郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

桐野利秋と龍馬暗殺 後編

2008年03月01日 | 桐野利秋
 桐野利秋と龍馬暗殺 前編に続きます。
 慶応三年十月、大政奉還が公表された当時の京は、殺伐とした空気を濃くしていました。
 昨日もご紹介しましたが、10月14日、大政奉還のその日、京在海援隊士・岡内俊太郎から、長崎の佐々木高行への手紙の最後は、この文句で結ばれています。
 「新撰組という奴らは私共の事に目をつけ、あるいは探偵を放ちある由にて、河原町邸(土佐藩邸)と白川邸(陸援隊)との往来も夜中は相戒め居候次第に御座候」
 新撰組のやつらはぼくたちに目をつけて、探偵にさぐらせていたりして、ここ白川邸と河原町藩邸とを行き来するのも、夜はやめておこうと気をつけているほどなんだよ。

 「私共」というのは、郷士や庄屋、軽輩が中心の土佐勤王党、つまりは主に陸援隊、海援隊士です。
 土佐勤王党と新撰組は、壮絶な闘争を重ねてきました。
 もっとも知られているのが、池田屋事件でしょうか。禁門の変の前に、長州よりの尊皇派の会合を、新撰組が襲った事件です。
 土佐藩は、望月亀弥太、北添桔磨、石川潤次郎、藤崎八郎、野老山吾吉諸の五人という、最大の死者をだしました。
 このうち望月亀弥太は、勝海舟の海軍塾にいた人で、私、高知市内の草深い小山へ、お墓参りに行ったことがあります。
 
 次に知られているのが、三条制札事件です。
 これは、慶応2年の9月、ですから、この大政奉還のちょうど一年ほど前の話です。
 長州を朝敵であると公示する幕府の制札が、三条大橋のほとりに建てられていたんですが、これが墨で塗りつぶされ、鴨川に投げ捨てられました。これは十津川郷士たちがしたことでしたが、当時、犯人はわかりませんでした。すぐに町奉行所が、立て直しましたが、また川へ捨てられたんです。
 またまた制札は立て直されたのですが、9月12日月明の夜、8人の土佐藩士が加茂川沿いを三条大橋の方へむかっていました。
 これを怪しいと見た新撰組原田左之助の一隊は、尾行し、土佐藩士たちが犯行に及ぼうとした瞬間、新撰組隊士二人は屯所へ援軍を呼びに行きます。
 原田佐之助は抜刀し、驚いた土佐藩士たちもそれに応じますが、そこへ新撰組の援軍がかけつけました。
 土佐藩士の刀は長いことで知られていましたが、捨て身の覚悟を決めた8人の白刃が月光に輝き、鬼神も思わずさけてしまいそうな、すさまじい気迫の抵抗だったといいます。
 しかし、多勢に無勢です。土佐側は、藤崎吉五郎が斬られ、宮川助五郎が深手を負ってとらえられ、残りの6人が逃走しようとしたところへ、さらに新撰組の援軍が到着します。
 安藤鎌次は、他の五人に、「おれがここでささえるから、早く逃げろ! みんな、生き延びてやることがあるだろ」と叫び、松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六、前嶋吉平を逃がしました。
 全身に刀傷を負い、絶命したかに見えた安藤でしたが、新撰組が引き上げて後に蘇生し、刀を杖に河原町の藩邸に帰り着きました。邸内の同志は、藩邸にいては咎めを受けるので、逃がそうとしましたが、安藤にはもうその体力がなく、自刃しました。
 捕らえられた宮川助五郎は、奉行所の牢に入れられましたが、土佐藩邸では、厳罰を加えるから引き渡してくれといい、むしろ、そうなることでよけいに過激に走られることを怖れた幕府の方が、引き渡さなかったといいます。
 そして、逃げた5人は、薩摩藩邸にかくまわれました。

 大政奉還の一月後、宮川助五郎は土佐藩邸に引き渡され、藩邸の牢に入れられましたが、坂本龍馬と中岡慎太郎は、それを陸援隊で引きとっては、という話し合いをしていた最中に、刺客に襲われたのです。
 一方、薩摩藩邸にかくまわれていた5人は、大政奉還の前に、薩摩藩邸を出ました。

