郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍と故国山川 vol8

2012年05月17日 | 伝説の金日成将軍

 伝説の金日成将軍と故国山川 vol7の続きです。

 実は、このシリーズの題名にあります「故国山川」と言いますのは、1937年(昭和12年)、ソビエト政府によりまして、突然、中央アジアへ強制移住させられました極東沿海州の高麗人(朝鮮人)20万人の望郷の歌なんです。
 シリーズを書きはじめます2年前、NHKの新シルクロード・激動の大地をゆく「第4集 荒野に響く声 祖国へ」を見ていましたら、高麗人のお年寄りが、耳なじみのあるメロディで、望郷の歌をうたっていまして、「あれ? これ、美しき天然だよね」と想ったら、やっぱりそうでした。

 調べてみましたら、2003年に熊本放送で「流転~追放の高麗人と日本のメロディー~」という作品が制作されていました。NHKはこれを元ネタに、取材したようだったんですね。できれば熊本放送のものが見たかったのですが、術が無く、それで、作品のもとになりました下の本を読んでみました。

追放の高麗人―天然の美と百年の記憶
姜 信子
石風社


 極東の国々の中で、西洋近代音楽を最初に本格的に取り入れましたのは、日本です。
 カテゴリー 明治音楽で、さんざん書いたように思うのですが、要するに、近代西洋のルールを丸呑みしまして、西洋とつきあうには、西洋音楽のリズムを国民に身につけさせることも必要なことでしたから、工夫をこらしまして、日本人の感覚になじみますように取り入れたわけです。

 当然なのですが、日本人の感覚になじむ、ということは、他の極東の人々にもなじみやすい、ということです。
 日本が併合し、教育に大きな影響を及ぼした、ということもありまして、日本の唱歌や軍歌は、歌詞が代わり、もとが日本の歌だとは知られないままに、現在でも、韓国や北朝鮮で歌われていますものが、けっこうあったりします。
 姜信子氏によりますと、戦前の半島にも満州にも、美しき天然(天然の美)のメロディにのせた望郷歌が、複数あったようなのですね。
 これにつきましては、後述します。

 美しき天然の作曲者は、田中穂積。安政2年、岩国藩士の家に生まれ、藩軍で鼓手を務めました。
 1873年(明治6年)海兵隊に志願し、軍楽隊に配属。

 1899年(明治32年)、佐世保海兵団に軍楽長として赴任し、1902年(明治35年)、海軍将校の子女のために佐世保女学校が開設されますと、音楽の嘱託教師となります。
 同年、女学生たちが愛唱するためにと、武島羽衣の詩にあわせて、日本で初めてのワルツ、ともいわれます美しき天然を、作曲しました。
 やがて、活動写真の伴奏、サーカスやチンドン屋のジンタとなって、日本全国にひろがったメロディです。

 美しき天然


 実は、以前、YouTubeに、沢田研二、ジュリーが歌います美しき天然(音楽劇act. シリーズ#10「むちゃくちゃでこじゃりまする」)があがっていまして、編曲が劇的ですばらしく、アコーディオンとヴァイオリンの伴奏がまたよく、艶があって、しみじみと胸にしみいる歌声で、歌詞こそちがいますが、金光瑞が歌っただろう故国山川を彷彿とさせるのはこれしかない、と思っていたのですが、なぜか現在、消えているんです。残念です。
 
 なぜ高麗人は、中央アジアにまで、このメロディを携えて行くほどに、なじんでいたのか。
 これは、私の憶測にすぎないのですが、日本のシベリア出兵がからんでいたのではないでしょうか。
 北海道大学のスラブ研究45号「ロシア極東の朝鮮人-ソビエト民族政策と強制移住-」岡奈津子著の「1. 1920年代のロシア極東における朝鮮人」に、以下のような記述があります。

 ロシア極東の米作は、いわゆるシベリア出兵のさいに進駐した日本軍の食糧として、米に対する需要が高まったことから発展した。

日本は朝鮮人の村々に親日組織をつくり富裕な朝鮮人をその会員としたほか、占領機関や水産業などで朝鮮人を積極的に雇用した。 また沿海州には、日本軍へ物資を納入するため、朝鮮からたくさんの業者が流れ込んで来た。

 岡奈津子氏は、肯定的な文脈で書かれているわけではないんですけれども、シベリア出兵で、沿海州の高麗人社会が、好景気に沸いたのは、動かせない事実でしょう。
 一方で、金光瑞たちが、パルチザン活動をくりひろげていたにしても、です。
 シベリアの米作も、北海道開拓で生まれました寒さに強い日本の品種を、朝鮮人商人が、シベリア出兵の需要を当て込んで苗を沿海州に持ち込み、本格的にはじまったようなものです。
 出兵の間、ウラジオストクには、日本兵向けの娯楽もさまざまに提供され、美しき天然も鳴り響き、当然のことなのですけれども、高麗人もそれを楽しんだでしょう。

アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫)
ニム ウェールズ,キム サン
岩波書店


 「アリランの歌」のキム・サン(張志楽)は、原注において、現在(1937年)の吳成崙に言及しています。

 「呉は満州の義勇軍の再編を手伝い、現在はそこの東北抗日連軍第二軍の政治委員の任にある。この連軍は三つの軍団があり、第二軍は七千人全員が朝鮮人で共産主義者の統制下にある。他の二つの軍団は中国人パルチザンで、朝鮮人民族主義者三千人が参加している。呉はまた広い大衆的基盤を有する祖国光復会中央委員のメンバーである。当地での仕事は現在たいへん成功しており、自分も大きな仕事をなし遂げた、と彼は書いてきた。私にも、できるだけ早く参加しに来てくれと言っている」

 うーん。
 キム・サンの英語の語りをニム・ウェールズが整理して書きとめ、それがまた、日本語に訳されているわけですから、事実関係に錯誤があるのは、当然と言えば、当然なのですけれども。
 「三つの軍団」がなにを表すのか、なんですが、伝説の金日成将軍と故国山川 vol5でご紹介しております、wikiの東北抗日聯軍をご覧ください。

 中国共産党の抗日パルチザン組織・東北抗日連軍には、最終的に、第一路軍、第二路軍、第三路軍の三軍がありました。
 ですけれども、第三路軍が再編成立しましたのは1939年のことでして、張志楽(キム・サン)の死後です。
 キム・サンが語った時点で、第一路軍の一軍、二軍があったことは確かですから、これに残りをひっくるめて三軍、だったのでしょうか。
 とすれば、吳成崙は第一路軍第二軍の政治委員でしたので、そこまではいいのですけれども、以前にも書きましたが、7000人は、あまりにも誇大です。二軍だけでしたら、多く見積もって3000人、日本側資料では700人あまり、といったところです。

 それでも、この記述がありがたいのは、在満韓人祖国光復会を、吳成崙が誇っていたとわかりますことです。
 そして、金成柱(金日成)の黒幕でありながら、吳成崙は、張志楽がそばにいてくれることを求めていたのだ、とも。
 ともかく。
 この1937年(昭和12年)、張志楽がニム・ウェールズに出会う直前に、第一路軍第二軍六師長・金成柱現場指揮、第二軍政治委員・吳成崙黒幕で、普天堡襲撃は、すでに起こっていたのですけれども、張志楽は、おそらく知らなかったでしょう。

 朝鮮半島内の普天堡が襲撃され、しかも追撃しました警察部隊から7人の犠牲者が出まして、朝鮮総督府も満州国も、血眼になります。
 もともと、東北抗日聯軍は、中国共産党の組織でしたけれども、資金が出ていたわけではありませんで、ソ連の援助も得られていません。
 馬賊のように、いわば税金を地元民から取り上げる形をとっていたのですが、うまくいっていたとは言い難く、日本人、朝鮮人、現地人の区別なく、強奪、身代金目的の誘拐など、暴力行為を常とし、匪賊と大差はありませんでした。

 そして、普天堡襲撃から間もなく、1937年(昭和12年)の秋、突然、沿海州の高麗人(朝鮮人)が、根こそぎ消えてしまいます。
 詳しくは、先にご紹介しました岡奈津子氏の論文「ロシア極東の朝鮮人-ソビエト民族政策と強制移住-」を見ていただきたいのですが、スターリンの大粛正の一環で、すでに1936年から、高麗人たちの主な指導者が、逮捕、投獄されるようになっていました。金光瑞も、その一人です。

 満州に住む朝鮮人たちには、沿海州に親戚もあったでしょうし、国境線の向こうで、根こそぎ同胞が消えてしまったのですから、これが、わからないはずはありません。
 なにしろ、とても日本人には考えられませんあまりの事態に、朝鮮、満州の国境警備隊の日本人が、茫然自失してしまったほどだったんです。

 崔庸健(吳成崙に同じく、広州蜂起に参加し、満州に派遣された中国共産党の朝鮮人)が参謀長になっていました第二路軍の受け持ち地域は、高麗人が多数住んでいました沿海州ポシェト地区と隣接し、国境線の見張りがきびしくなっていたとはいいますものの、出入りもあったわけですので、真っ先に知り、それはやがて、第一路軍にも伝わったと思われます。
 東北抗日連軍の朝鮮人メンバーにも、ソ連に対します不信感が、芽生えて当然だったのではないでしょうか。

 そして、1938年(昭和13年)6月、高麗人の強制移住を実行しましたソ連の極東内務人民委員部長官ゲンリフ・リュシコフが、国境線を越え満州国へ入り、日本へ亡命します。リュシコフは、スターリンの大粛清に当初からかかわっていまして、今度は、自分の身が危うくなっていたのです。
 このことにより、満州、朝鮮、ソ連(沿海州)の国境線は極度に緊張し、同年7月末、張鼓峰事件が起こります。
 また同年末、北満州に展開し、翌年には三路軍と呼ばれるようになりました東北人民革命軍第六軍五師が、満州軍に追われ、部隊ごとソ連領に入りましたが、ソ連は越境の罪で師長を逮捕し、全員を新疆省に送っています。
 なにしろソ連は、大粛清の最中でした。

 ひるがえって、満州国側です。
 張志楽の予想通り、盧溝橋事件によりまして、1937年(昭和12年)、日中戦争ははじまっていました。
 さらにはソ連との紛争をかかえ、抗日勢力の取り締まりは強化されます。網の目を細かく張ってゲリラ活動を封じ、治安を維持したのですが、その一つの手段としまして、投降者を処刑することなく、そのまま治安維持の警察部隊として採用しまして、賞金や職場を保障する帰順作戦をとりました。

 もともと東北抗日連軍は、満州国内に残りました馬賊などを吸収して大きくなった組織でしたから、警察隊となって命が助かり、衣食住が保証されますならば、それでよしとするメンバーも多かったわけです。
 部隊ごとなど、多人数の投降が相次ぎ、しかも投降したメンバーは、かつての仲間の行動パターンを把握しているわけですし、非常な活躍を見せ、第一路軍は壊滅状態に陥ります。

 1940年(昭和15年)2月23日、一路軍の総司令・楊靖宇(中国人)が投降を拒んで射殺され、この年の秋には、金成柱(北朝鮮の金日成)が、独自の判断で部下十数名を引き連れてソ連領に逃げ込みましたが、当初は、投獄されたといわれます。
 11月になりまして、二路軍の総司令・周保中(中国人)が、参謀長の崔庸健とともに、こちらはソ連側としっかり連絡をとった上でソ連入りし、金成柱の身分を保障しましたので、監禁は終わりました。

 吳成崙が投降しましたのは、翌1941年(昭和16年)の1月です。
 なぜソ連へ行かず、投降したのでしょうか。
 一つには、高麗人を根こそぎ強制移住させましたソ連への、不信感があったのだと思います。
 もう一つ、1938年の張志楽の粛正は、極秘に行われたことでしたけれども、吳成崙は、それを知り得たのではないのでしょうか。

 張志楽は、吳成崙と別れて北京へ行った後、二度も国民党政府の警察に逮捕され、二度とも、朝鮮人だと名乗って、日本領事館に引き渡され、朝鮮半島で裁きを受けました。
 国民党にかかると、裁判もなく殺されることがざらなものですから、張志楽は、例え拷問を受けようとも、確実に法のもとに置かれます日本統治下の故国へ帰ることを、望んだのです。
 拷問に耐えて、共産党員であることを認めませんでした張志楽は、それでは拘留の法的根拠が無くなりますから、二度とも、短期間で釈放されます。

 しかし、無法が常の中国では、これは信じられないことでして、張志楽は転向して日本のスパイになったかと疑われ、なかなか党籍が回復されませんでした。
 また、党内に張志楽を排斥する人物もいて、不遇をかこうようになりもしました。
 これは、中国共産党内でのことですので、満州にいたとはいえ、吳成崙にもある程度、聞こえていたはずです。だからこそ、おそらく、「満州へ来てくれ。いっしょにやろう」と手紙で誘っていたのでしょうし、張志楽の身辺情報には、気を配ってもいたでしょう。

 1938年、延安の張志楽は、「トロツキー分子・日本間諜」であることを理由に、処刑されました。
 処刑の責任者は康生。1933年からモスクワに滞在し、スターリンの大粛正に遭遇しまして、「反革命分子」の逮捕、拷問、処刑について、学びました。1937年に帰国し、さっそく、延安でスターリンのまねごとを始めたわけです。
 後の話になりますが、康生は毛沢東の片腕として文化大革命を推進。生涯を、大量粛清にささげたような人物でした。

 おそらく、なんですが、吳成崙は、張志楽の死が中国共産党の手によるものであることに、薄々気づいたのでは、なかったでしょうか。
 自分と張志楽が、命をかけて守ろうとした共産党が、理不尽に自分たち朝鮮人を虐げることしかしないのであれば。
 そして、満州国が田中大将狙撃犯であることを知りながら、自分を受け入れるというのであれば。
 
 ソ連から日本へ亡命しましたゲンリフ・リュシコフは、東京で記者会見をした後、文筆活動と共に、諜報活動の助言などを行っていましたが、軍事顧問となって、満州国入りもしました。
 あるいは吳成崙は、リュシコフの話も、聞いてみたかったのではないか、と、私は思うのです。

金正日は日本人だった
佐藤 守
講談社


 再び、この本です。
 佐藤守氏のご主張を、ごく簡単にまとめますと。
「金日成は偽物だった。北朝鮮で、金日成の片腕だった金策は、畑中理という黒龍会の日本人で、残置諜者としてわざと北朝鮮に残った。ソ連にいるとき、金日成の妻と不倫関係になり、金正日が生まれた。金策の任務は朝鮮半島の赤化阻止で、金策は金日成を傀儡にして、朝鮮戦争を始め、アメリカを誘い込んで、半島全体の赤化を防いだ。金王朝は日本の天皇制と江戸時代の封建制のまねをしたもので、北朝鮮の粛正は、金日成が偽物であることと、跡継ぎの金正日が日本人の血を引いていることを隠すためのもの。金策は日本の残置諜者だったのだから、日本人には、金王朝の三代世襲を助ける義務がある」

 キチガイの世迷い言にしてもひどすぎますっ!!!
 日本人にも失礼きわまりないですが、朝鮮人にも失礼きわまりない、でしょう。
 なんでここまで、北朝鮮の共産主義を擁護なさるんでしょうか。

 金策が、一度入ソしながら、1943年(昭和18年)まで満州で戦っていたのは、事実です。
 また確かに、東北抗日聯軍は、馬賊も吸収して大きくなったのですし、満州国側に情報をもたらすスパイももぐりこんでいましたから、その中には、入ソしたものもあったかもしれません。
 しかし、それは朝鮮人であったり、中国人であったり、でして、日本人がもぐりこむことは不可能でした。
 なにしろ東北抗日聯軍は、共産党の組織なんです。共産党の組織に粛正は日常茶飯事でして、日本人とわかれば粛正されます。

 そして金策は、第三路軍の政治委員でした正規の中国共産党員です。
 張志楽が党籍を回復しますことが難しかったように、朝鮮人が、正規の中国共産党員となりますのは、当時、とても難しいことだったんです。
 身元は、きっちり調べられています。
 その金策が、長く満州にいたことにつきましては、ソ連への不信があったでしょう。
 高麗人がすべて強制移住させられましたし、新疆省に流された仲間もいたのですし。

 で、金策が満州国に投降することなく、昭和18年にソ連に入ったのが、残置諜者???
 わけがわかりません。
 1941年(昭和16年)、日ソ中立条約が結ばれていたんです。
 当時、ソ連が勝手にそれを廃棄し、勝手に宣戦布告して攻めてこようとは、日本側では思ってもみていませんでした。
 まして、朝鮮半島にまで手を出して、傀儡政権まで作ることになろうとは、です。

 ソ連がどう動くのか、事前に情報をくれるスパイならば、日本軍も欲しかったでしょうけれども、そういう意味では、金策が入ソしたからって、日本人にとりましては、なんの役にも立っていないんです。
 日本の敗戦に乗じて、ソ連が参戦し、朝鮮半島の南北を、米ソで分けて占領することになろうとは、敗戦の2年前に、朝鮮総督府も満州国も、予想できようはずもないことでした。

 そして、北朝鮮が朝鮮戦争を引き起こしたのが、赤化防止のため?????
 理解不可能です。
 アメリカが介入しないと見て、金日成がソ連と中国に援助を乞いましたことは、はっきり史料で裏付けられることです。
 金日成が日本の傀儡だというのでしたら、なんであそこまで北朝鮮は反日で、日本人が奴隷のように差別されるのでしょう?
 日本国籍を持つ正真正銘の日本人が、自由に日本へ帰ることもできない国なんですよ?
 ひるがえって中国人は、北朝鮮の自国民より、はるかに優遇されていたりしますのに、ねえ。

 で、日本の残置諜者である金策が、わざと朝鮮戦争を引き起こして、対馬が韓国領土だと唱えた反日独裁者の李承晩に、半島全体を献上するつもりだった、ですって?????
 まったくもって、わけがわかりません。
 
 百歩ゆずって、金策が日本人で、金日成の妻との不倫関係で、金正日が生まれたのだとしましょう。
 だからなんなんでしょう?
 北朝鮮は、現代の日本どころか、大日本帝国とも似ても似つきません。
 ひねくれて、いびつな、スターリンの申し子国家です。

 日本は戦前から、立憲君主国で、男性のみですが、普通選挙を行っていた国なんです。
 日本列島に居住していましたら、半島出身者にも選挙権、被選挙権があったんです。
 中国共産党員だった張志楽でさえ、日本が法治国家であることを認めていたんです。

 北朝鮮のような無法な共産主義独裁王朝を、日本に似ているなんぞと、どういう狂った頭が考えることなのでしょうか。
 カーター・J.エッカート著の「日本帝国の申し子―高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945」という本がありまして、朴正煕氏が権力を握りましてからの韓国が、大日本帝国の申し子であったことには、私も納得がいきます。
 日本の陸軍師範学校に留学し、満州国軍の士官でした朴正煕氏は、李承晩時代には帰国できないでおられました李垠殿下と方子妃殿下を迎え、敬意をもって待遇したのですし、そういった朴正煕氏のやり方は、簒奪を否定する日本の伝統にもかなうものです。

 スターリンと毛沢東に習って粛正大好き。
 黒五類、紅五類といいます中国共産党の身分制度にそっくりでありながら、もっと細かな「出身成分」といいます身分制度を持ち、日本人は最低の被差別民。
 略奪、拉致を伝統として恥じず、それが得意だった血筋が王として居座り続ける変態国家。
 そんな北朝鮮の、どこが日本に似ているというのでしょうか?
 日本に対して失礼ですし、李王朝といいます独自の王朝文化を持っていました、もともとの朝鮮に対しても失礼です。

 そして、朝鮮独立のために身をささげながら、信じたものに裏切られて果てました、闘士たちの魂にも。

 高麗人が、追放されました中央アジアで、美しき天然のメロディに乗せて歌いました「故国山川」。
 「追放の高麗人―天然の美と百年の記憶」より、姜信子の訳詞の引用です。

 故国山川を離れ 数千里 他郷へ
 山も川も見慣れぬ 他郷へ
 寂しい心が向かうのは故郷だけ 
 ただ思い描くは 懐かしいあの人 友よ


 戦前の朝鮮半島、1921年(大正10年)には、「望郷歌」として歌われたそうです。

 東山に月がのぼり窓を照らす
 いつの間にか落ちていた深い眠りが不意に破られ
 あたりをじっと見わたせば
 夢に見た故郷は もう消えて跡形もない


 満州の独立軍で歌われた「思郷曲」には、「望郷歌」とはちがう第二節があるのだそうです。

 見知らぬ異国の地の寂しい旅人
 月光照らす夜となれば 震えるほどに寂しさがつのる
 この春にも花を咲かせたことだろう 赤いつつじ
 なつかしい故郷 夢にも忘れはしない


 金光瑞が歌い、そして呉成崙が、張志楽が、歌ったのでしょうか、この歌を。
 「故国山川」があれば、一番いいのですが、見つけることができませんで、これを。


月の砂漠 白竜



 今度こそ、幕末に、といいますか、前田正名に帰る予定です。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol7

2012年05月14日 | 伝説の金日成将軍
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol6の続きです。

 数日前、母が目の手術をしまして、たいした手術ではなかったのですが、全身麻酔だったこともあり、泊まり込みで母の入院につきあいました。その間、「アリランの歌」を読み返していました。

アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫)
ニム ウェールズ,キム サン
岩波書店


 ニム・ウェールズは、張志楽と出会う以前に、中国を舞台にしました長編小説「大地」の著者・パール・バックと知り合い、感銘を受けていました。自身、詩を作ったりもしていまして、非常に筆の立つ女性です。

 「アリランの歌」の冒頭、ニム・ウェールズの宿泊所にキム・サン(張志楽)が姿を現して、物語が幕を開けるのですが、ドアがわりの青いカーテンを手でまきあげ、際だって背の高い男性が、逆光の中に姿を現します。障子窓の外は、雨です。
 臨場感あふれる描写に引き込まれて、おそらくは、ニム・ウェールズの想像力による部分も多々あるのでしょうけれども、読み終わったとき、歴史の狭間に消えていってしまいましたキム・サンという人物が、とても愛おしくなってまいります。そして、そのキム・サンが、「一番の親友」という呉成崙も、また。

 それはもちろん、ニム・ウェールズの筆の力によるものなのですけれども、キム・サン、張志楽の語りがすばらしくなければ、ニム・ウェールズの心がゆさぶられることはなく、この本は生まれなかったでしょう。
 私、これまで仕事で、インタビュー記事をけっこう書いてまいりました。めったにないことなのですが、語りがすばらしければ、もう、それをただ忠実に筆記しますだけで、名文になります。

 『坂の上の雲』と脱イデオロギーに書いておりますが、司馬遼太郎氏のお話をうかがった故・石浜典夫氏が、そういう語り手でおられまして、おっしゃることをそのまま筆記しただけなのですが、私は、自分が過去に書きましたインタビュー記事の中で、満足がいきましたのは、このときのもののみです。
 石浜氏は元新聞記者、それも司馬氏の弟子でおられましたが、張志楽も、自らが小説や詩を書く人でした。

 ではなぜ、張志楽は、自分が書こうとしなかったのか。
 それは一つには、英語で書かれることによりまして、朝鮮独立を望んでいる自分たちのことがもっと世界に知られることを望んでいた、ということが大きいと思うのですが、もう一つ、「自分にはもう時間がない」と悟っていたのではなかったでしょうか。
 粛正されることがわかっていた、とわけではないでしょうけれども、肺結核でしたし、安静にできる暮らしではなく、戦いの中に身を置くことを望んでいたのですから、なにも書くことができないうちに自分の命は燃え尽きると覚悟して、彼は語ったのでしょう。

 1937年(昭和12年)、延安でニム・ウェールズが張志楽に会います直前に、盧溝橋事件が起こっておりました。
 張志楽は、これによって、日中間で本格的に戦争が起こるとにらんでいました。実際、起こったのですけれども。
 以下、「アリランの歌」の「まえがき」より、張志楽の言葉の引用です。

 「戦争状態にはいったら、私はすぐ朝鮮人パルチザンを連れて満州にはいり、日本人と戦うつもりです。一番の親友が現在満州の第一軍の師団長をしていて、いっしょにやろうとたびたび手紙をくれます。この師団は朝鮮人七千人で編成されているんです」

 「第一軍の師団長」という言い方はおかしいですし、東北抗日聯軍第一路軍は、中国人も含めた数で、中共側資料(『中共延辺党組織活動年代記』『東北抗日聯軍闘争史』など)から6000人あまり、日本側資料(『満州共産匪の研究』)では1630人ほどです。
 吳成崙(全光)は第一路軍の政治主任なんですが、朝鮮人の数が多く、金成柱(北朝鮮の金日成)もいた、第一路軍第二軍の方の政治主任だったようです。

 しかし、張志楽がいう「一番の親友」は、まぎれもなく呉成崙です。
 張志楽は、この翌年、33歳の若すぎるその死の瞬間まで、満州の呉成崙のそばへ行くことを、願っていたにちがいありません。
 
 「まえがき」に続く「序章ーアリランの歌」からは、一人称のキム・サンの語りとして書かれています。
 
 朝鮮には受難の人々の真情からわき出た古い美しい民謡がある。深く心を打つ美が常に悲しいように、この歌も悲しい。朝鮮が永くそうであったように、この歌も悲劇的である。美しく悲劇的であるが故に、この三百年というものこの歌は全朝鮮人から愛されてきた。

 歌の意味は幾多の障害をのりこえた末にあるものはただ死ばかりであることを表わすもので、生のうたではなく、死のうたなのである。ただし、死は敗北ではない。多くの死から勝利は生まれよう。われわれの仲間がこの古い「アリランの歌」に新たな歌詞を書き加えるだろうが、最終の章はまだ書かれていない。われわれの多くは死に、さらに多くが「鴨緑江を渡って」逃げた。しかしわれわれの還る日は遠くはあるまい。

 男性が歌うアリランで、キム・サンが語る悲しみがこめられているものを、とさがしたのですが、韓国語のものでは見つかりませんで、白竜になりました。
 昔、乙女のころ、渋谷のライブ・ハウスで、生で聞いたことがあります。
 それに、この若いころの白竜は、呉成崙に似ていると思うんですよねえ。

 白竜 「アリランの唄」


 
 下は、昭和16年(1941年)、投降して一月ほど後、吉林討伐隊司令部における吳成崙です。満41歳になるはずですが、討伐隊側では39歳と思っていたようです。
 東アジア問題研究会編著、株式会社成甲書房発行「アルバム・謎の金日成〈増補〉ー写真で捉えたその正体ー」より、転載です。



 決して美形ではないんですけれども、とても個性的で、雰囲気が似ていませんか? 白竜に。
 「アリランの歌」を読みました後、この写真を見て、私はなにか、訴えかけられているように、感じずにはいられませんでした。
 百年近く昔、強い絆で結ばれていました二人の青年は、共に不本意な死を迎え、しかし魂は、「鴨緑江を渡って」故国へ帰ったのでしょうか?

 確かに、日本は敗れて、大陸から手を引きました。
 とはいえ、破れましたのはアメリカに、であって、ソ連にも中華民国にも敗れたわけではありませんし、朝鮮半島も自力で独立をもぎとったわけではありませんでした。
 二つに分かれました故国。わけても、共産主義の瘤妖怪、金成柱が金王朝を打ち立てました北朝鮮のその後に、二つの魂……、いえ、金光瑞もいますし、悲劇的に人生の幕を閉じた無数の闘士たちの魂は、果たして勝利の歌をうたえるのでしょうか?
 彼らにとって、最終の章はまだ書かれていないのだと、私には思えます。

 伝説の金日成将軍と故国山川 vol4のコメント欄に書いておりますが、かつて、T.K生という匿名で岩波の雑誌「世界」にコラムを持ち、北朝鮮を擁護しておられました韓国人の池明観氏が、実際に北朝鮮を訪問し、言っておられます。
「北の状況をひとことでいえば、1945年以前日本の統治下にいた時よりももっとひどい状況にあります。私は北に行って来て、北に対して何をどうすればいいのかわからなくなってしまった」

 池明観氏は、大正13年(1924年)、平安北道定州、現在の北朝鮮に生まれ、日本の統治を身をもってご存じです。
 その池氏が、そうおっしゃったのですから、故国の独立のため、非命に倒れた多くの魂が、安らぎを得ていようとは、私にはとても思えないのです。
 
 前回に書きましたが、張志楽は1905年(明治38年)、日露戦争の最中に生まれていまして、中国側の記録では平安北道龍川郡出身だそうです。
 家は貧しい農家でしたが、兄の一人が当時まだ珍しかった洋式の靴屋を開いていて、援助してくれたため、平壌の中学校へ通うことができました。
 1919年(大正8年)、三・一運動の後に、働きながら大学で学ぼうと東京へ渡ります。
 第一次世界大戦が終わった直後で、「当時の東京は極東全体の学生のメッカであり、多種多彩な革命家たちの避難所だった」のだそうです。

 1917年(大正6年)、第一次大戦の最中にロシア革命が起こりまして、反ボリシェヴィキ運動に民族運動が重なり、ロシアは内戦状態。1919年は、シベリア出兵の最中でした。
 しかし、当時の日本の大学生の間では、革命思想が大流行。社会科学、経済学関係の新しい雑誌も、次々に出版されていたのだそうです。
 張志楽は、クロポトキンのアナキズムに心惹かれ、「モスクワこそが新思想の根源」だと思い、1919年のうちに日本を去ります。

 したがいまして張志楽は、関東大震災を経験しておりませんで、当然、伝聞になるのですが、そしてもしかしますと、ニム・ウェールズの責任かもしれないのですが、この本の朝鮮人虐殺描写は、荒唐無稽です。地震で死んだ者が、すべて虐殺されたことになったとしましても誇大ですが、さらに大阪、名古屋でも虐殺が起こった、とされているにつきましては、目眩がしてまいります。
 この本が英語で書かれ、第二次大戦前にアメリカで読まれていたといいますのは、ちょっと考え込まされます。

 さて、一度朝鮮に帰った張志楽は、満州経由のソ連入りを試みますが、ロシア内戦のため列車が運行されていませんで、結局、南満州の新興武官学校へ入ります。
 そうです。新興武官学校は、金光瑞が、擎天と名乗って教官を務めた学校です。
 しかし、張志楽の入学は1920年(大正9年)のことでして、擎天がハルピン経由でシベリア入りしましたのと入れ違いとなり、擎天には教わっていないようです。

 新興武官学校の学習期間は三ヶ月で終わり、同年の冬に、張志楽は上海へ行きます。
 1920年当時の上海には、大韓民国臨時政府があり、朝鮮独立を目指す多くの活動家が集まっていました。
 その上海で、張志楽は、義烈団に属していましたアナキストにしてテロリスト、吳成崙に出会います。

 私が上海で吳成崙に会った頃、彼は三十歳前後、私はまだ十六歳だからその時は親しくならなかったが、数年後の広東では私の生涯を通して二人の親友のうちの一人となった。

 呉は非常に強い性格でおのずと人々の頭に立った。忠実に彼に従う者は多かったが、敵も多かった。私は彼に気に入られて特別の子分にしてもらい、一九二六年以後二人で組んで仕事をした。私たちの革命活動においては彼が黒幕を務め、私が表向きの指導者だった。
 呉は控え目のもの静かな人物で、あけっぴろげではなかった。彼の一生は秘密のうちに過ぎ、ともに何度も死に直面したことのある私でさえ彼の身の上のすべてを聞いてはいない。彼は言葉に信をおかず、ただ行動のみを信じた。容易に人を信用せず、長く知り合ったのちはじめて信用した。一旦決意すればめったなことでは変わらなかった。
 中背で、感じがいいがハンサムではない、モンゴル風に頬骨が高く、広い額には濃い髪がかぶさっている。健康そうでたくましい。美術と文学が好きで、故郷の村では教師をしていたことがあった。ロシアの虚無主義者と無政府主義者に影響を受け、一九一九年に義烈団に加わった。


 この「私たちの革命活動においては彼が黒幕を務め、私が表向きの指導者だった」といいますキム・サンの回想から、私は、東北抗日聯軍において、吳成崙は金成柱(北朝鮮の金日成)を金日成と名乗らせて表向きの顔とし、黒幕を務めたのではないか、と推測したんです。
 そうであってみれば、在満韓人祖国光復会の組織など、吳成崙の業績を盗んだにしましても、吳成崙は満州国に投降してしまった人ですし、金成柱にはまったくもって、後ろめたさはなかったんでしょうし、ね。

 若き日の金成柱には、それなりの魅力があっただろうことは、私にもわかるのですが、吳成崙もまた、とんでもない人物を選んで、表向きの顔にしてしまったものです。
 しかし、ひるがえって考えてみますと、張志楽のようにインテリで、繊細な感受性を持つ人物では、するりと危機をすりぬけることは難しい、ということが、呉成崙にはわかっていたのかもしれません。愛しながらも、ですが。
 東北抗日聯軍におきましては、教養が無く、神経が図太く、しかし要領が良く、機敏にたちまわることができた金成柱を表向きの顔にし、しかし、どうにも好きにはなれませんで、延安の張志楽に、「そばに来てくれ。いっしょに戦おう」と、たびたび手紙を書いた、ということなのでしょう。

 韓国映画に「アナーキスト」という義烈団を扱った作品がありますが、登場人物はすべて架空で、空想ドタバタ劇のようです。風俗でもそれらしくやってくれていたらいいのですが、現代的すぎまして、映像が平板で、ノスタルジックじゃないんですよねえ。

The Anarchist (2000) - ????? - Trailer


 吳成崙は、1900年(明治33年。1898、1899説もあります)、咸鏡北道に生まれ、幼い頃、家族とともに豆満江を渡り、和龍県(現在の吉林省和竜市)傑満洞、つまり間島、現在の延辺朝鮮族自治州に移り住みました。
 張志楽より五つ年上なだけでして、上海で知り合ったときに張志楽が16歳だったというのですから、吳成崙は21歳のはずですが、実際より10も年上に見られていますから、よほどふけて見える容姿だったのでしょう。

 独立運動のための武装テロ組織・義烈団は、1919年、吉林省におきまして、吳成崙より二つ年上の金元鳳(金若山)が中心となって立ち上げました。
 確証はないんですが、呉成崙もかなりはじめからメンバーに入っていたようでして、金元鳳は、金擎天が教官をしておりました時期の新興武官学校を出ました直後に、義烈団を結成しています。
 吳成崙は、もともと実家が吉林省にありますし、金元鳳とともに新興武官学校で学んでいて、金擎天に教わった可能性は、相当に高いと思います。

 1922年(大正11年)3月28日、吳成崙は上海黄浦灘で、陸軍大将・田中義一を狙撃します。
 「アリランの歌」の記述は、まず起こった年を1924年と2年まちがえていまして、さらに、以下の部分も、おかしなことになっています。

「田中は日本の領土拡張政策の主要な理論家であり、有名な田中書簡を書いた人物で、その反動的な征服計画は全中国人、朝鮮人および自由思想の日本人から甚しく憎悪されていた」

 補注にもあるのですが、「有名な田中書簡」とは、いわゆる「田中メモランダム(上奏文)」のことでして、今現在もアメリカには、これを信じる人々が存在するそうですが、学問的に、偽造文書であることがはっきりしています。

 しかし、ニム・ウェールズが話を聞き取り、この本を書きました時期には、他ならぬニムの夫エドガー・スノーがアメリカに紹介し、反日宣伝をくりひろげまして、多くのアメリカ人が本物と信じていたわけですから、ニムが田中メモランダムで有名な人物、と書くのは致し方がないのですけれども、いったい、ちゃんとメモランダムを読んで書いているんですかねえ。
 あるいは夫に、いいかげんに内容を聞いただけだったのかもしれません。
 これは、昭和2年(1927年)、田中義一が昭和天皇に上奏したという触れ込みの偽書でして、吳成崙の狙撃はその5年前ですから、狙撃の理由にはなりえないんですよね。

 吳成崙が田中義一を狙った理由は、田中がシベリア出兵のときの陸軍大臣であったことと、たまたま上海に姿を現したから、でしょう。
 どうも、ですね。
 このように、ニム・ウェールズが調べて書いた、と思われます部分には、相当にいいかげんな記述も多いのですが、具体的な吳成崙の行動につきましては、非常にコミカルになっていまして、あまりにおもしろく、これはこれで、どこまでほんとうなのかと、思わずにはいられません。

 田中が船をはなれた時、彼の前をアメリカの女が歩いていた。田中が八メートルほどのところに来ると呉が射った。アメリカの女は驚いてふりむき、田中に抱きついた。呉は確実に狙いを定めてそらさず射撃を続けたので、正確に女の体の同じ所に三発あたった。田中が倒れて死んだふりをしたので、呉成崙は成功したものと思って巧みに逃れた。

 無茶苦茶です。
 この「アメリカの女」はシュナイダー夫人だったと言われ、死亡という説と重傷だったという説と、あるのですが、いずれにせよ、田中義一は傷一つ負わなかったのですから、とんでもない失敗ですよねえ。

 呉成崙は逃げながら追って来る巡査何人かに傷を負わせバンドから漢口路まで来て自動車にとび乗り運転手をおどかしたが、車を動かすことを拒まれて呉は運転手を蹴り出してしまった。車の動かし方をよく知らなかったのだが、何とか道を通り抜けようとしてエドワード七世通りまで行ったところで他の車に衝突してしまい、イギリス人に逮捕された。フランス租界の住人だから、イギリス警察は呉成崙をフランス人に渡し、フランス人が日本領事に引き渡した。
 彼は領事館の三階の、扉と窓に鉄棒をはめた房に閉じこめられた。同室に五人の日本人がおり、一人は大工、一人はアナーキストで、呉に同情して逃亡を手伝ってくれた。
 日本人の娘が鋼鉄の小刀を届け、呉は大工に教わりながら扉の錠のまわりに穴をあけた。ある夜、彼とアナーキストとは扉を開け、真赤な囚人服を着たままで囲いのへいをのりこえて逃げた。他の日本人は短い刑でしかなかったから、企てには乗ってこなかった。
 呉がアメリカ人の仲間のところに行って三日間かくれていた間、イギリス、フランス、日本の警察は上海中の朝鮮人の家をとり囲み捜査していた。彼の写真はそこら中にばらまかれ、五万元の賞金がかけられた。


 少なくとも、吳成崙が逃げたことは、本当です。
 私、アジア歴史資料センターで、お間抜け領事館の電報文を見つけました。外務省外交史料館/外務省記録/レファレンスコードB03040762000です。

 〇二八五 暗 上海発本省著 大正十一年五月二日后二、四五 四、三〇 主、 内田外務大臣 船津総領事 第一一〇号 田中大将狙撃犯人二人ノ中呉世倫ハ厳重ナル監視ヲ為セルニ拘ラス手足ノ鎖鑰ヲ破リ更ニ監房ヲ破リテ本日午前二時項逃走セリ工部局警察ニ交渉シ各方面ニ亘リ極力捜査中ナリ 在支公使ヘ転電セリ 暗 大正十一年五月四日 大臣 在米大使宛 第二二七号 電送第三三六〇号暗 大正十一年五月四日前后六時〇分発 情報@舩津総領事ノ報告ニ依レハ田中大将狙撃犯人中逃走セル呉世倫ノ逮捕者ニ五百弗ノ懸賞金ヲ提供シ極力捜査中ナリ@ 六九八五 暗 上海発本省着 大正十一年五月三日后三、〇〇 三日后一〇、〇〇 主@、会、 内田外務大臣 船津総領事

 いまちょっと、手元になくて確かめられないのですけれども、「『アリランの歌』覚書―キム・サンとニム・ウェールズ」という本には、張志楽の小説「奇妙な武器」が収録されていまして、これは、このときの呉成崙の体験をもとに描いた短編です。確か、この電報の「手足ノ鎖鑰ヲ破リ」というような部分も、リアルに描かれていたように記憶しています。
 張志楽は詩も作ったそうなのですが、これにも吳成崙が題材のものがあって、ほんとうに張志楽は、吳成崙が好きだったんだと思います。

 「アリランの歌」によりますと、吳成崙は、広東に逃げ、パスポートを偽造してドイツへ行きました。
 嘘か本当かわかりませんが、「ベルリンではドイツ娘が彼に夢中になり、彼女の家族のもとで一年暮らした」そうでして、その後、ソ連領事館で手はずを整えてもらって、1925年(大正14年)にモスクワへ行き、共産党に入って、東方勤労者共産大学で学びました。
 翌1926年、吳成崙はウラジオストックから、再び上海に渡ります。

 このとき、ウラジオストックには金光瑞(擎天)がいて、朝鮮師範大学の日本語と軍事学の講師を務めていたはずです。前年、彼が妻子をウラジオストックに呼び寄せたことは、確かなのですし。
 とすれば、東方勤労者共産大学で学び、おそらくはかつて新興武官学校で金光瑞の教え子でした吳成崙は、金光瑞に会っただろう、と推測されます。
 これらのことを思い合わせまして、私、金日成伝説の流布には、吳成崙が一役買っていたのではないか、と思ったりするのですよね。

 一方の張志楽は、北京へ行って医学生となり、1925年まで在学します。北京で、吳成崙と並ぶもう一人の親友だという金忠昌(1898-1969)に出会います。その影響もあって、マルクスを本格的に学び、共産主義者となります。
 そして、 1926年(大正15年)の暮れ、広州におきまして、張志楽は吳成崙と再開し、生死をともにすることになります。

 なぜ広州か、ということなんですけれども、私、中国共産党の歴史は、まだちゃんと勉強しておりませんで、ちょっといいかげんな要約になるかもしれないんですけれども、とりあえず。
 1917年(大正6年)に起こりましたロシア革命の成功は、世界に衝撃を与えました。
 なにしろ、共産主義国家が、まがりなりにも現実に誕生したわけなのですから。
 1919年(大正8年)、そのロシア共産党が指導しまして、国際共産党組織コミンテルンがモスクワで発足します。

 1920年(大正10年)、シベリアにコミンテルン極東支局が誕生しまして、その指導の下、1921年には中国共産党が結成されます。日本共産党の成立の一年前のことです。
 生まれたばかりの中国共産党は、コミンテルンの指導のままに、1923年(大正12年)、北京の北洋軍閥政府に対抗しまして、孫文が率います国民党と第一次国共合作を遂げます。これによりまして広州には、ソビエト連邦の支援を受けました第三次広東政府が樹立されました。

  つまり、広州には、共産党員が入閣しました政府が成り立っていたわけでして、黄埔軍官学校もできましたし、共産党員となりました張志楽や吳成崙も、広州につどうことになったんです。
 「アリランの歌」より、キム・サンが語ります広州の日々の吳成崙です。

 呉は黄埔軍官学校の兵科でロシア語を教えた。また階級闘争や国際問題について論文を書き、ソ連邦について講話を行なった。詩がきらいで、それを時々書くからといって私を青二才扱いしたが、感情を表わさないだけで実は私同様悲しいものが好きだった。

 ところが、1925年(大正14年)、孫文が病死し、黄埔軍官学校の校長でした蒋介石が主導権を握り、やがて反共に転じます。
 各地で、共産党員が排除、逮捕される事件が相次ぎ、1927年(昭和2年)、第一次国共合作は終わりました。
 1927年8月1日、中国共産党は江西省南昌で蜂起しますが、失敗し、広東方面に向かって、海豊県、陸豊県に集結し、海陸豊ソビエト政権を作りました。

 張志楽と吳成崙は、この間、ずっと広州を動いていませんでしたが、コミンテルンの指令があり、1927年12月に起こされました広州蜂起に参加します。
 結局、この蜂起も失敗に終わり、張志楽と吳成崙は退去し、海陸豊ソビエトに逃げ込みました。
 張志楽がここで目撃しましたことは、農民たちが集団で、ろくな裁判もなく、にこにこと笑いながら、生きながらに、地主とその家族たちの両手を斬り、両目をえぐって、胴を切断する、といった、共産主義革命の残酷な実体です。

 私には、トルストイを愛する人道主義者だった張志楽が、なぜ、ここで共産主義に絶望しなかったのか理解できないのですが、衝撃を受けながらも、一生懸命、それはかつて地主が残酷だった反動だと、自分に言い聞かせていたようです。
 ともかく。
 すでにこのとき、海陸豊ソビエトは包囲されていたのですが、1928年5月まで、持ちこたえたと言います。

 張志楽と吳成崙は、戦闘に加わって転戦し、山中を逃走します。
 7月、サンパン船で香港に逃げようとしましたところ、待ち伏せにあって銃撃され、張志楽は、呉成崙とはぐれました。

 水からはい上がって蛇のように草にもぐり、村へ向かった。闇の中でつまずいて転んだように私の頭はからっぽで、狂気にとりつかれたようにただ呉は死んだか無事かとばかり問い続けていた。

 結局、張志楽は一人で香港へたどり着き、病が重くなったところを朝鮮人の商人に助けられて、上海へ行きます。

 或る日、ジャンクの帆柱が林立し、それぞれ重々しく旗をかかげた諸外国の砲艦が不気味に並ぶ黄浦港を眺めながら、あてどもなくフランス租界の海岸通りを歩いていた。ふと目を上げると、一つの顔が私の方に向かって来るのが幻覚のように見えた。まさか? 顔はだんだん大きく浮かび出て、夢の中にいるようにぼんやりと私の目の前に迫ってきた。なじみのある、荒れた手が私の手をつかみ、しわがれた二つの声が同時にささやきかけた。「死んだと思っていたよ!」。二つの体は同じ血と肉でできているかのように、次の言葉も出せずに、何分かはそのままくぎづけになっていた。やがてゆっくりと、涙が彼の顔を流れおちた。彼が泣く姿を見せたのははじめてだった。

 吳成崙でした。
 1929年(昭和4年)の春、張志楽は、共産主義活動のために北京へ移ります。
 呉成崙は体を壊していて、上海に残りますが、1930年(昭和5年)の秋、満州へ行きます。前回の伝説の金日成将軍と故国山川 vol6で、アジ歴の日本側資料をご紹介しておりますが、昭和5年の9月、吳成崙が満州で活動しておりますことは、確かです。

 再び、二人はめぐり会うことなく、それぞれの生を終えるのですけれども、キム・サンが語った吳成崙は、なんと魅力的なことでしょう。そして、ニム・ウェールズが、「アリランの歌」に二人の姿を書きとどめてくれましたのは、なんという僥倖でしょうか。

 もう少し、吳成崙を追いたいのですが、長くなりましたので、今度こそ、あと一度だけ、次回に続きます。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol6

2012年05月10日 | 伝説の金日成将軍
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol5の続きです。

 検索をかけていましたら、朝鮮日報日本語版の 「抗日武装闘争リーダー、金擎天将軍の肉筆日記出版」という記事を見つけました。今年の3月の記事ですね。記事が消えると怖いので、引用させてもらいます。

 抗日運動家の金擎天(キム・ギョンチョン)将軍(1888-1942)ほど、波乱に満ちた人生を送った人物も珍しい。
 金擎天将軍は、大韓帝国期に政府の留学生として、日本の陸軍士官学校を卒業し、日本陸軍の騎兵中尉を務めていた際、三・一運動で満州に亡命し、沿海州の独立軍司令官として活躍したが、ソ連でスパイ容疑に問われ、強制労働収容所で死亡した。「満州の金日成(キム・イルソン)将軍」を描く伝説の主人公としても知られる。

 そんな金擎天将軍の、1920年代前後の亡命と抗日闘争を記録した肉筆の回顧録と日記『擎天児日録』が1日、出版された。国を失った軍人の悲痛な思いと独立運動最前線の実情がつづられた告白録だ。

■伊藤博文暗殺に感激
「ある日、東京郊外で反撃演習をしていると、伊藤博文暗殺という号外が飛び交い、東京市が大騒ぎになった。衝撃を受けた。ああ、偉大だ。われわれにも大人物がいるのだな」(1909年10月)

 日本の陸軍幼年学校を卒業したばかりの、20歳の金擎天の感激に満ちた心内だった。金擎天は幼年学校でも日本人に甘く見られないよう心掛けた。
 「六百数十人の日本の学徒が、初めて弱小国の人間である自分が入学したことを奇異に感じている。私は輝く眼差しで彼らを見つめ、一言でもみだりに言葉を発さず、鼻で笑うばかりか、行動も平凡な人間ではないことを見せつけた」

 1910年12月末、日本軍の少尉として任官された直後には、自分の数奇な運命についてこうつづっている。
 「実に奇妙だ。私は光武帝(高宗)の時期には駐日大韓帝国留学生だったが、今は日本の将校になった。ああ、私の前途はこれほどまでに変化に満ちているのだろうか」

■「友が刀を抜けと勧める」
 金擎天は1919年1月、休暇で京城(現在のソウル)を訪れた際、三・一運動に遭遇した。
 「東大門の内側にある婦人病院前で青年団が万歳を叫び、看護婦全員が泣きながら万歳で応じた場面は、私の心をさらに憤らせた。青年会館にいるときも友人が私に刀を抜け、今はほかにすべがないから刀を抜けと何度も勧める」(19年3月1日)

