郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

生麦事件と薩藩海軍史 vol5

2009年02月21日 | 生麦事件
 生麦事件と薩藩海軍史 vol4の続きです。

 なにしろ私、これまでほとんど興味をもってなかったこと(生麦事件の事実関係)に、突然関心を抱き、調べながらこれを書いていますので、話がわかり辛くなっているようですが、史料については、まだまだ先になりますが、調べ終わった時点でまとめて書きたいと思いますので、お許しください。

 そして、とりあえず現在、私は、久木村治休本人が、事件から50年後の明治45年、鹿児島新聞のインタビューに答えて、「リチャードソンを斬った!!! 心臓ころころ」と宣言しておりますのに、「いや、久木村が斬ったのはクラーク一人で、リチャードソンは斬っていない」と、証明不可能なことを推測して書いておりますので、話がくどくなることも、お許しください。

 リチャードソン落馬後の斬殺は別にしまして、久光の行列本隊における無礼討ちとして、現在、私は、「奈良原喜左衛門がリチャードソンに二太刀(最初は左上腕に浅手、次いで左脇腹に深手)、マーシャルに一太刀(左脇腹に浅手)、久木村治休がクラークに一太刀(左肩に深手)をあびせた」と結論づけております。真説生麦事件 下生麦事件考 vol2生麦事件と薩藩海軍史 vol3と考えてきた結果なのですが、「久木村が斬ったのはクラーク一人」という点においては、最初から、私の考えは変わっておりません。

 で、なぜ喜左衛門が斬ったのが二人とも左脇腹で、久木村が斬ったのは左肩であったか、なのですが、これはクラークの宣誓口述書に理由が述べられています。

「私は、先導部隊、つまり私がいま列をなして進んで来る、と申しました隊列の中の一部分、約30名ほどの者が、私に殺到してくるのを見ました。これを見たとき、私はすぐ馬を疾駆(ハンド・ギャロップ)させ、彼らの中を駆け抜けたのであります。このとき、私は左肩に負傷し、私の馬も左臀部に傷を受けました。私は、数本の剣が引き抜かれ、私目がけて、振りおろされるのを目撃しましたが、おそらく私が身をかがめ、しかも馬が早く走ったので、難をのがれることができたのでありましょう」

 このときのクラークの傷については、以下の通りです。

 左肩において深さ骨に達し、左肩骨を切断する刀傷。

 つまり、喜左衛門の位置においては、リチャードソンもマーシャルも、むらがる中小姓集団に行く手をさえぎられ、馬のスピードをゆるめ、身体を垂直に起こしていました。
 しかし、馬首をめぐらせ、逃げるときは全速力です。身体を馬体に伏せる姿勢になっていた、というわけです。

 久木村は、刀がまがったと言っています。

「ところが二人も人間を切ったので、わしの刀はまがってしまって、どうしても鞘に入らぬ。仕方がないから、そのまま手拭いかなにかでグル巻にして、その晩ひと晩宿舎の床の間に立てかけて置くと、不思議なもので翌朝はよく鞘に入るように伸びていた。どうも感心なものじゃった」

 これは、二人の人間の脇腹を斬ったから、というよりは、「クラークの肩の骨を斬ったから」と考えた方が、自然です。脇腹に骨はありませんので。

 また、久木村が二人斬った、つまり「マーシャルも斬った」と述べている点についてなのですが、これは、「生麦村騒擾記」に、マーシャルについての以下の話があるからでしょう。

「これ(リチャードソン)と相並んで駈来りし一人は、急に手綱を引返し、のがれ去らんとなすところを、近侍の人々後より二つになれと切付けしが、かれの運の強かりけん、腰部へ浅手を負いしのみにて、痛手を耐えて一丁(100メートル)ばかり逃げ行きしが、ここに前駈の一人、御駕籠前の騒動を顧て、これかならず近侍の人々、夷人の無礼にたえかね刑戮せんとして撃ちもらせしならん、あにここをばや逃すべきと、太刀ぬき放ちて待ちかけたり。英人目ざとくこれを見て、恐懼のあまり狼狽せしが、あるいは虚勢を示さんとてが、洋酒の入りたる小瓶を逆さまに持ち、あたかも拳銃を持って発砲するがごとく抜いたれど、もとより勇猛血気の九州男子、いずくんぞ砲弾に怖るべき、ますます怒って飛びかかり肩先四五寸斬下げたり」

 「生麦村騒擾記」において、行列前方で斬られた描写はこれしかありませんで、だとするならば、幾度も見てきましたように、これはマーシャルではなく、クラークです。
 それにいたしましても………、あらためて今気づいたのですが、これはまるで、ただ一人、行列前方にいて英国人を斬った「前駈」が、日露戦争、第六師団の勇士だと知っていたかのような書き方です。「もとより勇猛血気の九州男子、いずくんぞ砲弾に怖るべき」なのですから。
 これはますますもって、明治28年の「生麦村騒擾記」写本と、明治40ー42年の間に「横浜貿易新報」に掲載されたものと、文章が同じなのかどうか確かめる必要がありますが、それには「横浜貿易新報」のバックナンバーを確かめると同時に、横浜開港資料館が所蔵しておられる写本の写本を見る必用がありまして、時間がかかりそうです。

 といいますのも、久木村治休は明治32年(1899)、 陸軍歩兵大尉で後備役となりましたが、日露戦争において招集を受け、「最後のご奉公」だと62歳にして前線部隊の中隊長を務め、「壮年をして恥死せしめる」抜群の武功で、金鵄勲章を受けていたんです。
 さらに想像をたくましくしますと、年齢からいって、この活躍は異例で、もしかすると………、小さな記事でも新聞に出て、「かつて生麦事件で英人を斬った」くらいのことは載った可能性が、あるのではないんでしょうか。これを調べるのは、実に骨が折れそうですが。

 で、その久木村が、です。明治45年の鹿児島新聞のインタビューにおいて、「生麦村騒擾記」と事件直後のジャパン・ヘラルドの記事(同年11月28日にロンドン・タイムズに転載)をあわせて、「リチャードソンを斬った!!! 心臓ころころ」宣言をしたのだと、前回推測しました。
 「生麦村騒擾記」はともかく、英字紙について、「久木村に英語が読めるのか???」という、当然の疑問がわきます。

 いえ………、あくまでも憶測なのですが、英字紙を読んだのは、久木村の実の甥、竹下勇だったのではないでしょうか。

 久木村は、姶良郡の郷士・山元家の三男として生まれ、久木村家の養子となった人です。
 竹下勇は、山元家を継いだ久木村の兄の二男として、明治2年に生まれ、明治7年に竹下家の養子となり、西南戦争後の明治12年、当時、東京で巡査をしていたらしい久木村に引き取られて、上京しました。
 よくはわからないのですが、当時の久木村は、山元家の実の母を東京に引き取って暮らしていたらしく、ここに竹下勇もくわわったようです。
 竹下は海軍兵学校に進学しますが、抜群の語学の才能を示し、卒業時の席次は3番。海軍大学、ヨーロッパ視察などの経験を経て、日露戦争時はアメリカ公使館付き武官としてワシントン駐在。柔道を介して、ルーズベルト大統領と友達づきあいをしたといわれます。ポーツマス講和会議では、海軍代表でした。

 久木村が、なぜ突然の「斬った斬った宣言」をしたのか。
 私はそこに、竹下勇がかかわっていたのではないかと、妄想しているのです。

 生麦事件と薩藩海軍史 vol3で書きましたが、明治40ー42年の間に「横浜貿易新報」に掲載された「生麦村騒擾記」(あるいは「生麦事件の真相」)は、行列の無礼討ちとリチャードソン落馬後の斬殺を、くっきりと書き分けているんです。
 先の引用でもわかりますように、久光の行列本隊の藩士は、行列に無礼を加えた異人を「刑戮」しようとしたのであって、それは正当な行為であり、彼らは勇敢であったと、記述しているんです。
 しかし、落馬後のリチャードソンに加えられた残虐行為は、ものかげから見ていた里人たちが、「身の毛よだち、身体ふるえ物言う事もならざりし」、悪鬼の仕業でした。

 実際、これがどれほどのものだったかといえば、私が考えていますように、リチャードソンが落馬以前に被っていた傷が、喜左衛門による左上腕の浅手と、左脇腹に横に加えられた深手のみだったとすれば、残りの傷は以下にのぼります。

 まずは前回書きました大傷二つ。

  身体左正面、鎖骨の5センチほど下に、ほぼ横ではあるが、前後左右にのびて、肋骨2本を切断し、心臓をあらわにしている13センチほどの傷。

  身体背面左、肩胛骨のすぐ下からのびて、肋骨を切断し、胃や肺をのぞかせて、しかもそこから腸をひっぱりだした形跡のある、非常に大きな縦長の傷。

 そして、これも前回述べました腹の刺し傷二つ。

 2.5センチ程度のものが二つ。刺し傷で、腹に口をあけさせている。

 大傷がまだ二つあります。

  のどを斜めに横切る創傷。一方の下あごの角から反対側の角にいたるもの。脊椎骨に達する組織を切断。脊椎の一部に創傷。外傷はのどぼとけの軟骨部の上部より、披裂軟骨の上部に達している。左側の血管は深く切られている。右側のものは無傷である。

  左側の烏口突起(肩胛骨)にはじまる大きな創傷。腕(右)を斜めに切り、反対側の後ろまで達するもので、関節のおよそ5センチ下の上腕骨(右)を切断。

 左右の手の損傷も、大きなものでした。

  手指に始まる左腕は、ほとんど完全に切断されている。

  右の手首のおよそ2.5センチ上に、斜めに横の創傷。上の方へのび、前腕の両方の骨を切断。手は皮一枚によってくっついている。

 たしかに、これは決して介錯といえるようなものではなく、「全身をズタズタに切り刻んだ悪鬼の仕業」といわれても仕方がありません。

 そして………、すでにこのとき、この数人の「悪鬼」の中心が、海江田信義と奈良原繁であったことは、市来四郎の史談会速記録と、春山育次郎のエッセイ「生麦駅」によって、明かされていたのです。
 横浜貿易新報の記事掲載当時、海江田信義はすでに世を去り、奈良原繁は生存していましたが、元薩摩藩士たち、おそらく中心は帝国海軍の薩摩閥だったと思うのですが、ともかく、彼らによって気遣われたのは、「日本が世界に誇る日本海海戦の名将・東郷平八郎元帥の義父にあたる、海江田信義の名誉」だったのではないでしょうか。

 生麦事件の相手は、イギリス人です。
 日本海軍は、薩の海軍といわれたほどに、元薩摩藩士が中心となって、大英帝国の海軍を手本にし、そのイギリスと同盟を結び、日本海海戦の勝利によって、世界に名がとどろくまでになったのです。
 これは、島津斉彬にはじまり、幕末の薩摩が海軍に力を入れてきたことと、生麦事件に端を発した薩英戦争により、真の攘夷にめざめ、維新を成立させ、近代海軍の創成を果たしてここまできたのだという、海軍薩摩閥の誇りにもかかわる問題です。海軍は海外とのつきあいも多く、いくら過去のこととはいえ、不名誉な事実が公になることは、避けたかったでしょう。

 海江田信義の妹・勢似子は、東郷家を継いだ平八郎の兄と結婚していました。
 この勢似子のとりもちで、平八郎は海江田信義の娘と結婚していたのです。
 さらに勢似子は、自分の息子・東郷吉太郎にも海江田の娘を嫁に迎えさせますが、この吉太郎が、海軍兵学校で、竹下勇の二期上なのです。なお東郷吉太朗海軍中将(最終)は、「海江田信義の幕末維新 」(文春新書)の著者、東郷尚武氏の祖父にあたられます。

 「生麦村騒擾記」が、生麦事件において、「勇者」と認めたのは、久光の行列本隊にいて、正当に馬上の異人を無礼討ちした者のみ、です。
 それは、当時の庶民感情を反映していた、と見て、いいのではないでしょうか。
 奈良原喜左衛門は、すでに幕末に死去しています。
 そして、もう一人、その正当な無礼討ちをなしていた久木村治休は、偶然にも、竹下勇の叔父だったのです。

 久木村が、実はリチャードソンをも斬ったのであったならば、リチャードソンはすでに落馬以前、正当な無礼討ちによって瀕死の状態だったのであり、海江田信義はリチャードソンを介錯したのだと、強弁できます。
 そして実際、薩藩海軍史はそれをやってしまうのですが、そこにいきつくまでに、藩閥政治を嫌悪した尾佐竹猛博士の登場があります。

 長くなりましたので、続きます。


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生麦事件と薩藩海軍史 vol4

2009年02月20日 | 生麦事件
 生麦事件と薩藩海軍史 vol3の続きです。
 ただいま、ちょっと呆然としております。
 えーとまず、尾佐竹博士が、「生麦事件の真相」を発表したのは、大正10年(1921)、日本歴史地理学会の雑誌「歴史地理」においてのことです。(fhさま、ありがとうございました)
 まだ調べはじめたばかりで、証拠をあげることはできないのですが、尾佐竹博士は、おそらくは生麦村の名主だった関口次郎右衛門家において、明治28年の「生麦村騒擾記」写本と、事件当時の生麦村民および村役人の書き上げ(口述書)の写しを、見られ、写し取られたか、あるいは手に入れられた、と推測されます。
 もしも、なんですが、博士が手に入れられたとしますと、原本は空襲で焼けたはずです。
 この件の詳細については、調べおわってから、また書きたいと思います。

 ともかく、「生麦村騒擾記」は、明治40年末から42年の間に、横浜開港50周年の特集記事「開港側面史」の一部として、横浜貿易新報に連載されていた、ようです。(ただいま、バックナンバーを確認中です)。ところが、連載終了直後に連載をまとめて出版した「横浜開港側面史」という本で、「生麦村騒擾記」はきれいさっぱり消えています。
 おそらく博士は新聞連載を見られ、その元になった資料をさがされて発掘された、ということなのでしょう。
 聞き書きとはいえ、事件当時の生麦村名主・関口次郎右衛門が目を通して手を入れ、一連の書き上げをともなった「生麦村騒擾記」は、私が「意外に正確」と思ったのも実は当然の、かなり筋のいい史料だったのです。
 これが無視され続け、かわりに薩藩海軍史が基本文献とされてきた経緯には、薩藩海軍史が尾佐竹博士の「生麦事件の真相」を、利用しながら黙殺したことにかかわってくるでしょう。

 ともかく、そういうわけで、とりあえずは順をおって、明治45年、久木村治休(明治45年の鹿児島新聞では知休となっていますが、明治14年の陸軍省の書類に「陸軍憲兵中尉久木村治休」とありますので、そちらをとりたいと思います。当時の新聞のいいかげんさは、尾佐竹博士もたびたび言及されています)、突然の「斬った斬った宣言」です。


 前回述べてきましたように、事件から50年たって、久木村が自分から言い出すまで、だれも久木村がリチャードソンを斬ったなどとは、いっていません。
 久木村は、重富島津家の領地、姶良郡の郷士でした。
 行列の鉄砲儀仗隊は、どうも主に、久光が息子の後見として島津宗家に復帰する以前から久光に仕えていた、重富島津家の郷士から人選されていたような感じを受けます。
 つまり、城下士で構成されていた駕籠直前の小姓集団(見届けに走った黒田清隆たちはここにいました)や、駕籠脇の近習たち(松方正義はここですし、伊東祐亨もここにいたといっています)より、身分として軽い集団だったのです。

 
 生麦事件考 vol1vol2で、考察したことですが、無礼討ちは、無礼討ちと認定されなければ、殺人です。そして、東海道を行く大名行列の無礼討ちを、だれが認定するかといえば、幕府です。
 奈良原喜左衛門は、供目付の職掌柄、最初から切腹覚悟でリチャードソンに斬りかかったのであり、全責任を一人で負うつもりであったと、いえるでしょう。
 喜左衛門の抜刀で禁制が解かれ、無数の藩士が抜刀し、斬りかかったわけですが、たまたま、喜左衛門をのぞけば、鉄砲儀仗隊の久木村一人しか、傷を負わせることができなかったわけです。
 しかし、それはたまたまであって、久木村を問題にするならば、抜刀した全藩士を問題にしなければならないでしょう。

 また、リチャードソン落馬後の斬殺にかかわった海江田信義と奈良原繁は、攘夷花盛りの京都で、斬った斬った自慢をしていたわけですが、自慢をするにも久木村は城下士ではなく、藩内に知れわたる、といったものではなかったはずです。

 そして、当然のことですが、事件直後の久木村が、自分が斬ったのがだれであるのか、知っていようはずもありません。いえ、斬った相手が死んだかどうかさえ、知りようもなかったわけです。
 これについて、久木村がもっとも正直に答えているのは、なぜか、もっとも遅い、昭和11年11月、事件から75年もたって久木村94歳、死の直前のサンデー毎日のインタビューです。

「これは後から聞いたことですが、私が斬ったのは、チャールス・レノックス・リッチャルトンという英国の商人で、川崎大師に参詣の帰途、運悪く行列に出くわしたものでした」

 「川崎大師に参詣の帰途」では、春山育次郎の話と同じで、リチャードソン一行は行列を追いかけていたことになってしまうのですが、なぜか日本で、一般にひろまっていた話のようです。
 それにしても、「後から聞いた」って、いったいだれが、久木村がリチャードソンを斬ったと、証言できるでしょう? 唯一の第3者の現場目撃証言である「生麦村騒擾記」は、「行列前方で斬られたのはマーシャル一人」としているんです。
 事件の50年後、久木村が自分から言い出すまで、だれも久木村がリチャードソンを斬ったとは、いっていません。
 以下、明治45年、鹿児島新聞に載った久木村の「斬った斬った宣言」です。

 「むやみに切るわけにもいかず、指をくわえてやり過ごして行くと、たちまち後列の方でがやがやと騒々しい物音がする。ハッと思ったとっさに、やったなと、刀の鞘に手をかけて振り向くと、一人の英人が片腹を押さえて懸命に駆けてくる。いよいよご馳走がやってくる。今度こそは……と思ったから、その近寄るのを待っている。馬上の英人は右の手で手綱をかきくり、左の手で左の片腹の疵口を押さえている。ちょうど近寄るのを待ち、構えて腰なる一刀スラッと抜き打ちに切った。刀は波の平安国の銘刀二尺六寸五分の業物で、おれのような小男にはちと長すぎるほどじゃった。が確かに手応えはあった。見るとやはり片腹をやったので真紅な疵口から血の塊がコロコロと草の上に落ちた。なんでも奴の心臓らしかった。
 今一太刀とおっかけたが先方は馬、わしは膝栗毛じゃからとても追いつかぬ。振り返ってみるとまた一人駆けて来る。ぞうさはない。例のぬき打ちの手じゃ。またやった。今度は右の片腹じゃ。こいつも追っかけたが、とうとう追いつかなかった。
 死んだ英人チャールス・レノックス・リチャルトソンというは確か先に切ったので、後に切ったのはウィリアム・マーシャルでこれは重傷じゃ」


 心臓がコロコロころがったら、生きてないだろうがっ!!!と、つっこみを入れたくなるんですが、これがどうも………、茶利とばかりもいえないんです。

 まず、久木村証言当時、すでに新聞連載されていたはずの「生麦村騒擾記」には、久光が休憩予定の藤屋の付近において、次のようなことがあった、と書いてあります。

なかにも重傷を負いたる一人の夷人は、馬の踊るに従って脇腹の傷口より朱に染みし綿のごときもの鮮血とともに迸り出でて地上に落ちしを、一頭の犬駆け来たりて海辺の方へくわえ去れり。

 実は、軽傷だったマーシャルも、神奈川において、「臓腑を落とした」と噂されたのですが、結局落ちたのは赤いブランケットだったという話で、当時の日本人は、こういう噂が好きだったみたいです。
 したがって、これも臓腑が落ちたものとは思えないのですが、ともかく、こういう目撃談が発表されていました。
 これに、事件の翌日、ジャパン・ヘラルドが掲載した、リチャードソンの遺体の損傷記事(同年11月28日にロンドン・タイムズに転載)をあわせれば、心臓コロコロも、けっしてありえない話ではないことになるのです。

古いむしろ2枚がかぶせてあり、それを取りのぞくと最も恐ろしくぞっとする光景が現れた。体全体が血の塊であった。はらわたの飛び出した一つの傷は腹から背中にわたっていた。左肩の傷は骨ごと胸まで切り裂かれていた。心臓部には槍の傷穴があった。右手首は完全に切り話され、手は肉片一つでぶら下がっていた。左手の後部はほとんど切り裂かれ、頭部を動かしてみると首は左側が完全に切られていた。最初に述べた二つの傷は明らかに初め馬上にいる間に受けたものであり、後の四つの傷、少なくとも二つは、死後でなくとも落馬後加えられたものであることは確かであった。

 事件直後だっただけに、このジャパン・ヘラルドの記事は矛楯をはらんでいます。
「はらわたの飛び出した一つの傷は腹から背中にわたっていた。左肩の傷は骨ごと胸まで切り裂かれていた」という二つの傷が、「明らかに初め馬上にいる間に受けたもの」であるならば、リチャードソンは、その場で落馬してほぼ即死し、以降、口をきいたりできる状態にはなかったでしょう。
 しかし、骨ごと胸まで切り裂かれていたならば、心臓コロコロもおかしくないのです。

 しかしなお久木村が、「やはり片腹をやったので」と述べていることについては、「生麦村騒擾記」の「脇腹の傷口より朱に染みし綿のごときもの鮮血とともに迸り出でて地上に落ちし」にひきずられて本人がしゃべったか、あるいは、記者がおぎなったものではないでしょうか。
 もちろん、最初に喜左衛門がリチャードソンにおわせた深手については、前回書いたように、「生麦村騒擾記」において「脇腹より腹部にかけて五、六寸(15~18センチ)」と書かれています。
 尾佐竹博士の記述からして、関口次郎右衛門家には、村役人たちのリチャードソン遺体検死の書き上げ(口述書)の写しが保存されていた様子で、だとすれば、「生麦村騒擾記」におけるリチャードソンの傷の描写は、かなり正確なものである、といえるでしょう。

 久木村の「斬った斬った宣言」から10年後、尾佐竹博士は「生麦事件の真相」を執筆したわけですが、やはり、このジャパン・ヘラルドの記事を持ち出され、喜左衛門に重ねて、久木村は「正面から左の脇腹へ十分に斬り込んだものとみえる」としておられます。
 しかし、ジャパン・ヘラルドのさらに詳しい後追い記事で、この傷を見れば、以下のように、あきらかに身体正面、心臓部分のものであり、左脇腹には関係ないのです。
 
 左側の鎖骨の約2インチ(およそ5センチ)下に、長さ約5インチ(13センチ)の横の創傷がある。それは中央の線から前後左右に伸びていて、二番目と三番目の肋骨を切断し、胸部に口を開けさせている。

 リチャードソン落馬後の据え斬りで、心臓をえぐり出したときの傷、と考えた方がぴったりきます。
 実は、ヘラルドの詳細な検死記事では、腹部に関係するものとして4つがあげられていて、もしも本当に、久木村がリチャードソンを斬ったものならば、こちらの方をあてるべきでしょう。
 一つは、前回述べたものです。

  軟骨の3インチ(およそ7.5センチ)下に、約3インチの長さの横の創傷。腹部に口を開けさせ、そこから大腸がはみ出ている。

 これにつけ加えて、あきらかに落馬後のものと見られる突き傷が二つあります。槍でやられたものらしく、この二つが上と重なり、日本側の話が、「脇腹より腹部にかけて五、六寸(15~18センチ)」と大きくなったものと思われます。

 「約3インチの長さの横の創傷」の4インチ(およそ10センチ)下および右側に1インチ(およそ2.5センチ)の刺し傷。腹部に口を開けさせている。

 腹部の1インチ上に長さ1インチの刺し傷。それは腹部に口を開けさせている。
 
 もう一つが大傷なのですが、これは背後からのものです。

 中央線の後方に始まり、肩甲骨の下部の角のほぼ反対側まで、左側のまわりの下方または外側に、腸骨の前にある上位棘状突起の約2インチ(およそ5センチ)上まで、ひじょうに大きな創傷。肋骨を切断し、そこから肺や胃の一部をのぞかせ、16インチ(およそ40センチ)の長さの大腸、小腸がはみだしている。

 つまり、これは背中の肋骨を、肺や胃が見えるまでに切断し、腸が引きずり出されていた、という記述なんですが、まずこれは、左脇腹というよりは、左背中の肋骨を切断した傷です。必死で馬で逃げているリチャードソンに、こんな重傷を負わせることができるものなのでしょうか。これも落馬後、左背後を袈裟がけに斬ったもの、と考えた方が自然でしょう。

 もう一つ、久木村が述べていないことを、尾佐竹博士は推測しておられます。

 「『馬上の英人は右の手で手綱をかきくり、左の手で左の片腹の疵口を押さえている』のを斬ったというから、名主の書上の異人疵所に、『左の腕甲二寸(6センチ)ほど』とあるのはこの時で、押さえた手の甲をも斬ったのであろう」

 この「久木村が左手もろとも斬っただろう」という尾佐竹博士の推測は、薩藩海軍史がそのまま踏襲します。 

 「リチャードソンは、切られたる創口を左手にて押さえ、右手に手綱を取て一丁(およそ100メートル)ばかり逃走せしが、鉄砲組の久木村利休のため、また再び左腹の同所を、左手の甲にかけて切付けられ」

  久木村利休という名前のまちがいもそのままに、尾佐竹博士の著作を写しているわけです。
 薩藩海軍史が書かれた昭和3年、久木村は生存しているんですが、さっぱり、話を聞き取った様子もありません。
 ただ、尾佐竹博士が、リチャードソンの左腹の大傷を、「二人が斬ったため複合してよくはわからない」としているのに対して、薩藩海軍史の著者は、どうも、ジャパン・ヘラルドの詳しい方の検死報告を読んでいたようです。

「奈良原(喜左衛門)は二尺五寸の近江大椽藤原忠広の一刀をもって、彼の左肩の下より斜めに、すなわち肋骨より腹部に切り下げ、血潮の分れて迸り出したるは、輿側よりも見ることを得たりという」

 つまり、薩藩海軍史は、ヘラルドがいう背中肋骨切断の大傷は、最初に喜左衛門が斬りつけたものとし、左脇腹の横の傷が、久木村が負わせたもの、としたわけです。
 たしかに、これで話がもっともらしくなった、といえばそうなのですが、喜左衛門が、リチャードソンの左背中の肋骨をほぼ縦に切断していたのならば、左脇腹の傷はこのとき、腸が出るほどのものではなく、リチャードソンが左脇腹を押さえて逃げていた、という話があやしくなります。
 さらに、肋骨が切断され、胃や肺が見えるほどの重傷ならば、この後、口をきいたりできたものなのでしょうか。

 そして、実はリチャードソンの左手の損傷は、ヘラルドによれば、相当なものでした。

 手指にはじまる左腕は、ほとんど完全に切断されている。

 以下は、マーシャルの宣誓口述書より、です。

 私は「逃げろ」と叫びましたが、私たちの馬が駆け出すまえに、リチャードソンは、すでに、わき腹の左腕の下を切られていました。同じ男は、次に私を襲撃し、左腕の下の同じ所を切りました。

 そして、以下は、リチャードソン落馬現場そばに住んでいた、大工の女房およしさんの口述書です。

 右落馬いたし候異人義は、並木べりへ倒れ候を見受け候ところ、左のわき腹に深手これあり、苦しみまかりあり候よう、あい見え候。

 リアルタイムの証言は、左わき腹の傷しか言及していませんし、クラークとマーシャルは、リチャードソン落馬直前に、リチャードソンと言葉をかわしているんです。
 背中の肋骨がきられて、胃やら肺やらが見えていたり、左手がほとんど切断されてとれかかっていれば、話がちがってくるのではないでしょうか。

 そして、後世の話になりますが、春山育次郎の「生麦駅」に書かれた、海江田信義からの聞き書きです。

 いかにも一人の外人腰のあたりを斬られしとおぼしく、畑の堤によりかかり、傍に生い茂る草をひきむしりて創口にあて、出血をとどめんとするさまなりしが、子爵(海江田)の来たり近くをみて、いたく驚けるが如く、狂いいらちてしきりに何事かいいたれども、子爵には少しもわからざりき。

 これに続けては、生麦事件考 vol3で詳しく見ましたが、奈良原繁の名前を出した上で、「英人の記する所」としながら、以下のようにあります。

 外人はただ一太刀あび馬より落ちたるばかりにて、こうむれりし創(きず)もさまで重からず、もとより生命を失うほどのことにはあらざりしを、後におよび、あらぬ人に訪はれて、終にあはれの最後をとげたり。

 海江田信義は、少なくとも春山に、「リチャードソンは一太刀しかあびておらず、傷は命を失うほどのものではなかった」と語り、それを春山がエッセイに書いたとき、訂正を求めた様子はありません。
 この傍証としては、真説生麦事件 上でぬき書きしました、那須信吾の書簡があります。

「秋頃、三郎様御東下、金川(神奈川)御通行のみぎり、夷人三騎、御行列先へ乗りかけ、二人切りとめ、一人は大分手疵を負いながらのがれ候。これに出合い候人数、海江田、奈良原喜左衛門が弟・喜八郎(繁)などの働きと承り候」

 土佐の那須信吾は、当時、京都の薩摩藩邸にかくまわれていて、海江田から直接話を聞いた可能性が高いのです。
 落馬後のリチャードソンに出くわした海江田信義、奈良原繁たちの当時の認識では、リチャードソンは生きていて、彼を斬り殺したのは自分たちだったのです。

