、旅行前に、薩摩川内市川内歴史資料館に郵便小為替を送って頼んでおりました「市政60周年記念特別展 用と美 平佐焼の世界展」の図録が届いたんです。



 これがすぐれものでして、ちゃんとまとめて、平佐焼に関する歴史史料を転載してくれてます。
 その中に、「北郷久信報功事歴並歴代系譜」の一部も転載されいるのですが。

慶応元年乙丑藩において開成所を建設し英学を講習せしめることに尽力し、その教師として安保清康(男爵林謙三)、嵯峨根良吉、白川謙次朗等の人々を聘せり。久信これらの人々を自邸に客たらしめ人材を選び英学を修めしむ。また皿山陶器製造の業を拡張し、大花瓶の類を製出せしめ長崎へ輸出し、外国貿易の途を開きたり。

 えーと、です。つまり、北郷久信は、薩摩藩が開成所で英学を教えることに尽力し、安保清康、嵯峨根良吉、白川謙次朗などを教師として招いた。またこれらの人々を自宅に招き、藩士(あるいは川内領の藩士かも)の中から人材を選んで学ばせた。また、自領の陶器製造業を拡張し、大花瓶の類を製造させて長崎へ出し、海外に輸出するみちを開いた、というんです。
 自宅というのが鹿児島の自宅なのか、あるいは川内の自宅なのかわからないのですが、いずれにせよ、白川謙次朗って、モンブランがパリへ連れて行っていた斎藤健次郎、ジェラールド・ケンとしか、考えられません。
 ケンは、モンブランが白山伯と名乗ったからなのか、白川と名乗るようになっていたのです。
 ケンが開成所にいた時期として考えられるのは、おそらく、なんですが、慶応2年(1855年)です。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2を見ていただければ、だいたいの流れがわかると思うのですが、薩摩藩密航留学生とともに、薩摩使節のような形でイギリス、ベルギー、フランスを訪れていました五代パパ、新納とうさん、そして通訳の堀は、慶応元年12月26日(1866年2月2日)に、帰国の途につきます。どうもこのとき、ケンが薩摩へ伴われていったようなのです。おそらくは、パリ万博の準備のためだったでしょうし、万博に出発するまで、開成所で教授を務めたとしてもおかしくありません。
 そのケンが、北賴久信と知り合っていた、ということは、モンブランを平佐窯へ伴ったのは、清蔵くんではなく、あるいはケンであった可能性もあります。
 そうなんです。ほぼ確実に、モンブランは平佐窯を訪れていました。

 前回ご紹介しました世界に翔けた幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼―薩摩焼発祥400年記念出版が、「そのような平佐焼の窯地に、慶応2年(1866)フランスの貿易商コント・デ・モンブランが来航した」、つまりモンブランが平佐窯を訪れたのは慶応2年と誤記していたものですから、不確かな伝承かと思ったのですが、「平佐焼の世界展」図録史料集に、ちゃんと史料が転載されていまして、慶応3年になっているんです。モンブランと平佐焼に関する記述がある、いちばん古い史料は、大正15年、公爵島津家臨時編輯所発行、坂田長愛編『薩摩陶磁器傳統誌』です。

当時は多く外国向の製品をなしたりしが、かの慶応三年の初に仏国にて開会せられたる万国博覧会にて、薩摩の出品陳列に尽力し、後商会設立のために薩摩に来り、維新の際外国交際に関する種々の助言をも呈したる仏国の貴族コント、デ、モンブランも当所(平佐窯)に来りて、製品の指揮をなせしことあり。今縁端に菊花を巡らし中に玉冠を戴ける獅子の旗を持ちて対立したる紋章を描ける磁器のなお残存せるは、この時モンブランの指揮によりて製造せしものにて、その製造したる器物は三、四年分を集めて、これを長崎に搬出し、外国に輸出したりという。

 まわりを菊が囲んでいて、向獅子の紋章(サントリーのマークみたいなものです)が入った平佐焼の磁器は、モンブランが指導し、この本が出た大正末年当時、まだ残っていた、というんですね。

