郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編

2010年09月28日 | モンブラン伯爵
 えーと、また唐突なんですが、さがしていた資料が見つかりましたので。
 尖閣諸島で中国ともめている昨今ですが、尖閣諸島は沖縄の一部でして、大清帝国の主張では「琉球は清朝の朝貢国であるから日本の領土ではない」と、日清戦争の敗戦まで、日本領と認めなかったところに、問題の発端はあります。
 あー。もちろん、台湾問題もありますね。結局、現在の中国の主張は、尖閣諸島は台湾の一部、ということですので。

 明治6年政変と征韓論 明治4年で書きかけていたことなのですが、「征韓論」というのは、政変の後の事情を知らない世論の受け止めは方は別にしまして、実際に留守政府首脳の懸案になっておりましたのは、草梁倭館に出兵して開国を迫る、ということでして、李王朝が実効支配していました朝鮮半島を征服する、などという、突拍子もない案ではありません。
 しかし、同時期の征台論については、あわよくばその半分を征服しようという話でした。なぜならば、アメリカ公使デ・ロングが「台湾には清国の実効支配が及んでおらず、清国も領有を主張していない」という見解を、どうやら明確にしていまして、アモイ駐在アメリカ領事のル・ジャンドルを、征台顧問として日本に世話してもいます。そこらへんの細かな実情は、資料をつみあげていく必要がありまして、やりかかったんですけれど、めんどーになってきまして、中断しています。
 ともかく、政変の後に、征台は大久保利通、大隈重信の手で実行に移されますが、そのときはすでに、デ・ロングは在日公使を辞めさせられて、本国に呼び返されています。
 
 デ・ロングは、まったくもって外交官経験のない素人でして、アメリカが得意としますご褒美任命外交官の口です。
 で、この当時のアメリカは、アジア外交を牛耳っていましたイギリスに、多大な反発を抱いていました。
 アメリカは日本を、清国進出の足がかりにしようと開国させましたのに、その後の南北戦争でろくにアジア外交にかかわることができず、日本への影響力をも維持できず、イギリスどころか、幕府にくいこみましたフランスにも、大きく遅れをとっていたんですね。
 明治2年、日本に公使として着任しましたデ・ロングは、日本におけるアメリカの勢力拡大のためならばイギリスとの衝突もかまわず、といった、問題の多い姿勢で、日本の外交をひっかきまわすのです。

 そういうわけでして、征台についても、デ・ロングが公使だったときに、兵士、物資の輸送に、米英国籍の民間船が協力するという約束ができていたんですけれども、清国に深く根をはっていますイギリスから横やりが入り、後任のアメリカ公使もそれに同調しまして、大久保利通と大隈重信は、急遽三菱を援助して船を買わせて使う、ということになったんです。
 おまけに、ですね。そもそも、ル・ジャンドル案では「春以降、暑くなってくると疫病が蔓延する島なので、冬に」ということでしたのに、なにをとち狂ったのか4月に計画しまして、それが5月にのび、結果、多数の戦病死者を出すことになりました。
 結局、イギリスの仲裁で、日本はほどほどの成果を得はしたんですけれども、これで清国が琉球の日本帰属を認めたわけでもなく、逆に清国は領有権の西洋ルールに目覚めまして、この直後、台湾の領有を確定的なものにすべく、出兵して、清に逆らう台湾現地民を徹底的に虐殺し、実質的な台湾領有権を確立したわけです。このときの清の残虐ぶりは、とうてい日本軍がまねできるものではなかったと、アメリカ人の学者さんが言っております。

 日本にとって、をいいますならば、ごちゃごちゃ政争をやってないで、予定通り、明治6年の晩秋に、すみやかに台湾出兵すべきでした。そうすれば、イギリスの口出しが遅れ、米英民間船がかかわることによって、もっと日本有利にことが運んだ可能性がなきにしもあらず、ですし、それが無理でも、少なくとも、戦病死者はごく少なくてすんだはずです。

 いずれにしましても、明治6年政変において、問題になっていましたのは、朝鮮、台湾、琉球をめぐる清国の宗主権であり、そしてもう一つは、幕末からの最大の懸案、ロシアとの国境線、樺太領有権です。
 これは全部、現代にまで尾を引いている問題ですが、とりあえずそれは置いておきまして、誕生間もない明治新政府の対清懸念に首をつっこみましたデ・ロングが、です。対ロシアにも首をつっこまないわけはないのです。
 
 これまでも何度か書きましたが、開拓使は、明治新政府が、樺太をにらんで設立したものでして、北海道に確実な実効支配を打ち立てなければ、ロシアが樺太を征服し、さらに南下する恐れが大きかったからなのです。
 このことは、イギリス、フランスも警戒していまして、維新直後に、自国軍艦を千島列島偵察に出しています。
 で、幕府は、ロシアとの国境線画定の仲介を、フランスに頼ろうとした経緯がありまして、明治新政府も、当初は、フランスの仲介を期待した節があるんですね。

開拓使と北海道
榎本 洋介
北海道出版企画センター


 上の本は、樺太問題と開拓使をあつかい、細かく分析しているのですが、冒頭で、非常に興味深い指摘があります。
 明治2年5月、開拓使の前身であります蝦夷開拓御用局が設置されます。6月、その長官(総督)に鍋島閑叟が任命されるのですが、直前の5月、島義勇(佐賀)、桜井慎平(長州)、大久保利通(薩摩)の三人が、開拓御用掛になっているんです。御用掛は他にも数名任命されるのですが、彼らは、もともと蝦夷にかかわりをもった実務官と見ていいようでして、鍋島閑叟が総督になりました時点で、事実上の長官は島義勇であり、佐賀閥がしきろうとしているところへ、大久保が長州人を一人加えて、わりこんだのではないか、と思えます。

 ところがです。不思議なことがあればあるもので、明治2年の開拓使日誌、京都で刷ったものには大久保の就任がちゃんと載っているもかかわらず、東京で刷った版からは大久保利通の就任記事がすっぽり消えてしまっている!!!のだそうなんです。大久保の開拓使御用掛就任は、複数の傍証がありまして確かなことなのですが、そんなわけでして、なかったことにされていたりします。
 この謎を提示なさった榎本洋介氏は、しかし、なぜなのか?については、回答を見出しておられません。
 私、もしかしてこれは、モンブラン伯爵がらみだったからではないのか?と、憶測しているんです。

 えーと、ですね。ロシアの南下についてどこかで書いたはず、と思いましたら、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1ですね。金光瑞個人については、wikiをご覧下さい。このシリーズを書いている途中で、確実な情報を見つけまして、wikiに書いております。
 ともかく、です。日本の幕末はロシアの南下とともにはじまった、といっても過言ではなく、少年期の森有礼が読んで世界情勢に目覚めた、林子平の「海国兵談」も、ロシアの南下を危惧して書かれたものです。

 樺太開拓は、17世紀の終わりから、松前藩によって、はじめられていたのですが、幕府が衝撃を受け、異例にも朝廷に報告しました赤蝦夷騒動(文化露寇・フヴォストフ事件)は、ペリー来航の50年前、文化3年(1806)に起こりました。徳川家斉の時代です。
 この当時のロシア人は、ラッコの毛皮を求めて、シベリアからカムチャッカ半島、アリョーシャン列島、千島列島、北米海岸に進出、植民していました。
 やがて毛皮商人たちは、宮廷から出資を得て、国策会社露米会社を立ち上げます。会社といいましても、武装通商集団で、ロシア海軍軍人が、そのまま社員だったりします。
 露米会社の総支配人、ニコライ・レザノフも、ロシア海軍省に属した人で、露米会社の維持、発展のために海軍を利用し、食料などの物資補給、交易路の開拓に努めます。
 その一環として、文化元年(1804)、長崎に来港し、通商を要求しますが、幕府は拒否します。
 そのレザノフの部下の海軍士官フヴォストフとダヴィドフが、文化3年(1806)に樺太の松前藩の番所を襲撃、略奪し、翌年にも樺太、千島列島など各所の日本人を襲撃した事件でして、ciniiにいくつか論文があがっていますが、どうも、これまでいわれてきましたような突発的なの海賊行動ではなく、露米会社の命令を受けて、レザノフが受けた扱いの報復と、日本人の樺太千島進出をはばむための軍事行動であったようです。
 この事件は、北前船のルートに乗って日本全国にひろがり、京都の朝廷も大騒ぎ。幕府は慌てて、東北諸藩に動員をかけ、蝦夷の防備にあたらせます。
 
 このときのロシアの極東進出は、開拓をともなった本格的なものではなく、結局、1812年のナポレオンのロシア侵攻もありまして、一息つく形でおさまりましたが、以降、蒸気船の発達により、ロシアが極東に鉱物資源や軍事拠点、通商拠点を求める勢いは増し、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1で書きましたように、ペリーに乗じて安政元年(1855)に日露和親条約を結びました後、清国に迫って、沿海州を得るんですね。
 こうなりますと、ロシアの勢いはとまりません。樺太にも囚人を送り込み、軍隊を常駐させて、日本人がいた南部へも、どんどん進出してきます。
 幕府の樺太開発は、失敗していたといっていい状態でして、維新直前には、雑居といいつつ、圧倒的なロシア優勢状態に陥っていました。

 この幕末、なぜか樺太に魅せられてしまった一人の日本人がいました。
 阿波(四国徳島)の民間人、岡本監輔です。
 そういえば、エトロフ島を開拓した高田屋嘉兵衛が、淡路島の出身でした。赤蝦夷騒動の後遺症ともいえるゴローニン事件でロシア船につかまった人です。司馬遼太郎氏が彼を主人公に「菜の花の沖」を書いておられます。
 ともかく、京阪に近い阿波の漁民は、蝦夷の情報に通じていて、岡本監輔も樺太を知ったようです。

 なんだか、幕末は不思議な時代です。
 四国の片田舎の農村に生まれた監輔が、北に憧れて、京阪、江戸で探求を重ね、北方探検家の松浦武四郎とも知り合いまして、ふらふらと蝦夷へ、そして樺太へ行ってしまうんです。あげく、樺太一周をなしとげ、ロシア人の植民を目の当たりにしまして、このままでは憧れた島がとられてしまう、と危機感を持ちます。
 監輔は、樺太全土が日本領だという信念を持っていまして、慶応2年(1866年)、小出大和守が国境談判のためロシアへ向かうのを阻止しようと京都へ行くんですが、失敗します。
 その監輔の目の前で、鳥羽伏見の戦いは起こり、チャンス到来!とばかりに監輔は、親しくしていました貧乏なお公家さん、清水谷公考にロシアの脅威と樺太開拓の必要を訴え、すっかりその気にさせてしまうんですね。
 証拠はないのですが、監輔はどうも、清水谷だけではなく、薩摩藩士の井上石見をその気にさせたらしいんですね。井上石見は、藤井良節の弟で、神官の血筋だけに、公卿の家に出入りしつけた古くからの京詰め藩士です。どうやら、岩倉具視の側近となっていたようでもあります。
 なんといいましても、実質、維新政府をきりまわしていましたのは、薩摩です。井上石見が清水谷をかついだ、ってことなんでしょう。

 それで、清水谷は弱冠23歳で箱館裁判所総督、37歳壮年の井上石見は判事に任じられまして、29歳で権判事となりました岡本監輔もともに、蝦夷地鎮撫に向かうのですが、これに大久保利通が噛んでいないわけがありません。

 長くなりましたので、続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき8

2010年09月21日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき7の続きです。

 今回は、前回ギャグにしましたように、なぜ広瀬常が、森有礼との結婚を望んでいなかったと私が考えたか、その理由について、ちょっと書いてみたいと思います。
 「若き森有礼―東と西の狭間で」において、犬塚孝明氏は、常にとっての有礼の求婚は、「まさに玉の輿であった」と書いておられます。
 
 これは、おっしゃる通りでしょう。
 この当時の官員は、ものすごい給料をもらっていまして、位階なども、ですね、森有礼クラスになりますと小大名級。おまけに東京の屋敷は、元大名屋敷の払い下げを受けていたりします。
 森有礼全集の伝記資料によりますと、有礼は、明治6年(1873)、帰国当初は仮住まいで、翌7年(1874)、木挽町に屋敷をかまえています。明治7年のいつからなのか、正確にはわからないみたいなのですが、この屋敷に西洋館を建てて、翌8年(1875)2月、常とのシヴィルウェディングを執り行い、同年8月には、アメリカから商法講習署の教授として招きましたホイットニー一家を、この洋館に住まわせているんです。
 ですから、一家の長女で、当時15歳のクララ・ホイットニーは「勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉」
におきまして、この屋敷の様子を書き残してくれています。以下、引用です。

