郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 後編

2013年11月26日 | シーボルトの娘

 卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 前編の続きです。

 えーと。池田使節団の横浜鎖港談判です。
 シーボルトとモンブランが嚙んでいたらしい、このときの池田使節団とフランス政府の密約とは、以下のようなものです。

 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2より
 この池田使節団なのですが、フランスで「秘密条約」なるものを結んでいまして、それが「下関における長州の外国船砲撃を防ぐため、幕府が航路を警備するのであれば、フランス海軍はそれを助ける」というものでした。これを後世、尾佐竹猛氏が「フランス海軍の指揮下に幕府が長州征伐をする」というような文脈で解釈なさり、昭和初期の排外思想の中で、「外国軍隊を引き入れて植民地化の道をひらく危険な条約だった」ということになったのですが、どんなものでしょう。 

 6年前にこれを書いたとき、私は、密約が後世に拡大解釈されたのでは? と思っていたのですが、どうも、ですね、沓沢氏の論文を読んでおりますと、再来日したのち、幕府顧問になったシーボルトですが、そのときの行動自体が、幕府から相当に不審の目で見られていたようですね。
 で、シーボルトの通訳を務めました三瀬周三が、文久2年のシーボルト解雇後、投獄されたにつきまして、その理由がよくはわかっていないのですが、沓沢氏はハンス・ケルナー氏の「シーボルト父子伝」から、シーボルトの依頼で周三が従った翻訳が幕府に見咎められた、としておられます。長井音次郎の伝記とあわせて考えますと、シーボルトの日本のあり方にまつわる、なんらかの見解が幕府の気に入らず、周三がオランダ語に訳した日本史関係の史料がその基になっているとして、腹立ち紛れに周三を投獄しましたものの、周三は、幕府が雇っていましたシーボルトの指示で翻訳しただけのことでして、結局、「町人身分なのに武士身分だと偽った」というだけの嫌疑で5年間の投獄、という、理不尽な扱いになったもののようです。ちょっと、ひどすぎましたね。

 実は、長崎でシーボルトに学んでいたといわれます長岡謙吉も、このとき長崎奉行所からなんらかの嫌疑を受けて国元へ追放されていて、キリシタンの嫌疑だとかいわれているのですが、私は、シーボルトにまつわるのではないのか、と推測しています。シーボルトはヴュルツブルク司教領生まれのカトリック教徒でして、父親を早くに亡くして、聖職者の叔父に育てられましたし、日本のキリシタンに関心を持つのは自然でしょう。日本も開国したことだしと、キリシタン関係の文献の翻訳を長岡謙吉に依頼していて、それを奉行所が見咎めたんじゃないんでしょうか。

幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏 (歴史文化ライブラリー)
保谷 徹
吉川弘文館


 以前から、保谷徹氏の「幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏」、気になっていたのですが、今回、読んで見る気になりました。フランスの武力行使の可能性は、果たしてどれほどのものだったのか、ということになろうかと思うのですが、柴田剛中が、「モンブラン伯爵とシーボルトは同じ穴のムジナで信用ならない」としていたにつきましては、やはり、それなりの理由がありそうな気がします。



 卯之町(うのまち)中町(なかんちょう)のメインストリートです。
 訪れたのが水曜日(11月20日)だったものですから、商店は休みだったのですが、古民家が喫茶店になっていたりと、以前にはまだあまり整備されていませんでした町並みに、ゆっくり散策できそうな雰囲気ができていまして、いい意味で様変わりしていました。高野長英が隠れていたこともある、と伝えられます庄屋館が、補修なのか、工事中の幕でおおわれていたのが残念で、また、今度ゆっっくりと訪れたいものです。

 つくづく思うのですが、今の卯之町は四国の愛媛の田舎町で、ここで世界を考え、日本の国のあり方を考えるきっかけなんて、あんまり見いだせるような気がしないのですが、幕末にはおイネさんがこの街を歩いていて、高野長英が隠れ住んでいたこともあり、世界史と日本史の交わりの片鱗を、見ることが出来た街だったんですよねえ。藩政時代の地方分権のあり方は、幕末維新史の解釈の仕方において、そしてこれからの日本の形を模索するにおいて、見直されてしかるべき、と、思います。




 上は、二宮敬作の住居跡地の表示でして、場所としましては、ここにおイネさんも住まっていたはずです。
 下の2枚の写真は、その裏手の方なんですが、二宮家の離れだったといいます建物が、一部だけ残っています。高野長英が隠れ住んでいたといわれ、また郷土史家の門多正志氏の著作では、イネが住んでいたのもこの離れだったのではないか、と推測されています。
 次いで、お墓の方へ。


 


 中町から開明学校へ向かい、その手前を左に折れますと、光教寺の墓地があり、そこに、二宮敬作と妻いわと息子の逸二と、三人いっしょの墓石が建てられててます。
 私、まったくうっかりしておりましたが、以前に仕事の取材で、宇和町教育委員会発行の「宇和の人物伝」という本と、「イネと敬作 その時代展」というパンフレットを手に入れていまして、そこに、門多正志氏と、長崎シーボルト記念館・福井英俊氏の論文が載っていまして、すでにイネの戸籍の話や敬作のお墓の話も出ていたんですね。読んでいたはずなんですが、すっかり、忘れこけておりましたわ!



