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郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

花の松山城

2015年12月26日 | 伊予松山
 
 久しぶりに仕事をしていまして、その仕事が、首都圏向けの松山市の観光広報のような記事でした。
 11月には萩に旅行し、花燃ゆも終わり、あと一回はブログを書くつもりでいるのですが、今日は、華のおもてなしin松山城「假屋崎省吾の世界」の写真記事です。

カレンダー2016 假屋崎省吾の世界 花 (ヤマケイカレンダー2016)
クリエーター情報なし
山と渓谷社


 古い記事ですが、「坂の上の雲」の幕末と薩摩の続き、ということになるでしょうか。



 本丸広場です。なにしろ山頂にありますから、眺望は抜群で、市街地の向こうには、瀬戸内海が見えます。



 天守閣は、現存12天守(江戸期までに建てられた天守が残っているもの)の一つで、昭和になって焼けた他の部分も、木造で再建されていますし、ミシュラン観光二つ星。
 最近では、外国からのお客様が増えています。



 下は天守閣の玄関です。



 天守閣の内部が、たくさんの華で飾られました。







 二日間、通ったのですが、いつもの倍から三倍の人出で、天守閣の狭い階段に絶え間なく人が続いていました。
 
 春には、本丸広場は桜で埋め尽くされますし、どうぞみなさま、お越しくださいませ、松山へ。

 
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昭和の岐路◆新渡戸稲造の松山事件

2012年05月04日 | 伊予松山

 ちょっと、話が幕末を離れます。
 実は仕事で、「新渡戸稲造の松山事件について書いてください」と頼まれ、すでに故人となられた地方テレビ局のプロデューサー・藤堂治彦氏の「五千円札とマツヤマ」という短いエッセイを、参考資料としていただきました。

 新渡戸稲造は、平成16年(2004年)に樋口一葉にかわるまで、五千円札の顔でした。
 その新渡戸稲造が、昭和7年2月に、講演旅行で松山に来ているんです。以下、引用です。

 新渡戸は宿泊先の道後鮒屋旅館(現在のふなや)で新聞記者の取材をうけた。
「将来、日本を滅ぼすものは軍部、軍閥…」
 翌日の朝刊にのったインタビュー記事、それに対する軍部の反応は早く、きびしかった。反国家思想の持ち主ときめつけ、軍や警察の監視、圧力がかかった。極右テロの標的にさらされる危険な情勢にまでなる。暗い、暗い時代だ。
 新渡戸はこの事件で、公職を辞し野に下り、一民間人として、孤立化してゆく日本の国際関係の緩和につとめようと決意、その年の秋、アメリカに渡り、翌年カナダで客死する。無念だったに違いない。松山事件はまさに昭和史の暗部を象徴する事件だ。


 だいたい私、昭和史には詳しくないですし、新渡戸稲造の松山事件なんて、まったくもって知らなかったのですが、「ちょっとこれ、おかしくないかい?」と思ってしまったんですね。
 なにがおかしいって、新渡戸稲造は昭和7年当時、貴族院議員だったんです。それが、ですね。ちょっと新聞のインタビューで時勢批判をしたからって、公職追放になったりするはずがないんですね。
 そりゃあ、極右テロっていうのは民間のテロリストがやることですから、いったいなにを考えて行動するかはわかりませんし、標的になることもありえたかもしれないんですが、それにいたしましても新渡戸は学者で、政治家ではないですから、生臭い権力とはあんまり関係がないですし、効果的なテロの標的ではありえないんですよねえ。テロリストも、世間への衝撃を考え、自分の命をかけてテロを起こすわけですし。
 それでまず、一番手に入りやすかった下の本「余の尊敬する人物」を読んでみました。

余の尊敬する人物 (岩波新書 赤版 65)
矢内原 忠雄
岩波書店


 著者の矢内原忠雄は、愛媛県の出身で、一高、東大で新渡戸の教え子だった人です。
 以下、引用です。

 先生がジュネーブを辞して帰朝した時は六十五歳ですから、もう老境と言はねばなりません。それから五年経って、昭和六年(一九三一年)九月に満州事変が勃発しました。之は先生七十歳の年のことです。この年先生は四国の松山で一場の講演をしたことがあります。その中で、「日本を滅ぼすものは共産党と何とかだ」といふことを、例により口をすべらしたとかいふので、折柄満州事変で神経の尖っている方面ではこの一言を捕へて、激しき非難を先生に浴びせました。その頃先生は神経痛で築地のルカ病院に入院しましたが、之は攻撃を怖れて米国人経営の病院に逃げ込んだのだなどと悪声を放つ者もあり、骨節の荒い人々が数名先生の病床を取り囲んで、陳謝を強要したりしました。結局無事にすみましたが、一時はどうなる事かと心配されました。
 その翌年(昭和七年)四月、先生は満州事変に対する認識を米国人の間に広める為めの使命を帯びて米国に渡り、各地の講演旅行をすること満一年、翌昭和八年三月一日帰朝しましたが、八月にはカナダのパンフに開かれた太平洋会議に日本側理事長として出席しました。この時病を得て、カナダのヴィクトリア市ジュビリー病院に入院し、遂に十月十五日(日本時間十六日)其処で客死したのです。
 之は誠に悲劇的な死でありました。先生の渡米に対しては、軍部と妥協したのだとか、変節だとか、逃げたのだとか、いろいろ悪口が起りました。悪口とまでは行かなくても、先生の出所進退を怪訝に思ふ気持ちが、之まで先生に対し尊敬と好意を抱いていた人々の心にさへ浮んだ模様です。先生はこの為めにまた、従来米国人の間にもつていた幾人かの友人を失ひました。しかし之ら内外の友情の損失以上に、先生に取りて最も苦痛であったのは、おそらく先生自身の心境の整理であつたでせう。
 新渡戸博士は前にも述べた通り、「太平洋の橋になる」志を抱いて東京大学へ入つたのです。その後米国に遊学し、米国人を妻とし、米国にて病を養ひ、最初の日米交換教授として渡米し、その他公私共に米国とは深き関係があり、並々ならぬ努力を日米親善の為めに払うたのです。それ故米国が一九二四年の移民法を通過させた時、先生は深く心に之をなげき、移民法の修正を見る迄は再び米国の土を踏まず、と決心したのです。この為めジュネーブの任満ちて帰朝する時も、わざと米国経由を避け、印度洋航路を選んだのでありました。その先生が、移民法は未だ修正せられざるのみか、満州事変以来対日感情の一層悪化した米国に向つて、自分から出かけて行く決心をしたのは、よくよくの事であったに相違ありません。世間の誤解や批難はまだ忍ぶことが出来るとしても、自分の良心を偽ることは新渡戸博士には出来ません。それならばどうして先生は自己の屈辱を忍んで渡米したのでありませうか。
 日米間の友好関係が取り返しのつかぬほど悪化する危険を、先生は直感したのです。


 こちらには、まず事実誤認があります。
 新渡戸稲造の松山事件は、先に書きましたように、昭和7年2月のことでして、第一次上海事変の最中だったんです。また、新渡戸は講演で口をすべらせたのではなく、新聞記者の取材の席で、「日本を滅ぼすものは共産党と何とかだ」と言ったんです。
 ですけれども、大筋で、矢内原氏がまちがったことを書いているとは思えませんし、だとすれば、問題になった新聞記事のインタビューで、新渡戸は軍部批判をしただけではなく、共産党も批判していたのですし、カナダで客死したときには、「太平洋会議に日本側理事長として出席」していたわけですから、公職を辞して渡米したわけでは、ないんですね。

 私、必要を感じまして、事件が起こった時代背景を、ちょっと調べてみました。
 結果、とてもじゃないですけれども、提示された文字数で気軽に書ける事件ではないと思い、また、ややっこしい歴史事件を載せる媒体でもないですし、松山事件は、はずすことを提案しました。
 了承してもらいましたが、なんといいますか、つくづく、「これって、軍部がどうのこうのっていうより、まず、メディア(新聞)と政党がおかしいよねえ。普通選挙って怖いっ!!! 現代と変わらないねえ」と、痛感しまして、ブログに書くことにしました。

 最初に、新渡戸稲造の略歴です。今回の仕事で、私がまとめたものです。
 文久2年(1862) ー 昭和8年(1933)
 農学者にして教育者。盛岡藩士の家に生まれる。札幌農学校から東京大学に進学。明治17年、私費でアメリカ留学し、札幌農学校助手となって、ドイツへ公費留学。帰国後、札幌農学校教授となり、要職を歴任。東京帝国大学教授になる。『武士道』(英語)の著者として国際的に知られ、大正9年の国際連盟設立に際しては、事務次長を務めた。


 矢内原忠雄氏の記事中、「ジュネーブを辞して帰朝」といいますのは、大正15年(1926)、国際連盟事務次長を辞して帰国したことを指します。国際連盟の本部は、スイスのジュネーブにありました。