「私たちの家はこの辺で一番大きい家で、馬車道がついている門が二つあって、一つにはこぎれいな小さな門番小屋がある。(中略)台所はこの家と森さんのご両親の家との間にあり、台所の隣は浴室である。中庭はとても広く、そこを下りると庭園があって、日本人の家族が管理している。この家族は庭の中にあるきれいな小さい家に住み、すべてに行き届いた手入れをしている」

 これを読みまして私、元大名屋敷だろうな、と思い、調べてみました。
 木挽町10丁目で、采女町の静養軒の隣、ということでして、静養軒は、東銀座の現在の時事通信ビルにありました。となれば、有礼邸は、現在の銀座東駐車場を中心に、おそらくは新橋演舞場も含む一帯と思われます。これを幕末の切絵図で見ますと、松平周防守屋敷でして、あるいは隣の稲垣若狭守屋敷も含まれるかもしれませんで、あきらかに小大名屋敷です。ここいら一帯が、明治4年の東京大絵図では、外務省御用地になっていますから、払い下げを受けたみたいですね。

 薩摩出身の高級官僚であります有礼は小大名。広瀬常は食べるにも事欠く旧幕臣の娘。まさに玉の輿なのです。
 おまけにもってきまして有礼は、女子教育の推進者ですし、「妻妾論」で、夫婦間において貞節を守る義務は男性にもある、としまして、西洋流に女性を尊重する結婚観の持ち主、ということで、常にとってのこの結婚は、通常、この上ない良縁であったかのように語られます。
 しかし果たして、常はこの玉の輿を、ありがたいものと受け取っていたのでしょうか。
 経済的には、確かにそうでしょう。しかし、気持ちの上においてどうだったか、ということなのですが。
 参考書は下の二冊だけではないんですけれども、いろいろな例を参照しまして、幕末から明治へかけての下級士族の女性の結婚、恋愛観を下敷きにし、「妻妾論」を書いた有礼の意識と、それを受け止める常個人の意識とを、私なりにさぐってみたいと思います。

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
磯田 道史
新潮社


不義密通―禁じられた恋の江戸 (講談社選書メチエ)
氏家 幹人
講談社



森有礼の「妻妾論」について、犬塚孝明氏は、「若き森有礼―東と西の狭間で」で、「妻妾を同親等とみなす旧態依然たる国法の下、妻妾同居も珍しくない当時の社会的風潮にあって、この論説は近代的婚姻観に基づく最初の一夫一婦論として識者の注目を集めただけでなく、世間に大きな衝撃をあたえるものとなった」と書いておられまして、それがまちがっているというわけではないんですけれども、「妻妾論」の主意は、現代では、かなり重点がずれて受け取られているのではないか、と思うのです。

 だいたいです。「妻妾論ノ一」で有礼は、「凡ソ其妾ナル者ハ概ネ芸妓遊女ノ類ニシテ、之ヲ娶ル者ハ凡ソ貴族富人ニ係ル」、つまり「妾は、たいていは芸者や遊女が金で買われたもので、したがって妾を置くのはたいていは貴族や金持ちだ」としておりまして、日本の婚姻の実態は、基本的に一夫一婦制であるにもかかわらず、立法者たる高級官僚(有礼本人がそうですが、この明治初期、高級官僚は小大名級の貴人金持ちになっています)が、かつての大名や上層士族、富商を見習って妾(側室)を蓄え、そういう意識だから、妾を公認する民法を放置しておくのだと、政府の立法姿勢を批判し、意識改革を訴えているわけです。
 これは、法制の面からいいますと、確かに「西洋近代法を見習え」ということになるのですけれども、有礼の意識からしますならば、むしろあるべき士族の道徳観だったのではないでしょうか。
 
 また有礼は、上の一説に続けまして「故ニ貴族富人ノ家系ハ買女ニ由テ存スル者多シ」としていまして、これは買春を悪としますキリスト教的価値観であり、同時に「妻妾論ノ二」を見ますと、有礼が家の血統を重んじ、基本的に父系の血筋を重視しつつ、母系の家柄も尊重します、当時の欧米の中流的な保守的価値観を享受しているものと受け取れます。
 しかし一夫一婦制のもと、夫の側の貞操をも求めます西洋的価値観は、「庄屋さんの幕末大奥見物ツアー」「『源氏物語』は江戸の国民文学」で見ましたように、おそらく、なんですが、幕末から、国学の影響下、江戸の上級旗本など、一部においては、受容されつつあったのではないでしょうか。
 そして薩摩の国学は、その中心にいました八田知紀が、島津斉彬に重んじられ、京の近衛家に出入りする歌人でありましただけに、蘭学重視、開国、雅に重点を置きました、いわば上流の国学になっていたように思えるのです。

 そしてまた、畑尚子氏の「江戸奥女中物語 」によりますと、将軍家の正妻の立場は、幕末に近づきますほど強化され、側室はあくまでも臣下であり、例え世継ぎを生みましても、世継ぎは正室の子とされ、それは大名家も同じようなものだったとされています。
 有礼は、そういった強化されました正室と、使用人としての側室をも否定しているのですが、あるいはこれには、お由羅騒動が大きく影響してはいないでしょうか。

 お由羅騒動(高崎崩れ)は、有礼が生まれて間もなく起こっておりまして、ちょうどそのころ森家は、春日町から城ヶ谷に引っ越しています。
 城ヶ谷は、西南戦争で西郷や桐野が最期を遂げました岩崎谷に近く、犬塚氏によれば「陰鬱な表情」をした場所で、ここへ移り住むとは「父有恕の仙骨めいた気風がそうさせたのであろうか」となさっておられるのです。有恕についてはさっぱり資料が無く、犬塚氏は根拠のない憶測をひかえられたのでしょうけれども、有恕は斉彬より三つ年上の中級藩士であったわけですし、心情斉彬派であったのではないか、という推測は許されると思うのです。
 いずれにしましても、お由羅騒動は、由緒正しい家柄の正室の子として生まれました世子斉彬派と、素性の知れない側室お由羅が生みました久光派と、島津家中がまっぷたつに割れ、多数の斉彬派家臣が、切腹、蟄居、遠島といった苛酷な処分を受けました事件でして、西郷、大久保一家も斉彬派でした。その後、斉彬が無事藩主となり、久光の息子を次代藩主に指名しましたことで、つぐなわれたかに見えるんですけれども、この事件が藩内に長く陰を落とし、家臣にとりましての島津家の威信をゆるがしましたことは、確かでしょう。
 いわば、です。藩主の好色がお家を危うくしたわけでして、そんな中、斉彬の母親でありました正室の良妻賢母ぶりは、藩士の間で喧伝されていくことになります。
 斉彬の母・周子は、鳥取藩池田家に生まれ、島津家に嫁するにあたって、多数の漢籍を嫁入り道具といっしょに持ち込んだ、といわれる才女ですし、斉彬の養女として将軍家正室となりました篤姫も、日本外史を愛読した良妻です。
 そもそも、です。儒教的な道徳におきましても、遊女、芸者と遊びますことは、お家を滅ぼしかねない遊蕩とされてきていたのですし、ピューリタニズムと武家道徳には、共鳴するものがありえたでしょう。

 有礼は、薩摩の中級藩士の家に生まれ、男ばかり五人兄弟の末っ子。
 武士の家におきましても、男子の母親となりました女の立場は、非常に強いのです。そこへもってまいりまして、里さんは男勝りの孟母。
 ストイックな英才教育を受け、18歳でイギリスに渡り、そこで有礼が最大の影響を受けた人物が、上流階級の淫蕩な風潮に嫌気がさして禁欲的なハリス教団に走りましたオリファントです。
 理知的な有礼の場合、国学的な価値観からすっぽりと「雅」がぬけ落ちまして(いえ、ここで「雅」が残りますと、かならずしもピューリタニズムとは合致しないわけなのですが)、男女関係におきましては、ストイックな上にもストイックな倫理観が、身についたものではないでしょうか。

 一方の広瀬常です。
 これまで見てきましたように、広瀬家は、幕臣ではありましたけれども、どうやら、下級士族です。それも、関東の農村から出て、同心株を買った新興幕臣の可能性が高そうなのです。
 もともと農村の男女関係には、武家のように厳密な密通(私通)意識はありません。密通といいましても、武家道徳における密通は、かならずしも現在でいいます不倫だけではありませんで、親の許しを得ず、未婚の娘が男性と肉体関係を持ちますのも密通です。
 しかし、例えば樋口一葉の両親のように、関東の近郊農村のかなりな階層の家の未婚の娘と息子が、たがいに惚れあって娘が妊娠してしまい、しかし娘の親が結婚を許さないので、駆け落ちして江戸へ出て、男は武家奉公、女は旗本の家に乳母に上がり、コネと蓄えを得て同心株を買う、というようなことも、いくらでもありえたのです。
 こういった幕臣の流動化とともに、王朝文学の庶民的な受容が進みましたとき、武家道徳は相対化されます。

 そして、江戸は文化の中心地でした。
 旗本、御家人の色恋、結婚に対する感覚は、地方武士のそれとは、かなり乖離していたでしょう。
 余裕のある旗本の家では、妻女が芸者と席をともにして、夫や父親と季節の風情を楽しむことも多々あります。
 文芸の趣味を同じくした男女、ということですと、京都にもまた、新しい男女の形がありました。「『源氏物語』は江戸の国民文学」で書きました頼山陽の女弟子・江馬細香が典型的ですが、中村真一郎氏は、「頼山陽とその時代 上 」におきまして、以下のように述べておられます。

「ところで、(頼山陽と女弟子の)この対等の男女関係という問題は、さらに世代の共通課題として、発展させていく必要がある。
 また彼(頼山陽)の獲得した自由が、次の革命的世代のなかで、どのように変貌して行ったか。また、明治維新以後において、薩長の田舎漢たちの遅れた男女関係の意識が、新しい支配階級のものとして、時代の道徳を指導するに至って、もう一度、大幅に後退して行ったことが、後世、山陽を遊蕩児と見ることに、大いに役立ったことの事情についても」


 つまり、なにが言いたいかといいますと、「雅」をすっきりとぬかして、ピューリタニズムとシンクロしました有礼の恋愛観は、常のそれよりも、はるかに不自由なものであっただろう、ということなんです。
 有礼にとっての夫婦愛は、理念上、私愛であってはならず、エロスが欠落しているのです。しかし、理念上そうであったにしましても、男女の愛は、本質的には、エロスを欠落させては成り立たないものであり、有礼が理想とする媒酌が入りましての紹介婚ではなかったわけなのですから、常を見初めるにあたって、エロスが介在しない、などということはありえないでしょう。にもかかわらず、それを認めない男といのは、けっこう、疲れる相手じゃないでしょうか。

 さらにもう一つ、幕末期、士族の娘といえども、生涯、実家との縁は切れません。実家から小遣いをもらい続ける例も、多数。かならずしも、夫にすべてを頼るわけではなかったわけでして、そうであればこそ、同格か、あるいは実家よりも格下の家に嫁ぐ方が、女の立場は楽なのです。
 まして広瀬家は、男子の跡取りがなかったような様子です。はっきりわかっています妹とは、10近く年が離れ、となりますと、おそらく常は、跡取り娘として、婿養子を迎える立場だったのだろうと推測できます。こうした女の立場は、やはり、とても気楽なものです。
 それが、です。実家は落魄れて、食べるにもこと欠く状態で、小大名のような勝者のもとへ嫁ぐ、といいますのは、なにもかも夫が頼りで肩身が狭く、士族としての誇りだけはあったでしょうから、それこそ妾にあがるような、屈辱感だったのではないでしょうか。
 この点におきまして、有礼が再婚しました寛子は、岩倉具視の娘で、実家は森家よりはるかに格上です。寛子夫人の回顧談により、有礼の女性観を評価し、常に批判的な視線をそそぎますのは、犬塚氏でさえそうでして、従来の一般的な論調なのですけれども、ちょっとちがうのではないか、と思います。

 続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき7

2010年09月14日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき6の続きです。

 今回の参考書は、主に明六雑誌に連載されました、森有礼の「妻妾論」です。下の本に収録されています。
 しかしもう、今日のお話は妄想オンパレードでありますことを、ご承知おきください。