 以下、10月6日の桐野の日記です。
 松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六、前嶋吉平
 この者どもは、昨年9月13日より故あって、薩摩屋敷へ召し入れ、置かれていたが、このたびまた故あって、お暇下されたとのこと。
 今日より十津川方面へ行くとのこと。

 五人は、どうやら全員陸援隊士となり、本川はこののちも、桐野に会いに来ています。

 龍馬と慎太郎が襲われたとき、まず新撰組が疑われたことには、土佐藩士、脱藩士と新撰組の対立が、ずっと続いてきたことがあったのです。

 大政奉還の後、京は不気味な空気に包まれ、ますます治安は乱れました。
 諸侯は上京してきません。
 そりゃあ、そうでしょう。
 なんの準備もない朝廷に、ぽんと名目だけの大政が投げ帰されて、表面上、無政府状態になったのです。
 いったい、なんのための上京でしょうか。藩地に引きこもっていた方が安全です。
 名目だけでも大政が奉還されたことの不安から、直後に、大政再委任運動が起こりました。
 佐幕派にとっては、大政奉還は討幕への布石ととれ、事実、そうなりつつあったわけですし、佐幕派、討幕派の対立は、かえって激化します。
 なにより肝腎の土佐藩において、その激化から、容堂公は身動きとれず、いっこうに上京の気配はありませんでした。

 10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
 桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
 大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
 一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。

 そして………、土佐藩在京の参政、神山佐多衛の日記です。
11月14日
 薩土芸を会藩より討たずんば有るべからざると企これあるやに粗聞ゆ。石精(中岡)の手よりも聞ゆ
 「会津藩は薩摩、土佐、安芸藩を討つべきだということで企てがあるという。中岡慎太郎も同じ事を言っていた」というんですね。
 
11月15日
 町御奉行より今日宮川祐五郎を受取、河原町御邸牢屋へ入候事
 松力へ行、否ヤ我宿より家来申来るは、才谷梅太郎(坂本変名)等切害せられ候由、仍て直に藤次下宿へ行、諸事手くばり等取扱致し候事
但梅太郎即死、石川精之助数カ所疵受、梅太郎家来深手也

 まず、町奉行所から宮川祐五郎が帰され、とりあえず牢に入れたことが語られます。
 そして、その夜、龍馬と慎太郎は刺客に襲われました。
 
 神山と同じく、土佐京都藩邸参政で、大政奉還の建白書に署名した寺村左膳の日記は、後にまとめられたものだけにもっと詳しいものです。事件の詳細が書かれた部分は省きまして、しめくくりの部分を。
11月15日
 多分新撰組等之業なるべしとの報知也。右承る否、御目附方よりは夫々手分し而探索させたるよし也。然るに此者両人とも、近此之時勢に付寛大之意を以黙許せしといえども、元、御国脱走者之事故、未御国之命令を以て両人とも復籍事にも相成ず、そのままに致し有し故、表向不関係之事
 ここで、すでに、新撰組のやったことだろう、という話が出ています。そして………、犯人は探索させているけれども、二人は脱藩者であると。こういう時勢になったので、罪は問わないことになったけれども、復籍したわけではないので、表向き、土佐藩邸は関係ないということだ、というのです。

 桐野がそれを知ったのは、翌々日のことでした。
11月17日
 坂元龍馬、一昨晩何者ともわからぬが、無体に踏み込み、もっとも坂元をはじめ、家来ほかに石川清之助手負いとのこと。家来と坂元は即死、石川は未だ存命とのこと。しかしながら、右の仕業は壬生浪士と見込み入る

11月18日
山田氏が同行し、土佐藩士岡本健三郎のところへ行き、それより坂元龍馬、石川清之助へ墓参りするところに、土佐藩士高松太郎(龍馬の甥・海援隊)、坂元清次郎(龍馬の姪の夫)が墓参りにて、同行して帰る。

 墓参りといいますか、二人の葬儀はこの日に執り行われたわけですから、岡本健三郎、龍馬の親族の二人といっしょだったということは、野辺送り、そして埋葬に、桐野は参列したということです。
 ここらあたりから、粛然と、桐野は、下手な歌も詠まなくなります。

 11月20日 再び神山日記です。
一昨日御邸へ駆込候新撰、薩へはいり候由、其者の口にて梅太郎一事大要分り候事但、恭助中村半次郎(桐野利秋)より聞
 土佐藩邸へ逃げ込んで来た新撰組が、結局、薩摩藩邸でかくまわれて、その者の口から、龍馬暗殺者がだれか、だいたいわかったと、土佐目付の毛利恭助が桐野から聞いてきた、というんですね。

 
 「土佐藩邸へ逃げ込んで来た新撰組」というのは、伊東甲子太郎を中心として、新撰組から分派して御陵衛士となっていた高台寺党です。新撰組本体により、伊東甲子太郎を殺され、斬り合いとなってまた死者を出し、生き残りが薩摩藩邸に保護を求めてきていたのですが、当日に他出していた阿部十郎と内海次郎は、土佐の河原町藩邸に駆け込んで追い出され、薩摩藩邸に保護されました。
 阿部十郎の回顧談では、河原町藩邸を追い出された二人は、陸援隊の白川藩邸をめざしましたところが、その門前で桐野が待ち受けてくれていて、薩摩藩邸にかくまわれた、ということになります。
 一方、西村兼文の「新撰組始末記」では、白川藩邸の陸援隊・田中光顕が、桐野に連絡をとって、二人は薩摩藩邸にかくまわれた、ということです。
 実際に、11月19日の桐野の日記には、三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛が駆け込んできたことと、その子細がのべられ、翌20日には、篠原泰介、内海次郎、阿部十郎の名前が並んでいます。
 しかし、土佐藩目付の毛利恭助の名前が見えるのは、その翌日です。

11月21日
我は土佐藩士毛利恭助、谷守部と同行して、伏見へ行き、泊す
高台寺党の面々は、薩摩の伏見藩邸にかくまわれていて、桐野は、谷と毛利を案内したんですね。

 もっとも簡潔に、王政復古の前夜、二人の暗殺から、海援隊、陸援隊が新撰組を襲う天満屋事件にまでいたる経過を報告しているのは、桐野が二人の埋葬の後にともにすごした、龍馬の甥、小野惇輔(高松太郎の変名)の書簡です。
 本文中にも見えるのですが、この手紙は、翌年、鳥羽伏見の戦いが終わったのちに、龍馬の兄夫婦に宛てて書かれたものです。親族への知らせが、二ヶ月も遅れるほどに、慶応三年の暮れは、激動の中にありました。
 卯之十一月十五日の夜、邸前の下宿にて海陸両隊長会談致しいたり。然るに辰の半刻戸外より案内を乞うものあり。僕藤吉といふもの出てその名を問ふ。十津川の士と答へ尋ねいで名札を出し、才谷先生に逢んことを乞ふ。僕先づ名札を取て樓に上る。彼も亦ひそかに其迹に尾ふ。僕知らずして才谷氏に告ぐ。ひとしく斬りて入る。僕六刀を受けて斃る。十六日の夕方落命。次に才谷を斬る。石川氏同時の事、然れども急にして脱力にいとまもなく、才谷氏は鞘のまま大に防戦すると雖、終にかなわずして斃る。石川氏亦斃る。石川氏は十七日の夕方落命す。衆問ふといえども敵を知らずといふ。不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。衆之を聞き会す。すなわち乗船17日朝入京、伏見より隊士散行す。其夜邸の命を受け、隊の式を以て東山鷲尾に葬る。神葬なり。
 十七日の夜、新撰隊(これは会の司る幕の隊なり)、京師七条の辺りにて戦ふ。王政復古に就て隊長近藤と井藤との二つに分る也、かの井藤は王政復古と知るべし。然るに同十八日之朝、井藤氏の隊中二士難を避け、ひそかに薩の邸に走り来り、才谷、石川氏の事件を中村半次郎といふ人に告ぐ。またわれらが隊中に告る。皆大にいかるといえども大事を思ひ、獨君公よりの御書付あれば、その確証を得んとしてみな白川邸に退く。同十九日の朝、隊中より二士を出して新撰の脱士に面会せし時、確証を得んとて薩の邸に行かしむ。行いて計らず毛利公の二士にあひ、二士われらに今日はまかせと留めらるるを以て、すなわちたくしてまた白川に帰る。夕方また新撰井藤の隊伏見の帰り、変を聞きしとて河原町の邸に入んことをこふ。邸、俗論を以て入れず。すなわち白川にさく。この夜子の刻頃、右の両士を薩の伏見の邸に送る(かたく衛るなるべし)。これより衆敵をうかがう。ついに十二月七日の夜辰の刻より衆茶屋に会し(この時白きはち巻をなす)、紀伊殿下陣御馬屋通り油の小路入る所に三浦休太郎(この人は幕、会、紀の間にありて大に奸をなすとなり)をはじめ、新撰隊長等およそ二十余人、薩土芸の王制復古の論を妨げんとて会せしを告る者ありて、すなわち十六人をまとめて表裏の二つに分ち、彼らを斃さんとて行く。策大にあたり、敵の人数十九人を斃す。手負す者八人と聞く(これは翌日に聞きしこと也)。味方一人死す。手負三人。乱れ皆よく苦戦す。のがるる者追て斃し、あるいはピストルにてうち大に心よく復仇して速に退く。すなわち子の刻なり。翌日の風聞、子の刻ころ、新撰隊士五十有余人変を聞きおしよせ、味方退きし後なれば空しく反るよし。
 右の通りの儀にござ候。実に隊中手足を失ひし如く存じ奉りそうらえども、仕方ござなく候。なお私よりは変死の節はやに申し上げ候儀なれども、時勢急なる故、やむをえず延引つかまつり候。惇輔も天下の為に死を致し候心得にござ候間、それより西東へ走り回りい候ゆえ、御叔父上様の変ははやに申し上げず候。この段平に御ゆるし願いたてまつり候。頓首   正月二十三日 小埜惇輔