 さて、松山事件です。
 おそらく、下の本が、一番詳しいと思います。

晩年の稲造―共存共栄を説く (1984年)
内川 永一朗
岩手日報社


 内川永一朗氏は岩手日報の記者だった方で、農業担当だった時に新渡戸の功績に触れたことが研究に手を染めるきっかけになり、十数冊の著作がおありだそうです。
 この「晩年の稲造―共存共栄を説く」を主な参考書に、県立図書館へ行き、当時の新聞三紙、海南新聞、愛媛新報、伊予新報の記事に直接あたりましたので、そこから導き出されました、私なりの事件の解釈を、書きます。

 新渡戸稲造が国際連盟事務次長を辞する前年、大正14年(1925)のことです。日本において、男子の普通選挙法が成立しました。
 そして昭和3年(1928)、その普通選挙法に基づく最初の衆議院議員総選挙(第16回)が行われました。当時の内閣は、軍人から政友会総裁に転身した田中義一(長州出身)が首相で、大規模な選挙干渉を行ったとされます。しかし結果は、与党政友会218議席、野党民政党216議席と、ほぼ拮抗していました。
 この田中内閣、大蔵大臣は高橋是清で、金融恐慌は沈静化するのですが、外務政務次官の森恪(外務大臣は田中が兼任)が対外強硬派で、満州におきます張作霖爆殺事件の始末が不適切で、昭和4年(1929)に総辞職します。また田中内閣は、貴族院とは敵対的で、新渡戸は貴族院議員でしたし、国際協調派ですので、政友会とは相容れなくなっていました。

 後を受けて組閣しましたのは、民政党の濱口雄幸です。
 濱口は、貴族院議員を多く入閣させました。外務大臣も、貴族院で、国際協調派の幣原喜重郎男爵。
 昭和5年(1930)2月の第17回衆議院議員総選挙では、濱口率いる民政党が単独過半数の273議席をとって、政友会に圧勝。ロンドン海軍軍縮会議に若槻元総理を首席全権として派遣し、条約締結にこぎつけて、同年に批准しました。

 要するにこの時期、ごく簡単に言ってしまいますと、対外強硬姿勢の政友会と国際協調姿勢の民政党、二大政党が衆議院で争い、交代で組閣していたということになります。

 ロンドン海軍軍縮条約につきましては、海軍内部の反対があり、国家主義運動が活発化してそれにからんだことは確かですが、なにしろ海軍の軍縮なのですから、海軍首脳部が承認でまとまりさえすれば、それですむ問題でした。
 ところが政友会は、この国際外交問題を政争の具にして、倒閣をねらい、ひそかに統帥権の干犯を唱えて、軍部をたきつけてまわっていました。総裁の犬養毅は、臨時党大会で、「政府がロンドン条約案に関し軍令部の同意なくして全権に対し回訓を発したることは明らかに統帥権干犯である」と演説しています。

 しかし、与党民政党にとって、なにより痛かったのは、ライオン宰相と呼ばれて国民に人気があった濱口雄幸首相が、東京駅で、玄洋社系右翼団体の党員に撃たれ、重傷を負ったことです。ロンドン条約批准直後のことで、いわば政友会の煽りに乗った犯行でした。
 濱口が入院している間、幣原が臨時代理を務め、昭和6年(1931)1月に、濱口は退院して復帰しますが、体調はすぐれず、それを政友会(鳩山一郎が中心だったといわれます)が、執拗に議会への出席を求めて、再入院。四ヶ月後に死去しています。

 濱口内閣の後を引き受けたのは、同じ民政党の若槻内閣(第二次)です。外相は続いて幣原です。
 この昭和6年には、満州で事件が相次ぎました。
 6月の中村大尉殺害事件に続き、7月には万宝山事件と、満州の無法が際だつ事件が起こります。
 そして9月には柳条溝事件。関東軍の自作自演といわれています満州鉄道爆破事件です。これを理由に関東軍は軍事行動を起こし、中央の命令もなく、朝鮮にいた日本軍が越境出動します。
 中華民国が、国際連盟に提訴し、日本政府は、事変の不拡大方針を宣言します。

 しかし若槻は、陸軍の暴走を止めることができず、十月には陸軍少壮幕僚の軍閥・桜会によるクーデター未遂事件もあり、民政党のみの内閣だから軽んじられることになるのだろうかと、政友会との連合を模索します。
 とはいいますものの、内政、外交ともに方針がちがう政友会との連合には、閣内に大きな反対があり、若槻内閣は総辞職しました。
 後を継ぎましたのは、政友会の犬養毅内閣です。
 政友会は、衆議院で少数派ですから、多数を得て国民の信任を背景にしたいと、昭和7年(1932)1月、解散総選挙に打って出ます。
 ほぼそれと同時に、第一次上海事変が勃発しました。

 新渡戸稲造が松山を訪れましたのは、その直後なんです。
 「晩年の稲造―共存共栄を説く」によれば、執拗に新渡戸排斥キャンペーンを繰り広げたのは、海南新聞一紙です。
 海南新聞は、愛媛新報、伊予新報など他の地元紙とくらべて、とびぬけて有力で、愛媛県下ではよく読まれていました。
 それが、2月5日に新渡戸来松のインタビュー記事を載せた後、6日、7日の社説で新渡戸攻撃をくりかえし、7日の夕刊では松山連隊の副官にインタビューし、新渡戸非難、社説擁護談話をとっています。さらに8日の朝刊一面では、二人の一般人の読者投稿を取り上げ、激しく新渡戸非難をくりひろげているんです。

 内川永一朗氏は、「海南新聞が軍部に迎合して」というようなことで、そのあんまりにも執拗な攻撃の理由を片付けておられるのですが、私は、それにしましては奇妙すぎる、と思ったんです。
 実は、昭和44年(1969)の伊予史談に、中村宏氏の「新渡戸稲造博士の松山談話事件1」という論文が収録されておりまして、ものすごい誤植のおかげで、どれがどの新聞の記事なのか、わけがわからない論文になってしまっているのですが、マイクロになっています新聞紙面(欠けあり)とくらべてみますと、海南新聞、愛媛新報、伊予新報の新渡戸来松インタビュー記事をちゃんと収録してくれています。読んでみますと、同じインタビューをもとにしたはずが、三紙三様、相当にちがう記事になっているんです。

 いったい、「海南新聞のみが執拗に新渡戸攻撃をくりかえしたのはなぜか」、と考えてみまして、私、「選挙ではないのか」という結論に達しました。
 といいますのも、海南新聞は、政友会と縁が深いんです。このときの衆議院選挙にも、海南新聞関係者の岩崎一高(コトバンク岩崎一高)が、政友会公認で立候補していました。
 愛媛県選挙管理委員会の衆議院議員選挙の歩みを見るとわかるのですが、この当時の衆議院は中選挙区で、愛媛一区は定数三人。岩崎一高は、初の普通選挙だった昭和3年に政友会から立候補し当選。このとき愛媛一区は、政友会が三議席独占しています。
 そして、昭和7年2月3日付けの海南新聞二面記事によりますと、昭和5年の政友会は与党ではなかったため二人しか候補を立てず、岩崎は公認立候補に至らなかったようです。翌4日の記事は、与党になり、再びの三議席独占を狙います政友会から、岩崎一高の公認立候補が決まったと報じているのですが、政友会候補3人のうちで、一番落選の可能性が大きいともされています。

 新渡戸稲造の来松記事は、民政党の若槻総裁の上海事変談話発表と、重なっています。
 若槻は、元老の西園寺公望と会談した後、大阪へ向かう列車の中でインタビューを受け、それが配信されて、2月5日の記事となったのですが、海南新聞は、一面ながら目立たない最下段に「事件拡大は極力避けよ」という見出しで、載せています。
 一方、愛媛新報は二面の上段に、若槻の写真入りで「国民は空景気に迷てはならぬ 上海は早く解決したい」という見出しで載せていまして、どうも、紙面を見る限り、なんですが、愛媛新報は民政党支持、といった印象を受けます。
 同じ配信を元にした記事と思われ、本文の内容は両紙、ほぼ同じです。
 大阪を振り出しに、選挙遊説をする予定の若槻は、「選挙の主題は金の再禁止を中心とする経済問題。外交問題、特に対支(シナ)問題についてこの際政府の遣方について批判を避けたい」と言っています。
 愛媛新報は、このおだやかな若槻談話記事のすぐ隣に、「犬養首相は資本家の傀儡? 金の為めには同志を売った過去の政治生活を見よ!!」というものすごい見出しの独自関連記事を載せていますから、どう見ても、反政友会、親民政党姿勢なんですよねえ。