  ただ、薩摩ボタンはどんなものでしょうか。
 実はですね、薩摩伝承館が、薩摩ボタンを収蔵しているのです。私が見たのは、一組だけだったのですが、図録にはもっと載っていました。
 この図録を、実は私買い損ねまして、ただいま送金して注文中です。

 なんという馬鹿でしょう、私。沈壽官氏のティーカップなど、素敵なミュージアムグッズに見とれていまして、目立たないところにあった図録に、気づかないでいたんです。このティーカップが、ですね、普通のものより大降りで、受け皿がケーキ皿にもなるという使い勝手のよさそうなものだったんですが、なにしろ一客15000円。せめて三客は欲しいですし、ちょっと手が出ないなあ、と思いつつ、未練がましく眺めていたりしまして。

 で、その日、旅行二日目、知覧観光をして、鹿児島まで移動しまして、ホテルにて夜、初めて大先輩のお友達のNezuさまにお目にかかったわけなのですが、大先輩とNezuさまは、その日の飛行機で鹿児島に来て、それから指宿まで往復して、私より3時間くらい後に、伝承館を見学されていました。
 初対面の挨拶がすむや否や、Nezuさまに、「図録買われました?」と聞かれて、「えっ!!! 図録……、あったんですよねえ」と、呆然としました私。さっそくNezuさまに見せていただいたのですが、薩摩ボタンが6組くらい、ありました。
 ともかく、です。いま、手元にないものですから、正確ではないのですが、私が「古そうなものは絵付けが丁寧で初期SATUMAの面影がある」と感じた、その古そうなボタンは、伝承館図録のキャプションによりますと、みんな京薩摩なんです。そして、「ちょっと新しいかな」という感じのものは、神戸薩摩。
 うーん。ということは、幕末に薩摩で、薩摩ボタンは焼かれていないのでしょうか。
 
 薩摩ボタンが平佐窯で幕末から焼かれた、という可能性を考えますと、あまり薩摩焼らしくない、新しく見えるものに、わずかながら、その可能性があるんじゃないだろうか、と考えるようになりました。
 実は、三彩ではなく、白薩摩に似た感じの輸出品の平佐焼は、普通にイメージする白薩摩よりも、有田焼に近い磁器なんです。つまり、白薩摩の地は卵色、というのですか、薄くクリームがかっていて、貫入が入っているのですが、平佐焼は真っ白なんです。しかし、京薩摩にも真っ白なものはあるようですし、卵色の貫入入り薩摩ボタンは、むしろSATUMAの名が欧州にひびきわたったウィーン万博以降の傾向、と考えてもいいんじゃないんでしょうか。
 もしも、平佐窯薩摩ボタンがあるとするなら、真っ白に、モンブランの指導でモダンな絵が描かれたものだったりして、などと、妄想しています。

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モンブラン伯爵Wiki記事誕生記念プレゼント企画!

2008年12月06日 | モンブラン伯爵
 薩摩旅行の最中に、なんと、Wikiにモンブラン伯爵の記事が立ち上がりました!!! 書きたい、という気はあったのですが、Wikiともなれば、楽しい推測、といいますか、妄想は書けませんし、とってもめんどうなので、敬遠していたんです。ありがとうございました、トホホ川さま。えーと、さっそく、私も執筆に参加させていただきました。
 いや、もう、ほんとうに立ち上げはめんどうで、実は、ミットフォードの記事を立ち上げようと、下書きをしかけているのですが、半分ほどで長いこと放ってます。

 今回の旅行、初日の指宿では、なによりも、モンブランが作りました薩摩伝承館所蔵の薩摩琉球国勲章が、見たかったんです。



 この薩摩伝承館は、維新資料も少々は置いてあるのですが、それより陶磁器のコレクションがすごくて、中国陶磁器の超一級骨董品も多いのですが、ずらりと並ぶきらびやかな里帰りSATUMA、つまり、幕末明治の薩摩焼コレクションは圧巻です。
 で、ミュージアムグッズも、沈寿官氏が特別に焼いたという白薩摩の紅茶カップや、1922年のイギリス皇太子(後のエドワード8世、ウィンザー公)の来日記念に焼かれた白薩摩フリーカップの復元品とか、とても欲しかったのですが、ちょっと手が出ませんで、買いましたのはもちろんこれ、薩摩琉球国勲章の携帯ストラップです。