明治文化全集〈第5巻〉雑誌篇 (1955年)
クリエーター情報なし
日本評論新社


 開拓使東京出張所は、増上寺境内にあります。長官の黒田清隆は、常時こちらにいて中央行政にも根をはり、こまめに政争にかかわっています。そこらへんの生臭い世界は、理念にこだわります森有礼の苦手とするところでして、まったくもってタイプがちがいますだけに、かえって気楽に接することができたりします。
 四月の終わり、広大な境内は藤の花に彩られ、甘やかな香りがただよっておりました。
 有礼は、自分が黒田に勧めました女子教育の実験学校でありますだけに、開拓使女学校へはたびたび足を運び、見学しておりました。
 外務省からの払い下げを受け、木挽町に屋敷を構えましてから、同じ敷地内の隠居所に住みます母の里は、種子島から上京して森家に住み込みました古市静との結婚を勧めます。
 しかし、有礼には、意中の美女がありました。開拓使女学校の女生徒、広瀬常です。
 雛人形のように品のいい、整った顔立ちで、すらりとして姿勢が良く、お小姓の出で立ちが似合いそうな、美少年っぽい、きりりとした美人です。
 欧米から帰りました有礼の目に、日本女性の最大の欠点として映りましたのは、猫背のような、その姿勢なのですが、常はなぜか西洋式にぴんと背筋をのばしていて、体操が得意です。聞けば、父親が紅林組の同心で、フランス兵制を採用しましたときに、父親にねだってフランス式の体操を習ったりしたのだという話です。
 常は、よどみのない口調で、答えたものでした。
 「フランスの救国の英雄は、ジャンヌ・ダルクという少女で、鎧甲冑に身を固めイギリス軍と戦ったと聞きました。私もお国のために戦ってみたいものと、夢見ていたのでございます」
 清々しいその様子は、元服前の美少年そのもので、有礼は、昔の鮫島に似ている!(似てないってば!)と、ぞくっとするほど魅せられたのでした。
 今日も今日とて有礼は、女学校をのぞきたい誘惑にかられたのですが、条約改正の試案について、黒田に相談してみたいことがあり、楽しみは後にとっておき、まずは、黒田のもとを訪れました。
 黒田は大歓迎で、開口一番、「おじゃったもんせ。おもしろか話がありもっす」と上機嫌。ライマンが常に結婚を申し込み、常が即座に断った経緯を詳細に語り終えますと、「ライマン先生、おなごを知りもはんな。常女はよかおなごじゃが芯がきつかで、うぶな先生の手におえるもんじゃなか。ワハハハハ」と、気持ちよさそうに大笑いいたしました。

 有礼は、笑うどころではありません。「先を越されたっ!」とまず焦り、次いで「自分が見込んだ女性は、アメリカの知識人から見てもやっぱり魅力的なんだな」とほくほくもし、しかし一方で、ぴしゃりとライマンの申し出を断ったという常に、いったいどのように結婚を申し込めばいいのか、困惑もしました。一向に、それでひけめを感じているわけではありませんが、信念から、芸者遊びをしたことはありませんし、女を知らないことにかけては、ライマンといっしょなのです。
 ここはもう、自分流で押し通すしかありません。
「黒田どん、国家の基礎は、男女の正しい交わりから生まれもす。夫婦がたがいに人格を尊重することで、おなごはりっぱな母となり、国を担う子を育てることができもす。人格を尊重するためには、おなごにも知性が必要じゃって、ライマン先生が、女学校の生徒を正式な伴侶として見込まれたは、まっこて学校の誉れ。結婚は、浮ついた気分でするもんではなか。常女が、なんしてライマン先生の申し込みを断ったか、どういう結婚を望んじょるか、女子教育を考える上で、聞いてみたか」
 黒田は、「こいつ、アホか! 男女の好き嫌いに人格もくそもあるか」と内心思ったのですが、すぐに、どうやら有礼が常に気がありそうなことに気づき、笑いたいのをこらえて、まじめくさった顔をつくろいました。
「そりゃ、常女に直接、聞かねばなりもはんな」

 呼ばれた常は、しとやかに目を伏せ、勧められるままに、椅子に座りました。
「正直なところを、答えてもらえるとありがたい。ライマン先生は、りっぱな学者で、人格もすぐれておられる。あなたの人格を認められて、正式に結婚を申し込まれたにもかかわらず、即在に断わったというのはなぜなのか、女学校教育の今後のために、聞きたいんだが」
 有礼の言葉を聞きながら、黒田は「おい、りっぱな学者なんじゃろうが、あいつの人格はすぐれてねーぞ」と心の中でつっこみを入れつつ、興味しんしんで、常の答えを待ちました。
「正直にお答えして、よろしいのでしょうか? ……私は、ライマン先生がどのようなお方なのか、まったく存じておりません。ライマン先生も、私がどのような女であるか、ご存じのはずがございません。奧女中を見初めて側室にしたいという殿様と、どこがちがうのでしょうか。芸者を見初めて、正式な妻にしたいという場合は、まだしも、お座敷でのつきあいがございますので、お互いにわかりあえることもあろうかと存じますが」
 これには有礼も、どきっとしました。なにしろ一目惚れですので、常を知らないことにかけては、ライマンとたいしてかわりません。
「なるほど。……いやしかし、お座敷のつきあいで男女がわかりあえるというのは、あなたの誤解だ。男が金を払って、女を奴属させて遊ぶ不道徳な場に、人格の尊重はない」
 常の視線は、吹き出したいのを必死でこらえている黒田をとらえ、踊りました。
「お言葉ではございますが……、民の手本となるべき太政官の方々は、芸者を奥方にお迎えの方が多いと聞きおよびます」
「それがわが国の遅れたところで、改めていかねばならない。大官の人倫にもとる結婚は、世界の侮りを受ける」
 重々しい有礼の口調に、常は、「そんな演説は、太政官でしろよっ!!!」と、胸の中でつぶやきつつ、黒田に視線を走らせました。
 それに気づいた黒田も、「ここでする話かあ!?」と、以前からわかっていたことではありますが、有礼の変人ぶりにあきれて、かすかに肩をすくめ、有礼の代わりにと、常に向かって問いかけました。
「そいでは、おはんの理想の結婚相手とは、どんな人物かな?」
「さようでございますね……、筒井筒の仲でございます。幼い頃から知り合っていましたら、お互い、よくわかりあえますので」
 有礼は胸騒ぎを覚えつつ、聞かずにはいられませんでした。
「すでに、そういう相手がいると?」
「おりました。戊辰の折、大鳥さまについて行きましたきり、行方知れずでございます。大鳥さまがご赦免になりましてなお、姿を現しませんのですから、戦死いたしましたのでしょう。私は……、結婚するためにこの学校へ入ったのではございません」
 大鳥圭介は、戊辰戦争に際して、フランス軍事顧問団の伝習を受けておりました幕府伝習隊を率いて江戸から脱走し、関東各地、会津と転戦し、函館に至って抗戦いたしました。降伏した相手の黒田の尽力で赦免され、開拓使に奉職。娘二人が、開拓使女学校に通っております。
「では、どうしたいと?」
「母が静岡でお産でみまかりまして、私、できますれば、西洋医術を心得ました産婆となり、ご奉公いたしたいと存じております。教育も大切でございましょうが、その前に、子が無事に生まれて育ち、母も健やかでありますことが、まず第一と愚考いたします。伝え聞くところによりますと、函館でエルドリッチ先生が産科の講義をなさっておられるとか。こちらを卒業の後は、聴講させていただければ、この上ない幸せなのでございますが」

 常が去った後、有礼は呆然とし、黒田は笑いをかみ殺すのに必死でした。
 あきらかに常は、有礼が自分に気があることに気づき、予防線を張ったのです。
 しかし黒田は、内心、困ったことになった、とも思ってもおりました。「卒業後は5年間の開拓使奉公」と規定しましたものの、予算不足と文部省からの抗議で、開拓使でこれ以上、北海道での女子教育を積極的に進めることもできず、となれば、女性教師の数もそれほどいりません。また医学校は、最初に構想しました大規模なものは実現せず、函館で、エルドリッジが診療の傍ら、小規模に教えているような実態ですが、それでさえ、廃止の方向が打ち出されている現状なのです。
 これはもう、なんとか骨を折って「この変人の思いをかなえてやるしかない!」と、決心したところで、有礼が宣言しました。

 「決めもした! おいは常女を娶りもす」

 黒田は、「だからおまえ……、許婚が脱走兵になって死んだだの、母親が静岡移住で死んだだの、あれだけ嫌みを並べ立てたのは、気がないからだろうが」と脱力しつつ、「どげ、協力してやればいいもんか」と、思いをめぐらせたのです。
 そんな黒田の好意も知らず、有礼は、またも演説をはじめました。
「女学生に言われるようでは、まずは太政官のお歴々から、啓蒙せにゃなりもはんな」
 仕方なく、黒田は頷きました。黒田の妻は芸者ではなく士族ですが、もちろん、芸者遊びが嫌いなわけではありません。
「そいもよかが、長州攻撃ととられるのもやっかいじゃて、てげてげにな」
 えー、親分の木戸孝允に伊藤博文。長州閥のトップ2は、芸者さんを正妻に迎えていたんです。
「そげなことはなか。芸者を正妻にするよりも、正妻がありながら芸者を妾にするのは、もっと悪か。夫婦はたがいに貞節を守らにゃなりもはん。そいが人倫というもんごはす」
 黒田はもう、目を白黒させておりました。「大久保さあもかよ。おい、おい、おい、おい………」と、あきれつつ、いや自分も含まれるか、と苦笑して、まあ、この大まじめな変人の恋を助けてやれるのはおれしかない、と思い直したのでした。

 そんなわけで、有礼は急遽、「妻妾論ノ一」を書き上げ、明六雑誌に発表したような次第……、かもしれません(笑)
 続きます。


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広瀬常と森有礼 美女ありき6

2010年09月11日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき5の続きです。

 明治5年(1872)9月、17歳の常は、15歳4ヶ月だとさばをよんで、開拓使女学校に入学したわけなんですけれども、通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)を見ますと、最初の入学条件に、「卒業後、北海道に永住すること」とあったそうです。となれば、広瀬常と森有礼 美女ありき1で妄想してみましたように、広瀬寅五郎=秀雄で、常は函館で少女時代を過ごした可能性が、非常に高いと思います。
 一家の静岡移住がうまくいかず、じゃあ慣れ親しんだ函館へ行こうか、函館には昔の同心仲間もいることだし、となったところへ、開拓使女学校の生徒募集があり、おそらく、なんですが、広瀬一家には男子の跡取りがいませんで、長女の常は、「手習いの先生か産婆さんか手に職を」と思った、という妄想は、それほど突飛なものではないでしょう。

 ところが翌明治6年(1873)4月、突然、校則が変わります。「5年間開拓使に従事すること、北海道に在籍する者と結婚すること、退学の場合は学費を弁済すること」となったんです。
 5年間の開拓使従事は、給料をもらえるのならば、まあいいでしょう。しかし北海道在籍者と結婚することって、どうなんでしょ。ただ、まあ、この時点では、あれです。5年間、なにをするのかわかりませんが、まあ例えば学校の先生とか、開拓使に奉職してしまえば、結婚云々はうやむやになってしまうかもしれませんし、常の場合、函館移住の後、かつての秀雄の同僚の家から養子をもらう、という線も考えられて、抵抗がなかったかも、しれません。

 ところが翌明治7年の4月、ベンジャミン・スミス・ライマンという開拓使お雇いアメリカ人地質学者が、常を見初めて、「あの娘が欲しい~♪」とわめきだしたんですね。
 ライマンの人間像については、藤田文子氏の下の本が、公平に見たところを、描いてくれていると思います。

北海道を開拓したアメリカ人 (新潮選書)
藤田 文子
新潮社


 黒田清隆が開拓使に招くアメリカ人を選ぶにあたって、森有礼にすべて頼ったことは、前回、紹介しました。
 実のところ、有礼がきっちり学問を修めたのは、ロンドン大学でのほぼ2年間だけでして、アメリカでは、ハリス教団にいた経験しかありません。しかしこのハリス教団、当時、世界を牛耳っておりました欧州の既成の価値観を否定していましたから、世界を救うのは新大陸のアメリカと東洋、ということで、日本人留学生勧誘に乗り出したんですね。
 したがいまして有礼は、実情を知らないままに、アメリカには非常に好感を抱いていたはずなのです。
 有礼のすごいところは、です。自分が正しいと思い込みますと、まわりの雑音など気にもとめず、もうしゃにむに押していきます、その実行力です。そのときに、さっぱり、まったく気配りがないですから、大きな反発をくらって、うまくいかなかったりするのですが、その信念には私情がないですから、人を使うのが上手い大久保利通と伊藤博文には能力を買われて、バックアップしてもらえたんでしょうね。

 岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保をいま読み返してみまして、大筋をまちがえていたとは思わないのですが、「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」という大久保利通の最初の憲法観のブレーンは、維新直後の京都から、大久保のそばにいた森有礼だったのだと思います。
 で、あきらかに木戸も佐々木も、有礼が考える平田国学とスウェーデンボルグが一体となった「神」が、理解できなかったんでしょう。大久保は平田国学をかじった薩摩人ですから理解し、伊藤博文はおそらく、下関で白石正一郎などの国学を修めた商人層とのつきあいが深く、また、ものごとの本質を大づかみに理解する術に長けていますから、理解しえたのでしょうけれども、この時点では表現がまずく、「キリスト教を国教にしようとしている」という誤解を受けたのではないでしょうか。

 またも話が脱線してしまいましたが、ともかく、です。有礼は北海道開拓の構想をまかせられるアメリカ人を獲得すべく、アメリカ農務局長のケプロンに相談をもちかけますが、要職にあるそのケプロン本人が、来日してもいいという意向で、有礼も黒田も大感激し、長はケプロン、そして他の人材の人選を、すべてケプロンに任せます。
 というわけでして、「北海道開拓はアメリカを見習う」という方針は現実になったのですが、藤田文子氏がおっしゃるように、当時の北海道の現実と、アメリカ式開拓には多大なギャップがありまして、資金不足も手伝い、お雇いアメリカ人と開拓使は、摩擦を起こしつつ、紆余曲折をくりひろげます。
 
 で、お雇いアメリカ人、と一口に言いましても、個性はさまざまなわけでして、一概にどーのこうの言えるものでもないのですが、開拓使との摩擦がもっとも大きかったのが、ライマンなのです。
 ライマン家は、17世紀にイギリスからボストンに渡った名門で、この当時、資産家ではありませんでしたが、教育レベルが高い、東部のインテリ一族だったようです。
 ベンジャミン・スミス・ライマンは、ニューイングランドの名門私立校からハーバード大学に進み、さらにヨーロッパに遊学して、当時、その方面で一流とされていましたパリの国立鉱山学校、フライブルグの王立鉱山学校でみっちり学び、地質鉱山技師となっていました。イギリス政府の委託を受けて、インドで石油鉱脈の調査をした経験もあり、すぐれた技能を持った学者であったことは、疑いのないところです。
 まあ、しかし、です。だからといって男として魅力的かといいますと、これはまた別の話でして、来日を決意した明治4年(1862)、36歳で独身でした。アメリカ人には珍しい無神論者で、菜食主義者。年ごろの娘を持つ父親からは、娘の夫としてあまりふさわしくないと敬遠されているらしいと、自分でも感じていたようです。
 いまでいうリベラルなインテリで、リンカーンが即時に奴隷制度を停止せず、黒人に差別的な意識を持っている、というので、南北戦争にも従軍しませんでした。そのくせ、です。アングロサクソン人種だけが統治能力を持ち、世界の秩序を保ちえると信じていましたので、帰国して後の話ですが、日清戦争、日露戦争と続く日本の勢力拡大を非難しつつ、アメリカのフィリピン併合は支持していたんだそうです。なぜならば、アメリカの支配は「共和制、自治、普通教育」を広め、住民の福祉を向上させるよい支配、だから、なのだとか。やれやれ。
 
 ライマンは、地質学調査の弟子となった日本人たちからは、後々までも慕われていまして、そういう立場にいるときには人格者であった、ともいえそうなのです。
 しかし、だからといって、男として魅力的かといいますと、まったくもって別の話なのです。
 なにより、「日本は、若い王子(アメリカ)が命を吹き込み、美しさを蘇らせる眠れる森の美女」だとみなしていたという、この気色の悪いあきれた上から目線がいけません。同じく開拓使お雇いアメリカ人のエドウィン・ダンや、イギリス外交官アーネスト・サトウのように、日本女性と添い遂げた外国人には、この啓蒙してやる!という、上から目線がありません。

 ライマンは口数が少なく、人づき合いが悪く、善意に解釈すればシャイだったんでしょうけれども、内心はこのあきれた上から目線です。
 自分で申し込めばいいものを、どうやら開拓使女学校に、「あの娘が欲しい~♪」と、申し出たらしいんですね。
 あんたっ、女学校は芸者の置屋じゃないんだから!!!
 しかしまた、受けた女学校側も女学校側でして、なにしろどうやら、校長の調所広丈さんはじめ、大名屋敷の行儀見習いと同じような気分です。
 学校当局は、「文明国の知識人で独身のお人が、正式に結婚を申し込んでおじゃったは、広瀬常にも学校にも名誉なことでごわはんか。わが校の教育がすぐれちょる証拠で、他の学生の励みにもなりもっそ」と、黒田に上申。
 だからねー、薩摩屋敷の行儀見習い奧女中じゃないんだから!!!

 常にしてみれば、驚愕、仰天でしょう。
 講談「天保六花撰」の河内山宗春が頭に浮かんだんじゃないですかしらん。
 「ライマンとやらって、いったい、どういう大名きどりよっ!!! 私は、あんたの奧女中じゃないわよっ。おとといきやがれっ!!!」
 開拓使役人だった松本十郎の回想によれば、学校当局からライマンの意向を知らされた常は、即座に、きっぱり断ったそうです。
 「広瀬家には男子がおりませんので、私は婿養子を迎えねばなりません。そうでなければ私、ご祖先さまに申し訳がたちませんのでございます」とかなんとか、上手な断り方は、いくらでもあったでしょう。
 また同じく松本によりますと、調所校長の下にいた福住三という幹事が、女生徒を個人的に女中のように使ったり、かなりうろんな人物であった、という話でして、ライマンが、「常には無理な事情があり、他の女生徒ではいかがで?」と福住に女衒のように言われて、「常がイエスと言わなかったなぞと、学校当局の陰謀だ!!!」と思ったのは、なんせ学校当局が女衒みたいなんですから、仕方がないといえばないんですが、それにいたしましても、「文明国の知識人が、未開国の女に正式に結婚を申し込んでやっているんだ」という態度で学校当局に迫ったんでしょうし、婚約者のいる奧女中を妾にしたいとわめく大名と、その姿勢に大差はないですわね。

 常識的に考えまして、黒田がこの事件を、有礼に語らないわけがないと思うんですのよ。
「ライマン先生、おなごを知りもはんな。常女はよかおなごじゃが芯がきつかで、うぶな先生の手におえるもんじゃなか。ワハハハハ」
 絶対に、黒田は、大笑いしながら話しましたわよ(笑)
 これ以前に、有礼が常を知っていたかどうかはわかりませんし、あるいは、なにしろ面食いですから、すでに目ざとく見初めていたかもしれないんですけれども、「常女こそ、神が定めたもうた魂の伴侶!」と舞い上がりましたのは、このときからでしょう。
 といいますのも、ライマン事件の直後、明治7年5月、明六雑誌に、有礼は「妻妾論ノ一」を発表しまして、自らの結婚観を語っているんです。従来、あまり注目されておりませんでしたけれども、この妻妾論の成り立ちと常の存在は、けっこうつながる話だと、私は思っております。
 まあ、そんなわけでして、ようやく次回、実際に二人が出会うことになります。


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広瀬常と森有礼 美女ありき5

2010年09月09日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき4の続きです。

 えーと、いまごろになって、開拓使女学校に関する論文をみつけました。北海道大学の開拓使仮学校の設立経緯と、通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)で、双方、開拓使仮学校の一部として女学校を扱っているだけですので、そう詳しいわけではないのですが、特に後の通史が、おもしろいです。
 すごいじゃないですか。衣食住ほとんど開拓使もちで、文房具から日傘、雨傘、駒下駄、髪結い料、シャボン、香水、ハンカチーフまで支給され、散歩料という名のお小遣いが出たんだそうなんです。

 いったい、これ、なんなんでしょ?
 津田梅子や後の大山巌夫人・捨松や、開拓使がアメリカへ送り出した女子留学生5人もそうなんですが、いったい、なんのための女子教育なのか、さっぱりわからなくないですか?
 どうも、ですね。イメージとして、良家の子女(下級士族や名主などの家の娘)が、大名屋敷の奧女中になり、花嫁修業として教養を身につける、その教養に、です。英語やら欧米知識を加えた、といった感じがします。
 いや、別に高い教養を身につける花嫁修業がいけないというんじゃないんです。ただ、そうやって高い教養を身につけた良家の子女が、北海道開拓者の嫁になるでしょうか? 開拓使高官の嫁、というなら、またちがうかもしれませんが。

 「開拓使仮学校の設立経緯」の方を見ますと、北海道開拓のための学校の原案は、お雇いアメリカ人アンティセルが練り、すでにその中に、女学校が含まれていたことがわかります。で、その原案といいますのは、教養学校ではなく実用学校で、科目が明治初年の日本の実情にはさっぱりあってませんが、目的としては、手に職をつけさせるためのものでした。それを日本側が「結婚後、母親として自身の子どもを教育する時のための素養を身につけさせる」ための学校と規定し、科目を変更したんですね。
 この「良妻賢母女子教育」は、有礼の持論です。明治7年(1874)11月、常とのシヴィルウェディングの3ヶ月ほど前に、有礼が明六雑誌第20号に発表しました「妻妾論ノ四」は、そういう内容でして、有礼の女子教育観がわかります。どうも私、西洋知識がどーのこうのよりも、男勝りの孟母・里さんの影響を、強烈に感じます。

 明治元年(1868)、ハリス教団を出た有礼と鮫ちゃんは、6月には京都へ到着します。9月、大久保利通とともに東京へ行き、有礼が新政府でもらった仕事が、当初は「学校取調兼勤」です。おそらく、なんですが、このころから有礼は、教育行政に携わりたかったのではないでしょうか。
 しかし、新政府において数少ない洋行経験者ですから、各方面でひっぱりだこな反面、22歳と若いですし、ただでさえエキセントリックなところへもってきて、ハリス教団で特異な体験をしてきたばかり。翌2年、公義所議長心得となって「廃刀自由令」を提出し、猛反発をくらうんですね。
 これは、有礼にはちょっと気の毒な背景もあります。「フランス艦長の見た堺事件」によりますと、維新直後の京都において、薩摩藩主・島津忠義は、「藩士にそうしてもらいたい」と望んで、廃刀の手本になっていた、というんですね。堺事件をはじめ、外国人殺傷事件が続いておりました中、堺事件の当事者でしたフランスの艦長が、そう述べているんです。京の薩摩藩邸にはモンブランが政治顧問としていたんですから、藩主の廃刀で、騒ぎになったりすることはありえません。
 なにしろ薩摩では、藩主がそうしているんです。有礼が廃刀を軽く考えても、これは仕方がなかったんじゃないだろうか、と思います。

 で、有礼は辞職し、明治2年7月に薩摩へ帰って、翌3年、英学塾を開きます。薩摩では洋学熱が高まっていまして、有礼の塾は盛況。塾生が多すぎて、自分の勉強をする暇がないのが不満だったようです。
 ところで、そうこうしている間に、東京へ出た兄の横山安武は、政府批判の割腹自殺をします。
 またこの時期、種子島士族の娘・古市静が塾生となったようですが、なって間もなく、有礼は外務省から呼出を受けますので、静が有礼の私塾にいた期間は、ごく短いみたいです。この静さん、洋学に目覚めたきっかけというのが、慶応4年(1867)に眼病治療のため父と長崎へ行ったときに、薩摩辞書を編纂していた前田正名と知り合ったことだった、というのですから、ちょっとびっくり、です。
 
 
 鮫ちゃんと有礼は、日本が海外へ送り出す最初の日本人駐在外交官となりました。鮫ちゃんは普仏戦争最中の欧州へ、有礼はアメリカへ、20代半ばという若さで、日本を代表する少弁務使(代理公使)としての赴任です。鮫ちゃんは、イギリスでは拒否され、フランスに落ち着きます。何度か書きましたが、イギリスの外交官は官僚ではなく、貴族かジェントリーの子弟が自腹をきって奉仕するものでして、まあ世界の一等国イギリスとしましては、公使をよこすなら、せめて大名の一門とか、名門で、なおかつ経験豊かな年輩の者をよこせ、ということなんですね。
 しかし、手探りで外交デビューする日本側にしてみましたら、条約改正問題もありますし、日本のお殿様は通常、「よきにはからえ」で大人しく祭られていることをよしとしていて、イギリスの貴族のように英才教育を受けてリーダーシップがとれるようには育てられていませんし、海外事情もなにもさっぱりわからないでは、手探りのしようさえないわけなのです。それでイギリスには結局、名門の条件は満たしていませんが、幕末からの外交経験を買われて、寺島宗則が赴任することになります。