 事件から50年も後に、いったいなぜ、久木村は突然、リチャードソンを斬った、と言い出したのでしょうか。
 長くなりましたので、続きます。

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生麦事件と薩藩海軍史 vol3

2009年02月17日 | 生麦事件
 生麦事件と薩藩海軍史 vol2の続きです。

 またまたうわーっ!!!です。

 
幕末異人殺傷録
宮永 孝
角川書店

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 私、以前にもご紹介いたしました宮永先生の上記の本を読みながら、どうも不思議な気がしていたのです。

 そもそも私が、この生麦シリーズを私が書き始めましたのは、明治40年から42年の間に、「横浜貿易新報」に連載された「生麦事件の始末」の内容が、意外に……、意外といいますのは、著者である元戸塚宿役人・川島弁之助の語り口が、講談調というんでしょうか、軍記調というんでしょうか、あまりに流麗で、嘘っぽい感じだったからなのですが、意外にも、傷を負って逃げ延びたイギリス人、マーシャル、クラークの口述とあまり矛楯しませんし、かなり正確なものだとわかり、目から鱗、だったからです。

 この「生麦事件の始末」がまとめられた経緯については、生麦事件 補足に詳しくぬきがきしております。
 事件当時に奔走した生麦村の年当番名主・関口次郎右衛門は、自分が書き留めたリアル・タイムの資料を、明治16年に記念碑を建てるとき、中村正直に貸し出し、そのままそれは帰ってきませんでした。
 生麦事件に関心を抱いていた川島弁之助は、自分が村民からの聞き書きをまとめたものを、次郎右衛門に見せ、その記憶によって訂正してもらった、と。
 
 著者は川島弁之助のはずなのです。
 ところが宮永先生は、関口次郎右衛門であるように、おっしゃっているんですね。
 で、この「生麦事件の始末」、大正15年に尾佐竹博士が出版された「生麦事件の真相」では、「生麦村騒擾記」になっています。検索をかけていてわかったんですが、横浜市教育委員会・文化財課が、平成4年に出した「生麦事件」というパンフレットでは、どうも「生麦村騒擾記」(明治28年)となっているらしいんです。
 ところがこの「生麦村騒擾記」、どこの図書館で検索をかけても、出てこないんです。さっそく、文化財課に電話をかけて聞いてみたのですが、わかりません。
 おそらく、なんですが、関口次郎右衛門が、川島弁之助がまとめたものの写しをとっていて、その写本をいうのか、あるいは、明治28年当時も村の資産家で名士だった次郎右衛門が、ごく少部数印刷したものなのか、なんでしょうか。
 これについては、調査継続しますが、とりあえず、明治28年当時のものは、印刷されていたにしても少部数で、それほど世間に影響がなかったものと、考えておきます。
 ただ、明治28年、日清戦争の勝利と同時に、幕末維新以来、日本の宿願となっておりました治外法権の撤廃が達成され、生麦事件についても、公に、自由に語れる条件は、整っていたのではないでしょうか。

(追記)
 明治28年の「生麦村騒擾記」は、やはり写本でした。どうも、尾佐竹猛氏は、その現物をごらんになって書いておられるようなのですが、「生麦村騒擾記」が「横浜貿易新報」に連載されました経緯、文章に変化はないのか、などについては、これから資料を集めて調べますが、ちょっと調べに時間がかかりそうです。
 
 時代は移っておりました。
 日清戦争(明治27-28)勝利の後、やがて日英同盟が結ばれ、日露戦争(明治37-38)の勝利を経て、関税自主権も完全に回復されようとしておりました。
 近代法が整備され、鉄道網は日本全国にわたり、数多い新聞雑誌の発行でマスコミュニケーションは発達し、近代国家日本は、はっきりとした形をとりつつあったのです。

 横浜開港50周年。
 それを記念した横浜貿易新報の特集で、「生麦村騒擾記」が載ります。
 これには、久光の行列本隊で、リチャードソンたちが無礼討ちにされた場面は、勇猛な正義の薩摩藩士武勇伝として描かれているのですが、リチャードソン落馬後のよってたかっての斬殺は、まったく別個のこととして扱われ、ものかげから見ていた里人たちは「身の毛よだち、身体ふるえ物言う事もならざりし」と、斬殺者は悪鬼のように語られています。

 日露戦争は、ロシア人捕虜のあつかいに細心の注意をはらった戦争でした。
 勇ましく戦い、しかし礼節を忘れず、傷ついた敵、降伏する者には寛大に。
 そういう理想の軍人像が、さまざまな報道を通じて、庶民の間でもすっかり根づいていた、といえるのではないでしょうか。
 「生麦村騒擾記」が、「生麦事件の真相」として新聞に載るにあたって、表現が書き改められたものなのかどうか、わかりません。しかし、弁之助の語り口は、当時の庶民感情にぴったりくるものではあったでしょう。

 そして明治45年、日英戦争50周年。
 鹿児島新聞の特集記事において、生麦事件当時、19歳(数えだと思います)で、鉄砲儀仗隊の一員だった久木村利休が、突然、「俺がリチャードソンを斬った!!!」と言い出すのです。
 突然も突然です。
 それまで、リチャードソン殺害にかかわって、久木村の名は、一度も出ていません。

 まず、もっともリアルタイムな証言としては、生麦事件考 vol2に書きました宮里書簡です。
 行列本隊の先を行っていた宮里たちが、逃げていく異人3人を見て、大変なことになったと引き返しかけたところ、駕籠直前の中小姓集団にいた黒田清隆と本多源五が異人を追いかけてきたのに出会い、「何が起こった?」とたずねたところ、次のように答えた、というのです。

 「奈良原喜左衛門殿、御供目付のことゆえ、一人を斬り殺し、一人に手負わせ申し候」

 奈良原喜左衛門が供目付だから、異人一人を斬り殺し、一人に手負わせた、というのですね。
 もう一つ、かなり近い時点での書簡に、那須信吾のものがあります。こちらは、新説生麦事件 上で、ご紹介しました。
 当時、京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾が、家族に書き送った聞き書きです。

秋頃、三郎様御東下、金川(神奈川)御通行のみぎり、夷人三騎、御行列先へ乗りかけ、二人切りとめ、一人は大分手疵を負いながらのがれ候。これに出合い候人数、海江田、奈良原喜左衛門が弟・喜八郎などの働きと承り候

 これまでずっと書いてきたところで、海江田信義と奈良原繁は、行列本隊にいてリチャードソンたちを無礼討ちしたのではなく、落馬後のリチャードソンを斬殺したことは、わかっていただけたかと思いますが、ここで斬られた異人の人数は三人になっています。二人死んだ、という誤伝が入ってはいますが。
 海江田と奈良原繁のこの「俺たち二人も斬り殺したんだぞ!!!」という自慢については、一度ふれましたが、実は、落馬後、蘇生したリチャードソンは、少なくともすぐに死ぬような状態ではなかったのではないか、と思われ、このことについては、後に再度書きます。
 ともかく、ここでも久木村の名はあらわれません。

 そして、明治25年の市来四郎の史談会速記録、明治29年の春山育次郎の「生麦駅」、ともに久木村の名は出てきません。
 市来四郎は現場にいませんでしたが、春山は、少なくとも虐殺現場にはいた海江田信義から話を聞き、書いているのです。
 そして、春山のエッセイ発表当時、もちろん海江田はまだ生きていたのですから、自分の名を出したエッセイに文句があるならば、当然、抗議したはずなのです。

 もう一つ、はるか後世のものながら、事件当時現場にいたものが、確認したと思われる記録があります。
 大正期、松方生前時から編纂されはじめた『侯爵松方正義卿実記』です。大正10年には、大正元年まで書き上がっていて、途中、松方本人が目を通しているそうで、当然、幕末期のものは松方のチェックを経ている、と考えられます。fhさまからいただきました情報です。ありがとうございました。
 で、そこで生麦事件は、このように書かれています。

 八月二十一日巳刻公高輪藩邸を発して帰国の途に上る。侯(松方)すなわち公駕(久光の駕籠)の右側に扈従す。途生麦に到るや、騎馬の英人其行列を犯し、先駆の士之を制すれども言語通ぜず。奈良原喜左衛門ついにその一人を斬り、二人を傷く。喜左衛門は温厚篤実沈着剛毅にして、真勇あるの傑士なり。

 つまり、松方は、生麦事件発生時、近習番として久光の駕籠のすぐ右側にいたのですが、その彼の見たところでは、 「奈良原喜左衛門ついにその一人を斬り、二人を傷く」だったのです。

 もちろん、これは久木村が「俺がリチャードソンを斬った!!!」と宣言した後の話ですが、まったくそんなことは書いていません。
 非常に慎重な書き方で、「一人を斬り」はもちろんリチャードソンなのでしょうけれども、斬ったとあるのみで、殺したとは、ありません。
 駕籠脇の松方の位置からでは、駕籠前の中小姓集団にさえぎられて、100メートルも先の久木村は見えなかったでしょうし、当然、およそ1キロ先のリチャードソン落馬地点の斬殺など、見えようもないのです。
 松方が実際に見たことに、記述がしぼられているわけです。

 では、「二人を傷く」は、どうでしょうか。
 当然、これは、マーシャルとクラークなのでしょうけれども、喜左衛門がリチャードソンのみならず、残りの二人も傷つけた、ということは、ありえません。
 第一、事件直後の黒田たちは、「喜左衛門どのが、一人を斬り殺し、一人に手負わせた」といっていたんです。生麦事件考 vol2で見ました通り、落馬直後のリチャードソンを、同行していたマーシャルは死んだと見、そのすぐ後に通りかかった黒田たちも、死んだと見ていたから、なのですね。

 薩摩藩が、「死んだのは一人で、二人傷を負った」という正確な情報を得たのは、幕府との交渉の過程と思われますが、いつから藩士たちがそれを知ったか、ということは、個々の藩士によってもちがうでしょうし、まったくもってわかりません。
 おそらく、なんですが、松方がそれを知った時点で、自分の見たことを思い返して、「喜左衛門どのが一人を斬り、二人を傷つけた」という認識に、なったのではないでしょうか。
 クラークとマーシャルがどこで傷つけられたかは、本人たちの宣誓口述書が、一番正確でしょう。真説生麦事件 下で書きましたが、マーシャルは、「最初にリチャードソンに斬りつけた男に自分も斬られ、その後は、斬られていない」と言っていますので、喜左衛門がマーシャルを傷つけたことは、事実なのでしょう。
 しかし、クラークは、「馬首をめぐらせて逃げていて、前から向かってくる鉄砲儀仗隊に斬られた」と言っているんです。

 混雑した現場での見間違いは、生麦村住人にもあります。
 「生麦村騒擾記」の弁之助の語りは、事件現場が目の前だった、豆腐屋・勘左衛門からの聞き取りです。
 勘左右衛門の家は、行列の進行方向からいえば右側にあり、喜左衛門は久光の駕籠の右後方にいた、という話がありますので、駕籠に向かってくるリチャードソンの右側から、リチャードソンの身体の左側に斬りつけたとすれば、傷の状態ともあいますし、勘左右衛門は、これを目の前で見たことになります。

 しかし、松方の位置からするならば、中小姓集団がリチャードソンに殺到したわけですから、それにさえぎられて、よくは見えていなかった可能性が高いでしょう。
 しかも、マーシャルとクラークの証言からするならば、リチャードソンのすぐ後ろには、ボロデール夫人がいたわけです。
 おそらく、なんですが、道の真ん中を進んでいたリチャードソンとちがって、ボロデール夫人は不安になり、行列の進行方向からは右(自分たちの進行方向からは左)によっていたとしますと、勘左衛門の家の手前で、馬をとめたのではないでしょうか。

 勘左衛門からの聞き取りでは、リチャードソンに対して、喜左衛門は「雑踏の中なので自由にならず」、二度刀をふるっているんです。最初は浅手しか負わすことができず、次いで「二の太刀鋭く脇腹より腰部へかけて五、六寸」です。
 実は、宮永先生の「幕末異人殺傷録」に、ジャパン・ヘラルド紙から、リチャードソンの遺体の詳しい検死結果が和訳されているのですが、この浅手に相当するような傷が、載っているんです。

「左の上腕の中程に斜めに横の槍傷。下方より外側に伸び、二頭筋を切断。しかし、骨は無傷」

 二太刀目は、位置が勘左衛門の言う通りだとすると、長さは半分くらいなのですが、これになります。そして、落馬直後のマーシャルの目撃談や、村人、海江田の目撃談とも、これならば一致します。

「軟骨の3インチ下に、約3インチの長さの横の創傷。腹部に口を開けさせ、そこから大腸がはみ出ている」

 この左腹部は、落馬後にも幾重にも傷つけられ、わかり辛くなっていたようですから、「肩より腹へ」という奉行所役人の覚え書きともあわせますと、右肩の下あたりから腹部にのびて、もう少し長かったものとも考えられます。
 喜左衛門がリチャードソンに与えた傷については、尾佐竹博士も考察しておられるのですが、博士は、私が見つけることができないでいる、生麦村名主・関口東右衛門と次郎右衛門の検死口述書から、最初の傷が「左の肩先腕へかけ四寸ほど」で、二太刀目が「左の腹大傷」ではないかとの推測で、イギリス側検死とほぼあうようです。

 というわけで、勘左衛門の目撃が正確なら、松方は、喜左衛門がリチャードソン一人にあびせた二太刀を、小姓集団にさえぎられて、二人を斬った、と見誤っていたのではないでしょうか。
 
 斬られたリチャードソンの10ヤード(9メートル)ほど後ろには、マーシャルとクラークがいました。
 クラークはいち早く逃げ出しますが、殺到してきた鉄砲儀仗隊の一人に、肩を斬られます。
 一方、マーシャルが喜左衛門に斬られた理由なんですが、傷ついたリチャードソンが、おそらく、馬を右旋回させて逃げ出した後、取り残された親戚のボロデール夫人を気遣い、リチャードソンがいた位置まで、進んでしまったのではないでしょうか。
 ボロデール夫人は、馬を右旋回させるために少し前へ進み、道脇ですので勘左衛門の視界をさえぎったのでしょう。

 逃げ出したリチャードソンを追って、中小姓集団はばらけていたでしょう。
 行列進行方向に対して、ボロデール夫人が右端にいて右旋回(ボロデール夫人のむきからいえば、です)しようとしたとします。それを気遣ったマーシャルは、左よりに進んで、ボロデール夫人の後を左旋回で逃げるのが自然でしょう。
 喜左衛門は、自分の向かって左手から、右によせてマーシャルがまわろうとしているのを見て、向かってきていると思い、マーシャルが身体の左側面を見せたときに、斬りつけた、ということになります。
 中小姓集団がばらけたこともあって、今度は、松方の方がよく見えて、ボロデール夫人に視界をさえぎられた勘左衛門には、別の人物が斬ったように見えた、のではないでしょうか。

 そして、久木村と思われる鉄砲隊の一員が、クラークを斬ったのは、喜左衛門の位置よりおよそ100メートル先なのです。松方と同じく、勘左衛門にも、これは見えていなかったわけでして、目撃した生麦村住人は、別にいたでしょう。話をつぎあわせて、クラークとマーシャルを取り違えたものと思えます。

