郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

北朝鮮新義州ー中朝国境の町

2009年04月26日 | 伝説の金日成将軍
 チンダラコッチさまから、貴重な北朝鮮の画像をいただきましたので、今回はちょっと北朝鮮のお話を。いま手元に、北朝鮮に関する本がありませんので、多少、お話が不正確になるかもしれないのですが、ご容赦のほどを。

 私とチンダラコッチさまとの出会いは、朝鮮半島と在日に関する討論BBSにおけるものでした。
 えーと、そこで私がなにをしていたかといいますと、どーも、喧嘩を売っていたような気がしないでもないのですが、とりあえず当初は、朝鮮半島の歴史的知識を求めて訪れたように覚えています。しかし、そこはそういう掲示板ではなく、政治的色彩が濃く、いつのまにか私は、バトルを楽しむようになっていたのですが、やはり比較的、歴史関係の書き込みが多かったのでしょう。ロムっていらしたチンダラコッチさまが、私を歴史の専門家と勘違いされて、メールをくださったのが最初でした。

 チンダラコッチさまは、併合時代の朝鮮半島に、日本人植民者の子供として生を受けられ、半島で育たれ、旧制中学校まで半島で教育を受けられました。戦時中に予科練入学で内地へ帰られ、そのまま終戦を迎えられたのです。
 そしてチンダラコッチさまは、その少年時代、半島にて「王世子・李垠殿下のご学友として日本の陸軍士官学校へ留学していたキム・イルソン将軍が、いつか朝鮮を独立に導いてくれる」という伝説を聞いておられた、というのです。
 ところが、日本の敗戦により、ソ連が北朝鮮に連れてきた金日成は、伝説のキム・イルソン将軍にしては年が若すぎ、「偽物ではないか」と騒ぎになったわけでして、チンダラコッチさまは、「李垠殿下のご学友だった本物のキム・イルソン将軍についてご存じないか」と、私に問い合わせメールをくださったのです。

 えー、私、朝鮮の歴史にさほど詳しいわけではありませんで、メールをいただいて驚いたのですが、たまたま、直前に下の本を読んでおりました。

金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
李 命英
成甲書房

このアイテムの詳細を見る


 現在、手元に本が無くて不正確ですが、確か著者の李命英氏は、現在の北朝鮮地域のご出身で、38度線を超えて韓国側に逃れた方でして、金日成への恨み骨髄、というかんじで書かれた本ですが、かんたんにいいますと、統合時代に朝鮮半島にひろまっていたキム・イルソン伝説には複数のモデルがあった、ということでして、その点では、なるほどと思わせますし、二人目のモデル金光瑞は、チンダラコッチさまが聞いておられたという「李垠殿下のご学友として陸軍士官学校に留学」という伝説に、かなり近い経歴です。
 陸士23期卒で、29期卒の李垠殿下のご学友というには年上すぎるのですが、日本で騎兵中尉となり、半島に帰った後、満州における抗日運動に身を投じ、白馬に乗って軍(まあ朝鮮族の馬賊のようなものだったみたいですが)を指揮したという話です。3代目、4代目のキム・イルソンのモデルより、はるかに時代が古く、大正期、シベリア出兵前後の話なんですね。結局、ソ連に裏切られてよるべなく病没したらしいんですが、日本陸軍時代の写真が残っていまして、とてもいい男です。
 生まれも育ちもいいですし、日本の士官学校を、おそらくは優秀な成績で卒業した元騎兵中尉で、ソウルの妓生たちの憧れの的で、白馬に乗って抗日軍を指揮していたって、いかにも伝説になりそうな実在の人物なんです。

 ちなみに、李命英氏は、現実にソ連が連れてきた金日成は抗日運動はろくにしていない、としているのですが、それについては異論もありまして、私も以降、いろいろと金日成に関する著作を読んでみたのですが、3代目、4代目のキム・イルソンのモデルと現実の金日成の関係は、なにが事実やら、ちょっとわけがわかりませんでした。
 金光瑞の死亡は、はっきり確かめられていたわけではありませんでしたので、昭和になり、中朝国境付近で武装集団が「抗日」をかかげますと、その長は、どうも代々、伝説のキム・イルソンを名乗ったようなのですね。
 で、ソ連が連れてきた金日成については、まったく抗日運動をしていなかったわけではなさげなのですが、果たして、どれほどの活動をしていたかについては、いろいろと話がありまして、とりあえず、よくはわからない、としておきます。
 しかし、「白馬に乗ったキム・イルソン将軍が、いつか朝鮮を独立に導いてくれる」という統合時代の半島の伝説についていいますならば、モデルの中核は金光瑞だったわけですし、だとすれば、確かにソ連が連れてきた金日成では、若すぎたでしょう。

 ともかく、そんなわけで、チンダラコッチさまとはお近づきになり、現実にお目にもかかったわけなのですが、そんな中で、ふと思い出したことがありました。我が家の親戚にも、北朝鮮から引き上げてきた一家がありました。統合時代、祖父の姉が、半島北部の鉱山で技師をしていた日本人に嫁ぎ、平壌に住んでいたんです。
 その子供たち(母のいとこになるわけですが)は、やはり平壌で旧制中学を卒業した後は、内地の学校へ進学していまして、終戦時、平壌にいましたのは、祖父の姉夫婦と年頃の長女のみ、だったようです。
 朝鮮半島からの日本人の引き上げは、ソ連が進駐してきた北部では、非常に悲惨なものであったことが知られています。引き上げ船を待つ間の収容所で、飢え死にさせられた例もかなりあったような話です。

 うちの母は、東京にいた大学生のころ、平壌から引き上げて来たいとこ(長女)夫婦の世話になりまして、そのいとこの死去を知り、いつかお参りしたい、といっておりました。で、つい先年、母を連れて仏前を訪れたのですが、私たちを待っていてくださったその旦那さまから、平壌引き上げの話をお聞きすることができたんです。
 実のところ、母のいとこの女性は、敗戦のどさくさに、鴨緑江水力発電株式会社の日本人技師だったその方と結婚したのであったようです。ちょっと驚いたのですが、電力会社の技師などは、ソ連軍にも地元の人々にも、代わりになる人材がなかったため、日本人でも優遇され、ちゃんと給料をもらって残留を求められたのだというのですね。もちろん、食べるに困るようなこともなく、お話をうかがっていて、なにしろ日本女性の強姦など日常茶飯事だったという当時の状況ですから、祖父の姉夫婦が急遽、年頃の長女を、優遇された電気会社の技師にゆだねたのではないか、と推察いたしました。
 日本人の北朝鮮引き上げにも、いろいろなケースがあったんですね。

 チンダラコッチさまがかつて住まわれていた新義州市は、中朝国境の北朝鮮の町です。鴨緑江をはさんで、向こう岸は中国の丹東市です。通常、日本人が観光で北朝鮮を訪れても、新義州市へは行くことができません。立ち入りが制限されているのだそうです。
 チンダラコッチさまは、幾度か訪れることがおできになったそうでして、貴重な画像をくださいました。なお、詳しくは新義州市ーwikiをご覧ください。
 このwikiのメーデーの写真で、市民はけっこういい服装をしているように見えますが、チンダラコッチさまのお話でも、TVで報道される北朝鮮地方都市の貧しさとは、ちょっとちがっていて、みなこざっぱりとした様子で、飢えに苦しむような様子はうかがえない、とのことです。
 また、商取り引きがさかんな様子であったというお話ですが、最近の報道で、中朝国境地帯は中国との交易で潤っている、といっていたのは、どうも本当のことのようです。
 経済的には、すでに中国の影響下に呑み込まれている、といえなくもないような気がするのですが、一方、総連の活動も盛んだそうでして、どんなものなのでしょうか。金王朝の三代目ともいわれる三男の母、亡き高英姫は、鶴橋出身、ですしねえ。
 
 といいますか、先日のTBSの番組といい、時折メディアで評論家などが口にする台詞といい、どうも北朝鮮は、またしても日本へ融和世論形成の工作をしかけているような気がするのですが、いいかげん、拉致問題を置き去りにしては何事も始まらないのだと、わからないものなのでしょうか。

 以下、写真の説明につきましては、すべてチンダラコッチさまのお教えに基づくものです。



 鴨緑江大橋(中朝友誼橋)です。手前が北朝鮮・新義州市。対岸に見えている丹東市側からの写真は多いのですが、新義州市側からの写真は、きわめて珍しいと思います。



 右が大橋、左は鴨緑江断橋の橋桁です。丹東市側には途中まで橋が残っているのですが、北朝鮮側は橋桁のみになっています。

 いずれも朝鮮総督府鉄道局、つまり日本人によってかけられたものです。鴨緑江断橋の方が先で、1911年(明治44年)に完成しました。鴨緑江大橋の方は、1943年(昭和18年)、輸送力のアップをはかってできたものです。双方、朝鮮戦争中にアメリカの空爆で破損しましたが、大橋の方は修復され、中朝友誼橋と名付けられ、いまなお活躍している、というわけです。
 断橋の方も、丹東市側では、観光資源になっているようですね。

 ともかく、チンダラコッチさま、貴重な写真を、ありがとうございました。

 人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする