郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州

2012年02月28日 | 近藤長次郎

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5の続編です。

 続編なんですけれども、まったくもって桐野は関係ない話ですし、タイトルを変えました。
 書く予定はなかったんですけれど、fhさまにお電話しましたところが、昔、沢村惣之丞に関することを大久保の書簡で見てブログに書いたことがある、ということでして、さっそく見せていただきましたところが、どーしても、書かないではいられなくなりました。
 今回、私は原本を見ておりませんで、fhさまのご厚意によります。

 鹿児島県史料のなかの大久保利通史料より、慶応元年(1865年)8月4日付新納・町田宛大久保書簡です。
 つまり、ちょうど伊藤博文と井上馨が、薩摩名義での武器と蒸気船調達に長崎へ出かけ、井上は7月28日に、小松帯刀、近藤長次諸とともに長崎を出港していますから、鹿児島入りしていたときの話です。
 実は、その鹿児島には、開成所(薩摩の洋学校)の教師として、沢村惣之丞がいます。

 大久保の手紙の宛先は、当時、密航してヨーロッパにいました新納刑部、町田久成。
 新納刑部は、五代友厚とともに欧州を視察しますとともに、薩摩のいわば外交使節団の長ともいえる存在でしたし、町田久成はイギリスにいました薩摩留学生の長です。えー、二人とも門閥ですから。
 といいますか、これまでいく度も書いて参りました、「少しははばかれよ幕府を!」と叫びたくなりますくらいド派手な、薩摩のヨーロッパ密航使節団および留学生のメンバーです。

 開成所益振起之内ニ而英学之方は当分牧退蔵教授方ニ而、其余近頃両三輩長崎より御雇入相成指南方いたし、蘭之方八木死後石川旅行等ニ而師員人数相闕候処、是以近頃江戸より三人御雇下ニ而指南方いたし候付、子弟中も一同差はまり奮励之向成立、無此上事ニ御座候、右蘭学者は勝安州門生一人(前河内愛之助)有之候、人物至而面白、数学ニ長候由

 洋学校もますます盛んになっておりますが、英学につきましては、牧退蔵(前島密)が教授で、そのほか、最近2、3人長崎より教師を雇い入れています。
 蘭学は八木称平(前田正名のお師匠さんです)の死後、石河が旅行に出て、教師の人数が足りなかったのですが、最近、江戸から3人雇いましたので、生徒たちもやる気になっております。
 蘭学者のうち勝海舟の門人が一人いまして、前河内愛之助(沢村惣之丞)といいますが、非常におもしろい人物で、数学が得意だとのことです。


 ド派手な使節団と留学生を出しまして、薩摩藩の洋学校・開成所では、先生が足らなくなっております。
 えー、えーと。さっぱり忘れておりました。
 ここで前島密が英語の教師になっているんですね。
 前島密は、 函館で武田斐三郎に洋学と航海術を学んだ人ですから、それで、生徒だった薩摩藩第二次留学生の吉原重俊が、江戸に帰りました斐三郎の洋学塾に入ったわけなんですね。納得。
 その前島密が長崎から呼び寄せました2、3人の英語教師の中に、続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?で書きました林謙三、後の男爵・安保清康、龍馬の最後に近い時期の手紙の受取人で、龍馬と慎太郎の暗殺現場に立ち会いました人物が、いたようです。

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 下・中編に出てまいります小松帯刀書簡で、龍馬が船を江戸へ借りに行っていることが知れますが、沢村惣之丞は、これに同行していました。
 龍馬は翌慶応元年の春、京都にいたことが確認できますが、どうも沢村は、江戸で直接、薩摩藩に雇われまして、鹿児島へ行き、洋学校のオランダ語教師になったようです。数学が得意!だそうですから、この人は、航海術もいけたんでしょうね(笑)

 で、その沢村が大久保に、こう言ったんだそうです。

当分ニ而は御国より遠行之事江戸辺ニ而も申触、眼ある国々ニ而は別而欣慕いたし居候由、尤有志之洋学者ハ是非薩ニ就テ志を述セん事を欲シ候

「薩摩藩がヨーロッパへ留学生を出したことは江戸でも噂になっていましてね、先見の明のある藩では、それはいいことだと憧れていて、留学したいと思う洋学者は、ぜひ薩摩藩に就職して望みを果たしたい、と思っているんですよ」

 ひいーっ!!!
 これ、昔、fhさまのブログで読ませていただいていたんですけど、前後の事情がわからず、ユニオン号事件に関係していますとは、夢、思ってなかった、です。
 普通に考えまして、沢村は、このとき鹿児島で、近藤長次諸に案内されて来ました井上馨に会い、井上が大久保と会ったときにも、長次郎とともに同席していたりしたんですよねえ。
 それで、井上のイギリス留学の話になり、薩摩藩の密航留学で高見弥一も行っているという話になり(英国へ渡った土佐郷士の流離参照)、長次郎とともに、うらやましいな、と言い交わしていたり、したんでしょうね。
 その後、長次郎にのみ留学の話が持ち上がって……、と考えると、なんとも切ないですね。

龍馬の手紙 (講談社学術文庫)
宮地 佐一郎
講談社


 この直後、坂本龍馬も慶応元年9月9日付け実家宛の手紙(青空文庫・図書カード:No.51409)で、「御国より出しものゝ内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候。日本よりハ三十斗(人)も渡り候て、共ニ稽古致し候よし」(土佐脱藩者の一人は、海を渡ってイギリスの学校へ入っているんだよ。日本からいま、三十人ばかりイギリスに行って、いっしょに勉強しているらしいよ)と、薩摩、長州の密航留学を語り、土佐の高見弥一がその中に入っていることを、誇っています。

 推定の上に推定を重ねた話にしかなりませんけれども、私は、龍馬は、近藤長次郎と中岡慎太郎、青山伯(田中光顕、じじいです)の三人が、伊藤と井上の好意で欧州へ行かせてもらえるという話を知り、承知していたのではないか、と思っています。

 そして、これも以前にfhさまが書かれたことなのですが、それから一年以上立ちました、慶応2年暮れ。
 この年、幕府は海外渡航を解禁し、各藩から、留学生の数は飛躍的に増えています。

中岡慎太郎全集
宮地 佐一郎
勁草書房


 「中岡慎太郎全集」収録の「行行筆記一」、慶応2年(1866年)12月8日条です。

聞、岩下、新納、各知行五百石を出し、小児を外国に出す云々。

岩下方平と新納刑部は子供を海外留学に行かせるために、それぞれ知行を五百石出した、と聞いたよ。

 一橋慶喜に将軍宣下があった三日後です。
 
 慎太郎は京都にいて、薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛などと、盛んに会っています。
 だれから聞いたのか、薩摩藩の重役、岩下方平と新納刑部は息子を留学させるために、知行五百石を費やした、というんですね。知行五百石って、いくらになるんでしょう??? 
 まあ、門閥でしたから、小さな息子を私費留学させてやれた、ってことなんでしょう。
 新納刑部の息子・武之助(竹之助)くんにつきましては、セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いたを、岩下方平の息子・長十郎くんにつきましては、岩下長十郎の死を、ご覧になってみてください。

 恵まれた彼らにも、それぞれに悩みも悲しみもあったのですが、しかし慎太郎はこのとき、近藤長次諸の死に思いを馳せたのではなかったでしょうか。
 そして、おそらくは、なんですが、長次郎の死とともに潰えました、自分たちの洋行にも。

 およそ一年の後、慎太郎は林謙三に看取られましてその生を終え、間もなく、沢村惣之丞も自刃して果てます。

 竹之助と長十郎の留学を聞いた後、慎太郎は小松帯刀の家へ向かいながら、小雪舞う空を見上げて、深く溜息をついたのではないかと、ふと、そんな気がしました。


クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (22)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5

2012年02月25日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4の続きです。

 前回、ですね。私、小松帯刀の書簡で、龍馬たち土佐の海軍塾生(神戸海軍繰練所と勝の私塾の区別がつき辛いものですから、まとめて海軍塾と呼ばせていただきます)について触れられている部分を意訳しましたが、これ、ほんの少しですが従来の解釈とちがうと思います。
 松浦玲氏が、「坂本龍馬」におきまして、この書簡の解釈に悩んでおられまして、確かに意味のとり辛い文面です。
 従来、非常におおざっぱに、「龍馬は船を調達に江戸へいっている。龍馬が船を借りられなかったら、勝の海軍塾生だった連中は役に立ちそうだから薩摩で雇ってやろう」くらいにしか、受け取られていなかったようなのですが、松浦玲氏に触発されまして、私、ちょっとまじめに悩んでみたんです。

 
坂本龍馬 (岩波新書)
松浦 玲
岩波書店


 従来、龍馬が船を借りられたとして、その船をどこの籍で運用するのか、といいますことが、まったく問題にされていなかった、と思うんです。
 薩摩は、長州に下関で沈められました長崎丸など、これまでにも幕府の船を借りていますし、薩摩が借りたい、ということですと、禁門の変でともに戦った直後ですし、貸す可能性はあったでしょう。
 龍馬は、最初から薩摩藩の船籍を使うつもりで、江戸へ、船を借りる交渉に行ったのだと推測できます。
 幕府籍で浪人が船を運用することは不可能ですし、勤王党員の浪士中心では土佐藩籍も無理です。
 となれば、薩摩しか考えられません。
 したがいまして、小松が「海軍塾にいた浪人たちを航海の手先に召し使えばいいんじゃないかな」といっておりますのは、この時点におきましては、龍馬が借りてくる予定の船ごと、であろうと思われます。

 それに関連しまして、小松が「もし龍馬が船を借りてこられなかったら、薩摩藩の船で使ってあげてもいいんじゃないかと考えている」という部分なのですが、これが従来、神戸にいた土佐の海軍塾生を含めて、考えられていたと思うんです。私はそうではなく、直前の「器械取扱候者并火焚水夫」、つまり幕府の翔鶴丸に乗り組んでいて士官と喧嘩した技術者や釜焚き水夫たち、おそらくは塩飽水軍の佐柳高次とその子分たち、のみだったのではないか、と思うんです。

 神戸海軍塾の塾生は、いわば見習い士官です。
 海軍塾の教育は、士官教育でして、薩摩の士官が乗り込んでいます船に、浪人を士官として乗せますことは、命令系統の乱れにつながりますし、船を一隻彼らのみに任せますならともかく、混在にはかなり問題があり、士官の命令に従うべき技術者(下士官と思います)や釜焚き水夫とは、話がちがうと、私は思うから、です。
 そして、薩摩の海軍士官のレベルは、土佐の海軍塾生よりは、上です。

 薩摩藩は、長崎のオランダ海軍伝習に、氏名がわかっているだけで、16人を出しています。
 その中で有名なのは、五代友厚と後の海軍卿・川村純義ですが、ともかく、勝海舟といっしょに学びました人数が、少なくともこれだけいたわけでして、一方の土佐はゼロです。(参考文献は勝海舟著「海軍歴史」。近デジにあります)
 はっきり言いまして、近藤長次諸をのぞけば、龍馬をも含めまして、実質、使いものになる士官はいなかったと思われます。 
 このことは、ユニオン号事件でも大きな焦点になってまいります。

 龍馬が、船を借りることをあきらめまして上方へ帰り、薩摩の保護下に入りましたことが確実に確認できますのは、慶応元年4月5日のことです。太宰府の五卿のもとにいた土方久元が吉井友実の家で、大阪の薩摩藩邸から出向いてきました坂本龍馬に会っています。
 この後、4月25日に胡蝶丸で薩摩にむかった模様なのですが、土佐の海軍塾生や翔鶴丸の技術者や水夫たちが、いつ大阪藩邸を離れたかは、はっきりとはわかりませんで、それぞれ、時期がちがっていたと考えた方がよさそうに思います。

 (追記)
 土方久元の「回天実記」4月21日条によりますと、この日、中村半次郎は山田孫一郎とともに京都藩邸を出て、帰国しています。翌日、西郷、小松、大山彦八が藩邸を出て帰国、となっていますから、これは、大阪で龍馬たちと合流し、胡蝶丸に乗り込んだ、と考えてよさそうです。
 半次郎の妻・久さんが大正年間に「坂本龍馬を歓待したことがある」と言っているのですが、翌年の寺田屋の後の4月には、河田小龍が京都藩邸に半次郎を訪ねているわけですから、この慶応元年のことと思われます。
 青空文庫の図書カード:No.52148 坂本竜馬手帳摘要で、「四月廿五日、坂(大坂)ヲ発ス。 五月朔、麑府(鹿児島)ニ至ル。五月十六日、鹿府ヲ発ス」ですから、5月1日~16日のどこかで、半次郎は自宅に龍馬を招いた、ということになります。



 中岡慎太郎と土方久元は、五卿問題で西郷隆盛に信頼をよせまして、薩長の連携のために動こうとしておりました。
 慎太郎は、このときすでに太宰府へ帰っておりましたが、龍馬と土方の間で話し合われましたのは、いかに薩長を結びつけるか、であったと推測できます。
 この後、龍馬の動きと慎太郎たちの動きは交錯するのですが、薩摩名義で長州の蒸気船を買う話が、長州から出たのか龍馬から出たのか、ともかく、幕府に敵対しています長州が武器や蒸気船を買い込むことはできませんから、蒸気船が欲しいけれども買えない、というその状況を見て、薩摩藩籍で買って運用は土佐浪士で、という思いつきは、当然、龍馬から出ていたのでしょう。

幕末維新の政治と天皇
高橋 秀直
吉川弘文館


 高橋秀直氏は「幕末維新の政治と天皇」の「第五章 薩長同盟の成立」におきまして、慶応元年(1865年)9月8日付け、長州の毛利敬親・定広父子から薩摩の島津久光・茂久(忠義)父子へ、「子細は上杉宋次郎(近藤長次郎)に話しておきましたので、お聞き取りください」と結ばれた書簡(「大久保利通文書一」収録)を送ったときに、すでに薩長同盟は結ばれたのだ、としておられます。
 果たしてここで同盟が結ばれたことになるのかどうか、私はかなり疑問なのですが、なぜ疑問なのかは後述するとしまして、高橋氏が、従来、武器、蒸気船の購入の名義借りの御礼のための手紙にすぎない、と軽く見られていましたこの文書に、大きくスポットを当てられましたことは、卓見かと思います。

 藩と藩の同盟が、最終的には藩主の同意がなければ正式なものとは見なされない以上、この手紙は、長州から薩摩への最大の働きかけであり、少なくともここで、長州が薩摩に同盟を申し出たことは、公式の事柄になったわけです。
 その手紙に、近藤長次郎の名前があるといいますことは、長次諸は従来いわれておりましたように、単に蒸気船の仲買者であったのではなく、薩長同盟へ向けて、藩主と藩主をつなぐ、非常に重要な使者だったわけです。
 これはもう、推測にしかならないのですが、前回に書きました上杉宋次郎上書によりまして、長次諸は久光に会ってもらっていたのだと思います。
 もちろん、龍馬は会っていないわけでして、同じ土佐の浪人でも、薩摩藩主父子への書簡を長州藩主父子が託しますのに、客観的に見まして、このとき、長次諸の方がふさわしかったわけでしょう。

 
龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 実は、ですね。吉村淑甫氏の「龍馬の影を生きた男近藤長次郎」は、長次郎自刃の原因となりましたユニオン号事件につき、なぜかまったく詳しくないんです。
 龍馬関係の著作が大方そうですので、これはどうも、土佐系の史料に詳しいものがないのだろうと、手持ちの本を調べてみました結果、中原邦平著「井上伯伝 中」が、一番詳しいとわかりました。
 私、ずいぶん以前にマツノさんが出しました復刻版を持っております。持っていながら、これまで、ろくに読んでいなかったのですが、ようやっと役に立つようです。

 中原邦平は長州の史家でして、この「井上伯伝」は明治40年の刊行ですから、井上馨(聞多)本人も伊藤博文も、まだ生きていたときに書かれているんです。主に木戸家から実物の書簡を提供されましたようで、原文引用をはさみつつ、かなり事実に即して書かれていると思います。
 といいますか、なぜ井上馨の伝記がこれほどユニオン号事件に詳しいのか、最初はよくわからなかったのですが、高橋秀直氏の論文を読んで、気づかされました。
 井上馨も、薩長同盟の要に近藤長次郎がいたと、おそらくは認識していたんですね。
 そして、それにもかかわらず自分たちのせいで長次郎は板挟みになって死んだのだと、どうも、心底から悼んでいたのではないか、と思えます。
 尾去沢鉱山事件のイメージが強すぎまして、聞多といえば厚顔、と思っていましたが、ちょっと見直しました。

 まず、「井上伯伝」を読んでわかりますことは、薩長提携のために薩摩名義で長州の蒸気船と武器を買う、という計画にかかわっていましたのは、龍馬だけではありませんで、中岡慎太郎も大きく噛んでいた、ということです。
 少なくとも、長州側の受け取り方はそうでして、実際、慶応元年後半の龍馬と慎太郎は、連携して動いていますし、蒸気船の名義借りにつきましても、慎太郎の薩摩への働きかけもあったと思われます。
 次に、これが後に大きな問題になるのですが、薩摩名義の蒸気船の購入につきましては、最初から長州海軍の大反対があった、ということです。