 松方は、実際に自分が見た範囲のことしか、語っていません。
 当然、そこに久木村は出てこないのですが、生麦村住人の目撃談でも、「鉄砲隊に斬られたのはマーシャル(実はクラーク)だけで、リチャードソンは久光の駕籠近くで斬られた後、耐えて逃げたが、およそ一キロばかり先で落馬して殺害された」となっているんです。
 そして、「喜左衛門はリチャードソンを斬っただけで、殺していない」という点において、松方の見解と村民の目撃談は、一致しています。
 
 長くなりましたので、次回に続きます。


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生麦事件と薩藩海軍史 vol2

2009年02月15日 | 生麦事件
 生麦事件と薩藩海軍史 vol1の続きです。

 関係ないんですけれど、もてない甥にチョコレートを贈りまして、ついでに小さな3個入りを長岡さまにもおすそわけし、自分でも買って食べたんですけど、この3個入り、真ん中はきれいな朱色に染められたハートのチョコレートでして、とろりと、淡いピンクのラズベリー・シャンパンクリームが入っているんですわ。
 「まっ!!! 久木村の茶利に出てくる、コロコロころがったリチャードソンのハートみたい!!!」と思って、おいしくいただいた私は病気です。
 いや、モンブラン伯爵にしてインゲルムンステル男爵の国、ベルギーのチョコですしい。(バレンタイン期間限定のピエール・ルドンです)

 そういえば、尾佐竹博士の「幕末外交秘史考 」には、「仏人モンブラン新説書」という項目もありまして、慶応3年、モンブラン長崎講義の聞き書き、みたいなものが収録されているんです。尾佐竹博士、大好きです!!! できることならば、あなたにぜひ、ベルギー製、リチャードソンのハートチョコを差し上げたいですわ。

 さて、本題です。
 海江田信義の口述本『維新前後・実歴史伝』は、なぜ、「リチャードソン介錯の場面」をはしょったか。
 もちろん、それが「介錯といえるようなものではなく、よってたかっての斬殺」だったからです。

 リチャードソン落馬後の斬殺は、薩摩藩にとって、非常にやっかいな問題をはらみ続けてきました。生麦事件考 番外2でみましたように、久光の指揮、命令によるものと、イギリス側が受け取っていたから、です。
 事件の翌日のニール代理公使の本国への報告、幕府への訴えからして、十分にそれを匂わせるものでしたが、英字新聞にいたっては、久光が直接手を下した、と書き立てるものもありました。
 以下、尾佐竹博士の「生麦事件の真相」から、モッスマンの記事の和訳です。

 約10分にして島津三郎の行列来たりたり。しかして担夫どもは三郎の乗り物を瀕死人の横たはりたる反対の所に下したり。村民たちの陳述によれば、彼はその侍者のある者に、彼らがなにを眺めおりしかをたずねたり。しかして彼らは負傷外人の一人なりし旨を答えたり。ここにおいて、かの残忍なる怪物は、彼らに氏をひと思いに斬るよう命じたり。時にかの残忍なる兇暴徒は、その犠牲を抜刀にて襲いたり。しかして、氏(リチャードソン)が勇敢にできえるかぎり抵抗を試みたりといえども、彼らは氏の咽喉を切りて、ほとんど氏の頭を切り去りたり。かつ氏の死したる後も、なお数か所を刺したり。

 リチャードソン落馬後、おそよ10分で久光の行列が来た、というのですから、完全に誤解していますね。
 藤屋でのお茶休憩を考えず、事件現場から落馬地点までの距離からすれば、たしかにそんなものだったでしょうし、海江田が駕籠に乗っていて、その場の最上位者に見えたことは確かでしょうから、通訳をまじえての生麦村民からの聞き取りで、イギリス人たちは、あきらかに、海江田を久光ととりちがえたのです。
 そして、マーシャルは落馬後、リチャードソンは死亡したように見えた、と証言したわけなのですが、死んでいなかったことも、確かめられていたことになります。
 で、ジャパン・エックスプレスの記事になりますと、久光が自ら殺した、と受け取れるようになります。

 この瞬間に一挺の乗物止まりたり。しかして乗り手は、面倒事はなになりしぞと問ひたり。彼は単に一外人のみと答へられたり。この人は乗物より出て、しかして数傷を加えたり。そのとき氏(リチャードソン)が致命傷を受けたるなりと見らる。

 海江田信義は実際、奈良原繁たちとともに手を下していたわけなのですから、聞き取りようによっては、駕籠の人物が自ら手を下した、となってくるのは当然なんです。
 しかも、こちらの記者は、リチャードソンはそれまで致命傷は受けておらず、落馬後に斬殺された、と断定したようです。

 海江田は、イギリス人たちに、自分が久光だとまちがわれ、久光の斬殺命令節が流布していたことに、気づいていたでしょうか。
 おそらく………、まったく気づいていなかったのではないでしょうか。
 『維新前後・実歴史伝』の斬殺部分のはしょり方が、あまりにも無神経だからです。
 リチャードソンが道端で腰の血をぬぐっていた場面から、あろうことか、突然話は駕籠の中の久光にとび、それで尻切れとんぼに終わるのです。
 これではまるで、リチャードソン落馬後の斬殺に、久光がかかわっていたと、暗示しているようにも受け取られかねません。

 生麦事件考 番外2で書きました市来四郎の史談会での発言は、『維新前後・実歴史伝』が出版された直後、明治25年12月のことです。
 市来四郎が、斬殺は決して久光の命令ではなかったことを力説するとともに、生麦事件考 vol3で書きましたように、「今の繁(沖縄県知事)は、先供でござります。兄なるものが斬りつけたから、助太刀した位なことに聞いております。ほかに三、四名も楽み半分に切試したということでござります。そういうことで、誰れが斬るとも知れず、ずたずたにやったそうです」と、薩摩藩内でタブーとされてきた落馬後の斬殺に触れたのは、海江田信義への怒りでしょう。
 「久光公が死去された今となっても、奈良原兄弟をかばい、久光公に責任を負わせるのか!!!」ということだったのではないでしょうか。

 で、海江田はこの速記録を読み、すぐにではないのでしょうけれども、イギリスの久光公斬殺命令説は、自分のせいだったのだと、気づいたのだと思います。

 そして、明治29年、春山育次郎が太陽に発表しましたエッセイ「生麦駅」は、奈良原喜左衛門を貶めるような市来四郎の発言への反論であると同時に、海江田信義の告白として、書かれたのではないでしょうか。

 尾佐竹博士は、「生麦事件の真相」において、この春山のエッセイを「海江田信義子爵の談」「薩摩側の有力な人の実歴談」という書き方をしていまして、薩藩海軍史が、この表現を踏襲したことはあきらかです。
 春山のエッセイに、「久光の行列が江戸を出発するとき、供目付だった海江田と喜左衛門は、外人が行列に無礼をはたらいたら、そのとき当番だった方が目にものみせてやろうと、約束をかわした」というようなことが書いてあるのですが、薩藩海軍史は、それをほとんどそのまま写して、「海江田信義実歴伝及直話」としてあるのです。

 春山の「生麦駅」は、名エッセイです。
 私、春山の筆になるものは、少年読本の桐野の伝記と、野村望東尼伝しか読んだことがないのですが、これらの長編よりもはるかに、熱く、時代の息吹が感じられたのです。
 「海江田の実歴談」というには、実証的ではなく、リチャードソン一行の通った方向をまちがえていたりしますし、情緒的な書き方をしているのですが、しかし、なにか妙に、生々しい迫力があるんです。
 それは、実際に春山が、海江田に直々に訴えられた心情に動かされて、筆をとっていたからではないのか、というのは考えすぎでしょうか。

 生麦事件考 vol3で詳しく見ましたように、春山は「英人の記する所」として、海江田と奈良原繁たちの斬殺を明示しているのですが、イギリス人のいう「あらぬ人」とは、久光公ではなく自分だった、という、海江田の告白でもあったわけです。

 しかし、海江田はどうも、イギリス人の錯誤の要因の一つが、久光の藤屋のお茶休憩にあったことを春山に説明していなかった様子で、春山は、リチャードソンたち一行が行列の後ろからやってきて後ろへ逃げ、海江田が行列の後ろを進んでいたものと、誤解したのではないでしょうか。
 久光がお茶休憩をした藤屋が、リチャードソン落馬地点の手前にあったことがわからなければ、なぜ海江田と奈良原弟が、行列に関係なく斬殺を行ないえたのか、理解できなくなってしまうのです。

 春山は、このリチャードソン逆進行説をも「英人の記する所」としているわけなのですが、尾佐竹博士いわく、「そんなことを書いているイギリス人はいない」そうなのです。実際、私がさがせた範囲でも、ありません。
 むしろ、日本人の間でひろまっていた誤解の一つに「異人たちは川崎大師に参った帰りだった」というのがありまして、帰りならば後ろから追い越そうとしたことになりますし、もしそうだったとすれば、行列に遅れて進んでいた海江田が、行列に関係なく落馬現場に行きあわせたことが、自然なことになるわけです。


 そして、時代は日清戦争を経て、変わってきています。しだいに、武士の習わしよりも、近代軍隊の掟の方に、世間もなじんできていてたでしょう。
 春山が正確にいつの生まれかわからないのですが、子供のころに鹿児島で、明治6年政変以降の桐野を知っていた、という話ですから、少なくとも物心ついたときには、明治だったはずです。
 そういった中で、戦闘能力を失った者の斬殺は、元薩摩藩士全体の名誉にかかわることです。その主体だった海江田本人が、はっきりそれを明言したとすることは、はばかられたのでしょう。

 次回はいよいよ、明治45年の久木村の「斬った斬った宣言」について、考えてみたいと思います。


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生麦事件と薩藩海軍史 vol1

2009年02月14日 | 生麦事件
とりあえず、生麦事件考 番外2の続きなんですが、真説生麦事件で追記しましたところの長岡さまにご指摘いただいた、鹿児島新聞明治45年の久木村の記事が、ようやく届きまして、再考してみたいと思います。

 久木村のインタビュー記事は、上記、鹿児島新聞のものの他、昭和11年に雑誌「話」載ったものと、サンデー毎日に載ったものと、なんとか三つはそろえたのですが、どうも、まだありそうな感じがしないでもなく、ちょっとあれなんですが、それよりなにより、私が、薩藩海軍史の著者が考えたのではないか、と最初に推理した「久木村の不自然なリチャードソンへの二太刀目」は、「名主の書き上げ」と英字新聞に載ったリチャードソンの遺体の損傷から、尾佐竹博士が推理したもので、薩藩海軍史はそれをまるうつしにした!!!にすぎなかったのです。
 もちろん、それは、明治45年、久木村の「斬ったぜい! 心臓ころころ」発言があったからこそ、なのですが。

 明治大学「尾佐竹猛展」 尾佐竹猛著作リスト

 PDF書類でして、4ページ目になるんですけれども、「国際法より観たる幕末外交物語 附、生麦事件の眞相その外」が、文化生活研究会より、大正15年(1926)に発行されていまして、昭和3年から4年(1928-29)にかけて発行された薩藩海軍史よりも、2~3年早いんです。

 私が見ておりますのは、昭和19年発行の幕末外交秘史考 (1944年)に収録されたものなのですが、とりあえず、内容にほとんど変化はないものと考えておきます。
 「国際法より観たる幕末外交物語」は、昭和5年(1930)にも再版されていて、こちらは近くの図書館にあるようですので、そのうち確かめます。

 ともかく、尾佐竹博士は、この「生麦事件の真相」のはしがきにおいて、以下のように述べておられます。

  いよいよ(生麦事件の)研究に着手してみると実にすくなからざる幾多の難問題に遭遇したのである。一体とっさの出来事というものは、割合に真相を得難いもので、簡単であるだけ人の見分や記憶は区々であるので、一例を挙げると、私が先年岐阜で板垣伯遭難の事実を研究した際にも、実地にのぞみ、種々の書類なども調べてみたところ、なかなか判らなかった。また往年星亨遭難の際も、都下の新聞記事が区々であった様なものである。
 それに生麦の出来事は薩藩にあっては自慢話に花は咲いた様であるが、幕府に対しては事を曖昧にした様の形跡あり、一体にどの事件でも加害者側はなるべく事を自己に利益の方に主張するの傾きあり、被害者側はこれに反してなるべく加害者の暴状を吹聴したがるものであるのに、この事変の様に国際問題となっては、さらに外交のかけひきのため、事実は幾重にも歪曲された様な節も見え、また攘夷説の勢いのよい時代には薩藩士中にも誇張的に盛んに手柄話をしたようであるが、時運一変して薩藩の有力者が廟堂に立ち、今度はあべこべに外人崇拝時代となっては、我邦(わが国)にも左様な野蛮未開な時代がござったか、などという顔をする時勢となっては、ますます事件の真相は解らなくなり、ようやく史学独立の気運が向いたころになると、実歴者もおおむね地下の人となり、史料も散逸するという有様であるから、いよいよ真相を補足することができなくなったのである。


 うー、おっしゃる通りなんですが、大正末年にそうであったものが、現在はどうなんですかね。つけ加わった史料はごく少なく、博士が御覧になった生麦村村役人たちの書き上げ書(口述書)、どこにあるものやら、見つけられないんですけど。

 ところで、まず、事件の直接の当事者で、最初に事件を振り返って本を出したのは、海江田信義です。
 
海江田信義の幕末維新 (文春新書)
東郷 尚武
文藝春秋

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 上記の本によれば、その経緯は以下の通りです。

 帝国議会の開設により、日本の新しい政治体制は確立されたが、明治維新から早、四半世紀の月日が過ぎ去ろうとしていた。維新前後に際会して国事に奔走した人達も老境に入りつつあった。
 このような時代背景の中で、海江田は多年自ら関係し見分した国事について口述し執筆させて、明治24年9月から25年10月にかけて『維新前後・実歴史伝』として出版した。


 で、これは、長岡さまに教えていただいたことなのですが、この『維新前後・実歴史伝』、薩藩海軍史の以下の記述からしますと、生麦事件の描き方が、非常に奇妙なのです。

 リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で、久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさしたのは、海江田信義であった。

 どう奇妙かといいますと、肝心な「介錯をした」がさっぱり出てきませんで、『維新前後・実歴史伝』での海江田は、まるで傍観者のようなのです。

 久光の行列が生麦村を過ぎようかとするころ、海江田は駕籠に乗って行列の先導をしていましたところが、女性一人を含む4人の外人が正面から来るのに会い、すれちがってしばらくすると、男女三人が後ろから引き返してきて、男は二人とも血を流していました。
 以下、原文を引用します。
  その一人はすでに馬上より斬り堕とされ、路傍の土畔に横臥して、手自ら腰間の出血をぬぐいつつあり。
  しかして儀仗は這般の変事を見て一時騒然たりしか、久光公は輿上に瞑目して神色自若たり。


 海江田が外人に出会って、その外人がひっくりかえして逃げくるまでの描写は、行列の先を行っていた海江田の視点で書かれているんですが、そこからおかしくなり、引き返さなければ見るはずのない、落馬したリチャードソンが描かれて、負傷して腰の血をぬぐっています。そして、その後どうなったのかはさっぱり描かれず、突然話は、「行列が騒然となった中で、久光公は駕籠の中で目を閉じ、悠然としていた」と、飛ぶんです。しかも、これで終わりです。

 海江田はもちろん、そのときの久光公の様子など知りようもありません。
 ところが、この最後の一文は、そっくり、薩藩海軍史が使っているんですね。

 しかして儀仗はこの変事を見て一時騒然たりしが、久光公は輿中に瞑目して神色自若たり。

 もちろん、行列のはるか前方にいてリチャードソンを介錯した海江田の話としてではなく、近習番として駕籠のそばにいた「松方正義の直談」として、なのですが。
 松方正義の日記は、前後がそろっていながら、なぜか、生麦事件が起こった文久2年が欠けています。
 で、薩藩海軍史の著者はなにを見たかといえば、「実談」というのですから、「松方文書」に残る「松方正義の口述した聞取り」ノートなのでしょうけれども、これに残っている該当文は、ちょっと表現がちがいます。

 久光公輿中にて刀の鞘止を取るのみ従容自若たり。

 いったい文久2年の松方の日記がいつなくなり、聞き取りノートがいつとられたものなのかもわからないのですが、あるいはノートの一部は、松方が日記を見ながら口述した、ということも考えられるのではないでしょうか。

 で、『維新前後・実歴史伝』が書かれた明治24~25年には、まだ文久2年の松方日記は、あったはずです。
 「口述本」とはいっても、海江田が述べることだけでは、本になりようがありません。通常、こういう丁寧な口述伝記本を作る場合、著者は、口述本人の日記や書簡だけではなく、できれば他の人の記録も見て、全体像をつかみ、口述をあてはめていくものです。
 憶測にすぎませんが、幕末のこのあたりの記述にあたって、『維新前後・実歴史伝』の著者は、海江田の紹介で、松方に日記を見せてもらった、という線もありではないか、と思ったりします。

 「松方文書」において、文久2年のものは、他に、以前に引きました「沙汰書」が残っておりまして、これは、「松方への沙汰書を編年体で綴ったものを中心として、その間の事情を箇条書で記したもの」なのですが、箇条書きの説明書きについて、これは私ではなく、fhさまが推測してくださったのですが、日記に書かれていたものではないか、ということです。
 つまり、文久2年の松方日記がかなり後まで存在した、ということの傍証にならないでしょうか。

 で、次回は、市来四郎の史談会速記録を受けて、春山育次郎が描いた「海江田にとっての生麦事件」を再びとりあげ、実は薩藩海軍史が「海江田信義実歴史伝及直話」といっているのは、明治29年、雑誌「太陽」に載った春山のエッセイそのものであったことを、追ってみたいと思います。
 なんといいましても、イギリス側が追求した「久光の命令」に、海江田は大きくかかわっていたわけなのですから、この人が生麦事件の実像を攪乱した側面も、あるんです。


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生麦事件考 番外2

2009年02月13日 | 生麦事件
 ちょっと今回は、補足といいますか、覚え書きなんですが、また生麦です。

 あいもかわらずうかつなんですが、見落としてました。
 前回の生麦事件考 番外で書きました「落馬後のリチャードソン斬殺をえらい人(久光)が指揮した」件です。
 尾佐竹氏は、英字紙(日本で発行されていたもの)が書いている、としていたんですが、なんと事件の翌日、イギリスのニール代理公使が、すでに本国にも書き送ってますし、幕府にも訴えていますわ。
 なるほど、それで、3日後、神奈川奉行所の三橋さまが、お茶屋のふじさんとよしさんから、話を聞き取ることになったんですね。

  四名の者は無法にも後退することを命ぜられたのでありますが、貴人従者の乱暴をさけるために、彼らは命ぜられた通りにしました。しかるに、彼らはそのとき野蛮にも襲撃され、婦人のみは、刺客に切りつけられ、追跡されながら、奇跡的に難を免れましたが、二名の紳士、マーシャル、クラーク両氏は重傷を負い、リチャードソン氏は残忍にめった切りにされ、瀕死の状態で、あるいはすでに絶命して、地上に横たわっていたところ、乗り物に乗っていた上官の命令で、従者にのどを切られたのであります。行列は、その残酷なる主君を取り囲んで、去っていきました。

 「彼らは命ぜられた通りにしました」は、マーシャルとクラークの宣誓口述書を読めば、ありえない話とわかるんですが、それより、えっー! 「後退することを命ぜられた」って、わかってたんですか………。

 そして、これではたしかに、「乗り物に乗っていた上官」が、久光だと誤解されるような表現ですね。
 要するに、久光が、リチャードソン落馬地点の手前の藤屋で、お茶休憩したことを知らないものですから、行列はずんずん進んでいて、リチャードソンが落馬した直後に、久光の駕籠がそばを通りかかって、斬殺を命令したように誤解したんですね。

 事件の翌日にニール公使がこう書いているってことは、ウィリス医師たちが、生麦村の茶屋のそばまで出かけ、リチャードソンの遺体を引き取ったとき、すでに一行のだれかが、生麦の住人から「駕籠に乗ったえらい人が命令していた」と聞いたんでしょう。
 「乗り物に乗っていた上官」とは、海江田信義のことですわね。非番ながら、供目付だったわけですから。

 市来四郎が、奈良原兄弟が一体であったかのように誤解した経緯が、わかる気がします。
 本日、長岡さまに史談会速記録のコピーを届けていただきまして、ありがとうございました。
 これにおいて市来は、久光は後年、こう語っていたとしています。

「生麦の立場近く行列を立ててやって行くところに、供頭の奈良原喜左衛門という者が、駕籠側におりましたが、異人かという一声かけて、先供の方に駆け出して行ったから、定めて外国人がやって来るから、行列を縮めるかどうかであろうと、何心なく聞いていた」

 そのまま駕籠が止まって、あまりに長いので、近習に「なにごとか」と聞いてもわからない。しばらくすると駕籠が動き出したので、駕籠から顔を出して見ると、行列先で騒いでいる。駕籠側の供頭に「喧嘩でもしたか」と聞くと、「異国人を切りましたそうです」との答え。
 そのまま進んで、駕籠の中から路上を見ると、血は流れていたが、死骸なんかなかった。死骸がないから、斬られてどこかへ逃げたのだろうと思っていた。
 ほどなく藤屋に着いて、茶を飲んでいると、「異国人が行列に踏み込みましたから、奈良原喜左衛門など、三,四名の者が斬り捨てました」と報告があった。

 ごく簡単にまとめると、以上なんですが、「先供」といいますのは、これまで見てきましたように、久光の行列の本隊、というわけでは、ないんです。

 市来四郎は、大きな勘違いをしています。どういう勘違いかといいますと、奈良原兄が異人を斬って、斬り留め損なったので後を追いかけ、弟たち先供数人の助力を得て、リチャードソン落馬地点でとめをさした、と思いこんでいたんです。
 おそらく、なんですが、ニール代理公使が語っているような、イギリス側の見解を聞いて、斬殺現場の「乗り物に乗っていた上官」が、喜左衛門だと断定したんでしょう。先に行っていて引き返してきた海江田信義だとは、思いもよらなかったようです。
 で、久光は藤屋につくまでに遺体は見ておらず、斬られた異人たちは逃げたと思って、藤屋でお茶休憩をし、そのときにリチャードソン斬殺の報告を聞いたのであって、まったく斬殺は知らなかったのだ、命令などしたわけがない、と言いたかったわけです。
 
 実は、私がニール代理公使が事件の翌日すでに、「乗り物に乗っていた上官」に言及していたと気づいたのは、「横浜市史 資料編5」収録のE・H・ハウス著「日本史」よりの「鹿児島賞金事件」を読んだからです。

 E.H.ハウス 「全国宅配小新聞えんじゅ1号」掲載 不動武志著

 上のサイトさんに詳しいのですが、 E・H・ハウスはアメリカの記者で、万延元年の遣米使節団との出会いで日本に興味を持ち、明治2年に渡日し、結局は日本に永住することとなった人です。
 「鹿児島賞金事件」は明治8年4月に東京で書かれたもので、古風な日本語訳ですから、かなり古くから訳されていたのでは、と思うのですが、生麦事件の研究において、あまり顧みられてないみたいですね。

 これにおいて、ですね、「9月15日のイギリスの第一報は、短い文なのに、事実にあわないことを三箇条、あたかも本当のことであったかのように書いている」といって、その一つとして、「乗り物に乗っていた上官」の件を挙げていたんです。しかし、まあこれは、単なる「上官」だとすれば、その場に海江田が駕籠でいたことは事実ですから、根も葉もないこととも、いえないですね。

 ハウスの著述でおもしろいのは、これが書かれた当時、行列に参加していた薩摩藩士が、複数、新政府にいたわけでして、彼らから聞き取りをしていることです。
真説生麦事件 下で、弁之助の話をもとに再現しました様子が、裏付けられます。

 リチャードソンたちが前駆を押しのけて通り、次に、久木村が猩々緋の羅紗でおおわれた鉄砲を担いでいた、駕籠前の鉄砲儀仗隊です。
 百名が2列縦隊になって、整然と進んでいて、この儀仗隊が左右に分かれるわけがありませんから、クラークいわく「道路の左はじを通行」、弁之助いわく「人なき巷を行くがごとく」で、いったい、狭い道でどんな感じだったのだろう、と思いましたら、鉄砲儀仗隊の先頭の指揮者が、とっさに、真ん中を通っていた2列縦隊を左によせたんだそうです。

 この隊列の先頭に立ちたる一士(今はこの人政府中の高官に昇れり)、外人の来たるを見て自ら左傍に避け、かつ隊列をして、ことごとく路の一側にかたよって進ましむ。

 そして、おそらくこれは、駕籠前の中小姓たち(数十名)の一人だったのではないか、と思うのですが、「憤りを押さえて道端によけたのに、リチャードソンは傲然と道の真ん中を進んだ」と証言したそうです。

 で、この後が問題です。ハリスは、リチャードソン横殺にかかわりたり薩摩新衛兵の指揮官が、こう語ったというのですね。

 リチャードソンの道を譲らざること分明となり、その勢いついに三郎の乗與をも避けしめんとするに至れり。

 「リチャードソンが道を譲らないことが明らかになり、久光公のお駕籠までも、横へよれという勢いだった」とその指揮官は語り、ハウスは、アメリカ公使の書簡にも、以下の文があると言います。

  その同行中の一人、その馬を曲げ、乗與とこれを警護する従士との間に割り入れたり。

 つまり、「リチャードソンは、馬の方向を転換しようとして、中小姓集団をつきぬけ、久光の駕籠の前の空間まで行った」というのですが、アーネスト・サトウも後年、友人への書簡にこう書いていますので、ありえた話でしょう。

 当時私が耳にしたのは、彼(リチャードソン)が馬の向きを変えたとき、島津三郎の駕籠に近過ぎ、どうかしてそれに触れたか、おそらく棒の先端に触れたかしたということです。

 しかし、それにしても、ハウスがいうリチャードソン横殺にかかわりたり薩摩新衛兵の指揮官って、いったい、だれなんでしょう。
 もちろん、日本びいきのハウスは、落馬後の斬殺など語ってはいないのですが、奈良原喜左衛門は、慶応二年にすでに死去していますし、海江田か、奈良原弟か、なんですかね。

 次回は、資料もそろいましたので、いよいよ久木村の二太刀目を再考し、生麦事件の基本文献とされてきた薩藩海軍史の記述について、推理してみたいと思います。なにしろ、fhさまのご指摘で、尾佐竹猛博士の「生麦事件の真相」が、薩藩海軍史に先だって書かれたことがわかりましたので、お口あーんぐり、あきれつつ、なんですけれども。

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生麦事件考 番外

2009年02月10日 | 生麦事件
 ほんとにもう、最初にこれを見ていれば!!!
 自分のうかつさが、信じられません。尾佐竹博士………、すでに昭和19年に、私が今回考えてみたと同じようなことを、ほぼ同じような材料で、考察なさっているじゃないですか!!!

 (追記)
 fhさまからのご指摘で、この本の中の「生麦事件の真相」は、大正15年に書かれていたものではないか、ということです。それならば、薩藩海軍史が書かれるより以前の話でして、この考察は、久木村の二太刀目とともに、改めまして。

幕末外交秘史考 (1944年)
尾佐竹 猛
邦光堂書店

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 最初、史料の名前が変わっているので、ちょっととまどったのですが、わたしがこの一連の推論の中心に使いました弁之助の話は「生麦村騒擾記」となっていまして、明治40年から42年の間に「横浜貿易新報」に載った後、おそらく評判がよかったので、弁之助の話だけが、こういう名前で一冊の本になったんじゃないんでしょうか。
 そして、もちろん薩藩海軍史の中の神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書もありますし、市来四郎の史談会速記録、春山育次郎の「生麦駅」、宮里書簡、そして生麦事件 余録でご紹介しましたボーヴォワール伯爵の日本滞在記「ジャポン1867年」の「スペイン美人」まで登場します。

 ちがうのは、イギリス側資料として、博士は英字新聞を主に使われていて、私は宣誓口述書にしぼっている、ことです。
 そして………、私が消えたとばかり思いこんでいた、リチャードソン落馬後を目撃した二人の女性の口述書!!!! いったいどこにっ??? えー、博士はどこにあるとも書いておられないのですが。
 また博士は、二人の女性のものは全文引用なさってますが、ごく部分的に、関口東右衛門の口述書も引用なさっていて、い、い、い、いったいどこにっ???あるんでしょう。
 ともかく、これで、吉村氏が「生麦事件」に書かれているなかで、典拠のわからなかった部分が、あきらかになりました。

 あー、それとどうも尾佐竹博士は、久木村治休の実歴談は、明治45年鹿児島新聞に載ったものを引いておいでのようなのですが、これはまだ、鹿児島県立図書館に頼んだコピーが届いておりませんで、私、見てません。

 博士が見ておられないで、私が見たものといえば、大久保利通、松方正義関係の文書と、関口日記と真説生麦事件 補足2でご紹介しました関口文書・慶応元年「生麦村往還軒並間数畳数書上帖」から作製されました、生麦村の集落図、ですね。これがあるために、戦前の博士よりも、平成21年にいる私の方が、事件当時の生麦村は、よくわかっている、と思います。

 もちろん、これだけ読んだ資料が共通しているのですから、博士と私の推論は、非常に似た部分も多いのです。
 特に、春山育次郎による海江田信義の聞き書きエッセイについては、「リチャードソン一行の方向をちがえているから、海江田が行列の後方としているが、先に行っていたとすれば話がわかる」としている点や、それと「スペイン美人」が、ですね、海江田にリチャードソンのいる場所を教えた茶屋の女と同じ人物ではないか、という点も、です。
 まあ、普通、そう考えますよねえ。