 組紐部分が、赤、青、黒の三色があります。三色とも買って、私は黒。青はいつもお世話になるfhさまへのお土産。そして、写真左端の赤をプレゼントしたいんです。モンブラン伯爵ファンの方に。どこかにおられませんか? モンブランを愛してやまない、という方! ぜひ、このページのコメント欄で、お申し出ください。伝承館と磯にしか置いていないという(本当かどうかは知りません)このストラップを、差し上げたいのです。愛の記念に(笑) 早い者勝ち、お一人だけですが、ぜひ!!!

 

 モンブラン伯爵は、指宿に滞在していた、という伝承があります。慶応3年の秋、長崎から薩摩に入ったものの、鹿児島ではモンブランに反感を持つ勢力があって、一時、五代友厚とともに、指宿の浜崎家にいたのだ、というのです。
 浜崎家は、海運と造船で、薩摩の繁栄をささえた豪商で、文久3年(1863)に死去した8代浜崎太平次は、海外交易にも乗り出していて、上の碑の場所が屋敷跡だったという話なので、モンブランが滞在したのもここであったはずです。



 太平次の像は、海岸沿いの公園にあります。もっとも、モンブランが浜崎家に滞在した、というのは、太平次の死後なのですけれども。
 実は、薩摩伝承館のSATUMAコレクションには、薩摩ボタンもありまして、さらには平佐焼の資料が手に入ったりもしたことから、薩摩ボタンはだれが考えたのか???の続きが書けそうなんです。
 慶応3年の秋、モンブラン伯爵が平佐窯を訪れて指導していたことは、ほぼ確実でして、指宿にモンブランが滞在したにしても、どうも、それほど長い期間ではなさそうなのです。
 次回(できれば明日)、ちょっと旅の写真シリーズを離れまして、平佐窯とモンブランについて書きたいと思っています。

 で、なんの関係もありませんが、最後に、お土産に買いました薩摩切子のグッズを。



 リングホルダーは、切子ではないので安いのですが、薩摩切子工房の手作りです。これと、真ん中の藍のキーホールダーは自分用。左右のキーホールダーは妹たちへのお土産です。
 母のために買った花瓶は、本格的な切子で、とてもきれいなのですが、品切れ予約注文のため、届くのは三ヶ月先で、残念ながらお見せできません。

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薩摩ボタンはだれが考えたのか???

2008年11月14日 | モンブラン伯爵
 またまたまたまた、脱線します。
 実は、近々、大先輩のお誘いで、鹿児島へ、桐野利秋のお墓参りに出かけます。
 で、指宿にも行きますので、モンブラン伯爵が作った薩摩琉球国勲章を所蔵する薩摩伝承館を訪れようと、サイトを見ておりました。
 ここのミュージアムショップに、「薩摩ボタン」というグッズがありまして、薩摩焼なのは一目でわかりますが、うかつにもなににつかうものか知らずに???となって、検索をかけてみました。

薩摩ボタン オフィシャルウェッブサイト

 なんと、洋服につける、あのボタンだったんですね。薩摩伝承館のショップに置いているのは、下の方の作品のようですが。

薩摩志史-薩摩ボタンからSATUMAまで

 で、その起源については、大方、「薩摩藩が討幕の軍資金を作り出すために」、つまるところ、「幕末から御用窯で」ボタンを作って海外に輸出した、とされています。
 うー、一個一個の手作りボタンで軍資金がかせげるほど、海外交易も甘いものではなかったろうに、という気がしまして、伝説の域を出ない話のようにも思います。
 実際、ウェッブで輸入アンティーク雑貨ショップや海外のオークションサイトを見る限りにおいては、現在手に入るアンティーク薩摩ボタンは、ほとんどが20世紀に入ってのもののようなんです。とはいえ、これも当然、時代がさかのぼればさかのぼるほど貴重なのでしょうし、幕末のものは、あってもなかなか出てこない、とは考えられますし、幕末から作られていた可能性も、もちろん、ないわけではないでしょう。
 