 長崎・晧臺寺のお墓、私、左側の墓石の側面、裏面の銘文が摩滅で読めませんで、よくわからず、右側のものがそうなのだろうと思い込んでしまいまして、「二宮敬作先生之墓なんて、妙な墓石だなあ」と思いつつ、お参りしたのですが、門田正志の「宇和の人物伝」に、ちゃんと長崎の墓石の写真が載っておりまして、左のものがイネが建てた墓石でした。戒名が二つあるのは、妻いわといっしょの夫婦墓だから、です。いわは敬作よりも早く(織田毅氏碑文に「已に妻西氏先一年没」とあり、門多氏は「妻の西氏は四年前に先立った」としていますが、どちらをとるべきかわかりません。四年前なら卯之町で死んだ可能性が高そうですが、一年前となると長崎へ来ていて死んだのかもしれず、その方がありそうなのですが)、逝去していまして、夫婦墓にしたのは、おそらく、なんですが、墓石を建てたイネさんが、いわをも慕っていて、長崎で夫婦いっしょに眠ってもらいたい、と願った結果なのでしょう。
 文久2年3月12日、病死しました敬作を葬ったのは、敬作の息子・逸二なのですが、同年7月24日、後を追いますように逸二は没し、一説には、殺された、ともいわれるそうです。長岡謙吉、岩崎弥太郎と箸拳、ナンコをしていた人でして、あるいはこれも、シーボルトにまつわっているんじゃないのかなあ、と憶測してみたくなります。

 ともかく。
 卯之町のものと長崎のものと、敬作の戒名は同じで、晧臺寺でいただいたもののようですが、いわの方は、卯之町の墓石の戒名と、長崎の墓石のそれとは、少しちがっています。光教寺は臨済宗妙心寺派で、晧臺寺は曹洞宗。そのちがいなのか、あるいは、単純に伝え間違い、なのかもしれません。

 

 二宮敬作は農民でしたが、その姉の息子でした三瀬周三も、旧家ながら大洲の町人の子でした。
 同じ大洲中町出身で、大洲の国学者・常磐井厳戈同門で、勤王歌人・巣内式部(すのうちしきぶ)がいるんですが、周三も、祖父の血を受け継いだのか、かなりな歌人だったようです。しかし、それにいたしましても、大村益次郎が襲われましたとき、周三は恩師の命を助けようと病院で奮闘し、巣内式部は襲撃に関与したとのあらぬ疑いをかけられ禁固。なんとも、奇妙な縁です。

 周三とイネは、大村益次郎が宇和島城下で塾を開いていましたときの教え子で、司馬遼太郎氏は、このとき、イネと益次郎の間に恋愛感情が生まれたのではないか、という想定で「花神」を書かれているのですが、このとき益次郎は、宇和島に妻を伴って来ていまして、状況からして、また、話がややこしくなりますので詳細は省きますが、イネさんの心情からして、ありえない話です。
 イネさんは、いわゆるシングル・マザーですが、そのただ一人の娘のタダ(改名して高子)さん本人が、「私の父だった人物を母は嫌っていて、望まない妊娠だった」というようなことを語っています。高子さんの回想には、思い違いも多いのですが、母親の心情に関して言えば、信憑性があるのではないでしょうか。

 上の写真は、左が高子さん、右が周三さんですが、もっと若いころの写真もありまして、ものすごい美人です。
 戦時中、松本零士は、大洲藩の支藩領だった新谷が母親の里だったため、疎開して来ていまして、高子さんの古写真を見たんだそうです。
 シーボルトの血を受け継ぎます高子さんの面影が印象に残り、「銀河鉄道999」のメーテルのモデルの一人となった、という話もあります。

銀河鉄道999(予告編)


 「銀河鉄道999」は、亡き母の面影を追う男の子の話、ともいえると思うのですが、イネさんの物語は、父の面影を追って生きた女の子のそれ、なのではないでしょうか。
 所詮、まぶたの父だったシーボルトは異国の人で、後年のおイネさんは、二宮敬作を第二の父として、ともにすごした思い出を心のよりどころとし、その思いが、長崎・晧臺寺の墓地に込められているような気がします。

 追記 吉村昭氏の「ふぉん・しいほるとの娘」、ざざっと読み返してみたのですが、久しぶりに読んで見ましたら、案外、事実とちがう部分も多いみたいです。高子さんの回顧談に頼りすぎで、墓碑銘や過去帳などは見ておられないようです。一番悩ましいのは、イネの母のお瀧さんが遊女であったかどうか、なのですが、「オランダ人の妾になるには形式的に遊女になるしかなかっただけで、遊女ではなかった」とする高子さんの回想を、なぜか吉村氏はこの部分だけは完全否定しているんです。しかし私、ピエール・ロチの「お菊さん (岩波文庫)」なんぞを読んでおりますと、長崎には、藩政時代から、遊女としてではなく、素人娘という触れ込みで、オランダ人の仮の妻となるような習わしがあったのではないか、と思うんですね。一応、キリスト教が根底にあります欧米諸国では、一般に娼館の娼婦は道徳的にさげすまれる傾向があり、日本のように「おいらんをしていて商家の妻として身請けされる」というようなことは、あまり考えられないことです。欧米の男性が好色ではなかったというのではなく、メイドさんに手を出すのはけっこう平気だったりしますから、なんとも偽善的なんですが、唐人お吉のように、「身の回りの世話を素人娘にさせる」というような形で、まずはそばに置きますことが、欧米人が日本女性に手をつける場合には、一般的じゃないでしょうか。とすれば、吉村氏が描きますような最初からの遊女ではなく、高子さんの回想にありますように、商人の家の小間使いとしてさりげなく顔見せし、気に入られたら、遊女の籍に入って妾となる、といった形もあったのではないかと、思ったりしています。

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卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 前編

2013年11月22日 | シーボルトの娘

 長崎、近藤長次郎紀行 後編の続きでしょうか。

 11月3日(日曜日)、長崎は朝から雨だったんですが、午前中はシーボルト記念館を訪れていました。




 実は、以前に長崎へ行きましたときにも訪れたんですが、母がいっしょだったために、よく見ることができませんでした。今回、中村さまがごいっしょで、堪能させていただきました。
 そのシーボルト記念館にもポスターが貼ってあったのですが、現在(2013年10月9日~12月1日)、愛媛県西予市の愛媛県歴史文化博物館で「三瀬諸淵 -シーボルト最後の門人-」特別展示を見ることができます。
 
 三瀬諸淵(諸淵は雅号で、本名は周三です)については、ごく簡単に、ですが、幾度か取り上げたことがあります。
 
幕末残照・長州紀行より
 大村益次郎は、適塾で福沢諭吉と肩を並べて学びました蘭学者で、長州を勝利に導いた陸軍の改革者、日本陸軍の創始者的存在です。靖国神社に巨大な像があります。
 最初は生まれ育った鋳銭司の村医者だったんですが、伊予宇和島藩の蘭癖大名・伊達宗城に取り立てられましたことが出世のとっかかりでしたし、宇和島ではシーボルトの娘・イネに蘭学を教え、縁あって、その最後を看取ったのは、イネとその娘婿で伊予大洲藩出身の三瀬周三でしたから、愛媛県にゆかりの人物です。


『八重の桜』第19回と王政復古 前編より
 常の最初の子をとりあげたのはイネではなかったか、という話は、広瀬常と森有礼 美女ありき15に書きましたように、常が父親とともに元大洲藩上屋敷の門長屋に住んでいたことは確かで、どうやら常の父親は、武田斐三郎の紹介で、元大洲藩主・加藤家の財産管理の手伝いをしていたわけですから、可能性が大きくなります。
 なぜならば、イネの娘・タダの夫だった三瀬周三は、大洲藩領の出身で、武田斐三郎と三瀬周三は、大洲の国学者・常磐井厳戈の同門だったりするからです。


普仏戦争と前田正名 Vol9より
 といいますのも、おイネさんが女医さんになるための最初のめんどうを見ましたのが、シーボルトの弟子で、伊予宇和島藩領で開業していました蘭方医・二宮敬作でした。四賢侯の一人で、長面侯といわれました宇和島藩主・伊達宗城は蘭学好きで、おイネさんを奥の女医さんとして迎え、おイネさんの娘・タダを、奥女中として処遇したりもしています。
 そして、二宮敬作の甥で、大洲藩に生まれました三瀬周三(諸淵)は、再来日しましたシーボルトに師事し、やがてタダと結婚します。
 そんなわけで、愛媛県限定のローカルな仕事をしておりました私は、おイネさんについて、書くことが多かったんです。


 つまるところ、ごく簡単にまとめますと、「三瀬周三はシーボルトの弟子・二宮敬作の甥で、シーボルトの娘・楠本イネの娘婿で、シーボルトの最後の弟子と成り、大村益次郎の最後に立ち会った人」です。
 前回もご紹介しましたが、吉村昭氏の「ふぉん・しいほるとの娘」は、かなり史料に忠実でして、イネとその周辺の人物について詳しく書かれていますので、お勧めです。デジタルもありますので、iPad Airでぜひ。

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 シーボルトの来日は文政6(1823年)。明治維新の45年前です。
 いつからを幕末と呼ぶべきかにつきましては、さまざまな意見があるのですが、私は、文化3年(1806年)文化露寇の衝撃から、という見解をとっていまして、そう考えると、ロシアとのつながりも持ちますシーボルトは、けっこうなキーパーソンです。そして、普仏戦争と前田正名シリーズでその片鱗に触れておりますが、日本史と世界史の接点を意識しますと、シーボルトを追って幕末を語ることは、非常に興味深く、なおかつ楽しいことなんです~♪

 また、「ふぉん・しいほるとの娘」が詳しいのですが、前回にもご紹介しました長崎のおもしろい歴史というサイトさんに、シーボルトの孫 ”山脇たか” が語った 祖母タキの事  母いねの事  わたしの事といいますイネの娘で見瀬周三の妻でしたタカさんの回顧談がありまして、基本、「ふぉん・しいほるとの娘」もこの回顧談に基づいて書かれているのですが、シーボルトが離日しましたとき、わずか3歳で、産科医として明治天皇の御子を取り上げるまでになりましたイネさんの生涯は、劇的です。
 まあ、あれです。現在の大河ドラマ……、キリスト教に対します考察もまったくなしで、なんでキリスト教にかかわっているのか、あの不便な洋装を喜んでいるらしいことに同じく、コスプレ気分としか思えません八重さんドラマよりははるかに、幕末を語るにふさわしいドラマの人材になりうると思うんですけどねえ。

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 かつての大河ドラマ「花神」では、浅丘ルリ子がおイネさんを演じたそうですが、私、まったく見ておりません。つい最近、時代劇チャンネルで一回分だけ放送され、原作は「花神」だけではなく、同じく司馬作品で長州を舞台にしました「世に棲む日日」と「十一番目の志士」もミックスしたドラマだそうでして、そこそこおもしろそうに思ったのですが、あの時代の大河は、ほとんど録画が残っていないんだそうです。

 それにいたしましても、「花神」は1977年の大河ドラマで、すでに36年も前です。もう一回、少女時代からおイネさんを、と思うのですが、なんと、再来年の大河は松蔭の妹!という情報もありまして、えー、松蔭の妹って、叔父の玉木文之進(明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2に出てきます乃木希典の実弟・玉木正誼の義父です。教え子だった玉木正誼、吉田小太郎など、多くの若い英才が萩の乱に参加した責任をとって割腹しました)を介錯した気丈な妹、なんですかね??? まあ、それはそれで、どう描くのか楽しみではありますが、現在のNHKがやることだけに、多大な危惧もあります。

 えーと。話がそれましたが、シーボルトとイネ、そしてその周辺の人々は、幕末の政治劇の中枢近くにいて、あまり知られていないことなのですが、海援隊の長岡健吉も、長崎で二宮敬作に学び、再来日しましたシーボルトに師事したといわれますので、三瀬周三と相弟子です。
 そのことにつきましては、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に、以下のように書いております。

 小龍は学者ではないのですが、蘭学を学んでいましたし、「漂巽紀畧」を記したくらいで学識もありますし、ずっと近所の少年に学問を教えていたようなのですが、その才能で小龍をうならせておりましたのが、同じ浦戸町内の医者の息子、長岡謙吉です。
 浦戸といいましても、この当時の浦戸とは、現在のはりまや町のことでして、小龍の家は、はりまや橋観光バスターミナルの裏手、高知市消防団南街分団の向かい側あたりにあったそうです。
 
 
 長岡謙吉って、長崎で再来日したシーボルトに師事し、息子のアレクサンダーくんが少年だったころから、知り合いだったんですねえ。

 長岡謙吉は後に海援隊に入りまして、大政奉還の建白書の草案を起草したのではないかと言われております。これに手を入れましたのが欧州帰りの中井弘(桜洲)で、中井桜洲と桐野利秋に書いておりますように、中井は桐野と仲がよさげで、時期はちょっとちがうんですけれども、桐野と海援隊のつながりにリンクしている話のようにも思われます。

 長岡謙吉は、龍馬よりは二つ、近藤長次よりは四つ年上です。
 小龍に学問を教わっておりましたのは十二、三歳のころで、その後大阪、江戸で、医者になる勉強をしました。
 大地震のころ、謙吉は高知に帰ってきていて、謙吉の親戚だった坂本龍馬も、そうでした。
 

 長岡健吉は、龍馬の継母の親戚で、龍馬と幼なじみでした。河田小龍の塾では、近藤昶次郎の先輩になりますし、昶次郎亡き後、小龍が龍馬のもとに送り込んだ参謀だった、という解釈も成り立つでしょう。
 
 最近、仕方なく大河ドラマ「龍馬伝」の再放送を見ているんですけれども、長岡謙吉はまったく出てこないんだそうですよねえ。要するに、大嘘ドラマにもったいのつけすぎ、でして、なにしろ、近藤昶次郎がどう描かれているかを確かめるためにのみ見ていますので、スーパーミックス超人「龍馬伝」のときのように突き放した気分にもなれず、「なんで、こんなつまらない大嘘ドラマを作るのかしら」とため息です。いや、大嘘はいいんですよ、おもしろければ、ね。 

 で、話がそれまくっておりますが、長崎へ行く以前から、「歴博で三瀬周三展! 見たいっ!!!」と思ってはいたのですが、なぜか知りませんが愛媛県は、県庁所在地の松山市からははるかに遠い西予市卯之町に歴史文化博物館を作っておりまして、HPには「高速で松山から50分」 なんぞと書いておりますが、それはインターに入って後のこと。こんな田舎の高速は、決して渋滞したりはいたしませんから、乗ってしまえばすいすい行くのですが、松山はいわゆる中核都市。高速に乗るまでに時間がかかるんですよねえ。おまけに私は、自動車の運転をしません。

 えー、行くとすれば高速バスですが、数少ない特急で片道1時間半、往復3時間。母の昼食を用意し、帰って夕食を作ることを考えますと、けっこうわずらわしい距離です。
 「図録を通販で買えばいいか」とあきらめかかっておりましたところへ、突然、古くからのお知り合いのひとみ嬢から、「卯之町へ行きませんか」とのお誘いがありました。いえ、別に、「歴博で三瀬周三展を見ませんか?」というお誘いだったわけではないのですが。

 ひとみ嬢は、かつて私が一時、ラジオ局でアルバイトをしておりましたときに知り合いました才媛ですが、偶然にも、早くに亡くなられた彼女のお父上は、私の父が若い頃に赴任しておりました高校で事務職についておられました。彼女の母上の葬儀の席で、彼女のお父上と非常に親しく、うちの父も知っていたとおっしゃいます、卯之町在住の先生ご夫妻と知り合い、父の思い出を聞かせていただいたりしたような次第です。
 ひとみ嬢とそのお友達、私、妹が、以前にも卯之町へ遊びにうかがったことがございましたが、今回、その 先生の教え子で、うちの父も知っている、という方が卯之町へ見えられるので、またいっしょにお食事はいかがでしょうか? ということだったんです。

 そこは、それ。図々しい私です。これこそ、神のお導きよっ!!! 天にましますわれらが父よ、願わくば御名の尊まれんことを!って、私、キリスト教徒ではございませんが、思春期にお経に親しまず、主の祈りの方に親しんでいたものですから、つい、とっさに口をつきますのは、これです。
 まあ、ともかく。図々しくも、「喜んでうかがいますが、歴博で三瀬周三展を見る時間をください!」とさけび、先生ご夫妻とひとみ嬢の多大なご配慮により、天にものぼる気持ちで、出かける運びとなりました。

 前にも書きましたが、卯之町はシーボルトの弟子でした二宮敬作が開業していました街で、敬作がイネをひきとっていた時期もあり、イネが暮らした街でもあります。私は、幾度か、仕事の取材で訪れ、郷土史家の先生からお話をうかがったこともあるのですが、仕事ぬきで史跡を訪れるのは、今回が始めてです。
 藩政時代には、宇和島藩領でした。物資の集積地として、宇和島城下に次ぐ人口を誇ったといいます。
 しかし、街歩きは後にまわしまして、まずは丘の上の歴博へ。

 

 せっかくですから、常設展も見ました。
 実は、開館当初の話を関係した方からお聞きしたことがありまして、江戸東京博物館を大いに参考にしたのだそうです。
 つまるところが、レプリカばかりでして、小学生の見学にはいいのかもしれませんが、やっとのことで文書館が出来るのかと喜んでおりました当時の私にとりましては、がっかりする代物でした。
 展示はもちろん、古代からありますが、一番のお気に入りは、昭和30年ころの松山の町並み、です。





 一転、「三瀬諸淵 -シーボルト最後の門人-」展の方は、数々の本物が並んでおりまして、圧巻でした。
 ひとみ嬢と妹に、もっとも受けましたのが、シーボルト宛オランダ語の三瀬周三書簡(日本語訳の解説がそえられていました)。要するに、「やる気がなくて、出来が悪いアレクサンダーくん(シーボルトの長男)に、日本語を教えることに、私は疲れ切りました。これでは、私の勉強に支障が出ます」 といいますような、「周三くん、ずいぶんはっきりものを言うよねえ!」という内容のものでした。残念ながら、下の図録には収録されていなかったのですけれども。



 とはいいますものの、この図録、すぐれものです。写真のほか、関係資料集も在り、周三の書簡から、イネの娘で周三の妻となっていました美人の高さんが、後年、郷土史家の質問に答えてしたためました回想書簡まで、活字にしてくれているんです。
 シーボルト記念館館長・織田毅氏の「二宮敬作の一側面」といいます短い論文もあり、晧臺寺で見てきました墓碑の銘文を載せてくださっています。私、うっかり、銘文の写真を撮っていなかったのですが、はっきりと、イネさんがこの碑を建てた旨、書いているみたいです。
 そしてもう一つ、岩崎弥太郎の安政7年の日記によりますと、長崎において、弥太郎は二宮敬作をたびたび訪ねているんだそうでして、二宮親子と弥太郎と長岡謙吉と、親しく箸拳(と思います)をしたんだとか。実は、ごく最近、弥太郎の日記は買いましたので、読んでみるつもりでおります。

 


 丘の上の歴博から、卯之町の中心街・中町(なかんちょう)へは、徒歩でしかたどれない近道があります。
 強風の中、紅葉の山道を下りますと、二宮敬作翁碑と、敬作をしのぶ薬草園が。実際に、卯之町で開業しておりました幕末、敬作は薬草園を作っていたそうでして、それを復元したものです。
 薬草園から中町はほど近く、その入り口に先哲記念館があります。




 ちょうど、「イネと弟ハインリッヒ展」をやっていまして、入ったのですが、ハインリッヒはシーボルトの次男です。明治になってから来日し、オーストリア=ハンガリー帝国在日大使館に奉職して、日本女性と結婚していて、日本にご子孫がおられます。なんという幸運でしょう! そのご子孫・関口忠志が出されております小冊子を希望者にくださるといいますので、さっそく、事務所へいただきに参りました。
 まだとばし読みしかしていないんですけれども、これがまた、すぐれもの。
 
 実は、ですね。私、普仏戦争と前田正名 Vol9におきまして、以下のように書いております。
 「仏英行」7月20日条に、柴田は、モンブランの従者・斎藤健次郎(ジェラールド・ケン)がもってきた新聞を見ての感想としまして、「アールコック(初代駐日イギリス公使オールコック)、シーボルト、出水泉蔵(薩摩の密航使節団の一員としてイギリス滞在中の寺島宗則)、ロニ(レオン・ド・ロニー)等一穴狐となるの勢あり」と、すべてモンブランの仲間で、同じ穴の狢となってなにかを企んでいる、というような、ものすごい感想……といいますか、ある程度、正鵠を射ていますような、そんな見方を柴田は書き付けていまして、モンブランもぼろくそにけなしていますが、シーボルトに対しても、まったくもっていい感情は抱いていません。 

 要するに、モンブラン伯爵とシーボルトとの間には、連絡があったのではないのか、というような感触を持っていたのですが、シーボルト記念館の展示に、ミュンヘン国立民族学博物館所蔵の伝・鳴滝塾模型の解説パネルがありまして、そこに「(ミュンヘン国立博物館のシーボルトコレクション)所蔵品目録の記述は、シーボルトの長男アレクサンダーとサイトウ・ケンシロウによってまとめられた」というようなことが、書いてあるんですね。
 「サイトウ・ケンシロウって、斎藤健次郎(ジェラールド・ケン)よねっ!!!」と目を見張ったんですが、いただいた関口忠志の小冊子には、池田遣仏使節団とシーボルトが関係していたことが、「沓澤論文」を参考に述べられていたんです。

 さっそくCiniiでさがして見ましたら、ありましたっ! 沓沢宣賢氏著「一八六三年ヨーロッパ帰国後のシーボルトの外交的活動について」で、無料で公開されていますし、沓沢氏の論文はもう一つ、「シーボルト第二次来日時の外交的活動について」も読むことが出来まして、ほんとうに大収穫ですっ!!!

 要するに、池田遣仏使節団、つまりは横浜鎖港談判使節団にモンブラン伯爵が接触していたことは確かでして、それにシーボルトも深くからんでいた、ということになるんです! モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編に書き、wikiーシャルル・ド・モンブランにも追記しておりますが、モンブラン伯爵の父親は、ベルギー領となりましたインゲルムンステル男爵領を、ドイツ系で、ハプスブルグ帝国の名家・プロート家から受け継いでいまして、祖父がハプスブルグ帝国からフォンの尊称を得ていたシーボルトとは、おたがいに日本マニアでもありますし、十分に接点がありえたのでしょう。

 天使のようなみなさんのおかげで実現しました、大収穫の卯之町紀行ですが、長くなりましたので、次回に続きます。

 
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長崎、近藤長次郎紀行 後編

2013年11月09日 | 近藤長次郎

 長崎、近藤長次郎紀行 前編の続きです。

 さて、小曽根家の墓域をめざす前に、おイネさんと二宮敬作のお墓へ寄り道を志しました。
 またまた、ものすごい急坂だったのですが、高嶋家墓域のすこし下あたりから、かなり整備されました道となり、手すりがついていたりもするようになりました。




 シーボルトの娘・楠本イネにつきましては、吉村昭氏と司馬遼太郎氏が、小説に登場させています。
 司馬氏の「花神」は、おイネさんと大村益次郎が恋仲になる、といいますような、ちょっとありえないフィクションが挿入されていまして、吉村氏の「ふぉん・しいほるとの娘」の方が、史実に忠実です。
 ただ、「花神」の二宮敬作は、好人物として、とても印象的に描かれていまして、これは、ほんとうであってもらいたいところです。

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 二宮敬作は、四国宇和島藩領出身のシーボルトの弟子で、シーボルトが日本に残した娘、幼いイネの養育を託されました。
 敬作は、シーボルト事件に連座しましたが、蘭学好きの宇和島藩主の配慮で、卯之町(現・西予市宇和町)で医院を開業し、イネを呼び寄せて、その教育に尽力します。
 やがて日本は開国し、敬作はイネとともに長崎へ移って開業。
 シーボルトが再来日し、再会を果たしますが、その三年後、文久2年(1862年)に長崎で病没します。

 今回、初めて知ったのですが、敬作のお墓は、楠本家の墓域にあります。
 いえ、ですね。「おイネさんは、当初、シーボルトにちなんで失本(しいもと)イネと名乗っていたが、宇和島藩主・伊達宗城から、本を失うというのはよくないので、楠本にしてはどうかと勧められ、楠本を名乗った」というような話があるのですが、驚きましたことに、この楠本家の墓域には、没年天保年間の楠本性の墓碑があったりするんですね。
 おイネさんの名前が側面に刻まれました楠本家の墓は、実孫で、養子となりました楠本周三の名もあり、かなり新しいもののようですが、どうも、墓域の状況からは、イネさんの母親のお瀧(たき)さんが楠本性だったように見受けられ、ちょっとびっくりです。

 「長崎のおもしろい歴史」というサイトさんに、イネさんの娘のタカさんの「祖母タキのこと」という回顧談がありまして、これによれば楠本瀧は遊女だったわけではなく、島津家の御用商人だった服部家に小間使いとして勤めていて、シーボルトに見初められた、ということでして、行儀見習いに出ていたのだと考えれば、かなりいい家の娘さんだったのではないでしょうか。

 下の写真は、楠本瀧、イネ、二宮敬作の顕彰碑で、少し離れた区画にあります。
 そして、いよいよ、近藤昶次郎のお墓です。




 見せていただいた過去帳の写しでは、昶次郎さんは、ちゃんと「謙外宗信居士」という戒名をいただいています。
 おおよそ左右二行にわけて、ただし書きのような説明がありまして、右側には「土佐人近藤昶(偏が日でつくりが永という異体字)次郎ゆえ有って薩州上杉宗治郎を称す 没年29」とあり、左側に「明治31年7月特贈正五位 墓は当山の頂に在り梅花書屋之墓と5字のみ刻む」と書いています。(「」内の文字は、私が勝手に読み下しておりますので、悪しからず)
 また「本博多町小曽根より一札入」 ともありまして、小曽根家より「一札入」で当寺に墓がある、といいますことは、薩摩藩士として葬られたわけでは、どうも、なさそうな気がします。

 しかし、戒名をもらっていたにもかかわらず、墓碑には「梅花書屋氏墓」 (過去帳に「之」とあったため、「氏」か「之」か迷っていたのですが、中村さまから「やはり氏では?」とのご指摘が在り、宮地佐一郎氏の著作にもそうありましたことから「氏」とします)としか刻まれていない、といいますのは、どういうことなのでしょうか。あるいは、墓碑が建てられました当初は戒名がなく、戒名はもっと後のもの、だったのでしょうか。
 わが家(真言宗)の例で恐縮ですが、明治期の個人墓は、正面には戒名のみが刻まれ、側面に本名や生年、没年が刻まれていまして、ちょうど、過去帳の形式を、そのまま墓石に刻んだかたちです。本名で葬られることにはばかりがあったにしましても、もしも戒名をいただいていたとしましたら、正面に戒名のみを刻んで、側面を省けばいいことなのです。

 そして、この「梅花書屋」なのですが、昶次郎さんが自害したといわれます小曽根家の離れの名前であった、と言われます。本博多町の小曽根家が一札入れているわけですから、その離れも本博多町にあったのだとしましたら、現在、小曽根邸跡とされています長崎地方法務局(万才町8-16)おあたりでいいのかなあ、とも思うのですが、吉村淑甫氏の伝記では、ちょっとちがう場所であるような描写でして、別邸だった、といいます話も読んだようにも思いまして、謎は深まります。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 次いで、昭和43年4月28日に、現在の場所、小曽根家の墓域に墓石が移されました経緯につきましては、墓石の隣に赤字で刻んだ石碑が建っておりました(写真下左)。
 過去帳を見たわけではなさそうでして、命日は「慶応二年正月十四日」 になっています(過去帳は二十四日)。そして、墓石の文字は「坂本竜馬の筆になる」とあるのですが、これらは、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」をそのまま信じて書かれたようです。
 といいますのも、昭和43年は、NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」が放映された年なのです。

竜馬がゆく〈6〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 私、この大河で、近藤長次郎がどのように描かれていたかさっぱり知らないのですが、当時はおそらく、大河ドラマになれば、その原作も相当に読まれたと思いますので、亀山社中にも注目が集まり、長崎では、「晧臺寺さんに近藤長次郎のお墓があって、荒れた場所に放っておかれている」ということを、つきとめた方がいたのではないのでしょうか。側面に「世話人」の名が刻まれておりますが、小曽根姓の方が二人いて、あるいは、小曽根家のご子孫が、中心になって動かれたのかもしれません。
 どういうご縁があったのか、墓石移転の費用を出しましたのは、親和銀行だったようでして、赤字の石碑には「親和銀行建立」と刻まれています。

 気になることが一つ。赤字で刻まれました文章の最後は「その荒廃を恐れ有志の協力を得て当処に移し併せて同墓域内にあった津藩士服部源蔵の墓碑とも修覆を加えた」 と結ばれておりまして、つまり、おそらくなんですが、もともと墓石があった墓域には、津藩士・服部源蔵の墓碑もあって、そちらも倒れていたかなにかなので、これもご縁と修復いたしましたよ、ということなのです。
 昶次郎さんと同じ墓域に葬られておりました津藩士・服部源蔵っていったい何者???と、またまた謎を深めつつ、お参りさせていただいたような次第です。



 最後に、小曽根家墓域のすぐ横の道からの眺望です。
 すでに、晧臺寺さんの建物も樹間に見えまして、このあたりは、非常にきれいに手入れされた墓域になっております。しかし、やはり木は斬れないのか、風致地区ではありません隣の大音寺さんの墓域にくらべましたら、樹影が濃く、眺望はさまたげられています。ただ、それもこのくらいでしたら、風情があっていいんですけれども。
 今度、もう一度お参りさせていただくときは、お寺から登るつもりです。

 私の数々の疑問につきまして、なにかご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。


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長崎、近藤長次郎紀行 前編

2013年11月08日 | 近藤長次郎

 土佐、近藤長次郎紀行 後編の続き、とでもいったことになるでしょうか。
 連休を利用して、長崎へ行ってまいりました。

 事前に、一応の準備はしようと思っていたのですが、なにしろ、本とコピーの整理途中。
 なかなか思うにまかせませんで、しかも、お目にかかりたい、と思っていました方のお一人、郷土史家の宮崎秀隆氏には、お会いできませんでした。いろいろと手を尽くしましたが、挫折しまして、顕彰碑設立に関します経緯などの取材は、残念ながら断念。
 宮崎さま、もしご覧になられることがございましたら、ご連絡くださいませ。

 しかし、今回、千頭さまからのご紹介で、晧台寺の作山克秀氏にはお時間をさいていただくことができまして、お墓にまつわるお話などは、詳しく伺うことができました。
 したがいまして、この紀行ブログも、顕彰碑ははぶきまして、お墓関連でまとめようと思います。

 まず、晧台寺さんの過去帳では、漢字が長次郎ではなく昶次郎になっていまして、それを使いたいと思います。




 海雲山・晧台寺は曹洞宗。近藤昶次郎のお墓は、晧台寺の小曽根家の墓域にあり、晧台寺の過去帳に名前も載っています。
 大正4年(1915年)には、ここで50年忌の法要が営まれ、田中光顕が贈った漢詩が、残されてもいます。

 晧台寺を訪れましたのは、11月3日日曜日。
 この日、長崎は朝から雨で、近くの料亭・一力で卓袱弁当をいただいてから、うかがいました。
 過去帳の写しを見せていただき、もともとのお墓のあった場所もお聞きしました。実は、昶次郎のお墓は、もとから小曽根家の墓域にあったわけではなく、同じ晧台寺の墓地ではあるのですが、もっと山の上の方で、現在は崩れて荒廃している場所にありましたものを、近年、管理の行き届きました小曽根家の墓地へ、有志の方々が移したわけなのです。

 もとの場所も見ておきたい、さらには、シーボルトの娘・おイネさん一家と、そこに眠るシーボルトの弟子・二宮敬作のお墓にも参りたいということで、雨が上がりました翌日、亀山社中記念館から、龍馬の像が立ちます風頭公園に到り、晧台寺裏山の墓地を、上から下へ、歩くことにしました。

 これがもう、ものすごく荒れた道でして、もしも、東京から来てくださった中村太郎さまの同行がなければ、挫折したにちがいないと、伏し拝みたい気分。ありがたいことです。

 11月4日月曜日、快晴のこの日、寺町通りを北へ行き、深崇寺の横から、亀山社中記念館まで坂を上ります。

 



 坂の途中で、案内板とともに、社中ゆかりの人物の紹介板が立っています。もちろん、近藤昶次郎のものも。
 しかし、記念館内の展示物は、たいしたものではなく、ただ、ここが社中の跡地であることは確かですので、せめて当時をしのびまして窓からの景色を。
 家が建て込んでいます上に、木が茂りすぎ、当時の眺めとは、まるでちがうようなんですけれども。




 ブーツと舵輪のモニュメントや亀山社中資料展示場や若宮稲荷神社を見物しつつ、龍馬通りを登り続けます。土、日、祭日しか開きません亀山社中資料展示場は、熱心な有志の方々が運営していまして、珍しい写真が多数展示されていて、記念館より楽しい雰囲気でした。
 上り坂にくたくたになりまして、やっと風頭公園へ。




 司馬遼太郎氏の文学碑と龍馬像が立ちます風頭公園からの眺めはすばらしく、しばし休憩を。
 風頭公園のすぐ脇に、幕末の写真師・上野彦馬のお墓への下り道があります。



 上野家の墓地からは、急な下り坂。狭い石段があったりしますが、落ち葉が散り敷き、昨日の雨で、滑るのでは?という恐怖に、高所恐怖症の私は、身がすくみます。
 しかし、まずは、作山氏からうかがいました薩摩人墓地をめざそうと、恐る恐る、なんとか足を進めつつ、「こんなとこにうちのお墓があったら、絶対、お参りしないっ!!!」と毒づく私を尻目に、中村さまは軽々と足を進めておられましたが、そのうち、「やだ、藪蚊っ!!!」とこちらも悲鳴。
 途中、茂みに入りますと、ものすごい藪蚊で、私は肌の露出が少なく、あまり刺されなかったのですが、中村さまはあまりの襲撃に、慌てて持参の虫除け薬を塗っておられました。いえ、最後には私も、唯一露出しておりました手の甲を刺されましたが。

 突然、先を行っておられました中村さまの声。「ありましたっ! 薩摩墓の看板!」
 「ほんとですかっ? 来たかいがありました!」と私。
 実は、昶次郎さんが最初に葬られましたとき、薩摩藩士として葬られた、というような書き方をしている本もありまして、薩摩墓と昶次郎さんの元のお墓の位置の関係を、この目で確かめたいと念じていたような次第だったんです。






 薩摩墓の看板が立てられましたのは、書いてありますように平成25年、今年の3月です。ここの墓石を発掘復元された長崎鹿児島県人会の方々には、つくづく頭が下がる思いです。
 中村さまがすべての墓石を調べてくださったのですが、戊辰戦争はともかく、西南戦争の戦死者、と思われる墓石は、ありませんでした。明治10年の没年が刻んである墓石は、ただ一つの佐賀県士族のものと、あとは鹿児島県の平民で、士族ではなかったそうなのです。私が見ました範囲でも、明治4年の没年のものなどもありまして、薩摩人の墓地であることは確かですか、どういう方々が葬られているのか、いまひとつ、よくわかりませんでした。
 ただ、真ん中左の写真、おじぞうさまの首が落とされていまして、あるいは、幕末からの墓碑もあって、戊辰戦争の廃仏毀釈で首が落とされたものなのか、と思ったりもします。そう思ってあらためて墓石を見ますと、晧台寺さんの墓地であるにもかかわらず、戒名のないものがけっこうあったのですが、中村さまが見られた「平民」のものは、戒名があったそうです。

 (追記)中村さまからお電話があり、改めて撮られた写真をご覧になられたところ、明治10年が没年の鹿児島県士族の墓が、一つあったそうです。ただ、今のところ、西南戦争戦死者名簿(西郷軍側)に同名は見つからないとのこと。あと、佐賀県士族のものは、よく写真をご覧になると、16年没年に見えるとのことです。私も、これは現場で、10年のように見えていたのですが、西南戦争におきます西郷軍側佐賀県士族の戦死者に、やはり同名は見つからないそうです。
 もしかしますと、本連寺の側面に沢村惣之丞の名前を刻みました墓碑の「土佐住民諸氏の墓」といいます表記が、ヒントになりそうな気がします。本連寺には長崎におきます土佐住人の墓域があり、おそらく墓域が整理されました時点で、有志がまとめて墓碑を建てたのではないでしょうか。晧台寺には鹿児島住人の墓域があり、その墓域は整理されることがなく現在にいたっていますので、元の墓石が残っていた、と推測してもいいように思います。


 さて、薩摩墓の南の並びに、高嶋秋帆のお墓があります。町年寄りでした高嶋家の墓地は、百五十坪あるという豪壮なものですが、ここにも荒廃の気配があります。





一番上の写真の階段を上りましたところが高嶋家の墓地で、真ん中の写真が高嶋秋帆の墓石。
 下の写真は、高嶋家の墓域からの眺望です。

 実は、高嶋家の墓域に隣接して、これもかなり広い墓域があり、石垣が崩れ、墓石が倒れたりしていたのですが、白髪の男性がお一人、補修に取り組んでおられました。聞けば、長崎の町役人でおられたご先祖のお墓で、ご本人もこちらに入られるおつもりがあり、毎日、補修に通われているのだそうなんです。りっぱなご先祖をもたれますと、大変なこともあるんですねえ。
 晧台寺の墓地のこのあたりは、風致地区に指定されていまして、いっさい伐採ができないのだとか。実際、とてつもなく大きく育ちました楠が、根を張り、枝をひろげ、墓石を倒したり、眺望をさえぎったり。

 そして、昶次郎さんの元のお墓は、このあたり、高嶋家墓地の北方にあったといわれているんです。
 


 このあたりではないかと、高嶋家の墓域から写した写真が上なのですが、今、気づきましたっ!
 ひいっ! これ、北ではなくて、東だったみたいです。山の上の方が北と、勘違いしていたんです、私。
 としますと……、あの白髪の男性が補修なさっていた墓域のすぐそばで、より薩摩墓に近いところ、ですよねえ。うっかりしてましたわ。

 次回に続きます。
 
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