 長州が薩摩の名義を借りて、薩長の提携を深めていく、といいます話は、実は、薩長ともに、といっていいと思うのですが、かならずしも広く、藩内の合意が得られていたわけではありませんでした。
 中心となりましたのは、薩摩側では小松帯刀、西郷隆盛、吉井友実といったところで、一方の長州は、木戸孝允(桂小五郎)、井上馨(聞多)、伊藤博文に、後で高杉晋作が加わってきた、といったところでしょうか。
 龍馬、慎太郎の奔走により薩摩の合意が得られた、ということで、井上と伊藤は長崎での武器と蒸気船購入のため、7月16日、下関を離れました。
 ところが、その後にいたって木戸は、武器はともかく、蒸気船購入については長州の海軍局からクレームがついていて、裁可できるかどうか微妙だ、というような知らせを、藩庁から受け取ります。
 そして、このもめ事は、延々続いたんです。

 長州海軍につきましては、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いております。
 これにつけくわえますならば、長州海軍の重鎮でした松島剛蔵は、野山獄につながれていて、高杉晋作の功山寺挙兵が萩に伝わりましたとき、いわゆる俗論派によって殺されました。
 それから半年、松島剛蔵が生きていましたら、蒸気船購入はかならず、松島が中心になって行われていたにちがいないのですが、残されました海軍局メンバーは政治力のない者ばかり。
 いくら蒸気船を買ってくれと言っても、金がかかるからと断られ続けていましたのに、自分たちのまったく知らないところで、自分たちをまったくぬきにして、薩長提携のために、蒸気船購入が進められているというのです。
 海軍局から、文句が出ない方がおかしいでしょう。

 ちなみに、勝海舟の「海軍歴史」によりますと、長州は長崎のオランダ海軍伝習に15人も出していまして、これは、長崎防備をかかえました佐賀と福岡、そして海軍熱心だった薩摩に次ぎます、多人数です。
 攘夷戦で船は沈めてしまいましたけれども、海軍士官教育の質は悪くはなく、相当な知識を持ったメンバーがそろっていたといえます。
 木戸にしろ井上にしろ伊藤にしろ、海軍を軽視しすぎです。
 自分たちが運用するわけではありませんのに、です。海軍局ぬきで蒸気船購入の話を進めるなんぞ、いくら薩長連携のためでも、あってはならないことでした。

 長崎に着きました井上と伊藤は、長崎にいました薩摩保護下の神戸海軍塾メンバー(早いのかもしれませんが、以後亀山社中と呼びたいと思います)、社中のメンバー、千屋寅之助、高松太郎に会い、次いで、近藤長次諸と新宮馬之介などに紹介されます。
 長次郎はすぐに小松帯刀に連絡をとりまして、小松は、井上と伊藤を薩摩藩邸にかくまうとともに、武器(小銃)も蒸気船も薩摩名義で長州が買いますことを承知します。
 小松はこのとき、薩摩へ帰る予定がありまして、井上は長次郎とともに、小松に同行して薩摩へ行くことになりました。伊藤が長崎に残り、武器購入を進めます。

 蒸気船に関しましては、長州海軍局の不満が激しく、木戸も購入見合わせの手紙を二人に送ったのですが、伊藤は今さら中止にはできない、と返事を出します。
 結果、藩庁は、「蒸気船は全部で三隻買い、残りの二隻は海軍局に任せるから最初の一隻は井上、伊藤に任せる」ということで、海軍局をなだめます。
 とはいえ、本当にあと二隻船を買えるのかどうかも疑わしく、海軍局の不満はおさまりませんでした。

 井上は薩摩で桂久武や大久保利通などに会い、親睦を深めましたが、その間に長崎にいた伊藤が、グラバーの斡旋でユニオン号を、ほぼ購入候補に決めたようです。もちろん、その選定には、長崎の薩摩藩出先と亀山社中も、かかわっていたものと思われます。
 ユニオン号は下関で長州海軍局の点検を受け、その上で購入が決められることになりました。
 このころの伊藤の木戸宛書簡を見ますと、薩摩船に積み込みました長崎からの武器とともに、小松帯刀か大久保利通か、薩摩の要人が下関に行く予定があったようなのですけれども、結局、それは実現しませんで、井上は鹿児島から長崎、そして長州まで、亀山社中の同行を求めまして、近藤長次諸がその任を果たすことになります。

 8月26日、薩摩名義で買いこみました武器とともに、伊藤と井上、そして長次諸は、長州に着きます。
 長次郎は長州藩主の拝謁を得てねぎらわれ、先に書きました9月8日付けの島津藩主父子宛て手紙を託されます。
 確かに、高橋秀直氏のおっしゃっていることにも一理がありまして、長州藩側としましては、これでもう薩長同盟はまちがいがない、と信じての書簡だったのではないか、と思われます。
 ただ、私はやはり、それに対する薩摩藩主父子の返書があるまで、薩長同盟は成立したとは言い難く、返書がありましたのはほぼ一年近く後、第二次征長開戦直前の慶応2年(1866年)6月ですから、成立といいますならば、それをもって、ではないんでしょうか。

 ちなみに、このとき前田正名が、長州に返書を届けます使者の一人になって龍馬に見送られるのですが、それはまた稿をあらためまして。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3にも書いておりますが、その前田正名の兄は、薩摩藩が運用しておりました長崎丸を、長州に砲撃されたことで戦死しておりますし、続いて加徳丸事件が起こりましたことで、薩摩の交易事業従事の現場も、そして島津久光も、長州には多大な反感を抱いていまして、そのことが、開戦直前まで返書を遅らせ、長次郎を悲劇に追い込みますひとつの要因になった、と私は思います。

 そうこうしますうちに、ユニオン号がとりあえずの検分のため長州に姿を現し、長州海軍局も購入を了承して、このとき井上、伊藤とかわした近藤長次諸の約定では、船の名義は薩摩藩、長州が全費用を支払い、乗り組み運用は亀山社中で行い、平時は交易に使う、ということでした。幕府と和解できていません長州の船が交易をすることは不可能ですし、亀山社中の運用によって薩摩藩の交易に従事することで、名義借りの借りを返すのだ、との判断があったのでしょう。
 この9月に、中岡慎太郎と青山のじじい、つまり田中光顕が、長州にいます。
 まったくもって記録にはあらわれないのですが、ここで二人は、近藤長次諸と会ったはずなんです。

 従来、まったく結びつけて考えられていなかったことなのですが、私は、近藤長次諸が外国へ行く予定だった、という話は、中岡慎太郎と田中光顕がいっしょの計画だったのではないか、と思います。
 船便としましては、団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航に書いております、安芸の野村文夫、肥前の石丸虎五郎、馬渡八郎との同行を、グラバーは考えていたのではないか、と思われます。三人の実際の長崎出港は10月ですが、計画は、もっとずっと早くからあったでしょう。

 中岡慎太郎が9月30日付けで故郷の親族に出しました手紙に、「先頃之思惑にては外国へ参り申度」云々、つまり、「外国へ行きたくて計画したけれど、用事ができて中止になった」とあります。
 「中岡慎太郎全集」の解説では、田中光顕が12月22日付けで故郷の父親に書きました書簡にも「かねて外国に渡りたいという志があって、いまもますます思いがつのっているけれど、力が無くてなかなかかなわない。このことについて、中岡慎太郎と密かに計画していて、他の者は知らない」とあるそうなんです。
 そして、11月10日付けの伊藤博文書簡に「同人(長次郎)英国行之志ニ御座候処、我が藩のため両三月も遅延」とありまして、おおざっぱに考えますと、9月はじめころに計画があったと考えまして、おかしくないんじゃないでしょうか。

 いろいろと考え合わせますと、この洋行は、イギリス帰りの伊藤と井上が、薩長提携の仲に入ってくれました御礼として、長州の武器と船の代金から費用を出すことでグラバーと話し合い、中岡慎太郎と近藤長次諸に遊学提供を申し出たものではなかったでしょうか。
 長州側の身になりますならば、薩摩への働きかけにおいても、慎太郎がが多大な貢献をしてくれたのですし、慎太郎と青山のじじいは、龍馬たちとちがいまして、いっしょになって戦乱をくぐりぬけ、苦労してくれたわけです。
 近藤長次諸は、実際に動いてくれたこともありますが、長州藩主に目通りした、ということは大きかったでしょうし、伊藤と井上の認識では、薩摩藩主への書簡が書かれたといいますことは、それでもう薩長同盟はなったも同然だったでしょう。
 そして、慎太郎と長次郎の間には、切腹した間崎哲馬、という共通の知人がいますし、英語の勉強もしていたらしい長次郎の存在は、イギリスに渡るに際し、慎太郎と青山のじじいには、心強かったことでしょう。

高杉晋作 漢詩改作の謎
一坂 太郎
世論時報社


 高杉晋作が、近藤長次諸に送った漢詩があります。
 この親しみは、安積艮斎塾同門のよしみではなかったでしょうか。
 11月ころのものといわれます。
 上の本から引用で、読み下しは一坂太郎氏によりますが、一部、私が漢字をひらがなにしております。

 上杉宗次郎を送る
 突然相見て突然離る。未だ交情を尽さざるにたちまち別愁。
 此より去って君もし愚弟に逢わば、為に言え忘るなかれ本邦の基をと。


 突然君にあって、突然分かれる。親しむ間もなく、別れの悲しみにみまわれる。これからイギリスへ行って、もし弟に会ったら、日本の国の根本を忘れないでくれと、彼のために言ってやってくれよ。

 愚弟といいますのは、南貞助のことでして、本当は従兄弟なのですが、高杉家の養子になっていたこともあり、実の兄弟がいなかった晋作にとりましては、かわいい弟だったんですね。
 えーと、広瀬常と森有礼 美女ありき3に書いておりますね。貞ちゃんは、このときイギリスへ密航留学しておりましたが、森有礼や鮫ちゃんたちに誘われてカルト教祖トーマス・レイク・ハリスにはまりこみますし、岩倉使節団のときには、今度は自分が詐欺にはまりこみまして、鮫ちゃんもいっしょにはめて、欧州の日本人が集団で大がかりな金銭詐欺被害に会うという、一大事件を引き起こします。
 もう、なんといいますか、高杉晋作に素っ頓狂なところばかりが似まして、勘のよさは似ませんでして、実におもしろいお方で、私は大好きなんですけれども、またの機会に。

 それはともかく。
 ユニオン号は整備のためにいったん長州を離れ、近藤長次郎は預かった長州藩主の書簡を持って鹿児島入りし、忠義公に拝謁し、長州の意向を伝えます。
 このとき、返書がなかったのは、おそらく、なんですが、久光の承認が得られなかったから、ではないでしょうか。
 しかし、藩主・忠義公の意向で、海軍奉行の本田弥右衛門が長崎に出張することになりまして、グラバーとの本格的な金銭交渉、薩摩藩籍での登録など、すべて長次郎が中心になって、事は進みました。

 ところが11月上旬、ユニオン号あらため桜島丸に、長次郎をはじめとします亀山社中が乗り込んで、下関につきましたところが、問題が起こるんですね。
 長州海軍局にとりましては、自分たちがせっかく手に入れました蒸気船に、亀山社中が乗り組んで運用権を握る、といいますことは、許せないことだったんです。
 長州海軍には、長州海軍のプライドがあります。
 しかし、伊藤、井上との約束により、近藤長次諸は薩摩藩を説得したのですし、間に入りました長次郎にとりましては、突然ふってわきました長州側のクレームは、許容できないものでした。

 この問題、従来、おそらくは土佐勤王史かなにかを根拠に、龍馬が中に入って長州海軍局の言い分を入れ、解決したかのように語られてきましたけれども、「井上伯伝」によりますと、まったくもって解決しておりません。
 翌慶応2年(1866年)1月23日付で、木戸が書いた文章に龍馬が裏書きしました薩長同盟の盟約書、なんですけれども、箇条書きが終わった後、木戸は綿々と、「乙丑丸(桜島丸、ユニオン号の長州名)のことでは困苦千万で、どうかうまく運ぶように尽力をたのむ」と書いているんです。解決したのならば、これはありえません。
 いつ解決したのかといいますと、「井上伯伝」によれば、第二次征長開戦直前の6月、長州藩主へ、薩摩藩主からの返書がきましたときです。
 そしてこの返書は、高杉晋作の提案で、もう一度、長州藩主父子が懇願の書簡を書きましたことで、ようやく実現しました。

 話をもとにもどしまして、解決していませんから、伊藤博文は、長州海軍局員も連れて、近藤長次諸とともに長崎へ向かいました。
 これから後の話は、当時、長崎におりました薩摩藩士、野村宗七(盛秀)の日記が語ってくれるようです。
 原本は東大史料編纂所にありまして、私、彼の洋航日記をコピーしたくて、許可までは得たことがあるんですが、その後の手続きを怠りまして、まだ見たことがありません。
 土佐史談240号に、皆川真理子氏が、桐野作人氏から提供を受けられました日記の関係部分を抜粋しておられると知り、高知県立図書館からコピーを取り寄せました。
 土佐史談会さま……、隣の県の県立図書館にくらい、寄付してくださいませな。
 「史料から白峯駿馬と近藤長次諸を探る」という論文です。参考にさせていただきます。

 慶応2年(1866年)1月13日、長次郎は、伊地知壮之丞や喜入摂津など、薩摩藩の重役と会談しています。
 翌14日には、野村は、長次郎、伊藤博文、菅野覚兵衛(千屋寅之助)とグラバーの別荘で会っています。
 そして23日。
 野村のもとへ沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助が現れ、長次郎が「同盟中不承知之儀有之」自刃したと告げます。
 ちょうど、木戸が薩長同盟の条文をつづり、ユニオン号のこともどうぞよろしく頼むと、書いたその日です。

 長次郎の死の最大の要因は、やはり、薩長同盟におきまして、藩主父子から藩主父子への橋渡しという要に立ちながら、役目を果たせなかった、という自責なのでしょう。
 しかし、その死を野村に告げにきました三人は、亀山社中でも、土佐勤王党に属したメンバーで、長次郎とは肌合いがちがった、と思うんですね。
 自分たちの蒸気船乗り組みは保証されず、同じように活動しながら、長次郎のみがイギリスに遊学するとは許されない、という思いも、あるいはあったのではないんでしょうか。
 覚えておられるでしょうか? 沢村惣之丞は、龍馬とともに脱藩した人ですが、このほんの2年後、戊辰戦争の折りの長崎で、あやまって薩摩人を射殺してしまい、薩摩と土佐の関係がこじれることを恐れ、自刃します。
 まわりの薩摩人もとめたといいますのに、死に急ぎましたのは、長次郎を死に追い込んだことへの悔恨の念があったから、ではなかったんでしょうか。

 野村の日記によりますと、そのころ長崎の英語塾で前田正名と同じ布団に寝ていました陸奥宗光が使者になり、京都の小松帯刀に長次郎の死を知らせることになります。
 当時、京都にいました桂久武の日記では、2月10日に、小松から西郷へ、西郷から桂久武へという経路で、陸奥がもたらしました長次郎の死の知らせは届きました。
 皆川真理子氏は、龍馬の妻、お龍さんの後日談から、陸奥より先に、亀山社中の白峯駿馬が龍馬に長次郎の訃報を伝え、長次郎の妻に遺品を届けたのではないかと、推測なさっています。

  Wikisourceに、坂本龍馬関係文書/三吉慎蔵日記があります。
 通常、薩長同盟が成り立った、といわれます京都での西郷・木戸会談に立ち会いましたのち、龍馬は寺田屋で伏見奉行所の捕り物にあい、負傷して、京の薩摩藩邸にかくまわれます。
 いっしょにおりました三吉慎蔵によれば、京都への移動は2月1日のことでして、多くの薩摩藩士がそのもとを訪れ、大久保市蔵、岩下左次右衛門、伊地知正治、村田新八、中村半次郎と、桐野の名は5番目にあがっております。
 皆川真理子氏の推定があたっておりましたら、すでにこのとき、長次郎の死の知らせは龍馬に届いていたことになりますが、少なくとも2月10日には、半次郎もそれを知った、と思われます。

 河田小龍が、京都で近藤長次諸の死を聞き、薩摩藩邸を訪れましたのは四月のことで、新宮馬之介は九州、龍馬もお龍とともに鹿児島へ行っておりました。
 半次郎は、別府彦兵衛などとともに、惜しんであまりある長次郎の生と死を、小龍に語ったのでしょう。

 最後になりましたが、近藤長次諸顕彰会というサイトさんを見つけまして、記事というコーナーに、平成22年7月7日の高知新聞の記事が載っています。
 長崎の晧台寺に、長次郎の50年忌に青山のじじいが奉じた漢詩が残っていたんだそうです。
 若かりし日、ともにイギリスへ行くはずだった英才をしのんでのことでは、なかったんでしょうか。

 もう一つだけ、龍馬の「梅太郎」といいます変名、使いはじめた時期がいまひとつはっきりしないのですが、慶応2年からであるようです。私には、龍馬が近藤長次諸を悼んで、その別名、梅花道人にちなみ、その生をも引き受けて生きようとしたがための変名、と思えます。
 
 ずいぶん長くなってしまいましたが、長次郎は、もっとちゃんと調べて、ちゃんとした伝記を書きたいな、と思わせてくれる人でした。
 とりあえず区切りをつけまして、前田正名にかえります。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4