アンティークボタンの世界
萩塚 治子(エテルニテアンティーク主宰)署
柏書店松原

このアイテムの詳細を見る


 上の本には、6ページにわたって薩摩ボタンが紹介されていますが、確かに「19世紀後半」といわれるものは、絵付けが非常に丁寧で、黒と金のふちどりなど、薩摩で焼かれた初期SATUMAっぽい雰囲気がうかがえます。とはいえ、なにしろボタンですから、銘が入れてあるわけでもなく、幕末から作られていた確証はなさそうなのです。
 どうもこれは、薩摩焼全体について調べてみる必要がありそうだと、下の本を読んでみました。


世界に翔けた幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼―薩摩焼発祥400年記念出版

 なんとも無知な話なのですが、私、本来の薩摩焼と、海外輸出されたSATUMAについては、わけて考える必要があることを、よくは存じませんでした。
 京薩摩、などといった言葉は、聞いたことがあり、明治になって、海外輸出用に京都でも、薩摩焼の意匠をまねたものが作られた、というような話は、ぼんやりと知ってはいたのですが、京都SATUMAだけではなく、大阪SATUMA、神戸SATUMA、名古屋SATUMA、金沢SATUMA、東京SATUMA、横浜SATUMAなどなど、薩摩焼の意匠をとり入れてSATUMAの名で海外輸出した窯が、明治以降、全国各地にあったとは、ちょっとびっくりしました。
 こうなってきますと、明治以降の薩摩ボタンなぞ、あるいは横浜や神戸で作られていた可能性の方が高いのではないか、という気がしたりするのですが、どこかに、薩摩ボタンの歴史を詳しく調べた方は、おられないものなのでしょうか。

 なにはともあれ、上記の本から、SATUMAの起源、つまり薩摩焼が海外輸出されるようになった状況について、簡単にまとめてみます。
 私が漠然と、以前にどこかで読んだ話では、です。薩摩焼の海外輸出を考えたのは、島津斉彬で、安政2年(1855年)、磯窯(御庭焼といわれる御用窯)に、苗代川(朝鮮陶工たちの郷士村)から朴正官を招いて指導させ、西洋顔料も導入された、という話だったんですが、この窯は、文久3年(1863年)の薩英戦争で破壊されてしまいますし、なにしろ御庭焼で、いわば超高級品ですから、果たして実際に輸出されていたのかどうか、疑問のようです。といいますか、もし輸出されていたにしても、ごくわずか、見本品程度だったんじゃないんでしょうか。

 SATUMAの名がヨーロッパに知れわたったのは、どうも、慶応3年(1867年)のパリ万博において、つまりモンブラン伯爵がプロデュースして、薩摩琉球国名義で幕府に喧嘩を売ったパリ万博、ですが、朴正官作の白薩摩錦手花瓶を出品して、好評を博してからのようです。
 明治6年(1873年)のウィーン万博は、すでに廃藩置県の後で、薩摩にも民営窯ができていました。苗代川、沈壽官の玉光山窯です。ここからウィーンに出品された白薩摩錦手花瓶が、またも大好評で、SATUMAの名は決定的になり、各地で、白薩摩錦手の趣向が大々的に取り入れられるようになったのは、このころからのようです。

 で、慶応年間から明治4、5年ころまでの初期のSATUMA、もしも「討幕の軍資金作りに薩摩ボタンを輸出」という伝説に可能性を見るなら、この時期のはずなのですが、どうも、この時期に輸出品を作った可能性の高い薩摩焼の窯は、磯でも苗代川でもなく、主に川内の平佐城主・北郷久信が力を入れた平佐窯、であるようなのです。
 なんと、町田清蔵くんの養子先!!!じゃないですか。
 しかも、その平佐窯に、「慶応2年(1866年)、フランスの貿易商コント・デ・モンブランが来航した」という語り伝えがあるそうなのです。慶応2年はちょっとありえないのですが、翌慶応3年、あるいは翌々明治元年から2年にかけてならば、あっておかしくない話です。

 川内港は、東シナ海に面した薩摩北部にあり、その港からおよそ14キロ上流の平佐窯が、長崎からの輸出を意識して、大きくてこ入れされたのは、慶応元年(1865年)のことです。伝統ある長崎(大村藩)長与窯から陶工を招き、特殊な顔料を使って、三彩なども焼くようになったようです。窯の跡は残っているのですが、薩摩藩の改革、廃藩置県と続いた維新後の激動で、早くに廃止され、しかも北郷家の資料は、大正8年の火災ですべて焼け失せたそうでして、どんな陶器を輸出したのか、詳しくはわかっていないのです。

 しかし、慶応元年に輸出を志した薩摩の窯が、パリ万博に関係していないはずは、ないはずです。
 町田兄弟の末弟、町田清蔵くんについては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1vol2で、後年の回顧談を詳しく紹介しております。
 ただ、この回顧談、はるか後年のものの上に、町田清蔵くんとパリス中尉でも書きましたが、帰国後のことはつけ足しであったらしく、年月日をそのまま受け取りますと、慶応2年に帰国して、戊辰戦争がはじまるまで、一回も薩摩に帰らないで長崎で過ごした、という、なんとなく変なことになってくるのです。
 で、私、先に書きました巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2の最後では、勘違いしてしまい、維新前に薩摩に帰ったことにしてしまっております。

 清蔵くんは、渡欧以前から、北郷家に養子に入ることが決まっていたようでして、慶応2年の秋には、パリから長崎へ帰っていたことは、確かなことです。
 だとすれば、翌年のパリ万博をめざして、どういうものがヨーロッパで売れそうなのか、北郷久信が、養子になる約束の清蔵くんを平佐窯に招いて、聞いたりすることは、十分にあるんじゃないでしょうか。あるいは、陶工を長崎にやって、清蔵くんの話を聞かせる、ということも、ありえるでしょう。
 薩摩ボタンを思いついたのは、町田清蔵くんではないだろうかと、ふと、思ったりするのです。もちろん、パリ万博がすんで後に、清蔵くんが、モンブラン伯爵を平佐窯に案内したということは、かなりの確立でありそうなことですし、モンブラン伯爵が薩摩ボタンを思いついたという線もありかなあ、とも想像します。
 いずれにせよ、平佐窯が得意とした三彩は、フランスの植民地だったベトナムの港が中継貿易港で、つまりフランス人は、三彩を好んだらしいのです。モンブランが清蔵くんに連れられて、平佐窯を訪れ、輸出に手を貸したことは、かなり可能性の高いことのようです。

 薩摩ボタンの歴史について、詳しくご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。

 続きモンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???


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続編 モンブラン伯爵の薩摩平佐焼き輸出指導◇続薩摩ボタンはだれが考えたのか???
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モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟

2008年02月21日 | モンブラン伯爵
えー、別のものを書きかけていたのですが、いつものfhさまが「木戸孝允日記」を調べてくださいまして、おもしろかったので、予定を変えました。

 鳥羽伏見の戦い直後、生まれたばかりの新政府の外交顧問として、フランスのロッシュ公使懐柔に活躍しましたモンブラン伯爵は、慶応4年(明治元年)2月10日(旧暦です)、パリ駐在日本総領事に任じられます。
 幕府がフリューリ・エラールを任じていましたので、それに代えて、ということです。
 モンブランは、公使になりたかったようで、とりあえず欧州どころではなかった新政府は、別に公使に任じてもよかったようなのですが、フランス人が日本を代表する公使となることを、フランス側が認めなかったといいます。

 モンブラン伯爵が、薩摩の前田正名(20歳)を秘書役として伴い、離日しましたのは、翌明治2年11月24日です。
 で、これまでも何度か書いてまいりましたように、正名くんがモンブランと渡仏しましたのは、わりに知られた話であったわけです。
 ところが、宮永孝氏の「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(CiNNiで読めます)によりますと、1869年12月30日付「ザ・ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メイル」紙のラブールドネ号乗客名簿には、Ch. de Montblanc(シャルル・ド・モンブラン)の名前と共に、以下のマルセーユ行き日本人の名が。

 Mihori Koszke  Maheda  Kohan

 Mahedaはまちがいなく前田正名です。
 Kohanがだれなのかは、さっぱりわかりません。
 いや、私は妄想たくましく、モンブランが伴った女かも、と思ったりします。

追記
 宮永孝氏の論文では、Maheda(マエダ)とKohanを行替えして書いておられたので、別人だと思いこんだのですが、fhさまのご指摘で、Kohanは弘安ではないかと。前田正名の家は医者で、弘安という名をもっています。
 原文がどうなっているのかわからないのですが、続いているなら、ご指摘ごもっともです。

 で、驚いたのはMihori Koszkeです。御堀耕助(大田市之進)じゃありませんか!