 明治4年(1871)初頭、ワシントンに到着した有礼は、鮫島とちがって、すんなりと受け入れてもらえます。当時のアメリカは、まだまだ若い国でした。で、2月になって、開拓使をアメリカ式に運営するために、留学生4人を伴った黒田清隆が、ワシントンの有礼のもとへ姿を現します。犬養孝明氏の「若き森有礼―東と西の狭間で」によりますと、このとき黒田は、「ハリスって、ずいぶん変な世迷い言を言い散らす人らしいね。最初はすばらしく神聖な教えかと思い、すぐに実は迷信だと気づく代物だとか。ワハハハハ」と、大笑いしながら言ったそうなんですね。
 えー、黒田にこの話をした人物は、かなりの確率で、吉田清成でしょう。
 清成は前年の12月、有礼と入れ違いにアメリカを発ち、黒田が出発する直前に、帰国していました。生まれて初めてアメリカへ渡ろうという黒田が、薩摩出身でそのアメリカから帰ってきたばかりの清成に、話を聞かないはずがありません。清成は、鮫ちゃんとともに最初にハリスにはまり、絶好状をつきつける形で教団を後にし、同じく教団を出たにしましても、おだやかに別れを告げた畠山、松村とはちがっていましたから。黒田を介してのこの悪口も、江戸は極楽であるで書きました翌年の清成との大喧嘩に、油をそそいだ、かもしれませんね。これを書いた当時から、いろいろと知ることがありまして、私の二人に対する見方も、かなり変わってきてはいるんですけれども。

 だから、ね、あなたたちっ!!! 「大理論畧」を、もう一度、よく読み返しなさいよ。「古ヨリ国家ノ危機ヲ生スルモノハ小理ニナツミ眼前ノ美ヲ美トシ悪ヲ悪トスルノ甚シキニ出サルハナシ」と、八田のじさまは、しめておられるじゃないですの。

 話がそれましたが、ここで黒田は、開拓使に招くアメリカ人の選定から留学生の落ち着き先まで、すべて有礼の世話になり、で、有礼が黒田に女子教育の話ももちかけ、開拓使で女子留学生を出したり、女子学校を作るようなことも、スケジュールにのぼったらしいのですね。今回、詳しい話は省きますが、結局、有礼が一番やりたかったことは、最初から教育行政だったようなのです。
 しかし、有礼は敵を作りやすい性格でして、岩倉使節団がアメリカにやってきましたとき、木戸孝允だけでなく、随行の文部官僚に嫌われまして、それはなかなかかなわず、外交畑にとどまります。薩摩閥の中から、代わりに教育畑に行きましたのが、木戸に気に入られました畠山義成です。

 まあ、そんなわけで、明治6年(1873)、帰国しました有礼にとって、薩摩閥の黒田が長に座っています開拓使仮学校、わけても女学校は、けっこう気にかかる実験であったはず、なのです。
 しかし、ですね。有礼はあくまで部外者ですし、アメリカで有礼が黒田に理想を語り、黒田が現場任せのやっつけで開校しました開拓使仮学校女子部が、です。いかに開拓使にそぐわない学校であったところで、有礼に責任があるわけではないのですけれども、なんともいえないちぐはぐさの一因は、こういった設立経緯にもありそうです。

 有礼は、条約改正交渉では、海千山千大ダヌキの在日アメリカ公使デ・ロングにしてやられ、えー、今でもそうであったりするんですが、アメリカが派遣する公使(大使)は、大統領と仲がいいからとか、選挙で貢献してくれたからご褒美とか、そういう理由で知識も経験もない者が選ばれることが多々あります。このデ・ロング、相当にいいかげんな人物だったよーでして、まあ、ともかく、有礼はしてやられまして、また清成との大喧嘩で木戸はじめ岩倉使節団一行の顰蹙を買い、自ら代理公使をやめる、とわめき、しかし有礼でなけれできない用事もあり、しばらくアメリカに留まって、欧州まわりで帰国します。
 欧州まわりの理由の一つは、そのころアメリカでその持論が流行っておりました、イギリスの社会学者・ハーバート・スペンサーに会って、日本の国作りに有益な意見を聞くためでした。まっ、小理は、さまざまに模索しませんと、ね。
 余談ですが、このスペンサーじいさん、とてつもない面食いでした。若いころ、じいさんは、女流作家のジョージ・エリオットと結婚するのが自分の義務なのか、と煩悶したそうなのですが、鼻が長すぎて美人ではない!ので、義務ではないと判断したんだそーなんですの。
 私、有礼は生来面食いであった、と決めつけておりますが、その点、スペンサーじいさんと意気投合したんだと思いますわよ。

 えー、明治6年7月末、帰国しました有礼は、明治6年政変をよそごとに、といいますのも、まだよくは調べてないのですが、大隈重信の回想では、こちらもデ・ロングにひっかきまわされまして、有礼の所属する外務省の長・副島種臣が、征台と草梁倭館派兵に突っ走ろうとしたことをきっかけに起こったよーなものですし(明治6年政変と征韓論 明治4年参照)、傍観していますうちに、大久保利通が副島を追い出し、外務省はイギリスから帰国しました寺島宗則が掌握しまして、有礼はお咎めもなく、国内勤務で外務省にとどまることができました。

 有礼は帰国直後、福沢諭吉など、主に旧幕洋行経験者を誘いまして、学者クラブ・明六社を立ち上げています。まっ、日本の国を啓蒙しようというわけなんですが、これを庶民向けだと思ってしまいますと、なんつー上から目線!と感じるんですが、クラブ発行の明六雑誌を読んでみますと、要するに学者クラブの雑誌ですから、国家官僚や官僚の卵、在野のインテリ向けです。
 で、同時に有礼は、家を持ち、鹿児島から、両親と、すらりとした美少年に成長しました長兄喜藤太の遺児・有祐とその母・広を東京に呼びよせます。

 そして、この明治6年末、鹿児島で有礼の私塾に通っていました古市静が、種子島から上京してきまして、森家に住み込んだ、といいます。
 これは憶測なんですけれども、もしかしまして、孟母・里さんが、静を気に入ったんじゃないんでしょうか。「洋学熱心な薩摩おごじょ! 良妻賢母になりもっそ」というわけで。
 えー、有礼がどう思ったか、ですって? そりゃあ、もう、有礼はとてつもない面食いですから(笑)。

 実は、有礼と常がいつ出会ったかは、まったくわかってないんです。
 しかし上記のように、有礼が開拓使女学校に関心をもたないわけがないですし、妄想をたくましくしますと、です。孟母・里さんから静さんとの結婚を勧められ、義務か、と煩悶し、実のところは単に「顔が気に入らない!」だけですのに、「神への愛を共有できる伴侶とは、魂がふれあうもの。ハリス教団で修業した身には、一目でピンと感じるはず。静さんにはそれがない! 教養を高めようと開拓使女学校で学んでいる少女ならば、もしかして」と、物色しに出かけた、かもしれませんわよ(笑)
 そんなわけで(どんなわけやら)、明治6年末から明治7年前半にかけて、有礼は常を見初めたものと思われます。

 次回、そのころ常が、どんな災難に見舞われていたか、というところから、お話を進めていきたいと思います。


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広瀬常と森有礼 美女ありき4

2010年09月07日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき3の続きです。

 えーと、開拓使女学校における、広瀬常の災難なんですけれども、そのもとになった常の美貌なんですが、「美しい」とは、アーネスト・サトウとかクララ・ホイットニーとか、同時代のさまざまな人物が証言していますが、具体的な描写はなく、写真がなければ、いまひとつイメージがわきませんよねえ。
 鹿鳴館のハーレークインロマンスで書いておりますが、私が以前に広瀬常のものだと思っていた写真は、実は園田孝吉夫人・けい(金偏に土二つ)のものだったと、下の本ではされています。

明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム
犬塚 孝明,石黒 敬章
平凡社


 実はですね。もっているはずなんですが、この本、出てきません。で、記憶が曖昧になっているかもしれませんので、不正確な記述になるかもしれませんが、お許し下さい。
 私が、大昔に常夫人だと信じて、想像をふくらませた写真は、これです。森有礼の遺品のアルバムにあったんだそうなのですね。



 同じアルバムに、あと二枚、同一人物と見られる写真がありました。そのうちの一枚が、これです。



 で、この2枚の写真の胸元のアクセサリーに注目してください。明治18年(1885)、山本芳翠がロンドンで描いた園田けい像が、同じアクセサリーをしているんです。



 というわけで、上の2枚の写真は、常のものではなく、園田けいではないか、というわけです。
 確かに、アクセサリーは同じに見えますし、幼児を抱いた方の写真は、髪型や顔の角度も似ていて、言われてみればそうかな、という気がします。
 しかし、ですね。私、国会図書館で、大正15年に発行されました荻野仲三郎編「園田孝吉傳」を全編コピーしてきまして、ちょっと疑問に思ったんです。これには、ちゃんと章を設けてけい夫人の記述があり、写真も載っているのですが、有礼のアルバムにあった三枚の婦人像は、ないんですね。
 下は、その「園田孝吉傳」に載っています、明治15年(1882)、渡英直前の園田夫妻の写真です。



 このけい夫人の写真は、確かに芳翠の肖像画とそっくりです。で、くらべてみますと、有礼のアルバムにあった婦人像は別人に見えませんか?

 「秋霖譜―森有礼とその妻」において、森本貞子氏は、有礼アルバムの婦人像をやはり常のものだとなさって、「磯野家に残っていた妹の福子の写真がよく似ている」ともされています。下が、その写真です。



 確かに、森本氏のおっしゃる通りなんですよね。
 じゃあ、アクセサリーはどうなのか、ということなんですが、「園田孝吉傳」に、明治17、8年ころ(鹿鳴館がオープンした当時です)の話として、次のようなことが載っているんです。
 日本で宝石の装身具が流行し、ロンドン領事の園田氏のところへ日本から、「買ってくれ」という依頼が多く舞い込んだんだそうなんです。しかし宝石は、とてつもなく高価です。外国の貴婦人たちは、先祖代々伝えているわけでして、日本人がそれと競って高価な宝石を輸入したのでは、国家財政上、おもしろくないと園田は考え、応じなかったんだそうです。で、「我国は古来美術の国、金銀細工物の妙技を誇つてゐるのに何を好んで他国の宝石を羨むことがあろうか。寧ろ我特有の装飾品に相当の美術的加工を施して宝石の代用に用いたならば、一には経済の一助ともなり一には国産奨励の意にも叶ふであらう」ということなんです。

 どうやら、園田けい像の独特のアクセサリーは、宝石の代用に、日本の工芸品を加工した可能性が高そうです。
 で、外交官夫人にとって、宝石をどうするかという問題は、なにも鹿鳴館時代にはじまったことではないんですよね。
 常は、渡英前にも、公使夫人として北京へ行っていますし、森家でアメリカ元大統領を迎えての晩餐会を催したり、ともかく、夜会服を着てつける宝石に困った経験は、早くからしていたはずです。いくら有礼の給与が高額でも、元大名家じゃないですし、また有礼は潔癖性で、実業家から貢いでもらうようなこととも無縁ですから、常の宝石にまでまわるお金は、あまりなかったでしょう。
 とすれば、工芸品アクセサリーを身につけたのは、園田夫人よりも常の方が先だったかもしれないんです。

 けい夫人は園田の二度目の妻で、結婚したのが明治13年(1880)4月。有礼と常が渡英して後のことです。
 園田孝吉は薩摩川内、北郷家の私領士の家に生まれまして、北賴家重臣園田家の養子に入ります。最初の妻は養家の娘です。明治4年に大学南校(東大の前身)を卒業し、外務省に奉職して、翌年、婚約していた養子先の娘と結婚。
 明治6年に、妻を日本に置いて単身英国に赴任し、明治12年の7月まで帰国していませんから、有礼と常の結婚式には出席していません。しかし帰国直後、アメリカ元大統領グラント将軍を迎えての一連の歓迎行事には、外務省の一員としてかかわり、常夫人の活躍は目の当たりにしたはずです。
 園田の渡欧中に、最初の夫人は死去していまして、薩摩の養家からは先妻の妹との結婚を勧められるのですが、園田は「外交官夫人として活躍できる妻を娶りたい。その方が園田家の名をあげることにもつながる」と断り、翌年、富永けいを娶るんです。
 けいの父親は、遠州横須賀(現在の静岡県掛川市)にあった小藩の家老でしたが、佐幕派であったため、維新後苦労します。山口県に官吏の職を得て赴任後、けいの教育に困っておりましたところが、井上馨が帰省中、けいを見込んで、東京での教育を引き受けるんですね。けいは洋学を学び、井上馨の世話で、園田と結ばれました。
 つまり、先輩有礼の伴侶、常の外交官夫人としての活躍を見て、園田がけいとの結婚を選んだ可能性は、高いんです。