2012年02月23日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol3の続きです。

 元治元年(1864年)11月26日、小松帯刀が大久保利通に出しました書簡(「大久保利通関係文書三」)に、以下のようにあります。

 中村半次郎兵庫入塾いたし度内願御座候、御案内通之人物ニは御座候得共願通被仰付候而宜敷は有之間敷哉、御用立様ニ相成候ヘハ御国家之為若無其義は人ヲ捨候計ニ御座候、罷下候様被仰付候而も迚も罷下候向ニ無之候間兵庫ニ而も江戸ニ而も被差出候得は探索之為ニは相成場も可有之と相考申候、尚御吟味可被成候、此節長に参筈御坐候処病気ニ而被取残未病中ニ御坐候
 中村半次郎が神戸海軍操練所に入りたいと願っているんだよ。知ってる通りの人間なんだけど、願いをかなえてやってくれないかな。願い通りにしてやれば、薩摩のためになると思うよ。そうでなければ、せっかくの人材を捨てるようなもの。帰国しろといってもしないだろうし、神戸でも、あるいは勝が江戸に帰るようだから江戸でも、勝の塾に入れてやれば、幕府の内情がわかってためになるんじゃないかな。考えてやってみてくれよ。このたび、半次郎は長州に行くはずだったのに病気で取り残され、いまもまだ病気なんだよね。

 えー、ほんとーにいいかげんな現代語意訳ですので、ほんのご参考までに。
 ともかく、中村半次郎(桐野利秋)が、数学必須の海軍の勉強をしたがりますとは、仰天なんですけれども、なにしろ、坂本龍馬でさえ弟子になっております勝海舟の塾、ですからねえ。
 私思いますに、政治塾のつもりだったにきまってます。
 ちなみに、勝海舟は後年、『氷川清話』において、「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」と言っております。
 勝の言うことですから、俊才といいましても、決して理数系の俊才ではなかったと思います。

 もう一つ、気になりますのが、此節長に参筈御坐候処病気ニ而被取残未病中ニ御坐候の部分です。
 この元治元年、池田屋事件直後、西郷隆盛の大久保利通宛書簡には「中村半次郎は暴客(尊攘激派)の中へ入って、長州藩邸にも出入りしている。本人が長州へ行きたいというので、小松帯刀と相談の上、脱藩したことにして行かせることにした。本当に脱藩してしまうかもしれないが、もし帰ってきたら役にたつだろう」というようにありまして、しかし5日後の西郷書簡には「中村半次郎を長州へ行かせたが、藩境でとめられ入国できなかった」とあるんです。
 一見、半年近く前のこのことを言っているのかと思い込んで、見過ごしてしまいそうになっていたのですが、病気で取り残されて、いまも病気が治っていないとなれば、ちょっとちがいます。

 小松の手紙が書かれました11月、西郷隆盛は征長軍参謀になり、吉井友実と税所篤を伴って、長州処分のために現地へ出かけています。これに、西郷は半次郎を伴うつもりだったのではないんでしょうか。
 実際このとき、長州にいました五卿の遷座問題が起こりまして、西郷は遷座に反対の諸隊幹部たちを説得しようと、下関へ乗り込みました。五卿問題に尽力しました中岡慎太郎と半次郎は旧知の仲ですし、長州過激派に知り合いが多かったようですし、実際に行っていれば、活躍の場面があったはずでした。
 病気で取り残されました半次郎の無念、いかばかりか、です。

 この11月26日付け手紙に、ですね。小松帯刀は、半次郎のことを書きました直後に、龍馬と勝塾(あるいは神戸海軍操練所)の他の土佐人たちのことを書いています。意味がとり辛い文面なのですが、私なりに、以下、意訳してみます。

 神戸の勝海舟のところにいる土佐人たちは、幕府から蒸気船(黒龍丸ですかねえ)を借りて航海する計画があり、坂本龍馬という人物がいま関東へ行って借りる交渉をしていて、すでに話は決まったと言っていたんだ。これに関係して、高松太郎という人物が、国元の土佐の様子をうかがったところ、彼ら(勤王党員)にとって国元の政治向きはきびしく、帰れば命がないという状態だそうな。龍馬が幕府から船を借りてきたらそれに乗り込むから、それまで土佐人たちを預かってくれ、という話で、西郷などが京都にいた10月に、「船を幕府の所属のままで使うことも、土佐の藩籍で使うことも彼らには無理だろうし、薩摩藩籍にして使ってあげればいいんじゃないかな」という話になっていて、大阪の薩摩藩邸にいま彼らを一部、かくまっているんだよね。
 また、彼らとは別に、幕府の翔鶴丸に乗り組んでいた技術者や釜焚き水夫たち(塩飽水軍の佐柳高次とその子分じゃないんでしょうか)が船の士官と喧嘩してね、龍馬が借りてくる船に乗り組みたいといっていて神戸に残っていたんだ。食べるだけでも、といわれてあずかったよ。勝海舟が海軍奉行を免職になったそうだから、船を借りる話もどうなるかわからない。だめな場合は、うちの藩の船ででも使ってあげようかな、と考えているので、承知しておいてほしいな。


坂本龍馬 (岩波新書)
松浦 玲
岩波書店


 元治元年後半の政局は、禁門の変の後始末に終始します。
 このとき、京都におきます薩摩の政治向きの中心には、この年の春に島流しを許され、復帰したばかりの西郷隆盛がいます。
 禁門の変の直後、最初に勝のもとへ現れました薩摩人は、吉井友実で、龍馬といっしょだったようです。
 そののち、西郷と勝、龍馬の出会いがあるのですが、その詳細は、省きます。
 幕府側に立って禁門の変を戦わざるをえなくなってしまいました薩摩にとって、その後始末におきましても、幕府の動向を正確につかんでおく必要があった、ということでしょう。

 実は、ですね。松浦玲氏によりますと、勝海舟は、この年の8月23日に龍馬のことを書いて後、まったくと言っていいほど、日記に龍馬のことを書かなくなるのだそうです。
 間崎哲馬の紹介で、龍馬が勝塾に入った当時とは、状況がまったく変わってきておりました。
 間崎は切腹し、勤王党は壊滅状態。
 前年の政変以来、天誅組の変をはじめとするさまざまな事変、そしてこの年の池田屋事件、禁門の変でも、なんですが、多くの土佐勤王党員が国元で弾圧され、長州に与して戦い、命を落としています。

 幕臣である勝海舟のそばで政治秘書修業をしておりました龍馬は、しかし、あまりにも勝とは足場がちがいますことに気づき、これは私の想像にすぎないのですが、すでにこのころから、勤王党員が仲介しましての薩長の連携を、模索するようになったのではないでしょうか。
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 中で書きましたが、龍馬が最初に脱藩しましたときの目標は、薩摩の富国強兵策、海軍の取り組みを確かめることであった、と想像することは可能ですし、集団で勝塾に学びましたことで、小龍との約束の種は育ちつつあります。

 幕府ではなく、薩摩の懐に飛び込めば、新しい局面を開けるのではないか。
 そう考えて龍馬が走り出しまして後に、これもまた私の妄想にすぎませんが、龍馬本人か、あるいは高松太郎か、だれかはわかりませんが、半次郎は、海軍塾の土佐メンバーに出会ったのではないでしょうか。
 病気のため、西郷の共がかなわず、そちらから手伝いができないのならば、この土佐の海軍塾生たちといっしょになって、これから薩長提携の方向へ向かう手助けができたならばと、そう考えての海軍塾修業願い、だったのではないか、と、私は思います。

 結論から言いまして、神戸海軍操練所は閉鎖。
 12月6日ころには、近藤長次郎、新宮馬之介、千屋寅之助(菅野覚兵衛)が神戸から退散、12月の末ころには神戸にいた土佐人はすべて大阪へ行き、薩摩藩にかくまわれました。
 どういう経緯か、おそらく龍馬に私淑していた、ということかと思いますが、神戸海軍操練所で学んでいました紀州の陸奥宗光、越後の白峰駿馬なども、土佐人と同じく脱藩の形となり、薩摩の保護下に入ったようです。
 そして、龍馬は結局、船を借りることができず、しばらくは江戸にいたようですが、翌年の春には、合流したことが確認できます。

 結局、桐野は神戸海軍操練所へは入れませんでしたし、江戸の勝塾へ遊学した様子もありません。
 と、なりますと、これまた私の想像でしかないのですけれども、大阪の藩邸で、しばらくの間なりとも、土佐人たちの世話係をしたりしたのではないかと思うのですね。
 翌慶応元年(1865年)3月3日には、土佐脱藩者で五卿側近の土方久元が京都の吉井友実のもとに滞在しておりまして、「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と書いていますので、大阪にいたか京都にいたか、半次郎が上方にいたことだけは確かなんですけれども。

定本坂本龍馬伝―青い航跡
松岡 司
新人物往来社


 この、松岡司氏の「定本坂本龍馬伝―青い航跡」、ものすごく分厚く、膨大な史料を活用なさっているのですが、史料がそのまま引用されておりませんで、その解釈も、例えば今回引用しております小松帯刀の書簡など、私が原文を知っておりますものを見ますかぎりにおいては、かならずしも納得のいくものではなく、新書版ながら、松浦玲氏の「坂本龍馬」の方がすぐれている、と判断し、あまり参考にしてきませんでした。

 しかし私今回、拾い読みをしていて、どびっくりしたのですが、饅頭屋の近藤長次郎は、元治元年12月23日付け、つまりは薩摩藩の保護下に入りまして間もなく、島津久光へ、海軍振興の上書を奉っているというのです。
 「上杉宋次郎(近藤長次郎)上書」って、なにに収録されているんでしょう? ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。もしかして、「玉里島津家史料」かなあ、と推測しているんですけれども。

 ともかく、です。この内容が驚くべき、でして、長次郎くんは龍馬とちがいまして、相当まともに海軍の勉強をしたようなのです。おそらくは数学も、得意だったにちがいありません。
 とはいいますものの、この本の常で、原文全文の引用はなく、松岡司氏が書かれている内容の紹介になりますが。
 徳川氏以前は鎖国はおこなわれていなかった、というところから説き起こしました、ものすごい長文の上書なのだそうで、だいたいのところは以下です。

 国威というものは、国の大小ではなく、海軍の力と貿易の拡大で培えるもので、薩摩も山川港を開港し、西洋人を入れて取り引きを盛んにし、海外に商館を置いて、ロシアとも交易をはじめるべきだ。ロシアと西洋諸国には戦争の可能性があり、そうなった場合も、ロシアとの通商が盛んであった方が、日本の利益をはかれる。
 日本は四方を海に囲まれていて、海軍を優先した富国強兵策を急がなければならない。
 海軍振興の具体的な問題として、現在、日本が西洋から買った蒸気船が、1、2年もすれば使いものにならぬ船が多く、原因として考えられることは、運用士官の未熟さもあるが、購入したときにすでにかなり古くなっているケースも多い。
 対策として、海軍士官の養成を急ぎ、またドックが必要だ。
 ドックは、船舶の修理、保全にどうしても必要なもので、これがなければ、どのようにりっぱな船を買っても、すぐに使い物にならなくなってしまう。軍艦を持っていてドックがなければ、それは刀があって砥石がないようなものだ。
 ドックをつくるには製鉄所が必要だが、これはすでに建設がはじまっているので、ドックで軍艦の建造もするようにしたいものだ。
 そういった海軍全体の事業をするために、若い人を選んでイギリスへ留学させ、それぞれの勉強をさせるべきである。


 ひいーっ!!! 龍馬ばかりを見ていたばっかりに、「海援隊(亀山社中)は政治には熱心でも海軍に関してはほとんど素人ばかり」という偏見を持ってしまっていましたっ!!! 私、饅頭屋さん、なんぞと呼ばれていたという俗説にまどわされて、近藤長次郎のすごみをまったく知っていなかったことを、認めます。

 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1 vol2 vol3 vol4の内容は、私がこのブログを書く動機となりました最大のテーマを追っておりまして、大筋では、いまもまちがってないと思っております。
 ただ、細部を言いますならば、訂正の必要がある部分もありますし、以降に、もっと深めて書いたものもあります。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3の以下の部分なんぞ、確実に今回、訂正すべきなのだとわかりました。

 ちょうどそのころ、幕府の横須賀製鉄所建設が決定をみます。
 この噂は、多方面から薩摩に入ったはずです。
 まずはイギリスとオランダ。そして、幕府の中の横須賀製鉄所建設反対派から。
 ちなみに、肥田浜五郎は、オランダへ出向く以前、勝海舟が主導した、幕府の神戸軍艦操練所で教授をしていました。
 これは、築地にあった幕府の軍艦操練所とは方針がちがい、他藩士も多くとることにしていましたので、一応、薩摩藩士も通っていたのです。


 訂正といいますか、ここに、長次郎の上書を入れるべきなんでしょうね。
 そうでした。長次郎は肥田浜五郎の教えを受けていたんでした。
 安積艮斎にいたといいますことは、間崎哲馬に紹介され、小栗上野介に会っていた可能性だってあります。
 ロシア交易について述べています部分は、いろは丸と大洲と龍馬 上に書いておりますが、文久元年(1861)、武田斐三郎がロシア領のニコラエフスクまで交易に出かけたことを、長次郎は、知っていたのだと思います。

 どうして知ったかといいますと、これは広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、武田斐三郎はプチャーチンの応接をしていて、安積艮斎はプチャーチンが持ってきましたロシア国書の返書を起草したり、しているんです。面識があって不思議ではありませんし、艮斎がロシアとの交易に興味を持たないはずもないんです。
 河田小龍の教えを受けて素直に伸び、長次郎は着々と研鑽を重ねて、おそらくは小龍が褒め、憧れていただろう薩摩の殖産興業政策と海軍振興に、自分が直接かかわることになったんですね。
 
 五代友厚の留学生派遣の建白書がいつだったんでしょう? ちょっといま、五代の全集が出てきません。
 五代と長次諸の間に連絡はなかったんでしょうか?
 これは、まだまだ調べなければならないことが多いテーマですので、またあらためて取り上げることにします。
 それにいたしましても、薩摩の第一次密航英国留学生たちが鹿児島を出ましたのは、元治2年(慶応1年、1865年)1月20日。
 長次郎の上書から一ヵ月しか間がありませんで、非常に微妙なのですが、準備は以前から進められていたにしましても、上書が派遣の背を押したことには、まちがいがないでしょう。

 あと、長次諸が鹿児島入りした時期もわかりませんで、もし上書の時期に鹿児島にいたのだとしますと、長次郎は、土佐出身で留学生の仲間入りをしておりました高見弥一(英国へ渡った土佐郷士の流離参照)に会い、いずれは自分も、と胸をふくらませていたかも、しれません。
 といいますか、高見弥一は、土佐から最初に藩の命令で勝塾に入っておりました大石弥太郎の従兄弟、でして、機会さえありましたら、長次諸はかならず、会っていたでしょう。
 
 そして、ドックです。
 必要性はおそらく、薩摩でも認識されていました。
 しかしだからこそ、横須賀製鉄所といいます、造船まで可能なドックに、幕府が取り組もうとしておりましたことは、衝撃だったのだと思います。
 この衝撃が手伝いまして、薩摩は留学生だけではなく、使節団を欧州へ送り出し、外交交渉をはじめようとしたといってよく、山川港を開くといいましても、独自の通商条約が必要になってきますし、この長次郎の上書に欠けていますのは、そういった政治面なのですが、あるいは、非常に不穏当になりますことから、文面では省き、口頭だった、ということも考えられます。

 一方、薩摩は、ドックは長崎に造ることになりました。
 通称ソロバンドック、小菅修船場です。
 グラバーの手を借り、完成は明治元年も末のことになりました。
 グラバーではなく、モンブランが手を貸していた、というような話もありましたので、以前に長崎へ行ったとき、写真を撮ってきております。






 なんか、ですね。
 ここまで書いて参りましただけで、私、従来の饅頭屋・近藤長次郎像は、大幅に書き換える必要があると思います。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社



 吉村淑甫氏の「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」は、好著です。
 氏は、長次郎のご子孫に出会われ、史料がごく少ないにもかかわりませず、非常な愛情を持って長次郎を造形しておられまして、安積艮斎自筆の門人帳に名がないにもかかわらず、入塾を確かなことと推定しておられます。
 私も、この推定には大きく頷けますし、吉村氏のこの書なくして、長次諸は語れないとも思います。
 しかし、長次諸は決して「龍馬の影を生きた男」ではありません!!!
 