 そして愛媛新報は、同日の四面に、新渡戸の来松インタビュー記事を載せているんですが、「犬養内閣の猪突外交 全く土台を崩壊さす」という大見出し、そして、「軍閥擡頭の反面に左傾分子 莫大な軍事費は国民の負担」という小見出しです。
 一方の海南新聞は、「共産党と軍閥が日本を危地に導く」の大見出しに続いて、「上海事件に関する当局の声明は全く三百代言式だ」という小見出し。

 政友会にも民政党にもそれほど関係がなさそうな伊予新報の新渡戸記事は、といいますと、「平和の戦争」という大見出しに、 「軍事的勝利は救ひでない」と小見出し。本文中に「現在の日本を亡ぼすものは軍閥と共産党だ」とあるんですが、すぐ続いて、「戦争がさかんになれば共産党が反動的に必ず勢を増す。そこで日本の危機を招来するといふようなことを日本の軍人は少しも考えないでワイワイ騒ぐんだ、刻下の問題として日本の国では、共産党より軍閥の方が危険だ」と説明があります。

 いったいどの新聞記事が、新渡戸がしゃべったことにもっとも近いのか、それはわからないのですが、海南新聞が大見出しにして、しかも後で大攻撃しました「共産党と軍閥が日本を危地に導く」という言葉は、愛媛新報も表現を変えて、「軍閥擡頭の反面に左傾分子」と小見出しにしているわけですから、そういった趣旨の発言があったことは、確かなんでしょう。
 なぜ軍閥が擡頭すると左傾分子が増えるのか、愛媛新報は本文で「今度のばく大な軍事費は当然国民の税の加重となる」という新渡戸の発言を載せて、説明しています。

 ただ、内容を言いますならば、海南新聞は突出して、詳しい本文記事を載せています。
 例えば、愛媛新報が「犬養内閣の猪突外交 全く土台を崩壊さす」と大見出しにして、しかしでは、犬養内閣の外交のどこがだめなのかといえば、具体的に書いていないのですが、具体的に言いますならば、海南新聞の小見出し「上海事件に関する当局の声明は全く三百代言式だ」ということに、なるのではないか、と思えます。

 実は新渡戸稲造は当時、大阪毎日、東京日々新聞の顧問をしていまして、「晩年の稲造―共存共栄を説く」によれば、なのですけれども、あまりに海南新聞の新渡戸攻撃が激しかったため、大阪毎日新聞の松山支局記者・曽我鍛が動き、インタビュー当時の状況を取材して、擁護記事を書きました(えー、私、毎日新聞までは調べきれませんでした)。
 それによりますと、海南新聞の記者はインタビューの場に遅れて来たあげくに、オフレコで、という前提で新渡戸がしゃべったことまで記事にした、というんです。
 そういわれてみますと、「当局の声明は全く三百代言式」なんぞといいます批判は、日本政府が海外に向かって発した声明の批判になってしまいますから、オフレコでなければ言わなかったことではないのか、と思うんですね。

 海南新聞がかちんときましたのは、愛媛新報が「犬養内閣の猪突外交 全く土台を崩壊さす」と、政友会内閣批判に、新渡戸インタビューを利用したことじゃなかったでしょうか。
 実際、対外強硬路線で、倒閣のために、統帥権干犯を唱えて軍部を煽ってきました政友会を、新渡戸はうとましく思っていたでしょうし、海南新聞としましては、国際的に著名な貴族院議員が、自社が応援する政友会の外交をけなすとは、選挙の最中だけに、許せないことだったのでしょう。
 政友会を擁護し、そして同時に、岩崎一高に在郷軍人会票を、というもくろみが、海南新聞にはあったのではないかとまで、つい疑ってしまいます。

 民主党の鳩山由起夫元首相は、政友会の鳩山一郎の孫です。
 普天間基地代替施設移設問題で大混乱を巻き起こしました孫は、軍縮条約を政争の具にしてしまいました祖父を思い出させますし、海南新聞は今の愛媛新聞なんですが、前回の衆議院選挙では、民主党にはやたらに甘かったよなあ、と。

 歴史は、くりかえすんですよねえ。

 なお、ですね。
 このとき新渡戸稲造が泊まっておりました道後の鮒屋は、江戸時代から続く宿屋さんで、幕末、土方久元の日記にも出てきたりします。現在もふなやの名で営業するお勧めの宿です。



 近所に住んでおります私は、温泉付きのランチを、時折楽しむだけなのですが、和食よし、フランス料理よしで、上の写真は、先日ふなやさんで食しましたランチの前菜です。

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「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第5回

2009年12月28日 | 伊予松山
「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第4回の続きです。

「なに、この陳腐で紙芝居みたいな三文ロマンス!!!」って、もちろん、広瀬武夫とアリアズナの恋ですが。
原作にどこまで書かれていたか忘れてしまっているのですが、それにしても、ひどすぎです!!! 当時の軍隊といいますのは、騎兵同士、海軍同士で、例え仮想敵国状態にあっても、仲間感覚があり、そういった海軍同士のつきあいの中から、広瀬の恋も生まれたことは、わかるように描かれていた気がするのですが、「安易すぎっ!!!」なんです。

黄海海戦後の名場面を省いて、気持ちの悪い鴎外のセリフのみにしてしまったのと同じ感覚なんでしょうけれども、平時は同じ海軍士官同士、ロシア海軍士官とも気持ちよくつきあっていた感じが、まったく出ていません。ロシア人の描かれ方が、安っぽすぎます。

あー、私、時系列を勘違いしていたみたいで、今回、夏目漱石が松山に来るシーンがありましたね。
しかし、ひどい描き方です。「坊ちゃん列車に乗れよ!!!」といいますのは、松山人の私ならではの要望なんですが、それよりなにより、「漱石っ!!! あんたはあんたを教師にしてくれた帝大恩師の外山正一に、なんか恨みでもあるのかよっ!!!」です。
「日本人はなんでも万歳」って、あーたっ!!! 「万歳」はつい数年前、憲法発布の折に、東大総長・外山正一が考えついた祝賀の発声でしょうがっ!!! 日本の近代化の象徴です。

で、英学に没頭していた漱石が、松山に来て、子規と共に俳句をやり、日本文芸の伝統をいかに近代的に生かすか、そのきっかけをつかんだのだと、そういう肝腎な部分は、さっぱり描こうとしないんですよねえ。
「万歳」に文句をつけるのなら、「外山先生……、万歳じゃだめなんです。いずれ、あなたの新体詩抄を超えてみせます」くらい言わせませんと(笑)。

はあ、そして、ネイティブ・アメリカンですか。
もう、とってつけたような、現代的紋切り型の迫害されたインディアン登場!!! ですけど、なんの必要があって出したんでしょう。
もともと領域国家を形成していた日本と、ネイティブ・アメリカンをいっしょには語れんですわね。「白人が有色人種を虐げている!!! インディアンと日本人は同じ有色人種なんだっ!!!」って、昭和初期の反英米感情の高まりの中で盛んにいわれたことでして、人種差別があったのは事実ですけれども、当時のネイティブ・アメリカンが、です。必死になって西洋近代を受け入れ、あくせくしている当時の日本人を見て「あなたたちは自由で幸せだ」なんぞということは、およそありえません。受け入れる前の江戸時代の日本人に対してならば、わかるんですけれども。

そして、真之です。
前回が尾を引きましたねえ。部下が一人死んだからって、坊主になるって、あーた。軍人を志しといて、それはあんまりでしょう。で、アメリカへ行き、マハンと冷静に語り合い、米西戦争の観戦にはりきるとは、分裂症です。原作の「坊主になる」が生きているのは、日本海海戦という大舞台を乗り切ったあげくだから、です。前回、下っ端士官で、戦闘時に直属の部下が死んだからって、あそこまでおろおろされたのでは、今回に続くのが変です。

そしてきわめつけは、またしても伊藤博文です。
「いくらなんでも、俊輔(伊藤博文)がそんな馬鹿げたセリフを口にするもんかっ!!!」です。「外交は軍事力でやるもんじゃない」とかなんとか、ねえ。
あーた、俊輔は軍事力で維新を勝ち取った長州閥の中でも、下っ端からのし上がった重鎮ですのよ。当時の外交が、軍事力無しに成り立たなかったことなど、身に染みてわかっていますよ。わかっていたからこそ、恐露症といわれたほど用心深かったんでしょうが。
まっ、日英同盟の交渉の最中に、ロシアと交渉しようとした独断行為を、時の駐英公使・林董は怒ってますけど、一方で、おかげで英国の譲歩を引き出せた、とも言ってますからねえ。狸の中の狸の俊輔ですから、わざとやったとも考えられますわね。
ともかく、日本が無理をして海軍を充実させたからこそ、日英同盟はありえたんですわよねえ、伊藤公爵?