 ただ、博士は、です。だとすればこの「スペイン美人」、相手によって言うことを変える「不徳漢」ではないか、と憤っておいでなのですが、いえ、ねえ、博士、茶屋の経営者のおしゃべりは、客をもてなす仕事の一部、ですからねえ。
 それと、スペイン美人のために一言、弁護させていただければ、スペイン美人はなにも、海江田がリチャードソンを殺すと思って、居場所を教えたわけではないと思うんですのよ。だって、それまでに、宮里など、おそらく複数の藩士が、リチャードソンが生きていることに気づきながら、どうしていいかわからず、なにもしないで去っているのですから。

 あと、このスペイン美人の茶屋について、なのですが、私はこの女性の素性について、博士と推測を異にします。
 実は、リチャードソン落馬後を目撃し、神奈川奉行所の役人に聞き取りを受けた二人の女性とは、落馬現場のそばに住む茶屋のおかみさんと、大工のおかみさんだったんです。

 武州橘樹郡生麦村東作地借勘五郎女房ふじ、申し上げ奉り候。私儀農間字並木にて、水茶屋渡世まかりあり候につき、異人異変儀のお訪ねに付き申し上げ候。

 というわけで、関口日記に出てきます「甚五郎女房」(真説生麦事件 補足)とは、リチャードソン落馬現場近くの水茶屋のおかみさん、だったわけなのですが、このふじさん、以下のようなことしか語ってません。

「外国人がうちのそばで落馬したから、もう驚いてしまいまして、怖いので茶屋の裏に隠れたんです。そしたら、大工の女房のよしが来て、うちの人、そこの街中へ仕事に出かけているのよ。怖いから呼んできてくれない? というので、じゃあそうしようと出かけまして、後のことはなにも見ていませんの」


 それで、尾佐竹博士、このふじさんは、スペイン美人とは関係ない、とおっしゃるのですが、どうでしょうか。
 これは博士が書いておられますが、この茶屋より神奈川よりは並木になっていて、もう生麦の人家はなかったんですね。
 そして、マーシャルの口述書とか薩藩海軍史収録の神奈川奉行所役人の覚書などから判断すると、この茶屋のあった場所は、住宅が建て込んだ生麦市中からは、数百メートル離れていたんです。
 ぽつんと一軒離れた茶屋だったわけでして、海江田にリチャードソンの居場所を教えた茶屋が、別にあったとは思えません。
 ボーヴォワール伯爵は、年のいった母親とともに年増美人がやっていた水茶屋、といっているわけなのですから、スペイン美人はふじさんの娘か、姪かなにかで、大工の女房よしじゃないんでしょうか。

 「ねえ、かあさん、亭主を呼んできておくれな。私が店番しているからさ」というような会話も、それなら自然だと思うのです。奉行所へ提出した口述書ですから、「大工の女房よし」となっていますけれど、「そうだね、およし、じゃあ呼んでこようか。女だけじゃぶっそうだからねえ」というような感じでは、なかったんでしょうか。

 武州橘樹郡生麦村繁次郎地借徳太朗他行につき、女房よし異人異変左に申し上げ奉り候。

 このよしさんが、関口日記の「松原徳次郎女房」だったわけでして、母だか親類だかが経営する茶屋の隣にすみ、手伝っていたんじゃないでしょうか。そう考えれば、スペイン美人の茶屋が、桐屋である、という推論も成り立ちます。

 まず、茶屋が「東作地借」となっていますが、東作とは、関口東右衛門の父親でして、この事件の起こったときには病にふせっていて、年の暮れに死去した人です。
 つまり、ふじの亭主は、関口家の小作です。生麦村の商業は、江戸時代後期に東海道の交通が活発になるにしたがい、急速に発達したものでして、従事している全員が農民なんです。
 関口家は、奉行所役人が桐屋に泊まりに来ているからと布団を貸し出したりしていますし、桐屋に仕出し料理を頼んでいた時期もあったようでして、小作人が経営する水茶屋とすれば、話がよくわかるわけなのです。
 で、fhさまが借してくださいました関口日記に、東右衛門が「松原桐屋」と書いていたんです。よしさんは、「松原徳次郎女房」です。女二人、いっしょに経営しているようなものだったのではないでしょうか。
 そりゃあ奉行所のお役人も、年増美人のいる水茶屋は、宿泊場所として、好ましかったでしょうしい……。

 
 で、スペイン美人と思える、このよしさんも、肝心な部分への言及はさけています。

「異人の男女4人が引き返して来まして、うち男女二人は神奈川方向へ走っていきましたが、男二人は馬を止めましたの。どうというつもりもなかったんですけど、私、家から街道に出てみますと、一人は走って行き、一人が落馬して、馬だけが走っていきましたわ。落馬した異人は、並木の縁に倒れていたんですけどね、脇腹に深手を負っていて、苦しんでいる様子でしたわねえ。で、そのうち、士分のもの(武士)が五,六人やってまいりましてね、異人の手をとって、畑の中へ引き込んだんですわ。武士の一人が剣をぬいたので、あーら怖い!とものかげに隠れましたのでね、あとのことは、なーんにも知りませんの。後で、島津候の御駕籠が通りすぎられましてからね、また外へ出てみましたところ、もう異人は死んでいる様子で、上に古い蘆のすのこがかけてありましたわ。ほどなく、お役人さまがおいででございましたわね」

 よしさん………。でも、ほんとうは、全部、見てたんですよねえ。
 時は幕末、公開処刑もありますし、さらし首などざらで、血みどろ芝居が流行っていたんですから、見るべきものはぜひ、見ておきませんとねえ。

 まあ、そんなわけでして、尾佐竹博士は、落馬後の斬殺を、奈良原繁と海江田信義を含む薩摩藩士数名によるもの、と断定しておられます。
 ただ、博士はやはり、久木村がリチャードソンに二太刀目をあびせたことを信じておられまして、これが致命傷で、斬殺といっても結局は介錯程度のものだった、というわけですから、あまり、このことが脚光をあびないできたんでしょうね。
 しかし、ですね、だれの話を見ても、落馬したときのリチャードソンは、一撃しか受けてない様子なんですよね。「リチャードソンの真っ赤な心臓がころころ転げ落ちてなあ!」みたいな久木村の大ぼらを、なんで信じられるんですかね。
 その点に関しましては、鹿児島新聞のコピーが届いてから、再度、検証してみます。

 もう一つ、尾佐竹博士ってばあ!!!と、思ったことがあります。
 博士は、弁之助が語っている、「リチャードソンたち一行は久光の行列の正面からつっこんで、久光の駕籠近くまで行った」ってことが、お信じになれなかったんです。その理由というのが、以下です。

 「正面から駆け込んで来たのならば、とてもそんなに通らぬ先に殺されているのは当然で、事態ありうべからざる事である」

 これには、笑いました。真説生麦事件 上で、以下のように推測した通りだったからです。

「まあ、行列の正面から久光の駕籠近くまで馬を乗り入れられて、薩摩藩士がそれまで我慢した、というのも、ちょっと信じられない話ですし、当の元薩摩藩士たちも、我慢したことが恰好がいいこととはとても思えず、あえて否定しなかったにちがいありません」

 尾佐竹博士、おわかりいただきたいのですが、久光の本隊はすっぽり、生麦の住宅が密集した市中にいまして、細い路地ならばともかく、街道に交差して乗馬で通れるような道は、なさげなんですのよ。正面以外のどこからも、つっこみようがないんです。

 ともかく、です。神奈川奉行所の聞き取り書が残っていたことには、私、もうどびっくりしたのですが、もう一つ、博士に教えていただいたことがあります。
 当時の英字新聞が、リチャードソン落馬後の斬殺も久光の指揮だ、と書き立てていたらしいことです。目撃者と称する日本人の少年が「駕籠に乗ったえらい人が指図してた」みたいなことを言ったらしいんですが、これが久光だってことは、ありえんですわね。
 海江田は駕籠に乗っていたんです。「駕籠に乗ったえらい人」に見えたとしても、おかしくないですわね。
 博士は、薩摩藩がよほどお嫌いみたいだったようで、これに関しては、ちょっと勘ぐりすぎでおられます。

 しかし、それにしても、です。現在の著者がイギリス側にばかり思い入れて公平を欠くぶんには、「どういう西洋コンプレックスなの」としか思いませんが、尾佐竹博士のリチャードソンたちへの思いやりに満ちたこの本は、昭和19年、日本が「鬼畜米英」をスローガンに、米英と戦っている最中に出版されたものです。
 この博士のバランス感覚には脱帽ですし、この本、古書として値段が安いということは、かなりな数刷られた、ということになります。敗戦の一年前、この本を読んでいた多くの無名の日本人たちにも、敬意を表したいと思います。


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生麦事件考 vol4

2009年02月09日 | 生麦事件
 生麦事件考 vol3の続きです。

 もうほんとうに、これまた、なんといううかつなことでしょう!!! です。検索をかけていて見つけたのですが、宮永孝氏が、詳細に出典を明記し、生麦事件を考察しておられました。モンブランに続き、また宮永先生です。
 
幕末異人殺傷録
宮永 孝
角川書店

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 真説生麦事件 補足で「消えた」と書いた書類が、実はあったんです!!! 「神奈川奉行所定廻役・三橋敬助が、リチャードソン落馬後の状況を、生麦村の二人の女性から、桐屋で聞いてまとめた覚書」です!!!
 宮永氏によれば、原文は昭和19年発行、尾佐竹猛の「幕末外交秘史考」に収録されているそうでして、尾佐竹先生、どういう経緯で手に入れられたものか、この本、けっこう安価に古書店にありますから、原本を手に入れてからまたご報告しますが、とりあえず、抜き書きです。

落馬いたし候異人儀は並木縁りへ倒候を見受候処、左の脇腹に深手これあり、苦しみまかりあり候様子に見受け候処、士分の者五六人ほどにて、右異人の手を取り、畑中へひきこみ候うち、一人の士、剣をぬき候につき、驚入り陰へ入り居候に付き、其余の始末一切相弁じ申さず候。………最早異人相果候様子にて、右死骸へ古蘆すのこ打かけこれあり候。

 うわっ!!! 女性二人が、数人の藩士がよってたかってリチャードソンを「斬りきざんだ」部分を、けっして語ろうとしなかったことをのぞけば、真説生麦事件 下で書きました、弁之助の話とまったく同じです。

 結局のところ、市来四郎が語り、春山育次郎もまた、「英人の記する所」としながら、直接、海江田の談話を聞いた上で、それを否定していないのですから、リチャードソンが、落馬後に、奈良原繁を中心として、海江田信義をふくむ、複数の藩士にめった斬りにされたことは、事実であったと断言できるでしょう。

 この斬殺が、薩摩藩内において、事件直後には、まったく問題にされていなかったことは、真説生麦事件 上で書きましたように、海江田と奈良原繁が、那須信吾に、「俺たち、二人も斬り倒したんだぞ!」と自慢していたらしいこと、さらに、生麦事件考 vol2で見ましたように、落馬したリチャードソンを見かけながら、どうしていいかわからずにそのままにした宮里たちが、「俺たち不覚をとったんだ!!!」と記していることでも、わかります。

 その理由、なんですが、薩摩藩としては、リチャードソンは喜左衛門の一撃で命を落とした、という見解だったのではないでしょうか。
 見届け役は、黒田清隆と本多源五だったでしょう。
 宮里書簡によれば、リチャードソン落馬地点を見届けた直後に宮里たちに出会った二人は、「奈良原喜左衛門が供目付だったので、外国人を一人斬り殺し、一人に傷を負わせた」と言った、というのですね。
 実際、落馬した直後のリチャードソンは、マーシャルから見ても、事切れた様子でした。以下は、クラークとマーシャルの宣誓口述書から、です。

 4人が駕籠前の中小姓集団に突入し、喜左衛門がリチャードソンとマーシャルを斬ったとき、真っ先に逃げ出したのは、クラークです。その後にリチャードソンが続き、マーシャルとボロデール夫人は、少し遅れたようです。

 クラークによれば、生麦の市中をぬけてスピードをゆるめると、リチャードソンが追いついてきて、「馬をとめてくれ」と言い、さらに「クラーク君、私は彼らにやられた」と続けるので、クラークは、「私も負傷した。落馬しないように注意して、できるだけ早く走れ」といっているうちに、マーシャルとボロデール夫人が追いついてきたので、ボロデール夫人を先にして馬を走らせたが、マーシャルは、リチャードソンのそばで、ちょっと馬を止めたようだった、ということです。

 一方、マーシャルは、こう述べています。並木道の入り口のすぐ前にある茶店のところまで来たところ、リチャードソンの馬が元気をなくしているのに気づき、クラークとボロデール夫人に「先へいってくれ。私はリチャードソンを介抱する」と言って、リチャードソンのそばにより、「君は負傷したね」と声をかけたが、すでに彼は瀕死の状態で、ほどなく落馬した。リチャードソンの腸は飛び出し、彼はすでに死んでいて、どうすることもできなかった。

 しかし、それはおそらく落馬のショックによるものであり、宮里たちが見たときには、しゃべることができる状態で、海江田が見たときには、さらに自ら身体を動かして、移動していたのです。
 重傷であったことは確かでしょうけれども、あきらかに、死んだのは落馬後の斬殺です。

 とはいえ、見届け役の黒田たちが死んでいる、と見たわけですし、奈良原繁が兄の助太刀だと飛び出していったにしましても、虫の息だったのを介錯をしたのだと受け取って、問題にはしなかったのではないでしょうか。

 さらに、海江田と奈良原繁が、「二人斬り殺した」と言っている話なのですが、宮里書簡にも、以下のようにあります。

しかれども、一人手を負ひ候異人、ほどなく神奈川の辺にて落命いたし申し候よし

 つまり、喜左衛門が傷を負わせたもう一人の異人も、神奈川で落命したように聞いた、というのですね。
 これは、クラークが、神奈川のアメリカ領事館そばまで逃げ延びて気を失った、といっていますので、目撃した住民の間で、異人が一人死んだようだ、という噂がひろまり、黒田と本多がそれを聞き込んだ、ということではないでしょうか。

 この時点で、久木村の一撃は、まったく話題にものぼっていませんので、薩摩藩は、これも喜左衛門の一撃によるものととらえていたわけです。

 では、いつからこの落馬後の斬殺が、薩摩藩内で、問題になったのでしょうか。
 ここから先は、あくまでも憶測の域を出ませんが、やはり、薩英戦争後の和平交渉において、でしょう。

 マーシャルは、落馬直後にリチャードソンは死んだ、と証言しているわけなのですが、検死したウィリス医師は、それを疑っていたでしょう。だからこそ、事件の3日後に、神奈川奉行所の役人が、リチャードソン落馬後の様子を聞きに、生麦村に現れたのです。
 実際、クラークもマーシャルも、リチャードソンは脇腹に一撃をうけただけだと見ていた様子で、他の負傷は証言していません。
 さらに、おそらく、なんですが、桐屋とみられる茶屋のスペイン美人が、英字新聞記者に、リチャードソン斬殺の様子を、自分が最後を看取ったというような脚色をして、語ったようなのです。