 なにやら、またまたけっこうな長さになりましたので、これは下の中編とし、下の後編で、結末をつけようと思います。
 ようやく、ユニオン号と薩長同盟です。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol3

2012年02月21日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol2の続きです。

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書きましたが、饅頭屋の近藤長次郎は、最晩年の安積艮斎に師事したものと推測されています。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 安積艮斎につきましては、生誕の地であります安積国造神社のサイトをご覧ください。生涯、門人、漢詩文の代表作まで載せてくれています。

 肖像画もこのサイトに載っていますが、なかなかに味のある、いい顔のように思えます。
 しかし吉村淑甫氏によれば、「わしが今日の栄達を得たのは、昔、妻女に嫌われたことが原因である」と、艮斎本人が言っておりまして、16歳にして隣村の叔父の家に婿養子に行きましたところが、艮斎があんまりにも醜いので、従姉妹でもあり妻でもある家付き娘が口も聞いてくれず、艮斎はいたたまれなくなりまして、学問で身を立てる決心をし、家出して江戸へ出たのだそうです。
 なんでこの面食いの私が、若い娘が口をきくのもいやがるほど醜い男の話を書いているのかと思うのですが、まあ、そこまでいきますとねえ。醜いのも個性です。書く文章は、とても美しかったそうですし(笑)。

 安積艮斎が24歳にして、江戸神田駿河台に私塾を開いた、といいますのは、旗本小栗家の敷地内でのことでして、当然のことなのですが、小栗家の嫡子・小栗又一(忠順・上野介)がここで学んでおります。
 小栗上野介はいうまでもなく幕府の殖産興業の中心となり、幕府海軍最大の事業でした横須賀製鉄所を軌道に乗せたお方です。
 バロン・キャットと小栗上野介が一番まとまっているかと思うのですが、ともかく、横須賀製鉄所設立の価値は明治海軍も認め、朝敵とされました上野介ですけれども、海軍だけは価値を認めて顕彰していた、といいます。

 日本海軍の基礎を築く、という面におきまして、実は勝海舟はほとんどなにもしておりませんで、海舟が政敵として嫌っておりました小栗上野介が中心になって築いたものが、新政府に継承されたわけでして、一方、上野介が三井にやらせました生糸取り引きを中心とします商社活動には、維新後、長州閥が寄生し、井上聞多(馨)が「三井の番頭さん」と呼ばれるようにもなったりします。

 それはともかく、安積艮斎の門人には、木村芥舟、栗本鋤雲と、小栗上野介が進めました富国強兵策の協力者がいます一方で、吉田松陰、高杉晋作の過激倒幕派子弟がいます。
 しかし、松陰の思想の中にも富国強兵的な面がありまして、弟子の中で一番、高杉がそういった面を受け継ぎ、いっときは海軍を志しましたことは、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いております。古い記事ですが、このとき書きましたことは、ユニオン号事件で近藤長次諸が自刃するにいたった経緯に、かなり深く関係しますので、後でまた取り上げます。

 早稲田大学の古典籍総合データベースで、安積艮斎著作は、かなりの数がデジタル公開されていますが、この洋外紀略を嘉永元年(1848)、つまりはペリー来航の数年前なんですが、黒船騒動が頻発します時期に書いて、世界地誌を説き、海防、海外交易を論じていますのは、注目すべきですし、塾生が受けるインパクトは大きかったことでしょう。
 ここに、三井が近代的な商社に脱皮する機会を与えました小栗上野介、海運業から出発しまして商社となりました三菱の創業者・岩崎弥太郎の二人が学んだといいますことは、勝塾ではなく、こちらにこそ、商社に育ちます種はあったことになります(笑)

 おそらく、なんですが、その岩崎弥太郎の紹介を受けまして、短い間ながら、近藤長次郎は安積艮斎に学んだわけです。
 艮斎塾の学頭でした間崎哲馬(滄浪)がいつ再上京したのか、私にはちょっとわからないのですが、文久元年(1861年)に江戸で勤王党が結成されましたとき、間崎は土佐に帰っていた、という話があるのですが、それ以前には、再び江戸に遊学していた、というようにも言われているようです。
 そして、前回に書きましたが、江戸で土佐勤王党の盟約文を起草しました、高見弥一の従兄弟の大石弥太郎。弥太郎さん、武市半平太とは、江戸の桃井春蔵の剣道塾・士学館でいっしょに学んだ仲ですが、この文久元年3月には、藩から洋学修行の命を受けて、勝海舟の塾に学んでいました。
 
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 上の最後に、長次郎くんは、土佐藩邸の刀鍛冶・左行秀に学費を出してもらい、高島秋帆に弟子入りし、勝海舟にも弟子入りしたということを述べたんですが、これは、河田小龍の「藤陰略話」に書いてあることでして、これによりますと、長次諸は、龍馬とは関係なく、龍馬より先に、勝海舟の塾に入っていたことになるんです。
 勝塾へは、高島秋帆の紹介、ということも考えられるか、とも思ったんですが、左行秀かもしれず、私は、艮斎塾の先輩、間崎哲馬の線が濃厚ではないか、と思うんですね。なにしろ、艮斎塾の学頭だった間崎です。相当、顔がきいたと見てよく、ともかく、長次諸は龍馬より先に、少なくとも大石弥太郎と同じくらいには、勝塾に入ったと見てよさそうに思います。

坂本龍馬 (岩波新書)
松浦 玲
岩波書店


 坂本龍馬の虚像と実像松浦玲著『新選組』のここが足りないに書いておりますが、松浦玲氏のご意見には、ときどきついていけなくなりまして、呆然とすることもあるのですが、この「坂本龍馬」は、そこそこ納得のいくまとめ方がされていまして、そしてなにより今回気づいたのですが、松浦玲氏は文章がすばらしくお上手です。
 わけても「はじめに」で、島津久光が率兵上京をし、龍馬が脱藩して江戸にたどりつき、勝塾に入りました文久2年の政治状況と、勝海舟の当時の立場を、多少美化されたきらいもありますが、コンパクトにわかりやすくまとめておられます。

 ともかく、です。
 藤井哲博氏の「咸臨丸航海長小野友五郎の生涯―幕末明治のテクノクラート」 (中公新書 (782))には、勝海舟について、以下のようにあります。

 なるほどその(勝海舟の)経歴は日本海軍の父と呼ぶにふさわしい。
 しかし、これらの経歴を通して、果たして彼は日本海軍の基礎作りに、実質的にそれほど貢献したのであろうか。答えは否というべきだろう。当時、幕閣も諸有司もそのことはよく承知していた。だが彼には、人一倍すぐれた才能が備わっていて、ある意味では幕府に是非必要な存在だった。それは、巧みな弁舌をもって周旋・調停をする能力である。これは親譲りの才能らしく、彼の父小吉は、本所界隈の無頼の徒のもめごとを巧みに収拾し、それが生活の資を得る手段にもなっていたと、『夢酔独言』で自らのべている。
 海舟は、航米後いったんていよく海軍を追われたが、大久保越中守忠寛(一翁)、松平慶永(春嶽、政治総裁職に就任)、将軍家茂など、海軍のことに暗い時の権力者に直接接触する機会を作って、これに働きかけ、海軍に返り咲くことができた。


 藤井哲博氏は、海軍兵学校で学び、帝国海軍に在籍したことのある方でして、戦後は京都大学理学部などで学ばれました理数系の方です。海軍史を研究されて、「長崎海軍伝習所―十九世紀東西文化の接点」 (中公新書)も書いておられますが、技術者の視点から見ましたとき、勝海舟は巧みな弁舌をもって周旋・調停をする政治家であって、海軍の基礎作りに貢献したわけでは、決してないわけなのですね。

 オランダの長崎海軍伝習で、勝海舟が数学に苦しんだらしいことは記録に残っていることですが、航海術、測量術、砲術など、海軍を学習します基礎には数学が欠かせないんです。
 高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますが、海軍を志しました初航海の後、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」(性格がおおざっぱで、狂い気味なんだからさ、航海術なんぞというちまちま細かなものは、向いてなかったね)と、高杉は挫折するのですが、船酔いもしたかもしれませんが、それより、見習い士官として船上で学びました航海術必須の数学に、うんざりしたんでしょうね。

 松浦玲氏は、この藤井哲博氏の説を、かなり受け入れるようになっておいでのようです。 
 長崎のオランダ海軍伝習で5年間の長きにわたって数学と取り組み、悪戦苦闘いたしました勝海舟は、41石と石高は少ないながら直参旗本となり、海軍伝習を受けた中では家柄がよく、売り込みの才にも長けておりました。
 そんなわけで、咸臨丸の太平洋航海が決まりましたとき、勝は自分で自分を売り込んで艦長になったのですが、ほとんどなんの役にも立たずに終始しました。それは、実質的に艦長のような役目を果たしましたアメリカ人・ブルック大尉の日記や、咸臨丸に乗組んでおりました斉藤留蔵の手記などで、確かめられることでして、東善寺さんのサイトの「咸臨丸病の日本人」にも、簡潔にまとめられております。

 勝海舟というお方の値打ちは、周旋、調停といいます政治家としての能力にありまして、その国内政治活動のために海軍を使ったのであって、国防を真剣に考えて海軍の基礎作りに寄与した、というわけでは、まったくもってないんですね。
 松浦玲氏は「坂本龍馬」におきまして、龍馬が出会った当時の勝海舟について、「政治に海の時代を開こうと奮闘中だった」と、すばらしく美しい表現を使っておられますが、これは「海軍を人質に政界に乗り出そうと奮闘中だった」と言い換えましても、まちがいではないと思います。

 咸臨丸が日本へ帰りつきましたとき、勝海舟は咸臨丸の部下たち、つまりは長崎で海軍伝習を受けました海軍仲間から嫌われ、海軍からはずされます。蕃書調所や講武所に二年ほどいました。

 そして文久2年、島津久光の率兵上京があり、久光は勅使とともに、幕政改革のために江戸へ向かいます。
 圧力に屈した幕府は、朝廷の要請にしたがった改革を行い、一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職となり、かつての一橋派幕臣が全面復権するんですね。
 それが、勝には幸いしました。勝は島津斉彬と面識がありましたし、春嶽の片腕として活躍し、安政の大獄で刑死しました橋本左内とも知り合いで、一橋派の人脈に連なっていたのです。
 一橋派の復権と重なりますように、勝海舟は「将軍や幕府高官の移動は蒸気船で行い、江戸と京都の関係が、素早く、潤滑に取りはからえるようにしよう」という建白を行い、軍艦奉行並に返り咲きます。

 まあ、確かに、将軍さまが蒸気船に乗られることには、それなりの意味があったかもしれないのですが、問題は、蒸気船の数にも、それを運用する人員にも、限りがあったことでして、勝が、ですね。自分の蒸気船に将軍さまやら高官やら、お公家さんやらを乗せまして、「どうです、海風がよござんしょ?」なんぞと機嫌をとりつつ、自分の望みを果たそうとしている間に、ですね。幕府海軍が真摯に取り組んでおりました小笠原開拓事業は中止になりまして、おかげさまで小笠原諸島が日本領と確定しますのは、ようやく明治9年のことになります。

 脱藩した龍馬が江戸にたどりつきましたのは、ちょうど、勝が海軍に返り咲いた直後でした。
 9月10日付けで、間崎哲馬が江戸から国元に出した書簡に、龍馬の名が出てくるのですが、この時点ではまだ、勝塾には関係がなさそうです。
 平尾道雄氏が、龍馬を勝海舟に紹介したのは千葉重太郎としておりましたのは、勝が後年に書きました「追賛一話」に、年月日は記さないで「坂本氏は剣客千葉周(重)太郎とともに氷川の拙宅を訪ねてきたので、海軍の必要を大いに説いたら、坂本氏は、公の説によっては刺そうと思って来たが、自分がまちがっていたようだ、いまから公の門下生になる、と決心した」というようなことを書いていまして、これをもとになさったんですね。
 
 この年の暮れ、越前藩の記録・「続再夢紀事」に、12月5日付けで、「土佐藩の間崎哲馬、坂下(本)龍馬、近藤昶次郎(長次郎)が来て、春嶽公が会われた。彼らは大坂近海の海防策を申し立てた」とあります。
 吉田東洋暗殺によって、武市半平太は土佐藩政を牛耳れるようになりまして、土佐勤王党は躍進し、このときの間崎哲馬は、江戸の土佐藩邸で重きをなしています。龍馬は脱藩の身ですし、近藤長次郎はおそらく、士分になったばかりのころですから、政事総裁職の春嶽が彼らにあったのは、どう見ても間崎哲馬がいたから、です。
 土佐藩は、幕府から大阪湾岸の防衛を任されておりまして、住吉に広大な土地をもらい、吉田東洋の指揮で住吉陣屋を築いておりました。まあ、このおかげで、維新直後に堺事件を起こしたりするのですけれども、それは置いておきまして。

 この直後、12月11日付けの勝海舟の日記に「当夜、門生門田為之助・近藤昶次郎来る。興国の愚意を談ず」とあり、はじめて長次郎の名が現れますが、すでに長次郎は門生であり、松浦玲氏によれば、勝海舟の日記は相当にいいかげんなものだそうでして、とっくの昔に入門していた可能性が高いんです。
 龍馬の名が初めて勝の日記に現れますのは、この20日ほど後の大晦日です。
 勝は、幕府の蒸気船・順動丸で小笠原図書頭長行を大阪へ運び、兵庫で、航海で傷つきました順動丸の修理をしていました。
 その順動丸に、千葉重太郎と坂本龍馬が訪ねてきて、勝に京都の上京を訪ねた、というんですね。

 千葉重太郎は、坂本龍馬が長く修行していました千葉道場の師匠であり、友人でもありましたが、鳥取藩士になっておりまして、鳥取藩主は、一橋慶喜の実兄・池田慶徳です。このとき、藩主の上京にともない、重太郎は、周旋方となって上方へ派遣され、どうやら、龍馬と同行したようなのです。
 「追賛一話」は、どうもこのときのことを書いたらしいのですが、勝塾には長次郎がいるわけですし、龍馬がいつ入塾したかは謎なのですが、確実なのは、やはりこのときでしょう。
 翌日、文久3年の元旦の勝日記には、「龍馬、昶次郎、十(重)太郎外一人を大坂へ到らしめ京師に帰す」とあるそうでして、長次諸が登場し、順動丸に乗り組んでいたことがはっきりします。

 続きまして、その8日後、1月9日の勝日記には「昨日土洲之者数輩我門に入る、龍馬子と形勢之事を密議し、其志を助く」と、あるそうです。
 龍馬は、自分が入塾すると同時に、土佐藩士を多く勝塾に誘ったようです。当時はまだ、勤王党の弾圧ははじまっておりませんで、おそらく、なんですが、これは春嶽公に訴えました、土佐が受け持つ大阪近海の防備をどうするか、という方策に結びつくものだと思えます。
 大阪は当時の日本の物流の中心ですし、土佐が海軍を持てば、当時はどうもそれが流行の考え方だったようなのですが、暇なときには通商に使える、ということで、とりあえずは海軍の人材を育てよう、といいます、小龍との約束の話につながるんですね。
 小龍の話は、土佐のコーストガードでしたけれども、龍馬が取り組もうとしておりますのは、土佐藩が受け持ちます大阪近海のコーストガードも含めて、の話に発展しております。
 実際、例えば長崎防衛を任されておりました肥前や福岡、そして薩長という雄藩にくらべまして、土佐の海軍への取り組みは著しく遅れておりまして、勝が塾頭でした長崎のオランダ海軍伝習に、一人も藩士を送っておりませんでした。

 これ以降、龍馬はさかんに土佐藩士を勝塾に誘い、その多くは勤王党員です。
 特筆すべきは、龍馬といっしょに脱藩しました沢村惣之丞が入塾したことでしょうか。
 この人は後に、近藤長次諸の死に、深くかかわることになります。
 ほとんどが勤王党員だった、とはいえ、です。小龍が育てておりました農民の子、新宮馬之助も入塾しました。江戸へ遊学中に入塾、ということですから、あるいは龍馬ではなく、長次郎が誘ったのかもしれませんが、長次郎が死んだ後々までも、その遺族と交流を持ったのは、新宮馬之介のみであったようです。

 いずれにいたしましても、龍馬はこの時期、脱藩の罪を許され、また龍馬が誘いました塾生ともども、土佐藩から航海術修行を正式に命じられた形になっています。
 しかし、どうなんでしょうか。
 高杉晋作が、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」と述べて海軍終業に挫折いたしましたのに、龍馬は高杉よりおおざっぱな性格ではないとでもいうのでしょうか? 数学が得意だとでもいうのでしょうか?
 私には、とてもそうは思えません。

 この3月、龍馬は故郷の乙女姉さんに「日本で一番すごい人物、勝麟太郎という人の弟子になったよ。以前から、毎日思っていたような方面で、がんばってます」と書き、5月には「天下に二人といない軍学者・勝麟太大先生の門人となって、とてもかわいがられ、客分みたいなものになっちゃっているよ」と書いています。
 どちらの書き方も、航海術やら測量術やら砲術やらを学んでいるとは、とても思えない書き方で、龍馬が勝に学んでいたのは、勝が得意としました巧みな弁舌をもって周旋・調停をする政治であり、実際に、龍馬は非常に社交的で、明るく、そういう方面に長けていまして、勝に気に入られ、例えて言いますならば政治家秘書の修行をはじめた、というようなことであったのではないでしょうか。

 文久3年は、激動の年でした。
 長州が攘夷戦をはじめ、薩英戦争があり、8月18日の政変で過激公卿と長州が都を追われ、天誅組の変は失敗に終わります。
 土佐勤王党にも破局が訪れました。
 最初は、間崎哲馬をはじめ、武市半平太が頼りとしました中核人物、三人の切腹です。
 次いで、山内容堂は、完全に藩政を掌握し、吉田東洋暗殺を問題としまして、半平太も投獄されます。
 この年の暮れには、勝の塾生であります勤王党員にも帰国命令が出されますが、ほとんど全員がそれを無視しましたので、脱藩の身になります。



 神戸海軍操練所跡地の記念碑です。去年、神戸に行き、撮ってまいりました。
 この年から、勝海舟は神戸海軍操練所の開設準備をしておりました。
 それまでの間、最初は大阪に、次いで神戸に勝の私塾がありました。
 翌元治元年(1864年)、築地の軍艦繰練所が火災にあったこともありまして、5月に神戸海軍操練所が開かれます。
 しかし、これがどうも、あまり落ち着いて勉強ができる場では、なかったようなのですね。
 
勝海舟 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)
松浦 玲
中央公論新社


 松浦玲氏の「勝海舟」に、薩摩の伊東祐亨、後の元帥海軍大将、日清戦争におきましては連合艦隊司令長官だった人ですが、この人が神戸海軍操練所について、語った言葉が引用されています。孫引きです。

 「授業の時間はおおむね午前中に終るので、放課後は各藩士は、おのおの同藩のみ相集合し、あつまれば要なき時事の慷慨話にふけり、ために伝習をさまたげらるることも多し、ややもすれば、それがため講学を休まねばならぬ場合も少なくなかった」

 これ、検索をかけてみますと、どうも、明治43年の「日本及び日本人 南洲号」に載っています「余の観たる南洲先生 伯爵 伊東祐亨」の一部であるらしいんです。
 個人の方が Yahoo!掲示板にもう少し長く、「余の観たる南洲先生」をあげておられるのですけれども、どこまで正確かはわからず、上の引用とは語句の異同がかなりあります。本当は、国会図書館ででも確かめる必要がありますが、いまちょっと暇がありませんで、同じものだと考え参考にさせていただきますと、この後、若かりし日の伊東は「西郷先生、こげなところでおいは勉強できもはん。江戸の海軍塾に転学させて欲しか」と訴えましたところが、西郷は、「転学するのはかまわんが、今、大阪から急使が来て、長州藩の軍が迫っているようじゃ。朝廷をお守りせなならん危急のときじゃということを知っときなさい」と、若年の書生に対しても懇切丁寧にいさめてくれた、というんです。

 えー、禁門の変の直前、ですから、7月のことなんでしょう。
 神戸海軍操練所は5月に開校したばかりで、6月のはじめには池田屋事件が起こり、土佐勤王党員の生徒・望月亀弥太が死んでいますし、同じく土佐の志士で生徒だったといわれる北添佶摩も闘死しています。
 神戸海軍操練所には、薩摩藩士が21人入っていましたが、これがまた、薩英戦争を戦った壮士が多かったそうですし、はっきりいいまして、数学の勉強どころではなかったでしょう。
 
 伊東が転学したがっていた江戸の塾、といいますのは、築地軍艦繰練所のことなんでしょうか。幕臣以外は受け入れていなかった、という話だったと思ったのですが、受け入れるようになっていたのか、あるいは、だれか教授の個人塾かなんか、でしょうか。
 実は、もう少し後の8月になりますと、広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、武田斐三郎が江戸に帰りまして、この人の洋学塾が評判で、薩摩藩第二次留学生の吉原重俊が学んだようなのですが、函館では航海術も教えていたようなのですから、江戸でも教えた可能性はありそうなのですけれども。

 ともかく、勝海舟の神戸海軍操練所は、西日本雄藩の大名たちに働きかけるための、非常に政治的意味合いの濃いものでして、きっちりとした教授法とか、勉強ができる環境とか、整えられていたわけでは、ないんです。
 私、この年の11月末に、半次郎(桐野利秋)が、「兵庫の塾に入りたい」、つまりは海軍の勉強がしたいと言っていたと知りましたときから、ながらく「えええええっ! 数学大丈夫???」と首をかしげておりました。

 なにしろ高杉晋作が、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」と言って挫折しましたのに、半次郎が高杉よりおおざっぱな性格ではない、ということはなさげですし 数学が得意そうでもありませんし。 いやそれとも、あるいは得意だったんでしょうか。
 しかし、です。
 伊東祐亨の回想を知りましてからは、納得がいきました。
 要するに、ろくろく航海術や測量術や砲術の勉強はしませんで、時事放談をする塾だったというのですから。

 えー、またまた長くなりすぎてしまいましたので、下を前編、後編の二つにわけます。
 次回下の後編で、いよいよユニオン号事件の話になりまして、終わることができると思います。
 
人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol2

2012年02月14日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1の続きです。

 海援隊につきましては近年、商社活動的な面が、誇張されて語られる傾向があります。
 現実に行ったことを見ます限り、商業活動が成り立っていた、とは言い難く、亀山社中のときは薩摩の、海援隊となりましてからは土佐の、藩営商社の手伝いに手を染めていた、程度のこととしか、私には思えないんですね。
 青空文庫に海援隊約規(図書カードNo.51377)がありますが、これを読みましても、とても利潤を追求します商社のものとは思えませんで、むしろ、塾から発展した結社と言った方が、的確な気がします。

 実際、亀山社中は、勝海舟の私塾の一部が発展したもの、といってもそう大きくはちがっていないでしょうし、江戸時代の有名塾は、諸藩から人材が集まって切磋琢磨する場ですから、それが発展した結社に、諸藩の人間が集まっていても不思議はないんですね。
 龍馬の発想がユニークでしたのは、塾的な、同志としての人間関係を、できうるかぎり藩から独立した場で成り立たせ、その結社で、政治的な働きかけを実行しようとしたことでした。
 しかし、その政治的方向が、いわば幕藩体制の転換にあったのですから、これは危険きわまりないことでした。

 安政南海地震の直後、河田小龍は縁あって鏡川沿いの築屋敷の空き家に引っ越し、饅頭屋の近藤長次諸を引き受けます。そこへ、龍馬がやってきて、これからの日本をどうすればいいのか問答となるわけなのですが、このときの対話が、後の海援隊の種となりましたことには、まちがいはないでしょう。
 「藤陰略話」の肝心な部分は、前回、私がいいかげんな現代語訳をしておりますが、これってコーストガード、つまりは土佐に根付いた海岸線防備のための発想ではなかったのか、と思えます。つまり、殖産興業の延長線上に国防があって、幕藩体制の変革にまでおよぶ話では、ないんですね。
 年齢のせいなのか、世捨て人的な気質のためなのか、小龍は、政治からは遠いところにいます。

 そして、近藤長次諸が、その小龍の影響の元で学問を修め、小龍にとって恩人ともいえます吉田東洋との縁で、勝海舟の塾へ行き着きましたのに対し、龍馬は、まったく別の道をたどって行き着くことになったんです。

 
流離譚〈上〉 (講談社文芸文庫)
安岡 章太郎
講談社


 作家の安岡章太郎氏は、土佐郷士のご子孫でした。
 祖先のご家族に、吉田東洋を暗殺しました三人の一人、安岡嘉助がいまして、安岡章太郎氏は、祖先の記録をもとに、土佐の幕末を「流離譚」に描かれました。古い記事ですが、坂本龍馬と中岡慎太郎で、安岡氏の描く龍馬を紹介しております。お断りしておきますが、私自身が全面的に氏の描かれる龍馬像を肯定している、ということでは、かならずしもありません。
 ともかく、氏の描かれる土佐土着の郷士と、サラリーマン上士の対立は迫真でして、参考になります。

 ごくごく簡単にまとめますならば、以前、大河ドラマと土佐勤王党に書きましたように、戦国時代からの対立が、幕末まで尾を引くんです。
 そして、土佐の郷士や庄屋層、いわゆる長宗我部侍が特殊でしたのは、集団強訴をするようになったことです。郷士から上士への道が大きく開けた、というのではありませんで、郷士は郷士のまま、幕末には集団の力を持つようになっておりました。

 この郷士層が、政治的に目覚めましたのは、やはり黒船です。
 文化露寇、フェートン号事件あたりから、日本全国の沿岸は、たびかさなる黒船騒動に見舞われまして、文政7年 (1824)、水戸の大津浜事件では、上陸したイギリス船員から会沢正志斎が話を聞き取り、危機感を持って「新論」を書きます。
 土佐は海岸線が長いものですから、黒船出没への危機感も大きく、早くも文化7年(1810)には、郷士や地下浪人に海岸警備が命じられ、これは断続的にずっと、続けられることとなります。
 海岸警備といいましても、ろくに砲があるわけでもなく、たいしたことはできませんが、これもコーストガードでして、兵役ですから、集団行動が身につきますし、いったい、黒船が押しよせてくる世界はどうなっているのか、どうすれば国を守ることができるのか、考えるきっかけともなり、政治的にも目覚めていくことになったわけなのです。

 ペリー来航から安政の大獄までの概略は、寺田屋事件と桐野利秋 前編をご覧ください。前編しか書いていませんけれども(笑)。
 近藤長次諸が岩崎弥太郎に学んだりしておりますとき、龍馬は再び、江戸へ剣道修行に出かけ、安政の大獄がはじまると同時くらいに、土佐へ帰ります。長次諸が江戸へ向かいましたのは、大獄の最中の安政6年(1859年)正月ではなかったかと、「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」で吉村淑甫は推測されていまして、龍馬とは、ほぼ入れ違いであったようです。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 安政5年(1858年)、孝明天皇が水戸藩主に密勅を出し(戊午の密勅)、それが安政の大獄の引き金となったこともありまして、直接、密勅にかかわっておりました水戸藩がもっとも騒然とし、この時期には、水戸の志士活動が活発でした。
 水戸の次に、やはり日下部伊三次、西郷隆盛などの藩士が密勅に関係していました薩摩も、一部藩士の激昂は募ったのですが、一橋派の開明藩主・島津斉彬が急死し、幕府の意向を怖れました薩摩藩の方針は急旋回。西郷は島流しで、西郷の同志たち(精忠組)もなりをひそめるしかありませんでした。

 茨城県立歴史館のサイトに「水戸藩尊攘派の西国遊説」が載っておりますが、大獄ははじまったばかりで、この時期にはまだ、吉田松陰も処刑されていませんから、長州の松下村塾門下の奮起もまだまだですし、土佐藩主・山内容堂は、隠居の勧告は受けていますが、一般の土佐藩士には、まだまだ事態がよく、のみこめてはなかっただろう時期です。

 江戸遊学からから帰ってきておりました安政5年の12月、龍馬は立川の関所で水戸藩士の応接をするわけなのですが、水戸藩士が龍馬を名指ししましたのは、どうも江戸の千葉道場のつながりであったようなのですね。
 学問の塾と同じで剣道の塾も、当時は、他藩士との交友を深めて見聞をひろめ、つきあい方を学び、縁故を育てる、というような意味合いが大きく、幕末の各藩の志士が多く江戸の剣道場に遊学していますのも、まあ、いまでいいますならば、首都圏の大学の教育学部の体育科に進学することにでも例えるならば、多少、近かろうかと思われます。

 で、当時の龍馬は、片田舎の土佐の郷士にすぎませんでしたし、水戸藩士の力になれようはずもなく、適切な応対もできかねたようですけれども、呼び出されるといいますことは、それだけで、政治活動にも無関心ではないと見られていたのではないか、と推測することは可能でしょうし、江戸での生活が社交的なものだったことは確かでしょう。

坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫)
平尾 道雄
中央公論新社


 この平尾道雄氏の「坂本龍馬 - 海援隊始末記」なども参考に、しばらく、龍馬の足跡を追いたいと思います。

 結局のところ、土佐藩の郷士、地下浪人、庄屋層が、持ち前の団結力を発揮しまして、激動の幕末の政局に乗り出しましたのは、直接には、万延元年(1860年)3月3日に起こりました桜田門外の変の影響でした。
 水戸と薩摩の脱藩浪士が、公道で幕府の大老の首を、打ち取ったのです。

 幕府の権威は、表面はまだちゃんとしていましたが、内部から音もなく崩れていき、幕府の権威がそうなったということは、です。それにともないまして幕藩体制がゆらぎ、藩庁の権威も薄れていかざるをえない、ということでした。
 とはいいますものの、桜田門外の変に呼応しようとしました、薩摩精忠組の京都突出は押さえられ、安政の大獄によります謹慎処分などがすぐに解かれたわけでもありませんで、一見、なにごともなかったかのように政局は推移したのですが、諸藩の志士たち(主に西日本)の活動は解き放たれたように活発化し、土佐では、文久元年(1861年)、江戸に遊学中でした武市半平太(瑞山)を中心として、郷士、地下浪人、庄屋層の政治結社、土佐勤王党が結成されました。

 wiki-土佐勤王党に盟約文が載っておりますが、起草は大石弥太郎。大石弥太郎は、英国へ渡った土佐郷士の流離で書きました大石団蔵、後の高見弥一の従兄弟です。
 この盟約文には、確かに、元藩主・山内容堂の話が出てまいります。
 かしこくもわが老公つとに此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、かえってその為めに罪を得玉ひぬ。かくありがたき御心におはしますを、などこの罪には落入り玉ひぬる。君辱めを受くる時は臣死すと。

 まあ、あれです。
 安政の大獄において、土佐で弾圧を受けましたのは、隠居、謹慎となりました容堂だけなんですよね。
 複数の藩士が命を落としました水戸はもちろん、吉田松陰が処刑されました長州とも、日下部伊三治が獄死しました薩摩ともちがいまして、土佐の下々の藩士は、実はほとんど関係ない状態。

 当時まだ、容堂の謹慎は解けていませんし、「我が老公の御志を継ぎ」という言葉を持ってきますと、反幕府の旗も、土佐藩内ではあまり刺激的にならないですみますが、しかし、です。この盟約書でもっとも注目すべきですのは、「 錦旗若し一たび揚らば、団結して水火をも踏む」の一言、天保庄屋同盟と同じく、自分たちは天皇の直臣だという理屈につながるこのくだりです。

 土佐勤王党には2百名近い加盟者がおりますが、名簿の最初の数名は、当時江戸にいました土佐郷士です。在土佐のトップに近い位置に坂本龍馬の名は出てきまして、結成されてまもなく、龍馬は加盟したと思われます。
 ここで注目したいのは、名簿の四番目に、間崎 哲馬(滄浪)の名があることです。

 間崎哲馬の略歴は、京都大学附属図書館の 維新資料画像データベース 間崎哲馬(滄浪)をご覧ください。
 龍馬より二つ年上で、中岡慎太郎の先生でした。
 ものすごく早熟な英才でしたが、土佐の三奇童の一人、といわれたそうで、借金で訴訟沙汰になったという話も残っていますし、えらく自炊派珍味グルメな書簡も残しておりますし、型にはまらない人柄だったようです。

 それはともかく、この間崎哲馬、嘉永2年(1849年)、16歳のときに江戸に遊学し、安積艮斎の塾で学んで塾頭となり、土佐に帰って、中岡慎太郎などに学問の手ほどきをしながら、自分は、吉田東洋の少林塾に学んでいたんです。つまり、饅頭屋長次諸に教えていました岩崎弥太郎と同塾だったわけですし、安積艮斎の塾頭だったことがあるわけですから、長次諸の大先輩でもあった、わけなんです。
 つまり、です。饅頭屋長次諸は、小龍と吉田東洋、岩崎弥太郎のつながりから、龍馬をぬきにしましても、間崎哲馬と知り合いであった可能性が高いことに、とりあえず留意しておきたいと思います。

 浪士の活動が活発になり、騒然としてまいりましたこの文久元年10月、龍馬は剣道修行を名目に旅に出て、翌文久2年1月14日には、武市の密書をたずさえて長州に姿を現し、久坂玄瑞や佐世八十郎(前原一誠)など、松下村塾の門下生たちと会っています。
 このとき、龍馬が預かりました久坂玄瑞から武市半平太宛の手紙に、有名な一節があります。
 
 ついに諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合、義挙の外にはとても策これ無き事と、私共同志中申合居候事に御座候。失敬ながら尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず、両藩とも存し候とも恐多も皇統綿々万乗の君の御叡慮相貫申さずては、神州に衣食する甲斐はこれなきかと、友人共申居候事に御座候。
 「大名も公卿もなんの頼りにもならないから、各地の志あるものがいっしょになって事を挙げるほかに方策はないと、ぼくたちは話しているんだよ。うちの藩もおたくの藩も、滅びたってかまうものか。天皇のご意向を無視して、通商条約を結んでしまった幕府を、このまま許しておくわけにはいかないだろう?」

 いいかげんな現代語訳ですが、ともかく、安政の大獄で、幕府に松陰を殺されました門下生たちは、火の玉のようになっておりまして、龍馬はその意気込みに圧倒されて、しかし世の中が激変しそうな予感に、うきうきしたのではなかったでしょうか。
 ちょうどこのとき、江戸では、水戸浪士と大橋訥庵塾生によります坂下門外の変が起こっておりました。
 そして、このころから、西日本をかけめぐりましたのが、薩摩の島津久光の率兵上京の噂です。
 ずいぶん以前の記事ですが、これについては一応、慶喜公と天璋院vol1に書いております。あら、龍馬の脱藩にまで、触れておりますねえ(笑)

 島津斉彬が死の直前に、率兵上京を計画していたといわれておりましたし、安政の大獄この方、薩摩が動くのではないか、という期待はずっとありまして、ようやっとのことで大久保利通を中心とします精忠組が久光を動かすことができたのですが、久光自身のつもりでは、まったくもって反幕府のつもりはありませんで、おそらく、なんですが、島津家は前将軍の御台所の実家なわけですし、「改革に力を貸してやるから幕府もがんばって生まれ変わり、勤王に励んでくれよ」くらいのつもりでいたのではないでしょうか。