 金擎天は中国亡命を決心する。当時、金擎天は31歳で、妻と娘3人がいた。金擎天とともに中国に亡命した陸軍士官学校の同窓生が、後に光復軍総司令官を務める池青天(1888-1957)だ。

 金擎天は当時、国際情勢を冷徹に見つめる知識人だった。
 「直接の独立は第2次世界大戦が起きなければ不可能だ。ゆえに、私の亡命は少し早いと言える。しかし、私はまだ若く、気概と勇気があるため、海外を数年漂流し、功を積み上げる必要があると考えた」
 金擎天は1920年代初め、沿海州で日本軍、中国の馬賊、ロシア白軍(反革命軍)と戦った。「白馬に乗った金将軍」というエピソードが生まれたのもこのころだ。1921年3月1日の日記では、進展がない独立運動を批判した。「あまりにも努力する者が少なく、虚名に酔いしれた者たちが多い。上海臨時政府に役職をもらいに行くのを見てもしかり、当事者が勢力争いをするのを見てもしかり」

■「軍隊全体がこじきのようだ」
 独立軍の生活は悲惨だった。「食料、衣服、費用は全て不足し、軍隊全部が本当にこじきのようだった」(1921年10月11日)
 1922年夏、金擎天が率いる独立軍を含め、ロシア領内の朝鮮人系武装勢力はソ連当局に武装解除された。抗日武装運動が挫折した後、金擎天は独立運動の一線を退き、沿海州の協同農場で歳月を過ごした。その後、朝鮮人が中央アジアに強制移住させられる直前の1936年秋に政治犯として逮捕され、2年半服役した。だが、釈放から1カ月後に再びスパイ罪で懲役8年の刑を受け、ソ連北部の強制労働収容所で1942年に死亡した。

 『擎天児日録』を整理した元高麗日報記者のキム・ビョンハク氏は「金擎天将軍が共産党に加入しないなど、ソ連式の共産主義に積極的に加わらなかったことが、迫害を受けた原因の一つとみられる」と述べた。『擎天児日録』は、崇実大韓国文芸研究所の学術資料叢書初巻として出版された。


 『擎天児日録』って、ハングルなんですかねえ。
 漢文だとなんとか読めるのでは、と思うのですが、どうすれば手に入れるのかも、問題です。場合によっては、wikiの書き換えが必要なこともあるかと思うのですけれども。
 なお朝鮮日報は、日本の統治時代からの伝統を誇ります韓国の保守紙でして、下手な日本の新聞よりよほど信用できますが、こと日本との歴史問題に関しますかぎり、おかしなことを書く場合も相当にありまして、金擎天(金光瑞)はシベリアで、日本軍と直接には戦っていません。

 それにいたしましても、朝鮮日報が言います通り、金光瑞の生涯は波乱に満ちて、私、ついのめりこんでしまったんですけれども、北朝鮮の金日成につきましては、実のところ、なんの興味もありませんでした。
 だって、スターリンのまねっこ乞食の恐怖統治のあげくに、あんな気色の悪い王朝を作りあげた瘤妖怪なんですよ?

 戦前、朝鮮半島に軍人として行っていた方が、小泉訪朝で金正日が拉致事件を認めた直後に、言っておられました。
 「やつら、昔満州でやりよったと同じことを、相変わらずやりよるんですよ。抗日といってもね、略奪で村を荒らし、人を拉致して、取れる場合は身代金を取り、仲間にできる者は下働きにしていただけですよ。金正日の父親の金日成は、そういう匪賊の親分でした」

 しかし、ですね。
 金光瑞に関連しまして、うんざりしながら北朝鮮の金日成(本名金成柱)を調べていますうちに、魅力的で、興味深い人物に行き着いたんです。
 満州で、金日成と同じ東北抗日聯軍(参照wiki-東北抗日聯軍)の部隊にいた、といいますか、東北抗日聯軍で金日成の上司だった吳成崙(全光)です。
 彼については、後述します。
 まずは、佐藤守氏がおっしゃいますところの「普天堡(ポチョンボ)の戦い(昭和12年・1937年)を指揮した本物の金日成将軍」から、話をはじめます。

金正日は日本人だった
佐藤 守
講談社


金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
李 命英
成甲書房


 李命英氏は「金日成は四人いた」の中で、北朝鮮の金日成とは世代がちがい、活躍時期もちがいます金光瑞と金一成を、伝説のモデルとして挙げた後、伝説の金日成将軍の名を踏襲しましたもう二人の金日成を、本物として描いているのですが、これは二人とも、北朝鮮の金日成が実際に所属しました東北抗日聯軍にいた、とされています。

 普天堡襲撃の指揮者が金日成no3、no3の死亡後、その後を継いだ金一星(キム・イルソンと読みます)がno4、北朝鮮の金日成は、このno4の部下だっただけで、ろくになにもしていないにもかかわらず、生き残って、no3、no4の事績のいいとこ取りをしたのだ、というわけです。

 李命英氏は、主に討伐する側だった日本軍関係者に話を聞いているのですけれども、日本の敗戦で、当地にあった日本側資料の多くは、中国、北朝鮮が押さえていますし、李命英氏が取材なさった当時、すでに関係者は高齢で、記憶が定かでありませんのは人の常です。

 先にno4の金一星なのですが、wiki-抗日パルチザンの「満州の抗日パルチザン/中国共産党に吸収されたパルチザン」の前半に以下のようにあります。

 1930年、コミンテルンの意向があり、満州の朝鮮共産党は、中国共産党に吸収されることとなる。中国共産党満州省委は、この方針に基づき「赤い五月」行動を指令した。朝鮮族の多い間島では、どれほど熱心にこの指令を実行するかで、朝鮮人の中国共産党入党の可否を決める、というような方針があり、間島五・三〇事件(間島暴動)が発生する。最初に行動を起こした部隊を率いていた人物の一人は、金一星(キム・イルソン)という龍井の大成中学生だった。

 李命英氏は、この金一星がno4だとしていたんですが、まずこれは、伝説の金日成将軍と故国山川 vol3でご紹介しました「北朝鮮王朝成立秘史」で、ソ連共産党の幹部だった許真氏が否定しておられます。
 いま、手元にこの本がありませんで、詳細は忘れたのですけれども、間島暴動の金一星は、東北抗日聯軍とは関係なく、北朝鮮の金日成が東北抗日聯軍で戦闘指揮者であったことは、事実とされています。許真氏は北朝鮮からソ連へ亡命された方で、けっして金日成を評価して書いているわけではありませんので、信憑性があります。

 
北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 (1982年)
林隠
自由社


 また、東北抗日聯軍は中国共産党の組織でして、朝鮮族を含む中国人には、北朝鮮の金日成と行動を共にしてソ連に入り、生き延びた人々もいたわけでして、こうした人々の証言により、李命英氏の描くno4は、そのまま北朝鮮の金日成その人だということは、あきらかになっている、といえるでしょう。

 ただ、日本軍関係者の話で留意すべきなのは、「複数の指揮者が金日成を名乗った」という証言です。
 北朝鮮の金日成にしましても、金日成(キム・イルソン)という名前は、伝説にあやかっての仮名でした。日本の敗戦後、北朝鮮に姿を現した当初の金日成は、金成柱(キム・ソンジュ)と本名を名乗っていたという証言もあります。

 したがいまして、金成柱(北朝鮮の金日成)は第一路軍・第二軍・第六師の師長でしたけれども、吳成崙が政治委員を務めました第一路軍・第二軍には、他にも複数、金日成を名乗る人物がいたのではないか、と私は思っています。
 といいますか、伝説の金日成将軍の名を利用しますこと自体、吳成崙のアイデアで、場合によっては、吳成崙自身も金日成を名乗ったこともあったのではなかったか、と。

 李命英氏が普天堡襲撃の指揮者である金日成no3を、北朝鮮の金日成と別人だとしておりました根拠は、まずは日本人関係者の証言と、当時の新聞記事などです。
 しかし、これにつきましては、和田春樹東大名誉教授が、朝鮮総督府が「本名金成柱当二十九年」と確定していることや、北朝鮮の金日成の実弟を特定し、母親もさがし出したりしておりますことから、別人説を否定しています。

 しかしこの普天堡襲撃、満州にいました東北抗日聯軍の第一路軍第二軍の第六師単独ではありませんで、朝鮮半島内の共産主義者の手引きがあって、襲撃に成功したものです。
 以下、wiki-東北抗日聯軍から引用です。

 一方、1936年、第一路軍の第二軍は、長白地区に根拠地を作ろうとしていた。第四師の師長・安鳳学が逮捕され投降、第二軍の軍長・王徳泰が包囲され戦死するなど、相当な犠牲を払いつつ、まずは金日成が師長を務める第六師が根拠地開拓に成功し、1937年には、一路軍の第一軍第二師と、第二軍の第四師も、長白へ根拠地を移しつつあった。
 もともと、1932年に東北人民革命軍を立ち上げたのは、中国共産党満州省委磐石県委だったが、その当初からの古参朝鮮人メンバーに、吳成崙(全光)、李相俊(李東光)がいた。吳成崙は第二軍の政治主任で、李相俊も第二軍にかかわっていたとみられるが、彼らは民生団事件の反省に基づき、、政治委員・魏拯民の支持を得て、朝鮮人の民族意識に訴えようと、在満韓人祖国光復会 を組織する方針を打ち出していたのである。長白への侵攻は、これに従ったもので、第六師は支持基盤の構築工作を開始し、その一環として、鴨緑江対岸の朝鮮半島内・咸鏡南道(現在は両江道)甲山郡を中心に活動していた朴金喆、朴達などの共産主義団体(のちの朝鮮労働党甲山派)と連絡をつけた。
 1937年6月、第六師は鴨緑江を渡り、甲山郡普天面保田里(旧名、普天堡)の襲撃に成功したが(普天堡の戦い)が、これは、甲山グループの手引き、参加によって成功したものである。


 この甲山グループの朴金喆、朴達など、金日成とともに普天堡を襲撃したはずのメンバーが、後に検挙されて取り調べを受け、日本の敗戦後まで生き残ったのですが、取り調べでも、また仲間への語り残しでも、「金日成は普天堡襲撃当時35、6歳くらいで、モスクワ共産党大学を出ている」というようなことを言っているんですね。
 李命英氏も佐藤守氏も、甲山グループの証言を重視して、別人説を唱えておられまして、一方、否定する側の和田春樹氏は、「捕まったパルチザンは偽情報を流すものだ」といいますような一般論で片づけておられるのですが、いま一つ、説得力がないんです。前述しましたように、朴金喆も朴達も、取り調べ側だけではなく、抗日同志にもそう語っていたといわれているから、なのですけれども。

 私、思いますに、要するに、ですね。
 朴金喆も朴達も、小さな村を襲撃しましたときの現場指揮者の若僧・金成柱が金日成将軍だとは思っておりませんで、自分たち甲山グループに働きかけてきましたモスクワ帰りの中国共産党の大物が金日成を名乗ったので、そちらが指導者だという認識だったのではなかったんでしょうか。
 普天堡襲撃の一年ほど前の日付で、「在満韓人祖国光復会宣言」という書類が残っておりまして、その発起委員は、吳成崙、嚴洙明、李相俊であり、金成柱(北朝鮮の金日成)の名前はないんです。

 吳成崙は1900年(明治33年)の生まれといわれますから、1912年(明治45年)生まれの金成柱より12歳年上で、この当時、満37歳。しかもモスクワで、東方勤労者共産大学(クートヴェ)に学んだ経歴がありました。
 つまりは、朴金喆や朴達が語り残しました普天堡の金日成将軍の条件に、ぴったりなのです。
 
 さらには、1930年(昭和5年)、金成柱は18歳の少年で、在南満州の朝鮮人民族派の抗日武装団(馬賊とあまり変わりませんが)朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派の一団に属していたのですが、中国共産党から派遣されて満州入りしました吳成崙が、李鐘洛の一団と密接に関係していたことが、日本側の探索資料に見えます。
 アジア歴史資料センターの外務省外交史料館/外務省記録【 レファレンスコード 】B04013183200(日本共産党関係雑件/朝鮮共産党関係 第八巻 1.昭和五年八月ヨリ九月マデ 分割3)より、以下引用です。

 昭和5年9月18日 在吉林 総領事 石射猪太郎
 外務大臣男爵 幣原喜重郎 殿

 鮮人共産党員ノ行動ニ関スル件
 首題ノ件ニ関シ当館ノ得タル情報御参考迄別紙ノ通リ報告申○ス
 本信写送付先 上海、北平、奉天、哈爾浜、間島、長春
        関東長官、朝鮮総督

 在満鮮人共産主義ML派幹部タリシ陳公木(張国三、本名李炳照)及呉成崙(曽テ田中大将狙撃犯人)等ハ既ニ中国共産党ニ加入シ中共党満州省委員会ノ重要地位ヲ占メ磐石県煙筒山ヲ根拠トシテ支鮮人共産党員数名ト共ニ絶エス吉林省域ニ出入シ他ノ同志ト共ニ策動シツツアルカ数日前当地ニ於テ右両名及李鐘洛一派ノ金根赫等密会シ速ニ赤軍特務隊ヲ組織シ吉ニ於ケル走狗機関破壊走狗輩ノ暗殺撲滅等ヲ決議シタル上呉成崙ハ去一六日朝吉海線ニテ奉天ニ向ケ出発(後略)


 朴金喆は北朝鮮で要職につき、1968年(昭和42年)に粛正されるまで、金日成(成柱)のそばで生きていましたから、当然、東北抗日聯軍において、呉成崙が金成柱の指導者であり、在満韓人祖国光復会を組織して、朝鮮側で自分たちをリクルートし、すべてをお膳立てした真の金日成将軍は、実は吳成崙であったのだと、わかっていたはずです。
 しかし、いっさい、彼らが呉成崙について語り残していないことには、理由があります。
 
吳成崙は、昭和16年(1941年)、満州国通化地区討伐隊(日本側)に投降し、満州国の治安部顧問になっているんです。日本の敗戦後、通化に入ってきた中国共産党に粛正された、といわれていましたが、一方、許されて一年ほどは生き延び、病死した、というような話もあるみたいです。

 そのためなのか、吳成崙は、北朝鮮はもちろん、現在の韓国でも人気がないようでして、ハングルサイトをさがしてみたのですが、あまり情報がありません。
 吳成崙は金光瑞とちがいまして、非常にくせのある人物で、テロリストでもあったのですが、波乱の人生といえば金光瑞以上です。
 北朝鮮の歴史書では、吳成崙が組織しました在満韓人祖国光復会が、金成柱が組織したことになっていたりしまして、あきらかに、北朝鮮の金日成(金成柱)は、吳成崙の業績を盗んでもいます。

 とはいえ、略歴のみで見ますかぎり、吳成崙は、それほど魅力的な人物ではないんですけれども、実は、このシリーズを書き始めましたとき、さまざまな関連書を読みました中で、私、「アリランの歌」を読んだんです。

 
アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫)
ニム ウェールズ,キム サン
岩波書店


 「アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯」の著者、ニム・ウェールズは、1907年(明治40年)生まれのアメリカ人女性で、本名はヘレン・フォスター・スノー。中国共産党を擁護宣伝しましたことで名高いアメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーの最初の妻で、自身もジャーナリストでした。
 夫とともに中国で活動し、普天堡襲撃が起こりました1937年(昭和12年)に中国共産党の本拠延安に取材に入り、朝鮮人革命家のキム・サン、本名張志楽に出会います。

 張志楽は1905年(明治38年)、日露戦争の最中に生まれた朝鮮人で、ニム・ウェールズより二つ年上。
 日本語、中国語をこなし、さらに英語も流ちょうに話しました張志楽とニム・ウェールズは意気投合し、張志楽が自分の人生を英語で語り、ニム・ウェールズが聞き取って文字に起こし、「アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯」が生まれました。
 張志楽は母国語で語ったわけではないですし、ニム・ウェールズの聞き取りには、当然、主観が入ったでしょう。
 あるいはまた、かならずしも事実ではない噂話も含まれていたりもしている様子ではあるのですけれども、二人の魂がふれあい、共鳴して生まれた本であることが、読む者に伝わってくる一冊です。

 ニム・ウェールズと別れて間もなく、33歳の若さで張志楽が粛正されてしまった悲劇を知れば、なおさらに、この二人の出会いは貴重です。
 そして張志楽は、この本におきまして、吳成崙こそが、一番の親友、生涯の友であると、語り残しているんです。

 えー、長くなりましたので、このシリーズ、もう一回、続きます。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol5

2012年05月07日 | 伝説の金日成将軍

 今回もう一度、幕末を離れます。
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol4の続きといえば続き、なんですが、このシリーズを書いておりました当時には、シベリアのロシア内戦におきますチェコ軍団の活躍を書き、金光瑞はそれを手本に朝鮮独立を達成しようと思ったのではないか、というところへ話をもっていくはずでした。

中欧の分裂と統合―マサリクとチェコスロヴァキア建国 (中公新書)
林 忠行
中央公論社


 上の本を主な参考書に、草稿の冒頭は書いていたのですが、面倒になりまして、さらにはハングルサイトの機械翻訳で、金光瑞の詳しい事績と子孫の行方が、現在の韓国では知られていて、建国勲章まで追敍されているとわかったものですから、wiki-金擎天を立ち上げることにしました。
 戸籍に載っています本名の金光瑞ではなく、金擎天で立ち上げましたのは、先にあった韓国語wikiがそうだったからです。

 このブログで書くよりは、wikiに書いた方が多くの方が読んでくださるわけですし、金光瑞の生涯について、韓国でははっきりと伝わっているにもかかわらず、日本語では間違えたままの情報しかない、という状況を、なんとかしたいと思ったような次第です。

 wikiに金擎天を書いた当時、ついでに金日成に関連しても、wikiの記事にいくつか訂正、加筆しました。
 私がほとんど書き換えたといっていいのは、東北抗日聯軍抗日パルチザンなんですが、金日成につきましても、経歴のうちの出生からソ連への退却と、最後の別人説に手を入れています。

 その別人説なのですが、最近、あまりにもひどい説を読みまして。
 トンデモなのですから放っておけばいいんですけれども、中途半端に事実を含み、いかにもありそうな雰囲気をかもし出しておいて、結論がありえないトンデモになっているのですが、それがまた、現代日本人の朝鮮半島への無知につけこみ、結果的に親北朝鮮、反米論調に傾きすぎまして、あげく「金王朝の三代世襲を、日本人には擁護する義務がある!!!」と訴えるにいたっては、「かつての左翼でもここまで脳天気ではなかったなあ。戦前右翼、戦後左翼に受け継がれたアジア主義のなれの果てにしてもひどすぎるよねえ」と、著者の頭の構造を疑わずにはいられません。

金正日は日本人だった
佐藤 守
講談社


 この本なんですけれども、著者の佐藤守氏は、元航空自衛隊空将というご経歴で、それが、どちらかといえば保守よりの陰謀論好き読者を捕らえ、説得してしまう大きな要因であるようなのですが、北朝鮮という国は、以前から、和田春樹東大名誉教授のような左巻きの学者さんだけではありませんで、保守よりの政治家にも食い込み、長い間、日本において、拉致事件をまるでなかったことのようにしてきた前歴がありまして、右だろうが左だろうが、油断がならないんですよねえ。

 佐藤守氏は、昭和14年(1939)樺太に生まれ、終戦の年に6歳。防衛大学校は7期でおられますから、教官には、旧軍関係者が多かったのではないんでしょうか。ご自身がブログに「中国空軍設立秘話」を書いておられるんですが、終戦時、満州にいました帝国陸軍関東軍第2航空部隊の一部は、通化において、八路軍(中国共産党軍)の空軍設立に協力しました。(参照「人民中国」中国空軍創設につくした日本人教官/元空軍司令官が回想する
 で、その通化には朝鮮人民義勇軍といいます中国共産党系の朝鮮人部隊がいまして、この人たちは、ソ連に逃げ込みました金日成たちとはちがい、北朝鮮へ帰国後は延安派と呼ばれ、上層部は大方粛正されることになるんですけれども、終戦直後に関東軍の航空隊と接触があったことは確かです。

 また、北朝鮮空軍を創設しました李闊(リ・ファル)は、名古屋の民間飛行学校でパイロットになり、読売新聞社の専属パイロットになっていたといわれるのですが、どうも北朝鮮の記録では、日本帝国陸軍の軍人だった経歴を消しているみたいなんですね。
 終戦直後の9月、李闊(リ・ファル)は新義州にいて、日本軍にいた朝鮮人を集め、日本軍の飛行機で航空隊の育成を始めた、とも伝えられていまして、これはどうも、金日成が帰国する以前の話みたいですし、新義州は満州の通化に近いんです。
 憶測にすぎないんですが、李闊(リ・ファル)の活動は、当初、八路軍の空軍設立と連動して、延安派のもとで行われたものだったのではなかったでしょうか。

 ともかく、です。
 いずれにせよ、終戦を満州、北朝鮮で迎えました帝国陸軍航空隊の中には、中共、北朝鮮の航空隊創設にかかわって教官となり、教え子はそれなりにかわいいでしょうから、彼らの新しい祖国に親近感を持ち、日本へ帰国した人々が複数いた、ということなんです。
 それにだいたい、当時の日本は、アジア主義をかかげて欧米と戦争をして敗れたわけでして、反欧米でありさえしましたら、共産主義であってもなかっても、とりあえず肩入れしたくなる、といった心情を、多くの日本人が持ち合わせていた、ということもあります。

 さて、佐藤守氏の「金正日は日本人だった」です。
 この本の幕開けが、金日成別人説です。
 根拠は、北朝鮮新義州ー中朝国境の町伝説の金日成将軍と故国山川 vol3でもご紹介しました、下の本です。
 
金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
クリエーター情報なし
成甲書房


 この李命英氏の「金日成は四人いた」は、けっしてトンデモ本ではないんですけれども、中国共産党系の資料ですとか、ソ連の崩壊で出てきました証言ですとか、李命英氏の目には触れなかった材料が近年出てきておりますので、ちょっとそのままは、鵜呑みにできない内容なんです。

 簡単に言ってしまいますと、「伝説のキム・イルソン将軍には実は四人のモデルがいたのだけれども、現在の北朝鮮の金日成は、そのうちの誰でもない偽物だ」ということなのですけれども、その四人のうち最初の二人、金一成と金光瑞は、北朝鮮の金日成より二十数歳年上です。
 このシリーズは、金光瑞について書こうとして始めたものでして、結果、冒頭に書きましたようにwikiの記事となりました。
 金一成につきましては、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1伝説の金日成将軍と故国山川 vol2に書いております。
 
 wiki金日成の「別人説」にも書いたのですが、佐々木春隆著「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究」 (1985年)では、次のように述べられています。
 「伝説のキム・イルソン将軍については、李命英氏が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという金一成(キム・イルソン)と、陸士出身で白馬に乗って活躍した金擎天(金光瑞)が、生まれた年がともに1888年、出身地も同じ咸鏡南道であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれたものではないだろうか」

 「1920年代後半以降の消息が知れず」という部分につきましては、近年、ちょっとちがってきておりますが、当時の朝鮮民衆にとりましてはそうだったでしょうし、また、日本の敗戦後、ソ連によりまして、金日成が平壌に姿を現すことになりましたとき、騒ぎが起こりましたのは「若すぎる!」ということだったんです。

朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀 (文春文庫)
萩原 遼
文藝春秋


 荻原遼氏の「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」の中に、金日成のロシア語の通訳を務めていた高麗人の兪成哲(ユ・ソンチョル)の回想が出て参ります。彼は、金日成お披露目の会場にいて、「にせ者だ」「ありゃ子どもじゃないか。なにが金日成将軍なもんか」という民衆の声を聞いたと語っているんです。
 また荻原氏によりますと、事実上の北朝鮮の国歌である『金日成将軍の歌』の作詞者が、当時金日成を称えて書いた『歓迎・金日成将軍』という詩には、「将軍がもどって来られることは誰も知らなかったが、将軍がもどって来られたことは誰もが知った。ー中略ー 誰もが将軍は若いという。そのとおり、将軍は若い」とあるのだそうです。

 つまり、北朝鮮の伝説のキム・イルソン将軍は、現実の金日成よりも一世代上と考えてよく、金一成の事績から「義兵闘争のころから活躍していた」「白頭山を根城にして戦った」といわれ、金光瑞の事績から「日本陸軍士官学校を出ている」「白馬に乗って野山を駆けた」ということになったのだとすれば、佐々木春隆氏のおっしゃることはもっともに、私には思えます。

 ところが佐藤守氏は、以下のようにおっしゃるのです。
 だが、この金日成は、金光瑞(金擎天)でも、白頭山のパルチザンの一人であった金昌希(金一成)でもあり得ない。後で詳述するが、二人とも、後に北朝鮮に入った自称金日成とは年齢が違い過ぎるからだ。
 金日成将軍を自称し、有名になった人物は他にもいる。いや、金光瑞も金昌希も英雄伝説のモデルでない可能性の方が高い。植民地時代、救世主として朝鮮の人々の脳裏に刻まれた金日成将軍の本命は別にいる。
 金日成の名を轟かせ、英雄伝説が流布するきっかけをつくったのは、一九三七年の「普天堡(ポチョンボ)の戦い」だった。


 いや、だから、伝説のキム・イルソン(金日成)将軍は、現実の金日成よりはるかに年上なんです。
 そして、「一九三七年の「普天堡(ポチョンボ)の戦い」って、伝説の金日成将軍と故国山川 vol2に書いたんですけれども、再録します。
 後年のことですが、普天堡襲撃に参加していた北朝鮮のある老将軍は、自国の新聞記者に、軍糧調達、つまりは、軍資金と食料を強奪することが目的であったのだと正直に語り、さらには、「寝ぼけ眼の倭奴が、ズボンもはかずに飛び出してきて哀願するのを殺した」と、自慢げにつけくわえて、それを知った金日成の怒りを買いました。(「北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 」より)
 普天堡は、およそ300戸ほど(うち日本人は26戸)の村役場所在地にすぎませんで、「寝ぼけ眼の倭奴」とは、交番の近くで食堂を経営していた日本人です。農事試験場や営林署、消防署、村役場、学校、郵便局に火を付け、同胞の民家で強盗を働いてまわった、という、匪賊とかわらない行為だったのです。それが北朝鮮では、「朝鮮人民に希望を与えためざましい抗日の戦い」だったと評価され、金日成の業績として美化されようとしていて、金日成は老将軍の正直な回顧談を、許しておくわけにはいかなかったわけなのです。


 そして、wiki金日成の注釈に書いたのですが、徐大粛著、林茂訳「金日成(キムイルソン)―その思想と支配体制」によりますと、1937年(昭和12年)、普天堡襲撃当時の金日成部隊に関する朝鮮半島内の報道は、おおむねその蛮行、略奪を非難する内容で、襲われる満州の朝鮮人農民の苦しみに同情を寄せたものが多かったわけでして、1920年代前半(大正10~15年ころ)、シベリアにおきます金光瑞の独立闘争が、東亜日報や朝鮮日報で英雄のように報じられましたのとは、大きくちがっているんです。

 実際、金日成が属して普天堡襲撃を引き起こしました中国共産党指導下の抗日パルチザン組織・東北抗日聯軍は、詳しくは後述しますが、やっていることが匪賊と変わりませんで、しかも同胞、つまり朝鮮人を多々襲っているんです。
 金光瑞は普天堡襲撃のころ、ソ連にいて、スパイ容疑で当局に逮捕されておりますが、金一成は、といえば、東北抗日聯軍の活動範囲でありました白頭山にいたのではないかと、私は、伝説の金日成将軍と故国山川 vol2で推測しております。
 ともかく、金一成の方も、東北抗日聯軍とはちがって、「古武士的な風格を持っていた」のだそうでして、品格がちがいます。

 普天堡襲撃がいくら有名になったところで、それで英雄扱いはありえないですし、なにをもって佐藤守氏が普天堡を大層なことのように評価なさっておられるのか、謎です。
 また佐藤守氏は、「金光瑞は一九二五年に満州に移ってから消息を絶っており、その後の足取りはつかめていない」と断言なさっているんですが、金光瑞が1936年以来、スターリンの大粛清にひっかかり、1942年、アルハンゲリスクのラーゲリで心臓疾患により死亡したとされていますことは、子孫によって伝えられた確実な情報です。

 金光瑞と東北抗日聯軍にも縁がなかったわけではないこと、そして普天堡襲撃の金日成は、果たして北朝鮮・金王朝の金日成なのかどうか、そういったことを書きたかったのですが、長くなりましたので、次回に続きます。

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昭和の岐路◆新渡戸稲造の松山事件

2012年05月04日 | 伊予松山

 ちょっと、話が幕末を離れます。
 実は仕事で、「新渡戸稲造の松山事件について書いてください」と頼まれ、すでに故人となられた地方テレビ局のプロデューサー・藤堂治彦氏の「五千円札とマツヤマ」という短いエッセイを、参考資料としていただきました。

 新渡戸稲造は、平成16年(2004年)に樋口一葉にかわるまで、五千円札の顔でした。
 その新渡戸稲造が、昭和7年2月に、講演旅行で松山に来ているんです。以下、引用です。

 新渡戸は宿泊先の道後鮒屋旅館(現在のふなや)で新聞記者の取材をうけた。
「将来、日本を滅ぼすものは軍部、軍閥…」
 翌日の朝刊にのったインタビュー記事、それに対する軍部の反応は早く、きびしかった。反国家思想の持ち主ときめつけ、軍や警察の監視、圧力がかかった。極右テロの標的にさらされる危険な情勢にまでなる。暗い、暗い時代だ。
 新渡戸はこの事件で、公職を辞し野に下り、一民間人として、孤立化してゆく日本の国際関係の緩和につとめようと決意、その年の秋、アメリカに渡り、翌年カナダで客死する。無念だったに違いない。松山事件はまさに昭和史の暗部を象徴する事件だ。


 だいたい私、昭和史には詳しくないですし、新渡戸稲造の松山事件なんて、まったくもって知らなかったのですが、「ちょっとこれ、おかしくないかい?」と思ってしまったんですね。
 なにがおかしいって、新渡戸稲造は昭和7年当時、貴族院議員だったんです。それが、ですね。ちょっと新聞のインタビューで時勢批判をしたからって、公職追放になったりするはずがないんですね。
 そりゃあ、極右テロっていうのは民間のテロリストがやることですから、いったいなにを考えて行動するかはわかりませんし、標的になることもありえたかもしれないんですが、それにいたしましても新渡戸は学者で、政治家ではないですから、生臭い権力とはあんまり関係がないですし、効果的なテロの標的ではありえないんですよねえ。テロリストも、世間への衝撃を考え、自分の命をかけてテロを起こすわけですし。
 それでまず、一番手に入りやすかった下の本「余の尊敬する人物」を読んでみました。

余の尊敬する人物 (岩波新書 赤版 65)
矢内原 忠雄
岩波書店


 著者の矢内原忠雄は、愛媛県の出身で、一高、東大で新渡戸の教え子だった人です。
 以下、引用です。

 先生がジュネーブを辞して帰朝した時は六十五歳ですから、もう老境と言はねばなりません。それから五年経って、昭和六年(一九三一年)九月に満州事変が勃発しました。之は先生七十歳の年のことです。この年先生は四国の松山で一場の講演をしたことがあります。その中で、「日本を滅ぼすものは共産党と何とかだ」といふことを、例により口をすべらしたとかいふので、折柄満州事変で神経の尖っている方面ではこの一言を捕へて、激しき非難を先生に浴びせました。その頃先生は神経痛で築地のルカ病院に入院しましたが、之は攻撃を怖れて米国人経営の病院に逃げ込んだのだなどと悪声を放つ者もあり、骨節の荒い人々が数名先生の病床を取り囲んで、陳謝を強要したりしました。結局無事にすみましたが、一時はどうなる事かと心配されました。
 その翌年(昭和七年)四月、先生は満州事変に対する認識を米国人の間に広める為めの使命を帯びて米国に渡り、各地の講演旅行をすること満一年、翌昭和八年三月一日帰朝しましたが、八月にはカナダのパンフに開かれた太平洋会議に日本側理事長として出席しました。この時病を得て、カナダのヴィクトリア市ジュビリー病院に入院し、遂に十月十五日(日本時間十六日)其処で客死したのです。
 之は誠に悲劇的な死でありました。先生の渡米に対しては、軍部と妥協したのだとか、変節だとか、逃げたのだとか、いろいろ悪口が起りました。悪口とまでは行かなくても、先生の出所進退を怪訝に思ふ気持ちが、之まで先生に対し尊敬と好意を抱いていた人々の心にさへ浮んだ模様です。先生はこの為めにまた、従来米国人の間にもつていた幾人かの友人を失ひました。しかし之ら内外の友情の損失以上に、先生に取りて最も苦痛であったのは、おそらく先生自身の心境の整理であつたでせう。
 新渡戸博士は前にも述べた通り、「太平洋の橋になる」志を抱いて東京大学へ入つたのです。その後米国に遊学し、米国人を妻とし、米国にて病を養ひ、最初の日米交換教授として渡米し、その他公私共に米国とは深き関係があり、並々ならぬ努力を日米親善の為めに払うたのです。それ故米国が一九二四年の移民法を通過させた時、先生は深く心に之をなげき、移民法の修正を見る迄は再び米国の土を踏まず、と決心したのです。この為めジュネーブの任満ちて帰朝する時も、わざと米国経由を避け、印度洋航路を選んだのでありました。その先生が、移民法は未だ修正せられざるのみか、満州事変以来対日感情の一層悪化した米国に向つて、自分から出かけて行く決心をしたのは、よくよくの事であったに相違ありません。世間の誤解や批難はまだ忍ぶことが出来るとしても、自分の良心を偽ることは新渡戸博士には出来ません。それならばどうして先生は自己の屈辱を忍んで渡米したのでありませうか。
 日米間の友好関係が取り返しのつかぬほど悪化する危険を、先生は直感したのです。


 こちらには、まず事実誤認があります。
 新渡戸稲造の松山事件は、先に書きましたように、昭和7年2月のことでして、第一次上海事変の最中だったんです。また、新渡戸は講演で口をすべらせたのではなく、新聞記者の取材の席で、「日本を滅ぼすものは共産党と何とかだ」と言ったんです。
 ですけれども、大筋で、矢内原氏がまちがったことを書いているとは思えませんし、だとすれば、問題になった新聞記事のインタビューで、新渡戸は軍部批判をしただけではなく、共産党も批判していたのですし、カナダで客死したときには、「太平洋会議に日本側理事長として出席」していたわけですから、公職を辞して渡米したわけでは、ないんですね。

 私、必要を感じまして、事件が起こった時代背景を、ちょっと調べてみました。
 結果、とてもじゃないですけれども、提示された文字数で気軽に書ける事件ではないと思い、また、ややっこしい歴史事件を載せる媒体でもないですし、松山事件は、はずすことを提案しました。
 了承してもらいましたが、なんといいますか、つくづく、「これって、軍部がどうのこうのっていうより、まず、メディア(新聞)と政党がおかしいよねえ。普通選挙って怖いっ!!! 現代と変わらないねえ」と、痛感しまして、ブログに書くことにしました。

 最初に、新渡戸稲造の略歴です。今回の仕事で、私がまとめたものです。
 文久2年(1862) ー 昭和8年(1933)
 農学者にして教育者。盛岡藩士の家に生まれる。札幌農学校から東京大学に進学。明治17年、私費でアメリカ留学し、札幌農学校助手となって、ドイツへ公費留学。帰国後、札幌農学校教授となり、要職を歴任。東京帝国大学教授になる。『武士道』(英語)の著者として国際的に知られ、大正9年の国際連盟設立に際しては、事務次長を務めた。


 矢内原忠雄氏の記事中、「ジュネーブを辞して帰朝」といいますのは、大正15年(1926)、国際連盟事務次長を辞して帰国したことを指します。国際連盟の本部は、スイスのジュネーブにありました。

 さて、松山事件です。
 おそらく、下の本が、一番詳しいと思います。

晩年の稲造―共存共栄を説く (1984年)
内川 永一朗
岩手日報社


 内川永一朗氏は岩手日報の記者だった方で、農業担当だった時に新渡戸の功績に触れたことが研究に手を染めるきっかけになり、十数冊の著作がおありだそうです。
 この「晩年の稲造―共存共栄を説く」を主な参考書に、県立図書館へ行き、当時の新聞三紙、海南新聞、愛媛新報、伊予新報の記事に直接あたりましたので、そこから導き出されました、私なりの事件の解釈を、書きます。

 新渡戸稲造が国際連盟事務次長を辞する前年、大正14年(1925)のことです。日本において、男子の普通選挙法が成立しました。
 そして昭和3年(1928)、その普通選挙法に基づく最初の衆議院議員総選挙(第16回)が行われました。当時の内閣は、軍人から政友会総裁に転身した田中義一(長州出身)が首相で、大規模な選挙干渉を行ったとされます。しかし結果は、与党政友会218議席、野党民政党216議席と、ほぼ拮抗していました。
 この田中内閣、大蔵大臣は高橋是清で、金融恐慌は沈静化するのですが、外務政務次官の森恪(外務大臣は田中が兼任)が対外強硬派で、満州におきます張作霖爆殺事件の始末が不適切で、昭和4年(1929)に総辞職します。また田中内閣は、貴族院とは敵対的で、新渡戸は貴族院議員でしたし、国際協調派ですので、政友会とは相容れなくなっていました。

 後を受けて組閣しましたのは、民政党の濱口雄幸です。
 濱口は、貴族院議員を多く入閣させました。外務大臣も、貴族院で、国際協調派の幣原喜重郎男爵。
 昭和5年(1930)2月の第17回衆議院議員総選挙では、濱口率いる民政党が単独過半数の273議席をとって、政友会に圧勝。ロンドン海軍軍縮会議に若槻元総理を首席全権として派遣し、条約締結にこぎつけて、同年に批准しました。

 要するにこの時期、ごく簡単に言ってしまいますと、対外強硬姿勢の政友会と国際協調姿勢の民政党、二大政党が衆議院で争い、交代で組閣していたということになります。

 ロンドン海軍軍縮条約につきましては、海軍内部の反対があり、国家主義運動が活発化してそれにからんだことは確かですが、なにしろ海軍の軍縮なのですから、海軍首脳部が承認でまとまりさえすれば、それですむ問題でした。
 ところが政友会は、この国際外交問題を政争の具にして、倒閣をねらい、ひそかに統帥権の干犯を唱えて、軍部をたきつけてまわっていました。総裁の犬養毅は、臨時党大会で、「政府がロンドン条約案に関し軍令部の同意なくして全権に対し回訓を発したることは明らかに統帥権干犯である」と演説しています。

 しかし、与党民政党にとって、なにより痛かったのは、ライオン宰相と呼ばれて国民に人気があった濱口雄幸首相が、東京駅で、玄洋社系右翼団体の党員に撃たれ、重傷を負ったことです。ロンドン条約批准直後のことで、いわば政友会の煽りに乗った犯行でした。
 濱口が入院している間、幣原が臨時代理を務め、昭和6年(1931)1月に、濱口は退院して復帰しますが、体調はすぐれず、それを政友会(鳩山一郎が中心だったといわれます)が、執拗に議会への出席を求めて、再入院。四ヶ月後に死去しています。

 濱口内閣の後を引き受けたのは、同じ民政党の若槻内閣(第二次)です。外相は続いて幣原です。
 この昭和6年には、満州で事件が相次ぎました。
 6月の中村大尉殺害事件に続き、7月には万宝山事件と、満州の無法が際だつ事件が起こります。
 そして9月には柳条溝事件。関東軍の自作自演といわれています満州鉄道爆破事件です。これを理由に関東軍は軍事行動を起こし、中央の命令もなく、朝鮮にいた日本軍が越境出動します。
 中華民国が、国際連盟に提訴し、日本政府は、事変の不拡大方針を宣言します。

 しかし若槻は、陸軍の暴走を止めることができず、十月には陸軍少壮幕僚の軍閥・桜会によるクーデター未遂事件もあり、民政党のみの内閣だから軽んじられることになるのだろうかと、政友会との連合を模索します。
 とはいいますものの、内政、外交ともに方針がちがう政友会との連合には、閣内に大きな反対があり、若槻内閣は総辞職しました。
 後を継ぎましたのは、政友会の犬養毅内閣です。
 政友会は、衆議院で少数派ですから、多数を得て国民の信任を背景にしたいと、昭和7年(1932)1月、解散総選挙に打って出ます。
 ほぼそれと同時に、第一次上海事変が勃発しました。

 新渡戸稲造が松山を訪れましたのは、その直後なんです。
 「晩年の稲造―共存共栄を説く」によれば、執拗に新渡戸排斥キャンペーンを繰り広げたのは、海南新聞一紙です。
 海南新聞は、愛媛新報、伊予新報など他の地元紙とくらべて、とびぬけて有力で、愛媛県下ではよく読まれていました。
 それが、2月5日に新渡戸来松のインタビュー記事を載せた後、6日、7日の社説で新渡戸攻撃をくりかえし、7日の夕刊では松山連隊の副官にインタビューし、新渡戸非難、社説擁護談話をとっています。さらに8日の朝刊一面では、二人の一般人の読者投稿を取り上げ、激しく新渡戸非難をくりひろげているんです。

 内川永一朗氏は、「海南新聞が軍部に迎合して」というようなことで、そのあんまりにも執拗な攻撃の理由を片付けておられるのですが、私は、それにしましては奇妙すぎる、と思ったんです。
 実は、昭和44年(1969)の伊予史談に、中村宏氏の「新渡戸稲造博士の松山談話事件1」という論文が収録されておりまして、ものすごい誤植のおかげで、どれがどの新聞の記事なのか、わけがわからない論文になってしまっているのですが、マイクロになっています新聞紙面(欠けあり)とくらべてみますと、海南新聞、愛媛新報、伊予新報の新渡戸来松インタビュー記事をちゃんと収録してくれています。読んでみますと、同じインタビューをもとにしたはずが、三紙三様、相当にちがう記事になっているんです。

 いったい、「海南新聞のみが執拗に新渡戸攻撃をくりかえしたのはなぜか」、と考えてみまして、私、「選挙ではないのか」という結論に達しました。
 といいますのも、海南新聞は、政友会と縁が深いんです。このときの衆議院選挙にも、海南新聞関係者の岩崎一高(コトバンク岩崎一高)が、政友会公認で立候補していました。
 愛媛県選挙管理委員会の衆議院議員選挙の歩みを見るとわかるのですが、この当時の衆議院は中選挙区で、愛媛一区は定数三人。岩崎一高は、初の普通選挙だった昭和3年に政友会から立候補し当選。このとき愛媛一区は、政友会が三議席独占しています。
 そして、昭和7年2月3日付けの海南新聞二面記事によりますと、昭和5年の政友会は与党ではなかったため二人しか候補を立てず、岩崎は公認立候補に至らなかったようです。翌4日の記事は、与党になり、再びの三議席独占を狙います政友会から、岩崎一高の公認立候補が決まったと報じているのですが、政友会候補3人のうちで、一番落選の可能性が大きいともされています。

 新渡戸稲造の来松記事は、民政党の若槻総裁の上海事変談話発表と、重なっています。
 若槻は、元老の西園寺公望と会談した後、大阪へ向かう列車の中でインタビューを受け、それが配信されて、2月5日の記事となったのですが、海南新聞は、一面ながら目立たない最下段に「事件拡大は極力避けよ」という見出しで、載せています。
 一方、愛媛新報は二面の上段に、若槻の写真入りで「国民は空景気に迷てはならぬ 上海は早く解決したい」という見出しで載せていまして、どうも、紙面を見る限り、なんですが、愛媛新報は民政党支持、といった印象を受けます。
 同じ配信を元にした記事と思われ、本文の内容は両紙、ほぼ同じです。
 大阪を振り出しに、選挙遊説をする予定の若槻は、「選挙の主題は金の再禁止を中心とする経済問題。外交問題、特に対支(シナ)問題についてこの際政府の遣方について批判を避けたい」と言っています。
 愛媛新報は、このおだやかな若槻談話記事のすぐ隣に、「犬養首相は資本家の傀儡? 金の為めには同志を売った過去の政治生活を見よ!!」というものすごい見出しの独自関連記事を載せていますから、どう見ても、反政友会、親民政党姿勢なんですよねえ。

 そして愛媛新報は、同日の四面に、新渡戸の来松インタビュー記事を載せているんですが、「犬養内閣の猪突外交 全く土台を崩壊さす」という大見出し、そして、「軍閥擡頭の反面に左傾分子 莫大な軍事費は国民の負担」という小見出しです。
 一方の海南新聞は、「共産党と軍閥が日本を危地に導く」の大見出しに続いて、「上海事件に関する当局の声明は全く三百代言式だ」という小見出し。

 政友会にも民政党にもそれほど関係がなさそうな伊予新報の新渡戸記事は、といいますと、「平和の戦争」という大見出しに、 「軍事的勝利は救ひでない」と小見出し。本文中に「現在の日本を亡ぼすものは軍閥と共産党だ」とあるんですが、すぐ続いて、「戦争がさかんになれば共産党が反動的に必ず勢を増す。そこで日本の危機を招来するといふようなことを日本の軍人は少しも考えないでワイワイ騒ぐんだ、刻下の問題として日本の国では、共産党より軍閥の方が危険だ」と説明があります。

 いったいどの新聞記事が、新渡戸がしゃべったことにもっとも近いのか、それはわからないのですが、海南新聞が大見出しにして、しかも後で大攻撃しました「共産党と軍閥が日本を危地に導く」という言葉は、愛媛新報も表現を変えて、「軍閥擡頭の反面に左傾分子」と小見出しにしているわけですから、そういった趣旨の発言があったことは、確かなんでしょう。
 なぜ軍閥が擡頭すると左傾分子が増えるのか、愛媛新報は本文で「今度のばく大な軍事費は当然国民の税の加重となる」という新渡戸の発言を載せて、説明しています。

 ただ、内容を言いますならば、海南新聞は突出して、詳しい本文記事を載せています。
 例えば、愛媛新報が「犬養内閣の猪突外交 全く土台を崩壊さす」と大見出しにして、しかしでは、犬養内閣の外交のどこがだめなのかといえば、具体的に書いていないのですが、具体的に言いますならば、海南新聞の小見出し「上海事件に関する当局の声明は全く三百代言式だ」ということに、なるのではないか、と思えます。

 実は新渡戸稲造は当時、大阪毎日、東京日々新聞の顧問をしていまして、「晩年の稲造―共存共栄を説く」によれば、なのですけれども、あまりに海南新聞の新渡戸攻撃が激しかったため、大阪毎日新聞の松山支局記者・曽我鍛が動き、インタビュー当時の状況を取材して、擁護記事を書きました(えー、私、毎日新聞までは調べきれませんでした)。
 それによりますと、海南新聞の記者はインタビューの場に遅れて来たあげくに、オフレコで、という前提で新渡戸がしゃべったことまで記事にした、というんです。
 そういわれてみますと、「当局の声明は全く三百代言式」なんぞといいます批判は、日本政府が海外に向かって発した声明の批判になってしまいますから、オフレコでなければ言わなかったことではないのか、と思うんですね。

 海南新聞がかちんときましたのは、愛媛新報が「犬養内閣の猪突外交 全く土台を崩壊さす」と、政友会内閣批判に、新渡戸インタビューを利用したことじゃなかったでしょうか。
 実際、対外強硬路線で、倒閣のために、統帥権干犯を唱えて軍部を煽ってきました政友会を、新渡戸はうとましく思っていたでしょうし、海南新聞としましては、国際的に著名な貴族院議員が、自社が応援する政友会の外交をけなすとは、選挙の最中だけに、許せないことだったのでしょう。
 政友会を擁護し、そして同時に、岩崎一高に在郷軍人会票を、というもくろみが、海南新聞にはあったのではないかとまで、つい疑ってしまいます。

 民主党の鳩山由起夫元首相は、政友会の鳩山一郎の孫です。
 普天間基地代替施設移設問題で大混乱を巻き起こしました孫は、軍縮条約を政争の具にしてしまいました祖父を思い出させますし、海南新聞は今の愛媛新聞なんですが、前回の衆議院選挙では、民主党にはやたらに甘かったよなあ、と。

 歴史は、くりかえすんですよねえ。

 なお、ですね。
 このとき新渡戸稲造が泊まっておりました道後の鮒屋は、江戸時代から続く宿屋さんで、幕末、土方久元の日記にも出てきたりします。現在もふなやの名で営業するお勧めの宿です。



 近所に住んでおります私は、温泉付きのランチを、時折楽しむだけなのですが、和食よし、フランス料理よしで、上の写真は、先日ふなやさんで食しましたランチの前菜です。

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コメント (4)
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