 乃木希典の従兄弟です。以下、「明治維新人名辞典」(日本歴史学会編)より、まとめてみました。

 天保12年(1841)生まれです。桐野より三つ年下ですね。しかしこの渡欧のとき、数えでは30歳ですか。
 18歳のとき江戸に出て、斉藤弥九朗に剣を学び、塾長になったそうで、木戸孝允の後輩です。
 長州へ帰国後、世子の小姓になり、40石。中級藩士です。
 文久3年、8.18クーデターにより、大和の天誅組が瓦解するんですが、担がれていた中山忠光卿は逃亡に成功し、長州へ逃れます。(続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)
 そのとき、大阪の長州藩邸に忠光卿を迎え、長州まで共をして無事逃れさせたのが、御堀です。
 禁門の変では、大垣藩兵と果敢に戦い、部分的勝利。
 帰国後は四国連合艦隊との戦いに参加し、和議がなって後、山田市之丞、品川弥二郎たちとともに御盾隊を編成して、総督となります。
 幕長戦争では、芸州口で活躍し、参政(長州藩)となります。
 参政となったためなのか、体を悪くしていたからなのか、戊辰戦争では戦っていないようです。

 で、fhさまのご厚意による木戸孝允の日記から、御堀さん渡欧の経緯を追います。

明治2年4月19日条
(略)夜半井上聞多山県狂介より書翰来る狂介弥西洋行に決し御堀耕助亦西洋に至ると云(略)

 この日夜になって、京都にいた木戸さんは、井上聞多と山県狂介から手紙をもらってます。
 内容は、山県と御堀耕助が洋行することになったと。
 
明治2年10月7日条
(略)御堀は香港に至得病不得止帰国不日再行の論あり(略)

 御堀耕助は香港まで行ったけれども、病気になって帰国した。もう一度渡欧させたら、という話があったと。
 おそらくは山県といっしょに渡欧しかかったんですけど、途中で病気になって、引き返したんすね。

明治2年10月17日条
(略)十字大久保を訪ひ談論数時二字頃相去る上国への書状を認大久保へは御堀西洋行の事件に付余屡談于彼(略)

 木戸さん、大久保さあに、御堀の洋行を頼んだんですね。
 えーと、そうなれば当然、大久保さあがモンブラン伯爵に御堀の同行を頼んだことになりますが、fhさまによれば、大久保日記には、なあーんにも、まったく、書いてないんだそうです。

明治2年11月6日条
今日御堀別杯の約あり築地より舟を泛へ芳梅と深川平清楼に至る(略)
亦築地に至り一泊す今宵御堀を送るの一巻を認む余長風万里の四大字を題す又其巻中へ戯に口に任せて
欧羅巴洲何物ぞ我只朝寝をしたり睡足今将起少女と小児たもとヽすそにからむ嗚呼
此出たらめを認めり酔中の一興なり(略)

御堀さんとのお別れに、築地から舟で料亭をはしごした、と。
その夜は築地に泊まります。おそらく、築地ホテルですね。
もしかすると、たしか、築地ホテルにはモンブラン伯爵がいたはずです。
御堀さんへ送別の巻物を贈ろうと、えー、どうもみんなでお別れの寄せ書きなんかしたみたいなんですが、木戸さんが、その寄せ書きに、「長風万里」と題を書いたんですね。
 長州の風が万里を渡る、でいいんでしょうか。すみません。笑えます。
 で、その巻物の中には、酔いの戯れにこう書きました。
「ヨーロッパなんぞどれほどのもんだい! ぼくなんか朝寝をして寝足り、いま起きたとこだけど、少女と子供がたもとと裾にからんじゃってさあ」
 あら、「三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい」を意識したみたいな戯れ言ですね。
 三千世界の鴉を殺しでは、長州志士作という仮託だろう、と書いたんですが、そういう仮託は幕末からあったのか、あるいは長州志士が好んで歌ったか、あるいはほんとうにその中のだれかが作ったか、かもしれないですね。
 「やっと三千世界の鴉を殺して朝寝ができたのに、起きてみたら少女や子供がまつわりついてきてさあ、やってられないぜ。その苦労にくらべれば、ヨーロッパへ行くことなんぞ、どれほどのもんだい! がんばれ!」
 ああ、ねえ。ほんとうに木戸さんは、老婆のような。洋行のはなむけに、なにもグチらなくても(笑)
 私以前から、明治維新以降の木戸さんは「青筋たてて一人で苦労しているようなふりをしているお方」と思ってまして。
 で、「少女と子供」って、だれ、あるいはなに、のことなんすかねえ?

 fhさまによれば、老婆のような木戸さんは、11月8日から18日まで横浜に滞在しまして、御堀耕助は、12日に横浜入り。
 木戸さんは連日、御堀耕助に会っているんだそうです。
 そして話はとびまして、翌年。

明治3年8月3日条
伊藤両井上等来訪御堀山県西洋より帰り山県来り泊す彼地の近情を聞(略)

 ヨーロッパから帰ってきた御堀と山県の話を、伊藤博文や井上聞多とともに聞いた、ですね。
 どうやら二人は、普仏戦争が始まる前に、ヨーロッパを発ったようですね。
 大久保日記によれば、西郷従道も、8月2日に大久保に帰朝の挨拶をしているそうです。

明治3年9月14日条
(略)西郷真吾の此度欧洲より帰る其益甚多し余去年山県狂介御堀耕助等を欧洲行せしめんと周旋せし時西郷も亦同此行の事を謀今日不図彼我とも其益不少是又国家に関係せり(略)

 西郷真吾(従道)は、ぼくが山県と御堀をヨーロッパに行かせようとしたとき、いっしょにどうか、と勧めたんだけど、おかげでいい子になってるじゃん。これって、国家の利益だよ。
 って、とこですかね。
 よくこれ、木戸が「攘夷論」の山県、西郷を欧州に送り出して、西洋に目覚めさせた、とかいわれる話じゃないですかね。
 山県は知りませんが、西郷従道に関しては、ありえんですわ。
 ただ、兵制に関して言えば、大久保は海軍重視で陸軍はとりあえず志願兵制で小規模に、って論ですね。
 一方の長州は、陸軍重視で、徴兵制をめざしてます。
 どうも、このときの山県、西郷、御堀の渡欧は、長州藩がフランス兵制を採ったことと関係するみたいで、イギリスを重視してないようなんですね。
 薩摩藩は陸軍もイギリス兵制をとっていて、イギリス陸軍は志願制です。
 西郷従道も、美々しい大陸陸軍を見て、どうやら「長風」になびいたようですね。
 ああ、松島剛蔵が生きていたら! と、明治初年の兵制論争を見るたびに思うんです。
 松島剛蔵が無理なら、高杉晋作でも。(高杉晋作「宇宙の間に生く」と叫んで海軍に挫折参照)
 だいたい、日本は島国なんですから、とりあえず、予算のないときに、大陸陸軍を見習って、徴兵制で陸軍をふくらませて、莫大な金額をかけるって、どうなんでしょ。それよりもまず、海軍でしょう。

 まあ、それはそれとしまして、木戸さんの言っていることが薩長融和ならば、その通りだったかもしれません。
 帰国しました御堀耕助は、薩摩藩で療養したみたいです。
 このときには、すでにイギリス人医師ウィリスが薩摩藩に傭われ、鹿児島で病院を開いていましたから、病気の治療を受けたんでしょうね。
 しかし、そのかいもなく、翌明治4年5月、長州の三田尻に帰り着いてまもなく、病死します。

 幕末の動乱を戦いぬいて、モンブラン伯爵とともに欧州に渡り、死を目前にした日々を薩摩ですごし、故郷で死ぬ。
 御堀耕助へのレクイエムは、趣味で、これを。Sleeping Sun -Night wish(You Tube)


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