 まあ、島から呼び返されました西郷隆盛が言った通り、とんでもない地五郎(じごろ)、田舎者です。
 あーた、外様大名の前藩主でさえもないただの父親が、これみよがしに一千の兵を率いて圧力をかけたのでは、地に落ちかかった幕府の権威が、さらによけい、ゆらぎまくるだけの話でしょうが。
 しかし、NHK大河ドラマ「篤姫」、堺雅人の徳川家定と、山口祐一郎の島津久光だけは、大嘘でもよすぎるほどによかったです(笑)

 いわば、ですね。外様大名が大軍(当時としては、です)を率いて京へ入る、なんぞ、それだけで幕府が張り子の虎になったことをはっきりと示す行為でして、秩序破壊なんですから、諸国の志士たちが、「こうなりゃ、幕府なにするものぞ。さあ、おれたちの時代だ!」と張り切ってしまったのも、致し方のないことです。
 実際、薩摩藩内でも、有馬新七を中心とします精忠組激派が抜け駆けし、久坂玄瑞を中心とします長州の多数の有志、その他主に九州各地の志士たちと連携し、京都所司代を襲って、久光が率います藩兵をまきこみ、大争乱を巻き起こす計画を立てていました。

 後の桐野利秋、中村半次郎は、満の24歳。ここで従軍がかなうことになりまして、生まれて初めて鹿児島を離れることになりましたが、父は島流しで、兄は死んでいて、一家を背負う立場です。
 桐野が一番なじんでいました上之園方限には、鎮撫の大山格之助に斬られて死にました弟子丸龍助がいましたし、その他、鎮撫された側の激派には、生涯の友となる永山弥一郎もいたりします。また、薩英戦争ころまでの話ですが、やはり激派側にいた三島通庸と行動をともにしていたりしますので、あるいは、心情激派であったりしたのだろうか、と思ったりもします。

 久光率兵上京前夜、嵐の前の静けさの中で、久坂などと連絡をとりあっておりました武市半平太は焦ります。
 勤王党、つまりは郷士結社のみの突出ではなく、薩摩のように藩を挙げての勤王活動を望んでいたのですが、手強い障害がありました。
 吉田東洋です。
 東洋の家は、土佐上士では他に例がないのですが、長宗我部の旧臣であったといわれています。馬回り役の家ですから、中の上といったところでしょうか。

 東洋は、剛腹がすぎまして、とかく問題を起こしやすい性格ではあったようですが、非常な俊才で、豪腕でした。
 容堂の前々藩主・山内豊熈に引き立てられまして、藩政改革にとりかかっておりましたところが、豊熈は34歳で急死します。慌てて実弟の豊惇が藩主となりますが、ほんの二週間後、わずか25歳で死去。このままでは、お家お取りつぶしの危機です。
 幸いにも、豊熈の正室は、島津斉彬の実妹・候姫(智鏡院)。島津家を中心とします親戚に奔走してもらい、分家から豊信(容堂)を迎えて、候姫の養子とし、一代限りの藩主として、ようやく危機を乗り切りました。

 豊熈の死によって、一度は無役となりました東洋ですが、やがて、型破りな新藩主・豊信(容堂)に見いだされ、大目付から参政へと累進し、藩政に大なたをふるいます。前回書きましたように、小龍は東洋に目をかけられて才能をのばすことができたのですし、東洋は、人材発掘にも長けた、なかなかの人物であったようなのですが、とかく問題を起こす性格でして、一時逼塞し、塾を開いて、岩崎弥太郎や間崎哲馬、後藤象二郎などに教えておりました。
 これが、かえって東洋には幸いしました。
 この逼塞で東洋は、一橋派としての容堂の活動とは無縁に過ごし、安政五年に参政に返り咲いた後に、安政の大獄で容堂は隠居を余儀なくされますが、次の藩主を立てることに尽力し、そのまま藩政を牛耳ることができました。

 この東洋を、武市半平太は、説得しようとしたといわれます。
 しかし、当然のことなのですが、東洋は郷士・庄屋層の結社であります土佐勤王党を認めようとはせず、そしておそらくは、薩摩の率兵上京も、果たして実現するものなのかどうか、疑いの目で見ていたのでしょう。
 結局のところ半平太は、東洋を暗殺した上で、門閥の守旧派と結託し、若い藩主を押し立てて、動こうとしました。
 その独断専横によって、東洋は守旧派から嫌いぬかれ、また下にも敵が多かったですし、東洋を引き立てた容堂は、隠居して江戸住まいですし、藩主・豊範は若く、東洋さえ除いてしまえば、という心づもりであったようです。

 さて、数名の土佐勤王党員は、半平太の一藩勤王のための模索にしびれをきらし、脱藩します。
 他藩士から直接話を聞き、単身でも義挙に加わることを望んだ吉村寅太郎と沢村惣之丞、宮地宜蔵は3月4日に脱藩。果たして彼らが、吉田東洋暗殺計画を知っていたでしょうか? 
 東洋の暗殺は4月8日で、その前に二度、待ち伏せに失敗しているといわれますが、一ヵ月も前だとしますと、知らなかった可能性が高そうです。
 しかし、一度脱藩しました沢村惣之丞が、義挙の同志を募るために土佐へ帰り、3月22日に半平太のもとへ姿を現したのですが、このときには、計画が明確になり、すでに暗殺志願者を募っていたはずです。

 この沢村惣之丞なのですが、実は、中岡慎太郎と同じく、間崎哲馬の弟子なのです。
 この時期、間崎哲馬がどこにいたのか、なにか資料をご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。
 先に書きましたが、奇才グルメな間崎先生、吉田東洋の弟子でもあるんですね。
 だからといって、間崎は勤王党なのですから、東洋暗殺に反対したとは限りませんが、ただ、沢村惣之丞も東洋の孫弟子にあたるわけでして、そうではない勤王党員にくらべましたら、なんらかの感慨、というものを持ったのではないでしょうか。

坂本龍馬 (講談社学術文庫)
飛鳥井 雅道
講談社


 龍馬を勝海舟に紹介した人物がだれであったか、平尾道雄氏の千葉重太郎説をくつがえし、最初に間崎哲馬ではないかと推測されたのは、飛鳥井雅道氏ではなかったでしょうか。
 現在では、それが定説となっているようでして、次回、詳しく述べたいと思いますが、とりあえずは、間崎が吉田東洋の弟子であり、沢村惣之丞が間崎の弟子であることに注目したいと思います。
 3月24日、龍馬は沢村と連れだって、脱藩を決行します。

 そうなんです。私は、龍馬の脱藩に、東洋暗殺が関係するのではないか、と思っています。
 反対だった、というわけではなかったでしょう。
 土佐を大きく変えるために、必要なことだと割り切っていたのではないかと、私は推測するのですが、しかしその一方、海防のための殖産、といった方策が、勤王党で取り組めるものなのかどうか、おそらく、そのころ江戸にいたらしい間崎に、龍馬はその期待をよせてはいたのでしょうけれども、そういう方面にかけては、噂に聞く東洋の辣腕が、惜しまれるものだったのではないのでしょうか。

 それで、もう、ここからは、まったくの私の妄想でしかないのですが、沢村と話あった龍馬は、二人で、河田小龍のもとを訪れたのではないでしょうか。
 龍馬は、小龍が東洋に引き立てられた人だとは知っていたでしょうし、饅頭屋の長次諸が、岩崎弥太郎を通して東洋の孫弟子になり、間崎が塾頭を務めたことのある安積艮斎の塾に入ったことは、知っていたでしょう。
 安積艮斎は、これも次回に詳しく述べたいと思いますが、海外事情通でもあります。
 薩摩に滞在したことのある小龍に、薩摩の率兵上京をどう思うか、東洋は本気にしないらしいが、実際に長州へ行ってきた沢村が、下関の薩摩の御用商人のところで、実際に行われることを確かめてきているが……、と、解説を求め、そして小龍は、おそらくは、土佐がかなわない薩摩の軍備について、語ったにちがいありません。
 義挙なんぞに期待するのではなく、土佐は軍備で、地道に薩摩に追いつくことを考えなければならない、と。

 小龍は、国防を充実させるのは地道な努力だと考えていて、国防のためにこそ一挙に世の中をひっくり反す必要があるとは、けっして考えないタイプだったでしょう。
 龍馬は、武市半平太と河田小龍のちょうど中間にいて、半平太の施策も認めつつ、しかし土佐には、火器の充実、海軍の整備といった現実的な軍備の増強策が欠けていて、それを怠ったままでは、一藩挙げても、日本のためにできることは限られていると、そういう思いももっていたのではないでしょうか。
 あるいは小龍は、伝え聞く薩摩の海軍への取り組みについても、語ったかもしれません。

 脱藩した龍馬の足取りは、かならずしもはっきりとはしないのですが、下関で沢村に分かれ、薩摩をめざしましたところが、入国できなかった、というような話も伝えられています。
 当然のことなのですが、龍馬は義挙には間に合わず、したがいまして薩摩の上意討ちであります方の寺田屋事件に巻き込まれることもありませんで、6月には大阪に姿を現し、8月には江戸にいました。

 次回に続きます。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ 
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1

2012年02月10日 | 桐野利秋

 最初は、「普仏戦争と前田正名」シリーズで書こうかと思ったのですが、ちょっとそれも変かなと、もう一度シリーズをお休みして、このお題にしました。
 まずは、この絵葉書を御覧ください。
 なんと桐野は、島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通、村田新八と並んで薩摩の五偉人の一人です。そ、そ、そ、そうなんですかねっ!!!




 それはともかく、今回、図書館から借りてきました「坂本龍馬全集」 (1978年)をぺらぺらと眺めておりまして、あんまりにも意外なところで「中村半次郎」の名前を見まして、えええええっ!!! と驚き、あれこれ考えあわせますと、桐野は中岡慎太郎だけではなく、坂本龍馬とも、かなり親しかったように見えるんですね。
 慎太郎はもちろんのこと、龍馬の資料につきましても、西尾秋風氏は十分に読み込んでおられたはずでして、どこをどう狂われて、まともな資料の交流関係を無視し、高松太郎書簡の「石川氏は十七日の夕方落命す。衆問ふといえども敵を知らずといふ」をまた、無視してしまわれたんでしょうか。私のような凡人の理解が及ぶ範囲を大きくはずれた、斜め上の奇才でおられたんでしょうけれども。

 と、また脱線しかかっておりますが。
 「坂本龍馬全集」に収録されております「藤陰略話」。
 これ、明治27年ころ、京都に住んでいました河田小龍のもとに、故郷の高知から、近藤長次郎(上杉宗次郎)の履歴を問い合わせてきたのに答えて、小龍がしたためたものです。
 Wikisourceに全文ありましたので、リンクしてみます。「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」です。これに、半次郎が登場いたします。

 其頃坂本ハ伏見遭難ヨリ潜行シ、新宮ハ九州ヘ行、近藤ハ自殺セシトノコトヲ聞、烏丸薩州邸ヲ訪、中村半次郎、別府彦兵衛ナドニ近藤自滅ノ顛末ヲ聞及ベリ。(慶応二年四月、中村別府ヨリ近藤ノ実ヲ聞ク)

 まず、河田小龍から説明していくべきなんでしょうけれども、世間一般では、龍馬を海外事情に目覚めさせたお師匠さん、として有名なんじゃないでしょうか。
 とりあえず、手に入りやすかったこの本を読んでみました。

龍馬を創った男 河田小龍
桑原 恭子
新人物往来社


 この「龍馬を創った男 河田小龍」が小説仕立てでして、「藤陰略話」と大きく内容がちがっているわけではないのですが、後述しますように、作者の想像か、と思われる事柄が断定的に書かれていたりもしまして、もう一冊、高知市民図書館が1986年に発行しました「漂巽紀畧 付研究河田小龍とその時代」も手に入れました。

 小龍は、高知の御船手組の軽輩の家に生まれ、祖父の養子となり、絵を習います。
 船奉行だった吉田東洋が、その才能を目にとめ、京へ連れていってくれましたので、狩野派に入門して学ぶことができました。
 その後、長崎へ行って蘭学などを学び、土佐へ帰国。

 ジョン万次郎は、小龍より三つ年下で、現在の土佐清水市の漁民の家に生まれ、14歳のとき、漁に出て嵐に遭い、伊豆諸島の無人島・鳥島に流されて、アメリカの捕鯨船に救助されます。
 非常に利発だったため、船長に気に入られ、養子となってアメリカ本土で学びます。
 一人前の捕鯨船員となりましたが、望郷の念にかられ、資金を貯め、ハワイへ渡っていっしょに漂流した仲間と再会し、嘉永4年(1851年)、上海から琉球へ渡ります。

 ペリー来航の二年前のことでして、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1に書いておりますが、日本近海には頻繁に黒船が出没し、薩摩支配下の琉球には、すでに天保15年(1844)、フランスの軍艦が現れ、開国要求をしていたりします。
 薩摩では、開明的な島津斉彬が藩主になったばかりでしたし、海外情報を求めていましたので、幕府の許可を得た上で保護し、教師として待遇しました。

 万次郎は土佐へ帰され、縁あって、小龍は万次郎から海外事情の聞き取りをします。
 この聞き取りを、挿絵をまじえて小龍がまとめました「漂巽紀畧」は、藩主に献上されましたが、複数の写本があるようでして、その一つが、早稲田大学図書館の古典籍総合データベースで検索すればでてきまして、デジタルで見ることができます。うまくリンクが張れますかね。漂巽紀畧. 巻之1-4 / 川田維鶴 撰なんですが、PDFで見るときれいです。

 一方、土佐藩庁の万次郎取り調べを元にした「漂客談奇」と呼ばれる本もあり、これも多くの写本が出回っているのだそうです。
 また万次郎は「漂巽紀畧」の草稿を小龍の家から盗み出しまして、土佐の識者だった早崎益寿に渡し、早崎がそれをまる写しにして「漂洋瑣談」を出版し、万次郎の漂流譚は有名になり、しかし、小龍はこの事件で万次郎と絶交したという話もあります。
 ともかく、「漂洋瑣談」には、小龍が万次郎から聞き取った話をもとにしている旨、明記してあるそうでして、流布本が出まわりましたことで、小龍はいやな思いをしましたが、万次郎とともに、海外事情通として有名になりもしたようです。
  
 小龍は、安政元年(1854)には、家老だった吉田東洋の推挙で、土佐の筒奉行と洋式流砲術師範が薩摩へ勉強に行くのに、図取り役として随行しました。
 「龍馬を創った男 河田小龍」の桑原恭子氏は、以下のように書いておられたので、どびっくりしました。

 小龍は、薩摩藩士中村半次郎(後の桐野利秋)や別府彦兵衛らの案内で、これら薩摩の富強ぶりを見て歩き、最後に斉彬の案内で鹿児島城内の写真研究所を見学する。

 い、い、いや……、流罪人の子で、百姓に土地を借りて芋を作って食いつないでいました16、7の半次郎が、藩の客人を案内するなんて、ありえないですから!!!
 
 桐野は、龍馬より二つ若くて、近藤長次朗と同じ年なんです。長次朗より八ヵ月ほど若いわけですし、文久2年(1862)、島津久光の率兵上京に従うまで、藩士らしい扱いは受けておりません。
 これ、桑原恭子氏が想像で書かれたことかと思いましたら、あきれましたことに、先に書かれました「漂巽紀畧 付研究河田小龍とその時代」の方が、さらに上をいくまちがいをしてくれていまして。

 (小龍は)この様な滞在の日を送る内当初より付人を勤めてくれた中村半次郎(筆者注・後の桐野利秋)別府晋介(筆者注・いづれも西南役に戦死)その他多くの友を得て、永らく親交があった。

 い、い、いや……、別府彦兵衛を勝手に晋介にしないでくださいな!!! 安政元年には、晋介はわずか七つかそこらのガキだから!!! 

 おそらく、最初に引用しました「藤陰略話」の後年の話から、昔、誰かが勝手に、安政元年に小龍が薩摩を訪れたときにまで半次郎との交流をさかのぼらせて想像し、想像だけで書きましたことを、高知の人々は踏襲してまちがえておられるようなんですけれども、年齢くらい計算していただきたいものです。

 この安政元年の暮れ、日本列島は大地震に見舞われます。
 11月4日に安政東海地震、そして翌5日に安政南海地震が起こったんです。
 この二日後には豊予海峡地震が起こりまして、私の高祖母の出身地、松山平野でありながら大洲藩領の郡中(いろは丸を買った国島六左衛門が奉行をしていた土地です)でも、大きな被害が記録に残っておりますが、去年、土佐赤岡の絵金祭に行きましたときには、絵金蔵に地震と津波の様子の素描が展示してありました。複製があれば欲しかったんですけど、ありませんで。
 当時の土佐の被害も、すさまじいものだったみたいです。

 大地震は、小龍が薩摩から帰ってまもなく起こり、浦戸にあった小龍の家は被害にあい転居を余儀なくされますが、この転居先の縁で、新たな弟子を育てることになりました。高知城下の饅頭屋の近藤長次郎です。長次郎は利発な少年で、才覚を惜しんだ義理の叔父が、学問を教えてやって欲しいと、頼んだものです。
 浦戸におりましたころから小龍は、新宮村の農民の出の新宮馬之助を内弟子にしていましたが、馬之助は絵を習いに来ていました。

 小龍は学者ではないのですが、蘭学を学んでいましたし、「漂巽紀畧」を記したくらいで学識もありますし、ずっと近所の少年に学問を教えていたようなのですが、その才能で小龍をうならせておりましたのが、同じ浦戸町内の医者の息子、長岡謙吉です。
 浦戸といいましても、この当時の浦戸とは、現在のはりまや町のことでして、小龍の家は、はりまや橋観光バスターミナルの裏手、高知市消防団南街分団の向かい側あたりにあったそうです。

海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉
山田 一郎
新潮社

 
 この「海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉」、ずいぶん大昔から持っていた本なのですが、内容を忘れこけてしまっておりました。
 かなりしっかり、長岡に関する資料は調べられ、きっちりと書き込まれてはいるのですが、龍馬・長岡ラインで海援隊の平和路線が強調されすぎ、と私は思いまして、桐野利秋と龍馬暗殺 前編で、つっこみを入れたりもしました。大政奉還の直後に、長岡と中井(桜洲)が横浜へ行っている部分、龍馬の指示で「議会ってどんなもん? 教えてくんないかなあ~♪ サトちゃん~♪」と、二人は出かけたのだと、なさっておられるんです。

 しかし、すでにこのつっこみを入れたとき、私は本の前半部分をすっかり忘れこけていまして、長岡謙吉って、長崎で再来日したシーボルトに師事し、息子のアレクサンダーくんが少年だったころから、知り合いだったんですねえ。アレクサンダーくんは、横浜のイギリス公使館勤務なんですが、ただこの慶応3年秋には、ヨーロッパに帰っていたかと思います。

 話をもとにもどしまして、長岡謙吉は後に海援隊に入りまして、大政奉還の建白書の草案を起草したのではないかと言われております。これに手を入れましたのが欧州帰りの中井弘(桜洲)で、中井桜洲と桐野利秋に書いておりますように、中井は桐野と仲がよさげで、時期はちょっとちがうんですけれども、桐野と海援隊のつながりにリンクしている話のようにも思われます。

 長岡謙吉は、龍馬よりは二つ、近藤長次よりは四つ年上です。
 小龍に学問を教わっておりましたのは十二、三歳のころで、その後大阪、江戸で、医者になる勉強をしました。
 大地震のころ、謙吉は高知に帰ってきていて、謙吉の親戚だった坂本龍馬も、そうでした。
 嘉永6年(1853)、龍馬は、剣術修行に江戸に行っていまして、ペリー来航を目の当たりにし、土佐藩江戸在府の臨時雇いとして海岸警備にかり出され、「異国の首を打取り帰国仕る可く候」と、故郷の兄への手紙に書きました。

 故郷へ帰った龍馬は、黒船来航の衝撃から、今度は大地震。黒船の脅威に対抗して、日本はいったいこれからどうすればいいのか、思案をめぐらせていたのでしょう。土佐には、「漂巽紀畧」を記した小龍がいる!ということだったのでしょうか。あるいは、山田一郎氏が書いておられますように、謙吉と親戚で、年が近いですし幼なじみで、以前から謙吉の師だった小龍を知っていたのでしょうか。

 ともかく、大地震の後、小龍が転居して間もないころ、龍馬は小龍を訪れ、「黒船がきちゅう。どがいしたらええがか、意見を聞かせてくれまいか」と、勢い込んで意見を乞います。小龍は、「「私は世捨て人で、書画をたしなみ、風流で世に対しているだけだから、俗世間のことには関心がない。意見などないよ」 と、笑いました。
 結局、小龍は語りはじめるのですが、このときの二人の対話が、後の海援隊につながっていったようなのです。

 小龍の意見は、だいたい、次のようでした。
 「攘夷か開国か、それは対立するものじゃないんだよ。攘夷はとてもできない相談だけれども、もし開港した場合にも、かならず攘夷の準備をしておかなければだめでしょう。今の日本の軍備は役に立たないものばかりで、わけても海軍がそうです。土佐藩の場合、弓隊や銃隊を船に乗せて浦戸湾へ押し出しても、船がひっくり返るほどに揺れ、目標が定められず、十人中七、八人までは船酔いでなんにもできやしませんよ。どこの藩でもそんなもので、西洋の黒船を迎え、なんで鎖国ができるでしょう。開国だ攘夷だとうちわもめをしているうちに、黒船は続々とやってきて、国は疲弊して人心は乱れ、ルソン島(当時スペインの植民地だったフィリピン)みたいに植民地にされてしまうかもしれません。ともかく日本人は航海に慣れなければいけません。泥棒を捕らえて縄をなうのたぐいかもしれませんが、海運を盛んにすることが手始めですので、黒船を外国から買い求めて、これで商売をはじめるべきでしょう。」

 「藤陰略話」は、明治になって書かれたものですから、本当に当時、この通りのことを小龍が言ったのか、と疑問を呈するむきもあるようなのですが、ただ、趣旨としましては、当時の識者がかなり共通して抱いていた意見だった、と思います。すでに18世紀末、林小平の「海国兵談」が書かれておりますし、幕府は、ほどなく、なじみのオランダに頼みこんで長崎で海軍伝習をはじめ、蒸気船も買おうとしておりましたし、危機感から、最初の伝習は諸藩から広く生徒を募って行われることになりました。
 また佐賀、薩摩、宇和島などの開明諸侯は、さっそく、なんとか蒸気船が造れないものかと試行しはじめましたし、海外交易事業についての模索も行われようとしていました。

 しかし、蒸気船は買うとしても、いっしょに海運事業をする仲間をどうすれば集められる? と問う龍馬に、小龍は「恵まれた上級サラリーマン武士には、志がありません。庶民の秀才で、志があってもそれを実現する資力がない人々を募るべきでしょう」と答え、これは、いかにも小龍らしい答えだったのではないでしょうか。
 小龍が農民、饅頭屋の子供を好んで弟子にしておりましたのは、想像をたくましくしますと、万次郎から聞き知ったアメリカの制度に好もしい点を見いだし、国防は国民のすべてが意識してなすものであり、そのためには、身分の差は基本的にとりはらわれるべきだということへの理解が、生まれていたからかもしれません。

 このときの二人の対話が機縁となり、後のことになりますが、龍馬は海援隊を起こし、小龍の弟子だった長岡謙吉も新宮馬之介も、そして近藤長次郎も、海援隊(亀山社中)の一員となります。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 で、饅頭屋の近藤長次郎です。
 「龍馬の影を生きた男」って、本の題名もさみしいのですが、結末を知って写真を見るせいか、長次郎くんはどこか、さみしい目をしていますね。
 私は、長次郎は龍馬の影を生きたのではなく、小龍の分身として龍馬のそばで生き、そのことが長次郎を死に追い込んだのではないか、と推測していますが、詳しくは後述することとしまして、まずは「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」を主な参考書といたしまして、長次郎の経歴を追います。

 長次郎16、7。小龍の弟子になり、日本外史から読みはじめ、史記、新唐書と読み進みました。
 その後、小龍の紹介で、甲藤市三郎と岩崎弥太郎にさらに学問を学ぶようになります。
 吉村淑甫氏によれば、甲藤市三郎は郷士出身、小龍と同年配の軽輩ですが、吉田東洋に私淑した開明派だったのだそうです。
 岩崎弥太郎はいうまでもなく、後年、長次諸が死んで後のことですが、海援隊の経理を担当し、明治、三菱を創始して大物政商となった人物です。

 弥太郎は地下浪人(郷士株を売ってしまった者)の子供として生まれましたが、非常な俊才で、江戸に遊学し安積艮斎の塾で学んでいました。
 この当時、父親のもめごとで土佐へ呼び戻され、訴訟に負けたことなどから、蟄居をよぎなくされました。この蟄居が長次郎には幸いし、江戸で学んだ俊才に、学問を見てもらえることになったのだろうと、吉村淑甫氏は推測しておられます。
 ちょうどこのとき、参政として藩政改革を進めておりました吉田東洋も、江戸の酒席で旗本に無礼を働いたことで罷免され、隠居して塾を開いていたのですが、弥太郎は長次郎に学問を教えるかたわら、東洋の塾に通っていて、東洋の親戚の後藤象二郎とも知り合います。
 つまり、長次郎は小龍のおかげで、末端ながら、吉田東洋の人脈につながることになったんです。

 龍馬と長岡謙吉は、郷士であり、土佐では身分が高くはありませんでしたが、私費で江戸、大阪に遊学できたわけですし、経済的には恵まれていました。
 しかし、長次郎は貧しい饅頭屋の息子。夜には槍剣も習って、文武両道に励んでおりましたが、父の手伝いで、おそらく饅頭の振り売りに、だと思うのですが、毎日伊野村まで出かけていた、というのです。
 同じ年の桐野と、いったいどちらが貧しかったのでしょうか? 貧しさでいいますならば、桐野の方が上か、と思うのですが、桐野は流罪人の子で、下級とはいえ、れっきとした鹿児島の城下士の生まれですから、志を果たす機会を将来に見ることも、無理な望みではありません。
 しかし長次郎は饅頭屋の息子ですから、これほどの努力も、土佐にいたままでは報われることがありません。

 小龍は、長次郎の才能を惜しみ、知り合いの藩の重役に頼み込んで、江戸藩邸に出向く際の下僕の一人に長次郎を加えてもらえるよう、計らいました。
 長次郎は、この最初の江戸行きで、弥太郎の紹介だったんでしょうか、最晩年の安積艮斎の塾に入門したのではないか、と推測されています。
 長次郎は、どういう事情があったのか、両親が年がいってから生まれた長男でして、長次郎が江戸へ行って一年もたたないうちに、両親はそろって世を去ります。知らせを受けて帰郷した長次郎は、饅頭屋は将来妹に養子をとって譲ることに決め、少々の資金を得て、再び江戸へ向かいました。

 ところが、東海道の富士川で、渡し船が転覆するという災難に見舞われ、長次郎は荷物をすべて流してしまい、苦労して江戸にたどりつきます。
 そこで頼りましたのが、土佐藩邸の刀鍛冶・左行秀です。行秀は、長次郎が幼い頃から近所に住んでいて、知り合いだったんだそうです。
 これも吉村淑甫氏によれば、なんですが、行秀は刀鍛冶といいましても、吉田東洋の人脈につながる人物で、鉄砲鍛冶として江戸で研究を重ねる使命を担っていた、ということでして、長次郎はその紹介で、当時、幕府の砲術指導をしていました高島秋帆に弟子入りします。学費は行秀が出してくれたといいますから、研究の手助けをしていたということなんでしょうか。
 さらに長次郎は、勝海舟の塾へも入り、そこで学業が進んで認められたことから、土佐藩から名字帯刀を許され、陸士格となったんだそうです。
 この海舟塾入門につきましては、龍馬の入門と前後していまして、左行秀の世話だったとします話と、龍馬の紹介だったとする話と、二つあるのだといいます。

 長次郎が海舟塾に入門し、龍馬と再会し、武士となりましたところで、長くなりましたので、次回に続きます。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?

2012年02月04日 | 幕末土佐

 龍馬暗殺に黒幕はいたのか?の続きです。
 続きを書くつもりはなかったのですが、近くの図書館で「坂本龍馬全集」を借り出すことができまして。


坂本龍馬全集 (1982年)
坂本 竜馬,宮地 佐一郎
光風社出版


 これを借り出すことができるとは、存じませんでした。
 ぺらぺらとめくっておりましたら、発見があるものです。
 桐野と前田正名につながるかも、な発見もありますので、またそれは、「普仏戦争と前田正名」シリーズで書きたいと思うのですが、ちょっと龍馬により道を。

  ところで先だって、時代劇専門チャンネルで放映してくれていました「獅子の時代」が終わりました。
 「獅子の時代」は架空の人物が主人公ですし、その一人、菅原文太演じます平沼銑次は、あきらかに花冠の会津武士、パリへ。で書きました海老名李昌をモデルにしながら、……いや、海老名は上級士族で銑次は下級で、やーさんぽい文太の銑次は海老名に比べてまるで品がないのですが、残された海老名の写真を見ますと、文太によく似たお顔なんです、これが……、最後、秩父困民事件で自由民権運動激派として行動していたりするんですが、本物の海老名さんは、最初の檄派事件だった福島事件で、自由党を弾圧する薩摩出身の県令・三島通庸の側についていまして、まあ、なにしろ福島の自由民権運動の巨魁は、三春藩裏切りの元凶だった河野広中でしたから、薩長よりも裏切り者の三春を恨んでいました元会津藩士としては当然の行動なのですが、ともかく、かなりな大嘘ばかりで、平沼銑次は鞍馬天狗かジャン・バルジャンか、という描かれ方なんですが、大筋としましてはまあこんなものかも、といいますような時代相の基本が大きくはずれているわけではないですし、これがけっこう、おもしろいんです!!!
 なんといいましても、30年も前のテレビドラマなのに、ちゃんと薩摩のパリ工作をやってくれているのがすごいですよねえ。モンブランの来日が描かれていませんし、事実関係をかなりまちがえてはいますけれども、一応、それが軸ではあるわけでして。

 それにいたしましても、最近の大河は、なんでこう、超つまらないのでしょうか。
 NHKの「龍馬伝」については、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編スーパーミックス超人「龍馬伝」に書いておりますが、笑いすぎて涙がでましたほどの馬鹿らしさ。
 去年の「江 姫たちの戦国」に至っては、馬鹿馬鹿しさも極地で見ていられませんでしたが、私、院政期にはけっこう思い入れがありますので、今年の大河「平清盛」にはけっこう期待したのですが、なんなのお??? この無茶苦茶な、アニメの登場人物みたいな宇宙人な法皇さん!!!と、見る気が失せましたです。

 角田文衛先生が生きておられたら、お怒りになられましたわよ、絶対。有吉佐和子氏の「和宮様御留」を悪質なデマ小説としておられました先生が、ご専門の時代にこんなことをされましたのでは、ですねえ。角田先生の「待賢門院璋子の生涯」なくして待賢門院は描けませんし、そっちは参考にして、白川上皇と祇園女御の方のご研究は無視するって、どうなんですの!!! NHKはきっと、先生が亡くなられましたので、無茶苦茶で、どーでもで、どこの国の、いつの時代の話??? みたいな院政期を、やっているにちがいありません。

 人間も生き物なのですから、殺生禁断には、もちろんなのですが、まず第一に「人間を殺さない」という建前がありまして、それで当時の世の中がまるくおさまるわけがないですから、貴族僧侶の偽善なんですが、正式な死刑はなかったですし、よりにもよってとっくの昔に出家している法皇さんが、自分の目の前で自分が手をつけた女を殺させるなんてこと、ありえるはずもないんです。殺生は卑しい所業なんですから、尊い身が汚れるじゃないですかっ!!! 馬鹿馬鹿しい!!!
 西行と待賢門院堀河がまた、目をおおうような描かれ方です。

 私の院政期観は、角田文衛、五味文彦両先生のご著書によるだけのものなのですが、なんといいますか、ドラマの創作はどうでも好きにすればいいんですけれども、一応、その時代の基本だけははずさないでくれっ!!!です。
 で、王朝文化を、画面汚く、とてもいやなもののように描いていますし、どうしてここまで自国の文化を貶めたいんですかね、NHKは。もうひたすら、時代に対しても日本文化に対しても、愛がないんですわよ!!!

 と、脱線してしまいましたが、ちょっと、ですね。
 龍馬暗殺薩摩藩黒幕説は、現在ではだいぶん減ってきたようなんですが、それでも「龍馬は大政奉還推進派だから平和路線で、中岡慎太郎と対立していたし、薩摩藩も邪魔だった」みたいな見解は、まだあるんじゃないんでしょうか。薩摩藩も一枚岩ではありませんでしたし、薩摩藩にしましても中岡慎太郎にしましても、状況に応じての変化は、当然あるんですけれども、それは置いておきましても。
 ともかく、です。龍馬の平和路線を示すとされますその元凶の一つが、暗殺される三日前、慶応三年11月11日付け林謙三当ての書簡の追伸に「彼玄蕃ことハヒタ同心ニて候」とあります文句の解釈です。

 えーと、ですね。現在、青空文庫に龍馬の手紙はほとんどあがっておりまして、これも無料で見ることができます。図書カード:No.52031です。
 これの本文には、「今朝永井玄蕃方ニ参り色談じ候所、天下の事ハ危共(あやふしとも)、御気の毒とも言葉に尽し不レ被レ申候」とありまして、龍馬は当時、幕府若年寄格の永井玄蕃(尚志)に頻繁に会いにいっていまして、「今朝永井玄番のところへ行っていろいろ話した所が、天下のことは危ういし、気の毒だし、言葉にできないほどだよ」と、「同情?」と思われる言葉の後の追伸に「ヒタ同心」がくるものですから、「わし(龍馬)は永井玄番と同じ思いだよ」と解釈するむきが、けっこう多いようなのです。

 永井玄蕃(尚志)って、野口武彦氏をしまして「永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった」といわしめたお方でして、お生まれはいいですし、一橋派で、オランダの長崎海軍伝習所の所長でしたし、開明派なんですが、なんとも変に軽いとでもいうのでしょうか、信用ならないところのあるお方です。
 
 手紙の相手の林謙三は、芸州藩出身で、薩摩海軍の指導をしていた人ですが、龍馬とも知り合いで、当時、大阪にいました。
 で、前日の龍馬の手紙とあわせ読みますと、どうも身の振り方を相談したような感じです。
 「龍馬全集」を見てみますと、宮地佐一郎氏の解説で「ヒタ同心」「ぴったり心のあった仲間ほどの意味」となっていますから、これがその最初の解釈なんでしょうか。といいますのも監修の平尾道雄氏は、「海援隊始末記」の方では、なんと「彼玄番ことはヒラ同心にて候」になっていまして、一応、「右の文中にある永井玄番はのちの幕府若年寄であり、進歩的な人物と目され、龍馬と相通ずるところを持っていたようである」と解説はなさっているのですが、「ヒタ同心」「ヒラ同心」では、えらく意味がちがいますよねえ。

坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫)
平尾 道雄
中央公論新社


 「ヒラ同心」では、「永井玄番はけっこうな役職の割には、平の同心みたいに大したことのない人物だよ」と受け取れます。
 「龍馬全集」の書簡の写真を見ます限りは、「ヒタ同心」でよさそうに思うのですが、なぜ「わし(龍馬)は永井玄番とヒタ同心」という解釈になるのかが、私にはさっぱりとわかりません。

 大佛次郎氏の「天皇の世紀 大政奉還」に、当時、慶喜のブレーンとして京都にいた西周(にしあまね)の「西家譜略」の一節が引用されています。国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」に西家譜略・履歴がありますので、関心がおありの方はお確かめになってみてください。
 
天皇の世紀〈7〉大政奉還
大佛 次郎
朝日新聞社


 「この頃のことなりける。英国公使への書翰を表にて命ぜられ英文に訳せしめられたり。その旨は今度政権を朝廷に奉還するは旧来覇府に於ける異る莫(な)しとの事なり。是は若年寄の永井玄番頭の申付けなり」

 つまり、大政奉還について、イギリス公使パークスへ英語で説明の手紙を書きますのに、永井玄番は「幕府の役割はまったく変化しない」と書けと、西周に命令したというのです。
 西周については前回に書きましたが、津田真道とともに幕府のオランダ留学生として法学、経済学を学び、当時の日本人としては、もっともきっちり西洋の政体や法律について知っていただろう学者です。
 幕府の役割をなんにも変えるつもりのない永井玄番と龍馬が「ヒタ同心」なんでしょうか???

 私にはそこまで龍馬が観察眼のない男とも思えませんし、身の上相談をしたらしい林謙三に答えまして、「大兄御事も今しバらく命を御大事ニ成さられたく、実は為すべきの時は今ニてござ候。やがて方向を定め、修羅か極楽かに御供申すべく存じ奉り候」、つまり「しばらくの間、命を大事にしていなさいよ。今、なすべきことをしていて、やがて方向が定まるから、そうなったら天国か地獄か、どちらにせよ一緒にいきましょうぞ」と言う龍馬が、その直後に、なにも変えたくない永井玄番とひたすらに同じ心、なんぞと書くわけない、と思うのです。

 したがいまして、私の解釈は、「永井玄番は慶喜公とヒタ同心だよ」でして、「今朝永井玄番のところへ行っていろいろ話した所が、あんなにも世の中を変える気がないじゃあ、天下のことは危ういし、幕府もどうなることやら気の毒だし、言葉にできないほどだよ。ああ、永井は慶喜公とヒタ同心だから、永井がそうだということは、慶喜公もそうだということです。今しばらく、命を大切に待っていてください。開戦は近い。天国か地獄か、いっしょにいきましょう」です。
 解釈の問題ですから証拠はないんですが、とりあえずなにかないかな、と「龍馬全集」を見てみましたところ、「犬尿略記草稿、男爵安保清康自叙伝」で、後年のことながら、手紙を受け取った林謙三さんご本人が、解説してくれていました。

 調べてみましたら、「男爵安保清康自叙伝」は近デジにありまして、全編、読むことが出来ます。ノーパソの画面が小さく、読み辛いので、まだ全部は読んでないんですけど。
 林謙三は、後の名前が安保清康。龍馬の死の後、薩摩の春日丸の責任者となり、阿波沖海戦を戦って、奥羽北陸に転戦し、明治、海軍創設に参加し、男爵にまでなったんですね。
 薩摩藩に春日丸(キャンスー)を買うことを勧めたっていうんですけど、うーん。キャンスーはモンブランが仲買した船ですしねえ。
 「薩藩海軍史」にはちがうことが書いてあるのですが、萩原延壽氏の「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 」(朝日文庫 (は29-1))の何巻だったかに、イギリス人の書翰が引用されていまして、それによれば、モンブラン伯爵が仲買したんだそうなんです。
 まあ、どっちみち、モンブラン伯の長崎憲法講義に書いておりますが、長崎の佐々木高行が、モンブラン伯爵の憲法講義を受けているわけですし、薩摩がパリでなにをしてきて、なにを欲しているのかを、いくらなんでも龍馬がまるで知らない、ということは、ありえないでしょう。
 そういうわけでして、安保清康男爵が聞きました坂本龍馬の当時の時事分析を、以下引用です。

 将軍建議を容れ大政を奉還するも、天下の現況は危機一髪の間に在り。然るに四藩(薩長土芸)一致の運動も今日に至りては内実二派に分かれんとす。薩長は依然固結し、両国の全土と生命とを尽し目的を達せんとて断乎として動かず。芸藩は最初より薩長と意見を一にせしも、方今に至り土藩に同意するの色あり。しかれどもその目的においては依然変化せず。
 薩長の見るところは数百年間睡眠したる天下太平の夢は尋常の手段にては醒め難し。これを驚覚せしめんと欲せば、砲声天を震動し、万雷地より迸(ほとばし)らしむにしかず。これ兵を擁するゆえんなり。しからざれば真に王政復古し、積年の旧慣を一洗し、宇内各国と併立しがたしというにあり。
 また土藩の論拠は然らず。今や外敵我の虚を虎視す。内乱は勉めて之を避けざるべからず。また兵を擁するの行為は強迫に類する嫌あり。あくまでも正道平和の手段を取り、もってその目的を達するにしかずというにあり。
 我その中間に立ち、木戸、西郷、大久保はむろん、後藤、辻等と謀りしも、彼ら互いに固執し、終に四藩提携して一致運動するの命脈ほとんど絶せり。つらつら将来を推考するに、開戦は到底避くべからず。ことここに到りて四藩は再び合同して素志を貫くや、また正反対の地位に立つや、憂慮に堪えず。
 かつ今回の大政奉還も或いは一時の策略たるやも期しがたし。しかれども西郷、木戸、大久保のごときは計略に乗るものにあらず。幕府もよくこれを知る。しかれば大政奉還もその真意たるものと断定するも可なり。
 去りながら戦争の大小は確信し難きも必ず開戦となることは確信す。
 足下は開戦に至るも、必ず之に干与せず、我海援隊所有の船をもって、北海道に避け内乱を顧みず、一意足下の意志たる海軍術を養成せよ。異日外敵と戦ひ、国家に忠死すべし。今日は兄等の死すべき時に非ず、内乱は直に鎮定すと信ず云々。


 うーん。
 微妙なんですが、「幕府が大政奉還したのは一時の策略にすぎないのかもしれない」というのですから、なにも変える気がない永井玄番の真意を、龍馬は見抜いていたのではないでしょうか。
 ただ、永井がなにをしゃべったのか、「しかし幕府も馬鹿ではなく、西郷、木戸、大久保がそんな策略にひっかかることはないと知っているのだし、大政奉還の実を示す可能性にかけるのもありだ」という希望的観測も、持ってはいたみたいですね。
 ですけれども、あくまで武力倒幕に反対の土佐藩と、全土と全生命を断乎として倒幕にかけようとしている薩長の中間に自分はいる、と龍馬は言っていた、というのですから、永井玄番とヒタ同心は、ありえないと思えます。
 
 かならず戦いは始まる、と、龍馬は確信していたというのです。
 しかし、薩長が孤立して戦うのではないだろうか。あなた(林)の出身の安芸、自分の出身の土佐、ともに、薩長とともに戦わない、ということになりそうで心配だ。そうなったとき、優秀な海軍の人材であるあなた(林)は、戦をさけて命を大切にし、蝦夷で海軍の人材を育てることに専念してはどうだろうか? 内乱は長くはない、すぐに終わると信じたい。
 だいたい、龍馬はそう言ってくれていたのだと、林謙三、後の安保清康は、受け取っていたようです。

 書面にはまったく出てこないのですが、時期からいって、ちょうど薩摩は春日丸(キャンスー)を買い込んだばかりのころで、林謙三は薩摩海軍の指導者として、開戦が近そうだと感じていたようです。
 しかし、林は薩摩藩籍を持ってはいませんで、出身は安芸ですし、「芸、土はどういうつもりでしょうか? 自分はこのまま薩摩にいて、故郷を敵にしたりすることにはならないでしょうか?」と、龍馬に相談したのだと思われます。
 で、龍馬は、「できれば海援隊で活躍してもらいたいけれども、海援隊では君にまかせる船が用意できないので、君の能力を買ってくれるのならば、薩摩だろうが幕府だろうがいいんじゃないだろうか。しかし、海援隊の名前をもっていればいいし、できれば命は大切にして、日本の海軍の人材を育てることを考えてくれないだろうか」という、龍馬の返事だったのではないでしょうか。

 「龍馬全集」に収録されています「男爵安保清康自叙伝」なんですが、驚きましたことに、後半は、林さんご本人が慶応3年11月16日未明、龍馬が襲われて絶命し、中岡慎太郎が苦悶しております近江屋を訪れたときの話なんです。
 大昔に、ですね。雑誌かなんかで、「龍馬と慎太郎が襲われた後、近江屋の人々は怖れて近づかず、頼まれてシャモ肉を買いにいっていた菊屋峯吉も怖がったのか逃げてしまい、明け方まで放っておかれた」といったような話を、読んだような気がして、ちょっとひっかかっていたんですが、この林謙三の自叙伝によれば、たしかに、そのようにも受け取れなくはないんですね。
 
 どうも、ですね。大阪から京都へ向かう川船には、夜中に出て明け方京都に着く便があったようでして、前回も引きました高松太郎の書簡でも、16日に知らせを受け取った大阪の海援隊士が、夜の船に乗って朝入京、とあります。
 龍馬と会う約束をしておりました林謙三は、15日の夜の船で京へ向かい、16日未明に伏見に着いて、近江屋を訪れました。
 つまり、近江屋に着いたのは明け方のことで、龍馬と慎太郎が襲われたのは15日の夜のことですから、相当に時間がたっています。
 「近江屋はしんとしていて、血濡れた足跡がところどころにあった。なにかあったのかとびっくりして、2階に駆け上がると、龍馬は自室で抜刀したまま血だまりに倒れ、次の部屋では慎太郎が半死半生で苦悶していて、隣の部屋では従僕が声を上げて煩悶していた。愕然として、近江屋の主人に問いただすと、震え上がって答えることもできず、海援隊士・白峰駿馬の宿の場所を告げて、そちらに聞いてくれと言った」
 というようなことで、林は白峰に知らせていっしょに引き返し、慎太郎の話を聞いた、というのですが。
 通説とまったくちがう話で、後年に書かれたものですし、記憶ちがいか、と思わないではないのですが、以下、高松太郎の書簡から、引用です。

 不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。

 「京師の二士」が林謙三と白峰駿馬なのだとすれば、話がぴったりとあいますし、林謙三は医者の家に生まれて、長崎で当初は医者になる勉強をしていて、ボードウィンに習っているくらいですから、応急の手当てくらいはできるんです。うーん。
 定説では、近江屋の主人は土佐藩邸に知らせ、シャモ肉を買って帰った菊谷峯吉は白川の陸援隊に走って田中光顕(長生きして号が青山でしたので、青山のじじいと呼ばせていただいております)に知らせ、田中は薩摩藩邸によって吉井友実を誘って駆けつけた、ってことなんですが、土佐藩邸の寺村左善は、外出先で知らせを受けて、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に当日の日記を引用しておりますが、こういう時勢になったので、罪は問わないことになったけれども、復籍したわけではないので、表向き、土佐藩邸は関係ないと書いているくらいで、藩邸の土佐藩士に近江屋への出入りを禁じ、知らんぷりをしていた可能性が高そうです。
 そして青山のじじいも、実は飲み会だったのか遊郭にいたのか、吉井友実といっしょに遊んでいた可能性は、十分にあります。
 林謙三は吉井とは親しいですから、吉井がかけつけていて気がつかないということはありえませんし、それに、リアルタイムで最初に事件が記されているのは、11月16日付けの大久保利通の岩倉具視宛書簡でして、15日に入京しましたばかりの大久保が事件を知らされましたのは、どうも吉井からではなく、岩倉具視の使者からだった、ような感じを受けるんです。
 (追記)妄想です。
 近江屋の主人の報告を受けた土佐藩邸では、慌てて寺村左膳をさがして知らせますが、「お国とは関係ないぞ!!! 知らんぷりしろ。見張りを立てて、だれも藩士は入れないようにしろ」と命令しましたので、島田庄作が見張りに立っただけで、倒幕派の藩士は、だれも知らせを受け取りませんでした。そこへシャモ肉を買って帰った菊谷峯吉が現れ、峯吉は藩士じゃありませんので島田はいっしょに様子を見に上がり、峯吉は後を、実は「見張るだけでなにもするな」と命令を受けている島田に任せて、陸援隊に知らせに走ります。菊谷峯吉の報告を受けた白川陸援隊の大橋慎蔵は、青山のじじいをはじめ、他の幹部連中が遊びに行って留守ですし、近江屋には倒幕派の土佐藩士が行っていると信じて、すわっ!!! 新撰組が攻めてくるぞー!!! 岩倉公も危ないかもっ! と岩倉のもとにかけつけ、遊んでいる幹部連中をさがさせますが、朝まで居場所がわからず、林謙三は土佐藩士じゃありませんので見張りの島田の知ったことではなく、結局それで、陸援隊の土佐勤王党士は、海援隊関係の他藩人であります林謙三と白峰駿馬に遅れをとり、恥じて後世に嘘を伝えることになった、とか。
 「神山左多衛雑記」によれば、15日夜のうちに、福岡孝悌が現場を見分したっぽいですけど、見ただけで、後は知らんぷりだったはずです。なにしろ寺村左膳の方針がそうなんですから。「土岐真金履歴書」では、土岐真金(島村要)が「福岡藤次氏ノ通知ニ依リ岡本健三郎氏ト同行シテ該処ニ至リ、未絶命石川氏ノ介抱シテ陸援隊ノ田中光顕氏等ニ通ジ田中氏来ル」と書いているんですけど、慎太郎は17日夜に絶命しているんですから、福岡の通知が16日の朝以降なら、林謙三より遅かった可能性は十分すぎるほどにありますし、島村要も海援隊士で、青山のじじいはそれより遅かったことは確かです。福岡は近江屋の隣に住んでいましたから、見張っていて、林謙三と白峰駿馬が来たことを知り、これは土佐人も加えた方がいい、と判断して、大人しそうな島村に、倒幕派ながら上士の岡本を加えて知らせたんでしょう。
 なにしろ、12月4日付けの手紙で、太宰府の清岡半四郎が慎太郎の家族に事件を報じているんですが、慎太郎が生きていて、いろいろと語り残したことは書きながら、いったい誰が駆けつけ、慎太郎の話を聞いたのか、いっさい書いてないんです。話を聞いたのは、土佐勤王党の人間ではなかった、と考えた方が自然です。


 実際のところ、龍馬と慎太郎の暗殺に、謎は多いのです。
 しかし私は、一会桑側のしたことだという基本は、まちがっていないと思っています。
 にもかかわらず、なぜ公式の捕り物ではなく暗殺だったかといいますと、龍馬と慎太郎は、こ時期、土佐藩の保護を得ている形で、公然とそれを無視することで、一会桑は土佐を敵にまわしたくはなかったからです。
 そして、なぜ暗殺したか、という答えも、そういうことではないんでしょうか。龍馬と慎太郎は、土佐藩を薩長と結びつけ、倒幕に押しやる浪士の巨魁であったから、です。

 京都の土佐藩白川藩邸に浪人を集め、御所警備の十津川郷士まで加えて、薩摩から洋式調練の教師を招いている慎太郎の陸援隊は、もちろんのこと、どこからどー見ましても、土佐と薩摩を結びあわせて倒幕を目指す拠点ですし、海援隊にしましても、イカロス号事件を起こして(幕府から見れば海援隊が疑わしかった、ということです)面倒を引き起こすかと思えば、紀州徳川の船にぶつかっておいて脅しにかかり、双方とも浪士相手かと思えば、ずるずると土佐と薩摩が出てきまして、仲良く浪士の後ろ盾になっているわけです。
 一会桑にしましたならば、「あの浪士の巨魁を片付ければ、土佐が薩摩と結びつくことはなくなり、土佐をとりこめる」ということだったと思えますし、その土佐の内情を、佐幕派だった土佐藩要人が一会桑側に語っていた、ということは、十分にありえると思います。
 
 
龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日
中島 信文
彩流社


 ノブさまのご著書に刺激を受けまして、少しだけですが私も、龍馬と慎太郎の暗殺について、思いめぐらせてみました。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ 
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする