郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子

2006年02月08日 | 前田正名&白山伯
龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???でご紹介しました前田正名。
自叙伝が手に入らないのですが、祖田修著『前田正名』 を読みました。
こちらは、自叙伝がかなり正確に使われている様子です。私の推測もはずれていた部分はあるのですが、司馬遼太郎著『余話として』(文春文庫)の「普仏戦争」とくらべますと、なぜ、同じ自叙伝がここまでちがった紹介のされ方になるのか、不思議になってきます。司馬さんの場合、エッセイも説話なんですね。

まず、龍馬とは、ほとんど関係がありません。
「海援隊と薩摩藩をつなぐ連絡係」というのは、まったくのまちがいじゃないんですが、ユニオン号事件の時に、薩摩から長州への使者の一人となり、ユニオン号には海援隊も関係していますので、出発のとき龍馬に見送られ、激励に刀をもらった、というだけのことのようなんです。

それよりも驚きだったのは、正名の兄の一人は、文久3年暮に、薩摩が幕府から借りた交易汽船・長崎丸の釜焚をしていて、馬閑で長州奇兵隊に砲撃され、死亡していたのです。
それよりわずか一年あまり、薩長同盟の密約の中で第二次征長がはじまり、その戦いの最中に、兄の死んだ馬関の海を渡って長州へ使者におもむいたのですから、数えで17歳の正名の覚悟は、悲壮だったんですね。
しかし、「正名の宿志は洋行にあれば、無用のことせる心地せしが」と、自叙伝では述懐しています。

前田正名は、嘉永3年(1850)、薩摩藩士の貧しい漢方医の七男として生まれ、九歳のときから、鹿児島の蘭学者・八木称平の住み込み弟子、となります。
八木称平は、大阪の緒方洪庵塾にいたことのある蘭学者で、種痘の方法を書いた本を翻訳し、普及させたことで有名だそうですが、また、薩摩の海外密貿易にも事務方としてかかわっていたのだとか。
慶応元年(1865)、薩摩藩は五代友厚の建言を入れ、英国へ密航留学生を送り出すこととなりました。正名は、そのメンバーとなることを熱望したようなのですが、若年の場合は家柄のいい者が選ばれ、望みはかないませんでした。
かわりに薩摩藩は、正名に長崎への藩費遊学を許します。
正名は、長崎で薩摩藩の外国係をしていた中原猶介のもとに、まずは身をよせ、その紹介で、幕府の長崎奉行所通事だった何礼之(がれいし)が開いた語学塾へ、入門。
当時、この塾では、オランダ人宣教師のフルベッキが英語教師をしていて、また陸奥宗光が入門してもいました。
正名は、布団のない六歳年上の陸奥宗光を、自分の布団に寝かせていた、といいます。そんなところで、龍馬とも面識がないわけでは、なかったのかもしれません。はるか後年、同じ布団で寝た正名と宗光は政敵となりました。

正名は、なんとしても洋行がしたくて、そのための資金作りに、英和辞書を編纂します。
兄が私費で長崎へ来ていて、その友達とともに思いついたことなのですが、これに正名も加わり、フルベッキが助けてくれることとなりました。
正名たちは辞書編纂に没頭し、戊辰戦争直前に仕上げて、上海で印刷します。薩摩辞書と呼ばれたこの辞書の売上で、正名は、モンブラン伯について洋行することができたのです。
フルベッキの弟子だったわけですから、大隈重信とも知り合いだったようです。
大久保利通と大隈の斡旋で得た留学です。しかし藩費ではなく、自ら費用を作ったのですから、すごい、がんばり屋さんですよね。

正名がパリで絶望を感じたのは、第二帝政最末期の豪奢な都市のさまざまな様相、産業にしろ軍事にしろ学問にしろ、なんでしょうけれども、その西洋近代文明のりっぱさが、とても日本人が追いつくことはできないものに見えたから、だったんですね。
私が勘違いしていたのは、モンブラン伯の代理公使の期間で、普仏戦争が終わるまで、そうだったように思っていたのですが、この本によれば、開戦以前に、後任の鮫島尚信がパリへ来たことになっているんですね。これは、ちゃんと調べてみる必要があります。

さらにこの本では、正名が市民兵に志願したとは、書いてないんです。
正名は、勇敢さを認められてコンプレックスを解消したのではないようなのです。
りっぱに見えたフランスの軍隊は弱く、華の都から物資は姿を消し、不夜城を演出していたガス灯も消え、人々は犬や猫、鼠までを食べる惨状となったのを見て、物質文明のもろさを覚ったんです。同時に、日本人が欧州に遅れているのは物質的な面のみであり、文明として遅れているわけではないのだということも、です。

市民兵の件は、どういうことだったのだろうと、ともかく、自叙伝を直接読みたい思いが募ります。
誇り高く、熱情的な薩摩の美少年(かな?)。モンブラン伯とは、とても良好な関係だったようですしね。

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