最後に、細かいことですが、閔妃です。
あの写真、実は女官のものだといわれていたと記憶しているのですが、まあ、いいでしょう。
閔妃暗殺に日本公使館がかかわっていたことは事実ですが、それを言うんでしたら、閔妃に弾圧された朝鮮開化派がその中心にいたことも説明すべきでしょう。
その後の朝鮮の乱というのも、近代化政策に対する反感が大きく作用していますし、朝鮮国内の近代化をめぐる確執を無視しながら、「坂の上の雲」に閔妃暗殺を出す必然性があるのか、疑問です。

で、続きは一年先ですか。
やれやれ。


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「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第4回

2009年12月21日 | 伊予松山
「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第3回の続きです。

いやあ、もう、最初は気持ちよく見てたんです。
好古の描き方に文句はないですし、米倉斉加年の大山巌も、年が行き過ぎだけど雰囲気は出てるわ、といった感じで、なにしろいま、若かりし日の巌の普仏戦争観戦日記を読んでいるものですから、時が流れたのよねえ、と感慨深かったり。

今回、松山が出てきませんので、あんまりつっこみどころはなかろう、と安心していたのですが、とんでもない間違いでした。
えー、子規のおかあさんが、ですね。仏壇にむかって、「漢学者だったおじいさまが夢の国のように言っていた国と戦争するのねえ」とか言い出しものですから、つい、「大原観山がそんな馬鹿みたいなこと言うわけなかろうがっ!!!」と、最初のつっこみを。
もちろん、こんな馬鹿な場面は、原作にはありません。
あーた、漢学の元になった中華文明と、現実の清帝国を混同するほど、幕末の漢学者は馬鹿ではありませんわよ。
例えば、です。もし、当時のイギリスがギリシャと戦争することになったとして、イギリス人従軍記者のおかあさんが、「ギリシャ学者だったおじいさまが夢の国みたいにいっていた国と戦争するのねえ」といったら、かなり馬鹿馬鹿しい場面になります。

まあ、しかし、そこらへんは、中国で撮影したらしいからサービスだろう、と耐えました。
極めつけは超似合わない榎木孝明の森鴎外です。「この戦争の戦死8000名のうち三分の二が脚気などの戦病死者。日本の衛生は遅れている」とかなんとか言い出されたときには、えー、セリフの人数とか数字をまちがえて覚えているかもしれませんが、ともかく、もうお口ぽっかーん。
「NHKっ!!!  あんたいつから2ちゃんねるになったの? 視聴者に、おまえが言うなっ!!!!! と叫ばせたいのっ?」

日清戦争における陸軍の戦死者は、293人にすぎません。えらく悲惨そうに描いていましたが、戊辰戦争より西南戦争より、はるかに戦死者が少ないんです。
ところが、日清戦争における陸軍の脚気の死者は、なんと3944人!!!。戦死者の10数倍なんです。

「衛生がなってない」なんて、とんでもないです。 じゃあ、なぜかって、陸軍は兵士に白米を食べさせていたからです。 
 それよりなにより、海軍では脚気の死者をほとんど出していません。遠洋航海をする海軍では、脚気による死者が相次ぎ、イギリス留学を経験した海軍医務局長の高木兼寛が、食物に関係していることを突き止め、ともかく白米の取りすぎがよくないらしいと、兵士の食事を麦ご飯に変えて、日清戦争までに脚気による死者をほぼ根絶したんですね。

ところが、陸軍と東大は、ドイツ医学です。海軍のイギリス医学を軽く見て、イギリス医学を修めた高木兼寛を総攻撃。「脚気は感染による。麦飯で直るなぞと馬鹿げている」と主張した急先鋒が森鴎外でして、極端な言い方をしますと、日清戦争における陸軍の戦病死者3944人は、森鴎外が殺した!!! ということになります。
まあ、本人が感染だと思い込んでいたんですから、仕方がないといえばないんですけどねえ。現実に海軍では麦飯で死者がいなくなったんですから、自分の思い込みより、目の前の事実に目をむけるべきだったでしょうが、鴎外っ!!! 兵士に麦飯食べさせたからって死ぬわけじゃなし、ためしにでも食わせろよ。 写生の精神が一番必要だったのは、陸軍の広報担当者じゃない、あんたよっ!!!

いったいこのドラマ、これからどうなるんでしょう。
まあ、仕方がないです。突っ込みを楽しみましょう。

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「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第3回

2009年12月16日 | 伊予松山
「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第2回の続きです。

 前回、「もしかして、真之のお囲い池のエピソードは省かれるのかも」と心配していましたら、今回、ちゃんと入っていました。

 まつやまインフォメーション お囲い池
 
 お囲い池は、確かに藩のプールのようなものでしたが、藩校・明教館とは離れていました。明治以降は一般に開放され、ボランティアで元藩士の老人が見張りをしていたというような話で、作法にうるさかったといわれます。しかし、外観は非常に牧歌的なため池のようなもので、なっ、なに??? この竜宮城みたいなの!と、そばにりっぱな建物がある、というドラマの風景は、ものすごい違和感だったんです。


 松山市ホームページ 明教館

 どうしてあんな風景になったのか、不思議で、検索をかけてしらべてみました。
 そしたらなんと……、ロケ地は、会津の藩校、日新館でした!

 会津藩校日新館ー白虎隊の学びの社 お知らせ

 あー、行ってみたいかも。なんですが、これ、ぜーんぶ新築ですよねえ。
 撮影に解放していて、しかもプールがあって、安上がりにロケができたんでしょうけれども、いくら同じ佐幕藩とはいえ、です。あーんな北国の山の中で、まーったく藩風のちがう会津の藩校で撮影とは!と、ちょっと笑えました。
 えー、だって、松山藩は軟弱ですし、俳句はしても、抵抗もしませんでしたし、誰も自決も切腹もしてませんし。
 まあ、会津と同じく、長州は嫌いだったでしょうけれども。
 戊辰戦争において、松山藩に進駐してきた土佐藩兵の指揮は、小笠原唯八がとっていたんです。このお方が、育ちがよく、実にさっぱりとした気性で、松山藩では、土佐にはあまり反感を持たなかったんです。
 ところが、長州藩兵が勝手に上陸してきまして、土佐藩兵とにらみあったあげくに、松山藩虎の子の汽船をかっぱらっていきやがりました。
 ちなみに、小笠原唯八は、新政府において、短期間でしたが佐賀の江藤新平と親友になり、その後、会津攻めに加わって、華々しく戦死します。いい人はみーんな、早死にするんですねえ。

 秋山好古が、ですね、フランスに留学していましたとき、山県有朋が渡仏してきます。
 このとき好古は、山県の出迎えに遅れたり、山県がフランス陸軍高官のために持ってきた土産を汽車の中に置き忘れたりした、という話があります。
 えーと、たしか司馬氏の原作の中では、それで山県が「この男は事務仕事には使えない」と見極めたとかなんとか、ということになっていたように記憶しているのですが、私、思うに、ですね。好古は、山県が大嫌い!で、飄々と、しかしわざと、やったんですわ、きっと(笑)。冗談ですけど。

 山県といえば、私、それまでけっこう楽しんで見ておりましたのに、伊藤博文と山県が登場しましたとたんに、「あー、あー、あー、まあっ! えらそーに!」と、どん引きでした。
 いえ、別に、明治における伊藤と山県の存在が、大きなものであったことを否定するわけではありませんし、第一、明治10年以降のことは、私、ろくに調べておりませんんので、否定するだけの材料も持ち合わせておりません。
 しかしもう、私の頭の中が幕末に染まっておりまして、「そうよっ! あんたなんか周旋が上手いだけの高杉の使い走りよっ! つーか、仲良しモンタ(井上馨)を語りなさいよ!」と、テレビに叫びつつ、しかし、イメージじゃないなあ、二人の配役! と、うろんな目で見つめておりました。

 真面目な話、どーせナレーションの多いドラマなんですから、政治劇は、ナレーションですませた方がよかったんじゃないんでしょうか。
 もともと、原作について、小説としての構成が破綻している、というような感じの評価もあります。
 つまり、最初は、子規と秋山兄弟に焦点をあわせて、時代を描いているのですが、日清戦争がはじまるあたりから、それでは全体像が鮮明になりませんから、主人公格の三人は背景に引き、その他大勢になってしまう、というんですね。確かに、日清、日露戦争において、子規や秋山兄弟がいた位置からは、外交交渉などはつかめませんし、戦争全体の有り様が、俯瞰的に描けなくなります。

 小説として読んでいるぶんには、それもありかな、と思うんですが、TVドラマとしてはどうなんでしょう。あくまでも子規と秋山兄弟の視点にあわせる、という方法もあったのではないか、と思います。子規の新聞「日本」(薩摩スチューデント、路傍に死す参照)入社で、加藤拓川の名前だけは出したのですから、この人こそ、登場させるべきだったんじゃないんでしょうか。陸奥宗光や加藤拓川や、ですね。明治政府の中にあって貢献しながら、政権中枢に批判的な視線は持ち続けた側面も、十二分にあると思うんですのよ。時の政権イコール日本、ではないわけなのですから。子規入社直前のこの時期は、薩摩藩密航留学生だった村橋久成が路傍に行き倒れ、陸奥宗光が青春の日をしのんで哀悼した、そういう時代でもあったのです。

 えーと、ですね。坂の上の雲が長らくドラマ化されなかったについては、様々な説があるんですけれども、私が故石浜氏(『坂の上の雲』と脱イデオロギー参照)からお聞きした話では、原作について、乃木希典と伊地知幸介(wiki-伊地知幸介参照)のご遺族から抗議があり、ドラマ化がはばかられた、ということでした。
 旅順攻防戦については、近年、評価の見直しが行われておりますし、私も、乃木・伊地知無能説には懐疑的です。といいますのも、近代戦における要塞の攻略は、そもそも多大な犠牲を強いられるものでして、クリミア戦争から第1次世界大戦まで、肉弾戦なくして攻略できた要塞はない、といわれます。で、当時、リアルタイムで、旅順の攻略は、諸外国から高く評価されていたのですから。
 まあ、これに関しましては、ドラマがどう処理するのか楽しみです。

 一方、ですね。いわゆる左傾史観団体からのドラマへの変な抗議もあるわけですが、松山にもそういう団体が存在しまして、わりに中心になって活動しておられる方が、リアルでお知り合いだったりするんですわ、これが(笑)。いえ、困ったことに、ですね、とてもいい方なんですわよ、ホホホホホ。
 しかし、ですね。その団体はこれまでにも、坂の上の雲ミュージアムの戦争展示にクレームをつけてきたりしたわけでして、いや、しかし、「坂の上の雲」から日露戦争をぬいて、なにが残るというのでしょう。
 まあ、仕方がないですね。団塊の世代のこういった思い込みは、死ぬまで直りませんわ、おそらく。

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「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第2回

2009年12月10日 | 伊予松山
「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第1回の続きです。サラ・ブライトマンの歌、なかなかいいです。

NHKスペシャルドラマ 「坂の上の雲」 オリジナル・サウンドトラック
久石譲,外山雄三,NHK交響楽団
EMIミュージックジャパン

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今回の目玉は、なんといってもサン・シール!!!wiki-サンシール陸軍士官学校)です。

社団法人・日本映画テレビプロデューサー協会 特集 大型企画1「坂の上の雲」

しかし、サンシールを出すならば、子規の叔父・加藤拓川を、ぜひ、出していただきたかったところです。

加藤恒忠(たむたむページ)

上のサイトさんに詳しいのですが、好古の友人です。

「坂の上の雲」の幕末と薩摩で、
フランス時代、久松定謨伯爵は、薩摩出身で、同時期にフランス留学をし、洋画家となった黒田清輝ととても親しくつきあっていました。加藤拓川もいっしょに遊んだりしていたようですし、あるいはフェンシングなんかしていますので、秋山好古もいっしょだったりした可能性は高いんです。(fhさまのところの黒田清輝の日記参照)
と書いたんですが、確かどうも、最初に拓川が伯爵のお供をして、好古は後から追いかけてフランスへ行った形だったようですので、黒田清輝と好古と、顔合わせくらいはあったでしょうけれども、つきあいがあったかどうかは微妙です。私、大昔に仕事で、ごく短い好古さんの伝記を書いたことがあるのですが、詳しい内容を忘れこけてしまっております。

ひとびとの跫音
司馬 遼太郎
中央公論新社

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上の司馬遼太郎氏の作品は、「坂の上の雲」後日談というにはとても地味なんですが、正岡子規の死後養子で、加藤拓川の息子、正岡忠三郎の周辺を描いたドキュメンタリー、といいますか、随筆のような物語で、私はとても好きです。拓川も出てきますし、子規の妹・律も出てきます。
実は拓川の伝記も、ごく短いものですが、書いたことがありまして、お墓の写真を撮りに行きましたが、拓川は「少しでも解放の役に立てば」と、遺言により、一族の寺ではなく、関係者のお寺の境内に眠っているんです。外交官が市長を務める、というのは、当時において、陸軍大将だった秋山好古が、新説私立中学校の校長を務めたのに匹敵するくらい異例のことだったようでして、乞われたとはいえ、両人、ほんとうに故郷を愛していたのだと思えます。

ところで今回、最大のえええっ???は、原作にない話なんですが、律さんが真之を追いかけていく場面でして、当時、律さんが住んでいました中の川から三津浜までは、けっこうな距離なんです。三津浜は、お城下ではありませんし。まあ、当時の人は歩いて行きもしたでしょうけれども、「走るかっ!? 普通???」と、私が思わず叫びましたら、妹は「律さんはマラソンランナーだったのよ、ホホホホホ」と応じました。

NHK松山放送局 坂の上の雲 正岡律ゆかりの地

地図を1/75000に切り替えますと三津浜が出てきますが、JRでも一駅ありますし、JRの三津浜駅はえらく港から離れてまして、実際の距離からいきますと2駅分くらい。現在では、三津浜港はさびれていまして、旅客船は大方、すぐ北にある高浜港のそのまた北、松山観光港に着きます。で、律さんが住んでいた場所に近い市駅から高浜まで、伊予鉄道高浜線が走っていまして、こちらでいきますと市駅から六つ目が三津駅です。

だいたい、ですね。夏目漱石が「坊っちゃん」 (新潮文庫)で描いております「坊ちゃん列車」は、明治21年、全国でも2番目に古い私鉄として城下から三津までが開通していまして、三津浜は、もっと賑やかな場所だったと思います。

坊ちゃん列車(たむたむページ)

調べてみましたら、海軍兵学校が築地から江田島に移ったのは、この明治21年でして、真之の帰郷は江田島からということですから、好奇心旺盛な真之は、三津浜から、あるいは三津浜まで、できたばかりの坊ちゃん列車に乗った可能性が高いんですね。

ついでにもう一つ、細かいことを言いますと、私が生まれました大街道は、明治時代、真ん中に川が流れておりまして、道幅は、現在よりもだいぶん狭いんです。米軍の空襲で全焼し、戦後、区画整理で住民が土地を供出し、現在の道幅になりました。
川のそばには柳が植えられていたらしく、まあ、そうですね、賑やかな城崎温泉街とか祇園白川通りとかをイメージすればいいのでは、という感じです。真之が帰郷して、父親と出会ったのがこの大街道なのですが。

話はとびますが、日露戦争中、松山には捕虜収容所がありましたが、その待遇のよさが知れ渡り、投降するロシア人は「マツヤマ!」と叫んだといいます。道後温泉の入浴や海水浴もあり、経済的に余裕がある者は、市内に妻を呼びよせることも可能だったりしたみたいなんですが、やはり、慣れない土地での暮らしです。当時は、今のように医療水準も高くないですし、百名ほどがここ松山の地で、亡くなったんですね。異国で果てた彼らを葬ったロシア人墓地が、今も城北にあり、近所の人々がボランティアできれいにお祀りしております。






第一次大戦のときも、一時、少数ながらドイツ人捕虜を預かっていたような話で、そのとき病死した一人の海兵隊員も、このロシア人墓地で眠っています。

 

さらに、松山が空襲を受けた太平洋戦争において、空襲機、あるいは空襲機の護衛をしていた米軍艦載機のパイロットの中には、迎撃機に打ち落とされて松山近辺で戦死、ということもありました。その中で、結局身元がわからなかった米兵のお墓も、一つあります。墓石の裏面には、昭和20年8月9日とありますから、終戦のほんの6日前に亡くなったんですね。
無名の米兵の墓が、ずっと守られてきたということは、おそらく、なんですが、息子や夫が戦死して、遺体も帰ってこなかった松山の人々が、異国に眠る身内に思いをはせつつ、敵であった無名戦士を悼んだ、ということなんでしょう。

 



ドラマに話をもどしますと、松山の描写については、いろいろと細かな不満があるのですが、全体に、NHKにしては近年になく、出来のいい歴史ドラマ、と思います。ああ、そういえば、夏にやった「気骨の判決」も、けっこうよかったですけど。

NHKスペシャル 終戦特集ドラマ「気骨の判決」

しかし、司法の話とかははりきってドラマ化しますのに、近代戦史はろくにドラマ化してこなかったNHKが(妙に内籠もりに偏った反戦スタンスをとったものならあったのかもしれませんが)、世界史の中の日本、という視点を尊重して、「坂の上の雲」をドラマ化してくれているのは、歓迎です。

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「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第1回

2009年11月30日 | 伊予松山
えーと、やはりまずはドラマの感想から書くべきなんでしょう。
『坂の上の雲』と脱イデオロギー「坂の上の雲」の幕末と薩摩が関連記事です。


NHK スペシャルドラマ「坂の上の雲」

坂の上の雲 第1部―NHKスペシャルドラマ・ガイド (教養・文化シリーズ)

日本放送出版協会

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 わりに原作に忠実で、悪くはありませんでした。
 細かいことを言いますなら、松山中学時代の子規と真之、妹の律、秋山好古が下宿していた当時の旗本の大屋の娘・多美(後に好古の妻になります)が、ちとふけすぎで、少年、少女役を使ってもよかったのでは、という気がしないでもなかったのですが、まあ許せる範囲かなあ、と。配役そのものに文句はないです。

 一番、あれっ???と思ったのは、陸軍士官学校へ進学した兄の秋山好古が帰郷した場面でした。原作にない場面なんですが、それが問題ではないんです。陸士の制服が白かったりしたの???ってことなんですが、好古は陸軍士官学校三期、明治10年の入学です。まるで海軍兵学校の夏の制服みたいで、一瞬、話がとびまくって、原作にある江田島の海兵に行った弟の真之が帰郷する場面になったのかと驚いたら、好古だったんです。聞いたことがないんですが、明治10年ころには、陸士の制服が白かったりしたんでしょうか???

 もしかして……、真之が帰郷する場面をとばすつもりで、好古の帰郷場面を入れたのかしら、と勘ぐってみたり。だとすれば、ちょっと残念。帰郷した真之がまず大街道で父親に会って、帰宅するのですが、そのときの父母と真之の会話が秀逸なんです。大街道は私の生まれた街でもありますし。

 上京した真之と子規が、高橋是清とともに横浜へ行く場面も、原作にはありません。西田敏行が高橋是清というのは、ちょっとイメージじゃないんですが、まあそれは置いておいて、治外法権のあり様を語り、当時の日本が置かれた状況を説明するエピソードとしては、悪くありませんでした。

 あー、そうです。全体に説明が多すぎるのですが、それも仕方がないんでしょう。
 そのせいなのかどうなのか、どうもすべてが作り物めいて、リアリティが今ひとつ、でした。
 しかし、見ていて不愉快になることはありませんし、最近の大河ドラマのように、いくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎるっ!!!と叫びたくなることもなかったので、これから先が楽しみです。

 で、先日、青山霊園へ出かけたとき、ご同行のみなさまにお付き合い願い、秋山家(好古の方)の墓にお参りしました。昭和5年に死去しました陸軍大将のお墓にしましては、実にささやかでして、お人柄がしのばれます。
 戦死した方の墓石が大きいのは、遺族のお気持ちとしてよくわかるのですが、青山霊園を歩いていますと、異様に大きな権力者一家のお墓も目につきまして、悪趣味きわまりない、と感じました。



 秋山兄弟の生家跡は、以前は常磐同郷会(元松山藩主・久松家が元藩士の学業援助のために作った常磐会と、松山から海軍兵学校へ進学した真之と山路一善-wikiが故郷の青年たちの錬成のために作った松山同郷会が後にいっしょになったもの)が運営する、ぼろぼろの道場と下宿(松山で勉学する学生のためのもの)だけだったんですが、現在ではきれいに整備されていまして、好古の銅像もあり、写真を撮っております。

秋山兄弟生誕地

 

 好古のお墓は、松山市営鷺谷墓地(道後温泉のそばです)にもありまして、実はうちのごく近所なんですが、えー、これまで行ったことがありませんでした。さっそく本日、行ってまいりました!









 ああ、もっと若い頃にお参りするべきでした! 
 ご覧のように、こちらも実にささやかな墓石なんですが、日章旗がくくりつけられているのは、大きな桜の枯れ木でして、この木が元気だったときには、満開の桜が実に見事だったことでしょう。そばの「永仰遺光」の碑は、昭和7年、北予中学校と松山同郷会によって建てられたもののようです。
 好古は、晩年、故郷松山で北予中学校の校長を務めるのですが、戦後、この北予中学校と城北女学校がいっしょになって、現在の松山北高等学校ができ、私の母校なのですが、出来の悪い生徒でして、在学中、校内に好古の像があることにも気付きませんでした。
 最後の写真は、好古のお墓のそばから、松山城を仰いだところ、です。現在では、道後温泉街の旅館の建物が建て込んできていまひとつの眺望ですが、それでも、天守閣が臨めます。

 どうも私、近代陸軍における騎兵というものが、いまだによくわかりません。
 だいたい、司馬氏の原作が、騎兵については、さっぱりわけのわからない書き方をなさっている、と思うのです。
 えー、騎兵について勉強すること、今後の私の課題の一つです。


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「坂の上の雲」の幕末と薩摩

2008年03月10日 | 伊予松山
 春や昔 十五万石の城下かな

 この正岡子規の句を引いて、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」は幕をあけます。



 上の写真は、松山城天守閣から、その十五万国の城下町を見下ろしたところです。
 松山城天守閣は、市内中心部の小高い山の上にありまして、少し前までは、市内のどこからでも仰ぐことができました。

 実は、松山城の天守閣は、江戸時代も後期にさしかかった天明4年(1784)、雷が落ちて全焼してしまったんです。
 二度ほど建て直そうとしたんですが、財政難で、かなわないまま時は過ぎました。
 なんせ天守閣は、けっこうな山の上なんです。
 他県の友人を案内しましたら、「これ、散歩っていうより登山!」と驚いていたほどです。
 藩主の住居である二之丸などは麓にありまして、山の上の天守閣がなくとも、実質、困りはしないわけなのです。

 ところで、松山城を造ったのは、豊臣秀吉の家臣だった加藤嘉明です。
 しかしお城の完成を目前にして、会津へ転封。
 次いで蒲生忠知が入り、お城を完成させるんですが、男子なく断絶。
 次いで松平定行が来て、徳川家の親藩となり、幕末まで続きます。
 みーんな、鉢植え大名です。

 えーと、です。伊予の松山は、中世からの、いえ源平合戦に出てきますので古代からの、でしょうか。ともかく、古い豪族で守護職ともなった河野氏がずっと治めていまして、うちの近所に道後公園(温泉のそばです)がありますが、14世紀ころからそこに築城しまして、16世紀末に土佐の長宗我部氏に攻められて降伏しましたところが、その直後、豊臣秀吉に従った中国地方の毛利氏にやられて、河野氏は滅亡します。
 なんでも戦国時代には、道後にキリシタンの教会なんかもあったそうで、瀬戸内海の要所ですから、けっこう栄えていたんですけれども、まあ、そのー、兵は弱いですわ。
 あー、陸兵より水軍の土地柄なんですけどね、河野氏配下だった村上水軍が離反したりもしましたし。

 で、徳川将軍家光の時代、桑名から松山へやってきた松平定行です。
 松平といいましても、本姓は久松で、明治以降は久松にもどし、伯爵家となりましたが、この人の父親が、徳川家康の異父兄弟、なんですね。
 つまり家康のおかあさんの於大の方は、松平家に嫁いで家康を生み、離縁になった後、久松家に嫁いで、定行の父親を生んだ、というわけです。
 で、なぜだか知りませんが、定行の嫁さんが薩摩島津家の出で、この方は桑名で亡くなっているそうですが、二代定頼は、正室である島津家の姫さんのお子です。
 で、この二代目定頼の娘さんが、今度は薩摩藩・島津綱久に嫁ぎ、三代目薩摩藩主・島津綱貴を生みます。
 この島津綱貴の娘さんが、また松山藩五代目・松平定英の嫁さんとなり、六代藩主・松平定喬を生みます。
 伊予松山藩は、八代目までは、養子が入っても久松松平の血筋だったんですが、九代目にして、幕府の命で御三卿の田安家より、婿養子をとることになります。そして、九代、十代、十一代と田安家の血が続くんですが、十一代定通がなかなか男子に恵まれず、そこで、ですね、島津家より養子を迎えることになります。
 えーと、三代目薩摩藩主・島津綱貴の母親は、二代目松山藩主・松平定頼の娘で、島津家では綱貴の子孫がずっと続いていますから、「母系では久松松平の血だい!」というわけなんですが、何代前の話を持ち出すやら、ものすごい発想です。
 まあ、あれです。当時、徳川将軍家の御台所は、薩摩藩八代藩主・島津重豪娘・茂姫(広大院)でしたし、御台所のお世話なんかがあったんでしょう。
 で、松山藩に養子に入ったのは、重豪の孫で、薩摩藩九代藩主・島津斉宣の十一男、松平勝善(定穀)です。島津斉彬は斉宣の孫ですから、勝善にとっては甥に、天璋院篤姫も同じく斉宣の孫ですので、実の姪になります。
 
 で、松山城の天守閣は、数十年なかったんですが、この島津家から養子に入った勝善が、復興するんです。
 いや、さすが大藩からのご養子です。
 完成したのは安政元年(1854)、ペリー来航の2年後です。
 その天守閣が、今も残っているわけでして。