 和平交渉にかかわった薩摩藩側のメンバーが、「実はリチャードソンは落馬後に、よってたかって斬殺された」と、イギリス側から聞かされたとしましたら、これを薩摩藩にとっての恥辱と思う者も、出てきたのではないでしょうか。例えば市来四郎のように、です。
 とすれば、こんな助太刀を藩として認められるのか、という声が、あがった可能性も、あるのではないでしょうか。
 もしもそうであったとすれば、兄の喜左衛門が、弟の繁と、友人である海江田のために、「いや、斬り留め損なった自分が悪いのだから」と、自ら切腹して、事をおさめた可能性も、ありはしないでしょうか。

 しかし、そうであったとして、これはあくまでも、喜左衛門が自ら買って出た切腹であり、イギリス側の「犯人」を出せ、という要求とは、別次元の話です。藩として、喜左衛門の無礼討ちはいったん正当と認めたのであり、イギリスに屈してそれを覆すことは、とてもできないこと、だったのです。

(追記)
 大先輩が、昭和11年11月のサンデー毎日、久木村治休94歳のインタビュー記事を送ってくださいました。
 同じ昭和11年の雑誌「話」にも、久木村のインタビュー記事があり、この年、生麦事件から75年にあたったことで、こういう企画が続いたようなのですが、なにしろこの二つの記事、大幅に事実関係がくいちがっていまして、大方、インタビュアーが調べたことを、久木村が肯定するか否定するか、というような事情であったのではないか、と推測できます。
 したがって、信頼できないことが前提ですが、サンデー毎日においては、薩英戦争以前の話として「問題が大きくなり、一部の者たちは、奈良原や久木村がよけいなことをするからだと非難の声をあげるようになり、昨日の英雄が今日の馬鹿者になった。久木村は奈良原に自決を申し出たが、奈良原は、問題を大きくするだけだからお前たち若輩の者はひっこんでいろ、と答え、奈良原が単独で自決すると申し出たが、重役たちが否決した」としています。話は、それで薩摩藩は「架空の犯人を幕府に届け出た」と続きますが、薩摩藩は事件直後にそうしていますので、事実には反します。しかし、あるいは、「喜左衛門が自決を申し出た」という噂を久木村が聞いた、といようなことは、ほんとうにあったのではないでしょうか。

 そして、これもまだ憶測にすぎないのですが、治外法権が引き起こしたこの悲劇によって、薩摩藩は諸外国との条約の結び直しを真剣に検討するようになり、そしてそのことは、大きな維新の原動力となったでしょう。

  最初にこの事件について書きました生麦事件と攘夷において、中村正直の碑文をご紹介しました。
 石碑は、落馬後のリチャードソンの斬殺を知っていた、生麦村の住人によって建てられたものなのですが、元幕臣だった中村正直は、リチャードソンを悼みながらも、「この事件こそが維新の原動力となったのだから、許してくれ」と、歴史を俯瞰してみせたのです。

 この碑が建って2、3年の後、春山育次郎は、碑のそばのさびれた茶屋を訪れ、スペイン美人に会います。新橋・横浜間の鉄道開通以来、生麦の街道はさびれ、スペイン美人は60を数える老女となり、しかしまだ、店を守っていました。
 そして、春山に問われるままに、リチャードソンの悲劇を語ったのです。


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生麦事件考 vol3

2009年02月08日 | 生麦事件
 生麦事件考 vol2の続きです。
 今回、春山育次郎のエッセイに基づいて、海江田の動きを追う予定なのですが、では、奈良原繁、つまり弟がどこにいたかについて、市来四郎の史談会速記録も見る必要があります。長岡さまがコピーを送ってくださるそうなのですが、まだいただいておりませんので、ご著書とブログの抜き書きを、参考にさせていただきます。


新釈 生麦事件物語
長岡 由秀
文藝春秋企画出版部

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 さて、宮里たちよりも、はるかに神奈川より、といいますより、どうもすでに生麦村をぬけ、神奈川宿の領域に入っていたらしい海江田です。
 宮里たちと同じように、すれちがった異人たちのうち3人が、やがて必死の形相で引き返してきて、最後に乗り手を失った空馬が行くのを見て、やはり引き返しはじめます。そして、黒田了介(清隆)が「白刃を携えて」駆けてくるのに行きあいます。
 これは、後年の回顧談の聞き書きですので、おそらくは宮里たちが出会ったときと同じく、黒田は本多源五といっしょだったのでしょうし、「白刃を携えて」などいなかったのではないか、と思われます。
 海江田が黒田に、「なにが起こった?」とたずねると、黒田は息をきらせながら「奈良原喜左衛門殿が外人を斬った」と答え捨てて、「いづれへか馳せ行きたり」
とあるんですが、「いづれへか」って……、これは、春山育次郎が大きな勘違いをして、海江田が行列より後ろにいた、と思ってしまったための錯誤でしょう。海江田が行列の後ろにいたのなら、いったい黒田はなんのために来た道をひっくり返していたのかわかりません。実際の所は、一本道の行く手は行列の前方、神奈川宿です。
 おそらく、神奈川宿のその日の宿泊予定先には、すでに到着していた藩士たちもいたでしょうし、黒田は事件を知らせると同時に、逃げた3人がどうなったか確かめようと、前方に向かったとしか考えられません。

 やがて海江田は、リチャードソンの落馬地点を通りかかりますが、宮里たちとちがって、その姿に気づきません。おそらく、なのですが、引き返した藩士は宮里たちと海江田だけではなかったでしょうし、武器を携えた藩士たちに、次々とにらまれるのに怯えたリチャードソンが、力を振り絞って、街道から直接見えないところまで身体を動かしたのではないでしょうか。

 海江田は、引き返した藩士のほぼしんがりであったらしく、あたりは静まりかえっています。
 久光が休憩する予定の藤屋までは、もう数百メートルですが、そこに、甘酒を売る茶屋がありました。
 私、どうも位置からして、この甘酒を売っていた茶屋が桐屋であり、生麦事件 余録で書きましたスペイン美人の茶屋だったのではないか、と思います。
 海江田は、この茶屋に立ち寄り、「なにか起こったか?」と聞きましたところ、あるじの女、……おそらくはリチャードソン悲話を語り継いだスペイン美人が、「さきほど薩摩様の御供の衆が異人をお斬りなされて大騒ぎになり、斬られた異人は、ほら、まだそこにおりますよ」というので、教えられるままに……、といいますから、案内されたのでしょう。行ってみますと、リチャードソンは、畑の堤によりかかり、傍らの草をひきむしって傷口にあて、出血をとめようとしていましたが、海江田が近づいてくるのを見て、ひどく驚いた様子で、狂ったようになにかを言っていいました。しかし海江田には、言っていることがさっぱりわかりませんでした。
 ここで文章はとぎれ、薩藩海軍史が書くように、「海江田が介錯した」などとは、どこにも出てきません。代わりに、括弧つきで、以下のように書いてあるのです。

(子爵のここに来たりし時、喜左衛門の弟にて当時幸五郎といへりし今の沖縄県知事奈良原男爵、家兄が外人を斬りしよしききて来たれり、外人はいづくにあるぞとて忙しく訪ねいたりしを始めとして、この間子爵の話はなほ多かりけれど、はばかることあれば、省きてここには記さず)

 つまり春山は、「海江田がリチャードソンを見つけたとき、喜左衛門の弟の繁が、兄が外人を斬ったと聞いていて、その斬られた外人はどこにいるんだと、忙しなく訪ね歩いていた。そのことにはじまり、海江田は詳しく語ってくれたが、はばかることがあるので、ここには書かないことにする」というのですね。

 真説生麦事件 下において、リチャードソンたちは、「藤屋の前に並んだ駕籠や従者たちの雑踏も、行きは、うまくよけていたのでしょうけれども、逃げている身に、そんな余裕はありません。馬上で血を流しながら、次々と駕籠はひっくりかえすは、従者を蹄にかけて怪我をさせるはの大騒動でしたが、怒り心頭に発したのは、駕籠の中で久光の到着を待っていた先供の人々です。この中に、海江田も奈良原弟もいたのではないか、という推測は、主に、後年の史談会速記録における、市来四郎の証言によるものです」と書きました。
 海江田については、もっと先へ進んでいたらしいことがわかりましたが、奈良原繁は、このひっくり返された駕籠の中にいた、と考えていいのではないでしょうか。明治25年の史談会において、市来四郎はこういっているのです。

「今の繁(沖縄県知事)は、先供でござります。兄なるものが斬りつけたから、助太刀した位なことに聞いております。ほかに三、四名も楽み半分に切試したということでござります。そういうことで、誰れが斬るとも知れず、ずたずたにやったそうです」

 そして、弁之助は、藤屋の前の駕籠の中にいたのは先供の人々だと、いっているのですから。
 ただ、弁之助がいうように、駕籠の中の人々は、ひっくり返されて怒り心頭に発し、ただちにリチャードソンたちの後を追いかけたのではなく、とりあえずは状況を把握しようと、黒田と本多が「奈良原喜左衛門が外人二人を斬った」という情報を持って駆けつけてくるのを、待っていたのではないでしょうか。

 ここで奈良原繁の頭にあったのは、「斬り留め損なうことは武士の恥」でしょう。通常の無礼討ちの感覚でいうならば、4人を逃がしてしまえば、もしかすると喜左衛門は、それを恥じて切腹、ということになるとも考えられます。
 そういう兄への思いに、駕籠をひっくりかえされた憤りが加わり、怒り心頭に発していたのでしょうけれども、馬で逃げたものを追いかけても、追いつけるはずもありません。
 ところが、そうこうするうちに、宮里たちのように、引き返す途中、落馬して路傍に倒れたリチャードソンを見て来た者が到着し、これなら少なくとも一人は斬り留められると、無礼討ちにおける助太刀の規定も斟酌することなく、同じ先供仲間か、あるいは槍を持った前駆の者も加わっていたのか、それはわかりませんが、数人でリチャードソンをさがすべく飛び出したのでしょう。

 海江田と喜左衛門たちがリチャードソンを見つけ、そしてなにが起こったか、春山は、(はばかることあれば、省きてここには記さず)と書きながら、実はその直後に、「英人の記する所」として、そのはばかるところを書いているのです。つまり、海江田が語ったことだといえばはばかりがあるけれども、イギリス人がこう書いている、というならば、はばかりはなくなるわけです。

  外人はただ一太刀あび馬より落ちたるばかりにて、こうむれりし創(きず)もさまで重からず、もとより生命を失うほどのことにはあらざりしを、後におよび、あらぬ人に訪はれて、終にあはれの最後をとげたり。

 この前段をも含めた大意は、以下です。
 喜左衛門は、行列を突き抜けようとする外人の無礼を制するために、とっさの間、後ろより(後ろから、となっているのは、春山がイギリス人の書いたことを信じて、リチャードソンが行列の後ろから来た、と思っていたためです)、抜き打ちに斬りかけてこれをさえぎっただけだった。リチャードソンは一太刀あびて落馬して、致命傷というほどの傷をうけたわけでもなかったのに、後になって、そういうことをすべきではない人に襲われ、哀れな最後をとげた。

 後になって落馬したリチャードソンをさがしだし、殺害した「あらぬ人」が奈良原繁と海江田、主に奈良原繁をさしていることは、明白です。

 どうも私、この明治29年に発表された春山育次郎のエッセイは、4年前の市来四郎の発言への反論として、書かれた気がしてなりません。
 市来四郎が、落馬後のリチャードソンの斬殺を語ったことは、元薩摩藩士たちに波紋を投げかけたのではないでしょうか。
 市来四郎は、島津斉彬に重用された洋務官僚でして、明治維新で薩摩の実権を握り、新政府で出世した精忠組の藩士たちとは、そりがあわなかった人物です。西郷隆盛を嫌っていただけでなく、大久保利通をも好んでいなかったようですし、海江田や奈良原も、嫌っていたでしょう。(その市来四郎が、なぜ桐野を高く評価しているのかは、さっぱりわかりません)

 春山も、リチャードソン落馬後の斬殺は、その中心が奈良原繁であることをほのめかして語っているわけですから、それに文句はなかったはずです。ただ、市来四郎の語り方だと、そもそも兄の奈良原喜左衛門の無礼討ち自体が、攘夷感情に基づいた逸脱行為で、そんなことを久光は認めていなかった、ともとれるのです。
 しかし、市来四郎は、このときの久光の行列に参加していたわけではなく、実情を知りません。
 おそらく……、なんですが、薩英戦争後、イギリスとの和平交渉において、市来は独自に、長崎でイギリス東洋艦隊に交渉しているようですから、このときイギリス側から聞かされたリチャードソンの斬殺状況を、鵜呑みにしたのでしょう。そして、落馬後の斬殺はほんとうだったわけなのですから、市来の怒りは、最初の一太刀をあびせた奈良原兄にまで、およんだのではないでしょうか。

 奈良原兄、喜左衛門のの無礼討ちを、久光が認めていなかった、ということは、事実に反します。生麦事件考 vol1で書きましたように、事件直後の藩の公式見解が、「喜左衛門は職務を果たしたのであって、それを咎めるわけにはいかない」だったのです。
 つまり、住宅密集地において、騎馬の外国人が、行列の真正面から乗り入れ、主君の駕籠をおびやかすという未曾有の事態だったのですから、主君の面目と安全を守ることが喜左衛門の職務であり、そういう意味の無礼討ちであってみれば、かならずしも全員斬り留める必要はなく、薩摩藩としては、これを正当な無礼討ちであったと認める、ということでしょう。

 春山は、「あらぬ人」にリチャードソンが斬殺されたことを語った後、その日結局、予定の神奈川駅には泊まらず、行列が保土ヶ谷までいったことを述べ、久光が喜左衛門を呼び、小松帯刀に立ち会わせて、喜左衛門の無礼討ちを認めた場面を克明に描いています。なにか根拠があって書いていることなのかどうかはわかりませんが、「かかる無礼あらしめざるをこそ御供目付の職掌なり」と胸をはる喜左衛門に、久光が「さらばとがむるにおよばず」と応じたとするのは、大久保が佐土原藩へ書いた通達書の内容を、そのまま劇化してみせたようなものではないでしょうか。

 そして春山は、維新前に没し、当時、すでにあまり世間に知られていなかっただろう喜左衛門の人柄を、柴山景綱の談話を持ち出して賞賛し、「久光公にもめで用ひられしが、惜しいかな維新の前、病みて西京(京都)に没し、今は林泉幽致なる東福寺の境内、通天橋のほとりに永く眠れり」と結んでいるのです。

 また春山は、明治以降の海江田の姿を描き、洋行に向けて、海江田が述べていた抱負を語りながら、突然、「その意気の盛んなること、そぞろに奈良原氏と謀りあはせて、英人に一太刀あびせたるそのかみの面影の彷彿としてあらわるるを見たり」と、それまでけっして、海江田がリチャードソンを斬ったとは明言していなかったにもかかわらず、海江田がリチャードソンに一太刀あびせたことを、すでに述べたことであるかのように記します。しかも、「奈良原氏と謀りあはせて」の奈良原氏は、果たして兄なのか弟なのか、どちらともとれる書き方なのです。
 といいますのも、春山はエッセイの最初に、海江田が喜左衛門と「互いに供目付なのだから、もし外人が行列に無礼をはたらけば目にものみせよう」と言い交わした場面を入れていまして、普通に読めば喜左衛門ととれるのですが、そののち、「英人の記する所」を利用して、繁と海江田がリチャードソンを斬殺したことをほのめかしているわけですから、いっしょに刀をふるった繁を暗示したものとも、とれるのです。

 次回、喜左衛門切腹の可能性をさぐって、一応、しめくくります。


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生麦事件考 vol2

2009年02月07日 | 生麦事件
  生麦事件考 vol1の続きです。

新釈 生麦事件物語
長岡 由秀
文藝春秋企画出版部

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 上が長岡さまのご著書です。2冊おありなんですが、私が読ませていただいた方を、ご紹介しています。
 長岡さまは、奈良原兄弟のご子孫が伝えてこられた話を追求しておいでで、それは、「生麦事件でリチャードソンに一太刀目をあびせたのは、実は兄の喜左衛門ではなく弟の繁だったが、薩摩藩がイギリスとの接近を強めた慶応元年、兄が弟の身代わりとなって、ひそかに京都の薩摩藩邸で切腹した」というものです。

 いろいろと史料を読んでみました結果、私の判断では、一太刀目が喜左衛門であったことは、まちがいがないと思います。
 前回、大久保の伝達書で見ましたように、薩摩藩は喜左衛門の無礼討ち、つまり名誉の正当防衛を認めて薩英戦争にまで至ったわけでして、喜左衛門はりっぱに職務を果たしたのであり、名誉でこそあれ、犯罪ではないのですから、一太刀目が弟だったのであれば、なにもその事実を隠す必要はないから、です。
 しかし、もしかすると通説とはちがい、リチャードソンは、一太刀目ではなく、落馬後、複数の藩士にめったぎりにされて死に、その藩士の中に奈良原弟がいたのではないか、と推理するに至りました。
 真説生麦事件 下がその部分ですが、これは、弁之助の語りと市来四郎の史談会速記録から、先供だったという海江田、奈良原弟の位置を、生麦村で久光が休憩予定だった藤屋の前の駕籠の中、としておりました。これを、他の資料によって検討し、さらに、落馬後のリチャードソンを多数で斬殺したとして、それは、ほんとうに武士道に反したのか、考えてみたいと思います。
 前回に見ました無礼討ちの定義を、当事者の薩摩藩士たちがが共有していたとすれば、あるいは、「喜左衛門が弟をかばって切腹」という線もありえたのではないか、と、ふと思ったからです。

 まず、多数が落馬後のリチャードソンを斬殺したことについては、弁の助の語りと史談会速記録、そしてウィリス医師の検死や関口日記などの傍証以外に、なにかないのか、という点なんですが、ありました! 明治29年、「太陽」という雑誌に、薩摩出身の春山育次郎(少年読本の桐野の伝記の著者で、桐野の甥の親友でもありました)が、郷土の先輩、海江田信義から聞いた事件の話を、「生麦駅」というエッセイにして載せているのです。話を聞いた時期は、これよりも12、3年前で、ちょうど、生麦村に事件の碑が建った前後、真説生麦事件 補足で書きました、関口次郎右衛門の資料が消え失せた明治16年前後のことです。

 まず、春山育次郎は、大きな勘違いをしています。
 どういう勘違いかといいますと、リチャードソンたちの一行が、川崎から神奈川方面へ向かっていて、久光の行列を背後から追い越そうとした、と思いこんでいるのです。実際には、神奈川方面から川崎へ向かい、正面から行列につっこんでいるわけなのですが、なぜこんな勘違いをしたのか、おそらくは、なんですが、大名行列の正面から馬でつっこむとは、春山の想像の域を超えた話だったんじゃないでしょうか。

(追記)
 すみません。読み返していて気づいたので、追記します。
 春山の大きな勘違いは「英人の記する所」に基づいています。事件当時の英字新聞か、あるいはそれ以降に書かれたものかわかりませんが、春山は、イギリス人が生麦事件について書いたものを読んで、その筋書きに、海江田の話をあてはめたのです。おそらく、海江田の回顧談は非常に断片的で、その話だけでは、事件の全体像をつかむことができなかったのでしょう。
 この「英人の記する所」については、次回でまた触れます。


 ともかく、そういうわけでして、春山の話では、「海江田は川崎宿で奈良原喜左衛門と供目付の当番を交代し、久光の行列より遅れて、ゆっくり煙草を吸いながら行った」となるんですが、「供目付の当番を交代」まではいいとして、海江田は行列の後を進んでいたのではなく、はるかに行列の先を進んでいた、ということになります。
 こう考えれば、海江田信義が明治24年に出した「維新前後実歴史伝」という口述本において、「時に海江田、轎(かご)に駕して儀仗の先導をなしつつあり」といっていることに、位置としては一致しますし、また、他の資料ともあわせて、話が生きてくるのです。
 他の資料というのは、当時、やはり行列の先を行っていた宮里孫八郎が、事件から十数日後に、薩摩の両親へ書き送った手紙です。鹿児島県史料収録のものだそうでして、長岡さまからコピーをいただきました。ありがとうございました。

 これらをあわせて見ますと、海江田も宮里も、当日の宿泊先へ先乗りするグループで、大名行列の一部というような整然とした隊列ではなく、三々五々、気ままに、生麦村での久光の休憩場所である藤屋より先へ、進んでいたのです。非番となった海江田は駕籠で、煙草を吸いながら気楽に。そして宮里は「六郎殿」という連れと二人、徒歩で。

 さて、まず本隊の行列です。
 リチャードソンたち4人が、生麦の商店が密集した市中で、行列の前駆につっこんだとき、弁之助は、「禁令が出ていたため、前駆の人々は怒りにふるえながらも刀がぬけず、左右にわかれた」といっているんですが、実際、すでに往路で久光の行列は騎馬の外国人と接触していて、「少々のことはがまんするようにと藩士にも達しているが」と幕府に訴えを出しており、本当のことだったと思えます。
 だいたい、大名行列が他藩領や幕府の支配地を通るとき、無礼討ちにおよべば、裁定は幕府がすることになりますので、どの藩もそれをいやがり、相手が外国人ではなくとも、例えば江戸や街道筋では少々のことは我慢をする、という通念が、もともとあったのです。
 そして、この前駆の人たちとは、槍を持った足軽など、身分が軽い人たちだったようで、禁制を破る権限を、もちあわせてはいなかったのです。

 しかし、リチャードソンたちが、鉄砲儀仗対の脇をすりぬけ、駕籠前の最後の侍集団(中小姓たち)に突入して、久光の駕籠を脅かす勢いだったとなれば、これはもう、少々のこととは言い難い事態です。
 弁之助による生麦村住人の目撃談では、無礼に耐えに耐えていた久光の命令で、中小姓集団がいっせいに抜刀し、その中の一人がリチャードソンを斬って深手を負わせ、久光の駕籠の近侍の一人がマーシャルに浅手をおわせた、ということなのですが、マーシャルの宣誓口述書では、「自分はリチャードソンを斬ったと同じ人物に斬られた」となります。
 宮里書簡によれば、どうも、マーシャルの口述の方があたっていて、宮里は、「奈良原喜左衛門が二人斬った」と聞いているんです。
 そして、当番共目付だった喜左衛門は、久光の駕籠脇にいた、という話ですから、外部から見れば「近侍の一人」であり、それが中小姓集団の中へ出ていって斬った、ということで、いいのではないか、という気がします。
 中古小集団も刀を抜きながら、なぜ、まずは喜左衛門一人が刀をふるったかといえば、職掌柄先に立つべきだったことと、同士討ちをさけた、ということがあるでしょう。
 市中であり、狭い場所に騎馬の外国人が乗り込んできて、それを多数の藩士がとりまいていたのです。弁之助は、喜左衛門の最初の動きを「混雑でままならず」といっていますし、前方、鉄砲隊にいて、おそらくクラークを斬ったのだと思える久木村治休は、はるか後年のいいかげんな回顧談で、「刀をふるった際に、隣にいた同僚のあご先を傷つけた」と言っています。ほとんどが大ぼらだったにしても、この部分は、非常に実感のこもった回顧です。

 大名行列に正面から騎乗の人物がつっこむなどと、前代未聞の事態です。
 このとき、つっこまれた側の薩摩藩士たちの頭にあった無礼討ちの概念は、個人対個人の場合の鉄則で、「斬り留め損なうことは武士の恥」ということだったのではないでしょうか。
 しかし、馬上の人物を、それも無礼をはたらいた4人全員を斬り留めることは、至難でしょう。
 喜左衛門は、切腹覚悟で斬りかかったことになります。
 なぜ馬を狙わなかったか、ということについては、これは私の憶測ですが、日本の在来馬は去勢していないんです。したがって、非常な暴れ馬であることが多く、市中で暴れると下手をすると人が死にます。斬られて断末魔の苦痛に暴れる馬となれば、なおさらでしょう。無意識のうちに、馬が行列の中で暴れる事態はさけたい、という思いが、藩士たちを支配していたのではないでしょうか。

 最初に馬首をめぐらして逃げ出したのは、クラークでしょう。
 そのクラークが前方から向かってきた藩士は30人だったといい、一方、浅手を負い、遅れて逃げ出したマーシャルは、6人くらいだった、といっています。

 これには、理由があるのではないでしょうか。
 個人対個人の無礼討ちにおいて、なのですが、斬り留め損なって逃げられた場合、その武士の身内や同輩が加勢して、ともに追いかけて討ち果たす、ということは、あります。しかしそれは、その旨を藩に届け出て、しかも「暇乞いをして」、つまりいったん藩籍を捨てて、実行する必要があったのです。その上で討ち果たし、藩が無礼討ちを認め、助太刀も正当なものだと認められると、藩籍が回復する、というわけです。
 しかも、身内などが助太刀している事例は、無礼討ちをして斬り留め損なった本人が幼少である場合がほとんどのようでして、本来は、斬り留め損なったからといって、現場を離れ、追いかけていってとめを刺す、ということは、許されてなかったような感じを受けます。

 クラークが先に駆けてきた、ということがまずなによりの理由ではあったのでしょうけれども、無意識のうちに、無傷のクラークを狙うことが先決、と判断した藩士が、多かったのではないでしょうか。

 そして、藤屋より先を、のんびり神奈川宿に向かっていた、海江田と宮里です。
 宮里は「六郎殿」とともに、リチャードソンが落馬した地点よりも先に進んでいましたし、海江田はさらに先、神奈川宿の領域にまで行っていたようです。
 当然、海江田も宮里も、リチャードソンたち4人が、馬で行列本隊の方向へ、まっしぐらに駆けていくのとすれ違い、見送っています。
 宮里は、4人にすれちがってしばらくすると、まずはボロデール夫人とクラークが、必死の形相で引き返してくるのを見送り、「なにごとが起こったのだろうか」と振り返って見ると、マーシャルが、これまたすごい形相で駆けてきて、その後を乗り手のいない放れ馬が駆けてきた、といっています。マーシャルは、左脇腹下から、おびただしい血を流していました。
 「これはどうも、大変なことが起こったようだ。お駕籠のもとに駆けつけなければ」と、二人は引き返しはじめました。久光は、藤屋で休憩する予定でしたから、ともかく藤屋まで引き返して事態を把握しなければ、ということだったんでしょう。

 と、まもなく、4人を追いかけてきた黒田良助(清隆)と本多源五に出会います。二人はどうも、駕籠直前の中小姓集団のメンバーで、逃げた4人がどうなったかを、確かめようとしていたようです。落馬したリチャードソンは追い越してきていますし、騎馬の3人に徒歩で追いつくわけはないですから、結局、そういうことだったんでしょう。
 同時に、先行していた藩士たちに、とりあえず事態を伝えることも役目だったようで、宮里たちが、「なにが起こったんだ?」とたずねると、「奈良原喜左衛門が供目付だったので、外国人を一人斬り殺し、一人に傷を負わせた」といったというのですが、この直後、宮里たちは、まだ生きているリチャードソンを目撃しています。

 そうです。宮里たちは、黒田たちと出会ってまもなく、リチャードソン落馬地点を通りかかります。

  引き返す途中の草原にて仰のけに倒れ居もうし候につき、立ち寄り見申し候處、いまた殺きり申さず候につき、六郎殿にらみ居られ候處、手を合せて断らしきことを申様にこれあり候えども、一向決まり申さず候。

 えーと、いいかげんに現代語訳しますと、「引き返す途中の草むらで、仰向けに倒れたリチャードソンを見かけたので、六郎殿と二人で立ち寄ってみたら、いまだ死んではいず、六郎殿がにらんでいると、手を合わせて断りらしきことをいっているようだったが、どうしていいやらわからなかった」ということでしょうか。
 この「断りらしきこと」をどう解釈すればいいのか、命乞いしているように見えたのか、介錯を求めているように見えたのか、ちょっと私には判断がつかないのですが、ともかく宮里たちは、どうしていいかわからなかったのです。

 これはやはり、個人対個人の無礼討ちで、助太刀するものではない、という観念が働いて、自分たちが手を出していいものなのかどうか、判断がつかなかったのではないでしょうか。
 しかし、その後に続く言葉は、彼らがどうしていいかわからないまま、リチャードソンを置いて藤屋まで引き返した後、リチャードソンの身に起こったことと、関係しているように思われます。

 ついては一人も残さず打ちはたすべきの處に、たまたま我々共御先に行ながらケ様の事とは存ぜず候につき、無覚をとり残念の至りに存じ奉り候

 つまり、「実のところ、我々は無礼をはたらいた4人をすべて打ちはたすべきだったわけで、しかし我々は行列の先に行きながら、そんなこととはわからず、不覚をとってなにもせず、残念でたまらない」というんですね。

 薩摩藩の行列への無礼ですから、最初に刀をぬいた喜左衛門一人ではなく、本隊の全員が「斬り留め損なうことは武士の恥」意識を共有し、弁之助のいう「前駆の人たち」、実際には鉄砲儀仗隊が主だったようですが、ともかく本隊前方の人々も刀をぬき、久木村は、おそらく無傷だったクラークに、重傷を負わせたわけです。
 しかし、無礼討ちは本来、現場を離れて追いかけてとめを刺すものではなく、助太刀をえてそれをするには、届け出た上で、藩籍から放れることが必要なほどのものなのです。
 本隊ではなく、三々五々、のんびりと神奈川宿に向かっていた宮里たちにとっては、どうしていいかわからない、手を出すべきではないように思われる、という当初の感覚の方が、実は、まっとうだったのではないでしょうか。
 落馬して、拝むような様子のリチャードソンは、おそらくは哀れにも見えたのでしょうし。

 それが、俺たち不覚をとったんだ!!!に変わったについて、彼らよりさらに神奈川よりにいた海江田がかかわっていたのではないか、ということで、次回、春山育次郎のエッセイに基づいて、海江田を追います。


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