 早くから、外交官の間で、夫人のアクセサリーは共通の悩みになっていたでしょう。日本の工芸品をアクセサリーにする、というのは、だれが考えついたことかはわかりませんが、園田孝吉が、有礼や鮫ちゃんや、寺島宗則や上野景範や(この二人が、夫人を伴って社交的外交をやったかどうかは確かめてないんですが)、もっとも早く日本人公使として海外に赴任した薩摩の先輩たちと、つきあいがなかったわけがありません。

 私は、常が園田夫人に、アクセサリーを贈った可能性が高いのでは、と思うのです。
 園田夫妻は、明治15年2月に日本を発ち、有礼が公使として滞在しているロンドンへ赴任しています。そして、有礼と常は、明治17年の初頭に帰国しているわけでして、別れに際して、常が園田夫人に愛用のアクセサリーを贈ったり、したかもしれないじゃないですか。

 というわけでして、今、私は、有礼のアルバムの三枚の婦人像は、やはり常夫人のものだったのでは、と思い直しています。
 なにやら話がそれましたが、次回、かならず二人が出会うところまでは、行き着くつもりでおります。

 
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広瀬常と森有礼 美女ありき3

2010年09月06日 | 森有礼夫人・広瀬常
 
 広瀬常と森有礼 美女ありき2の続きです。

 森有礼の伝記において、有礼がカルト的教祖トーマス・レイク・ハリスにはまりこんだことは、論者によって評価がわかれます。一般的には、洗脳がとけてたいした影響はなかったようにいわれてまして、略伝などでは、ハリスのハの字も出てこなかったりしますが、嘘です!
 この件に関して、真摯にご研究されましたのは、林竹二氏です。

森有礼 悲劇への序章 (林竹二著作集)
林 竹二
筑摩書房


 上のご著書の元になりました論文は、薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上でも紹介しておりますが、オンライン公開されています。森有礼研究第一 森駐米代理公使の辞任と、森有礼研究第二 森有礼とキリスト教ですが、第二の方で、ハリス問題が主にあつかわれています。

 で、ですね。なんでイギリス留学生がー、イギリス留学生が、といいますのは、「畠山義成をめぐって」で書いておりますが、ローレンス・オリファントとハリスは、薩摩以外の留学生にも手をのばしていまして、実際に、高杉晋作の従弟・南貞助もはまりこみ、長州の殿様を誘い込むために帰国した形跡があるわけなのですが、ともかく、幕末イギリス留学生がなぜはまりこんだか、といいますと、ローレンス・オリファントがハリスにはまっていたがゆえ、だったでしょう。
 オリファントは、攘夷まっさかりの日本に外交官として来日し、東禅寺事件で水戸浪士に襲われて深手を負い、帰国後、下院議員になりますが、なぜか、非常に親日的だったんですね。まあ、スコットランドの出身ですし、幕末、日本にいた商人は、グラバーをはじめ、スコットランド系がほとんどでしたので、幕府とむすんだフランスに反発して雄藩に肩入れ、というのはあったと思うのですが、オリファントの場合、それだけでもなく、世界中を旅してまわった結果、既成キリスト教があきたらなくなったのではないのでしょうか。そこらへんのオリファントの心理については、宮澤眞一氏のローレンス・オリファントに於ける転石の苔が参考になります。
 まあ、いずれにしろ、オリファントもハリスもエキセントリックであったことは確かでして、「英国畸人伝」の「いかさま師と錬金術師」の章では、ハリスとオリファントを、性的に放埒な教団を運営したと決めつけています。実際、後年のアメリカで、こういった非難がハリスにあびせられましたのは事実のようですし、有礼が教団にいたと同時代にもすでに、既成キリスト教団からは「社会主義カルト」といった類の非難があびせられています。

 しかし、これはどうなんでしょう。アメリカの既成の価値観からは遠く離れた教団だったでしょうし、ハリスはとんでもなく変なおっさんですし、カルトといえば確かにカルトでしょう。
 ただ、林竹二氏の著作で、教団に残った森有礼&鮫島尚信と、出て行って既成のキリスト教信者となった畠山義成の論争を見ますと、要するに、ハリス教団は、スウェーデンボルグを奉じた修道会をめざした、といえるんじゃないんでしょうか。プロテスタントには修道会がありませんで、カトリック嫌いから修道会とはいえないんでしょうけれども、修道院というのは、理不尽なものなのですね。建前上、全財産を寄付して入会し、神のためにひたすら自己を殺して、修道院長の命令を受け入れるんです。『千々にくだけて』と『哀歌』の後半に書いているんですが、既成の修道院でさえも、人間が運営するものですから、俗の価値観はしのびこんでいますし、院長や同僚と馬があわないことだって、多々あります。
 ましてハリスは、既成の権威とは無縁の変なおっさんです。
 林竹二氏のおっしゃる通り、究極的には、ハリスをいわば命令権を持つ「修道院長」として認めるかどうか、の問題だったのだと思います。そして、畠山義成は、宗教問題をあくまでも個人的なものと考えていたがため、ハリスが奇矯なのは天然自然であって、決して悪人ではないが、他宗を許容しないことはまちがっている、という結論に達したのだと思うのですが、森有礼と鮫島尚信の場合、宗教を個人的なものと考えるよりも、近代国家を成り立たせる根本にあるものだ、という意識が強かったのではないでしょうか。で、あった場合、既成のキリスト教ではなく、ハリスが信奉するスウェーデンボルグは、定まった組織や解釈がある宗派ではないですから、日本流の解釈がしやすく、抵抗がないように思うのです。
 ハリス教団は、いわばハリス教の修道院であった、といいましても、外で活動する者も多かったわけでして、教団で修行をつんで、「あんたはもうりっぱに合格したから、外でがんばりなさい」というのは、ハリスの判断です。
 まあどうやら、おそらく畠山の報告を受けて、なのでしょうけれども、「こりゃ大変!」と薩摩藩から、森有礼と鮫島尚信の帰国旅費が送られていまして、ハリスはそれを受け取っているんです。だから、ではあるんでしょうけれども、ハリスが二人に「あんたたち二人は、もうりっぱに修行ができたから、日本の国を新しく造ることに専念することを、神も望んでおられる」といって日本に帰したことは、確かでしょう。だからこの二人は、在俗の修道者のつもりで、自分たちが理想とする近代日本創造に、残りの生涯をささげたわけです。自分たちは、日本のために神に選ばれている!と信じていますから、ただでさえ押しが強いところへもってきまして、独善的にならざるをえませんわね。

 ただ、有礼と鮫ちゃんにとっての神が、キリスト教のGodか、といえば、大きくいえばそうなんでしょうけれども、微妙です。
 私、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で、以下のように書いております。
 「いや、新納とうさんといい、薩摩開明派門閥の蘭学重視、漢学軽視には、すさまじいものがあります。長兄の町田久成は、江戸で平田国学の門下になっていますし、どうも、国学が基本にあって、漢学より蘭学を重んじるという、そういう流れがあったように感じます」
 これ、まったく根拠のない妄想というわけでもありませんで、国立歴史民族博物館のHPのほっと一息 展示の裏話を見ていますと、平田国学には、そういう側面があったようです。特に、明治維新と平田国学」展 第5回 地動説と記紀神話 2004/11/10の短い紹介には、「篤胤が江戸で学んだことは、これまで真実だと思ってきた儒教的“知の体系”が大きく誤っており、ヨーロッパのそれが実証的で科学的だという、恐ろしい真実だったのである。儒学が前提とし、仏教的世界観も当たり前だとしてきた天動説ではなく、地動説が正しいとすれば、この宇宙の起源とはいかなるものでなければならないのか? 1813年に刊行された篤胤の主著『霊能真柱(たまのみはしら)』の第一の問いかけは正にこの問題だったのである。(中略)儒教や仏教に対する篤胤の批判の鋭い武器がこの地動説だった」とあって、おもしろいですよね。

 清蔵くんの話を書きましたときに、私がこういう話をしておりましたところが、fhさまが、とってもおもしろいものを見つけてくださいました。備忘 八田のおじいちゃん3なんですが、すばらしい町田にいさんと寺島さん、八田のじさまを、拝むことができます。
 ひいーっ!!! 実は、オリファントとハリスが平田国学にはまった???のかも、な発見です。
 えー、つまり、ですね。薩摩の留学生たちは、薩摩藩の国学の大家にしまして、和歌のお師匠さま、八田知紀じいさまが書きました「大理論畧」といいます冊子をよりどころにして、オリファントやハリスに、神国日本を語ったんですね。だって、勝海舟宛の八田じいさま書簡に、「英国隠士ハリス独り、かの玄天の大道を唱て、当時をうれたむよしなるハ、尤なる事歟と存申候」とあるんですから、吉田清成や鮫ちゃんや有礼が語らなくて、だれがハリスに「大理論畧」を語るというのでしょう。
 有礼がハリスにはまったのは、最終的には、ハリスが八田じいさまの「大理論畧」を認めたから、だと思います。有礼の父親は、和歌をやっていますから、八田のじさまとは親交があったでしょうし。

 Googleブックス横山健堂著「日本教育の変遷」、目次のセクション5をクリックしますと、「大公平小公平の道 森有礼の外国留学における覚悟 森文部大臣と八田知紀」という章が出てまいります。一読してみますと、森有礼の思想はけっこう「大理論畧」で読み解けそうな気分になり、私、横山健堂に習って「大理論畧」を手にいれなくっちゃあ!!!と思いつめました。国会図書館になくてがっくりきていたところに、古書店に出物がありまして、思わず買ってしまったんですが、なんと! 鹿児島県立図書館にあったみたいですわ。
 ともかく、おもしろいです。あとがきに、「此書ハ外国ニワタル人ノ若シカノ土ニテ皇国ノ道ヲ問フ者ノアランニ答フヘキノ大意ヲ示シテヨト云ヘルニ取アヘス書テオクリタル也」とありまして、いったいだれが、「じじさま、外国で日本のアイデンティティを聞かれたら困るから、アンチョコにしてよ」なんぞと、馬鹿みたいなおねだりをしたんでしょ! 私の独断と偏見で推測しますと、有礼か吉田清成か鮫ちゃんかです、きっと。
 で、じさまが苦労して、平田国学の奥義を、素人にも(町田にいさんのような玄人向けにではなく、です)わかりやすく解説しましたのが、この「大理論畧」です。

 えー、大理は円(まる)で、小理は方(かく)なんだそうです。
 もちろん、攘夷なんて馬鹿げていて、日本人は大いに世界に出て、議論をすべきなんだそうです。なにを議論するかといえば、シナの儒学や西洋の理論は、すべて小理なんだそうで、造化主(Godに似てますが、神道は江戸時代にキリスト教の影響を受けて、一神教的なものを取り入れています)は大理に従って世界を造られたので、日本は国の成り立ちが天然自然に大理に基づいていますから、天然自然のままでもっともすぐれた国であり、その証拠が万世一系の皇統なんだ、ということを相手にわからせるべき、なんだそうなんです。
 で、大理は円ですからすべてを包み込みます。読み方によっては、小理はシナ式であろうが西洋式であろうが、ともかく日本は大理の国なので、それは気にしなくていい、ということになりかねず、文化がどう変容しようとも、万世一系の皇統をいただいてさえいたならばそれでいい、という、かなりすさまじい解釈もできそうです。
 日本の古伝説では、太古の昔から地動説をとっているのに、シナの小理にまどわされて天動説がはびこっていましたが、西洋で近年になって地動説が真実だとわかって、日本が大理の国だと証明されたんだそーなんです。
 理屈はみんな小理です。大理は、理屈じゃないんです。感じ取らなくてはならないんです。大神楽に鞠の曲取りという曲芸があるんだそうですが、どうしてそんな不思議な動きを鞠がするかって、芸をする人の修練の結果であって理屈ではないのと、同じなんだそーなんです。
 えー、私、まったくもってよくわかってないですから、まちがって要約していたら、ごめんなさい。

 で、まあ、そういうことだとしまして、です。私、ふと思ったんです。
 シオリストの有礼は、「感じること」なんて大の苦手ですから、「ハリスのもとで理不尽な修練に耐えて生まれ変わらなければ、造化主の大理がわからない!」と、鮫ちゃんと意気投合しちゃったんですわよ、きっと。
 で、「日本は大理の国なんだから、細かいことはどー接ぎ木をしようが、国体はまもることができる!」なんちゃって、有礼の中では、英語を国語にしようが、神社の境内で牛肉を食べようが、大理の円につつまれる小理。そーいった細かいことは、日本の近代化にプラスになる方向へさっさと改変すべきなのであって、それがけっして、日本の国柄を守ることと矛楯することではなくなっていたりしちゃったんじゃ、ないんですかしらん(笑)

 まあ、奇人、変人の類ですわね。
 で、次回、いよいよ、その有礼と、常は出会います。


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広瀬常と森有礼 美女ありき2

2010年09月05日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき1の続きです。

 森有礼は、奇矯な人です。
 えー、私が勝手に言ってるんじゃありません。徳富蘇峰が言っているんです。「若き森有礼―東と西の狭間で」より、孫引きです。
「概して謂へは君は偏理家(シオリストTheorist)なり。奇矯(エキセントリックeccentric)なる偏理家なり」

 森有礼は過激な人です。
 えー、これも私が勝手に言っているんじゃありません。有礼を直に知っていた林董が言っているんです。
 「後は昔の記他―林董回顧録」 (ワイド版東洋文庫 (173))(近デジにあったと思います)に、森有礼が暗殺された話がありまして、そこに以下のようにあります。
 「森子は予の能く知る人なり。弊を撓め俗を正すに過激の手段を取りて憚からざる性質なり」

 森有礼が暗殺された理由は、暗殺者の西野文太郎が「有礼が伊勢参宮に際して杖で陣幕をあげたことが不敬だ」と思ったから、というのが当時の定説になっていたらしいんですが、林董は、これは有礼が故意にやったことではなく、うっかりやってしまったことだった、というんですね。ただ、普段から有礼は、「自分がまちがっていると思う俗風を正すときには過激な行動に出てやりすぎるので、こういう目にあった」ということなんです。
 このやりすぎの例としてあがっていますのが、林董が琴平宮の宮司さんから聞いた話です。
 有礼が琴平宮に参ったとき、宮司さんの家で昼食を出したら、それを食べずに「牛肉を所望」した、というんです。宮司さんが「ここにはありません」というと、「持ってきた肉が旅館にあるから取り寄せればいい」と、あくまで有礼は牛肉にこだわります。で、宮司さんが、「境内で獣肉を食べるのは禁制です」と断ると、「魚や卵はここに並んでいるのに獣肉を嫌うのは理屈にあわんぞ」と決めつけて、勝手に旅館から自分の牛肉をとりよせて食べた、そうなんですね。
 これは、林董にいわせると故意なんだそうです。理屈にあわないことを嫌ってやめさせようと、わざとやったのだというんです。
 いや、嘘かほんとうか知りませんが、文部大臣がやることにはさからえませんし、ほんとうだとすれば、やられた方には、権力者の嫌がらせとしか受け取れず、実際これでは、奇人、変人の類ですわね。
 えーと、こういった有礼の性格は、どうも、父親ではなく母親に似たもののようです。

 森家は、「小番」格の城下士でした。イギリスVSフランス 薩長兵制論争に表を載せていますが、「小番」というのは、薩摩藩では数少ない中級武士です。小姓与の西郷、大久保よりも家格は上。森家も代々、藩主の間近に仕えたといわれます。
 父親の有恕(ありひろ)は、温厚な人だったそうです。和歌、詩文にすぐれ、黒田清綱(洋画家・黒田清輝の叔父で養父)や税所敦子と唱和した歌草が残っているそうでして、八田知紀じいさまに、習っていたりもしそうです。晩年に歌集「漫吟百首」を私刊してもいます。 趣味人です。ただ、「仙骨の風があった」そうで、どことなく世離れはしていたようです。
 母親の里は、女丈夫でした。熱情的で、厳粛で、意志強固。男勝りでエキセントリック。毎朝、いくつもの神様を、熱心に祀っていたんだそうです。
 森夫妻は、五人の男子に恵まれまして、有礼は末っ子。母親のお気に入りの息子でした。

 長兄・喜藤太は、妻・広(旧姓相良)と息子有祐を残して、元治元年(1864)8月8日、27歳、禁門の変の直前に警備のために上京して、トラブルにまきこまれて死去したみたいです。遺児の有祐(文久2年生)は、背の高い、非常な美青年に成長したことが、下の本に見えます。

勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉 (中公文庫)
クララ ホイットニー
中央公論社


 15歳のアメリカから来た少女、クララ・ホイットニーは、同年代の有祐を、「「王子さまみたい!」「これほど洗練されて優雅な子はほかに日本にはいない!」「美の典型!」」と絶賛しているんですが、それは常と有礼の結婚後の話ですし、後で詳しく述べることにします。

 次男・喜八郎は、江戸の昌平黌で学んだ秀才で、青山家の養子となりましたが文久3年(1963)、病没しました。
 三男は12歳で早世。
 そして四男・横山安武です。天保14年(1843)生まれ。有礼より四つ年上です。森有礼全集に写真がありますが、明治になってからのものなんでしょう。総髪が自然な感じで、聡明そうな整った顔立ちです。
 安武は、これまた俊才の評判高く、望まれて、藩の儒学者・横山家の養子となります。この人は、明治時代には、かなり高名でした。森有礼の兄としてではなく、本人が明治3年7月26日、集議院の門に建白書をかかげて、割腹自殺して果てたんです。主君を諫めて、ではなく、政府を諫めての諫死です。
 近デジで「横山安武」で検索をかけますと、8冊出てきまして、その建白書の内容は明治10年発行の「維新奏議集」に載っています。簡単にまとめますと「新政府の役人は、下々が飢えているにもかまわず、虚飾を求め、自分個人の利益や名誉ばかりを求めている。ふさわしい人を官職につけるのではなく、縁故がはびこっている。朝令暮改で、法制もも定まらず、私怨で罪に陥れられる上、諸外国とのつきあいでも問題ばかり起こしている。このままでは国が滅びる」といったところでしょうか。
 大久保利通は日記に「(安武の)朝廷への忠義の志を感じるべきだ」と書いて、この政府批判を肯定していますし、西郷隆盛は碑文を書いて顕彰しました。西郷の碑文の文面は安武の小伝にもなっているんですが、近デジ「西郷南州翁百話」で見ることができます。
 えー、細かいことは省きますが、安武兄さんもエキセントリックですよねえ。憂国の情に燃えたとはいえ、後には、妻と幼い男の子が二人(次男にいたっては、この前年に生まれたばかりです)、養子先の母と伯母が残されたんですから。
 横山一家は、有礼と常の結婚時は鹿児島にいましたが、西南戦争の後、有礼が永田町の新居へ引き取り、以降、めんどうをみました。で、甥が戸主になっているこの横山家の籍に、いっとき、青い目と噂された有礼と常の長女・安は、入っていたわけです。

 末っ子の有礼は、弘化4年(1847)の生まれです。安政5年(1858)、11歳にして藩校造士館入校。長兄喜藤太に漢学を教わり、13歳のころ、林子平の「海国兵談」を読んで海外事情を知る必要を感じ、三つ年上の上野景範に英語を学びます。元治元年(1864)、洋学教育のための藩校・開成所が開設されると同時に、そちらへ移り、数少ない英学専修生となって、翌元治2年、18歳にして、選ばれて密航イギリス留学生となります。
 留学の話は、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1をご覧下さい。つけ加えますと、ですね。留学生のほとんどは20代です。10代は4人しかいませんで、町田申四郎、清蔵兄弟と、森有礼、長沢鼎です。清蔵くん14歳、長沢13歳の二人はとびぬけて幼く、有礼と申四郎が18歳で同い年なんです。この若さで、清蔵くんが後年まで、有礼を留学生の中心的な存在として記憶していたのは、よほどにアクが強くて押しの強い性格だったのだとしか、私には思えません。
 清蔵くんが帰国した後も有礼はイギリスに残っていますが、以降の話は、薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上にまとめております。

 えーと、また文字数が多いそうでして、広瀬常と森有礼 美女ありき3に続きます。
 

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広瀬常と森有礼 美女ありき1

2010年09月03日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼の結婚について、森有礼夫人・広瀬常の謎 前編中編後編上後編下の内容を踏まえた上で、妄想をめぐらせてみたいと思います。
 まあ、あれです。一応、妄想といえども、まったく根拠がない、というほどではないんですが、歴史上の人物の男女の仲なんて、思い込みと妄想なしには、書きようがないですし。
 
 最初は、ちょっとまじめに、広瀬常の出身から。
 えーと、幕臣の家の出てあったことは確かなんですが、よくいわれるように旗本であったのか疑問がわきまして、近くの図書館で、簡単に見られる本を調べてみました。

 まずは、「寛政重修諸家譜 」です。
 これ、18世紀末までの幕臣の系図が載っている本なんですが、ごく下っ端は載ってないんです。
 で、これに載っている広瀬家は、一家だけです。初代が、延宝8年師走(1681年1月)に召し抱えられ、徒歩目付。4代目から名前に「吉」がつくようになりまして、勘定吟味方改役。小禄ながら旗本です。
 5代目の広瀬吉利(吉之丞)も勘定吟味方改役で、この人は、「江戸幕府諸藩人名総鑑 文化武鑑索引 下」に出てきます。評定所留役勘定です。
 この家の後継者は、安政3年(1857)の東都青山絵図(goo古地図 江戸切絵図23 東都青山)で、青山善光寺門前の百人町に見える「広瀬吉平」じゃないかと思います。善光寺は現存していまして、現在でいうならば地下鉄表参道駅付近です。
 ただ、これ、原宿村の百人組書き割りじゃないかと思いまして、だとすれば旗本が住むにはおかしいのではと、ちょっと???なんですが、伊賀同心は甲賀、根来同心が譜代だったのとちがって一代限り、という話もありますし、組頭は旗本なんでしょうし、すでに小禄の旗本屋敷になっていたのか、なんぞとあれこれ思いまどい、甲賀同心百人組や与力衆は書き割ってないのにここだけ百人組同心が書き割り???と思ってみたり、私、幕末の幕臣の職制も切絵図の見方も、さっぱりわかっておりません。詳しい方がおられましたら、どうぞご教授のほどを。
 
 ところで、「文化武鑑人名総覧」には、文化年間(1804~1817)の幕臣の名前がすべて出てくるみたいなんですが、広瀬吉利も含めて、広瀬姓は10名います。なんで「寛政重修諸家譜 」の方に出てこないのかと思いましたら、広瀬吉利をのぞく残りの9人は、みんな坊主、ほとんどが表坊主なんですね。
 表坊主は、江戸城で、大名や高級役人の給仕をする役職で、坊主頭です。情報通で、大名家などから付け届けがあって、実入りはけっこうよかったといわれますが、身分は低いんです。
 幸田露伴の生家が、この表坊主だったんだそうなんです。開拓使女学校時代の常の住所が、えらく幸田露伴の生家に近く、もしかすると、常の父・秀雄は表坊主だったのかな、とも思ったのですが、下の本を見まして、別の可能性も浮かんできました。

江戸幕臣人名事典
クリエーター情報なし
新人物往来社


 あとがきを読んでも、元になった史料がよくわからないのですが、国立公文書館内閣文庫・多聞楼文書「明細短冊」というもののようです。
 どうも、慶応末年まで記録があるみたいでして、常の実家をさがすのに時期はぴったりなんですが、かなりのぬけがあるらしく、広瀬姓は3名しか載っていません。
 森本貞子氏の「秋霖譜―森有礼とその妻」には、「駿藩分配姓名録」という書類があって、静岡へ移ってからの幕臣の名前と所在地がわかる旨、書いておられるんですが、まさかこれまで創作ではないように思えまして、だとすれば、静岡に移った広瀬姓の幕臣だけでも、少なくとも4家はあるみたいなんですね。

 で、「幕臣人名辞典」の方なんですけれども、3名のうち2名は、役職からいって、文化年間の坊主の家の後継者っぽいんですね。一人はあきらかに表坊主ですし、もう一人は奧膳所の小間遣なんですが、似たような役職なんじゃないのか、と思います。
 そしてもう一人、嘉永7年(1854)、新しく幕臣となった広瀬寅五郎がいました。「もしかして、この広瀬寅五郎が、秀雄?」と、思わず決めつけてしまいそうになりましたのは、なかなかに経歴がおもしろいんです。
 本国正国ともに下野です。嘉永7年に同心株を買ったらしく「御先手紅林勘解由組同心」となります。先手組同心というのは、よく時代劇に出てきます八丁堀の町方同心とはちがいまして、番方です。江戸城の門の警備とか将軍警護とかが代表的な役目でして、弓組とか鉄砲組とかもあったりします。
 この「紅林勘解由」、検索をかけてみましたら、興味深い話がひっかかりました。「日本聖公会歴史の落ち穂」というサイトさんの名取多嘉雄著「一人の宣教師と3人の日本青年」というページなんですが、飯田榮次郎という元幕臣が大正8年に自叙伝を書いていまして、その中に「慶応元年から紅林勘解由にフランス式兵学を学び初め」とあるそうなのですね。
 先手組は軍隊に近く、といいますか、もともとは軍隊ですので、組ごと慶応年間からフランス式兵学を、というのは、ありえないことではなさげです。幕府がフランス兵式を導入した時期は微妙ですけど、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1で書いておりますが、フランス公使レオン・ロッシュの来日が元治元年(1864)で、同時に横須賀製鉄所の話が持ち上がり、横浜に仏語伝習所ができたのが翌慶応元年(1865)です。
 寅五郎は、安政年間(虫食か汚れで何年かわからないみたいです)に「箱館奉行支配調役下役過人」とやらになっているらしいんですが、これは、もしかしますと、紅林組が箱館奉行所勤務になったのかもしれません。元の史料が虫食いらしく、ずいぶん空白があるんですが、元治元年(1864)には講武所勤番になり、江戸へ帰っている様子です。
 えーと、ですね。安政5年(1858)には、栗本鋤雲が箱館奉行支配組頭になって赴任していまして、翌安政6年、函館開港で、フランス人宣教師メルメ・カションがやってきます。カションは、嘉永7年から琉球に滞在して日本語を勉強し、安政5年、日仏修好通商条約締結時には通訳を務め、ともかく、日本語ぺらぺらでした。カションは鋤雲と親交をもって、互いに言葉を教え合い、小規模ながらフランス語学校を開き、そこに箱館奉行所の役人が勉強に通って、横浜仏語伝習所の核ができていたんですね。鋤雲はもともとは医者ですから、カションに協力して、病院と医学校設立を企てるのですが、鋤雲は文久3年には函館を離れ、これは挫折します。
 講武所勤番となった広瀬寅五郎はといえば、田安仮御殿の火災に際して、火付盗賊改方に出向している様子。しかしこれが何年のことか、また虫食いらしく、わかりません。その同年、また「箱館奉行支配定役」になって経歴が終わっていますから、函館で維新を迎えた可能性がありそうなんです。

(追記)うっかりしてました! 広瀬寅五郎で検索をかけますと、慶応2年には、あきらかに函館にいますね。北海道庁の公式ホームページに、「函館奉行所履歴明細短冊」があがってまして、名前がありますわ。あきらかに、最後の函館奉行・杉浦誠の下で働いています。

 最後の箱館奉行・杉浦誠は、明治2年から開拓使に奉職していまして、常の父の秀雄が、もし、函館奉行所にいたことのある寅五郎だったとしますと、娘の常が開拓使女学校へ入学したというのも、話がわかりやすくなるんです。

 同心株といえば、樋口一葉の父親なんか、維新直前の慶応3年に買っているんですよね。甲斐の百姓で、身分違い(相手の女性が富農の娘)の恋をして、駆け落ち同然に江戸へ出て、苦労した結果だとか。
 そして、ですねえ。「広瀬寅五郎」も、検索をかけてみますと、ちょっとびっくりするような話があったんです。
 コトバンク-広瀬寅五郎です。
 「下野(栃木県)粟谷村の金井仙右衛門(せんえもん)の使用人。嘉永3年(1850)仙右衛門の子仙太郎をたすけて,主人の敵金井隼人を討った」

 出典は、講談社の日本人名大辞典みたいなんですけど、出身が下野で、幕臣の広瀬寅五郎と同じですよね。「金井仙太郎」もコトバンクにあります。

 「金井仙右衛門の子。下野(栃木県)粟谷村の富農。炭山をうばわれ刺殺された父の仇金井隼人らを討つため,久保克明に剣術をならう。嘉永3年(1850)隼人父子を討って12年ぶりに復讐をはたす。江戸の勘定所に自首したが不問に付された」

 時期と出身地はあいますし、同一人物だとして話をまとめますと、こういうことでしょうか。
 下野の富農・金井家に仕えていた広瀬寅五郎は、主人が親族に財産を奪われて殺されたので、その息子を助けて、嘉永3年に仇討ちを成し遂げ、4年後に同心株を買って幕臣になった、と。
 この寅五郎がもし、常の父・秀雄だとしますと、おもしろいんですけどねえ。可能性は、十分にありますよね。


 ともかく、です。いえることは、常は確かに幕臣の娘でしたが、どうも、旗本のお姫さまだったわけではなさそうです。表坊主の家だったか、同心株を買った成り立て幕臣だったか、ともかく、御家人かあるいはそれ以下の下級武士で、幸田露伴か樋口一葉の家程度、と考えればよさそうなんですよね。その生活の実態は、下の本が参考になります。これ、御徒の幕末維新自分史でして、同心だったとすると、もうひとつ格が低いかも、なんですが。

幕末下級武士のリストラ戦記 (文春新書)
安藤 優一郎
文藝春秋

 
 ここから先は、妄想です。結局、常の父親が正確にどういう幕臣だったのか、家族構成はどうだったのか、さっぱり資料がありませんので、妄想するしかないんです。
 と、いうわけでして、一番おもしろそうな広瀬寅五郎=秀雄説でいってみたいと思います。
 
 黒船襲来の15年前、天保9年(1838)のことです。
 下野足利の粟谷村は、絹と織物の里です。富農の金井家は、織元でもあり、先代仙右衛門の弟・繁之丞は、京の西陣へ遊学し、美しい模様織物を考案して、生き神様と崇められておりました。しかし、その繁之丞も10年前に死去し、親族の間で、財産争いが起こったのです。
 広瀬寅五郎は、金井家の食客となっていた医者くずれの流れ者の子でしたが、非常にかしこく、現当主・仙右衛門に見込まれて、使い走りをしながら、金井家の跡取り、仙太郎坊ちゃんのお相手をしたりもしていました。寅五郎が15の時、恩人仙右衛門は親族の金井隼人に刺し殺され、争いの種だった炭山が奪われました。
 苦節12年、寅五郎は、仙太郎坊ちゃんとともに剣術修行に励み、剣の師匠の助けも得て、ついに、仇討ちを果たしたのです。
 寅五郎は、坊ちゃんとともに江戸へ出て、関東取締役出役の元締め、勘定所に自首しましたが、お咎めがないばかりか、江戸で評判の美談となり、寅五郎もすっかり有名人になったのです。
 寅五郎は、以降も、金井家の絹織物の取り引きでたびたび江戸を訪れていましたが、勘定所に自首した際に係だった広瀬吉平に、同姓のよしみもあって気に入られ、江戸へ出るたびに原宿村の自宅を訪れたりもしておりました。
 吉平 「わが家は清和源氏じゃが、そちもそうか?」
 寅五郎「へえ」
 吉平 「ならば、そちの祖先も大和か?」
 寅五郎「いや、父は甲斐の医者のせがれでしたが、家業を嫌い出奔しましたような次第で、武田の流れと聞いとります」
 と、まあ、最初はこんな感じで。

 そこへ、ペリー来航です。仇討ちを果たしたときは、すでに20代の後半。なにか新たな挑戦をと焦り、新論を愛読なんかしていました寅五郎は、ふってわいた黒船騒動に、武士になって国を守りたい!と思い立ち、吉平に相談したんですね。
 で、嘉永7年(1854)、寅五郎は吉平の世話で同心株を買い、百人組同心・高橋家の娘を娶り、幕臣になったんです。名のりは源秀雄。
 翌安政2年(1855)5月、長女・広瀬常が誕生します。
 常が三つになった年、秀雄は、紅林組の一員として、箱館赴任となります。
 それから元治元年(1864)までの6年間、一家は函館で過ごし、この間に次女が生まれました。
 
 常が、3つから9つの年まで函館で過ごしたとなりますと、その間に五稜郭の新しい奉行所ができたことになりまして、父親の秀雄は、大洲藩出身で五稜郭設計者の武田斐三郎と知り合っていたかもしれませんし、だとすれば、開拓使女学校時代の常の東京の住所、「第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門」というのは、大洲藩邸の長屋に住まわせてもらったのかもしれなかったり。常は手習いで、フランス語を学んでいたりしたかもしれなかったり。とはいえ、なんせ、もとが妄想です。

 一家が江戸へ帰った元治元年、三女の福が生まれます。
 えーと。前述の通り、寅五郎が秀雄だったとしまして、次の函館赴任がいつなんだか、さっぱりわからないんです。
 とりあえず、単身赴任だったことにします。長女の常は年ごろになりかかってますし、下に二人、女の子が増えたんですから。
 明治元年、常は13歳。数えでいえば14歳で、嫁に行ってもおかしくないお年頃。しかし広瀬家には男子がいませんし、婿養子をとるつもりで、とりあえず婚約していた可能性はありそうです。同心仲間の次男かなにかで、函館では常といっしょにフランス語を習っていたりしまして、選ばれて、横浜でフランス軍事顧問団の伝習を受けていました。

 戊辰戦争がはじまり、秀雄はお奉行さまとともに江戸へ引き揚げてきましたが、常の婚約者は脱走。そのまま行方不明になります。
 一家は、静岡への移住を決意しますが、母親の実家・高橋家は、そのまま原宿村で帰農する道を選びます。
 静岡での苦労の中、母親はお産で死に、娘たちのためにも、秀雄は江戸へ帰ることにしました。
 次女と福子は、母親の実家に預け、秀雄は常と二人で大洲藩邸の長屋に住まわせてもらうことができました。
 江戸でできる仕事はないかと、函館での上司で、常の婚約者の父親、いまは開拓使に勤めています福島某に相談しましたところ、「函館へ行くならともかく、江戸では難しいが、今度開拓使仮学校に女子の部ができるので、常さんを通わせては? 授業料がいらないで洋学が学べる。うちの娘も通わせる」との話。
 福島某の娘は、函館で常といっしょに手習いした仲。
 婚約者の行方不明で、未亡人気分の常は、洋学を学んで身を立てたい!と、喜んで、その話に乗ります。
 常は評判の美人。縁談はあるんですが、本人、結婚する気はありません。許嫁だった人に義理立てしているといいますよりも、外見に似合わずもともとが自立心旺盛で、できれば手習いの師匠かなにか、もしかしますと、このころから女医を考えていたかもしれませんし、父を助けて一家の柱になりたいと思っています。
 まあ、縁談がくるといえば、新政府の役人になって江戸へ出てきた田舎士族からで、我が物顔の田舎者への反発もあったりしましたり。

 明治5年(1872)9月、17歳の常は、15歳4ヶ月だとさばをよんで、開拓使女学校に入学します。
 もともと、ご直参とはいえ下層の同心一家。贅沢をしていたわけではないのですが、静岡での暮らしは、食べるに事欠くぼろ小屋生活。
 ひろびろとした増上寺の境内(現在芝公園)、りっぱな建物が寄宿舎で、教材も食事も無料。わずかながら小遣いももらえ、オランダ人の女性教師から英語も学べて、常ははりきっていました。
 実はこの年、開拓使は函館に医学校も開設していまして、お雇いアメリカ人外科医・エルドリッジが、英語で産婦人科の講義をはじめ、産婆教育論を展開していたんです。(「理想のお産とお産の歴史―日本産科医療史」参照。もっともエルドリッジの任期は2年できれ、明治7年には函館を離れて、函館の医学校は閉鎖されるんですけれども)
 えー、そんな情報を常が知っていたか、なんですが、秀雄が維新を函館で迎えたとしますと、函館の開拓使には最後の函館奉行・杉浦誠がいまして、秀雄の同僚も複数奉職していたことになります。「女学校から医学校へ進めるかも」と、常は期待していた、かもしれません。
 ところが明治7年、常は、それどころではない、とんでもない災難にみまわれます。

 災難の中には、もしかしまして、一見幸運なような森有礼との出会いも含まれるかもしれませんで、それもこれも、常の美貌ゆえ。
 美しいということもなかなかに、大変なことのようです。
 で、その災難を語ります前に、次回は森有礼につきまして、どーいうお方だったのか、手に入りました大変貴重な資料もありますし、ハイカラ啓蒙生真面目人間的な従来の像は、ちょっとちがうかな、ということで、独断と偏見に満ちて、語ってみたいと思います。


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