 残念なことに、松平勝善は子を残しませんで、十三代松山藩主はまたまた養子で、今度は高松藩松平家(ここは水戸徳川家の血筋です)からの勝成。十四代がまたまたまた養子で、どういうわけか津藩藤堂家からの定昭で、ここで維新を迎えます。
 しかし、将軍家御台所となった島津家の篤姫さんの親族交際の中に、島津家から養子が入った家、ということで、松山藩の勝成、定昭父子は、しっかりと入っています。

 幕末の松山藩は、悲しいかな親藩です。第二次長州征伐(四境戦争)に出兵せざるをえなくなり、周防大島へ出兵するんですね。
 周防大島って、その昔、毛利家に従った村上水軍が移住したところでして、伊予とは深いかかわりがあり、松山城下でも、姻戚関係にある者があったりもする土地なんです。だいたい、村上水軍の氏神も氏寺も、伊予大三島、伊予大島にあったわけでして、往来は盛んです。
 えーと、おまけに松山は、薩摩とは正反対の土地柄。
 士族数は存じませんが、俳句とかお能とかが盛んで、小作農までが俳句をやるような土地柄ですから、武士も軟弱。
 農兵の取立をやってましたから、主にはやーさんとか(水争いは盛んでして)みたいな方々が、兵士だったようでして、幕府の歩兵といっしょに、かなりな乱暴をした様子で、負けて逃げて帰った上に、幕府からさえ咎めをうけていたりするんですわ、これが。
 あげくの果てに、慶応3年(1867)、最後の最後に、若い藩主・定昭が、二条城で老中を押しつけられてしまい、大阪城まで慶喜公のお供なんかしたこともありまして、すっかり朝敵にされてしまうんです。
 ここらへん、私、なんだか、篤姫さんが嫁入り先の徳川家のために、一生懸命尽くしたのではないか、という気が………、します。
 最後まで、容堂公が徳川家をかばってねばり通したのも、容堂公の義母、島津家から土佐山内家にお輿入れした智鏡院候姫に、篤姫さんが懸命の働きかけをしたのではないかと、勘ぐってみたり。
 なにしろ、土佐の支藩、土佐新田藩の藩主・山内豊福とその奥方は、江戸の麻布藩邸にいたのですが、鳥羽伏見の後、「土佐藩兵が徳川家に対し発砲したとは申しわけない」と、自刃して果てたというのですから。

 まあ、海をへだてて長州の筋向かいですし、山路をゆけば高知のお隣ですので、多勢に無勢ですわ。
 戦国時代の繰り返しです。
 山を越えて土佐から進駐軍がやってきて恭順しましたのに、今度は海から長州軍がやってきまして、土佐軍と長州軍は一色触発のにらみ合い、だったそうですが、朝廷から正式に命令を受けたのは土佐だったので、長州はしぶしぶ引きましたが、松山藩虎の子の汽船をかっぱらって行ったそうです。

 さて、しかし、久松家と島津家のご縁は続きます。
 定昭の後はさらに養子だったんですが、こんどは旗本になっていた久松松平の分家からで、ここできっちり血筋をもどします。その久松定謨伯爵は、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学します。
 秋山好古はそのおつきでフランス留学し、正岡子規の叔父・加藤拓川も、おつきで行って、そのままパリ公使館の外交官となり、旧藩主のお世話をします。
 この加藤拓川というお方、陸羯南や原敬とともに、司法省法学校でストライキをやらかした方で、晩年、外交官を辞めて郷里へ帰り、松山市長を務めるんですが、そのとき、大正12年、久松家へ払い下げられた松山城を、定謨伯爵からそのまま市で貰い受け、公園として市民に開放する基礎をかためました。
 拓川はこの年に死ぬんですが、翌年には、秋山好古が故郷に帰り、北予中学校という小さな私立中学の校長を務めるなど、故郷松山の発展に尽力します。
 フランスでともに時をすごした三人は、みな、松山への愛着を持っていたようです。

追記
 フランス時代、久松定謨伯爵は、薩摩出身で、同時期にフランス留学をし、洋画家となった黒田清輝ととても親しくつきあっていました。加藤拓川もいっしょに遊んだりしていたようですし、あるいはフェンシングなんかしていますので、秋山好古もいっしょだったりした可能性は高いんです。(fhさまのところの黒田清輝の日記参照)

 駐在武官を勤め、フランス生活が長かった定謨伯爵は、大正11年、城山の麓にフランス風の別邸・萬翠荘を建て、一家で住んでいたような話です。
 
  

 で、その定謨伯爵なんですが、島津忠義公爵令嬢、島津貞子を妻に迎え、嫡子定武伯爵をもうけています。
 貞子伯爵夫人の妹・島津俔子が、久邇宮邦彦王に嫁いで、香淳皇后の母となっていますので、久松定武伯爵香淳皇后は、母親が島津家の姉妹で、いとこになります。
 戦後、久松定武氏は、愛媛県知事になるんですが、最初、社会党から選挙に出たそうなんです。
 祖父母の話で、どこまで本当かしらないんですが、松山へ来られた昭和天皇が、皇后のいとこにあたる定武知事に、「社会党はいかがなものか」とご忠告なさったので、自民党に鞍替えしたとかで(笑)
 これも祖父母の話ですが、当時、田舎にはまだ、投票用紙に「お殿さま」と書く人がいるとの噂だったそうです。


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『坂の上の雲』と脱イデオロギー

2006年02月05日 | 伊予松山
昨日の記事、坂本龍馬の虚像と実像の 続きです。
司馬遼太郎氏の歴史小説について、松浦玲氏は、『検証・龍馬伝説』において、以下のように述べておられます。

司馬さんの主な著作は、一九六〇年代、日本の高度成長期に書かれている。池田勇人内閣が所得倍増論を唱えて、本当に実現し、日本人が、戦中・戦後の苦しみから漸く脱却して、戦前を遙かに上回る高い生産力と、それにやや見合う生活水準の時代に突入していった時期である。飢える心配は消え、暮しは確かに豊かになった。そういう時期の日本人が司馬さんの作品に日本の歴史を見た。司馬さんが作りだすものと、国民が求めていたものが合致したのである。
 どういうところが受け入れられたのか。司馬さんの作品の特徴は、司馬さんが主人公はじめ登場人物たちを面白がっているところにある。おかしがっていると言ってもよい。
(中略)
時代が違い置かれた環境が違えば、人間とはこんなに面白いのだ、そういうものを司馬さんが取り出してみせる鮮やかさに人々は感服し、それが「歴史」だと納得するのである。

以上、松浦氏のおっしゃることは、大筋において、その通りだと思えます。
司馬遼太郎氏が逝去なさったとき、私は、石浜典夫氏にお話をうかがう機会を得ました。
石浜氏は、産経新聞時代に文化部で司馬氏の部下だった方で、当時は、テレビ愛媛(フジ系列)の社長をなさっておられました。
石浜氏のお父上は、戦前の関西外語で司馬氏の恩師であり、また典夫氏の兄上の石浜恒夫氏は、司馬氏といっしょに『近代説話』という同人誌を出されていて、家族ぐるみのおつき合いでおられた、とのことだったのです。

石浜典夫氏によれば、『近代説話』は、現代の『今昔物語』をめざした同人誌であり、司馬氏の歴史小説は、まさに「近代の説話」なのだ、ということなのですね。
新聞記者時代の司馬氏の教えで、とてもおもしろく聞かせていただいたエピソードがあります。
文化部デスクだった司馬氏は、「忍者」だとか「新選組」だとか、当時としては風変わりな企画を立てて、「現場に取材に行け」と、記者だった石浜氏に言うんだそうです。
しかし、現場に取材ったって、昔の話です。石浜氏がとまどっていると、「ともかく行け」と。
で、仕方なく、京の壬生へ新選組の取材に行きます。そうすると、「そこのうどん屋で土方さんがうどんを食べていた、と、じいさんがいいいよりました」というような、嘘か本当かわからないようなことを、地元の人が語るんだそうです。
そのうどん屋でうどんを食べて、しばらく、そんな話を聞いていると、不思議なことに、浅黄の衣装をつけた隊員が、今にも角をまがって姿を現しそうな、そんな臨場感がわいてきて、その臨場感のままに記事を書くと、「これだ!」と、司馬氏は誉めてくれたというお話なのです。

『今昔物語』は正史ではありません。しかし、現在、厳めしい正史を読むよりも、『今昔物語』を読む方が、王朝後期の時代相をリアルに感じることができます。
そして、まさに司馬氏の小説は、基本的には説話なのです。
その説話が、正史ではない、普通の人々のリアリティの上に成り立った、歴史物語をつむぐのです。
松浦氏は、『坂の上の雲』のおもしろさを認めつつ、いえ、認めていればこそ、現代につながる明治の大日本帝国を、相対化し、説話化することに疑問を投げておられます。
どうも、言っておられることがよくわからないのですが、要するに、司馬氏の中で、時効になったもの、歴史になったものは説話となり、時効にならないもの、現代の自分に迷惑がかかるものは非難の対象となっている、それは筋が通らないではないか、ということのようなのです。
その例として、三島由紀夫の事件のとき、「本来はフィクションにすぎない思想を現実だと思って短絡反応を起こして死んだ人間に、かつて吉田松陰があり、いま三島由紀夫が現れた」と、司馬氏が書かれたことを上げておられるのですが。
いったい、司馬氏が、どういう文脈でそう言われたのかわかりませんが、要は、その置かれた時代状況の中で、その行動(短絡反応)にリアリティがあったかどうか、ということでしょう。

三島由紀夫の恋文 で書きましたが、現在の私には、三島由紀夫氏の行動も、その置かれた時代状況の中では、それなりのリアリティを持って見えます。
しかし、司馬氏にはそうは見えなかったのでしょうし、なにより、目の前で起こった事件、つまり時事ニュースが、そのまま説話にはなりえないでしょう。
松浦氏は「時効」と言われますが、そもそも説話とは、実体験を語ることではなく、また現在の価値判断で過去を見つめることでもなく、過去に生きた人々のリアリティを今に引き寄せてこそ、成り立つものです。
いったいなぜ松浦氏は、時事ニュースへの司馬氏のコメントをもって、その作品を批判なさろうとするのか、それこそ筋違いでおられるのではないでしょうか。
それに重ねて松浦氏は、司馬氏の言う「庶民」が、信じられないのだとおっしゃいます。
大衆というものの怖さをおっしゃっておられるのだと思うのですが、それは、司馬氏の『坂の上の雲』においても、日露講和への大衆の無理解を描くことで、示されているのではないでしょうか。
そういった暴走をも含めて、それが「庶民」なのであり、時代相です。

ご自身がいわれておられるように、松浦氏は価値判断が、つまりはイデオロギーがお好きです。
それは本当に、「脱イデオロギーのイデオロギー」なのでしょうか。
松浦氏のおっしゃっておられることが、下の記事のようなイデオロギーとどうちがうのか、私には、いまひとつ、よくわかりません。

asahi.com マイタウン愛媛 企画特集
【明治に学ぶまちづくり-その光と影】<3> 「楽観的な時代」


『坂の上の雲』は小説です。
妙なイデオロギーに染まった人々にとっては、その明るさが、許せないことであるかのようです。
説話をイデオロギーで批判して、なにがしたいのか、と、ため息が出ます。
たしかに司馬氏は、ナショナリズムそのものを、否定してはおられません。それが、明治のリアリティであるからです。
で、ナショナリズムそのものが、悪なのでしょうか?
ナショナリズムそのものが悪なのであれば、当時のアジアの独立運動も悪です。
イデオロギーというものも、つくづく筋が通らないもののようですね。

なお、石浜典夫氏は現在、『坂の上の雲』のまちづくりに取り組む松山市のコンシェルジェ をなさっておられます。
松山が舞台になっているためか、私は、『坂の上の雲』については、素直に司馬さんの説話を楽しむだけで、秋山兄弟や子規の実像を掘り返そうという気にはなりません。といいますか、子供のころに祖父から話を聞いたなつかしさが蘇り、それを大切にしたいな、という思いが強いのでしょう。
軍記的な部分については、批判も多いのは知っておりますし、説話的な手法で、登場人物の多い壮大な軍記を描いた場合、わけてもそれが近代戦であれば、人物像のデフォルメへの批判は当然あるでしょう。
それはそれで、実像を掘り起こすのも、一つの楽しみ方です。
司馬氏が、秋山兄弟や子規にサービスされているのは、子孫の方々と会われて、彼らの生きた時代に、気持ちのいいリアリティを感じられた、ということが大きいように思われます。
司馬遼太郎氏の書かれた小説の中で、やはり、これが一番好きです。


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池田屋で闘死した郷土の男

2006年01月07日 | 伊予松山
池田屋で死んだ伊予松山の人、福岡祐次郎。
伊予市の福岡家の出ではないか、といった方がおられたという話は、昨日しました。
実は、自然農法で世界的にも有名な福岡正信という方が伊予市にいて、この方の家が、江戸期から続く豪農なのですね。
後に、福岡正信氏にお会いする機会がありましたので、福岡祐次郎のことも、なにげなくお聞きしてみたのですが、どうもご本人が本家筋ではないようなお話で、祖先には興味がおありじゃないようだったのです。
仕事で、自然農法の方のお話を聞きにうかがったのに、池田屋の話を延々続けるわけにもいかず、あきらめました。

思い出して、昔書いたものをさがしてみました。
福岡祐次郎についてなにか情報はないか、チラシを作って、幕末好きの方々に配ったんですよね。それに書いた詳細を、以下に記してみます。

福岡祐次郎の名前が見えるのは、『甲子殉難士録』(尊攘堂版 明治30年)と『元治甲子殉難士名録』(出版年月日不明 明治36年以降と推察)でして、長州関係者の手で出版されました。
『甲子殉難士録』には、わずかに経歴が記されています。

福岡祐次郎は伊予国松山の人なり。しきりに尊攘の義を唱え、国事多難の際長州に入り、招賢閣に在りしが、元治元年、諸有志と同く京都に上り、時務に周旋しありしが、6月5日、三条なる池田屋において幕兵のために襲はれ、闘争して死す。

『元治甲子殉難士名録』の方には、これ以上の情報は載っていません。
この『元治甲子殉難士名録』には、明治36年の贈位が載っていまして、贈位された人物については、ちゃんと身元調べができたということですから、『甲子殉難士録』に載せられた経歴が、変わっていたりすることもあるんです。
『甲子殉難士録』に「伊予松山の人」として載っていた田岡俊三郎が、『元治甲子殉難士名録』では明治36年正五位贈、小松藩士となっていまして、伊予小松藩は松山藩の隣藩ですが、どちらかといえば勤王よりの外様の小藩で、『甲子殉難士録』がまちがえていたのですね。
田岡俊三郎については、小松町史を見てみたら、ちゃんと詳しく経歴が載っていました。生野銀山挙兵に参加した沢宣嘉興の側近で、沢卿を藩内に匿っていたこともあり、結局、禁門の変において、鷹司殿門前で戦死しました。
明治36年に、福岡祐次郎が贈位されていないということは、すでにこの時点で、名乗り出る身内がいなかった、ということなのだろうか、と思ったりします。

長州防府の招賢閣は、八.一八政変によって、宮中を追われた過激攘夷派の七人の公卿が、落ち着いた場所です。
諸藩の脱藩志士たちがそのまわりにつどい、京都奪還をめざすのですが、福岡祐次郎も田岡俊三郎も、この招賢閣に足を踏み入れたわけです。
かなり大昔なんですが、招賢閣を訪れたことがあります。
ぐぐったところ、どうも現存していないようですね。そういえば、取り壊しのニュースを見たような気がします。
もう、大変でした。なにが大変って……、当時から、常時観光客に開放しているような施設ではなかったのです。
第一、場所がわかりません。たしか防府の駅前から、市の観光課だったかに電話して聞いたのですが、係の方が場所を説明してくださった後、「では鍵を持って開けに行きます」と、言われたのにはびっくり。
いえ、ご親切でした。ただ一人の観光客のために、中を案内してくださったのです。

で、池田屋の福岡祐次郎に話をもどしますと、『防長回天史』によりますと、池田屋を囲んだ中には、伊予松山藩兵がいたそうなのですね。
新撰組と戦って闘死、あるいは自刃して、池田屋の屋内に遺体が残っていたのは、七名と推測されます。しかし、遺体は樽づめにされて三縁寺に置かれ、真夏のことでしたから、すぐに身元もなにも確かめようのない状態になってしまった、といわれますのに、なぜ福岡祐次郎の名が残っているのか、といえば、池田屋を囲んでいた松山藩兵が検分したのではないか、と、推測されるのです。
藩内の人間が招賢閣に行き、京都で派手に動けば、情報を得た親藩としては、問題になることを警戒して、身元をたしかめ、後は記録を残さなかったのではないかと。
あるいは、当時あった記録を、維新に際して破棄したのかもしれないですね。昨日の罪人が今日の英雄、だったわけですから。

うちの曾祖父のそのまた父親は、明治初期あたりにどこかへ行ってしまい、そのまま行方知れずで、墓がありません。養子だったそうですが、妻と息子二人を残し、消えていなくなったんですね。
おそらく、こんな男たちは当時たくさんいて、福岡祐次郎は、一瞬とはいえ、信念に従って歴史の舞台に躍り出て、長州の人々の手で顕彰され、霊山に墓を残し、名前だけとはいえ、後世に生きた証を伝えたのでは、あるのですよね。

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