 龍馬と慎太郎が襲われた11月15日、高松太郎は大阪にいて、翌16日の昼ころに知らせを受け取ります。
 大阪近辺にいた仲間に知らせがいきわたり、一同が伏見へ向かう川船に乗り、京へ着いたのは翌17日の早朝です。
 まだ命を保っていた中岡慎太郎に、みなが「いったいだれがこんなことを!」と問いますが、慎太郎は「知らない奴らだった」と答えて、17日の夕方に絶命します。
 18日の東山鷲尾埋葬時に、高松太郎は桐野と出会い、嘆きをともにします。
 高松太郎は桐野より四つ年下ですが、旧知の仲であったわけです。
 前回にも述べましたが、元治元年の暮れ、小松帯刀は大久保利通に「中村半次郎が神戸海軍塾に入りたいと言っているので、はからってやってくれないか」と頼み、同時に、脱藩扱いで海軍塾にいることができなくなった龍馬ほかの塾生を、薩摩で引き受ける話をしています。
 この塾生に、高松太郎もいたわけでして、おそらく桐野は、このころから塾生と親交があったのだろうと思われるのです。

 高松太郎は、ちょっと日にちをまちがえているようなのですが、以降の経過は、おそらくこういうことなのではないでしょうか。
 この18日の深夜に油小路事件が起こり、翌19日の早朝、三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛が薩摩藩邸に駆け込んできて保護を求めるのですが、桐野はちょうど帰京していた大久保利通の許可を得て、三人をかくまいましたところが、どうやらこのうちの二人が、龍馬と慎太郎の暗殺者が新撰組である旨を告げたようです。それを桐野は、ひそかに海援隊士に伝えたと。
 寺村左膳の日記に見えますように、すでに二人が襲われた15日から、新撰組がやったのだという噂はありました。
 また「新撰組始末記」は、生前の伊東甲子太郎と、20日に一人で薩摩藩邸に駆け込んだ篠原泰之進が、龍馬と慎太郎に新撰組が狙っている、と告げたという話を、「新撰組始末記」は載せています。
 おそらくこれは、11月14日の神山日記「薩土芸を会藩より討たずんば有るべからざる」に相当する話でしょう。
 ともかく、海援隊、陸援隊は騒然となっていたようです。
 
 この19日、内海次郎、阿部十郎は河原町土佐藩邸で門前ばらいをくらいます。
 邸、俗論を以て入れずの言葉に、高松太郎の歯ぎしりが聞こえるようです。
 ここにいたってまだ、土佐藩庁は覚悟を決めないのか、というもどかしさと、そして高松もまた、脱藩浪士であったがゆえに、よるべなく追われる身の悲哀を味わいつくしていたわけでして、自藩に頼ってくる者をかばう度量が欲しい、という切望があったでしょう。
 次いで、内海次郎、阿部十郎は陸援隊の白川邸に駆け込み、あるいは阿部の回想にあるように、白川邸には桐野が来ていたのでしょうか、夜を待って二人は薩摩の伏見藩邸へ送られます。おそらく、暗殺者が新撰組であると詳しく語ったのは、この二人であった可能性が高く、翌21日、海陸援隊から二人が、もっと詳しい話を聞こうと伏見へ行ったのですが、そこには、桐野とともに、土佐藩の目付である谷干城と毛利恭助がいて、「ここはおれらに任せとけ」といわれたので、引き下がったわけです。

 そして、翌11月22日、三千の藩兵を引き連れて、島津忠義公が、西郷隆盛とともに、伏見へ着きます。
 龍馬と慎太郎を失ったことへの悲しみは、西郷をもとらえていたでしょう。
 王政復古、新しい政体創出へ向けての大詰めは、この日にはじまりますが、龍馬と慎太郎は死をもって、薩長に土が並び立つ土壌をかためたのです。

 王政復古のクーデターを目前にして、12月7日、天満屋事件が起こります。
 海援隊の陸奥宗光が、海陸援隊士ほか浪士から有志をつのり、新撰組が守護する紀州藩の重臣三浦休太郎を襲った事件です。
 手紙に見えるように、この襲撃に高松太郎は加わっていました。そして、制札事件の後、薩摩藩邸にかくまわれていた松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六も加わっていたのです。
 三浦休太郎は、この年の春、海援隊が運用する大洲藩のいろは丸と紀州藩の汽船がぶつかった事件で、紀州藩側の中心となっていた人物であり、海援隊とは因縁がありました。交渉で、紀州藩が負けた形になったところから、龍馬に恨みを持ち、新撰組に暗殺させたのではないか、というような憶測もあって、この日の襲撃となったようです。
 しかし、高松太郎が「この人は幕、会、紀の間にありて大に奸をなすとなり」と書いていますように、龍馬の直接の仇というよりは、「薩土芸の王制復古」のためだったのではないでしょうか。
 長州はいまだ晴れて京都に入ることはできないため、王政復古のクーデターは薩摩が行ったのですが、その薩摩がはっきり味方と認識したのは、土佐と安芸だけです。
 ここに土佐が入ったのは、もちろん土佐藩討幕派に期待してのことですが、薩長の間に立って大きく働いてくれた、龍馬と慎太郎があればこそでした。
 ところが土佐は、この日になってもまだ、容堂公は京へ姿を現していず、後藤象次郎は煮え切らないままに、クーデターの日を迎えようとしていたのです。
 海援隊、陸援隊の中心人物は、岩倉具視あたりから、王政復古の概容は聞いていた可能性があり、同時に土佐藩への危惧も耳にしたでしょう。
 陸奥宗光は、「薩長に並んで土佐が立つ」という龍馬の悲願のために、土佐の支配下にある陸海援隊が紀州藩重役を襲った、という既成事実をつきつけ、後藤象次郎と土佐藩庁に後戻りの道がないことを、思い知らしめようとしたのではないでしょうか。
 しかし念願かなって土佐が立ったとき、高松太郎は、叔父・龍馬と慎太郎の死の大きさを実感します。
 二人が築いたものを受け取ったのは、藩の上士たちだったのです。

 そして12月9日、王制復古のクーデターの日。桐野は簡略に記しました。
 今朝八時、幕会の賊を攘わんため、一番隊はじめ、出勤する
 天気は、と。

 文久二年(1862)、はじめて京へ出た桐野は、それから幾度も脱藩を考えたでしょう。
 わけても元治元年には。
 しかし、西郷隆盛と小松帯刀の理解に守られ、脱藩することなく、この日を迎えることができたのです。
 外へ出たい、という思いを、常に桐野は抱いていたからこそ、脱藩士に共感を抱き得たのではなかったかと思うのです。
 国許にいたころ、脱藩する中井桜洲の背を、むしろうらやましく見たのではなかったかと。
 父を早くに失い、兄にも死なれ、貧しい一家を背負った身で、それは不可能なことでした。
 が、このとき桐野は、脱藩の身のよるべなさ、悲哀もまた、知る年齢になっていました。

 龍馬と慎太郎と、そして多くの非命に倒れた脱藩同志たちの思いを、桐野はこの日の風花のような雪に、かみしめていたでしょう。


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